「ロシア十月革命」後の連立政権内の主導権抗争 |
(最新見直し2006.1.4日)
(れんだいこのショートメッセージ) | |
「ロシア十月革命」は世界史的な意義を持って成功した。だがしかし、革命は既成権力を打倒するのは、よしんばそれがいかに困難な難事業の達成であったにせよ、それは革命の一里塚であり、その後の建国過程こそが本来の意味での革命事業ではなかろうか。俗に、破壊よりも建設のほうが困難であることが知られている。この事業をボリシェヴィキ権力が如何に手際よく為しえたのか、あるいは為しえなかったのか、これを考察していくことにする。 鈴木肇氏の「ソ連共産党」は次のように記している。
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【連立政権構想を廻る対立の構図】 |
10月革命後、ペトログラード以外の都市でもソヴィエトによる権力奪取が進み、ソビエト政権は全国的なものになりつつあった。ただし、各地のソビエト内ではエスエルやメンシェヴィキの力が強かったから、ボリシェヴィキ政権が確固としたものになるかはまだ未知数だった。もう一つアナーキズムの思潮があった。これらが拮抗と連動しながら革命的熱意が生み出されていた。ロシア十月革命はそういう意味で稀有なものとなっていた。 革命権力中枢派は、左派からも揺さぶられていた。シュリヤプニコフをスポークスマンにする小グループであったが、次の数年間に一つの強力な分派に成長していくことになる。彼らは、党の綱領的諸宣言に盛られた急進的理想主義に極度に忠実な人々であった。但し、当人達の左派的意識を別にすれば、その教条は公式化された通俗マルクス主義に汚染されていたかも知れない。れんだいこには、ここが微妙なところであるように思われる。 |
【連立政権構想を廻るボリシェヴィキ中央委員会の対応】 | |||
10.27日、レーニンの署名つきで新聞についての布告が出た。それは、検閲を可能にする最初の政府の指令であった。ソヴナルコムにたいする抵抗を教唆する「新聞機関紙」はすべて閉鎖されることになった。これにより、革命政権は、新聞が「事実についての明白に中傷的な歪曲によって混乱の種」をまいたとみなせば、、簡単に発行停止にすることができることなった。ボルシェヴィキは、十月革命前の数カ月には「新聞の自由」の原理を要求して運動したが、革命後には遅滞なく公共通信のメディアを通じて入手される情報の独占権を握った。布告は、ソヴナルコムはそれを一時的な措置と見なすと言ってはいた。しかし、レーニンが本当にこの一時的というのを信じていたのかどうかは疑わしい。 こうした諸関係に於いて、広汎な連立政府を最も精力的に唱えたのは、非常時に輸送ストップの威力に訴えて革命に功を為した鉄道労働組合(ロシア語の頭文字をとってVikzhel)全国委員会であった。鉄道労働組合はその功績により発言権を確保し、「ソヴェトの全政党から成る連立政府への変更」要望を提案していた。次のような内容であった。1・「我々は、人民社会党(ケレンスキーを指導者とする民族主義政党)を含むソヴェトの全政党から成る政府を求める」提案。2・「各党の候補に対する相互的拒否権を容認する」提案。3・「連立問題で協議する用意のある」提案。 10.29日、ボリシェヴィキ中央委員会は、鉄道労働組合の提案事項を協議した。レーニン、トロッキー、スターリンは欠席していた。トロツキーはケレンスキーの無益な反攻を破るべく戦線にあった。 10.30日、ボリシェヴィキ中央委員会が、再度レーニンとトロツキーの欠席のまま開かれた。この間、カーメネフは、ソビエト中央執行委員会(3分の2はボリシェヴィキ、他の大部分はエスエル左派)に対して協議会の設置を認可するよう説得した。この時の会議で、新体制のもとで立法権力の法的地位を獲得していたボリシェヴィキ中央委員会が、全ソビエト政党代表を参加させる新立法権力を模索する為の協議に入ることが決まった。ボリシェヴィキ右派の主張に添う流れであった。 留意すべきは、このことは、ボリシェヴィキ党中央委員会のなかにおいても、ソビエト内他党派との統一戦線を求める意志が予想以上に強力に存在していたことを物語っていよう。ボリシェヴィキ党中央委員会内は、レーニン派、トロツキー派を左派とし、スターリン派を日和見派とし、カーメネフらの右派から構成されていたことが判明する。 元メンシェヴィキのリヤザノフを団長とし、カーメネフを最重要メンバーとする交渉委員が選ばれ、ボリシェヴィキ代表団の出席のもとにソビエト中央執行委員会との協議に入った。メンシェヴィキとエスエル右派と折衝した。しかし、ボリシェヴィキ右派の連立政権構想は、メンシェヴィキとエスエル右派が、「1・新内閣からのレーニンとトロッキーの排除、2・10.25日の蜂起の事実上の不承認」を頑なに主張した為、暗礁に乗り上げ交渉は行きづまった。 レーニンは、人民委員会議の手に布告による暫定的統治権を握らせることによって体制固めに邁進し、当時の最大勢力エスエルとメンシェヴィキの立法機関への参加問題を引き延ばし継続審議にし続けた。ケレンスキー勢力を蹴散らして舞い戻ったトロツキーは直ちにレーニンと結んで、連立構想に攻撃を加えた。
