倉橋日出夫氏の「古代文明の世界へようこそ」

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).8.17日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「倉橋日出夫氏の『古代文明の世界へようこそ』」を確認しておく。

 2009.11.22日、2011.8.29日再編集 れんだいこ拝


【倉橋日出夫氏の「古代文明の世界へようこそ」の邪馬台国論その1】
 ,ネット検索で見つけた倉橋日出夫氏の「古代文明の世界へようこそ」の「邪馬台国は出雲系か謎の出雲文化圏」が、れんだいこ説と近い見解を披歴している。これを転載しておく。
 邪馬台国と大和朝廷の関係は?

 邪馬台国を畿内大和に置き、箸墓を卑弥呼の墓とした場合、私たちは、邪馬台国と初期大和朝廷の距離の近さに驚かずにはいられません。邪馬台国と大和朝廷は、時間的につながるだけでなく、ほとんど同じ場所に位置しています。そうなると、当然、邪馬台国は大和朝廷の前身なのか、という考えが浮かびます。しかし、邪馬台国と大和朝廷は連続しているのか、していないのか、また、女王卑弥呼と、のちの天皇家との関係はどうなるのか、といったことは、まだまったく明らかではありません。

 気になるのは、前の「邪馬台国時代の列島事情」の東遷説のところでも見た神武東征説話です。「記紀」(古事記と日本書紀)にある有名な神武東征説話は、大和朝廷の伝説の初代天皇イワレヒコ、つまり、神武天皇の軍勢が、はるばる九州は日向の高千穂から北九州、瀬戸内を経て、大和に攻め入るという大和制圧のストーリーです。この神武東征説話の成立をめぐっては、これまでに多くの議論があって、史実とみるか、何らかの史実の反映された創作とみるか、さらにはまったくの虚構とみるか、専門家の間でも意見が分かれるところでした。早い話が、史実かどうかよくわからないわけです。

 神武東征説話の語るもの

 かつての文献史学の大家、津田左右吉や井上光貞は虚構説の立場をとりました。東征説話をはじめ、天皇の祖先が天から日向に天下ったという天孫降臨説話なども、もともと中国の古典や仏典をはじめ、北方や南方の民族の伝説を取り入れたもので、「記紀」の作者のフィクション、つまり虚構とみるわけです。一方、現在の多くの研究家は神武東征説話を、まったくの真実ではないにしても、何らかの史実が反映されている話、と見る傾向が強いようです。たとえば、『日本古代国家の成立』という本で、直木孝次郎さんは、次のように書いています。「天皇家の先祖は、外から大和の地にはいり、それ以前から三輪山の神を祭っていた権力を打ち倒して、それに取ってかわったと考えるほかない」。大和盆地東南部の三輪山の麓に宮を開いた最初の大和朝廷(三輪王朝)は、このように大和に侵入した新興の勢力と一般にみられています。しかも、神武軍の大和平定の過程は、決して楽なものではありません。

 大和在来の勢力から王権を譲り受ける

 神武の勢力は、まず河内から大和へ侵入しようとしますが、大和のナガスネヒコの軍勢に現在の東大阪市日下町のあたりで阻まれたあと、紀伊国(和歌山)方面に南進し、紀伊半島をぐるっと周り、熊野に向かいます。そして、熊野から吉野の山を越え、背後から大和に迫るという驚くべき難コースをとっています。きわめて遠回りなうえ、最悪といってもよい険しい山越えのルートです。これは神武の軍勢が、正面突破できるほどの大勢力ではなく、ほとんど逃げ落ちるように紀伊半島を巡っていったことがわかります。大阪湾岸から大和周辺には、おそらくすでに在来の勢力が隙間なく存在していたのでしょう。また、大和盆地そのものの平定にも、幾つもの困難な戦いが続きます。ところが、最後には、同じ天孫族の一員で、大和を支配していたニギハヤヒの命から意外なほどあっさりと王権を譲り受けます。史実はともかく、『日本書紀』のストーリーをそのまま再現すると、このようなものになります。

 三輪山周辺の出雲族

 神武東征伝説が語っているのは、大和朝廷というか、のちの天皇家となる一族は、まず九州出身だということです。かつて、天皇家のルーツは朝鮮半島の騎馬民族だったという騎馬民族征服王朝説というのがありましたが、現在では、考古学的に十分な証拠のある説ではないといわれています。そこで、ひとまず日本書紀に従っておきますと、天皇家のルーツはおそらく九州あたりにあったと考えられます。その勢力が、九州を発し、大和に攻め入り、大和在来の勢力を制圧したことを「記紀」は物語っています。

 では、制圧された大和の在来の勢力とは、いったい何でしょうか。それは、どうも出雲系の勢力だったようです。『神奈備・大神・三輪明神』に水野正好さん(奈良大学学長)が書いているところによりますと、大和の聖なる山、三輪山の西麓や南麓には出雲の名が残っており、三輪山を御神体とし大物主(おおものぬし)神を祀る大神(おおみわ)神社の周辺は、もともと出雲出身の氏族が住むところであった、ということです。大神神社は、もともと出雲氏の氏神的な神社だったようです。こうして出雲族と呼ばれる人々によって始められた三輪山の祭祀が、次第に大和朝廷の勢力に吸収され、5世紀ごろには大神神社そのものが朝廷の御用神社のようになっていく、という経緯が現在では考えられています。つまり、大和朝廷成立以前の三輪山の祭祀権は出雲族が握っており、大和盆地も出雲族の支配する土地であったらしい、ということです。そこに邪馬台国を重ねると、どうなるかということです。

 出雲系と天照系

 大和朝廷成立以前の大和には、出雲の神々を奉じる邪馬台国があったと想定してみると、日本の古代史は、まったく別の様相を帯びてきます。九州にルーツをもつ初期大和政権は、畿内大和を支配していた出雲系の邪馬台国から、王権を譲り受けたか、あるいは奪ったのではないか、と私は考えています。日本書紀には、箸墓に葬られた百襲姫(倭迹迹日百襲姫)が三輪山の神と結婚したことが述べられていました。百襲姫に卑弥呼を重ねてみると、やはり邪馬台国が出雲系だったことが考えられます。

 一方、日本神話には出雲の国譲りが述べられています。葦原中つ国(日本)の支配権が出雲の神々から天孫族の神々に譲られるというものです。神武東征説話と、出雲の国譲り神話、このふたつの話はともに、大和朝廷の勢力が別のある勢力から大和あるいは列島の支配権を譲り受けたことを物語っています。今となってはそこに、邪馬台国が重なってくるのです。

 すでに大和朝廷成立以前の日本列島では、出雲を宗教的な故地とする出雲文化圏のようなものが存在していたのではないか、と私は考えています。その出雲文化というのは、おそらく縄文時代にまでさかのぼるルーツを持ち、列島の多くをすでに覆っていたのではないか。しかし、大陸との交流が活発化する弥生時代後期になると、出雲文化圏の中心地は大和に移っており、大和の王権、すなわち邪馬台国が成立したのではないか、という推理です。初期大和朝廷は、その邪馬台国から王権を譲り受けている、言葉を代えていえば、奪っているのではないか・・・・。

