邪馬台国=四国説(阿波説、伊予説、土佐説、山上説)考その2

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2).7.4日 
 (目下、全く不十分です。引用、転載元は改めて確認する予定です)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 大杉博・氏の「邪馬台国四国山上説」は面白い。れんだいこは、盲目の詩人宮崎康平氏の「まぼろしの邪馬台国」以来の傑作ではないかと思っている。「邪馬台国四国山上説」そのものよりも、九州説、畿内説を批判する論拠が参考になる。今暫くこの「邪馬台国四国山上説」を検証してみたいと思う。

 徳島について、古くから地元の神山研究会などにより、卑弥呼や神話の神々が徳島にいて、神武東征後に栄える畿内の倭を築くまでは徳島に朝廷があったとする説が唱え続けられている。大杉博・氏の邪馬台国四国山上説や、ユダヤの研究者として著明な宇野正美氏の古代ユダヤが剣山にモーゼ契約の箱を隠匿したという説まで種々ある。地図を見ると、神山町神領など神々しい地名があったりして、楽しめる。

 「邪馬台国 四国説」、「古代米収穫祝い踊り 佐那河内、天岩戸別神社... 」その他参照。

 2003.9.12日、2007.1.10日再編集 れんだいこ拝


 「1.古代(弥生時代~平安末期)」。
 阿波(あわ)は古代、粟(あわ)の国と呼ばれていました。南の阿南(あなん)市あたりが長(なが)の国で、大化の改新の時、両国が合併し阿波国(あわのくに)となりました。ところで日本にはもうひとつ阿波の国がありました。千葉県房総半島の南端、安房(あわ)の国です(『国造本紀(こくぞうほんぎ)』には房総半島が「阿波」と記載されている)。四国の粟国は忌部(いんべ)(斎部)氏が開いた国とされています。忌部氏は中臣氏(なかとみうじ)と並ぶ由緒正しい部族でしたが、次第に中央では力を失い、四国へ渡って粟の国を開拓したとあります。その後、忌部氏は黒潮に乗って房総半島に進出し、安房(阿波)国を建てたらしく、安房国(あわのくに)一之宮である安房神社(千葉県館山市)にも四国の阿波からの由来が記されています。

 余談ですが、安房は良質の麻がたくさん茂っており、総(ふさ)(麻を示す古字)の地がやがて上総(かずさ)、下総(しもうさ)の国名となったといいます。阿波の吉野川中流の南岸にも麻植(おえ)郡、西麻植(にしおえ)、麻植塚(おえづか)、忌部や忌部山といった地名があります。阿波の忌部氏は大嘗祭(だいじょうさい)(天皇即位の神事)に麻や木綿を献上したと言う記録が多く残っています。粟、麻、木綿など、いずれもいわゆる畑作作物です。

 一方、隣の讃岐国(さぬきのくに)は古事記にも「飯依比古(いいよりひこ)」の名が記されているように、古くから米の産地でした。讃岐一之宮といわれる田村神社もその名が示すとおり水田との関わりが深く水神様を祀ってあります。

 『和名抄(わみょうしょう)』(平安時代)によれば、香川県(讃岐)の水田面積は18,647ヘクタール、対して徳島県(阿波)のそれは3,414ヘクタール(このうち 那賀(なか)郡の水田が半分以上を占めていたと思われる)。ちなみに香川県の面積は約1,883平方キロメートル、徳島県は約4,146平方キロメートル。阿波は、讃岐の2倍以上の広さでありながら、水田面積は5分の1以下しかなかったことになります。後にこの両国の農業のつい近年まで続く地形的宿命のようなものが、すでに神話の時代から予感されていたのでしょうか。大化の改新後、公地公民制が敷かれ、条里制が施行されます。阿波国は652年に戸籍を作ったとされていますが、吉野川沿いはおびただしい数の洪水に襲われており、条里制の痕跡を探すのは不可能でしょう。

 やがて貴族や寺社が荘園(私有田)を持つようになると、この公地公民制は有名無実となりますが、これまで荒地であったところも開発されるようになります。阿波の荘園は、約60あったといわれ、富田荘(とみだのしょう)(春日神社)、津田別納(春日神社)新島荘(にいじまのしょう)(東大寺領)、名東荘(みょうどうのしょう)(後宇多院(ごうだのいん)領)、萱島荘(かやしま)(石清水八幡(いわしみずはちまん)領)一宮荘(皇室領)勝浦荘(高野山(こうやさん)領)、観音寺荘(仁和寺(にんなじ)領)などの名が見えます。荘園に関する記録では東大寺に生糸などを貢いでいたとありますから、開発されたのは畑地が多かったのでしょう。

 記録によれば、800年頃からは綿の栽培が始まったとされ、麦作も奨励されています。しかし、米はやはり農民の夢でした。当時、阿波の国司であった山田古嗣(やまだのふるつぐ)は積極的に水利事業などに取り組み、現存する旧池田町の古池、旧土成(どなり)町の浦池(うらのいけ)などを築いたことが伝えられています。

 一方、吉野川の洪水に関する最古の記録は886年。洪水が記録されるということは、とりもなおさず人家や田畑が被害を受けたということですから、この時代、吉野川の沿岸や下流地域に、小規模な水田が拓かれていたのでしょう。

 「空と風」の「不思議の徳島 」の2008/7/31日付けブログ「地名の一致は阿波忌部進出の痕跡か?①」 参照。
 熱海の海底遺跡。勝浦という地名。地名の伝播という話は「勝浦」だけではない。有名なのは「徳島」と「和歌山」の地名が似ていること。大杉氏はじめ多くの人が指摘するように、徳島と和歌山~奈良で、吉野川と吉野の地名が向かい合っている。紀淡海峡交流研究会という組織のHPに掲載されている地図。同じ地名、似通った地名がこれだけある。両県以外にも共通する地名をさらに追い、それを太古の忌部の移動に重ねると、阿波がルーツではないかという仮説が自然に立ち上がる。徳島弁と和歌山弁は非常によく似ている。関西弁のルーツが阿波弁だというのも有名な説。言葉の伝播は、もっぱら人の移動に沿う。那智勝浦。千葉県にも一部似た地名がある。千葉県の一部は、徳島の忌部氏が太古に進出し、そこに地名を名づけ神社を創建した。阿波忌部は日本の各地に進出しているが、もっとも有名で、その痕跡がもっともはっきりと残っているのが千葉県。忌部は、海路をとって房総半島に上陸し、開拓しながら北上し、茨城~栃木あたりまで進出している。その手前では、和歌山、三重、静岡、東京、埼玉など、黒潮に乗って関東へ向かうルート上に、その痕跡がある。この忌部の東征・開拓は、大和朝廷の成立と同時進行で行われている。大和朝廷と同時期に、それと同じかそれ以上の文化国家が関東に築かれていたという話で埼玉古墳を紹介している。これに忌部が加担していないか?。現在判明している日本最古の前方後円墳は、徳島県の萩原墳丘墓。
 ※必見 前方後円墳の東四国起源説

 関東日本王国も、利根川をさかのぼって海人族が築いたと言われており、阿波忌部族も吉野川をさかのぼった現在の吉野川市が本拠地である。ともに独自に朝鮮半島と交流を持った痕跡がある。それだけの航海術を持った氏族。忌部をただの一氏族とは考えていない。

 古語拾遺に、
仍、令天富命率日鷲命之孫、求肥饒地遣。阿波國殖穀・麻種。共裔、今在彼国。當大嘗之年、貢木綿・麻布及種種物。所以、郡名爲麻殖之縁也。天富命更求沃壤、分阿波齋部、率往東上、播殖麻・穀。好麻所生。故、謂之総國。穀木所生。故、謂之結城郡。

 とある。天富命率いる阿波忌部が関東に上陸し、開拓。「麻」がよく育った地を「総国(上総・下総)」、「穀木」がよく育った地を「結城郡」と名づけたと書かれている。この「天富命」とは、古事記の神話に登場する「天太玉命(忌部の祖)」の孫であり、10代崇神天皇の第二王子。「天富命」が「(天)日鷲命之孫」を率いて、肥饒の地を求めて「阿波国」へ入り「麻」を植えた。そして、その地を「麻植郡」と名づけた(平成の大合併にて吉野川市)。その子孫が今もいて動画に出ている三木氏である。歴代天皇の大嘗祭のとき「木綿・麻布及種種物」を貢いでいる。その後、「天富命」は更によき地を求め、「阿波齋(忌)部」を「分け」て率いて関東に向かったとある。

 天富命が率いた者たちの祖である天日鷲命とは、もともと「阿波忌部」であり、天富命の母も阿波忌部の女性とみられている。つまり彼らは里帰りしたということになる。古語拾遺を書いた斎部広成は、後世に読む者のために忌部のルーツは阿波なのだということを文章に含ませた。何故なら、天富命が率いた者たちを、わざわざ「日鷲命之孫」と記している。意味がなければこの記述をする必要がない。

 その他、大きな神社のほとんどが「出雲系」の神々を御祭神にしていて、後年に勧請したり、産土神と合祀したらしい様子が見て取れる。忌部の痕跡が一番はっきりしているのが千葉であって、その他、忌部系の神社や、阿波または忌部ゆかりの地名で確認するならば、かなりの広範囲に進出していることがわかる。ただし、有名な神社(たとえば鷲神社)などは、後年に勧請されて広がっていることもあるので、忌部氏が実際に開拓した地域の範囲より痕跡は広範囲になっていると思われる。

【徳島歴史研究会の笹田考至氏の考証】
 2008/7/29(卑弥呼の墓を徳島で発見!? 」。
 徳島歴史研究会の笹田考至氏の考証。「邪馬台国があったと推測される場所」として「徳島市国府町~鳴門市大麻町にかけての平野部」を比定し、八倉比賣神社を「まさに卑弥呼が葬られるに相応しい場所にある」としている。

 「Wikipedia」によれば、天岩戸は全国的には以下のものがある。
皇大神宮(元伊勢内宮)の岩戸神社 京都府福知山市大江町。
天岩戸神社 宮崎県西臼杵郡高千穂町大字岩戸の神域。
クマヤ洞窟 沖縄県島尻郡伊平屋村。
茅部神社 岡山県真庭市蒜山の茅部神社の山の上方。
白鬚神社の岩戸社 滋賀県高島市。
高倉山古墳 三重県伊勢市 伊勢神宮外宮。
二見興玉神社の天の岩屋 三重県伊勢市二見町。
恵利原の水穴 三重県志摩市磯部町恵利原。
天の岩戸神社 徳島県つるぎ町天の岩戸神社の神域。
天石門別八倉比賣神社

 「延喜式式内社」でさえも、現在はそれがどこにあったのかわからなくなってしまっているものも多い。歴史のある神社であっても寂れて草生した社も珍しくない。「天石門別八倉比賣神社」は式内大社であり、重要な神社。「八倉比売神社」も比定社のひとつでした。天石門別八倉比売神社(阿波国名東郡)の比定社は、三社ある。
天石門別八倉比売神社 徳島県徳島市国府町西矢野。
上一宮大粟神社 徳島県名西郡神山町神領。
一宮神社 徳島県徳島市一宮町。

 国府町「天石門別八倉比賣神社」の元地は、「矢野神山」と呼ばれる「気延山」の山頂にあったということで、江戸時代の1773年に現在の場所に移された。その時点で「鎮座してより2105年経ている」という。山全体にびっしり200基以上の古墳が埋まっている。気延山、杉尾山が、特別神聖な場所であったことは考古学的に間違いない。五角形祭壇はそのときに造られた。但し、神社の由緒には「古墳時代」の移遷、とある。「由緒書き」は下記のとおり。
 当社は鎮座される杉尾山自体を御神体としてあがめ奉る。江戸時代に神陵の一部を削り拝殿本殿を造営、奥の院の神陵を拝する。これは、柳田国男の「山宮考」によるまでもなく、最も古い神社様式である。奥の院は海抜116m、丘尾切断型の柄鏡状に前方部が長く伸びた古墳で、後円部頂上に五角形の祭壇が青石の木口積で築かれている。青石の祠に、砂岩の鶴石亀石を組み合せた「つるぎ石」が立ち、永遠の生命を象徴する。杉尾山麓の左右に、陪塚を従がえ、杉尾山より峯続きの気延山(海抜212m)一帯二百余の古墳群の最大の古墳である。当八倉比賣大神御本記の古文書は、天照大神の葬儀執行の詳細な記録で、道案内の先導伊魔離神、葬儀委員長大地主神、木股神、松熊二神、神衣を縫った広浜神が記され、八百萬神のカグラは、「嘘楽」と表記、葬儀であることを示している。銅板葺以前の大屋根棟瓦は、一対の龍の浮彫が鮮かに踊り、水の女神との習合を示していた。古代学者折口信夫は天照大神を三種にわけて論じ、「阿波における天照大神」は、「水の女神に属する」として、「もっとも威力ある神霊」を示唆しているが、余りにも知られていない。当社より下付する神符には、「火付せ八倉比賣神宮」と明記。鎮座の年代は、詳かではないが、安永二年三月(一七七三)の古文書の「気延山々頂より移遷、杉尾山に鎮座してより二千百五年を経ぬ」の記録から逆算すれば、西暦三三八年となり、四世紀初の古墳発生期にあたる。しかも、伝承した年代が安永二年より以前であると仮定すれば、鎮座年代は、さらに古くさかのぼると考えられる。

 2008/7/27(「剣山の失われたアーク」と「邪馬台国・古事記 徳島説」の流れ」。
 徳島が「古事記の神話の舞台」または「邪馬台国」とする説を、今までどういう方々が唱えてきたのか、簡単に書いてみます。れんだいこ氏の「邪馬台国考」の中の邪馬台国四国説考を参考にしました。
1975年 (昭和50年) 郡昇氏(郷土史家)「阿波高天原考」(自費出版)。
1976年 古代阿波研究会「邪馬壱国は阿波だった-魏志倭人伝と古事記との一致」(新人物往来社)。
「いま解きあかす古代史の謎!ついに発見!!幻の国・皇祖の地高天原」(日本テレビ)フランキー堺が「邪馬壱国は阿波だった」を読んで驚き、プロデューサー山中康男と共同で番組制作。
1977年 山中氏がその時の取材調査成果をもとに 「高天原は阿波だった」(講談社)を執筆。
1985年 阿波国史研究会「道は阿波より始まる」その1。86年、その2。89年、その3。

