「邪馬台国=四国説(阿波説、伊予説、土佐説、山上説)考」

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4).8.2日
 (目下、全く不十分です。引用、転載元は改めて確認する予定です)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 大杉博・氏の「邪馬台国四国山上説」は面白い。れんだいこは、盲目の詩人宮崎康平氏の「まぼろしの邪馬台国」以来の傑作ではないかと思っている。「邪馬台国四国山上説」そのものよりも、九州説、畿内説を批判する論拠が参考になる。今暫くこの「邪馬台国四国山上説」を検証してみたいと思う。

 徳島について、古くから地元の神山研究会などにより、卑弥呼や神話の神々が徳島にいて、神武東征後に栄える畿内の倭を築くまでは徳島に朝廷があったとする説が唱え続けられている。大杉博・氏の邪馬台国四国山上説や、ユダヤの研究者として著明な宇野正美氏の古代ユダヤが剣山にモーゼ契約の箱を隠匿したという説まで種々ある。地図を見ると、神山町神領など神々しい地名があったりして、楽しめる。以下、この説を確認する。

 2003.9.12日、2007.1.10日再編集 れんだいこ拝


【れんだいこの古代史上における四国(讃岐、阿波、土佐、伊予)論】
 れんだいこは、古代日本史上に於いて、讃岐、阿波、土佐、伊予からなる四国が枢要の地位にあることについて「論をまたない」(異論はない、言うまでもない、論じるまでもなく明らかである)、と云う観点から四国論を究めようとしている。その点で、「四国=日本の臍(へそ)」論者と認識が共通している。問題は、その四国論研究が最近になって、日ユ同祖論的見地と融合し、この見地からの四国論が奏でられていることにある。れんだいこの四国論はこれに異を唱えている。一刻も早く日ユ同祖論的見地を剥離させ、本来の筑紫、出雲、吉備、大和、越等々と共立する四国論の論陣を張ろうとしている。

 れんだいこの四国論の骨格は次の通りである。四国(讃岐、阿波、土佐、伊予)の枢軸を阿波に見立て次のように推理する。第一に、古事記、日本書紀、ホツマツタエ(その他の古史古伝の確認はできていない)が、イザナギ雄神とイザナミ雌神の交合により日本神話上の国生みを、四国の讃岐、阿波の前衛的位置にある淡路島の地で営為していることが象徴的である。これは寓意であろうが、「国生みの地=淡路島の地」としたのには相当深い意味があると解すべきだろう。

 次に、邪馬台国所在地としての四国論も注目されて然るべきである。れんだいこ論は、邪馬台国を四国に求めず、奈良県桜井市の大輪山一帯としている。但し、卑弥呼の和名は日弥子であって阿波の剣山山麓で出自し、その霊能が認められ、奈良県桜井市の大輪山の邪馬台国の司祭主として招聘され、長寿だった為にその地位を長らく保持したのではないかと推理している。そういう意味で邪馬台国と相当深く関わっている阿波の特殊的地位に注目している。補言すれば、阿波踊りは卑弥呼時代以来の日本舞踊を継承しているものであり、日本舞踊の祖型であると看做している。

 
既存の阿波説にはもう一つ欠点がある。それは、四国=日本の臍(へそ)論の定向進化として阿波国を古代日本の宗主国とする余りに、出雲国の地位を不当に落とし込める対抗理論として持て囃されようとしている感がある。記紀神話の構図が反出雲であるから、記紀神話に添う形で反出雲的阿波説が登場するのも止むを得ないが、阿波説は出雲国の地位を不当に落とし込める対抗理論として存立すべきではない。近年の出雲に於ける考古学的発見(荒神谷(こうじんだに)遺跡、加茂岩倉(かもいわくら)遺跡等々)は、阿波国の一部に於ける出雲論に納まる訳もない。そういうことも踏まえ、歪曲された阿波説から抜け出し、古代日本史上に於ける枢要の地位にある筑紫、出雲、吉備、大和、越等々と共立する阿波説が打ち立てられるべきだろう。その他云々。誰かこの見地からの共同戦線を試みんか。取り急ぎ、このことを発信しておく。

 2020.7.5日 れんだいこ拝

【邪馬台国=四国(讃岐、阿波、土佐、伊予)説の根拠考】
 「四国山上説」は次のような事由から根拠づけられている。「日本史のブラックホール・四国(1998年、原田実)、「足摺岬縄文灯台騒動・最後のまとめ」、「古代史ファンクラブ通信◎邪馬台国四国説」、「阿波古代史の研究界」その他を参照する。
 魏志倭人伝中の方位方角、距離が合う
 魏志倭人伝の記述を読み解くと、方角的には九州説が有力だが、時間や距離が合わない。畿内説ならば距離的には合うが方角が違う。それが四国東部に設定すると方角と距離の矛盾が一気に解消されてしまう。魏志倭人伝中の方位で「南」とある箇所を「東」の誤りとするのが通例であるが、邪馬台国四国土佐説、阿波説は、「南、邪馬台国に至る。女王の都する所、水行十日、陸行一月」を北部九州から九州東岸をそのまま南下するとして方位の訂正なしで読み取ることができる。
 「邪馬台国」の語彙と合う
 魏志倭人伝で邪馬台国といったのは、「海から見て、馬の背に見えるような国」の意であり、四国はその姿があまりにも相応しく、大きさも倭人伝の記述に合う。
 「吉野川」の相似性
 四国の地名が原名となって各地に広がっている可能性がある。吉野川と言えば、四国を代表する川だが、紀伊水道を挟み奈良(大和)の紀ノ川(吉野川)と相似性を見せているのもその一例である。四国にも秦性やハタの地名が数多くあるのもその一例である。和歌山にある賀が徳島にもあり、香川県との境の大坂峠や奈良街道、小松島湾の香具山など、紀伊水道を挟んで同地名が数多くあることに驚かされる。
 「麁服」(あらたえ)に絡む歴代天皇家との繋がり
 歴代天皇の大嘗祭(だいじょうさい)の時、神聖な神衣として絹布の「にぎ服」(にぎたえ)と麻織物の「麁服」(あらたえ)が天皇のお召し物として献上される。「にぎ服」(にぎたえ)は三河(愛知県)豊田市稲式町の「まゆっこクラブ」で糸が引かれ、神座に祀られ、五穀豊穣を祈る。「麁服」(あらたえ)は、剣山系の徳間県美馬市木屋平村三ツ木(貢)の三木家が作り続けている。大嘗祭の大嘗宮の中心となる悠紀殿、主基殿それぞれの神座に「神のより代」として二反ずつサなえられる。なぜ、三木家が大事な神衣を調達しているのか。四国と皇室の間に妙な繋がりがあり、天皇家のルーツが絡んでいると考えると納得がいく。
 卑弥呼伝説との符号
 一宇村の天岩屋戸、卑弥呼・天照大神の五角形の塚があり三角縁神獣境も発見されている国府矢野神山の天石門別八倉比売神社、卑弥呼の都であった神山神領の悲願寺、友内山山頂の高千穂神社、蓬莱山(高越山)など盛りだくさんの神話の里がある。
 阿波の国・徳島は日本の原型のオノゴロ島の地である
 古事記の国生み神話では、オノゴロ島に降り立ったイザナギとイザナミが最初に生んだ所が、淡路之穂之狭分島(あわぢのほのさわけのしま)(淡路島)であり、次に生んだのが伊予之二名島(いよのふたなのしま)(四国)。その次に隠岐島、九州、壱岐、対馬、佐渡島、畿内の順番で、大八島を作ったとされている。最初に淡路島、次に四国を生んだと書かれていることからも、四国が最も古い歴史を有していると考えられる。
 元「天の岩戸」伝説の地
 阿波風土記によれば、大和にある「天の岩戸」と同じものが阿波にもあり、むしろ阿波の「天の岩戸」のほうが元の「天の岩戸」であり、大和の天孫は阿波から大和に行ったということが書かれていると云う。
 天孫降臨の地の符号
 魏志倭人伝、古事記、日本書紀にある邪馬台国の特徴とぴったり符号する。穴吹町「中野宮」が葦原中国を治めるためにニニギノミコト(天照大神の孫)が天降って都をつくった場所(天孫降臨の地)だといわれている。現在「中野宮」には穴吹町商工会青年部により「文曲星宮殿」が建設されている。
 由緒正しい「式内社」が県内に50社
 徳島県内各地に、記紀神話に符合する地名や、平安時代の延喜式に掲載された神社「式内社」が県内に50社存在する。美馬市には倭大国魂神社が存在する。天皇家の祖先の歴史である古事記にまつわる場所が徳島に多くあるのも当然となる。古事記に現る神々を祀った神社が数多くあり、卑弥呼=天照大神が常夜灯を用いて四国を治めた居城や卑弥呼の墓など、その傍証は数多く存在する。
10  水銀朱の産出、精製
 倭人伝に、「その山には丹あり」、「朱丹を以てその身体に塗る」とある。「朱色」は魔除けの色・神聖な色であって各地の古墳の内装にも多く使われている。鳥居、印鑑の印肉の色も朱色である。「赤」でも「ピンク」でもダメで朱色でなければ印の効力が保たれない。その原料である「辰砂」(しんしゃ)の鉱山跡が阿南市の若杉山遺跡で確認されている。卑弥呼の時代、水銀朱を産出したのは徳島県阿南市の若杉山遺跡だけである。その水銀朱を精製していたのが徳島市国府町の矢野遺跡である。最近その水銀朱を運んだ坑道が神山町神領で発見された。水銀朱は三重県などでも産出しているが、卑弥呼の時代に産出、精製したことを証明できる遺跡は阿波だけである。
11  「剣山」の存在
 四国の文化的伝統が元となって各地に広がっている可能性がある。四国で剣山(ツルキ山、鶴亀山)は石鎚山に次ぐ二番目に高い山で修験道の霊山となっている。7月17日は御輿を山頂まで担ぎ上げる祭りがある。この日は、京都の八坂神社で山鉾巡行がある。
12  万葉集の「蜻蛉島(あきつしま)大和の国」考
 古代史研究家の古田武彦氏は、万葉集の和歌「大和には 郡山(むらやま)あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立つ立つ 海原は 鴎立つ立つ うまし国そ 蜻蛉島(あきつしま)大和の国は」に注目している。これによると、天の香具山からは海原が見えていたことになる。大和(奈良)には海がないので、海原の見える「天の香具山」を比定せねばならないことになる。古田氏は、九州説に結び付けているが四国説の方がよりピッタリする。

