れんだいこ和訳一括文 |
更新日/2024(平成31.5.1栄和改元/栄和6)年8.16日
(れんだいこのショートメッセージ) |
日本語サロン主任氏による「コミュニストたちの宣言書」、「マルクス・レーニン主義文献デジタルテキスト」所収の「共産党宣言」、永江良一氏訳出の「共産党宣言」等々がサイトアップされているが、せっかく「れんだいこ和訳文」をつくったので、ここに一括文掲載しておく。 どこまで首尾よく為しえているかその評価は別として、より正確により原文の書き方に近いリズムでの翻訳を心掛けた。今後も適宜に手直ししていこうと思う。 2004.1.19日 れんだいこ拝 |
「共産主義者の宣言」(The Communist Manifesto) |
本文1、前書き |
妖怪がヨーロッパを徘徊している。共産主義という妖怪が。旧ヨーロッパのあらゆる権力が、この妖怪征伐の為の神聖同盟づくりに結託した。教皇とツァーリ、メッテルニヒとギゾー、フランスの急進派とドイツの官憲スパイという具合に。凡そ、政権党勢力から、共産主義的だとののしられなかった敵対党がどこかにあるだろうか。凡そ、対立側の者で、より進歩的な敵対党派に対して、あたかも復古的な政敵に対するが如くに、共産主義という烙印の非難で中傷し返さなかったものがどこにあるか? |
この事実から二つのことがあきらかになる。 1、共産主義は既に、ヨーロッパのあらゆる権力から、それ自身が或る力として知れ渡り認められている。 2、今や絶妙のその時を迎えている。共産主義者は、政治的なその見解、その目的、見通しを全世界のまえに公表すべきである。そして、共産主義の妖怪談に党自身の宣言を対置すべき時である。 この目的のために、さまざまな国籍の共産主義者がロンドンに集まって、次の宣言を起草し、英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、フランドル語およびデンマーク語で発表することにした。 |
本文1、ブルジョアとプロレタリアート (Bourgeois and Proletarians) |
すべてこれまでに立ち現れてきた社会の歴史は、階級闘争の歴史である。用語上、自由民と奴隷、貴族と平民、領主と農奴、ギルドの親方と職人つまり抑圧するものと抑圧されるものとは常に相互に対立し、ときには隠然と、ときには公然と、いつの時代にも終息することなく闘争をおこなってきた。そしてこの闘争は、いつでも社会を大規模に革命的に改造して終わるか、さもなければ相争う階級の共倒れにおわった。 |
歴史の初期の時代には、我々は、ほとんど至る所に、上下に整序された社会的身分からなる多様な秩序を持つ社会が複雑に編成されていることを見い出す。古代ローマでは、貴族、騎士、奴隷がいた。中世には、封建領主、家臣、ギルドの親方、熟練職人、徒弟、農奴がいた。なおその上、こうした階級のほとんどいずれにも、さらにその内部に下級序列が敷かれていた。 |
封建社会の没落から出現した近代ブルジョワ社会は、階級対立を終らせなかった。それは、古いものにかえて、新しい階級、新しい抑圧状態、新しい闘争形態を持ち込んでしまった。我々の時代即ちブルジョアジーの時代は、階級対立を単純にしたというはっきりした特徴を持っている。全社会は、敵対する二大陣営に即ち直接相対立する二大階級につまりブルジョアジーとプロレタリアートにますます分裂しつつある。 |
中世の農奴の中から最初期の諸都市でお墨付きを得た市民(ビュルガーー)が躍如として生まれ出てきた。そして、この市民の中から、ブルジョアジーの最初の諸要素が生まれ、発展した。アメリカの発見、(アフリカの)喜望峰の回航は、勃興しつつあるブルジョアジーのために新しい活動分野をひらいた。東インドや中国の市場、アメリカの植民地化、諸植民地との貿易、交換手段および一般に商品の増加は、商業に、航海に、産業に、前代未聞の衝撃を与え、そういう諸々の理由によって、崩壊しつつあった封建社会のなかの革命的な要素を急速に発展させた。 |
産業の封建的な体制は、そこでは産業生産は閉鎖的なギルドによって独占されていたが、今やもはや新市場の中から成長してくる欲求に応じえない。工場制手工業(マニュファクチュア)がそれに取って代わった。ギルドの親方は、工業制手工業の中産階級に押しやられ、異なる企業のギルド間の分業は、各々(おのおの)単一の職場における分業に出くわすことにより消滅した。 |
その間、市場はずっと成長を続け、需要は増加し続けた。遂に、工場制手工業でさえ不十分となった。その時にまさに、蒸気と機械が産業生産を変革した。マニュファクチュアに代わって巨大な近代産業が生み出された。産業の中産階級に代わって産業の百万長者が、全産業兵士の指導者が、つまり近代的ブルジョワの登場となった。 |
近代的産業は世界市場を確立した。というのも、アメリカの発見が道を開いた。この世界市場は商業、航海術、陸上交通にはかりしれない発展をもたらした。この発展が順次産業の拡大に反応した。産業、商業、航海術、鉄道を拡大させたがその拡大に比例してブルジョワジーが発展し、その資本を増やした。そして、中世から受け継いだあらゆる階級を背後に押しやった。 |
こうして我々は、近代的ブルジョワジーが、長い発展コースの産物として、そして生産と交換の様式の一連の革命の産物として生み出されてきたことを知る。 |
ブルジョワジーの発展途中の各段階には、その階級に対応した政治的進歩が伴っていた。ブルジョワジーは、封建貴族支配下での被抑圧階級であり、中世的なコミューンでは武装自衛した自治的な連合であり、ここでは(イタリアやドイツのように)独立した都市共和国であり、かしこでは(フランスのように)君主制のもとでの納税義務を負う「第三身分」であった。その後、マニュファクチュアが勢いとなった時代には、半封建的君主制や絶対君主制においては貴族に対する釣合いの鐘として奉仕しながら、事実上は、一般的に大君主制の礎石となったのではないのか。ブルジョワジーはそして遂に、近代的産業と世界市場を確立する。以来、近代的代議制国家において、排他的独占的な政治支配を自分達のために勝ち取った。 |
近代国家の行政権力とは、ブルジョワジー全体に共通する事務を管理運営する委員会にすぎない。ブルジョワジーは、歴史的には、もっとも革命的な役割を果たしてきた。 |
ブルジョワジーは、支配力を握ったところではどこでも、あらゆる封建的な、家父長的な、牧歌的な関係を終わらせていった。それは、人をその「生まれながらの上位者」と結び付けていた色とりどりの封建的絆を無慈悲にひきちぎり、人と人の間に、むきだしの自己利益以外の、無情な「現金払い」以外の他には何の関係も残さなかった。 |
宗教的敬虔(けん)や騎士道的忠誠心や俗物的感傷主義という最高に神聖な陶酔(エクスタシー)は、利己的打算という氷のように冷たい水の中で溺れ死にさせられた。ブルジョワジーは個人の品位を交換価値に取り替え、数多くの勅許された自由の代わりに、あのたった一つの良心なき自由即ち自由営業を据えた。一言でいえば、宗教的で政治的な幻想で覆いかくされた搾取を、むきだしの、あつかましい、直接的で、粗暴な搾取と取り換えた。 |
ブルジョワジーは、それまであがめられ、尊敬をこめた畏怖をもって見られてきたあらゆる職業から、その後光をはぎ取った。医者、法律家、僧侶、詩人、学者を、賃労働者に変えた。 |
ブルジョワジーは、家族から感傷的な覆い(ブェール)を引きはがし、家族関係をただの金銭的関係にした。ブルジョワジーは、復古派がしきりに賛美する中世の粗野な生活様式が、非常にテンポの遅い怠惰なのらくら生活と表裏一体をなしていることを見つけ、暴露した。 |
ブルジョワジーは、初めて、人間の活動がどんなことを成し遂げられるのかを明らかにした。優れものであるエジプトのピラミッド、ローマの水道路、ゴチック様式の大聖堂をはるかに凌ぐ奇跡を成し遂げ、それまでのあらゆる民族移動や十字軍が色あせるような遠征に乗り出した。 |
ブルジョワジーは、生産用具を、次に生産関係を、それにより社会関係全体を不断に変革しないでは、生存することができない。それとは対照的に、古い生産様式をその形を変えることなく保持することが、それまでの全ての初期産業階級の第一の生存条件であった。不断の生産変革、全社会状態の絶え間ない騒擾、果てることなき不確実性と興奮(アジテーション)が、ブルジョワ時代をして全てのそれ以前の時代から識別する。 |
あらゆる固定され牢固にされていた諸関係が、それに連動している古めかしい且つ敬虔な偏見や見解とともに一掃され、あらゆる新しく形成された関係も又血肉化するひまもないうちに古くさくなる。あらゆる形あるものが溶けて霧散し、あらゆる神聖なるものが世俗のものとなり、人は遂には自分たちの本当のの生活状態及び一族に纏わる諸関係に、素面(しらふ)で直面せざるをえなくなる。生産物のたえず拡大し続ける市場に対する必要性から、ブルジョワジーは地球の全表面を駆けずり廻る。ブルジョワジーはあらゆるところに巣をかけ、いたるところに住み着き、どこにでも取引先をつくらなければならない。 |
ブルジョワジーは、世界市場の開発を通じて、あらゆる国の生産と消費に世界主義(コスモポリタン)的性格を与えた。復古派にははなはだお気の毒だが、ブルジョワジーは産業の足元から、それがよって立っていた国内的基盤を掘り崩した。あらゆる古くからあった国内的諸産業は破壊されてしまったか、あるいは日々破壊されている。 |
