マルクス主義における愛国心、民族主義問題についてその2

 更新日/2024(平成31.5.1栄和改元/栄和6).8.16日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「狂おしく悩ましく」を読んで、中核派においても「マルクス主義における愛国民族主義問題」が理論的に獲得されておらず深刻な対立を引き起こしていることを知った。以下、この問題について言及しておく。とりあえず既に書き上げている以下の文の推敲を重ねることにする。

 2013.01.31日 れんだいこ拝


【今は名を秘す氏とのやりとり】
 2003.1.5日、今は名を秘す氏が「Re:ナショナリズム考」と題して次の一文を寄せた。
 「革命的祖国敗北主義」はレーニンの立場によるもので、帝政ロシアは「諸民族の牢獄」と呼ばれ、そのなかで抑圧民族である大ロシア人の一員であったがゆえに、レーニンは被抑圧民族の解放には留意してきました。ロシア革命においては、民族自決の権利が承認され、ソビエト連邦の結成に際しては連邦離脱の権利は認められていたということです。そして、レーニンとスターリンの対立はまさに連邦の形態と各共和国の地位、主権(自治化)の問題をめぐって発生し、それは具体的にはカフカスの民族問題をめぐって激化、レーニンの死後にスターリンが独裁者となるなかで、極端な中央集権化と民族の抑圧、ロシア語やキリル文字の強制と急速なロシアへの同化が進み、独ソ戦争(大祖国戦争と命名される)のなかでロシア民族主義は全面化、そのなかでボルガ・ドイツ人やクリミア・タタール人、トルコ系メスヘチア人やチェチェン人などのカフカスの諸民族、朝鮮人などに対する民族丸ごとの強制移住が行われています。

 ちなみにレーニンは次のように述べている。
 「真の民主主義の条件のもとでは、学校を民族別に分割しなくても母国語による母国史などの教授の利益を完全に保障することができる」(1913年「ロシアの学校における学生の民族的構成、民族問題に関する批判的覚書」)。
 国際人権宣言第三条「自己の選択した言語を自由に使用することについての、及びこの言語を教えることについての権利を全ての個人に承認することは全ての国家の義務に属する」(1929.10.12日国際法学会ニューヨーク会議で採択)。
 「朝鮮人の民族的教育に対する圧迫は、実は日本民族自身の民族教育圧迫に通底している。これは一人教育の分野だけの問題ではない」。
 2003.2.6日、今は名を秘す氏が「Re:左翼概念論」と題して次の一文を寄せた。
> > 「左翼」という言葉は「人民」とか「労働者」という言葉と極めて密接なイメージが付きまといますが、果たして、日本を例にとるならば「人民」とか「労働者」という部分はメジャーに存在しているのでしょうか?

> > れんだいこさんが提起された「左翼概念論」ですが、左翼が対象とする相手は日本の場合何になるのでしょうか?(ウヨクのイメージは国体護持というのがまだ使えそうですが。)

>  そろそろバシッとした左翼とは論をどなたか展開してくれないかなぁ。民族主義との関わり、ナチズムとの近似性と違和性、階級規定との関わり等々を分かり易く教えて欲しい。ここを突破しないと、左派だとか左翼だとかいっても、イメージするものが段違い過ぎてコミュニケートにならないかも知れんからねぇ。

 民族主義といっても、抑圧民族の民族主義と、被抑圧民族の民族主義を、左翼は分けて考えるということです。左翼は、民族自決権を尊重し、侵略と植民地支配に反対する立場から、被抑圧民族・植民地人民が民族解放と主権の確立のための武器として、民族主義の旗を掲げることを、決して否定しないということです。

 しかし抑圧民族、たとえば日本帝国主義本国人が民族主義を掲げる場合、それは天皇制を前提とし、日本単一民族論を掲げ、過去の侵略・植民地支配を正当化するものになっていますね。

 そうした民族主義と、それに基づく「国益」という概念は、第三世界の被抑圧民族に対する搾取と抑圧を正当化するために機能するもので、左翼が擁護するものには決してなりえない。つまり、日本愛国主義と左翼は決して両立しえないものだということです。

 日本共産党は「対米従属論」の立場に立っています。しかし日米同盟は日本の支配階級がみずからの立場の強化のために便宜的にアメリカとの軍事同盟を主体的に選択しているのであって、第三世界の人民の押し付けられた「従属」とは全く異質のものです。

 イタリア・ファシズムは独占資本、大金融資本、さらには王家、協会、大土地所有などの封建的諸勢力と結び、そのいっぽうで似非社会主義の綱領を掲げ、一定の「反資本」の装いすらこらして、独占資本の搾取に苦しめられていた中産階級の反資本主義的感情さえも巧みに利用し、それによって起こる内部的矛盾、混乱を暴力や戦争政策によって解決するという方向性をもっていたわけです。

 これは、ナチスにも見られ、ナチズムは「国家社会主義ドイツ労働者党」というのが正式名称で、やはり「社会主義」の偽装をしています。もちろん、その名称の割には基本的に国家主義のみが実行され、社会主義はほとんど実行されなかったということです。ナチスは、国家権力ではなく、党として活動していたころには、労働者階級に近づく道を発見することはまったくできず、大ブルジョアジーのなかに資金面でヒトラーを支援する者もいたが、そのいっぽうで小ブルジョアジーの絶望を組織したということです。

 2003.2.7日、れんだいこが次のようにレスした。
 今は名を秘すさん皆さんちわぁ。はっきりとした見解披瀝が為されておりますので助かります。以下、コメントつけさせていただきます。

> 民族主義といっても、抑圧民族の民族主義と、被抑圧民族の民族主義を、左翼は分けて考えるということです。左翼は、民族自決権を尊重し、侵略と植民地支配に反対する立場から、被抑圧民族・植民地人民が民族解放と主権の確立のための武器として、民族主義の旗を掲げることを、決して否定しないということです。

> しかし抑圧民族、たとえば日本帝国主義本国人が民族主義を掲げる場合、それは天皇制を前提とし、日本単一民族論を掲げ、過去の侵略・植民地支配を正当化するものになっていますね。そうした民族主義と、それに基づく「国益」という概念は、第三世界の被抑圧民族に対する搾取と抑圧を正当化するために機能するもので、左翼が擁護するものには決してなりえない。つまり、日本愛国主義と左翼は決して両立しえないものだということです。

