今年の五月に以前から関心があった奈良県桜井市の纏向(巻向)を訪れる機会があった。JR三輪駅から歩いて行くと日本最古の神社といわれる大神神社(三輪神社)があるが、神殿がなく三輪山をご神体としている。近くの摂社檜原神社は天照大神の伊勢鎮座以前の宮居があった笠縫邑で元伊勢ともいい、三つの鳥居が組み合わさった特異な神殿の姿にも神秘性を感じる。近年はパワースポットとしての人気を集める一方、近傍に多くの古墳もあって古代日本のふるさととも称されている地である。確かに遠くから眺めると、三輪山は稜線が美しく神を感じさせる山であり、少し高台に上がると遠くに大和三山が望め、一際大きな箸墓古墳をはじめとして大小の古墳が数多く並ぶのが見渡せる。この箸墓古墳は墳丘の全長が約280㍍、最大の大仙陵古墳には及ばないが、全国屈指の大きさで列島に初めて出現した大型前方後円墳とされ、三世紀中葉から後半に築かれたと考えられている。
また三輪山と関わる伝説があり、日本書紀にある第七代孝霊天皇の皇女「倭迹迹日百襲姫命(やまとととひもももそひめのみこと)の墓」として1880年以来宮内庁が管理し発掘出来ないが、1942年考古学者、笠井新也は論文「卑弥呼の冢墓と箸墓」を発表して、邪馬台国の卑弥呼が生きたのは第10代崇神天皇の時代で、箸墓が卑弥呼の墓であると主張したことから、周辺の纏向遺跡が注目されてきた。2009年以降に行われた発掘の結果から東西に並ぶ大型の建物跡や水路址が見つかり、全国各地の土器も出土して大きな勢力の存在があったことが確かめられた。また古代中国で不老長寿や魔除として用いた桃の種をはじめとして魚や動物の骨や植物の種も大量に出土して、研究者は呪術の道具や祭祀の供え物が埋められたものとみている。それらのことから鬼道に通じたという卑弥呼と関連づけられて、邪馬台国だった可能性が一層深まったとして、あたかも長年の謎が解明されたかのような新聞報道までなされたのである。
一方でNHKテレビの歴史番組でも「英雄たちの選択」とか「歴史秘話ヒストリア」で卑弥呼のことが取り上げられ、最近の諸説が紹介されると、今なお邪馬台国の話に関心が高いことが判る。ネットで検索してみると、強い関心を持って自ら調べた人を始めとして、邪馬台国が何処にあったかという論争は延々と続いており、近畿説にせよ九州説にせよ夫々主張を見ると、いずれも尤もらしく門外漢では判定が難しい。日本という国家は、何時出来上がったのか、古代史研究者に突きつけられた最大の問いであるが、ただ少しばかり気になるのは、全てではないが主張する論者の出身地盤の影響が見えてくることである。自らの郷土が歴史上に表われる日本最初の地であって欲しいと願い贔屓にしたい気持ちは理解出来ないでもないが、あまりに熱狂して自説を強調するあまり異説を悪しざまにいう論調には違和感さえ覚えてしまう。
それらを解説した本も数多く出ているが、素人向けに平易で比較的偏りのないものとして千田稔著『邪馬台国』(青春新書)がある。その記述に従うと、そもそも邪馬台国を巡る論争は随分昔からなされており、最初は江戸中期の儒医で国学者でもあった松下見林で、元禄六年(1693)『異称日本伝』に「邪馬台」は「ヤマト」と読んで大和の国を指し、卑弥呼は神功皇后と同一人物であるとした。その後、新井白石も正徳六年(1716)『古史通或問』で同様の見解を述べたが、いずれも「魏志倭人伝」の記述を『日本書紀』に基づいて解釈し、邪馬台国の発音を元に大和に結びつけたという。しかし白石は後年『外国之調書』で倭人伝に出てくる地名を読み直して、筑後国山門郡が比定地であるとしたようである。
これに対して享保十五年(1730)本居宣長は『馭戎慨言』で国粋的見地から卑弥呼の神功皇后説を否定し九州説を唱えたが、倭人伝の記述の数字や方向に誤りがあるとした。