【大嘗祭に於ける「麁服(あらたえ)」調進】
 2019.1.16日、日本経済新聞徳島支局/長谷川岳志「大嘗祭の麁服(あらたえ)調進準備 三木信夫さん (語る ひと・まち・産業)阿波忌部直系 徳島の麻文化再興訴え」転載。
 ■阿波忌部(あわいんべ)直系の三木信夫さん(82)が11月に予定されている代替わりの皇室行事「大嘗祭(だいじょうさい)」で自身2度目となる「麁服(あらたえ)」調進に向けて準備を進める。古代から続く徳島発祥の伝統文化を発信し、地域の歴史的価値の再評価につなげようと全国で講演活動に飛び回る。

 「新天皇の即位関連儀式である『大嘗祭』において麻の織物『麁服』は欠かすことができない重要な品。調進とは天皇家から依頼を受けて納めることで、古代からこれができるのは阿波忌部である三木家だけだった。室町時代前半の南北朝の動乱でいったんは途絶えてしまうが、大正天皇の儀式で約580年ぶりに復活した。『大嘗祭』は日本の歴史そのものである。古代からの伝統様式をそのまま次の世代につないでいく努力が求められている」。「残念ながら『麁服』調進への関心は地元徳島よりも東京など首都圏の人の方が高い。徳島の人は天皇家の祭祀(さいし)において、この地が重要な役割を担ってきたという歴史文化を自慢してほしい。観光資源として活用するアイデアを地域で出し合うことも大切だと考える」。

 ■三木家には1260年の亀山天皇の「大嘗祭」で「麁服」の調進をするように記された古文書が残る。三木家直系は「麁服」を作製し宮中に直接届けられる唯一の「御殿人(みあらかんど)」だ。三木さんは徳島に根付いてきた麻の文化や織物の技術を伝承し、再興することが地域活性化につながると訴える。

 「麻を栽培する畑を整地し、春に種をまく。何度も間引きをしながら約100日で成長した麻を収穫し、茎の天日干しから煮沸、皮を剥ぐなどの工程を経て麻の繊維を紡いでいき、『麁服』が完成する。『麁服』にできる麻は気温が平地よりも3〜5度低い高地といった限られた場所でしか栽培できない。こうした繊細な技術を確実に継承していくことは今後の課題だ」、「全国でも麻を織る職人は高齢になり数が少なくなっている。徳島の工業系の高校などでこの技術を教える課程を作ってもらえれば若い人に着実に受け継いでもらえると思っている」、「麻は法律で栽培が制限されていることもあり、管理も大変だ。私が担当した前回(の『大嘗祭』)は麻を育てる畑を24時間警備しなければならなかった。こうした人件費を含めて『麁服』調進にかかる費用は数千万円になる。徳島の企業や人に広く寄付を募っており、これが地元の関心が高まるきっかけになればと期待している」。

 ■現在の吉野川市は麻を植える地域に由来する「麻植(おえ)郡」という名称だった。徳島の麻文化再興に向けて「麻植」の地名復活を提唱する。

 「2004年に4町村合併で『麻植郡』が消滅した。これを後悔する人たちも増えている。兵庫県の篠山市が丹波篠山市への変更を問う住民投票が賛成多数で成立した例もある。麻農業が誇れる文化だと地域住民に浸透していけば、自然と地名を変えようという動きにつながってくるのではないかと期待している」。

 築400年以上の徳島県最古の民家である三木家は剣山のふもと、木屋平にある。美馬市中心部から細い山道を車で約40分かかってたどり着く。かやぶき屋根の国指定重要文化財の古民家に三木信夫さんは実際に住み維持管理をしている。近くかやぶき屋根の葺(ふ)き替えを予定しているが、費用は数千万円にもおよぶ。その費用の一部には国や県から補助金が出るものの、三木さんの個人負担も大きいという。「この地域の歴史と伝統文化を1人でも多くの人に知ってほしい」と麻文化の発信に奔走する三木さんの思いは「麁服」を後世につなぐこと。現在大学生の孫が後継者となる予定だが、併設する資料館への来館者を増やす取り組みなどと合わせ、継続して地域全体で支える仕組みを作る必要性が今後高まりそうだ。

 みき・のぶお 
 1936年徳島県美馬市で阿波忌部氏直系の三木家に生まれる。関西学院大法学部卒。90年の平成の「大嘗祭」で初めて「麁服」調進の任を果たした。国の重要文化財三木家住宅の管理者。「全国重文民家の集い」の代表幹事を務める。

【大麻比古神社】
 大麻比古神社は、忌部氏の祖先神である大麻比古大神と、猿田彦大神とを合わせ祀る神社。(御祭神は大麻比古大神、猿田彦大神

 由緒は次の通り。
 阿波一宮。神武天皇の御代、天太玉命の御孫天富命勅命を奉じて洽く肥沃の地を求め、阿波国に到りまして、麻楮の種を播殖し、麻布木綿を製して殖産興業 の基を開き、国利民福を進め給い、その守護神として太祖天太玉命を此の地 に斎き祀る。大麻比古神社は、太祖天太玉命と猿田彦大神の御神徳を 称えて奉った御社名と伝えられる。猿田彦大神は、昔大麻山の峯に鎮まり坐しが後世に至り、本社に合せ祀ると 伝えられる。延喜の制名神大社に列し、阿波国一宮と称え、阿波、淡路両国の総産土神として崇め奉る。清和天皇貞観元年従五位上を授け奉り、 順次進階して中御門天皇享保四年正一位に進み給う。斯く朝廷の崇敬厚く、又代々の国司領主の尊崇深く、神田山林を寄進、藩費を以って社殿の造営 を行い、年々祭費を奉らる。明治6年、国幣中社に列す。明治13年、国費をもって本殿以下の造営が行われた。現在の祝詞殿、内拝殿、 外拝殿は昭和45年、氏子崇敬者の寄進によって造営された。大麻比古神社は、古来方除、厄除、交通安全の神として霊験を授け給い 県内外の氏子崇敬者から「大麻さま」「大麻さん」「大麻はん」と親しみを こめた御名で崇められ、厚い信仰が寄せられている。

【赤色顔料「水銀朱」生産】
 「中国史書 其山有丹 。縄文時代の土を踏みしめる。加茂宮ノ前遺跡現地」。
 徳島県阿南市加茂町の加茂宮ノ前遺跡で、古代の祭祀などに使われた赤色顔料「水銀朱」を生産したとみられる縄文時代後期(約4千〜3千年前)の石臼や石きね300点以上や、水銀朱の原料の辰砂原石が大量に出土した。水銀朱に関連した遺物の出土量としては国内最多。生産拠点として国内最大、最古級だったことが明らかになった。石臼の大きいものは直径約30センチ、石きねは同約10センチ。生産した水銀朱を貯める土器、表面に水銀朱を塗った土器の破片や耳飾りが多く見つかり、関連した遺物の出土数は1000点に上った。縄文後期の遺物としては、水銀朱生産の一大拠点とされる三重県度会町の森添遺跡などで出土した石臼や石きね約30点が、これまで国内最多とされていた。調査面積は約1万平方メートル。祭祀に使っていたとみられる石を円形に並べた遺構14基や住居跡2基も見つかった。縄文後期の居住域と祭祀の遺構がまとまって確認できたのは西日本で初めて。徳島県埋蔵文化財センターによると、辰砂原石は約5キロ離れた若杉山周辺から採取された可能性が高いとみられる。県教委などは2016年度から加茂宮ノ前遺跡を調査しており、弥生時代中期末-後期初頭(約2千年前)の層から、鉄器や水銀朱の生産拠点とみられる集落跡を確認。今回の発見で水銀朱の生産、利用時期は約1500年以上さかのぼることが明らかになった。