 これについてですが、れんだいこが思うに次のような論理展開のほうが適切ではないでせうか。まずは、民族主義につきなべて第一義的に認める。つまり、抑圧民族、被抑圧民族の区別を設けず、誰しもどの民族も自愛すべきだ。次に、その必然論理で、「被抑圧民族は民族主権と自決権の回復を勝ち取るべきだ。植民地状態からの独立運動を正のベクトルとみなす」、「抑圧民族には、優越的排外主義的民族主義と対等的国際主義的民族主義の相克が運命付けられており、左派は後者の線での民族主義を称揚すべきだ」。結論として、「責任ある民族主義の見地が国際主義に繋がるような民族主義にして国際主義運動」を構築していくべきだ。つまり、「民族主義を、左翼は分けて考える」、「日本愛国主義と左翼は決して両立しえない」とするのではなく、上述のような絡みにおいて理解し直すべきではないでせうか。この観点の必要は二度と、第一に、コミンテルン的絶対指導に服してはならないという意味で、第二に、天皇制的暴力的な一億一心的指導に拝跪してはならないという意味で必要ではないでせうか。

 考えてみれば、戦前の共産主義者は徒に国際主義運動に憧憬し過ぎていたのではなかろうか。むしろ、民族主義、愛国主義的観点から自国政府の軍事路線、経済路線、大衆生活圧迫路線に対し論を対置して、「その道は間違いである」とその非を警鐘乱打していくべきではなかったか。「自由・自主・自律」的精神を称揚し大衆的喧喧諤諤運動の盛り上げに精進していくべきではなかったか。その限りで、コミンテルン的一元的指導なぞ必要ではなかった。あくまで、民族主義、愛国主義的観点を確立しえて後の関係造りで十分だった。

 もし、そのような運動が展開できていたなら、仮に弾圧に次ぐ弾圧で逼塞せしめられていたとしても、日帝の敗北に際して逸早く決起し、「見よ、俺達の指摘した通りの結果になったではないか。お前達はどう責任をとるつもりか。連合国軍の対応如何でこの国家、民族は消滅されるであろうが、指導者族は総懺悔総蟄居せよ。我々は再び闘わねばならない」という声明ができていたはずだ。当然、獄中主義者の解放は、ポツダム宣言受諾声明と同時に獄内外の呼応によって為し遂げられていたはずだ。それに対し、支配層は茫然自失のていで為す術もなかっただろう。残念ながら史実はそのようには運ばなかったけれども、その原因の一つに、自国と民族に責任を持つ運動を確立しえていなかった故に、何らかの指示待ち族にさせられていた悪癖があったのではなかろうか。実に、戦前の党運動、大衆運動、戦後のそれもまた失敗に帰した要因には、この辺りの観点間違い、習性が起因しているのではなかろうか。

 以上、民族主義について発酵しつつあるれんだいこ観点を披瀝して見ました。

【蓼食う虫とのやりとり】
 2003.12.27日、れんだいこが、「Re:愛国心、民族主義と国際主義の相関関係」と題して次のように発信した。
 2003.12.27日、人生学院掲示板において、蓼食う虫さんから、「さざなみ通信 一般投稿から」という表題で、「さざなみ通信」に投稿されている「横山涼平様」(2003/12/24 天邪鬼)に対するコメントを求められた。「日共宮顕―不破系の理論的特質の考察、2・現状規定の反動的狙い、3・「二つの敵論」の狙い、を観点にれんだいこ史観による評論を求めます。虫にも判るようにお願いします」とある。

 本来、「さざなみ通信」http://www.linkclub.or.jp/~sazan-tu/index.htmlで為されている遣り取りであるので、筋論から言えば「さざなみ通信」で継続すれば良いとも思う。が、れんだいこは久しく登場していないので、急に割り込むのも気が引ける。その内容を見るのに、「愛国心と国際主義の問題」、「日本の防衛問題」という一般問題を取り上げているので、当掲示板で引き受けても良いかと思い急遽書き込むことにした。

 天邪鬼氏の投稿は、横山涼平氏の2003.12.21日付け投稿文「日米安保条約解消」に対するre投稿となっている。そこで、横山涼平氏の投稿文に目を通すと次のような内容になっている。

 「日米安保条約はペリー来航以来の不平等条約です。日米安保条約は日本国土に米軍が駐留して日本防衛を勤めると書いてありますが、その裏では日本の属国化を狙っています。これは同時に日本国民の愛国心を失くさせようとしているのです。愛国心と聞くと極端に軍国主義の復活だ。と勘違いしている人がいます。愛国心というのは日本以外の国はどこでも当たり前なのです。しかし日本はGHQの洗脳で愛国心=軍国主義=悪となってしまっているのです。

 まずこれを解消するには日米安保条約を解消して、米国と日米友好条約の締結を締結する必要があります。また同時にアジアとの共同体制も確立する事が大事です。また日本共産党に考え直して欲しいのは自衛隊放棄です。ある政治家がこういいました。防衛力を持たず敵に攻め込まれたらどうしますか?と質問しました。政治家はこういいました。降伏すればいい。といいました。こんな暴言は許されません。日本の防衛力は時と共に拡大していく脅威に対しての防衛力をもつ必要性があります。またなぜ軍を悪と決め付けてしまうのですか?自衛隊はあの帝國軍とは違います。防衛軍なのです。自国の安全保障は自分たちの力で確立するのが真の独立国です」。

 ここでは、次のように論理が組み立てられている。
①・日米安保条約の本質は、日本の属国化にある。
②・その体制は、日本国民の愛国心を失くさせようとしている。
③・愛国心は尊ぶべき自然な感情であり、軍国主義礼賛とは別物である。
④・GHQの洗脳で、愛国心=軍国主義=悪とされてしまっている。
⑤・日米安保条約を解消して、米国と日米友好条約の締結を締結する必要がある。
⑥・アジアとの共同体制も確立する事が大事。
⑦・防衛力をもつ必要がある。
⑧・自衛隊は帝國軍とは違い防衛軍である。
⑨・自国の安全保障は自分たちの力で確立するのが真の独立国である。

 れんだいこが論評すれば、古典的右翼愛国者風の素朴稚拙な見解であるようにお見受けする。「③・愛国心は尊ぶべき自然な感情であり、軍国主義礼賛とは別物である」の指摘のところが生き生きしているように見える。

 これに対し、天邪鬼氏が2003.12.24日付け投稿文「横山涼平様」で次のように応答している。相手が少年風であることを考慮して優しく諭すように対話している。しかし、この応答にも内容的に問題が認められるので、これを解説付きで読み解くことにする。

