纏向(まきむく)遺跡考その3

 更新日/2018(平成30).3.19日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「纏向(まきむく)遺跡考その3」をものしておく。ウィキペディア纒向遺跡」その他参照。

 2010.3.23日 れんだいこ拝


倉橋日出夫氏の「古代文明の世界へようこそ」の「箸墓は卑弥呼の墓か
 倉橋日出夫氏の「古代文明の世界へようこそ」の「箸墓は卑弥呼の墓か」を転載しておく。
 卑弥呼の墓が古墳 ?

 弥生の年代修正の影響は、邪馬台国論争で畿内説が極めて有力になったというだけに止まりませんでした。弥生時代に対する近畿地方の年代変更が行われた結果、思いがけない事態が発生しました。古墳時代の始まりと、卑弥呼の死亡時期が接近し、卑弥呼の墓が古墳である可能性が強まってきたのです。卑弥呼の墓が古墳! まったく、びっくりするような話になってきました。

 卑弥呼が死亡したのは、『魏志倭人伝』などの文献によって、3世紀中ごろの247年か、248年とわかっています。それに対して、古墳時代の始まりは、これまで3世紀末(大体280年ごろ)とするのが、考古学者の一般的な見方でした。つまり、邪馬台国も卑弥呼も、これまでは古墳時代とはあまり関係ない、と思われていたのです。 ところが、池上曽根遺跡で年輪年代法の結果が出て以来、これまでの近畿の弥生中期、後期を年代的に見直す動きが進み、今では、古墳時代の開始を3世紀中ごろとするのがむしろ大勢となっています。卑弥呼の死亡時期とピタリと重なってきます。邪馬台国の時代と、古墳時代が時間的につながってきたのです。卑弥呼が死んで葬られた墓は、じつは日本で最初に造られた巨大な前方後円墳ではないか、という見方が現実となってきます。

 もっと具体的にいえば、考古学者の間では、奈良県纏向(まきむく)遺跡にある全長約280メートルの日本で最初の巨大な前方後円墳、箸墓(箸中山古墳)(写真左上)をもって、卑弥呼の墓とする見方が、にわかに注目され始めました。すでに箸墓を卑弥呼の墓の最有力候補とする暗黙の合意が、研究者の間に成立しつつあるといっても、過言ではないと私には思えます。

 邪馬台国論争はここにきて、九州か畿内かという次元を越え、思わぬ展開を見せ始めたのです。

 纏向遺跡の古墳群

 日本で最初に巨大な前方後円墳群が出現するのは、大和盆地東南部の三輪山山麓です。それらは日本で最初の統一政権、大和朝廷の有力者の墓として築かれたものですが、山の辺の道に沿って行燈山古墳(崇神天皇陵)、渋谷向山古墳(景行天皇陵)、箸墓などが1~2キロの間隔で並んでいます。これらの古墳群のなかでも最古の前方後円墳とされる箸墓のある纏向遺跡には、さらに古い古墳群があります。石塚や矢塚など弥生の墳丘墓と呼ばれるものですが、これらの墳墓群もすでに前方後円形をしています。「ホタテ貝型」と呼ばれる墳墓です。また、箸墓のすぐそばには、箸墓と同時期に作られたとされるホケノ山古墳もあります。これはすでに前方後円墳の形をしています。つまり、纏向遺跡では、いくつかの大きな弥生の墳丘墓が築造されたあと、箸墓という最初の巨大な墓が出現します。

 この纏向遺跡の数キロ西には、弥生時代の「近畿の首都」ともいうべき唐古・鍵(からこ・かぎ)遺跡があります。おもしろいことに、纏向遺跡は、ちょうど唐古・鍵遺跡と入れ代わるように出現します。紀元180年ごろに突如として姿を現し、大いに栄えたあと、紀元340年ごろ、急速に衰退するとされています。卑弥呼が女王になったのが紀元180年ごろですから、まさに、邪馬台国から初期大和朝廷の時代に重なります。しかも、邪馬台国から大和朝廷へのちょうど境目に箸墓は位置するわけです。

 不思議な箸墓伝説

 卑弥呼の墓と目される箸墓は、初期大和朝廷の創始者、崇神天皇の古墳(写真右)よりも前に造られています。『日本書紀』によると、箸墓は倭迹迹日百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)の墓とされています。また「昼は人が造り、夜は神が造った」という不思議な伝説を伝えています。伝説のとおり、箸墓のそばに近づいてみると、見上げるような高さと、巨大さを実感します。平地から直接、土を盛り上げて急勾配に造られているためです。崇神天皇陵や、景行天皇陵など、大和朝廷の初期の天皇陵も大きさでは箸墓と変わりませんが、これらは自然の地形を利用して造られているため、箸墓ほどの巨大さは感じません。築造の手間という点では、箸墓の方がずっと人手がかかっているように思えます。

 ヤマトトトヒモモソヒメ・・・・以下、百襲姫(モモソヒメ)は、大和朝廷の初代崇神天皇のそばに仕える巫女のような存在、と『日本書紀』には描かれています。何か予言の能力のようなものを持っていたようですが、三輪山の蛇神と結婚して、最後には、箸で女陰(ほと)を突いて死んでしまいます。そこから箸墓という名がついたようです。この女性が、『魏志倭人伝』が伝える卑弥呼のシャーマン的な姿と重なるのは事実です。「昼は人が造り、夜は神が造った」と伝説がいうとおり、箸墓も、百襲姫も、十分な存在感と神秘性をもっています。

 径百歩の塚

 ところで、箸墓を卑弥呼の墓とする考え方は、じつはもっと以前からありました。百襲姫と卑弥呼のシャーマン的な性格が共通するということのほかに、箸墓の後円部の大きさが、『魏志倭人伝』にある卑弥呼の墓の大きさとよく符合するという指摘です。『魏志倭人伝』には、卑弥呼が死んだとき造られた墓の大きさについて、「径百余歩」と記されています。百余歩とは、当時の中国の魏の尺度である1歩=145センチを基準にすると、150メートル前後になります。箸墓の後円部の大きさ約160mとよく合うわけです。日本中の弥生の墳丘墓を探してみても、これほど大きな墓はありません。しかし、これまでは箸墓の築造時期と、卑弥呼の死亡時期が合わないということで、この考え方はあまり取り上げられてきませんでした。箸墓=卑弥呼の墓説が、本当に多くの研究者に現実のものとなってきたのは、やはり、年輪年代法によって近畿地方の弥生の年代観が決定的に変わった数年前からです。

 大市は大巫女か

 箸墓の名称は、宮内庁によると「倭迹迹日百襲姫命の大市墓」となっています。この箸墓のある纏向遺跡こそ、今では邪馬台国の候補地としてきわめて有力になっているわけですが、このあたりの発掘で、ちょっと気になる出土品が出ています。 纏向遺跡の河跡から出土した7世紀の土器には、「大市」と推定できる墨の文字(墨書)が書かれていました。『日本書紀』には、百襲姫が葬られた場所を「大市」とする記述があり、これとも符合し、まさにこの土地の名を記しているようです。古代には、このあたりは「纏向」と呼ばれ、磯城郡大市郷でした。「大市」にしろ、「纏向」にしろ、相当古い地名に違いありません。

 この「大市」という名については、「大きな市」という意味がすぐに浮かびます。交易の盛んな町というイメージで、纏向遺跡の都市的な性格を反映しているとされています。倭人伝には、「国々市あり、有無を交易し」とあり、邪馬台国ではいろいろな物品の交易が盛んに行われていたことを記しています。地名の由来としては、もちろんそれで十分筋が通っているわけですが、この「市」という呼び名について、民俗学の大家、柳田国男がじつに興味深い考えを示しています。「山の人生」の中で、彼は次のように述べています。