【記紀、万葉集を四国の地名から読む考】
 記紀、万葉集を四国の地名から読むと正確に符合するとの指摘が為されている。その一端を確認しておく。「難波宮は難波になかった」を参照する。

 天平6年(734)3月、聖武天皇の難波宮行幸にお供した舟王(ふねのおおきみ、第47代淳仁(じゅんにん)天皇の兄)が詠んだ万葉集巻6−998「幸于難波宮之時歌六首」歌は次の通り。
「如眉 雲居尓所見 阿波乃山 懸而榜舟 泊不知毛」
(眉のごと 雲居に見ゆる 阿波の山 懸けて漕ぐ舟 泊り知らずも)

 これは「眉のように雲間に見える阿波の山 その山々をめざし漕いでいく船は、どこに泊まるのだろうか」と解釈され、難波宮(大阪市中央区法円坂)から大阪湾の沖の船とその向こうの風景を見て詠んだものと解釈されている。

 これに対し、岩利大閑氏は、この歌を「武庫浦を出港し、四国の難波宮へ向かう船上で詠んだ歌」であると解釈する。他の五首のうち二首に次の地名がでてくる。
「住吉乃 粉濱之四時美 開藻不見 隠耳哉 戀度南」
(すみのえの こはまのしじみ あけもみず こもりてのみや こひわたりなむ)
「馬之歩 押止駐余 住吉之 岸乃黄土 尓保比而将去」
(うまのあゆみ おさへとどめよ すみのえの きしのはにふに にほひてゆかむ)

 ともに住吉(すみのえ)が出てくる。ところが、万葉集に出てくるこの住吉(すみのえ)は場所が不明で、現在の地名とは関係がないとする。その理由として万葉集巻3−283の歌がある。これを確認する。
「墨吉乃 得名津尓立而 見渡者 六兒乃泊従 出流船人」
(すみのえの えなつにたちて みわたせば むこのとまりゆ いづるふなびと)
「住吉の得名津に立って見渡すと、武庫の港から舟人たちが漕ぎ出してゆくのが見える」

 この歌で「武庫の港」と「住吉」が隣接していたことが分かる。つまり、上の舟王の歌が船上で詠まれたものならば、岩利氏の言うように「武庫浦」の港を出港した可能性が高い。この「武庫浦の港」の場所も特定されていないが現在の神戸市灘区の付近と考えられている。難波宮が讃岐にあり、この歌が四国へ向かう船上で詠まれたものだとすれば、何の矛盾もなく歌の通りに解釈できる云々。この確認は追々充実させることにする。

【徳川光圀の阿波及び淡路両国にある古代天皇の墳墓の調査命令】
 四国の阿波に何か古代の秘密があるということに徳川光圀が気付いていたようで、江戸に修史局を開き、大日本史の編纂に乗り出した後、1697(元禄10)年、突然、老中土屋相模守政直を呼びつけ、阿波及び淡路両国にある古代天皇の墳墓の調査を命じている。「土屋相模守」は徳島藩の「江戸留守居役」を密かに呼び出し、「阿波と淡路両国の『天子の葬場』(「天皇陵」のこと)を極秘調査せよ」との覚書(密命)を手渡した。こうして「阿波の重大な秘密」にの研究を開始したのが阿波古代史」のスタートとなる。(山口敏太郎「急浮上、幻の古文書『阿波風土記』が裏付ける“邪馬台国四国説”、邪馬台国は阿波だった!?」参照)
 「阿波にはホズマつたゑが残されている天岩戸伝説がある。天岩戸の前には神楽岩という畳で20畳もの広さを持つ岩がある。その神楽岩の上で、明治時代まで実際に神楽が行われていた。この天岩戸の近くには猿田彦やアメノウズメを祀る神社もある。昔、天照大御神がその岩戸にいたという伝承もこの地区にある。この地は天照大御神が愛した翡翠の産地でもあった。天照大御神は、その翡翠の魔力を使い、呪術で「国作り(祭り事)」を行なっていたと伝えられている。翡翠は、本来は地中深く、ゆっくりと圧力がかかって作成される原石であり、四国の場合は南北から圧力がかかって隆起して地上に出たものと言われている。翡翠石がなぜ注目に値するかと言えば、イザナミから大国主へかけての「翡翠国盗り物語」に「翡翠文化」が根強く絡んでいるからである。畿内を中心とした古墳群には必ずと言っていいほどこの「翡翠勾玉」が、採掘されていることでそのことが理解できる。「天子の葬場」と言う「天皇陵」の調査は天皇の起源に基づくものであり、実証されれば「古代阿波國」から日本が始まった事になる」。
 天照大神の秘宝!
 https://stonesstones.thebase.in
※これらの「古代阿波の国盗り物語」の記事は、尼崎の「友行神社」周辺を開祖した「先祖友行」の「文書(もんじょ)」から代々受け継がれた口伝を元に記事にしている。(四国・徳島邪馬台国研究学会/邪馬台国学術研究員・徳島ホツマツタゑ研究会主宰 友行安夫氏の(記)参照)
 当時の徳島藩は「蜂須賀家の藩」であり、当時は元々阿波に赴任した主君に従ってお国入りしたため「阿波の事情」には疎かったと思われる。しかし、これが「お上の極秘命令」であるため、徳島藩は普請奉行を中心にして真剣に「発掘調査」に取り組んだ。すると、徳島藩や日本人が知らなかった驚くべき事実が次々と発掘された。出土した信じられないような遺物を見て、藩士たちは阿波が「古代の聖地」であるという阿波の重要な秘密に気づいた。彼らは阿波の古代史の研究を続けた。江戸幕府も「阿波国風土記」という文献を入手し、その実態を把握しようとしていた。また、現在淡路にある「伊弉諾神宮」が、この調査結果に基づいて「伊邪那岐の御陵」であると判断され社殿が建立された。徳島藩では、普請奉行の「猪子理五郎、森脇五兵衛、大原村千代」が古墳の調査を行った。この調査により、阿波に関する知識は藩主や高位の者たちの間で広がり、他の地域からも調査が行われるようになった。これらの調査は、幕末の阿波の学者たちとして知られる池辺真榛、野口年長、新居正道、小杉榲邨などにつながっていった云々。又、徳島県美馬郡つるぎ町には「天皇」という地名が存在することが判明している。「阿波古代史」の研究は、阿波においては幕末からみても100年以上。そのスタートからみればすでに300年間以上の歴史がある。

【池辺真榛が阿波国が日本のルーツとする所信を披瀝】
 阿波出身の国学者である池辺真榛は、延喜式の研究を行い、故郷である阿波国が日本のルーツだと確信し所信を発表し始めた。

 1863(文久3)年、池辺は阿波藩政を非議したという罪を被せられて身柄を拘束され阿波藩邸に監禁され、不審な死を遂げている。一説には毒殺されたとも云われている。

【国学者・小杉榲邨が「阿波古風土記考証」を出版】
 幕末から明治にかけて活躍した阿波出身の国学者・小杉榲邨(こすぎすぎむら)が阿波関係の古書、古文を網羅する「阿波国徴古雑抄」を発刊している。

 1872(明治5)年、「阿波古風土記考証」を出版する。この時、邪馬台国阿波説においてキーとなる騒動を起こしている。何故か回収騒動に発展している。しかも、当時、蜂須賀家と徳川家にあったはずの阿波風土記の原本さえも所在が不明になっている。この回収騒動の理由は不明である。一説には天皇家のルーツに関わる記述があったため、明治政府が問題視して回収に踏み切ったとも云われている。阿波風土記の存在は妄想ではない。幕末の頃までは様々な文書に部分的に引用されている。例えば、阿波風土記逸文に「天より降りおりたる山の、大きなるは阿波国に降り下りたるを、あめのもと山といい、その山の砕けて大和国に降り着きたるを、あめのかぐ山という」とある。即ち、空から大きな山が阿波国に落ちてきた。その山が砕け散り大和国に落ちて、天香久山になったとされている。

 今、この阿波風土記の所在が不明である。噂では宮内庁で厳重に保管されていると云われている。阿波藩では、幕末から明治初期にかけて、邪馬台国阿波説のメイン資料やキーマンが消されている。(山口敏太郎「急浮上、幻の古文書『阿波風土記』が裏付ける“邪馬台国四国説”、邪馬台国は阿波だった!?」参照)

