第9部 | 倭の五王(讃、珍,済、興,武)考 |
更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4).3.12日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「倭の五王」を確認しておく。 2009.11.22日 れんだいこ拝 |
【倭の五王】 | |
中国・二十四史「梁書」、「南史」、「晋書」、「宋書」に「倭の五王」の記述がある。「西暦396年~482年、倭に、讃(さん)、珍(ちん)、済(せい)、興(こう)、武(ぶ)の五王が立った」。この「倭の五王」と誰をさすのか? 通説は、日本書紀に出てくる大和朝廷の大王(おおきみ)の系譜から、「・讃 → 履中天皇(又は仁徳天皇)、・珍 → 反正天皇、・済
→ 允恭天皇、・興 → 安康天皇、・武 → 雄略天皇」とする。 これに対する異説が根強くある。何となれば、中国・二十四史に「日本国」(大和朝廷)が登場するのは650年以降である。ところが、中国・二十四史によれば、648年、中国から見た倭はまだ邪馬台国王統である。しかも倭の五王の名「讃、珍、済、興、武」は見るからに中国風。大和朝廷とは考えにくい。倭の五王を邪馬台国王統と考えるのが自然だ。じつは、それを裏付ける決定的な証拠がある。 「倭の五王」の重要性は、邪馬台国滅亡後の「倭の五王の存在性」にある。問題は、日本の史書に倭の五王が登場しないことにある。これについて次のように記されている。
即ち、266年(西晋.泰始2)に倭の女王・壱与の西晋朝貢外交以来、日本と中国の外交が途絶え、約150年後の413年になって、晋書倭国伝によれば「倭王讃が東晋に遣使し貢物献上」と出てきて、南朝宋の御代になるや断続的に宋に朝貢してきて宋朝の爵位を求めた。こうした倭王は「讃、珍,済、興,武」という五王が続いたことが記されている。 歴史学通説は、記紀の天皇系譜、天皇没年から類推している。それによると、日本書紀では15代応神(即位270年、没年310年、甲午394年)、16代仁徳(即位313年、没年399年、丁卯427年)、17代履中(即位400年、没年405年)(壬申432年)、18代反正(即位406年、没年410年)(丁丑437年)、19代允恭(即位412年、没年453年)(甲午454年)、20代安康(即位453年、没年456年)、21代雄略(即位456年、没年479年)(己巳489年)、25代武烈(即位498年、没年506年)、26代継体(即位507年、没年531年)(丁未527年)の御代となる。古事記の没年干支を正しいとすれば「讃=仁徳、珍=反正、済=允恭、興=安康、武=雄略」となる。しかし、宋書倭国伝は、「讃死弟珍立遣使貢献」(「元嘉十三年(436)讃死して弟珍立つ。遣使貢献す」)と記している。これによれば、珍を讃の弟としている。こういう事情により諸説が為されているが、いずれも決め手となるようなものはない。 |
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思うに、「倭の五王」を大和王権の天皇に比すること自体が間違いなのではなかろうか。大和王権の天皇であれば、記紀の履歴の条に記述されているべきであり、記述がないと云うことは、大和王権の天皇ではないと窺うべきではなかろうか。れんだいこの仮説は、「倭の五王」は出雲―邪馬台国系の王であり、紀元3世紀から4世紀の間、実際には出雲―邪馬台国系と大和王朝との鼎立時代が続いていたのではないかと推定する。最終的に出雲―邪馬台国系は大祓の祝詞で語られるように和睦形式で大和王朝に吸収され消えた。「吸収され消えた」が故に出雲―邪馬台国系の「倭の五王」の記録も抹殺されたと読む。求むべきは、抹殺史の復元であり、牽強付会に大和王朝の天皇を宛がうことではない、そう思う。 2010.12.31日、2011.8.8日再編集 れんだいこ拝 |
【倭の五王時代の終息考】 |
「倭の五王」は出雲―邪馬台国系の王であり、紀元3世紀から4世紀の間、大和王朝との鼎立時代が続いていたと仮説するとして、その時代がどのように終息したのだろうか、これを愚考する。れんだいこは、「国譲り以来の大胆な手打ち」があり、それが「大祓いの祝詞」に結実していると見る。れんだいこは、サイト「大祓いの祝詞」を設け確認しているが、思うに「大祓いの祝詞」はこの時代の終息の仕方を祝詞式に詠っているのではなかろうか。倭国の二国鼎立状態を終えた時から律令国家の歩みが始まったと読みたい。 どういう論拠か分からないが、「650年頃、邪馬台国王が大和朝廷に征服される。650年以降、大和朝廷が日本の統一王権を確立する。中国の書に日本国がはじめて登場。日本は昔、小国だったが倭国を併合し、日本と改名した」とある(「邪馬台国と大和朝廷」)。これによると、大和朝廷の建国が650年頃と云うことになる。暫し腕を組む。 2011.8.9日 れんだいこ拝 |
【倭の五王(解法者)】 | ||||||||||||||||||||||||
「解法者さまの論考」の「タイトル一覧」の「<日韓古代交流史>」の「倭の五王(解法者)」その他を参照する。(学習用の為、れんだいこ式読み取り後に編集し直す) | ||||||||||||||||||||||||
これまでの日本での研究の焦点は専ら「倭の五王」が誰か、どの天皇に比定されるかということに当てられてきた。この問題が、日本古代の王権論として重要であることは無論である。しかしいずれにせよ、「倭の五王」と中国の王朝との関係、及び朝鮮三国さらには任那も含めた朝鮮四国との関係、「倭」国が東アジアでどのような地位を占めていたのかとの緊張関係で捉える必要がある。「倭の五王」についての中国側史料は、晋書、宋書、梁書、南史、南斉書などがあるが、宋書にしても各帝紀、列伝、南史にしても宋本紀、列伝など様々なものがあり、それぞれ記事が異なっていることがある。しかるに、「倭の五王」に関する書籍を見てみると、まず、原文が表記されているものが少なく釈文で終っている。さらに、各史料をすべて挙げているものは皆無であった。これでは後学の者の研究に多大な支障を及ぼすとともに著者が各史料をつまみ食いして自己に都合の良いように操作していると非難されても仕方がなかろう。そこで、ご都合主義に抗する為にできるだけ各史料を提示し、必ず原文を表記することにした。 | ||||||||||||||||||||||||
シナ史書の編纂年は次の通りである。
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「倭の五王(1)/投稿者:解法者/2011年 6月14日」 冊封とは、中国中心の国際秩序で、中国の皇帝が周辺諸国の王に爵位・称号などを与えることで臣下とし、同盟関係を採る外交手段をいう。諸国王は定期的に使者や貢物を送るなどの義務を負う。その見返りとして皇帝から統治者として認められる。これにより自国民および近隣諸国に優越的な権威を持って臨むことかできた。倭が中国の王朝と冊封関係に立ったのは高句麗の朝鮮半島の南下作戦と大きな関係がある。倭王が中国の王朝に遣使した紀年、遣使した倭王の名、授爵(除授)の内容などについて争いがある。 倭の五王の中国からの「冊封」は次の通りとなっている。倭の五王が使者を送ったとされる年代は、420~480年頃。(江畑武「四~五世紀の朝鮮三国と日本-中国との冊封をめぐって-」、上田正昭・井上秀雄「古代の日本と朝鮮」108頁、学生社1974年4月20日)。 |