 「イチは現代に至るまで神に仕える女性を意味している。語の起こりはイツキメ(斎女)であったろうが、また一の巫女(みこ)などとも書いて最も主神に近接する者の意味に解し、母の子とともにあるときは、その子の名を小市(こいち)または市太郎とも伝えていた」

 柳田国男はもちろん百襲姫の「大市墓」について書いているのではありませんが、彼の考えによれば、大市は「大巫女」または「母巫女」であるということです。さらに、母子ともに巫女だった場合は、子供の方を「小市」と呼んだという。すると、「大市」と「小市」とは、「大市」の卑弥呼にたいして、卑弥呼の養女で、後継者の台与が「小市」だったのではないか、とも推測できるわけです。シャーマン的な卑弥呼の姿と、百襲姫は、やはりここでも重なってくるわけです。

 箸墓が発掘されれば・・・・

 日本書紀が編纂されたのは、8世紀のことで、卑弥呼あるいは百襲姫の死からは、何百年も後のことです。大市に葬るとある「大市」とは、いったいいつ頃できた地名なのか明らかでありませんが、もともと百襲姫の存在、そして箸墓の存在をもって、大市という地名が生まれたではないか、とも考えられます。この地名はひょっとしたら、邪馬台国時代までさかのぼるものなのかもしれません。  では、卑弥呼の墓としてこれほど有力になった箸墓を発掘すれば、本当に卑弥呼の遺骸が現れるのでしょうか。もし発掘が可能であれば、卑弥呼が現れてくるのかもしれませんが、現在のところ、箸墓は宮内庁の陵墓参考地となっているため、残念ながら発掘はおろか、自由な立ち入りも許されていない状況です。そして、仮に箸墓が発掘されても、これまでの例からいって、遺骸が残されている可能性は少ないかもしれません。これは日本の気候が関係していると思いますが、これまでの古墳などの発掘では、遺骸が残されているケースは、あまりないからです。しかし、卑弥呼が魏の皇帝からもらったとされる「親魏倭王」の金印や中国魏代の絹織物、そして3世紀前半に位置づけられる大量の魏鏡などの文物が出土すれば、卑弥呼の墓は箸墓で決まりということになる、と思います。

 ところで、卑弥呼に百襲姫を重ねたとき、どうしても気になることがひとつあります。邪馬台国と大和朝廷は、いったいどういう関係になるのでしょうか・・・・。どうも初代崇神天皇と、百襲姫の間には何か不穏な空気が感じられるのです。(2004年3月)

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 参考になりそうな記述を取り込んでおくことにする。
 庄内新式の古墳から三角縁神獣鏡がある程度出ている。 青龍三年の銘の方格規矩鏡もでている。庄内新式よりも前の庄内併行期の古墳からは今のところ三角縁神獣鏡や年号鏡が出ていない。即ち、庄内新式が始まった時代が三角縁神獣鏡の初期の時代に対応していることになる。もっとも初期型とされる三角縁神獣鏡は景初三年、正始元年の年号をもつので、このことから考えると庄内新式の始まる時代が240年から墓に副葬されるまでの期間を考えた時代ということで250年前後になる。庄内新式の時代は、250年から280年ぐらいまでと考えられる。卑弥呼の死は247年ないし248年と推定されている。丁度、庄内新式の時代に対応していることになる。箸墓は庄内新式古墳である。後円部の直径は150メートル程度で、魏志倭人伝記載の「径百余歩」から計算される150メートル程度と完全に一致する。年代と径の大方一致で、箸墓以上によくマッチするものはない。  古学的に分かるのは、3世紀前半からますます発展する大和の政権というものが見える。この時代に、大和以外で、これほどの規模になるものはない。九州で平原墓を除いて王墓が発見できていない。3世紀前半から後半にかけて中国と交流を示すものは、 大和を中心とした古墳勢力の遺跡(古墳など)からしか発見できていなない。よって、邪馬台国連合というものが、古墳勢力と密接な関係があると考えるしかなく、古墳勢力は、その後の大和政権にかなりダイレクトに繋がると推定される。

 
1996年の年輪年代による大幅な年代観の補正に伴い、九州の3世紀代の遺跡から、中国との交流を示すものが皆無といって良い状況になり、一方、庄内併行期が3世紀前半(従来は3世紀末から4世紀といわれていた)となったことで、古墳時代の始まりが3世紀中葉から後半になり、およそ100年から150年時代が繰り上がったことで、大和説がますます根拠をもつようになった。 一方の九州説は、従来の3世紀の遺跡とされていたものは、その多くが2世紀初頭までの遺跡になってしまった。つまり、九州では、 弥生時代後期を最後に中国との交流の痕跡が消えてしまう。庄内併行期の墓である伊都国王墓とされる平原墓でも、入っているものは後漢中期の鏡である。

 
今回の年代測定の精密化により、箸墓がぴったりと卑弥呼の墓と同時期であることが判明した。卑弥呼の墓であるかどうかは別としても、 あの時代に既にあのようなものが作られていたこと、および、 卑弥呼と同時代から大和政権の時代への墓の連続性が確認されたことが、大きい。卑弥呼が仮に別のところにいたとしても、それとおそらく拮抗する大きな勢力が 同じ時代に既に大和付近に存在していたことは、これで誰もが認めざるを得ないわけで、もしそれが邪馬台国ではないと、いったいなにであろうかということになる。

 
素人考えですが、近畿にあった邪馬台国を、九州からやってきた皇室の先祖が乗っ取って出来たのが大和朝廷であり、そこらへんの事情が曖昧ながらも記紀の記述に反映していると考えられる。

 
纏向の5つの纏向式のうち、葺石があるのはホケノ山だけ。石で墳丘を保護するというのは早くから山陰で発達してる。 後の古墳につながるのは、葺石という点では九州じゃなくて山陰。ちなみに、その他では、竪穴式石室は吉備・瀬戸内に、前方後円形の墳丘は瀬戸内に、それぞれ起源が求められる。ちょっと遅れるけど、埴輪の起源は吉備の特殊器台。これらは九州文化じゃない。こういうものを全部いっしょくたにして畿内で成立したのが、前方後円墳。また、出土土器の量からすると、東海がかかわっていることも間違いないと思ふ。初期の巨大古墳として有名な箸墓古墳は、畿内の特徴である前方後円墳に、吉備の特徴である特殊器台(埴輪の原型)を並べており、 邪馬台国(畿内)と投馬国(吉備)の協調を示すものとする見方もある。

 
箸墓古墳が出来た頃に大和地方に新しい征服者がやってきたと仮定すると、この頃、銅鐸が廃棄されたことと符合する。宗教上の祭器を打ち壊すにつき、強力な異民族の浸入があった可能性が強い。

 七万戸を有する邪馬台国の領域は畿内広域が考えられ、纏向はその都に目されている。纏向の発掘は未だ一部しかされていないが、今のところは決定づけるものは 見つかっていない。なお、飛鳥以前の都については、木簡とか文字資料が出ないので、考古的には 断定できない。 ちなみに日本書紀には、垂仁天皇が纏向珠城宮に、景行天皇が纏向日代宮に 都をつくったと記されている。


 戦後活躍した九州在住の在野考古学者で平原遺跡の発掘で有名な原田大六氏は、古墳時代をムリに遅らせる動きに反対し、箸墓古墳=卑弥呼の墓説を支持していた。

 http://www.kyoto-np.co.jp/kp/topics/2000oct/13/06.html
 Kyoto Shimbun 2000.10.13 News
 豪華な弥生の「頭飾り」  峰山の赤坂今井墳丘墓で出土

 第3次調査で見つかった頭飾りや耳飾り。頭の位置には埋葬の際に使われた赤い朱が残る(京都府中郡峰山町・赤坂今井墳丘墓)

