「ロシア十月革命」直後の制憲議会へ向かう流れと選挙結果

 (最新見直し2005.12.28日)


【制憲議会へ向かう経過の概要】
 ここで、「制憲議会へ向かう経過」を確認しておく。
 ボリシェヴィキとメンシェヴィキの両者ならびにエスエル、すなわちロシア革命勢力のすべては1917.12なかばまで、ツアーリズム専制を打倒したのちの新しい国家形態が、「全人民によって自由に選挙された憲法制定議会」 (「ロシア社会民主労働党綱領」) が制定する最高規範たる憲法にもとづいてのみ組織され、正当化されることを、少なくとも公式には一致して確認していた。

 レーニン自身が提案した「平和についての布告」も「土地についての布告」も、最終的決定は制憲議会による、とされており、政府も「制憲議会が召集されるまで」の「臨時労農政府」だった。

 レーニンは、ロシア革命の永続革命化(ブルジョア民主主義革命からプロレタリア革命への連統的発展)の可能性が見えた二月革命以後、全人民によって選挙される憲法制定議会のブルジョア民主主義的性格に着目し、それが労農ソヴェトの国家機関化としての労働者、農民代表ソヴェト共和国という新たな目標の障害ともなりうると考え、制憲議会を相対化する姿勢を党内で明らかにするが、対外的・公的には制憲議会選挙の早期実施を、臨時政府に対する要求のスローガンとして一貫して掲げていた。

 コルニーロフ反乱の直後、レーニンはボリシェヴィキとメンシェヴィキ、エス・エル三者の同盟によるソヴエト権力の樹立だけが、ロシアにおける内戦を不可能にすると説いたが、「妥協について」(九月六日)では、エスエルとメンシェヴィキがソヴェトにのみ責任を負う政府を構成し、ボリシェヴィキは政府に参加せず煽動の自由を持つこと、制憲議会選挙の繰り上げ実施を要求すること、を掲げていた。

 しかし、西欧プロレタリア革命の勝利にロシア革命の終極の運命を賭していたレーニンらボリシェヴィキは、ドイツ革命が目前に迫りつつあるという新たな情勢認識にもとづき、首都の武装蜂起を指導し、第二回全ロシア労働者・兵士ソヴェト大会に既成事実として提起、その承認を求める。
 この大会では、メンシェヴィキのマールトフが「全民主主義者によって承認される政権」の創造を提案し、万場の拍手で可決されるが、実質的にはボリシェヴィキ、メンシェヴィキ、エスエルというソヴェト各党派から構成されることになるであろうこの「等質の民主主義政府」は、大会のその後の論議における対立の激化――ボリシェヴィキの指導により現に遂行されつつある首都の武装蜂起に対する非難をめぐっての――と、メンシェヴィキ(マールトフ等国際派を含めて)ならびにエスエル右派の退場によって消滅する。そしてほとんどがボリシェヴィキとエスエル左派から成るソヴェト大会は、臨時政府の廃止と、大会による政権の掌握を宣言する。
 革命後間もなくレーニンは、制憲議会選挙の延期をボ党内で提案するが、反対に押されて公約の期日通りに実施する。これにより、「過度のまっ正直さ」により、臨時政府の指定した期日に選挙を行なうことになった。

【制憲議会に対するレーニンの対応裏舞台考】

 10月革命で権力を掌握したレーニン派ボリシェヴィキは、臨時革命政府の公約通りに制憲議会のための普通選挙の実施に向った。この時点では、よしんば結果がいかなるものになろうとも「選挙結果の尊重」が含意されていたことは間違いない。

 レーニンは、制憲議会をどのように迎えようとしていたのだろうか。仮にエスエルが過半数を占めた場合、せっかく掌中にしたボリシェヴィキの政権基盤が危うくなるがが、レーニンはここでは文字通り、そういう場合の政権移譲を考えていたのか、それとも選挙における勝利
を、確信していたのだろうか?

