第10部 狗奴国考

 (最新見直し2013.3.16日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「狗奴国」を解析してみる。既説の狗奴国論に満足できないので、れんだいこの解を発表しておく。

 2013.2.19日 れんだいこ拝


【狗奴国諸説考その1、所在地考】
 ここで、「狗奴国とは何ぞや」に挑んでみる。これも、邪馬台国比定地論争と同じく混迷を極めている。そこで、れんだいこの解を求めておく。

 魏志倭人伝では次のように記されている。
 次に奴国(な國)有り。これ女王の境界の尽きた所なり。その南に狗奴国有り。男子を王と為す。その官に狗古智卑狗有り。女王に属さず。
 その八年(正始8年)、太守王頎官に到る。倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼ともとより和せず、倭の載斯・烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。さいそうのえんし張政等を遣わし、因って詔書.黄幢をもたらしらし、難升米に拝假し、檄を為りて之を告喩す。卑弥呼死す。
 
 
狗奴国記述としては以上である。魏書東夷伝でも同様に記されている。魏略(逸文4)翰苑卷三十は、「其南有狗奴國、男子為王、其官有狗右智卑狗、不屬女王。自郡至女王國萬二千餘里」(その南に狗奴国があり、男性を王と為し、官には狗右智卑狗があり、不属女王に従属していない。郡より女王国に至るには一万二千余里である)と記している。狗奴国の官名が魏志倭人伝では「狗古智卑狗」、 魏略(逸文4)翰苑卷三十では「狗右智卑狗」とあり、「古」と「右」の違いが注目される。狗奴国について判明するのは、この下りだけである。ここから次のようなことを窺い知らねばならない。

 狗奴国をどう読むか。一般的には「くぬこく」と読むが「くなこく」、「くまこく」とする説もある。

 狗奴国の男王男王「卑弥弓呼」とは何者か。一般的には「ひみここ」と読むが「ひこみこ」(彦御子)とする説もある。狗奴国の官を「狗古智卑狗」と云う。一般的には「くこちひこ」と読むが「きくちひこ」(菊池彦)とする説もある。魏略(逸文4)翰苑卷三十の「狗右智卑狗」に注目し、「こうちひこ」、「かわちひこ」(河内彦)とする説もある。

 狗奴国の位置について、奴国の南に位置していることになる。邪馬台国の位置に諸説ある現状では、狗奴国の場所も比定されない。北九州説に立つ論者は、「狗古智卑狗」発音から熊本県(肥後国)菊池郡、同国球磨郡等に比定している。内藤湖南のように畿内説でも熊襲に比定する論者もいる。現在の熊本県北部もしくは福岡県、或いは佐賀県の一部辺りになる。

 邪馬台国畿内説では和歌山県熊野地方が有力である。他にも愛知県一宮市の萩原遺跡群をはじめとして伊勢湾岸一帯からS字甕が大量に発掘されていることから、濃尾平野一帯の尾張・東海地方説.、毛野国、出雲地方等に比定する説がある。後漢書にある「自女王國東度海千餘里至拘奴國、雖皆倭種、而不屬女王」の記述を踏まえて北九州から海を度(渡)った四国とする説や、瀬戸内海沿岸説もある。

【狗奴国諸説考その2、狗奴国のその後考】
 邪馬台国の女王卑弥呼と卑弥弓呼は「素より和せず」戦闘状態にあった。なぜ女王国と狗奴国とは不仲であったのか?。これにつき、邪馬台国が「魏」通じ狗奴国は「呉」と通じていたとする説がある。

 倭人伝の記述から、卑弥呼が狗奴国との戦いの最中に死去した推定できる。「卑弥呼以死」の「以」を「もって」と呼べば「もって死す」となり、狗奴国との闘いのせいで死んだとなるし、「すでに」と呼べば「既に死んでいた」と言うことになる。卑弥呼の死は2477年あるいはその数年後にと推定されている。