【木村鷹太郎が「人種学上宇和島の提供する無類の材料」を発表】
 1911年、古くは愛媛県宇和島出身の明治の哲学者、木村鷹太郎が「人種学上宇和島の提供する無類の材料」(「世界的研究に基づける日本太古史・上」、1911年、所収)を現し、その方言、祭祀、民謡、伝説などから「宇和島人はアリアン人たり、ヤペテ人たり、キンメリ人たり、希臘、ホエニシア、埃及人たり、神話時代の神裔人種たるを証明」したが、むろん学界の容れるところとはならなかった。

【高根正教(まさのり)氏が「四国剣山千古の謎」】
 1952年、高根正教(まさのり)氏「四国剣山千古の謎−世界平和の鍵ここにあり」(四国剣山顕彰学会)を発表。その後、御子息の高根三教氏が、「ソロモンの秘宝」(大陸書房、1979年)、「アレキサンダー大王は日本に来た」(システムレイアウト、1990年)を発表する。

【保田兵治郎氏が邪馬台国阿波説を最初に発表】
 1961(昭和36)年、上板町の保田兵治郎氏が邪馬台国阿波説を最初に発表した。これより前、地元の神社の古記録に「粟散土国王在日弥子」の記事を発見し邪馬台国研究に入っていた。

【阿波歴史研究会が「邪馬台国阿波在国説」を発表】
 1964(昭和39)年、阿波歴史研究会で 「邪馬台国阿波在国説」 を発表。

【保田兵治郎氏が「建国日本秘匿史の解折と魏志倭人伝の新解訳」を自費出版】
 1966(昭和41)年、保田兵治郎氏が「建国日本秘匿史の解折と魏志倭人伝の新解訳」を自費出版した。この保田氏をモデルとして「邪馬台国は阿波だった」という小説を書いたのが堤高数氏。

【郷土史家・郡昇・氏の「邪馬台国阿波説」の登場】
 1975年、郷土史家の郡昇・氏が「邪馬台国阿波説」を唱える「阿波高天原考」(自費出版)を自費出版。

【古代阿波研究会の「邪馬台国=阿波説」】
 1976(昭和51).6.10日、徳島県の郷土史家グループ古代阿波研究会が「邪馬壱国は阿波だった−魏志倭人伝と古事記との一致−」(新人物往来社)を世に問い、阿波説が全国に知らしめられることになった。同書の奥付によると、古代阿波研究会の当時の事務局長は堀川豊平氏とあり、編集委員として多田至、板東一男、椎野英二、上田順啓、岩利大閑、磯野正識各氏の名が記されている。岩利大閑が原稿を堀川豊平から預かって東京の出版社へ持ち込んだ。堀川によれば、その時に(おそらく出版社の判断で) 相当の部分が削除され、内容としては不本意なものになってしまったとのこと。それでもこの本のインパクトは相当だった。「阿波古事記研究会」 の三村隆範もはじめは堀川に学んでいる。この頃を “第一期阿波説ブーム”。

 同書は、徳島県には神話の女神イザナミの名前を取った伊射奈美神社が美馬市にあるほか、天皇陛下がご即位後に初めて行う大嘗祭にあらたえを献上するなど、古くから朝廷にゆかりがある土地であるとして、まず、古事記が阿波国の別名としてオオゲツヒメと記していることに注目する。オオゲツヒメは農作物を産んだ女神の名でもある。そこからその昔の阿波国が穀霊の国であったということから論を進めていく。阿波国こそ記紀神話の高天原に他ならないと云う。更に、三国志の現存刊本にある「邪馬壹国」は「邪馬臺国」の誤写ではないという立場をとって邪馬壱国とする。

 倭の女王・卑弥呼は記紀神話の天照大神と同一人物であり、その宮の跡は名西郡神山町神領の標高700mの山頂にある高根城址であり、ここが邪馬台国の中心地と主張した。今は悲願寺という寺になり、境内には古代中国の文字が刻まれた常夜塔が立っている。

 御陵は名方郡国府町矢野の矢野神山山頂、天石門別八倉比売(やくらひめ)神社の奥の院にある石積み正五角形(高さ50cmほど、1辺が約2.5m)の祭壇だと云う。他の土地ではちょっと見られない形をしている。また、記紀神話の出雲とは、阿波国南部の勝浦川・那珂川方面であり、三国志倭人伝の狗奴国にあたるという。この「卑弥呼=天照大神の宮都・陵墓、出雲=狗奴国の所在に関する比定」は、山中、岩利、大杉各氏に引き継がれることになる。

 「邪馬壱国は阿波だった」のユニークなところは、邪馬壱国の統治システムとして次のように述べている。
 「卑弥呼が、瀬戸内海一帯にはりめぐらした山上の物見や通信台からの情報で、明日の天気を予見を予見すると、それは太陽光の銅鏡反射を利用し、ピカピカピカッという信号で中継通信基地、焼山寺山がうけ、それを四方に信号でおくるという一種の光通信が行われていたという主張がある(焼山寺山は標高930m、阿波の他の山々からの見晴らしがよい地点にある)。魏からもたらされた銅鏡百枚はこの反射信号に使われただけでなく、舟と陸上との連絡、舟と舟との連絡にも用いられた実用品だった。また、銅鏡ばかりでなく、自然の鏡石を利用した古代の灯台もあった」。

 それが単なる空想でない証拠として、同書は阿波の中津峰山麓の古老の「むかしは、中津峰山で火がピカピカピカッと出たら、あくる日は雨になるといいますわ。そういや、このごろはでまへんな。昔は出よったといいますわ」という言葉を挙げ、「太古のことを、ついこの間のように語り伝えてきたものなのでしょう。(中略)古代をついこの間のように語りつたえる古老たち。その陰にどのような邪馬壱国の非運があったのでしょうか。抹殺と無視にたえて約二〇回の百年の節をこえてきた庶民の豊かな表情とゆとりに、いったい何があるのでしょか」と感極まった口調で説明している。

 「邪馬壱国は阿波だった」では、阿波が高天原だったことがなぜ忘れられたのか、その理由を明記していない。ただ、明治の漢学者・岡本監輔が阿波麻植郡舞中島出身であるにも関わらず、「千葉県平民」を称していたことに「歴史のゆがみを思わざるをえない」と暗示するにとどめている。

【北岡南・氏の「邪馬台国土佐説」】
 1976(昭和51)年、北岡南・氏が「記紀、万葉と邪馬台国」(自費出版)を著し、「邪馬台国土佐説」を世に問うている。

【俳優・フランキー堺の注目】
 俳優の故フランキー堺はこの「邪馬壱国は阿波だった」を読んで驚き、日本テレビのプロデューサー・山中康男氏との共同で、「いま解きあかす古代史の謎!ついに発見!! 幻の国・皇祖の地高天原」(出演・フランキー堺)を製作した。1977年、山中氏が、その時の取材調査成果を「高天原は阿波だった」(講談社)という書籍にまとめた。

【浜田秀雄氏の「契丹秘史と瀬戸内の邪馬台国」】
 1977年、浜田 秀雄氏が、古代阿波研究会の活動に触発されて「契丹秘史と瀬戸内の邪馬台国」(新国民社、1977年)を著し邪馬台国四国説を唱えた。邪馬台国を四国北岸、卑弥呼の居城を、松山市大峰台西南の台地斉院に求め た。浜田氏は同書において「四国説は四国の郷土氏家グループが主張していますが、学界では無視されています」として暗に古代阿波研究会のことに触れている。浜田氏は自説を裏付けるものとして契丹秘史、上記、宮下文書などのいわゆる 古史古伝を用いている。

 同書カバーに出版社がつけたコピーは次の通り。
 「山東省のラマ寺から発見された謎の契丹 秘史三千字(中略)。著者は二十年の研究によって遂に解読し、日本民族のルーツと邪馬台国のルーツについて重要な手がかりを得、倭人の実体を解明するとともに邪馬台国は四国松山に比定できるという驚くべき結論に到達した。更に魏志倭人伝と古事記と、上記・宮 下・竹内など従来統一できなかった各史書の綜合的な解明に成功し、これらの史書がすべて同一結論即ち邪馬台国松山説を示すことを考証し日本古代史のミッシングリングを埋めた」。

【大杉博氏の「日本の歴史は阿波より初まる−天孫降臨の地を発見す−」】
 1977年、「倭国(いのくに)研究会」を主宰し、邪馬台国四国説の論客でもっとも精力的に活動している阿波池田在住の郷土史家/大杉博・氏が、「日本の歴史は阿波より初まる−天孫降臨の地を発見す−」を自費出版した。

 1929年、岡山県生まれ。法政大学法学部中退。宗教家。1976年から古代史の研究に着手。81年に倭国(いのくに)研究所を設立。現在は倭国研究所所長を務めるかたわら日本史の謎の解明にとりくむ」とある。宇野正美の日ユ同祖論。