そうした産業は新しい産業に駆逐されてゆく。新しい産業を導入することはすべての文明諸国の死活問題となっている。産業はもはやその地域固有の原材料を使うだけではなく、はるか遠く離れた地方からもってきた原材料を使い、その生産物は国内だけでなく、世界のいたるところで消費されている。 |
自国の生産物で満足していた昔の欲望にかわって、我々は、遠く離れた土地や風土の生産物を求める新しい欲望があらわれるのを見出す。昔の地方的、国内的な棲み分けと自給自足のかわりに、我々は、全ての交易において諸国家(民族)との全域的な相互依存関係に入るようになる。 |
そして、物質的生産と同じことが、精神的生産においても生じる。個々の民族の精神的産物は共有の財産となる。偏狭な民族的なものはますます不可能となり、多くの民族文学や地方文学に代わって世界文学が勃興するようになる。 |
ブルジョワジーは、あらゆる生産用具を急激に改良することで、無限の交通手段によって、あらゆる国家(民族)を、もっとも未開な野蛮人までも、文明へと引き入れる。商品の安い価格は重砲隊である。重砲隊は、中国の城壁をもぶち壊し、野蛮人のひどく頑固な外国人嫌いも屈伏させるよう強いる。 |
商品の安い価格は、すべての国家(民族)に、滅亡したくなければブルジョワ的生産様式を採用するように強制し、そのど真中にいわゆる文明を導入すること、即ちブルジョワになることを強制する。一言でいえば、ブルジョワジーは自分の姿に象(かたど)って世界を創造する。 |
ブルジョワジーは、農村を都市の規則に服従させた。ブルジョワジーは、多数の都市をつくりだし、都市人口を農村人口に比べて著しく増加させた。そうやって人口のかなりの部分を農村生活の無知蒙昧状態から救い出した。ブルジョワジーは、農村を都市に依存従属させたのと同じように、野蛮および半野蛮国を文明国に、農業国をブルジョワ国に、東洋を西洋に依存従属させた。 |
ブルジョワジーは、次第に人口、生産手段、財産の分散した状態を廃止していく。人口を密集させ、生産手段を集中し、財産を少数者の手に集めた。 |
その必然的結果が政治的中央集権となった。利害を異にし、法律、政府、税制が独立し、ないしゆるく結び付いた諸州が、一つの政府、一つの法体系、一つの国家的階級利害、一つの国境、一つの関税をもつ一つの国家に統合された。 |
ブルジョワジーは、その百年に満たない支配の間に、先行する世代のすべてを合わせたよりも、もっと大規模な、もっと巨大な生産力をつくり出した。自然力の人間への従属、機械装置、工業や農業への化学の応用、蒸気力航行、鉄道、電信、全大陸の開墾、運河や河川の開発、魔法で地から涌き出たような巨大な人口群、――社会的労働の中にこのような生産力がまどろんでいるということを、以前のどの世紀が予想したであろうか? |
我々は知る。ブルジョワジーが立脚している土台である生産と交換の手段は、封建社会の中で生みだされたことを。こういう生産と交換の手段の発展がある段階になると、封建社会下で生産や交換がおこなわれてきた諸条件、農業と工場制手工業の封建的組織、一言でいえば、封建的所有関係は、既に発展していた生産力とはもはや両立できなくなり、足枷となった。それらはすべて桎梏となった。 |
それらは爆破されなければならなかった。そして、粉砕された。その場所に自由競争が歩を進め、それに適合した社会的および政治的機構、そしてブルジョワ階級の経済的および政治的支配が随行的に登場してきた。 |
同じような運動が我々の眼前で進行している。ブルジョワ的な生産関係、交換関係、所有関係をもつ近代的ブルジョワ社会、即ちこのように生産と交換の巨大な手段を魔法のように呼び起こした社会は、自分の呪文で呼び出した地下世界の力をもはや思うように統御できなくなった魔法使いに似ている。 |
過去数十年来、産業と商業の歴史は、近代の生産条件に対する、ブルジョワとその支配の生存条件である所有関係に対する、近代的生産力の反乱の歴史にほかならない。 |
それは、商業危機に言及することで十分である。商業危機は、周期的にぶり返しては、ブルジョワ社会全体を審判に付し、度重なるごとに威迫を強める。こういう危機下では、現存する生産物だけでなく、これまでに作り出された生産諸力の大部分が、周期的に破壊される。こういう危機下では、疫病が突発する。ここでいう疫病とは過剰生産という疫病であり、それは以前のどの時代でも、何とも対処しようのなかったものではなかろうか。 |
社会は突然、一時的な野蛮状態に逆戻りする。まるで、飢饉とか荒廃へ向う全域的戦争であらゆる生活物資の供給が途絶えたかのようになり、産業も商業も破壊されたように見える。それはなぜか? あまりに文明化し過ぎ、あまりに生活物資が多くなり過ぎ、あまりにも産業や商業が存在し過ぎたからである。 |
社会に処分自在にされている生産諸力は、もはやブルジョワ的所有の条件の発達を促進しようとはせず、反対に、生産力諸はこういう条件には強力になりすぎてしまい、足枷をかけられる。そして、生産力が足枷を乗り越えるとたちまちブルジョワ社会全体を無秩序におとしいれ、、ブルジョワ的所有の存立を危機にさらし始める。 |
ブルジョワ社会の諸条件は、それによって生み出された富を容れるのには狭すぎる。ならば、ブルジョワジーはこの恐慌をどうやって乗り越えるのか? 一方では、大量の生産力を強制的に破壊することによって、もう一方では、新しい市場を獲得し、古い市場をさらにいっそう搾取することによってである。云うなれば、もっと広範囲でもっと破壊的な恐慌への道を開くことによって、危機を避ける手段を縮小することにである。 |
ブルジョワジーが封建制を打ち倒すのに用いた武器が、今ではブルジョワジー自身に向けられている。だが、ブルジョワジーは自分たちに死をもたらす武器を鍛えただけではない。その武器を使いこなす人々を生み出す。即ち近代的労働階級、プロレタリアを。 |
ブルジョアジーすなわち資本が発達するに比例して、プロレタリアートすなわち近代労働者階級も発達する。彼らは、仕事のある間だけしか生きられず、そしてその労働が資本を増やす間だけしか仕事にありつけない。これらの労働者たちは、自分自身を切り売りしなければならず、あらゆる他の売買される品物と同じように、商品である。従って、同じように、あらゆる競争の浮沈、あらゆる市場の変動にさらされている。 |
機械の利用が拡大したことや、労働の分業のおかげで、プロレタリアの労働は個性的性格をすべて失い、その結果、労働者としての誇りをすべて失ってしまった。労働者は機械の付属物になり、労働者に求められるものは、極めて単純且つ単調で、もっとも簡単に習得できる操作だけになっている。だから、労働者の要求それはつまり労働者の生産費用ということでもあるが、彼の寿命維持や種族の繁殖に必要な生計物資を生み出す手段に極限的に見合うよう制限されている。 |
しかし、商品の価格は、したがって労働の価格も、その生産費用に等しい。それだから、仕事の嫌さ加減が増せば増すだけ、賃金は減少する。そのうえ、機械の利用と労働の分業に比例して、同じ割合で労苦の重荷も増加する。労働時間の延長や、与えられた時間内に要求される労働の増加や、機械の運転速度の増大等々によって。 |
近代的産業は、家父長的な親方の小さな作業場を、産業資本家の大工場に変えた。工場の中に詰め込まれた労働者大衆は、兵士のように組織されている。産業軍隊の兵卒として、労働者たちは完全に階層化されて将校や軍曹の指揮下に置かれる。 |
労働者は、ブルジョワ階級の、ブルジョワ国家の奴隷であるというだけではない。日々刻々、機械によって、監督者によって、とりわけ個々のブルジョワ工場主自身によって、奴隷化されている。この専制が、営利をその終局且つ目的であることをあからさまに公言すればするほど、一層けちくさく、あさましく、苦々しいものとなる。 |
熟練と定式化された労働の力作業が少なくなればなるほど、言い換えると、近代的工業が発達すればするほど、男子の労働は婦人労働にとって代わられる。年齢と性別の違いは、労働者階級に対してもはやなんの社会的な値打ちを持たない。すべてが労働の用具であって、年齢と性別によって使用する費用が多少するだけである。 |
工場主による労働者の搾取が始まり、労働者が現金で賃金を受け取るようになるや否や、ブルジョワジーの他の部分即ち家主や小売店主や質屋等々が労働者に襲いかかる。 |
中間階級のより下層、つまり小商い人、小売店主、一般に引退した商工業者、手職人、小農民は、全てこれらは段々と落ちぶれプロレタリアートになる。それはある場合には、そのちっぽけな小資本が近代的工業を営むには規模的に不十分で、大資本家との競争で圧倒されるからである。ある場合には、彼らの専門的特殊技能が新しい生産様式によって無価値なものにされるからである。こうして、プロレタリアートは人口のあらゆる階級から補充される。 |
プロレタリアートは様々な発展段階を通過していく。その誕生とともにブルジョワジーとの闘争が始まる。最初は個々の労働者によって、次には工場の労働者たちによって、次には業界の商工人たちによって、彼らを直接搾取している個々のブルジョワとの地域での闘いが行われる。 |
