史実としての共産党独裁について |
(最新見直し2009.6.15日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
「ロシア十月革命」以降のボルシェヴィキ運動は、プロレタリアート独裁を理論としつつ実際には共産党独裁へ転じた。この経過の批判的検証を為さぬままのマルキストなぞ在り得て良い訳が無かろう。世にソビエトロシアの変質を批判する者は多い。そういうマルキストが、共産党独裁を二度と起こさせない手立てを講じぬまま後付け批評だけで責任果たし顔するなら、マルキストの憧憬するような次代の社会はいつまでたってもやってこないし、やってくるべきでもなかろう。そのような問題意識から、以下、共産党独裁へ転じたロシア・マルキシズムの経過を検証してみたい。 |
史上初めてマルクス主義に基づく社会革命となった「ロシア十月革命」に勝利したレーニン率いるボルシェヴィキは、これまた史上未曾有の困難に直面した。困難さの事由としては、1、革命政権の国家建設を廻る手法の対立、2、ボルシェヴィキ内部の対立、3、ボルシェヴィキと左派系他党派との対立、4、革命政権後の労働運動、農民運動を廻る対立、5、革命政権と反革命派との内戦、6、外国軍の干渉、7、経済危機の進行、8、伝統的後進性による経済建設の困難、9、西ヨーロッパ諸国での革命の失敗による一国的孤立等々が挙げられる。 そうしたロシアの歴史的状況下、新革命政権には強力な国家指導体制が要求され、理論的には「解決済み」であったプロレタリア独裁概念の歴史上初めての具体的適用の手法が問われることになった。レーニンは当初、『カデットの勝利と労働者党の任務』で 「ただ革命的人民の独裁であって、全人民の独裁ではない」と説いていたことからすれば、「革命的人民の独裁」論にシフトしていた事が分かる。この時、「革命的人民の独裁」と共産党独裁との距離がいかほどであったのであろうか、問題はここにある。 大藪龍介氏の「国家と民主主義」の「レーニンのプロレタリアート独裁論」には次のように書かれている。史実は、「プロレタリアート独裁の前衛党による代意・代行の要素はすでに点在していた」。 「10月革命後、経済の改造も困難を極め、資本家の収奪から労働者による生産の管理を迎えるなかで、労働の組織化という根本的で焦眉の課題に関して、労働者大衆がその任務を果たしえず、生産が混乱に陥るという事態が出現した。そのとき、レーニンは、経営管理の様式について、管理者の選挙制を任命制へきりかえるとともに、合議制にかわる単独責任制の採用を推し進めた。企業管理者への単独処理の権限の賦与は、生産現場で生じた無責任体制から脱するためのやむをえざる避難措置であった。その際にレーニンが『純行政的な諸機能の一定の時機における、一定の作業過程のための、個人の独裁を決然と擁護』して組み立てた論理は、本節の検討題材として止目すベきものであった 」。 レーニンは、独裁論についてかなり容易に道を開く理論を持っていた。それがロシア十月革命以降の情況的厳しさがそうせしめたものか、レーニン主義的嗜好であったのか容易には判断が付かない。レーニンは、史上の独裁事例を例証しながら、概要「ソヴェト的(すなわち、社会主義的)民主主義と個々人が独裁的権力を行使することとのあいだには、どのような原則的矛盾もけっしてない。プロレタリアート独裁を――個人を通じても――実現する」(『ソヴェト権力の当面の任務』)とした。この独裁論は、経営管理の場面にも適用され、単独責任制を次のように正当化している。「現在の時機に特有の任務という見地から見た、ほかならぬ個人的独裁権力のもつ意義という問題については、あらゆる機械制大工業……が、数百、数千、数万の人々の共同作業を指導する意志の、無条件的な、最も厳格な統一を要求するといわなければならない。……この服従は、共同の仕事に参加する人々の自覚と規律性とが理想的である場合には、むしろ、オーケストラ指揮者のおだやかな指揮を思わせるかもしれない。もし、規律性や自覚が理想的でない場合には、この服従は、独裁の鋭い形態をとることもありうる」(『ソヴェト権力の当面の任務』)。 1919年以降、レーニンは、政党、それも唯一の政党の独裁を公然と唱えた。