【大杉博氏の「ついに解けた古代史の謎」】
 1979年、「ついに解けた古代史の謎」で「大和朝廷の秘密政策説」を発表。その後も自費出版で自説の発表を続ける。

【大杉博氏の「邪馬台国論争」】
 1980年、大杉氏が、榎一雄・安本美典・奥野正男・古田武彦らの邪馬台国研究で高名な研究者たちに対して私信による論争を挑んだ。相手は61名の研究者と3団体に及び、その経過は「邪馬台国の結論は四国山上説だ−ドキュメント・邪馬台国論争」(たま出版、1993年)という本で公開されている。「たちまち沈黙してしまわれる」とある。

 著書「天皇家の大秘密政策」(徳間書店、1995年)の序には次のように書かれている。
 概要「私は、発見した事実の正しさを確認するために、多くの研究者に手紙による論争を申し込んだ。論争の結果は、まことに不毛なものに終わった。私が論争に敗れたというのなら、それはそれで実りある論争だったはずだ。ところが私は、決して敗れはしなかったし、勝ちもしなかった。勝ちもしなかったというのは、相手が負けを認めてくれなかった、ということだ。明らかに詰んだ将棋でも、投了さえしなければ負けないということを、私は初めて知らされた」。

 これに対して、論争を挑まれた側の安本美典氏は、「虚妄の九州王朝」(梓書院、1995年)で、その際の気持ちを次のように慨嘆している。
 「『季刊邪馬台国』の編集を通じて知ったことは、世の中には、ほとんどまったく誤りだと思える自説を強く信じて、他説を論難攻撃してやまないタイプの人が相当数存在しているということである。その説は、どのような説得によっても、訂正されることがない。(中略)自説は“仮説”ではなく、いかなる方法をもっても死守すべき“絶対の真実”なのである。そして、ひとたび自説の立場に立てば、自説にとって、いかに不自然な事実も、眼にはいらなくなる。みずからが、ゆがみ、さか立ちしている可能性もあるのであるが、みずからは、絶対にゆがんだりさか立ちしていないと、頭からきめてかかるのであるから、他の説はみなゆがみ、さかだちしていることになる」。

 この経緯について、原田実氏の「日本史のブラックホール・四国」は次のように述べている。
 「しかし、相手が負けを認めなければ勝てない、というのは、大杉氏が一方的に論争を挑んだ相手の方からしても同様だろう。第一、一方が自らの「正しさを確認するため」の論争などは、始める前から不毛なのである。議論においては、仮説の反証可能性が問題とされる。すなわち、ある仮説について、どのような反証が現れればそれが成り立たなくなるか、仮説の提唱者と論争相手の間に共通の認識があって、初めて学問的な論争が成立する。しかし、大杉氏は自らの正しさを自明の前提としており、その仮説である四国山上説について、何ら反証可能性を示そうとはしなかった。このような態度が学界で相手にされないのはむしろ当然なのである」。
 大杉氏の「写真の公理法」に対して、結果としてもっとも辛辣な批判となっているのは前田豊氏の「倭国の真相」(彩流社、1997年)であろう。前田氏はその前著「古代神都東三河」(彩流社、1996年)で、高天原=邪馬台国が東三河にあると主張したが、「倭国の真相」ではその説の傍証として二箇所、大杉博氏の著書からの引用をしている。大杉博著「天皇家の大秘密政策」で、万葉集の柿本人麻呂の歌に基づき、古代の大和国には海があったはずだと論じている箇所を引いて、「大杉氏は四国に “倭の国”を想定されているのであるが、この状況はまさに、東三河やまと説について当てはまるのである」とする。

 また、同書の別のところでは「邪馬台国は間違いなく四国にあった」から、釈日本紀に、畿内を北倭、女王国を南倭とするくだりがあるという記述を引用し、「四国邪馬台国説の大杉氏には悪いが、その文献はまさに東三河のことを表している(中略)。南倭は古代中国の地理観では、東に相当するから、東倭でもある。まさに日本の東海に地方にある倭、東三河の大和であったのだ」と述べている(ちなみに、釈日本紀の「北倭」「南倭」の説はもともと山海経の誤った訓読から生じたものである)。

 原田実氏の「日本史のブラックホール・四国」は次のように述べている。
 「大杉氏には『写真の公理法』で四国のことを指しているとしか思えなかった記事が、前田氏の目には東三河を指しているものと写っていることになる。主唱者の信念の強さでいえば、前田氏の東三河説は、大杉氏の四国山上説に決してひけをとらない。そして、信念の強さを競うのは、真実の探究とは何ら関係のない不毛な行為なのである」。

 なお、古代阿波研究会が卑弥呼の陵墓とみなし、大杉氏もそれに従っている矢野神山の石壇について、原田大六氏は「卑弥呼の墓」(六興出版、1977年)の中で次のように批判している。
 「日本全国の考古学者で、これを三世紀の卑弥呼の古墳と考える人は、誰一人なかろう」。
 「星形祭壇は、弥生時代にも古墳時代にもなく、それは“矢野神山の奥の院”の後世のちゃちな石壇にすぎない」。
 「石棺を崩して、棺材を石壇とし、その上に小祠を立てて祭ったというのが実情と考えられる。見取図では特別の石を敷いているように見えるが、掲載の写真を見ると石棺材に間違いなかろう。大墳丘を持たぬ粗製の組合せ式石棺は古代庶民の墓である。それを江戸中期になって盗掘したもので、卑弥呼の墓とは全く言えぬ代物であった」。

【土佐文雄氏の「古神・巨石群の謎」】

 1983年、土佐文雄氏が「古神・巨石群の謎」(リヨン社、一九八三年)を著し、「邪馬壱国は阿波だった」を「意外にしっかりしたきまじめな研究書」として好意的に紹介する。同書は邪馬台国土佐説をとり、卑弥呼の居城を高知県香美郡土佐 山田町の古神にある巨石群に求める。ただし、同書は土佐氏のオリジナルな説を記したものではなく、地元の郷土史家、北山南・樫谷義広両氏の研究に基づいて制作されたテレビ 番組「古神・巨石群の謎」(NHK高知放送局)の取材過程を記したノンフィクションで ある。土佐氏はその番組でリポーター役を務めた。 なお、NHKの取材が契機となり、今や古神巨石群は「甦った・なる邪馬壹」、「平和日本お誕生ご所」、「倭華宮」、「日本のルーツ・ヤマトの国センター」「とさ若宮日本蓬莱山 邪馬台国センター」としてテーマパーク化されているという。根本敬「イジメもやまる日本発祥の地」別冊宝島『全 国お宝スポット魔境めぐり』一九九八年四月所収)は、それを守っている樫谷義広氏を紹介している。


【岩利大閑氏の「道は阿波より始まる」】
 1985(昭和60).12.30日、「道は阿波より始まるその1」、1986 (昭和61) 年、「道は阿波より始まるその2」、1989 (平成元) 年、「道は阿波より始まるその3」の三部作が出版された。同書は岩利大閑氏が自ら主催する阿波国史研究会の成果として発表していた自家版を、(財)京屋社会福祉事業団が、“好きとくしま大好き”運動の一貫として増補・再販したものである。岩利氏は「邪馬壱国は阿波だった」奥付に古代阿波研究会の編集委員として名を連ね、また山中氏の番組制作に際しては、その取材現場を案内した人物である。
 岩利大閑氏(1925-1989、本名 岩佐利吉)は徳島市伊賀町生まれ。父祖三代にわたって古代史の研究を続け、ついに皇祖の地・高天原が阿波であり、かつ、記紀時代の歴代天皇の皇都が阿波に存在したことを確信。その成果を「道は阿波より始まる」三部作で世に問うた。

 大閑氏は、阿波国が「倭」であり、その遷都先が「大倭」=「大和」国であるという阿波倭説をとっている。岩利氏の主張のユニークなところは、高天原だけではなく、記紀にいう「大倭」とは阿波国のことであるとし、大和朝廷は天武もしくは持統の時代にようやく畿内に入ったとするところである。岩利氏は語る。
 「日本書紀の記事の中に“阿波国”の国名が一切でてきません。古事記神代の物語りから“伊予”“阿波”の二国のみが記され、そのうえ衣類、食料までが原産地阿波国と明記されているにもかかわらず、記紀何れの文中にも“阿波国” 云々がでてこないのは誰が考えても不思議と思いわれませんか?」(「その三」)。

 岩利氏によると、聖徳太子(厩戸皇子)は引田町の厩戸川の川口で生まれた生粋の阿波っ子であり(その一)、一般には滋賀県にあったとされる天智天皇の大津京も伊太乃郡山下郷の大津に置かれていたということになる(その二)。

 面白いのは、宋書倭国伝に記された倭の武王の上奏文の解読である。その中には、「東征毛人、五十五国、西服衆夷、六十六国、渡平海北、九十五国」とあるが、岩利氏は武王こと雄略天皇の都も阿波国にあったとする立場から、毛人の国々を近畿地方、衆夷の国々を九州地方、北の国々を中国地方に求める。「渡平海北」は一般に「海北に渡りて平らげる」と読まれ、朝鮮半島への進出を示す記述と解されているが、岩利氏はこれを「北に平海を渡り」と読み、単に瀬戸内海を渡ったところにある国々の描写にすぎないというわけである(その一、その二)。

