「広開土王碑」考

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).1.10日

 (れんだいこのショートメッセージ)
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 2014.05.15日 れんだいこ拝


【広開土王碑】
 「ウィキペディア好太王碑」その他を参照する。

 好太王碑(こうたいおうひ)は、高句麗第19代王の好太王(広開土王)の業績を称えために息子の長寿王が414年旧暦9月29日(碑文によれば甲寅年九月廿九日乙酉)に建てた石碑である。現在の中国の吉林省集安市の好太王陵の近くに位置している。碑は、高さ約6.3m・幅約1.5mの角柱状の石碑である。その四面に総計1802文字が刻まれ、碑文は純粋な漢文記述となっている。碑文は風化によって判読不能な箇所も存在する。なお、2010(平成22)年現在、この碑文は風化・劣化を防ぐためにガラスケースで保護されている。付近には陵墓と見られる将軍塚・大王陵があり、合わせて広開土王陵碑(こうかいどおうりょうひ)とも言われる。4世紀末から5世紀初の朝鮮半島の歴史・古代日朝関係史を知る上での貴重な一次史料である。

 1880(明治13、光緒6)年頃に清の集安(現中華人民共和国吉林省通化地級市集安市)の農民により発見され、翌年関月山より拓本が作成された。1884年(明治17年)1月、情報将校として実地調査をしていた陸軍砲兵大尉の酒匂景信が参謀本部に持ち帰った資料の中に好太王碑の拓本が含まれていた(「酒匂本」)。その後、参謀本部で碑文解読に当たったのは文官である青江秀と横井忠直であり、それが日本の古代史に関係する重要史料とわかったため、漢文学者の川田剛、丸山作楽、井上頼圀らの考証を経て、1888(明治21)年末に酒匂の名により拓本は宮内省へ献上された。碑文は三段から構成され、一段目は朱蒙による高句麗の開国伝承・建碑の由来、二段目に好太王の業績、三段目に好太王の墓を守る「守墓人烟戸」の規定が記されている。そのうち、倭に関する記述としては、いわゆる辛卯年条(後述)の他に、以下がある。
399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平譲に出向いた。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。
400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。
404年、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた。

 碑文では好太王の即位を辛卯年(391年)とするなど、干支年が後世の文献資料(『三国史記』『三国遺事』では壬辰年(392年)とする)の紀年との間に1年のずれがある。また、『三国史記』の新羅紀では、「実聖王元年(402年)に倭国と通好す。奈勿王子未斯欣を質となす」と新羅が倭へ人質を送っていた記録等があり、他の史料と碑文の内容がほぼ一致しているところが見られる。この碑文からは、好太王の時代に永楽という元号が用いられたことが確認された。碑文では、高句麗と隣接する国・民族はほぼ一度しか出てこず、遠く離れた倭が何度も出てくることから、倭国と高句麗の「17年戦争」と称する研究者も存在している。その一方で、韓国などには高句麗が百済征伐のために倭を「トリックスター」として用いただけであると主張する研究者も存在している。

 倭の古代朝鮮半島における戦闘等の活動は、日本の史書『古事記』『日本書紀』『風土記』『万葉集』、朝鮮の史書『三国史記』『三国遺事』、中国側の史書『宋書』においても記録されている。 また、2011年に発見された職貢図新羅題記にも「或屬倭(或る時は倭に属していた)」という記述があり、議論を呼ぶだろうとした。

 碑文のうち、欠損により判別の出来ない記述のある二段目の部分(「百殘新羅舊是屬民由来朝貢而倭以耒卯年来渡[海]破百殘■■新羅以爲臣民」)の解釈がしばしば議論の対象となっている。中国では歴史学者耿鐵華などの見解で、[海]の偏旁がはみ出し過ぎて他の字体とつり合いが取れていない事から、実際は[毎]ではないかとする意見もある。百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡[海]破百殘■■新羅以為臣民。〈そもそも新羅・百残(百済の蔑称)は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に[海]を渡り百残・■■(「百残を■■し」と訓む説や、「加羅」(任那)と読む説などもある)・新羅を破り、臣民となしてしまった。〉なお、「[海]を渡り」は残欠の研究から「海を渡り」とされ、日本学会の通説では以下のように解釈される。百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民。〈そもそも新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民となしてしまった。〉しかし、韓国の学会では異説が主流である(#韓国・北朝鮮の学会による解釈参照)。 また、倭を大和朝廷とするのか九州の支配者とするのかなど、倭をどう理解するかでも異論が多い。日本の史学者は、日本書紀の神功皇后による、所謂三韓征伐を念頭に置いて理解しているため倭を大和朝廷と理解することが一般的である。韓国・北朝鮮の学会では、碑文で「破」と「攻」の文字が使われるのは「高句麗の軍事行動にだけ」だと指摘しながら、他の国である倭の軍事行動に例外として「破」が使われることはありえないと、一貫して世界で一般的な解釈を否定している(東北大学名誉教授であった井上秀雄はこれに同調している)。

 1955年(昭和30年)、韓国の歴史学者鄭寅普の解釈以降、それを土台としたいろいろな解釈がなされている。 鄭寅普は好太王の業績を称えるための碑文に、好太王の業績に対して都合の悪い記述をする理由がないとして、それらの主語や目的語が相当数省略されているのではないかという認識から、百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘連侵新羅以為臣民。〈新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に(高句麗に)来たので(高句麗は)海を渡り(倭を)破った。百残はそんな倭と連合して(高句麗の臣民である)新羅に攻め入った。(好太王は)臣民である(百残が)どうしてこんな事をしたのかと思った。〉と解釈した。これを受け北朝鮮の歴史学者朴時亨が以下のような解釈をした。百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘招倭新羅以為臣民。〈新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に(高句麗に)来たので(高句麗は)海を渡り(倭を)破った。百残が倭を連れ込み新羅に攻め入って、臣民とした。〉韓国学会では好太王碑は好太王の高句麗の業績のためにつくられており、好太王の業績を礼賛する碑に倭が主語となって百残、加羅、新羅を破り臣民としたと記述されるのは間違えていると主張し、以下のような解釈が韓国学会の定説となっている。百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡[海]破百殘■■■羅以為臣民。〈新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に来たので(高句麗は)海を渡って百残を破り、新羅を救って臣民とした。〉しかし、これらの解釈は主語の変化が多く、他の史書との整合性や文章の前後の繋がりが乏しいことなどから批判もなされている。


 辛卯年条に関しては、酒匂本を研究対象にした在日コリアンの考古学、歴史学者の李進熙が、旧大日本帝国陸軍による改竄・捏造説を唱えた。その主張は、「而るに」以降の「倭」や「来渡海」の文字が、5世紀の倭の朝鮮半島進出の根拠とするために日本軍によって改竄されたものであり、本来は百殘新羅舊是屬民由来朝貢而後以耒卯年不貢因破百殘倭寇新羅以為臣民

〈百済新羅はそもそも高句麗の属民であり朝貢していたが、やがて辛卯年以降には朝貢しなくなったので、王は百済・倭寇・新羅を破って臣民とした。〉と記されており、「破百殘」の主語を高句麗とみなして、倭が朝鮮半島に渡って百済・新羅を平らげた話ではなく、あくまでも高句麗が百済・新羅を再び支配下に置いた、とするものであった。しかし、百済などを破った主体が高句麗であるとすると、かつて朝貢していた百済・新羅が朝貢しなくなった理由が述べられていないままに再び破ることになるという疑問や、倭寇を破ったとする記述が中国の正史、『三国史記』、日本の『日本書紀』などの記述(高句麗が日本海を渡ったことはない)とも矛盾が生じる。これに対して、高句麗が不利となる状況を強調した上で永楽6年以降の好太王の華々しい活躍を記す、という碑文の文章全体の構成から、該当の辛卯年条は続く永楽六年条の前置文であって、主語が高句麗になることはありえない、との反論が示された。1974年(昭和49年)に上田正昭が北京で入手した石灰塗布以前の拓本では、改竄の跡はなかった。その後、2005年(平成17年)6月23日に酒匂本以前に作成された墨本が中国で発見され、その内容は酒匂本と同一であるとされた。さらに2006年(平成18年)4月には中国社会科学院の徐建新により、1881年(明治14年)に作成された現存最古の拓本と酒匂本とが完全に一致していることが発表され、これにより改竄・捏造説は完全に否定され、その成果は『好太王碑拓本の研究』(東京堂出版)として発表された。東北大学名誉教授の関晃は「一介の砲兵中尉にそのような学力があったとはとうてい考えられないし、また酒匂中尉は特務機関として行動していたのであるから、そのような人目を惹くようなことができるはずもない」と述べ、改竄・捏造説を否定している。なお、この説が唱えられる以前の1963年(昭和38年)、北朝鮮内で碑文の改竄論争が起き、その事実確認を一つの原因とした北朝鮮の調査団が現地に派遣された所、改竄とは言えないという結論を出した。

 なお、以下に『三国史記』の関連する記述を示す。

 八年 夏五月丁卯朔 日有食之 秋七月 <高句麗>王<談德> 帥兵四萬 來攻北鄙 陷<石峴>等十餘城 王聞<談德>能用兵 不得出拒 <漢水>北諸部落 多沒焉 冬十月 <高句麗>攻拔<關彌城> 王田於<狗原> 經旬不返 十一月 薨於<狗原>行宮
— 『三国史記』「百済本記」391年
 八年、夏五月一日に日食あり。秋七月、高句麗の王、談德(好太王)が4万を兵で北の国境を攻め、石峴など10余りの城を落とされた。王は談德が用兵に長けてると聞き出兵を拒否、漢水の北の部落が多数落とされた。冬十月、高句麗に關彌城を落とされた。王が狗原に狩りに出て十日が過ぎても帰って来なかった。十一月、狗原の行宮にて死去した。

 1961年(昭和36年)、洞溝古墓群の一部として、全国重点文物保護単位に指定される。2012年7月吉林省集安市麻線県にある麻線河の川辺において、広開土王碑と同じ時期と推定される高句麗の石碑が発見された。韓国のマスコミでは「集安高句麗碑」と表現され、中国歴史研究プロジェクト「東北工程」に参加した学者が研究のために投入されたことを報じている。朝鮮社会科学院の好意でレプリカ建立が成ったとされる。
【第一面】
 惟昔始祖鄒牟王之創基也。出自北夫餘、天帝之子母河伯女郎剖卵降出生子有。聖□□□□□□命駕巡車南下路由夫餘。奄利大水王臨津言曰、我是皇天之子母河伯女郎鄒牟王為。我連葭浮龜應聲即為。連葭浮龜然後造渡於沸流谷忽本西城山上而建都焉。永樂世位因遣黃龍來下迎王。王於忽本東岡黃龍負昇天顧命世子儒留王以道興治。大朱留王紹承基業□至十七世孫國岡上廣開土境平安好太王二九登祚號為。永樂太王恩澤洽于皇天威武振被四海掃除□□庶寧、其業國富民殷五穀豊熟昊天不弔卅有九晏駕棄國。以甲寅年九月廿九日乙酉遷就山陵於是立碑銘記勳績以永後世焉。其辭曰、永樂五年歲在乙未王以碑麗不息□人躬率往討過富山負山至鹽水上破其丘部洛六七百當牛馬群羊不可稱數於是旋駕因過襄平道東來候城力城北豊五備海遊觀土境田獵而還。百殘新羅舊是屬民由來朝貢。而倭以辛卯年來渡海破百殘□□新羅以為臣民。以六年丙申王躬率水軍討科殘國軍□□首攻取壹八城臼模盧城各模盧城幹弖利城□□城閣彌城牟盧城彌沙城□舍蔦城阿旦城古利城□利城雜彌城奧利城勾牟城古模耶羅城頁□城□□城分而能羅城場城於利城農賣城豆奴城沸□□。
【第二面】
 利城彌鄒城也利城大山韓城掃加城敦拔城□□□城婁實城散那城□婁城細城牟婁城弓婁城蘇灰城燕婁城柝支利城巖門至城林城□□城□□城□利城就鄒城□拔城古牟婁城閨奴城貫奴城豐穰城□□城儒□羅城仇天城□□□□□其國城賊不服氣敢出百戰王威赫怒渡阿利水遣刺迫城橫□侵穴□便國城百殘王困逼獻出男女生白一千人細布千匝歸王自誓從今以後永為奴客太王恩赦先迷之御錄其後順之誠於是得五十八城村七百將殘王弟並大臣十人旋師還都八年戊戌教遣偏師觀帛慎土谷因便抄得莫新羅城加太羅谷男女三百餘人自此以來朝貢論事九年己亥百殘違誓與倭和通王巡下平穰。而新羅遣使白王云倭人滿其國境潰破城池以奴客為民歸王請命太王恩後稱其忠誠時遣使還告以□訴十年庚子教遣步騎五萬往救新羅從男居城至新羅城倭滿其中官兵方至倭賊退□□□□□□□□來背息追至任那加羅從拔城城即歸服安羅人戍兵拔新羅城□城倭滿倭潰城大□□□□□□□□□□□□□□□□□九盡臣有尖安羅人戍兵滿□□□□其□□□□□□□言
【第三面】
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□辭□□□□□□□□□□□□□潰□以隨□安羅人戍兵昔新羅安錦未有身來朝貢。□國岡上廣開土境好太王□□□□寐錦□□僕句□□□□朝貢。十四年甲辰而倭不軌侵入帶方界□□□□□石城□連船□□□王躬率□□從平穰□□□鋒相遇王幢要截盪刺倭寇潰敗斬殺無數。十七年丁未教遣步騎五萬□□□□□□□□□城□□合戰斬殺。湯盡所稚鎧鉀一萬餘領軍資器械不可勝數還破沙溝城婁城還住城□□□□□□那□城。廿年庚戌東夫餘舊是鄒牟王屬民中叛不貢王躬率往討軍到餘城而餘城國駢□□□□□□那□□王恩晉虛於是旋還。又其慕化隨官來者味仇婁鴨盧卑斯麻鴨盧□立婁鴨盧肅斯舍鴨盧□□□鴨盧凡所攻破城六十四村一千四百守墓人煙。戶賣勾余民國煙二看煙三東海賈國煙三看煙五敦城民四家盡為看煙于城一家為看煙碑利城二家為國煙平穰城民國煙一看煙十呰連二家為看煙住婁人國煙一看煙卌二溪谷二家為看煙梁城二家為看煙安失連廿二家為看煙改谷三家為看煙新城三家為看煙南蘇城一家為國煙新來韓穢沙水城國煙一看煙一牟婁城二家為看煙豆比鴨岑韓五家為看煙勾牟客頭二家為看煙永底韓一家為看煙舍蔦城韓穢國煙三看煙廿一古家耶羅城一家為看煙炅古城國煙一看煙三客賢韓一家為看煙阿旦城雜珍城合十家為看煙巴奴城韓九家為看煙各模廬城四家為看煙各模盧城二家為看煙牟水城三家為看煙幹弓利城國煙二看煙三彌舊城國煙七看煙。
【第四面】
□□□□七也利城三家為看煙豆奴城國煙一看煙二奧利城國煙二看煙八須鄒城國煙二看煙五百殘南居韓國煙一看煙五大山韓城六家為看煙農賣城國姻一看煙一閏奴城國煙二都煙廿二古牟婁城國煙二看煙八琢城國煙一看煙八味城六家為看煙就咨城五家為看煙豐穰城廿四家為看煙散那城一家為國煙那旦城一家為看煙勾牟城一家為看煙於利城八家為看煙比利城三家為看煙細城三家為看煙國岡上廣開土境好太王存時教言祖王先王但教取遠近舊民守墓洒掃吾慮舊民轉當嬴劣若吾萬年之後安守墓者但取吾躬率所略來韓穢令備洒掃言教如此是以如教令取韓穢二百廿家慮其不知法則復取舊民一百十家合新舊守墓石國煙卅看煙三百都合三百卅家自上祖先王以來墓上不安石碑致使守墓人煙戶差錯惟國岡上廣開土境好太王盡為祖先王墓上立碑銘其煙戶不令差錯又制守墓人自今以後不得更相轉賣雖有富足之者亦不得檀買其有違令賣者刑之買人制令守墓之

■日韓古代交流史―広開土王碑[甲:概要]―(解法者)■

■日韓古代交流史―広開土王碑[乙:解釈1(倭関係)]―(解法者)■

■日韓古代交流史―広開土王碑[乙:解釈2(第一部)]―(解法者)■

■日韓古代交流史―広開土王碑[乙:解釈3(第二部)]―(解法者)■

■日韓古代交流史―広開土王碑[乙:解釈4(第三部)]―(解法者)■

■日韓古代交流史―広開土王碑[乙:解釈5(全釈文)]―(解法者)■

■日韓古代交流史―広開土王碑[丙:中原高句麗碑/壺杆]―(解法者)■

■倭の五王(解法者)■
■日韓古代交流史――広開土王碑[甲:概要]――(解法者)■
◆◆◆ 広開土王碑(1) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 1月 3日(月)12時34分48秒◆

 「広開土王碑」の概要(1)

 西暦前37年、現在の中国東北部の北朝鮮との国境近くの集安一帯に、姓は「高」、諱は「朱蒙」(始祖 東明聖王)という者が高句麗を建国した。廣開土王は、その19代目の王で、好太王とも呼ばれ(三国史記では「談徳」)、391年に即位し、412年に没した。その在位期間中には北は扶余、西は碑麗(契丹)、南は漢水(現在のソウルを流れる「漢江」)までを領土にした。高句麗の最盛を築いた王である。その王が、朝鮮半島南部に進出し、何度も倭と戦い、これを打ち破った功績を讃えた顕彰碑がその都「集安」に建立された。その後、高句麗は第25代「平原王」の28年〔586年〕に都を平壌に移してからは、この地は重要性を失い、衰退していくとともにいつしか広開土王碑のことも忘れ去れてしまった。なお、廣開土王は、死後に「国岡廣開土国境平安好太王」という謚号がつけられたので好太王とも言うが、ここでは広開土王で統一する。

 この碑が再び世に出るようになったのは、「清」の光緒帝の初年〔1875年〕のことである。この間、約1500年弱すっかり忘れ去れていたことになる。拓本は光緒帝の初期には既に存在していたというから、発見と同時くらいに発見者の金石文学者「関 月山」の手によって取られたとされている(『好太王碑の研究』王 健群 雄渾社 1985年12月15日 27頁-以下「碑」の説明はこれに従う)。なお、日本に最初に拓本(「雙鉤本」なども含む)を持ち帰ったのは参謀本部の将校(「酒匂景信」)で、1884年〔明治17年〕2月以前とされている(『広開土王碑の研究』李 進熙 吉川弘文館 1972年10月10日、『好太王碑と任那日本府』李 進熙 学生社 1977年10月5日)。しかし、それ以前の拓本が存在したことは、「水谷悌次郎旧蔵拓本」(原石拓本)があり、誤りである。この「酒匂景信」の持ち帰った「加墨「雙鉤本」が偽造であるとの主張が「李 進熙」によってなされたが、<荒唐無稽>なものであって、成り立ち得ないことは、「日朝古代交流史における朝鮮人の五大妄想(6)>日本の参謀本部による広開土王碑文の偽造説(1)< 以下に詳細に論考しているから、繰り返さない。

◆ 「広開土王碑」の年号  『三国史記』の年号と比べて、1年遅れ(1年引上げ)となっている。これは使用した中国の暦が異なるものと考えられている(これについては後述)。ここでは『三国史 記』の年号(現行の干支紀年)で統一した。

◆ 広開土王碑(2) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 1月 5日(水)12時14分1秒◆

 「広開土王碑」の概要(2)

 広開土王碑は一枚の巨大な角礫凝灰岩から成る。碑は正方形でも長方形でもないいびつな形をしている(前面が広く裏面が狭い-不規則な長方形)。高さは6.39メ-トルで、頂上部と下部がやや膨らみ、腰部がやや細くなっている。下部の幅は、第一面(南東側-表面という)が1.48メ-トル、第二面(南西側)が1.48メ-トル、第三面(北西側)が2.0メ-トル、第四面(北東側-裏面という)が1.46メ-トル、である。碑の底部の台座は「花崗岩」で作られており、長さ3.35メ-トル、幅2.7メ-トルで、これまた不規則な長方形となっている。台座の厚さは所々によって異なり、北西側の厚さは63センチ、南東側は16センチとなっている。碑面の文字は当時一般に使われた「隷書体」で彫られているが、ごく少数の文字は草書を隷書風にして彫られている。文字数は、第一面が451字(欠字-全く読めないもの-23字、欠字あるいは一部欠けてはいるが、文字が推測できるもの-33字)、第二面が387字(欠字-全く読めないもの-29字、欠字あるいは一部欠けてはいるが、文字が推測できるもの-41字)、第三面が574字(欠字-全く読めないもの-84字、欠字あるいは一部欠けてはいるが、文字が推測できるもの-46字)、第四面が365字(欠字-全く読めないもの-0字、欠字あるいは一部欠けてはいるが、文字が推測できるもの-6字)、の合計1777字である(『広開土王碑文の研究』白崎昭一郎 吉川弘文館 1993年6月20日 382頁)。ただ、これは人によって異なる。「王 健群」は1775字としている。なお、1行ほぼ41字で構成されている。

◆ 広開土王碑(3) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 1月 6日(木)13時28分4秒◆

 「広開土王碑」の概要(3)