 ⑤の「日米安保条約を解消して、米国と日米友好条約の締結を締結する必要がある」に対して、「甘いですね。日米安保条約は事前協議で1年前に通告すれば解消できることになっています。で、条約ではそう書いていても、ハイそうですかとアメリカが引き上げると期待するとしたらあなたはあまちゃんです」と述べている。

 (れんだいこ見解) この応答は正しい。この辺りにつき日共党中央は誤魔かしているが、安保条約解約を通告すれば解消するなどというものではなかろう。こういう弱悩化理論を意図的に吹聴しているところに、宮顕―不破系日共党中央の犯罪的役割が認められる。

 続いて、「かりに民主連合政府ができて、その政府が日米安保条約の破棄をアメリカに通告すれば、アメリカが全軍事力を日本に投下するのは間違いないでしょう。その攻撃と破壊はイラクの比ではないでしょう。だがそれでもなお日米安保条約を破棄しなければならないのです。だから安保破棄という限りよほど腹を据えねばなりません。安保条約破棄は日本人民とアメリカ帝国主義の死闘になる以外にありません」と補足している。

 (れんだいこ見解) この観点も正しい。

 続いて、「だから日本共産党は安保条約を『凍結』するのです。日本革命は日米安保条約破棄と一体のものでしょう。安保条約をなくする以外に日本革命はないのです。だから平和革命などは夢のまた夢ですが、そういえばおそらくこのさざなみ通信に三角波が立つでしょう。民主主義革命なんて臆病者の主張にしか過ぎません。さて反論がきてからこの話は続けましょう」と述べている。

 (れんだいこ見解) 「だから平和革命などは夢のまた夢」との観点を披瀝しているが、この見解は明らかに日共のそれではない。故に、天邪鬼氏が日共系の者ではないことが判明する。

 次に、③の「愛国心は尊ぶべき自然な感情であり、軍国主義礼賛とは別物である」に対して、「愛国心!まさかあなたのような10代の人からその言葉を聞くとはびっくりしました。郷土愛ならわかります。ふるさとが懐かしいという気持ちならば私にもあります。愛国心と郷土愛とは別のものです」と述べている。

 (れんだいこ見解) この応答は正しい。

 続いて、「だが各国の人が愛国心を持ちすぎていて、かれらのそれぞれの国と国の利害が対立すれば戦争しかないではないですか。そんな時、愛国心は軍国主義以外に進む道がありますか。抑圧民族の愛国主義は侵略主義なのです。反対に被抑圧民族の愛国主義は反植民地主義、民族独立の思想です。だから日本人が愛国主義を唱えれば反対しなければならないが、イラク人民が愛国主義を唱えれば断固支持しなければなりません」と述べている。

 (れんだいこ見解) この見解は、いわゆる左派運動の従来式の常識的見解そのままであろう。

 但し、れんだいこは、この説を採らない。 愛国心という言葉で考察すると問題がややこしくなるので、もっと一般化して民族主義と言い換えて考察してみたい。果たして、民族主義に抑圧民族だとか被抑圧民族だとかの区分が必要であろうか。れんだいこは、そうは思わない。如何なる民族も己のアイデンティティを尊ぶべきで、相互に認め合うべきではなかろうか。「抑圧民族の民族主義、愛国主義は侵略主義になり易い」が、それは封建的ないしブルジョア的なものが鼓吹されるからであり、生産階級の愛国主義又は民族主義は国際主義的に連帯し得るものであり、侵略や戦争を好まない。「被抑圧民族の愛国主義は、反植民地主義、民族独立になり易い」が、それは諸悪の根源的に民族ないし国家の独立が侵されていることを見据えての賢明な対応によってそうなる。被抑圧民族の愛国主義又は民族主義も国際主義的に連帯し得るものであり、侵略や戦争を好まない。つまり、どちらにしても侵略や戦争を好まない訳で、それがなぜ侵略や戦争に向うのかというと、そこにマルクス主義的な資本主義体制の分析理論が学ぶに値する。これを手短に云えば、「資本主義の無限大的資本増殖化過程が必然的に国家・民族間の利害衝突を呼び込み、それが戦争行為、侵略行為へと導く」という事になるのではなかろうか。

 続いて、「本当は働く人たちにとって国家なんかないほうがいいのです。国があるから戦争があります。共産主義社会は国家のない社会です。なぜなら階級のない社会だから暴力機構である国家は消滅するしかないのです。共産主義者はそのような社会を目指しています」と述べている。

 (れんだいこ見解) この応答は不正確であるが、いいたいことは分かる。

 続いて、「国家とは何でしょうか。階級支配のための、荒っぽく言えば、国家は道具なのです。支配階級が被支配階級を制圧するための暴力機構が国家なのです。国家は警察と軍隊と法律によって成り立ちます。どの国でも国家を転覆する行為に対して重罪にする法律を持たないない国家はありません。すべての法律は支配階級が被支配階級を抑圧するためのものです。それは階級社会が生まれてからずーッとそうなのです。これらを総合して暴力機構と呼びます。ですから愛国とはこの支配階級の暴力機構を愛することに他ならないのです。日本共産党も愛国心を標榜しますがもってのほかです」と述べている。

 (れんだいこ見解) これも、この見解は、いわゆる左派運動の従来式の常識的見解そのままであろう。

 但し、れんだいこは、この説を採らない。 「国家は階級支配の道具であり、本質的に暴力機構である」という観点は半面の真理でしかない。もう半面は、「当該国家の支配階級と被支配階級の階級闘争的釣り合いの中にあり、法秩序ないし政治情況はそれを反映している。よって、この振り子がどちらに傾きつつあるのかが不断に争われている」という観点が必要ではなかろうか。意味するところは、「政治は生き物であり、これを担う政治的主体によって歴史が創られつつあり、よって世の中は弁証法的に揺れ動いている。故に、政治参加は何人も事情の許せる限り権利であり義務である」という観点が欲しいということだ。

 続いて、「したがって『労働者階級に国家はない』とマルクスが看破し、第一インタナショナルのテーゼにしたのです。ナショナリズムこそは帝国主義の思想であり、インターナショナリズムこそがプロレタリアートの思想として掲げられるべき旗です。この重要なテーゼに日本共産党は背反しています。はじめは右翼日和見主義として、今日では社会排外主義として労働者人民の前に立ちふさがるようになったと私は考えています」と述べている。