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「倭の五王(24)/投稿者:解法者/2011年 8月28日」 この「倭の五王」の中国への冊封に関しては、謎が多い。それは、① なぜ、中国の南朝と冊封関係に入り北朝とはそれがなかったのか、② 中国の史料に記されているように、その年に遣使が行われたのか、③ 「倭の五王」のうちの誰が遣使したのか、④ 「倭の五王」とは誰か、⑤ どうして武で中国への冊封関係から脱したか、⑥ どうして記紀に「倭の五王」の記事がないか、である。これらを順に検討してみるが、⑤については既に解説してある。 1. 中国の南朝とのみ冊封関係に入ったのか。 「倭の五王」の外交が中国の南朝とのみ冊封関係に入ったのはなぜか。それは、①、歴代の倭国が、中国の南朝が中国の正統王朝と認めていたことによる。倭王讃が授爵(除授、除正)された421年当時の中国は、遼東地方(満州西部)に北燕、華北に北魏、その西に夏、西秦、さらにその西に北涼、江南に宋があった。宋は中国の正当王朝と中国でも認められていた。それは、それまでの正当王朝である東晋の恭帝から420年にその将軍劉裕が禅譲を受け、421年に宋を建国したことによる。高句麗が朝貢していた北燕の王慕容も東晋に使者を送って燕王号を受けていることからも裏づけられる。倭の属国百済も372年、386年、416年と東晋から冊封されている。その後も宋と430年、457年、480年と3度にわたり冊封されている。この国際情勢を倭も読んだものと思われる。②、南朝の宋も倭と冊封関係を結ぶ意義があった。北朝では夏が427年、北魏に王都を奪われ、西秦が北魏に敗れて南下した夏に滅ぼされ、431年にはその夏も北涼に滅ぼされ、北燕が436年に、北涼も439年に北魏に滅ぼされ、この年、北魏の北朝統一が成った。南朝の宋は北朝の北魏と直接、対峙しなければならなくなった。宋にとって、朝鮮半島南部を支配する倭と冊封関係を結ぶことは、その正当王朝を誇示するとともに北魏の封じ込めにもなった点にあると考えられる。 |
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「倭の五王(22) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 8月22日」 倭は高句麗、百済が、中国王朝と冊封関係を続けているのに対し、早々と冊封関係から離脱してしまった。それは、次の4つの理由がある。 ①、倭の南朝鮮の経営の衰退である。 〈1〉百済の対高句麗劣勢。472年、百済は北魏に対し、高句麗第20代長壽王に攻められ苦境に陥っており、高句麗を攻めて欲しいとの上表文を奉じている(三国史記百済本紀、第20代「蓋鹵王」18年条)。しかし北魏は動かなかった。475年、高句麗の長壽王自ら兵を率いて、百済の王城漢城(現在のソウルの南漢山)を攻め、百済は潰滅的な兵害を受け蓋鹵王が戦死している(同21年条、日本書紀雄略天皇20年冬条)。王の死によってその年に即位した文周王は直ちに都を南部の公州(熊津)に移さざるを得なくなり領土を大きく失った。これまで友好国だった百済の窮状は倭にとっても衝撃であり、雄略天皇は497年に第22代三斤王(文周王の跡継ぎ)が亡くなると日本に人質としていた王の甥の末多王(次の百済第23代東城王)を内裏に呼び、王とし、彼に兵士500人をつけて百済に送り届けるとともに船団派遣して高句麗軍を討っている(同雄略天皇23年夏4月条)。 〈2〉任那経営の失敗。顕宗天皇3年紀に、「紀生磐宿禰」(きのおいわのすくね)が高句麗と内通して、三韓の王を自称し、百済の臣を殺した。そのことを知り百済王が怒り、帯山城(現在の韓 国の全羅北道井邑郡泰仁)を奪った。つまり、任那の地が百済に奪われたことを意味するとともにこれまで友好関係にあった百済との関係を損なうという大事件であった。 ② 継体天皇、欽明天皇における国情不安。「磐井の乱」(527年)、「辛亥の変」(531年)。この「辛亥の変」については実存性が争われているが、続いての安閑天皇(534年~535年)、宣化天皇(535年~539年)と短命であったことは政情の不安定を物語るものであろう。「武蔵国造の乱」(534年)も起こっている。 ③ 冊封関係の効果の衰退。倭王は、たび重なる朝貢に対し、高句麗はおろか百済にも及ばない待遇(授爵)を受けていたこと。倭にとって屈辱以外の何物でもなく、次第に冊封への意欲を失わせていったのである。 ④ 倭王武の時代になって、倭王の国内・国外(朝鮮半島)への地位が確立し、権威が備わって、中国の下に立つ必要がなくなった。このことは「治天下」の表現に現れている。元々「天下」とは中国王朝における支配地域を意味していた。ところが倭はこれを脱し中国王朝からの自立を目指そうとする機運が高まったことにある(西嶋定生「日本歴史の国際環境」76頁、東京大学出版会、1985年1月30日)。 大山誠一は異説を唱える(前掲書210頁)。①、宋の文帝が453年に殺され、その後国が乱れ、469年には青州(山東半島)を北魏に奪われ南朝と朝鮮半島とを結ぶ交通上の要地を失った。②、百済が475年に高句麗の大軍に王城(「漢城」)が占領され、王、皇后、王子などが捕虜になるという危機的状況に見舞われており、倭にとっても黄海の制海権を握った高句麗のため、南朝に遣使する道を奪われてしまった。しかし、百済は宋の衰退後も南朝の南斉、梁に遣使し、中国王朝と冊封関係を続けている。倭も熊津に遷都した百済を経由して中国大陸への交通は確保されており、黄海の制海権をすべて高句麗が奪ったということはない。鈴木靖民は、新羅主導の反高句麗連合の成立・反攻により高句麗の脅威が縮小したからだという(鈴木靖民「古代の倭国と朝鮮諸国」169頁、青木書店、1996年2月25日)。これは三国史記新羅本紀第21代「照知麻立干」6年(484年)7月条に、高句麗が北方の辺境を侵したので百済と力を合わせ、これを母山城で大破した、とあることを根拠としていると考えられる。しかし、三国史記百済本紀第23代東条王16年(494年)7月、同17年(495年)8月、には、高句麗が新羅に攻め込んでおり、同盟にしても同23年(501年)7月条に、「炭?」(現在の忠清南道大田市の東方の馬道嶺)に柵を設けて新羅の侵略に備えた、とある。同盟が強固なものであったか疑わしいので鈴木靖民の見解は採り得ない。 |
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1.讃 | ||||||||||||||||||||||||
倭王の遣使を見てみると、倭王讃(仁徳天皇?)は、東晋義熙9年(413年)に東晋王に使臣を遣わし、方物を献上しているが、このとき、授爵(除授)を願っていたものと思われる。それが叶わず、宋武帝永初2年(421年)に、貢物を奉げ、宋王も授爵を行おうとしたが、結局、それは成らなかった。讃は、その後も宋文帝元嘉2年(425年)、宋文帝元嘉7年(430年)と遣使し、貢物を奉げたが、宋王の授爵は実現しなかった。 | ||||||||||||||||||||||||
2.珍 | ||||||||||||||||||||||||
宋の太祖文帝元嘉15年(438年)、倭王珍(反正天皇?)は爵位を自称し、讃に次いで宋に使臣を派遣している。宋書本紀-文帝記は次のように記している。
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3.済 | ||||||||||||||||||||||||