 「広開土王碑文」は、次の3つに分けられる(「王 健群」の前掲書 30頁、『失われた九州王朝』古田武彦 朝日新聞社〔朝日文庫 ふ-8-7〕1993年2月1日257頁)
1.第一部
 ① 「高句麗」の建国神話・伝説
 ② 高麗王」第1代「鄒牟王」(「朱蒙」〔始祖 東明聖王〕)、第2代「儒留王」(「琉璃明
  王」)、第3代「大朱留王」(「大武神王」)までの治績、
 ③ 第19代「広開土王」の即位の生涯(18歳~39歳)の治績
 ④ 「広開土王」の本碑の建立(王の死2年後-415年)の経緯
2.第二部
 ① 永楽5年(396年)
   王が碑麗(契丹-高句麗の北部で活動)に遠征し、これを討ち破ったこと
 ② 永楽6年(397年)
   高句麗の属民だった「百済」・「新羅」が海を渡ってやって来た「倭」に征服され、臣民となり、「百済」は「倭」と同盟したので、「百済」に攻め入り、服従させ、「新羅」を救った。
 ③ 永楽8年(399年)
   「百済」が再び背いたので、これを征伐し、朝貢させた。
 ④ 永楽9年(400年)
   「百済」がまたも背き、「倭」と同盟した。王はこれを警戒するため「平壌」に赴いた。そのとき「新羅」の使いが来て、「倭」が来襲し、城は攻め取られ「高句麗王」の臣下だった「新羅王」は賎民にされてしまった。「新羅王」は「高句麗王」の臣下となりたいと告げた。王は「新羅王」の忠誠心を讃え、策略を授けた。
 ⑤ 永楽10年(401年)
   王は5万の軍隊を派遣して新羅を救援した。「倭」軍は「新羅」中の城を占領していたが、これを破り、さらに追撃し大敗させた。
 ⑥ 永楽14年(405年)
   再び「倭」軍が、今度は帯方(現在のソウルの「漢江」)を越えてにやって来て、「百済」と一緒になって石城を占領した。王は平壌から出発し、先鋒部隊が「倭」軍を合い見え「倭」軍を壊滅した。
 ⑦ 永楽17年(408年)
   王は5万の軍を遣わし、「倭」軍およびこれと同盟する「百済」軍を討ち破り、鎧1万余領を捕獲した。そして、「百済」のいくつかの城を占領した。
 ⑧ 永楽20年(411年)
   東扶余(中国東北部の南部)は高句麗の建国以来属民であったが、叛き朝貢をしなくなったので、王自ら兵を率いて討伐しこれを屈服させた。近くの国々も王に従うようになった。王は生涯に、64の城と1400の村を獲得した。
3.第三部
 ① 王は、国土の民衆を階級別に統制し、戸籍を作らせ、報告させた。
 ② 王は、王墓の墓守をさせるのは、これまでの戦争で捕獲した「韓」(韓国南部の民族-「百済」の人々)と「穢」(北朝鮮の日本海側に住んでいたツング-ス系の民族)の人たちせよ、との遺言をした。我々は王の遺言に従うほか一般人も連れてきて墓守にした。戸籍を整え、墓守たちを売買してはならず、違反する者には刑罰を科すことにする。
 ところで、これまでの「広開土王碑」の研究書を見てみると、「倭」に関係する箇所のみに焦点が当てられ、特に『「辛卯年」条』の解釈に集中している。もちろん、日本人にとっては、ここのところが関心があろうが、「倭」に関係する箇所は他にも8ヶ所もあり、また、碑文全体を見なければ、その概要をつかむことはできない。ここでは、「倭」に関係する箇所9ヶ所を中心とはするものの碑文全体の解釈も行い、碑の建立の目的にまで及びたいと考える次第である。
■ 日韓古代交流史――広開土王碑[乙:解釈1(倭関係)]――(解法者)■
◆ 広開土王碑(4) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 1月 7日(金)13時00分3秒◆

 碑文の解釈(1)

 碑文の解釈を行いたいが、先に「倭」に関係のある部分について行い、最後に全体の解釈に及びたい。なお、漢字は新漢字を使用した。碑文のうち、「倭」に関係のある部分には、次のものがある。
1.「辛卯年」条。「百残新羅旧是属民由来朝貢而倭以辛卯年来渡海破百残□□□羅以為臣民」(第1面8行34字~9行24字)
 ① 「百残」とは「百済」の蔑称である。② 「属民」とは、属国の民の意味であるが、「隷属」ということではなく、服従していいるだけで、「朝貢」=貢物を定期的に奉げるということをいう。なぜなら、「属民」の後に「朝貢」が来ることからも理解されよう。これについて、「属民」とは「高句麗」を支配者とする場合、「臣民」はそれ以外の者が支配者となっている場合であるとする(『高句麗史と東アジア』武田幸男 岩波書店 1989年6月26日115頁-以下「武田」①という)。つまり、「属民」と「臣民」との違いは従属性の強弱であるということになる『古代朝鮮諸国と倭国』高 寛敏 雄山閣 1997年4年20日 181頁)。しかし、従属性の強い「臣民」を「広開土王碑」が高句麗以外の他者に使用したとは考えられない。「百済」と「新羅」は「属民」であり「臣民」であるという(「高 寛敏」-前掲書 同頁)。だが碑文では「属民」と「臣民」とを使い分けており、ここでは「属民」のみを言うとするのが正しいと思われる。③「而」は「然るに」の意味で「理由」をいう。ここでは大変重要な意味を持つ。ここのところは、<日朝古代交流史における朝鮮人の五大妄想(48)>高句麗の倭国への侵攻論(27)<2.で説明してある。つまり、「而」があるから、「百済・新羅は高句麗の属民だったのに(「而」)、「倭」が「海」を越えてやって来てこれを臣民にした。だから、高句麗は臣民となって「倭」と協力した「百済」を討伐して再び属民とした」のであるというように、意味が滞りなく通じるからである。④「以」は続いての「来」と対応して「以来」という意味である(「武田」①-159頁、『古代の日朝関係』山尾幸久 塙書房[塙選書 93]1989年4月10日 200頁、『好太王碑の研究』雄渾社 1984年12月15日 179頁)。この点について「佐伯有清」は「以」は「に」の意味であるとする(『広開土王碑と参謀本部』吉川弘文館 1976年5月10日 166頁-以下 佐伯①という、「高 寛敏」-前掲書 181頁))。そう解するならば、「倭以辛卯年来」のところが「以倭辛卯年倭来」とならなければならない(武田 ①-158頁)。したがって、この考えは採り難い。

◆ 広開土王碑(5) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 1月 9日(日)17時03分26秒◆

 碑文の解釈(2)

 ⑤ 「辛卯年」とは、331年をいう。これについては391年をいうとする者が圧倒的に多い(武田 ①-181頁、「佐伯有清」前掲書 167頁、「山尾幸久」前掲書 20頁、「平野邦雄」〔『大化前代政治過程の研究』吉川弘文館 1985年6月10日60頁〕)。 特に朝鮮人研究者は391年という(『古代の日朝関係』塙書房[塙選書 93]1989年4月10日 201頁、「金 錫亨」〔『古代朝日関係史』勁草書房 1969年10月30日 370頁〕、「朴 時亨」〔『広開土王碑』社会科出版社 1966年[『広開土王碑』そしえて 1985年8月1日 198頁]〕、「金 廷鶴」〔『日本古代国家と朝鮮』大和書房 1975年12月10日 122頁)。これを391年というのは、① 「広開土王」がこの年に即位した、② 『日本書紀』応神天皇38年〔392年〕条に「百済の辰斯王が日本に礼を失したので、天皇が使臣を遣わし、無礼を責めたところ、百済が辰斯王を殺して「阿花」(第16代「阿?王」立てた」ことが記されており、これに合致する。③ 『三国史記』高句麗本紀に、高句麗第18代「故國壌王」9年(392年)に、「新羅王(奈勿王)は姪の「實聖」を高句麗に送って人質にした」との記事(新羅第17代王「奈勿尼師今」(奈勿王)37年(392年) 正月、高句麗(広開土王)が使臣を遣わした。王は高句麗が強勢であったので、伊食(正しくはサンズイに食)の「大西知」の子である「實聖」を高句麗に人質として差し出した(同 新羅本紀)。に合致することが考えられる。④『三国遺事』卷第1 奈勿王・金堤上 に、新羅第17代王「奈勿尼師今」(奈勿王)37年(392年) 倭が人質を要求し、王が第3子の「美海」(未斯欽-ミキシ)を人質に差し出した、という記事に合致する、⑤ 『三国史記』卷第45列伝第5朴堤上 に、高句麗と「倭」が新羅で衝突し、「倭」軍が皆殺しにされた記事に合致する、というもののようである(「好太王碑文「辛卯年」銘の検討」〔『日本古代国家の形成』小林敏男吉川弘文館 2007年8月10日 71頁、武田 ①-168頁など)。しかし、「倭」はその前から「新羅」と断行し、間断なく「新羅」を攻めており、抗争状態が続いている(日朝古代交流史における朝鮮人の五大妄想(35)>高句麗の倭国への侵攻論(13)<参照)。王の功績を誇りたいならば、何も即位の年の391年からに限定しないでもその前から「倭」がたびたび侵攻して来ていて長年苦しめられていた。それで「倭」を破ったとした方が適切だと思える。

◆広開土王碑(6) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 1月11日(火)12時18分49秒◆

 碑文の解釈(3)

⑥ 「来」を動詞と考える見解は、「日朝古代交流史における朝鮮人の五大妄想>高句麗の倭国への侵攻論<」 「鄭 寅普」など論考で説明した。これを動詞として考えれば、「倭」が朝鮮半島にやって来たという意味になり、そこから彼らは「高句麗」が海を渡って日本本土にやって来て「倭」を討ち破った(「鄭 寅普」および「朴 時亨」の見解)。あるいは、「高句麗」が海を渡って「百済」にやって来て「百済」を討ち破った(「金 錫亨」の見解、「佐伯有清」も同じ〔『古代史演習 七支刀と広開土王碑』吉川弘文舘 1977年4月20日65頁-以下 佐伯②という、「高句麗広開土王碑文の再検討」[『続日本古代史論集 上巻』坂本太郎博士古稀記念会 吉川弘文舘 1972年7月1日 38頁-以下 「佐伯」③という]〕)とするが、「倭」の狼藉振りを過小に記するので、「高句麗王」の功績をも過小に評価してしまうことから、採り得ないことはすでに前記で説明したので、ここでは繰り返さない。⑦ 「海」の字であるが、ここのところの「?」の部分は明らかでないが「毎」の部分はそう読み取ることが可能であって、まず「海」と読んで誤りはないものと考えられる(「山尾幸久」-前掲書 201頁、「王 健群」-前掲書 160頁)。これを「海」以外に読む者に「白崎昭一郎」がいる(前掲書 152頁)。「毎」と読むのであるが、「いつも」の意味であり、次に「渡」が来るので、「いつも(海)を渡って」となり、これを「海」と読むのとは大差ないことになろう。この2つ以外に読む者はいないようである。「李 進熙」はこれを「海」としたのは「酒匂景信」の偽造だとして物議をかもしたことは「日朝古代交流史における朝鮮人の五大妄想>日本の参謀本部による広開土王碑文の偽造説<」で詳しく説明してある。ただ、彼はこれを何と読むのかは明らかにしていないから、何を以て<偽造>などと言い出したのか意味不明である。もちろん、これを欠字のままとしている者はいた(武田 ① 430頁)が、次に続く「渡」との関連でやはり「海」と考えを訂正している(『広開土王碑と対話』白帝社2007年10月25日 296頁、316頁-以下「武田」②という)。

◆ 広開土王碑(7) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 1月13日(木)13時23分6秒◆

 碑文の解釈(4)

⑧「破百残□□□羅」の欠字3字。これが大きな問題となっている。まず、「□羅」の欠字は「斤」という字が読み取れるとされることから(『任那興亡史』末松保昭 吉川弘文館 1949年2月28日 37頁)、「新」であろう。その前の2字は全く読み取れない。「百残□□□羅」とあることから、国名が入るというのが一般的で、「加羅」あるいは「任那」とする者が多い(末松保昭 前掲書 同頁、「菅 政友」〔「高麗好太王碑銘考」[『史学会雑誌』第2編第24号 51頁]〕、「那珂通世」〔「高麗古碑考」[『史学会雑誌』第4編第49号 43頁]〕、「武光 誠」〔『広開土王の素顔』文藝春秋[文春文庫 524 2007年3月10日 50頁)。これについて、その「辛卯年」を391年とすると、『三国史記』にも『三国史記』にも、「高句麗」が「加羅」あるいは「任那」と戦闘を交えたという記録がない。しかも、「倭」が「加羅」諸国に拠点を置き、「加羅」を支配下(少なくとも同盟関係)にしていたのははるかに前の時代(237年以降間もなく-「日朝古代交流史(14)>倭はどこにあったのか(14)<」参照)のことであるから、この時代になって、改めて「加羅」あるいは「任那」を侵略して「臣民」にしたとは考えられないのである。したがって、ここには「国名」が入る余地はない(『古代の倭国と朝鮮諸国』鈴木英夫 青木書店 1996年2月25日 48頁)。ここで、331年からの朝鮮半島南部の情勢を見てみると、『三国史記』新羅本紀の第16代「訖解尼師今」36年(345年)に倭王が書を送ってきて断交し、その後、346年と364年に「倭」の大軍に侵略された記録がある(「日朝古代交流史における朝鮮人の六大妄想(35)>高句麗の倭国への侵攻論(13)<」参照)。私は「又伐」(「任那加耶考」〔『小田先生頌寿記念朝鮮論集』大原利武 大阪屋号書店 1934年 173頁〕)あるいは「又服」(『改訂増補 東洋史上より未たる日本上古史研究』橋本増吉 629頁)と考える。「更討」とする者(「白崎昭一郎 前掲書155頁)も同じ意味である。「倭破」とすることも同じである(『日本古代国家と朝鮮』金 在鵬 大和書房 1975年12月15日 115頁)。他の解釈として、ここを「東□」と読む者(「「広開土王碑文」と徳興里壁画古墳について」孫 永鍾〔『謎の五世紀を探る』江上波夫・上田正昭 読売新聞社 1992年3月19日 178頁]〕、「武田」② 316頁・328頁)がいる。これは「孫 永鍾」によると、「初 均徳」の拓本に「東」と書かれていること、この「東」は「東夷」(立ち遅れた人々)を意味し、392年に新羅が「実聖」を高句麗に人質に送っていることおよび続いての「永楽6年」条に、初めて高句麗の奴客となったと記されているこ
 とを理由とする。しかし、この後の欠字を補ってもらわないと意味が正確に伝わらない。「孫 永鍾」が『「東」の字を合理的には説明し得ませんが』(前掲書 同頁)と述べていることはこのことを物語っているものと思える。後は、前述したとおり「朴 時亨」が「招倭侵」あるいは「聯倭新」と断定しているが、これが採りえないことは「日朝古代交流史における朝鮮人の六大妄想(50)>高句麗の倭国への侵攻論(29)<」で説明した。

◆ 広開土王碑(8) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 1月15日(土)15時46分32秒◆

 碑文の解釈(5)

⑨「以為臣民」については異論がない。この「臣民」の意味は「属民」とは異なり、完全に服従することをいう。つまり、「属民」より服従度が強いということである。以上、説明したとおり、「百残新羅旧是属民由来朝貢而倭以辛卯年来渡海破百残□□□羅以為臣民」の解釈は、『(高句麗は)百済・新羅を古くから属民にし、彼らも(高句麗に)朝貢してきた。しかるに331年以来、倭が海を渡ってやって来て百済を破り、また新羅を侵略し、服従させてしまった』となる。次にこのことが史実であるかどうかである。これについては、次のように分けて考える。
1.「高句麗が百済を古くから属民にし、彼らも(高句麗に)朝貢してきた」ことは事実であるか。事実かどうか疑わしい。これは「高句麗」の第16代「故國原王」が即位した331年(辛卯年)以前から中国の「燕」と戦争状態にあって南下する余裕などなく、その39年(369年)には、兵2万をもって「百済」と戦闘を交えたが破れており、41年(371年)には、「百済」の第13代「近仇首王」が兵3万を率いて来て「平壌城」を攻め、その戦闘で戦死している。次の第17代「小獣王」の7年(377年)に「百済」の第13代「近仇首王」が兵3万を率いて来て「平壌城」が占領されている。さらに、第18代「故國壌王」の7年(390年)には「百済」の第15代「辰斯王」に都押城が攻め取られ、200人が捕虜となっている。これらのことは『三国史記』の高句麗本紀ばかりではなく百済本紀の記事からもうかがうことができる。とにかくこの間、「百済済」には負け続けなのである。ようやく失地回復したのは第19代「広開土王」になってからで、本碑文の「永楽6丙甲年」条に王が百済の王城を占領し、「百済」の第16代「阿?王」を屈服させてからである。この点について、「山尾幸久」は、『百済王権は4世紀中ごろには、高句麗王に従属して、その軍事力を担っていたと考えられる。百済王都には高句麗の将軍が駐在するようなこともあった可能性がある』という(前掲書 198頁)。どこを見てそのようなことを言うのか理解できない。『三国史記』を丹念に読み込んだらよい。

◆ 広開土王碑(9) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 1月17日(月)13時25分22秒◆

 碑文の解釈(6)

2.「高句麗が新羅を古くから属民にし、彼らも(高句麗に)朝貢してきた」ことは事実であるか。事実である。これは「高句麗」の第18代「故國壌王」の9年(392年)に、使臣を新羅に遣わして修好した。第17代王「奈勿尼師今」(奈勿王)は姪の「實聖」を高句麗に送って人質にしたとの記事が『三国史記』の高句麗本紀ばかりではなく新羅本紀にもあることから裏付けられる。
3.「倭が百済を臣民とした」ことは事実であるか。事実である。「神功皇后」49年(369年)条に、「百済」王が「倭」に朝貢の誓約
 をし、その2年後の371年に「高句麗」軍の「百済」への侵攻に対し「百済」が大勝利し(『三国史記』百済本紀 第12代「近肖古王」26年条)、そのお礼として「神功皇后」52年(372年)に「七支刀」が皇后に贈られたという記事がある。371年の戦争には「神功皇后」49年の「百済」の「倭」への軍事同盟により「倭」も参戦していた可能性が高いとされる(『倭王権の時代』吉田 晶 新日本出版社〔新日本新書490〕1998年9月30日 36頁)。ただ、「神功皇后」49年条は「百済」と「倭」の軍事同盟の成立と考えるべきではなく、その記事の内容から属国化より進んだ臣民化したものと考えてよい。また、これは少し時代は下るが、『三国史記』百済本紀に、第17代王「腆支王」(第16代王「阿?王」の子-太子)がその6年(397年)に倭国に人質として行かされたことが記されており、『日本書記』の「応神天皇」8年条に「春3月、百済人が来朝した。「百済記」によると、「阿花王」(「阿?王」)が立って貴国(日本)に無礼をした。それで「枕弥多礼」(せしむとき)、「?南」(けんなむ)、「支侵」(ししむ-現在の韓国忠清南道洪城付近)、「谷那」(こくな-現在の韓国全羅南道谷城)などの東韓の地を(高句麗)に奪われた。そこで、太子の「直支」(とき-後の第17代「膿支王」)を人質として天朝(日本)に差し出して、修好した。」とある。さらに『三国史記』百済本紀 に、405 年に「阿?王」が薨去されると、王の2番目の弟「訓解」が摂政をしながら太子の帰国を待っていた。すると末弟の「?禮」が「訓解」を殺し自ら王に即位した。 太子は、「阿?王」の訃報を聞き、号泣しながら帰国を請うと、倭王は兵士百人をつけて護送させた。太子は危険であるとの忠告に従って国に入らず待っていると、やがて国の人が禮」を殺して太子を迎えて即位させた。」とあり、『日本書記』の「応神天皇」16年条春2月、「王仁」が来た。百済王「阿花王」(「阿?王」第16代)が薨去した。天皇は「直支王」(「阿花王」の長子-「膿支王」)を呼んで「あなたの国に帰りなさい」とお告げになられた。「膿支王」は天皇より「東韓」(甘羅城〔からむしのさし-現在の韓国全羅北道咸悦〕・高難城〔たかなんのさし-現在の韓国全羅南道谷城-前記の谷那と同じ〕・「爾林城」〔りにむのさし-現在の韓国全羅北道金堤郡利城?〕賜った。」とあって、合致する。ここで、注目すべきは「人質」よりも「膿支王」が「応神天皇」の命により、王座の地位をも与えられたということである。これは「属国」を超えて「臣民」だったことを示すものではあるまいか。前述の『三国史記』の記事にあるとおり、「百済」は「高句麗」と国家の存亡をかけた戦いを繰り広げていたのであって、「高句麗」に攻め滅ぼされるよりも長年親交を重ねて来た「倭」の支配下に入った方が良かったと考えていたのではないかと推察できよう。

◆ 広開土王碑(10) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 1月19日(水)12時31分30秒◆

 碑文の解釈(7)