 なお、“和製インディ・ジョーンズ”の異名を持つ鈴木旭氏はこの「道は阿波より始まる」三部作を読んで以来、邪馬台国阿波説に立つことにしたと表明しておられる(鈴木「もしもの日本史」、日本文芸社)。

 また、聖徳太子が四国にいたという論考としては岩利氏の著書の他に西野八平氏の「法興天皇記」(講談社出版サービスセンター製作、1987年)がある。西野氏は聖徳太子は大王に即位し、蘇我馬子と共に愛媛県松山市の来住廃寺遺跡の地で日本を統治していたとする。推古朝遺文に現れる年号「法興」は聖徳太子の年号だという。また松山氏の天山神社は天から下りた山が二つに分かれ、その一つが天山となったという縁起を有するが、それは聖徳太子と蘇我馬子の二人が共に大王であったことの暗喩だという。

 また、西野氏は祐徳稲荷(佐賀県)、伊予稲荷(愛媛県)、伏見稲荷(京都府)、豊川稲荷(愛知県)、笠間稲荷(茨城県)、最上稲荷(山形県)という日本六稲荷の順番は邪馬台国の勢力が広がる過程を示すもので、伊予稲荷近くの谷上山宝珠山(聖徳太子創建)に「愛比売」が降臨したとの伝承は卑弥呼の宗女・壱与(伊予)の地を引く娘に関するものであろうともしている(察するに西野氏は邪馬台国については九州説をとっておられるらしい)。


【笹田孝至氏の「記紀は阿波一国の物語である」】
 1986 (昭和61) 年、映画「道は阿波より始まる」 のシナリオと解説として、岩利氏の弟子という笹田孝至氏の「記紀は阿波一国の物語である」という冊子が出版された。

 著者は、1944年、徳島生まれ。徳島大の工業短期大学部を卒業。1967年に徳島市役所に就職。1979年、徳島市役所観光課在職中、「おい、これを観光のネタに使えないか」と上司から1冊の本を手渡された。それは、郷土史家による古代阿波研究会が当時発刊した「邪馬壱国は阿波だった」。魏志倭人伝に登場する邪馬台(壱)国の舞台は阿波で、女王・卑弥呼の墓は、徳島市国府町の八倉比売(やくらひめ)神社の奥の院、居城は神山町神領、などとする新説にのめり込んだ。翌年、さっそく市の観光キャンペーンに取り入れた。モデルに卑弥呼の衣装を着せてパンフレットを作成。八倉比売神社などをめぐる観光コースも設け、観光課に席を置いた4年間で、約600人を案内して回った。「みんな半分疑っていたかも知れないが、『そうであってほしい』という期待のようなものを肌で感じた」と振り返る。邪馬台国阿波説をもとに阿波邪馬台国観光を推進する。1983年、「道は阿波より始まる」の著者岩利大閑氏に頼み込んで師事、研究にのめり込む。2004年3月に退職すると、「先人の研究成果を受け継ぎ、記録に残したい」との思いから、仲間15人でNPO設立。2006〜2009年 阿波古代史講座(全11回)を主宰。塾長として7度講師をつとめる。徳島歴史研究会主催。2008年、古代史のコペルニクス的転回を企図し、NPO法人阿波国古代研究所を設立。「みんな半信半疑かも知れないが、阿波を抜きに日本の古代は語れない。『これは研究に値する説だぞ』と、いつか学者や専門家たちを振り向かせたい」と意気込む。調査報告講演会、古代史探訪バスツアー、大嘗祭御膳復活催事ほか活動を継続。現在、NPO法人阿波国古代研究所代表、徳島歴史研究会会長。

 笹田説によると、日本書紀や古事記の神話に登場する主要な神々はすべて県内の神社にまつられている上、魏志倭人伝に書かれた邪馬台国までの行程も論理的に合致。そして最近の考古学の成果も阿波説を有力にしているという。「九州は邪馬台国の時代にはすでに衰退している。奈良には箸墓古墳など巨大古墳があるが、それを支えるだけの集落跡がない」と九州説や近畿説をばっさり。その上で、邪馬台国の所在地は鮎喰川下流の 徳島市国府町と主張する。一帯の矢野遺跡や名東遺跡など弥生時代の集落遺跡を合わせると全国有数の約400ヘクタールにもおよぶ。また、魏志倭人伝が「その山に丹あり」と記載する赤い顔料の材料は、阿南市の 若杉山遺跡 から出土した水銀朱。列島各地の市場を監督する役職「大倭(おおやまと)」は、鳴門などに本拠を持つ海人(あま)族が担っていた――などと考える。最近の県教委の調査で、鳴門市の 萩原2号墳 が奈良・ホケノ山古墳の起源とされたことから、阿波の海人族が列島全体を監督するために奈良に拠点を移し、阿波の技術を受け継いで奈良で巨大古墳を築いていったと推測する。

【大杉博・氏の「邪馬台国はまちがいなく四国にあった」】
 1992年、「邪馬台国はまちがいなく四国にあった」(たま出版)を発表して、その成果を世に問うた。大杉氏は邪馬台国を阿波国内にとどまらず、四国の中央山地全体に広がる国だったとする。但し、卑弥呼の都城や陵墓、出雲国(狗奴国)などの位置については、古代阿波研究会の結論と共通しており、その意味では阿波説の一変種とみることができる。

 大杉氏は自説の証明として「写真の公理法」を提起している。「邪馬台国はまちがいなく四国にあった」(たま出版)の中で次のように述べている。
 「富士山は写真などでもよく見る山である。そして、写真を見たときに、“富士山だ!” とすぐ分かる山である。この富士山をカメラで写した場合、できあがった写真は富士山を写した写真に間違いなく、一方、富士山もその写真に写っている山(実体)に間違いないと言うことができ、双方がそれぞれ間違いのない本物であるということができるのである。これが“写真の公理”である。(中略)では今度は、どこかの路上で一枚の紙を拾ったとする。その紙には、“その山は日本一高く、広い裾野には湖が五つあって、湖面に美しい山の姿を映している”と書いてあったとする。その場合、日本人なら誰でも“ああ、これは富士山のことだ”と認めるだろう。その場合、何時、誰がその紙に書いたのかということには関係なく、“富士山のことを書いている”と認めるのである。また、富士山は、その紙に書いてある山に間違いないと認められ、その比定に異議を唱える者はいないのである。すなわち、その紙に書いてある記事の信憑性が有ることと、“富士山”とする比定が正しいこととが、双方同時に認められたことになるのである」。

 大杉氏はこの方法で阿波の風土・産物と記紀神話の舞台を比較したところ、百項目以上の共通点をみつけたという。これだけの共通点がある以上、阿波は高天原で邪馬台国に間違いない、他の説をとなえる論者は自分を論破できない限り、すべて邪馬台国から手をひかなければならないと主張している。

 大杉氏は、四国山上邪馬台国が史実から消された理由について、大和朝廷の大秘密政策の存在を主張する。それは、白村江の敗戦と壬申の乱の後、大和朝廷が一時、信望を失い「大君の先祖は、南海の小さな島の上で、山猿のような暮らしをしていたのだそうな」という噂が流れたため、天皇家の本当の出自を隠すための政策が行われたというのである。その政策は平安時代まで続き、空海が四国八十八箇所を定めたのも、四国の霊地を訪ねる巡礼を本当の聖域に近づけないための方策であったという。大杉氏は、この大秘密政策によって「四国は死国にされてしまった」と主張する。

 「邪馬台国」の漢字の象形を解析し、「おかしな馬を台にしたような国」という意味で字が当てられているとする。これは、当時の中国人が倭国(女王国)を見てイメージしたもので、四国の山上は山焼きの風習によって山上に樹木がなく、高地性集落を結ぶ幹線道路が山並みの頂上を縦走するように付けられていた。その道路を歩くと、変な馬の背中を歩いているような感じになり、「邪馬台国」という文字に符合すると述べている。

 「魏志倭人伝」には「此れ女王の境界の尽きた所なり」とあり、「広輿図」には「皆、倭国の境に附いている」とある。この21の国々の場所を比定すると次のようになるが、こうした場所が比定できるのは四国だけであり、九州説、大和説ではこれができていないとして次のように比定している。

斯馬国 (淡路島)
己百支国 (香川県大川町あたり)
伊邪国 (香川県三木町あたり)
都支国 (香川県飯山町あたり)
弥奴国 (香川県高瀬町あたり)
好古都国 (香川県山本町あたり)
不呼国 (愛媛県川之江市あたり)
姐奴国 (愛媛県新居浜市あたり)
対蘇国 (愛媛県西条市あたり)
蘇奴国 (愛媛県東予市あたり)
呼邑国 (愛媛県今治市あたり)
華奴蘇奴国 (愛媛県北条市あたり)
鬼国 (愛媛県松山市あたり)
為吾国 (愛媛県伊予市あたり)
鬼奴国 (愛媛県大洲市あたり)
邪馬国 (愛媛県三間町あたり)
躬臣国 (高知県窪川町あたり)
巴利国 (高知県須崎市あたり)
支惟国 (高知県越知町あたり)
烏奴国 (高知県伊野町あたり)
奴国 (高知県南国市あたり)