 ※ 著者の岩利大閑氏は、阿波国が「倭」であり、その遷都先が「大倭」=「大和」国であるという阿波倭説をとっているが、上記「邪馬台国四国説考」で、れんだいこ氏は、~岩利氏の主張のユニークなところは、高天原だけではなく、記紀にいう「大倭」とは阿波国のことであるとし・・・~ と書き、誤解があります。この違いは大きいので、一応指摘しておきます。
 ※ その他「邪馬台国四国北岸説」「邪馬台国北四国説」「邪馬台国土佐説」等が発表されるが、詳細は省略。
1977年 大杉博「日本の歴史は阿波より初まる-天孫降臨の地を発見す-」(自費出版)。1979年、「ついに解けた古代史の謎」で「大和朝廷の秘密政策説」を発表。 1992年、「邪馬台国はまちがいなく四国にあった」(たま出版)。

 大杉氏は、徳島に転居された後、どなたかの著作に触れてこのことに興味を持ち、その後ご自分で調査・研究を続けた結果、現在の持論を持つに至りました。そのことを著作の中で説明されていたので、該当箇所を見つけたら、後で正確に書き直します。
 ※追記
 大杉氏の著作から該当部分を引用します。
 邪馬台国阿波説を最初に発表したのは上板町の故・保田兵治郎氏で、昭和36年地元の神社の古記録に「粟散土国王在日弥子」の記事を発見し、邪馬台国研究に入った。そして阿波歴史研究会で「邪馬台国阿波在国説」を発表したのが昭和39年。保田氏は昭和41年には「建国日本秘匿史の解折と魏志倭人伝の新解訳」を自費出版した。この保田氏をモデルとして「邪馬台国は阿波だった」という小説を書いたのが堤高数氏。(中略)これらの足跡を受けて昭和51年に、古代阿波研究会というグループが「邪馬壱国は阿波だった」を出版したのである。私は、この本によって邪馬台国研究に入ったのである。
 郡昇氏の「阿波高天原考」に約10年先行する研究の歴史があった。阿波古事記研究会というグループの方々が、地元のテレビ番組に出演し「古事記の舞台は徳島だった?」というテーマで話した。大杉氏は宇野正美氏と知り合うことによって、朝廷の出自隠しの理由を「契約の箱(失われたアーク)を隠匿するため」ということに変更した。それまでは、日ユ同祖論的な話には興味がなかった。

 「剣山と、神輿の原型といわれる契約の箱(の模型)」。

 「失われたアーク」と「剣山」を結びつけて発掘や調査をした人はこれまで大勢いる。そもそも、一番最初にアークが剣山に隠されていると言い出したのは神奈川県出身で元小学校校長の高根正教という人物。「新約聖書」、「黙示録」と「古事記」の比較研究の結果だという。1952年に「四国剣山千古の謎-世界平和の鍵ここにあり」を発表。その後、御子息の高根三教氏が「ソロモンの秘宝」(大陸書房、1979年)、「アレキサンダー大王は日本に来た」(システムレイアウト、1990年)を発表。「黙示録」第四章にある神の栄光を示す四つの生き物の記述(獅子、牛、人、鷲)と、「古事記の国産み神話」の「四国は、面四つあり」とする記述を対応するものと考え、神の栄光の象徴たる「契約の櫃」が四国の剣山に隠されているという結果を導き出したという。大杉氏も好んで使う、「四国」とは「死国」であるというフレーズのオリジナルは、高根氏の本のようです。「アレキサンダー大王は日本に来た」の内容は、早逝したとされるアレキサンダー大王(前326年没)が、実は自らの死を偽装して日本に渡来して、第10代崇神天皇となり、その後、田島守をエルサレムに派遣して「契約の櫃」をこっそり日本へと運ばせ、四国剣山に隠した、というストーリーです。田島守(田道間守)に関して、万葉集に大伴家持の「橘の歌一首」があり、田道間守が、常世国から「トキジクカグノコノミ」を持ち帰ったと歌われており、それを「アーク」だと考えたようです。大杉氏は、契約の箱が剣山にあるという自説は、高根氏に始まる一連の主張とは関係なく、自身の研究・調査の結果であると言っている。高根氏は本のなかで剣山の西隣の祖谷地方に伝わる民謡を紹介し、それを「契約の櫃」の所在を示すものだとしている。
 「九里きて、九里行って、九里戻る。朝日輝き、夕日が照らす。ない椿の根に照らす。祖谷の谷から何がきた。恵比寿大黒、積みや降ろした。伊勢の御宝、積みや降ろした。三つの宝は、庭にある。祖谷の空から、御龍車が三つ降る。先なる車に、何積んだ。恵比寿大黒、積みや降ろした、積みや降ろした。祖谷の空から、御龍車が三つ降る。中なる車に、何積んだ。伊勢の宝も、積みや降ろした、積みや降ろした。祖谷の空から、御龍車が三つ降る。後なる車に、何積んだ。諸国の宝を、積みや降ろした、積みや降ろした。三つの宝をおし合わせ、こなたの庭へ積みや降ろした、積みや降ろした」。

 2008/7/25、「式内社 阿波国美馬郡 伊射奈美神社」参照。
 「伊射奈美神社」も、日本で唯一、徳島県にしか存在しない延喜式式内社です。古事記の神話の世界で主要な活躍をされる神の名を冠した式内社が徳島にしかないというのはどういうことなのか? 式内社以外にも例えばお寺でも朝廷から厚く保護されたり、源頼朝や徳川家などからも特別な扱いを受けた事実が阿波の地や神社などに複数残されている。逆にその地が「古事記の舞台である」とされているにもかかわらず、朝廷から何の計らいも受けたあとがなく、そのせいで「古事記が史実ではない」と考えられるようなケースもある。
 徳島の神社・伊射奈美神社(美馬町)
 大杉氏は、「徳島は式内社だけでなく全ての神社の祭神を調べてみても記紀神話に登場するあらゆる神が祀られ、そしてむしろこちらが重要なのだが、記紀神話に登場しない神はほとんど祀られていない」、「徳島は、天孫族と出雲族がほぼ半々、バランスよく祀られていて、記紀神話の舞台はこうでなくてはおかしい」と分析している。第一、そのほとんどは式内社。延喜式式内社に比定されている伊射奈美神社は徳島県内に3か所ある。この美馬町の他、穴吹町の伊射奈美神社と、山川町の高越神社です。高越神社に関しては、江戸時代の阿府志にも「伊射奈美神社小社美馬郡拝村山の絶頂にあり、俗に高越大権現、祭神一座伊射奈美尊、別当高越寺神主早雲治郎」とあり、これを古事記の「伊邪奈美神は出雲国と伯伎国との堺の比婆の山に葬りき」と重ねて、比婆山=高越山、高越神社=伊射奈美神社と考えるものです。古来から「イザナミ」の名を冠しているというのは、それだけの理由があると思われる。

 古事記の「国生み」で、伊邪那岐尊と伊邪那美尊はまずオノゴロ島を生み、そこに降りたわけですが、そのオノゴロ島が共に川中島である美馬町の中鳥島か穴吹町の舞中島であり、その両島にあるそれぞれの伊射奈美神社のどちらかが式内社ではないかと考える。あるいは、どちらかの島がオノゴロ島であるため分祀されたのかもしれません。ちなみに大杉氏は、仁徳天皇が淡路島で詠んだ歌や釈日本紀の記述から、オノゴロ島を阿南市沖の丸島に比定している。仮に「比婆山」=「高越山」だったとしても、それは高越山が伊射奈美尊が葬られた場所ということで、「陵墓」=「神社」ではありません。どちらにせよ、どれが贋物というわけではなくて、二社は元社である式内社を勧請したものでしょう。それよりも、この三社が徳島の中でも比較的同じエリアの中に集中していることのほうが重要で、やはり吉野川沿い中西部に伊射奈美尊謂れの地があることは確実でしょう。 「中鳥島」は小さな川中島で、昭和63年に28戸が立ち退き移転になり現在無人島になっている。元は「中鳥村」で1500~1600年ころは三百有余の人家があったが、1726年の吉野川の大洪水で川中島になつた。それまでは、吉野川南岸と陸続きでしたが切り離され、その後は川の本流が島の南になり北岸と陸続きになった。

 2013/4/13多祁御奈刀弥神社 」。
 “阿波説” では知らない人のない多祁御奈刀弥神社 (たけみなとみじんじゃ、徳島県名西郡石井町浦庄字諏訪213-1 )。ご祭神は 建御名方(タケミナカタ) で知られる神。

  建御名方(タケミナカタ) は、古事記の葦原中国平定(国譲り)の段において大国主神の御子神として登場する。延喜式神名帳などには 南方刀美神 の表記も見られる。長野県諏訪市の 諏訪大社に祀られ、そこから勧請された分霊も各地に鎮座する。神統譜について記紀神話での記述はないものの、大国主神と 沼河比売 (ヌナカワヒメ) の間の御子神であるという伝承が各地に残る。妃神は八坂刀売 (ヤサカトメ) とされている。建御名方神は神(じん)氏の祖神とされており、神氏の後裔である諏訪氏はじめ他田氏や保科氏など諏訪神党の氏神でもある。
 日本建国神話

 建御雷(タケミカヅチ)神が大国主神に葦原中国の国譲りを迫ると、大国主神は御子神である 事代主(コトシロヌシ)神が答えると言った。事代主神が承諾すると、大国主神は次は 建御名方神が答えると言った。建御名方神は建御雷神に力くらべを申し出、建御雷神の手を掴むとその手が氷や剣に変化した。これを恐れて逃げ出し、科野国の州羽(すわ)の海 (諏訪湖)まで追いつめられた。建御雷神が建御名方神を殺そうとしたとき、建御名方神は「もうこの地から出ないから殺さないでくれ」と言い、服従した。この建御雷神と建御名方神の力くらべは古代における神事相撲からイメージされたものだと考えられている。なお、この神話は 古事記にのみ残されており、日本書紀には見えない。
 諏訪大社

 諏訪大明神絵詞などに残された伝承では、建御名方神は諏訪地方の外から来訪した神であり、土着の洩矢(モリヤ)神を降して諏訪の祭神になったとされている。このとき洩矢神は鉄輪を、建御名方神は藤蔓を持って闘ったとされ、これは製鉄技術の対決をあらわしているのではないか、という説がある。なんといっても稲わらで作られている鎌が印象的です。違い鎌という紋は諏訪大社でも使われている。鎌は稲刈りに欠かせない道具で、古くは刈り入れの時期のあとに綺麗に磨いた鎌に供養を備える儀式があった。このことから鎌が神格化され 諏訪神社の神体として奉られている。鎌紋は農業信仰と武運長久への願いをこめて使われたと思われる。
 http://家紋一覧.crest-japan.net/busho/kama.php
 諏訪大社の元宮は徳島にあった!?
 http://blogs.yahoo.co.jp/noranekoblues/46148157.html
 『多祁御奈刀弥神社』 。『天満神社』 。
 県指定の天然記念物「天神のイチョウ」 が気根を垂らしている神社。天満神社は境内の左寄りにある。隣りに秋葉神社、またその隣りに八坂神社。 東の端にも小さな祠が東向きに(他の社殿は南向き)。諏訪神社とある。境内の秋葉神社でお祀りしているのが 火之迦具土 (ヒノカグツチ;加具土)神。
 
  『天目一神社』 (●)。
 筑紫国、伊勢国の 忌部 氏の祖だという 製鉄の神! 天目一箇神(アメノマヒトツノミコト)を祀るこの神社。

 この記事は 建布都神社 (1) と併せてお読みください。

 「どなり古事記研究会」の2015/6/15鳴門の金比羅さん 」。
 天円山は 「あまがつぶやま」と読み 、その別名は天ヶ津峰(あまがつみね)。山頂には アメノウズメを祀る 天ヶ津神社がある。100m高い大麻山と東西に並んでいる。オオアサヒコ= サルタヒコであるとすれば、しごく納得の配置。天理教の撫養大教会の真正面になる。
 金毘羅権現 (こんぴらごんげん)、金比羅神社

 祭神は、讃州金刀比羅宮よりご勧請の大物主命(三輪大明神)、少彦名命、猿田彦命。素戔嗚尊、金山彦などの説があったが現在は大物主としている。香川県琴平町の琴平山(象頭山)の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神であり金毘羅大権現と命名されている。本地仏は不動明王、毘沙門天、十一面観音など諸説ある。神仏分離・廃仏毀釈が行われる以前は、讃岐国象頭山松尾寺金光院(現在の香川県琴平町の金刀比羅宮)を総本宮とする日本全国の金毘羅宮、金毘羅権現社で祀られていた。ご祭神が地祇系であるように、コンピラさんは明らかに海の民の信仰。広く 阿淡二州 にわたり崇敬を集めて来た。

 慶長6(1601)年、林崎城主・益田八右衛門により金刀比羅神社として創建されている。寛永17(1640)年、藩主蜂須賀忠英公が社殿をご再興。明治元年、神仏分離令により、別当長谷寺を廃して神職を置き、同3年「金毘羅羅大権現」の旧称を現社号に改め、同7年郷社に列した。

 http://awa-jinjacho.jp/shrine/detail.html?id=565

 歌詞。
金毘羅船々 追風(おいて)に帆かけて シュラシュシュシュ 
まわれば 四国は 讃州(さんしゅう)那珂の郡(なかのごおり) 
象頭山(ぞうずさん) 金毘羅大権現(だいごんげん) 
一度まわれば 金毘羅 み山の 青葉のかげから キララララ 
金の御幣(ごへい)の 光がチョイさしゃ 
海山雲霧(うみやまくもきり)  晴れわたる 
一度まわれば 金毘羅石段 桜の真盛り(まさかり) キララララ 
振袖島田が サッと上る 
裾には降りくる 花の雲 
一度まわれば 阿波の殿様 蜂須賀さまだよ シュラシュシュシュ 
私ゃあなたの そばそばそばだよ 
ほんとに金毘羅大権現 
一度まわれば お宮は金毘羅 船神(ふながみ)さまだよ キララララ 
時化(しけ)でも無事だよ 
雪洞 (ぼんぼり) ゃ明るい 錨を下して 遊ばんせ 一度まわれば