4.「倭が新羅を臣民とした」ことは事実であるか。事実である。これは『日本書記』の第14代「仲哀天皇」8年に「冬10月3日、「神功皇后が、和珥津(対馬の鰐津)から新羅に向けて出発なされた。このとき、海水が新羅の国の中まで上がってきて新羅の王は恐れおののき降伏した。新羅の王「波沙寝錦」(はさむきん-寝錦とは王の意味)は「微叱己知波珍干岐」(みしこちはとりかんき)〔第17代「奈勿尼師今」の子「未斯欣」(ミキシン)〕を人質に差し出した。高麗(高句麗)、百済の2国の王も降伏し、朝貢を絶やさないことを誓った。それで「内官家」(うちつみやけ-日本の朝廷への貢納国)を定めた。」とあり(「三韓征伐」とはこれらのことを言う)、『三国史記』新羅本紀にも、第18代「實聖尼師今」元年(402年)に「3月、倭国と修好し、奈勿王(第17代王)の子、未斯欣(ミキシン)を人質とした。また、『三国史記』卷四十五 列伝第五 「朴堤上」条に「「實聖尼師今」元年(402年)に奈勿王(第17代王)の子、未斯欣を人質として「倭」に送った。」とある。また、『三国史記』百済本紀を見ても、この時代は「倭」にたびたび侵略されていたことがうかがえ、これも傍証になると考える。これまでの解釈について、特に疑問が寄せられているのが、3.4.についてである。
  まず、朝鮮人研究者が主語が「高句麗」であって「倭」ではないとしていることは、
 「日朝古代交流史における朝鮮人の六大妄想>高句麗の倭国への侵攻論<」の冒頭でも
 説明し、これがとうてい採り得ないものであることは十分に示してある。「佐伯有清」の
 見解もこれに分類されることも前述の項で説明した。
  この事実を否定する者の主張に多く見られるのが、「倭」が海賊の集団で、百済・新羅
 を臣民にするはずがないというものである(「王 健群」-前掲書175頁)。これにつ
 いても「日朝古代交流史(10)>倭はどこにあったのか(10)<」で説明してある
 ので、ここでは繰り返さないが、「広開土王碑」との関係で言えば、① 後述の「倭人満
 其国境潰破城池以奴客」(第二面7行15字~27字)「倭人がその(倭人)の国境に溢
 れていて、(新羅)の王城を占領して(新羅王を)臣下とした」ことから、すでに「倭人」
 が朝鮮半島の新羅との国境を接する辺りに<国家>を形成していたことが伺える(『よみ
 がえる卑弥呼』古田武彦 朝日新聞社〔ふ-8-4〕 1992年7月1日 393頁)、② 「十年庚子教遣歩騎五萬住救新羅従男居城至新羅城倭満其中」(第二面8行9字~3 4字)「十年庚子(401年)王(広開土王)は5万の軍隊(歩兵と騎兵)を派遣して新 羅を救援した。「倭」軍は「新羅」中の城を占領していた」、③ 「十四年甲辰而倭不軌侵 入帯方界」(第三面3行7字~20字)「405年)(再び)「倭」軍が、今度は帯方 (現在の大同江」)を越えてにやって来た」、④ 「十七年丁未教遣歩騎五萬□□□□□□ □□王師□□合戦斬殺殺蕩蓋所獲鎧鉀一萬」 (第三面4行21字~5行14字)「408年) 「王は5万の軍(歩兵と騎兵)を遣わし、「倭」軍およびこれと同盟する「百済」軍を討ち 破り、鎧1万余領を捕獲した」となる。これはもはや<海賊>という規模ではない (『日本の歴史 03 大王から天皇へ』熊谷公男 講談社 2001年1月10日44頁)。 なぜ、「海賊」というのかは、「倭」の存在を矮小化したいという願望によるもので<妄言 >の類であろう。  また、「倭軍」とは九州王朝あるいは族長の軍隊であるする者がいる(『失われた九州 王朝』古田武彦 朝日新聞社〔朝日文庫 ふ-8-7〕 1993年2月1日 270頁、 「倭王権の成立と東アジア」上田正昭〔『古代王権の誕生 Ⅰ 東アジア編』初期王権 研究委員会〕角川書店 2003年1月31日 90頁)。この時代には「九州王朝」が存在 しなかったことは「神功皇后」の終わりの>日本の国家成立の時期<の項で説明した。 「平野邦雄」は「『後漢書』によると「大倭王」と書いてあり、倭国を代表する唯一の 政治権力が既に誕生していた。そのヤマトが九州に「一大率」という巨大な出先機関を 置いていた。「一大率」には九州の沿海の諸国を検察する役割と外交の役割が負わされて おり、諸国では「一大率」から検察されこれを非常に畏憚(いたん)していたと書かれて いる。 したがって、「広開土王」と戦った「倭軍」がヤマトの王権と何ら関わりのない九州の族長の軍隊であるというような考えは「大和説」(大和に王権があったとする考え)からは とうてい出てくるはずはない」としている(「国家的身分の展開」〔『空白の四世紀とヤマト政権』西嶋定生・平野邦雄ほか 角川書店[角川選書 179]1987年6月30日 22頁〕)。  朝鮮半島に大量の軍隊を派遣して「高句麗」と大戦争を行っていることは、日本で「古 代王朝」が成立していなければできるはずもない。これについては「神功皇后」の項の 「日本古代国家の成立時期」において詳しく述べる。  なお、これも含めて「広開土王碑」の倭関係記事のすべてが<虚構>だと言う者がい る(『倭と加耶の国際環境』東 湖 吉川弘文館 2006年8月10日 172頁)。「高句 麗」の軍5万(これも誇張だとする)に対抗する軍事力から「倭」(人)が「渡海」し、 「出兵」したという物語が創作されたというものを基本として論じている。「碑文」の「倭 賊」が軍隊であったか兵であったか疑問であるとし、「倭」を仮想敵国と造作して「高句 麗」の「百済」・「新羅」への侵攻を大義名分として碑文を<捏造>したとする。しかし、 それならば、「碑文」で「倭」を除外して「百済」・「新羅」戦の大勝利を謳えば良い。 「百済」・「新羅」への侵攻が<主題>であるならば、なぜ碑文での戦闘の場面で「百済」・ 「新羅」が欠けているのか、理解し難い。また、「広開土王碑」が<虚構>ならば、碑を 建造した高句麗の「長壽王」は大変な妄想家であり、先王「広開土王」の権威を失墜させ、人々の<笑い者>になるのがオチであろう。

◆ 広開土王碑(11) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 1月21日(金)13時24分21秒◆

 碑文の解釈(8)

 ところで、「倭」の存在の矮小化と言えば、「人質」の概念についてでもある。「百済が397年に王子の「腆支(テンシ)」を倭に人質として送ったという記録があり、新羅が王子「未斯励(ミキシ)」を402年に倭に送ったという記録も同じく『日本書紀』や『三国史記』にあるが、これを強国である「百済」や「新羅」が弱小国である「倭」に外交手段として送ったと強弁する者が朝鮮人研究者にいる。これのような<妄言>については、「日朝古代交流史における朝鮮人の六大妄想(57)>新羅・百済の倭国への人質論(1)<」で指摘しておいたので、参照されたいが、要するに、「百済」や「新羅」が「日本」の下に立つということを認めたくないという<朝鮮民族至上主義史観>に基づく希望的観測に基づくもので、「広開土王碑」に関して言えば、碑文の内容を<捏造>だというのである。

2.「六年丙申」条
  「以六年丙申王躬率大軍討伐残國(中略)其國城賊義敢出百戦王威赫怒渡阿利水遣刺迫城横□?穴就便圍城而残王困逼出男女生口一千人細布千匹跪王自誓従今永為奴客」(第一面9行25字~39字(中略)第二面3行17字~4行36字)
 ① 「以」とは、「に」の意味である。② 「六年丙申」とは、「永楽6年(広開土王の在位6年丙申年〔397年〕)」をいう。③ 「王躬率」とは、「王(広開土王)が自ら率いて」の意味である。④ 「大」、これは「水」と読める拓本もあり、定かではない。欠字のままとする者もいる(武田 ② 316頁)。ここでは「大」と読む。碑文には「王躬率」と書かれているものと、「教遣」と書かれているものがある。「教遣」とは、王が自ら出陣せず、家来に任せて出陣させることをいう。そして、碑文に「王躬率」とあるときは必ず「王」が軍を率いて征伐しなければならない理由が書かれている。それもそうだろう。「広開土王碑」は「王(広開土王)」の顕彰碑の性格を有しているから、「王」自ら出陣するときは、その理由を記して王の功績を大きく示す必要があったからである。⑤ 「残國」とは、「百済」のことである。碑では「百済」のことを「百残」と表記していることから、そう考える。

◆ 広開土王碑(12) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 1月23日(日)13時06分2秒◆

 碑文の解釈(9)

⑥ 「其國」とは、「百済國」の意味である。
⑦ 「義」とは、「正義」の軍隊「高句麗軍」をいう。
⑧ 「王威赫怒」は、「王(広開土王)が顔を赤くして怒り」の意味である。
⑨ 「阿利水」とは、「阿利川」という固有名詞である。ソウルを流れる「漢江」を指す
 ものと思われる。
⑩ 「刺」は、「先鋒部隊」をいう。
⑪ 「?」も争いがある。「侵」と読む者もいる(「武田」② 316頁)。また、「帰」とする者もいる(王健群 前掲書 225頁)。彼はその前の「横」および欠字(1字) を「残兵」であるとし、「百済軍が百済城(穴)に帰った」と読む。しかし、拓本を精 査すると「人」が左側(偏)にあることから「帰」ではなかろう。問題は「?」か「侵」 かである。拓本によってはその左に「田」と読めたり「又」と読めたりする。しかし、 「又」にしては字が小さい。そこで「?」と考えた。意味は「迫る=?る」である。 また、「横」のところは旁(つくり)「黄」が見えるから、「残」とは読めない。さらに、 その後の欠字(1字)は読み取ることはできないから「兵」とするのは無理がある。
⑫ 「穴」とは、「巣窟」すなわち「百済の王城」のことをいう。
⑬ 「就便」とは、「すなわち(便)就く」ということで、「高句麗軍が追撃した」の意
 味である。
⑭ 「圍城」は、「城(百済の王城)を囲んだ」の意味である。
⑮ 「残王困逼」とは、「百済王が困り果て追い詰められて(逼)」のことを意味する。
⑯ 「生口」は、「奴隷」のこと。
⑰ 「細布」とは、「にしては字が小さい。布」のことをいう。「絹」ではない。
⑱ 「跪王」は、「百済王(第16代「阿?王」)が高句麗王(広開土王)の前に膝を屈
 して跪いた」の意味である。
⑲ 「奴客」とは「臣下」となることをいい、「奴隷」の意味ではない。実体(客体)は
 「百済」であることは説明するまでもない。


◆◆◆ 広開土王碑(13) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 1月25日(火)16時04分4秒◆◆◆

>碑文の解釈(10)<

  ここのところの解釈は「永楽6年(広開土王の在位6年丙甲年〔397年〕)に(以)、
 高句麗王(広開土王)が自ら大軍を率いて百済軍を討伐した。(中略)百済の王都に逼っ
 た。(しかし)百済は正義の高句麗に屈服しないばかりか戦いを挑んで来た(敢出百戦)。
 王(広開土王)は激怒し、漢江を渡って先鋒部隊を百済の王都に迫らせた。(これを見た
 百済軍は恐れおののいて)百済の王都に逃げ帰った。そうして(而)百済王(第16代
 「阿?王」)は困り果てて、男女の奴隷千人、上質の布千匹を差し出し、王(広開土王)
 の前に跪いてこれからは永遠に王(広開土王)の臣下になりますと誓った」である。
  なお、「六年丙甲」条が主題で、「倭」の侵攻を表わす「辛卯年」条はその前提文(説
 明文=前置文)であることは前述のとおりである。
3.「九年己亥」条
  「九年己亥百残違誓与倭和通王巡下平壌而新羅遣使臼王云倭人満其国境潰破城池以奴
 客為帰王請命」第2面6行31字~7行33字)
 ① 「九年己亥」とは、「永楽9年(広開土王の在位9年己亥年〔400年〕)」をいう。
 ② 「誓」とは、「六年丙甲」条にいう「百済王」が高句麗王(広開土王)の前に跪いて
  臣下となることを誓ったことを指す。
 ③ 「倭和通」は、「百済」が「倭」と同盟を結んだことをいう。具体的には、『日本書紀』
  応神天皇8年条の「春3月、百済人が来朝した。「百済記」によると、「阿花王」
  (「阿?王」)が立って貴国(日本)に無礼をした。それで「枕弥多礼」(せしむとき)、
  「?南」(けんなむ)、「支侵」(ししむ-現在の韓国忠清南道洪城付近)、「谷那」
  (こくな-現在の韓国全羅南道谷城)などの東韓の地を(高句麗)に奪われた。そこで、
  太子の「直支」(とき-後の第17代「膿支王」)を人質として天朝(日本)に差し出
  して、修好した。」の記事に合致する。これと同様の記事は、『三国史記』百済本紀の
  第16代王「阿?王」6年(397年)条「5月、王は倭国と友好を結び、太子の「腆支」
  を人質として差し出した」にある。
 ④ 「王巡下平壌」とは「王(広開土王)が(「倭」・「百済」の侵攻を警戒して)平壌を
  巡視していた」ことをいう。


◆◆◆ 広開土王碑(14) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 1月27日(木)13時15分34秒◆◆◆

>碑文の解釈(11)<

 ⑤ 「倭人満其国境」とは、「倭人が倭国との国境(倭国内)に多くいた」の意味である。
  ここの「其」が「新羅」ではなく「倭国」をいうことに注目されたい。つまり、この
  時代には「倭国」が朝鮮半島にあったことを示している(『大化前政治過程の研究』平
  野邦雄 吉川弘文館 1985年6月10日 222頁)。なお「武田幸男」は「新羅」の
  国境をいうとする(「武田」① 140頁)。しかし、「新羅」の使者が自国の国境を
  「其」などと言う訳がない。「我」・「吾」である。彼はなお、「新羅」の使者が「間接
  法」で事態を語っているから、「我」・「吾」という言葉を使わずに「其」を使ったとい
  う。「間接法」にしても、王(広開土王)に向って、自国の置かれている状況を説明し
  ているのである。ならば、ここは「我」・「吾」を使わなければならない。さらに、
  「倭人」とあり、「其」が続く。やはり、「其」とは「倭国」と考えなければならない。
  「王 健群」はここの解釈を省略(ゴマカシテ)している(前掲書 229頁)。
  彼は前述のとおり「倭」とは海賊だとしているが、ここの解釈をゴマカシテはいけない。
  つまり、彼の考えはここで破綻している。
   「国境」を「(新羅)国内」と考える者がいる(「王 健群」-前掲書 229頁、
  「武田」①-227頁、「白崎昭一郎」 前掲書 216頁)。そう考えたいところだが、
  原文はあくまで「国境」で「国内」でない。また、続く「潰破池」とは連動してない。
  ここは(続いて)国内に侵攻し、「城池」を破壊したと読むべきである。
 ⑥ 「城池」は、「城とそれを取り囲んでいる濠」のことである。城=町だから都市と解
  してもよいのではなかろうか。
 ⑦ 「奴客」の意味は前述した。ここの「奴客」の実態が「新羅」なのか「百済」なのか
  については争いがある。「武田幸男」のみが「百済」とする(武田 ① 140頁)。
  その理由は、① 碑文の「奴客」はすべて同じく解釈しなければならない。「永楽六年丙
  条」の「奴客」も「百済」である、② この後に続く「帰王請命」(王(広開土王)に
  従いたいので命令を願う」との関連から、ここのところは、「倭人満其国境潰破池」と
  「奴客為民帰王請命」を分離して考えなければならない、③ 王(広開土王)の主敵は
  「百済」であって「新羅」ではない。『「新羅が倭に攻められ」・「百済も倭の奴客」に
  なっているのだから、「新羅」は王(広開土王)に従いたいので命令を願います』で
  初めて意味が通じる、というのである。
   しかし、この考えは完全に誤っている。① 「新羅」は「倭国」に攻め込まれ、存
  亡の危機に立っているという状況にある。これを打開するためには一時も早く「高句
  麗」の救援を仰がなければならない。「百済」を討ってくださいなどと呑気なことは
  言っておられない状態にある。② 先の考えだと「以」が置かれている意味がない。
  これは「だから」の意で、「倭人満其国境潰破池」と「奴客」とを無理なく結んでい
  る。③ 「帰王請命」も『「新羅」が「倭国」の「奴客」とされてしまってます。
  「新羅」はあくまで「高句麗」に従いますので、王(広開土王)のご命令を願います』
  で、十分に意味が通じる。
 ⑧ 「為民」は、「民衆のために」という意味ではない。「民と為す」の意味で、「為」は
  ・・・にするの意味である。そして、この場合の「民」は一般大衆をいうのではなく、
  身分を表わし「賤民」を指す。これについては異論を見ない(「王 健群」-前掲書 2
  28頁、「白崎昭一郎」 前掲書 218頁)。
 ⑨ 「帰王請命」は、「王(広開土王)のご命令をお願いいたすとともにそのご命令に従
  います」までの意味を含むものと考える。


◆◆◆ 広開土王碑(15) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 1月29日(土)14時12分20秒◆◆◆

>碑文の解釈(12)<

  ここのところの解釈は「永楽9年(広開土王の在位9年己亥年〔400年〕)、「百済」
 が「永楽6年丙甲」条の誓を破り「倭」と同盟した。王(広開土王)が(「倭」・「百済」
 の侵攻を警戒して)平壌を巡視していた(ちょうどその時)、「新羅」の使いがやって来
 て、「倭」が「倭」と「新羅」の国境に大軍を差し向け、(さらに)「新羅」の国内にまで
 侵攻し、城を取り囲んでいる濠を破壊し城を乗っ取りました。(そして)わが王(第17
 代「奈勿王」を臣下としてしまいました。「新羅」はあくまで「高句麗」に従いますので、
 王(広開土王)のご命令を願いいたすとともにそのご命令に従います」となる。
  ここでは「倭」軍が「新羅」を攻撃しており、「百済」は見られない。「百済」は参戦
 してなかったと理解できよう。


◆◆◆ 広開土王碑(16) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 2月 1日(火)13時32分4秒◆◆◆

>碑文の解釈(13)<

4.「十年庚子」条(長いので分けて解説するが、まず全文を挙げる)
  「十年庚子教遣歩騎五萬住救新羅従男居城至新羅城倭満其中官軍方至倭賊退自倭背急
 迫至任那加羅従抜城城即帰服安羅人戎兵□新□城塩城倭寇委潰城内十九蓋拒随安羅人戎
 兵捕□□□□□其村殊□□□□□信□□旦□倭□稚□□□□□□□□興□□□□□□□
 □□□辞□□□□□□□□□□□残倭潰□以随□安羅人戎兵昔新羅寐錦未有身来論事□
 □□□廣開土王境好太王□□□□寐錦□家僕勾□千□□朝貢」(第2面8行9字~第3面
 3行6字)
 ① 「十年庚子」とは、「永楽10年(広開土王の在位10年庚子年〔401年〕)」をい
  う。
 ② 「教遣」とは、「派遣」の意味である。「教」は使役の助動詞である。
 ③ 「住」は、「往」の意味で、「住救新羅」は「新羅を救援に往った」のことである。
 ④ 「従男居城至新羅城倭満其中」とは、「男居城」(固有名詞-城の名〔場所は不明だが、
  「新羅」の都「慶州」の北部の日本海側だと思われる〕)から(従)「新羅城」(王城)
  まで、「倭」軍がその中に満ち溢れていた」の意味である(「武田 」②-329頁)。
  「従」は、「から」の意味である。
   これに関して、「「高句麗軍」が「従男居城」から「新羅城」まで行くと、そこ(「新
  羅城」)に「倭」軍が満ち溢れていた」と解する者がいる(「朴 時亨」-前掲書 22
  5頁、「白崎昭一郎-前掲書224頁)。つまり、「高句麗軍」が行動した範囲を指し、
  「新羅城」に至ったときにそこに「倭」軍がいたというのである。王(広開土王)が
  出発したのは、碑文から「平壌城」と考えられる(「白崎昭一郎」も「平壌城」かそこ
  に近い地点であると認めている-前掲書225頁)。ならばどうしてわざわざ「男居
  城」と途中の城を記したのであろうか。ところにここの文の特徴がある。行動範囲を
  考えるならば、「平壌城至新羅城」とするのが自然であるからである。この見解はこれ
  を無視しており採り得ない。


◆◆◆ 広開土王碑(17) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 2月 3日(木)15時18分54秒◆◆◆

>碑文の解釈(14)<

   この「5万」という数字であるが、「高句麗」の人口は、3世紀ごろ「3万戸」
  (『三国志』魏書東夷伝)、約20~30万人、4世紀には遼東郡・楽浪郡を含め
  100万人前後、滅亡時(668年)には「69万余戸」で(『三国史記』高句麗本紀
  第28代「寶蔵王」27年〔668年〕12月条)で、約350万人であった(『倭と
  加耶の国際関係』東 湖 吉川弘文館2006年8月10日171頁)から誇張であると
  する。
   ここで、「倭」の当時の人口を考えてみたい。『三国史』魏志東夷伝倭人に、3世紀
  の「邪馬台国」ほか7ヶ国の戸数が書かれており、その合計は15万9千戸余となる。
  3~5世紀の住居跡から推定される世帯の規模を考えると1世帯辺り10人、8カ国
  の人口は159万余となる。戸数記載のない「斯馬国」以下の21ヶ国の戸数を仮に
  各国1千戸として加えれば、「倭人伝」29ヶ国の総人口は180万人余となる。これ
  には東日本の人口が含まれてないから、東日本の人口を縄文末期から弥生時代への増
  率を用いてこれに加えると、当時の人口は220万人内外はあったとされている
  (『人口から読む日本の歴史』鬼頭 宏 講談社〔講談社文庫1430〕2000年5月
  10日 52頁)。そこで、このうち、どのくらいの者が戦争に従事したかというと、
  国家の存亡の危機には約8%だといわれている(平穏時には1%程度である)から、  17万6千人が戦争に動員された可能性がある。
   先の「高句麗」の人口は、3世紀ごろ「3万戸」約20~30万人、4世紀には1
  00万人というのは「日本」と比べて少ない気がするが、「広開土王」の活躍したのは
  5世紀初頭で、少なくとも150万人くらいはあったのではなかろうかと推計できよ
  う。そして、先の国家存亡期の動員数を考えれば、12万人くらいであり、5万人を
  優に超える。『5万人』決して<誇張>ではない。


◆◆◆ 広開土王碑(18) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 2月 6日(日)15時50分30秒◆◆◆