 (れんだいこ見解) これについて、れんだいこは次のように思う。云いたいことは分かる。しかし、マルクスの「労働者階級に国家はない」発言はどの文献で確かめられるのだろう。恐らく、庶民大衆の我々にとって、ブルジョアジーに喧伝されるような排外主義的国家には用がない、騙されるなという警句で云われているのではなかろうか。つまり、「労働者階級に国家はない」を文字通りに理解するのは正確を欠いているのではなかろうか。れんだいこの知るマルクスの国家論は、その階級支配性と将来における死滅の展望である。これ以外の「有る無し」発言は知らない。

 続いて、「だから、だからイラク戦争において反植民地闘争に立ち上がるイラク人民とイスラム世界の人々に敵対するしかないのです。彼らの崇高な反植民地闘争をテロだといってはばからないのです。それならばすべての革命はテロになり、そのようにいうならば反革命でしかありえません。若しも暴力革命のすべてを否定すればフランス革命も、ロシア革命も否定せざるを得ず、近代資本主義もなければ社会主義もないし、帝国主義支配は永遠のものになります」と述べている。

 (れんだいこ見解) これは日共党中央の「テロ見解、国連に委ねよ見解」を批判している。その限りで正しい。「それならばすべての革命はテロになり、そのようにいうならば反革命でしかありえません」はゼツ正しい。

 続いて、「帝国主義間の戦争において『降伏すればいいのです』という政治家がいればそれは正しいのです。祖国敗北主義といいます。レーニンによって徹底的に批判されたカウツキーに対する評価は『祖国擁護主義』でした。だから日本のマルクス主義者は不破氏をカウツキーとさげすんで呼びます。祖国擁護主義はマルクス主義の敵です」と述べている。

 (れんだいこ見解) この応答は不正確であるが、いいたいことは分かる。

 但し、れんだいこは次のような注釈を付けたい。「祖国敗北主義」を「帝国主義間の戦争において『降伏すればいいのです』という政治家がいればそれは正しいのです」的なセンテンスで捉えるのは基本的に間違っている。レーニンの「祖国敗北主義」は、生産階級が帝国主義間戦争に巻き込まれず、逆にこれを利用して社会主義革命を引き寄せるために「革命的祖国敗北主義」を呼号し、実際に10月革命まで漕ぎ着けたのであり、そこが素晴らしい。ただ単にそれぞれの国々の生産階級に「降伏主義」を宣伝したのではない。それは非常に危険な戦略戦術に陥る危険性がある。

 続いて、「労働者階級にとってその国のブルジョアジーの利益のための戦争は関係がありません。かってに資本家同士が甲子園で殺し合いをすればいいのだよ。国が負けようが勝とうが万国の労働者にはそもそも国家なんかないのですから関係ありません。自衛隊なんかいりません。自衛隊は帝国主義の軍隊ですから。しかも資本家のための軍隊だから解体する以外にありません。だが労働者の軍は必要なのです。ただし反革命を制圧するための軍です。革命の過程で労働者階級は武装する以外にないのですから、反革命に対抗するための労働者の軍隊がそのとき結成されていななければならないでしょう。それは自衛隊と異質のものです」と述べている。

 (れんだいこ見解) これはかなり危険水域に入った発言のように思える。

 れんだいこは、この観点とは基本的にスタンスが違う。「国が負けようが勝とうが万国の労働者にはそもそも国家なんかないのですから関係ありません」と云われると、マルクス主義の読み方の初手まで遡って議論せねばならない必要を感じる。マルクスは、そんな馬鹿げた結論を出していないし、マルクスが云おうが云うまいが馬鹿げ過ぎている。生産階級は、ブルジョアジー間の戦闘に大いに関心を持ち、それを革命戦略戦術の中に利用していかなければならない。これが、革命闘争の生きた弁証法であり、この観点を欠落させると「祖国敗北主義」は悪利用されることになろう。

 自衛隊解体論、革命軍創出論を云うことは結構だ。しかし、誰が、どういう機関で、権威で、反革命規定し得るのか、ここを切開しないと歴史から何も学ばなかったことになる。その為に史実の検証をやり直し工夫を引き出す必要がある。しかし、現に何もできていない、これを痛苦に受け止める感性と知性がないと、「自衛隊解体論、革命軍創出論」も虚々しい。結局、何も語っていないに等しい。

 続いて、「『防衛力を持たずに敵に攻め込まれたら』という敵とはどこの国のことですか。すでにアメリカ帝国主義に攻め込まれ60年近く支配されているのに二重支配ですか。横山さんは十代の学生さんだからもっと勉強ができますね。どうかレーニンの『国家と革命』岩波文庫にありますから読んでくださいね。ついでに『帝国主義論』も読んでいただければおおむね私の言うこともわかるでしょう。よいお正月を迎えてください。天邪鬼より」と述べ、結びとしている。

 (れんだいこ見解) れんだいこは、「防衛力を持たずに敵に攻め込まれたら」という仮想問答は必要と思う。この時、だから自衛隊、米衛隊、国防の必要論に掠め取られるのではなく、その前に非軍事的・国際協調的・平和外交的に為し得る限りの手当てをしてきただろうか、と問い直したい。戦後憲法はそれを指針しており、曲がりなりにもこの指針通りに国家を舵取りしてきたから戦後復興と未曾有の高度経済成長と諸外国からの高い評価を受けてきた。この戦略は成功したのであり、今もってその価値は損なわれていない。むしろ、諸外国は戦後日本の歩みから学び取り、これを手本に「金食い虫軍事からの決別」に向おうとしているのが昨今の状況だ。それをなぜに逆方向へミスリードされねばならないのか、誰がこれを仕掛け、これに誰が群がろうとしているのだ、ここを問いたいと思う。

 既に、我が国の累積過重債務と経済無策ぶり、軍事防衛予算の突っ込みぶりを見れば、これは狂人の行為に等しい。誰がこんな無茶な方向に招こうとしているのだ。今や、これを後押しする勢力との非妥協的聖戦こそ待ち望まれている。「小泉頑張れエール」をこれ以上贈り続ける者がいれば右同罪として歴史責任文庫の中に記帳しておかねばなるまい、 マジそう思う。

 2003.12.27日 れんだいこ拝

 2004.4.14日、れんだいこが、「Re:愛国心はむずかしい、うんそれについてのれんだいこコメント」と題して次のように発信した。
 蓼食う虫さん皆さんちわぁ
> 木村氏が、批判されている観点はここいらでしょうかね?
> 高潔な人士としての形容で阿修羅に書き込んだのですが、おこられました。
> 確かに、危険な言葉ですね。

