7―2 | 既成翻訳の検証その二 |
既存市販品の「共産党宣言」を検証していくうちに、果たしてこれが「単なる誤訳」として見なし得るものだろうか、という気持ちが抑え切れない。実際には、各自が同じ作業をしてみればよりきっきりと分かるだろう。とにかく、あちこちが酷すぎるのだ、しかし、肝心なところを廻ってチャランポラン訳されている気配がある。れんだいこは、「誰が、一体何の為に」と訝らざるを得ない。これをいつの日か一目瞭然にさせてみようと思う。 検索していると、「『共産党宣言』の翻訳を研究する」に出くわした。本サイトによって、エエカゲンさがズバリ指摘されている。とりあえず全文転載しておく。 2004.1.16日 れんだいこ拝 |
「共産党宣言」の翻訳を研究する。
日本語の論理性は、どこで壊されているか?
(その3)Ⅲ 第2章 プロレタリアとコミュニスト
In what relation
do the Communists stand to the proletarians as a whole? The Communists do not form a separate party opposed to the other working-class parties.【直訳】
どのような関係において、コミュニストは、全体としてプロレタリアを支持するか ? コミュニストは、他の労働者階級の諸党に対抗して別途の党を形成しない。【訳文】
共産主義者はプロレタリア一般に対してどんな関係に立っているか? 共産主義者は、他の労働者党にくらべて、特殊な党ではない。」(57p)。【研究】 訳文の論理性を叩いてみよう。「プロレタリア一般」は抽象語で、「関係」を論じようとしても不可能。「全体として」という規定があって初めて論が成り立つ。
In what relationとstandをからめて「どんな関係に立っているか?」という作文をするのは翻訳道から外れている。ために「支持する」立場が放棄された。
「他の労働者党
にくらべて、特殊な党ではない」ということは単に「他の労働者党」並ということになる。これでは、第一行目の疑問に何も答えていないで不思議だ、と訳者は思わなかったのだろうか、その方が疑問だ。本来この部分は、レーニンがボリシェビキ(共産党)を作って以来、その血脈を引く今日の日本共産党や中国共産党にとって、厄介千万、迷惑至極のマルクス・エンゲルスのテーゼ(命題)なのである。なにしろ、創始者が「共産主義者は、プロレタリアを全体として支持する関係を維持するなら、他の労働者階級の諸党に対抗して別途の党を形成しない」と定義しているからである。とにかく真のコミュニストは歴史において『党を形成しない』、これが弁証法の真髄である。論理学上「共産党」を名乗るものはコミュニストではないと認識しなければならない。実は、ここからこそ豊かな21世紀の展望が生まれるのである。
We Communists have been reproached with the desire of abolishing the right of personally acquiring property as the fruit of a man's own labor
, which property is alleged to be the groundwork of all personal freedom, activity and independence.【直訳】
我々コミュニストは、一個人自身の労働の果実である財産を獲得する個人的権利の廃止要求をもつことで非難されてきた。その財産たるや、個人の自由、活動及び独立を含むすべての土台である、といわれもなく主張されているものである。【訳文】
個人的に獲得した財産、みずから働いて得た財産を、すなわち一切の人的な自由、活動、独立の基礎をなす財産を、我々共産主義者は廃棄しようとする、という非難が我々に対してなされている。(58p)。【研究】原文が訳文どおりなら、コミュニストに対する非難は当然であろう。だが、マルクス・エンゲルスが指摘する、こういった俗論のアキレス腱にあたる語句を、訳者は「
、すなわち」という継続詞と共に懐にしまいこんで、読者に対し勝手な脚本を書き上げたのだ。その語句とは、is alleged to ~「~といわれもなく主張されている」 である。これが単純ミスなら、直訳のように「
, which property」を「。その財産たるや……ものである」と原文どおり、頭から読み下せば楽に防げる。
To be a capitalist, is to have not only a purely personal, but a social STATUS in production.
【直訳】
資本家であることは、ひとりの単なる個人であるのみならず、生産において社会的 STATUS を持つことである。【訳文】
資本家であるということは、生産において単に純粋に個人的な地位を占めていることではなく、社会的な地位を占めていることである。(59p)。【研究】訳文が
STATUS in productionを前文と後文両方に掛けるのは、文章をナンセンスにする。すなわち「生産において単に純粋に個人的な地位を占めている」などという状態自体、論理的矛盾で実在しないから、改めてこんな寝言を言って否定することはない。'purely' を「純粋に」とするのも適当ではない。これは心的状態に対する副詞で、この場合merelyの意味しかない。
Capital is therefore not only personal
; it is a social power. When, therefore, capital is converted into common property, into the property of all members of society, personal property is not thereby transformed into social property. It is only the social character of the property that is changed. It loses its class character.【直訳】
資本は従って、単に個人的でない。それは、社会的な力である。ゆえに、たとえ、資本が共有財産に、社会の全成員の財産に、変換されるとしても、個人の財産はそのために社会的財産に変質されることはない。変更されるのは、財産の社会的性格のみである。それは、その階級的性格を失う。
【訳文】
だから、資本は個人的な力ではない、それは社会的な力である。したがって資本が、社会の全成員に属する共有財産に変えられたところで、それによって個人的財産が社会的財産に変えられるわけではない。変化するのは財産の社会的性格のみである。すなわち財産はその階級的性格を失うのである。
(59p)。【研究】原文にある「
;」 を気に留めないので「個人的な力」という造語が出てくる。前項には「資本家」の定義があり、ここでは「資本」の定義がされている。「資本家」は個人的な側面と社会的な側面をもつが、「資本」は社会的な側面しかもたない。これを論理の原点ではっきり立てておけば、資本の共有化は決して個人財産の共有化、資産の没収には及ばないことが明白である。
converted into変換される、transformed into変質され、is changed変更される、を訳文は「変えられ、変えられ、変化する」と、訳語を選ばない。読者は三つの同一語の内奥にある意味の差を詮索しなければならなくなる。こういうやり方をされると、直訳のように原文の平明な意味が読者には晦渋となる。現代正書法の一項である。
But if selling and buying disappears, free selling and buying disappears also. This talk about free selling and buying, and all the other "brave words" of our bourgeois about freedom in general, have a meaning,
if any, only in contrast with restricted selling and buying, with the fettered traders of the Middle Ages, but have no meaning when opposed to the communist abolition of buying and selling, or the bourgeois conditions of production, and of the bourgeoisie itself.【直訳】
だが、販売と購入が姿を消せば、自由な販売と購入もまた姿を消す。自由な販売と購入についてのこのトーク、又一般に自由についての、わがブルジョアが口にするその他全ての「勇敢なことば」は、たとえあるとしても、単に、限られた販売と購入に、中世の束縛された商人等に、対比するだけならば、意味を持っている。しかしコミュニストに対して、購入及び販売或は生産のブルジョア的状態、そしてブルジョアジーそれ自身の廃止に反対するとき、意味を持たない。【訳文】
しかし、商売が滅びれば、自由な商売も滅びる。いったい自由な商売などという言いかたは、わがブルジョア階級の用いる他のすべての自由呼ばわりと同様に、中世の束縛された商売、奴僕化された市民に対していうときに限って意味があるに過ぎない、商売やブルジョア的生産諸関係やブルジョア階級そのものを共産主義的に廃止することに対しては、無意味である。(61p)【研究】直訳に照らせば分かるとおり、このセンテンスの訳文は大部分「意訳」である。意訳は変じて訳者本位の脚本に堕落するのがオチ、要警戒である。
「
自由呼ばわり」は、ブルジョアをただ大声を張り上げるだけの「盗人呼ばわり」なみの扱いにしているわけだが、ここでの論争には「勇敢なことば」といってやる軽妙なゆとりが欲しいところではないか。「奴僕化された市民」は「中世の束縛された商人等」をさすのだろうが、現実的でないハッタリことばで低級な共産党員のやることだ。
