邪馬台国四国説考その3

 更新日/2019(平成31→栄和元).5.2日
 (目下、全く不十分です。引用、転載元は改めて確認する予定です)

 (れんだいこのショートメッセージ)


 2003.9.12日、2007.1.10日再編集 れんだいこ拝


 「『隋書』から倭(ヤマト)国の所在地を特定する①」。
 倭国との関連(岡田英弘説)
 
 古代中国の史書では、洛陽盆地から見た非中国人を夷狄戎蛮(東夷・西戎・南蛮・北秋)と称する。岡田英弘は、史記の記述、夏人伝承の分布地、史書に記述される夏人が龍を祖先神とすることなどから東夷を夏人とし、水上民族であったのではないかとする。さらに、夏及びその後継と言われる河南省にあったとされる杞(き)国などを参照しながら、「夷」と呼ばれた夏人が長江や淮河(わいが)流域の東南アジア系の原住民であったことや、禹の墓があると伝承される会稽山が越人の聖地でもあり、福建省、広東省、広西省からベトナム北部に掛けて活動していた越人が夏人の末裔を自称していること、また周顕王(けんおう)36年(前333年)、越国が楚に滅ぼされ越人が四散した後、秦始皇帝28年(前219年)に琅邪(ろうや)を出発したといわれる徐福の伝承などを示した上で、後燕(こうえん)人が朝鮮半島に進出する前に、これら越人が日本列島に到着したのだろうと推定する。

 『隋書』から倭(ヤマト)国の所在地を特定する①
 「孝武本紀」に、
 天下名山八,而三在蠻夷,五在中國。
 中國華山、首山、太室、泰山、東萊,此五山黃帝之所常遊,與神會
 (天下の名山は八つであり、その内三つは蠻夷に在るが、五つは中國に在る。中國の華山、首山、太室、泰山、東萊がそれであり、この五山は黃帝が常に遊び、神と會した所である)

 天下(人間が住む世界)を「中国」と「蛮夷」に二分し、この五山のある範囲が「中国」であるとしている。「中国」とは首都長安を中心とした黄河中下流域を指す。儒教の世界観では「中国」(天子の支配が直接に及ぶ範囲)は「方一万里」とされていた。初期(前漢)の礼記では、九州(中国)は方三千里とされていたが、皇帝の支配する都市の所在範囲が広がるに連れ実情に合わなくなり、前漢を簒奪した王莽(おうもう)は「古文尚書」の方一万里説を採用するに至った。「方一万里」とは「一辺が一万里」の正方形の世界であり、中心となる帝都からそれぞれの境界まで五千里ということを意味している。後漢書では洛陽から西の端である敦煌まで五千里とされ、東北の端に当たる楽浪郡やそれより南方の帯方郡も同じく五千里と記される。儒教の理念を根拠としており細かいことは問わない。このような宗教的世界観による中国という「領域」の理念と「国」概念はやや異なる。

 2009/9/14日、「式内社 水主神社 香川県東かがわ市」。
 水主(みずし)神社(延喜式式内社)

 鎮座地 讃岐國大内郡(香川県東かがわ市)水主1559
 御祭神 倭迹々日百襲姫命(日本書紀)、夜麻登々母々曽毘売命(古事記)
 倭迹々日百襲姫命

 奈良県黒田慮戸(現在の奈良県磯城郡田原本町黒田)に居を定める。御年七才より黒田を出、八才にて水主宮内に着き給う。成人まで住み給いて農業・水路・文化の興隆成し水徳自在の神と称へられ 奈良時代にはすでに神社形成をなしていた。

