プロレタリア独裁論 |
(最新見直し2006.5.20日)
【「プロレタリア独裁(ディクタツーラ)」の語源考】 |
「独裁」は、ドイツ語で「ディクタツル(Dictatur)」(ラテン語でディクタツーラ)の和訳語である。英語で「Dictatorship」、イタリア語で「Dittatura」、フランス語で「Dictatura」。 「ディクタツル」は元々、古代ローマで生まれた「過渡的な帝政」を称するもので、ギリシャ時代にも古代東方や日本にもない。極めて独特なもので、日本語にそれに当てはまる言葉は無い。これを語源的に追跡すると、次のようなものである。 古代ローマで、内外危機の非常時に際して、元老院は民主主義的な決定により全権力を握って「暴力的強制つまり強権による政治を為す権限」を持つ執行官を選出した。但し、この執行官は、危機を通り抜けたら又もとの「コンスル(執政官)政治」に戻り、任期は普通半年の臨時的なものであった。この制度を「ディクタツル」と称するが、これを如何に和訳せんか。補足すれば、「ディクタツル」は当初はその意義が十分踏まえられていたが、後に専制君主制に道を開くことになった。 近代の社会主義者で「ディクタツル」という用語を初めて使ったのは、フランス革命末期に登場した共産主義者バブーフであった。それがブオナロッチ、ブランキを通ってマルクスに伝わった。マルクスに至った時、マルクスの手にかかってた「ディクタツル」は以前とは違う意味を付与されることになった。ローマでもバブーフ、ブランキでも、「ディクタツル」とは、国家機関の統治形態(例えば、古代民主制、君主制、帝政、立憲君主制、共和制等々)の一種という意味で使われていたが、マルクスの場合は階級闘争論に基づく国家体制の支配形態(王朝君主制、封建国家制、ブルジョア国家、プロレタリア国家等々)を表わす意味に使い始めた。 中国では、「ディクタツル」を「専制」と表記している。但し、「専制」に、「暴力的強制つまり強権による政治を為す権限」まで込められているかどうか、やや疑問とする。つまり、名訳とまでは行かない。 日本では長い間、「ディクタツル」を「独裁」と訳して怪しまれなかったが、日共の宮顕-不破党中央がこれに疑義を唱え始めた。これは功績であり、このことを批判される謂われは無かろう。問題は、如何に適正新訳語を見出したのかしてないのかにこそある。日共は、当初は「ディクタツル」の原語をそのまま使用し始め、次に第12回党大会で「執権」と表記することになった。しかし、この訳は中国訳よりも劣っており、マルクス主義的「ディクタツル」の真意を曖昧にこそすれ、より正確さの面で後退でしかない。 「長い間独裁という訳語が日本では伝統的に定着してきているので、今更それを変える必要はないではないかという意見にも一理はある。独裁という文字面に拘わらないで、その本当の意味を解説していけばいいではないか、という論である。しかし文字面からみても、その内容をつかめるような言葉が見つかれば、それに改めるにこしたことはない」。これは正論であろう。 ならば、どう適訳すべきだろうか。れんだいこは、とりあえず「政治的強権支配」と訳しておく。 2005.3.5日再編集、2006.5.20日再編集 れんだいこ拝 |
【マルクス、エンゲルスのプロレタリア独裁論】 | ||||||||||||||
マルクス、エンゲルスは、1848.2月に執筆した「共産主義者の宣言」の中で次のように述べている。
「プロレタリア独裁」という用語そのものは、「共産主義者の宣言」の文中には見当たらない。「プロレタリア独裁」が明確に現われたのは、「フランスにおける階級闘争848年から1850年まで」の中での次の一文とされている。1850.1月から11.1日にかけて執筆した。
マルクスは、1852.3.5日付けの「マルクスからヨーゼフ・ヴァイデマイアーへ」の中で次のように述べている。
1871.9月、「国際労働者協会創立七周年祝賀会での演説」の中では次のように述べている。
「共産主義者の宣言」の1872年ドイツ語版への序文で、マルクスとエンゲルスは次のように主張している。
こういう経緯を経て、エンゲルスは、1875.4月―5月初旬に執筆した「ゴータ綱領批判」の中で、プロレタリアートの革命的独裁について次のように定式化した。
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【レーニンのプロレタリア独裁論】 | ||||||||||
レーニンは、「偉大な創意」の中で次のように述べている。
レーニンは、1917.8―9月に執筆した「国家と革命」の中で次のように述べている。
レーニンは、1918.3―4月に執筆した「ソビエト権力の当面の任務」の中で次のように述べている。
レーニンは、1918.3―4月に執筆した「ソビエト権力の当面の任務」の中で、次のように述べている。このレーニン的観点とマルクス・エンゲルスのプロレタリア独裁論と通底具合は分からないが、レーニンのプロレタリア独裁論の特色を示している。
レーニンは、1920.4―5月に執筆した「共産主義内の「左翼主義」小児病」の中で次のように述べている。
レーニンは、1919.10月に執筆した「プロレタリア階級独裁の時期における経済と政治」の中で次のように述べている。
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【プロレタリア独裁論に於けるマルクスとレーニンの関係】 | |||
マルクスは、プロレタリア独裁の具体的中身についての言及をしていないようである。レーニンがこれに詳述していく役割を担った。「国家と革命」の中で次のように述べている。
レーニンは、「プロレタリア革命と背教者カウッキー」では次のように述べている。
補足すれば、プロレタリアート独裁とは、政治、経済、文化の三分野での革命を強力的に行うために要する強大且つ独裁的な権力で、第一に、「ブルジョア国家機構を暴力的に破壊し、これを新しい国家機構に作り変える」(「国家と革命」)為に必要である。第二に、「打ち倒された搾取者どもが十倍の精力と狂人のような熱情と、百倍にも増大した憎しみを持って奪い取られた楽園を取り戻すために行う反革命と闘う」(「背教者カウッキー」)為に必要である。第三に、「旧社会の勢力と伝統とに対して行われる頑強な闘争、すなわち、流血の又は無血の暴力的又は平和的な、軍事的又は経済的な、教育的又は行政的な闘争を行う」(「左翼小児病」)為に必要であるとしている。 |
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問題は、マルクス主義に於いて理論的に未解明な国有化理論に基づき、ポルシェヴィキ一党独裁で戦時共産主義政策を強行したことにあった。近代民主主義的諸国家が形成してきた「三権分立」制度に対しても暴力的に破戒し、一党独裁制を生み出した。それに伴う官僚制を生み出した。これらの根本的総括は未だ為されていない。 2006.5.20日 れんだいこ拝 |
【プロレタリア独裁論に於けるスターリンテーゼ】 | ||
スターリンになると、次のように述べている。
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![]() 公然と、共産党独裁論にすり替えていることが判明する。問題は、こういう暴論の登場に対して、これを押しとどめる理論を持っていないことがクマルクス主義の根本的誤謬であったが、これまた根本的総括は未だ為されていない。 2006.5.20日 れんだいこ拝 |
(私論.私見)