 弥生時代の墳丘墓では国内最大級とされる赤坂今井墳丘墓(京都府中郡峰山町赤坂) で第三次発掘調査を行っていた峰山町教委と府埋蔵文化財調査研究センターは十二日、 ガラスや碧玉(へきぎょく)製の玉類計二百十一個を使った豪華な「頭飾り」と 「耳飾り」が見つかった、と発表した。墳丘墓の上にある六基の埋葬施設のうち 二番目に大きい第四主体部から出土した。府埋文センターによると、このような 玉類を使った頭飾りの出土は国内や中国・朝鮮半島でも例がないといい、「独自の 文化を持った巨大勢力が、弥生時代から丹後に存在していたことを裏付けている」と 話している。

 今回の調査で第四主体部から、長さ四・四メートルの丸木舟型をした木棺と見られる 埋葬跡を発見。その底から、ガラス製の勾玉(まがたま)と、碧玉やガラス製の管玉 (くだたま)が大量に出土した。玉類はつながった状態で三連になっており、葬られた 人物の頭を取り巻くように並んでいることから、頭を飾る宝冠のようなものらしいという。

 出土した頭飾りの復元模型。管玉の先端は胸まで届く

 また、両耳にあたる部分には、管玉をすだれのように組み合わせ、先端に小さな 勾玉を下げた「耳飾り」も確認された。頭飾りに付けられている勾玉は長さ一・五~ 四センチ、管玉は長さ二センチで、一部は青い輝きを残していた。

 棺の中からは鉄剣とヤリガンナも各一点出土。府埋文センターは「きらびやかな 頭飾りに加え、武器類が少ないことから、第四主体部には、女性が葬られていた 可能性が高い」と分析。女性は「第一主体部に埋葬されているとみられる王の配偶者 ではないか」としている。

 赤坂今井墳丘墓は昨年秋、道路工事計画に伴う発掘調査で見つかり、弥生時代後期末 (三世紀前半)に造られたことがわかった。弥生時代では国内最大級で、「丹後王国に つながる王の墓ではないか」として注目された。

 今回の調査で、墳丘墓は東西三五メートル、南北三七・五メートル、高さ四メートル で、昨年の調査よりさらに東西に二・五メートル大きいことがわかった。また、第一 主体部からは、葬送儀礼の施設跡とみられる柱穴の跡も確認された。  現地説明会は十五日午後二時から行われる。

 
 古事記で大きく扱われている出雲も、次々と独自性を示す出土品が得られています。弥生時代には、山陰発祥の四隅突出型墳丘墓が、全盛期には北陸まで広がり、 古墳時代前期には、日本各地が前方後円墳体制に取り込まれていく中でも、 出雲は四隅突出型墳丘墓から派生した形状の方墳が主流だったように、異端。 古墳時代後期に、ずっと前に廃れた東海発祥の前方後方墳が多数作られたり、 仏教文化の広まりで、他の地域が縄文時代晩期からの勾玉など伝統的な祭祀品を 作らなくなっても、出雲だけは作り続けるようにユニーク。出雲をどう解釈すべきか?

 ホケノ山古墳、卑弥呼の時代に築造 掲載日2000年03月28日(共同通信=佐賀新聞)

 最初期の前方後円墳として注目されていた奈良県桜井市のホケノ山古墳(全長約八十㍍)が三世紀中ごろに造られたとみられ、埋葬施設が確認された最古の前方後円墳と分かった。卑弥呼の時代に前方後円墳が奈良盆地東南部で発生したことを示す重要な発見。大和(おおやまと)古墳群学術調査委員会(委員長・樋口隆康県立橿原考古学研究所長)が二十七日、発表した。(4、31面に関連記事)

 同古墳は邪馬台国の有力候補地とされる纒向(まきむく)遺跡の一角にあり、棺を保護する木槨(もっかく)の周囲を石で囲った埋葬施設「石囲い木槨」や、中国製とみられる画文帯神獣鏡などが見つかった。卑弥呼が魏から与えられた「銅鏡百枚」のうちの一枚だった可能性もあり、邪馬台国畿内説を補強する有力な材料になりそうだ。
 墳丘の規模は当時最大。後円部の埋葬施設は南北向きに築かれ、長さ約七㍍、幅約二・七㍍。河原石積みの壁の内側を針葉樹の木材を並べた木槨で囲っていた可能性が高い。前方後円墳で木槨が見つかったのは初めて。天井は木材を並べた上に石を積んでいたらしい。 内部にはコウヤマキ製の木棺が置かれていたとみられ、推定で長さ五㍍、幅一㍍のくりぬき式。頭をどちらに向けて葬られていたかは不明。 時期が近い木槨墓は朝鮮半島のほか、国内では弥生時代終末期の楯築(たてつき)墳丘墓(岡山県倉敷市)などの例がある。石積みの構造は黒田古墳(京都府園部町)など近畿や瀬戸内東部の弥生終末期―古墳時代初期の墳墓の竪穴式石室に似ている。 前方部は隣の箸墓(はしはか)古墳と同様三味線のばち形に開くと推定され、発生期の特徴を示す。 棺内には直径約十九㌢の画文帯神獣鏡一枚や鉄剣五本などがあり、大量の水銀朱もまかれていた。鏡は棺の南寄りで発見。文様の鋳あがりが非常に良く、後漢末―三国時代の中国製とみられるという。 埋葬施設内には墳丘上から落ち込んだとみられる祭祀(さいし)専用の二重口縁壷(つぼ)=三世紀中ごろ=が約二十個見つかった。埋葬施設上を縁取るように方形に並べられ、後の埴輪(はにわ)の配列との共通性がうかがえる。

 〈銅鏡100枚の一つ〉
 樋口隆康・県立橿原考古学研究所長(大和古墳群学術調査委員長)の話 画文帯神獣鏡のうち今回出土した同向式と呼ばれる形式は約五十面が残っている。文様から、後漢末から三国時代の中国での製作とみられ、同じタイプの鏡が畿内に集中して出土していることからも、卑弥呼が魏から二四○年にもらった「銅鏡百枚」の一つと考えて少しもおかしくない。邪馬台国畿内説の有力な証拠だ。
 「日本書紀」の伝承では、箸墓古墳の被葬者は、崇神天皇の時代に活躍した倭迹迹日百襲姫とされている。いっぽう、崇神天皇陵古墳については、四世 紀中ごろの築造と見るのが、考古学者の多数意見である。とすれば、箸墓古 墳の築造年代も、四世紀中ごろとし、崇神天皇陵古墳とほぼ同時代としたほ うが、文献的事実ともあう。

 私は、ホケノ山古墳を、西暦300年ごろに築造されたもの、箸墓古墳 を、西暦350年ごろ以降に築造されたものとみる。 西暦247か248年になくなった卑弥呼と結びつかない。 画文帯神獣鏡がでたことなどは、古墳の築造年代をきめる上で、なんの 参考にもならない。 画文帯神獣鏡は、全国で、およそ150面出土しているが、ほとんどは、四 世紀代の古墳から出土している。 なかには、埼玉県の稲荷山古墳や、熊本県の江田船山古墳のように、五世紀 末の、雄略天皇時代のものとみられる古墳からも出土している。そして、「神獣鏡」は、長江下流域の中国南方系の鏡である。中国北方 の魏と交際のあった邪馬台国の鏡として、ふさわしくない。平原古墳の 39面の鏡などは、すべて、中国北方系の鏡である。

 卑弥呼が、魏からもらった鏡はすでに中国の代表的考古学者、王仲殊氏、徐苹芳氏などが強くのべているように、方格規矩鏡、内行花紋鏡、獣首鏡、き 鳳鏡、盤竜鏡、双頭竜鳳紋鏡などであり、三角縁神獣鏡や、画文帯神獣鏡ははいらない、とみるべきである。

