「邪馬台国=四国説(阿波説、伊予説、土佐説、山上説)考その2」 |
更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2).7.4日
(目下、全く不十分です。引用、転載元は改めて確認する予定です)
(れんだいこのショートメッセージ) |
大杉博・氏の「邪馬台国四国山上説」は面白い。れんだいこは、盲目の詩人宮崎康平氏の「まぼろしの邪馬台国」以来の傑作ではないかと思っている。「邪馬台国四国山上説」そのものよりも、九州説、畿内説を批判する論拠が参考になる。今暫くこの「邪馬台国四国山上説」を検証してみたいと思う。 徳島について、古くから地元の神山研究会などにより、卑弥呼や神話の神々が徳島にいて、神武東征後に栄える畿内の倭を築くまでは徳島に朝廷があったとする説が唱え続けられている。大杉博・氏の邪馬台国四国山上説や、ユダヤの研究者として著明な宇野正美氏の古代ユダヤが剣山にモーゼ契約の箱を隠匿したという説まで種々ある。地図を見ると、神山町神領など神々しい地名があったりして、楽しめる。 「邪馬台国 四国説」、「古代米収穫祝い踊り 佐那河内、天岩戸別神社... 」その他参照。 2003.9.12日、2007.1.10日再編集 れんだいこ拝 |
「1.古代(弥生時代~平安末期)」。
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「空と風」の「不思議の徳島 」の2008/7/31日付けブログ「地名の一致は阿波忌部進出の痕跡か?①」 参照。
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【徳島歴史研究会の笹田考至氏の考証】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2008/7/29(「卑弥呼の墓を徳島で発見!? 」。
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2008/7/27(「「剣山の失われたアーク」と「邪馬台国・古事記 徳島説」の流れ」。
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郡昇氏の「阿波高天原考」に約10年先行する研究の歴史があった。阿波古事記研究会というグループの方々が、地元のテレビ番組に出演し「古事記の舞台は徳島だった?」というテーマで話した。大杉氏は宇野正美氏と知り合うことによって、朝廷の出自隠しの理由を「契約の箱(失われたアーク)を隠匿するため」ということに変更した。それまでは、日ユ同祖論的な話には興味がなかった。 「剣山と、神輿の原型といわれる契約の箱(の模型)」。 「失われたアーク」と「剣山」を結びつけて発掘や調査をした人はこれまで大勢いる。そもそも、一番最初にアークが剣山に隠されていると言い出したのは神奈川県出身で元小学校校長の高根正教という人物。「新約聖書」、「黙示録」と「古事記」の比較研究の結果だという。1952年に「四国剣山千古の謎-世界平和の鍵ここにあり」を発表。その後、御子息の高根三教氏が「ソロモンの秘宝」(大陸書房、1979年)、「アレキサンダー大王は日本に来た」(システムレイアウト、1990年)を発表。「黙示録」第四章にある神の栄光を示す四つの生き物の記述(獅子、牛、人、鷲)と、「古事記の国産み神話」の「四国は、面四つあり」とする記述を対応するものと考え、神の栄光の象徴たる「契約の櫃」が四国の剣山に隠されているという結果を導き出したという。大杉氏も好んで使う、「四国」とは「死国」であるというフレーズのオリジナルは、高根氏の本のようです。「アレキサンダー大王は日本に来た」の内容は、早逝したとされるアレキサンダー大王(前326年没)が、実は自らの死を偽装して日本に渡来して、第10代崇神天皇となり、その後、田島守をエルサレムに派遣して「契約の櫃」をこっそり日本へと運ばせ、四国剣山に隠した、というストーリーです。田島守(田道間守)に関して、万葉集に大伴家持の「橘の歌一首」があり、田道間守が、常世国から「トキジクカグノコノミ」を持ち帰ったと歌われており、それを「アーク」だと考えたようです。大杉氏は、契約の箱が剣山にあるという自説は、高根氏に始まる一連の主張とは関係なく、自身の研究・調査の結果であると言っている。高根氏は本のなかで剣山の西隣の祖谷地方に伝わる民謡を紹介し、それを「契約の櫃」の所在を示すものだとしている。
