第4部 任那府について

 「半月城通信No. 67[ 半月城通信・総目次 ]」を転載しておく。(れんだいこ責で編集替え、一部削除する)

  FNETD MES( 8):情報集積 / 歴史の中の政治 00/01/02 - 09306/09306 PFG00017 半月城   皇国史観と「任那日本府」 ( 8) 00/01/02 21:50 09231へのコメント   

 大化2年7月( 646)、倭国政府は国博士の高向玄理を新羅に派遣し、「質」を差し出す条件で(かねて懸案だった)「任那の調」を廃止するのに合意した。このとき新羅が送って来たのは王族の金春秋(後の武烈王)だったが、彼の大人の風格は倭の朝廷の人々に好感を持たれた。 倭国政府とはおそらく大和朝廷を指すのでしょうが、かって四世紀後半以 降、大和朝廷が朝鮮南部の加耶(加羅)地方に「任那(みまな)日本府」なる機関を設置したとか、そこを拠点に任那から税(調)を徴収するなど倭国内の ミヤケと同様な直轄支配をしたとかいう、かっての皇国史観は今でも中高年層を中心に信者が多いようです。

 こうした見方は、戦前の日本による朝鮮の植民地支配を当然視するため、 「日鮮同祖論」をかかげ古代でも天皇が「任那日本府」を拠点に朝鮮半島を支 配したという皇国史観の系譜につながるものです。しかし、いまではこうした皇国史観は学会でほぼ否定されました。それを 反映して最近の高校教科書から「任那日本府」の記述はほとんど消えたようで す。ここではそうした最近の流れを紹介したいと思います。日本における「任那日本府」関係の最近の説を、鈴木氏の論文から引用し、 それに適宜私のコメントをつけ加えたいと思います。

  1.井上秀雄説   

 井上秀雄「任那日本府と倭」は、中国、朝鮮史書の倭記事の検討から、そ れらの史書にいう倭は加耶の別称であるとの結論を導き出し、「任那日本府」 とは加耶在地の豪族によって構成された合議体であり、倭王権のみならず日本列島の勢力とは全く無関係であるとした。  

 (コメント)朝鮮南部にも倭があったなどというと荒唐無稽に思われるかたも多いのではないかと思います。しかし『魏志韓伝』によれば「韓は帯方の南、 東西は海を以て限となし、南は倭と接す」と書かれてあり、朝鮮南部にも倭があったように認識されています。同様に、かの『魏志倭人伝』でも倭の北岸は狗邪韓国、現在の金海市とさ れており、弥生時代に朝鮮半島にも倭があったのは間違いがないと思われます。こうした史書の記事は皇国史観にとって都合が悪いのか、いままでほとん ど無視されてきたので、井上説を意外に思われるかたも多いのではないかと思 います。

 2.請田正幸説

 「日本府」の実態究明に重点をおいた研究としては請田正幸「六世紀前半の 日朝関係−任那『日本府』を中心として−」が、「日本府」とは政治的機関・ 機構ではなく、使者の意味であり、実体は倭王権が派遣した官人であるとした。

  3.奥田尚説 

 奥田尚「任那日本府と新羅倭典」は『三国史記』記載の新羅倭典が対倭外 交機関であることから敷衍して「任那日本府」とは加耶諸国が対倭外交のため に設置した外交機関であるとの見解を提起した。

  4.吉田晶説

 吉田晶「古代国家の形成」は倭国の国家形成と加耶諸国の関連を論じ、倭 国の国家形成にとって海外の異種族を領土的に支配する必然性はなく、国家形成の主体勢力としての畿内勢力が朝鮮諸国の先進文物を独占することに主眼があったとし、「日本府」は倭王権がら派遣される府卿と加羅諸国の旱岐層ある いは上級貴族から構成され、加羅諸国がその連合を実現する場としてもってい た外交などの重要事項を論議する会議が実体である、とした。

 5.鬼頭清明説   

 鬼頭清明『日本古代国家の形成と東アジア』は、「任那日本府」は倭が派遣した官人が構成するとしながらも、その支配とは貢物を得る間接支配=「貢 納受領体制」と理解し、倭とはヤマト王権ではなく、それに先行する倭国内の 別個の政治勢力であるとした。  