それは、メンシェヴィキやエス・エル両派などの他政党のソヴェトからの追放という既存の事実の確認でもあり、党外からは猛烈な非難と反撥をかったが、ボリシェヴィキのあいだでは自明の理のごとく受け入れられた。レーニンは、『共産主義内の「左翼主義」小児病』の中で、 「『党の独裁か、それとも階級の独裁か? 指導者の独裁(党)か、それとも大衆の独裁(党)か?』という問題の立て方だけでも、まったく信じられないほどの、手のつけられない思想の混乱を証明している」と述べた後、「党の独裁は階級の独裁を全うする」と主張している。「革命以後のレーニンは、個人ないし党派の独裁をいかに許さないかではなく、反対に、それをいかに正当するかにきゅうきゅうとしていた」(大藪龍介「国家と民主主義」の「レーニンのプロレタリアート独裁論」)ことになる。 レーニンは、「ロシア共産党(ボ)第9回大会」で、個人の独裁の容認は、「とうの昔に解決された問題」として広く公認されるにいたっているとした上で、「ソヴェト社会主義的民主主義は単独責任制および独裁とは少しも矛盾せず、階級の意志はときとして独裁者によって実現されるものであり、この独裁者は往々、一人でより多くの仕事をなし、またしばしばより必要である」と宣明している。 「ロシア共産党第10会大会」において、唯一前衛党とその指導的役割を定式化し、一党独裁をプロレタリアート独裁と公称する論理を組みあげた。概要「マルクス主義が教えるところによれば、労働者階級の政党、すなわち共産党だけがプロレタリアートおよび勤労大衆全体の前衛を統合し、育て、組織することができるのであって、この前衛だけが、プロレタリアートを指導し、プロレタリアートを通じて勤労大衆全体を指導することができるのである。これなしには、プロレタリアートの独裁は実現できない」。 レーニンは次のようにも云っている。党とプロレタリアート独裁の関係について、「党は、プロレタリアートの前衛をいわば吸収し、この前衛がプロレタリアートの独裁を実現するということになる」(レーニン著『労働組合について、現在の情勢について、トロツキーの誤りについ て』1920年12月 レーニン全集第32巻大月書店)。時には論争口調で、「彼ら(メンシェヴィキやエスエルのこと-引用者)が一党の独裁だとわれわれを非難して、諸君もお聞きのように社会主義統一戦線なるものを提案するとき、われわれはこう言う。『その通り、一党の独裁だ!われわれは一党の独裁のうえに立っているし、この基盤からはなれるわけにはいかない。』」(レーニン著『教育活動家および社会主義文化活動家第一回ロシア大会での演説』 1919年7月 レーニン全集第29巻)と、「一党の独裁」という表現もつかっている。 レーニンは、1950.7月の共産主義インターナショナル第二回大会でイギリス代表タナーの発言(タナーは、プロレタリアートの独裁は支持するが、レーニンらの考えるそれには賛成できないというもの)に関連して、次のように言っている。概要「資本主義による搾取・抑圧により、ほんとうに自覚した労働者は、全労働者の少数を占めているにすぎない。だから、われわれは、この自覚した少数者だけが広範な労働者大衆を指導し、率いていくことができるというを、みとめざるをえない。自分は党の敵であるが、しかもそれと同時に、もっともよく組織された、もっとも革命的な労働者の少数者が全プロレタリアートに進路をしめすことには賛成であると、同志タナーが言うならば、われわれのあいだには、実際には違いはないのである。組織された少数者とは、なんであろうか?この少数者が、ほんとうに自覚しており、大衆を率いていく能力があり、日程にのぼっている一つ一つの問題に解答をあたえることができるならば、その少数者は、実質的には党である。もし、少数者が大衆を指導し、大衆と緊密に結びつくことができないならば、たとえ、その少数者が党と自称し、あるいは職場世話役委員会全国委員会と自称しても、それは党ではなく、まったくなんの値うちもないものである」。 こうしたレーニンの発言をみると、真意は、「党の独裁」というよりも、「プロレタリアートの真の前衛がプロレタリアートを指導し、独裁を実現する」という点にあるといえる。しかし、ボリシェヴィキ指導者のあいだでは、手っ取り早く「党独裁」の語が独り歩きしていくことになり、かくて、一党独裁の積極的な承認は、レーニン主義とボリシェビズムの根本教義の一つになっていった。 