 大和朝廷とはいうまでもなく、天孫系の天照大神を奉じる王朝です。その歴史を正当化する「記紀」では、出雲の神々はむしろ冷遇されています。邪馬台国から大和朝廷への政権の移行には、おそらく王統は連続せず、実際には王権の簒奪のようなことが行われたのではないか・・・・、こんな構図が見えてくるのです。

 第二部の「大和朝廷誕生の謎」では、このあたりをもう少し詳しく見ていきます。(2004年3月)

 倉橋日出夫氏の「古代文明の世界へようこそ」は「記紀には、なぜ卑弥呼の名がないのか消された邪馬台国の存在」で次のように述べている。これを転載しておく。
 ふたつの天皇陵

 「記紀」(古事記と日本書紀)によりますと、大和朝廷の実質的な創始者とされる第10代崇神天皇以下、最初の3代の天皇が、纏向周辺の三輪山山麓に宮を築いています。初期の大型前方後円墳もこの地域に集中しています。纏向遺跡のすぐ近くで、大和政権は誕生しているという事実があるわけです。日本書紀には、崇神天皇の墓は「山の辺の道の匂(まがり)の岡の上」にあると記されていますが、その正確な場所は明らかではありません。今日、崇神天皇の墓とされているのは、箸墓から2キロほど離れた山裾にある行燈山古墳(あんどんやまこふん)です。初期の古墳が多く集まる柳本古墳群と呼ばれるところで、この行燈山古墳と、箸墓古墳のほぼ中間に、渋谷向山古墳(しぶたにむこうやまこふん)という大きな古墳があります。こちらは第12代景行天皇陵とされています。行燈山古墳と渋谷向山古墳のふたつの古墳は、前者が全長242m、後者が全長302mで、景行陵の方が崇神陵より大きく造られています。

 ところが、このふたつの古墳はかつて、陵墓比定が逆だったといわれています。江戸時代末の1861年から66年にかけて、「文久の修陵」と呼ばれる大規模な天皇陵の修復がおこなわれました。それは修復とはいっても、濠を広げたり、堤を高くするなど、大がかりな土木工事を伴うもので、「新しい古墳づくりといった側面さえあった」(森浩一著『前方後円墳の世紀』『巨大古墳の世紀』)ということです。問題は、この文久の修陵以前には、行燈山古墳が景行陵で、渋谷向山古墳が崇神陵であった点です。かつては現在とは逆の陵墓比定だったわけです。そして、修復工事が終了する直前の1865年、ふたつの陵墓比定の取り替えが行われ、現在のように、行燈山古墳を崇神陵、渋谷向山古墳を景行陵となったようです。

 邪馬台国と大和朝廷の関係

 ところが、現在の考古学では、かつての陵墓比定の方が正しかった可能性が指摘されています。宮内庁がふたつの陵墓の周濠の土器を調査したところ、渋谷向山古墳(現景行天皇陵)の方が、行燈山古墳(現崇神天皇陵)より古い形式の土器だったといいます。まだ確定するだけの十分な資料があるわけではないようですが、どうやら渋谷向山古墳の方が古いらしい。つまり、崇神天皇の墓は、行燈山古墳よりも渋谷向山古墳の可能性が強い。そうなると、卑弥呼の墓としてきわめて有力になってきた箸墓と、大和朝廷の創始者とされる崇神天皇の墓は、すぐ隣り合ったきわめて近い位置関係にあるということになります。ちょうど纏向遺跡を挟むように南と北に位置しているわけです。

 しかも、邪馬台国と大和朝廷は、単純に地理的に距離が近いというだけではなく、時間的にも非常に近いということがわかってきました。最近の弥生時代と古墳時代の編年研究では、邪馬台国と初期大和朝廷は、時間的にほとんど繋がっているといってもいいほどです。卑弥呼の死(3世紀中ごろ)を境にして、大和盆地で巨大な前方後円墳が造られ始めるという現象があるからです。

 そうなると、大和朝廷の前身を、邪馬台国と考えてみたくなるのが自然というものです。幻の邪馬台国が、思いがけず日本の古代史のなかで、もう少し具体性を帯びてきます。ところが、邪馬台国と大和朝廷の関係は、実際のところ、まったく明らかではありません。系譜として連続しているのかどうか、それもよくわからない。邪馬台国がそのまま連続的に発展して初期大和朝廷(三輪王朝)になったのか、そうではなく、邪馬台国と大和朝廷は別系統の王朝なのか、そこがわからない。不思議なことに、「記紀」にはそのあたりのことが何にも語られていないのです。むしろ、箸墓に葬られた百襲姫と、崇神天皇の背後には、何か不穏な空気があります。邪馬台国から大和朝廷へという時代の転換には、どうも秘密があるらしい。女王卑弥呼と崇神天皇、邪馬台国と大和朝廷をめぐるミステリーが、まさにここにあるわけです。

 記紀には邪馬台国の記述がない

 考えてみるとかなり変なことなのですが、「記紀」には邪馬台国のことが何も書かれていません。邪馬台国という名も、卑弥呼も、台与も、男弟の存在も、何にも書かれていません。なぜでしょうか。ここには絶対に軽視されるべきではないある重大な秘密があるといえます。魏志倭人伝には、邪馬台国や卑弥呼ばかりでなく、当時の日本の様子が具体的に描かれています。しかも、魏書というれっきとした王朝の正史ともいえる史書に書かれています。それなのに、当の日本の「記紀」には、それを思わせる記述がない。そもそもこれ自体がおかしなことです。

 8世紀に編纂された「記紀」は、日本の歴史を神代にまでさかのぼって書かれたもので、特に日本書紀は日本におけるまさに正史です。そこには本当なら2~3世紀頃の邪馬台国のことは書かれていなければなりません。初期大和政権の誕生をもって、つまり古墳時代に入って前方後円墳体制ができあがる時期をもって、国家の始まりとするなら、その直前に存在したのが邪馬台国です。中国の史書に「30の国を支配し、女王卑弥呼の都するところ」とまで書かれている内容は、「記紀」には、本来、卑弥呼の実名入りで書かれているべき事柄です。ところがそれがない。しかし、よく見ると、とても奇妙な記述が何箇所かあるのです。

 「記紀」の立場

 「記紀」の編者たちにとっては、大王(天皇)家は、いうまでもなく神代から続く日本で唯一の正当な王朝でなければなりません。ところが、彼らにとって最も気になったことは、歴史の本場、中国の正史に「倭国」の「女王」として、邪馬台国と卑弥呼の名がすでに堂々と述べられていることです。中国の魏書に「倭国には女王がいた」と書いてある。当時とすれば、中国はあこがれの文化の国、知識の供給源であったばかりか、文字そのものを輸入した国でもあります。その中国の史書に邪馬台国の存在が書かれている。すでに世界から認められている正当な倭国の王朝、それが邪馬台国だといえます。