宋文帝元嘉20年(443年)、珍に次いで立った済(允恭天皇?)が使臣を遣わし奉献した。このときも宋王から「安東将軍・倭国王」しか与えられなかった。(「倭国王済遣使奉献。復以為安東将軍・倭国王」)(宋書列伝) 宋文帝元嘉28年(451年)、済は再度使臣を遣わし奉献した。このときになって初めて「使持節、都督・倭・新羅・任那・泰韓・慕韓六国諸軍事」を与えられたが、安東将軍は元のまま(如故)であった。(「加使持節、都督・倭・新羅・任那・泰韓・慕韓六国諸軍事、安東将軍如故、並除所上二十三人軍・郡」(宋書列伝)。 ここで注意すべきは、百済が抜けていることである。百済は以前から宋王と冊封関係に立っており、宋王が百済を抜いたのは当たり前のことであった。この時点になっても倭王は高句麗王・百済王の下に置かれていた。ただ、中国の王朝は、冊封関係にある国々の王が代わってもすぐには進号させることは少なく、2度、3度と遣使を受けてから進号させるというしたたかな面も有していた。このことは済の次の興に顕著に現れている。なお、臣下23人は授爵されている。済は宋文帝大明4年(460年)にも遣使している。 |
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460年1月、允恭天皇崩御。460年12月、倭国王遣使。461年11月、雄略天皇即位。462年3月、倭王世子興の遣使。この間、木梨軽太子(きなしのかるのみこ)の失脚、安康天皇の即位・崩御、市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)の謀殺。 |
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4.興 | ||||||||||||||||||||||||
宋文帝大明6年(462年)、興が使臣を遣わし奉献した。宋書列伝は次のように記している。
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5.武 | ||||||||||||||||||||||||
宋順帝昇明2年(478年)、武(雄略天皇)が遣使している。宋書本紀-順帝紀および列伝は次のように記している。
宋順帝の昇明2年(479年)、倭王武は、南斉王にも、南斉高帝建元元年(479年)に遣使し、安東大将軍から鎮東大将軍に進号している。南斉書列伝、南斉書高帝紀は次のように記している。
武の熱望にもかかわらず、ここでも、倭王「武」には百済への称号は除かれていた。高句麗王の文咨王は車騎大将軍に、百済の東城王は征東大将軍と進号している(梁書列伝)。倭王はこの年、初めて百済に追いついたが高句麗には及ばなかった。倭王がこれ以後長い間は中国の王朝と冊封関係に入ることはなかった。倭にとっては朝鮮半島の覇者となるのには高句麗こそが最大のライバルだった。このことは以上の中国史料、朝鮮史料(三国史記、三国遺事ばかりではなく広開土王碑で明らかである。倭が中国の王朝との冊封を求めたのは、① 朝鮮半島の経営を目指すうえにおいて高句麗の朝鮮半島南下作戦を阻止すること、② 百済との対抗意識、つまり、属国だった百済さえ中国の王朝との冊封関係に入り、それを誇っていたのであれば、上位に立つ倭としても百済の下に立つわけにはいかなかった、③ 冊封関係に入ることによる権威づけ、の3つにあったと考えるが、①が最大の理由であった。これについて、高句麗の圧迫により倭の国内統一が阻害されたので、これを阻止するために中国の王朝にその脅威を取り除いてもらいたいがために冊封を求めたという者がいる(沈仁安「倭国と東アジア」、北京大学六興出版、1990年2月10日、186頁)。これは、武が上表文で祖先の創業過程を述べる本意は倭国の統一が容易に得られないことを説明したものであり、日本の強大さを示そうとしたものではないというにある。これは珍説の部類である。この考えが成立するためには、高句麗が日本に侵攻していたか、あるいは強力に圧力を加えていなければならない。これは北朝鮮の金錫亨の高句麗日本侵攻論の焼き直しである。高句麗の圧力で日本が阻害されていたのは朝鮮経営に限られていた。高句麗は日本に一度たりとも侵攻してないのである。 梁武帝天藍元年(502年)年、鎮東大将軍から征東将軍に進号している(梁書列伝)。南史では征東大将軍となっている(南史列伝)。 |
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1978年、埼玉稲荷山古墳から鉄剣が出土した。その銘文に雄略天皇の御名である「獲加多支鹵(わかたける)大王(オオキミ)」の「吾左治天下」と刻んだ記述があり、五世紀後半の雄略天皇の実在が証明された。また江田船山古墳出土大刀銘にも「治天下わかたける獲□□□鹵大王」と見えている。「治天下」は「アメノシタシラシメス」と訓める。大王は「オオキミ」と訓む。万葉集の大伴家持の歌に「大王の遠の朝廷」(巻一七)とあるのと同じ尊称として使われていたのであろう(別の家持の歌に「天皇の遠の朝廷」の例もある)。なお、初期万葉歌人の額田王のように、女性の「王」も「オオキミ」と呼ぶ。雄略紀五年七月の条に引かれている「百済新撰」に、我が国の天皇をして「天王」とする表記が見えている。これは、四世紀から五世紀にわたって大陸の南北朝時代に皇帝に次ぐ称号として盛んに使われたものであり、朝鮮半島南半部に軍事的支配権を主張していた倭国王が、半島諸国に対する称号として「天王」号を使っていた可能性は充分にありえる。天王の訓読みは「アミキミ」。600年の遣隋使も煬帝に対して「アメキミ」と号している。607年の遣使で、聖徳太子が煬帝に送った国書に「日出る処の天子」とあったことが隋書倭国伝に記されている。その「アメキミ」の漢字表記が「天王」から「天皇」へと変化したのは、煬帝への国書に推古天皇を「日出る処の天子」と称したときであろう。 | ||||||||||||||||||||||||
「倭の五王(25)/投稿者:解法者/2011年 8月31日」 「東晋」義熙9年(413年)条 この年、倭王讃は、東晋王に使臣を遣わし、方物を献上しているが、肝心の晋書安帝紀には倭王の名が記されてなく、梁書倭伝に賛、南史倭国伝に讃と記されている。これについて、(1)太平御覧巻981、香部1、麝条での引用の義熙起居注の「倭国が貂皮(ちょうひ-テンの皮)・人参(朝鮮人蔘)献上した」(「倭国献貂皮人参等」)との記事があり、この「義熙」とは「安帝紀の年号」で、倭王が自国の特産物でないものを献上するのはおかしい、これは高句麗が倭人を倭国の使臣と仕立てて東晋に朝貢した。(2)晋書安帝紀の東晋義熙9年(413年)の記事は「是の歳、高句麗、倭国及び西南の銅頭大師、並んで方物を献上した」(「是歳、高句麗・倭国及西南夷銅頭大師、並献方物」)という。しかし、璉(「長壽王」-第20代(在位 412年~491年)は、使持節都督(2品)・営州諸軍・征東将軍(3品)・楽浪公(1品)の授爵を受けているのに倭王讃は何も授爵されてない。これもおかしい。したがって、この年の朝貢は高句麗だけで倭は行ってない(坂元義種「倭の五王-空白の五世紀-」、教育社、1981年9月20日68頁。武光誠「大和朝廷と天皇家」、平凡社新書180、2003年5月19日147頁)。 しかし、(1)太平御覧は宋の太平興国2年(977年)に太宗の勅命により李昉らが編纂したもので、中国にある資料からの引用が多く問題がある(前掲書58頁)。加えて、引用された義熙起居注には年代が記されてなく、果たして東晋義熙9年(413年)の記事かどうかは明確でない。