>碑文の解釈(15)<

 ⑤ 「官軍」とは、「高句麗軍」のことをいう。
 ⑥ 「自倭」は、なかなか判読できない。「自」はそのように読める(「王 健群」-前掲
  書 229頁)。問題は「倭」である。これも「王 健群」は「倭」と読む(同 22
  9頁)。これに対して「武田幸男」は「侵」、「井上秀雄」は「来」としている(「白崎
  昭一郎」-前掲書 226頁〔ただし、「武田幸男」は②では「自」も「侵」も欠字と
  している[316頁]〕)。拓本を精査すると「人」が左側(偏)にあることから「来」
  ではない。また「禾」が何とか読み取れるので、「倭」とした。
   意味は、後に続く「自倭背急迫」も含めると、「進んで(自)「倭軍」を背後から急
  いで追うと(追撃)」となる。
 ⑦ 「任那加羅」、読んで字のごとくである。ただ、「任那」、「加羅」の2ヶ国であり、
  「任那加羅」という1つの国ではない。ここに急に「任那加羅」が登場したかというと、
  ここが「倭国」の占領地域であったからである。それは続く「従抜城」(「任那・加羅」
  の城)に現れている。このことは、「倭」と「加羅」は「聯合軍」を結成し、「高句麗」
  と戦ったということを示している(『伽耶国と倭地(新装版)』尹 錫暁 新泉社 2000
  年10月10日 36頁)。
   なお、「任那加羅」を「王 健群」は「金官加羅」というが(前掲書 230頁)、
  これは誤りである。「金官加羅」は「王健群」も指摘するとおり朝鮮半島南端の「洛東
  江」の河口(釜山郊外)に位置するが、続いての「城」が「王城」(慶州)であるこ
  とから、「高句麗軍」がいったん「新羅城」(慶州)を通り過ぎて何もしないで、朝鮮
  半島南端まで南下して、再び北上して「王城」(慶州)を攻めるとは考え難い(『任那
  と古代日本』寺本克之 新泉社 1999年7月15日 68頁)。「任那は『日本書紀』
  にもあるとおり「卓淳」(現在の慶尚北道の大邸付近)にあったとするのが穏当であろ
  う。


◆◆◆ 広開土王碑(19) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 2月 8日(火)12時37分8秒◆◆◆

>碑文の解釈(16)<

 ⑧ 「安羅人戎兵」、これがここでの最大の問題となっている。「王 健群」は「安」と
  「羅人」とを分けて考え、「安」を動詞(安んじる=守備させる)と読む(『古代の倭
  国と朝鮮諸国』鈴木英夫 青木書店 1996年2月25日63頁も同趣旨)。その理由
  として、『三国史記』新羅本紀 第30代「文武王」7年条に「新羅人」を「羅人」、
  『三国史記』卷第5 考善第9「真定師考善双美」に「新羅人」を「羅人」、とそれ
  ぞれ記しているとする(前掲書 230頁)。しかし、① 「羅人」は「新羅人」の
  蔑称であり、「広開土王碑」では「新羅」は一貫して「友軍」であり、「新羅」と表記
  されている(「高 寛敏」-前掲書171頁)。ここでの他の史料の引用は意味が無い。
  ② 「王 健群」の読み方は「主語」と「目的語」が省略されているが、これは極めて
  不自然である。したがって、「王 健群」は明確な誤りであると断言できる。
   それでは「安羅人戎兵」をどのように解釈したらよいだろうか。「高 寛敏」は「安」
  を動詞(安んじる=守備させる)と読み、「羅人」を「巡邏」とし、「戎兵」は守備兵
  の意だから、合わせて「(高句麗)が「巡邏兵」と「守備兵」を配置した」と考える
  (前掲書 171頁)。しかし、これは「羅」と「邏」を同一に扱っているという誤り
  を犯しているばかりか、そうであるならば「人」ではなく「兵」でなければならない。
  こう解するのであれば、「羅人」=「新羅人」と理解した方が素直な読み方である。こ
  れはそのまま「安羅人の戎兵(守備兵)」と読むのが正しい。
   ここでさらに問題となるのは主語が何かである。これを「倭」とするのが従来の考
  え方であった(「鈴木靖民」-目黒区本 118頁、「平野邦雄」-前掲書 64頁)。
  最近の見解は、主語は「高句麗」であるとする(「王 健群」-前掲書 230頁、「高
  寛敏」-前掲書 171頁、「山尾幸久-前掲書 202頁、「鈴木英夫-前掲書 6
  2頁、「白崎昭一郎」-前掲書 238頁)。「安羅人戎兵」が突如として出てくること
  が、その解釈を複雑にしている。もう一度この部分を見てみると、「至任那加羅従抜
  城城即帰服安羅人戎兵」なっている。「(高句麗軍が)任那加羅に至り、従抜城・新羅
  の王城を攻略し、(「倭軍」は)すぐに帰服した」とある。ここで注意しなければなら
  ないのは、「安羅」の国が「高句麗」に帰服したわけではないことである。あくまで、
  「倭軍」と共に戦った「安羅人」が「高句麗」に降参したのである。このことは、「任
  那加羅」の一部で、このときに攻略されたもの「安羅」が朝鮮半島南部のかなり「玄
  界灘」に近いところに(現在の韓国の慶尚南道咸安郡)にあり、前述のとおり、「高句
  麗軍」が「新羅城」(慶州)を通り過ぎて、ここまで南下して「安羅」を征服し、再び
  北上して「新羅城」(慶州)を攻め取ったということは考え難い。したがって、「倭軍」
  と共に戦っていた「安羅人」を服従させ、高句麗王(広開土王)が「守備兵」として
  「新羅」の城の守りに就かしたと考えるのである。
ここの記事から見えてくるのは、「安羅人戎兵」が「倭」軍と共に戦ったことで、
  「倭」の軍事的拠点が「任那・加羅」にあったことを示している(『大化前政治過程
  の研究』平野邦雄 吉川弘文館 1985年6月10日 64頁)。


◆◆◆ 広開土王碑(20) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 2月10日(木)16時45分10秒◆◆◆

>碑文の解釈(17)<

⑨ 「寇」であるが、「満」と読む者もいる(「朴 時亨」-前掲書 225頁)。だが、拓
  本を精査すると「宀」が認められ、「寇」でいいのではないかと思われる。
⑩ 「委」は、上部に「禾」があり、下部には「女」があるので「委」と考えた。「大」
 (「王 健群」-前掲書 229頁ではない。意味は「振るわない」である。
 ⑪ 「城内十九蓋拒随」とは、「(新羅)城にいる者のうち10人に9人までもが、「倭」
  に随うのを拒絶したので」の意味で、続いて、「(したがって)安羅人の戎兵(守備兵)
  に(新羅)城を守らせた」となる。単に「城」とあるときは「王城(新羅城)」を指す。
⑫ その後はしばらく欠字が続き、意味が取れない。

「残倭潰□以随□安羅人戎兵昔新羅寐錦未有身来論事」(第3面1行39字~2行20字)

 ① 「残倭」は、これでよい。「残」とあることから、「百済軍」も参加していたと考え
  られる。
 ② 「潰」に続く欠字を「亦」と読む者もいるが(「白崎昭一郎」-前掲書 241頁)、
  不明とした方が適切である。
 ③ 「以」を「抜」と読む者もある(「王 健群」-前掲書 229頁)。これはやはり「以」
  である。
 ④ 「随」もこれが正しい。
⑤ 次の欠字を「城」と読む者がある(「王 健群」-前掲書 229頁)が、やはり不
明である。
⑥ 「寐錦(みきん)」は、「王」の意味である。
⑦ 「未有身来論事」は、「未だ自ら(身)来て朝貢(論事)したことがなかった」の意
  味である。


◆◆◆ 広開土王碑(21) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 2月12日(土)13時34分6秒◆◆◆

>碑文の解釈(18)<

「廣開土王境好太王□□□□寐錦□家僕勾□千□□朝貢」(第3面2行25字~3行6
 字)
 ① 「僕勾」の「勾」であるが、「王 健群」は「句」と読む(前掲書 229頁)。拓本
  を精査すると、やはり「勾」が正しい。「僕句」では意味が取れない。
  「僕勾」とは何を意味するかであるが、「ト好」である。『三国史記』高句麗本紀の第
  18代「故國壌王」9年(392年)条に「春、使臣を新羅に遣わして修好した。新
  羅王(奈勿王)は姪の「實聖」を高句麗に送って人質にした。」との記事があり、同新
  羅本紀の第17代王「奈勿尼師今」(奈勿王)37年(392年)、「正月、高句麗
  (広開土王)が使臣を遣わした。王は高句麗が強勢であったので、伊食(正しくはサン
  ズイに食)の「大西知」の子である「實聖」を高句麗に人質として差し出した。」と
  ある。
   史実と合致していると見なければならない。

  この「永楽10年(401年)条の「高句麗軍」の進撃ル-トは、「任那」がどこにあ
 ったを知る大きな手がかりとなる。
  まず、「高句麗軍」は「平壌」を出発し、ソウル近郊の「漢江」を越え、軍を南東(日
 本海側)に向け、「洛東江」を越え、日本海に沿って南下し、「男居城」(「新羅」の都
 「慶州」の日本海側の北部にあったと考えられる)を攻め落とし、そこから「新羅城」
 (「慶州」)に向わすに、軍を西に向け「倭軍」の本拠地の「任那」(卓淳國)に向かい、
 そこにあった「従抜城」を攻め取り、そこで「倭軍」と共に戦っていた「安羅人」を屈服
 させ、「従抜城」の守備を委ね、そこから「軍」を東に向け「倭軍」が占領していた
 「新羅城(王城)」と「塩城」を攻略し、「倭軍」を潰滅させ、そこでも「安羅人」を
 屈服させて「新羅城(王城)」を防衛させたのである(『任那と古代日本』寺本克之
 新泉社 1999年7月15日 66頁)。したがって、「「任那」はどこにあったか(5)」
 にあるよう「任那」=「金官加耶」(朝鮮半島最南部の「金海」)と考える「朴 時亨」、
 「田中俊明」の見解は明らかに誤りであると言わなければならない。
  ところで「歩騎五萬」とあるから、「高句麗軍」が歩兵のほかに騎兵も出したことがう
 かがえる。これに対し「倭軍」はどうだったのであろうか。日本においては「馬」の飼
 育は山梨県の甲府市、東八代郡中道町の4世紀後半の「方形周溝墓」から馬の歯が出土
 している。このことから相当数の馬が飼育されていたものと考えられている(「五世紀の
 馬具と稲荷山古墳」岡安光彦 山川出版社 2003年5月23日 102頁)。しかし、馬
 が軍事的に使用されるのは「雄略天皇」(5世紀後半)のころであるとする(『古墳時代
 の研究』小林行雄 青木書店 1961年4月1日 281頁)。遺物に依存する「考古学」
 としてはそうだろうが、これには賛成できない。遺物が出土してないからといって、そ
 れの存在が無かったとは言い切れないのである。
  馬の軍事的利用はもっと早くから行われていた形跡が強い。『三国史記』第5代「婆娑
 尼師今」15年(94年)条に、「「加耶」の賊が「馬頭城」に攻めてきて包囲したので、
 部下に騎兵1千を与えて撃退した」、同第6代「祇摩尼師今」4年(115年)条にも
 「7月、王は自ら「加耶」を征伐しようと歩・騎兵を率いて出陣した」との記事がある。
 一方、「倭」が「新羅」を侵攻したのは、第4代「解脱尼師今」17年(73年)と
 第6代「祇摩尼師今」10年(121年)である。「加耶」といえば、その周辺には
 「倭人」が居住していたことは、>倭はどこにあったのか<の項などで述べてきた。
 したがって、当然に、早くから馬の軍事的利用を習得し、「騎馬軍団」を持っていたの
 ではないかと考える。そでなければ「従男居城至新羅城倭満其中」の 表現のように
 「倭軍」が新羅に攻め勝つはずもなかろう。歩兵では騎兵にそうやすやすと勝てるとは
 思えないからである。


◆◆◆ 広開土王碑(22) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 2月14日(月)12時48分48秒◆◆◆

>碑文の解釈(19)<

  以上、「十年庚子」条を解釈すると、「永楽10年(広開土王の在位10年庚子年〔4
 01年〕)、高句麗王(広開土王)は歩兵・騎兵5万を遣わし新羅を救援に赴かせた。途
 中、男居城から新羅城までその中に「倭軍」が満ち溢れていた。高句麗軍はそこに至る
 と、高句麗軍を恐れて背走したが、高句麗軍はなおも追撃し任那加羅にある従抜城に攻
 め入ると「倭軍」は降伏した。それで(途中で「倭軍」とともに連合していた)安羅人
 (を降伏させ)の彼らを守備兵として従抜城を守らせた。(「高句麗軍」は)新羅城およ
 び塩城を打ち破り「倭軍」を潰滅させた。新羅城内の10人中9人までもが「倭軍」に
 従うのを拒絶し、また、安羅人の守備兵をしてそこを守らせた。昔から新羅王は高句麗
 に従ってはいたが、朝貢することはなく、(これにより朝貢するようになった-欠字部分
 を推測)。王(広開土王)は(新羅を臣下に加え、その証として-欠字部分を推測)新羅
 王(奈勿王)は「ト好」(「實聖」)を王(広開土王)に人質として差出し、朝貢するよう
 になった」となる。
 「十年庚子」条の解釈で一番重要なのは、「百済」が参戦してないことである。なぜな
 ら、ここには「百済」という文字がないからである。前述のとおり『日本書紀』応神天
 皇8年条で、「百済」が「高句麗」に東韓の地を奪われ、「倭」の支援を仰ぐため、太子
 の「直支」(とき-後の第17代「膿支王」)を人質として天朝(日本)に差し出して、
 修好した」とあり、また、このことは『三国史記』百済本紀の第16代王「阿?王」6
 年(397年)条「5月、王は倭国と友好を結び、太子の「腆支」を人質として差し出
 した。」にある。「百済」には出兵する余裕などなかったのである。


◆◆◆ 広開土王碑(23) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 2月16日(水)13時00分19秒◆◆◆

>碑文の解釈(20)<

5.「十四年甲辰」条
  「十四年甲辰而倭不軌帯方界和通残□至石城□連船□□□王躬率□□従平壌□□□鋒
  相遇王幢要截盪刺倭寇潰敗斬殺無数」(第3面3行7字~4行20字)
 ① 「十四年甲辰」とは、「広開土王の在位14年甲辰年〔405年〕)」をいう。
 ② 「不軌」とは、「不法」という意味である。
 ③ 「帯方界」とは、あの有名な「楽浪・帯方、倭人有り」の「帯方」をいい、現在の
  北朝鮮の黄海道(38度線の北側)一帯を指す。
 ④ 「和通」、「和」については拓本を精査すると「禾」が見られるので、その後の「残」
  (「百済」)との関連から、「和」としても誤りはなかろう。「通」については、これを
  欠字だとする者が多いが(「白崎昭一郎」-前掲書 253頁、「武田幸男」-前掲書
  318頁)、拓本を精査すると「?」が確認され、やはり、その後の関連から「通」で
  あると判断した。「王 健群」も同様の見解である(前掲書 231頁)。意味は、「倭」
  と同盟した」である。
 ⑤ 「残□至」の欠字であるが、「王 健群」は「兵」であるとする(前掲書 231頁)。
  意味としてはそれで良いと思えるが、拓本を精査してもやはり判読できない。
 ⑥ 「石城」、固有名詞である。ただ、場所は確認できないが、「倭軍」と「帯方界」で
  戦闘を交えていることから、黄海道にあったと考えられよう。
 ⑦ 「連船」、これはそのとおり判読できるが、「単に船を連ね」と読むのが一般的であり
  (『天皇と日韓古代戦史』牛島康允 自然と科学社 1993年12月25日 189頁、
  「白崎昭一郎」-前掲書 255頁)、異論を見ない。解釈はこれで良いと思う。
   問題は、その主語が何かである。まず、主語を「倭」とする考えがある(「朴 時亨」
  -前掲書232頁、「上田正昭」〔『日本古代国家論究』塙書房 1969年11月 73
  頁〕、「武田」①-135頁)。これは明治時代からある考え方で(「菅 政友」
  〔「高麗好太王碑銘考」[『史学会雑誌』第2編第24号 51頁]〕、「那珂通世」
  〔「高句麗古碑考」[『史学会雑誌』第4編第49号 43頁]〕)、ほぼ、通説化して
  いた。それでも主語を「高句麗」とする考えがあった(「福田芳之助」〔『新羅史』
  若林春和堂 1927年 89頁〕。しかし、これは福田が勝手に碑文に「大王」(
  「高句麗王」)を挿入したもので、信じるに値しない。だが、こういう考えも有り得る
  のではないかとの疑問が投げかけられている(「高句麗広開土王碑文の再検討」佐伯有
  清〔『続日本古代史論集上巻』阪本太郎博士古稀記念会 吉川弘文館1972年7月1日
  40頁〕)。しかし、これは疑問だけで、主語が「高句麗王」とは断定してない。ただ、
  前の部分が「倭」が主語になっていることから、ここでの主語もやはり「倭」と解する
  のが妥当ではないかと思える。


◆◆◆ 広開土王碑(24) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 2月18日(金)13時05分43秒◆◆◆

>碑文の解釈(21)<

 ⑧「連船」に続く欠字は全く読むことができない。おそらく「倭軍」が攻略した城など
  が入ると思えるが、わからない。
 ⑨「王躬率」は、「王(広開土王)が自ら軍を率いて出陣した」の意味である。
 ⑩これに続く欠字も判読不明である。「王 健群」は、最初の欠字を「住」あるいは「往」
  とし、次の欠字を「討」と読んでいる(前掲書 231頁)。意味はともかく、拓本を
  精査しても欠字である。彼の勝手な想像だと思える。
 ⑪「従」の意味は、「から」(出発点)と解して良い。これを「経由して」と解する者も
  いるが(「白崎昭一郎」-前掲書 257頁)、王(広開土王)はこれまでも「平壌」
  を拠点としていることから「から」(出発点)と考えるのが妥当であろう。
 ⑫「□鋒相遇」の最初にある欠字は読むことができないが、「先」で「先鋒」となるの
  であろう。その後に続く「相遇」と相まって、「先鋒部隊が敵と遭遇した」となる。
 ⑬「王幢」(おうとう)とは、「王の旗印」のことをいう。
 ⑭「要截盪刺」の「要」は「待ち伏せする」、「截」(せつ)は「断ち切る」、「盪」
  (とう)は「ほしいままにする」、「刺は「刺す」、「斬る」、の意味である。これら
  を合わせると、「待ち伏せして、縦横無尽に斬まくる」(ようせつとうし)となる。


◆◆◆ 広開土王碑(25) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 2月20日(日)14時48分6秒◆◆◆

>碑文の解釈(22)<

 以上、「十四年甲辰」条を解釈すると、「広開土王の在位14年甲辰年〔405年〕)、
 不法にも「倭軍」は「百済」と共に帯方界にまで侵攻し「石城」にまでやって来た。「倭
 軍」は船を連ねて侵攻して来たのである。(この知らせを聞いて))(広開土王)が自ら
 軍を率いて平壌から出陣した。先鋒部隊が「倭軍」らと遭遇し、「高句麗軍」は王の旗印
 を翻して侵略者「倭軍」(倭寇)と戦い、これを壊滅させた。惨殺したもの無数に上った
 のである」となろう。
  ここで注目すべきは、① 「倭軍」が船を連ねて帯方界(黄海道)まで攻め入ったこ
 と、② 「百済」よりも「倭軍」が主力として描かれていること、③ やられてもやられ
 ても何度も朝鮮半島を蹂躪したこと、である。このことは、「倭軍」が「百済」を凌駕
 するほど強力で、大軍を擁し、組織的で、あったことを示している。これを見ても「倭
 軍」は<海賊>などではない。さらに、「倭軍」が「連船」とあるように、水軍を使った
 ことが記されているが、これを日本本土からやって来たとするのは、考えが浅い。当時、
 『倭』は朝鮮半島南部に拠点を持っており(「任那」)、さらに「百済」とも同盟関係に
 あって、その辺りから「船」を調達したとするのが正しい。1回、1回、日本本土から
 「玄界灘」を越えてやって来たとは考え難いのである。
  「山尾幸久」は頑強に「倭」が朝鮮半島に存在していたことを否定するが(前掲書6
 7頁・203頁など)、これだけの大軍を何度も用意できるためには、兵站部・兵士も必
 要だろうし、軍費も必要である。それには「行政機関」が必須なのである。「豊臣秀吉」
 の朝鮮出兵で「加藤清正」が朝鮮半島最北部に進駐し、銀山開発やら徴税も行っていた
 ことを思い起こしたら良い。全てを日本本土に頼っていては戦争も遂行できないことは
 どの時代も同じである。
  付け加えるが、「倭寇」という用語から、鎌倉時代から戦国時代にかけての「倭寇」を
 想定する者がいたら(「朴 時亨」-前掲書 99頁)、とんだ<お門違い>である。「倭
 寇」の時代は、船の構造も飛躍的に発達し、経済力・情報力、国力、人口も段違いに異
 なる。このことを忘れて、広開土王の時代と比較すること自体がその思考力を疑わせる
 (同旨「四、五世紀の高句麗と倭」鈴木靖民〔『広開土王碑と古代日本』東京都目黒区
 教育委員会 1993年9月10日[以下目黒区本という]119頁)。


◆◆◆ 広開土王碑(26) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 2月22日(火)12時17分10秒◆◆◆