 「ウィキペディア狗奴国」は次のように記している。

 邪馬台国についてヤマト王権との関係に諸説あるように、狗奴国についても、その後どうなったのかを巡る諸説が対立している。主なものは、消滅説(邪馬台国に敗れ滅んだ)、東遷説(邪馬台国を滅ぼし東征しヤマト王権の母体となった)、継承説(熊襲になった)、神武天皇による九州の日向から近畿の奈良方面への東征伝承を邪馬台国連合の圧迫からの逃亡でありヤマト王権になったとする説などがある。

 更に近年、考古学の分野において古墳時代前期前半に前方後方墳を造営していた濃尾平野以東の東日本の諸勢力の前身で大型の前方後方形墳丘墓を営んでいた濃尾平野の勢力を狗奴国と見て、卑弥呼没後まもなく邪馬台国連合に統合され、徐々に吸収されたとする見解が出されている


 狗奴国は邪馬台国との闘争に敗れ、そのまま歴史の中に滅んでいったとする説である。しかし倭人伝を読むと何処にも狗奴国が滅んだ記事はないし、邪馬台国との闘争で邪馬台国に負けたとも記されていない。ここに、狗奴国東遷説が登場する。一説によれば、狗奴国は、鹿児島・熊本・宮崎あたりの南九州を領域にしてい たとし、狗奴国が邪馬台国を滅ぼして九州を統一し、その勢いで東征したという可能性を考え、畿内勢力を打倒したとする。 これによれば、狗奴国が邪馬台国との闘争に勝利し、その勢いで畿内にも進出して大和朝廷を成立させたということにな る。

 水野祐氏(早稲田大学名誉教授、歴史学)はかって、「奴国が伊都国にほろぼされ、その敗残勢力が筑後 川を越え九州山地を横切って九州南部に拠点を移し、頭に狗をつけて狗奴国になった。その後、この勢力が神武東遷として大和に入ったのが大和朝廷である」と言う説をとなえていた。(「古代王朝99の謎」角川文庫:角川書店 昭和 60年11月10日発行)。

 他にも.狗奴国発展説がある。この説は、狗奴国はそ大和朝廷に転化することなくそのまま存続し、やがて後世「熊襲」と呼ばれる勢力に発展したとする説である。邪馬台国が東遷して近畿で闘いが続いていた間、或いは近畿に発生した初期ヤマト王朝が覇権争いを繰り返し、各地で 倭国大乱の様相を呈していた間、狗奴国は南九州にとどまり、そこで独自の勢力を保ち続け、やがて畿内を統一した勢力と ぶつかることになる。 古事記、日本書紀に、初期の頃ヤマトの大王にまつろわぬ民族として熊襲と蝦夷がたびたび登場する。神功皇后の 夫、第14代仲哀天皇は熊襲征伐の途中、「新羅を打て」という神の撰託を無視したため、琴を挽いている時、或いはふて くされて寝たとき、俄に死んだことになっているが、日本書紀は一書に曰くとして、矢を受けて死んだとも記録している。 これをもって仲哀天皇は熊襲に殺されたと見る人もいる。また第12代景行天皇も息子のヤマトタケルを熊襲征伐に派遣している。26代継体天皇の時代には筑紫で磐井が叛乱を起こすが、これは筑紫ではなく筑後川南から熊本一帯に勢力を持っ ていた豪族という見方もある。つまり熊襲である。このように、一応の日本統一が成った後でも南九州には何か北九州圏や近畿勢とは違う勢力がいたとして、これに狗奴国を見て取る。
 