 ◎水主三山(熊野三社)
  山嶽信仰 増吽僧正が遷宮すると伝えられる。
● 新宮神社(虎丸山)御祭神 伊邪那美命(国生冥界との深き神)
● 本宮神社(本宮山)御祭神 早玉男命(禊祓を司どる神)
● 那智神社(那智山)御祭神 事解男命(龍神(水)・食物豊穣司どる神)
 ◎水神社 御祭神 水波女命(井戸を司どる神)
 ◎水主神社別当寺 大水寺(開は不詳)
 水徳山宝珠院神宮寺、寛文年中に大水寺と改める。本尊は、 阿弥陀如来(円光寺へ)、不動明王、二童子(与田寺へ)、十一面観音(坂手・観音寺へ)。 江戸末期まで神仏混合。明治元年三月、神仏分離令。明治二年二月二十五日、正式に廃寺となる。

 水主神社

 水主神社は、承和3年(836年)大明神(正一位)の神階を授けられた讃岐最古の延喜式内社である。御祭神は、倭迹々日百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ、日本書紀)(古事記では夜麻登登母母曾毘売命)。大和の箸墓の主と考えられており耶馬台国の卑弥呼とする説もある。

 弥生時代後期、女王卑弥呼の死後、再び争乱が繰り返され、水主神社の祭神倭迹々日百襲姫命は、この争乱を避けて、この地に来られたと伝えられている。姫は未来を予知する呪術にすぐれ、日照に苦しむ人々のために雨を降らせ、水源を教え、水路を開き米作りを助けたといわれている。水主神社境内地に於て閼伽井水を掘り水主神社に奉献する。

 境内は県の自然環境保全地域に指定され、付近からは縄文時代の石器、弥生・古墳時代の土器が多数発見され、山上には姫の御陵といわれる古墳もあり、宝蔵庫には多くの文化財が納められている。社殿はすべて春日造りで統一されており、社領を示す立石は大内・白鳥町内に今も残っている。與田寺へ向う途中の弘海寺付近には昔有名な「石風呂」があり、宿屋が栄え、「チンチン同しに髪結うて、水主のお寺へ参らんか」とこどもたちが歌ったほどにぎやかな土地だった。
 弘法大師 空海(七七四~八三五)
 高野山金剛峰寺・善通寺・真言宗(現在の閼伽の井戸)。
 ◎伝教大師 最澄(七六七~八二二)
 延歴九年(24才の時)水主神社・大水寺に参籠する。比叡山延暦寺創建す。(22才の時)天台宗

 日本書紀崇神紀に「三輪山・箸墓伝説」が記されている。倭迹迹日百襲媛命は大物主神の妻となるが、大物主の正体が蛇であることを知って驚き、倒れた拍子に、箸が陰部に刺さって亡くなった、というものである。その伝説から、奈良の「箸墓古墳」は彼女の墓という説がある。ただ、箸墓古墳という古墳名は、いつ誰が名付けたのか分からない。
 「香川県水主神社と阿波の関係②」参照 

 讃岐の歴史や神社を研究している人の中には、讃岐一の宮「田村神社」の御祭神も同じく倭迹々日百襲姫であることなどから、「讃岐こそ百襲姫の本貫地であり、大和朝廷の淵源を解く鍵が讃岐にあるように思う」と言う人もいる。百襲姫は、讃岐でも、幼い頃より神意を伺い、まじない・占いを行い、知能の優れた方と伝えられるが、百襲姫のその巫女としての活躍の様子は、日本書紀崇神紀に記されている。崇神天皇に頼まれ、災害がつづく理由を占ったところ、三輪山の大物主神が姫に神懸かりして、我を祀れば国は治まると言った、とされている。また、三輪山と大物主神である。大物主(大国主)神の正体如何。出雲の神か。阿波との関係如何。当社は、源義経が阿波から屋島へ向かう途中、奉納したと伝えられる軍陣鞍などのほか、国宝・県指定文化財を含む社宝多数を所蔵している。そのなかでも、阿波国との関係を見ることができるのだが、続きは「不思議の徳島」で。