 三角縁神獣鏡も、画紋帯神獣鏡も、卑弥呼が魏からもらった鏡とすると、総数で我が国から600面以上すでに出土していることになる。卑弥呼がもら った100面の鏡としては、数が多すぎる。画紋帯神獣鏡も、三角縁神獣鏡とおなじく同型鏡が、数多く出土している。 今、出土しているものは、ほとんどが、我が国でつくられたものであろう。 いわゆる踏み返し鏡といわれるコピー鏡であろう。 ホケノ山古墳の示す事実そのものは、「魏志倭人伝」の記述に合ってい ない。 事実を無視して、大々的なPRに走ってはならない。

 土器型式から、最古級の前方後円墳とされる纏向石塚古墳は、年輪年代によると200年頃で、これを画期とすれば、卑弥呼の時代は古墳時代に最初期となる。 また、古墳からは、魏や呉の紀年鏡も幾つか見つかっており、上限を与える。 安本氏は、この年代では九州説に都合が悪いので、根拠のないデタラメな年代観で 強引に突っ走ろうとしているだけなので、相手にされていない。

 ●揺れる弥生の年代観 年輪年代法の最新情報 朝日新聞・奈良版(10/8)より抜粋
 http://mytown.asahi.com/nara/news01.asp?c=5&kiji=102

 弥生時代と古墳時代の過渡期の土器とされる庄内式土器が出土した纒向石塚(桜井市)の場合、用途不明の板の年輪年代が推定で一九五年ごろだった。 庄内式土器の通説である三世紀中ごろより、約五十年古い。

 古墳時代前期の二口かみあれた遺跡(石川県志雄町)は、建物跡の柱の年輪年代が 推定二五〇年ごろ。古墳時代前期の通説である四世紀初めより、やはり約五十年古い。

 奈文研の金子裕之・研究指導部長は「土器様式で年代を考えてきた私たち考古学 研究者にはつらい結果だが、土器は基本的に相対年代しかわからない。実年代を 推定する根拠にしていた中国の青銅製品などに代わって、年輪年代による実年代から 年代観を再検討すべきだろう」と話している。

 「卑弥呼は吉備地方出身か 箸墓古墳に龍のデザイン(読売2011/3/2) 」を参照する。
 民博の考古学の重鎮である春成秀爾(はるなり ひでじ)氏が、吉備地方の文化と纏向遺跡の文化の共通性について触れている。春成さんは、箸墓古墳築造は240年~260年という放射性炭素14法での発表で学会を騒然とさせた考古学者であることで知られている。春成氏は、弥生後期の土器に描かれた龍に着目して次のように述べている。
 弥生時代後期の1世紀から2世紀の頃には土器に龍の絵を線で描いていた。龍の絵は近畿と吉備を中心に静岡から鹿児島まで分布が見られる。 その特徴は尖った頭で、S字形に身体をくねらせている。魚のヒレ形の四肢を持っており、龍を水棲のサメに近いものと考えていた。大阪の池上曽根遺跡出土例では龍の後ろに木の枝を逆さにしたような線刻があり、龍の後ろ足の一つがその線の一つに乗っかり、龍が稲妻に乗って降りてくる様子だと考えられている。(樹状雷光)龍は水を司る精霊であり稲妻により姿を現すと考えていた。参考 池上曽根遺跡(ドラゴン土器)
 同じ頃、吉備では頭は人で身体は龍という人面龍身を土器に描く習俗があった。例えば、岡山市足守川加茂A遺跡や総社市横寺遺跡から実例が出土している。人面龍身は龍と人が交わって出来た神話習俗と考えられる。倉敷市楯築墳丘墓は2世紀終わり頃に築造された全長80メータの吉備最大の墳丘墓である。その上に置いてあった弧帯(こたい)石は一辺が90センチで厚さ30センチの大きな石の全ての面に複雑な弧帯文が彫刻されていた。この石にも人面が彫刻されており、人面龍身を更に複雑化して立体的に作られ、吉備の大酋長の祖先は龍であった事を示していると考える。又、この楯築墳丘墓からは高さが120センチに達する巨大な器台も出土している。この器台には酒を入れた壺を載せて被葬者に捧げた祭祀に利用されたものと考える。楯築墳丘墓の器台には綾杉文(木の枝の形)即ち、稲妻の段階しか描かれていないが、次の段階になると弧帯文即ち龍を施し、特殊器台は吉備発祥の葬送儀礼に使用される祭器となった。

 参考 岡山県古代吉備文化財センター同上 特殊器台参考

 箸墓古墳は全長280メータの超大型前方後円墳で、墳丘の形態、出土した特殊器台と最古の埴輪から日本最古の古墳と考えられている。最近、民博の研究グループが箸墓から出土した土器の付着炭化物を放射性炭素14法で年代を分析し、240年~260年に箸墓は築造されたと結論した。卑弥呼が死亡したのは魏志倭人伝によれば、247年頃であり箸墓古墳の年代と完全に重なる事になった。箸墓は卑弥呼の墓である可能性が高くなった。
 結論として、龍を祖先とする吉備勢力の象徴物である特殊器台が、箸墓古墳の後円部の最も目立つ場所に設置され、盛大な祭りを挙行したという事が意味する事は重大である。これは、卑弥呼の出身地が吉備地方であり、偉大な王の死に際して吉備勢力が自らの象徴物を奉献したと考えるのが、考古学的には最も自然な考えだ。
 以上が読売新聞に掲載された春成秀爾さんの論文の概要であるが、足守川加茂A遺跡の線刻画が人面龍身に見えるかどうか、楯築墳丘墓の弧帯石も渦巻きの中に丸い顔があるだけとしか見えない、箸墓古墳出土の特殊器台の模様も渦巻きにしか見えない、と云う疑問も出されている。纏向遺跡の出土物と吉備発祥の特殊器台、弧文円盤、弧文板等との関連で、纏向に於ける吉備の重要な関わりは疑いないが、卑弥呼が吉備出身とするにはやや距離があろう。神武東征神話に於いて、九州を出発して何故か、吉備で8年近く逗留してる事の謎と合わせて考えたい。

 参考 纏向遺跡の古代地形

 参考 纏向遺跡の遺物について

 参考 纏向遺跡 大型建物跡の解釈

 参考 纏向遺跡 大型建物跡と三輪山信仰

 参考 纏向遺跡のバイブル 『大和・纏向遺跡』

 参考 纏向遺跡 『大和・纏向遺跡』目次編

 参考 纏向遺跡 『大和・纏向遺跡』読書感想(1)

 参考 纏向遺跡 『大和・纏向遺跡』読書感想(2) 石塚古墳

 参考 纏向遺跡 『大和・纏向遺跡』読書感想(3) 年輪年代法による纏向

 参考 纏向遺跡ニュース 『堂ノ後古墳』築造は5世紀末


 桜井市立埋蔵文化財センターが発行している「ヤマト王権はいかにして始まったか~王権成立の地 纏向~」という資料の「纏向遺跡の旧地形と墳墓・遺構の分布」地図。

 箸墓古墳を含む北と南の纏向川で挟まれた土地は箸中微高地と呼ばれる。纏向東田大塚古墳を含む地図中央の北と南を川で挟まれた微高地を太田微高地と呼ばれている。比較的広い地形。更にその上の微高地は纏向石塚古墳、矢塚古墳、勝山古墳を西側に東にクサビの形のように伸び今回の大型建物跡発見現場や他田天照御魂神社を含むひょろ長い地形を太田北微高地と呼ぶ。更にその上の珠城山古墳群を含む地域を巻野内微高地と呼ぶ。更にその北の小さな川で囲まれた微高地は草川微高地、その北の一番北を流れる川の北側も草川微高地と呼ばれている。