 これですが、れんだいこのこのところの関心は、「愛国心、愛民族心」についてマルクスはどのように説いていたのかに向かい、「共産主義者の宣言」、「ゴータ綱領批判」の精読に向かいました。原文の独語では叶わず英文で確認しました。

 それによると、「愛国心、愛民族心」を封建的意識から奏でることは論外として退けているように思います。しかし、「愛国心、愛民族心」を放棄させる遣り方で国際主義に殉じるように説いているのかというとそうではない。それぞれの自国民が自国の革命を「愛国心、愛民族心」の観点から取り組むのは当たり前としている。しかし、「ブルジョアジー対プロレタリアートの最終的二大階級決戦」では、プロレタリアートの解放闘争は、必然的に国際主義と通底するような遣り方で担われることになる。ブルジョアジーの対封建闘争は排外主義的「愛国心、愛民族心」の中でのイニシアチブ闘争として展開された。そして勝利した。しかる後、ブルジョアジーは一定の国際主義を生み出す。なぜなら資本主義的競争が国内市場のみならず必然的に国際化していくことになるから、それに応じた国際主義を生み出していくことになる。しかしながら、ブルジョア国際主義は所詮自身の自身たちの自国の権益を優先するために生み出されるものであって「真の諸民族友愛的国際主義」にはなりえない。いわゆる矛盾がそこに介在する。プロレタリアート解放闘争は、ブルジョア国際主義のそういう限界を突き抜けて歴史上初めて立ち現れる「諸民族協和的国際主義」として担われることになる。それは、各国の「愛国愛民族主義」の道筋を通じて同時並行的に共同的に達成される。ここにプロレタリアート解放闘争の歴史的意義がある云々というようなことになるのではないかと思われます。

 従って、我々こそが「真の愛国心、愛民族心」を兼ね備えているのだとして、支配階級及びその諸政策と正面から対峙していく運動が望まれているように思います。しかしながら、史実に立ち現れたマルクス主義者のそれは、「愛国心、愛民族心」を云うのは体制側の運動であるとしてこれから背を向け、専ら国際主義的観点から、実際にはソ同盟本国主義的コミンテルン運動に拝跪していった。お陰で、支配階級側は無人の荒野を行くが如く「愛国心、愛民族心」プロパガンダ運動を手中にし、左派ないしその同調者に対して「この非国民め」的弾圧を「正義の名と心情」においてなし得ることになった。当時の左派運動者はこれに抗する術を持ち得なかった。なぜなら、時局柄切迫するところから生み出された相互に愛国主義的な帝国主義戦争イデオロギーに対して「エアポケット」に陥っていたから。この作風は今日まで続いているようにも思われる。

 日本赤軍系の特によど号事件派は逸早くこの隘路から脱出できたように思われる。それは、北朝鮮へ行くことにより、朝鮮民族の主体思想による国家建設の実態を見てはたと気づかされた面ではなかったか。(朝鮮労働党の支配体制及び諸政策のよしあしはここでは問わない) 今塩見氏はこの観点にしっかりと立つようになっているように思われる。それは恐らく田宮、小西らと幾度も論じた末にもたらされた観点ではなかろうか。結論的に云えば、左派風愛国心と愛民族主義の観点の獲得である。この観点があまりにも弱すぎたのが、日本左派運動の宿あではなかろうかと。れんだいこはここまでは観点を一致させている。ここから更に観点が分岐し、れんだいこはもはや明治維新のそれを民族的偉業とみなし、戦後の保守本流を形成した自民党ハト派系の肯定的見直しまで辿り着いている。それは余算ごとだが一言しておく。

 2004.4.14日 れんだいこ拝

 追 塩見氏が「一晩集中して書き上げた」とあるので、れんだいこも酔眼ながら集中して書いてみました。

 2004.4.14日、蓼食う虫氏が、「再び(ドキ!)」と題して次のレスを寄越した。
 れんだいこさん こんにちは。れんだいこさんのエアーポケット説考えさせられました。「愛国心」について、このサイトでは、数年間論議されています。しかし、いまだにキッチリと決着しているようにもおもえません。比べて、塩見氏はキッチリとした観点で、「愛国心」を使用しているように思います。

 第一に、塩見氏自身が労働者民衆第一主義に立脚し、具体的に活動されているなかで使用しているからです。
 第二に、我が国の客観的条件の中での使用ではあろうが、マルクス主義における普遍的位置づけにまでも、止揚しているのではないかと推察される記述があるからです。

 私は、この度、はじめて「愛国者」なる表現で「箕輪氏」を表現してみました。その結果二つの具体的リアクションを受けました。ご存知のとおり、「粗雑な表現である。」というリアクション、つまりすんなりと受け入れられなかったと言う意味で失敗。もう一つは、「国家大事主義」というリアクションです。

 <参考引用>木村さま

 阿修羅の投稿読みました。驚きました。その前の方ので、ほ~と思っていたところでした。頭の中での整理ができませんが、そういう志は、多分政治的な意図ではなくて、日本国大事主義の良き変容みたいな感じなのでしょうと考えました。明治維新を担った世代は楽屋裏がうすっぺらなベニヤ板であったことを知っていた。しかしそれでなんとか保ったのは、足らない分を人が埋めたからだ。悲しいことだが、とかなんとか司馬遼太郎が書いてましたがそういうことかもしれないなど思い出します。------引用ここまで-----

 ここでいう、その前の方の、が「蓼食う虫の投稿」です。ほう~の内容はわかりませんが、結論は上記のとおり。「足らない分を人が埋めたからだ。」このような大衆の気分の或いは、空気の上に、薄っぺらなベニヤ板があり、楽屋の上で、維新のブルジョワ革命がなされたという見解でしょう。

 「たぶん政治的な意図ではなく・・」は、スロウーガン的拙文が、すんなりと受け入れられたという意味で実践的に正しいと思いました。

 「失敗」と「成功」いうリアクションから、「愛国心」の多岐にわたる論議として深化させる必要性を感じました。実践的に使用し検証するためにも、それこそ、ブルジョワ的使用とプロレタリア的使用があろうし、私には、むずかしい!!国家学説の歪曲に対する対抗手段としても、国家学説とキッチリ結びつけての「愛国心」の論議再開を望みます。とくに、このサイトに興味を示された全ての皆様の率直な論議を期待しております。何故なら、反動的イデオローグのサイト支配に腹が立つからです。そして、自分自身の知力のなさを実感するからです。