また、それが倭国王の献上物だとしても彼が他国から手に入れたものである可能性もあるし、それが南の宋を喜ばせたものかも知れない。(2)高句麗王のみが授爵されているのに倭王が授爵されてないのは当然のことである。前述のとおり倭王は宋にとって高句麗王より重視されてなかった。そのことは長壽王が広開土王の跡を継いだ高句麗の最も隆盛を極めた王であり、倭は広開土王によって散々痛めつけられた国で、このことは宋にも伝わっていたと思える。(3)高句麗王が倭国王の使者を仮装して入朝させたのは、広開土王碑で明らかのように広開土王が潰滅させた倭軍の捕虜ではないかという(坂元義種の前掲書71頁)のもオカシイ。こういうことを行って高句麗に何の利益があるかという説明が全くない。むしろ、捕虜を多数同行してこれがわが国が捕らえた捕虜であると豪語した方がよほど高句麗の示にもなる(小林敏男「日本古代国家形成史考」302頁、校倉書房、2006年8月15日)。(4)梁書列伝-倭条に「晋の安帝晋の安帝の時、倭王賛あり」(「晋安帝時、有倭王賛」)、南史列伝倭国条に「晋の安帝の時、倭王讃あり、使いを遣わして朝貢せしむ」(「晋安帝時、有倭王讃、遣使朝貢」)とあり、倭国の朝貢が倭王讃の時代であることを示している。つまり、梁書、南史は別の史料により倭王讃の朝貢が行われたことを認めていると考えられる。従って東晋義熙9年(413年)に倭王は朝貢したと考えてよい。 なお、「並んで」の表現について、倭王讃の使者が高句麗の使者と連れ立って宋王に朝貢したという者がいる(井上光貞「日本の歴史 1-神話から歴史へ-」368頁、中央公論社、1965年2月4日)、「岡田英弘「倭国」135頁、中央公論社、中公新書482、1977年10月25日)。しかし、広開土王碑文から見て、両国は戦争状態にあり、一緒に朝貢したとは考えられない。朝貢については、たまたま高句麗と一緒になったものである。それは「是歳、高句麗・倭国及西南夷銅頭大師、並献方物」との表現からも明らかであろう。ここにいう、「是歳」とは「東晋」義熙9年(413年)のことで、その年中の事実を意味し、同時を意味しない。また、同時というなら「西南夷銅頭の事実を意味し、同時を意味しない。また、同時というなら「西南夷銅頭大師」も同時でなければならない。このような遠方の国と同時に連絡しあって朝貢したとはとうてい考えられない。井上光貞らの見解は明らかに誤りである。 〈2〉朝貢したのは「讃」であるか。 晋書安帝紀には、倭王の名が記されてなく、梁書(倭伝)に賛、南史倭国伝に讃と記されている。賛と讃は同一人物と考えて差し支えない。このことから、讃ではないとする者がいる(那珂通世「宋斉梁書ノ倭国伝」548頁)。これによると梁書は偽書であることになる。晋書は後世(648年)のもので、梁書(636年)や南史(589年)より新しいが、編纂期間も短く、かつ編纂者も多く、前後の矛盾や錯誤・手落ちも指摘されており(鳥越憲三郎「中国正史 倭人・倭国伝全釈」132頁、中央公論新社、2004年6月25日)、梁書、南史の記事の方が正しいと思われる。 高句麗は中国王朝(南朝)にとっては70年ぶりの朝貢であった。しかし、355年に、高句麗王「釗(しょう)」(「故國原王」)〔第16代[在位 331年~371年]〕)が北朝の前燕王に朝貢し、征東大将軍・営州刺史・楽浪公を授爵している(三国史記高句麗本紀 第16代「故國原王」15年(355年)条)から58年ぶりといえ、このことは東晋にも伝わっていたことと思える。これに対し、倭は147年ぶりの朝貢で、中国王朝にとっては新参者に等しく、重視されなかったと考える。この差が、高句麗王には授爵、倭王には授爵なし、という記事になったのであろう。したがって、倭王には授爵がなかったというのは事実である(坂元義種の前掲書66頁、「古代東アジアの日本と朝鮮」342頁、吉川弘文館、1978年12月20日、〔以下、「坂元」②という〕)と考えなければならない。 「宋」武帝永初2年(421年)条 この年、倭王讃は、「貢物を奉げ、宋王「高祖」も除授(授爵)を与える」としているが、その除授(授爵)の具体的記述がない(南史列伝倭国伝)。このこととは別に、「宋は永初元年(420年)6月丁卯(14日)に新王朝を樹立すると、7月戊戌(16日)には「仇池公」、7月甲辰(22日)には西涼王、西秦王、高句麗王、百済王の将軍号をそれぞれ進めているが、これらは新王朝に伴った祝賀的任官であり、直接には、それらの王の遣使と結びつくものではない。遣使には時間がかかり、6月14日、建国、7月16日、遣使では日にちが切迫し過ぎている。したがって、「永初2年、倭王讃の遣使も実際は遣使していない」という見解があって(池内宏「日本上代史の一研究」96頁、中央公論美術出版、1970年8月15日)、これを前提に、倭王讃が遣使したのは宋の建国からわずか1年半という短期間になされたのは疑問があり、遣使はないとする者がいる(高橋善太郎「南朝諸国の倭国王に与えた称号について-古代日本の国際的地位(下)」63頁、愛知県女子短期大学紀要、1956年12月)。しかし、宋書文帝紀の宋文帝元嘉2年(425年)に、「太祖元嘉二年、讃、又遣司馬曹達、奉表、献万物」という記事があり、この「又」は永初元年(420年)のことを指すと考え、この見解はり得ない(坂元義種の前掲書82頁)。したがって、倭王讃は宋武帝永初2年(421年)に遣使している。 〈2〉「倭王」は授爵されなかったか。 「倭国在、高麗東南大海中、世修貢職。高祖永初二年、倭讃万里修貢、遠誠宜甄、可賜除授」(宋書列伝倭国伝)とされているが、肝心の授爵の内容が記されていない。こうした表記は珍しいことではない。 ① 同じ高祖永初2年(421年)に、「林邑王范邁、使いを遣わして貢献せしむ。即ち除授を加える」(「林邑王范邁、遣使貢献、即加除授」)(宋書列伝林邑国伝)。 ② 元嘉12年(435年)に、「高句麗王に除授を賜加す」(「(高句麗王)賜加除授」)(同高句麗伝)。 ③ 元嘉12年(435年)に、「訶羅単(からたん)・?皇(はんこう)・?達(はんたつ)三国、頻(しきり)に遐海(かかい)を越え、款化(かんか、真心をこめて)貢を修める。遠誠(遠路にもかかわらず誠心があり)宜しく甄(けん、区別する)すべく、並んで除授(授爵)可(かなう)べし」(「訶羅単・?皇・?達三国、頻越遐海。修貢款化。在遠誠宜甄、並可賜除授」)(宋書列伝訶羅単国伝)。 ④ 世祖大明元年(457年)に、「百済王が遣使し、除授を求めた」(「(百済王)」遣使、求除授」)(宋書列伝百済国伝)とある。<可賜除授>とあるから、除授(授爵)しないで、そのままにしておくはずがない。問題はその内容である。これについて「安東将軍、倭国王」だとする見解がある(高橋善太郎の前掲書64頁、坂元義種の前掲書101頁)。この根拠は、① 讃の跡を継いで倭王になった珍が「安東大将軍、倭国王」を要求したのは、すでに前王讃のときに「安東将軍・倭国王」を授爵されていたことを示している(高橋善太郎の前掲書66頁)。② 讃の後、倭国王が最初に授爵したのは、「安東将軍・倭国王」である(「珍」-元嘉15年〔438年〕、済-元嘉20年〔443年)、興-大明6年〔462年〕)、これは讃も同じく「安東将軍、倭国王」を授爵されていたことを示唆している(坂元義種の前掲書102頁、「坂元」②-345頁)、にある。 