 この点にかかわって、トロツキーはレーニンの死の直後に刊行した著作「レーニンについて」のなかで次のような重要な証言を残している。それによれば次の通りである。革命後の、最初の数時間ではないにせよ、最初の数日のうちに、レーニンは制憲議会の問題を議題にのせ次のように主張した。

 概要「選挙を延期せねばならない。延期すべきである。選挙権は18歳にまで拡大されねばならない。候補者名簿の更新も必要だ。我々自身の名簿も不適当だし、そのなかには我々にへつらってやって来た知識人の一群も含まれている、だが私たちには、労働者と農民が必要なのだ。また、コルニーロフの仲間やカデットたちは、法の保護の外に置かれることを、宣言せねばならない」

 つまり、レーニンは、「制憲議会へ向けての選挙の延期」を提案していたことになる。しかし、レーニンのこの提案は次のような理由で反対された。
 「延期は今はまずい。制憲議会の清算と受け取られかねない。しかも我々自身が制憲議会の延期のことで臨時政府を責めてきただけ、いっそうまずい」

 それに対し、レーニンは次のように反駁している。
 「それはささいなことだ! 大切なことは事実であって、言葉でない」。 
 「選挙期日の延期が、なぜ不利になるというのか? 制憲議会がカデット的・メンシェヴィキ的・エス・エル的になったらそれが有利だというのか?」。

 つまり、レーニンは、ソヴェト権力にとって、しかも現在の候補者名簿では、間違いなく一歩後退を意味することを察知していたことになる。しかし、レーニンの延期提案反対派は次のように弁じた。
 「その時までにはわれわれはもっと強くなっているでしょう (と別の者が抗弁した)。今のところはまだ大へん弱体ですが。地方ではソヴェト権力のことはまったく知られていません。もし田舎に、私たちが制憲議会を延期したという知らせが拡まったなら、私たちの立場はいっそう弱いものになりましょう」。

 つまり、「制憲議会へ向けての選挙の延期」は信義上拙い。延期政策の方が却って立場を弱くするとの危惧を表明していた。
トロツキーによれば、選挙の延期に特に強く反対したのは、地方の指導に当っていたスヴェルドロフだった。そしてレーニンはただひとり自分の見解を固持していたが、不満そうに頭を振りながらくりかえしこう述べた、という。
 「誤り、しかもわれわれに大へん高くつきかねない明白な誤りだ! この誤りが、革命の命取りにならねばよいが……」

 つまり、レーニンの「制憲議会へ向けての選挙の延期」提議を否決して、「臨時政府の指定した期日に選挙を行なう」ことは誤りであり、「革命の命取りにならねばよいが」とその方を危惧していたことになる。しかし、レーニンの提案は却下された。こうして、11.12日、選挙の不延期が決まった。革命政権は、「過度のまっ正直さ」により選挙戦へ向った。レーニンは、事が決した以上、彼の全注意を傾注し、制憲議会での勝利に必要な組織的措置に向った。

 トロツキーは、更に、その後のレーニンの対応の裏舞台を明らかにしている。それによると、「我々がエス・エル左派と合せても少数にとどまるだろうことが明らかになった時、彼は『制憲議会は当然解散されねばならない』と語った」とのことである。この時レーニンは (トロツキーの回想では)、エス・エル左派が制憲議会の解散にどういう態度を取るかについて心配したが、レーニンと会った老ナロードニキのナタンソンが、「彼を安心させた」。

 このようなトロツキーの証言からすれば、レーニンは革命の直後から、制憲議会選挙の結果について幻想をまったく抱いていなかったただひとりのボリシェヴィキだったということになる。選挙不延期の決定後、しばらくしてから (トロツキーは「そのうちに」と記している) 自分たちが少数派にとどまるだろうことがわかり、「制憲議会解散の決意が語られる」ことになる。

 これに対して、次のように推定されている。

 だとすると、11.12日の選挙日不変更の決定頃までは、制憲議会選挙での敗北の必然性はレーニンによっても認識されていなかったのであり、この点でのボリシェヴィキの認識の甘さは指摘されてよい。そしてその思想の背景には、「勝つことがもとより望ましいが、もし選挙で敗北した場合には、武力による解散あるいは改編あるのみ、という暗黙の了解が、ボリシェヴィキの幹部多数の間では出来上っていたからであろう」。

 れんだいこは、捻じ曲げ推定ではなかろうかと思う。レーニンは、見通しが悪いので延期を主張した。その提案は多数決で否定された。その後の状況で、選挙がますます不利であることが判明した時、制憲議会解散を決意した。全ては、レーニン流の革命の果実を護る為であった。凡そこの理解で何らおかしくないのではなかろうか。どこでどう捻じ曲がるのか解せない。