それでもまだ満足しなかったレーニンは、党ペトログラード市委員会の集会に現われて、ボリシェヴィキ右派に対して次のように挑発、脅迫した。
ルナチャルスキーが、モスクワにおける戦闘中に起ったクレムリン砲撃に抗議して、教育人民委員の辞職を申し出たとき、レーニンは、彼を党から除名せよと要求した(これは不成功であった)。また彼は、再度カーメネフとジノヴィエフを裏切り者呼ばわりした。
ボリシェヴィキ中級指導部は、連立を強く支持していた。レーニンは、ペトログラードで剣もほろろの扱いを受けた。モスクワ市組織は、ルイコフとノーギンの指導下に、ジノヴィエフとカーメネフを公然と支持した。その左翼的色合いにおいて顕著であったモスクワ地方ビューロ−でさえ、ボリシェヴィキが閣内で多数派を占めるならば連立を受け入れると決議した。 |
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【レーニンの最後通牒】 | |||||
ケレンスキーが結集したコサック部隊に対抗するために、兵士が派遣された。軍事革命委員会の部隊が市中のパトロールを続けていた。レーニンは、次のような最後通牒を発した。
レーニンは、中央委員会の有力メンバーを集めて最後通牒への署名を求めた。9名が署名し、5名が拒否した。これを図示する。
こうして対立は、蜂起の問題をめぐって生じた対立と、同じ様相を呈した。 |
【革命権力が非社会主義新聞禁止を措置する】 |
11.4日 出版の自由、連立賛成派のボリシェヴィキ指導者が辞任した。反対派がすべての威嚇を無視した結果、ついに危機が炸裂した。中央執行委員会は、非社会主義新聞を禁止するという政府の措置を検討していた。独裁的な支配の可能性を懸念したボリシェヴィキ反対派の代表者たちは、実際に叛乱を呼びかけているわけではない諸新聞に対する束縛を一致して非難した。メンシェヴィキ出身で、左翼的綱領の主だった唱道者であったラーリンが、この趣旨の決議案を提出した。22対31、棄権多数で、それは敗れた。 |
![]() これによれば、レーニンとトロツキーは、10月革命権力遂行に功のあったボリシェヴィキの橋頭堡確保に強く拘り、反対派の言論の自由を蹂躙したことになる。この判断は、レーニンートロツキー派の致命的な誤りだったのではなかろうか。いつ如何なる時も言論の自由の保障は認められるべきではなかろうか。ここを安易に思考し過ぎたのではなかろうか。このブレが次第に増幅して行き、やがて当時の権力派がこの技で逆に首を絞められるようになったのがその後のロシア革命史ではなかろうか。それを思えば、権力の放縦は厳に戒められねばならないのではなかろうか。 2006.1.4日 れんだいこ拝 |
【中央委員会右派の反発と抵抗】 | ||||
新聞問題を機に、矛盾が爆発した。ボリシェヴィキ内反対派即ち中央委員会右派のうち「レーニンの最後通牒署名拒否派」の5名全員が、党と政府の役職から集団辞職した。彼らは次のような共同声明を発した。
これらの中央委員のうち、人民委員会議に席を持っていた3名(内務担当のルイコフ、農業担当のミリューチン、商業および工業担当のノーギン)は、一党政府に抗議して閣僚の地位をも放棄した。食糧担当のテオドロヴィッチや、リヤザノフとラーリンを含む多数の閣外人民委員がこれにならった。労働人民委員シュリヤプニコフは、中央執行委員会への宣言の中で、このグループに与することを明らかにした。次のように声明していた。
全ロシア労働組合中央会議の書記となっていたロゾフスキーは、これとは別にもっと感動的でさえある次のような声明を発表した。
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【レーニンの指弾】 | ||
レーニンの痛烈な攻撃は、彼が中央委員会の名において準備した右派への回答の中で、新たな極点に達した。次のように指弾した。
レーニンは、「大衆の間には逡巡のいささかの影もない」と語った。レーニンはなお、ソヴィエトとボリシェヴィキ多数派が受け入れられる連立政府ならば、それに加わる用意があると断言していた。事実、彼は、エスエル左派が10.25日の新政府への参加を呼びかけるボリシェヴィキの招請に応じなかったことに関して批判した。しかしながら一党支配反対運動は、いかなる効果的指導も強固な組織もないままに、急速に崩壊した。 11.7日、反対派はその主な指導者の一人を失った。ジノヴィエフが、歴史は彼が期待した方向に転じなかったと、認めるに至ったのである。彼は低頭して、前説を取り消し次のように述べた。
安定した民主的体制というジノヴィエフの内心の声も、革命的信徒の共同体から排除されるかもしれないという恐怖の前に、屈服してしまっていた。こうした心配は、ロシア共産党の反対派の歴史を奇妙に一貫して―マルクス主義者の比喩を用いれば―「赤い糸のように走っている」。 ジノヴィエフは、中央委員会に急ぎ復職した。他の一党政府反対者の場合には、主義・主張に対する考慮がもっと強かったので、彼らは11月末に至るまで反抗の構えを捨てなかった。その間、連立政府に関するボリシェヴィキとエスエル左間の協定が最後的に仕上げられたので、彼らの抗議は大方基盤を見失ってしまったのである。 |
(私論.私見)