彼らはその攻撃を、ブルジョワ的生産条件にではなく、生産用具そのものに向ける。彼らは自分たちの労働と競争している輸入品を破壊し、機械を打ち毀し、工場を焼払い、中世の職人という滅び去った地位を力ずくで取り戻そうと努める。 |
この段階では、労働者はまだ全国に散らばったまとまりのない集団をなしているだけで、お互いの競争で分裂している。もし労働者が団結してもっと緊密な団体をつくるとしたら、それは彼ら自身の能動的な団結の結果ではなくて、ブルジョワジーの団結の結果である。というのは、ブルジョワ階級は、自分たちの政治的目的を達成するために全プロレタリアートを味方にせざるをえず、しかもまだしばらくの間はそうすることができるからである。 |
だから、この段階では、プロレタリアはその敵と闘うのではなく、その敵の敵と闘う。つまり絶対君主制の残り滓、土地所有者(地主)、非産業ブルジョワ、小(プチ)ブルジョワと闘う。こうして歴史的運動全体がブルジョワジーの手の中に集中され、獲得された勝利はどれもブルジョワジーの勝利となる。 |
しかし産業の発展とともに、プロレタリアートは数において増加するだけはなく、より巨大な集団へと集中され、その力は増大し、ますます自分らの力を感じるようになる。機械が労働の違いを消し去り、ほとんどいたるところで賃金を同じような低い水準に引き下げるにつれて、プロレタリアート階層内の様々な利害と生活条件もますます均等化する。 |
ブルジョワ間相互の激化する競争と、その結果生じる商業恐慌は、労働者の賃金をますます不安定なものにする。ますます進む機械の改良は、非常に急速に発展し、労働者の生計をますます不安定にする。個々の労働者と個々のブルジョワとの間の衝突は、二階級間の衝突という性格をますます帯びるようになる。 |
その結果、労働者はブルジョワに対抗する団結組織(労働組合)を作り始める。労働者は賃金率を維持するために結束するようになる。時折の反乱に対する事前準備をする為に、労働者は永続的な結社を見出した。そこかしこで闘争は暴動にまでなる。 |
ときには労働者が勝利する。しかし、一時のことに過ぎない。その闘いの本当の果実は直接的な成果の中にあるのではなくて、労働者の団結がますます拡大することにある。 |
この団結は近代的産業が生み出した発達した交通手段によって促進され、互いに異なる地域の労働者をして連絡を取り合うようにする。この接触こそが必要だった。同じような性格を持つ、数多くの地方的な闘争を、階級間の国内闘争に結集させる為に必要である。 |
しかし、どんな階級闘争も政治的な闘争である。中世の都市民が、みじめな街道を使って、数世紀もかけて達成した団結を、近代のプロレタリアは、鉄道のおかげで、数年で達成する。 |
プロレタリアの階級的組織化、結果として政党への組織化は、労働者間の競争により何度も生み出されては潰える。しかし、何度も試行錯誤するうちにそのたびにより強く、より強固に、より有力なものになっていく。この組織化は、ブルジョワジー間の分裂をうまく利用することによって、労働者の特定の利害を法的に承認するよう迫る。こうしてイギリスでは十時間労働法に取り組んだ。 |
概して、旧社会の階級間の衝突は、多種多様にプロレタリアートの発展の歩みを促進する。ブルジョアジーは、たえず闘いに巻き込まれていることを悟る。最初は貴族政治と、後には、産業の進歩に利害が相反するようになったブルジョワジー自身の一部と、そして常時、外国のブルジョワジーと戦闘している。 |
こういう全ての戦闘において、ブルジョワジーはプロレタリアートに訴えかけて、その助力を求めざるをえない。そうやってプロレタリアートを政治の闘技場へとひきずり込む。それ故に、ブルジョワジー自身がプロレタリアートに、自分たちの政治的また一般的な教育の諸要素を供給し、言い換えれば、プロレタリアートにブルジョワジーと闘う武器を提供する。 |
さらに、すでに見たように、支配階級の全構成部門が、産業の発展によってよってプロレタリアートのなかにつきおとされるか、あるいはすくなくともその生活条件を脅(おびや)かされる。こうしたことも、プロレタリアートに啓蒙と進歩の新しい要素を供給することになる。 |
最後に、階級闘争が決定的な時期に近づくと、支配階級内部で進行してる分解過程、実際には古い社会の全領域で進んでいる分解過程は、暴力的でどぎつく鋭い性格を帯び、支配階級の小さな一部が自ら結び付きを離れ、革命的階級、未来をその手に握っている階級に加わってくる。 |
それはちょうど以前に貴族の一部がブルジョワジーの側についたように、今やブルジョワジーの一部が、特に、歴史運動の全般を理論的に理解したブルジョワ思想家(イデオローグ)の一部が、プロレタリアートの側につくようになる。 |
今日、ブルジョワジーと対峙しているあらゆる階級の中で、独(ひと)りプロレタリアートだけが正真正銘の革命的階級である。その他の階級は、近代産業に直面して、没落し最終的には消え去る。プロレタリアートは近代産業の独特なもっとも重要な産物である。 |
下層の中間階級、即ち小工業者、小売店主、職人、農民、全てこういう人たちは、中間階級の緩衝材的存在の消滅から身を守ろうとしてブルジョワジーと闘う。従って、彼らは革命的というより、保守的である。それどころか反動的である。というのも、彼らは歴史の車輪を逆に回そうとするからである。 |
もし、仮に彼らが革命的になるとするなら、それは自分たちがプロレタリアートへと移行する日が差し迫っていることを考慮してのことである。それは、現在ではなく将来の利害を守ろうとしているのであり、自分たち自身の立場を捨てて、プロレタリアートの立場に立っていることになる。 |
「危険な階級」、社会の屑つまり古い社会の最下層から投げ出されており、どこやかしこにいて腐敗している群衆は、ときにはプロレタリア革命の運動に参入することもある。けれども、彼らの生活常態からして、反動的陰謀に買収されて道具(手先)という役割を担う面がある。 |
プロレタリアートの状態は、古い社会でのそれは一般に既に実質的に窮地に陥っている。プロレタリアは財産を持たず、妻子との関係はもはやブルジョワ的家族関係と共通するものはない。近代的な産業労働、近代的な資本への隷属はイギリスでもフランスでもアメリカでもドイツでも同じで、プロレタリアから民族的性格のあらゆる痕跡をはぎとられている。法律、道徳、宗教は、プロレタリアにとってはその多くはブルジョワ的偏見であり、その背後はに多くのブルジョワ的利害が待ち伏せしている。 |
支配権を握ったこれまでの階級はみんな、社会全般を自分たちに有利な状態において支配することで、既に獲得した地位(ステータス)を護り固めようとつとめてきた。プロレタリアは、先行した有利な支配方式を廃絶することなしには、社会の生産力の主人とはなることができない。つまり、あらゆる先行する有利な支配方式を廃絶することなしにはということになる。プロレタリアは確保し護らなければならないようなものを何も持っていない。その使命は、あらゆる従前の保全的なもの、保障的なもの、個人財産の破壊である。 |
これまでの歴史的運動というのはみんな、少数者の運動か、少数者の利害のための運動であった。プロレタリアの運動は、大多数者の、大多数者の利害のための、自覚的で自主的な運動である。現在の社会の最下層であるプロレタリアートは、公的社会の全上部構造を空中に飛ばさなければ、身動きすることも、起き上がることもできない。 |
内容においてではなく形式上は、プロレタリアートとブルジョワジーとの闘争は、まずは国内闘争である。個々の国のプロレタリアートは、もちろんなによりもまず、自国のブルジョワジー相手に諸問題の片をつけなくてはならない。 |
プロレタリアートの発展のもっとも一般的な諸段階を描写するとすれば、我々は、現下の社会内で盛んになっているのに多かれ少なかれ隠されている市民戦争(内乱)を跡づけて、内乱が公然たる革命を勃発させ、ブルジョワジーの暴力的打倒がプロレタリアート支配の基礎を築く地点に到達する。 |
という訳で、既に見てきたように、あらゆる社会体制は、抑圧する階級と抑圧される階級との対立に基づいている。しかし、ある階級を抑圧する為には、抑圧される階級に、すくなくとも奴隷的な生存をつづけられるだけの条件が保障されていなければならない。農奴は農奴制のもとでコンミューンの一員に参画しており、小ブルジョアは封建的絶対主義のくびきのもとでブルジョアへと発展を遂げていった。 |
これに反して、近代の労働者は、産業の進展とともに勃興することができず、反対に、自分自身の階級の生存条件下にますます沈んでゆく。労働者は窮民となり、窮民状態は人口や富の増大よりもなお急速に増大する。 |
そしてここに、ブルジョワジーがもはや、社会の支配階級であり、自分たちの階級的生存条件を支配的法則として社会に押しつけるには、不適格であることが明らかになる。ブルジョワジーの不適格さは、ブルジョワジーが自らの奴隷を奴隷制の下で生存を保証する能力を欠いていること、奴隷を養わねばならないのに養ってもらうという状態へ沈めこまざるをえないことにある。社会はもはやブルジョワジーのもとで生きていくことができない。云い代えるとと、ブルジョワジーの存在がもはや社会と両立できないのである。 |