 魏志倭人伝には邪馬台国の生活の様子が実に生き生きと描写されているが、それらを四国山上に当てはめるとまことに符合するとして逐一検証している。「こんなに一致する場所は他にはない」として四国山上説を解いている。特に「山に丹有り」の記述が徳島県阿南市の若杉山遺跡のみに見られるものであること、「禾稲(かとう)をうえる」というのは「粟(あわ)・稗(ひえ)・稲などを植える」という意味であり、四国が粟と稗の産地であることと符合する。「棺有るも槨無く」は阿波に多く出土する箱式石棺を指すこと、「真珠を出す」は徳島の海で真珠が採れていたのを指すとして、邪馬台国四国山上説を裏付ける重要な記述であるとしている。

 古事記の伊邪那岐命(イザナギのみこと)と伊邪那美命(イザナミのみこと)による島産みの記述に注目して、淡路島→四国→隠岐島→九州→壱岐島→対馬→佐渡島→本州という順に日本の島が誕生したとある理由を問うている。一番が淡路島、二番が四国と最初に登場するのは、四国がよほど重要な地位を占めていたと窺うよりほかはないとしている。

 「かく言ひ竟りて御合して、生みし子は、淡道之穂之狭別島(あはぢのほのさわけのしま)。次に、伊予之二名島(いよのふたなのしま)を生みき。この島は、身一つにして面四つあり。面ごとに名あり。故、伊予国は愛比売と謂ひ、讃岐国は飯依比古と謂ひ、粟国は大宜都比売と謂ひ、土左国は建依別と謂ふ。次に、隠伎之三子島(おきのみつごのしま)を生みき。亦の名は天之忍許呂別。次に、筑紫島(つくしのしま)を生みき。この島もまた、身一つにして面四つあり。面ごとに名あり。故、筑紫国は白日別と謂ひ、豊国は豊日別と謂ひ、肥国は建日向日豊久士比泥別と謂ひ、熊曾国は建日別と謂ふ。次に、伊伎島(いきのしま)を生みき。亦の名は天比登都柱と謂ふ。次に、津島(つしま)を生みき。亦の名は天之狭手依比売と謂ふ。次に、佐度島(さどのしま)を生みき。次に、大倭豊秋津島(おほやまととよあきつしま)を生みき。亦の名は天御虚空豊秋津根別と謂ふ。故、この八つの島を先づ生めるによりて、大八島国(おおやしまくに)と謂ふ」。

【大杉博・氏の「古代ユダヤは日本で復活する―剣山の封印が解かれ日本の時代が始まる」】
 1994年、「古代ユダヤは日本で復活する―剣山の封印が解かれ日本の時代が始まる」 (日本文芸社;1994年)。剣山の夏祭りで神輿が頂上に担ぎ上げられる渡御は祇園祭の山鉾巡幸の日、それがノアの方舟がアララト山に漂着したという7月17日なのだ、という。(剣山の渡御はたぶん担ぎ手の減少から2012年より例大祭後の最初の日曜日にされるようになっている)
  大杉博氏と邪馬台国四国山上説
 http://blogs.yahoo.co.jp/noranekoblues/43192033.html

【大杉博・氏の日ユ同祖論者への転身】
 大杉博・氏の「邪馬台国=四国山上説」はその後、日ユ同祖論へと「発展」しているようである。「北イスラエル十部族の大移動」、「聖櫃ア―クと日本民族を守った大和朝廷」を著し、日ユ同祖論の根拠を書きつけている。

(私論.私見) 大杉博氏のその後の日ユ同祖論考

 大杉博・氏が日ユ同祖論を唱えることは勝手だが、れんだいこ史観に照らすと軽挙妄動の感がある。氏の日本古代史の解明がそういうところに辿り着いたことは、四国山上説の価値をも毀損することになるだろう。奇説は奇説を呼ぶの悪循環に入っていると思われる。この見地から、「邪馬台国四国山上説」を読み直してみたいと思う。但し、いつのことになるか分からない。

 即興で確認しておくべきは、「大杉博・氏の邪馬台国=四国山上説」は、他の論者の邪馬台国論諸説を叩くには鋭い弁であるが、自身の邪馬台国論の陥穽に気づいて居ないところであろう。何より、全体の構図が皇国史観の枠内にあり、邪馬台国論で最も肝心肝要の出雲王朝系邪馬台国論の見地に立つべきところ、その反対側で持論を展開していることである。その挙げ句が、皇国史観の代わりに日ユ同祖論を据えていると云う構図である。全ては、出雲王朝系邪馬台国論に辿り着いていない故の咎である。

 2013.5.12日 れんだいこ拝

【大杉博・氏の「古代ユダヤと日本建国の秘密」】
 2001.10.20日、「古代ユダヤと日本建国の秘密」(日本文芸社)に、“阿波説”陣営の大物、孤高の境地におられる大杉博。高天原=邪馬台国は四国山中ということに加えて、ユダヤ起源を説いている。弘法大師・空海も深く関わっていた、弘法大師は修業時代に“阿波の秘密”を知ったに違いない云々。

【高木隆弘氏の「古代ユダヤと日本建国の秘密」】
 2006 (平成18).9.11日、高木隆弘の 「記・紀の説話は阿波に実在した」(たま出版)から発行された。

 プロフィールは:1937年生まれ。徳島県出身。郷土史家。1970年代の邪馬台国ブームをきっかけに、古代史を研究する。そして中国の正史倭伝、古事記、日本書紀の記述が阿波であると確信して、郷土の歴史を本格的に研究しはじめ、その研究成果を本書にまとめる。

【やまし氏の「邪馬台国=東四国説」】
 2007年度現在、ハンドルネーム「やまし」氏が、「邪馬台国=東四国説」を主張している。同氏は、「邪馬台国東四国説」で、「記紀の神代の舞台は鳴門市大麻山周辺」、「卑弥呼の墓は、徳島県鳴門市大麻比古神社の丸山」としている。

【浜田秀雄氏の「邪馬台国=四国北岸説」】
 浜田秀雄氏は、古代阿波研究会の活動に触発されて「邪馬台国=四国北岸説」を唱えた。同氏は、著書「契丹秘史と瀬戸内の邪馬台国」(新国民社、1977年)において、邪馬台国を四国北岸、卑弥呼の居城を、松山市大峰台西南の台地斉院に求めた。

 浜田氏は同書で、「四国説は四国の郷土氏家グループが主張していますが、学界では無視されています」と状況を述べ、契丹秘史、上記、宮下文書などのいわゆる古史古伝を用いて持説を裏付けている。同書カバーに出版社がつけたコピーは次のように述べている。
 「山東省のラマ寺から発見された謎の契丹秘史三千字(中略)著者は二十年の研究によって遂に解読し、日本民族のルーツと邪馬台国のルーツについて重要な手がかりを得、倭人の実体を解明するとともに邪馬台国は四国松山に比定できるという驚くべき結論に到達した。更に魏志倭人伝と古事記と、上記・宮下・竹内など従来統一できなかった各史書の綜合的な解明に成功し、これらの史書がすべて同一結論即ち邪馬台国松山説を示すことを考証し日本古代史のミッシングリングを埋めた」。

【三島明・氏の「邪馬台国=北四国説」】

 1992年、愛媛県伊予松山市在住の三島明氏は自費出版で、「新説古代史・神話と宇摩(天・邪馬台・日)」、1993年、「謎の女性像は卑弥呼!?−宇摩の不思議と古代史の解明−」、1994年、「邪馬台国は北四国,伊勢神宮となった」を著し、愛媛県宇摩郡を中心とする北四国に邪馬台国=高天原を求めている。三島氏によると「古代史の混迷は、九州や近畿との思い込み、また、統一の時期の思い込みなど、多くの思い込みに阻まれて、史実の扉が残されているのに、気付かないところから始まっている」という。三島氏は、西暦紀元前後の日本にはすでに伊予王朝による統一国家が存在し、記紀が伝える初期の大和朝廷の天皇は伊都国王と同様に邪馬台国の下位にあったとする(「邪馬台国は北四国,伊勢神宮となった」)。


【土佐文雄氏の「邪馬台国=土佐説」】
 土佐文雄氏は、著書「古神・巨石群の謎」(リヨン社、1983年)の中で、概要「『邪馬壱国は阿波だった』を意外にしっかりしたきまじめな研究書」として好意的に紹介し、「邪馬台国土佐説」を採り、卑弥呼の居城を高知県香美郡土佐山田町の古神にある巨石群に求めた。ただし、同書は土佐氏のオリジナルな説を記したものではなく、地元の郷土史家、北山南・樫谷義広両氏の研究に基づいて制作されたテレビ番組「古神・巨石群の謎」(NHK高知放送局)の取材過程を記したノンフィクションである。土佐氏はその番組でリポーター役を務めた。 