 纏向遺跡の最盛期の布留0式期の頃(3世紀後半)の頃は2.7km₂に及び唐古・鍵遺跡の7倍、国内古墳時代遺跡では群を抜いた規模である。二重口縁壺壺が桜井茶臼山古墳から出土している。同じ形式の壺が箸墓古墳の前方部より底に孔をうがったものが出土している。桜井茶臼山古墳の築造年代は箸墓の時代より新しいとされているが祭祀の形態は継承していると考えられる。纏向遺跡から弧文円板、弧文板、弧文石、特殊埴輪が出土し特殊な文様がほどこされている。この弧文という曲線を多用した文様はヤマトには存在せず、吉備地域の特殊器台や弧帯石の系譜を引くものと考えられる。今回の太田北微高地で発掘された大型建物と春に発掘された建物群の中心線は反時計まわり5度傾きながら真っ直ぐに東西方向に伸びてており、その線上に他田坐天照御魂神社や纏向石塚古墳、そしてそれを取り囲むように勝山古墳、矢塚古墳が存在している。真南には箸墓古墳が鎮座している。アマテラスという太陽を神と崇める神は五穀豊穣を願い祭祀を行った、その場所は夏至や冬至という農耕にとり重要な時に太陽が神が坐す神聖な山から昇らなければ祭祀にならないと考えるようになった。京都は太秦で観た木嶋坐天照御魂神社での日枝山(比叡山)、伏見稲荷山と纏向での三輪山、巻向山、何か精神の関係が連続しているように思える。 

 カメラマンの小川光三氏が長年奈良盆地で写真を撮り続け辿り着いた貴重な論に三輪山巨大三角形論というのがある。考古学者の石野博信氏が「三輪山と日本古代史」で小川氏の論を紹介している。それによると、秋分・春分の日に太陽が三輪山山頂から昇る位置は奈良盆地では多神社から眺めるのがベストである。そして太陽は二上山に沈む。 多神社は古事記を編纂した太安万侶の子孫の多氏一族の神社である。纏向遺跡の大型建物跡発掘現場は太田北微高地であるが、この太田という土地の名前は多氏と何らかの関係があるのか気になる。この多神社と三輪山山頂の線から30度北に傾けると冬至の日の太陽が三輪山から昇る線が生まれる。三輪山から纏向遺跡の今回大型建物跡が発掘された太田北微高地を経由し石見の鏡作神社に達している。鏡作神社(石見)、鏡作麻気神社、鏡作神社(八尾)、鏡作伊多神社と4社の鏡神社が密集する場所である。このラインは春分・秋分の日に太陽が三輪山山頂から昇る多神社のラインから北30度振っている。そして、鏡作神社近くは奈良盆地では最大の弥生遺跡、唐古・鍵遺跡が存在している。

 纏向遺跡の大型建物跡の軸線の西方向への延長線上に纏向石塚古墳が存在している。この古墳は箸墓より古いと考えられているがこの前方後円墳の前方部(殆どが失われているが)が三輪山を向いている。この古墳では三輪山祭祀がなされていたのではないかと推定されている。三輪山・多神社ラインを南に30度振ると夏至の太陽が三輪山から昇るのを見る事ができる。畝傍山の神武天皇陵がこのラインに乗っている。  

 纏向遺跡は弥生時代とは確実に一線を画している。南北2キロで囲まれた大きな遺跡。昼は人が造り、夜は神が造ったという、そして石を逢坂山から人々が列を作り手渡しで運んだというヤマトトビモモソヒメ造墓の記述で知られる箸墓古墳が存在する。石野博信氏は、箸墓古墳を魏志倭人伝記述の卑弥呼の塚、邪馬台国を纏向遺跡の地と比定する実証的研究を重ねている。 

 石野博信氏の「大和・纏向遺跡」(学生社、増補新版が2008年10月に出版されている)は纏向遺跡の汗と涙と感動の30年以上に渡る調査・発掘の歴史が感動的に詰め込む必見のバイブルで膨大な500ページを越える労作になっている。吉野ヶ里遺跡は高島忠平氏がおられなかったら遺跡が守られなかった。シュリーマンの『トロイの遺跡』を彷彿とさせる。30年間も纏向遺跡を発掘している。


 歴博の春成氏グループによる放射線炭素14法での箸墓古墳や纏向遺跡の遺物の年代測定結果が発表され、センセーショナルな結果が出た。1989年の第四次発掘調査により、周濠より出土したヒノキの板材(長さ約30センチ、幅約60センチ、厚さ約2センチ前後)を選定し年輪年代法により調査が行われた。ヒノキの暦年標準パターンと照合し、板材は177年と確定した。そこで、使用された原木の表皮までの距離(辺材幅)を平均の1センチとすれば、この試料の残存辺材部に刻まれていた年輪総数は36層と推定され、平均年輪幅は0.58ミリ、この年輪幅でもって最終形成年輪まで推移したとすると18年輪が形成されていた事になる。従って、削除された18年輪を足すと伐採年は西暦195年となる。この結果は年輪年代を基にあとは推算した数値をあてはめただけであるから、正確性には欠けるしかし、西暦200年を境にして狭い年代幅で伐採された事は確かだ。

 放射性炭素14法による調査で石塚古墳の周濠下層の木材・種実は1880¹⁴CBPであり3世紀前半という結論を今年の夏の考古学協会の発表論文『古墳出現の炭素14年代』で春成氏が報告されている。

 2001年1月から開始された勝山古墳第四次調査により、前方後円墳北側くびれ部近くの周濠埋土中から無数の木材が出土した。その木材を奈良文化財研究所の光谷拓実氏が年輪年代法により伐採年の調査した。資料に耐える辺材は一つでヒノキの板材で、198+1A.D.という結果となった。この試料の辺材最外年輪部は樹皮直下に近いと考えられ、この数値が樹木伐採年にほぼ間違いないと考えられた。しかし、念のため樹皮まで1センチ存在したと仮定すると年輪数は7~8層と考えられ199+7~8=西暦210年は降らないという結論に達した。矢塚古墳の庄内3式甕の煤を歴博が放射性炭素14法で調査した結果は1820¹⁴CBPとでており石塚古墳よりは60年新しい時代であると調査結果が報告されてる。

 年輪年代法や放射性炭素14法という理科学的手法により古墳や遺跡の年代が調査される時代になった。これで、纏向遺跡群は2世紀末から3世紀にかけての時代である事が確実になりつつある。


 纏向遺跡ニュース 『堂ノ後古墳』築造は5世紀末 

 纏向遺跡に祭祀センターを築き、瑞垣宮、珠城宮、日代宮と宮都を築いた王権は弥生時代から続いた銅鐸祭祀を捨て、新しい銅鏡を中心とし巫女が君臨する国のかたちを築いてきた。


 出雲オウ王について 『出雲の古代史』(門脇禎二)より」。
 奈良盆地では、太陽は、聖なる神の山である三輪山から昇り、夕方には二上山に沈む。秋分、春分の日の太陽を眺める好適地は奈良盆地に於いては田原本町の多神社である。ここが奈良盆地の中心位置となる。多氏とは、古事記を編纂し、日本書紀の編纂にも関わった太安万侶が一族である。多氏は日本最古の皇別氏族(臣籍降下した氏族)であり、神武天皇の息子の神八井耳命(かむやいみみのみこと)を祖とする氏族の伝承を持つ。多、太、大、意富、飯富、於富・・・とも漢字では書かれている。崇神天皇の時代に記録された大物主を祭祀する人物として河内の陶邑から見つけ出されたという大田田根子も、名前からしてこの氏族と関係がありそうである。纏向遺跡の巨大な祭祀都市と考えられる太田微高地、太田北微高地にもその名前が残っている。多神社の近くに秦庄が存在する。秦氏と三輪山の酒の神としての大神神社の関係も興味深い。

