「ロシア十月革命」直後の制憲議会へ向かう流れと選挙結果 |
(最新見直し2005.12.28日)
【制憲議会へ向かう経過の概要】 | ||||||||||
ここで、「制憲議会へ向かう経過」を確認しておく。
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【制憲議会に対するレーニンの対応裏舞台考】 | |||||||
10月革命で権力を掌握したレーニン派ボリシェヴィキは、臨時革命政府の公約通りに制憲議会のための普通選挙の実施に向った。この時点では、よしんば結果がいかなるものになろうとも「選挙結果の尊重」が含意されていたことは間違いない。 この点にかかわって、トロツキーはレーニンの死の直後に刊行した著作「レーニンについて」のなかで次のような重要な証言を残している。それによれば次の通りである。革命後の、最初の数時間ではないにせよ、最初の数日のうちに、レーニンは制憲議会の問題を議題にのせ次のように主張した。
つまり、レーニンは、「制憲議会へ向けての選挙の延期」を提案していたことになる。しかし、レーニンのこの提案は次のような理由で反対された。
それに対し、レーニンは次のように反駁している。
つまり、レーニンは、ソヴェト権力にとって、しかも現在の候補者名簿では、間違いなく一歩後退を意味することを察知していたことになる。しかし、レーニンの延期提案反対派は次のように弁じた。
つまり、「制憲議会へ向けての選挙の延期」は信義上拙い。延期政策の方が却って立場を弱くするとの危惧を表明していた。トロツキーによれば、選挙の延期に特に強く反対したのは、地方の指導に当っていたスヴェルドロフだった。そしてレーニンはただひとり自分の見解を固持していたが、不満そうに頭を振りながらくりかえしこう述べた、という。
つまり、レーニンの「制憲議会へ向けての選挙の延期」提議を否決して、「臨時政府の指定した期日に選挙を行なう」ことは誤りであり、「革命の命取りにならねばよいが」とその方を危惧していたことになる。しかし、レーニンの提案は却下された。こうして、11.12日、選挙の不延期が決まった。革命政権は、「過度のまっ正直さ」により選挙戦へ向った。レーニンは、事が決した以上、彼の全注意を傾注し、制憲議会での勝利に必要な組織的措置に向った。 トロツキーは、更に、その後のレーニンの対応の裏舞台を明らかにしている。それによると、「我々がエス・エル左派と合せても少数にとどまるだろうことが明らかになった時、彼は『制憲議会は当然解散されねばならない』と語った」とのことである。この時レーニンは (トロツキーの回想では)、エス・エル左派が制憲議会の解散にどういう態度を取るかについて心配したが、レーニンと会った老ナロードニキのナタンソンが、「彼を安心させた」。 このようなトロツキーの証言からすれば、レーニンは革命の直後から、制憲議会選挙の結果について幻想をまったく抱いていなかったただひとりのボリシェヴィキだったということになる。選挙不延期の決定後、しばらくしてから (トロツキーは「そのうちに」と記している) 自分たちが少数派にとどまるだろうことがわかり、「制憲議会解散の決意が語られる」ことになる。 これに対して、次のように推定されている。
れんだいこは、捻じ曲げ推定ではなかろうかと思う。レーニンは、見通しが悪いので延期を主張した。その提案は多数決で否定された。その後の状況で、選挙がますます不利であることが判明した時、制憲議会解散を決意した。全ては、レーニン流の革命の果実を護る為であった。凡そこの理解で何らおかしくないのではなかろうか。どこでどう捻じ曲がるのか解せない。 |
【選挙直前の駆け引き】 |
ジノヴィエフ、リヤザノフ、およびロゾフスキーを含むボリシェヴィキ右派は、ブハーリンの協力を得て、ある種の擬似合法的な解決を望んだ。トロッキーと共にボリシェヴィキに加わった左翼のウリツキーは、「若干の同志たちは、現在、憲法制定会議が革命の仕上げであるという見解を抱いている」と、不満を述べた。なんらかの種類の力による解決のみがボリシェヴィキ政府を存続させ得ることが、ますます明らかになりつつあったにもかかわらず(ブハーリンは、カデットを追放するとともに、会議の左翼をして職務を続行させよと提案した)、ボリシェヴィキ右派が会議への党の代表に対する支配権をかちとった。 |
【選挙戦突入】 |
いよいよ「憲法制定会議の問題」が間近な政治日程に上ってきた。ボリシェヴィキは、権力掌握以前には、一貫してこの会議の招集に賛同していた。直前情報で、ボリシェヴィキは形勢不利が伝えられていた。しかし、最終的には自分たちが多数を握れるとの目算があったのであろう、11月に予定どおり選挙が実施された。 カデット(立憲民主党)もエス・エルもメンシェヴィキも、ボリシェヴィキ政権の短命を予想し、エス・エルとメンシェヴィキは共に「全権力を憲法制定議会へ!」というスローガンを掲げて選挙戦に臨んだ。 |
【選挙結果】 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