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2008/7/25、「式内社 阿波国美馬郡 伊射奈美神社」参照。
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徳島の神社・伊射奈美神社(美馬町)
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2013/4/13「多祁御奈刀弥神社 」。
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2014/12/17「小噺;君が代 (1) 」。
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2015/1/30「小噺;君が代 (2) 」。→ 小噺;君が代 (1) の続きです。
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「どなり古事記研究会」の2015/5/15(「淡路島の銅鐸 」。
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2013/10/1「南淡ドライブ(2) 蛭子神社 」。
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「どなり古事記研究会」の2015/5/5「半木神社@京都府立植物園」。
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京都にも伊勢がある・・・?そんな不思議な話を、京都で伝統文化を紹介している NPO 遊悠舎京すずめ の土居好江理事長からうかがったのは昨年暮れのことでした。その名が、日向大神宮。琵琶湖疏水で知られる蹴上(けあげ)。Wikipedia によると~
日向大神宮(ひむかいだいじんぐう) 京都市山科区の三条通沿いにある神社。式内社(小)で、旧社格は村社。「京の伊勢」とも称される。祭神/内宮 (上ノ本宮)・外宮 (下ノ本宮) の2つの本殿があり、内宮に天照大神・多紀理毘賣命・市寸島比賣命・多岐都比賣命、外宮に天津彦火瓊々杵尊・天之御中主神を祀る。
歴史/社伝によれば、第23代 顕宗天皇の治世、勅願により筑紫日向の高千穂の峯の神蹟より神霊を移して創建された。「宇治郡名勝誌」、「京都府山科町誌」には、延喜式神名帳小社 に列する「山城国宇治郡 日向神社」とするが、「山城名勝誌」、「山城志」、伴信友の「神明帳考証」では別のものとしている。応仁の乱で 社殿等を焼失 し、祭祀が一旦途絶えた。江戸時代初期に篤志家によって旧社地に再建され、交通祈願の神社として有名になった。ご祭神が伊勢神宮とは違うような・・・。顕宗帝は21代の雄略帝に父を殺され、兄(後の24代仁賢帝)とともに身を隠したという人。この国の天皇制がまだまだ固まっていない時代ですね。天智帝(第38代) をはじめ、天皇の崇敬を受けていたとの御由緒書き。ご祭神は、Wikipedia にあるとおり。天照大御神と宗像三神を内宮に。こちらのお社。社伝によると、堂々山城国最初第一 恵比須神社 とうたっています。今は小さなお社で、エビスさまとアメノウズメさまが同居しておられます。この組み合わせ、阿波古事記研究会の人でなければ、“?” でしょう。 神社の公式サイトには境内社のご祭神を詳しく挙げておられます。
境内社 <上ノ別宮>
荒祭宮 (アラマツリグウ)
<下ノ別宮>
高宮 (コウノミヤ)
天忍穂耳尊 (アメノオシホミミノミコト) 多賀神社
伊弉諾尊 (イザナギノミコト)
伊弉冉尊 (イザナミノミコト) 春日神社
天児屋命 (アメノコヤネノミコト)
武甕槌命 (タケミカヅチノミコト) 経津主命 (フツヌシノミコト) 天太玉命 (アメノフトダマノミコト) <別宮>
福土神社
大国主命(オオクニヌシノミコト)
彦火火出見尊 (ヒコホホデミノミコト)=山幸彦(ヤマサチヒコ) ![]() 神日本磐余彦尊(カンヤマトイワレヒコノミコト) =神武天皇(ジンムテンノウ) 山城国最初第一 恵美須神社 事代主神 (コトシロヌシノカミ) 天鈿女 (アメノウズメ) 神社
天鈿女命 (アメノウズメノミコト)
大山祇神 (オオヤマツミノカミ) <天岩戸>
戸隠 (トガクシ) 神社
天手力男命(アメノタヂカラオノミコト)
朝日泉
御井 (ミイ) 神社
水波能売神 (ミズハノメノカミ)
伊勢神宮遥拝所 猿田彦神社 花祭 (カサイ) 神社 木花開耶姫( コノハナサクヤヒメ) 倉稲魂神 (ウガノミタマノカミ)