>碑文の解釈(23)<

6「十七年丁未」条
  「十七年丁未教遣歩騎五萬□□□□□□□□王師□□合戦斬殺蕩盡所獲鎧鉀一萬余領
 軍資器械不可稱數還破沙□城婁城□留城□□□□□□□□城」(第3面4行21字~6
 行)
 ① 「十七年丁未」とは、「広開土王の在位17年(408年)」をいう。
 ② 「教遣」は、「王(広開土王)が派遣した」の意味である。
 ③ 「五萬」の後の欠字8字は、判読できす、これまで判読した人もいない。
 ④ 「蕩盡」(とうじん)は、「すっかり(蕩)無くしてしまう(盡=尽)」の意味である。
 ⑤ 「鎧鉀」(がいこう)の「鎧」も「鉀」も同じく「鎧」(よろい)にの意味である。
 ⑥ 「軍資」とは、「軍用物資」のことをいう。
 ⑦ 「器械」は「兵器」のことをいう。
 ⑧ 「不可稱數」とは「数え切れないほど」の意味である。
 ⑨ 「還破」は、(「倭軍」を)破って帰還すること」をいう。
 ⑩ 「沙□城婁城□留城□□□□□□□□城」は、「高句麗軍が攻略した城」を羅列したものである。

  以上、「十七年丁未」条を解釈すると、「広開土王の在位17年丁未年〔408年〕)、
 王(広開土王)は歩兵・騎兵5万を遣わし、(倭軍)の討伐に向わせた。(倭軍)との戦
 いは、相手を総て斬り尽くし、捕獲した鎧は1万余領、軍用物資・兵器は数知れなかっ
 た。帰還の途中、沙□城婁城□留城など多くの城をも攻め立て破壊した」となる。
  ここで「高句麗」と戦ったのは「百済」であって「倭」ではないという者がいる(「
 朴 時亨」-前掲書 235頁、「王 健群」-前掲書 233頁、「白崎昭一郎」-前掲
 書 270頁)。しかし、これは採り得ない。その前の「十四年甲辰」条が「高句麗」と
 「倭」との戦闘で、これに本条はこれに続いている。もし相手が「百済」であれば
 「百残」と記されてなければならないからである。
  なお、「王 健群」は、『倭寇は海を渡って侵入と攪乱を行ったが、多くは軽装で、空き
 舟に乗ってやってきては、戦利品を満載して帰っていった。数え切れないほどの軍用物
 資と兵器は、倭人のものではあり得ない。したがって、今回の戦争は百済に対して行わ
 れたものであるべきである』という(前掲書 232頁)。全く<想像>でものを言って
 いる。【多くは軽装で、空き舟に乗ってやってきては、戦利品を満載して帰っていった】
 このような史料・記事はどこにもない。また、「十四年甲辰」条を見ても、主役は「倭」
 である。「倭軍」と鎌倉時代以降の「倭寇」の区別もつかない。<妄想>の何物でもない。
 「鈴木靖民」も私見と同じ考えを採る(「目黒区本」-118頁〕)。彼はまたその論拠と
 して、「沙□城」・「婁城・「□留城」は「百済」の城で「倭」はこの地に城を持っていな
 かったという。城についてはそのとおりであろうが、そのことと「倭」ではなく「百済」
 のみが「高句麗」と戦ったという論拠にはならない。「倭」は「百済」と同盟を結び、
 「高句麗」を攻めたことは「十四年甲辰」条の「和通残」でも明らかであるからである。

  「十七年丁未」条は、欠字が多いため、「倭」の表記が見られないが、おそらくここに
 も「倭」の用語はあったであろう。以上、永楽6年~同14年を見ても、「倭」、「百済」、
 「新羅」の用語は次のようになっている。ただし「倭」には「倭人」、「倭賊」、「倭寇」
 を含む。
 永楽6年   「倭」-1  「百済」-1   「新羅」-1
 永楽9年   「倭」-2  「百済」-1   「新羅」-1
 永楽10年  「倭」-4  「百済」-0   「新羅」-1
 永楽14年  「倭」-2  「百済」-0   「新羅」-0
  これが何を意味するかは言うまでもない。「高句麗」が海の向こうの「倭」が主敵で、
 朝鮮半島経営の最大の懸案だったことを示している。このことは「倭」にとっても同じ
 だったのである。


◆◆◆ 広開土王碑(27) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 2月25日(金)12時50分14秒◆◆◆

>碑文の解釈(24)<

 前にも、『「辛卯年」条』に関して、これを史実でないという者に対して、反論を加えてきたが、「広開土王碑」全般における「倭」の侵攻に関して虚構だと言う者がいる(『倭と加耶の国際環境』東 潮 吉川弘文館 2006年8月10日 170頁)。こう考えると「広開土王碑」は王の戦勝碑の意味を持つから、碑自体が無意味となってしまう。これについても『「辛卯年」条』で記載した反論で事足りるが、一言付け加えておく。「倭」の侵攻については<虚構>だという「東 潮」も高句麗の新羅の侵攻は事実だとしている。その証拠として新羅に高句麗の武具、馬具、装身具、壺?が出土していることを挙げている(同書 176頁)。百済にも高句麗土器、耳飾、鉄製犂(すき)があると言う。ならば、日本はどうだろうか。もちろん存在する。ならば、高句麗は海を越えて日本にやって来て戦ったのであろうか。しかし、彼はそのような考えを採らない。当たり前だろう。「倭」が高句麗と朝鮮半島で戦ったことすら認めてないからである。遺物が出土したからといって、その国と戦闘を交えたなどと考える方が間違っている。「広開土王碑」が「倭」とは戦争はしなかったが、「新羅」、「百済」とはしたというのは何の根拠もない<机上の空論>である。つまり、<いいとこ取り>ということである。
 ここまで「高句麗」と「倭」の抗争を見てみると、「高句麗」が「百済」、「新羅」を「属国」にしても、それは数年に止まり、再び「倭」に「臣民」にされるという連続だった。
 碑文の戦闘はいつも「高句麗」の勝利に終っているが、「高句麗」が引き上げると「倭」がその地に再び侵攻して来たのである。朝鮮人研究者も中国人研究者も「倭」を<矮小化>したいだろうが、彼らの目論見は『碑文』によって粉砕されている。
 「広開土王碑」では王が5万もの軍隊を率い、あるいは派遣して「倭軍」を粉砕したことが、記されている。このことは相手の「倭軍」が5万もの「高句麗軍」対抗したことが明らかであって、海賊などではなく、しかも、これは「倭」という国家を挙げての戦いだったと考えざるを得ない。その源はもちろん「大和政権」である(「鈴木靖民」-目黒区本 187頁)。


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■■■ 日韓古代交流史――広開土王碑[乙:解釈2(第一部)]――(解法者)■■■


◆◆◆ 広開土王碑(28) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 2月26日(土)13時48分38秒◆◆◆

>碑文の解釈(25)<

 最後に、「広開土王碑」全部の注釈を試みたい。前述(「広開土王碑(3)>「広開土王碑」の概要(3)<」のとおり、第1部~第3部に分けて行う。
1.第一部
 ① 「高句麗」の建国神話・伝説
 ② 高麗王」第1代「鄒牟王」(「朱蒙」〔始祖 東明聖王〕)、第2代「儒留王」(「琉璃
  明王」)、第3代「大朱留王」(「大武神王」)までの治績、
 ③ 第19代「広開土王」の即位の生涯(18歳~39歳)の治績
 ④「広開土王」の本碑の建立(王の死2年後-415年)の経緯

 「惟昔始祖鄒牟王之創基也出自出北不余天帝之子母河伯女郎剖卵降世生而有徳□□□□□命駕巡幸南下路由扶余奄利大水王臨聿言曰我是皇天之子母河伯女郎鄒牟王為我連葭浮亀應聲即為連葭浮亀然後造渡住沸流谷忽本西城山上而建都焉不楽世位天遣黄龍来下迎王王於本東岡履龍首昇天顧命世子儒留王以道興治大朱留王紹承基業?至十七世孫國岡上廣開土境平安好太王二九登祚号為永楽太王恩澤□于皇天威武振被四海掃除不軌庶寧其業國富民殷五穀豊熟昊天不弔卅有九宴駕棄國以甲寅年九月廿九日乙酉遷就山陵於是立碑銘記勲績以示後世焉其□曰」(第1面1行1字~6行39字)

(1)始祖鄒牟王の事蹟
〈1〉「惟昔始祖鄒牟王之創基也出自出北扶余天帝之子母河伯女郎剖卵降世生而有徳□□□
  □□」(第1面1行1字~40字)
 ① 「惟昔」とは、「昔を思う」の意味である。
 ② 「始祖鄒牟王」は、姓は「高」、諱は「朱蒙」(始祖 東明聖王)〔在位 紀元前37
  年~19年〕のこと。彼は、西暦前37年、現在の中国東北部(旧満州)の北朝鮮と
  の国境近くの集安一帯に、姓は「高」、諱は「朱蒙」(始祖 東明聖王)という者が「高
  句麗」を建国した(主として『三国史記』高句麗本紀による)。
 ③ 「創基」とは「建国した」の意味である。
 ④ 「北扶余」とは、定かではないが、中国東北部(旧満州)の「松花江」の北、つま
  り、中国東北部(旧満州)の北部であろう。
 ⑤ 「河伯女郎」は、「河伯(河の神の娘)」の意味で、「女郎」は敬称である。
 ⑥ 「剖卵降世生」とは、「卵を割いて(剖)この世に生まれた」ことをいう。
   ここで、注目すべきは「卵生神話」があることである。これは『三国史記』高句麗
  本紀の始祖「東明聖王」(「鄒牟王」)条にもあり、日本の丹波国(多婆那国)から行っ
  たとされる新羅第3代「解脱王」にも「卵生神話」があり、始祖「赫居世居西干」も
  「駕洛国=加羅」の始祖も「卵生」である(『三国遺事』卷第2駕洛国記)。したが
  って、当時の朝鮮の4国すべてが「卵生」ということになる(「百済」は「高句麗」の
  支流(一部族))。なお、「卵生神話」は南方系のもので、これが朝鮮にあるということ
  は、南方系の民族が朝鮮半島にやって来たことを示すものと考えられる。
 ⑦ 欠字5字については、誰も読み取った者はいない。

◆ 『三国史記』高句麗本紀 始祖東明聖王条によると、「東明聖王」は昔、「東扶余」
  で牧夫をしていたが、南に逃れて「高句麗」を建国したとある。これはここにも引用
  されているように『旧三国史』に同じような説話があったものと考えられる。


◆◆◆ 広開土王碑(29) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 2月28日(月)12時32分3秒◆◆◆

>碑文の解釈(26)<

  ここのこころの解釈は、「昔、「始祖鄒牟王」(始祖 東明聖王)〔在位紀元前37年
 ~19年〕は、「高句麗」を建国した。その出自は「北扶余」(中国東北部(旧満州)の
 「松花江」の北)の天帝の子で、母は河伯(河の神の娘)であった。「鄒牟王」は卵を割
 いて生まれてきて、生まれながら徳のあるお方であった。」となる。

〈2〉「命駕巡幸南下路由扶余奄利大水王臨聿言曰我是天之子母河伯女郎鄒牟王為我連葭
浮亀」(第1面1行40字~2行37字)
 ① 「駕」とは、「貴人が乗る御輿」の意味である。「命駕」と合わせて、「家来に命じて
  御輿に乗る」の意となる。
 ② 「巡幸南下」、この「南下」は大きな意味がある。「始祖」の時代から、北方民族に
  追われて「南下」せざるを得なかった事実を伝える。『魏書』高句麗伝には、「扶余」(
  「高句麗」も「扶余族」の別種である〔『論衡』〕)に追い立てられて急いで東南に逃げ
  出す様が記録されている。『三国史記』高句麗本紀の始祖「東明聖王」(「鄒牟王」)条
  にも同じ様な記事がある。「高句麗」はこうして南部の「恒仁」(後述)、さらに「集安」
  に遷都したのであるが、ここでも中国の「燕」、北方の「鮮卑」・「粛慎」などから攻め
  られ、「広開土王」の次の第20代「長壽王」の15年(427年)には、ついに「平壌」
  にまで、南下して王城を定めるのである。
 ③ 「由」は「経由」の意味である。
 ④ 「奄利大水」とは、固有名詞の河を指す。場所は不明である。
 ⑤ 「聿」は、「津」と読む者もいる(「王 健群」-前掲書 135頁)。拓本を精査す
  ると「?」はなくやはり「聿」である。意味は同じで「河の辺」の意である。
 ⑥ 「我是天之子母河伯女郎鄒牟王」は、王が自分のことを『天子であり、母は河伯(河
  の神の娘)であり、名は「鄒牟王」である』と名乗ったのである。なお、先には「天
  之子」といい、ここでは「皇天之子」とあるが、同じ意味であろう。


◆◆◆ 広開土王碑(30) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 2月28日(月)12時29分22秒◆◆◆

>碑文の解釈(27)<

 ⑦ 「葭」は、その上部(冠部分)しか判読できない。これを「葭」(葦)と読むのには
  次の「亀」と並んで「吉兆」を表わすからである。「出雲神社」では「眞菰(まこも)
  の神事」が行われているが、これと同じイネ科の植物を神聖化する習慣が高句麗にも
  あったと思われる。なお「眞菰」も南方系の植物である。
   したがって、「王為我連葭浮亀」は、「「鄒牟王」が葭(葦)と亀に向って、自分
  のために出て、浮き橋をかけよ」ということになる。
 ◆ 朝鮮人と南方系民族
   このように、朝鮮民族はどこかで南方系民族と交錯していると考えられるが、朝鮮
  人研究者は北方系のツング-ス族あるいはモンゴル族が中心となって、そこに南方系
  が混合したと考えている(『韓国上古史の争点』千 寛宇編 学生社 1977年11月10
  日 36頁)。ところが、南部に南方系の風俗(「文身」(刺青)、「草葬」(死体を
  野外で自然に自然腐敗させる葬法)があって、南部は北部と異なり独自の南方文化圏が
  存在したと考えられるが、これを頑強に否定し、南部の民族(「新羅」、「百済」、
  「伽耶」も北方から来た民族で構成され、「高句麗」も含めて<単一民族>であるとの
  見解が支配的となっている(同 42頁)。そして、日本はあの「騎馬民族渡来説」に
  より「天皇種族」が日本で支配民族となったという(同 37頁)。しかし、日本でも
  南方系の民族が渡来しており朝鮮半島に彼らが渡来して独自の文化圏を構成しなかっ
  たはずはなかろう。朝鮮人は自分たちが<単一民族>であることを強調し、さらに、
  その朝鮮人の一種である「天皇種族」が日本に渡来して支配民族となったとしたいの
  である。これは、そうでありたいという<朝鮮民族優位願望>に呪縛されてしまって
  いると考えざるを得ない。「騎馬民族渡来説」は日本では今や誰一人として支持する者
  はいないが、これは朝鮮人優位を裏付けるものとして、今でも熱烈に支持されている
  のである。
★ 『論衡』
   「後漢」の「王充」(27年~1世紀末)が著した全30巻85篇の思想書


◆◆◆ 広開土王碑(31) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 3月 2日(水)13時54分34秒◆◆◆

>碑文の解釈(28)<

  ここのこころの解釈は、「王は御輿に乗って王城から南下した。途中、扶余の奄利大水
 を渡り、港に着いたとき、王は初めて接する人々に、『汝は天子の子で母は河伯(河の神
 の娘)であり、名は「鄒牟王」である』と名乗った。(続けて)『葭(葦)と亀に向って、
 自分のために出て、浮き橋をかけよ」と言われた。(すると、葭(葦)と亀が出てきて、
 浮き橋を掛け、王は無事、渡ることができた。」となる。
〈3〉「應聲即為連葭浮亀然後造渡住沸流谷忽本西城山上而建都焉」(第1面2行38字~
  3行22字)
 ① 「應聲即」とは、「その声を聞くやいなや」の意味である。
 ② 「為連葭浮亀」は、「王の要請に応じて葭(葦)と亀がやって来て、浮き橋を作った」
  ことをいう。
 ③ 「然後造渡」は、「それで初めて渡ることができた」の意味である。「造」は「初めて」
  のことをいう。
 ④ 「住」は、「在」とも読める(「白崎昭一郎」-前掲書 82頁)。「泊」とも読めない
  わけではない。「於」と読むのが一般的であるが(「王 健群」-前掲書 160頁、
  「朴 時亨」-前掲書 114頁)、しかし、拓本を精査すると、そうは読めない。ここ
  は動詞が来なければならないから、この点からも誤りである。「自」でも「白」でもない。
  あまり自信はないが、「住」とした。
 ⑤ 「沸流谷忽本」、これが大変な貴重な歴史的事実を与えてくれる。始祖「鄒牟王」が
  扶余に追われ、南下したときの「王城」を示す場所だからである。まず『三国史記』
  高句麗本紀の始祖「東明聖王」(「鄒牟王」)条「但結廬於沸流水水上居之。國号高句麗」
  と対比して調べてみると「沸流谷」とは「沸流水(江)」の渓谷を意味し、「沸流水
  (江)」の上流に「高句麗」があったことがわかる。それでは「沸流水(江)」はどこ
  だろうか。現在の中国の遼寧省の省都「瀋陽」(旧満州「奉天」)の南を流れる「渾江」
  あるいはその支流「富爾江」付近だとする。この河の流域には「恒仁」があり、「吉林省」
  の「集安」(広開土王碑のあるところ)と接しており、ここには「高句麗」の遺跡があり、
  現在、観光地となっている。この一帯であろうとするが(「朴 時亨」-前掲書 114
  頁)、「恒仁」そのものであろう。
   そして、「西城山上」(西側山の上)に「而建都焉」(都を創建した)。なお「焉」
  (えん)は「ここに」の意味である。「西城」は「恒仁」にある「五女山城」であると
  されている(「武田幸久」-目黒区本 47頁)。
  ここのこころの解釈は、「その声を聞くやいなや王の要請に応じて葭(葦)と亀がやっ
 て来て、浮き橋を作った。それで、王は初めて渡ることができた。王は沸流谷の忽本に
 ある西側山の上に都を創建した。」となる。


◆◆◆ 広開土王碑(32) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 3月 4日(金)14時02分13秒◆◆◆

>碑文の解釈(29)<

〈3〉「不楽世位天遣黄龍来下迎王王於本東岡履龍首昇天」(第1面3行23字~4行4字)
 ① 「世位」とは、「王位」の意味である。
 ② 「天」は、「因」と読むのが一般となっている(「王 健群」-前掲書 160頁、「朴
  時亨」-前掲書 114頁)。「大」の字は確実であるが、その上に「一」がある。こ
  れからして「大」とするか、それとも「囗」の一部とするかは難しい。しかし、拓本
  を精査すると、縦の「|」は見えない。下の「一」は見えない。したがって、「天」で
  よいと思える(「白崎昭一郎」-前掲書 88頁)。
 ③ 「履」も「黄」かどうかが争われている。「負」と読む者には「王 健群」(前掲書
  160頁)、「朴 時亨」(前掲書 114頁)がいる。「白崎昭一郎」は「履」と読む
  が、彼のいうように「尸」が認められる。「中研院拓本」(台湾大拓本)では「履」が
  明確に認められるというから、「履」で良いのではなかろうか。
 ③ 「首」も、「負」かどうかが争われている。「負」と読む者には「王 健群」(前掲書
  135頁)、「朴 時亨」(前掲書 123頁)がいる。「負」と読むには「ノ」が必要
  だが、それがないように見える。これは「首」と考えてよい。「白崎昭一郎」は理由
  は私見と異なるが、「首」と読んでいる。
  ここのこころの解釈は、「(その後、王はしばらく国を治めたが)この世(人間として
 の世)を楽しまなくなったので、天の神が黄龍を遣わされ王を迎えに来られた。王は王
 都のある東側の山の上から黄龍の首にまたがって天に昇っていかれた。」となる。


◆◆◆ 広開土王碑(33) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 3月 6日(日)17時22分26秒◆◆◆

>碑文の解釈(30)<

(2)儒留王と大朱留王の承継
  「顧命世子儒留王以道興治大朱留王紹承基業」(第1面4行5字~23字)
 ① 「顧命」とは、「天子(始祖「鄒牟王」)が崩御に臨んで後事を託すこと」をいう。
 ② 「儒留王」とは、第2代「琉璃王」(在位 紀元前19年~紀元後18年)のことで
  ある。「漢」の「王莽」とも争っている(『三国史記』高句麗本紀の第2代「琉璃王」
  条32年〔13年〕)。
 ③ 「以道興治」とは、「道理に従って政治を行った=善政を行った」の意味である。
 ④ 「大朱留王」とは、第3代「大武神王」(在位 18年~44年)のことをいう。
  前王と同じく「扶余」とも戦い、「漢」とも戦闘を交えている。「儒留王」の時代も
  「大朱留王」の時代も、「漢」、「扶余」との戦いの連続だった。
 ④ 「紹承基業」は、「前王の政治を承継した」の意味である。「朴 時亨」は「承継し、
  発展させた」とするが(前掲書 158頁)、そこまでの意味はない。
  ここのこころの解釈は、「天子(始祖「鄒牟王」)の遺言に従い、世子(太子)の儒留
 王(第2代「琉璃王」)が後を継ぎ、善政を行った。「大朱留王」(第3代「大武神王」)
 は前王の政治を承継した。」となる。


◆◆◆ 広開土王碑(34) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 3月 8日(火)12時30分18秒◆◆◆