明治に入り歴史学者那珂通世は明治十一年(1878)『上古年代考』で九州説と共に卑弥呼は神功皇后より百余年も前の時代の人物で、同一人説を完全に否定した。
そこから東大対京大の二大歴史学者の論争が始まり、先ず東大の東洋史学者・白鳥庫吉が明治四十三年(1910)「倭女王卑弥呼考」で、倭人伝の行程記事を基にして九州説を唱えた。但し、記述には誤りがあり、距離と所要時間に矛盾が生じたと説明した。
同じ頃京大の東洋史学者・内藤湖南は白鳥への反論として「卑弥呼考」で記述の誤りは方位にあり、南を東と読み替えて畿内大和説を主張した。
こうして九州説=白鳥東大、近畿説=内藤京大といった学閥対立に発展し、弟子たちを巻き込んでいったのである。
元を質せば、陳寿の中国の正史『三国志』の中の「魏書東夷伝・倭人条」の記述により始まった議論だが、何故中国の正史に東夷の辺境地のことを記したかは興味深いところである。
先ず紀元前の前漢の歴史書『漢書』地理志には九州を中心として百余の小国に分かれた倭国が認識され交流があったことが記されている。やがて前漢は滅ぶが後継の後漢の正史『後漢書』東夷伝にある通り、邪馬台国以前の奴国が紀元57年に朝貢して、江戸時代に実物が発見された「漢委奴国王」の金印を授けられていた事実がある。大国が辺境の小国に対する待遇としては異例であり、これには地政学的な意味合いがあったものと考えるのは自然であろう。
やがて後漢も滅んで魏・呉・蜀の三国が覇権を争ったが、最も有力な「魏」にとっても事情は同じであったことは想像できる。同時に「倭」も「魏」との交流の必要性があったはずで、倭国大乱と称する小国同士の内戦が続き、その収拾策として卑弥呼を共立させたことが記述されている。依然として政権基盤は不安定であって強力な後ろ盾を必要としたのであろう。239年卑弥呼は魏に使者を送り朝貢し、「親魏倭王」の金印を授かったことが記録されている。一方で魏は倭とも交流していた遼東の公孫氏は王とは認めず、呉の冊封を受けていたことから、前年討伐されていたことを見ての外交政策だったのだろう。それにしてもかくも倭国が優遇された背景には、魏が敵対する呉の背後の南に位置する国と考えられていた節があるとされる。その証拠は229年、呉の後方の西域に位置する大月氏国王波調に同様の「親魏」という冠称をつけた金印紫綬をしていたという。
結局、論争のタネは、倭人伝に記載された魏の使いが邪馬台国に行く過程の記述であり、朝鮮半島から出発して対馬を通り九州北部の国に到着したことは疑いないとしても、そこから邪馬台国に向う距離と方向・所要日数に矛盾が生じてしまうのである。この解釈を巡って日数や方位に誤りがあるとして議論されるが、そのまま読めば遥か赤道近くの南の海中に邪馬台国が存在したことになる。実際1975年に東洋史学者の内田吟風は朝日新聞にインドネシア説を発表し、かつてインドネシアはサンスクリット語で「Yavadvipa」と呼ばれ「耶婆堤国」と漢字音訳出来ると主張し、哲学者の木村鷹太郎はエジプト説も唱えた。このことは倭人伝の表現が如何に曖昧であるかを示しており、その影響は日本国内での比定地とされた所だけでも、北九州や近畿を含め凡そ80箇所もあることになった。
このように邪馬台国の所在地の議論がなされる中で、それが大和朝廷にどう繋がるのかも数多く論じられている。247年頃には卑弥呼が没したとされるが、265年には魏に代わって晋王朝が成立し、次いで呉も滅亡するが、266年には卑弥呼の後継者とされる台与らしい倭人が朝貢した記録が『晋書』にある。しかし以後の記録は何もなく、やがて316年に晋も滅んで戦乱時代になると、後ろ盾を失った倭国も混乱し、邪馬台国という連合も解体したと見られる。