保食神 (ウケモチノカミ) 朝日天満宮
菅原道真公 少彦名命 (スクナヒコナノミコト) 厳嶋神社 弁財天(ベンザイテン)
⇒日向大神宮 ご祭神 http://www12.plala.or.jp/himukai/saijin.htm
福土神社。
横に小さく “えんむすび・福徳の神” と、微妙な紹介文。
社域は京都と滋賀を結ぶ交差点。南北の山伝いに福井~奈良・和歌山をも結びます。非常に重要な立地 (なので応仁の乱で焼かれちゃったのでしょう)。 map ⇒八雲エンライトメント
「京都・奈良は断層上に建てられた古都である」 より
ウヂの地名が意味するように、ここはおそらく“奈良時代”よりも前に阿波から直接上ってきた人々が重要な拠点としていたはず。 宇治郡 (うじぐん)
山城国・京都府に存在した郡。
郡域は現在の京都市南東部と宇治市東部に相当する。
京都市の南東部では、伏見区醍醐と山科区全域に当てはまる。
豊臣秀吉の桜で有名な醍醐寺、浄土真宗の開祖である親鸞が誕生したとされる日野の里、坂上田村麻呂の墓等がある。
また、京都府宇治市の東部とは 琵琶湖より流れ出る宇治川の右岸地域 のこと。
このあたりには、禅宗の一派である黄檗宗の大本山、黄檗山万福寺等がある。万福寺は中国風の建築で有名な寺院。開祖は、インゲンマメや茶を日本に持ち込んだとされる隠元隆琦。
郡名の由来 『宇治市史』等では、「うじ」 とは 「うち」 を意味するとする。 一方、『山城国風土記』(逸文)では、応神天皇皇子・菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)が、この地に宮 「菟道宮(うじのみや) 」を構えたことが地名の起源となったとする説話を伝える。しかしながら地名としての 「莵道」 は以前からあったという説もあり、『日本書紀』の垂仁3年3月および仲哀元年閏11月などに 「莵道河」(現・宇治川) の記載があることから、「菟道稚郎子」の人名の方が地名を冠したという見方がある。 東漢(やまとのあや)氏出身の坂上田村麻呂なんていう気になる名前も出てくるのですね、宇治。なにせ東漢氏は、「倭漢」氏と書かれたりもするんです。 |
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菟道稚郎子(うぢのわきいらつこ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%9F%E9%81%93%E7%A8%9A%E9%83%8E%E5%AD%90
記紀等に伝わる古代日本の皇族。第15代 応神天皇 皇子 (日本書紀では皇太子) で、第16代 仁徳天皇 は 異母兄 にあたる。郎子については 古事記、日本書紀 等の多くの史書に記載がある。中でも、父応神天皇の寵愛を受けて皇太子に立てられたものの、異母兄の大鷦鷯尊(おおさざきのみこと:仁徳天皇)に皇位を譲るべく自殺したという美談が知られる。ただし、これは日本書紀にのみ記載された説話で、古事記では単に夭折と記されている。古事記、日本書紀 の郎子に関する記載には多くの特異性が指摘されるほか、播磨国風土記 には郎子を指すとされる 宇治天皇 という表現が見られる。これらの解釈を巡って、「天皇即位説」 や 「仁徳天皇による郎子謀殺説」 に代表される数々の説が提唱されている人物である。-中略-江戸時代の時点では墓の所在は不明となっていた。享保18(1733)年には、日本書紀 の記述に基づき、古墳が存在していないものの朝日山(宇治上神社後背)の山頂が墓所と見なされて墓碑の建立が行なわれた。上記の丸山古墳に治定されたのは明治22(1889)年で、以後現在まで宮内庁の管理下となっている。この地は宇治川東岸にあり、明治以前は 「浮舟の杜」 と呼ばれる円丘であった。これは 「山上」 とする『日本書紀』 の伝承とは異なるという指摘もあったが、前方後円墳状に成形 されて 「宇治墓」 とされた。 先輩によれば 「わき」 が現在の美馬市脇町、「うじ」 はその北側の阿讃山脈 ではないか、とのこと。
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Wikipedia によれば:
春日神社(海南市)
所在地 和歌山県海南市大野中1056番地
主祭神 天押帯日子命
歴史
御祭神、天押帯日子命(上の宮)は、春日の朝臣の遠祖、 彦國葺命(下の宮)の庶族がこの地に在住し、 祖神として祀ったのがはじまりである。 |
天押帯日子命?