「
商売・・を共産主義的に廃止する」購入及び販売のことを訳者は「売買」としたり「商売」としている。「商売」に対応する英単語は15通りもあるが、selling and buying或はbuying and sellingはない。科学的論文にはきちんとした規定語を使うべきだ。また「商売や・・を共産主義的に廃止する」などと口走っているが、廃止するのは「購入及び販売或は生産のブルジョア的状態」だ。味噌糞いっしょに廃止して気付かない頭脳が恐ろしい。
You are horrified at our intending to
do away with private property. But in your existing society, private property is already done away with for nine-tenths of the population; its existence for the few is solely due to its non-existence in the hands of those nine-tenths. You reproach us, therefore, with intending to do away with a form of property, the necessary condition for whose existence is the non-existence of any property for the immense majority of society.【直訳】
諸君は、私有財産廃止という我々の意図をこわがっている。しかし諸君の現在の社会において、私有財産は、全住民の9/10にとっては既に廃止されている。少数者に集中する財産の存在は、唯一つ9/10の手における財産の非存在に依存している。諸君が我々を責める所以は、財産の形態を廃止しようとしていることをもってであるが、その形態が存在するための必要条件は、社会の計り知れない大多数者におけるあらゆる財産の非存在ということなのだ。【訳文】
諸君は、われわれが私有財産を廃止しようと欲することに驚く。ところが、諸君の現存社会では、私有財産は社会成員の十分の九にとっては廃止されているのだ。それは、十分の九の人にとって存在しないというまさにそのことによって、存在しているのだ。すなわち諸君は、社会の途方もない多数者が財産を持たないことを必然的前提条件とするような財産を、われわれが廃止しようとすることに対して、われわれを非難しているのである。(61p)。【研究】「
それは、十分の九の人にとって存在しないというまさにそのことによって、存在しているのだ。」の原文は、「少数者に集中する財産の存在は、唯一つ9/10の手における財産の非存在に依存している。」である。訳文の頭にある「それは」は何を指すのか、訳文の文脈では分からない。どうしてわざわざ筋の通らない文を作って翻訳とするのか?後文へくると論説の核心まで見失うボケ症状となって我々正常人を驚かす。すなわち「
社会の途方もない多数者が財産を持たないことを必然的前提条件とするような財産を、われわれが廃止しようとする」と意訳しているが、財産をではなく「財産の形態」;a form of propertyなのだ。「財産を廃止する」のと「財産の形態を廃止する」のとではどう違うかは、内容と形式の論理学の初歩ではないか。マルクス・エンゲルスがいつまでたっても迷惑するわけだ。
But don't wrangle with us so long as you apply, to our intended abolition of bourgeois property, the standard of your bourgeois notions of freedom, culture, law, etc. Your very ideas are but the outgrowth of the conditions of your bourgeois production and bourgeois property, just as
your jurisprudence is but the will of your class made into a law for all, a will whose essential character and direction are determined by the economical conditions of existence of your class.【直訳】
しかし我々と論争するなかれ、君等が、我々の意図するブルジョア的所有の廃止に対し、自由・文化・法等々に関する君等ブルジョア的観念の規範を適用する限りは。君等の認識こそ単に、君等のブルジョア的生産およびブルジョア的所有の、諸条件の当然の結果にすぎない、まさに、君等の法学が、単に君等階級の意志を全体のための法律に造り込んだにすぎないように、その意志の本質的性格及び方向は、君等階級の現存の経済的諸条件によって決定されていたのである。【訳文】
だが、自由、教養、法律等々についての諸君のブルジョア的観念を尺度にしてブルジョア的所有の廃棄を測って、われわれと争うのはやめたまえ。諸君の思想そのものが、ブルジョア的生産諸関係および所有諸関係の産物なのだから。同じように、諸君の法律はただ法にまで高められた諸君の階級の意志であり、この意志の内容は諸君の階級の物質的生活条件のなかに与えられているにすぎないのである。(63p)【研究】訳文では説明として理屈が通らない、ところを洗い出してみる。
①「
諸君のブルジョア的観念を尺度にしてブルジョア的所有の廃棄を測って」には「我々の意図する」が抜けている。これがなければ論争の対象がない問題提起の言い方になり、「問題にならない」という結論あるのみだ。②「
諸君の法律はただ法にまで高められた諸君の階級の意志であり」の冒頭にある「諸君の法律」なるものは原文のどこにも存在しない。ないのが当然だろう、法律に「諸君の」がつけば途端に『法律』でなくなるからだ。あるのは全体のための法律だけだ。ここへ君等階級の意志を造り込むために君等の法学your jurisprudenceが活躍するはずだ。訳文はこの法学(又は法制)を法律とごっちゃにして作文をし、自家撞着に陥った。③「
この意志の内容は…」の内容には中身がない。原文には意志の本質的性格及び方向という規定が明示されているのにだ。are determined byを「のなかに与えられている」などと誤訳を押し付けた結果が原文とは無縁な「山吹の花」を咲かせた。
The selfish misconception that induces you to transform into eternal laws of nature and of reason the social forms stringing from your present mode of production and form of property
― historical relations that rise and disappear in the progress of production ― this misconception you share with every ruling class that has preceded you.【直訳】
利己的な誤解、それは君等をして、現在の生産方式及び所有形態―生産の推移で上昇し・消滅する歴史的な諸関係―から連鎖する社会形態を、永遠の自然及び理性の法則に変容することに導く、この誤解を、君等は君に先行した全ての支配階級と共有する。【訳文】
諸君の生産諸関係および所有諸関係は、生産の進行とともに消えていく歴史的諸関係であるのに、それを、永遠の自然法則、理性法則に変えてしまう諸君の利己的な考え方は、すべての衰亡した支配階級の考え方と同じことである。(63p)【研究】訳文の中にどれだけの論理的ミスがあるかを摘発してみる。
①
利己的な誤解と利己的な考え方は同じではない。前者には思いやりがあり後者には押し付けがある。② いずこにも頻出する
生産諸関係および所有諸関係は漠然とした用語だが日本語では同一内容である。正しい用語は生産方式/mode及び所有形態/formである。これをまとめて歴史的な諸関係という。③ 歴史的な諸関係は
生産の推移で出現し・消滅するが、消えていくのみではない。④ 「誤解」が犯したことは、歴史的な諸関係―から連鎖する
社会形態を、永遠の自然及び理性の法則に変容することに導いたことであって、歴史的諸関係そのものを、……法則に変えてしまったことではない。こんなことできるわけがない。⑤ 「誤解」は、「先行した全ての」支配階級と共有できる。が
「すべての衰亡した」支配階級とは物理的にもshare withするわけには行かぬ。precede(先行する)に「衰亡する」、shareに「と同じ」という誤訳を押し付けたのは、誤解を共有する支配階級が先行しただけであって今でも死に絶えてはいない現実を理解していないことなのだろうか。
The Communists have not intended the intervention of society in education; they do
but seek to alter the character of that intervention, and to rescue education from the influence of the ruling class.【直訳】
コミュニストは、教育の中への社会の介入を意図することはなかった。彼等がしようとする事はただその介入の性格を変更し、支配階級の影響から教育を救出しようと試みることだけである。【訳文】
教育に対する社会の影響は、共産主義者の発明ではない。共産主義者は、この影響の性格を変えるにすぎない。教育を支配階級の影響から引き離すにすぎない。(64p)【研究】最初のセンテンスにおける訳文の異常さ、支離滅裂は考察の対象外だ。
後文にも出てくる「社会の影響」はどこから持ってきた用語か?