 2014/12/17小噺;君が代 (1) 」。
  「小噺; さざれ石」 の続編。「さざれ石」(細石、さざれいし)とは、もともと小さな石の意味であるが、長い年月をかけて小石の欠片の隙間を炭酸カルシウムや水酸化鉄が埋めることによって、1つの大きな岩の塊に変化したものも指す。学術的には 「石灰質角礫岩」 などとよばれる。石灰岩が雨水で溶解して生じた粘着力の強い乳状液が少しずつ小石を凝結していき、石灰質の作用によってコンクリート状に固まってできる。日本では滋賀県・岐阜県境の伊吹山が主要産地である。
 → http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%95%E3%81%96%E3%82%8C%E7%9F%B3

 阿波神山の「さざれ石」

 神山町及び佐那河内村産出の 「さざれ石」 は石灰質のものとは違い、海底に噴出した高温の 溶岩 が海水と接触して破砕され、堆積固結した 「海底火山角礫岩」。長い年月地熱と圧力で変成作用を受けた 美しい緑色 の“子持ち岩”。
 http://tokusima.michikusa.jp/newpage314.html
 現時点では、和泉層群の礫岩を「さざれ石」と想定してお話を続けます:石和泉層群の礫岩の特徴。1) 礫どうしが固着、2) 礫の粒が小さい、3) 礫の色彩が多様。
 成ヶ島(なるがしま)

 兵庫県洲本市由良町由良の東側の紀淡海峡に、南北約2.5kmにわたって砂州が伸びる細長い島。瀬戸内海国立公園の一部。淡路橋立とも呼ばれる。成ヶ島は北端の新川口と南端の今川口の水路で淡路島から約100m離れている。由良港から渡し船があり約2分で島に連絡している。南端の高碕には髙埼灯台がある。明治29(1896)年に開設された 由良要塞 の砲台跡が成山にわずかに残っている。北の成山 (標高52m) と南の高埼 (標高23m) はもともと陸繋島で、江戸時代初期までこれらは砂州で淡路島と繋がり、ラグーンである由良湾の湾口は成山と高埼の間で開いていた。南北両端の水路開削と旧来の湾口を閉鎖して成ヶ島は現在の沿岸州になった。この成ヶ島の面積は約39ha、海岸線の長さは約6.4kmあるが、成山と高埼の間の最狭部は護岸を含めても25mほどしかない。大阪湾の玄関口にあたるので、明治から最近まで砲台などのある軍事上の重要拠点だった。
 高天原を象徴する阿波の青石。徳島の青石が奈良や大阪など数多くの 古墳 で発見されている。この事実は何を物語っているのだろうか。西求女塚古墳(兵庫県神戸市),五色塚古墳(兵庫県神戸市),将軍塚古墳(大阪府茨木市),弁天山古墳(大阪府高槻市),紫金山古墳(大阪府茨木市),松岳山古墳(大阪府相原市),茶臼塚古墳(大阪府柏原市),貝吹山古墳(大阪府岸和田市),櫛山古墳(奈良県天理市),燈籠山古墳(奈良県天理市)等に阿波の青石が使われている。青石は古代と深い関わりがある。通常古墳は,土を盛った上に石を敷いていると思うだろうが,徳島県にある古い時代の古墳は,岩だけを積み上げた古墳で,八人塚古墳などは青石だけを積み上げた全長60mの前方後円墳である。先の近畿にある古墳に阿波の青石が運ばれていると書いたが,それは,ただ阿波の青石を珍重しただけではないようである。なぜならば,青石が帯状に分布しているのは,九州佐賀関半島から四国,紀伊半島を横断して,東海地方を経て諏訪湖の南から関東山地にいたるまで千キロメートルに及ぶといわれ 「三波川変成帯」 と呼ばれ,徳島県に産する青石は,吉野川南岸 に分布しているからである。
 
 吉野川北岸には青石が無い にも関わらず大量の青石が運ばれ,鳴門市周辺の古墳に使われている。今年(2006年3月16日) 鳴門市の萩原2号墓で,総重量400~500トンの石を積み上げて造った弥生終末期(3世紀前半)の墳丘墓を確認した。築造形態などが国内最古の古墳とされる奈良県のホケノ山古墳と共通していると発表があった。 阿波の青石は,高天原を象徴する石であると考えられる。聖域との結界として、石棺や古墳の積み石として、そして記念碑的な板碑として。四国山地(と紀伊半島、群馬など)に限って現れる、まさに“王家”の権威と一体となっていた石である。
 
 大河・吉野川をはさんで南岸の三波川変性帯の青石と、北岸に現われる和泉層群のさざれ石。この2種類の石が国家の在り様を象徴している。「君が代は 千代に 八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」の歌詞は平安初期の古今和歌集(905年頃)の巻七賀歌・巻頭歌「題しらず;読人しらず」のうたで、「君が代」は当時 「我が君」 だったともいわれる。 古今和歌集の撰者は紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、壬生忠岑の4人で、特に紀貫之が中心だったといわれている。反藤原文学とされる竹取物語 のゴーストライターだった可能性のある人物である。最近の研究では作者は紀貫之である可能性が高く、文才があり時代的にも合い、藤原氏に恨みを持つ要因を持っているゆえに有力視されている。紀氏は応天門の変(866年)により平安時代初期に一躍頭角を現したが 藤原氏の謀略により失脚し、以後政界から遠ざかり文人の道へと進んだ経緯があり、それがゆえに藤原氏に対して恨みを持っていた可能性は否定できない。 

 → Wikipedia 『竹取物語』
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E5%8F%96%E7%89%A9%E8%AA%9E
 
 
 貫之が“成り上がり”であり、他の氏族を次々と追い落とし、抹殺してきた藤原に対してどのように感じていたかを想像してみると、このうたを巻頭においた意図がまた別の味わいをもちそうです。
 2015/1/30小噺;君が代 (2) 」。→ 小噺;君が代 (1)  の続きです。
「君が代は 千代に八千代に  さざれ石の いわおとなりて  こけのむすまで」。元の歌は、「我が君は 千代にやちよに さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」。この歌は古今和歌集 の「巻七 賀歌」 の巻頭にあげられ、“題しらず 読人しらず” とされている。この通称・古今集は、平安時代前期(905年奏上;完成は912年頃) の帝の命によって編まれた勅撰和歌集です。その賀歌(特に長寿、繁栄を祝うジャンル)の部22首の冒頭4種が“詠み人知らず”
 古今和歌集 の「巻七 賀歌」 の巻頭にはいきなり “題しらず 読人しらず” とされる4首が並ぶ。

我が君は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで
わたつみの 浜の真砂を かぞへつつ 君が千歳の あり数にせむ
しほの山 さしでの磯に 住む千鳥 君が御代をば 八千代とぞ鳴く
④  我がよはひ 君が八千代に とりそへて とどめおきては 思ひ出でにせよ 

 ② と ③ で“君”と“海”がうたわれている。古田武彦氏の『「君が代」は九州王朝の賛歌』(1990)新泉社・刊 、 『奪われた国歌「君が代」』 (2008)情報センター出版局・刊を参照する。

 古田氏は邪馬壹国・九州説の研究者。堀川先生と同じく“ヤマイチ”国と読むとしている。九州王朝のほか 「列島各地に王権が存在したとする“多元的古代史観”を提唱している。稲荷山古墳金錯銘鉄剣銘文の分析などから関東にも大王がいたとする」 など“冷静”なスタンス。古田氏によると、 「君が代」の誕生地は糸島・博多湾岸であり、「君が代」に歌われる「君」とは 皇室ではなく安曇の君もしくは別名 「筑紫の君」(九州王朝の君主) だと推定している。金印が出た福岡県・志賀島の 志賀海神社 の4月と11月の “山誉め祭” で、古くから伝わる神楽歌(福岡県指定・無形文化財)が歌われる。それは大祓祝詞に続いて神職が櫓を持ち上げてから述べる。
冒頭 「君が代 (だい) は 千代に八千代に さざれいしの いわおとなりて こけのむすまで」。
「あれはや あれこそは 我君のみふねかや うつろうがせ 身骸 (みがい) に命 (いのち)  千歳 (せんざい) という」
「花こそ 咲いたる 沖の御津 (おんづ) の汐早に はえたらむ釣尾 (つるお) に くわざらむ 鯛は沖の むれんだいほや」
「志賀の浜 長きを見れば 幾世経らなむ 香椎路に向いたる あの吹上の浜 千代に八千代まで」
「今宵夜半につき給う 御船こそ たが御船ありけるよ あれはや あれこそは 阿曇の君の めし給う 御船になりけるよ」
「いるかよ いるか 汐早のいるか 磯良(いそら)が崎に 鯛釣るおきな」
 (後略)。新古今和歌集の賀歌に通じている。

 志賀海神社(しかうみじんじゃ)
 福岡県福岡市東区志賀島にある神社。
 式内社(名神大社)。
 旧社格は官幣小社で、現在は神社本庁の別表神社。
 全国の 綿津見神社、海神社の総本社 を称する。古代氏族の阿曇氏(安曇氏) ゆかりの地として知られる。
 ご祭神は 「綿津見三神」 と呼ばれる神々。
左殿 仲津綿津見神 (なかつわたつみのかみ) 左殿相殿 神功皇后
中殿 底津綿津見神 (そこつわたつみのかみ) 中殿相殿 玉依姫命
右殿 表津綿津見神 (うはつわたつみのかみ) 右殿相殿 応神天皇

 創建は不詳。社伝では、古くは志賀島の北側において表津宮(うわつぐう)・仲津宮(なかつぐう)・沖津宮(おきつぐう)の3宮から成っていたが、阿曇磯良(あずみのいそら、阿曇氏祖) により、そのうち表津宮が志賀島南側に遷座して現境内となったという。仲津宮・沖津宮は現在は摂社となっている。その阿曇磯良は、神功皇后の新羅出征において舵取りを務めたとも伝えられる。古代の九州北部では海人を司る阿曇氏が海上を支配したとされる。志賀島は海上交通の要衝であり、その志賀島と海の中道を含めた一帯が阿曇氏の本拠地であったとされており、志賀海神社は阿曇氏の中心地であったと考えられている。現在も志賀島の全域は神域とされ、現在の神主家も阿曇氏の後裔を称している。なお阿曇氏の活動は日本全国に展開したといわれ、長野県安曇野市、石川県羽咋郡志賀町、滋賀県安曇川、愛知県渥美半島といった「しか」、「あつみ」という地名は、その遺称地と伝えられる。また志賀島は金印(漢委奴国王印) が出土したことで知られる。当地で奴国の印が出土した理由は明らかではなく、阿曇氏ひいてはその氏神たる志賀海神社と奴国の関わりを推測する説もある。
 細石神社

 古くは 「佐々禮石神社」 と表記されていた。祭神は 磐長姫 と 木花開耶姫 の姉妹二柱。旧社格は村社。伊都国の中心部に所在すると推察されている。元禄8(1695)年の 「細石神社御縁起」では、古くは神田も多く大社であった。しかし、たびたび兵乱に見舞われ社殿を焼失した。さらに天正15(1587)年の豊臣秀吉の太閤検地により、神田没収に遭い衰退した。
 → Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E7%9F%B3%E7%A5%9E%E7%A4%BE  
 細石神社近くの 桜谷神社 のご祭神は 木花咲耶姫 と 苔牟須売(コケムスメ)神 だとありました。
 苔牟須売神
伊都国の王墓と推定される平原遺跡の近隣、福岡県糸島市志摩船越にある旧名 桜谷神社 (現在は 若宮神社) に 木花咲耶姫 とともに祀られている祭神で、地元では 盤長姫命 のこととして伝承されている。
 → Wikipedia
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%82%B1%E3%83%A0%E3%82%B9%E3%83%A1
 徳島新聞 の特集記事 『ふるさとを歩く』 の 「千代の松原 小松島」 によると、千代の松原付近はかつて海岸線で、横須海岸(同市横須町)の「横須の松原」などとともに 「小松島」 の由来になった景勝地。樹齢数百年の古木が、八幡神社に続く約300メートルの参道に連なっていた。  → http://www.topics.or.jp/special/122545490426/2007/02/117081871983.html

 「千代の松原」といえば日本中あちこちにありそうでなく、検索してみると博多湾と小松島湾のこの2カ所くらいのもの。岐阜県飛騨市に「千代の松原公園」という桜の名所があるにはある。小松島の千代の松原は、かの八千矛神こと大己貴命と少彦名命を祀る式内社八鉾神社 (阿南市)から遠くない。また南東に豊浦神社(小松島市赤石町赤石) があるが、この周辺に推古帝が即位された豊浦宮(とゆらのみや)があったという阿波説がある。定説では明日香村の豊浦というところだとされている。
  全戸郷、の読み方
 http://blogs.yahoo.co.jp/noranekoblues/51999943.html
 倭名類聚抄という、1,080年前の国・郡・郷の名称を網羅している本に阿波国の「全戸」、「餘戸」が載せられている。「全戸」は「余戸」の写し間違いで勝浦郡・餘戸郷と同じ。その「餘戸」は「あまべ」と読む。「勝浦郡・餘戸郷こそ、小松島村の小松島浦、中田(チウデン)などの地なるべし。中世は尼子浦と云ふ。盖(けだし)海人(あま)の居邑なれば也。平家物語の勝浦合戦の條(くだり)に八間尼子浦とあるは此なり。八間は名東郡八萬(はちま)村を云ふ」(大日本地名辞書)。

 尼子も 「戸」 を “こ” と読んだ餘戸の当て字のひとつ。古くは 「阿麻邊」 (あまべ)とも書かれた海部は、現在の徳島の海岸線にある海部、加伊布、貝府などと同じ。一国に郷名で3ヶ所も、アマベの名がつく国が他にあるでしょうか?全国の海部、海部氏のルーツです。古代日本の海人族の本貫地です。ここにはもちろん、安曇氏も関係してきます。安曇(あづみ)は、海人津見(あまつみ)が転訛したものなのです。安曇氏の始祖、綿津見大神の娘で神武天皇の祖母、綿津見豊玉姫が日本のどこの式内社で祀られているか?もちろん、阿波一国なのです。