これに対し、① 宋文帝元嘉7年(430年)に、「倭国王(「讃」のこと)遣使献万物」(宋書文帝紀)とあり、倭国王と宋も認めている(末松保和「任那興亡史」97頁、吉川弘文館、1949年2月28日)、② 「倭国王「武」は最初の遣使の宋順帝昇明2年(478年)でも、「安東将軍・倭国王」ではなく、「使持節、都督・倭・新羅・任那・泰韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王」を授爵しているとする考えがある。私は、倭国王でも宋王から差がつけられており、讃は最初の遣使であり、武は代々の遣使を重ねた上での評価があったものと考える。つまり、武の時代になると度重なる朝貢により倭王の地位も高まって来たと考える。したがって、讃が倭国王の授爵でしかないのはやむを得なかったのである。もちろん、宋書列伝倭国伝の記載から倭王「讃」には授爵がなかったという見解もあるが(平野邦雄「ヤマト政権と朝鮮」256頁、岩波講座日本歴史1原始および古代1、1975年5月)、宋王が授爵すると言って、それをしないのは不自然であり採り得ない。なお、先に<「倭国王」の授爵はない>と言ったのは、倭国王なら讃も倭国内で自称し、普く(あまねく)認められているのであって、そういう称号を中国王朝より授爵されても意味がなく、<授爵されない>に等しいということを強調したものと考える。③ 「宋」文帝元嘉7年(430年)条 朝貢した「倭王」は誰か。 「春正月、是の月、倭国王、使いを遣わして方物を献ず」(「元嘉七年、春正月、是月、倭国王遣使献万物」)と宋書文帝紀にある。しかし、それが誰かは記されてない。これについては、讃と珍を誰に比定するかにも関係して、次の3説がある。 〈1〉讃でも珍でもない。つまり、倭国王を讃の次、珍の前とする。その根拠は、(1)古事記の履中天皇が壬申年(元嘉9年正月3日)に薨去されたとすれば、元嘉7年はまだ履中天皇の存命中である(菅政友「漢籍倭人考」339頁、菅政友全集国書刊行会、1907年11月。池内宏の前掲書102頁。高橋善太郎「日本古代史の一考察」163頁、愛知県立大学創立十周年記念論集、1975年12月)。(2)ここに国王の名を記してないのは、すでに讃ではないことを推測させる(笠井昌昭「上代史研究年表(稿)及び解説」88頁、日本書紀研究3、1968年11月)とする。この見解は、讃を仁徳天皇、珍を反正天皇に比定している。 〈2〉讃でも珍でもない。つまり、倭国王を讃の次、珍の前であり、讃は仁徳天皇、珍は反正天皇であるから履中天皇であるとする(田中卓「古代天皇の系譜と年代」178頁、田中卓著作集2-日本国家の成立と諸氏族、国書刊行会、1986年10月31日)。この考えは、倭の五王ではなく倭の六王であるとするのを特徴とする。理由は、元嘉7年がまだ履中天皇の存命中であるというにある。 〈3〉讃である。讃から珍への交代は文帝元嘉10年(433年)であるから、文帝元嘉7年(430年)の遣使は讃である(志水正司「倭の五王に関する基礎的考察」、論集日本歴史1。原島礼二「大和政権」28頁(有精堂、1973年1月20日、「坂元」②-450頁)。 〈4〉珍である。この論拠は、宋文帝元嘉7年(430年)条(宋書文帝紀)と文帝元嘉10年(433年)条(宋書列伝倭国伝)は、同じもので、「日本の代がわりが動機となって使いを出し貢物をしている場合である」とする。このことは、文帝元嘉15年(438年)条(宋書文帝紀)に、「倭国王珍為安東将軍。又求倭隋等十三人平西・征虜・冠軍・輔國将軍号。詔並聴」とあり、「又」(2度目)があることもそれを物語っている、にある(藤間生大「倭の五王」27頁、86頁、岩波書店、岩波新書(青版)685、1968年7月20日)。 |
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「倭の五王(30) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 9月26日」 この遣使の目的は一体何であったのであろうか。日本書紀「神功皇后」49年条(429年と考える)に、「千熊長彦」が百済王と誓約し、倭・百済連合軍が新羅・高句麗(新羅に駐屯していた)を打ち破ったとあるは、倭が南朝鮮を保全し、その中心的存在であった大伽耶に対して影響力を保持するようになったことを示している。三国史記百済本紀 第19代「昆有王」2年(428年)の「倭国」が従者50人を率いて使者が来たとの記事は倭が百済と高句麗を討つための軍議であったというもので、これに合致するという。そして、この430年の宋への遣使は、その勝利報告に目的があったとする(吉田晶「倭王権の時代」、新日本出版社新日本新書490、1998年9月30日、44頁)。私は、「神功皇后」49年条を369年と考えるので(「神功皇后」の項参照)、この考えは採らない。ただ、高句麗が430年当時「新羅」を支配下に置き、倭にとって、南朝鮮経営の障害になっていたことは事実であり、高句麗の南下への牽制を宋に求めたのが、遣使の理由であると考える。 ★ 当時、高句麗が新羅に駐屯していた事実は広開土王碑の最終末部分を参照されたい。 ● 「神功皇后」49年条を429年と考えるものは、山尾幸久「古代の日朝関係」126頁(塙書房〔塙選書93〕、1989年4月10日)、田中俊明「大伽耶連盟の興亡と任那」92頁(吉川弘文館、1992年8月20日)がいる。 Re:倭の五王(30) >私は、「神功皇后」49年条を369年と考えるので(「神功皇后」の項 参照)、この考えは採らない。 私も369年と推理しています。その方がずっと合理的に解釈できますので。それにしても、ここに出てきた千熊長彦って有能な外交官ですね。むろん軍事面でも卓越していたでしょう。古代の英雄ですね。それにしては知名度が低いですね。今の政治家に学んで欲しい人物だと思います。 「倭の五王(31) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 9月29日」 考えるに、まず、〈1〉の考えは、(1)文帝元嘉15年(438年)条に「讃死。弟珍立」とある。このことから、王位は讃から珍に承継されていったとしか考えられず、この間に「別王」の入る余地はない(笠井倭人「研究史 倭の五王」69頁、吉川弘文館、1973年1月20日)、(2)宋文帝元嘉7年(430年)に、倭王の名が記されてないのは、前の王と同一人物であることを示している(「改訂増補 東洋史上から見たる日本上古史研究」602頁、東洋文庫、1956年3月)から採り得ない。〈3〉の見解に対する反論もこれと同じである。〈3〉の考えは、(1)この年の朝貢を珍とすると、宋文帝元嘉15年(438年)の「珍」の2度目の朝貢のときに倭国王を授爵されたことになる。倭国王は最初の朝貢のときに授爵されることが通例だから、これに反する。つまり、先王の死後、2回目の遣使を待って新王が冊封されるのでは、その間、中国王朝の冊封体制が中断されることになる(志水正司、前掲書 同頁)、(2)「又」を「2度目」と解すると、その東将軍」は「又」がないので、別の年の朝貢となる。しかし、この2つは同一年に記されており、別の年の記事とは考え難い(坂元義種の前掲書131頁)、「又」とは珍の「他に」ということであって、特に意味をなさない、これも賛成できない。結局、宋文帝元嘉7年(430年)に朝貢した倭王は讃ということになる。 「倭の五王(32) 投稿者:解法者 投稿日:2011年10月 6日」 ④ 文帝元嘉15年(438年)条 〈1〉「讃」の死は438年か。 宋書列伝倭国伝に、「讃死。弟珍立。遣使貢献。自称使持節、都督・倭・百済・新羅・任那・泰韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王。