 なお、トロツキーによれば、レーニンは以後制憲議会対策に力を注いだことになっているにもかかわらず、党中央委員会でも敗北が確定的となった11.29日での会議以外、この間題を討議していないし、望ましくない議員のリコールを大衆に呼びかけたのも、選挙終了後の11月以降だった、とのことである。


【選挙直前の駆け引き】

 ジノヴィエフ、リヤザノフ、およびロゾフスキーを含むボリシェヴィキ右派は、ブハーリンの協力を得て、ある種の擬似合法的な解決を望んだ。トロッキーと共にボリシェヴィキに加わった左翼のウリツキーは、「若干の同志たちは、現在、憲法制定会議が革命の仕上げであるという見解を抱いている」と、不満を述べた。なんらかの種類の力による解決のみがボリシェヴィキ政府を存続させ得ることが、ますます明らかになりつつあったにもかかわらず(ブハーリンは、カデットを追放するとともに、会議の左翼をして職務を続行させよと提案した)、ボリシェヴィキ右派が会議への党の代表に対する支配権をかちとった。

 12.2日、ボリシェヴィキ代議員団が選出された。ビューローの最も有力なメンバーは、カーメネフ、スターリン、ルイコフ、ノーギン、ミリューチン、ラーリン、およびリヤザノフであった。中央委員会は、ビューローは右翼的見解に支配されている、と十分な正当性をもって断定し、ついに、遅滞なく、ビューローを解散せねばならなくなったと感ずるにいたった。ブハーリンとソコリニコフが、ボリシェヴィキ・フラクションを指導するよう任命されたのは、のちに決定的な意義をもつようになる常套手段の初期の実例である。憲法制定会議を実力で解散させる意図を正面きって押し出したレーニンのテーゼを、フラクションが承認したとき、ようやく問題は決着した。


【選挙戦突入】
 いよいよ「憲法制定会議の問題」が間近な政治日程に上ってきた。ボリシェヴィキは、権力掌握以前には、一貫してこの会議の招集に賛同していた。直前情報で、ボリシェヴィキは形勢不利が伝えられていた。しかし、最終的には自分たちが多数を握れるとの目算があったのであろう、11月に予定どおり選挙が実施された。

 
カデット(立憲民主党)もエス・エルもメンシェヴィキも、ボリシェヴィキ政権の短命を予想し、エス・エルとメンシェヴィキは共に「全権力を憲法制定議会へ!」というスローガンを掲げて選挙戦に臨んだ。

【選挙結果】
 11.12日、憲法制定議会の選挙がおこなわれた。ロシア史上初の自由な普通選挙だった。投票の結果が全国的に集計されるには一カ月以上を要した。ペトログラートでの勝利 (ボリシェヴィキ6議席、カデット4、エス・エル2) が判明した直後の11.15日、レーニンは、アソシエーテッド・プレス通信社特派員の「憲法制定議会の選挙の結果についてどうお考えですか」の質問に、全国的勝利への彼の希望的観測をこう語っている。
 「私(レーニン) の考えでは、この選挙は、ボリシェヴィキ党の大勝利の証明である。5月、8月、9月のボリシェヴィキ党に投じられた票の数は、たえず増加した。ブルジョアジー(カデット) が非常に強力な都市で12議席のうちの6議席を獲得したことは、ロシアで勝利したことを意味している」

 ところが、選挙の結果は予想外のものだった。選挙の最終結果は、本来定められていた総定数808名に対し選出された707名のうち、社会革命党(エスエル)が農村部の圧倒的な支持を受け、全議席(718)の6割(413)を占める410(うち左派40)議席を獲得し第1党となった。ボリシェヴィキは都市部では強かったものの、全議席の4分の1にとどまる175議席の第2党であった。以下、カデット(立憲民主党)17名、メンシェヴィキ16名、民族代表グループ86名、その他3名だった。

 以下にこれを図示しておく。
党名 議席数 占有率
エスエル 410
ボリシェヴィキ 175
カデット           17
メンシェヴィキ 16
民族代表グループ 86
その他
合計 718

 ボリシェヴィキは4分の一弱の議席と得票を得たにとどまり、11月にエスエルから分裂してボリシェヴィキと連立協定を結んだエスエル左派を含めても3割という数字だった。この結果は、いささか衝撃的であった。エスエルの圧倒的多数に対して、ボリシェヴィキは投票の4分の一近くを獲得したにすぎなかった。エスエルとエスエル左派の議席の割合は、革命前に作成された単一の候補者名簿から生まれた「偶然事」であって、現に選挙中の11月にペトログラートで開催された農民代表ソヴェト全ロシア臨時大会の多数は左派であり、大会は108名の代表を全ロシア中央執行委員会に送った。

