れんだいこの邪馬台国四国説論考

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).1.10日 

 (目下、全く不十分です。引用、転載元は改めて確認する予定です)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「れんだいこの邪馬台国四国説論考」をものしておく。

 2003.9.12日、2007.1.10日再編集 れんだいこ拝


れんだいこの邪馬台国四国説論考
 「阿波国の秘密」にはロマンスが隠されている。その論考は論者によって微妙に違いそれぞれ興味深い。但し、れんだいこは目下進行中の「阿波国の秘密」探求に妙な癖を感じている。これを仮に「日ユ同祖史観の阿波国の秘密論」と命名する。これを批判しておく。

 一つは「日ユ同祖論」の見地からのものである。古代史上の阿波国の地位を、その事大主義の精神によってか近現代世界を牛耳るユダヤイスラエル勢力の篭絡戦略になびく「同祖論」に結びつけ、「遠い昔古代ユダヤ小王国が徳島にあり、それが証拠に剣山上に今も『モーゼのアーク』(契約の聖櫃)が秘せられている」としている。「天皇家の菊花紋と聖地のヘロデ門にある菊模様が同じであり、東祖谷村にはキリストと読めないこともない栗枝渡神社がある。古代イスラエル人たちが、アッシリアの占領により捕らえられ、その後姿を消したのが紀元前722年、日本の建国が紀元前660年。イスラエルからの移動時間や、徳島から建国の橿原への東征の時代などを含めると数字として合う。契約の箱を運んだイスラエル人たちは吉野川を通り上陸し、剣山にそれを運んだのであろうか」云々と述べ、「日ユ同祖論の聖地としての阿波の国論」を言挙げしている。

 れんだいこはこれを邪道の探求とみなしている。拙者は「日ユ同祖如何」の分別の基礎となる思惟様式の根本的原理的違いを認め、これを重視している。逆に、「日ユ同祖論」に汚染されぬ限りでの、古代出雲王朝圏内の有力諸国家としての一角的位置を占めていた四国、その内の「阿波国の秘密」を探索しようと思っている。ただまだ緒についたばかりである。これを仮に「出雲王朝史観よりする阿波国の秘密論」と命名する。四国の古代史上に占める秘密を「日ユ同祖論」、これを補強する諸説に絡ませる必要なぞさらさらないとしている。この観点を「日ユ同祖論批判その1」とする。

 れんだいこが、「阿波国の秘密」に嗅ごうとしているのは、「阿波-讃岐に於ける卑弥呼出自説」である。これは大いに有望な仮説ではないかと思っている。邪馬台国の中心地を、大和三山を望む三輪山一帯とする大和説を推理しているが、邪馬台国の最高司祭として召請されたのが、当時の突出した霊能者として認められた阿波国の卑弥呼だったのではなかろうか、その線からの阿波国と邪馬台国の繋がり、今日に至るまでのそれを捉えようとしている。当時、阿波のみならず四国全体が古代出雲王朝圏内の有力諸国家として枢要な地位を占めていたと推理している。これはかなり信憑性のある仮説と思っている。「日ユ同祖史観の阿波国の秘密論」も「阿波-讃岐に於ける卑弥呼出自説」を唱えて邪馬台国を四国山上に求める説を産んでいるが、阿波国と邪馬台国の繋がりを「日ユ同祖論」に結びつけて外来結合的に解するのか、「出雲王朝の有力国」として結びつけて原住民土着的に解するのかで真反対な違いがある。れんだいこは当然後者の立場である。この観点を「日ユ同祖論批判その2」とする。

 「日ユ同祖史観の阿波国の秘密論」は、 「阿波国の秘密」を、天照大御神神勅「国作り」由来の神武天皇系の大和朝廷創建、その際の皇室創成に深く関わるものとして論じ、その際、出雲王朝を大和朝廷の敵方として排斥卑下する記紀史観に呼応させる見地から「阿波国の秘密」を説く論、要するに「反出雲としての阿波論」を唱えているが、これに対する批判である。記紀神話構図に基づく大和朝廷創建是、国譲りさせられた出雲王朝悪史観に基づく「阿波国の秘密」は不毛なものにしかならない。

 れんだいこは逆に出雲王朝と深く親和する「阿波国の秘密」を探りたいと思っている。「神武天皇系の皇室創成」を正とする観点からの皇室論ではなく、皇室はいわば日本の国體として出雲王朝以来連綿と続いており、「国譲り」で大和朝廷御代に至っても神武天皇系と同衾する形で皇統譜を列ねてきたとする皇室論に立脚しつつ、その際に占める「阿波国の秘密」を見て取りたいと思っている。これを「日ユ同祖論批判その3」とする。