 しかし、「記紀」の編者たちにとっては、それはどうもおもしろくないことだったらしい。むしろ、目障りでさえあったのではないでしょうか。「記紀」の立場というのは、いうまでもなく、大和政権を正当化したいということに尽きるわけです。ちょうど「記紀」が成立する頃、「日本」という国号や、「天皇」という呼び名が生まれてきます。国家としての形態をきちんと整えなければならない、歴史もまとめておかなければならない、そういう時期です。そういう時代の知識人の代表である「記紀」の編者たちは、なぜか、邪馬台国や卑弥呼という名前には触れたくなかったのです。

 なぜ卑弥呼の名がないのか

 しかし、日本書紀には、思わぬところに卑弥呼の存在が、じつはすべり込ませてあります。崇神天皇から数えて4代あとの仲哀(ちゅうあい)天皇の后、神功皇后(じんぐうこうごう)のところで、彼女の治世39年に、分註として次のように述べられています。・・・・魏志によると、景初3年6月、倭の女王は使いを帯方郡に送り、魏への朝貢を申しでて、洛陽に至ったという・・・・ここにある魏志とは、もちろん魏志倭人伝のことです。同じような分註としての記述が第40年、第43年にもあります。「景初3年6月、倭の女王が帯方郡に使いを送った」とは、まさしく邪馬台国の女王、卑弥呼のことにほかなりません。こんなことが日本書紀には、こっそりと分註という形で書かれているのです。

 これまでの研究で、この分註は後の時代に書き込まれたものではなく、日本書紀成立当初から書かれていたと考えられています。つまり、「記紀」の編者たちは、ちゃんと魏志倭人伝を読んでいて、卑弥呼のことも、邪馬台国のことも知っていたわけです。でも、その書き方がちょっと妙で、わざわざ「魏志によると」と断ったうえで、神功皇后の治世の間に、「倭の女王が使いを送ってきたと中国の史書は書いていますよ」と他人ごとのようにいっています。「我々にはよく知らないことですが」とでもいいたげな雰囲気です。しかしそうはいっても、日本書紀の編者たちは、暗に、神功皇后を卑弥呼とみなしています。神功皇后という人物に、卑弥呼という歴史的存在を重ねようとしているのです。

 日本書紀の編者たちの年代観では、神功皇后の治世の時期が魏志倭人伝にある邪馬台国の卑弥呼時代に当たると考えていたようです。しかし、分註で曖昧にほのめかしても、邪馬台国の名も、卑弥呼の名も出さず、邪馬台国そのものには知らんぷりをしています。「魏志によると」などという書き方自体、かなり不自然です。

 神功皇后が卑弥呼?

 もちろん神功皇后の時代では、卑弥呼の時代に年代が合わないのはいうまでもありません。神功皇后という女性は、実のところ、実在した人物かどうか疑われているのですが、仮に実在したとしても3世紀末~4世紀半ばの人物です。2世紀末から3世紀中ごろまでの卑弥呼とは、百年ほど離れています。もともと「記紀」の記述には、政治的な作為が強いと指摘されているのですが、卑弥呼と神功皇后の間にも、何やら不可解な作為がプーンと感じられるのです。

 日本書紀の年代観は、60年でひとめぐりする中国の干支暦のふたまわり分、つまり120年分古く取っていることがわかっています。中国の暦や出来事を参考にして、日本の歴史を120年分古く取ったらしい。日本にはまだ正確な暦や記録がなかったためにそうなったのか、わざと古くみせるために意図的にそうしたのか、もちろん今ではわかりません。しかしいずれにしても、日本書紀の編者は、神功皇后という人物に邪馬台国の女王、卑弥呼を仮託しようとしています。何のためにそんなことをする必要があったのでしょうか。

 ちょっと弁解じみたことをいえば、8世紀に「記紀」が編纂された頃には、すでに邪馬台国の記憶がほとんど残っていなかったという事情があったのかもしれません。自分たちの国の記録にも、記憶にもそれがないのに、歴史を記録することにかけては本場の中国の史書に、「邪馬台国」や「卑弥呼」の存在が述べられている。そのために仕方なく、神功皇后という女性を創出し、辻褄(つじつま)を合わせておいたということかもしれません。さらには、「邪馬台国」といい、「卑弥呼」といい蔑視をこめたような名前になっているのを嫌って、そんなことをした可能性もあります。

 神功皇后という架空の人物を創作

 一方、そうではなく、もっと強い作為があった可能性もあります。邪馬台国や卑弥呼の存在そのものを日本の歴史から消してしまったと考えることもできるのです。神功皇后という架空の人物をつくることで、卑弥呼を大和政権の系譜に強引に押し込んでしまう。つまり、事実上、日本の歴史の中から、邪馬台国の存在を消してしまった。そのようにみることだって、できるわけです。神功皇后という女性は、その名前が象徴しているように、何とも勇ましい女傑として描かれています。まるで、ギリシア神話の戦う女神のように勇ましいのですが、逆に、勇ましすぎて、どこか漫画みたいなところがあります。

 神功皇后は、北九州の筑紫で夫の仲哀天皇が死んだ後、みずから軍を率いて朝鮮半島に出兵するという行動派の女性です。その様子が普通ではなくて、彼女の乗った船は、波や風はおろか、海の魚にまで持ち上げられ、新羅の国土の中まで運ばれます。それを見た新羅の王は、「神の国の神兵がやってきた」と白旗をあげて降伏し、「服従して、馬飼いになりましょう」などという始末。しかし実際には、そんなに都合よく物事が運ぶとは、ちょっと考えられません。また、彼女は新羅への出兵にさいして、お腹の中に子を宿しているのですが、遠征中に(遠征の直前とも)子供が生まれそうになると、腰に重い石を縛りつけてそれを押さえ、北九州の筑紫に戻って、ようやく出産するという具合です。その子供がのちの応神天皇です。このあたりは、たしかに、どうも白々しい。神功皇后はまた一方で、神がかりとなって神託をくだす巫女的な女性としても描かれています。どこかで邪馬台国の卑弥呼を思わせるのです。さらに彼女は、30代の前半、仲哀天皇の死によってみずから政務を取り始め、百歳で死ぬまでに60数年間も政権の中枢にいたことになっています。これも卑弥呼が60年間ほど女王であった姿と重なってきます。

 倭人伝の記述を知っていた編者たち

 こうなってくると、日本書紀の編者たちは、魏志倭人伝の記述をじつによく知っているし、魏志倭人伝の記述に合うように神功皇后という女性を扱っている、と考えないわけにはいきません。このようにさりげなく辻褄を合わせたり、分註のなかで卑弥呼の存在をほのめかしたり、細かな細工をしていますが、しかし、正面きって「神功皇后は卑弥呼ですよ」と、彼らは言うのではない。それはそうでしょう。架空の人物を実在の人物に重ねること自体に無理があります。「記紀」は一方で、日本の正史でもありますから、あまり見えすいた嘘を書くわけにもいかなかったのでしょう。