 小松島市の中田町にはイザナギ・イザナミの子のひとり(イザナミの大便から生まれたと古事記に書かれた) 埴安姫(ハニヤスヒメ)命を祀る建嶋女祖命神社(たつしまめおやのみことじんじゃ)という古社がある。そのイザナギとイザナミの子、大山津見(オオヤマツミ)神は、野の神・鹿屋野比売(カノヤノヒメ)神との夫婦神とされているが、徳島の北部、板野郡上板町神宅に式内社で阿波にしかないカノヤノヒメを祀る 鹿江比売神社(かえひめじんじゃ) があり、その北の山が大山(おおやま)。 こがオオヤマツミの山として崇められてきた。

 「どなり古事記研究会」の2015/5/15(淡路島の銅鐸 」。
 2015年5月19日午前11時57分、三浦博之撮影。淡路島の兵庫県南あわじ市で弥生時代前期末〜中期初頭 (紀元前3〜2世紀) の「第一級」銅鐸が7個、音鳴らす「舌」も3個発見された。右側2個の中は小さい銅鐸が入った「入れ子」状になっている。平野部では初の多数出土で「松帆銅鐸」と命名されたと県教委が発表した。3組6個は内側に一回り小さい銅鐸をはめ込んだ「入れ子」状だった。内部に振り子状に取り付けて音を鳴らす青銅製の舌ぜつ が3個で同時に見つかり、銅鐸と舌の接触部が摩滅していることも確認された。「鳴り物」としての銅鐸がなぜ埋められたのかを巡って議論を呼びそうだ。銅鐸の保存状態は極めて良く、調査に協力している奈良文化財研究所は 「数十年に1度の第一級の発見」 としている。

 発見場所は石材加工業者の一時保管用の砂山で、出土地は不明。砂を採取した場所から島南西部にある同市 松帆まつほ 地区 の南北約2キロの海岸部の田畑の下に埋まっていた可能性が高いと推定される。銅鐸と青銅製の舌が同時に見つかったのは全国で過去2例 (3個) しかなく、入れ子状では初めて。舌が確認されていない2組4個は、内部に砂が詰まったままで、調査が進めば舌の数が増える可能性がある。(中略)7個の銅鐸は4月8〜23日、砂利加工場の砂山など市内2カ所で見つかり、発見順に1〜7号と指定された。高さは22.4〜31.8cmと小ぶりで、1個は破損していた。外観から、1個は弥生前期末〜中期初頭の、全国でも出土例が極めて少ない最古級の 菱環鈕りょうかんちゅう 2式。 他のの6個は、中期初頭の 外縁付鈕がいえんつきちゅう1式 に分類される。松帆地区の「中の御堂遺跡」では、江戸時代の1686(貞享3)年に銅鐸8個が出土したと伝わる。現存するのは1個だが、外縁付鈕1式で舌と一緒に出土。松帆地区の別の場所では、弥生時代中期初頭以前の作とみられる銅剣も見つかっている。
 淡路島は古事記などの国生み神話で、日本列島の中で真っ先に生まれる、いわば「神話の古里」だ。出土場所と推定される松帆地区は島南部の西海岸近く。江戸時代に銅鐸8個が出土したとの伝承があり、1966年と69年にはその南2キロの地点で 銅剣14本 が見つかった。まとまって銅鐸が出土した例は、多い順に ▽加茂岩倉遺跡(島根県雲南市、96年)39個 ▽大岩山(滋賀県野洲市、1881年と1962年)24個 ▽桜ケ丘(神戸市灘区、64年)14個 −− で今回はそれに次ぐ。国内で出土した銅鐸は530個以上。時代が進むにつれて、鐘のように鳴らされていた小型の 「聞く銅鐸」 から、飾られることを意図した大型の 「見る銅鐸」 へと変化 したというのが定説だ。今回の7個は 「聞く銅鐸」 の中でも最も古い型式で、少なくとも3個に舌が残っていた。奈良文化財研究所の難波洋三・埋蔵文化財センター長は 「舌は下から3分の1あたりが擦り減っている。舌がどう当たっていたかを検証できる」。 過去に見つかった銅鐸には、ほとんど舌が残っておらず 「祭器としての機能を奪う 意味があったのだろうか」と推測。「今回の発見は舌を外さずに埋めたところに地域色を感じさせる」 と指摘する。一方、国内で銅鐸が埋められた時期については、社会が大きく変革した弥生時代中期末に「聞く銅鐸」が、後期末に「見る銅鐸」が一斉に埋められたとする説が有力だ。ところが今回の7個の 「聞く銅鐸」 には新しい型式が一つも無く、より早い時代に埋められた可能性もある。「銅鐸が埋められた時期は2段階ではなく、もっと細かく分けられるのではないか」。銅鐸をまとめて埋めることは、集落の再編 を意味すると考える森岡秀人・奈良県立橿原考古学研究所共同研究員は 「弥生のクニの形成や統合の動きは、今まで考えていたより小刻みに起こっていたのだろう」 と話す。銅鐸を埋めるのは 何かの危機を感じたからと 考える寺沢薫・桜井市纒向学研究センター(奈良県)所長は「埋められた時期が今まで考えていたより1000年近く古い。九州の勢力に対して近畿を中心とする勢力が危機感を強めた時期はもっと早かったのかもしれない」。福永伸哉・大阪大教授は弥生中期末から後期初めに埋められたという従来の見解を崩さず、「古い型式の銅鐸を、何百年も使い込んでいたのではないか」と話す。埋められた場所が海岸近くとみられることについて、森岡さんは「海に向けての航海の安全などを祈る祭りがあったのかもしれない」と見ている。これまでに出土した銅鐸は全国で約500個である。文化庁による平成13(2001)年3月末時点での主な出土数は以下の通りである。 兵庫県 56点 島根県 54点 徳島県 42点 滋賀県 41点 和歌山県 41点。
→ Wikipedia 銅鐸 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%85%E9%90%B8

 トップの兵庫県が島根県を引き離したが、徳島にまったく触れずにすませてもらっては困りますね。“まとまった出土”なら、徳島市上八万町の星河内美田遺跡 からはちゃんと7個いっぺんに出ていますし。銅鐸には、その形や用途に変遷があるそうです。そこに注目されたサイト 「邪馬台国とは何だろうか?」 から、形式と都道府県といっても旧国で分けた表があります:
 銅鐸は(中略) 畿内を中心に分布しているかのように思われがちですが、それが誤りであるということをこの表はよく示しています。 “聞く銅鐸” も “見る銅鐸” も出土しているこの タイプA には、畿内は摂津東部しか含まれておりません。しかも、扁平鈕式と突線鈕1式を欠いており、一旦中断している可能性もあります。また、重要なポイントが浮かび上がってきます:近江・紀伊という銅鐸の定番のような地域がここに含まれているのは当然として、尾張・三河・伊勢 といった東海地域がここに入っていることは注目されていいのではないでしょうか。これら上位の地域を聞けば、阿波古事記研究会のなかでは海路、あるいは淀川から琵琶湖を経て日本海へ、また紀伊水道から太平洋沿岸から関東平野へ文化を伝えていった(おそらく移住していった)阿波の海人族のことを連想しない人はないでしょう。

 右は有名な矢野遺跡(徳島市国府町)で見つかった突線鈕式の銅鐸。高さ97.8cm の大型です。

 淡路の松帆地区からは他にもいくつもの銅鐸が発見されている。① は(淡路島にとても多い) 事代主神社があるポイントです。
 「淡路は阿波と一体」。
  「大和大国魂神社」;淡路島 (1),(2)

 現在のように干拓される前、松帆地区は入り江になっていて、その東に湾を見下ろす大和大国魂神社がある倭文地区の高台がある。とりあえず、今回の銅鐸の発見は女王・ヒミコを中心に倭国としてまとまる前、弥生時代の状況について、阿波からの視点からも加えて検討しなくてはならない。

 2013/10/1南淡ドライブ(2) 蛭子神社 」。
 「蛭子神社」

 スサノオの八坂神社があれば子のオオクニヌシのまた子のエビス様が祀られているのは自然かな。ただ、“蛭子”と表記されているので (京都のゑびす神社の神職さんの御説によれば、コトシロヌシではなく) 葦舟で流されたというヒルコ系というべきなのでしょうか。
 
 国生みの舞台・阿波からなら、対岸の淡路は葦舟ででも流れ着くことはあり得るだろう距離です。むしろ、それを暗示した物語かもしれません。このあたりはかつて 阿万郷 (あまごう) と呼ばれていた地域(「和名抄」)。少し南、南あわじ市阿万東町にある遺蹟発掘の報告書によると、九蔵(ぐぞう)遺跡は、弥生時代から中世にかけて営まれていた集落遺跡です。奈良時代の遺構がその中心を占め、御食国と称された淡路を代表する遺跡になると思われます。平城京出土の木簡には、淡路国三原郡阿麻郷から税金(調) として塩3斗を納めたことが記されています。その遺跡が九蔵遺跡であるとほぼ断定できる資料を得ました。製塩遺跡と官衙的な遺構群はそれを示すもので、出土した和同開珎の銀銭はそれを補強する資料になります。製塩遺構は8世紀後半に限られた遺構で、大型の掘り方を持つ堀立柱建物跡の官衙遺構も同時期です。平城京出土木簡は天平寶字5(761)年で遺跡の時期と合致しています。

 → 「ひょうごの遺蹟」 (兵庫県教育委員会埋蔵文化財調査事務所)
 
 同じ海人(あま)系でも、えびす信仰は安曇氏、宗像信仰は宗像氏とされている。淡路の式内社に蛭子神社は入っていません。
淡路國式内十三社一覧
久度神社 (南あわじ市神代国衙1417) 仲哀天皇
笶原神社 (南あわじ市八木徳野190)  素戔鳴命
大和大国魂神社 (南あわじ市榎列上幡多857) 大和大国魂大神、大己貴命、素戔鳴命、他諸神
湊口神社 (南あわじ市湊里1287) 速秋津比古神、速秋津比売神、誉田別尊、他諸神
由良湊神社 (洲本市由良3-5-2) 速秋津日子神、速秋津日売神、品陀和気尊
築狭神社 (洲本市千草甲2-8) 速須佐男命、誉田別尊
岸河神社 (洲本市上内膳64) 田心姫命、市杵島姫命、湍津姫命
賀茂神社 (洲本市上加茂603) 別雷命
河上神社 (洲本市五色町鮎原南谷562) 高咩神(タカオカミノカミ)、菅原大神
志筑神社 (淡路市志筑907-1)  少彦名神
伊弉諾神宮 (淡路市多賀740)  伊弉諾大神、伊弉冉大神
伊勢久留麻神社 (淡路市久留麻字神田2033) 大日孁貴尊(オオヒルメムチノミコト)
石屋神社 (淡路市岩屋799) 国常立尊、伊弉諾尊、伊弉冊尊

*淡路國総社 (伊弉諾神宮、大和大国魂神社を除く十一社の諸神を集めた総社)
 「十一明神神社」(総社;南あわじ市市十一ケ所437) 大日靈貴命、他諸神
 
 御祭神でみると 「伊勢久留麻神社」 の オオヒルメが異質。あとはほとんどが海人系のようです。ハヤアキツヒコ・ハヤアキツヒメは水戸(ミナト/ミト)神2神とも呼ばれる、水・港湾の神で、大祓詞で川のセオリツヒメから“罪という罪”をバトンタッチする海神がハヤアキツヒメ。この2神の子供とされる神々は次の通り。
沫那藝神 (アワナギノカミ)
沫那美神 (アワナミノカミ)
頬那藝神 (ツラナギノカミ)
頬那美神 (ツラナミノカミ)
天之水分神 (アメノミクマリノカミ)
国之水分神 (クニノミクマリノカミ)
天之久比奢母智神 (アメノクヒザモチノカミ)
国之久比奢母智神 (クニノクヒザモチノカミ)

 3つの神社に名前がみえるホムダワケノミコトは15代・応神帝の諱。
 しばらく行くと 「論鶴羽(ゆずるは)神社」 への参道。諭鶴羽神社は創建が第9代・開化天皇の治世と伝えられる古社(Wikipedia)だといいますが、やはり式内社ではありません。熊野権現の由緒に関係する修験道の聖地のひとつ。このあたりの地名は“灘”。と沖に浮かぶ 沼島。

 「どなり古事記研究会」の2015/5/5半木神社@京都府立植物園」。
 京都府立植物園。 半木(なからぎ)神社。京都府立植物園面積24ヘクタールの広大な敷地に約12,000種類、約12万本の植物が植えられている。日本の四季の花が見られる花壇や洋風庭園、熱帯植物を集めた温室がある。現在の植物園の敷地は、明治時代までは 上賀茂神社の境外末社である半木神社とその鎮守の森 (半木の森)を中心とした田園地帯であった。大正天皇の即位を祝い企画した「大礼記念京都大博覧会」 の開催用地として、1913(大正2)年に京都府によりこの地が購入された。しかし、議会等の反対もあり博覧会は開催されず、植物園が代案として計画されることとなり、1915(大正4)年に 「大典記念植物園」の設置が決定された。1917(大正6)年に建設工事が始まったが、この際、敷地内の半木の森は、古代の山城盆地の植生を残す貴重な自然林としてそのままの形で活用するよう設計がなされ、半木神社も移転することなく園内に存置された。1923(大正12)年11月に開園し、翌年1月から有料公開が始まった。戦後、当初計画された京都御苑の代替地として、占領軍住宅 が建設されることとなった。接収から12年目の1957(昭和32)年12月12日に返還され、1961(昭和36)年に再開園した。 再開園30年を機に大規模な改修工事が行われ、1992(平成4)年3月に当時日本最大級となる観覧温室が竣工した。2013(平成25)年3月1日には北山通側西寄りに賀茂川門が新設され、北西部や賀茂川方面からのアクセスが向上した。
 半木神社はかつては流れ木神社とも言い、京都に平安京が出来る前からある神社です。この辺りは賀茂族が養蚕をし、絹織物を生産していたので “錦部の里” と称されていた。平安時代、後一条天皇の時(1018年)に朝廷から正式に 賀茂別雷神社(上賀茂神社)の社領地 として錦部郷の名称を賜り、寄進された。養蚕業に携わっていた 賀茂族 と秦族 との人々が、その職業の守護神として 四国の阿波から天太玉命アマフトタマノミコトを勧請鎮祭した。こうみると勧請されたのは1018(寛仁2)年のように見えますが、上賀茂神社の境外末社と言われている事、「平安京が出来る前からある」こと、「またかつては「中賀茂」とも呼ばれ、下鴨神社を意味するという見方もある」という記述を考えると 安易にこの年代を信用できませんよね。要はさらに遡るのではないかということです。
 