 (コメント)その後、鬼頭氏は次のように書いており、うえの文とはニュア ンスがかなり異なります。       

 実際に日本府があったと書いてあるのは安羅(加耶の一国)ですが、安羅 の地元の豪族が倭府という呼称のもとに存在していて、それがある程度加耶諸 国の政治的な決定、あるいは百済からの諮問に対するきちんとした回答を出す際に、重要なメンバーとして参加していたことは、認めていいのではないかと 思います。かってのように、「任那日本府」があって、大和の大王家の命令のままに動くというような支配機構があったという考えは、すでに克服されているので、そういう説を言う方はあまりいないと思います。日本書紀は、「任那の調」の起源を語るために、こういう編纂をしたわ けですが、その中を読んでいくことによって、「任那日本府」は、任那から調を取り立てるための機関といえるようなものでもなく、任那を中心とする洛東江の沿岸を直接支配しているかのように理解することが事実でないということ は、確認していいのではないかと思っています。        
 6.山尾幸久説   

 山尾幸久『日本国家の形成』、『日本古代王権形成史論』は、四、五世紀 に倭王権が朝鮮半島南部を支配したことはないとし、「任那日本府」とは倭王 権が加耶地方に派遣した官人であるとした。また、官人派遣の史的起源については、百済人木満致が五世紀前半に加耶 を支配した事実があり、彼の倭国移住によって倭王が加耶支配権を継承したこ とに起因すると論じた。

 (コメント)木満致は『日本書紀』や朝鮮の『三国史記』にも登場する百済 の高級官僚ですが、門脇禎二氏によれば、かれは日本に渡来し、大和の曽我に 住んだので蘇我満致と呼ばれるようになったとのことです。蘇我満致の子孫は韓子、高麗、稲目、馬子、堅塩媛、用明天皇、聖徳太子 と続きますが、子や孫に渡来系の名があるのはその傍証になるとのことです。

 7.大山誠一説)   

 大山誠一「所謂『任那日本府』の成立について」は「任那日本府」は、加 耶諸国が独立を維持するために加耶諸国の王と日本府官人が一種の合議体を構 成したもので、その成立は六世紀前半の継体朝の時代であるとした。

 8.鈴木靖民説  

  鈴木靖民「東アジア諸民族の国家形成と大和王権」は倭王権から派遣され た「倭臣」と現地倭人系から構成された集団が「日本府」で軍事外交的機能を もつとする。それは、加耶諸国の旱岐層から構成された合議体とは相対的に区別される が、百済の外圧を受ける加耶諸国は「日本府」の調停能力に依存したとする。 この研究は、従来漠然と論じられていた倭の官人と加耶諸国の合議体との 関連をより深く論じた点に成果があるといえよう。

  9.金鉉球説   

 金鉉球『大和政権の対外関係研究』は、「任那日本府」は百済が加耶地域 統治のために設置した機関であるが、『日本書紀』があたかも倭王権の機関で あるかのごとく改竄したとみる。「日本府」を構成した倭人は百済に任命された官人、傭兵であり、ことごと く百済の統制下にあったとする。   従来、倭王権と加耶との関係からのみ論じられてきた研究に百済からの視 点を提起した点に意義が認められる。   

 これらの説を総合すると、大和朝廷の“ミヤケ”に類似した直轄支配はなかったということができます。つまり「任那日本府」は大和朝廷の行政機関ではなかったということになります。その構成も単なる使人とみるか、あるいは未熟にせよ「官制」的な人的集 団としてみるのか、これは依然として争点として残されています。さらに、その構成主体は倭王権の官人とみるのか、加耶在住の豪族とみるのか、あるいは両者の合議体とみるのか争点は残されているものの、日本の学会は加耶在地勢力の主体性・自立性を重視する方向にあります。一方、成立時期ですが、戦前に喧伝された4世紀説を採用する歴史学者は ほとんどなく、5世紀説すら少数であり、おおかたの共通認識は6世紀説のよ うです。

 そもそも「日本府」の日本という名称ですが、これが国名として対外的に 使われだしたのは670年ころで、それより160年も前の継体3年になぜ突 然「任那日本県」という名称がでてくるのか、まったくナゾです。これは、『旧唐書』の日本国伝に「日本国はもと小国だったが、倭国の地を併せたのだ」と書かれていることと、もしかすると関係があるのかもしれま せん。 もし、旧唐書にいう「倭の別種」である日本国が加耶で誕生し、海を越え て倭国を併せて大和政権をつくったとすると、江上氏の天皇騎馬民族説の一部 になりそうです。その征服過程で日本国は、出身地である加耶と一体感をもち、高句麗好太 王の碑文にあるように新羅などを攻めたりしたのかもしれません。 同時に精神的支えとして加耶の天孫降臨神話を借用したり、あるいは蘇我 氏などが中心になって、日本書紀のタネ本になった天皇記や国記でことさら 「任那日本府」を特筆大書したのかもしれません。 (半月城通信)