【選挙後の流動化】 

 選挙結果の集計が進むなかで、ボリシェヴィキが少数となれば制憲議会を解散するかもしれないという議論がエスエルなどに拡がった。

 11.23日 「ペトログラート憲法制定議会擁護同盟」が結成され、旧臨時政府の閣僚が以前の予定通り11.28日に制憲議会を召集するという「臨時政府布告」を出すなど、10月革命で政権を追放された諸勢力が制憲議会の開催による「合法的な」ボリシェヴィキ政権打倒に結集する構えを見せた。ボリシェヴィキ党は、慎重かつ合法的深慮か、大胆かつ強力な行動かという問題に再度襲われた。
 
 11.26日、革命政権は、制憲議会は議員が400名になれば召集すると布告した。

 11.28日、議会の「開会日」を祝してのデモ行進がペトログラートで組織された。革命政権は、このデモを解散させた。ドン河畔で軍事反乱が組織され始めた。カデッ トがカレーディンの反革命蜂起を公然と支持した。革命政権は、ブルジョア政党カデットに対し「人民の敵の党」と規定し、人民委員会議の法令によって禁止し、その中央委員を逮捕した。
 

 レーニンは以後、ボリシェヴィキの立場から見て人民の代表としてふさわしくない被選出議員のリコールを呼びかけるとともに、「人民の敵」であるカデット党が「全権力を憲法制定議会へ」のスローガンを掲げていることに注意を喚起させつつ、制憲議会に優先する人民の利益の強調に力点を移していった。

 しかし、カデットのみならずエス・エルとメンシェヴィキは、強力に憲法制定会議の開催を主張していた。この時期、ボリシェヴィキ党自身でも制憲議会に対する明確な方針が出来ていなかった。11.29日、中央委員会が開かれ、この間題を討議した。討議はブハーリンの発言を軸に展開した。

 まず制憲議会選挙を監督する任を与えられていたウリツキーが、相互に承認しない二つの委員会、二つの会議の召集という事態が生じているので、制憲議会に対する方針を確立する必要があると発言した。ブハーリンは、制憲議会を召集すべきか否か、という問題をまず提起したうえで、議会的幻想が広範な大衆のなかにまだ生きているので、カデットを追放し、制憲議会の左翼を組織して 「革命的国民公会」を宣言すべきだ、と提案した。ブハーリンの提案は、フランス革命の革命的高揚期(1792〜95年)に新たな制憲議会として生まれた国民公会(La Convention Nationale)をイメージしていた。

 これに対して、スターリンは、すでに共存不能の二つの制憲議会があるので一日遅れであり、カデットがわれわれに戦端を開いている現在では、われわれにはカデットを粉砕することが無条件に必要であると反論した。
ブハーリンは再度発言し、ただこういう方法によってだけ我々の政治方針を確立できるが故に、自分は二つのケースを理論的に区別したのだ、と述べ、革命的国民公会の創設はもちろん必要であること、しかし、一カ月半も制憲議会の召集を確保すべく苦労してきたのだから大衆に事情を説明する必要がある、と主張した。

 続いてスヴエルドロフが発言に立ち、
1・制憲議会についての方針の選択がまだ不分明なので議会の開会を12.10日まで延期する。2・議員候補者から除外さるべき者を判定する三人委員会をつくる、という二つの提案を出した。が結局、1案は撤回され2案が採択された。かくて、この中央委員会では、スターリンの批判にもかかわらず、制憲議会の選出された議員から反革命派を事前に追放して革命的公会に改造するというブハーリンの提案が実質的に確認された。

 この議題の終りでトロツキーは、全議員候補者をペトログラートに集めて彼らに事情を伝えるか、地方の代表との間に話をつけるかするという問題の検討を求めたが、そのなかで彼が、我々は公会をめざす方針を理解するという趣旨の発言を行なっている。
議事録のこの部分にレーニンの発言がない(次の議題にはあるのに)。これは、この議題の際に彼が不在であったか、あるいは沈黙して他の中央委員の発言を聞いていたかのいずれかであろう。