表求除正。詔除安東将軍、倭国王。珍又求除正倭隋等十三人平西・征虜・冠軍・輔國将軍号。詔並聴」とある。ここには年号が記されてないが、宋書文帝紀には、「元嘉十五年、夏四月己巳、以倭国王珍為安東将軍」とあることから、これら記事は文帝元嘉15年(438年)のものと考えて間違いない。これに関連して、この2つの記事をまとめて考え、倭王讃の死を文帝元嘉15年(438年)とする者がいる(末松保昭の前掲書94頁。志水正司の前掲書28頁)。しかし、この2つの記事は別々であり、元嘉15年を倭王讃の死に結びつけるのは早計であろう。讃の死は朝貢した元嘉7年(430年)と珍の朝貢した元嘉15年(438年)の間と考えられる。どちらかといえば、438年に近い年であろう。 〈2〉珍の自称した「使持節、都督・倭・百済・新羅・任那・泰韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍」は何を意味するか。 (1)使持節 これについて宋書(巻39 百官志上)に、「晋代のこととして、使持節、上と為す。持節、之に次ぐ。仮節、下と為す。使持節は2千石以下を殺すことを得。持節は官位無き者を殺し、若し軍事ならば使持節と同じことを得。仮節はただ軍事のみ軍令を犯す者を殺すことを得。」とある。これを見てもわかるように、位は使持節、持節、仮 節の順となっている。特に使持節の権限は大きく、2千石(「太守」=郡の長官)を殺すことができる。持節にしても戦時には同じことができるというから、これも大きな権限を有している。前に述べたが、使持節は今でいう総督(政事・軍事の統率官)といったところであろう。 (2)都督 これは、軍事に関する官名で、同じく宋書(巻39 百官志上)に、「晋代のこととして、都督諸軍、上と為す。監諸軍、これに次ぐ。督諸軍、下と為す」とある。都督が軍事権に関する官名であることは、南斉書(巻30曹虎伝)に、「建武二年(495年)、督を進め監と為し、平北将軍と為す」、宋書(巻51 長沙景王道憐伝)に、「元嘉十年、鎮東将軍に進号し監を進めて都督と為す」とあることから明らかである。都督の権限の及ぶ範囲であるが、「倭・百済・新羅・任那・泰韓・慕韓六国諸軍事」というのは、それぞれその地の都督ということになる。使持節と都督の違いは、政事(軍事も含む)に関するものが使持節で、軍事に限定されるものが都督である。したがって、「使持節・都督」とこの2つの間には「、」、「・」などの句読点を入れなければならず、「使持節都督」と一区切り(藤間生大の前掲書25頁)としてはならない。この点では坂元義種の見解(前掲書149頁)は正しい。 (3)六国諸軍事 こう考えれば、自ずから「六国諸軍事」も「使持節」および「都督である倭・百済・新羅・任那・泰韓・慕韓など六国の諸軍事」ということが理解されると思う。「使持節」と「都督」を含む「倭・百済・新羅・任那・泰韓・慕韓など六国の諸軍事」ではない。もちろん、安東将軍と倭国王もそれぞれ独立した言葉であるから、「安東将軍・倭国王」ではなく、「安東将軍、倭国王」としなければならない(坂元義種の前掲書同頁)。 |
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「倭の五王(17)/投稿者:解法者/2011年 8月 1日」 「倭王」の除正の要求には特徴がある。「宋」文帝元嘉2年(425年)の宋書列伝にある高句麗、百済のそれと比べてみる。
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「倭の五王(2) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 6月15日」 朝鮮でこの時代に冊封を受けていたのは、高句麗・百済・新羅であった。朝鮮三国が中国から「冊封」を受けたのはそれぞれ理由がある。その内容を簡単に見てみたい(「江畑 武」前掲書同頁)。詳しくは後述する。 倭と朝鮮三国の冊封の年代は次の通り。 1.倭 438年~502年 2.高句麗 355年~581年 3.百済 372年~581年 4.新羅 564年~594年 1.高句麗 ① 釗「故國原王」(第16代、在位331年~371年)。355年、晋書/営州諸軍事・征東大将軍(2品)・営州刺史(4品)・楽浪公(1品) ② 璉「長壽王」(第20代、在位412年~491年)。413年、晋書/使持節都督(2品)・営州諸軍・征東将軍(3品)・楽浪公(1品)。420年、宋書/征東大将軍(2品)に進む。435年、魏書/都督遼海諸軍事(従1品)・征東将軍(3品)・領護東夷中郎将・遼東郡開国公(1品)。436年、宋書/車騎大将軍(1品)・開府儀同三司(1品)。宋末/使持節散騎常侍都督(2品)・営州諸軍事・車騎大将軍(1品)・開府儀同三司(1品)。480年、南斉書/驃騎大将軍(1品)。 ③ 雲「文咨王」(第21代、在位491年~518年)。494年、南斉書/使持節(2品)・散騎常侍・都督・営平二州諸軍事・征東大将軍(2品)・楽浪公(1品)。502年、梁書/車騎将軍(2品)を車騎大将軍(24班)。508年、梁書/撫東大将軍(23班)・開府儀同三司(17班)。 ④ 安「安臧王」(第22代、在位518年~531年)。520年、梁書/寧東将軍(22班)。 ⑤ 延「安原王」(第23代、在位531年~545年)。526年、梁書/襲爵(寧東将軍)。 ⑥ 成「陽原王」(第24代、在位545年~559年)。548年、梁書/寧東将軍(22班)。550年、北斉書/使持節(2品)・侍中・驃騎大将軍(従1品)・領護東夷校尉。 ⑦ 湯「平原王」(第25代、在位559年~590年)。560年、北斉書/使持節・領東夷校尉・遼東郡公(正2品)。557年、北周書/上開府儀同大将軍(9命)・郡開国公遼東王(正9命)。581年、隋書/大将軍遼東郡公。 高句麗は、3世紀の後半から遼西から遼寧に進出してきた前燕(鮮卑族)の慕容皇(正しくは皇+光)と遼東地方の領有を巡って争い、341年には慕容皇が丸都(王都)を侵略し、故國原王の父「美川王」の墓を暴いて屍を奪ったほか、王母・王妃などを連れ去るという事件が起きている。故國原王は翌年、前燕の臣下となり、朝貢をし、王妃は取り戻したものの王母は人質として捕らわれたままであった。そこで、王母を取り戻すために冊封を受けたのが前述の355年のことであった(三国史記高句麗本紀/第16代故國原王条)。当時の中国は北朝と南朝に分かれて争っていたが、高句麗は北朝の国家との確執が国運を左右する要素となっていた。そのため、あるときは南朝の国家(東晋、宋、南斉、梁)と冊封関係に入って北朝の国家(前燕、北魏)を牽制し、あるときは北朝の国家(前燕、北魏)と冊封関係に入って、その脅威を取り除いたりした。倭と高句麗との間には、広開土王碑にもあるように、「倭の五王」の時代は、朝鮮半島の経営を巡って厳しい対立関係にあった。 |
