制憲議会解散の経過と論理 |
(最新見直し2005.12.28日)
【憲法制定議会の開催と解散】 |
1918.1月始め、レーニンは全ロシア・ソヴェト中央執行委員会の名で制憲議会に提案する「勤労被搾取人民の権利の宣言」案を起草し、この宣言案は1.3日、中央執行委員会において全員一致で採択された。 1.5日、憲法制定議会が開かれた。エスエル右派のチェルノフが議長に選出された。レーニンが起草した「勤労被搾取人民の権利の宣言」案が全ロシア・ソヴェト中央執行委員会名で提案された。ボルシェビキは、開会された憲法制定議会において、1・ロシアを「ソビエト共和国」と宣言することの討議、2・「勤労被搾取人民の権利の宣言」の採択を要求し、ポルシェヴィキのスヴエルドロフがソビエト中央執行委員会を代表して読みあげた。これに対して、ポルシェヴィキ反対演説が長々と続いた。 この宣言案の審議が議会の多数によって拒否された。ボリシェヴィキ、続いて1時間後にエスエル左派も会議から退場し、その深夜ソヴェト中央執行委員会は、レーニンの提案にもとづく「憲法制定議会の解散についての布告」を採択する。かくて、ソヴェト政権により憲法制定議会の武力解散の措置がとられることになった。(「憲法制定議会開催、すぐに解散」) 1.10日、第3回全ロシア=ソヴィエト大会でこの措置を承認、事実上ボルシェヴィキ以外の一切の政党を禁じソヴィエトが全権力を握った。 議会は二度と開かれず、西欧型の議会制民主主義への道は絶たれた。これが憲法制定議会そのものの終わりとなった。エスエル右派とメンシェヴィキの合法的活動の場は奪われ、ソヴィエト政権はボリシェヴィキと、それに近いエスエル左派によって独占されることになった。ボルシェビキは、権力を憲法制定議会に戻すことを革命からの後退と考え、今更エスエルやメンシェヴィキに権力を渡すことなど考えられなかったと推定し得る。 憲法制定議会解散後開かれた第3回全ロシア・ソビエト大会は、「憲法制定議会」を否定してはっきりと国家権力の掌握を宣言し、「臨時労農政府」から「臨時」の名を削除した。そして国名を「ロシア・ソビエト共和国」と名乗った。してみれば、ロシアが社会主義ソビエト共和国であると宣言され、社会主義革命としての性格が明確にされた経過は極めて変則であったことになる。 1917年の反対派の最後の反響は、頑固派右翼のロゾフスキーとリヤザノフによって発せられた。民主主義的合法性の諸原則にかたくなに固執した彼らは、中央執行委員会が憲法制定会議の解散を承認した際、反対票を投じた。両名とも労働組合役員であるところから、彼らは、1918.1月に開かれた第一回全ロシア労働組合大会の席上でも、ひき続き政府批判を展開することができた。 問題は政府からの労働組合の独立性ということであった――この主題はその後数年たってから多くの摩擦を生み出すことになる。この最初の試験においては、中央集権化に対する反対派が敗北して、大会は、「労働組合は国家権力の道具となるであろう」と決議した。ロゾフスキーは、ボリシェヴィキ党を追放され、厳罰を受けて1919年末まで復帰しなかつた。彼の反対活動は永久に終りを告げ、1930年代半ばの粛清をも免れた――そのあげく1952年のスターリンのユダヤ人粛清の犠牲者となった。 |
【憲法制定議会解散考】 | |||||||||||||||||||||||||||||
「中野徹三氏の『社会主義像の転回』の5、制憲議会解散の論理とロシア革命の運命」を参照する。(目下読み取り中、悪しからず) 中野氏は、「ロシア初の制憲議会の強権的解散」につき次のように課題設定している。
中野氏は、「レーニンはこの措置をどのような論拠から弁護したか?」と問い、以下次のように論考している。 レーニンが1917.12.12日に執筆して同日の制憲議会ボリシェヴィキ議員団によって採択された「憲法制定議会についてのテーゼ」は次のことを強調していた。
レーニン率いるボリシェヴィキ党は、この認識の下にが制憲議会の早急な選挙を要求してきた。だが、いざ制憲議会が出来ると、これを否定した。「レーニンはこの措置をどのような論拠から弁護したか?」。レーニンは、次のような「状況証拠論」により制憲議会解散を正当化した。これを検証する。
中野氏は、レーニンのこの弁論の根拠を精査すべく「まずこれらの状況的根拠を検討しょう」と述べ、以下のように検証している。論点1、2の
中野氏は、「革命の利益優先論」について、次のように述べている。
この衝突は共存が可能であろうか。即ち、「ボリシェヴィキに不利な結果となった制憲議会とソヴェト権力の『新たな二重権力』が生まれたことになる。共存は可能であったのだろうか」。あるいは、史実とは逆に、ボリシェヴィキは革命の陣地を多数決原理に従い制憲議会に明け渡すべきであったのだろうか。
「左翼の立場に立つ社会革命党第四回党大会代議員団の声明」は次のように述べている。
「ロシア史上初めての自由な国政選挙とそれにもとづく議会に対するボリシェヴィキの武力による解散措置」は、当時の労働者を困惑させていた。レーニンは、その疑問に対して次のように答えている。
レーニンは、ゴーリキイに次のように語った。