 歴史的に見ると、3世紀の邪馬台国の時代には、倭国の軍隊が朝鮮半島に出兵したような事実はありません。そもそも当時はまだ、朝鮮半島に新羅という国は建国されていないのです。ですから、この点でも神功皇后を卑弥呼に重ねるのはかなり無理があります。ところが、4世紀の後半ごろなら、倭国の軍隊が百済救援のために朝鮮半島に出兵していたことは、高句麗の碑文から知られています。何度か新羅や高句麗との戦いがあったようです。ただし、神功皇后に相当するような日本の天皇か皇后に率いられた軍隊が、朝鮮半島に出兵したという事実はありません。

 神功皇后を思わせる人物といえば、6世紀に斉明天皇という女帝がいて、有名な白村江の戦いの2年ほど前に、百済救援と新羅攻撃のため北九州にまで遠征したケースがあります。神功皇后はどうもこの女帝がモデルになっているのではないか、といわれています。そこに卑弥呼もダブらせてあるわけです。さらに、初期の大和朝廷(三輪王朝)の天皇は男性ばかりで、女帝や女王などはいません。やっぱり神功皇后の記述自体がかなり嘘っぽい。そいうことになります。

 歴史から邪馬台国を消す

 もう一度考えてみましょう。「記紀」には、なぜ邪馬台国も、卑弥呼の名前もないのでしょうか・・・・。それは前にも述べたように、蔑視をこめたような呼び名のせいかもしれないし、あるいは、邪馬台国の卑弥呼は中国の魏に朝貢したように書かれているから、そのへんが大和政権としてはおもしろくなかったのかもしれません。しかしおそらく、理由はそれだけではないでしょう。当時の大和政権は、天皇を頂点とするピラミッド型の社会システムを懸命に構築しようとしている時期です。そんな彼らにとって、たぶん卑弥呼の存在はきわめて目障りだったと考えられます。それはなぜでしょうか・・・・。

 もし、邪馬台国がどこか九州あたりの狭い地域の小さな部族国家で、卑弥呼はその女酋長のような存在であれば、大和政権としては放っておけばいいことです。中国の史書も、そんな小さな国のことを、わざわざ倭国の代表のようには書かないでしょう。しかし現実には、邪馬台国は30ほどのクニを統合する倭国の代表で、卑弥呼はその女王として中国の正史に述べられています。小さなクニの小さな部族国家などではありません。だからこそ、魏の王朝は、卑弥呼に「親魏倭王」の称号を授け、銅鏡百枚をはじめ、多くの贈り物を与えるという、当時の中国外交としては異例な待遇をするのです。倭国を代表する正当な王権だったからこそ、そこまでしたのです。

 邪馬台国と大和朝廷の格闘

 「記紀」の立場に立てば、中国の史書に載ったほどの正当な邪馬台国は、当然、大和朝廷の系譜のなかに存在していなければならない。そういうことになります。そうでなければ、大王家が神代から続く正当な王朝とはいえないからです。どこかに卑弥呼を思わせる人物を入れておかないと恰好がつきません。そこで「記紀」の編者たちは、神功皇后という女帝を創ることで魏志に擦り寄ろうとしたらしい。まさに卑弥呼を彼らの系譜に取り込んだわけです。ところが、彼らには一方で、邪馬台国という名も、卑弥呼という名もなぜか出したくないという思いがある。素直にそれを受け入れられない事情が「記紀」の編者たちにはあるのです。だからこそ、「魏志によれば云々・・・・」と、分註のなかで曖昧に匂わせるような、ぼかした表現をしているのです。

 そう考えると、これはもう確信犯に見えてきます。「記紀」がことさら邪馬台国や卑弥呼の存在を無視しているように見えるのには、じつは大きな理由があります。垣間見えるのは、邪馬台国と大和朝廷の間には、どうもギクシャクした関係がありそうだ、ということです。邪馬台国から大和朝廷へという流れは、あまりスムーズではなく、何か大きな格闘があるように見えます。たぶん、大和政権の系譜と、邪馬台国の系譜は違うからです。両者の間には、ひょっとしたら王朝の交代か、さらには王権の簒奪があった可能性があります。大和朝廷は、邪馬台国から連続的に発展した政権ではたぶんないし、正当な後継者でもない。「記紀」の編者にとっては、神功皇后という架空の人物を創出することで、卑弥呼の存在はもちろん、邪馬台国そのものを歴史から塗り消してしまう必要があった。そう考えられるのです。(2004/4/17)

【倉橋日出夫氏の「古代文明の世界へようこそ」の邪馬台国論その2】
 倉橋日出夫氏の「古代文明の世界へようこそ」は「邪馬台国時代の列島事情」で次のように述べている。これを転載しておく。

邪馬台国時代の列島事情

倭国大乱をへて卑弥呼が女王に共立された舞台は
列島のどれほどの地域に及んだのか?
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 考古学者の9割が畿内説支持

 1996年の池上曽根遺跡での衝撃的な年代修正、いわゆる「弥生の年代革命」は、考古学史上きわめて大きな事件となりました。この事件以後、半年たち、1年たつうちに、考古学者に新たな動きがあらわれてきます。邪馬台国の所在地については明言をさける傾向にあった研究者たちが、はっきりと態度を表明し始めました。多少の温度差はあっても、その大半が畿内説です。当時すでに考古学者の9割が畿内説といわれたほどでしたから、現在では、もっと多いものと思われます。

 もともと考古学者の間では、九州説よりも畿内説のほうが優勢とはいわれていましたが、これほどはっきりした動きが現れる背景には、弥生の年代修正によって、近畿地方の立場が相対的に上がってきたことがあげられます。弥生時代中期後半の近畿地方には、池上曽根遺跡など多くの環濠集落が存在することがわかっています。それらは当時の「近畿の首都」ともいうべき奈良県の唐古・鍵遺跡を取り囲むように分布しています。遺跡の分布密農を見ると、すでにそのころから畿内のほうが北部九州より高いとみられています。

 中国とも独自の交渉ルートを持つ

 以前は畿内のこのような弥生遺跡の年代が、紀元後1世紀くらいと考えられていたのが、今では紀元前1世紀です。つまり、邪馬台国の卑弥呼の時代より200年も前に、近畿地方では、各地を結ぶネットワークが形成されていたようです。また、唐古・鍵遺跡や池上曽根遺跡の調査によると、畿内の社会ではすでに、中国や朝鮮半島との独目の交渉ルートをもつていたらしい。これは邪馬台国諭争の根幹を揺るがす新たな見方です。女王卑弥呼が登場する200年も前に、近畿はそれくらいのレベルにあったと見られ始めました。

 大陸と交渉する玄関口も、北部九州だけでなく、出雲をはじめとする山陰地方や、丹後半島あたりにもあったのではないかと予想されています。しかも、弥生中期の大規模な環濠集落は、近畿地方だけでなく列島各地に広く分布しています。かつては、列島の各地域は北部九州の影響下にあるとする見方が有力で、『魏志倭人伝』に描かれた倭国内の30国も、北部九州のなかだけで捉えようとする見方もありました。しかし今では、列島規模で見なければ弥生時代の倭国の実情に合わなくなっているのです。