 2009/2/6、地名の一致は阿波忌部進出の痕跡か? ③ 伊豆國編」。

 三嶋大社

 古代、阿波忌部を中心とした阿波人たちが全国各地に進出、それらの地に阿波の地名を名付けたらしい痕跡がある。中でも、阿波の「長の国」が「那賀」となり、進出先にも付けた「ナカ(ナガ)」の地名が「那珂」、「那賀」として各地に残っている。「三輪山・大物主神話のルーツは阿波にあった!?」。

 ~「消滅した郡の一覧」(Wikipedia)から~
 明治11年(1878年) 西海道日向国那珂郡 (鹿児島県北那珂郡・南那珂郡に分割)
 1896年2月26日 福岡県御笠郡・席田郡・那珂郡(合併して筑紫郡に)
 1896年3月29日 埼玉県賀美郡・那珂郡(児玉郡に編入)
 1896年4月1日 静岡県那賀郡 (賀茂郡の一部と合併して賀茂郡に)
 1896年4月1日 宮崎県北那珂郡(宮崎郡に編入)
 1899年3月16日 香川県那珂郡・多度郡(合併して仲多度郡に)
 2005年10月1日 島根県那賀郡(金城町・旭町・弥栄村・三隅町が浜田市と合併して浜田市に)
 2006年4月1日 和歌山県那賀郡(岩出町が市制施行して岩出市に)

 
① 那珂郡(なかのこおり・なかぐん)は日向国および宮崎県に存在した郡。
成立当初の那珂郡は現在の宮崎市のうち佐土原・住吉周辺のみの非常に狭い領域。(現住所に那珂の町名が残る)
1884年に那珂郡は北那珂郡と南那珂郡に分割され消滅。
1896年に北那珂郡は宮崎郡に編入されて消滅。
2009年3月30日(予定)日南市が発足、同日南那珂郡消滅。
 地図を見てびっくり。この「那珂」の地、宮崎市「阿波岐原」町のすぐ隣でした。日向国は7世紀の設立。「日向」の地名は『日本書紀』によれば、景行天皇の命名。よって、古事記神話の伊邪那岐命による禊祓いの地、「竺紫日向之橘小門之阿波岐原」は、宮崎県の「日向」のことではない、というのは神話舞台の阿波説だけでなく、北九州説でも主張されています。

では、この「阿波岐原町」の地名は、いつから使われているのか?調べようとしましたが不思議なくらい何も出てきません。禊祓いの記述に合わせ、近代になって町名を名付けたんんじゃないでしょうか?
② 那珂郡(なかのこおり・なかぐん)は筑前国にかつて存在した郡。
調査中。日向国を含め、九州は忌部の痕跡を探ることが難しいです。何か発見したら書き改めます。
③ 那珂郡(なかのこおり・なかぐん)は、武蔵国、埼玉県にかつて存在した郡で。那賀郡ともいう。
調査中。

④ 那賀郡(なかぐん)は伊豆国東部の郡、中郡、仲郡、那可郡ともいう。合併して賀茂郡。
☆ 式内社 伊豆國賀茂郡 伊豆三嶋神社(三嶋大社)
  御祭神 大山祇命、積羽八重事代主神
  配祀  阿波神 伊古奈比咩命 楊原神

  伊予国一の宮、大三島の「大山祇神社」から勧請。
  御祭神の「大山祇命」「八重事代主神」は阿波ゆかりの神。また別の機会に詳しく書きます。
☆ 式内社 伊豆國賀茂郡 阿波神社 名神大
  御祭神 阿波咩命(阿波神)
  『續日本後紀』に「承和七年九月乙末伊豆ノ国言ス賀茂ノ郡有造作島本名上津島。
   此島坐阿波神ハ是三島大社本后也。又坐物忌奈命即前社御子神」とあります。
☆ その他