「介入」
the interventionが問題になっているところへ「影響」the influenceを持ちこむ学者と論争は成立しない。支配階級の影響から教育を「
rescue救出する」ところに、「引き離す」を当てるのも、語彙に対する論理―それぞれの単語には客観を照射する角度がある―的無関心の証左である。For the rest, nothing is more ridiculous than the virtuous indignation of our bourgeois at the community of women which, they pretend, is to be openly and officially established by the Communists. The Communists have no need to introduce free love; it has existed almost from time immemorial.
【直訳】
改めて言うまでもないことだが、女性の共有に対する我がブルジョアの高潔ぶった憤慨より滑稽な物は何もない、彼等が口実とするそれらは、コミュニストによって公然かつ公式に確立されていることである。コミュニストは、自由恋愛を導入することを必要としない。それは、ほとんど大昔(超記憶的時代-リチャード一世治世の始まり1189以前)から存在した。【訳文】
何にしても、共産主義者のいわゆる公認の婦人共有に驚き騒ぐ我がブルジョアの道徳家振りほど笑うべきものは又とない。共産主義者は、婦人の共有を新たに取り入れる必要はない。それはほとんどつねに存在してきたのだ。(64p)【研究】前段ワンセンテンスの訳文は、原文が2つのセンテンスで誤解の出ないように説明しているところである。それを「共産主義者の
いわゆる公認の婦人共有」なる別の連想を招くあやしいセンテンスに置きかえる事は危険なサボタージュと言うべきだろう。後段では「自由恋愛」を「婦人の共有」にスルリと置き換え、更に「大昔から;from time immemorial」を「つねに」で済ます。それはその言葉が必要であるバックグランドをかき消すことによって、概念(ワード)の曖昧さを苦にしなくしてしまう、非論理的日本文を作る秘法(用語に対するマーマー主義と狡猾な怠惰主義)である。Bourgeois marriage is, in reality, a system of wives in common and thus, at the most, what the Communists might possibly be reproached with is that they desire to introduce, in substitution for a hypocritically concealed, an openly legalized system of free love. For the rest, it is self-evident that the abolition of the present system of production must bring with it the abolition of free love springing from that system, i.e., of prostitution both public and private.
【直訳】
ブルジョア的結婚は、実際には、妻の共有制度であり、しかもこれについて、コミュニストたちが或は非難されて当然とされていることは、せいぜい、偽善的に内密にした妻の共有制度の代わりに、彼等が自由恋愛の公然と合法化された制度の導入を望んでいることについてだ。改めていうまでもないが、現在の生産体制の廃止はそれと共にその制度から発生している自由恋愛の、すなわち公娼私娼両方の売春の廃止を伴なわなければならないことは自明である。【訳文】
ブルジョアの結婚は、実際には妻の共有である。共産主義者に非難を加えたければ、せいぜいで、共産主義者は偽善的に内密にした婦人の共有の代わりに、公認の、公然たる婦人の共有をとり入れようとする、とでもいったらよかろう。いずれにせよ、現在の生産諸関係の廃止とともに、この関係から生ずる婦人の共有もまた、すなわち公認および非公認の売いんもまた消滅することは自明である。(65p)【研究】看過できない訳文の誤訳を訂正しておこう。「
妻の共有」は、「妻の共有制度」、「公認の、公然たる婦人の共有」は、「自由恋愛の公然と合法化された制度」、「…の廃止とともに……もまた消滅する」は、「…の廃止とともに……の廃止を伴なわなければならない」。特に最後の「廃止を伴なわなければならない」を「もまた消滅する」と何気なくすりかえることは危険である。それは、「現在の生産体制の廃止」と連動して自然消滅するものではないからである。
National differences and antagonism between peoples are daily more and more vanishing, owing to the development of the bourgeoisie, to freedom of commerce, to the world market, to uniformity in the mode of production and in the conditions of life corresponding thereto.
【直訳】
諸国民の間にある国民的差異及び対立は、毎日ますます消滅している。 ブルジョアジーの発達、商業の自由、世界市場、生産様式におけるそしてそれに対応する生活状態における等質性のために、である。【訳文】
諸国民の国民的分離や対立は、ブルジョア階級の発展とともに、すなわち商業の自由、世界市場、工業的生産およびそれに相応する生活諸関係の一様性とともに、すでに次第に消滅しつつある。(65p)【研究】「―…
のために―…毎日ますます消滅している」は、「―…とともに―…すでに次第に消滅しつつある」と同じであろうか。これは愚問である。owing to(のために)は因果関係を示すが、「とともに」は平走関係。また「すでに」という用語は現在以前を現すから「つつある」の進行形と同居できるわけはない、訳文の頭脳以外は。ほかに訳語が使用した用語で論理に合わないものは次の通りある。「ブルジョア階級の発展とともに
、すなわち」の「すなわち」は不必要。「諸国民の国民的
分離」、「生活諸関係の一様性」は、単語が並んでいるだけで意味不明。どうすれば
the mode of productionを「工業的生産」と訳せるのか?