 多氏と三輪山の神と関係があるとすれば必ず出雲との関係が存在する。門脇禎二氏の「出雲の古代史」はオウ王の出雲支配に触れている。それによれば、古代出雲は西と東に別れて統治されていた。東を統治していたのが仁徳紀即位前紀条に書かれた出雲臣之祖、淤宇宿禰(オウスクネ)、西を支配していたのが崇神紀60年秋7月条に書かれた出雲臣遠祖、出雲振根(イズモフルネ)である。5世紀からオウ(宿禰)は出雲の国造であった。この出雲の西部を支配していた振根(フルネ)は崇神天皇の時代に吉備津彦に殺され滅亡し吉備の支配下に組み込まれた。しかし、出雲の東地域は依然としてオウ王の支配が続いたという。

 出雲のオウと多氏と同じ氏族であったすれば、大物主、三輪山、多神社、多氏、出雲の淤宇(オウ)が全て繋がる。神武東征以前の奈良盆地には出雲系のオオ、オウ一族が稲作を始め国を治めていた可能性がでてくる。その中心は田原本町の多神社周辺や唐古・鍵遺跡だったかも知れない。そして、神武東征後の奈良盆地では多氏の祖は神武天皇の系列に組み込まれたのかも知れない。多氏が大物主や出雲のオウと繋がれば、記紀で書かれた出雲神話や三輪山神話の謎に迫ることができよう。


 2014.8Y.K、「邪馬台国論争の今」。
 今年の五月に以前から関心があった奈良県桜井市の纏向(巻向)を訪れる機会があった。JR三輪駅から歩いて行くと日本最古の神社といわれる大神神社(三輪神社)があるが、神殿がなく三輪山をご神体としている。近くの摂社檜原神社は天照大神の伊勢鎮座以前の宮居があった笠縫邑で元伊勢ともいい、三つの鳥居が組み合わさった特異な神殿の姿にも神秘性を感じる。近年はパワースポットとしての人気を集める一方、近傍に多くの古墳もあって古代日本のふるさととも称されている地である。確かに遠くから眺めると、三輪山は稜線が美しく神を感じさせる山であり、少し高台に上がると遠くに大和三山が望め、一際大きな箸墓古墳をはじめとして大小の古墳が数多く並ぶのが見渡せる。この箸墓古墳は墳丘の全長が約280㍍、最大の大仙陵古墳には及ばないが、全国屈指の大きさで列島に初めて出現した大型前方後円墳とされ、三世紀中葉から後半に築かれたと考えられている。

また三輪山と関わる伝説があり、日本書紀にある第七代孝霊天皇の皇女「倭迹迹日百襲姫命(やまとととひもももそひめのみこと)の墓」として1880年以来宮内庁が管理し発掘出来ないが、1942年考古学者、笠井新也は論文「卑弥呼の冢墓と箸墓」を発表して、邪馬台国の卑弥呼が生きたのは第10代崇神天皇の時代で、箸墓が卑弥呼の墓であると主張したことから、周辺の纏向遺跡が注目されてきた。2009年以降に行われた発掘の結果から東西に並ぶ大型の建物跡や水路址が見つかり、全国各地の土器も出土して大きな勢力の存在があったことが確かめられた。また古代中国で不老長寿や魔除として用いた桃の種をはじめとして魚や動物の骨や植物の種も大量に出土して、研究者は呪術の道具や祭祀の供え物が埋められたものとみている。それらのことから鬼道に通じたという卑弥呼と関連づけられて、邪馬台国だった可能性が一層深まったとして、あたかも長年の謎が解明されたかのような新聞報道までなされたのである。

 一方でNHKテレビの歴史番組でも「英雄たちの選択」とか「歴史秘話ヒストリア」で卑弥呼のことが取り上げられ、最近の諸説が紹介されると、今なお邪馬台国の話に関心が高いことが判る。ネットで検索してみると、強い関心を持って自ら調べた人を始めとして、邪馬台国が何処にあったかという論争は延々と続いており、近畿説にせよ九州説にせよ夫々主張を見ると、いずれも尤もらしく門外漢では判定が難しい。日本という国家は、何時出来上がったのか、古代史研究者に突きつけられた最大の問いであるが、ただ少しばかり気になるのは、全てではないが主張する論者の出身地盤の影響が見えてくることである。自らの郷土が歴史上に表われる日本最初の地であって欲しいと願い贔屓にしたい気持ちは理解出来ないでもないが、あまりに熱狂して自説を強調するあまり異説を悪しざまにいう論調には違和感さえ覚えてしまう。

 それらを解説した本も数多く出ているが、素人向けに平易で比較的偏りのないものとして千田稔著『邪馬台国』(青春新書)がある。その記述に従うと、そもそも邪馬台国を巡る論争は随分昔からなされており、最初は江戸中期の儒医で国学者でもあった松下見林で、元禄六年(1693)『異称日本伝』に「邪馬台」は「ヤマト」と読んで大和の国を指し、卑弥呼は神功皇后と同一人物であるとした。その後、新井白石も正徳六年(1716)『古史通或問』で同様の見解を述べたが、いずれも「魏志倭人伝」の記述を『日本書紀』に基づいて解釈し、邪馬台国の発音を元に大和に結びつけたという。しかし白石は後年『外国之調書』で倭人伝に出てくる地名を読み直して、筑後国山門郡が比定地であるとしたようである。

これに対して享保十五年(1730)本居宣長は『馭戎慨言』で国粋的見地から卑弥呼の神功皇后説を否定し九州説を唱えたが、倭人伝の記述の数字や方向に誤りがあるとした。

明治に入り歴史学者那珂通世は明治十一年(1878)『上古年代考』で九州説と共に卑弥呼は神功皇后より百余年も前の時代の人物で、同一人説を完全に否定した。

そこから東大対京大の二大歴史学者の論争が始まり、先ず東大の東洋史学者・白鳥庫吉が明治四十三年(1910)「倭女王卑弥呼考」で、倭人伝の行程記事を基にして九州説を唱えた。但し、記述には誤りがあり、距離と所要時間に矛盾が生じたと説明した。

同じ頃京大の東洋史学者・内藤湖南は白鳥への反論として「卑弥呼考」で記述の誤りは方位にあり、南を東と読み替えて畿内大和説を主張した。

こうして九州説=白鳥東大、近畿説=内藤京大といった学閥対立に発展し、弟子たちを巻き込んでいったのである。

元を質せば、陳寿の中国の正史『三国志』の中の「魏書東夷伝・倭人条」の記述により始まった議論だが、何故中国の正史に東夷の辺境地のことを記したかは興味深いところである。

先ず紀元前の前漢の歴史書『漢書』地理志には九州を中心として百余の小国に分かれた倭国が認識され交流があったことが記されている。やがて前漢は滅ぶが後継の後漢の正史『後漢書』東夷伝にある通り、邪馬台国以前の奴国が紀元57年に朝貢して、江戸時代に実物が発見された「漢委奴国王」の金印を授けられていた事実がある。大国が辺境の小国に対する待遇としては異例であり、これには地政学的な意味合いがあったものと考えるのは自然であろう。

やがて後漢も滅んで魏・呉・蜀の三国が覇権を争ったが、最も有力な「魏」にとっても事情は同じであったことは想像できる。同時に「倭」も「魏」との交流の必要性があったはずで、倭国大乱と称する小国同士の内戦が続き、その収拾策として卑弥呼を共立させたことが記述されている。依然として政権基盤は不安定であって強力な後ろ盾を必要としたのであろう。239年卑弥呼は魏に使者を送り朝貢し、「親魏倭王」の金印を授かったことが記録されている。一方で魏は倭とも交流していた遼東の公孫氏は王とは認めず、呉の冊封を受けていたことから、前年討伐されていたことを見ての外交政策だったのだろう。それにしてもかくも倭国が優遇された背景には、魏が敵対する呉の背後の南に位置する国と考えられていた節があるとされる。その証拠は229年、呉の後方の西域に位置する大月氏国王波調に同様の「親魏」という冠称をつけた金印紫綬をしていたという。