  ★タイトル (SPM07550) 00/ 1/30 23:16 (145) 古代史】皇国史観と「任那日本府」(2)   

 「任那日本府」の名称ですが、それが唯一記述されている日本書紀では、日 本府があったとされたのは安羅であり、そのうえ日本府執事が任那執事と区別 されていることから、任那日本府はむしろ安羅日本府と呼んだほうがいいのか もしれません。その安羅日本府も、時には安羅諸倭臣と書かれたりしており、そもそもそ れは単なる倭臣の集まりなのか、あるいは機関なのかすらあいまいで、専門家 を悩ませているようです。 日本書紀には、欽明15年(554年)12月条に当時の百済王・聖明王が大和朝廷に奉った上表文が乗っています。それによると、「百済王臣明(=聖明王)及在安羅諸倭臣等、任那諸国旱岐等奏(以下略)」 とあります。この文には「日本府」の文字は見えません。そのかわり「安羅諸 倭臣等」という集団が、百済王や任那諸国の王に並ぶ位置と見なされていたこ とが分かります。   

 日本書紀が記す百済と日本府あるいは諸倭臣との関係ですが、上に引用さ れた欽明15年条で両者は一見同列のようにみえます。 しかし、同書によると日本府の名称がはじめて登場する欽明2年(540)4月、 天皇の意を受けた百済は、安羅や加羅、多羅の諸旱岐らとともに任那日本府吉 備臣を呼んで任那復興会議を招集したことになっていますので、日本府はある 程度百済の影響下にあったようです。しかし、その影響力には限界があったとみえ、同年7月、日本府自身は百 済につくよりも新羅につくほうが有利と判断したのか、日本府の河内直は新羅に内通したと同書は記しました。

 「百済は安羅日本府が新羅とはかりごとを通じたことを聞いた。そこで重臣を安羅に使わして、新羅に行った任那の執事を招いて任那を再建する相談をした。・・・」   その後、日本書紀の記述によれば、欽明5年にも百済はしばしば日本府な どを呼び復興会議を招集しました。そこにおいて、がんもさんが書かれたよう に日本府は倭王権の外交権を体現しているわけでもないので、百済側からみる と日本府は百済が主宰する復興会議の一メンバーという位置づけにすぎないよ うです。こうした事情から、日本府は百済の機関であるという金鉉球氏の説が生ま れたようです。

 しかし、この説を鈴木英夫氏はこう批判しました。   

 『日本書紀』欽明二年、同五年のいわゆる「任那復興会議」をみると、百 済王が「諸倭臣」、加耶諸国の使者・代表を招集して、「南加羅」・「金官加 耶」の復興策について協議しているのであるが、「任那日本府」を倭王権の外 交機関や、加耶諸国を統制・支配する機関とみると不可解な点がいくつかある。 第一は、百済王が会議を主催していること、第二に「諸倭臣」が倭王権の 外交権を体現していないこと、第三には第二点と関連するが、「諸倭臣」「任 那」諸旱岐が百済王を通じて倭王の意志・命令を伝達されていることである。 倭王権の、「諸倭臣」や「任那」諸旱岐への影響が意外に小さく、むしろ 百済の統制力が無視できないのであり、そうした面を極端に重視するならば、 「日本府」は倭王権とは全く無関係の在地豪族の合議体とする井上秀雄氏の説 や「日本府」は百済が加耶支配を目的として設置した機関だとする金鉉球氏の 最近の研究のような結論が導かれることになる。しかし、両説ともに「任那復興会議」の一側面を固定的かつ過大に評価し ているといわざるをえない。結論的にのべるならば、「任那復興会議」は百済 が加耶連合を主宰する立場、すなわち「盟主」の地位を継承して招集したもの と考えられる。百済王は531年以降に加耶諸国内に軍官を派遣して軍事支配を実現する とともに、本来、加耶連合の合議の場であったものを百済の加耶支配の一機構 として存続・再編したのである。 前述のように加耶諸国は531年以降は単独では倭王権に遣使しておらず、 百済との共同として記されているのであるが、これは外交意志を形成する場が 百済に掌握されたためと考えられる。さらに、「在安羅諸倭臣」が倭王の命令を百済王を通じて指示されている ことも合理的に解釈される。すなわち、「在安羅諸倭臣」も加耶諸国と同様に 百済の支配秩序に編入されたのであり、もはや倭王権の外交を体現する機能は 失われている。従って、531年の百済の安羅制圧、加耶諸地域の軍事支配の成立は「任 那日本府」すなわち「在安羅諸倭臣」や加耶連合・加耶諸国の政治的立場を一 変させたのであり、「任那復興会議」を「任那日本府」の実態と見て、それを 基礎にして立論するのはかなり問題があると思われる。  