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天足彦国押人命(アマタラシヒコ クニオシヒトノミコト;生没年不詳)は、古事記、日本書紀に記される皇族(王族)。天押帯日子命とも。記紀によれば、孝昭天皇の第1皇子
で、母は瀛津世襲の妹・世襲足媛命(ヨソタラシヒメ、日本書紀本文。古事記では余曽多本毘売命、日置姫)。同母弟に日本足彦国押人尊(孝安天皇)がおり、日本書紀本文での皇后・押媛命は天足彦國押人の娘と記述される。
事績は伝わらないが、古事記には、阿那臣・壱比韋臣・大坂臣・大宅臣(おおやけのおみ)・小野臣(のち小野朝臣)・柿本臣・春日臣(のち春日朝臣)・粟田臣・多紀臣・羽栗臣・知多臣・牟邪臣(むさのおみ)・都怒山臣・伊勢飯高君・壱師君・近淡海国造(ちかつあふみ)の祖。日本書紀に和珥臣の祖とし、新撰姓氏録にも同様の系譜記載がある。なお、子に和邇日子押人命(稚押彦命)がおり(和邇系図)、名からして和邇氏族の宗祖的存在と言える。 なんと・・・。父の孝昭帝は第5代天皇で、和風諡号は観松彦香殖稲尊/御真津日子訶恵志泥命(ミマツヒコカエシネノミコト)。ミマツヒコといえば阿波の佐那河内。のらねこ先輩が紹介されています: |
また、この神を祀ったという 春日の朝臣の遠祖彦国葺命は彦国葺命(ヒコクニブクノミコト;生薨年不詳)。古墳時代の人物。和邇氏の祖。また垂仁朝における五大夫の一人。崇神10年、武埴安彦命の反乱において四道将軍の大彦命に従い、山背で武埴安彦の軍勢と戦った。
彦国葺の放った矢により武埴安彦は胸を貫かれ討たれている。垂仁25年には、垂仁天皇より五大夫の一人として武渟川別( 阿倍氏の祖)、大鹿嶋(中臣氏の祖)、十千根(物部氏の祖)、
武日(大伴氏の祖)らと共に訓辞を受け賜った。
海南市の春日神社のサイトにも興味深いことが書かれています。
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JR海南駅と春日神社
平成10年10月10日に高架駅として新しく生まれ変わった海南駅は、 海南市にふさわしい駅となりました。海南駅周辺は、昔は海辺 であり、 日方から名高にかけて細長い砂浜(砂州)がのびていました。( 室町時代末期ごろまで)この砂州では、 春日神社の馬場が設けられ県下各地から寄り集まった馬が速力を競 い合うので、見物客も大勢かけつけました。今は、馬場町という地名に名残りを留めています。春日神社の秋祭り「おみこし行列」 も海南駅周辺で行われていました。また、「井松原合戦」 の古戦場としても知られています。昔は、海岸沿いに松林が並んでいて、「井松原」 と呼ばれていました。 |
春日神社
春日神社は、紀伊国神名帳に「正一位 春日大神」 と位置づけられている格式の高い神社です。海南市では「正一位」を与えられたのは、現存社では、 春日神社だけで聖武天皇から代々の祈願所として朝廷の厚い保護を 受けていました。祭神は、「天押帯日子命(『古事記』)」 で古代大和豪族 ワニ 氏の祖にあたります。また、元春日という神林よりご神意により、 吉方位を撰び現在の地に移転鎮座したため「方位除け」 の神様としてまた、「厄除け」の神様として崇拝されています。 |
松代王子社跡
熊野三山を遥拝したり、 休息するところに設けられた九十九王子社中、 海南市には 五つの王子跡 があります。そのひとつが「松代王子」で春日山にあります。この「松代王子」付近では、海南特産の古代墨(松煙墨) や硯などが昔、生産されていました。今、一月二日には、この「松煙墨」を使用した「 紀州古代墨席上書初会」が毎年、春日神社で行われています。 ここより、熊野古道を北に行くと「松阪王子」、南に行くと「 菩提房王子」があります。
吉野川を下り、海の道をまっすぐ進むと海南市があります。そして熊野(いや/ゆや)に入ってゆく玄関口。
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2014/1/19日、「かぐや姫の物語~忌部と藤原」。
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鞆の浦 「沼名前神社」 (2)
2013/11/28(木) 午後 10:35