>碑文の解釈(31)<

(3)第19代「広開土王」の即位の生涯(18歳~39歳)の治績
〈1〉「?至十七世孫國岡上廣開土境平安好太王二九登祚号為永楽太王恩澤□于皇天威
   武振被四海」(第1面4行24字~5行2字)
 ① 「?至」とは、「及んで=至って」の意味で、「?」も「至」も同じ意味である。
 ② 「十七世孫」は、『三国史記』高句麗本紀から見て、史実に合わない。「廣開土王」は
  19代王である。ここでは詮索しない。
 ③ 「國岡上廣開土境平安好太王」とは、「廣開土王」の正式名である。
 ④ 「二九登祚」とは、「29歳で王位に登った」の意味である。主語は「廣開土王」で
  ある。
 ⑤ 「号為永楽太王」とは、「王号を永楽大王とした」の意味である。
⑥ 「恩澤□于皇天」とは、「恩徳(恩澤)は天(皇天)にも昇る」の意味である。なお、
  欠字を「格」と読む者(「白崎昭一郎」-前掲書 106頁、「洽」読む者(「王 健群」
  -前掲書 137頁)がいる。しかし、読むことができなかった(「朴 時亨」-前掲
  書 162頁)。
 ⑦ 「天威武振被四海」とは、「王の威光は広く天下に轟(とどろ)いた」の意味である。
  ここの「被」を「横」と読む者(「朴 時亨」-前掲書 166頁)がいるが、やはり
  「被」で良いと思う(「白崎昭一郎」-前掲書 108頁)。「振」は「すくう」、「被」
  は「覆う」であるが、合わせて「轟く」の意味であろう。
  ここのこころの解釈は、「昔(初代)から王位が続き、十七世孫の「廣開土王」に至っ
 て、王号を永楽大王とし、王の威光は広く天下に轟(とどろ)いた。」となる。


◆◆◆ 広開土王碑(35) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 3月10日(木)15時37分11秒◆◆◆

>碑文の解釈(32)<

〈2〉「掃除不軌庶寧其業國富民殷五穀豊熟昊天不弔卅有九宴駕棄國」
   (第1面5行23字~6行8字)
 ① 「掃除」とは、「取り除く」の意味である。
 ② 「不軌」とは、「不法」の意味である。ここを欠字とする者がいる(「朴 時亨」-前
  掲書 167頁)。また、最初の文字は「不」であるが、次は欠字とする者もいる(「
  王 健群」-前掲書 160頁)。「不」については「┬」が読み取れ、「不」と推定し
  ても誤りではなかろう。次も「車」の字が何とか読み取れ、「不」に続く物として「軌」
  を推定した。「白崎昭一郎」(前掲書 110頁)も同じように読んでいる。
 ③ 「庶寧其業」とは、「庶民が安心して生業に励んだ」の意味である。
 ④ 「國富民殷」とは、「国が富み、民衆も豊か(殷)になった」のことをいう。
 ⑤ 「五穀豊熟」とは、「五穀豊穣」ということである。
 ⑥ 「昊天」(こうてん)とは、「大空(天の神)」の意である。
 ⑦ 「不弔」とは、「憐れみ(弔)を持たなかった(不)」のことをいう。「昊天」と合わ
  せて、「天の神は王(廣開土王)に憐れみを持た天の神は王(廣開土王)に憐れみを持
  たなかった」となる。
 ⑧ 「卅有九」とは、「王(廣開土王)の亡くなったときの歳」である。王(廣開土王)
  は『三国史記』高句麗本紀 第19代廣開土王条の22年(413年)10月に薨去
  している。
 ⑨ 「宴駕棄國」の「宴」を「晏」と読む者がいる「白崎昭一郎」-前掲書 112頁)。
  確かに彼のいうように「晏駕」という文字が『戦国策』にあり(秦王老矣、一日晏駕)、
  注で「日暮れ(晏)に駕(御輿)が出る=王が薨去する」の意味であり、その方がぴ
  ったりする。しかし、拓本を精査すると、「冖」が上部に、「女」も見えるような気が
  する。そして「日」が見えないことから「宴」ではなかろうか。意味は双方とも「や
  すらぐ」で、続く「棄國」=国を棄てる=亡くなる、と相まって「王が薨去する」の
  意味となる。
  ここのこころの解釈は、「(王〔廣開土王〕)は良からぬことを取り除き、
  庶民が安心して生業に励み、(その結果)国が富み、民衆も豊かになった。
  (ところが)天の神は王(廣開土王)に憐れみを持たず、王は39歳にして天に召さ
  れた。」となる。


◆◆◆ 広開土王碑(36) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 3月18日(金)12時14分22秒◆◆◆

>碑文の解釈(33)<

〈3〉「以甲寅年九月廿九日乙酉遷就山陵於是立碑銘記勲績以示後世焉其□曰」(第1面1
  行1字~6行39字)」(第1面6行9字~39字)
 ① 「以」とは、「に」の意味である。
 ② 「甲寅年九月廿九日乙酉」とは、「広開土王碑」の建立の年である「414年9月2
  9日」をいう。しかし、「乙酉」は415年(乙卯)2月のことをいう。この1年のず
  れについて、碑文は現行の「干支紀年」ではなく中国の「??暦」(せんぎょくれき)
  〔秦~前漢〕によっていたものとされている(「白崎昭一郎」-前掲書 115頁)。
   「広開土王碑」を建立したのは、第20代「長壽王」であり、414年といえば、
  その即位2年に当たる。
 ③ 「遷就山陵」とは、「遷(かえ)りて山陵に就く(つく)」の意で、王(廣開土王)の
  遺体を山の陵墓に置いた」の意味となる。
 ④ 「於是立碑銘記勲績」とは、「ここ(是)において(於)碑を立て、王(廣開土王)
  功績を銘記する」の意味である。
 ⑤ 「以示後世焉其□曰」は、「以て後世に示さんとする」である。ここの欠字を「辞」
  と読む者がいる(「白崎昭一郎」-前掲書 119頁、「武田幸男」-前掲書 316
  頁)。また「詞」と読む者もいる(「王 健群」-前掲書 137頁)。しかし、私には
  読めなかった。「朴 時亨」も不明としている(前掲書 162頁)。
   前にも説明したが、「焉」(えん)は「ここに」の意味である。
  ここのこころの解釈は、「(長壽王〔土王〕)は414年9月29日に、王(廣開土王)
 の遺体を山の陵墓に置き、ここに碑を立て、王(廣開土王)功績を銘記する。ここに、
 王(廣開土王)の功績を後世に伝えよ。」となる。


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■■■ 日韓古代交流史――広開土王碑[乙:解釈3(第二部)]――(解法者)■■■


◆◆◆ 広開土王碑(37) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 3月20日(日)17時12分9秒◆◆◆

>碑文の解釈(34)<

2.第二部
(1) 永楽5年(396年)条
   王が碑麗(契丹-高句麗の北部で活動)に遠征し、これを討ち破ったこと
 「永楽五年歳在乙未王以稗麗不問□□躬率住討過富山負至藍水破其三部洛六七百営牛馬
 群羊不可稱数於是旋駕因過□平道東来□城力城北豊五備猶遊觀土境田獵而還」(第1面7
 行1字~8行33字)

〈1〉「永楽五年歳在乙未王以稗麗不問□□躬率住討」(第1面7行1字~20字)
 ① 「永楽五年歳在乙未」とは、「王(廣開土王)の永楽5年乙未の年」、つまり、396
  年の意味で、ある。
 ② 「以稗麗不問」、まず「稗麗」は「高句麗」の北部いた「契丹」をいうとされている。
  (「朴 時亨」-前掲書 186頁)。「不問」、これが問題で、「息」と読む者(「朴 時
亨」-前掲書 182頁)、「帰」と読む者(「王 健群」-前掲書 138頁)、不明
  とする者(「武田幸男」-前掲書 316頁)、様々である。碑文を精査すると「問」
  でよいと思う(「白崎昭一郎」-前掲書 116頁)。したがって、「以稗麗不問」とは
  「契丹が無礼(不問)を働いたので」となる。
 ③ 「□□躬率住討」、最初の欠字は誰も読んだことはない。続いての欠字、従来は「又」
  と読まれてきた。これに対し「人」と読む者がいる(「王 健群」-前掲書 138頁、
  「武田」②-316頁)。「白崎昭一郎」は「久」とする(前掲書 129頁)。拓本を
  精査すると「ノ」が認められるから、そのいずれも可能性がある。判断がつかないと
  した。「朴 時亨」(前掲書 182頁)も欠字とする。意味は「王(廣開土王)が自ら
  軍を率いて行き(住-往と同じ意味)、討伐した。」である。
  ここのこころの解釈は、「王(廣開土王)の永楽5年乙未の年(396年)、無礼を働
  いてきた稗麗(契丹)を、王(廣開土王)自ら軍を率いて討伐した。」となる。


◆◆◆ 広開土王碑(38) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 3月21日(月)12時50分44秒◆◆◆

>碑文の解釈(35)<

〈2〉「過富山負山至藍水破其三部洛六七百営牛馬群羊不可稱数」(第1面7行21字~8
  行5字)
 ① 「過富山負山至藍水」の、「富山負山」は場所を示す固有名詞である。『三国志』魏志
  高句麗伝に「富山賊」とある。場所については諸説あるが、王(廣開土王)の王城「集
  安」の西北部としかわからない。「藍水」も河を示してはいるが、具体的な場所は不明
  である。
 ② 「破其三部洛六七百営」とは、「その3部落、6,700集団(営)を破った」の意
  味である。なお「営」とは、「白崎昭一郎」によれば、「営」はモンゴルの「包」(パオ)
  のようなもので、大家族集団(20人もしくはそれ以上)だとされる(前掲書 13
  5頁)。そうすると、1部落は200~230位の集団(営)ということになり、40
  00~5000人いたことになろう。
 ③ 「牛馬群羊不可稱数」とは、読んで字のとおりで「牛、馬、羊の群、無数(を捕獲し
  た)」の意味である。
  ここのこころの解釈は、「富山・負山を過ぎ藍水に至り、その3部落、6,700
  集団を破り、牛、馬、羊の群、無数を捕獲した。」となる。


◆◆◆ 広開土王碑(39) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 3月22日(火)14時23分6秒◆◆◆

>碑文の解釈(36)<

〈3〉「於是旋駕因過□平道東来□城力城北豊五備猶遊觀土境田獵而還」(第1面8
 行6字~8行33字)
 ① 「於是旋駕」とは、「ここで御輿(駕)の方向を変え(旋)」で、「王が自ら率いて来
  た軍隊の方向を転じたこと」をいう。
 ② 「因過」とは「ここを(因)過ぎて」の意味である。
 ③ 「□平道東来□城力城北豊五備猶」、ここの欠字を「襄」と読む者がいる(「王 健群」
  -前掲書 224頁、「武田」」②-316頁)。そして、「襄平道」を「遼陽から高句
  麗に至る交通路」だとする。しかし、拓本を見ても「襄」とは読めず欠字とする他な
  い。ただ、街道を指すことは間違いなかろう。次の欠字について「武田幸男」は「候」
  と読む。しかし、全く判読できない。
   「東来・□城・力城・北豊・五備猶」は、すべて地名である。「力城」は『晋書』地
  理志に「遼東国(郡)の8県の1つとして「襄平」とともに名がある。「北豊」も『三
  国志』魏志 斉王紀に、やはり遼東国(郡)の1つとして名がある。いずれも現在の
  瀋陽(旧奉天)一帯にあったと考えられる。「猶」だが、「白崎昭一郎」は「猶」とす
  る(前掲書 139頁)。「海」とする者もいる(「武田」②-316頁)。「猟」とする
  者もいる(「王 健群」-前掲書 224頁)。拓本を精査すると「?」が認められるか
  ら「海」ではない。ただ、これを「猶」と読めるかであるが、ここでは可能性として
  そう考えたい。
 ④ 「遊觀土境」とは「遊覧しながら自国(土境)」であり、続いての「田獵而還」と合
  わせて「遊覧しながら自国で、狩猟(田獵)しながら(而)帰ってきた」となる。
  ここのこころの解釈は「王は自ら率いて来た軍隊の方向を転じ、□平道を過ぎて、東
 来・□城・力城・北豊・五備猶を通って、遊覧しながら自国で、狩猟(田獵)しながら
 (而)帰ってきた。」となる。

「永楽5年(396年)条」全体としての解釈は、「王(廣開土王)の永楽5年乙未の年(396年)、無礼を働いてきた稗麗(契丹)を、王(廣開土王)自ら軍を率いて討伐した。
そして、富山・負山を過ぎ藍水に至り、その3部落、6,700集団を破り、牛、馬、羊の群、無数を捕獲した。王は自ら率いて来た軍隊の方向を転じ、□平道を過ぎて、東来・□城・力城・北豊・五備猶を通って(自国内に入り)(戦いは成功裏に終ったので)、遊覧しながら自国で、狩猟しながら帰ってきた。」となる。


◆◆◆ 広開土王碑(40) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 3月23日(水)13時21分18秒◆◆◆

>碑文の解釈(37)<

(2) 辛卯年(331年~)条
  「倭」が「高句麗」の属民だった「百済」・「新羅」を征服し、臣民にしてしまった
  こと
  「百残新羅旧是属民由来朝貢而倭以辛卯年来渡海破百残□□□羅以為臣民」(第1面
 8行34字~9行24字)
  ここのところは、前に説明したので、解釈のみ挙げる。ここからしばらくは同じよう
 にする。
  「(高句麗は)百済・新羅を古くから属民にし、彼らも(高句麗に)朝貢してきた。し
 かるに331年以来、倭が海を渡ってやって来て百済を破り、また新羅を侵略し、服従
 させてしまった。」
(3) 6年丙申条(397年)
  「高句麗」が「倭」の臣民だった「百済」を征服し、屈服させたこと
  ここは前記では省略した部分があったので、それを補って解釈してから、全文の
 解釈に及ぶ。
  「以六年丙申王躬率大軍討伐残國軍口口口攻取壹八城臼模盧城弖利城口口城閣弥城牟
 盧城弥沙城古舎蔦阿且城古利城雑珍城奥利城勾牟城古須耶羅城漠口口口口城分而耶羅城
 琢城於利城口口口豆奴城沸口口利城弥鄒城也利城大山韓城掃加城敦抜城口口城婁賣城散
 那旦城細城牟婁城蘇灰城燕婁城析支利城巖口城林城口口口口口利城就鄒城口口抜城古牟
 婁城閏奴城貫奴城彡穣城普口城宗古盧城仇天城口口口城其國城賊義敢出百戦王威赫怒渡
 阿利水遣刺迫城横□?穴就便圍城而残王困逼出男女生口一千人細布千匹跪王自誓従今永
 為奴客大王恩赦先迷之愆録其後順之誠於是得五十八城村七百将残主弟并大臣十人旋師遷
 都」(第一面9行25字~第二面5行32字)


◆◆◆ 広開土王碑(41) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 3月24日(木)13時40分49秒◆◆◆

>碑文の解釈(38)<

 ① 「軍」以下の3字が欠字となっている。最初の2字は読み取れない。その次の字に
  ついて、「但」と読む者(「白崎昭一郎」-前掲書 168頁)。あるいは、「首」と読
  む者(「朴 時亨」-前掲書 204頁)、「南」と読む者(「王 健群」-前掲書 22
  5頁)、「因」と読む者(「武田」②-前掲書 316頁)がいる。拓本(「水谷原石拓
  本」では「イ」が認められるが、その右は読めない。したがって、欠字が適当であろ
  う。
 ② 「壹八城」以下、王(廣開土王)が攻撃した城が続く。ここで、問題となるのは、末
  尾近くにある「五十八城村」と合致するかである。「王 健群」は「ここで字がはっき
  りしているのは48城あり、「城」という字しか残ってないものは3つで、合計58城
  ある。その他の欠落した部分の字数からみて、計算すると7城になり、ちょうど58
  城となる」という(前掲書 185頁)。
   以下、「字」の判読をしても、その位置も不明なもの多いので、省略し、重要な「城」
  についてのみ解説したい。ここでの判読は、「白崎昭一郎」のもの(前掲書 383頁)
  に従っておく。
 ③ 「閣弥城」、これは最初の字は「閣」と読める。『三国史記』高句麗本紀 第19代廣
  開土王2年(393年)条に、『冬十月 攻陥百済関弥城其城四面峭絶海水環繞王分軍
  七道攻撃二十日及抜』(冬10月、「百済」の「関弥城」を攻撃し陥落させた。その城
  は四方を海に囲まれ、非常に険しかったが、王は軍隊を7つに分けて攻撃し、20日
  目に陥落させた)とある、その「関弥城」である。『三国史記』の「関」は誤記だとさ
  れる(「白崎昭一郎」-前掲書 172頁)。場所は定かではないが、黄海道・京畿道
  の西海岸にある城であろう。他の城については一々詮索しないが、黄海道・京畿道に
  あったものとして考えられる。


◆◆◆ 広開土王碑(42) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 3月25日(金)13時05分13秒◆◆◆

>碑文の解釈(39)<

 前述の「6年丙申条(397年)」でまだ解説してないのは、「大王恩赦先迷之愆録其
後順之誠於是得五十八城村将軍残主弟并大臣十人旋師遷都」(第二面4行37字~5行3
2字)の部分である。
① 「先」は、「白崎昭一郎」(前掲書 203頁)も「武田幸男」(前掲書 317頁)
 もそう読む。「王 健群」は「始」と読む。「先」で良いと思う。
② 「大王恩赦先迷之愆」とは、「王(廣開土王)は先に迷っての過ち(愆-けん)〔「百
 済」が「高句麗」に叛いて「倭」と同盟したこと〕を許すこと」をいう。
③ 「録其後順之誠」とは、「その後の恭順の誠意を記録した」の意味である。
④ 「五十八城村七百」は、前述の王(廣開土王)が奪った城のことをいう。これまでも
 そうだが、「城」とはそれも含めた町を指す。朝鮮は後世でも「城」は単なる戦う場所
 も含めて、庶民の居住区を城壁で囲むものが多かった。「豊臣秀吉」の「文禄・慶長の
 役」での「晋州」(現在の韓国慶尚南道にある)でも、庶民の居住区を城壁で囲み兵士
 と庶民が一体となって日本軍と戦った。したがって、犠牲者は当然多くなる。「南原」
 (現在の韓国全羅南道にある)でも同じだった。
⑤ 「将残主弟并大臣十人」は、「残主(「百済」)の弟および(并-へい)大臣10人を
 従えて(人質にして(将))」の意味である。
⑥ 「旋師遷都」は、「都に凱旋した」である。

  「永楽6年(397年)条」全体としての解釈は、「永楽6年(広開土王の在位6年
 丙甲年〔397年〕に、高句麗王(広開土王)が自ら大軍を率いて百済軍を討伐した。
 王(広開土王)は「壹八城」以下58城(城を含む町)を攻撃したが、百済は正義の高
 句麗に屈服しないばかりか戦いを挑んで来た。王(広開土王)は激怒し、漢江を渡って
 先鋒部隊を百済の王都に迫らせた。(これを見た百済軍は恐れおののいて)百済の王都に
 逃げ帰った。そうして(而)百済王(第16代「阿?王」)は困り果てて、男女の奴隷千
 人、上質の布千匹を差し出し、王(広開土王)の前に跪いてこれからは永遠に王(広開
 土王)の臣下になりますと誓った。王(廣開土王)は先に迷っての過ち(「百済」が「高
 句麗」に叛いて「倭」と同盟したこと)を許し、王(廣開土王)は58城、村700を
 奪い、残主(「百済」)の弟および大臣10人を人質にして都に帰った。」となる。


◆◆◆ 広開土王碑(43) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 3月26日(土)15時35分44秒◆◆◆

>碑文の解釈(40)<

(4)永楽8年(399年)条
  「百済」が再び背いたので、これを征伐し、朝貢させた。
  「八年戊戌教遣偏師觀粛慎土谷因便抄得莫斯羅城加太羅谷男女三百余人自此以来朝貢
  論事」(第二面5行33字~6行30字)
 ① 「八年戊戌」とは、「王(廣開土王)の永楽8年戊戌の年」、つまり、399年の意味
  で、ある。
 ② 「教遣」とは、何度も出てくるが、「王躬率」-王が自ら軍隊を率いて、と異なり、「
  王が軍隊を将軍に率いさせた」の意味である。「王躬率」の場合には、必ず、その理由
  が示されているが、「教遣」の場合にはそれがない。
 ③ 「偏師觀」とは、「一部分(偏)の軍隊(師)を派遣する(「觀」-武威を示す)」の
  意味である。
 ④ 「粛慎」とは、「靺鞨」(まっかつ)をいう。中国東北部の西側にあった。『三国史記』
  に何度も出てくる。
 ★ 靺鞨
   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%BA%E9%9E%A8
   後の「渤海」は、「高句麗」の遺民と「靺鞨」が建国したと言われている。
 ⑤ 「土谷」は、地名である。「粛慎」に属していたと考えて良い。
 ⑥ 「因便抄得」とは、「よって(因)、すなわち(便)、掠め取った(抄得)」の意で、以
  下のものと連動している。
 ⑦ 「莫斯羅城」は、城の名前である。
 ⑧ 「加太羅谷」、これも地名である。
 ⑨ 「自此」は、「自らここに」の意味である。
 ⑩ 「論事」は、「命令に従うこと」をいう。
  「永楽8年(399年)条」全体としての解釈は、「王(廣開土王)は将軍に少数の軍
 隊を遣わし、「靺鞨」(「粛慎」)の「莫斯羅城」・「加太羅谷」の男女300余人を捕虜に
 し、自ら「朝貢」するように従わせた。」となる。


◆◆◆ 広開土王碑(44) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 3月31日(木)13時33分26秒◆◆◆