 日本書紀の論理にしたがうかぎり、うえの説はそれなりに説得力があるの ですが、そもそも日本書紀自体それなりのバイアスがかかっていることはいう までもありません。 日本書紀編纂の目的はよく知られているように、律令による天皇の支配を 正当化するために、律令国家を人格的に体現する天皇の神性的権威の根源を歴 史的に説くことにあります。具体的にいうと、対内的には律令国家に組織編成された諸氏族が歴史的に 天皇に奉仕してきたことを系譜的に主張することにあります。また対外的には、周辺国を蕃国・夷狄とさげすみ、それらに対する優位性 すなわち中華的観念の根拠を史的に説明することにあります。   こうした目的のために、今は失われた百済本記など百済三書を引用したの ですが、百済三書は百済滅亡後の亡命百済人が大和朝廷に奉仕する目的で書か れたようで、その信憑性にはおのずと限界があります。百済三書が生まれた時 代背景を鈴木氏はこう記しました。   

 百済や加耶を「官家(みやけ)」として服属国視する認識は六世紀代の史 実に基づくものではなく、八世紀代の律令国家支配層の新羅観・国際観から派 生したものとみてよいだろう。 そこには新羅を「蕃国」としてはずかしめながらも、新羅の態度によって はいつでも容易に崩壊する脆弱さをもつがゆえの不安感と新羅への警戒感が示 されているといえるだろう。ところで「百済本記」は「官家」を「弥移居」と表記するが、六世紀代に 実際に用いられていたわけではなく、「日本」、「天皇」、「三韓」など七世 紀以降に出現する用語と併出していることからみるならば、「百済本記」ある いは『日本書紀』編纂時の改変と考えるのが妥当である。 もちろん、このような改変は編者の恣意のままになされるわけではなく、 何らかの史的背景をもつはずである。おそらく、かかる新羅観・百済観・「任 那」観が醸成された直接の契機は七世紀後半の百済滅亡と百済への出兵・新羅 との交戦があると思われる。百済救援の役の時に百済王子豊璋を「百済王」に冊立し、倭王権の官人組 織に組み込んだのは事実であり、その時点をみれば、百済を付庸国視し「官 家」とみなすのが全く虚構というわけではない。こうした七世紀後半以降の百済観を六世紀の歴史にまで遡及して投影・反 映させるうえで史料的根拠となったのが、いわゆる「百済三書」である。「百 済三書」が最終的に編纂されたのは百済滅亡後の亡命百済人が『日本書紀』編 纂のために倭王権に史書を提出する必要が生じたことによるのであろう。  「百済三書」において倭王への従属と奉仕が語られるのは他の氏族の場合と 同様であり、何ら不自然なことはないであろう。 こうした性格をもつ「百済三書」の記述を核にして、さらに潤色を加えて、 百済・「任那」を「官家」視する史観が形成されたのである。

 鈴木氏はこのように百済三書の性格を分析したうえで、任那日本府につい て次のように結論をだしました。
  (1) 四ー五世紀に倭王権が朝鮮半島を支配したことは金石史料、中国史料から は証明できず、『日本書紀』の記載内容も信頼するわけにはいかない。ただ、 『広開土王碑』によれば、百済と結んで倭王権が何度か出兵した事実はある。

  (2) 五世紀代に高句麗の勢力は朝鮮半島南端地域に及び、倭王は反高句麗勢力 を結集して対峙せしめんとの意志をもったのは確かであるが、朝鮮半島南部地 域を実際に支配したわけではない。

  (3) 倭王権の安羅進出が百済の進駐によって集結すると百済は加耶の「盟主」 の地位を掌握した。百済が「盟主」として主宰した会議がいわゆる「任那復興 会議」である。   この後、「在安羅諸倭臣」は百済王の統制に服し、倭王権の派遣軍は百済 の「傭兵」的性格に変質することになった。 (4) (3)の事実が『日本書紀』編纂時に八世紀代律令国家の新羅蕃国視によっ て誇張・拡大され、「任那日本府」の存在や倭王権の「官家」たる百済・「任 那」の従属を核とする内容の史的構想が成立した。