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2013/11/28「鞆の浦 「沼名前神社」 (2) 」。
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2016年1月13日、「花咲く都・黄金文明」の「阿波の国・徳島は日本の原型であったが意図的に封印されて歴史の表舞台から姿を消した」参照。 弘法大師・空海が剣山に四国八十八箇所霊場を開いて結界を張り巡らせたことにより四国は「死国(しこく)」として封印されることになった。剣山がある阿波の国・徳島もそれ以前の時代に封印されて歴史の表舞台から姿を消している。代わりに奈良の大和地方が表舞台に現れるようになる。「大和」という言葉は、奈良の大和地方に登場する前の原型のようなものが阿波の国・徳島にあり、それが封印されているのではないのか。
阿波の国・徳島は日本の原型とも言える場所である。古事記では、オノゴロ島に降り立ったイザナギとイザナミが最初に生んだ所が淡路之穂之狭分島(あわぢのほのさわけのしま)(淡路島)であり、次に生んだのが伊予之二名島(いよのふたなのしま)(四国)である。その次に、隠岐島、九州、壱岐、対馬、佐渡島、畿内の順番で大八島を作ったとされている。古事記の国生み神話の範囲は四国・九州・畿内などに限られているが、最初に淡路島、次に四国を生んだと書かれていることからも四国が最も古い歴史を有していると考えられる。 剣山がある阿波の国・徳島は、古事記では粟国(あはのくに)と呼ばれ、別名を大宣都比売(おおげつひめ)と言う。大宣都比売は、粟・稗など五穀を司る食物の神とされている。「アワ」は、日本語五十音の「ア〜ワ」行にも通じるようにも思われる。「アワ」は、かつては太陽を意味する言葉でもあったようである。「アワ」という言葉は、淡路島と阿波の国との間にある鳴門海峡の「泡」、即ち鳴門海峡の渦巻きをも連想させる。 阿波の国・徳島は天皇家とも繋がりがある。新天皇が誕生する時に行われる重要な儀式「大嘗祭」では、「アラタエ」と呼ばれる麻で出来た神衣が用いられるが、その麻を栽培しているのが木屋平村にある三木家であり、忌部氏の末裔であるとされている。このことからも天皇家と阿波の国・徳島との深い関係性を窺い知ることができる。三木は「三ッ木」が語源であり、「ヒツギ」が訛ったものだとも言われている。皇太子のことを日嗣皇子(ヒツギノミコ)と言い、皇位のことを天津日嗣(アマツヒツギ)と言うが、そのこととも関係しているのかも知れない。 「ヒツギ」はユダヤ教的な「契約の櫃(ひつぎ)」と関係している可能性もある。三木家のある木屋平村から穴吹川を下った隣町の穴吹町には白人神社があり、そのすぐそばの神明神社には石造りの磐境がある。かつてのイスラエル駐日大使であったエリ・コーヘン氏が、調査の為にこの磐境を訪れている様子がテレビ番組で放送されたことがある。コーヘン氏は、その形や大きさを見てユダヤの礼拝所と同じであることに驚愕し、近辺に「アーク(聖櫃(せいひつ))」もある筈だと語ったそうである。 忌部神社で祀られている御祭神・天日鷲命(あめのひわしのみこと)が天磐船に乗って種穂山に降り立ち、麻と梶、粟など五穀の種を授けたと言われている。阿波の国一宮である大麻比古神社は、天日鷲命(あめのひわしのみこと)の祖先とされる天太玉命を大麻比古大神として祀っている。忌部氏が麻や梶を植えて阿波の国の産業を開拓していったことと関係があるように思われる。天日鷲命(あめのひわしのみこと)は、「麻植(おえ)の神」として神徳を称えられたとのことで、種穂山がある場所は麻植(おえ)郡という地名になっている。 神棚にお祀りする伊勢神宮の神札を神宮大麻と呼ぶが、神道と麻とは深い関係がある。伊勢神宮の御祭神は、皇室の祖神・天照大御神であり、新しい天皇が誕生した時に行われる重要な儀式「大嘗祭」で用いられる麻が忌部氏の末裔である三木家によって、木屋平村で代々作られてきたことからも、天皇家と阿波の国・徳島との古くからある繋がり・関係性を窺い知ることができる。 剣山の登山口がある見ノ越から、徳島市方面へ東に下った所が、三木家のある木屋平村であり、その隣が神山町である。神山町や木屋平村、その周辺地域には古代ロマンが息づいている。