 邪馬台国四国説では三国志倭人伝の方位で「南」とある箇所を「東」の誤りとするのが通例である。倭人伝に北部九州から先の行路に「南、邪馬台国に至る。女王の都する所、水行十日、陸行一月」と明記されている以上、方位の訂正なしで、九州の東にある四国に邪馬台国を持っていくことはできないからなのだが、土佐説だけは例外的に「南」のままで正しいとする。つまり、北部九州から九州東岸をそのまま南下して土佐を目指すことになる。

 なお、NHKの取材が契機となり、今や古神巨石群は、「甦った・なる邪馬壹」、「平和日本お誕生ご所」、「倭華宮」、「日本のルーツ・ヤマトの国センター」、「とさ若宮日本蓬莱山邪馬台国センター」としてテーマパーク化されているという。もっとも、それを守っているのは樫谷義広ただ一人だそうだ(根本敬「イジメもやまる日本発祥の地」別冊宝島「全国お宝スポット魔境めぐり」、1998.4月所収)。

【新人物往来社の栄枯盛衰】
 2008(平成20)年、“阿波説” を応援してきた新人物往来社が中経出版の子会社になる。翌年、中経出版が角川グループの子会社となる。2013(平成25)年)4月1日、中経出版に吸収合併されて社名が消滅。創業の1885年は明治18年で、伊藤博文が初代内閣総理大臣に就いた年。 『淡路の神話と海人族』 (岡本稔/武田信一 著)。

【笹田孝至氏の「邪馬台国=阿波説」】
 2011年、笹田氏が、地図と解説を一体化したユニークな“宮都阿波復元古代地図書” 『阿波から奈良へ、いつ遷都したのか』出版。吉野川両岸にずらりと並ぶ古墳の印。本書は株式会社アワード(阿波+道?)さんで購入できる。пF088-625-3840 古代研究所の事務局は:awa-kodai*mf.pikara.ne.jp (*を@に替えてください) 
 YUMIURI ONLINE 「人ひと徳島」
 http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/tokushima/feature/tokushim1197003543443_02
 /news/20090301-OYT8T00663.htm
 
 笹田孝至「阿波から奈良へ、いつ遷都したのか」。地図上の吉野川をはさんでずらりと並ぶ古墳群の赤い印に誰もが驚嘆する。

【三村隆徳氏の「邪馬台国=阿波説」】
 阿波古事記研究会副会長/三村隆範「天照大御神は阿南で生まれた」。

【どなり古事記研究会発会】
 2012/11/1(発会のごあいさつ 」。
 どなり古事記研究会発会のごあいさつ United States of Japan 宣言
 
 日本人は非常に優秀な民族だからです。日本人は、アジア圏においてはもちろん、世界のどんな国の文化、つまり学問・芸術・音楽や舞踊・スポーツにおいてもトップクラスの成績を収める人物を輩出しています。案外、相撲や柔道など“お家芸”のほうがイマイチなほど、日本人は新しいものが好きで、実に柔軟に自分のものにしてしまいます。 なぜでしょう?
 このことは、3つの大事なことを表しています。
 1.日本は多くの民族が移住してきた人種のるつぼである
 2.日本人は異民族を排斥せずに共存してきた民族である
 3.日本皇室は多くの氏族の相互理解と融合の象徴である
 だから伝統文化の洗練された繊細さは世界に類を見ず、先端技術力も世界トップレベルであり、それらを支える人材、日本人は世界一の民族だと、私は誇りをもっています。かの移民と奴隷と先住民の国のライバルたり得る人類の理想国家、UnitedStates of Japan!
 いま日本人が本当に揺るがない自信をもつには、天皇を神格化し、日本人の優越性を主張するために作り上げられた「単一民族」「純血主義」という先入観を越えるべきではないでしょうか。日本は現存する人類最古の独立国家であり、皇室は世界が認める人類最古の王家です。エチオピアも古かったようですが、1974年に皇帝が廃位でおわり。 たとえば中国は歴史は長くても、王朝が変わるときに前王家の血統はたいてい抹殺されています。韓国など、選挙で選ばれた大統領ですら退任したとたん次期政権で死刑判決を受けるという、日本人の感覚ではわからない習慣があるようですが、むしろ野生動物のハーレムの法則(前のリーダーの子供はすべて殺されること)でみられるように、それが自然なのです。
 日本人は、その自然の法則を越えた稀有な伝統を作り出したといえるでしょう。多くの民族が流入し、共存し、ときには争いながらも最期には寛容さをもって盃を交わし、婚姻関係を結び、汗を流しながら神輿を担ぐ “共同体” として融合していったはず。遺跡の解析によれば、武器を手にした弥生人がこの列島に流入した時期、縄文人の人口も増えていたそうです。異民族どうしの、そんな融和の情景を想像してみてください。確かに、豊かな実りをもたらす自然環境がそれを可能にしたといえるでしょう。もちろん、大きな要因です。そして近代国家となってからも、大自然への感謝をまだ忘れてはいないのが日本人です。それに豊かさが寛容を生むとは限らないことは、産油国など天然資源に恵まれた国々の圧倒的な貧富の格差を見ればわかることです。ややセンチメンタルな私にはむしろ、地震や台風、干ばつなど、過酷な自然災害を協力して乗り越えた先祖たちの姿が目に浮かびます。
 
 ここ阿波國徳島に、神話が史実であったこと、英雄たちが生まれ、活躍し、死後ずっと弔われてきたことを示す痕跡(さらにはそれが隠されてきた形跡)が見つかり始めています。『阿波古事記研究会』 の三村隆範副会長は、長年にわたってそれらの痕跡をたどり、神話から史実を浮かび上がらせる活動を続けてこられました。そのご指導をいただき、それぞれ探究を続けておられる多くの郷土史家とともに、『どなり古事記研究会』は土成町から(政治的意図を持たず)日本の歴史を考えてゆきます。土成町とは土御門天皇(上皇)の宮が置かれたことから名付けられました。帝は後鳥羽帝の長男、後鳥羽帝は、壇ノ浦に沈んだとされる安徳帝の異母弟です。つまり、貴族と武士が激しくせめぎ合った時代の波に翻弄された帝。しかし戦いを望まれず(そのことで弟・順徳帝に譲位)、この地でしばしの平安を得られたと伝わります。そんな時代の風景にも視野を広げています。
 
 平成24年11月4日 どなり古事記研究会代表 松嶌 徹(千光院在神)
 2012/12/20(当ブログ・コンテンツのご利用について」。
 <当ブログ・コンテンツのご利用について>

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 第一稿よりわずか数カ月、他の皆様のサイトなどによる情報を多く転載・活用させていただきながらこのような生意気な告知をさせていただくことに恐縮しつつお願い申し上げます。ご訪問いただき、ありがとうございます。不二合掌  千光院在神

【林 博章(阿波歴史民族研究会・会長)の「倭国創生と阿波忌部」】
 高校教諭で歴史研究家の林博章(阿波歴史民族研究会・会長)氏が「倭国創生と阿波忌部」、「日本の建国と阿忌部〜麻植郡の足跡と共に〜』」、最新刊「オオゲツヒメと倭国創生〜日本の穀物起源神の原像〜 」は、いずれも“阿波説”の広がりと奥の深さを実感させられる力作。

 2008/7/27
邪馬台国は四国にあった!?」。
 
 阿波歴史民族研究会
 http://www3.tcn.ne.jp/~aska/

 1965年生まれ。青山学院大学法学部卒。2005年3月鳴門教育大学大学院修士課程修了(地理学)。専門は、日本古代史・地理学・神話学・民俗学。阿波歴史民族研究会会長、徳島剣山世界農業遺産支援協議会副会長、鳴門渦潮高校教諭。日本農業史学会、地域農林経済学会、日本農業経済学会所属。文部科学省の奨励研究に「徳島県の先史時代遺跡に関する総合調査」、「古代環太平洋の海民文化の移動と展開」、「日本の盃状穴祭祀に関する総合調査」 。地球環境問題啓発のため、1995年に徳島アースフォーラム実行委員会を結成。1996年〜1999年は、徳島市企画調整課の「ふれ愛まちづくり楽会」の塾長として、環境問題や歴史を生かした町づくり研究を実施し徳島市に提言。1997年は、国際オゾン層保護シンポジウムin徳島の開催。1998年は、全国ストップフロンリレーイベント講演会を主催、COP3京都会議へメッセージテントを送る。1999年に徳島市市民環境会議の副議長。 1996年より日本古代史の歴史研究に着手。2004年に阿波歴史民族研究会を発足、阿波再興と地域再生に向けて各産業界・市民・行政と連携して啓発・提案活動を行う。2006年より吉野川市の歴史講座の講師。2008年より徳島県の農業遺産調査を農業専門者と開始。県内外で数多くの講演依頼をこなす。





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