 式内社 伊豆國那賀郡 井田神社
 御祭神 大己貴命

 式内社 伊豆國那賀郡 伊那下神社
 御祭神 積羽八重事代主命

 式内社 伊豆國那賀郡 多尓夜神社
 御祭神 積羽八重事代主命

 式内社 伊豆國那賀郡 哆胡神社
 御祭神 積羽八重事代主命 哆胡若宮命

 式内社 伊豆國那賀郡 宇久須神社
 御祭神 積羽八重事代主命 哆胡若宮命

 式内社 伊豆國那賀郡 部多神社
 御祭神 大國主命

 式内社 伊豆國那賀郡 佐波神社二座
 御祭神 廣幡八幡大神 積羽八重事代主命

 伊豆國那賀郡の式内社の神はことごとく出雲系。三嶋大社の御祭神は大國主命の御子「八重事代主命」。その八重事代主命の本后が阿波神社御祭神「阿波神」。この「事代主命の本后、阿波咩命(阿波神)」とは誰か?徳島の阿波との関係如何。徳島県阿波市市場町八幡の「粟島神社」の御祭神は「天津羽命」と申す。徳島県阿波市市場町伊月の式内社「事代主神社」(阿波には出雲にさえない式内社事代主神社が2か所もある)の御祭神、事代主命の后神である。

 事代主神社
 安房斎部系図によれば、「天津羽々命」は「天日鷲翔矢命」(阿波忌部の祖・天日鷲命)の御兄弟。神代系譜(平田篤胤)によると、その別名が「阿波神」、「阿波咩」、「阿波々神」、「阿波津比売命」。即ち、「事代主命」は阿波の人物、妻の「天津羽命」は「阿波神」とも呼ばれる阿波忌部直系の女性。式内社阿波國勝浦郡事代主神社、おそらくこれが長の国、事代主命ゆかりの地。式内社阿波國阿波郡事代主神社、こちらは長国(葦原中国)国譲り後、阿波忌部の祖・天日鷲命の御兄弟、后神の天津羽命と過ごされた地なのでしょう。

 「諏訪大社の元宮は徳島にあった!?」。

 古事記には、これだけ「阿波」という言葉が出てくる。古事記と阿波の深い関係がみてとれよう。
上2 神代記 而、到坐竺紫日向之橘小門之阿波岐此三字以音原而、禊祓也。故、於投棄御杖所成神名、衝立船戸神。次於投棄御帶所成神名、道之長乳齒神。次於投棄御囊所成神名、時量師神。次於投棄御衣所成神名、和豆良比能宇斯能神。此神名以音。次於投棄御褌所
上4 大国主命 和加久佐能 都麻母多勢良米 阿波母與 賣邇斯阿禮婆 那遠岐弖 遠波那志 那遠岐弖 都麻波那斯 阿夜加岐能 布波夜賀斯多爾 牟斯夫須麻 爾古夜賀斯多爾 多久夫須麻 佐夜具賀斯多爾 阿和由岐能 和加夜流牟泥遠 多久豆怒能 斯路岐多陀牟
中1 神武天皇記~開化天皇記 美都美都斯 久米能古良賀 阿波布爾波 賀美良比登母登 曾泥賀母登 曾泥米都那藝弖 宇知弖志夜麻牟又歌曰、美都美都斯 久米能古良賀 加岐母登爾 宇惠志波士加美 久知比比久 和禮波和須禮志 宇知弖斯夜麻牟又歌曰、加牟加是能 伊勢能宇
中4 景行天皇記~成務天皇記 都豆良佐波麻岐 佐味那志爾阿波禮故、如此撥治、參上覆奏。爾天皇、亦頻詔倭建命「言向和平東方十二道之荒夫琉神・及摩都樓波奴人等。」而、副吉備臣等之祖・名御鉏友耳建日子而遣之時、給比比羅木之八尋矛。比比羅三字以音。故受命罷行之時、參
中6 応神天皇記 伊麻勢婆夜 許波多能美知邇 阿波志斯袁登賣 宇斯呂傳波 袁陀弖呂迦母 波那美波 志比斯那須 伊知比韋能 和邇佐能邇袁 波都邇波 波陀阿可良氣美 志波邇波 邇具漏岐由惠 美都具理能 曾能那迦都爾袁 加夫都久 麻肥邇波阿弖受 麻用賀岐
下1 仁徳天皇記 伊傳多知弖 和賀久邇美禮婆 阿波志摩 淤能碁呂志摩 阿遲摩佐能 志麻母美由 佐氣都志摩美由乃自其嶋傳而、幸行吉備國。爾黑日賣、令大坐其國之山方地而、獻大御飯。於是爲煮大御羹、採其地之菘菜時、天皇到坐其孃子之採菘處、歌曰、夜麻賀多邇
下2 履中天皇記~安康天皇記 斯 那加佐陀賣流 淤母比豆麻阿波禮 都久由美能 許夜流許夜理母 阿豆佐由美 多弖理多弖理母 能知母登理美流 意母比豆麻阿波禮又歌曰、許母理久能 波都勢能賀波能 加美都勢爾 伊久比袁宇知 斯毛都勢爾 麻久比袁宇知 伊久比爾波
下3 雄略天皇記 母久美泥牟 曾能淤母比豆麻 阿波禮卽令持此歌而返使也。亦一時、天皇遊行到於美和河之時、河邊有洗衣童女、其容姿甚麗。天皇問其童女「汝者誰子。」答白「己名謂引田部赤猪子。」爾令詔者「汝、不嫁夫。今將喚。」而、還坐於宮。故其赤猪子、仰待