 これに関連して、「最古の歴史書ホツマツタエの『ホツマ国ここにあり』と記された空海の太龍寺縁起から読み解く!」として「古代阿波」を天照大御神勢力の「粟国」と大国主の命勢力の「長国」(この「長国」が、「ホツマ国」と伝わるとしている)に対立させて論じ、いつの間にか「天皇を起源とする天照王朝」と「ホツマ王朝(大国主)」の対立へと論を発展させ、記紀神話の国譲り以降の大和朝廷創出の動きを建国正義とする観点から、「古代阿波国が重要な役割を占め大和朝廷誕生へ!」とする阿波国直列式大和朝廷を掲げ、「阿波から始まった地名や神社が大和朝廷により日本列島に広まり国家が誕生した」とする「阿波国の秘密」を説く論が生まれている(徳島ホツマツタゑ研究会その他)。

 れんだいこはこの論を逆説と見立てる。天照大御神は元々在地の最高祖神であり当然に出雲王朝も天照大御神を拝戴している。来航して来た外来勢力が、土着の最高神天照大御神の権威を剽窃して国譲りを迫り、かくして出雲王朝と来航との戦いが勃発し、これが古代史上の最大政変(出雲王朝の国譲りから邪馬台国滅亡、大和朝廷建国まで)となった。日本古代史上最大政変のこの戦いの構図下で、「阿波国の秘密」を、勝利した大和朝廷前側に位置づけるのか半滅亡させられた後者側に位置づけるのかが問われている。れんだいこは半滅亡させられた出雲王朝側にして大和朝廷内にも食い込んだ「阿波国の秘密」を嗅ごうとしている。そうすることで出雲王朝の賛美、その出雲王朝の有力国としての「古代阿波」の賛美へと向おうとしている。それで十分と思っている。記紀神話側、それに続く「日ユ同祖論」側で説くのは事大主義によると見做している。

 結論はこうである。「日ユ同祖論」に感化される「阿波国の秘密」に対抗する「出雲王朝圏下の有力国家の一つとして且つ邪馬台国女王卑弥呼の生地の可能性を持つ「阿波国の秘密」解明に向え。これが「阿波国の秘密」の行方を照らすカンテラである。
 ここで、「出雲的なるもの 」に言及しておく。かって「梅原日本学」とも云われる歴史眼で名声を得ていた梅原猛/氏は「神々の流竄」(1970年6月、創刊された「すばる」第1号掲載論文、後に集英社文庫に収録)において、記紀における出雲神話はヤマトで成立した物語を、物部氏を顕に対する幽の世界に封じ込めるために舞台を出雲に移し替えたものだと主張した。例えばヤマタノオロチは物部氏に祀られた三輪山のカミのことだとするような解釈をしていた。オロチ退治に類した伝承が事実桜井市の出雲に残っていたことから、出雲の地名もヤマトの方が先だとも述べていた。要するに、出雲王朝存在否定説の立場から縷々持論を展開していた。この本が出た当時、「出雲において古い考古学的遺跡は少ない」、「北九州や大和のように巨大な文化の痕跡を示す遺跡がない」、「出雲に独立した勢力があったとは確証できない」とする史観を示し、いわば記紀神話通りの解釈をしていた。

 ところが、1984年、島根県簸川郡斐川町神庭(かんば)荒神谷遺跡から358本の銅剣が発見され、翌年には6個の銅鐸と16本の銅矛が出土した。1996年、同県雲南市加茂町の加茂岩倉遺跡から銅鐸39個が発見され、また四隅突出形古墳、方墳、前方後方墳などの研究が進展し、出雲地方に独自の文化を持った大勢力が存在したことが確実視されるようになった。梅原氏は自説を撤回せざるを得なくなった。「葬られた王朝ー古代出雲の謎を解く」(2010年、新潮社)で旧説を改め、「我々は学問的良心を持つ限り、出雲神話は全くの架空の物語であるという説を根本的に検討し直さなければならないことになった」と率直に誤りを認め、出雲虚構論から出雲実在論へと180度転換し、敢然として出雲王朝の存在を認める側に転じた。れんだいこは、「日ユ同祖史観の阿波国の秘密論」研究者に梅原猛的転換を期待している。それが「阿波国の秘密」を芳醇に嗅ぐ秘訣だからである。隘路から抜け出す道であるからである。

(私論.私見)





(私論.私見)