→ ぐーたら気延日記「京都市 半木神社」
  http://goutara.blogspot.jp/2010/12/blog-post05.html
 天太玉命については、以前、奈良県橿原市忌部町の 天太玉神社 に関係した記事を書きました。
 → 忌部の家系~天太玉命
  http://blogs.yahoo.co.jp/senkoin2002/30233361.html
 フトダマ。日本神話に登場する神。古事記では布刀玉命、日本書紀では太玉命、古語拾遺では天太玉命アメノフトダマノミコトと表記する。忌部氏(後に斎部氏)の祖の一柱とされる。 出自は 記紀 には書かれていないが、古語拾遺などでは 高皇産霊尊タカミムスビの子と記されている。岩戸隠れの際、思兼神が考えた天照大神を岩戸から出すための策で良いかどうかを占うため、天児屋命とともに太占(ふとまに)を行った。そして、八尺瓊勾玉や八咫鏡などを下げた天の香山の五百箇真賢木(いおつまさかき)を捧げ持ち、アマテラスが岩戸から顔をのぞかせると、アメノコヤネとともにその前に鏡を差し出した。天孫降臨の際には、瓊瓊杵尊に従って天降るよう命じられ、五伴緒の一人 として随伴した。日本書紀の一書では、アメノコヤネと共にアマテラスを祀る 神殿(伊勢神宮)の守護神 になるよう命じられたとも書かれている。天児屋命と共に祭祀を司どる神である。岩戸隠れにおいて記紀では太玉命よりもアメノコヤネの方が重要な役割をしている。これは記紀が書かれた当時の斎部氏と中臣氏 の力関係を反映している。斎部氏の斎部広成が書いた 『古語拾遺』 では、逆にフトダマの方が中心的な役割を果たしている。
→ Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%
83%88%E3%83%80%E3%
83%9E
 忌部の祖神は徳島の忌部神社で祀られる天日鷲命のご先祖様になる。大和・奈良では式内の名神大社でしたが、その後は藤原に圧倒されて“衰微”したという忌部らしく、山城・京都では植物園の片隅でひっそり痕跡を残すばかりになっているというわけでしょうか・・・。

 途中、桂の木が目に止まりました。葵祭りに欠かせないのが、アオイと、このカツラ。行列する斎宮以下、全員が頭や衣服、乗り物などにフタバアオイとカツラをからませた御葵桂(おんきっけい)と呼ぶ飾りをつけます。ともに葉の形がハート型で似ていて、カツラは天に向い、アオイは地表にあることから、「陽・天・男」と「陰・地・女」の象徴としたものだという説があります。船の材木として重要だったカツラが海の民、そして森の日陰に育つアオイが山の民の象徴とみることもできそうです。そしてともに日本の固有種。ご神事に用いるのに、なんとふさわしい組み合わせでしょう。あとは榊と麻。サカキは見つけられませんでしたが、植物園ファンの方のサイトに写真がありました。
 アサは何十年も前に賀茂川沿いのなからぎの道にヘンプ;大麻が生えている(植えられている)という噂があったそうです。今は、植物園のどこか奥深くでひっそりと栽培されているのではないか、と想像したりして。古い資料(1998年;当時厚生省)ですが、大麻取扱者免許を持っている人は100人前後の農家(栽培者免許)よりも取締官を含む研究者、植物園の管理者(研究者免許)のほうが約300人と、多いのですから。

 由緒書き。 

 守護神として招いたということは、京都の賀茂と秦の両氏族のルーツが四国の阿波国にあったことを物語っているのではないでしょうか。(詳しくは言えませんが)この周辺の発掘調査で “忌部に関係する出土品が見つかった” という噂話を聞いたことも思い出します。

 社殿はこじんまりとした一間社流造り。一般の参拝を期待していない風情ですね。ここはずっと西陣などの絹織物、つまり呉服業界の旦那方が崇敬してきた神社です。春と秋には業界内で参拝の案内あり、4月20日に春祭りがあったばかり。 ただ近年はきもの離れで呉服業界も苦戦。お目に止まったら、ぜひご協力を。お、上賀茂神社でも式年遷宮なんですね。先日は下賀茂神社の遷宮が終わって、公開された日にお参りに行きましたが。
 お祭りで配られるお札の写真が 「日本刺繍ときものつながり」 というブログに掲載されています:  → 賀茂別雷神社末社 半木神社 http://d.hatena.ne.jp/morinui/20101121/1290312048

 絹織物染織業の御守り。天太玉命なら麻なんだろうと思うのですが。麻織物と絹織物がともに下賀茂神社のご神前に供えてありましたが、現在の呉服業界としては絹が主なんでしょうね。ともあれ染織関係の皆さんに限らず、天太玉命や半木神社のことはもっと広く知っていただき、整備できるようにしたいものです。

 京都にも伊勢がある・・・?そんな不思議な話を、京都で伝統文化を紹介している NPO 遊悠舎京すずめ の土居好江理事長からうかがったのは昨年暮れのことでした。その名が、日向大神宮。琵琶湖疏水で知られる蹴上(けあげ)。Wikipedia によると~

 日向大神宮(ひむかいだいじんぐう)
 京都市山科区の三条通沿いにある神社。式内社(小)で、旧社格は村社。「京の伊勢」とも称される。祭神/内宮 (上ノ本宮)・外宮 (下ノ本宮) の2つの本殿があり、内宮に天照大神・多紀理毘賣命・市寸島比賣命・多岐都比賣命、外宮に天津彦火瓊々杵尊・天之御中主神を祀る。
 歴史/社伝によれば、第23代 顕宗天皇の治世、勅願により筑紫日向の高千穂の峯の神蹟より神霊を移して創建された。「宇治郡名勝誌」、「京都府山科町誌」には、延喜式神名帳小社 に列する「山城国宇治郡 日向神社」とするが、「山城名勝誌」、「山城志」、伴信友の「神明帳考証」では別のものとしている。応仁の乱で 社殿等を焼失 し、祭祀が一旦途絶えた。江戸時代初期に篤志家によって旧社地に再建され、交通祈願の神社として有名になった。ご祭神が伊勢神宮とは違うような・・・。顕宗帝は21代の雄略帝に父を殺され、兄(後の24代仁賢帝)とともに身を隠したという人。この国の天皇制がまだまだ固まっていない時代ですね。天智帝(第38代) をはじめ、天皇の崇敬を受けていたとの御由緒書き。ご祭神は、Wikipedia にあるとおり。天照大御神と宗像三神を内宮に。こちらのお社。社伝によると、堂々山城国最初第一 恵比須神社 とうたっています。今は小さなお社で、エビスさまとアメノウズメさまが同居しておられます。この組み合わせ、阿波古事記研究会の人でなければ、“?” でしょう。

神社の公式サイトには境内社のご祭神を詳しく挙げておられます。

境内社
<上ノ別宮>
荒祭宮 (アラマツリグウ)
 月読尊 (ツキヨミノミコト)
 高皇産霊神 (タカミムスビノカミ)
 栲幡千千姫 (タクハタチヂヒメ) =万幡豊秋津師比売 (ヨロズハタトヨアキツシヒメ)
<下ノ別宮>
高宮 (コウノミヤ) 
 天忍穂耳尊 (アメノオシホミミノミコト)
多賀神社
 伊弉諾尊 (イザナギノミコト)
 伊弉冉尊 (イザナミノミコト)
春日神社
 天児屋命 (アメノコヤネノミコト)
 武甕槌命 (タケミカヅチノミコト)
 経津主命 (フツヌシノミコト)
 天太玉命 (アメノフトダマノミコト)
<別宮>
福土神社
 大国主命(オオクニヌシノミコト)
 彦火火出見尊 (ヒコホホデミノミコト)=山幸彦(ヤマサチヒコ)
 草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)       
 神日本磐余彦尊(カンヤマトイワレヒコノミコト) =神武天皇(ジンムテンノウ)

 山城国最初第一 恵美須神社 
  事代主神 (コトシロヌシノカミ)
 天鈿女 (アメノウズメ) 神社
 天鈿女命 (アメノウズメノミコト)
 大山祇神 (オオヤマツミノカミ)
 <天岩戸>
 戸隠 (トガクシ) 神社
 天手力男命(アメノタヂカラオノミコト)
 朝日泉
 御井 (ミイ) 神社
 水波能売神 (ミズハノメノカミ)

 伊勢神宮遥拝所


 猿田彦神社

 花祭 (カサイ) 神社
 木花開耶姫( コノハナサクヤヒメ)
 神田稲荷神社
 倉稲魂神 (ウガノミタマノカミ)
 保食神 (ウケモチノカミ)
 朝日天満宮
 菅原道真公
 少彦名命 (スクナヒコナノミコト)
 
 厳嶋神社
 弁財天(ベンザイテン)
⇒日向大神宮 ご祭神 http://www12.plala.or.jp/himukai/saijin.htm
 福土神社。
 横に小さく “えんむすび・福徳の神” と、微妙な紹介文。
 社域は京都と滋賀を結ぶ交差点。南北の山伝いに福井~奈良・和歌山をも結びます。非常に重要な立地 (なので応仁の乱で焼かれちゃったのでしょう)。
「京都・奈良は断層上に建てられた古都である」 より

 ウヂの地名が意味するように、ここはおそらく“奈良時代”よりも前に阿波から直接上ってきた人々が重要な拠点としていたはず。
 宇治郡 (うじぐん)
山城国・京都府に存在した郡。
郡域は現在の京都市南東部と宇治市東部に相当する。
京都市の南東部では、伏見区醍醐と山科区全域に当てはまる。
豊臣秀吉の桜で有名な醍醐寺、浄土真宗の開祖である親鸞が誕生したとされる日野の里、坂上田村麻呂の墓等がある。
また、京都府宇治市の東部とは 琵琶湖より流れ出る宇治川の右岸地域 のこと。
このあたりには、禅宗の一派である黄檗宗の大本山、黄檗山万福寺等がある。万福寺は中国風の建築で有名な寺院。開祖は、インゲンマメや茶を日本に持ち込んだとされる隠元隆琦。

 郡名の由来
『宇治市史』等では、「うじ」 とは 「うち」 を意味するとする。
一方、『山城国風土記』(逸文)では、応神天皇皇子・菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)が、この地に宮 「菟道宮(うじのみや) 」を構えたことが地名の起源となったとする説話を伝える。しかしながら地名としての 「莵道」 は以前からあったという説もあり、『日本書紀』の垂仁3年3月および仲哀元年閏11月などに 「莵道河」(現・宇治川) の記載があることから、「菟道稚郎子」の人名の方が地名を冠したという見方がある。

 東漢(やまとのあや)氏出身の坂上田村麻呂なんていう気になる名前も出てくるのですね、宇治。なにせ東漢氏は、「倭漢」氏と書かれたりもするんです。
 菟道稚郎子(うぢのわきいらつこ)
 記紀等に伝わる古代日本の皇族。第15代 応神天皇 皇子 (日本書紀では皇太子) で、第16代 仁徳天皇 は 異母兄 にあたる。郎子については 古事記、日本書紀 等の多くの史書に記載がある。中でも、父応神天皇の寵愛を受けて皇太子に立てられたものの、異母兄の大鷦鷯尊(おおさざきのみこと:仁徳天皇)に皇位を譲るべく自殺したという美談が知られる。ただし、これは日本書紀にのみ記載された説話で、古事記では単に夭折と記されている。古事記、日本書紀 の郎子に関する記載には多くの特異性が指摘されるほか、播磨国風土記 には郎子を指すとされる 宇治天皇 という表現が見られる。これらの解釈を巡って、「天皇即位説」 や 「仁徳天皇による郎子謀殺説」 に代表される数々の説が提唱されている人物である。-中略-江戸時代の時点では墓の所在は不明となっていた。享保18(1733)年には、日本書紀 の記述に基づき、古墳が存在していないものの朝日山(宇治上神社後背)の山頂が墓所と見なされて墓碑の建立が行なわれた。上記の丸山古墳に治定されたのは明治22(1889)年で、以後現在まで宮内庁の管理下となっている。この地は宇治川東岸にあり、明治以前は 「浮舟の杜」 と呼ばれる円丘であった。これは 「山上」 とする『日本書紀』 の伝承とは異なるという指摘もあったが、前方後円墳状に成形 されて 「宇治墓」 とされた。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%9F%E9%81%93%E7%A8%9A%E9%83%8E%E5%AD%90
 菟道稚郎子と地名について書いておられます。
 ⇒ 仁徳天皇は讃岐の天皇 7
 http://blogs.yahoo.co.jp/noranekoblues/50442367.html

 先輩によれば 「わき」 が現在の美馬市脇町、「うじ」 はその北側の阿讃山脈 ではないか、とのこと。

 Wikipedia によれば:
 
 春日神社(海南市)
 所在地 和歌山県海南市大野中1056番地
 主祭神 天押帯日子命
 
 歴史 
 御祭神、天押帯日子命(上の宮)は、春日の朝臣の遠祖、 彦國葺命(下の宮)の庶族がこの地に在住し、 祖神として祀ったのがはじまりである。
 天押帯日子命?
 