ブルジョア階級の存在と支配とのためのもっとも根本的な条件は、資本の形成と増大である。資本の条件は賃労働である。賃労働はもっぱら労働者相互の競争にもとづいて成立している。 |
ブルジョアジーがいやおうなしにその担い手となっている近代産業の進歩は、競争による労働者の分離の代わりに、結合による彼らの革命的団結に取って代えられる。だから、近代産業の発展が、ブルジョアジーが生産し、次々と産物を生み出してきた基盤そのものを、ブルジョアジーの足もとから取り去ることになる。 |
という訳で、ブルジョアジーが生み出すものは、結局のところ自分達の墓堀人である。ブルジョアジーの没落とプロレタリアートの勝利は、ともに避けられない。 |
本文2、プロレタリアと共産主義者 (proletarians and Communists) |
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共産主義者は、どういう関係において全体としてプロレタリアの人々を支持するのか? 共産主義者は、他の労働者階級の諸党派に対立するような別個の党派を組織するものではない。共産主義者は、全体としてプロレタリアートの人々と分離したりその一部でしかないような諸利益を持たない。共産主義者は、どのようなものであれ特殊(セクト的)な諸原則を提起しない。セクト的な諸原則は、プロレタリア運動をその型にはめこもうとするものである。 | ||||||||||||||||||||
共産主義者が他の労働者階級の諸政党から区別されるのは、ただつぎの点だけである。すなわち
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だから、共産主義者は、実践面では、あらゆる国の労働者階級の党のもっとも進んだ自覚的な部門であり、全ての他の者達の前衛として推進していく部門であり、理論面では、大多数のプロレタリアートよりも、プロレタリア運動の進むべき道筋や条件、究極の一般的成果をはっきりと理解している点で優れている者達である。 | ||||||||||||||||||||
共産主義者の当面の目的は、他のどのプロレタリア諸政党とも同じものである。即ち、プロレタリアートを階級的に形成すること、ブルジョワ権力の打倒、プロレタリアートによる政治権力の奪取である。共産主義者の理論的諸結論は、あれこれの願望的改革論者が発明したり発見した理念や教条に基づいたものでは断じてない。共産主義者は、現存する階級闘争、それはまさに私たちの目前で進行している歴史的運動であるが、そこから生じている現実的諸関係を、ただ単に一般的用語で表現しているだけである。 | ||||||||||||||||||||
現存する所有関係を廃止することは、共産主義の著しい特徴では全くもってない。過去のすべての所有関係はずっと、歴史的条件の変化の結果生じる歴史的変化を受けてきた。例えば、フランス革命は、ブルジョワ的所有の側について、封建的所有を廃止した。共産主義の著しい特徴は、一般に所有を廃止することではなく、ブルジョワ的所有を廃止するところにある。 |
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しかし、近代のブルジョワ的私的所有は、階級対立に基づく、少数者による多数者の搾取にもとづく生産と生産物の有利な分配システムの、最後の、最も完成された表現なのである。この意味で、共産主義者の理論は、端的に云って私的所有の廃止という一語に総括することができる。 | ||||||||||||||||||||
我々共産主義者は、個人的に獲得した労働の果実としての財産権を廃止したがっていると非難される。そういう財産は個人の自由、活動、独立の基礎であると云われているものであるが。苦労して得た、自分で獲得した、自分で稼いだ財産だと! 君らが言っているのは、小職人の、小農民の財産、ブルジョワ的所有形態に先立つ所有形態のことではないのか。そんなものは廃止する必要がない。産業の発展が、既に広範囲に破壊しまったし、また今でも日々破壊しているではないか。 | ||||||||||||||||||||
それとも、近代的なブルジョワ的私的所有のことを云っているのか。だが、賃労働は、労働者に何らかの財産をつくりだすのか? そんなことは決してない。それは資本をつくりだす。即ち、資本とは、賃労働を搾取し、新たな搾取のために賃労働を新たに供給するという条件の下でしか増加できないような財産である。所有は、現在の形態では、資本と賃労働の対立の上に成立している。 |
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この対立の両面を検証してみよう。資本家であることは、単に個人的な立場ではなく、生産において社会的な地位(ステータス)に就いていることを意味する。資本は、集団的な産物であって、多くの成員の結合した活動ばかりではなく、究極には社会の全構成員の結合した活動によってはじめて推進されうるものである。資本は、従って、個人的な力なものではない。それは、社会的な力である。だから、資本が社会の全構成員に属する共有財産に変えられた時、個人財産はそれによって社会の財産に変わることはない。変わるのは変化された所有の社会的な性格だけである。所有はその階級的性格を失うのである。 | ||||||||||||||||||||
さて、賃労働を見てみよう。賃労働の平均価格は最低の賃金、つまり労働者が労働者としてぎりぎり生存するのにどうしても必要な生計維持手段の総量である。だから、賃労働者が自分の労働によって賄えるものは、生存と辛うじて存在し得る生命の再生産に足るだけのものでしかない。我々は、この労働の産物としてのこの個人的賄いまでを廃止しようという意図はない。この賄いとは、人間生活の維持と再生産の為のものであり、それによって他人の労働を意のままにするような余剰など残していない。我々が廃絶したいのは、労働者はただ資本を増大させるためだけに生き、支配階級の利益が求める限りでだけ生きるのを許されるという条件下でのこの賄いの悲惨な性格である。 | ||||||||||||||||||||
ブルジョア社会では、生活労働は蓄積された労働を増やすための手段にすぎない。共産主義社会では、蓄積された労働は、労働者の在り様を広げ、豊かにし、向上させる手段にほかならない。だから、ブルジョア社会では過去が現在を支配し、共産主義社会では現在が過去を支配する。ブルジョワ社会では、生活者は隷属的で無個性であるというのに、資本は自立していて個性を持っている。そして、こういう状況を廃止することを、ブルジョワにより個性と自由の廃止と呼ばれている。まさにその通り。疑いもなく、ブルジョワ的な個人性、ブルジョワ的な自立性、ブルジョワ的な自由の廃止が狙われている。 | ||||||||||||||||||||
現在のブルジョワ的生産条件のもとでは、自由とは自由営業、自由な売買のことである。しかし、もし売買が消えてしまえば、自由な売買もまた消える。自由な売買についてのこういう話は、その他全ての自由一般についての我がブルジョワジーの「勇ましい言葉」は、中世の制限された売買、束縛された交易と対比してだけ意味がある。しかし、共産主義者に向って、売買あるいはブルジョワ的な生産条件あるいはブルジョワジーそのものの廃止に反対するときには、意味をなさない。 |
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君らは、我々が私的所有を廃止しようと意図していることに、ぞっとしている。しかし、君らの取り仕切る現下の社会では、私有財産は既に人口の十分の九にとって廃止されている。少数者の私的所有的現況は、その他の十分の九の人の手には存在しないということによって成立している。君らは、我々に対し、所有形態を廃止しようと意図していることを非難する。が、そういう所有とは、それは社会の大多数はなんの所有も持っていないという存在であることを必要条件としている。 | ||||||||||||||||||||
一言でいえば、君らは、我々に、君らの財産を廃止しようと意図していることを非難している。まさにそのとおり。それこそが我々が意図するところである。労働がもはや資本に貨幣に地代に、単一的に独占された社会的力へと転化し得なくなる瞬間から、即ち個々人の所有がもはやブルジョワ的所有、資本へと移行できなくなる瞬間から、君らは、個性が消えうせると云う。従って、君らは、個性とは、ブルジョアジーや中間階級の財産所有者のほかには誰も居ない「個人」であることを告白せねばならない。本当にその通りだ。この種のものは取り除かれ、存在不能にせねばならない。 |
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共産主義は、社会的生産物を賄う力を誰からも奪わない。社会的生産物を賄う力とは、他人の労働を隷属させる力を持つブルジョアジーから、そのような賄い方によって奪う為のものである。私的所有が廃止されとともに、あらゆる労働が終止し、全般的な怠惰がはびこるだろうと抗議されてきた。この抗議に従うなら、ブルジョワ社会は、犬がまったくの怠惰に陥っているようにとうの昔に破滅しているはずである。というのは、彼らも働かないということでは同じだから。この抗議の意図するものは、もはや賃労働がありえないのなら資本は存在しないという、同義反復の別の表現に過ぎない。 |