 他にも、邪馬台国と狗奴国との間の闘争は一応の停戦状態になり、邪馬台国も狗奴国もしばらくはともに存続していたとする説と共に滅んだとする説がある。
 「邪馬台国総論」の「狗奴国の男王・卑弥弓呼という名の意味」が興味深い指摘をしているので転載しておく。それによると、「(狗奴国)を邪馬台国を中心とした倭国連合とは違う異文化圏・異民族圏のような存在として、狗奴国を見る傾向が強いのである。でも、それは本当にそうなのだろうか?」と問い、次のように述べている。
 概要「邪馬台国論争で注目されるのが、邪馬台国の女王・卑弥呼とは仲が悪い狗奴国の男王・卑弥弓呼である。この名前を聞いたとき、卑弥呼と卑弥弓呼の名前の類似性の強さから、この二人は非常に近い文化圏の者同士なのだと推測できるのでは?いや、それどころか、この二人には同族の匂いすら感じるのである。そして、卑弥呼、卑弥弓呼をそれぞれ上古音、中古音から判断して、卑弥呼という呼称は、「日巫女」、「姫命」という日本語の発音を表しているという説があり、それならば卑弥弓呼という呼称は、「彦御子」、「彦命」を表している説もある。これらは、日本書紀や古事記にも出てくる皇族たちの尊称でもあり、卑弥呼、卑弥弓呼も神聖化された存在だった可能性が強い。この場合、魏国と仲が良かった邪馬台国は、自国(邪馬台国)の女王の呼称を、卑弥呼(日巫女 or 姫命)と尊称の発音で、魏の使者を通じて、魏志倭人伝にその発音で伝えることが出来るのは想像出来る。しかし、狗奴国の場合、邪馬台国と敵対していたわけだから、狗奴国の望みどおりの情報ではなく、敵対する邪馬台国主観の偏見に基づいた呼称が、魏に伝えられたはずである。しかし、魏志倭人伝に伝えられた狗奴国の男王の呼称は、卑弥弓呼(彦御子 or 彦命)という尊称で伝えられているのだ。この呼称は、おそらく、邪馬台国側が狗奴国の男王のことを卑弥弓呼(彦御子 or 彦命)と呼んでいたから、魏志にはそう記されたのだと思う。ということは、狗奴国の男王は、敵対している邪馬台国側の人間から、尊称で呼ばれていたと想像出来る。これは、狗奴国の男王卑弥弓呼(彦御子 or 彦命)が、邪馬台国の女王卑弥呼(日巫女 or 姫命)と同族の王家の出身だったからなのでは? そのように解釈すれば、この邪馬台国と狗奴国との戦いが、邪馬台国を中心とした大倭国連合の身内同士の主導権争いだったのでは?という結論になるのでは?」。

 れんだいこは、この説に賛成する。れんだいこが云いたかったことを代わりに述べてくれた気がする。

 「邪馬台国総論主宰者はかく問い、続く「狗奴国との戦い~卑弥呼の急死」で、日本書紀の崇神天皇10年の項の記述に注目し、武埴安彦(たけはにやすびこ、孝元天皇の皇子)を狗奴国の男王卑弥弓呼と推理している。続く「狗奴国は許乃國(山城の宇治)」でも同様の観点から、「もともと邪馬台国を中心とした倭国連合に属していた狗奴国が、倭国連合の盟主の座を狙って、邪馬台国に反旗を翻したという見方が出来ないだろうか?」と問うている。

 これについて、れんだいこの見解は異っている。と云うか、武埴安彦についてさほど知らないので何とも言えない。と云うか、別の説を持っているので関心が向かわない。それでは、れんだいこ見解ではどうなるのか。以下、これを記しておく。

 2013.2.19日 れんだいこ拝

れんだいこのカンテラ時評№1123  投稿者:れんだいこ 投稿日:2013年 3月15日

 れんだいこの狗奴国考その1

 ここで、れんだいこの狗奴国論を発表しておく。あまりにも政治がバカバカしいので古代に夢を馳せ検証しておく。狗奴国論は邪馬台国研究上、避けては通れない関門であり、いつかはっきり主張したかったが躊躇していた。しかしいつまでも放っておく訳には行くまい。れんだいこ説によれば、狗奴国を魏志倭人伝の記述から読むだけでは比定できない。上古代史の縦の線から読みとる以外にない。そうすると次のようなことが見えてくる。

 狗奴国は、結論から述べると紀州熊野地方の熊野である。これは、邪馬台国をヤマトの三輪に比定することで可能になった。よって九州の熊襲とは違う。長らく狗奴国熊襲説の研究がされているようだが徒労だろう。紀州熊野地方の熊野は出雲の熊野と繫がる。出雲熊野と紀州熊野がいつ繫がったのかまでは分からないが同族であると見立てたい。こうなると出雲王朝論に精通しないと見えるものが見えないことになる。出雲王朝史については
出雲王朝神話考に記しているので参照されたし。