 邪馬台国時代の大型墳丘墓

 邪馬台国はいかにも霧の向こうの伝説の古代国家といった印象ですが、じつは、弥生時代の終末期に位置しています。弥生時代の初めに本格的な稲作が開始されてから、すでに数百年が(最新の説では千年ほどが)過ぎた時代です。つまり、弥生の社会が威熟し、次の古墳時代へと向かう境目に邪馬台国は位置しています。ちょうど邪馬台国に卑弥呼が登場する頃から、列島各地には弥生の墳丘墓といわれる大型の墓が造られ始めます。これらは古墳時代の始まりを告げる前方後円墳の元になる墓の形態といわれています。

 弥生の墳丘墓は、最初に山陰地方の出雲や瀬戸内地方で造られはじめ、やがて大和や丹波、遠くでは関東の干葉県でも造られるようになります。ちょうど卑弥呼が生きていた時代に、列島各地でそれらが造られ始めるわけです。これは、それぞれの地域を束ねる首長クラスの人物が、列島各地に存在したことを意味します。

 日本で最初の巨大な前方後円墳、箸墓のある大和の纏向遺跡にも、石塚や矢塚など、箸墓より古い弥生の墳丘墓がいくつかあります。それらはすでに前方後円 形をしており、大きさも数十メートルの規模があります。とくに、石塚は100 メートル近く、弥生の墳丘墓のピークに位置しています。箸墓が造られる前に、大和の纏向遺跡ではそれだけの墓を築く首長がいた、ということです。注目されるのは、石塚の築造年代ですが、最近の調査報告によると2世紀末か3世紀初頭という非常に早い時代とされています。卑弥呼がまだ生きている時代、というよりも卑弥呼が女王になって間もないころに造られたようです。こうなってくると、邪馬台国東遷説はまったく立場がなくなります。

 東遷説の盛衰

 邪馬台国東遷説というのは、卑弥呼の時代に北部九州にあった邪馬台国が、次の女王、台与(壱与)の時代に、畿内大和に移動したというような考え方です。これまでの邪馬台国論争では、この東遷説が、非常に勢いよく唱えられていました。マスコミによく登場する有力な考古学者が主張していたこともあって、作家やマスコミ関係者に支持者が多く、あたかも最有力説のような観さえ呈していました。ところが、東遷説でいう邪馬台国が九州から大和に遷(うつ)ってくる以前に、列島各地でこのよう弥生の墳丘墓を造る動きがあり、大和の纏向では、石塚と いう大きな首長墓が築かれていたとなると、邪馬台国が東遷してくる必要はどこにもなくなります。『魏志倭人伝』にはまた、卑弥呼が女王に共立される前、倭国は大いに乱れたと記されています。この倭国大乱と関連づけられる高地性集落遺跡は、九州から北陸にいたる列島の西半分ほどを覆(おお)う広がりをもっています。卑弥呼が女王に共立される舞台は、九州だけにとどまらず、列島の西半分ほどを覆っていたと考えないわけにいきません。

 神武東征説話の意味

 邪馬台国東遷説は、「先進の北部九州」と「古墳という受け皿をもつ畿内」を結びつける旧来の考え方の上に立っています。しかし、今では九州と近畿の時間差がほとんどなくなり、あえて両者を結びつける必然性はなくなってしまいました。また、東遷説には古事記や日本書記にある神武天皇の東征説話が暗に考慮されている、といわれています。神武東征とは、九州に天降った天皇家の祖先が、やがて神武天皇の代になって畿内を征服したというストーリーです。でも今となっては、神武天皇の東征説話の背後に邪馬台国の東遷という事実があったというような、こねくり回したアイデアを出すよりも、天皇家のルーツは九州にあったと単純に考えるほうが、おそらく歴史の真実には近い、と私には思えます。 むしろ、神武東征説話には、別の意味があると私は見ています。(2004年3月)
 倉橋日出夫氏の「古代文明の世界へようこそ」は「箸墓は卑弥呼の墓か」で次のように述べている。これを転載しておく。
箸墓は卑弥呼の墓か
「昼は人が造り、夜は神が造った」
卑弥呼の墓は、最初の前方後円墳?
  卑弥呼の墓が古墳 ?

 弥生の年代修正の影響は、邪馬台国論争で畿内説が極めて有力になったというだけに止まりませんでした。弥生時代に対する近畿地方の年代変更が行われた結果、思いがけない事態が発生しました。古墳時代の始まりと、卑弥呼の死亡時期が接近し、卑弥呼の墓が古墳である可能性が強まってきたのです。卑弥呼の墓が古墳!まったく、びっくりするような話になってきました。卑弥呼が死亡したのは、『魏志倭人伝』などの文献によって、3世紀中ごろの247年か、248年とわかっています。それに対して、古墳時代の始まりは、 これまで3世紀末(大体280年ごろ)とするのが、考古学者の一般的な見方でし た。つまり、邪馬台国も卑弥呼も、これまでは古墳時代とはあまり関係ない、と 思われていたのです。 ところが、池上曽根遺跡で年輪年代法の結果が出て以来、これまでの近畿の弥生中期、後期を年代的に見直す動きが進み、今では、古墳時代の開始を3世紀中ごろとするのがむしろ大勢となっています。卑弥呼の死亡時期とピタリと重なってきます。邪馬台国の時代と、古墳時代が時間的につながってきたのです。卑弥呼が死んで葬られた墓は、じつは日本で最初に造られた巨大な前方後円墳ではないか、という見方が現実となってきます。

 もっと具体的にいえば、考古学者の間では、奈良県纏向(まきむく)遺跡にある全長約280メートルの日本で最初の巨大な前方後円墳、箸墓(箸中山古墳)(写真左上)をもって、卑弥呼の墓とする見方が、にわかに注目され始めました。すでに箸墓を卑弥呼の墓の最有力候補とする暗黙の合意が、研究者の間に成立しつつあるといっても、過言ではないと私には思えます。
 邪馬台国論争はここにきて、九州か畿内かという次元を越え、思わぬ展開を見せ始めたのです。

 纏向遺跡の古墳群

 日本で最初に巨大な前方後円墳群が出現するのは、大和盆地東南部の三輪山山麓です。それらは日本で最初の統一政権、大和朝廷の有力者の墓として築かれたものですが、山の辺の道に沿って行燈山古墳(崇神天皇陵)、渋谷向山古墳(景行天皇陵)、箸墓などが1~2キロの間隔で並んでいます。これらの古墳群のなかでも最古の前方後円墳とされる箸墓のある纏向遺跡には、さらに古い古墳群があります。石塚や矢塚など弥生の墳丘墓と呼ばれるものですが、これらの墳墓群もすでに前方後円形をしています。「ホタテ貝型」と呼ばれる墳墓です。また、箸墓のすぐそばには、箸墓と同時期に作られたとされるホケノ山古墳もあります。これはすでに前方後円墳の形をしています。つまり、纏向遺跡では、いくつかの大きな弥生の墳丘墓が築造されたあと、箸墓という最初の巨大な墓が出現します。この纏向遺跡の数キロ西には、弥生時代の「近畿の首都」ともいうべき唐古・鍵(からこ・かぎ)遺跡があります。おもしろいことに、纏向遺跡は、ちょうど唐古・鍵遺跡と入れ代わるように出現します。紀元180年ごろに突如として姿を現し、大いに栄えたあと、紀元340年ごろ、急速に衰退するとされています。卑弥呼が女王になったのが紀元180年ごろですから、まさに、邪馬台国から初期大和朝廷の時代に重なります。しかも、邪馬台国から大和朝廷へのちょうど境目に箸墓は位置するわけです。