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物質的生産物の生産と分配の共産主義的様式に対して唱えられている抗議は、同じように、知的生産物の生産と分配の共産主義的様式に対して為されているものと同じである。ブルジョワにとっては、階級的所有が消滅することが生産そのものが消滅することであると同じように、階級的文化の消滅はあらゆる文化の消滅と同一視される。ブルジョアが失うことを惜しんでいるこの文化とは、大多数の者にとっては、機械に対してふるまう為の単なる訓練のようなものである。 |
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しかし、君らが信奉するものを我々と論争するのは止したまえ。我々が希求しているブルジョア的所有の廃止や、自由だの文化だの法律だのについての君らのブルジョワ的雑念の観点やその他を廻ってのものであるが。君らの雑多な考えは、ブルジョワ的生産やブルジョワ的所有の条件の所産でしかない。それは丁度、君らの法律学が、君らの階級的意思をして全ての者向けの法として造り込んでいるのと同じである。その意思とは、その主要な骨格や構成が、君らの階級を存立せしめる経済的諸条件により決定されているものである。 |
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自分本位の思い違いから、君達は、君達の今あるような生産様式と所有形態から出現した社会形態を、自然にして理にかなった永遠法に変えているのではないのか。それは生産の進歩につれて現れては消えていく歴史的関係ではないのか。諸君は、この思い違いを、自分たち以前のあらゆる支配階級と共有しているのではないのか。諸君は、古代的所有の場合にははっきり理解できたこと、封建的所有の場合には容認できたことが、自分たちのブルジョワ的所有形態の場合となると認めることをちゃっかり拒否している。 | ||||||||||||||||||||
家族の廃止!共産主義者のこの不名誉な提案には、最過激派でさえ、激昂する。現在の家族、ブルジョワ家族は、どんな基礎のうえに立っているのか。資本のうえに、私的利得のうえに成り立っている。その完全に発展した形態では、こういう家族はブルジョワジーの中にしか存在しない。しかしこういう状況は、プロレタリアの人々の間には家族が実質上欠如していることや、公の売春に補完されている。この補完物が消え去れば、当然のことながら、ブルジョワ的家族も消え去るでしょう。そして資本が消え去れば、このどちらも消え去るだろう。 | ||||||||||||||||||||
君達は、親による子どもの搾取を廃止しようと求めたかどで、我々を咎めるだろうか。この罪については、我々は有罪だと認める。しかし、君らは、家庭教育を社会教育にとって換えようとすると、最も神聖な関係が破壊されると云う。何たる君らの教育だ。教育もまた社会的なものなのではないのか。教育は、君らが教育をほどこす社会的条件によって、直接的であれ間接的であれ学校等々の手段を通じて規定されているのではないのか。共産主義者が教育における社会の介入を意図したことはなかった。彼らがしようとする事は、ただその介入の性質を変え、教育を支配階級の影響から教育を救い出そうとしているだけである。 |
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家族や教育についての、親子の神聖な相互関係についてのブルジョワ的たわごとは、ますます不愉快なものになる。それは近代産業の作用によるものだが、プロレタリアの間の家族の絆が粉々に引き裂かれ、その子どもが単なる商売上の品物や労働用具に変えられているのだ。 |
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しかし、共産主義者が女性の共有社会へ誘おうとしているとして、ブルジョワジーが声をそろえて叫んでいる。ブルジョワジーはその妻を単なる生産用具と見ている。ブルジョワジーは、生産用具は共同で使われるべきだと聞くと、この共有の運命が、同じように婦人のうえにも降りかかってくるものとしか考えないのは当然である。ブルジョワは、本当の眼目が単なる生産用具に過ぎない女性の地位の廃止だということに、気づきさえしない。 | ||||||||||||||||||||
閑話休題(さて)、我がブルジョワの女性の社会化に対する高潔ぶった憤慨ほど馬鹿げたものはない。女性の社会化は、共産主義者により公然としかも公式に確立されようとしているものである。共産主義者は自由恋愛を導入する必要なぞない。それはほとんど大昔から存在している。我がブルジョワは、彼らのプロレタリアの妻や娘を手篭めにするだけでは満足せずに、公娼は言うにおよばず、お互いの妻を誘惑しあうことを無情の楽しみとしている。 |
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ブルジョワ的結婚とは、実際には妻の共有制であり、したがって、共産主義者を非難できることといえばせいぜい、共産主義者が、偽善的に秘密にされていた女性の共有を、自由恋愛という公然且つ合法的なものとして導入しようと求めていることに対して非難するのが関の山であったはずだ。閑話休題(さて)、現在の生産制度が廃止されると、その制度からもたらされている自由恋愛、つまり公的であれ私的であれ売春の廃止を伴わなければならいということは、自明である。 |
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共産主義者はさらに、国家(祖国、country)と民族性(nationality)を廃止しようと望んでいるとして非難されている。労働者は国家(祖国)を持たない。持ってもいないものを、取り上げることなどできない。プロレタリアートは、なによりもまず、政治的支配権を獲得せねばならない。国家の支配階級にまで成り上がらねばならない。自らが国家として、更に云えば、言葉上ブルジョワ的な意味とは又違うそれ自身が国家的なものとして形成されねばならない。 |
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人々の間の国家的差異や対立は、ブルジョワジーの発展のおかげで、商業の自由のおかげで、世界市場のおかげで、生産様式とそれに対応した生活条件の一様化のおかげで、日々ますます消え去っている。 |
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プロレタリアートの支配は、こういった差異や対立を急速に消滅してしまうだろう。少なくとも文明諸国の指導による共同活動は、プロレタリアート解放の第一条件の一つである。他の者による或る個人の搾取をなくしていけばそれに応じて、他の国によるある国家の搾取も終息する。国家内の諸階級の対立が消滅して行けばそれに応じて、或る国家と他の国家との間の敵対関係もまた終焉するはずである。 | ||||||||||||||||||||
共産主義に対して、宗教や、哲学や、そのほか一般に思想的な見地からくわえられている非難は、さほど真面目に検証するほどの値うちはない。人間の観念や見解や概念、一言でいえば人間の意識が、人間の物質的生存状態や、その社会的諸関係、その社会的生活の変化と共に変化することを理解するのに、深い洞察がいるであろうか? 思想の歴史が証するものは、精神的生産は物質的生産が変化するのに応じてその性質も又変化する、ということに他ならないのではないのか? 各時代の支配的な思想は、いつの時代でも支配階級の思想である。 | ||||||||||||||||||||
思想が社会を変革すると云われる時、次のような事実を表現している。つまり、古い社会の内部に新しい社会の諸要素がすでに創造されているということ、古い思想の解体は古い生活関係の解体と共にが歩調をあわせているということを。古代社会が断末摩の苦しみにあったとき、古代の諸宗教はキリスト教によって征服された。18世紀にキリスト教思想が合理主義的啓蒙思想に屈した時、封建社会は、当時の革命的ブルジョアジーと死闘を演じていた。 | ||||||||||||||||||||
信教の自由とか良心の自由という思想は、ただ単に知識の分野において自由競争の支配を言明したものに過ぎない。「疑問の余地がない」として次のように云われている。「宗教、道徳、哲学、政治、法等々の思想は、なるほど歴史的発展と共に革新されてきた。しかし、宗教、道徳、哲学、政治科学、法は、不断にこの変化を切り抜けて生き残った」と。「その上、自由、正義などという、あらゆる社会状態に共通の永遠の真理があるのだ。しかるに、共産主義は、永遠の真理を廃止する。宗教や道徳を新しい基盤に構築するのではなく、これを廃止する。だから、共産主義はこれまでのあらゆる歴史的経験と矛盾する」と。 | ||||||||||||||||||||