【近藤栄蔵の国家意識の強さ指摘考】
 近藤栄蔵は「コミンテルンの密使」の中で次のように記している。
 「私がプロフィンテルンで仕事をする間に感づいたことの一つは、いかに国家意識なるものが強いかということだった。インターナショナリズムの旗の下にプロレタリアを代表して集まった者の間に、国民的意識がわだかまっていて、第一プロレタリア世界革命の為の協働に支障をきたしてはならぬとは云わずと知れている。にも拘わらず、実際に於いては、我々各国のプロレタリア代表は各々個別の勝手な意見を吐き、お互い同志隣国の運動を非難し、国を異にする同志のあら探しに興味を持ち、共同戦線をサボる傾向さへ示したのである。要するに、各国代表の現実の国民的意識が、理想のインターナショナリズムより強かったのだ。

 特にドイツ代表とフランス代表との間の対立は面白いほどだった。両国のブルジョア政府は鎬を削って争っている。その裏を掻いて両国のプロレタリア運動は、一致団結して双方ブルジョア支配を打倒するというのが公式である。ところが実際には、プロレタリア代表も、ブルジョア外交官に負けずに、鎬を削って相争うていた。意見の相違ばかりではなかった。性格上の相違も面白く目立った云々」。

【姜尚中(カン・サンジュン)氏の指摘】
 軸丸靖子氏の2006.10.25日付けブログ「姜尚中氏が語る『愛国の作法』」を転載する。
 声高に愛国心教育が叫ばれるなかで、「愛」と「国」のそもそも論に挑む『愛国の作法』(朝日新書)を刊行した政治学者・姜尚中氏が24日、オーマイニュースを訪れ、編集部と20代の市民記者4人の取材に応じた。執筆の動機には「品格とか美しいとか、あまりにも中身のない言葉が氾濫(はんらん)していることへの違和感があった」と背景を語った(一問一答の詳細は後日掲載します)。

 ■きっかけは「愛国心」■

 撮影者:OhmyNews
 ――『愛国の作法』は今月、朝日新聞社が創刊した「朝日新書」の刊行第1号となっている。もともとは編集者側が憲法改正についての執筆をもちかけてきたが、姜氏から「国の愛し方か、愛国の作法というのはどうですか」と逆提案、「『国家の品格』(藤原正彦著・新潮新書)も売れているし、いいじゃないか」と話が決まった。

 「愛国心について書いてみたいと思った理由は、大きく4つあります。まず、このままでは『愛国』という言葉が特定の、はっきり言えば右側の人々の専売特許になってしまうという恐れがあったこと。『愛国』という言葉の内実を問いただし、特定のイデオロギー論を論じる人々を達観しないと、『平和』や『人権』という言葉が力を持たなくなると考えました」

 「2つ目は、問題山積のイラク戦争をどう見るかということ。大量破壊兵器国連査察団の人を東京大学の授業に呼んで講演してもらったときに、『自分はパトリオット(愛国者)だ。愛国だから反戦なのだ』と発言されていたのが非常に印象に残っていたのです。3点目が、こうした問題を『在日』である自分が書くことの意義ですね」

 「最後に、今、必要とされている『愛国』という言葉も、いつか役割を終えるということがありました。そのときに、北朝鮮問題を含めた東北アジアの姿が見えてくるのではないか、『愛国』という言葉の彼方(かなた)に、ある種の地域主義の姿が示されるのではないかと思ったのです」

 ――同書では、愛国論の前に「愛するということ」や「国というもの」について正面から論じている。また、カバー折にある「『改革』で政府によって打ち捨てられた『負け組』の人々ほど、『愛国』に癒やしを求めるのはなぜか」という1文では、愛郷心と愛国心を混同し、反中・反韓の排他主義に傾く現代社会の病理も指摘している。

 「『愛国心』というわりに、愛するということが論じられていないから、きちっと書いておこうと思いました。『品格』とか『美しい国』とか、あまりにも中身のない言葉が氾濫していますが、僕は“そもそも論”をやりたかった。そうした中身のない言葉を比較的無理なく受け止めている人たちの内側にあるものは何なのかと思ったのです」

 ――国の愛し方について丹念に掘り下げた同書だが、愛国心を教科書的に定義しているわけではない。「これは『私の国の愛し方』について書いた本。この『私の』という点にこだわった」と姜氏は語る。実際、五輪招致をめぐって石原慎太郎・東京都知事から「怪しげな外国人」呼ばわりされた経験は、しっかりと本書のあとがきに引用している。

 また、本書にたびたび登場する安倍総理の論文『美しい国』については、あえて著者名を割愛し、「美しい国の著者」と遠回しに表現することで批判も込めたという。

 ■核拡散抑止に日本が果たすべき役割■

 ――大学で国際政治などを専攻していたという市民記者から、姜氏が学生のころの政治思想へのスタンスや歴史認識についての質問があった。また、同書にある「戦争の総括が成されていない」という下りについての質問に対しては北朝鮮の核問題に言及した。

 「実際に戦争の歴史を総括するのは非常に難しい。しかし、靖国問題がなぜここまでこじれたのかは、結局は東京裁判の総括が戦後、成されていないという問題に帰着します。戦後復興をスムーズに実施するために、進駐軍と一種のコラボレーションがはかられ、結局、深く議論されることはなかった。満州の植民地化、沖縄問題、アジア諸国が受けた被害、天皇訴追、原爆も同様の問題です」

 「現在、被爆国として核が持つ害悪を米国に知らせる義務が日本にはあるのに、日本はその義務を果たしていません。日本は米国による核の傘の下にあり、その一方で広島・長崎の過去がある。その立場から、核兵器の危険について世界へ知らせる義務があるのです」

 ■オーマイニュースの進む道■

 撮影者:OhmyNews
 ――最後に、韓国発のオーマイニュースが日本で発展する可能性について話題になった。韓国と日本のメディアの違いとして、韓国では新聞への信頼性が低く、それがインターネットを発展させる背景になったと言われている。だが、日本ではそれが逆の状況にあるとして、「韓国のオーマイニュースと同じことをしていてはダメだろう」と姜氏は指摘した。

 「ただ、日本では新聞への信頼性はあっても現実に読まれていないという状況があり、日本のオーマイニュースは踏み込んでいけるのではないか。市民記者ともオンラインだけでなく、こういった顔を合わせるオフラインのつながりを充実させていくことが大切だと思う」