 この説は大筋において無難なように思えますが、ただ倭王権が安羅に進出 したのか、あるいは逆に安羅や金官加耶あたりから倭に進出したのか、判断は 保留にしたいと思います。(半月城通信)


- FNETD MES( 8):情報集積 / 歴史の中の政治 00/01/12 - 09433/09433 PFG00017 半月城 皇国史観と神功皇后伝説 ( 8) 00/01/12 22:12   

 前回は「任那日本府」をめぐる皇国史観をとりあげましたが、この出発点 は神功皇后の新羅「征討」または「三韓征伐」におかれるのが通例なようです。 そこで今回は、その伝説の実体を明らかにしたいと思います。   まず神功皇后(別名オキナガタラシヒメ)については、あらためて説明は 不要かとおもいますが、日本書紀では天皇なみに独立の章がもうけられるなど、 破格な扱いをうけている女性です。   皇后の出自は『古事記』によれば、父方の五代前の先祖が開化天皇、母方 の六代前が新羅の王子・天日矛(あめのひぼこ)とされています(注1)。ま、 両者ともその実在は疑わしいようですが、名目的な血統からすれば国際人とい えます。   次に皇后伝説ですが、古事記や日本書紀に書かれた業績は『大百科事典』 (日立デジタル平凡社)によれば、次のとおりです。  

 [神功皇后伝説の大要]   熊襲(くまそ)を撃つため筑紫に赴いた仲哀天皇は,海のかなたの宝の国を 授けようという神託を得る。この神言は武内宿禰(たけうちのすくね)が請い, 神がかりした神功皇后を通じて告げられた。その宝の国とは先進文明に輝く朝 鮮半島諸国のことであったが,これを信じなかった仲哀天皇は急死する。再度皇后に神が憑(つ)き,こんどは胎中の子にそれを授けようと託宣する。 憑いた神は住吉大神(すみのえのおおみかみ)であった。神言に従って神功皇后 はみごもったまま新羅を攻める。神助を得て船は一挙に新羅に至り,国王は恐 懼(きようく)して服従を誓った。   帰国後九州で生まれた〈御子〉とともに大和に帰還し,〈御子〉の異母兄 弟で謀叛を謀った忍熊王(おしくまのみこ)を滅ぼす。こののち皇子は武内宿禰 にともなわれて角鹿(つぬが)でみそぎをし名を変える。のちの応神天皇である。   成人して帰った子を,神功は〈御祖(みおや)〉として待ち迎え祝福する。 神功皇后は,以上の話の前半では巫女的存在,後半では〈御祖〉という二面の 造型を与えられている。  

 神功皇后は宝の国、新羅を攻めるとき身ごもっていたのですが、途中で出 産しないよう腰に石を縛りつけて出陣したそうでマンガになりそうな光景です。このように奇想天外なエピソード以外にも、皇后に恐れおののいて降伏し た新羅王を従者さながらに飼部(うまかいべ)にしたとか、神功伝説にはおと ぎ話もどきが多いのが特徴です。それでも古事記、日本書紀は日本最古の文献とあって、そんなおとぎ話か らすこしでも史実をなんとか読みとろうとする研究が津田左右吉をはじめとし てなされてきました。   

 戦前、津田は著書『日本古典の研究』で、皇后伝説は後世に付けたされた ものがすこぶる多く「歴史的事実を語っていない」と断言しました。   なかでも新羅征討については「事実の記録または伝説口碑から出たもので はなく、よほど後になって、恐らくは新羅征討の真の事情が忘れられたころに、 物語として構想せられたものらしい」と推測しました。そのうえで伝説の成立 時期を六世紀の継体朝や欽明朝としました。このような津田の著書は、当時、皇国史観に害があるとして問題になり、 戦前のファッシズムにより発禁処分になりました。戦後、ファッシズムの崩壊によりやっと神功皇后伝説の研究も自由にでき るようになりました。そのなかで、直木孝次郎氏は津田の研究を発展させ注目 すべき説を発表しました。   同氏は伝説の成立時期を、倭が新羅を決定的に憎悪するようになった七世 紀以降と考え、こう記しました)。        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   