In proportion as the exploitation of one individual by another
will also be put an end to, the exploitation of one nation by another will also be put an end to. In proportion as the antagonism between classes within the nation vanishes, the hostility of one nation to another will come to an end.【直訳】
他方の個人による一方の個人の搾取を、終わらせようと決意するのと同じ割合で、他方の国家による一方の国家の搾取も同じく終わらせることができる。ある国家の内部における階級間対立が消滅することに比例して、他国民に対するその国民の敵意は、終わるはずである。【訳文】
一個人による他の個人の搾取が廃止されるにつれて、同じように一国の他国に対する搾取も廃止される。国民の内部における階級の対立が消滅するとともに、国民相互の敵対的立場も消滅する。(66p)【研究】この短文は
21世紀を洞察する珠玉の一片である。150年前にこのような洞察があり、今その真髄がここで発掘されようとしている、などとは思いも寄らなかった…。これも訳文の誤りの賜物である。訳文の誤りを先ず訂正する。
put an end toは「廃止される」ではなく「を終わらせる」、come to an endは「消滅する」ではなく「終わりになる」、のはずである。さて、前段文章中の
willを軽くいなすとこんな「訳文」になろうが、これには人間の行為の魂・いうなれば論理学がない。「一個人による他の個人の搾取が廃止されるにつれて」は、このような行為が自然現象で現れる扱いだ。will を【無意志の助動詞として単純未来を示す】ものと受け取った結果でもある。だがそれではwill 自体が全く不要となる。原文にwillが存在するのは、有意志の助動詞 【[能力・適性など] …するに十分である, …できる. 】の意味を活用しているからである。こうして初めて現実の歴史と論理学的叙述が一致する。次に、後段の
the nationとone nationの論理的関係についてである。原文の意味は直訳のとおりである。「他国民に対する一方のその国民の敵意は、終わるはずである。」と「国民相互の敵対的立場も消滅する。」とにはその意味において宇宙系の違いほどの落差がある。「国民の内部における階級の対立が消滅するとともに、国民相互の敵対的立場も消滅する。」という文章は典型的な a synonym 、同義反復のナンセンスというほかない。ここに書かれているテーゼは、マルクスの時代からそうであったが、今でも世界中の国家が、平和を維持するために、採らなければならない国内政策、外交政策の原則である。
We have seen above that the first step in the revolution by the working class is to raise the proletariat to the position of ruling class to win the battle of democracy.
【直訳】
我々は、以上で労働者階級の革命における最初のステップが、プロレタリアートを支配階級の位置にもち上げること、デモクラシーの戦いに勝つこと、であることを理解した。【訳文】
以上見てきたところによれば、労働者革命の第一歩は、プロレタリア階級を支配階級にまで高めること、民主主義を闘いとることである。(68p)【研究】訳文の誤り:
to win the battle of democracyは、「デモクラシーの戦いに勝つこと」であって、「民主主義を闘いとること」ではない。デモクラシーの戦いに勝つとは、選挙で勝つこと、
the proletariatが政権を獲ることと重なり、それらがthe working classによる革命のthe first stepであるとしている。ところで、
the proletariatとthe working classの用語の使い分けには如何なる意味があるのだろうか?
Of course, in the beginning, this cannot be effected except by means of despotic inroads on the rights of property, and on the conditions of bourgeois production; by means of measures, therefore, which appear economically insufficient and untenable, but which, in the course of the movement, outstrip themselves, necessitate further inroads upon the old social order,
and are unavoidable as a means of entirely revolutionizing the mode of production.【直訳】
もちろん、初めにおいては、これは、所有の権利への、またブルジョア的生産の諸条件への専制的な侵害によることを除いては果たされ得ない。それゆえ、経済的に不十分でありかつ批判に耐えられないと思われる手段を使う、しかしそれは、運動の過程で、自らを追い越し、古い社会組織への更なる侵害を伴う、それでも生産様式を完全に改革する手段としては避けられない。【訳文】
このことは、もちろん何よりも、所有権への、またブルジョア的生産諸関係への専制的干渉なくしてはできようがない。したがって、その方策は、経済的には不充分で不安定に見えるが、運動が進行するにつれて、自分自身を乗り越えて進み、全生産様式の変革への手段として不可避なものとなる。(68p)【研究】訳文が
in the beginning:「初めにおいては」を「もちろん何よりも」とした理由は、時間の論理を事業の論理と同一視したことか? 前者には客観的必然性があるが、後者は主観的強引さ・恣意性を反映する。革命は須らく前者の性格でなければならない。それでさえもこれだけの客観的強引さが不可避だというのが、この文章の趣旨であるのだから。訳文は「もちろん何よりも」と力みすぎたことを反省してか、
necessitate further inroads upon the old social order「古い社会組織への更なる侵害を伴う」を読み落としている。
Nevertheless, in
most advanced countries, the following will be pretty generally applicable.【直訳】
それでもなお、たいていの先進諸国において、下記は、かなり一般に適用できるであろう。【訳文】
とはいえ、もっとも進歩した国々にとっては、次の諸方策はかなり一般的に適用されうるであろう。(68p)【研究】「
もっとも進歩した国々」といういい方は矛盾である。
1. Abolition of property in land and application of all rents of land to public purposes.
【直訳】
土地所有権の廃止と全地代を公共目的に適用。【訳文】
土地所有を収奪し、地代を国家支出に振り向ける。(68p)【研究】
Abolitionに「収奪」の意味はない。コミュニズムに脅迫観念を植え付けるための意図的な翻訳語である。
2. A heavy progressive or graduated income tax.
【直訳】
重い累進制もしくは等級制所得税。【訳文】
強度の累進税。(68p)【研究】訳者は、累進制と等級制をひっくるめて「強度の累進」と翻訳する強制をレーニンからでも受けたのだろうか? これも「意図的」である。
8. Equal obligation of all to work. Establishment of industrial armies, especially for agriculture.
【直訳】
働くための全ての義務の平等化。産業軍隊の制定、特に農業のために。【訳文】
すべての人々に対する平等な労働強制、産業軍の編成、特に農業のために。(69p)【研究】「すべての人々に対する平等な労働強制」の現実的な意味は何だろう? これまた「意図的」というほかない。
9. Combination of agriculture with manufacturing industries; gradual abolition of all the distinction between town and country by a more equable distribution of the populace over the country.