次に中国の資料に倭国が現れるのは、五世紀に入って413年に大和朝廷の始祖とされる倭の五王の讃(履中天皇?)が朝貢した記録が最初である。従って四世紀の記録は何もないが、414年建立されたという広太王碑に倭が朝鮮半島に侵入した記録があり、埼玉県稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘文に「武」の名が見えることから、大和朝廷が国内統一を進め、海外へ進出しようとしていた様子が想像出来るのである。讃に続いて珍(反正)、済(允恭)、興(安康)、武(雄略)という名が現れ、( )内の天皇への当て嵌めは日本書紀からの推定で確定されたものではないが、かつての邪馬台国の姿は全く消え去っている。
時代が進んで八世紀になると、720年には日本で作られた正史『日本書紀』が完成して、その記述は神話部分もあり史実ばかりではないのは明らかだが、『古事記』も合わせて実際の歴史を推定する作業が行われてきた。
特に師弟関係の白鳥庫吉と津田左右吉は、邪馬台国の九州説から出発して大和朝廷への移行を神武東征伝承から説明しようとした。それは九州の邪馬台国が大和に進出したとも九州勢力が大和で邪馬台国を造ったとも読めるから、議論のある九州説と大和説に対して整合的に統一出来ることになる。
NHKテレビの「歴史秘話ヒステリア」では邪馬台国の属国といわれる九州の伊都国が紹介され、纏向遺跡との類似性が語られた。その王墓とされる二世紀末の平原遺跡からは耳?(耳飾り)や多数の中国製鏡が出土し、高貴な女性の墓だったことが分ったというのである。最初に発掘した柳田康雄氏は時代が一致することから墳墓は卑弥呼もしくは関わりのある人物であり、その形式は纏向近くの黒塚古墳に見られることから、この地に居た卑弥呼が大和に遷都したと主張する。
また出土した鏡の中に直系46.5センチで8キロ近く重さもある大きなものがあり、太陽を表す八つの花弁と八つの葉形が描かれており、伊勢神宮の八咫の鏡と同じと思われている。それは太陽神の天照大神や呪術に結びつくとすれば、全て繋がる。因みに「咫」は掌から中指の先までの長さを指し、八咫は146センチ位で鏡の外周を表わす。
以前は黒塚古墳で大量に出た三角縁神獣鏡が魏から贈られたものとされたが、今は魏で造られたものでない可能性が出て、頭部で一枚発見された画文帯神獣鏡に注目が集まっている。古代の鏡は裏面に掘られた画像彫刻が反射した壁面に浮かび上がる魔鏡であったとする説も浮上してきて、呪術具としての可能性は高まったように思われる。鏡には光を介して太陽と結びつき、今でも霊的意味合いがあるように思える。蛇が太陽信仰と結びつくのは古代エジプトなどでもお馴染みだが、大神神社の白蛇伝説や纏向遺跡の建物が東西に並んでいたこと、卑弥呼が死んだとされる年には皆既日食があったことなど合わせると色んな想像が湧いてくる。
このことに関わり、卑弥呼とは日巫女とか日御子ではないかとする説がある。当時文字を持たなかった倭人の声音から中国人が文字化したのだから、漢字に別の意味があったとしても不思議ではない。その他にも「姫児」、「姫子」、「姫尊」など多くの説が入り乱れるが、これは「皇后」とか「女王」とかいった尊称で個人名ではない可能性も指摘される。
さらに詳しくは長田夏樹氏の『邪馬台国の言語』(学生社)があり、『魏志倭人伝』は著者の陳寿の出身地や経歴、参考にした文献などを合わせてみて三世紀の洛陽音で読むべきだとしている。但し、この本は相当専門性が高く、門外漢には精々卑弥呼は「ひむこ」と発音したということくらいしか理解できない。そうすれば卑弥呼は誰かということだが、中国史書のいう通り卑弥呼が女王になったのは180年頃だとすれば、五百年も超えた後年になって作られた古事記や日本書紀などには卑弥呼ではなく、違う名前の女王で登場している可能性が大きい。