 出雲王朝に於ける熊野は、最も古い時代の原出雲から元出雲時代の首府であり、これを治める大王が皇祖的支配権を持つ豪族である。この豪族も数派あるようである。こう理解することにより「邪馬台国の女王・卑弥呼、狗奴国の男王・卑弥弓呼」の同名意味が通じて来る。即ち、邪馬台国の女王・卑弥呼と狗奴国の男王・卑弥弓呼が同族同格に扱われている意味が分かる。

 同名は同族を表わしている。同格とはどういう意味か。それは、熊野が原出雲から元出雲王朝時代の皇祖であり、邪馬台国が新出雲王朝時代の皇祖として鼎立していたことによる。両者に共通する「卑弥」とは「日を司る最高権限者」と云うことだろうと推定できる。「日を司る」とは暦を司ると云うことであり儀式の執行権を得ていることを示している。この時代の権力とはこういうものだったのではなかろうか。邪馬台国を大和の三輪、狗奴国を紀州の熊野に比定すると、魏志倭人伝の「これ女王の境界の尽きた所なり。その南に狗奴国あり」がそのまま理解できることになる。

 両者は出自が同じ故に出雲王朝圏として連合関係にあった。去る日、旧支配権者の熊野が新支配権者の邪馬台国に王権を譲り、統治ぶりを見守っていたと云うことであろう。これには魏志倭人伝の「その國、本亦男子を以って王と為す。住こと七八十年、倭国乱れ、相攻伐す。年を経て、すなわち共に一女史を立て王と為す。名は卑彌呼」とあるように霊能系の女帝を擁立することで倭国の混乱を治めたと云う事情があった。

 本来であれば、熊野系の狗奴国王が納まるところ、出自がはっきりしないが天照大神的霊統が認められた卑彌呼が新王になった。しかし、これにより本来の皇統であった狗奴国側に不満が残った。こうして、両者は同族的繫がりを持ちながらも暗闘関係にあったと推測できる。こう読みとれば、魏志倭人伝の「その南に狗奴国あり。男子を王と為す。その官に狗古智卑狗あり。女王に属さず」がそのまま理解できることになる。


 jinsei/

れんだいこのカンテラ時評№1124 投稿者:れんだいこ投稿日:2013年 3月15日

 れんだいこの狗奴国考その2

 この推理が何故に重要かと云うと、「れんだいこの新邪馬台国論」を媒介すれば容易に見えて来るが、神武東征神話譚によるヤマト攻めに関係してくるからである。記紀神話によると、ヤマトを平定したワケミケヌの命がカムヤマトイワレ彦命(おくり名・神武天皇)となり初代天皇として即位したのは紀元前660年にされており、紀元3世紀の邪馬台国滅亡と絡む筈もないが、記紀神話が邪馬台国滅亡史を意図的故意に抹殺する為に神武天皇即位日を実際より700年も前の出来事としたと推理すれば、神武東征神話譚は邪馬台国滅亡譚と重なると逆読みすることが可能になる。

 こう読めば、神武東征神話譚の冒頭に登場する猿田彦の正体が見えてくる。猿田彦は元出雲王朝の皇祖神である。事実、猿田彦は元出雲王朝系神社の祭神として祀られている。この時代の何代目かの猿田彦は新出雲王朝系の邪馬台国と暗闘関係にあった。その猿田彦が、神武族東征に当り水先案内人としての役割を申し出たと記紀が記している。神武東征神話譚が半ば史実を記しているとすれば、この下りも半ば史実なのではなかろうかと思える。

 それは、猿田彦側から見れば失われた支配権復権の野望であった。これを神武族から見れば、邪馬台国側の内部分裂を上手く利用したと云うことになろう。れんだいこは、この時の猿田彦が狗奴国の男王・卑弥弓呼だったのではなかろうかと推理している。こう読めば何となく全体に歴史が繫がるから不思議である。