 <姜尚中(カン・サンジュン)氏>
 政治学者、東京大学大学院情報学環教授。1950年、熊本県生まれ。早稲田大学大学院政治学研究科博士課程修了。著書に『ナショナリズム』『在日』など。

 れんだいこのカンテラ時評№1099  
投稿者:れんだいこ 投稿日:2013年 1月31日
 教条における「が」と「も」の違い考

 一般に思想の教条に於ける「が」と「も」の違いについて愚考してみる。これは、ネット検索で出くわした「狂おしく悩ましく」を早読みした時の感慨である。著者は元中核派の本部員であったようで、同派の内情を種々スケッチしている。れんだいこがオヤッと思ったのは「愛国民族主義問題」に於いて定説を持っていない様子に対してである。この問題についてはれんだいこも興味があり、「マルクス主義における愛国民族主義問題について」をものしている。

 「狂おしく悩ましく」」

http://blogs.yahoo.co.jp/hutagoyama_1/52737808.html

 「マルクス主義における愛国民族主義問題について」
 (marxismco/minzokumondaico/aikokushinco.htm

 例えばマルクス主義について確認すると、バイブルである「共産主義者の宣言」文中に「労働者は国家(祖国)を持たない」と云う言説がある。これにより日本マルクス主義運動においては新旧左翼問わず愛国主義、愛民族主義、国旗国歌(日の丸君が代)に反対の姿勢が導き出されている。しかしそれは「共産主義者の宣言」の文意における「労働者は国家(祖国)を持たない」が吟味されぬまま適用され過ぎているのではなかろうかと云う問題意識を介在させている。これにより「マルクス主義における愛国民族主義問題」が発生している。

 これを踏まえて、れんだいこは云いたい。「愛国民族主義問題」は未だ理論的に切開されていない。この問題においてはマルクスの言辞と雖も教条化すべきではない。そもそもマスクスのそれとエンゲルスのそれ、レーニンのそれ、トロツキーのそれ、スターリンのそれ、毛沢東のそれ、ホ・チミンのそれ、金日成のそれは微妙に違う可能性が強い。諸氏の言説がそれぞれの時代性、お国柄、精神性に影響されている可能性が強い。

 この辺りを見ずして精査のないままの「労働者は国家(祖国)を持たない」を教条化するのはむしろ危険なのではなかろうか。そもそもマルクス主義における教条主義は似合わない。マルクス主義が他の宗教、哲学、政治思想よりも教条性が強い主義だとしたら、それは原理的に反マルクス主義なのではなかろうか。そういうものが流行っているんだけれども。そして廃れているんだけども。

 そこで云いたいのは、今後に於いてはマルクス主義であろうと他の諸思想、宗教、哲学だろうと、その開祖、教祖、最高指導者の言といえども、これを仮に「A」とすると、A「が」かく述べて居るので従うべしとするのではなく、A「も」かく述べて居るので正しさが裏づけられるのではなかろうかと云う風に一歩控えて援用されるべきではなかろうか。つまり盲目的絶対的な基準を排し、あくまで吟味上の物差しとして評され尺度とされるべきではなかろうか。これを略して「『が』ではなく『も』とすべし論」、更に略して「がも論」として獲得すべきではなかろうか。

 こういう見地からあらゆる理論が精査されるべきだと考える。そういう精査を経て獲得されるものが導きの理論となるべきであり、それは時代を経て更に精査されると云う具合に不断に検証されて行くべきであり、これこそ思想運動の生命線ではなかろうか。近代曙光の精神「全てを疑う」はかようなセンテンスで活かされるべきではなかろうか。

 jinsei/


【中核派内の興味深い「国際主義と祖国」議論バトル考】
 6 国際主義と祖国」参照。
 国際主義と「祖国」
 「排外主義と対決し、『愛国心』の洪水と対決せよ」とする重要論文が出た。私は「この論文が『革命論』として論じている以上、ひと言ある」と切り出した。
 「この論文は、『プロレタリアートは祖国を持たない』という『共産党宣言』を引き合いにして、国際主義を論じている。けれど、『宣言』の理解は逆だ。『宣言』は、今ある国家が労働者にとって、自分のものではないと言っている。結論は、だから自前の祖国を勝ち取ろう。そして世界革命を共に闘いとろうと呼びかけている。マルクスの読み方が間違っている」。
 いつもと同じく、城戸と1対1の激論だ。「何だそれは、お前はいつから愛国主義者になったんだ」。城戸の言う事はいつもこれだ。
『共産党宣言』では続けて、次のように書いてある。
「持たないものを取り上げる事は出来ない。プロレタリアートは、まず政治権力を奪取し、国民的階級となり、自ら国民とならねばならない……やはり国民的である」。

 ここでの文章は明らかだ。マルクスの国際主義を言いたいのなら、他にいくらでもある。何故こんな曲解にこだわるのか?!
 
 城戸の主張は以下のように要約できる。
「労働者は祖国をもたない国際主義的な存在である。階級闘争とプロレタリア革命によって、民族問題は解決される。民族抑圧問題の根源は階級支配だからだ」。
「これを確信に据えて、排外主義と闘え」と。「共産党宣言に学べ」

マルクスの生きた時代を考えれば、自明ではないだろうか。時々の歴史の中で考えよう。
1870年の、普仏戦争の時のマルクスはどうだったろう。「プロシアの勝利を期待する」とした理由は何だったろう。マルクスは、ユンカー貴族の王国プロシアを押し立てた、まだ未成熟なブルジョアジーの、ドイツ国民国家のための闘いに期待した。それ無しにプロレタリア革命などありようがない、と。
私たちが「共産主義者」であろうとすれば、「国を作り換える、即、「ソビエト権力」の問題は避けられない。今ある国家の在り方をどう作り変えるのか。どういう国家形態を作り出すのか。どう動かせるのか。今日的にはどう関わるのか。「国家という原罪」と、向かい合う決意あってこそのイストではないか。無政府共産主義とマルクス主義の最大の分岐点は、国家論だ。
 