 もとより伝説の全体が一挙に作成されたのではなく、仲哀天皇死去のこと は斉明天皇の急死の事実から、新羅王の降伏は推古朝における新羅征討の事実 から、応神天皇の誕生は草壁王子の誕生の事実から、あるいは神功皇后の女帝 的地位は、推古朝以降における女帝の頻出という一般的情勢から、というふう に徐々に形成され、新羅打倒について六世紀以来、朝廷内部にひきつづいて存 したはげしい願望が原動力となって、一つのはなばなしい新羅征討の物語にま とめあげられたのであろう。   単に願望だけではない。こうした物語の成立は、日本による新羅支配の正 当性を根拠づけるためにも、征討に際して出征の将士の士気を鼓舞するために も、実際上必要である。   対新羅関係の険悪となった推古朝および斉明・天智朝の現実の要求が、こ うした物語の形成を促進したものと思う。   持統朝でも、その三年五月に、来朝した新羅使に下した詔(みことのり) のなかで、新羅の服属の歴史をのべ忠勤をはげむべきことを命じている。物語 を発展させる空気は持統の朝廷でも濃厚であったのである。  『記・紀』に定着するまでには、そのほかたとえば、津守氏と住吉神社に関 係ある物語や香椎宮のことなど、いろいろの伝説・伝承が加えられたことであ ろう。   こうしてできあがった物語が、応神以前のこととされ、中心人物が応神の 母とされたのは、新羅に対して日本の優越する関係の成立がかなり古く、当時 存在が確実に知らされていた最古の天皇である応神天皇以前にさかのぼるとい う漠然たる知識が存していたからであろう。   なお個々の部分については多少の疑問は残るが、神功伝説の大綱は、この ように主として七世紀以降に成り、神功皇后は推古・斉明(皇極)・持統三女 帝をモデルとして構想されたものとみて、大過はないと考える。        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   

 直木説によれば、倭は新羅を憎むあまり、過去に新羅を攻めた記憶をこと さら脚色し、女帝をモデルにして、神功皇后伝説を作りあげたということにな ります。   一方、この伝説を違った角度からみて、伝説は倭における初代王の誕生を 権威づけるために脚色されたとする説などもあります。さきの『大百科事典』 の執筆者である倉塚樺子氏は、うえの文に続けてこう記しました。        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

  [背景と意味,古代王権と朝鮮]   前半はかつて〈神功皇后三韓征伐〉などと喧伝された話だが,よくよむと 胎中の応神を主役とした話だといえる。瓊瓊杵(ににぎ)尊が天照大神(あまて らすおおかみ)から葦原中国(あしはらのなかつくに)の統治権を授かったのと 同様に,住吉大神から応神が母の胎内にいながら先進文明国朝鮮の統治権を授 かった話とよめるのである。この応神の代から文明時代は始まると《古事記》 は語る。皇子が試練を経て成人するという後半の話にはあきらかに成年式儀礼 の投射がみられ,前半を上のようによめば,以上の話は文明時代を開いた初代 王誕生の物語として前後半を統一的によむことができる。かかる初代王の誕生 に神功皇后は欠かせない存在であった。        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   

 古事記や日本書紀は、応神天皇の代になってやっと天皇の実在感が出てく るのですが、正史である日本書紀は「初代王」応神天皇の権威を高めるため、 それなりに脚色したという説はそれなりに説得力があります。   そのスケープゴートになったのが新羅王といえます。飼部になり朝貢する ことを誓ったと書くなど、日本書紀は小中華意識をあらわにしました。   そうした荒唐無稽な作り話が、戦前、日本による朝鮮の植民地支配を当然 視するための基盤に活用されました。   現在ではこの皇国史観をそのまま信じる人はまずいないでしょうが、それ でも神功皇后の新羅征討伝説は、倭の新羅攻撃という史実を形を変えて反映し たものではないかとみる人は今でもけっこういるようです。 (注1)直木孝次郎『古代日本と朝鮮・中国』講談社学芸文庫,1988  (本記事はML[zainichi]および下記ホームページに転載予定)   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)


- FNETD MES( 8):情報集積 / 歴史の中の政治 00/01/23 - 09493/09493 PFG00017 半月城 皇国史観と七支刀 ( 8) 00/01/23 19:28   前回書いたように、神功皇后伝説は6,7世紀になって創られたとするの が歴史学者の大方の見方ですが、そのなかで「新羅征討」伝説は何らかの歴史 的事実を反映したものではないかと考える研究者はけっこういるものです。   たとえば、鈴木靖民氏もそのひとりです。同氏は、日本書紀では時々ある ように神宮皇后伝説も干支で二運、すなわち120年ずらすと朝鮮半島での歴 史的事実にうまく合うと考えているようで、倭の朝鮮出兵についてこう語りま した(注1)。        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   