つまり、レーニンにとって、「制憲議会の解散」は、思想的にも確信犯的行為であったことが分かる。この時、レーニン率いるボリシェヴィキは、革命を生き延びさせるためにボリシェヴィキ単一政党制即ちボリシェヴィキ独裁を確信犯的に欲した。 レーニンらボリシェヴィキは結果的に、彼らが考えた「人民の利益」の大義の前に「人民の意志」を無視した。それは、ツアー専制に代わる新たなボリシェヴィキ専制の道のりとなった。それは、「民主的選挙制度を持ったことのないロシアの歴史的現実」が生んだものではなかったか。 ただし、このことはロシアに「民衆自治」の伝統がなかったことを意味しない。農村共同体(ミール)内の自治、貴族の自治やギルドの自治等が存在したことは、ポポフやアジュベイも強調している。だが、農村共同体は長く大多数の農民にとってそれ以外に他の世界は考えられない彼らの「世界(ミール)」そのものだったし、階級を超えて普遍的で平等な西欧近代の民主制的自治とは異質だった。 アジュベイは、「ロシアの長年の堅固さを専制でのみ説明することはできない。これは専制であるが、社会の諸階層の中での自治と結びついた専制であった」として、ツアー専制との差を認めようとしている。多くの識者が、この専制には時代的根拠があり、必ずしも不自然ではなかったと述べている。むしろ、その後のソヴェト制度の質的変化の方に目を向けようとする。これにメスを入れられるは、はるか後年のスターリン批判から始まるこれまた長い期間を要してのペレストロイカによる政治改革まで待たなければならないことになった。 この時、レーニンの胸中には、ロシア10月革命により始まった社会主義革命の炬火が、やがてドイツ・プロレタリアートの手に引き継がれ、それが西欧連続革命の火蓋となり、世界革命に向かうだろうという壮大な青写真を夢見ていた。これを逆に云えば、「ドイツ革命がやってこないならば、考えられるかぎりでたとえどんな急変がおころうとも、ともかくもわれわれは滅亡するだろうということ、これは絶対的な真理だからである」(「1918.3三月の第七回党大会での演説」)ということになる。「世界革命へのこの期待が生きている限り、十月革命の成果を葬り去るものと予想された制憲議会への権力移譲が問題外とされたのは、その限りで当然であった」。 11.11日、中央委員会は、レーニンの提案に基づき、制憲議会の選挙結果に対する介入の放棄を提案し、ボリシェヴィキ議員団の臨時事務局に入って制憲議会との調停に入っていたカーメネフ、ルイコフを事務局から解任した。カーメネフ、ジノーヴィエフらのボリシェヴィキ右派は、そもそも10月武装蜂起そのものに反対した経緯を持つ。この時、ジノーヴィエフは事務局解任に反対し、議員候補者をペトログラートに召集する電報を発したいという現事務局の要望を認めるように提案したが、スヴエルドロフは現事務局の即刻の解任と、事務局に代わって中央委員会が議員候補者を召集する旨の反対提案を行ない、承認される。中央委員会は議員団に関する任務をスヴエルドロフとブハーリンに委任した。
「その後のスターリニズム、その挙句のソ連邦崩壊を見た今日」の視点はやはり、「制憲議会武力解散問題」に立ち戻らねばならない必要を生む。もし、レーニンが制憲議会を解散させず、全ソヴェト連合政権による舵取りが為されていたなら、その方がその後のロシアの革命的発展に有利であったのではなかろうか。中野氏は、次のように問うている。
「制憲議会武力解散問題」に纏わるべき視点は、次の事実も捉えねばならない。中野氏は、次のように問うている。
つまり、「制憲議会武力解散問題」とは、「憲法制定議会の選挙に敗北したボルシェビキがいわば民意を無視して議会解散命令を発し、武力で議会を強制解散し、ソビエト政権を正式な政府であると宣言した経緯の是非考」であり、憲法制定議会で多数を占めていたエスエルに反乱の正当性を与えることとなり、その後の内戦を招く分水嶺であったという視点から捉えられねばならない。不可避であったのか、愚昧であったのか、これを考察せねばならない。 ロイ・メドヴーェジェフが、その著「10月革命」に於いて、歴史研究一般にとっても示唆するところ多大な「選択肢的方法」を駆使して、1917.2月から18年夏にかけてのロシア革命の諸時期において、ありえた他の選択肢とそれらが切り開きえた種々の可能性について研究している。それは、レーニンが指導した不可謬の聖史としてこれを読むスターリン時代以来の知的惰性を告発している。著書の第一章で彼は、次のように述べている。
ロイ・メドヴーェジェフは、かく語った後、10月革命後のボリシェヴィキの主要な誤りを次の二点に求めている。1・憲法制定議会の選挙を1、2カ月延期して、ボリシェヴィキとエスエル左派のブロックを形成すべきだったのに、臨時政府が設定した期日どおり実施し、結局武力で解散せざるをえなくなったこと。2・しかしより決定的には、1918年にネップを採用せずに食糧独裁を導入し、貧農委員会を組織して大多数の小農民とエスエルとも対立して内戦と政治・経済危機を不可避としたこと。 |
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2.1日(旧暦)〔2.14日(新暦)〕にグレゴリア暦を導入。以後の日付は新暦によることになった。 |
2.9日、「平和声明」から6週間後、声明に基づく平和会議が始まった。西欧列強諸国との交渉が粘り強く続けられていった。 |
2.10日、人民委員会は、ツァーの一切の負債の無効を宣言し、布告した。 |
2.29日、ボ党中央委員会は、ブハーリンの提案にもとづき、選出された制憲議会のメンバーから反革命派を追放して、議会をフランス革命急進期の「国民公会」型に改造する案が採択される(レーニンはこの討論に不参加)が、やがてレーニンは「憲法制定会議についてのテーゼ」を書き、制憲議会のボリシェヴィキ議員団によって確認される。 鈴木肇氏の「ソ連共産党」は次のように記している。
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(私論.私見)