 「友行安夫フェイスブック」。
 「古代阿波国」に本当にあった「天照大御神」と「大国主」の「阿波国盗り物語」の真実!

 「阿波神話」によると、ある時、「大国主」が、「スサナオ」の娘を嫁にして、「ホツマ国」を譲られたことからそれぞれの地位を誇示し合うために、互いの領地を奪い合うことになる。まず、「天照大御神」は、「大国主」の「ホツマ国」に向かい、その領地を奪い去ろうとしたのが、「古代阿波」の「国盗り物語」の大きな戦いの始まりである。それ以前は、「大国主」が、「天照大御神」と関係が深い「ぬなかわ姫」の「支配地」を奪ったりと「国盗り物語」の小競り合いが始まっていた。

 「天照大御神」は、「大国主」が寝込んでいる間に、光り輝く武器を使って囲み、「大国主」が目覚める前に領地を奪い取ったと伝わる。「大国主」は、この報復として、「天照大御神」の「天の岩戸」に封じた。岩戸は、「天照大御神」が入ってしまうと、出てこられないほど重い石で封じられていたと伝わる。しかし、神々は「天照大御神」を必要としていたため、「天岩戸」を開くために、「大国主」と戦い「天照大御神」を呼び戻すことに成功する。このように、「天照大御神」と「大国主」は、互いの地位を誇示し合うことで、お互いを妨害する行為を繰り返したのが「古代阿波」の「国盗り物語」でもある。しかし、最終的には、神々の協力や和解の努力によって、「天照大御神」と「大国主」は和解し、日本列島の国作りに貢献することになったとされる。このことからも分かるように、「阿波神話」では、異なる「神々の力関係」や「妥協点」が重視され「天皇の祖先」として「天照大御神」が君臨することになる。

※これらの「古代阿波国物語」の記事等は、尼崎の「友行神社」周辺を開祖した「先祖友行」の「文書(もんじょ)」から代々受け継がれた口伝を元に記事にしております。

■四国・徳島邪馬台国研究学会
邪馬台国学術研究員・徳島ホツマツタゑ研究会主宰 友行安夫(記)
世界最大級のウェブ新名所!写真数4,000記載「阿波翡翠デジタル博物館開設」!https://webjp.xsrv.jp/ajgallery/index.cgi
(私論.私見)
 私には構図的に見て信じられない神話であるが、ここで確認しておく。




(私論.私見)