 不思議な箸墓伝説

 卑弥呼の墓と目される箸墓は、初期大和朝廷の創始者、崇神天皇の古墳(写真右)よりも前に造られています。『日本書紀』によると、箸墓は倭迹迹日百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)の墓とされています。また「昼は人が造り、夜は神が造った」という不思議な伝説を伝えています。伝説のとおり、箸墓のそばに近づいてみると、見上げるような高さと、巨大さを実感します。平地から直接、土を盛り上げて急勾配に造られているためです。崇神天皇陵や、景行天皇陵など、大和朝廷の初期の天皇陵も大きさでは箸墓と変わりませんが、これらは自然の地形を利用して造られているため、箸墓ほどの巨大さは感じません。築造の手間という点では、箸墓の方がずっと人手がかかっているように思えます。ヤマトトトヒモモソヒメ・・・・以下、百襲姫(モモソヒメ)は、大和朝廷の初代崇神天皇のそばに仕える巫女のような存在、と『日本書紀』には描かれています。何か予言の能力のようなものを持っていたようですが、三輪山の蛇神と結婚して、最後には、箸で女陰(ほと)を突いて死んでしまいます。そこから箸墓という名がついたようです。この女性が、『魏志倭人伝』が伝える卑弥呼のシャーマン的な姿と重なるのは事実です。「昼は人が造り、夜は神が造った」と伝説がいうとおり、箸墓も、百襲姫も、十分な存在感と神秘性をもっています。

 径百歩の塚

 ところで、箸墓を卑弥呼の墓とする考え方は、じつはもっと以前からありました。百襲姫と卑弥呼のシャーマン的な性格が共通するということのほかに、箸墓の後円部の大きさが、『魏志倭人伝』にある卑弥呼の墓の大きさとよく符合するという指摘です。『魏志倭人伝』には、卑弥呼が死んだとき造られた墓の大きさについて、「径百余歩」と記されています。百余歩とは、当時の中国の魏の尺度である1歩=145センチを基準にすると、150メートル前後になります。箸墓の後円部の大きさ約160mとよく合うわけです。日本中の弥生の墳丘墓を探してみても、これほど大きな墓はありません。しかし、これまでは箸墓の築造時期と、卑弥呼の死亡時期が合わないということで、この考え方はあまり取り上げられてきませんでした。箸墓=卑弥呼の墓説が、本当に多くの研究者に現実のものとなってきたのは、やはり、年輪年代法によって近畿地方の弥生の年代観が決定的に変わった数年前からです。

 大市は大巫女か

 箸墓の名称は、宮内庁によると「倭迹迹日百襲姫命の大市墓」となっています。この箸墓のある纏向遺跡こそ、今では邪馬台国の候補地としてきわめて有力になっているわけですが、このあたりの発掘で、ちょっと気になる出土品が出ています。 纏向遺跡の河跡から出土した7世紀の土器には、「大市」と推定できる墨の文字(墨書)が書かれていました。『日本書紀』には、百襲姫が葬られた場所を「大市」とする記述があり、これとも符合し、まさにこの土地の名を記しているようです。古代には、このあたりは「纏向」と呼ばれ、磯城郡大市郷でした。「大市」にしろ、「纏向」にしろ、相当古い地名に違いありません。この「大市」という名については、「大きな市」という意味がすぐに浮かびます。交易の盛んな町というイメージで、纏向遺跡の都市的な性格を反映しているとされています。倭人伝には、「国々市あり、有無を交易し」とあり、邪馬台国ではいろいろな物品の交易が盛んに行われていたことを記しています。地名の由来としては、もちろんそれで十分筋が通っているわけですが、この「市」という呼び名について、民俗学の大家、柳田国男がじつに興味深い考えを示しています。「山の人生」の中で、彼は次のように述べています。「イチは現代に至るまで神に仕える女性を意味している。語の起こりはイツキメ(斎女)であったろうが、また一の巫女(みこ)などとも書いて最も主神に近接する者の意味に解し、母の子とともにあるときは、その子の名を小市(こいち)または市太郎とも伝えていた」。

 柳田国男はもちろん百襲姫の「大市墓」について書いているのではありませんが、彼の考えによれば、大市は「大巫女」または「母巫女」であるということです。さらに、母子ともに巫女だった場合は、子供の方を「小市」と呼んだという。すると、「大市」と「小市」とは、「大市」の卑弥呼にたいして、卑弥呼の養女で、後継者の台与が「小市」だったのではないか、とも推測できるわけです。シャーマン的な卑弥呼の姿と、百襲姫は、やはりここでも重なってくるわけです。

 箸墓が発掘されれば・・・・

 日本書紀が編纂されたのは、8世紀のことで、卑弥呼あるいは百襲姫の死からは、何百年も後のことです。大市に葬るとある「大市」とは、いったいいつ頃できた地名なのか明らかでありませんが、もともと百襲姫の存在、そして箸墓の存在をもって、大市という地名が生まれたではないか、とも考えられます。この地名はひょっとしたら、邪馬台国時代までさかのぼるものなのかもしれません。


(C)Syogakukan 1998

 では、卑弥呼の墓としてこれほど有力になった箸墓を発掘すれば、本当に卑弥呼の遺骸が現れるのでしょうか。もし発掘が可能であれば、卑弥呼が現れてくるのかもしれませんが、現在のところ、箸墓は宮内庁の陵墓参考地となっているため、残念ながら発掘はおろか、自由な立ち入りも許されていない状況です。そして、仮に箸墓が発掘されても、これまでの例からいって、遺骸が残されている可能性は少ないかもしれません。これは日本の気候が関係していると思いますが、これまでの古墳などの発掘では、遺骸が残されているケースは、あまりないからです。しかし、卑弥呼が魏の皇帝からもらったとされる「親魏倭王」の金印や中国魏代の絹織物、そして3世紀前半に位置づけられる大量の魏鏡などの文物が出土すれば、卑弥呼の墓は箸墓で決まりということになる、と思います。

 ところで、卑弥呼に百襲姫を重ねたとき、どうしても気になることがひとつあります。邪馬台国と大和朝廷は、いったいどういう関係になるのでしょうか・・・・。どうも初代崇神天皇と、百襲姫の間には何か不穏な空気が感じられるのです。(2004年3月)
 倉橋日出夫氏の「古代文明の世界へようこそ」は「画期的な年輪年代法」で次のように述べている。これを転載しておく。
 画期的な年輪年代法  