そこで呪術を使いカリスマ的人物として日本書紀の編者が「魏志に伝わく」として挙げたのが神功皇后で第14代仲哀天皇の皇后である。これに対して本居宣長は恐れ多いと九州の熊襲の女酋が名を騙ったと推定し、内藤湖南は11代垂仁天皇の皇女倭姫命とし、白鳥庫吉は天照大神を天岩戸伝説から日食が起こった事実と結び付け主張した。九州説を唱える安本美典氏は伝説化した卑弥呼が天照大神に昇華したので、三世紀半ばは初代神武天皇の五代前に相当すると推測統計学で分析した結果で得られた結論だと論じる。先の笠井新也氏の倭迹迹日百襲姫命とする見解も含めて、大部分が古代の大和朝廷との関わりからの比定であるが、いずれにしても決定的な証拠はない。
一方で日本書紀や古事記の記述から推定した時期がシバシバ中国の史書との間でズレを生じるのは、当時の倭国に暦がなく、古代中国の書「魏略」などによれば倭国は「田植え」と「収穫」をそれぞれ年初とする独特の暦を用いていたという話が出てくる。つまり倭国の一年は半年になるわけで、「二倍歴(二倍年暦、半年暦)」ともいわれる。そこで紀記の記述で孝霊天皇の在位期間はそのままではBC290年~BC215年となるが、二倍暦で計算するとAD155年~193年頃となり、古事記中巻の孝霊天皇記に「針間(播磨の国=兵庫県西南部)を起点として吉備国を説得、平定した。」とあるのを、中国の諸書(後漢書・梁書など)に記されている「倭国大乱」の時期とほぼ一致をみるのである。
この弥生時代末期は近畿から瀬戸内地方にかけて「高地性集落」と呼ばれる集落が発達していたが、山の上などには明らかに防衛のために設けられたと見られる乱杭や狼煙址などが見つかっているため、この時期に畿内から瀬戸内にかけて軍事的混乱があったことが認められるという。反対にこれに類する戦乱の跡は九州に発見されず、近畿説を主張する側の有力な根拠となっている。
尤もこれらの背景に倭国が何時から中国の暦を取り入れたかも問題で、通説の欽明天皇(550年頃)か推古天皇(600年頃)のどちらかとする話を基にして以前を二倍暦で修正したという仮定の話である。さらにこの前提を使えば、175年前後に生まれたという卑弥呼が孝霊天皇と親子としても辻褄が合い、宮内庁が箸墓古墳に眠っているとする倭迹迹日百襲媛命とも一致してくるのである。
勿論こんな説はバカバカしいと一笑に付す人も多いだろうが、いずれの説にしても大同小異の仮説なのである。そもそも日本書紀について全て真実だとは誰も思っていないし、中国の史書が自らの立場を離れて事実を書き綴ったとは思われない。元々中国の歴史書の記述について始まった議論で、多くの疑問点が現れて全てを説明し切れない事情が長年続いてきた。そこに日本の歴史書の記述が加わり、明治以降の極端な皇国史観による政治思想もあって、話が一層複雑化したようである。つまり何らかの説を唱えるにしても皇室への配慮がなされたのである。近年は発掘の実績も出てきて確実性が増してきたようにも思われるが、依然として重要拠点である天皇関連と目される墳墓の発掘に着手出来ない事情もあり、諸説の明確な証明が出来そうもない。多分この状況は多分ここ暫くの間は変わらないと思われるし、たとえ発掘することが認められたとしても、決定的な「親魏倭王」の金印のような宝物は盗掘などで既に失われてしまっている可能性があり、再び長い論争が始まることになるだけのように思われる。
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