この非難は、結局なにを意味するか? およそ、これまでの社会の歴史は、階級対立による発展から成り立ってきた。その対立は、異なる時代には異なる形態をとってきた。しかし、階級対立の形がどのような形態をとろうと、社会の一部の者が他の部分を搾取していたことは、過去の時代の全体に共通の事実である。だから、過去の時代の社会意識が、じつに多種多様であるにもかかわらず、ある共通の形態あるいは普遍的思想の範囲内を揺れ動いてきたのは驚くことではない。それは、階級対立の完全消滅以外に向うことなしには完全に解消させることができない。 | ||||||||||||||||||||
共産主義革命は、伝統的な諸関係に対する最も急進的且つ激しい断絶である。従って、その発展途上において伝来の諸思想ともっとも急進的且つ激しい破壊に巻き込まれることは何ら驚くに当らない。 | ||||||||||||||||||||
だが、共産主義に対するブルジョアジーの抗議論は、これくらいにしておこう。以上に見てきたように、労働者階級による革命の第一歩は、プロレタリアートを支配階級の地位へ持ち上げること、民主主義を廻る闘争で勝利を収めることである。プロレタリアートは、政治的支配権を使って、ブルジョアジーから全ての資本を次第にねじ伏せるようにして奪い取り、支配階級として組織されたプロレタリアートの権力を使って全ての生産用具を国家の手の上に集中せしめるよう意欲的に使うべきだ。そして、全生産能力を可能な限り急速に増大させるようにし向けねばならない。 | ||||||||||||||||||||
勿論、最初は、これは、所有権に対する、且つブルジョア的生産状態に対する、強権的な掣肘手段なしには効果的なものにならない。だから、この方策は、経済的には賢明でなく、支持し難いように見えるが、運動がすすむにつれて自分自身を乗り越えて前進し、古い社会秩序をさらに侵害することを余儀なくし、しかも生産様式を全面的に変革する手段として避けようのない不可欠なものである。 | ||||||||||||||||||||
これらの方策は、勿論、国が異なればいろいろなものになるだろう。とは言っても、もっともすすんだ国々では、つぎの諸方策がかなり一般的に適用されるであろう。 | ||||||||||||||||||||
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発展の進むにつれて、階級差別が消滅する。そして、あらゆる生産が、国中の広範大規模に協同した人達によって集中的に為されるようになるなら、公的権力は政治的性格を失う。本来の意味の政治権力とは、ただ単に一階級が他の階級を抑圧するために組織された暴力である。プロレタリアートがブルジョアジーとの闘争を強いられている期間中は、諸情勢に相応しい力で、革命という手段を使ってみずからを階級的に組織する。みずから支配階級となり、強制的に旧い生産状態を一掃する。次に、そういう条件が整いしだい、階級対立及び一般的に階級の存在状態を一掃せねばならない。次に、階級としての自己の支配権力をも廃棄することになる。諸階級と階級対立を持つ旧ブルジョア社会にかわって、各人の自由な発展が万人の自由な発展の条件となるような協同社会(アソシエーション)がきっと現れるであろう。 |
本文3、社会主義者及び共産主義者の史的考証 (Socialist and Communist Literature ) |
1 復古的社会主義(Reactionary Socialism) |
○a 封建的社会主義 ( Feudal Socialism) |
フランス及びイギリスの貴族達は、彼らの歴史的な地位に規定されて、近代ブルジョア社会に抗するパンフレットを書く使命を担わせるようになった。1830年のフランス七月革命でも、イギリスの選挙法改正運動でも、これらの貴族達はまたしても憎むべき成上り者に屈した。それ以来、まじめな政治闘争は、もはや問題外となった。ただ文筆戦だけが可能なものとして残された。しかし、文筆の分野でも、王政復古時代の古めかしい哀願の類は、もう不可能となった。 |
世の同情をひくために、貴族は、見かけ上は自分たちの利益などは眼中にないように見せかけ、ブルジョアジーに対して、搾取されている労働者階級の利益に基づく糾弾の告訴状を作るようになった。こうして貴族階級は、彼らの新しい主人に対する風刺詩を歌ったり、来るべき破局についての不吉な予言をその耳に囁くことで、恨みを晴らすようになった。 |
このようにして、封建的社会主義がうまれたのである。それは、なかば挽歌であり、なかばは諷刺詩であり、なかば過去の木霊(こだま)であり、なかば未来の恐怖を煽るものであって、ときには、苦い、機知にとんだ、辛らつな批評によって、ブルジョアジーの肝をひやすこともある。しかし、その効果の点では、近代史の歩みを理解する能力がまったくないために、いつもこっけいな印象をあたえている。 |
貴族階級は、民衆を彼らの周りに糾合しようとして、旗印としてプロレタリアの施し袋を前面で打ち振った。しかし、民衆は、しばしば彼らの周りに参集したものの、彼らの背面に古い封建時代の紋章を見つけて、おちょくりの高笑いで見捨てることになった。フランスの正統王朝派の一部と、青年イングランド派が、この見世物を披露した。 |
封建貴族の搾取様式はブルジョアの搾取とはちがっていたと強調するが、彼ら封建主義者達は、全く異なり且つ今では時代おくれとなってしまった環境と条件の下で搾取していたことを忘れ去っている。彼らの支配下では近代プロレタリアートは決して存在しなかったことを示してみても、彼らは、近代ブルジョアジーが、彼らの社会制度の必然の生みの子であったことを忘れ去っている。 |
閑話休題(さて、それはともかく)、封建主義者は彼らの批判の反動的な性格をほとんど隠すことがないが、それは彼らのブルジョワに対する主要な告発が次のことにあるからである。即ち、ブルジョワ体制下では、一つの階級が発展している、その階級は社会の古い秩序を根こそぎ切り払うべく運命付けられている、点である。彼らがブルジョワジーを厳しく非難するのは、ブルジョアジーがプロレタリアートをつくりだしたことではなくて、むしろ革命的プロレタリアートをつくりだすという点にこそある。 |
その為に、政治上の実践では、彼らは、労働者階級に対するあらゆる矯正施策に参加する。また日常生活では、その上品ぶった 高慢な文句にもかかわらず、産業の木から落ちた黄金のりんごをひろいあつめる。また羊毛や砂糖大根やジャガイモ酒精の交易に目が眩んで、真実や愛や名誉を売り渡す。 |
牧師はずっと土地所有者と手を携えてきたように、牧師社会主義も又封建的社会主義と手をたずさえている。キリスト教の禁欲主義に社会主義的色あいを施すほど、容易いことはない。キリスト教も、私的所有に対して、結婚に対して、国家に対して、批判めいた説教してきたのではなかったか? キリスト教はこういうものにかえて、慈善と清貧を、独身と禁欲を、修道院生活と母なる教会主義を、説教してきたのではないのか? キリスト教社会主義は、聖職者が貴族階級の不平不満をなだめる為に注ぐ聖水に過ぎない。 |
○b 小ブルジョア社会主義 ( Petty-Bourgeois Socialism) |
封建的貴族階級は、ブルジョワジーによって破滅させられた唯一の階級ではなかった。近代ブルジョワ社会という環境の中で生存条件が衰え消えうせた唯一の階級でもない。中世の自治都市の市民と小農経営者が、近代ブルジョアジーの先駆者であった。産業と商業が少ししか発展していない国々では、これらの二階級はまだ、新興ブルジョアジーと共に一歩一歩ずつ成長している。 |
近代文明が十分に発達した国々では、小ブルジョア層という新しい階級が形成されている。彼らは、プロレタリアートとブルジョアジーとのあいだを浮動していて、ブルジョア社会の補充部分として今でも新しく形成されつつある。しかしながら、この階級の個々の成員は、競争の作用で絶え間なくプロレタリアートのなかに投げ込まれている。又、近代産業の発展につれて、彼らは、近代社会の独立した部門(セクション)としては完全に消滅し、工場制手工業でも農業でも商業も、監督や農場管理人や店員にとって代わられる時が近づきつつあるのを眺めている。 |
フランスのように、農民が人口の半ば以上をしめている国々では、プロレタリアートに味方しブルジョアジーに反対して立った文筆家たちが、ブルジョア体制を批判するにあたって、小農民的・小ブルジョア的な立脚点とその中間階級的観点から労働者階級の為に勇敢な弁護に廻ったのは、成り行きであった。こうして、小ブルジョア社会主義が登場した。シスモンディは、フランスのみならずイギリスにおいても、この学派の首領であった。 |
この社会主義学派は、近代の生産関係に内在する矛盾をきわめてするどく分析した。経済学者(エコノミスト)たちの偽善的な弁明を暴露した。それは、機械と労働分業の破壊的作用、資本と土地の少数者への集積、過剰生産と危機について、疑問の余地もないほどに証明した。そして、小ブルジョアと農民との不可避的な没落、プロレタリアートの悲惨、生産の無政府性、富の分配のはなはだしい不平等、諸国間の撲滅的な産業戦争、旧式の道徳的絆、旧式の家族関係、旧式の民族意識の崩壊を、指摘し抜いた。 |