 考古学の定説を覆し、年表に動かない定点を定める。
 年輪年代法 モノサシは年輪

 年輸年代法(正しくは年輪年代測定法)は、1920年代にアメリカの天文学者、A・E・ダグラスによって創始され、欧米ではすでに建築史や美術史など、さまさまな分野で実用化されています。その原理は、いたって簡単。樹木の年輪が毎年一層ずつ形成されることを利用しています。樹木の年輪というのは気象条件に左右され、生育のよい年と悪い年、つまり年輪の幅が広い年と、狭い年があります。その変化を何十年という期間で追っていくと、年輪幅の変化がパターンとなって現れてきます。木材の種類によって、共通するパターンが見えてくるのです。 そのパターンを過去へ過去へと延ばしていくと、古代までひとつながりの年輪のパターンができあがります。いってみれば、樹木の年輪によって、過去何百年、何干年というモノサシができるわけです。このようにして作成された長期の年輪パターンと、遺跡などから出土した木材の年輪パターンを照合することで、古代の木材が切り出された年が1年単位で判明する。そういう画期的な年代測定法です。しかし、年輪年代法で測定するためには、出土した古代の木材の一番外側の年輪(最外年輪)まで残っていることが基本的に必要です。

 年輪年代法は日本にも適用できる

 年輪年代法はしかし、日本では長い間使いものにならないといわれてきました。ヨーロッパやアメリカの乾燥地帯のように気象条件の厳しいところでは有効でも、日本のように気候が温暖なうえに、地形も複雑、おまけに地域ごとに微妙に気候が変化するようなところでは、ほとんど役に立たないと考えられたからです。日本でもこれまで、大正時代以来何度か実用化が模索されてきましたが、十分な成果を得るまでに至りませんでした。よく知られたところでは、戦後間もないころ、奈良の法隆寺の五重塔が解体修理されたとき、年輪年代法によって法隆寺の建設年代を知ろうという試みがありましたが、このときは残念ながら、失敗しています。ところが、1980年代から新たな動きが始まります。奈良国立文化財研究所(以下、奈文研)の光谷拓実さん(当時32歳)が、年輪年代法の本格的な研究を開始します。光谷さん自身は、もともと植物の専門家で、考古学者でも歴史家でもありません。そういう部外者ともいえる人が、日本の古代史にとってきわめて重要な役割をはたすのです。

 年輪のデータを徹底的に取る

 光谷さんがまず最初にしなければいけなかったのは、徹底的に樹木の年輪のデータを取りつづけることでした。各地の営林署や営林局へ行って、木材の試料を集めてきます。まず、現生木のデータを徹底的に調べます。ひとつの種類の木だけでも複数の試料が必要です。それを何種類もの木に広げていきます。日本では本当にダメなのか、それを知るためにもデータを取りつづける以外にありません。年輪の測定には10ミクロン、つまり100分の1ミリというような単位が必要です。そのくらい細かなデータでなければ、年輪幅の変化を追っていけないからです。それをグラフにしていきます。くる日もくる日も、そんな作業の繰り返しでした。そして3年が過ぎたころ、ようやく最初の成果があらわれてきました。日本のような複雑な気象条件では、年輪年代法は不可能と長年いわれてきましたが、日本の樹木でも共通するパターンが見えてきたのです。古くから建築材として使われてきたヒノキやスギを調べると、たしかに年輪の幅は個々の木で違っていますが、何年分という期間で照合すると、地域に関係なくパターンが共通することがわかってきました。しかも、アメリカでは15年分くらい、ヨーロッパでは30年分ほどでパターンの照合ができますが、気候の違う日本では100年から200年分でやっと正確な照合ができることがわかりました。これは大きな前進です。日本でも年輪年代法が使える可能性が出てきたわけです。日本でこれまで年輪年代法が成功しなかったのは、これほど徹底したデータの収集が行われなかったからでした。

 弥生時代までモノサシが届いた !

 研究の次の段階は、年輪のパターンを過去へ過去へと、どんどん延ばしていく作業です。これには古い寺院の修理部材や、中世、近世の遺跡から出土する試料が役にたちました。驚いたことに、それらの年輪を調べても、パターンはピタッ、ピタツと一致します。同時に、奈文研には平城宮の発掘で出土した大量の古代の木材が保管されており、そこからもデータを集めました。こうして研究を始めて6年が過ぎたころ、ようやくはっきりとした成果が出てきました。過去2000年分、つまり現代から弥生時代まで届く年輪のモノサシが、やっとできあがったのです。日本では不可能といわれていた年輪年代法に、ついに実用化のメドがたったのです。

 年輪年代法は、1985年11月、紫香楽宮(しがらきのみや〕跡を特定するという画期的なデビューをします。滋賀県の宮町遺跡から出土した柱根の年代を測定すると、『続日本紀』の紫香楽宮の記述とドンピシャリ、しかも建設された季節まで一致したのです。これによって、紫香楽宮跡は宮町遺跡であることが科学的に明らかになりました。その後、さまざまな分野に活用されはじめ、東大寺の仁王像や、法隆寺の五重塔の心柱の年代測定、さらに円空仏の真贋論争にまで活用されました。

 ところで、最も期待されていた弥生時代の年代を決めるというテーマは、長い間、足踏み状態が続いていました。年輪のパターンはすでにスギやヒノキで紀元前1000年ごろまで延びていましたが、試料となる弥生時代の木材が出土しなかったからです。

 画期的な弥生時代像に色を失う考古学者

 いよいよ弥生時代の遺跡から木材が出土するのは、研究を始めて十数年が過ぎた1995年の秋です。滋賀県の二の畦・横枕(にのあぜ・よこまくら)遺跡というところから弥生中期の井戸が発見され、そこに残っていた井戸材の年代を測定しました。結果は思いがけないものでした。年輪年代法で得られた年代は、考古学者が考えていた年代よりもなんと、100年以上古かったのです。紀元後1世紀ごろの遺跡と見られていたのが、年輪年代法では紀元前1世紀の前半と出ました。当時、定説とされていた年代観とは、大きく違います。しかし、不幸なことに、考古学者の間には、年輪年代法は日本では無理という考えが、まだまだ根強く残っていました。そのため、当時は年輪年代法で得られた結果に不信感を抱く研究者も少なくなかった、といわれています。けれど、翌年の池上曽根遺跡のケースでは、考古学者は色を失いました。池上曽根遺跡は、近畿を代表する弥生時代の遺跡で、過去に多くの有力な学者が発掘に参加してきました。ちょうど前年には、この遺跡から大型建物跡が発見され、多数の柱根が残っていたことで注目を集めていました。

 弥生の定点を定める

 この大型建物は、有名な吉野ケ里遺跡の建物よりも200年ほど古い時代のもので、中国の影響を思わせるように、建物の向きは東西南北にきっちりと合わせて建てられています。しかも、出土した柱根のなかには最外年輪まで残っているものがありました。さっそく光谷さんが柱根の年代を測定したところ、やはり思わぬ結果が出ました。紀元後1世紀後半と予想されていた建物の年代が、年輪年代法では紀元前52年と出ました。定説よりもやはり100年も古いのです。前年の二の畦・横枕遺跡のケースとまったく同じです。考古学関係者はここで、年代論にまで踏み込んだ徹底的な検証を開始しました。じつは、年輪年代法の結果は、かねて少数の若手研究者が主張していた年代観にかなり近いものでした。「近畿の年代はもっと古いはずだ」という主張です。権威ある「定説」の前では「異分子」の扱いでしたが、もはや、彼らの主張を無視することも、年輪年代法の結果を無視することもできませんでした。定説を根本から再検討する必要があったのです。そして、出された結論は、まさに衝撃的でした。これまでの定説を覆し、近畿の年代観を従来よりも100年も古くとり、先進の北部九州と並行する時間軸で捉えたのです。弥生時代の近畿と九州が、同じ年表に並んだ瞬間でした。