 石上(いそのかみ)神宮の七支刀(しちしとう)は、369年と371年 の高句麗・百済戦争に倭が百済に味方して出兵した記念品といわれていますが、 その七支刀自体に直接(倭の)出兵のことが記されているわけではないんです。   では、どこに出兵の根拠があるかというと、この戦争のことは『三国史 記』の369年と371年の記事に出ていますし、『日本書紀』の「神宮皇后 紀」にもあります。  『日本書紀』は大変に古い出来事にしていますが、干支を(二運)くり下げ ますと364年、367年になります。そういうものをお互いに補って、百済 と倭の関係の成立ということが考えられます。   その関係の実態として、七支刀の銘文に「倭王」とありますから、列島に は王がいるんだから倭にまとまりをもった政治権力が構成されていただろう、 であればたぶん百済側に味方して出兵しただろうと考えるわけです。        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 たしかに、当時の朝鮮半島では百済と高句麗が熾烈な戦争をしている最中 でしたが、そこに倭が出兵したかどうかは史料からするとどうやら裏付けがな いようで、推測の域をでません。   なお、当時の朝鮮半島の戦局ですが、百済ー高句麗戦争で百済の近肖古王 は強大国である高句麗の侵入を二度も退けたうえ、371年には凍てつく平壌 を逆に急襲するという自滅になりかねない危険な作戦をあえて敢行し、高句麗 の故国原王を戦死させるなど華々しい戦果をあげました。   しかし、高句麗はこのような屈辱に甘んじるような国ではありませんでし た。復讐にいきり立ち、375年、高句麗は百済北辺の水谷城を攻めおとしま した。   このように、両者は食うか食われるか熾烈な死闘を繰りひろげましたが、 これらの戦闘に倭が加わった可能性はあるいは高いのかもしれません。その動 機について鈴木氏はこう続けました。        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   

 (倭は)『日本書紀』の任那記事のように侵略するために出兵したという のではなくて、海を隔てておりますけれども、倭と加耶、百済との間に政治的、 外交的利害が一致するところがあり、多くの場合、むしろ加耶や百済の主導下 に、軍事行動を起こしたのではないかと思います。  ・・・  『日本書紀』などから見た五世紀段階の研究からいえば、加耶諸国や百済が 倭兵導入策を何回かとっているんです。ですから倭兵導入はたぶん歴史事実だ と思います。   これは現代風にいえば外人部隊、外国の傭兵ですね。軍事的云々というこ との実体としては、こういうことは充分考えられるだろうということをつけく わえたいと思います。        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   

 倭は外人部隊として朝鮮に出兵したという鈴木説は目をひきますが、これ はありうるかもしれません。とくに倭と加耶との関係でいうと、交易のために 外人部隊を派遣するのは有力な取引材料になりそうです。   加耶は古く狗邪(くや)韓国の時代から、倭や新羅、楽浪郡などに古代の 通貨にも匹敵する鉄を供給する中心地でした。   その鉄を求めて倭の各地の豪族たちは加耶と直接交易を行っていたようで すが、それについて韓国で加耶遺跡発掘の第一人者である申敬K氏はこう記し ました(注1)。

       −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−   大和勢力は鉄を入手するかわり、加耶に何かをやらなければならない。で は、それは何だったのか。率直に申しますと、その頃の加耶と倭の水準から見 ますと、倭製のもので加耶が必要としたものは全くありませんでした。   ですから加耶の側では、倭の支配者の象徴的所有物だけもらったんだと思 います。それが巴型銅器だとか碧玉製石製品だった。   それ以外には、ちょっと日本の方々には失礼な言い方になりますけれども、 人間しか日本にはなかったんです。鈴木先生がいわれる四世紀半ば以降の画期 や、韓半島への倭の出兵などにつきましても、こうしたことはふまえておく必 要があると思います。   もちろん、倭に強い軍事力があったとして、倭と加耶の交流に軍事的意味 あいを強調し、倭系遺物は政治・軍事同盟のしるしであったと考えることも可 能です。しかし、そう主張するには、考古学的な裏付け資料がいるのではない か。   加耶では(三世紀末の)古墳出現と同時に、定型化した鉄製甲冑(かっち ゅう)が大量に出てきます。   一方、日本の前記古墳の場合、鉄製甲冑は出るには出ますが、わずかな上 に、定型化していなくてバラバラです。あるいは当時の日本では鉄製甲冑は重 要ではなかったのかもしれません。甲冑には鉄製だけでなく革製や木製もあり ますから。   いずれにせよ、日本で鉄製甲冑が定型化するのは四世紀の終わりか五世紀 以後、だいたい古墳時代中期からです。ですから、四世紀中頃以後の倭と加耶 との交流に軍事的意味あいがあったとしても、それは対等な関係ではなかった と思います。