 「国民公会」 の思想を最初にレーニンに説いたのは、トロツキーによれば、先に触れたレーニン・ナタンソン会談の席のナタンソンだった。ナタンソンは、制憲議会でのボリシェヴィキとエスエル左派の両フラクションを全ロシア・ソヴェト中央執行委員会と統合して国民公会をつくる、という案を出し、このプランは制憲議会の権威の一部を我々の側に移すのに役立つであろう、と説明した。

 だがレーニンは、その時不満げにこう答えたという。

 「何のために? フランス革命の真似事のため? なぜ? 制憲議会の放逐によって、われわれはソヴェト制度を確固としたものにするのだ。だがあなたのプランでは、全部が、ごちゃごちゃになってしまう

 ブハーリンの案のように、いったん選出された議員を事前に個別に審査して追放すること(または、できれば選挙人によってリコールすること)は、比例代表制により政党別単一候補者名簿方式にもとづいて候補者が選ばれている限り、技術的にも困難であり(レーニンもその困難性を認めている、またその正当化も困難であった。

 12.2日、ドイツとの休戦。ブレスト・リトフスク講和交渉始る。同じくこの日、エス・エルとメンシェヴィキ両党との交渉を続けるか否かで、ボリシェヴイキ中央は分裂し、何回かの討議と採決のすえ、レーニンの提案「2党を中心とするソヴィエト「少数」派の威嚇や最後通牒に譲歩することは誤りであり、多数派の意志をねじ曲げるものというものである」)がようやく意思統一された。

 この時、次のことも確認されている。
 「中央委員会は第2回全ロシア・ソヴェト大会から1人の除名者も出さず、大会から引揚げた人びとを呼び戻し、ソヴェトの制限内でそれらの人びととの同盟を認めるのに万全の準備態勢を今もとっていることを確信する。したがってボリシェヴィキは何人とも権力を分かちもつことを望まないのだとする主張は絶対に間違っていることを中央委員会は断言する」(シャルル・ベトレーム著『ソ連の階級 闘争 1917−1923』第三書館からの重引)

 これによれば、一党制の考えを微塵ももっていな いことが判明する。現実に革命政府は、1917.12.12日の協定でボリシェヴィキとエスエル左派の連立政府としてはじまり、これは1918.2月末まで続いていくことになる。

 こうしてレーニンは、12.12日、有名な「憲法制定議会についてのテーゼ」を執筆し、テーゼは制憲議会のボリシェヴィキ議員団によって確認される。12.20日、労農政府は400名の定数に達するという条件付きで翌1918.1.5日に制憲議会を召集することを布告した。

 この頃、レーニンは次のように述べている。
 「(内戦の危機が迫っていた当時の歴史的状況を考慮して-メリニチェンコ注)階級闘争や内戦のことを考慮に入れずに、ありふれた民主主義の概念に基づいて憲法制定会議の問題を検討しようとする試みは、それが直接的なものであれ間接的なものであれ、プロレタリアートを裏切る行為であり、ブルジョア的発想への転換とみなされる」。

 メリニチェンコの「レーニンと日本」は次のように記している。
 「レーニンのこの言葉は、やがてボリシェヴィキによって実行される憲法制定会議の解散を示唆していた」。

【エスエルが左右両派に分裂】

 11.19〜28日、エスエル左派党が創立大会を開いたことにより、11〜12月の頃、エスエルが左右両派に分裂した。

 エスエル左派党の指導者としてスタインベルグが知られている。エスエル左派は、独立と同時にボリシェヴィキと連立政権を組むことになった。人民委員はボリシェヴィキ11名、左派エスエル7名となった。しかしその後、1918.3月のブレスト講和条約で決裂し、連立は3カ月間で終る。

 その間、スタインベルグは、エスエル左派の代表として「司法人民委員」を務める。エスエル左派によるドイツ大使暗殺事件を契機に、レーニンは、エスエル左派を「反革命」政党として、非合法化する。この時、スタインベルグと有名な指導者マリア・スピリドーノワも逮捕され、他の党員200名以上とともに、モスクワのブトゥイルキ刑務所に投獄される。後にスタインベルグは、「左翼社会主義革命党1917〜1921」(鹿砦社、1972年)を著わしており、その経歴から、この著書内容は、きわめてリアルで、ボリシェヴィキ批判の内容も具体的な当時の一級資料となっている。





(私論.私見)