 奈良の春日大社の系統なら、武甕槌命・経津主命・天児屋根命・比売神という“藤原氏の氏神”であるはずですが。
 天足彦国押人命(アマタラシヒコ クニオシヒトノミコト;生没年不詳)は、古事記、日本書紀に記される皇族(王族)。天押帯日子命とも。記紀によれば、孝昭天皇の第1皇子 で、母は瀛津世襲の妹・世襲足媛命(ヨソタラシヒメ、日本書紀本文。古事記では余曽多本毘売命、日置姫)。同母弟に日本足彦国押人尊(孝安天皇)がおり、日本書紀本文での皇后・押媛命は天足彦國押人の娘と記述される。 

 事績は伝わらないが、古事記には、阿那臣・壱比韋臣・大坂臣・大宅臣(おおやけのおみ)・小野臣(のち小野朝臣)・柿本臣・春日臣(のち春日朝臣)・粟田臣・多紀臣・羽栗臣・知多臣・牟邪臣(むさのおみ)・都怒山臣・伊勢飯高君・壱師君・近淡海国造(ちかつあふみ)の祖。日本書紀に和珥臣の祖とし、新撰姓氏録にも同様の系譜記載がある。なお、子に和邇日子押人命(稚押彦命)がおり(和邇系図)、名からして和邇氏族の宗祖的存在と言える。
 
 奈良県平群町にある猪上神社、滋賀県大津市小野(旧:滋賀県滋賀郡志賀町)の小野神社の祭神である。また奈良県天理市・和爾下神社も明治初年頃は祭神としていた。

 なんと・・・。父の孝昭帝は第5代天皇で、和風諡号は観松彦香殖稲尊/御真津日子訶恵志泥命(ミマツヒコカエシネノミコト)。ミマツヒコといえば阿波の佐那河内。のらねこ先輩が紹介されています:
 また、この神を祀ったという 春日の朝臣の遠祖彦国葺命は彦国葺命(ヒコクニブクノミコト;生薨年不詳)。古墳時代の人物。和邇氏の祖。また垂仁朝における五大夫の一人。崇神10年、武埴安彦命の反乱において四道将軍の大彦命に従い、山背で武埴安彦の軍勢と戦った。 彦国葺の放った矢により武埴安彦は胸を貫かれ討たれている。垂仁25年には、垂仁天皇より五大夫の一人として武渟川別( 阿倍氏の祖)、大鹿嶋(中臣氏の祖)、十千根(物部氏の祖)、 武日(大伴氏の祖)らと共に訓辞を受け賜った。 
 
 海南市の春日神社のサイトにも興味深いことが書かれています。
 JR海南駅と春日神社

 平成10年10月10日に高架駅として新しく生まれ変わった海南駅は、 海南市にふさわしい駅となりました。海南駅周辺は、昔は海辺 であり、 日方から名高にかけて細長い砂浜(砂州)がのびていました。( 室町時代末期ごろまで)この砂州では、 春日神社の馬場が設けられ県下各地から寄り集まった馬が速力を競 い合うので、見物客も大勢かけつけました。今は、馬場町という地名に名残りを留めています。春日神社の秋祭り「おみこし行列」 も海南駅周辺で行われていました。また、「井松原合戦」 の古戦場としても知られています。昔は、海岸沿いに松林が並んでいて、「井松原」 と呼ばれていました。
 春日神社

 春日神社は、紀伊国神名帳に「正一位 春日大神」 と位置づけられている格式の高い神社です。海南市では「正一位」を与えられたのは、現存社では、 春日神社だけで聖武天皇から代々の祈願所として朝廷の厚い保護を 受けていました。祭神は、「天押帯日子命(『古事記』)」 で古代大和豪族 ワニ 氏の祖にあたります。また、元春日という神林よりご神意により、 吉方位を撰び現在の地に移転鎮座したため「方位除け」 の神様としてまた、「厄除け」の神様として崇拝されています。
 松代王子社跡

 熊野三山を遥拝したり、 休息するところに設けられた九十九王子社中、 海南市には 五つの王子跡 があります。そのひとつが「松代王子」で春日山にあります。この「松代王子」付近では、海南特産の古代墨(松煙墨) や硯などが昔、生産されていました。今、一月二日には、この「松煙墨」を使用した「 紀州古代墨席上書初会」が毎年、春日神社で行われています。
ここより、熊野古道を北に行くと「松阪王子」、南に行くと「 菩提房王子」があります。

 吉野川を下り、海の道をまっすぐ進むと海南市があります。そして熊野(いや/ゆや)に入ってゆく玄関口。

 2014/1/19日、「かぐや姫の物語~忌部と藤原」。
 讃岐忌部(さぬきいんべ)は、手置帆負命(タオキホオヒノミコト)を祖神とする日本各地に分布する忌部氏の一族である。
 竹取物語 との関係

 竹取物語のモデルとなった場所として奈良県北葛城郡広陵町。広陵町の小字(こあざ)は「笠神」。讃岐神社(広陵町)と笠神との間には 「笠」 なる村が存在する。古語拾遺の崇神天皇条に登場する笠縫邑(かさぬいのむら)と共に讃岐忌部氏との関係が示唆される。竹取翁の名前が讃岐造(サヌキノミヤツコ)。かぐや姫と名付けたのが三室戸斎部秋田(ミムロドノイムベノアキタ)。香川県さぬき市長尾町に鎮座する多和神社の祭神が讃岐忌部氏の祖神・手置帆負命。同町の古くからの特産品が竹であることから竹取物語との関係を指摘する声がある。笠縫邑の本家として阿波の美馬がある。美馬町では竹と和紙による和傘作りが盛んだった。和紙も忌部が伝えたとされる技術のひとつ。竹の加工技術に阿波和紙が融合してできた和傘・・・。
 →『紙漉き徒然』 「忌部が興した阿波和紙」   http://awagami.air-nifty.com/blog/2004/12/post.html
 
 手置帆負命は日本書紀で笠を作る者、古語拾遺では笠や矛を作ったされる、太玉命の率いる忌部五神の一柱。天照大御神が岩戸に隠れた時に彦狭知命とともに天御量を作り、木を切って瑞殿を作ったことから木工・建築の神とされている。
 
  「竹取物語」 の5人の貴公子のモデル。竹取物語には壬申の乱で活躍した実在の人物が登場していることが特徴である。5人の貴公子のうち、阿倍御主人、大伴御行、石上麻呂は実在の人物である。車持皇子は藤原不比等とされ、不比等は天智天皇の落胤との説がある。母の姓が「車持」であるため車持皇子の名がつけられている。石作皇子のモデルは多治比嶋と推定され、多治比嶋が宣化天皇の四世孫で、「石作」氏と同族だったためである。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E5%8F%96%E7%89%A9%E8%AA%9E
 
 鴨蝦夷(カモノエミシ)

 生年不明 - 持統天皇9(695)年。壬申の乱の勃発時、吉野宮から大海人皇子(天武天皇)が去ってから、倭(大和国)では大友皇子の朝廷のもとで軍の編成が進められたが、その軍の指揮権を大海人皇子側の大伴吹負(オオトモノ フケイ)が計略で奪取した。これを知った鴨君蝦夷は、三輪高市麻呂らと吹負の下に参集した。吹負の軍は7月1日に北の及楽(奈良)に向けて進発した。途中の稗田で河内から大軍が来るとの情報を得て、吹負は3部隊を分派。そのうちの数百人を鴨蝦夷が率いて石手道を守った。配置についてから敵軍と盛んに戦ったのは坂本財らの部隊で、鴨蝦夷の部隊が戦闘に加わったかどうかは不明だが、5日には敵に圧倒されて退いた。天武天皇(684年)13年11月1日、鴨君は、朝臣の姓を与えられた。

 http://wpedia.goo.ne.jp/wiki/%E9%B4%A8%E8%9D%A6%E5%A4%B7
 
  作者について、源順、源融、遍昭、紀貫之、紀長谷雄、菅原道真など数多くの説(Wikipedia)がある。 「僧玄昉(げんぼう) しか考えられない」 との説。
 
 玄昉(げんぼう)

 奈良時代の法相宗の僧。俗姓は阿刀氏(安斗氏)。僧官は僧正。義淵に師事。養老元(717)年、遣唐使 に学問僧として随行、入唐して智周に法相を学ぶ。在唐は18年に及び、その間当時の皇帝であった玄宗に才能を認められ、三品に準じて紫の袈裟の下賜を受けた。約20年後の天平7(735)年、次回の遣唐使に随い経論5000巻の一切経と諸々の仏像を携えて帰国した。天平8(736)年、封戸を与えられた。翌天平9(737)年、僧正に任じられて内道場(内裏において仏像を安置し仏教行事を行う建物)に入り、聖武天皇の母・藤原宮子の病気を祈祷により回復 させ賜物をうけた。聖武天皇の信頼も篤く、吉備真備とともに橘諸兄政権の担い手として出世したが、人格に対して人々の批判も強く、失敗したものの天平12(740)年には 藤原広嗣が玄昉を排除しようと九州で兵を起こした(藤原広嗣の乱)。翌天平13(741)年、千手経1000巻を発願、書写・供養している。しかし、藤原仲麻呂が勢力を持つようになると、天平17(745)年、筑紫観世音寺別当に左遷、封物も没収され、翌天平18(746)年、任地で没した。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%84%E3%83%9C%E3%82%A6
 
 彼の阿刀氏は天孫系で、新興の藤原とは比べものにならない名門。
 
 阿刀氏(あとうじ/し)
 物部氏と同祖伝承を有する神別(天神)の古代氏族で、「阿刀連」のち「阿刀宿禰」姓を称した。物部氏系の史書である先代旧事本紀では、饒速日命(物部氏祖神)の孫・味饒田命(ウマシニギタノミコト)を祖とすると伝える。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%88%80%E6%B0%8F
 
 玄昉が持ち帰った経典から学んだはずの空海の母はこの阿刀氏の人だとされている。
 玄昉が回復させた宮子の病というのは心の病とされている。
  
 文武天皇元(697)年8月、持統天皇の譲位により即位直後の文武天皇の夫人となる(続日本紀)。なお、これと同時に紀氏・石川氏の娘も嬪となっている。宮子が文武夫人となった背景には、持統末年頃に不比等と婚姻関係になったと考えられている阿閉皇女(元明天皇)付き女官の県犬養三千代の存在があったと考えられており、それまで少壮官僚であった不比等は文武即位に伴い中央政界に台頭している。大宝元(701)年、首(おびと)皇子(後の聖武天皇)を出産したものの心的障害に陥り、その後は長く皇子に会う事はなかった。文武や父 不比等等肉親の死を経て、723年に従二位に叙され、首皇子が即位した翌724年には正一位、大御祖(文書では皇太夫人)の称号を受けたが病は癒えず、737年にやっと平癒、息子天皇と36年ぶりに対面した。そして、孫阿倍内親王が即位(孝謙天皇)した749年には太皇太后の称号を受け、754年に崩御した。享年70前後と推定される。長く苦しむ事となる病気にかかりながらも、跡継ぎを生み、天皇の后としての最低限の役割は果たした宮子であったが、その跡継ぎ聖武天皇には安積親王薨去後はついに男子の跡継ぎが生まれず、一族藤原氏と他氏貴族との権力闘争などもあいまって、崩御後20年も経たないうちに 天武皇統は事実上断絶してしまう事となった。なお、病気回復の時に関わった僧侶が玄昉であり、橘諸兄 のもとで玄昉が権力を振るったのはこの功績によるものと考えられる。

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%AE%E5%AD%90 
 「藤原四兄弟の滅亡後に豹変した聖武天皇」。続日本紀天平9(737)年12月27日の条に奇妙な記事が載っている。「この日、皇太夫人(こうたいぶにん)藤原氏(聖武天皇の母・宮子)は、皇后宮(藤原不比等の邸宅跡で光明子の館)で僧正玄昉と会った。天皇もまた、皇后宮に赴いた」。問題はこのつづきだ。「宮子は聖武天皇が産まれてから幽憂に沈み、久しく普通の言動ができなかったので、親子は会っていなかった。ところが玄昉が看病すると、慧然と悔悟した。そして、たまたま訪れていた聖武天皇と再会した」。精神を患っていた宮子を玄昉が看病してみると、一瞬で快癒したということになる。そして、三十数年ぶりに、親子は再会したのだ。しかしこの話には、裏がありそうだ。だいたい、精神を病んでいた人間が、たいした治療もしないのに、瞬間に治癒するなどということがあるだろうか。もともと宮子は正常で、聖武天皇から引き離されていただけの話ではなかったか。宮子の体の中には 葛城の賀茂氏 の血が流れている。賀茂氏は出雲神の末裔で、ヤマトの由緒正しき豪族であった。また葛城という地域には土蜘蛛が住むと恐れられ、役小角(役行者)を輩出するなど、朝廷にとって厄介な反骨の土地柄であった。宮子の産んだ御子(首皇子。のちの聖武天皇)を即位させれば、藤原氏は念願の 「王家の外戚」 になれる。いわば首皇子は藤原氏にとって宝物だ。もし仮に、首皇子に宮子が余計なことを吹き込もうなら、計画は台無しである。藤原氏は権力を握るために、蘇我本宗家を滅亡に追い込み、日本を無謀な百済救援に向かわせた。当時の人たちが藤原氏を熱狂的に支持していたかというと、むしろ逆で、反藤原派は自然に発生し、藤原氏が彼らを力や陰謀でモグラ叩きのように順々に潰していったといった方が正確なのだ。そうであるからこそ、出雲の流れを汲む宮子に首皇子を育てさせることはできなかったのだろう。だから、藤原不比等は娘を「病人」に仕立て上げ、館に幽閉したのだろう。そう、賀茂の血…。これが古代史から現代の皇室にまでつながる最大の謎かもしれません。
 
 『教科書に載らない古代史』 はもう一人の女性、藤原不比等の妻のひとり、県犬養三千代(橘三千代)のことなど、興味深い話が続きます。短い短編なので、こちらもぜひお目通しください。
 → 『廣済堂よみものWeb』 http://yomimonoweb.jp/sekiyuji/p19_1.html

 鞆の浦 「沼名前神社」 (2) 2013/11/28(木) 午後 10:35
​ 小烏(こがらす)神社/天目一筒(あめのまひとつ)神社
 
 「ふいご」は鍛冶の際に使われる送風機で、鍛冶職人たちはふいごを大切に思ってきました。そのため、鉄工業の祭を全国的に 「ふいご祭り」(たたら祭り) といいます。鞆の浦は古くから 潮待ちの港 として栄え、奈良時代には船具類の鍛冶が発達。江戸時代には鉄工業は鞆の浦の中心産業になっていました。福島正則は、1601年に鞆城を再普請し城下町を作る際、鍛冶職人を城の北側に集め、鍛冶町としました。その中心にあるのが鞆鍛冶の氏神を祀る小烏神社なのです。
 「小烏神社」 を調べていると、香川県にもある。 「香川県の神社」 というサイト。実際に参拝して回られた膨大な記録です。
http://wanikawa.com/jinnjya/index.html
 