【直訳】
製造工業と農業の連合。全国にまたがる全住民の更に一様な配分による都市と農村間にある全差別の漸進的な廃止。【訳文】
農業と工業の経営を結合し、都市と農村との対立を次第に除くことを目指す。(69p)【研究】「農業と工業の
経営を結合」の現実を描けるか? 直訳の状態ならば現実の日本にも存在する。「都市と農村との対立」は存在しない。両者にあるのは
the distinctionだけである。訳者は「対立」を押し通すために「全国にまたがる全住民の更に一様な配分」という核心を覆い隠して翻訳しなかったわけか? もっともレーニンとスターリンにとっては自分の似非社会主義のために、この提言を抹殺することが死活の「核心」であった。されば、訳者たちはその手先と言うことか(!?)。
When, in the course of development, class distinctions have disappeared, and all production has been concentrated
in the hands of a vast association of the whole nation, the public power will lose its political character.【直訳】
発展の過程において、階級差別が消滅し、その上すべての生産が全国民の広大な連合の掌中に集中されたとき、公的権力はその政治的性格を失うだろう。【訳文】
発展の過程につれて、階級差別が消滅し、すべての生産が結合された個人の手に集中されると、公的権力は政治的性格を失う。(69p)【研究】「
全国民の広大な連合の掌中」とマルクスが書いたところを、訳者は「結合された個人の手」と翻訳する。これは誤訳ではない。コミュニズムをレーニン主義に書き換える露骨なキーワードが奇しくもここにあった。マルクス・エンゲルスの思想はここで暗殺されていたと言える。ただこの翻訳が1951年12月に第1刷を出しており、1996年5月の第71刷に至るまで、今ここで為されているような告発がないということには、何かほかの事情が潜んでいるのだろうか。要研究だ。
If the proletariat during its contest with the bourgeoisie
is compelled, by the force of circumstances, to organize itself as a class; if, by means of a revolution, it makes itself the ruling class, and, as such, sweeps away by force the old conditions of production, then it will, along with these conditions, have swept away the conditions for the existence of class antagonisms and of classes generally, and will thereby have abolished its own supremacy as a class.【直訳】
プロレタリアートが、ブルジョアジーとの抗争を通じて、情況によって階級として自身を組織化することを強要されるならば、革命によって自分自身が支配階級となり、それとして力ずくで生産の古い諸条件を速やかに廃止するならば、そのとき、それは、これらの諸条件と共に、階級対立及び一般に階級そのものの存在に関わる諸条件を除去していよう、そしてそれによって階級としての自分自身の支配権を廃止していよう。【訳文】
プロレタリア階級が、ブルジョア階級との闘争のうちに必然的に階級にまで結集し、革命によって支配階級となり、支配階級として強力的に古い生産諸関係を廃止するならば、この生産諸関係の廃止とともに、プロレタリア階級は、階級対立の、階級一般の存在条件を、したがって階級としての自分自身の支配を廃止する。(69p)【研究】訳文が「必然的に階級にまで結集し」と訳した所が、原文は「情況によって、階級として自身を組織化することを強要される」と細かく規定している。これはプロレタリアが決して必然的には「階級として自身を組織化すること」のないことを強調するためである。類人猿が「必然的に」人に進化するのではない事情を髣髴させる論理学上の結節点でもある。
(以上 その3 終わり)
その2へもどる
【ご挨拶】
前回に引き続き、日本語の論理学に留意した『共産党宣言』新翻訳第3,4章を掲載します。前回記載したとおり、直訳本位の新翻訳によって、今まで隠されていた事実、歪曲されていた驚くべき事実を、幾つか掘り出す結果となりました。これは重大な副産物です。これらについては第4回でまとめます。(日本語サロン主任敬白)
ご意見・ご感想はtarai@rose.ocn.ne.jpまでどうぞ。
直訳:『コミュニスト宣言』/第3回(第3章 & 第4章)(
行頭赤色ページ数は、岩波文庫本のもの)
Ⅲ 社会主義及びコミュニスト文献
1. 反動的社会主義
a. 封建的社会主義
(70p) 彼等の歴史的地位からいって、フランスおよびイングランドの貴族の家業は、近代ブルジョア社会に反対してパンフレットを書くことが似合った。1830年7月のフランス革命において、イングランド改正世論喚起活動において、これら貴族は重ねて憎むべき成り上がり者に屈服した。その時以降、まじめな政治闘争は全く問題外となった。ただ文筆の戦闘だけが可能なものとして残された。しかし文学の領域においてさえも、王制復古時代の古い哀願の類はどうしようもないものとなっていた。
同情を引くために、貴族は、外見上、自分自身の利益についてのサイトを表に出さず、ブルジョアジーに対する告発を、搾取される労働階級の利益のなかに定式化することを余儀なくされた。こうして、貴族は彼等の復讐を、彼等の新しい主人たちに風刺の詩を歌うことによって、又彼の耳に来たるべき破局について不吉な予言をささやくことによって、果たした。
(71p) こうして封建的社会主義が生まれた。半ば哀歌、半ば風刺文。半ば過去の木霊(こだま)、半ば未来の脅迫。時には、そのにがさ、洒落の効いた辛辣な批評によって、ブルジョアジーをその心臓のど真ん中で打撃を加えながらも、しかし、その効果の点では永遠に滑稽。始めから終わりまで、近代史のマーチを理解することにおいてはトータル無能力。
貴族は、自分たちの周りに民衆を呼び集めるために、旗印にと人目につくところで、プロレタリアの施し物袋を打ち振った。しかし民衆は、それがしばしば繰り返され彼等と合流するうちに、彼等の背後に古い封建の紋章を見つけると、騒々しく不作法な笑い声とともに四散した。
フランス正統主義者たちの一部や「青年イングランド派」は、この見世物を大っぴらに披露した。
彼等の搾取方法がブルジョアジーのそれと違っていたという指摘には、
封建主義者たちは、全く異なったそして今や時代遅れとなった環境と条件のもとで、彼等が搾取していたことを忘れた。彼等の支配下では、近代プロレタリアートが決して存在しなかったことを示すとき、彼等は、近代ブルジョアジーが彼等自身の社会的枠組みの必然的所産であることを忘れた。それはともかく、彼等は自分たちの批判の反動的性格をほとんど隠さない、それはブルジョアに反対する彼等の主要な告発の帰するところが、次の事実にあるからだ。すなわち、ブルジョア的政治制度の支配のもとで、ひとつの階級が発展している、その階級は社会の古い秩序を根こそぎ絶滅すべく運命付けられている、という点である。
彼等は何をもってブルジョアジーを非難するか、ブルジョアジーがプロレタリアートを創り出すことに対してはそうでもなく、より多くは『革命的』プロレタリアートを創り出すことに対してである。