都出比呂志さんの案によるふたつの編年表。
1983年(左)のものと、1998年(右)のもの。
―拙著『卑弥呼の謎 年輪の証言』より―


 年輪年代法によって、従来の年代観がガラリと変わったのです。日本では使いものにならないとまでいわれた年輪年代法は、ここにおいて名実ともに認められることになりました。年輪年代法が、これまで不確定だった弥生の年代決定にたいして、動かない定点を与えるという重要な役割を果たしたのです。(2004年3月)

【直木幸次郎著「日本古代国家の成立」考】

 何事も一人では進まない。先人の努力の労を借りることにする。「ウィキペディア邪馬台国」、「邪馬台国大研究」、「邪馬台国は出雲にあった!!??」をとりあえず挙げておく。その他検索すれば無数に出てくる。いずれ読破し咀嚼させてもらうつもりである。

【土蜘蛛氏の「邪馬台国先異系王朝論」考】
 「土蜘蛛正統記第四部】【百万人の歴史3】【カタカナ国と日本国】【土蜘蛛総覧】」が、「邪馬台国先異系王朝論」を主張し、極めて貴重な歴史解析をしているように思われる。これを確認しておく。言及が多岐にわたっているが、れんだいこ見解と親和する下りのみを採り、れんだいこ風に意訳する。 

 塚田敬氏の「古代史---第三章、三角縁神獣鏡に関する考察」は、邪馬壱国大和説に立ち、後漢への朝貢以後の卑弥呼共立までの経緯を詳細に述べ、卑弥呼を国の代表として祭り上げ、邪馬壱国という新国家を建設した政略を推理している。塚田敬氏の指摘かサイト土蜘蛛管理人氏のヒラメキかは不明であるが、次のように述べている。
 概要「大和王朝に先行する邪馬台国の女王卑弥呼と壱与の呼称は、漢音では意味が分かりにくい。むしろカタカムナ語の表音であると思われる。同様に、古事記の神武天皇以降33代推古天皇(豊御食炊屋比売)まで、日本書紀の40代持統天皇(高天原広野姫)までの神々や天皇の尊称は漢字表記されているもののカタカムナ語で理解すべきと思われる。尊称は、表音文字だけのもの、表意文字と混合したものとに識別することができるが、主として神々はカタカムナ系表音文字であり、天皇は表意文字で表記されているように思われる。但し、漢字の表意とカタカムナの表音の組み合わせの場合もある。例えば、神武天皇の尊号『神倭伊波礼毘古(カムヤマトイワレヒコ)』は、『神倭』が表意文字、『伊波礼毘古』が表音文字である。『伊波礼毘古』は『イワレヒコ』と読み、これをカタカムナ語で解読してみると、『朝日(ヒ)の昇るような勢いを持って入る』という意味になる。留意すべきは、ヒミコの『ミ』のような最高のチカラは見られない。

 7世紀後半の持統天皇の代に至って、天皇のカタカムナ語尊称は終止符を打った。この頃、大和の国号が倭から日本へと表記替えされており、カタカムナ語による天皇尊称名の廃止が同時対応しているように見受けられる。このことは、カタカムナ人との歴史的決別を意味していると思われる。

 歴代天皇の諡号と尊号を対比しておく。諡号は後代に贈られた美称 、尊号(日本書紀より)は稗田阿礼が語り伝えたと思われるカタカムナ語と推定できる」。

諡号 尊号
神武(ジンム) イワレヒコ.
綏靖(スイゼイ) ヌナカワミミ.
安寧(アンネイ) シキツヒコ タマデミ.
懿徳(イトク) スキトモ.
孝昭(コウショウ) エシネ.
孝安(コウアン) クニオシヒト.
孝霊(コウレイ) フトニ.
孝元(コウゲン) クニクル.
開化(カイカ) オオヒヒ.
10 崇神(スジン) イニエ. 日本書紀では、「五十瓊殖=イソニエ」と呼称されている。

 695年、持統天皇の御代、日本国号と天皇称号を決定。712、古事記撰上。762天平宝字6)~764年(同8)年、淡海三船により神武天皇から持統天皇、元明・元正天皇の諡号が一括撰進された。淡海三船(722~785、養老6~延歴4)は、奈良時代の文人で続日本紀の編纂作業に参加し懐風藻を著している。政治的には壬申の乱で大友皇子を葬り去 った大伴氏の失脚を図ったりしている。諡号と尊号の意味が相通 じていることからして、淡海三船人がカタカムナ語解読の能力を究めていたことが判明する。

 使用された漢字は次の通りである。

美諡 神聖賢文武成康獻懿元章釐景宣明昭正敬恭荘粛穆戴翼襄烈桓威勇毅克壮圉魏安定簡貞節白匡質靖真順思考顕和元高光大英睿博憲堅孝忠恵徳仁智慎礼義周敏信達寛理凱清欽益良度類基慈斉深温譲密厚純勤謙友廣淑霊栄比舒賁逸退偲宜哲察通儀経庇協端休悦容確紹世果
平諡 懐悼愍哀隠幽沖夷懼息
悪諡 野躁伐荒蕩戻刺虚戻墨亢千専苛介暴虐凶慢毒悪残頑昏驕惑溺僞詐詭奸邪慝危覆敗費

 天皇の諡号.尊号について、本居宣長の古事記伝の「十八の巻」P1057は次のように記している。

 「神倭伊波禮毘古命、御名の義上巻伝十七の末に見ゆ。書紀に、諱彦火々出見とあるは、心得ぬ書きざまなり。先此天皇をも彦火々出見と申せしことのよしは、伝十六の末に云るが如し。然るに是を諱としも書れたるは、漢国の史どもに、某帝、諱某と云例に倣てなれども、甚く事たがへり。皇国の上代の天皇たちの大御名は、諱と申すべきに非ず、凡て尊むべき人の名えを呼ことを忌み憚るは、本外国の俗なり。名は本其人を美称ていふものにて、上代には称名にも多く名てふことをつけたり。大名持などの如し。(中略)後の漢様の諡号神武天皇と申す、凡て御代々々の漢様のの諡のこと、書紀の私記に、師説に『神武等の諡名者、淡海御船奉勅撰也』とあり、まことに然るべし云々」。





(私論.私見)

古代史の六大難問とは、紀年の延長をめぐっての「紀年論」、高天原は何処論、出雲王朝の国譲り、邪馬台国の位置をめぐっての「邪馬台国論」、さらに神武の故郷や東征路をめぐっての「神武東征論」、「倭の五王」問題である。この六大難問を避けて、我が国の古代史は語れない。