 [小烏神社]
 香川県三豊市詫間町松崎864。小烏神社というと、本島の小烏神社 を思い出すが、由緒を読むと、この小烏神社は、宇夫階神社より小烏大神を迎えて奉齋したようで、拝殿の額をみると「小烏大明神」と書いてある。
 
 由緒(香川県神社誌)
 全讃史、讃州府誌等に、往昔宇多津より来往せし者、宇夫階大神 を迎えて奉齋し、後八幡大神を配祀し祀れり。ここを小烏八幡宮と奉稱す云々とあり。神社考には 「所祭未詳蓋興宇夫志那神同然則 大己貴命」 と云へり。明治五年五月村社に列せられ、同十年十月二十四日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。當社は、武運守護の神として崇敬せられ、日清、日露等各戦役に際し神威愈顕著なりしと稱せらる。
 
 ウブシナノカミ が 大己貴命。やはり小烏とは オオクニヌシでしたか。
 
 この三豊(みとよ)市について、Wikipedia によれば、縄文時代から人が住んでおり、南草木、小蔦島(ともに仁尾町)に貝塚が残されている。南草木貝塚は香川県で最大の貝塚で、矢じり皮、剥ぎ器といった生活用具に加えて、竪穴式住居跡が検出された。小蔦島貝塚は 瀬戸内地方で最も古い貝塚 であり、ハマグリ、シオフキ等のほか淡水にすむヤマトシジミの貝殻等が出土している。 八耳神社や頸懸神社など、近くには名前だけでも気になる神社がたくさんあります。ここから南東に7kmほどに金比羅山 (524m) に連なる 大麻山 (616m)。
峠を越えた阿波とのつながりも気になります。 
 
 小烏神社の元、「宇夫階(うぶしな)神社」 についても 「香川県の神社」 に詳しく書かれています:宇多津駅より歩いて10分ほどの所に鎮座。秋祭りは盛大で、氏子の結束も強い。宇夫階神社の本殿は、多賀宮 の古材をそのままこちらに移築している。
式年遷宮の古材は、どうなるのかいつも不思議に思っていたが、この様に再利用される事もあるということがわかった。
 
 由緒/古くからの傳によると、当神社は古くは津之郷に御鎮座になり、宇夫志奈大神と稱え奉って居た。第12代景行天皇の皇子 日本武尊 の御子で 綾君の祖先である 武殻王(たけかひこのみこ)が阿野群(あやぐん)に封ぜられて下向され、部内の海岸を御巡視の折、にわかに暴風にあい御船が危うくなられた時、王は宇夫志奈大神に御祈念なさると、どこからともなく一羽の 烏 が御船の前にあらわれたので、王は水夫に命じて、烏の行く方に船をこがせられた所、泊浦(今の本島)について無事危難をのがれ給うた。仍って王は一層大神を仰がれた。これから小烏大神とたたえまつることとなったと。

 第49代 光仁天皇の宝亀十年に社殿再興のことが傳えられて居る。末包家記によると第51代 平城天皇の大同元年十月申酉の日に津之郷の長者末包和直に託宣があり、「汝わが祭祀を司りて 国の守護神と仰ぐべし 」と、すなわち和直は神主となり祭祀を行った。翌2年(807)8月に至り、神威の輝きに依り朝廷に奏聞し、現地に社殿を造営し、神霊を遷し奉ったと。第56代 清和天皇の貞観6(864)年11月15日に勅使下向し位記を進め位田を賜い正六位上より従五位下を授けたまい、更に第59代 宇多天皇の寛平3(891)年9月24日に従五位上に昇叙された。国司に見えたる社即ち国史現在社である。(宇夫階神社誌より)
 
 もしかするとここが 「うぶすな」 という言葉の発祥かもしれません。ウブ(産)スとナ(土・地)との結合したもの。ウブスはウムスと同源。ウムスは略してムスとなり、『苔むす』などという。人の生まれた土地。生地。本居。
 古材を移してきたという 多賀宮 は、伊勢外宮(豊受大神宮)の境内別宮。式内社ではありません。三豊市にある唯一の式内社 「大水上神社(おおみなかみじんじゃ)」も、ご祭神が大水上大明神という、よく分からない神にされています。 
 本島の神社、正しくは 「木烏(こがらす)神社」 。「宇夫階神社」 のある宇多津町の沖にある島です。
→「島島ラジオ」より
 
 この記事では言い伝えに:“むかーしむかし、日本武尊が瀬戸内海を巡業しているとき、濃霧のために迷ってしまいました。そのとき、一羽のカラスが現れて、水先案内を勤めた後、泊に飛び帰ったので、泊に祠を建てて祭ったのが木烏神社なのです。”と、ヤマトタケル本人ということになっています。また、カラスはこの島を拠点としていたように聞こえます。
 
 Wikipedia の木烏神社記事:祭神は 大国主神、天押立神、少彦名神。日本武尊または 讃岐の国造武殻王の悪魚退治の案内役を勤めたとされる伝説の烏を祀ったと伝わる古社。古くは木烏大明神と称した泊浦の産土神で、戦国時代より 塩飽水軍 の信仰を厚く得て隆盛した。 境内には本殿、幣殿、拝殿のほか、拝殿の左前に江戸時代築の常設芝居小屋である 千歳座 が現存する。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E7%83%8F%E7%A5%9E%E7%A4%BE
 
 天押立神とは聞きなれないお名前で、よくわかりません。天櫛玉命(ニギハヤヒの別名、またはsの随神)と関係がありそうですが・・・。滋賀県に東西の押立村という地名や天押立命を祀る 「神立神社」 があります。 
 
 本島(ほんじま)
香川県丸亀市に属する島。面積6.74平方km、周囲16.4km。塩飽(しわく)諸島の中心で、四人の年寄が勤番で政務を行った塩飽勤番所、敵襲からの防御を考え細い路地が入り組んだ古い町並みが残るかつての塩飽水軍の本拠「笠島」 などが見られる。今も塩飽諸島の中で最も人口が多い。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%B3%B6_(%E9%A6%99%E5%B7%9D%E7%9C%8C)
 

 日向大神宮(ひむかいだいじんぐう)
 京都市山科区の三条通沿いにある神社。式内社(小)で、旧社格は村社。「京の伊勢」とも称される。
 祭神
 内宮 (上ノ本宮)・外宮 (下ノ本宮) の2つの本殿があり、内宮に天照大神・多紀理毘賣命・市寸島比賣命・多岐都比賣命、外宮に天津彦火瓊々杵尊・天之御中主神を祀る。
 歴史
 社伝によれば、第23代 顕宗天皇 の治世、勅願により筑紫日向の高千穂の峯の神蹟より神霊を移して創建された。「宇治郡名勝誌」、「京都府山科町誌」には、延喜式神名帳小社 に列する「山城国宇治郡 日向神社」とするが、「山城名勝誌」、「山城志」、伴信友の「神明帳考証」では別のものとしている。応仁の乱で 社殿等を焼失 し、祭祀が一旦途絶えた。江戸時代初期に篤志家によって旧社地に再建され、交通祈願の神社として有名になった。

 ご祭神が伊勢神宮とは違うような・・・。
 日向大神宮(ひむかいだいじんぐう)
 京都市山科区の三条通沿いにある神社。式内社(小)で旧社格は村社。「京の伊勢」 とも称される。内宮 (上ノ本宮)・外宮 (下ノ本宮)の2つの本殿があり、内宮に天照大神・多紀理毘賣命・市寸島比賣命・多岐都比賣命、外宮に天津彦火瓊々杵尊・天之御中主神を祀る。歴史は、社伝によれば、第23代顕宗天皇の治世、勅願により 筑紫日向の高千穂の峯 の神蹟より神霊を移して創建された。「宇治郡名勝誌」、「京都府山科町誌」には、延喜式神名帳小社に列する 「山城国宇治郡 日向神社」 とするが、「山城名勝誌」、「山城志」、伴信友の「神明帳考証」では別のものとしている。応仁の乱で社殿等を焼失し、祭祀が一旦途絶えた。江戸時代初期に篤志家によって旧社地に再建され、交通祈願の神社として有名になった。

 境内社の<上ノ別宮>の荒祭宮 (アラマツリグウ)の祭神は、月読尊 (ツキヨミノミコト)、高皇産霊神 (タカミムスビノカミ)、栲幡千千姫 (タクハタチヂヒメ)=万幡豊秋津師比売 (ヨロズハタトヨアキツシヒメ)。<下ノ別宮>の高宮 (コウノミヤ)の祭神は、天忍穂耳尊 (アメノオシホミミノミコト)。
 多賀神社は、伊弉諾尊 (イザナギノミコト)、伊弉冉尊 (イザナミノミコト)。春日神社は、天児屋命 (アメノコヤネノミコト)、武甕槌命 (タケミカヅチノミコト)、経津主命 (フツヌシノミコト)、天太玉命 (アメノフトダマノミコト)。<別宮>福土神社の祭神は、大国主命(オオクニヌシノミコト)、彦火火出見尊 (ヒコホホデミノミコト)=山幸彦(ヤマサチヒコ)、草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)、神日本磐余彦尊(カンヤマトイワレヒコノミコト) =神武天皇(ジンムテンノウ)。山城国最初第一の恵美須神社の祭神は事代主神 (コトシロヌシノカミ)。天鈿女 (アメノウズメ) 神社の祭神は天鈿女命 (アメノウズメノミコト)、大山祇神 (オオヤマツミノカミ)。<天岩戸>の戸隠 (トガクシ) 神社の祭神は天手力男命(アメノタヂカラオノミコト)。朝日泉の御井 (ミイ) 神社の水波能売神 (ミズハノメノカミ)。伊勢神宮遥拝所。猿田彦神社、花祭 (カサイ) 神社、 木花開耶姫( コノハナサクヤヒメ)。神田稲荷神社、倉稲魂神 (ウガノミタマノカミ)、保食神 (ウケモチノカミ)。朝日天満宮、菅原道真公、少彦名命 (スクナヒコナノミコト)。厳嶋神社、弁財天(ベンザイテン)。
 宇治郡 (うじぐん)
 山城国・京都府に存在した郡。郡域は現在の京都市南東部と宇治市東部に相当する。京都市の南東部では、伏見区醍醐と山科区全域に当てはまる。豊臣秀吉の桜で有名な醍醐寺、浄土真宗の開祖である親鸞が誕生したとされる日野の里、坂上田村麻呂の墓等がある。また、京都府宇治市の東部とは 琵琶湖より流れ出る宇治川の右岸地域 のこと。このあたりには、禅宗の一派である黄檗宗の大本山、黄檗山万福寺等がある。万福寺は中国風の建築で有名な寺院。開祖は、インゲンマメや茶を日本に持ち込んだとされる隠元隆琦。

 郡名の由来。『宇治市史』等では、「うじ」 とは 「うち」 を意味するとする。一方、山城国風土記(逸文)では、応神天皇皇子・菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)が、この地に宮 「菟道宮(うじのみや) 」を構えたことが地名の起源となったとする説話を伝える。しかしながら地名としての 「莵道」 は以前からあったという説もあり、日本書紀の垂仁3年3月および仲哀元年閏11月などに 「莵道河」(現・宇治川) の記載があることから、「菟道稚郎子」の人名の方が地名を冠したという見方がある。
 菟道稚郎子(うぢのわきいらつこ)

 記紀等に伝わる古代日本の皇族。第15代 応神天皇皇子 (日本書紀では皇太子) で、第16代仁徳天皇は異母兄 にあたる。郎子については 古事記、日本書紀等の多くの史書に記載がある。中でも、父応神天皇の寵愛を受けて皇太子に立てられたものの、異母兄の大鷦鷯尊(おおさざきのみこと:仁徳天皇)に皇位を譲るべく自殺したという美談が知られる。ただし、これは日本書紀にのみ記載された説話で、古事記では単に夭折と記されている。古事記、日本書紀 の郎子に関する記載には多くの特異性が指摘されるほか、播磨国風土記には郎子を指すとされる 「宇治天皇」 という表現が見られる。これらの解釈を巡って、「天皇即位説」 や 「仁徳天皇による郎子謀殺説」 に代表される数々の説が提唱されている人物である。-中略-江戸時代の時点では墓の所在は不明となっていた。享保18(1733)年には、日本書紀の記述に基づき、古墳が存在していないものの朝日山(宇治上神社後背)の山頂が墓所と見なされて墓碑の建立が行なわれた。上記の丸山古墳に治定されたのは明治22(1889)年で、以後現在まで宮内庁の管理下となっている。この地は宇治川東岸にあり、明治以前は 「浮舟の杜」 と呼ばれる円丘であった。これは 「山上」 とする日本書紀の伝承とは異なるという指摘もあったが、前方後円墳状に成形 されて 「宇治墓」 とされた。

 2013/11/28鞆の浦 「沼名前神社」 (2) 」。
 ふいご祭り
 [開催時期]12月第1土曜日(前日祭)・日曜日(当日祭)
 [開催場所]​小烏(こがらす)神社/天目一筒(あめのまひとつ)神社
 
 「ふいご」は鍛冶の際に使われる送風機で、鍛冶職人たちはふいごを大切に思ってきました。そのため、鉄工業の祭を全国的に 「ふいご祭り」(たたら祭り)といいます。鞆の浦は古くから 潮待ちの港 として栄え、奈良時代には船具類の鍛冶が発達。江戸時代には鉄工業は鞆の浦の中心産業になっていました。福島正則は、1601年に鞆城を再普請し城下町を作る際、鍛冶職人を城の北側に集め、鍛冶町としました。その中心にあるのが鞆鍛冶の氏神を祀る小烏神社なのです。
 「小烏神社」 を調べていると、香川県にもありました。参照させていただいたのは 「香川県の神社」 というサイト。実際に参拝して回られた膨大な記録です。
 
 [小烏神社]
 香川県三豊市詫間町松崎864。小烏神社というと、本島の小烏神社 を思い出すが、由緒を読むと、この小烏神社は、宇夫階神社 より小烏大神を迎えて奉齋したようで、拝殿の額をみると「小烏大明神」と書いてある。
 