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2.百済 ① 余句「近肖古王」(第12代、在位346年~375年)。372年、晋書/鎮東将軍(3品)・領楽浪太守。 ② 余暉「近仇首王」(第13代、在位375年~384年)。386年、晋書/使持節都督(2品)・鎮東将軍(3品)。 ③ 余映「腆支王」(第17代、在位405年~420年)。416年、宋書/使持節都督(2品)・百済諸軍事・鎮東将軍(3品)。420年、宋書/鎮東大将軍(2品)。 ④ 余毘「毘有王」(第19代、在位427年~455年)。430年、宋書比映爵号授之。 ⑤ 余慶「蓋鹵王」(第20代、在位467年~475年)。457年、宋書鎮東大将軍(2品)。 ⑥ 牟都「東城王」(第23代〔在位479年~501年)。480年、南斉書鎮東大将軍(2品)。 ⑦ 牟大「東城王」(第23代、在位479年~501年)。502年、梁書鎮東大将軍(22班)を征東大将軍(23班)。 ⑧ 牟隆「武寧王」(第24代、在位501年~523年)。521年、梁書鎮東大将軍(22班)を寧東大将軍(22班)。 ⑨ 牟明「聖王」(第25代、在位523年~554年)。524年、梁書使持節都督(2品)・百済諸軍事・綵東将軍(20班)。462年、梁書撫東大将軍(23班)。 ⑩ 牟昌「威徳王」(第26代、在位554年~598年)。570年、北斉書帯方郡公(従1品)・使持・侍中・驃騎大将軍(正2品)。581年、隋書上開府儀同三司帯方郡公。 百済は南下作戦を採る高句麗と長い間戦争を続けており、第12代近肖古王の時代には、369年、371年と戦闘を交えており、371年の2度目の合戦では高句麗の平壌城を攻め、その戦闘の際に高句麗の故國原王は流れ矢に当たって戦死している(三国史記百済本紀、第12代「近肖古王」条)。百済は高句麗との戦争に備えて、中国の王朝の冊封を受けて、その後ろ盾により高句麗を牽制する目的があった。南朝の国家(東晋、宋、南斉、梁)と冊封関係を結ぶことで高句麗への牽制になった。これが百済を南朝の国家に向わせた理由であると考えられる。 倭の属国と言っても良い関係にあった。このことは人質に現れている。日本書紀や三国史記に記されているものでも、次のとおり非常に多い。
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3.新羅 ① 第24代「真興王」(在位540年~576年)。564年、北斉書使持節・東夷校尉・楽浪郡公。 ② 第13代「真平王」(在位579年~632年)。594年、隋書上開府楽浪郡公。 新羅は、高句麗、百済が中国の王朝と冊封関係に入っても、そのような関係は結ばなかった。新羅は381年には前秦に朝貢している(三国史記新羅本紀、第17代奈勿尼師今条)。新羅が中国の王朝と冊封関係に入らなかったのは高句麗の支配下にあったのが大きな理由だったと考えられる。新羅は392年に王族の「實聖」を高句麗に人質に出していた(三国史記同条)。及び広開土王碑で明らかのように高句麗の属民だった。412年には再び先王の子「ト好」を高句麗に人質として差し出している(三国史記新羅本紀、第18代實聖尼師今条)などからうかがえる。その間、402年には「倭国」にこれまた先王の子「未斯欣」を人質に出している(三国史記同条、日本書記の第14代仲哀天皇8年条)。特に、高句麗との属国関係は雄略天皇8年(464年)まで続いていたものと考えられる。それは雄略天皇8年条に、新羅が倭国に8年間、貢物を奉らないことが続き、雄略天皇が怒ったところ、新羅王が高句麗に助けを求め、高句麗が精兵100人を送って新羅を守らせた。その後、今度は新羅と高句麗との間に争いが起き、新羅は一転して任那及び任那日本府の援けを求め、それにより高句麗を排除できたという記事があるからである。この時代の新羅の国力はなきに等しく、中国の王朝に冊封を求める状況にはなかった。それから半世紀くらいは国力の回復に注ぎ、中国の王朝と冊封関係を結ぶことが不可能であったと考える。 新羅もまた倭に人質を差していた。
このように、新羅も数は少ないものの、重要な人物を倭に人質として差し出していた。江畑武は概してその身分も高くないというが(江畑武「四~五世紀の朝鮮三国と日本-中国との冊封をめぐって-」、上田正昭・井上秀雄「古代の日本と朝鮮」101頁、学生社、1974年4月20日)、王子も後の大王もおり、そんなことはない。ただ百済と異なり倭とは冊封関係にはなかった。また、時代が下るが、三国史記新羅本紀 第40代「哀荘王」3年(802年)12条に、王が「均貞」に大阿食にし、日本に人質として送ろうとしたが、「均貞」が断ったという記事がある。この時代は桓武天皇の御世で平安時代の初期である。663年に、白村江の戦いで倭軍が唐・新羅の連合軍に破れてから長い間の断交時代にあり、人質とはおかしな話だが、当時、渤海(高句麗の遺民と「靺鞨」の連合国家)という国が満州から新羅の北、朝鮮半島の日本側にまで、巨大な勢力を及ぼしていた。渤海と新羅は抗争状態にあり、渤海が日本と友好関係にあったので、日本と誼を通じることにより渤海を牽制してもらう意図があったものと考える。なお、人質の意義は、「日朝古代交流史における朝鮮人の六大妄想(57)新羅・百済の倭国への人質論(1)」で詳しく説明してある。朝鮮人研究者は人質を矮小化するが、これが採り得ないことは明らかである。 |
邪馬台国滅亡後、日本の動静は途絶えている。その中にあって、中国史書によって、5世紀の413年-478年の間に、倭の五王が、五胡十六国時代の南朝の東晋や宋に少なくとも9回朝貢し、「倭国王」などに冊封されているていることが裏付けられている。これを年表にすると次のようになる。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
倭の五王、外交年表 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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【倭の五王時代考】 |
(以下、「古代史研究会」の北村浩・氏の2022.10.31日付け「倭の五王(古代日本と大陸とのお付き合いの歴史)」を参照しつつ、れんだいこ式に取り込ませてもらった) 中国南北朝/五胡十六国時代の宋帝国(劉宋)の正史「宋書」(西暦420年頃編纂)に「倭国の五代の王」(鑽・珍・済・興・武)の記述がある。「宋書」から遡ること約160年ほど、3世紀中頃に書かれた魏志韓伝には、朝鮮半島の南半分について「韓は帯方の南に在り。東西は海を以って限りとなし、南は倭と接す。方は四千里ばかり。三種ありて、一は馬韓と曰ひ、二は辰韓と曰ひ、三は弁韓と曰ふ。辰韓は古の辰国なり」との記述がある。馬韓とは後の百済、辰韓は新羅、弁韓が両国に挟まれた半島南部で、南が倭国と接していたという。ということは、朝鮮半島最南部は倭国だったことになる。 魏志が書かれた時代は、倭国では卑弥呼が邪馬台国の女王として君臨していた時代である。魏志より前の後漢書では、「倭の西北の境界に当たる狗邪(くや)韓国」とある。当時の女王の國の西北国境は玄界灘ではなく、朝鮮半島という ”陸地” にあったということになる。因みに狗邪韓国、伽耶(かや)、加羅(から)は全て同じ地域を指す朝鮮半島南部の倭人の國の総称である。倭人が朝鮮半島を侵略しての建国ではなく、縄文時代から倭人のコミュニティーがあり、そこがやがて加羅と呼ばれるようになったと考えるのが自然な解釈であろう。 更に、魏志韓伝に登場する辰韓(新羅)の四代王 “ 脱解(だっかい)” は日本列島出身の人物である。 三国志記(新羅本記)によれば、奴国の北東1千里(500~1000Km)にある多婆那国(たばなこく)生まれとの記述がある。多婆那国とは丹波または田島の可能性が高く、現在の兵庫県か京都府の北部と思われる。
当時、大陸の人たちから見た倭人/倭国は国交窓口のあった邪馬台国であり、その勢力圏外の土地は、よく分からない倭人の国々、そこに住む倭人たちの総称として「倭種」と呼んでいた。