しかしながら、それを積極的な目的でみると、この流儀の社会主義が鼓吹する目的は、古い生産および交換手段を復興させようとしている。それは、古い所有関係や古い社会を同伴させており、又は、それとも、近代的な生産および交換手段を、そういう手段によって爆破され、ないしは爆破されなければならなかった古い所有関係の枠の中に、無理矢理閉じ込めようと切望している。いずれのばあいにも、それは反動的であり、且つ同時に空想的(ユートピア的)である。 |
この社会主義の今わの際の言葉は、工場制手工業に対するギルド制度、農業における家父長制的関係を、である。最終的に、強固な歴史的事実が自己欺瞞の酩酊効果を追い払った時、この社会主義の流儀はみじめな二日酔い症状を呈して終ることとなった。 |
○c ドイツ社会主義または「真正」社会主義 (German or "True" Socialism ) |
フランスの社会主義者及び共産主義者の文献は、権力を握ったブルジョアジーの圧迫下で生まれたものであって、この権力にたいする闘争を表現しているが、これがドイツに紹介されたのは、ちょうどドイツのブルジョアジーが封建的絶対主義に対して闘争を始めたまさにその時であった。 |
ドイツの哲学者や自称哲学者や才人文士たちは、この文献を情熱的に摂取した。ただ彼らは、これらの文献がフランスからドイツに持ち込まれたとき、フランスの生活状態が共に持ち込まれたのではないことを忘れていた。ドイツの社会的諸状態と接触すると、このフランスの文献は、直接的な実践上の意義をすっかり失ってしまい、純然たる文献的な外観を呈することになった。 |
こうして、18世紀のドイツ哲学者にとって、最初のフランス革命の要求するものは、「実践的理性」一般という要求以上のものは何もなく、革命的なフランス・ブルジョワジーが刻んだ意志の文言は、彼らの目には、純粋意志の法、かくあるべき意志の法、概して真の人間的意志の法として映ることになった。 |
ドイツの著述家たちの仕事は、新しいフランス思想を彼らの古い哲学的概念と調和させるか、あるいはむしろ、自分たちの哲学的見解を捨てることなく、フランスの思想を接合することにあった。この統合は、一般に外国語を習得するのと同じやりかたで、つまり翻訳によっておこなわれた。 |
修道僧たちが、古代の異教徒時代の古典の写本のうえに愚劣なカトリック聖徒伝を書いていたことは、よく知られている。ドイツの著述家たちは、世俗的なフランス文献を、このプロセスを逆転させた。彼らは、フランスの原文のうらに自分たちの哲学的なたわごとを書いたのである。 |
例えば、貨幣の経済的諸機能に関するフランス的批評の裏に、「人間性の疎外」と書き、ブルジョワ国家に対するフランス的批評の裏に「普遍性なるカテゴリーの揚棄」と書いた等々。フランス的歴史的批評の背後にこういう哲学的文句を導入することを、彼らは、「行為の哲学」、「真正社会主義」、「ドイツ社会主義科学」、「社会主義の哲学的基礎付け」等々と呼んだ。 このような自分たちの哲学上のきまり文句をフランスの叙述とすりかえることを、彼らは、「行為の哲学」、「真正社会主義」、「ドイツの社会主義科学」、「社会主義の哲学的基礎づけ」などと命名した。 |
こうして、フランスの社会主義者、共産主義者の文献は、完全に骨抜きにされた。そして、それから、ドイツ人の手にかかるや、ある階級の別の階級との闘争という表現を止めた。そこでドイツ人は、「フランス的一面性」を克服することを意識し始めた。そして、真の要求ではなくて真理という要求に、プロレタリアートの利害ではなく、どの階級にも属さず、なんら現実性をもたず、哲学的幻想という茫漠とした領域にしか存在しない、人間一般という人間の本性の利害に、表現することを意識し始めた。このドイツ的社会主義は、生徒の宿題をいかにも真剣に且つ厳粛に引き受け、香具師同然のやり方で自分の貧弱な手持ち商品を誉めそやすそれである。そうこうするうちに次第に学者的(ペダンチック)な無邪気さを失ってしまった。 |
ドイツ・ブルジョワジー特にプロイセン・ブルジョワジーの封建的貴族階級と絶対君主制に対する闘いは、他の言葉で言えば自由主義運動は、ますます真剣になった。これにより、永らく待望されていた機会が与えられることになった。「真正」社会主義の登場となったが、それは社会主義的要求を持つ政治運動として、自由主義に対する、代議制政府に対する、ブルジョワ的競争やブルジョワ的出版の自由やブルジョワ的立法権、ブルジョワ的自由と平等に対するに伝統的な破門状をたたきつけ、大衆に向ってブルジョア的運動によって得るものは何もなく失うものばかりとなることを説教して聞かせた。 |
ドイツ社会主義者は折よくも忘れていた。フランス的批評というのは、ドイツ社会主義はそれを愚昧にしたこだまであったが、近代的ブルジョワ社会の存立には、それに対応する経済的存在条件とそれに適合した政治体制を伴って存在していることを前提条件にしている。それらを獲得することこそが、ドイツで今進行中の闘争の目的であることを。 |
牧師、教授、田舎紳士、役人を従えた絶対主義政府の為に、ドイツ社会主義は、威圧的にのしあがろうとしていたブルジョワジーに対するあおえつらえの好都合な案山子として仕えた。「真正」社会主義は、鞭と銃弾という苦い丸薬の後での甘い仕上げであった。鞭と銃弾は、この同じ絶対主義諸政府の手で、ちょうど同じ時期に、ドイツ労働者の暴動をうちのめすのにもちいられていたものである。この「真正」社会主義がこのようにドイツ・ブルジョワジーと闘う兵器として政府に仕えている間、それは同時に反動的利害、ドイツの俗物の利害を直接代表していた。 |
ドイツでは、プチ・ブルジョワ階級は、16世紀の残り滓で、それ以来、絶えず何度もさまざまな形で現れるが、それが現状の現実的社会基盤となっている。この階級を保護することは、ドイツの現状を維持することである。ブルジョアジーの産業上および政治上の支配権は、政府を確かな破壊力で威嚇しているか ? 一方では資本の集中から、もう一方では革命的プロレタリアートの勃興から。「真正」社会主義はこの両者を一石二鳥でやっつけると思えた。この社会主義は伝染病のように広がった。 |
思弁の蜘蛛(クモ)の糸で織られ、文飾の花で刺繍され、病的情感の露にひたされた衣裳、この卓越した衣装は、即ち、ドイツ社会主義者たちが、彼らの骨と皮ばかりの哀しき「永遠の真理」を巻きつけているが、こういう公衆の間に彼らの商品の売れゆきを驚異的に増進させた。そしてドイツ社会主義の方でもますます、プチ・ブルジョワ的俗物の大仰な代弁者として自称することを認めた。 |
「真正」社会主義は、ドイツ国家(民族)を模範的な国家(民族)である、ドイツの小俗物を模範的典型的人間であると宣言した。この模範的人間の不埒な言行のどれにも、隠された、高潔な、社会主義的解釈が施され、その本当の性格とは全く反対の性格が与えられた。ついにはそれは、共産主義の「粗野にして破壊的」な傾向に直接的に反対し、あらゆる階級闘争に対するこれ以上はない、不偏不党の超越を宣言することによって、最後のゆきつくところまで到達した。ごくわずかな例外をのぞいては、今日(1847年)ドイツに流布されている自称社会主義者及び共産主義者の出版物はすべて、このきたならしい、人を無気力にする文献の部類に属している。 |
2 保守的社会主義またはブルジョア社会主義 ( Conservative or Bourgeois Socialism) |
ブルジョアジーの一部は、ブルジョア社会の存続をはかるために社会の欠陥をとりのぞきたいとのぞんでいる。この部門には、経済学者、博愛主義者、人道主義者、労働者階級の状態の改良家、慈善事業家、動物虐待防止論者、禁酒運動家、そのほか種々雑多な三文改良家たちがいる。そして、この社会主義の流儀は、まとまった体系にさえ仕上げられている。 |
この流儀の一例として、プルードンの「貧困の哲学」を引き合いに出してみよう。社会主義的ブルジョワは、近代的社会条件の長所を、そこから必然的に生じている闘争と危険なしに求めている。彼らは、現存の社会状態に対して、その革命的且つ解体的諸要素を差し引いたものを願望している。彼らは、プロレタリアート抜きのブルジョワジーを望んでいる。 |
ブルジョワジーは当然ながら、自分たちの支配する世界を最高のものと思っている。そしてブルジョワ社会主義は、この心地の良い概念を多かれ少なかれ完全なさまざまな制度にまで発展させる。プロレタリアートにこういった制度を運営し、それによって社会的な「新エルサレム」へとまっすぐ行進するよう求めることで、この社会主義は実際には、プロレタリアートが現存社会の束縛のなかに留まり、しかもブルジョワジーに関する憎悪に満ちた考えを捨て去ることを求めているだけである。 |
この社会主義の第二の、より実践的だがやや体系性に欠ける形態は、労働階級の目に映るあらゆる革命運動を軽視させた。それは、何の政治的改革にも取り組まず、物質的生存条件や経済関係の変化だけが労働階級に有益であることを示していた。 |
この形態の社会主義はしかしながら、現存する物質的生存条件の変化によって、ブルジョワ的生産関係の廃止が為されることをどうしても理解しようとしない。この廃止は、現存するこれらの諸関係、諸改革その他が継続することに基礎を置いている行政的改革ではなく、革命によってのみ効果的でありうる。行政的改革とは、資本と労働の関係に何ら影響せず、せいぜいブルジョワ政府の費用を削減し、その行政業務を単純化するだけでのものである。 |