 由緒(香川県神社誌)
 全讃史、讃州府誌等に、往昔宇多津より来往せし者、宇夫階大神 を迎えて奉齋し、後八幡大神を配祀し祀れり。ここを小烏八幡宮と奉稱す云々とあり。神社考には 「所祭未詳蓋興宇夫志那神同然則 大己貴命」 と云へり。明治五年五月村社に列せられ、同十年十月二十四日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。當社は、武運守護の神として崇敬せられ、日清、日露等各戦役に際し神威愈顕著なりしと稱せらる。
 
 ウブシナノカミ が 大己貴命。やはり小烏とは オオクニヌシ でしたか。
 
 この三豊(みとよ)市について、Wikipedia によれば:
 縄文時代から人が住んでおり、南草木、小蔦島(ともに仁尾町)に貝塚が残されている。南草木貝塚は香川県で最大の貝塚で、矢じり皮、剥ぎ器といった生活用具に加えて、竪穴式住居跡が検出された。小蔦島貝塚は 瀬戸内地方で最も古い貝塚 であり、ハマグリ、シオフキ等のほか淡水にすむヤマトシジミの貝殻等が出土している。縄文の人々が瀬戸内ハイウェイを渡ってきた弥生の人々と、ごく早い時期に出会った土地だったことでしょう。
 
 小烏神社の元、「宇夫階(うぶしな)神社」 についても 「香川県の神社」 に詳しく書かれている。  
 由緒
 古くからの傳によると、当神社は古くは津之郷に御鎮座になり、宇夫志奈大神と稱え奉って居た。第12代景行天皇の皇子 日本武尊 の御子で 綾君の祖先である 武殻王(たけかひこのみこ)が阿野群(あやぐん)に封ぜられて下向され、部内の海岸を御巡視の折、にわかに暴風にあい御船が危うくなられた時、王は宇夫志奈大神に御祈念なさると、どこからともなく一羽の 烏 が御船の前にあらわれたので、王は水夫に命じて、烏の行く方に船をこがせられた所、泊浦(今の本島)について無事危難をのがれ給うた。仍って王は一層大神を仰がれた。これから小烏大神とたたえまつることとなったと。

 第49代 光仁天皇の宝亀十年に社殿再興のことが傳えられて居る。末包家記によると第51代 平城天皇の大同元年十月申酉の日に津之郷の長者末包和直に託宣があり、「汝わが祭祀を司りて 国の守護神と仰ぐべし 」と、すなわち和直は神主となり祭祀を行った。翌2年(807)8月に至り、神威の輝きに依り朝廷に奏聞し、現地に社殿を造営し、神霊を遷し奉ったと。第56代 清和天皇の貞観6(864)年11月15日に勅使下向し位記を進め位田を賜い正六位上より従五位下を授けたまい、更に第59代 宇多天皇の寛平3(891)年9月24日に従五位上に昇叙された。国司に見えたる社即ち国史現在社である。(宇夫階神社誌より)
 
 ウブ(産)スとナ(土・地)との結合したもの。ウブスはウムスと同源。ウムスは略してムスとなり、『苔むす』などという。人の生まれた土地。生地。本居。「広辞苑」
 
 古材を移してきたという多賀宮は、伊勢外宮(豊受大神宮)の境内別宮。式内社ではない。三豊市にある唯一の式内社 「大水上神社(おおみなかみじんじゃ)」も、ご祭神が大水上大明神という、よく分からない神にされている。古墳マップで香川県を見ると、この周辺にも古墳が数多くある。
 
 本島の神社、正しくは 「木烏(こがらす)神社」 。「宇夫階神社」 のある宇多津町の沖にある島。祭神は 大国主神、天押立神、少彦名神。日本武尊または 讃岐の国造武殻王の悪魚退治の案内役を勤めたとされる伝説の烏を祀ったと伝わる古社。古くは木烏大明神と称した泊浦の産土神で、戦国時代より塩飽水軍の信仰を厚く得て隆盛した。境内には本殿、幣殿、拝殿のほか、拝殿の左前に江戸時代築の常設芝居小屋である千歳座が現存する。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E7%83%8F%E7%A5%9E%E7%A4%BE
 
 天押立神。天櫛玉命(ニギハヤヒの別名、またはsの随神)と関係がありそう。滋賀県に東西の押立村という地名や天押立命を祀る「神立神社」がある。

 2016年1月13日、「花咲く都・黄金文明」の「阿波の国・徳島は日本の原型であったが意図的に封印されて歴史の表舞台から姿を消した」参照。

 弘法大師・空海が剣山に四国八十八箇所霊場を開いて結界を張り巡らせたことにより四国は「死国(しこく)」として封印されることになった。剣山がある阿波の国・徳島もそれ以前の時代に封印されて歴史の表舞台から姿を消している。代わりに奈良の大和地方が表舞台に現れるようになる。「大和」という言葉は、奈良の大和地方に登場する前の原型のようなものが阿波の国・徳島にあり、それが封印されているのではないのか。

 阿波の国・徳島は日本の原型とも言える場所である。古事記では、オノゴロ島に降り立ったイザナギとイザナミが最初に生んだ所が淡路之穂之狭分島(あわぢのほのさわけのしま)(淡路島)であり、次に生んだのが伊予之二名島(いよのふたなのしま)(四国)である。その次に、隠岐島、九州、壱岐、対馬、佐渡島、畿内の順番で大八島を作ったとされている。古事記の国生み神話の範囲は四国・九州・畿内などに限られているが、最初に淡路島、次に四国を生んだと書かれていることからも四国が最も古い歴史を有していると考えられる。

 剣山がある阿波の国・徳島は、古事記では粟国(あはのくに)と呼ばれ、別名を大宣都比売(おおげつひめ)と言う。大宣都比売は、粟・稗など五穀を司る食物の神とされている。「アワ」は、日本語五十音の「ア〜ワ」行にも通じるようにも思われる。「アワ」は、かつては太陽を意味する言葉でもあったようである。「アワ」という言葉は、淡路島と阿波の国との間にある鳴門海峡の「泡」、即ち鳴門海峡の渦巻きをも連想させる。

 阿波の国・徳島は天皇家とも繋がりがある。新天皇が誕生する時に行われる重要な儀式「大嘗祭」では、「アラタエ」と呼ばれる麻で出来た神衣が用いられるが、その麻を栽培しているのが木屋平村にある三木家であり、忌部氏の末裔であるとされている。このことからも天皇家と阿波の国・徳島との深い関係性を窺い知ることができる。三木は「三ッ木」が語源であり、「ヒツギ」が訛ったものだとも言われている。皇太子のことを日嗣皇子(ヒツギノミコ)と言い、皇位のことを天津日嗣(アマツヒツギ)と言うが、そのこととも関係しているのかも知れない。

 「ヒツギ」はユダヤ教的な「契約の櫃(ひつぎ)」と関係している可能性もある。三木家のある木屋平村から穴吹川を下った隣町の穴吹町には白人神社があり、そのすぐそばの神明神社には石造りの磐境がある。かつてのイスラエル駐日大使であったエリ・コーヘン氏が、調査の為にこの磐境を訪れている様子がテレビ番組で放送されたことがある。コーヘン氏は、その形や大きさを見てユダヤの礼拝所と同じであることに驚愕し、近辺に「アーク(聖櫃(せいひつ))」もある筈だと語ったそうである。

 忌部神社で祀られている御祭神・天日鷲命(あめのひわしのみこと)が天磐船に乗って種穂山に降り立ち、麻と梶、粟など五穀の種を授けたと言われている。阿波の国一宮である大麻比古神社は、天日鷲命(あめのひわしのみこと)の祖先とされる天太玉命を大麻比古大神として祀っている。忌部氏が麻や梶を植えて阿波の国の産業を開拓していったことと関係があるように思われる。天日鷲命(あめのひわしのみこと)は、「麻植(おえ)の神」として神徳を称えられたとのことで、種穂山がある場所は麻植(おえ)郡という地名になっている。

 神棚にお祀りする伊勢神宮の神札を神宮大麻と呼ぶが、神道と麻とは深い関係がある。伊勢神宮の御祭神は、皇室の祖神・天照大御神であり、新しい天皇が誕生した時に行われる重要な儀式「大嘗祭」で用いられる麻が忌部氏の末裔である三木家によって、木屋平村で代々作られてきたことからも、天皇家と阿波の国・徳島との古くからある繋がり・関係性を窺い知ることができる。

 剣山の登山口がある見ノ越から、徳島市方面へ東に下った所が、三木家のある木屋平村であり、その隣が神山町である。神山町や木屋平村、その周辺地域には古代ロマンが息づいている。神山町の中心部は神領という地名であるが、神山町神領という地名そのものが何かを暗示しているような感じがする。かつて神山町は「大粟」と呼ばれていたようで、神山町神領には、粟国の別名である大宣都比売(おおげつひめ)を祀る上一宮大粟神社がある。上一宮大粟神社は阿波の国一宮にもなっている。古事記では、大宣都比売(おおげつひめ)はスサノオに殺されてしまうが、その時に大宣都比売(おおげつひめ)の体から粟や稲など五穀の種が生まれたとして五穀の起源が書かれている。大宣都比売(おおげつひめ)が殺されたという表現の裏意味如何。何を暗喩しているのだろうか。

 神山町神領にある高根山悲願寺は、邪馬台国の女王・卑弥呼の居城だったという説もある。神山町との境界線に割と近い徳島市の気延山には、天石戸別八倉比売(あめのいわとわけやくらひめ)神社があるが、神社の背後にある祭壇が卑弥呼の墓だとも言われている。天石戸別八倉比売神社の御祭神はオオヒルメであり天照大御神の別名である。由緒書きによると、御神格は正一位、延喜式内明神大社となっており阿波の国一宮である。小高い山の頂上付近にひっそりと佇んでいますが、大昔は大麻比古神社、忌部神社と並んで阿波の国で最も格式の高い神社だった。

 剣山登山口の見ノ越から北の方へ峠を下りたつるぎ町一宇に天磐戸神社があり、忌部神社の摂社であったとされている。奥の院は、巨岩の岩戸で、岩戸のすぐ下には神楽岩と呼ばれる大きな石があり、表面が平らで畳十数畳程の広さがあるので舞を踊ることができる。かつて神代の時代から岩戸神楽が奉納されてきたが、岩磐の上で舞う神楽は日本唯一のものだとのこと。古事記の中では、天岩戸開きの場面で、天香具山の真男鹿の肩など、天香具山で取れたものの名前が数回立て続けに出てくるので、天岩戸開きの舞台が大和三山の一つである天香具山であるかのような印象を受ける。天香具山の麓には天岩戸神社も建てられている。九州の高千穂にも岩戸伝説があり天岩戸神社がある。古事記に書かれている天岩戸開きの舞台は、阿波の国・徳島が原型なのかも知れない。

 神山町の元山には天岩戸立岩神社があり、巨岩のイワクラが御神体となっている。拝殿には、阿波古事記研究会の説明板が掲げられており、「阿波国風土記」の一節が紹介されています。

 「空よりふり下りたる山の大きなるは、阿波の国にふり下りたるを、天の元山といい、その山のくだけて、大和の国にふりつきたるを天香久山というとなんもうす」。(「阿波国風土記」)

 説明板には、「阿波国の風土記に書かれるように奈良県の香久山の天岩戸神社には、当神社の御神体と同形の御神体が天岩戸として祀られています」と書かれている。つまり、阿波の国の元山が「元」であり、それが分かれて大和の国の天香具山になったとしている。これによると、奈良の大和のルーツが阿波の国・徳島であることになる。古事記に書かれている天岩戸開きの神話も、伝説の舞台は阿波の国・徳島にあるのかも知れない。古事記では日本の国生みはイザナギ・イザナミの二神によって行われたとされているが、イザナミを社名とする式内社は美馬郡にある伊射奈美神社一社しか全国にない。興味深いものがある。

 阿波の国には日本の原型となるものがあり、かつては「太陽の国」をも意味する中心地であったが、それが意図的に封印されてしまい、歴史の表舞台から姿を消してしまったのではなかろうか。大和朝廷は、忌部氏などが天皇家と協力して奈良の大和に遷都したようで、地名にも共通するものが多く残っている。奈良の大和のルーツは、阿波の国・徳島にあるとする説がある。古事記・日本書紀など日本の歴史が編纂される時に、阿波の国にあったルーツが封印され今日に至っている。そこまでして、阿波の国を封印しなければならなかった理由如何。

 これを、「イスラエルの失われた十支族」譚と結びつける説がある。「花咲く都・黄金文明」が次のように述べている。

 「イスラエルの失われた十支族によって大和朝廷が誕生し、かつては阿波の国が元であり、ここが中心だったのですが、大和朝廷が阿波の国を封印して歴史の表舞台から消してしまったからなのです。大和朝廷の勢力図がまだ日本全体に及んでいない早い段階で既に、「イスラエルの失われた十支族」によって建国された日本の原型である阿波の国は、国内的にも封印されてしまったのです。そして、東洋の一番東にある島国・日本の中で、悠久の時の中に「消滅」していき、行方が分からなくなったのです。古代ユダヤ民族にとっての「ユートピア」である「東方の日出る国」を目指して旅した「イスラエルの失われた十支族」は、東洋の一番東にある最果ての地、島国・日本の中で封印され、歴史上から姿を消していったのです」

 神山町と徳島市との境界近くにある神山町歯の辻には、船盡(ふなはて)神社という不思議な名前の神社がある。鮎喰川を挟んだ対岸に船盡比売(ふなはてひめ)神社がある。土地の古老から聞いた話では、船盡比売神社が遥拝所であり、昔は雨で増水すると対岸に渡れないので、ここから船盡(ふなはて)神社を遥拝していたとのことである。船盡(ふなはて)神社には謎の古代文字で書かれた二本の幟(のぼり)「トウカミエヒタメ」と「スエキアワカミ」が伝わっている。「船盡(ふなはて)」とは「船が盡(つき)る」ということであり、ここが古代における船の終着場であったとも考えられる。鮎喰川は徳島市内の河口近くで吉野川に合流する大きな河川であり、古代、大陸からの大きな船はここまで入ることができたようである。





(私論.私見)