神山町の中心部は神領という地名であるが、神山町神領という地名そのものが何かを暗示しているような感じがする。かつて神山町は「大粟」と呼ばれていたようで、神山町神領には、粟国の別名である大宣都比売(おおげつひめ)を祀る上一宮大粟神社がある。上一宮大粟神社は阿波の国一宮にもなっている。古事記では、大宣都比売(おおげつひめ)はスサノオに殺されてしまうが、その時に大宣都比売(おおげつひめ)の体から粟や稲など五穀の種が生まれたとして五穀の起源が書かれている。大宣都比売(おおげつひめ)が殺されたという表現の裏意味如何。何を暗喩しているのだろうか。 神山町神領にある高根山悲願寺は、邪馬台国の女王・卑弥呼の居城だったという説もある。神山町との境界線に割と近い徳島市の気延山には、天石戸別八倉比売(あめのいわとわけやくらひめ)神社があるが、神社の背後にある祭壇が卑弥呼の墓だとも言われている。天石戸別八倉比売神社の御祭神はオオヒルメであり天照大御神の別名である。由緒書きによると、御神格は正一位、延喜式内明神大社となっており阿波の国一宮である。小高い山の頂上付近にひっそりと佇んでいますが、大昔は大麻比古神社、忌部神社と並んで阿波の国で最も格式の高い神社だった。 剣山登山口の見ノ越から北の方へ峠を下りたつるぎ町一宇に天磐戸神社があり、忌部神社の摂社であったとされている。奥の院は、巨岩の岩戸で、岩戸のすぐ下には神楽岩と呼ばれる大きな石があり、表面が平らで畳十数畳程の広さがあるので舞を踊ることができる。かつて神代の時代から岩戸神楽が奉納されてきたが、岩磐の上で舞う神楽は日本唯一のものだとのこと。古事記の中では、天岩戸開きの場面で、天香具山の真男鹿の肩など、天香具山で取れたものの名前が数回立て続けに出てくるので、天岩戸開きの舞台が大和三山の一つである天香具山であるかのような印象を受ける。天香具山の麓には天岩戸神社も建てられている。九州の高千穂にも岩戸伝説があり天岩戸神社がある。古事記に書かれている天岩戸開きの舞台は、阿波の国・徳島が原型なのかも知れない。 神山町の元山には天岩戸立岩神社があり、巨岩のイワクラが御神体となっている。拝殿には、阿波古事記研究会の説明板が掲げられており、「阿波国風土記」の一節が紹介されています。
説明板には、「阿波国の風土記に書かれるように奈良県の香久山の天岩戸神社には、当神社の御神体と同形の御神体が天岩戸として祀られています」と書かれている。つまり、阿波の国の元山が「元」であり、それが分かれて大和の国の天香具山になったとしている。これによると、奈良の大和のルーツが阿波の国・徳島であることになる。古事記に書かれている天岩戸開きの神話も、伝説の舞台は阿波の国・徳島にあるのかも知れない。古事記では日本の国生みはイザナギ・イザナミの二神によって行われたとされているが、イザナミを社名とする式内社は美馬郡にある伊射奈美神社一社しか全国にない。興味深いものがある。 阿波の国には日本の原型となるものがあり、かつては「太陽の国」をも意味する中心地であったが、それが意図的に封印されてしまい、歴史の表舞台から姿を消してしまったのではなかろうか。大和朝廷は、忌部氏などが天皇家と協力して奈良の大和に遷都したようで、地名にも共通するものが多く残っている。奈良の大和のルーツは、阿波の国・徳島にあるとする説がある。古事記・日本書紀など日本の歴史が編纂される時に、阿波の国にあったルーツが封印され今日に至っている。そこまでして、阿波の国を封印しなければならなかった理由如何。
神山町と徳島市との境界近くにある神山町歯の辻には、船盡(ふなはて)神社という不思議な名前の神社がある。鮎喰川を挟んだ対岸に船盡比売(ふなはてひめ)神社がある。土地の古老から聞いた話では、船盡比売神社が遥拝所であり、昔は雨で増水すると対岸に渡れないので、ここから船盡(ふなはて)神社を遥拝していたとのことである。船盡(ふなはて)神社には謎の古代文字で書かれた二本の幟(のぼり)「トウカミエヒタメ」と「スエキアワカミ」が伝わっている。「船盡(ふなはて)」とは「船が盡(つき)る」ということであり、ここが古代における船の終着場であったとも考えられる。鮎喰川は徳島市内の河口近くで吉野川に合流する大きな河川であり、古代、大陸からの大きな船はここまで入ることができたようである。 |
(私論.私見)