>碑文の解釈(41)<

(5)永楽9年(400年)条
  「倭」の加担による「百済」の再謀反と「倭」の「新羅」の占領。
  「九年己亥百残違誓与倭和通王巡下平壌而新羅遣使臼王云倭人満其国境潰破城池以奴
 客為民帰王請命太王恩慈稱其忠誠口遣使還告以口計」第2面6行31字~8行7字)
  ここの説明は前に行った。説明を省いたもののみ説明を加える。
 ① 「太王恩慈」の「慈」、「朴 時亨」は「後」と読む(前掲書 220頁)。「慈」で良
  い。意味は読んで字のごとしである。
 ② 「稱其忠誠」は、「その忠誠を称し」の意味である。
 ③ 「遣使還」は、「王(廣開土王)は「新羅王」が派遣した使者を自国に帰らせて」で
  ある。
 ④ 「告以口計」、「口」を「密」と読む者がいる(「王 健群」-前掲書 229頁)。し
  かし、ここは判読できない。ただ、意味としては「密」で「密計」がぴったりする。
  「永楽9年(400年)条」全体としての解釈は、「永楽9年(広開土王の在位9年己
 亥年〔400年〕)、「百済」が「永楽6年丙甲」条の誓を破り「倭」と同盟した。王(広
 開土王)が(「倭」・「百済」の侵攻を警戒して)平壌を巡視していた(ちょうどその時)、
 「新羅」の使いがやって来て、「倭」が「倭」と「新羅」の国境に大軍を差し向け、(さ
 らに)「新羅」の国内にまで侵攻し、城を取り囲んでいる濠を破壊し城を乗っ取りました。
 (そして)わが王(第17代「奈勿王」を臣下としてしまいました。「新羅」はあくまで
 「高句麗」に従いますので、王(広開土王)のご命令を願いいたすとともにそのご命令
 に従います。王(広開土王)はその忠誠心を称賛し、「新羅王」が派遣した使者を自国に
 帰らせて、密計を授けた。」となる。


◆◆◆ 広開土王碑(45) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 4月 2日(土)16時43分13秒◆◆◆

>碑文の解釈(42)<

(6)永楽10年(401年)条
   王は5万の軍隊を派遣して新羅を救援した。「倭」軍は「新羅」中の城を占領してい
  たが、これを破り、さらに追撃し大敗させた。
  「十年庚子教遣歩騎五萬住救新羅従男居城至新羅城倭満其中官軍方至倭賊退自倭背急
 迫至任那加羅従抜城城即帰服安羅人戎兵□新□城藍倭寇委潰城内十九蓋拒随安羅人戎兵
 捕□□□□□其村殊□□□□□信□□旦□倭□稚□□□□□□□□興□□□□□□□□
 □□辞□□□□□□□□□□□残倭潰□以随□安羅人戎兵昔新羅寐錦未有身来論事□□
 □□廣開土王境好太王□□□□寐錦□家僕勾□千□□朝貢」(第2面8行9字~第3面
3行6字)
  ここのところは、前に説明したので、解釈のみ挙げる。
  「永楽10年(401年)条」全体としての解釈は、「永楽10年(広開土王の在位1
 0年庚子年〔401年〕)、高句麗王(広開土王)は歩兵・騎兵5万を遣わし新羅を救援
 に赴かせた。途中、男居城から新羅城までその中に「倭軍」が満ち溢れていた。高句麗
 軍はそこに至ると、高句麗軍を恐れて背走したが、高句麗軍はなおも追撃し任那加羅に
 ある従抜城に攻め入ると「倭軍」は降伏した。それで(途中で「倭軍」とともに連合し
 ていた)安羅人(を降伏させ)の彼らを守備兵として従抜城を守らせた。(「高句麗軍」
 新羅城および塩城を打ち破り「倭軍」を潰滅させた。新羅城内の10人中9人までもが
 「倭軍」に従うのを拒絶し、また、安羅人の守備兵をしてそこを守らせた。昔から新羅
 王は高句麗に従い、朝貢することはなかったが、(これにより朝貢するようになった-欠
 字部分を推測)。王(広開土王)は(新羅を臣下に加え、その証として-欠字部分を推測)
 新羅王(奈勿王)は「ト好」(「實聖」)を王(広開土王)に人質として差出し、朝貢する
 ようになった」となる。


◆◆◆ 広開土王碑(46) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 5月11日(水)20時46分15秒◆◆◆

>碑文の解釈(43)<

(7)永楽14年(405年)条
   再び「倭」軍が、今度は帯方(現在のソウルの「漢江」)を越えてにやって来て、
  「百済」と一緒になって石城を占領した。王は平壌から出発し、先鋒部隊が「倭」軍
  を合い見え「倭」軍を壊滅した。
  「十四年甲辰而倭不軌帯方界和通残□至石城□連船□□□王躬率□□従平壌□□□鋒
  相遇王幢要截盪刺倭寇潰敗斬殺無数」(第3面3行7字~4行20字)
  ここのところも、前に説明したので、解釈のみ挙げる。
 「永楽14年(405年)条」全体としての解釈は、「広開土王の在位14年甲辰年
 〔405年〕)、不法にも「倭軍」は百済」と共に帯方界にまで侵攻し「石城」にまで
 やって来た。「倭軍」は船を連ねて侵攻して来たのである。(この知らせを聞いて)王
 (広開土王)が自ら軍を率いて平壌から出陣した。先鋒部隊が「倭軍」らと遭遇し、
 「高句麗軍」は王の旗印を翻して侵略者「倭軍」(倭寇)と戦い、これを壊滅させた。
 惨殺したもの無数に上ったのである。」となる。


◆◆◆ 広開土王碑(47) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 4月 4日(月)16時01分39秒◆◆◆

>碑文の解釈(44)<

(7)永楽17年(408年)条
   王は5万の軍を遣わし、「倭」軍およびこれと同盟する「百済」軍を討ち破り、鎧
  1万余領を捕獲した。そして、「百済」のいくつかの城を占領した。
  「十七年丁未教遣歩騎五萬□□□□□□□□王師□□合戦斬殺蕩盡所獲鎧鉀一萬余領
 軍資器械不可稱數還破沙□城婁城□留城□□□□□□□□城」(第3面4行21字~6
 行)
  ここのところも、前に説明したので、解釈のみ挙げる。
 「永楽17年(408年)条」全体としての解釈は、「広開土王の在位17年丁未年〔4
 08年〕)、王(広開土王)は歩兵・騎兵5万を遣わし、(倭軍)の討伐に向わせた。(倭
 軍)との戦いは、相手を総て斬り尽くし、捕獲した鎧は1万余領、軍用物資・兵器は数
 知れなかった。帰還の途中、沙□城婁城□留城など多くの城をも攻め立て破壊した。」
 となる。
  なお、この「永楽17年(408年)条」に関し、この欠字の部分を補い説明する
 と「高句麗」の対戦相手は「燕(後燕)」であるとする見解がある(「千 寛宇」〔「広開
 土王碑文再論」[『アジア公論』1985年2,3月号]〕「白崎昭一郎」-前掲書 23
 9頁)。しかし、408年には「燕(後燕)」は衰退し、7月には「燕(北燕)」に取って
 代わられる。確かに「燕(後燕)」は「高句麗」と戦闘を交え大敗をきしている(『三国
 史記』第19代「広開土王」15年(407年)7月条)。「燕(後燕)」はこの敗北で衰
 退したものと考えられる。「燕(後燕)」は永楽17年(408年)には「高句麗」と戦
 争するだけの余力はなかったものと考えられる。しかも、広開土王は即位17年(40
 9年)3月には、「燕(北燕)」と和睦している。したがって、「永楽17年(408年)
 条」は「燕(後燕)」との戦闘を記したものではない。
 ★ 後 燕
   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E7%87%95
 ★ 北 燕
   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E7%87%95


◆◆◆ 広開土王碑(48) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 4月 6日(水)19時59分17秒◆◆◆

>碑文の解釈(45)<

(8)永楽20年(411年)条
   東扶余(中国東北部の南部)は高句麗の建国以来属民であったが、叛き朝貢をしな
  くなったので、王自ら兵を率いて討伐しこれを屈服させた。近くの国々も王に従うよ
  うになった。王は生涯に、64の城と1400の村を獲得した。
 「廿年庚戌東扶余旧是鄒牟王属民中叛不貢王躬率住討軍到余城而余挙國駭服献□□□□
 □帰王王恩普覆於是旋還又其慕化随官来者味仇婁鴨盧卑斯麻鴨盧揣奢社婁鴨盧粛斯舎鴨
 盧□□□鴨盧凡所攻破城六十四村一千四百(第3面6行3字~8行15字)
 ① 「廿年庚戌」とは、「王(廣開土王)の永楽20年庚戌の年」、つまり、411年の意
  味で、ある。
 ② 「鄒牟王」とは、「始祖 東明聖王(在位 紀元前37年~19年)」のことをいう。
 ③ 「中叛」とは、「途中で謀叛した」の意味である。
 ④ 「王躬率」は、前にも何度も説明したが、「王(廣開土王)が自ら(躬)軍隊を率い
  て出陣すること」をいう。「王躬率」があるときは必ず「説明文(前置文)」があり、「
  廿年庚戌東扶余旧是鄒牟王属民中叛不貢」が「説明文(前置文)」となっている。つま
  り、「王(廣開土王)の永楽20年庚戌の年、東扶余は「鄒牟王」の時代から属民であ
  ったが、途中で謀叛を起こし、朝貢しなくなった」、だから、「王(廣開土王)が自ら
  軍隊を率いて出陣した」となる。
 ⑤ 「住討の「住」も前に説明したが、「往」=「行く」の意味である。合わせて「討伐
  に向った」である。
 ⑥ 「余城」は、城(町)の名前である。「王 健群」は「東扶余」の「国都」とするが(前
  掲書 233頁)、それで良いと思う。
 ⑦ 「而余挙國駭服献」とは、「それで(而)、「東扶余」(余)は驚いて(駭)国を挙げて
  降伏した(服献)」である。「献」について、「朴 時亨」は「駢」(べん)と読む(前掲
  書 238頁)。確かにそこのところは「馬」しかはっきりとしない。しかし、「駢」
  は馬を2つ並べるの意味であるが、それでは意味が通じない。ここは「駭」の方が意
  味が通じ、それで良いと考える。


◆◆◆ 広開土王碑(49) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 4月 7日(木)14時12分20秒◆◆◆

>碑文の解釈(46)<

 ⑧ 「帰王」は、「王(廣開土王)に帰属する」ことをいう。
 ⑨ 「王恩普覆」とは、「王(廣開土王)の恩恵が広く(普-あまねく)行き渡る(覆)
  こと」をいう。
 ⑩ 「於是旋還」とは、「(王〔廣開土王〕)が軍隊を巡らして帰還した」の意味である。
 ⑪ 「又其慕化随官来者」は、「また、王(廣開土王)〔其〕の徳(化-徳化のこと)を
  慕い「高句麗軍」(官-官軍のこと)に従って来る者」という意味である。
⑫ 「味仇婁鴨盧卑斯麻鴨盧揣奢社婁鴨盧粛斯舎鴨盧□□□鴨盧」は、王(廣開土王)に
従って来た者の名前である。「味仇婁鴨盧」、「卑斯麻鴨盧」、「揣奢社婁鴨」、
「粛斯舎鴨盧」、「□□□鴨盧」の5人である。「鴨盧」、「婁鴨」は官名であろう。
 ⑬ 「凡所攻破城六十四村一千四百」とは、「おおよそ(凡)、王(廣開土王)が攻略(攻
  破)。した城(町)は64、村は1400」という意味である。ここにいう「城64」
  とは、永楽6年に「百済」から奪った58城と永楽17年に攻め取った6城を合計し
  たものであろう。村数の1400も同じく永楽5年に奪った700の村を合計したも
  のと思われる(「白崎昭一郎」-前掲書 282頁)。

  「永楽20年(411年)条」全体としての解釈は、「「東扶余」は、始祖「東明聖王」
 以来属民であったが、途中で謀叛を起こし、朝貢しなくなった。そこで、永楽20年(広
 開土王の在位20年庚戌年〔411年〕)、王(廣開土王)は自ら兵を率いて「東扶余」
 の都に攻め上った。すると、「東扶余」は驚いて国を挙げて降伏し、王(廣開土王)に服
 従した。王(廣開土王)の恩恵が広く行き渡り、王(廣開土王)は(目的を果たし)軍
隊を巡らして帰還した。「味仇婁鴨盧」、「卑斯麻鴨盧」、「揣奢社婁鴨」、「粛斯舎鴨
盧」、「□□□鴨盧」の5人は、王(廣開土王)の徳を慕い、ついて来た。この戦いで、
おおよそ、攻め取った城は64、村は1400に上った。」となる。


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■■■ 日韓古代交流史――広開土王碑[乙:解釈4(第三部)]――(解法者)■■■


◆◆◆ 広開土王碑(50) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 4月 9日(土)11時03分4秒◆◆◆

>碑文の解釈(47)<

1.第三部
  ここからは、「広開土王」の墓を守る家族の選出とその割当てが記される。要約は次の
 とおりである。
① 王は、国土の民衆を階級別に統制し、戸籍を作らせ、報告させた。
② 王は、王墓の墓守をさせるのは、これまでの戦争で捕獲した「韓」(韓国南部の民族
 -「百済」の人々)と「穢」(北朝鮮の日本海側に住んでいたツング-ス系の民族)の
  人たちせよ、との遺言をした。我々は王の遺言に従うほか一般人も連れてきて墓守に
  した。戸籍を整え、墓守たちを売買してはならず、違反する者には刑罰を科すことに
  する。
  「守墓人烟戸賣勾余民國烟二看烟三東海賈國烟三看烟五敦城民四家盡為看烟于城一家
 為看烟碑利城二家為國烟平穣城民國烟一看烟十□連二家為看烟俳婁人國一看烟?三梁谷
 二家為看烟梁城二家為看烟安夫連廿二家為看烟改谷三家為看烟新城三家為看烟南蘇城一
 家為國烟新来韓穢沙水城國烟一看烟一牟婁城二家為看烟豆比鴨?韓五家為看烟勾牟客頭
 二家為看烟求底韓一家為看烟舎蔦城韓穢國三廿一古須耶羅城一家為看烟莫古城國烟一看
 烟三客賢韓一家為看烟阿旦城雑珍城合十家為看烟巴奴城韓九家為看烟臼模盧城二家為看
 烟牟水城三家為看烟幹弖利城國烟一看烟三弥鄒城國烟一看烟七也利城三家為看烟豆奴城
 國烟一看烟二奥利城國烟二看烟八須鄒城國烟二看烟五百残南居韓國烟一看烟五大山韓城
 六家為看烟農賣城國烟一看烟七閏奴城國烟二看烟廿二古牟婁城國烟二看烟八琢城國烟一
 看烟八味城六家為看烟就咨城五家為看烟彡穣城廿四家為看烟散那城一家為國烟那旦城一
 家為看烟勾牟城一家為看烟於利城八家為看烟比利城三家為看烟細城三家為看烟國岡上廣
 開土境好太王存時教言祖王先王但教取遠近旧民守墓酒掃吾慮旧民轉当羸劣若吾萬年之後
 安守墓者但取吾躬巡所略来韓穢令備酒掃言教如此是以如教令取韓穢二百廿家慮其不知法
 則復取旧民一百十家合新旧守墓國烟卅看烟三百都合卅家自上祖先王以来墓上不安石碑致
 使守墓人烟戸差錯唯國岡上廣開土境好太王盡為祖先王墓上立碑銘其烟戸不令差錯又制守
 墓人自今以後不得更相轉賣守墓人雖有富足之者亦得擅買其有違令賣者刑之買人制令守墓
 之」(第3面8行16字~第4面9行41字)
(1)「守墓人烟戸賣勾余民國烟二看烟三東海賈國烟三看烟五敦城民四家盡為看烟于城一家
  為看烟碑利城二家為國烟平穣城民國烟一看烟十□連二家為看烟俳婁人國一看烟?三梁
  谷二家為看烟梁城二家為看烟安夫連廿二家為看烟改谷三家為看烟新城三家為看烟南蘇
  城一家為國烟」(第3面8行16字~11行12字)
   ここでは、「旧民」の「守墓人」に関する記事が挙げられている。


◆◆◆ 広開土王碑(51) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 4月10日(日)14時56分24秒◆◆◆

>碑文の解釈(48)<

 ① 「烟戸」とは、「各地方の人家についてその数を調べて部(上部機関)に報告した
  もの」をいうとされている(『清会典』-「王 健群」-前掲書 234頁)より引
  用)。
   これでは何を言っているのかわからない。「烟戸」、これは「戸籍」の単位となる
  1単位の集団を意味する。これについては「朝鮮の戸籍制度(2)>新羅時代の戸
  籍<」説明したから、参照されたい。
   これについて、「白崎昭一郎」は「「烟」(煙)を絶やさないことを任務とした民戸」
  の意味である。おそらく、王(廣開土王)の墓は火が焚かれそれを絶やさないこと
  になっていたとする(前掲書 284頁)。「王 健群」も「白崎昭一郎」も「古代戸
  籍」に関する知識がないから、こういう誤解をしている。その意味では「朴 時亨」
  は正しい理解をしている(前掲書 250頁)。
  ここにいう「戸」とは必ずしも「1つの家」・「1つの家族」を意味するものでは
   なく、複数の家など集まった「1単位の集団」を指すことに注意されたい。
  ◆ 「正倉院」に「新羅」時代の戸籍帳が残されているが(「新羅民政文書」)、ここに
   「烟」という用語の記載があり、「戸」を意味する。
 ② 「賣勾余民」とは、「高句麗」第3代王「大武神王」13年(30年)にある「高
  句麗」に投降してきた「買溝谷」の人ではないかとされている(「朴 時亨」-前掲
書 251頁)。
   「賣勾余民」から「南蘇城」までは、「旧民」(「高句麗」に昔から所属していた人)
  が続く。
   なお、地域については、「字」を詮索することはあまり意味がないと考えるから、
  一々それを検証しない。また、場所についても同じようにした。
  ★ 『会典』
法令や制度を記録した書をいう。「唐」代からあり、最初のものは「玄宗」の開元1
0年に編纂された『唐六典』であるとされる。その後の王朝でも編纂され、「清」の
「康熙帝」の康熙23年(1684年)に編纂されたのが『清会典』である。
 ③ 「國烟二看烟三」とは、王(廣開土王)の「守墓人」の種類を意味し、「買溝谷」
  の人でも「國烟」2戸、「看烟」3戸、に分けられている。
   ここにいう「國烟」とは、王城のある「国岡上」(現在の中国吉林省集安)の地に
  ある「広開土王墓」を守護する国家的労役を指定された墓守を、「看烟」とはその補
  助的な職務に従事する墓守を、を言うとされている(「武田」②-38頁)。そこに
  は階級差があり、「國烟」の方が上に立っている。碑文にある「守墓人」を見ても、
   「國烟」1に対し、「看烟」10、の割合となっている。
   「旧民」では、「國烟」10戸、「看烟」100戸、合計 110戸、となる。


◆◆◆ 広開土王碑(52) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 4月15日(金)15時28分11秒◆◆◆

>碑文の解釈(49)<

 ④ 「東海賈」、これも「賣勾余民」と同じ、特定の地域の人たちを表わしている。
 ⑤ 「敦城民四家盡為看烟」、これは「「敦城」という地域の人たちはすべて(盡)「看烟」
  にした」という意味である。ここにいう「家」も「戸」と考えて良い。
 ⑥ その後は、「于城」、「碑利城」、「平穣」、「□連」、「俳婁」、「梁谷」、
  「梁城」、「安夫連」、「改谷」、「新城」、「南蘇城」と続く。ここまで14の地方が
  挙げられているが、「國烟」10戸、「看烟」100戸、である。
 ⑦ 「新城」、「南蘇城」は、『三国史記』高句麗本紀 第19代広開土王の9年(401)
  条、に記載がある。中国の「燕」に奪われた地で、「新城」は現在の中国東北部の「瀋
  陽」(旧満州の奉天)で、「南蘇城」は同じく現在、「瀋陽」に接する「興京」であると
  される(「朴 時亨」-前掲書 254頁、256頁)。「平穣」は「平壌」のことをい
  う。

  ここまでの解釈は「王(廣開土王)の「守墓人」として、従来から「高句麗」に所属
 していた地域から「國烟」と「看烟」に分けて任命する。「賣勾余民」については「國烟」
 2戸、「看烟」3戸、「東海賈」は「國烟」3戸、「看烟」5戸、「敦城」は「看烟」4戸、
 「于城」は「看烟」5戸、「碑利城」は「國烟」2戸、「平穣」は「國烟」1戸、「看烟」
 10戸、「□連」は「看烟」2戸、「俳婁」は「國烟」1戸、「看烟」43戸、「梁谷」は
 「看烟」2戸、「梁城」は「看烟」2戸、「安夫連」は「看烟」22戸、「改谷」は「看烟」
 3戸、「新城」は「看烟」3戸、「南蘇城」は「國烟」1戸、とする。」となる。
  ここでも、以下でも「烟」の数が不明確なものもあり、必ずしも正確ではない。した
 がって、読む者によって異なる。


◆◆◆ 広開土王碑(53) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 4月17日(日)13時26分16秒◆◆◆

>碑文の解釈(50)<

(2)「新来韓穢沙水城國烟一看烟一牟婁城二家為看烟豆比鴨?韓五家為看烟勾牟客頭二
 家為看烟求底韓一家為看烟舎蔦城韓穢國三廿一古須耶羅城一家為看烟莫古城國烟一看烟
 三客賢韓一家為看烟阿旦城雑珍城合十家為看烟巴奴城韓九家為看烟臼模盧城二家為看烟
 牟水城三家為看烟幹弖利城國烟一看烟三弥鄒城國烟一看烟七也利城三家為看烟豆奴城國
 烟一看烟二奥利城國烟二看烟八須鄒城國烟二看烟五百残南居韓國烟一看烟五大山韓城六
 家為看烟農賣城國烟一看烟七閏奴城國烟二看烟廿二古牟婁城國烟二看烟八琢城國烟一看
 烟八味城六家為看烟就咨城五家為看烟彡穣城廿四家為看烟散那城一家為國烟那旦城一家
 為看烟勾牟城一家為看烟於利城八家為看烟比利城三家為看烟細城三家為看烟」(第3面
 13行16字~第4面5行4字)
   ここでは、「新来韓穢」の「守墓人」に関する記事が挙げられている。
 ① 「新来韓穢」とは、「新たに「高句麗」の民となった「韓人」・「穢人」をいう。
   「韓人」は、「高句麗」が前記の戦闘で属民・捕虜にした「百済」・「加羅」の人た
  ちをいうものとされるが(「朴 時亨」-前掲書 256頁)、「新羅」も含めてよい
  と考える。なお、「王 健群」は「加羅」を除外している(前掲書 235頁)。
   「穢人」は、『三国志』にもあるとおり、朝鮮半島北部の日本海側(現在の咸鏡道)
  にいたツング-ス系の民族である。『三国史記』にもたびたび登場し、「高句麗」と
  も長年抗争関係にあった。
   元来「守墓人」は「旧民」で構成されていたが、後述の碑文の「吾慮旧民轉当羸
  劣若吾萬年之後安守墓者」とあるように、旧民が羸劣(るいれつ-統制が取れなく
  なること)を慮って「新民」を「守墓人」に登用したのである。当時からこのよう
  な事態が発生していたのかもしれない。