ブルジョワ社会主義は、まさに演説という形をとった時、しかもその時だけ、相応しい表現を獲得する。労働者階級の利益のための自由貿易! 労働者階級の利益のための保護関税! 労働者階級の利益のための独房監獄! |
これがブルジョワ社会主義の締めくくりの遺言であり、唯一本気に語られた言葉である。この社会主義は次の文句に要約できる。労働者階級の利益の為にブルジョワはブルジョワであれ ? |
3 批判的=空想的社会主義および共産主義 ( Critical-Utopian Socialism and Communism) |
ここで我々は、あらゆる近代の大革命においてプ常にロレタリアートの要求を表明したバブーフやその他の文献については言及しない。プロレタリアートが自分たちの目的を達成しようとした最初の直接的試みは、封建社会が打倒された全般的な昂揚期になされた。それは、まだプロレタリアートが未発達な状態であったこと、同じようにその解放のための経済的諸条件が欠如していたことによって必然的に失敗した。この条件はやっと作り出されようとしており、差し迫ったブルジョワ時代だけが作り出すことができたものである。こうしたプロレタリアートの最初の運動に同伴した革命的文献は、必然的に反動的な性格を持っていた。それは普遍的禁欲主義と社会的平等化を、最も粗野な形で説いていた。 |
本来そう呼ばれるべき社会主義者及び共産主義者の体系は、サン・シモン、フーリエ、オーウェンその他のものであるが、これまでに述べてきたような、プロレタリアートとブルジョアジーとの闘争の初期の未発達の時期にあらわれた。(「第1章ブルジョアジーとプロレタリアート」を参照) これらの諸体系の創設者たちは、実際、階級対立を見ており、社会の支配的な枠組みの中にあって分解していく諸要素の作用をも同じように見ている。しかし、プロレタリアートは、まだ幼年期で、歴史的主導権も独立した政治運動も欠いたままという階級の光景を申しだてられている。 |
階級対立の発展は、産業や経済的状態の発展と共に進むのだから、彼らが階級対立を見出した経済状況は、プロレタリアートの解放の物質的諸条件をまだ与えるものではなかった。だから、彼らはこういう条件を作り出すはずの新しい社会科学、新しい社会法則を、捜し求めた。歴史的な行動は彼らの個人的発明行為に屈し、歴史的に作り出された解放の条件は空想的な条件に屈し、プロレタリアートの徐々に進む自発的な階級組織化は、これら発明家が特に工夫した社会の組織化に屈すべきだという。彼らの目には、将来の歴史は、布教活動(プロパガンダ)と彼らの社会計画を実施する実践活動になっている。 |
彼らの計画を作成するにあたっては、最も被害を被っている階級である労働階級の利害に注意が払われる。彼らの観点には、最も被害を被っている階級としてだけ、プロレタリアートは存在しているに過ぎない。 |
階級闘争が未発達な状態は、彼ら自身をとりまく環境と同じで、自分たちこそがあらゆる階級対立のはるか上空に超然としていると思い込ませるこういう種類の社会主義者を生むことになる。彼らは社会のどの成員の生活状態も改善することを欲する。たとえ最も恵まれた者であっても。だから、彼らはいつも、階級の区分なく、全社会に訴えかける。いや、それどころか好んで、支配階級に訴えかける。 |
一度でも彼らの体系を理解すれば、それが最善の社会状態の最善の計画であることを見損なうことができようか。だから、彼らは、あらゆる政治的活動、特に革命的活動を拒絶する。彼らは、平和的手段で目標を達成したいと願い、必然的に失敗せざるをえない。そして、小実験により、また実例の力によって、新しい社会的福音への道を切り開こうと努める。こういう未来社会の空想画は、プロレタリアートがまだ極めて未発展な状態で、自分たちの地位について空想的な概念しかもっていなかった時代に描かれ、社会の全面的再構築に対する、この階級の最初の本能的な切なる願いに対応している。 |
しかし、これらの社会主義者及び共産主義者の出版物には、同様の批判的要素も含まれている。彼らは、現存する社会のあらゆる原理を攻撃している。だから、それらは、労働階級を啓蒙するための最も有意義な素材に満ちている。その中に提案されている実践的手段とは ? 例えば、都市と農村の差異の廃止、家族の廃止、私的営利的事業経営の廃止、賃金制度の廃止、社会的調和の宣言、国家機能のより生産管理的方向への転換である。こういう提案はすべて階級対立の消滅だけを示している。この時代には、階級対立はまだ生じたばかりで、こういう出版物では、最初期の、はっきりしない、不明瞭な形態でしか認識されていないが。だから、こういう提案は純粋にユートピア的性格なものになっている。 |
批判的=空想的社会主義および共産主義の意義は、歴史的発展に反比例する。近代的階級闘争が発展し、明確な形をとるにつれて、闘争から離れたこの空想的な立場、階級闘争に対するこの空想的攻撃は、あらゆる実践的価値と理論的正当性を失う。だから、これらの体系の創設者が、多くの点で革命的であったとしても、その弟子たちは、どの場合も、単に反動的な宗派(セクト)を作ることになる。彼らは、師匠のもともとの見解に固執して、プロレタリアートの進歩的な歴史的発展に対立することになる。だから、彼らは熱心に且つ一貫して、階級闘争を鈍らせ且つ階級対立を調停しようとする。 |
彼らは今でも、自分たちの社会的ユートピアの実験的実現を、孤立した「ファランステール」の創設を、「国内移住地(ホーム・コロニー)」の樹立を、新エルサレムの小型版である「小イカリア」の建設を夢見ており、こうした空中楼閣の実現のために、ブルジョワの感性と財布に訴えざるを得なくなる。次第に、彼らは、前に述べた反動的保守的社会主義者の部類(カテゴリー)に落ちこみ、そういう社会主義者との違いは、より体系的な学者ぶりと、自分たちの社会科学の奇跡的効果への狂信的で迷信的な信念だけということになる。 |
だからそれ故に、彼らは労働者階級側のあらゆる政治活動に激しく反対する。こういう活動は彼らによれば、新しい福音に対する盲目的不信心の結果にすぎない。イギリスのオーエン主義者とフランスのフーリエ主義者は、それぞれ、チャーチストと改革主義者に反対している。 |
本文4、種々の抵抗党に対する共産主義者の立場 |
第2章では、共産主義者と、イギリスのチャーチストやアメリカの農地改革派のような現存する労働階級党との関係を明らかにした。共産主義者は、労働階級が直面している利害を擁護せんとして目下緊急の目的を達成するために闘う。しかし当面の運動の中にあっても、運動の未来を気にかけている。フランスでは共産主義者は、保守的ブルジョワジーや急進的ブルジョワジーに対抗して、社会民主主義者と同盟している。しかしながら、大革命から伝統的に受け継いだ空文句や幻想については、批判的立場をとる権利を保持している。 |
スイスでは、共産主義者は急進派を支持している。しかし、この党が、フランス的な意味での民主社会主義者党の一部、急進的ブルジョワ党の一部のような対立する諸要素から構成されていることを見落としてはいけない。 ポーランドでは、共産主義者は、国民解放の第一条件として農業革命を主張する党を支持している。この党は1846年のクラカウ反乱を引き起こした党である。ドイツでは、共産主義者は、ブルジョワジーが絶対君主制、封建的地主階級、プチ・ブルジョワジーに対抗して、革命的にふるまっている限りで、ブルジョワジーと共闘している。 |
しかし、共産主義者は、労働階級に、ブルジョワジーとプロレタリアート間の敵対について、できる限り明確に認識することを教え込むことを、一瞬たりとも止めない。それは、ドイツの労働者がただちに、ブルジョアジーがその支配とともに不可避的にもたらさざるをえない社会的および政治的諸条件を、そのまま武器としてブルジョアジーにむけることができ、こうしてドイツの反動的諸階級を倒したのち、ただちに、ブルジョアジー自身に対する闘争を開始するようにするためである。 |
共産主義者はその注意を主にドイツに向けている。なぜなら、ドイツが、ヨーロッパ文明のもっと進んだ状態の下で、また17世紀のイギリスや18世紀のフランスよりももっと発展したプロレタリアートをもって行われるブルジョワ革命の前夜にあるからである。それにまた、ドイツでのブルジョワ革命は、その後直ちに引続くプロレタリア革命の序曲でしかないからである。 |
手短かに言うと、共産主義者はどこでも、現存する社会的、政治的秩序に対するあらゆる革命的運動を支持する。こういう運動のすべてで、共産主義者は所有問題を、その時それがどんな発展度合にあろうとも、それぞれの運動の主要問題として、前面に立てる。最後に、共産主義者はどこでも、あらゆる国の民主主義諸政党との同盟と合意に向けて骨折り労を為す。 |
共産主義者は、自分の見解や目的をかくすことを恥とする。共産主義者は、自分たちの目的が、現存する社会的諸条件を暴力的に転覆することによってのみ達成できることを、公然と宣言する。支配階級をして共産主義者革命のまえに戦慄せしめよ! プロレタリアは鉄鎖のほかに失うものも何もない。プロレタリアには、勝ち取るべき世界がある。万国の労働者よ、団結せよ! |
1847.12月―1848.1月にマルクス、エンゲルス執筆 最初1848.2月にロンドンで出版 |