(72p) 政治的実践においては、そのために、彼等は、労働者階級に対する全ての矯正処置に参加する。また日常生活においては、彼等の上品ぶった 高慢な談義にもかかわらず、産業の木から落とされた金のリンゴを拾い上げることを厭わず、また真実、愛及び名誉を、ウール、砂糖大根及びジャガイモ酒と取引するために物々交換することを拒まない。
牧師がいつも地主と手を携えてふるまったように、聖職者主義の社会主義は封建的社会主義と手を携えた。
キリスト教的禁欲主義に社会主義の色合いを塗りこむほど楽なものはない。キリスト教は、私有財産に反対し、結婚に反対し、国家に反対して、熱弁を振るわなかったか
? 彼等は、これらのかわりに、慈善と清貧、独身と肉欲の苦行、修道院生活と母なる教会を、説教しなかったか? キリスト教社会主義は、わずかにそれをもって司祭が貴族の心臓‐燃焼を清める聖水にすぎない。
b. ぺチ・ブルジョア社会主義
(73p) 封建時代の貴族は、ブルジョアジーによって没落させられた唯一の階級ではなかった、彼等の生活状態が近代ブルジョア社会の大気の中でやせ衰え消滅した唯一の階級ではなかった。中世の自治都市の市民と小農経営者は、近代ブルジョアジーの先駆者だった。産業的にも商業的にも、ほとんど発達していない国々では、これら二つの階級は、上り坂のブルジョアジーと並んで今までどおり植物のように生長している。
近代文明が十分に発達した国々において、ペチ・ブルジョアという新しい階級が形成された。彼等は、プロレタリアートとブルジョアジーの間を浮動しながら、ブルジョア社会の補充部分として、自分自身を常に入れ替える。とはいえ、この階級の個々のメンバーは、競争の仕業
(しわざ)によってプロレタリアートの中に絶えず投げ落とされる、そして、近代産業の発展につれ、彼等は実際のところ、近代社会の独立したセクションとしては完全に消え去り、工場手工業・農業や商業においては監督員・農場管理人や売り子によって置き換えられる時の、やがてやってくる瞬間を読んでいるのである。フランスのように、農民が人口の半分以上を構成している諸国では、ブルジョアジーに対抗してプロレタリアートに味方する文筆家たちは、ブルジョア体制の批判において、農民とペチ・ブルジョアの基準を使い、かつこれら中間階級の見地から労働階級を勇敢に弁護する必要があったことは自然の成り行きであった。かくしてペチ・ブルジョア社会主義が現れた。シスモンデイはフランスのみならずイングランドにおいてもこの学派の頭領であった。
(74p) 社会主義のこの学派は、偉大な鋭さで近代生産の諸条件内の諸矛盾を解剖した。それは、エコノミストの偽善的な弁解を赤裸々に暴露した。それは議論の余地なく証明した、機械類と分業の悲惨な結果、 資本及び土地の少数の手中への集中、過剰生産と危機を。それは、指摘した。小市民と農民の避けられない破滅、プロレタリアートのみじめさ、生産の無政府状態、富の分配における捨て置けない不平等、諸国家間の皆殺しの産業戦争、古き道徳的絆・古き家族関係・古き民族意識の崩壊、を。
とはいえ、それを明確な意図でみると、社会主義のこの流儀は、生産及び交換の古い手段を、すなわちそれと一緒に古い所有関係および古い社会を再建すること、あるいは生産及び交換の近代的手段を、それによって爆破され又爆破されざるを得なかった古い所有関係の枠組みの中で、痙攣を起こさせること、を両方とも熱望している。どちらのケースにせよそれは、共に反動的かつ空想的である。
その今わの際の言葉は、マニュファクチュアのために法人同業組合を;農業においては家長関係を、である。
結局、頑固な歴史的事実が自己欺瞞に酔わされている全ての効果を追い散らしたとき、この社会主義の流儀は、惨めな二日酔いで終わった。
c ドイツまたは「真正」社会主義
フランスの社会主義的及びコミュニスト文献―その文献は政権を握ったブルジョアジーの圧制の下で創刊され、かつこの権力に対する闘争の表現であった―は、ドイツのブルジョアジーが自国において封建的絶対主義を相手にその論戦をちょうど始めた時にドイツに導入された。
(75p) ドイツの哲学者、自称哲学者、及び、色男エスプリ=才人才子 (文人) は、熱心にこの文献にかじりついた。ただ彼等は、これらの著作がフランスからドイツに移入されたとき、フランスの社会的諸条件がそれらと一緒に移住されなかったことを忘れたままであった。ドイツの社会的諸条件と接触して、このフランスの文献は、その早速の実用的意味全てを失い、そして、単に文献的側面を身につけた。このようにして、第18 世紀のドイツの哲学者に対しては、最初のフランス革命の要求は一般に「実践理性」の要求より以上のものは何もなかった、そして革命的なフランスブルジョアジーの意志の極限は、かれらの目では、純粋意志の法則、それがあるべしと束縛されたと同じ意志の法則、概して真の人間の意志の法則を意味した。
ドイツの知識階級の仕事は、唯一、新しいフランスの思想を、彼等の古くからの哲学的な良心と調和させること、より正確に言うと、彼等自身の哲学的見地を放棄せずに、フランスの思想を併合することにあった。
この併合は、外国の言語が専有される同じ入り口で、すなわち、翻訳によって行われた。
どのように修道僧が、古代異教人時代の古典的労作が書かれた写本-の上に-カトリック教聖人のばかげた伝記を書いたかについてはよく知られている。ドイツの学者連中は、神を汚すフランスの文学を理解してこのプロセスを逆転した。彼等はフランス・オリジナルの真下に彼等の哲学的ナンセンスを書いた。たとえば、フランスの貨幣の経済的諸関係についての批評の真下に、彼等は、「人間性の疎外」と書き、又ブルジョア政府についてのフランス人の批評の真下には、彼等は、「普遍的なカテゴリの廃位」と書いた、等々。
(76p) フランスの歴史的な批評の背後へのこれらの哲学的な空言の導入、彼等は、「行為の哲学」、「真正社会主義」、「ドイツ社会主義科学」、「社会主義の哲学的基礎」、その他、という名をつけた。
フランスの社会主義及び共産主義の文献は、このようにして完全に骨抜きにされた。そして、それが、ドイツ人の手のなかで、ある階級の他の階級に対する闘争を表現することをやめてからは、ドイツ人は「フランス的一面性」を克服しているとの、又現実の要求ではなく、真理への要求を、すなわち、プロレタリアートの利益ではなく、人間性の・一般概念としての人間の利益を、代表しているとの、意識を持つに至った。一般概念としての人間、すなわち無階級に属する人間は実在性を持たず、ただ哲学的幻想のもやのような分野に存在するだけである。
このドイツ社会主義は、その生徒らしい課題にいかにも真剣にそして厳粛にとりかかり、かつ、このような香具師流儀でその貧しい商売道具を賞賛したのであるが、とかくするうちに、そのペダンチックな無邪気さを徐々に失った。
ドイツの、そして特にプロイセンブルジョアジーの、封建的貴族政治と絶対君主制に対する闘争は、言い変えれば、自由主義運動は、いっそう真剣になった。
これによって、機会をうかがいながら長期にわたって望まれたことが「真正」社会主義に提供された。
(77p)すなわち、社会主義の諸要求を政治運動に突きつけること、伝統的なアナテマ(教会の呪い)を―自由主義に反対し、代議制政治に反対し、ブルジョア的競争、出版のブルジョア的自由、ブルジョア的立法、ブルジョア的自由平等に反対して―投げつけること、そのうえ大衆に向かってこのブルジョア運動によっては、得るものは何もなく、すべてのものを失わねばならないと、説教すること、であった。ドイツ社会主義は、自分がその愚かな木霊であったフランス批判主義が、現代のブルジョワ社会の実在を、その一致する実在の経済条件とともに、前提としたこと、又政治の構造がそれに対して適応したこと、まさにその諸事実の達成がドイツにおいては宙ぶらりんになっている闘争の目的だったことを、際どい所で、忘れた。絶対制諸政府、それらに従う教区牧師、教授、田舎の名士そして官僚等々のために、それ