トロッキーとジノヴィエフも、それぞれにこのレーニン主義を追従している。トロッキーは、『テロリズムと共産主義』の中で、内戦のさなかに、カウツキーに反論して、「われわれは一度ならず、ソヴェトの独裁を党の独裁によって置き換えたといって非難されてきた。だがソヴェト独裁が党独裁によって初めて可能となったということは、全く正しいのだ」と述べている。 ジノヴィエフも、『レーニン主義研究』の中で、「プロレタリアート独裁は、その前衛の独裁なしには、すなわちプロレタリア党の独裁なしにはありえない。すくなくともプロレタリアートの勝利の、安定した独裁は、プロレタリア党の独裁なしにはありえない」と述べている。又、労働者民主主義の見地からレーニン、トロツキー等の中央指導部を痛烈に批判した労働者反対派の指導者シリャープニコフも、「『プロレタリアート独裁、その前衛すなわちわが党の独裁』という点については何の異論もないと述べている」(塩川伸明著「スターリンのプロレタリアート独裁論」─『思想』1977年12月号)と紹介されている。 こうした見解を聞けば、ロシア・マルクス主義者の指導的メンバーのほとんどは当時、レーニンをはじめとして、党独裁を容認していたことになる。 厳密にいえば、「前衛による独裁」と、「党の独裁、あるいは一党独裁」とはおなじではない。「前衛による独裁」の場合は、一党、複数党だけでなく、無党派の先進分子もふくまれる。ただロシア革命の過程は、主客の諸条件によってボリシェヴィキ一党に収斂していった史実が刻まれている。。 ところで、マルクスが青写真させていたのは、マルクスの時代には未だ組織化された左派政党が未発達だったということも関係しているだろうが、もっと広義の概念規定で、「プロレタリアートの解放は、プロレタリアート自身の事業である」と述べるにとどまっている。ロシア革命の苛酷な過程が「一党独裁」を生み出し、その結果一党制へと辿り着くことにもなった。仮に「戦時共産主義」が生み出した非常経過であったとしてみても、「いわゆる党独裁は、一時的な(プロレタリアート独裁の)代行措置とみるべきであろう」。だが、その後の経過から見て、ボリシェヴィキの指導者たちがこの点で必ずしも自覚的であったとはいえない。エスエル、メンシェヴィキとの統一戦線の破綻の経過で、ボリシェヴイキにセクト主義がなかったかどうか、などの点については総括が必要であろう。この問題について、当時のボリシェヴィキは必ずしも自覚的とは言えず、この問題について今日も十分な組織討議はなされていない。 この段階と後日襲ってくるスターリニズムの距離の深さないしは一足飛び性の検証がいるが、後日に期したい。 |
史上、このようにして発生した個人独裁及び共産党独裁は、今日極めて評判が悪い。ソ連邦の崩壊という史実結果からすれば、それがあまりにも民主主義一般に対する軽視であり、却ってソ連邦の体制力を削いだ罪の面の方が強く見えてくる。特に、議会制民主主義に対する問題として、「一党独裁、複数政党制の否認」を是認した結果、階級内部の分岐した政治的諸傾向を体現させ競い合うことで向自的な発展を獲得するという道が閉ざされた。このことが社会の活力を大きく削いだように思われる。次に、大衆団体民主主義に対する問題として、「ベルト式下請け機関化」したことにより、大衆組織の自律性がもたらす社会発展の創意工夫力を獲得するという道が閉ざされた。このことが社会の活力を大きく削いだように思われる。 「つまるところ、プロレタリア民主主義の発揚と生き生きした作動なしには、階級としての政治的支配、ひいては階級としての独裁はありえない。階級としてのプロレタリアートの独裁は、ひとえにプロレタリア階級の民主主義の高揚いかんにかかっているのである」(大藪龍介「国家と民主主義」の「個人独裁、党独裁の容認」)にも関わらず、抑圧的自閉的な社会作りへ向かうことになった。この長年の蓄積が、資本制社会が辛うじて保ってきたガス抜き装置としての「自由民主」制に対しても劣るという悲惨な結果を招いたことを痛苦に受け止めねばならないであろう。 |
イタリア共産党は、1976年、プロレタリア独裁を放棄。1989年、民主的中央集権制と繋がる前衛党概念を放棄。1991年、左翼民主党と党名を改称。2007年、保守のマルガリータと合同して消滅。 |
(私論.私見)