日本古代史同様に朝鮮古代史も解明されていない。日本史がその後単一系の大和民族を形成しアイデンティティを獲得するのに比して、朝鮮史の場合には複雑多岐な民族から成り立ちアイデンティティ獲得に至っていないように思われる。その象徴として、現在の38度線仕切りの南北分断に至っていると考えられるのではないのだろうか。これを素描する。
朝鮮民族は元々、遊牧狩猟民のモンゴル諸部族、ツングース系の北方異民族、中国系の漢民族、南方系、倭系等々複雑な民族ルーツに満たされている。相互の支配抗争により「自己喪失」で満たされている。歴史上の登場は中国に頼らざるを得ない。それによれば、初めて「朝鮮」を名乗ったのは当時の「中国人」であり、春秋・戦国時代の燕(現北京に都した周の分封国)に隣した「箕氏朝鮮」として登場する。箕氏朝鮮がその存在とともに、歴史年代が明白となってくるのは滅亡に関しての記録においてである(『後漢書』)。戦国末期の燕、秦帝国、そして前漢と強者が変転する動乱がうち続く中で、旧燕からの亡命者・衛満という者によって箕氏は滅ぶ。紀元前194年ごろ、替わって立ったのは衛氏朝鮮である。朝鮮の北部は、紀元前二世紀はじめ以来、燕国戦国時代に、河北省方面にできた国からの亡命者である衛満のたてた王朝が支配していた。
前漢時代の東夷諸国の状況をみると、松花江流域には夫余、鴨緑江流域には高句麗、遼東半島には狛、現在の江原道一帯にはわい、大同江流域には朝鮮が居住していた。さらに現在の忠清北道.忠清南道.慶尚北道.慶尚南道.全羅北道.全羅南道にかけては韓が居住していた。
同109年、衛氏朝鮮は漢の武帝によって滅ぼされ、同108年、その故地に直轄植民地として楽浪郡、真蕃郡、臨屯郡、玄莵郡の四つの郡を設置して郡県統治をおこなった。中国の朝鮮支配は、紀元後313年、高句麗が楽浪郡を滅ぼすまで継続する。前82年には真蕃郡、臨屯郡、が廃止されその一部が、玄莵郡、楽労群の二郡に吸収された。前75年には、玄莵郡が、遼東郡に吸収された。
紀元後1世紀ごろ、高句麗が南進し、楽浪郡を圧迫し始める。その東部にはワイ族と貊族がいた。2世紀後半、中国・後漢政権の衰弱に伴い楽浪郡も衰える。辰国は、馬韓王を共同王として頂きながらも、馬韓・弁韓・辰韓の三韓体制となる。中華帝国の綻びは、周辺国に動揺を与えるのだ。後漢書には「倭国で大乱」とも記録されている。後漢末期、楽浪郡南部を帯方郡とし、植民地再建をはかるが、後漢は滅び、魏がその後を継ぐ。その帯方郡へ使節を派遣し「親魏倭王」と信認されたのが卑弥呼である(239年)。紀元後57年、楽浪郡へ「倭奴国」が朝貢し、蛇の取っ手が付いた金印の下賜している。107年、「倭国王帥升」も朝貢している。
朝鮮南半部の古代の韓族は、辰韓、弁韓、馬韓の三地域に分かれていた。倭がこの地域の一部に所在していたかどうかを廻って諸説がある。東夷伝韓の条に、韓は帯方の南にあって。その南は倭と接しているという記述がある。北部九州と南朝鮮とは、三世期の倭人伝の世界よりもずっと以前から、同一生活圏であった。弥生時代の葬法である甕棺は北部九州と南朝鮮との海峡沿岸地帯に認められている。同じく、支石墓は、南朝鮮式のものが北部九州にひろがっている。箱式石棺も朝鮮からきたものだ。ところが、北方から夫余族が南下して、馬韓の北方の伯済国を領土し、次第に馬韓諸国を併合して百済国を建てた。又辰韓の一国であった斯盧が強大となり、辰韓諸国を統一して新羅国を建てた。これに対して、弁韓諸国は結束を固めて加羅(加耶)六国として残った。狗邪韓国は、その加羅六国の一つで、後に金官加羅又は任那と呼ばれたものである。
こうして、3世期の朝鮮は、おおまかにいって四つの民族的な地域に分けられていた。今の鴨緑江をはさみ、満州と北部朝鮮とにわたって高句麗があった朝鮮半島を背骨のように北から南へ縦走する太白山脈の東日本海側にはわいはくがあった。ここに満州にいた夫余が南下して居住する。山脈の西ぼっかい湾側が、楽浪郡.帯方郡のあった管轄地域で、遼東半島と地続きとなって魏の直接支配地であった。朝鮮南半部は、辰韓.弁韓.馬韓の三地域に分かれていた。倭がこの地域の一部に所在していたかどうかを廻って諸説がある。東夷伝韓の条に、韓は帯方の南にあって。その南は倭と接しているという記述がある。
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