(ドイツ社会主義)は、威嚇的なブルジョアジーに反対する歓迎すべき案山子として仕えた。それは甘い破滅のもとであった、鞭打ちと銃弾の苦い丸薬にもかかわらず、それをもってこの同じ諸政府が、ちょうど当時、勃興しつつあったドイツ労働者階級に投薬したのである。
この「真正」社会主義がこのようにドイツブルジョアジーとの戦いのために、武器として政府に仕えていた間、それは、同時に、反動的な利益、ドイツのフィリステイア人
(俗物・実利主義者の代名詞)の利益を直接に代表した。ドイツにおいては、プチ・ブルジョア階級―16世紀の遺物だが以来絶えず様々な形態のもとで再び突然現れている―は、諸事物の現存状態の本来の社会的基礎である。このプチ‐ブルジョア階級を保護することは、ドイツにおける事態の現存状態を保護することである(保護=弱いものを庇って護ること)。ブルジョアジーの産業的及び政治的な覇権は、確実な破滅をもってそれ
(78p)を脅す―一方では、資本の集中化から、他方では、革命的なプロレタリアートの上昇から。「真正」社会主義は、ひとつの石でこの二羽の鳥を殺すために現れた。それは、伝染病のように広がった。思索的なくもの糸のローブ、レトリック
(修辞学)の花で刺繍され、病的な感情のしずくで浸され、その中にドイツ社会主義者が彼等のかわいそうな「永遠の真理」、すべての皮と骨、を包んだこの超越的なローブは、こういう大衆の間で彼等らの商品の販売を驚くほど増大させるために奉仕した。そしてドイツ社会主義の方としても、ますます、プチ・ブルジョワ的フィリステイア人の大げさな代表者ように自称することを容認した。ドイツ社会主義は、ドイツ人を模範国民である、又ドイツのプチ・フィリステイア人を模範人間であると宣言した。この模範人間のもつすべての極悪非道な卑劣さに、彼等は、隠された・より高き・社会主義的解釈、その本当の特質の全くの反対物を、授けた。ドイツ社会主義
は、コミュニズムの「粗暴にして破壊的な」傾向に直接反対、さらに全ての階級闘争に関して彼等の至高かつ公明正大な侮辱を宣言、という極端な長さに及んだ。非常にわずかな例外で、現在(1847)ドイツで出回っている全てのいわゆる社会主義者とコミュニストの刊行物は、こういう不潔にしてかつ気力を弱める文献の部類に属する。
2 保守的もしくはブルジョア社会主義
(79p) ブルジョアジーの一部は、ブルジョアジ社会の継続的存在を保証するために、社会の苦情の種を除去することを望んでいる。
このセクションには、エコノミスト、慈善家、人道主義者、労働者階級の状態の改良者、慈善の組織者、動物虐待防止協会会員、節酒狂信者、想像できる種類全てのひそかな改革者が属する。社会主義のこの流儀は、さらに、完全な諸体系に仕上げられていった。
我々は、この流儀の実例として
プルードンの「貧困の哲学」を挙げよう。社会主義的ブルジョアは、近代社会の諸条件がもたらすあらゆる利点を、そこから必ず生じる紛争と危険ぬきに、必要とする。彼等は、革命や崩壊要素をマイナスした、社会の現存状態を要望する。彼等は、プロレタリアートなきブルジョアジーを望む。ブルジョアジーは生まれつき世界を、そこでは最善であることが最終である、という思いを抱く。そこでブルジョア社会主義はこの快適な概念を、様々な多かれ少なかれ完成した体系の中に発展させる。プロレタリアートにそのような体系の遂行を、そしてそれによって社会の「新しきエルサレム
(地上の楽園)」にはいる直線道路を行進することを、要求するとき、それはただ実際には、プロレタリアートが現在の社会の境界以内にとどまるべきこと、だが、ブルジョアジーに関する全てのその憎悪に満ちた認識を払いのけるべきことを要求するにすぎない。(80p) 第二の、実際的には勝るが組織的には劣る、この社会主義の方式は、労働者階級の目に、単なる政治的改善でなく、物質的生活諸条件における変化、経済的諸関係における変化だけが、彼等に、何かの利点を付け加えることができたことを示すことによって、すべての革命的な運動を軽視させようと努めた。物質的生活諸条件の変化に関しては、この社会主義の方式は、何があろうとも、生産のブルジョア的諸関係の廃止を全く理解しない。廃止、それは、革命によってのみ作用され得る、しかし行政改革はこれら諸関係の持続的存在を根拠とする。改革は、それゆえに、注意するほどもない程度には労使間の関係に影響する、が、最良でも、僅かにコストを減らして、ブルジョア政府の管理上の仕事を簡略化するだけである。
ブルジョア社会主義はその時適切な表現に達成する、そうほんの、それが一個の単なる比喩的表現になる、その時だけ。
自由貿易
: 労働者階級のために。保護関税: 労働者階級のために。刑務所改革:労働者階級のために。これが、ブルジョア社会主義の締めくくりのせりふと唯一まじめのつもりで言う言葉である。それは、警句に要約される。ブルジョワは、ブルジョワだ―労働者階級のために/にあてつけて。
3 批判的・空想的な社会主義および共産主義
我々はここでは、すべての偉大な近代の革命において、バブーフ及びその他の著述家のように、プロレタリアートの要求をいつも声に出した文献には言及しない。
(81p) プロレタリアート自身の目的を獲得する彼等の最初の直接的試み、それは、一般的な騒乱の時代すなわち封建社会がひっくり返されていた時代に引き起こされた、が必然的に失敗した。当時プロレタリアートの未発達の状態、加えて彼等を解放する経済的諸条件の欠如のためであった。いつかは産み出されなければならなかったその諸条件は、その後に差し迫ったブルジョワ新紀元によってのみ産み出され得た。プロレタリアートのこれら最初の運動に伴った革命的文献は、必然的に反動的な性格を持った。それは、その最もありのままの形式での、普遍的な禁欲と社会の平準化を繰り返し教え込んだ。
社会主義者及びコミュニストの諸体系―聖サイモン、フーリエ、オーエンその他に対して適当にそう言われていた―は、前述の、プロレタリアートとブルジョアジー間の闘争の初期未発達時代に、一躍出現した。
これらの諸体系の創始者たちは、実際に、階級対立を
,それと同時に社会の支配的枠組みの中にある分解要素の活動も知る。しかしプロレタリアートは、それまではその幼年期の故に、いかなる歴史的イニシアティブ、又はいかなる独立した政治運動も伴わない、階級の、哀れな光景を彼等に提供する。階級対立の進展は工業の進展と同一歩調をとるので、経済状態は、彼等がそれに気付くとおり、プロレタリアート解放のための物質的諸条件を、彼等にまだ提供していない。彼等はそれゆえに一つの新しい社会科学を、新しい社会法則を求め、それがこれらの諸条件を創造するためのものとして物色する。
歴史的行為は、歴史個人の自発的活動に由来する。歴史的に創造されるべき解放の諸条件をファンタジックな諸条件へ、及び漸進的・内発的であるべきプロレタリアートの階級組織を社会の組織へ、は特にこれら発明者によって考案された。未来の歴史は、彼等の目論見どおり、彼等の社会諸計画の宣伝や実際的な遂行の中で、歴史自身を変形させる。
(82p) これら計画の構成において、彼等は、一番の受難階級として、主として労働者階級の利益に関心を持つことに気付いている。単に、最も受難階級であるという観点からでだけ、彼等にとってプロレタリアートが存在する。
階級闘争の未発達状態に加え、彼等自体のもろもろの環境は、この種類の社会主義者に、自分たちが全ての階級対立をはるかに超越する存在であると見なすようにさせる。彼等は、社会すべてのメンバーの状態を改良することを望んだ、それも最も恵まれたものを含めて。従って、彼等は習慣的に、階級の区別なく広く社会に訴える。否、好んで、支配階級に。ひとたび彼等が彼等のシステムを理解して、社会にとっての最良可能な国家の最良可能な計画をその中に見ることに失敗したときの代りに、人々はどのようにすることができるか?