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 申教授も倭は鉄や鉄製武具を入手するために、人やそれなりの物を提供し ていたとみているようです。日本では巴型銅器や碧玉製の石製品といった倭系 遺物は、首長の墳墓や前方後円墳などから副葬品として出る、いわば支配層の 権威のシンボルですが、大塚初重教授によれば、加耶ではそれらはステイタス の低い人の墓からも出てくるとのことです(注1)。   一方、四世紀における百済と倭との関係ですが、両者をつなぐ確実な史料 や遺物は、奇妙な形の七支刀以外にほとんどなく、推測の域をでません。   七支刀にしても、それがもたらされた経緯は不明ですが、神宮皇后伝説を そのまま信じた戦前の皇国史観では、この刀は百済から倭王に献上されたもの とされ、百済王が倭王に服従していた物的証拠とされました。   このように、七支刀は皇国史観を支える第一級の数少ない金石文史料だっ たのですが、その根幹となる「献上」の根拠は後に見るように七支刀の銘文に はなく、天皇中心の皇国史観が克服されつつある現在、献上説はほぼ否定され ました。   それどころか逆に銘文に書かれた「候王」が百済の諸侯を意味することか ら、七支刀は百済王から候王のひとりである倭王に下賜されたものだという有 力な説もだされました。   しかし、日本の学会では候王を一種の吉祥句・慣用句とする見解が有力に なりつつあるようで、両者は対等な立場に立っているという見方が強いようで す(注2)。   七支刀には他にもまだいろいろ謎があります。七支刀を贈られた人物です が、七支刀には「為倭王旨造」とあり「旨」が贈られた倭王の名前と考えられ ています。しかし、この名前は記・紀には見あたりません。   日本書紀では神功皇后52年条に「(百済人)久ていが、千熊長彦に従っ てやってきた。そして七枝刀一口、七子鏡一面、それにさまざまの重宝を献上 した」と記述されています(注3)。しかし、倭王旨を女性の神功皇后と考え るのはもちろん無理です。したがって贈られた倭王の正体は不明なままです。   また、贈られた年、泰和4年についても、369年説、480年説、46 8年説などさまざまな説があります。贈った人も百済の貴須王子なのかどうか、 これにも異論があります(注4)。   このようにまだまだ研究の余地が残されている七支刀ですが、通説で銘文 はこう解釈されています(注4)。  「泰和4年(369)5月16日の丙午正陽に、百たび鍛えた鉄の七支刀を 造った。すすんでは百たびの戦いを避け、恭(うやうや)しい候王(が帯びる の)にふさわしい。   先の世からこのかた、まだこのような刀はない。百済王の世子・貴須は、 特別に倭王旨のために造って、後の世に伝え示すものである」   七支刀は、美術工芸品としてもすばらしいものですが、この刀に象徴され る鉄器文明や鉄製武具、騎馬文化などが4世紀末に朝鮮半島からとうとうと日 本に入り、古墳時代の性格を一変させたのは周知のとおりです。ここから皇国 史観を真っ向からひっくり返す江上波夫氏の天皇騎馬民族説が生まれたのはい うまでもありません。 (注1)文芸春秋編『幻の加耶と古代日本』文春文庫 (注2)鈴木英夫「加耶・百済と倭 −『任那日本府』論−」   『朝鮮史研究会論文集』第29集,1991 (注3)久ていの「てい」は、「抵」からてへんを取った字。   引用は山田宗睦訳『日本書紀』教育社新書,1992 (注4)佐伯有清編訳『三国史記倭人伝』岩波文庫,1998  (本記事はML[aml],[zainichi]および下記のホームページに転載予定)   http://www.han.org/a/half-moon/  (半月城通信)





(私論.私見)