しかし大事な事は、このフレーズを引用して反戦平和を呼びかけたのは、他ならぬレーニンだったという事だ。<この『祖国』は、今はまだ労働者が自由に操れる『労働者にとっての祖国ではない』>。<『祖国防衛』に名を借りたこの戦争は、この国を牛耳るツァーリと資本家達の戦争だ>。
第1次大戦のただ中での、交戦諸国の一方の中からの主張であるからこそ、意味がある。『帝国主義論』は、<なぜ、社会主義者達までもが、戦争に屈服し加担してしまったのか>を解き明かす書でもある。帝国主義の時代の、戦争の性格と「国際主義」の中身を問うものだ。
レーニンが、『宣言』を曲解してまで引用しようとしたのは、「マルクス主義者」達の多くが、マルクスの片言隻句をもって、互いに自国の戦争を正当化していたからだ。「対抗的こじつけ」と言っていい。「マルクス主義者」達の、こうしたつまみ食い的な「正統」争いから、私たちはもっと自由にならなければ終わりだ。
 私は思う。日本では、およそ左翼になる人間にとって、「祖国」とか「祖国愛」とかは聞くだけで反吐が出る。この日本の右寄りな社会と政治の中で、当然ではある。けれどそういう「力学」に負けて、その本質に迫ることから逃げ出したら、それは「革命家」としては屈服でしかない。愛国主義者に問われたなら答えればいい。「国は国民を守らない。働く者同士での殺し合いはごめんだ。この国のための犠牲はごめんだ。戦争は嫌だ」。
 祖国敗北主義
 「革命的祖国敗北主義の復権を」とする論文にも、私が咬みついた。「革命的敗北主義という用語がくり返し使われている。略すなら、祖国敗北主義か、単に敗北主義が正しい」。
 またまた編集長が切り返す。「何言ってんだ。単なる敗北主義者でいいのか、ふざけんな!」。この論文は、編集長=城戸の全力を挙げた作品である事は知っている。
私は続けた。「いいか、帝国主義の『祖国』が戦争を始めた。この時プロレタリアートはどういう立場をとるか、という事だろう?」。「そうだ、分かっているか」と編集長。「この場面で労働者階級が闘う。闘って祖国が混乱する。その結果、負けてもいいのか、という問いへの答えだ。戦争の勝利か敗北か。負けてもいい。いや負けるために闘う。どうだ“敗北主義者”でいい、という事にならないか」。「何言ってる、革命的に闘わないで何だ。単なる敗北主義者じゃないか」。「単なる敗北主義でいいんだよ。戦争するよりも、この日本が亡びてもいいっていう事が大事なんだ。<国破れて山河あり>でいいじゃないか」。
激論の中で私は切り札を切った。「それなら言ってやる。レーニンが『革命的』を付けたのは、ボリシェヴィキの中の『勝利主義者』との妥協だと言っている。スターリンとボリシェヴィキは、『封印列車』でレーニンが帰るまで『勝利主義者』だったんだ。あんたの主張は、勝利主義者だ」。「お前、レーニンのどこを読んでるんだ」と編集長。「城戸の主張は、スターリンそのものだ。レーニン10巻選集を読んでみろ」。ロシア君が「刈谷さんの言う通りだ」と保証してくれた。ここでも他は、黙ったままだ。政治局も沈黙し続けたまま、これもやはり「重要論文」となった。
 9条と平和
反戦・反改憲の運動の中で、中核派もいろんな平和主義を取り込もうと腐心する。岩井章氏の「戸締まり論」、非武装中立論を盛んに持ち上げたのはいつだったろう。城戸自身も書いていたはずだ。この論こそ「敗北主義」ではないだろうか。「あの戦争に負けて良かった。もっと早く降伏していたら」という思いこそ、私たちの立脚点ではないか。
問題は、利用主義だけの姿勢だ。自分で書いた事を自身の中で捉え返す、思想としての「誠実さ」の欠如だ。付け焼刃はすぐ剥げる。「乗り移り」「転向者」。私は誰と誰に、このレッテルを貼ればいいのだろうか。
 「日本の戦争」をめぐる、「国民的」分岐点がどこにあるのか、それを見究めるのが、「敗北主義」論争の課題なのだ、と私は思う。「9条を守ろう」という護憲運動そのものが、「敗北主義」ではないだろうか。

 そしてもう1つ。「日本はアジアの人々に迷惑をかけた。罪滅ぼしにもPKOに共感する」という思い。これもまた、「敗北主義」なのではないか?
 イラク戦争の中での、アメリカの反戦兵士の闘いを見よう。「平和」を語ること自体の激しさを思え。全ての議論をこうした目線から始め、そして締めくくること。それが「敗北主義」の実践的立場ではないだろうか?「革命的△△主義」という空念仏で、無為無策に打ちひしがれタコ壺に閉じ籠もるのと、いったいどちらが良いだろう。
 『党宣言』への<原理主義>
 2つの議論を振り返って、私は痛感する。「歴史認識の欠落、現実的問題意識の欠落」、これこそ深刻だ。議論が空回りしていて、何の役にも立たない。一体、ここで言う「排外主義」とはどんなものなのか?日本の精神風土の中では、欧米に対する「拝外思想」とアジアへの「蔑視」の事だ。それは「脱亜入欧」というイデオロギーと共に、現実の歴史の中で醸成されてきた。その根の深さに、多くの良心的な人々は日々葛藤し続ける。言いっ放しでスッキリしているのは、中核派だけだ。私たちが「日本人」である事、日本の文化を全身に吸い込んで心身を形成している事も同じだ。こういう現実を無視して、行き着く先は、どうやら<『党宣言』への「原理主義」化>のようだ。
 
 戦前の共産党員の幾多の転向を思い出そう。「日本の現実」「日本性」、そこから逃れて「国際主義」という非転向の「聖域」にしがみついた末、彼らは「日本性」から逃れきれない事を突き付けられて転向した。鶴見俊輔氏らの「転向論」の研究は優れていると思う。戦時下で、この戦争には反対だ、とあらゆる形で言い切れる中身を作り出すためには、もっと苦しまなければならない。
 もう1つ、私が今感じているのは、一種の<>原理主義>への傾斜だ。マルクス、エンゲルス、その人たち自身の理論の成長と飛躍点、そしてその後の、幾多の人々による「マルクス主義」の発展、こうした歴史を無視し、短絡した議論。マルクス、エンゲルス、レーニン、トロツキー、彼らの「人間的限界」と、「歴史的限界」を無視する議論こそ危険だ。『宣言』が、全てを解明した集大成であるかのような議論――<マルクス原理主義>とでも言うべき傾向、これこそ最大の敵なのかもしれない。「聖域」「タコ壺」に閉じ籠もって「転向」から逃れようとする議論、中核派の「引きこもり」化、それは本当の、本格的な転向への1里塚なのではないか。




 

(私論.私見)