 補足しておく。神武東征神話譚のヤマト攻めに敵方として登場する国津族の長脛彦、二ギハヤヒ連合の正体が見えてくる。二ギハヤヒは新出雲王朝の大国主の命系であり、長脛彦は蝦夷系ではなかろうか。事実、二ギハヤヒは大国主の命と共に、と云うか大国主と区別がつけにくい形で新出雲王朝系神社の祭神として祀られている。この連合軍が、新出雲王朝が後押ししていた邪馬台国の防衛に奮戦したと云うのが実際だったのではなかろうか。記紀神話の語るところ、長脛彦、二ギハヤヒ連合軍が強過ぎて河内からのヤマト攻めに失敗し熊野へ迂回を余儀なくされている。この後を語り出すとキリがないので止(よ)す。神武東征神話譚と邪馬台国滅亡譚を同時代の動きとして見れば、こういうことが透けて見えてくる。

 jinsei/

れんだいこのカンテラ時評№1125 投稿者:れんだいこ 投稿日:2013年 3月16日

 れんだいこの狗奴国考その3

 魏志倭人伝は次のように記している。「倭の女王卑弥呼、狗奴國の男王卑弥弓呼と、素より和せず。倭の載斯烏越(さいしうえつ)等を遣わし、郡に詣でて、相攻撃する状を説く。塞曹掾史(さいそうのえんし)張政等を遣わし、因って詔書.黄幢をもたらしらし、難升米に拝假し、檄を為して之を告喩す。卑弥呼死す」。

 これをどう理解すべきだろうか。文面からすると、邪馬台国と狗奴国が深刻な内乱に入り、その情況下で卑弥呼が死んだと解すべきだろう。本来は克明に記すべきところ、意図的故意に最も簡略に記しているように思える。相当に書きにくい事情があったと窺うべきだろう。魏志倭人伝のこの筆法が、後世の史家を悩ますことになり、その悩みが今も続いている。れんだいこは、これを解くのにまずは日本史書、中国史書を総当りせねばならないと考える。それによっても解けないようにも思っている。となると推理するしかない。

 れんだいこ史観によると、これを為すのは邪馬台国論ではなく既に大和王朝論の範疇に入ると思っている。そこで記紀神話の神武天皇東征譚、大和王朝創世譚が絡んでくる。尤も記紀神話では紀元前660年の出来事としているので、これを信じれば全然別の話しとなる。しかしながら、れんだいこは、神武天皇東征譚は邪馬台国滅亡史の裏表と見なしている。そういう意味で関心を寄せることになるのだが、神武天皇東征譚は卑弥呼死去後の台与時代の出来事なので「邪馬台国と狗奴国の内乱」を知るには役立たない。つまり、この辺りの政変史は史書からすっぽり抜け落ちていることになる。

 れんだいこの推理は、「邪馬台国と狗奴国の内乱」が神武天皇東征の前哨戦として存在したとしている。日本書紀によれば、神武軍は東征に当って次のように宣明している。
 「塩土老翁(しおつちのおじ)に聞きしに、『東に美(うま)き地(くに)有り。青山四(よも)に周(めぐ)れり。その中に又、天磐船(あまのいわふね)に乗りて飛び降りる者あり』と云えり。余(あれ)謂(おも)うに、彼の地は、必ず以って天業(あまつひつぎ)をひらき弘(の)べて、天下(あめのした)に光宅(みちお)るに足りぬべし。けだし六合(くに)の中心(もなか)か。その飛び降りると云う者は、これニギハヤヒと謂うか。何ぞ就(ゆ)きて都つくらざらむ」。

 これ文章では触れられていないが、「葦原の中つ国は、国つ神どもが騒がしく対立している」ことが前提事情となっている。これに「邪馬台国と狗奴国の内乱」が関係していると窺いたい。神武天皇東征は、倭国の混乱を見て「頃合いや良し」として号令されたと窺う。これに猿田彦が絡んでくるのは述べた通りである。但し正確には猿田彦が日本書紀に登場するのは神武天皇東征前の天孫降臨譚のところである。天孫降臨と神武天皇東征の流れを一体と見れば、引き続き猿田彦勢力の協力があったと見なすべきだろう。

 この猿田彦が狗奴国の男王・卑弥弓呼又はその官の狗古智卑狗ではないかと見立てるのが「れんだいこの狗奴国考」のキモである。この解は好評を得るだろうか。

 「狗奴国考」

 (kodaishi/yamataikokuco/kunukokuco.html


 jinsei/





(私論.私見)