そのときから、彼等は全ての政治的な、特に全ての革命的活動を拒絶する。
彼等は、平和的方法によって彼等の目的を達成することを望む、余儀なく失敗を運命づけられるや、例によって新しい社会福音への道を開くことを望む。未来社会についてのこのような空想的な画像は、プロレタリアートが非常に未発達の状態にいて沈黙しており、また彼等自身の立場についてのほんの空想的な概念しか持っていなかった時代に描かれたものであるが、それは社会の一般的再建に関するその階級の最初の本能的なあこがれと一致する。
(83p) しかしこれらソーシャリストおよびコミュニストの刊行物は、また批判的な要素を含む。それらは、現存社会すべての原理を攻撃する。従って、それらは、労働者階級の啓発のために最も高価な資料・データで一杯になっている。それらに盛り込まれた実際的諸施策―都市と農村間の区別の廃止、家族の廃止、私的な個人勘定中心の諸工業運営の廃止、ついで賃金制度の廃止、社会調和の宣言、国家の機能をより多く生産監督へ転換―全てこれらの提議は唯一つ階級対立の消滅を指摘する。階級対立は、当時、かろうじて出現したばかりであり、これらの刊行物においては、それらの最も早い段階での不明瞭なそして不確定な諸形態でだけ認められている。これらの提議は、それゆえに一つの無邪気な空想的キャラクターに属する。
批判的・空想的社会主義およびコミュニズムの意味は、歴史の発展に対し逆関数の関係
(倒置関係)をとる。現代の階級闘争が発展し明確な形状をとるのに比例して、この空想家はその闘争の埒外にたち、同時にこれら空想家たちがそれを攻撃し、全ての実践的価値と全ての理論的正当性を失う。それゆえに、これらのシステムの創始者たちが多くの点で、革命的であったとしても、彼等の弟子たちは、すべてのケースで、単なる反動的な分派を形成した。彼等は、プロレタリアートの進歩的歴史的な発展に反対して、自分等の師匠の独創的見解に固執する。彼等は、それ故、努力する、が、それは一貫して階級闘争を弱め、階級対立を和解させるためにだ。彼等は、今でも自分等社会ユートピアの実験的実現、隔離された「ファランステール」を創設すること、「ホーム コロニー」を開設することもしくは「小イカリア」―ニューエルサレムのポケット判―を建てること、の夢を見る。そしてこれら空中楼閣全てを実現するために,彼等はブルジョアの同情と財布に訴えざるを得ない。次第に、彼等は、上で述べた反動的保守的社会主義者のカテゴリーにのめり込む。これらと違うところは、専ら、より体系的なベダントリ(衒学)、自分等の社会科学の奇跡的な効果への熱狂的で迷信深い信念、によるだけである。(84p) 彼等は、それゆえに、労働者階級の資質として全ての政治的行動に激しく反対する。そのような行動は、彼等によれば、新しい福音への盲目の不信心からのみ生ずる結果と言えるからである。
イングランドにおけるオーウエン主義者とフランスにおける、フーリエ主義者は、それぞれ、チャーチスト及びリフォーミストに反対する。
Ⅳ 種々の反対党に対するコミュニストの立場
(85p) 第2章は、既成の労働階級諸政党に対するコミュニストたちの諸関係を明瞭にした、例えばイングランドにおけるチャーチストら、そしてアメリカにおける農業改革党のように。
コミュニストたちは、即時的諸目的の達成のため、労働者階級の束の間の利益を力づくで確保するため、に闘う。ただそれだけではなく、その当面の運動の中で、彼等はまたその運動の未来を語りそれについて配慮する。フランスにおいては、コミュニストは保守的で急進的なブルジョアジーに対抗し社会民主党と同盟する。とはいえ、「大革命」から伝統的に順番に受け継いできた諸局面と錯覚の故に、批判的立場をとり得る権利を留保しながら、である。
(86p) スイスでは、彼等は急進派を支持する。ただし、この党が敵対的要素、すなわち一部は「民主主義的社会主義者」、フランス的意味において、一部は急進的ブルジョワ、から成るという事実を見失うことはない。
ポーランドでは、彼等は、国民解放のために第一の条件として農業革命を主張する政党を支持する。それは
1846年にクラクフの反乱を醸成したあの政党である。ドイツでは、彼等は、ブルジョアジーが革命的な方法で振舞う限りいつでも、絶対君主制、封建的な地主階級、さらにプチ・ブルジョアジーに対抗してブルジョアジーと共に戦う。
しかし彼等は、一瞬の間も、ブルジョアジーとプロレタリアートの間の敵対的な対立について、最も明瞭にして実行可能な認識を、労働者階級の中に徐々に浸透させることを、決して止めない。それは、ブルジョアジーがその主権と共に必然的に持ち込まなければならない社会的政治的な条件を、ブルジョアジーに対抗するそれだけ多くの武器として、ドイツ労働者が直接に使用できるようにするためである。さらにそれは、ドイツにおける反動的階級の倒壊後、ブルジョアジー自身に対する戦いが即座に始まるようにするためである。
コミュニストたちは、注意を主にドイツへ向ける。というのは、ドイツがブルジョア革命の前夜にあるからである。その革命は、ヨーロッパ文明のより進歩した諸条件のもとで、また
17世紀のイングランド、および18世紀のフランスのプロレタリアートより、はるかに多くの数の先進的プロレタリアートを伴って、遂行されるように義務づけられているものである。また、ドイツでのブルジョア革命は、ともかく直ちに次に続くプロレタリア革命の前兆であろうからである。(87p) 要するに、コミュニストらは、至る所で、当面の問題について現存する社会的並びに政治的な秩序に反対する、すべての革命的な運動を支持する。
全てのこれら諸運動おいて、彼等は、所有の問題を、その時の発展の程度がどうあろうと、各段階における指導的な問題として、正面に持って来る。
最終
(決定)的には、彼等は至る所で、全ての国の民主主義諸政党の結合と合意のために働く。コミュニストは、自分の見解と目的を隠すのを軽蔑する。彼等は、彼等の目的がすべての既成社会の諸条件を強制的に転覆することによってのみ達成され得ると公然と宣言する。支配階級をしてコミュニスト革命に震えあがらせよ。プロレタリアは、彼等の鎖以外失うべき何物も持たない。彼等は世界をかちとらねばならない。
万国のプロレタリアよ、団結せよ!