卑弥呼の没年は西暦248年頃である。邪馬台国は、卑弥呼の生前から南の狗奴国(熊襲)と対立関係にあった。卑弥呼は死後に古墳に埋葬されるが、魏志倭人伝では「大いなる塚を造ること径百余歩なり」と記述している。箸墓遺跡は全長278mの見事な前方後円墳である。箸墓古墳は炭素年代測定法により、西暦280~300年頃と判明している。卑弥呼の死後、約半世紀を経た時代の古墳ということになる。記紀には箸墓古墳の被葬者が孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト)だと書かれている。崇神天皇の御代になる。これらの事から逆に、崇神天皇の御代が卑弥呼の死後三世紀の終わりであることが分かる。 崇神天皇の晩年に、加羅の倭人の皇子が来日し、現在の福井県の敦賀の地を訪れている。敦賀の地名も都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)に由来しているようである。ツヌガアラシトが都に着いた頃には崇神天皇は既に崩御されて垂仁天皇が即位しており、ツヌガアラシトは垂仁天皇と面会している。遠路はるばる長旅の目的は、恐らく(というより、ほぼ確実に)大和朝廷が加羅の後ろ盾になって欲しいと請願しに来たものと思われる。卑弥呼の時代には加羅の後ろ盾と言えば邪馬台国だったが、日本古代史上最大の政変を経て大和朝廷の御代に転じており、ツヌガアラシトは倭国の新支配者となった大和王朝に庇護を求めていることになる。ということは、邪馬台国が加羅の後ろ盾になれないほど衰退してしまったということであろう。当時の朝鮮半島の倭人国は新たな宗主国を必要としていた。大和朝廷が本格的に中国や朝鮮半島といった外国と関わり始めるのは神功皇后の新羅遠征以降になるが、垂仁天皇の御代に、とりあえず外交的な窓口が創られていたようである。 垂仁天皇の次、景行天皇の御代に、「熊襲が背いて貢ぎ物を奉らなかった」として、天皇は筑紫(九州)に遠征している。景行天皇は周防(山口県)から豊後(大分県)に入り、日向(宮崎県)に向かっている。熊襲征伐と言えば日本武尊を思い浮かべるが、その前に景行天皇が遠征している。その際に、景行天皇は、日向の地に「日向高屋宮」(ひむかたかやみや、現・高屋神社)を建立している。御祭神はヒコホホデミノミコト、トヨタマヒメ、そして景行天皇である。近くには日向の人々の繁栄の証でもある西都原古墳群がある。前方後円墳
x 31基、円墳 x 279基、方墳 x 1基など多くの古墳が集まっている全国的にも非常に稀な古墳群である。
卑弥呼の死後、内乱を経て邪馬台国が衰退し大和朝廷の御代に転じた。当然、朝鮮半島南部の加羅も大和王朝配下に入り、任那という直轄の出先機関も創られることになる。
因みに任那(みまな)の名付け親は垂仁天皇のようで、ツヌガアラシト皇子来日の際に、帰国を願い出た皇子に「お前が道に迷わずに早くやって来ていたら、前皇にも会えたことだろう。ここでお前の本国の名を改めて、御間城(みまき、崇神)天皇の御名(みな)を採ってお前の国の名にせよ」と申し付け、“みまき”
と ”みな” を合わせて ”任那(みまな)” と呼ぶようになった、という逸話が遺っている。加羅は国というよりは国家群の総称だったので、任那も国号ではなく大和朝廷の出先機関つまり役所の呼称の扱いである。加羅の皇子の来日、任那の設立、神功皇后の新羅遠征、その後の(主に高句麗を相手取った)戦争…。大和王朝は次第に深く朝鮮半島に関わって行く。
中国や朝鮮半島の人々は、日本列島の國の支配権が邪馬台国から大和王朝に代った後も、中国や朝鮮の史書は「倭国」、「倭人」と呼び続けていた。しかしながら、日本の国體レベルで言えば、邪馬台国と大和王朝は権力の質が全く違うものであり、当然、文化も違った。文化の違いについて言及すれば、先ずは入れ墨の問題がある。中国の史書によると、邪馬台国の男たちは全員が入れ墨をしている。たとえば後漢書の倭伝には「男子は皆な鯨面分身す。その分の左右大小を以て、尊卑の差を分かつ」とあり、更に魏志倭人伝には「男子は大小にかかわらず皆な顔面や体に入れ墨をしている」とある。
ところが、大和王朝の人々には入れ墨の習慣がない。これは、入れ墨の絵画(鯨面絵画)や土偶の分布からも明らかである。興味深いことに奈良周辺は勿論、大和王朝の出身地である日向からも古墳時代前期までの鯨面絵画や土偶は全く出土していない。日本書紀や古事記中に入れ墨の記録は1箇所だけある。神武天皇の后になるヒメタタライスズヒメをオオクメノミコトが迎えに行った際に、武人だったオオクメノミコトが目尻に入れ墨をしているのを見てイスズヒメが「なぜそんなに目が大きいのか?」と訊ねるシーンがある。目尻の入れ墨をイスズヒメが珍しがるということは、イスズヒメの生活環境では顔面に入れ墨をする習性がなかったということになろう。
もう一つ、邪馬台国は、魏に朝貢する際に貢ぎ物として生口(せいこう)つまり奴隷を送っていた。魏志倭人伝の記述によれば、「正始四年、倭王はまた使者として大夫の伊聲者掖耶約(いせきやくら)等、八人を遣わし、生口(奴隷)
、倭錦、絳青縑(赤と青の目が粗い織物)、綿衣、帛布、丹木、等を献上した」とあり、「そのついでに思い立って、洛陽の官庁に行き、男女の奴隷30人を献上した」との記載もある。「鑽」以降の倭の五王も宝物を貢物として送り、朝鮮半島に於ける権益を認めることを求めているが奴隷は送っていない。宋書では、方物(ほうぶつ)つまりは地方の産物を捧げたとなっている。大和朝廷の歴史を綴った記紀にも奴隷制度的な記述はない。奴隷制度の存在を疑わせるような出土品等もない。大和朝廷には邪馬台国と違って生口を使う文化習慣がなかったと考えられる。
ここで言う朝鮮半島の権益とは、任那(加羅)は勿論、百済や新羅に於ける支配権も認めてくれ、ということです。いわゆる冊封(さくほう)であるが、五王最初の鑽は安東(あんとん)将軍として倭国王の位しか認めてもらえなかった。安東将軍とは東を安んじる将軍ということで王ではない。その後も、倭の五王は代々、百済や新羅の支配権を求め続けるが、鑽に続く珍、済、興と、安東将軍(倭国王)のままで、武に至り遂に新羅や任那(加羅)の支配権を認めさせることに成功している。宋書には「詔(みことのり)を以て武を使持節(しじせつ)、都督倭(ととくわ)・新羅・任那・加羅・秦韓(しんかん)・慕韓六国諸軍事(ぼかんろっこくしょぐんじ)、安東大将軍、倭王に叙爵(じょしゃく)した」といった記述がある。しかしこの時、百済が除外されている。つまり武の御代になっても尚、百済の支配権だけは認めてもらうことができなかったことになる。中国の皇帝から冊封下で官爵を授かったという権威は、国内統治の後ろ盾にされたことは間違いない。 宋書によると、武が詔を受けたのは西暦478年である。もっとも南朝の宋は翌479年に滅ぼされている。武は、宋を滅ぼした斉(せい)、斉を滅ぼした梁(りょう)からも官爵を受けているが、この時期、倭国は中華への朝貢を止めている。武の御代、中国の南朝は宋→斉→梁と二度も国が変わっている。宋の最後の皇帝である順帝も、斉の最後の皇帝である和帝も、共に禅譲(ぜんじょう)後、つまりは皇帝の位を簒奪者に譲った後に殺害されている。大陸の易姓革命の典型である。 ところで武の本名はオオハツセワカタケノスメラミコトであるが、5世紀の遺跡から天皇の名が刻まれた鉄剣が出土している。その名の中にもキチンと武の文字が刻まれている。 雄略天皇の頃から、記紀の天皇の年代が、ようやく確定できるようになっているが、先の箸墓古墳の件(くだり)のように、現存する物証や記紀の記述、また外国の史書との符号による、凡その年代特定は可能である。 |
(私論.私見)