結局、論争のタネは、倭人伝に記載された魏の使いが邪馬台国に行く過程の記述であり、朝鮮半島から出発して対馬を通り九州北部の国に到着したことは疑いないとしても、そこから邪馬台国に向う距離と方向・所要日数に矛盾が生じてしまうのである。この解釈を巡って日数や方位に誤りがあるとして議論されるが、そのまま読めば遥か赤道近くの南の海中に邪馬台国が存在したことになる。実際1975年に東洋史学者の内田吟風は朝日新聞にインドネシア説を発表し、かつてインドネシアはサンスクリット語で「Yavadvipa」と呼ばれ「耶婆堤国」と漢字音訳出来ると主張し、哲学者の木村鷹太郎はエジプト説も唱えた。このことは倭人伝の表現が如何に曖昧であるかを示しており、その影響は日本国内での比定地とされた所だけでも、北九州や近畿を含め凡そ80箇所もあることになった。

このように邪馬台国の所在地の議論がなされる中で、それが大和朝廷にどう繋がるのかも数多く論じられている。247年頃には卑弥呼が没したとされるが、265年には魏に代わって晋王朝が成立し、次いで呉も滅亡するが、266年には卑弥呼の後継者とされる台与らしい倭人が朝貢した記録が『晋書』にある。しかし以後の記録は何もなく、やがて316年に晋も滅んで戦乱時代になると、後ろ盾を失った倭国も混乱し、邪馬台国という連合も解体したと見られる。

次に中国の資料に倭国が現れるのは、五世紀に入って413年に大和朝廷の始祖とされる倭の五王の讃(履中天皇?)が朝貢した記録が最初である。従って四世紀の記録は何もないが、414年建立されたという広太王碑に倭が朝鮮半島に侵入した記録があり、埼玉県稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘文に「武」の名が見えることから、大和朝廷が国内統一を進め、海外へ進出しようとしていた様子が想像出来るのである。讃に続いて珍(反正)、済(允恭)、興(安康)、武(雄略)という名が現れ、( )内の天皇への当て嵌めは日本書紀からの推定で確定されたものではないが、かつての邪馬台国の姿は全く消え去っている。

時代が進んで八世紀になると、720年には日本で作られた正史『日本書紀』が完成して、その記述は神話部分もあり史実ばかりではないのは明らかだが、『古事記』も合わせて実際の歴史を推定する作業が行われてきた。

特に師弟関係の白鳥庫吉と津田左右吉は、邪馬台国の九州説から出発して大和朝廷への移行を神武東征伝承から説明しようとした。それは九州の邪馬台国が大和に進出したとも九州勢力が大和で邪馬台国を造ったとも読めるから、議論のある九州説と大和説に対して整合的に統一出来ることになる。

NHKテレビの「歴史秘話ヒステリア」では邪馬台国の属国といわれる九州の伊都国が紹介され、纏向遺跡との類似性が語られた。その王墓とされる二世紀末の平原遺跡からは耳?(耳飾り)や多数の中国製鏡が出土し、高貴な女性の墓だったことが分ったというのである。最初に発掘した柳田康雄氏は時代が一致することから墳墓は卑弥呼もしくは関わりのある人物であり、その形式は纏向近くの黒塚古墳に見られることから、この地に居た卑弥呼が大和に遷都したと主張する。

また出土した鏡の中に直系46.5センチで8キロ近く重さもある大きなものがあり、太陽を表す八つの花弁と八つの葉形が描かれており、伊勢神宮の八咫の鏡と同じと思われている。それは太陽神の天照大神や呪術に結びつくとすれば、全て繋がる。因みに「咫」は掌から中指の先までの長さを指し、八咫は146センチ位で鏡の外周を表わす。

以前は黒塚古墳で大量に出た三角縁神獣鏡が魏から贈られたものとされたが、今は魏で造られたものでない可能性が出て、頭部で一枚発見された画文帯神獣鏡に注目が集まっている。古代の鏡は裏面に掘られた画像彫刻が反射した壁面に浮かび上がる魔鏡であったとする説も浮上してきて、呪術具としての可能性は高まったように思われる。鏡には光を介して太陽と結びつき、今でも霊的意味合いがあるように思える。蛇が太陽信仰と結びつくのは古代エジプトなどでもお馴染みだが、大神神社の白蛇伝説や纏向遺跡の建物が東西に並んでいたこと、卑弥呼が死んだとされる年には皆既日食があったことなど合わせると色んな想像が湧いてくる。

このことに関わり、卑弥呼とは日巫女とか日御子ではないかとする説がある。当時文字を持たなかった倭人の声音から中国人が文字化したのだから、漢字に別の意味があったとしても不思議ではない。その他にも「姫児」、「姫子」、「姫尊」など多くの説が入り乱れるが、これは「皇后」とか「女王」とかいった尊称で個人名ではない可能性も指摘される。

さらに詳しくは長田夏樹氏の『邪馬台国の言語』(学生社)があり、『魏志倭人伝』は著者の陳寿の出身地や経歴、参考にした文献などを合わせてみて三世紀の洛陽音で読むべきだとしている。但し、この本は相当専門性が高く、門外漢には精々卑弥呼は「ひむこ」と発音したということくらいしか理解できない。そうすれば卑弥呼は誰かということだが、中国史書のいう通り卑弥呼が女王になったのは180年頃だとすれば、五百年も超えた後年になって作られた古事記や日本書紀などには卑弥呼ではなく、違う名前の女王で登場している可能性が大きい。

そこで呪術を使いカリスマ的人物として日本書紀の編者が「魏志に伝わく」として挙げたのが神功皇后で第14代仲哀天皇の皇后である。これに対して本居宣長は恐れ多いと九州の熊襲の女酋が名を騙ったと推定し、内藤湖南は11代垂仁天皇の皇女倭姫命とし、白鳥庫吉は天照大神を天岩戸伝説から日食が起こった事実と結び付け主張した。九州説を唱える安本美典氏は伝説化した卑弥呼が天照大神に昇華したので、三世紀半ばは初代神武天皇の五代前に相当すると推測統計学で分析した結果で得られた結論だと論じる。先の笠井新也氏の倭迹迹日百襲姫命とする見解も含めて、大部分が古代の大和朝廷との関わりからの比定であるが、いずれにしても決定的な証拠はない。

一方で日本書紀や古事記の記述から推定した時期がシバシバ中国の史書との間でズレを生じるのは、当時の倭国に暦がなく、古代中国の書「魏略」などによれば倭国は「田植え」と「収穫」をそれぞれ年初とする独特の暦を用いていたという話が出てくる。つまり倭国の一年は半年になるわけで、「二倍歴(二倍年暦、半年暦)」ともいわれる。そこで紀記の記述で孝霊天皇の在位期間はそのままではBC290年~BC215年となるが、二倍暦で計算するとAD155年~193年頃となり、古事記中巻の孝霊天皇記に「針間(播磨の国=兵庫県西南部)を起点として吉備国を説得、平定した。」とあるのを、中国の諸書(後漢書・梁書など)に記されている「倭国大乱」の時期とほぼ一致をみるのである。

この弥生時代末期は近畿から瀬戸内地方にかけて「高地性集落」と呼ばれる集落が発達していたが、山の上などには明らかに防衛のために設けられたと見られる乱杭や狼煙址などが見つかっているため、この時期に畿内から瀬戸内にかけて軍事的混乱があったことが認められるという。反対にこれに類する戦乱の跡は九州に発見されず、近畿説を主張する側の有力な根拠となっている。