11.12日、憲法制定議会の選挙がおこなわれた。ロシア史上初の自由な普通選挙だった。投票の結果が全国的に集計されるには一カ月以上を要した。ペトログラートでの勝利 (ボリシェヴィキ6議席、カデット4、エス・エル2) が判明した直後の11.15日、レーニンは、アソシエーテッド・プレス通信社特派員の「憲法制定議会の選挙の結果についてどうお考えですか」の質問に、全国的勝利への彼の希望的観測をこう語っている。
ところが、選挙の結果は予想外のものだった。選挙の最終結果は、本来定められていた総定数808名に対し選出された707名のうち、社会革命党(エスエル)が農村部の圧倒的な支持を受け、全議席(718)の6割(413)を占める410(うち左派40)議席を獲得し第1党となった。ボリシェヴィキは都市部では強かったものの、全議席の4分の1にとどまる175議席の第2党であった。以下、カデット(立憲民主党)17名、メンシェヴィキ16名、民族代表グループ86名、その他3名だった。 以下にこれを図示しておく。
ボリシェヴィキは4分の一弱の議席と得票を得たにとどまり、11月にエスエルから分裂してボリシェヴィキと連立協定を結んだエスエル左派を含めても3割という数字だった。この結果は、いささか衝撃的であった。エスエルの圧倒的多数に対して、ボリシェヴィキは投票の4分の一近くを獲得したにすぎなかった。エスエルとエスエル左派の議席の割合は、革命前に作成された単一の候補者名簿から生まれた「偶然事」であって、現に選挙中の11月にペトログラートで開催された農民代表ソヴェト全ロシア臨時大会の多数は左派であり、大会は108名の代表を全ロシア中央執行委員会に送った。 |
【選挙後の流動化】 |
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選挙結果の集計が進むなかで、ボリシェヴィキが少数となれば制憲議会を解散するかもしれないという議論がエスエルなどに拡がった。 レーニンは以後、ボリシェヴィキの立場から見て人民の代表としてふさわしくない被選出議員のリコールを呼びかけるとともに、「人民の敵」であるカデット党が「全権力を憲法制定議会へ」のスローガンを掲げていることに注意を喚起させつつ、制憲議会に優先する人民の利益の強調に力点を移していった。 まず制憲議会選挙を監督する任を与えられていたウリツキーが、相互に承認しない二つの委員会、二つの会議の召集という事態が生じているので、制憲議会に対する方針を確立する必要があると発言した。ブハーリンは、制憲議会を召集すべきか否か、という問題をまず提起したうえで、議会的幻想が広範な大衆のなかにまだ生きているので、カデットを追放し、制憲議会の左翼を組織して 「革命的国民公会」を宣言すべきだ、と提案した。ブハーリンの提案は、フランス革命の革命的高揚期(1792〜95年)に新たな制憲議会として生まれた国民公会(La Convention Nationale)をイメージしていた。 「国民公会」 の思想を最初にレーニンに説いたのは、トロツキーによれば、先に触れたレーニン・ナタンソン会談の席のナタンソンだった。ナタンソンは、制憲議会でのボリシェヴィキとエスエル左派の両フラクションを全ロシア・ソヴェト中央執行委員会と統合して国民公会をつくる、という案を出し、このプランは制憲議会の権威の一部を我々の側に移すのに役立つであろう、と説明した。
ブハーリンの案のように、いったん選出された議員を事前に個別に審査して追放すること(または、できれば選挙人によってリコールすること)は、比例代表制により政党別単一候補者名簿方式にもとづいて候補者が選ばれている限り、技術的にも困難であり(レーニンもその困難性を認めている、またその正当化も困難であった。 12.2日、ドイツとの休戦。ブレスト・リトフスク講和交渉始る。同じくこの日、エス・エルとメンシェヴィキ両党との交渉を続けるか否かで、ボリシェヴイキ中央は分裂し、何回かの討議と採決のすえ、レーニンの提案「2党を中心とするソヴィエト「少数」派の威嚇や最後通牒に譲歩することは誤りであり、多数派の意志をねじ曲げるものというものである」)がようやく意思統一された。この時、次のことも確認されている。
これによれば、一党制の考えを微塵ももっていな いことが判明する。現実に革命政府は、1917.12.12日の協定でボリシェヴィキとエスエル左派の連立政府としてはじまり、これは1918.2月末まで続いていくことになる。 こうしてレーニンは、12.12日、有名な「憲法制定議会についてのテーゼ」を執筆し、テーゼは制憲議会のボリシェヴィキ議員団によって確認される。12.20日、労農政府は400名の定数に達するという条件付きで翌1918.1.5日に制憲議会を召集することを布告した。 この頃、レーニンは次のように述べている。
メリニチェンコの「レーニンと日本」は次のように記している。
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【エスエルが左右両派に分裂】 |
11.19〜28日、エスエル左派党が創立大会を開いたことにより、11〜12月の頃、エスエルが左右両派に分裂した。 |
(私論.私見)