尤もこれらの背景に倭国が何時から中国の暦を取り入れたかも問題で、通説の欽明天皇(550年頃)か推古天皇(600年頃)のどちらかとする話を基にして以前を二倍暦で修正したという仮定の話である。さらにこの前提を使えば、175年前後に生まれたという卑弥呼が孝霊天皇と親子としても辻褄が合い、宮内庁が箸墓古墳に眠っているとする倭迹迹日百襲媛命とも一致してくるのである。

勿論こんな説はバカバカしいと一笑に付す人も多いだろうが、いずれの説にしても大同小異の仮説なのである。そもそも日本書紀について全て真実だとは誰も思っていないし、中国の史書が自らの立場を離れて事実を書き綴ったとは思われない。元々中国の歴史書の記述について始まった議論で、多くの疑問点が現れて全てを説明し切れない事情が長年続いてきた。そこに日本の歴史書の記述が加わり、明治以降の極端な皇国史観による政治思想もあって、話が一層複雑化したようである。つまり何らかの説を唱えるにしても皇室への配慮がなされたのである。近年は発掘の実績も出てきて確実性が増してきたようにも思われるが、依然として重要拠点である天皇関連と目される墳墓の発掘に着手出来ない事情もあり、諸説の明確な証明が出来そうもない。多分この状況は多分ここ暫くの間は変わらないと思われるし、たとえ発掘することが認められたとしても、決定的な「親魏倭王」の金印のような宝物は盗掘などで既に失われてしまっている可能性があり、再び長い論争が始まることになるだけのように思われる。


 「発掘魂(5)ここに卑弥呼が…邪馬台国だ 古代ロマン、謎が研究者を引き寄せる」。
 昭和40年代(1965~1974年)、奈良県桜井市に炭鉱離職者らを対象にした雇用促進住宅建設の話が持ち上がった。国のエネルギー政策が石炭から石油に転換し、九州などの炭鉱が閉鎖。全国で離職者用住宅が建てられた時期だった。

 邪馬台国の有力候補地

 一帯は水田が広がり、建設に先だって県立橿原考古学研究所(橿考研)が発掘調査を実施。地名から「太田遺跡」と呼ばれた。数百メートル南には、邪馬台国の女王・卑弥呼の墓ともいわれる最古の巨大前方後円墳、箸墓(はしはか)古墳(3世紀後半、全長280メートル)があるが、発掘が特に注目されることはなかった。「調査1年目は飛鳥時代の川跡が見つかっただけ。邪馬台国との関連など思いもしなかった」。最初の発掘を担当した石野博信元副所長(84)は振り返った。2年目に、円弧を組み合わせた特殊な文様が刻まれた土器の破片が出土。箸墓古墳でも同様の文様の土器が見つかっており、箸墓古墳との関係が初めて浮かび上がった。東海や山陰、九州などの影響を受けた土器が多いことも判明。石野さんは「各地から人々が集まってきた『都市』ではないか」と推測し、この時代の首都があった邪馬台国の有力候補になった。一帯は垂仁(すいにん)天皇の「纒向珠城宮(まきむくたまきのみや)」などがあったと日本書紀に記され、遺跡名も「纒向」という神秘性を帯びた名に変わった。
 国内最大級 建物跡

 纒向遺跡の発掘は橿考研から地元の桜井市教育委員会に引き継がれた。平成21(2009)年、JR桜井線・巻向(まきむく)駅近くで、東西に一列に並んだ3世紀前半の国内最大級の大型建物跡(南北19メートル、東西12メートル)など4棟が見つかった。卑弥呼が中国に使者を送ったと中国の歴史書「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に記された239年とほぼ重なり、邪馬台国中枢部の可能性が一気に高まった。「ここに卑弥呼がいたといっていい」(石野さん)。大型建物跡が見つかった場所の重要性に、いち早く気づいていたのが同市纒向学研究センター所長の寺沢薫さん(67)だ。橿考研所員だった昭和53(1978)年に発掘し、柵で囲まれた建物跡の一部を検出。「正確な方位で建てられ、特別な施設だとずっと気になっていた」といい、約30年ぶりの調査でその仮説が証明された。
 「畿内」か「九州」か

 「汝(なんじ)に金印紫綬(しじゅ)を与える」。魏志倭人伝は、魏の皇帝が卑弥呼に金印を授けたと記す。邪馬台国は畿内か九州か-。古代史最大の謎は、金印発見が最大の決め手ともされる。研究者に限らず歴史ファンも、その日を心待ちにしている。纒向遺跡の調査で、石野さんが色めき立ったことがある。平成3(1991)年、紐(ひも)で口を縛った3センチほどの絹の袋「巾着(きんちゃく)」が見つかった。「角張ったもんは入ってないか」。思わず調査担当者に尋ねた。「金印の入った袋ではと。X線撮影をしても確認されなかったが」と残念がる。同遺跡では、約2700個もの桃の種、香辛料に使われるバジル、ベニバナの花粉も出土。ベニバナは古代エジプトではミイラを巻いた布、中国でも染料として使われた。桃は、仙人が暮らす中国の理想の地「桃源郷」を連想させる。
 中国大陸からシルクロード、そして西域へ

 「中国と直接交流していたのだから、何が見つかっても不思議ではない」と寺沢さん。「卑弥呼の政権は、東アジア情勢を敏感に察知しながら中国と外交を展開し、文化を取り入れた。こうした国家構造がすでに3世紀に存在していた」と指摘する。中国大陸からシルクロードを経て西域へ-。世界的なスケールをもつのが纒向遺跡の魅力といえる。「何かの力に引き寄せられるように」。石野さんは、纒向の地に古代人が集まった背景をこう表現する。シルクロードの東端・奈良をはじめ、文化財の宝庫である関西。1800年後の現在も、弥生時代以降の「この国のかたち」を明らかにしようと全国から研究者が集まる。時代を超えた求心力の源は、地下に眠る古代のロマンに他ならない。=この項、おわり

 (敬称略、平成30=2018=年1月29日夕刊1面掲載 年齢や肩書き、呼称は当時)

 三輪山周辺を歩く 目次編

 2010年1月、三輪山周辺を歩きました。

 『笠縫邑を歩く(多神社・秦庄・笠縫神社・秦楽寺) その1(多神社)』

 『笠縫邑を歩く(多神社・秦庄・笠縫神社・秦楽寺) その2(秦庄)』

 『石見鏡作神社 唐古・鍵遺跡を歩く その1(石見鏡作神社)』

 『石見鏡作神社 唐古・鍵遺跡を歩く その2(唐古・鍵遺跡)』

 『石見鏡作神社 唐古・鍵遺跡を歩く 唐古池でみかけたラジコン青年』

 『大和(おおやまと)古墳群を歩く その1(概要説明)』

 『大和(おおやまと)古墳群を歩く その2(大和神社)』

 『大和(おおやまと)古墳群を歩く その3(萱生(かよう)環濠集落へ)』

 『大和(おおやまと)古墳群を歩く その4(西山塚古墳)』

 『大和(おおやまと)古墳群を歩く その5(西殿塚古墳)』

 『大和(おおやまと)古墳群を歩く その6(中山大塚古墳)』

 『大和(おおやまと)古墳群を歩く その7(柿の森を歩く)』

 『大和(おおやまと)古墳群を歩く その8(黒塚古墳)』

  『黒塚古墳 銅鏡備忘録』

 『大和(おおやまと)古墳群を歩く その9(山辺の道)』

 『大和(おおやまと)古墳群を歩く その10(感想)』

 『桜井茶臼山古墳 副葬銅鏡国内最多81面』

 『桜井茶臼山古墳 副葬銅鏡国内最多81面 続報』






(私論.私見)