◆◆◆ 広開土王碑(54) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 4月19日(火)11時58分0秒◆◆◆

>碑文の解釈(51)<

  ② 「沙水城」以下、51の地域と「守墓人」の「戸」が列挙されている。
   「沙水城」は「國烟」1戸、「看烟」1戸、「牟婁城」は「看烟」2戸、「豆比鴨?韓」
   は「看烟」5戸、「勾牟客頭」は「看烟」2戸、「求底韓」は「看烟」1戸、「舎蔦城
   韓は「看烟」1戸、「舎蔦城韓穢」は「國烟」3戸、「看烟」21戸、「古須耶羅城」
   は「看烟」1戸、「莫古城」は「國烟」1戸、「看烟」3戸、「客賢韓」は「看烟」1
   戸、「阿旦城」・「雑珍城」は合わせて「看烟」10戸、「巴奴城韓」は「看烟」9戸、
   「臼模盧城」は「看烟」4戸、「若模盧城」は「看烟」2戸、「牟水城」は「看烟」
   3戸、「幹弖利城」は「看烟」3戸、「弥鄒城」は「國烟」1戸、「看烟」7戸、「利
   城」は「看烟」3戸、「豆奴城」は「國烟」1戸、「看烟」2戸、「奥利城」は「國烟」
   2戸、「看烟」8戸、「須鄒城」は「國烟」2戸、「看烟」5戸、「百残南居韓」は「國
   烟」1戸、「看烟」5戸、「大山韓城」は「看烟」6戸、「農賣城」は「國烟」1戸、
   「看烟」7戸、「閏奴城」は「國烟」2戸、「看烟」22戸、「古牟婁城」は「國烟」
   2戸、「看烟」8戸、「琢城」は「國烟」1戸、「看烟」8戸、「味城」は「看烟」6
   戸、「就咨城」は「看烟」5戸、「彡穣城」は「看烟」24戸、「散那城」は「國烟」
   1戸、「那旦城」は「看烟」1戸、「勾牟城」は「看烟」1戸、「於利城」は「看烟」
   8戸、「比利城」は「看烟」3戸、「細城」は「看烟」3戸、である。
    ここにあるいくつかの城は、広開土王碑のなかで攻略したものであることが明ら
   かである。

    「新来韓穢」では、「國烟」20戸、「看烟」200戸、合計 220戸、となる。
   「旧民」も含めた合計は、「國烟」30戸、「看烟」300戸、合計 330戸、と
   なる。


◆◆◆ 広開土王碑(55) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 4月23日(土)13時30分38秒◆◆◆

>碑文の解釈(52)<

   ここまでの解釈は「新たに「高句麗」の民となった「韓人」・「穢人」の王(廣開土
  王)の「守墓人」は、「沙水城」は「國烟」1戸、「看烟」1戸、「牟婁城」は「看烟」
  2戸、「豆比鴨?韓」は「看烟」5戸、「勾牟客頭」は「看烟」2戸、「求底韓」は「看
  烟」1戸、「舎蔦城韓は「看烟」1戸、「舎蔦城韓穢」は「國烟」3戸、「看烟」21戸、
  「古須耶羅城」は「看烟」1戸、「莫古城」は「國烟」1戸、「看烟」3戸、「客賢韓」
  は「看烟」1戸、「阿旦城」・「雑珍城」は合わせて「看烟」10戸、「巴奴城韓」は「看
  烟」9戸、「臼模盧城」は「看烟」4戸、「若模盧城」は「看烟」2戸、「牟水城」は「看
  烟」3戸、「幹弖利城」は「看烟」3戸、「弥鄒城」は「國烟」1戸、「看烟」7戸、「利
  城」は「看烟」3戸、「豆奴城」は「國烟」1戸、「看烟」2戸、「奥利城」は「國烟」
  2戸、「看烟」8戸、「須鄒城」は「國烟」2戸、「看烟」5戸、「百残南居韓」は「國
  烟」1戸、「看烟」5戸、「大山韓城」は「看烟」6戸、「農賣城」は「國烟」1戸、「看
  烟」7戸、「閏奴城」は「國烟」2戸、「看烟」22戸、「古牟婁城」は「國烟」2戸、
  「看烟」8戸、「琢城」は「國烟」1戸、「看烟」8戸、「味城」は「看烟」6戸、「就
  咨城」は「看烟」5戸、「彡穣城」は「看烟」24戸、「散那城」は「國烟」1戸、「那
  旦城」は「看烟」1戸、「勾牟城」は「看烟」1戸、「於利城」は「看烟」8戸、「比利
  城」は「看烟」3戸、「細城」は「看烟」3戸、として定める。」となる。


◆◆◆ 広開土王碑(56) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 4月26日(火)13時58分1秒◆◆◆

>碑文の解釈(53)<

(3)「國岡上廣開土境好太王存時教言祖王先王但教取遠近旧民守墓酒掃吾慮旧民轉当羸
 劣若吾萬年之後安守墓者但取吾躬巡所略来韓穢令備酒掃言教如此是以如教令取韓穢二百
 廿家慮其不知法則復取旧民一百十家合新旧守墓國烟卅看烟三百都合卅家」(第4面5行5
 字~第4面7行32字)
   ここでは、王(広開土王)の遺言が記されている。
 ① 「國岡上廣開土境好太王」に関して、第1面と比べて「境」と「好」の間に「平安」
  が省略されている。
 ② 「存時」とは、「世にあるとき=生きているとき」の意味である。
 ③ 「教言」は、「教示する」ことをいう。
 ④ 「遠近旧民」は、「遠いところ、近いところの古くからの「高句麗」の民」をいう。
   これについて、「王 健群」は「奴隷」と解する(前掲書 236頁)。しかし、この
  後に「吾慮旧民轉当羸劣」がある。これは「旧民の生活が困窮していくことを王(広
  開土王)が心配している」のである。「旧民」が「奴隷」であるならば何で心配するこ
  とがあろうか。「王 健群」の考えは明らかに誤りである。「白崎昭一郎」も同じ考えを
  採る(前掲書 319頁)。「羸」(るい)とは、「弱る」の意味である。
 ⑤ 「酒掃」とは、「墓を水で清めて(酒)、掃除すること」をいう。
 ⑥ 「萬年之後」とは、「死んだ後で」のことをいう。
 ⑦ 「但取」とは、「・・・するように」の意味である。「但」は「ただ=そのように」で、
  「取れ」は「するように」という命令形である。
 ⑧ 「躬巡」は、「王(広開土王)が自ら進軍(巡る)したところ」をいう。
 ⑨ 「所略来韓穢」とは、「略取してきたところの「韓人」・「穢人」」のことをいう。
 ⑩ 「令備酒掃」とは、「(王(広開土王)の墓を)掃除するように備えさせよ」の意味で
  ある。
 ⑪ 「言教」は、「教示」のことをいう。


◆◆◆ 広開土王碑(57) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 4月28日(木)12時55分28秒◆◆◆

>碑文の解釈(54)<

 ⑫ 「如此是以如教令」は、「かくのごとく(如此)〔王(広開土王)が「韓人」・「穢人」
  を「守墓人」につかせよのことを指す〕、王(広開土王)が命令したので、そのとおり
  (是以如)・・・するように命令(教令)した」の意味となる。
 ⑬ 「取韓穢二百廿家」は、「「韓人」・「穢人」220戸を(王(広開土王)の墓守人)
  にするように」の意味である。
 ⑭ 「慮其不知法則」とは、「王(広開土王)の墓守人にした「韓人」・「穢人」が墓守の
  規則を知らないことを心配して」の意味をいう。
 ⑮ 「復取旧民一百十家合新旧守墓國烟卅看烟三百都合卅家」とは、「再び「旧民」11
  0戸を連行し、新旧合わせて「國烟」30戸、「看烟」300戸、合計330戸を墓守
  人とするように(取)」の意味である。

  ここまでの解釈は「始祖、先王たちは遠いところ、近いところの古くからの「高句麗」
 の民だけを王墓の守墓人としたが、王(広開土王)は存命のとき、その旧民の生活が困
 窮していくことを心配し、私が亡くなった後は、私が自ら出陣し捕虜として連れて来た
 「韓人」・「穢人」を墓守人とし、220戸をそれに当てよ。そして、彼らが墓守の規則
 を知らないことを心配るので、新旧合わせて「國烟」30戸、「看烟」300戸、合計3
 30戸を墓守人とするようにと命じられた。」となる。


◆◆◆ 広開土王碑(58) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 5月 1日(日)11時44分25秒◆◆◆

>碑文の解釈(55)<

(4)「自上祖先王以来墓上不安石碑致使守墓人烟戸差錯唯國岡上廣開土境好太王盡為祖先
 王墓上立碑銘其烟戸不令差錯又制守墓人自今以後不得更相轉賣守墓人雖有富足之者亦得
 擅買其有違令賣者刑之買人制令守墓之」(第4面7行33字~第4面7行32字)
  ここでは、王(広開土王)の遺言に従って「広開土王碑」を建て、「墓守人」の「戸」
 を銘記したことが記されている。
 ① 「自上祖先王以来」とは、「始祖(上祖)・先王以来」の意味である。「自」は「より」
  の意味である。
 ② 「墓上不安石碑」は、「墓の上に石碑を置かなかった(不安)」の意味で、「安」は「
  安んじる」=「置く」の意味である。
 ③ 「致使守墓人烟戸差錯」とは、「守墓人の「烟戸」が記録されず、間違いが起きるこ
  と」をいう。「差錯」を「交錯」(「朴 時亨」-前掲書 262頁)、あるいは「取り違
  える」(「白崎昭一郎」-前掲書 332頁)と解する者がいる。それでは意味がわか
  らない。「王 健群」は「(守墓烟戸の出身地と戸数を記録することができず)間違いが
  起きる結果となった」とする(前掲書 238頁)。これが正しい。
 ④ 「唯國岡上廣開土境好太王盡為祖先王墓上」は、読んで字のとおりである。
 ⑤ 「立碑銘其烟戸不令差錯」は、先の「差錯」を受けて「守墓人の「烟戸」に関する記
  録を碑に銘記して間違いが起きないようにした」の意味である。
 ⑥ 「又制」とは、「また制定した」の意味である。
 ⑦ 「自今以後不得更相轉賣守墓人」とは、「これから以後、自ら守墓人の地位を転売し
  てはならない」ことをいう。このことから、当時は「守墓人の地位」が売買されてい
  たことがうかがえる。
 ⑧ 「雖有富足之者亦得擅買」とは、「裕福な者がいたとしても、守墓人の地位を買って
  はならない」ということである。つまり「守墓人は身分が低く守墓の地位に隷属して
  いたので、これを買うことにより、自分の手元に隷属した者を増やすことになるので、
  これを禁じた」のである。
 ⑨ 「其有違令賣者刑之買人制令守墓之」は、「それに違反して守墓人を売る者があれば、
  買った者に刑罰を科し、自ら守墓人にならなければならない」の意味である。

  ここまでの解釈は「始祖(上祖)・先王以来、墓の上に石碑を置かなかったので、守墓
 人の「烟戸」が記録されず、間違いが起きていた。そこで、王(広開土王)は守墓人の
 「烟戸」に関する記録を碑に銘記して間違いが起きないようにした。これからは、自ら
 守墓人の地位を転売してはならず、たとえ裕福な者がいたとしても、守墓人の地位を買
 ってはならない。それに違反して守墓人を売る者があれば、買った者に刑罰を科し、
 自ら守墓人にならなければならない。」となる。


◆◆◆ 広開土王碑(59) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 5月 3日(火)13時40分36秒◆◆◆

>碑文の解釈(56)<

 ここで、問題なのは、なぜ、碑文の第三部に「守墓人」のことが記されているのであろうか。それまでの第一部、第二部では、「高句麗」の建国の歴史と王(広開土王)の武勲が描かれている。「守墓人」の記述は唐突で、それに相応しくない。
 こうしたことから、「武田幸男」は『広開土王碑』を、「高句麗」の法令公告の意味合いを持つという(武田①-43頁)。この『広開土王碑』をそのように解するのは「守墓人」の記述の部分が「南面」していることにある。「天子は南面し、臣下は北面す」という中国での定めに依ったものであろう。「古田武彦」もこの考えに立つのであろう(『失われた九州王国』朝日新聞社〔朝日文庫 ふ-8-7〕1993年2月1日258頁)。次にこの部分が碑文の1/3を占めるということである。この量に注目して「墓誌」という者もいるという。しかし、この見解には組しない。「法令」は臣下の遵守すべき律(掟)を定めるものであるが、これは「守墓人」の記述に止まり、法令のほんの一部に止まる。碑文は、① 「高句麗」建国の偉業、② 王(広開土王)の武勲、③ 「守墓人」に関する規定、の3つから成ることは誰しも否定できまい。まず、①は必ずしも必要なものではない。さほど重要ではない。やはり、②が中心となっており、王の武勲が何年にも渡って記述されている。このことからして、これが碑文の核心であると考えなければならないであろう。それではどうして「守墓人」の記述がなされたのであろうかの問題に帰着する。これは先王の「王墓」が放置されたことに原因があったのではなかろうか。それは今もって始祖から王(広開土王)までの「王墓」を確定できないことにある。それは碑文の「自上祖先王以来墓上不安石碑」の言葉に現れている。さればこそ、王(広開土王)は自分の死後の「墓」の行方を憂慮して、わざわざ「守墓人」の規定を厳格に定めたものと解釈するのが妥当であると考える。


◆◆◆ 広開土王碑(60) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 5月 6日(金)12時13分55秒◆◆◆

>碑文の解釈(57)<

 こうした見解に対し、新たなものを提示したのが「白崎昭一郎」である。彼は碑文が王(廣開土王)の南進の記述に始終していることに注目し、「高句麗」が本来の国土において生産性の向上を図る途がほとんど塞がれていたために、王とその息子(第20代「長壽王」が朝鮮半島の南進を決意し、これを宣言したものであると結論づける(前掲書 337頁以下)。しかし、『三国史記』高句麗本紀を見ても、王(廣開土王)を含めた先王も北方にある「燕(後燕)」とたびたび戦闘を交えている。『三国史記』には<「高句麗」が本来の国土において生産性の向上を図る途がほとんど塞がれていた>とする記録がない。国家は常に膨張を意図する。「高句麗」は北の「燕(後燕)」とも戦い、南の「百済」とも戦闘を交えたのでである。南進が一定の効果をもたらしたのは「百済」が弱かったに他ならない。
 したがって、この考えにも従えない。
 結局、『廣開土王碑』は王(廣開土王)の武勲を顕彰する目的で建立されたと考えるのが正しいと考える。
 第20代「長壽王」は、先代の「廣開土王」の遺言に従って「墓守人」の規定を厳格に定め、これを実行したが、遷都もあり、国の衰退もあって、次第に「王墓」は忘れ去られてしまい、終には「高句麗」も滅亡し、「廣開土王」の願いはかなわかったのである。


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■■■ 日韓古代交流史――広開土王碑[乙:解釈5(全釈文)]――(解法者)■■■


◆◆◆ 広開土王碑(61) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 5月 9日(月)12時24分59秒◆◆◆

>碑文の解釈(58)<

 最後に、重複するが『広開土王碑』全部の釈文を挙げる。
1.第一部
  昔、「始祖鄒牟王」(始祖 東明聖王)〔在位 紀元前37年~19年〕は、「高句麗」
 を建国した。その出自は「北扶余」(中国東北部(旧満州)の「松花江」の北)の天帝の
 子で、母は河伯(河の神の娘)であった。「鄒牟王」は卵を割いて生まれてきて、生まれ
 ながら徳のあるお方であった。王は御輿に乗って王城から南下した。途中、扶余の奄利
 大水を渡り、港に着いたとき、王は初めて接する人々に、『汝は天子の子で母は河伯(河
 の神の娘)であり、名は「鄒牟王」である』と名乗った。(続けて)『葭(葦)と亀に向
 って、自分のために出て、浮き橋をかけよ」と言われた。(すると、葭(葦)と亀が出て
 きて、浮き橋を掛け、王は無事、渡ることができた。(その後、王はしばらく国を治めた
 が)この世(人間としての世)を楽しまなくなったので、天の神が黄龍を遣わされ王を
 迎えに来られた。王は王都のある東側の山の上から黄龍の首にまたがって天に昇ってい
 かれた。天子(始祖「鄒牟王」)の遺言に従い、世子(太子)の儒留王(第2代「琉璃王」)
 が後を継ぎ、善政を行った。「大朱留王」(第3代「大武神王」)は前王の政治を承継した。
 昔(初代)から王位が続き、十七世孫の「廣開土王」に至って、王号を永楽大王とし、
 王の威光は広く天下に轟(とどろ)いた。(王〔廣開土王〕)は良からぬことを取り除き、
 庶民が安心して生業に励み、(その結果)国が富み、民衆も豊かになった。(ところが)
 天の神は王(廣開土王)に憐れみを持たず、王は39歳にして天に召された。(長壽王
 〔土王〕)は414年9月29日に、王(廣開土王)の遺体を山の陵墓に置き、ここに碑
 を立て、王(廣開土王)功績を銘記する。ここに、王(廣開土王)の功績を後世に伝えよ。


◆◆◆ 広開土王碑(62) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 5月15日(日)12時19分38秒◆◆◆

>碑文の解釈(59)<

2.第二部
 ① 永楽5年(396年)条
  王(廣開土王)の永楽5年乙未の年(396年)、無礼を働いてきた稗麗(契丹)を、
 王(廣開土王)自ら軍を率いて討伐した。そして、富山・負山を過ぎ藍水に至り、そ
 の3部落、6,700集団を破り、牛、馬、羊の群、無数を捕獲した。王は自ら率い
 て来た軍隊の方向を転じ、□平道を過ぎて、東来・□城・力城・北豊・五備猶を通っ
 て(自国内に入り)(戦いは成功裏に終ったので)、遊覧しながら自国で、狩猟しなが
 ら帰ってきた。
 ② 辛卯年(331年~)条
   (高句麗は)百済・新羅を古くから属民にし、彼らも(高句麗に)朝貢してきた。
  しかるに331年以来、倭が海を渡ってやって来て百済を破り、また新羅を侵略し、
  服従させてしまった。
 ③ 6年丙申条(397年)
   永楽6年(廣開土王の在位6年丙甲年〔397年〕に、高句麗王(廣開土王)が自
  ら大軍を率いて百済軍を討伐した。王(広開土王)は「壹八城」以下58城(城を含
  む町)を攻撃したが、百済は正義の高句麗に屈服しないばかりか戦いを挑んで来た。
  王(廣開土王)は激怒し、漢江を渡って先鋒部隊を百済の王都に迫らせた。(これを見
  た百済軍は恐れおののいて)百済の王都に逃げ帰った。そうして(而)百済王(第1
  6代「阿?王」)は困り果てて、男女の奴隷千人、上質の布千匹を差し出し、王(廣開
  土王)の前に跪いてこれからは永遠に王(廣開土王)の臣下になりますと誓った。王
  (廣開土王)は先に迷っての過ち(「百済」が「高句麗」に叛いて「倭」と同盟したこ
  と)を許し、王(廣開土王)は58城、村700を奪い、残主(「百済」)の弟および
  大臣10人を人質にして都に帰った。


◆◆◆ 広開土王碑(63) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 5月17日(火)12時49分14秒◆◆◆

>碑文の解釈(60)<

 ④ 永楽8年(399年)条
   永楽9年(廣開土王の在位9年己亥年〔400年〕)、「百済」が「永楽6年丙甲」条
  の誓を破り「倭」と同盟した。王(廣開土王)が(「倭」・「百済」の侵攻を警戒して)
  平壌を巡視していた(ちょうどその時)、「新羅」の使いがやって来て、「倭」が「倭」
  と「新羅」の国境に大軍を差し向け、(さらに)「新羅」の国内にまで侵攻し、城を取
  り囲んでいる濠を破壊し城を乗っ取りました。(そして)わが王(第17代「奈勿王」
  を臣下としてしまいました。「新羅」はあくまで「高句麗」に従いますので、王(広開
  土王)のご命令を願いいたすとともにそのご命令に従います。王(廣開土王)はその
  忠誠心を称賛し、「新羅王」が派遣した使者を自国に帰らせて、密計を授けた。
 ⑤ 永楽10年(401年)条
   永楽10年(広開土王の在位10年庚子年〔401年〕)、高句麗王(広開土王)は
  歩兵・騎兵5万を遣わし新羅を救援に赴かせた。途中、男居城から新羅城までその中
  に「倭軍」が満ち溢れていた。高句麗軍はそこに至ると、高句麗軍を恐れて背走した
  が、高句麗軍はなおも追撃し任那加羅にある従抜城に攻め入ると「倭軍」は降伏した。
  それで(途中で「倭軍」とともに連合していた)安羅人(を降伏させ)の彼らを守備
  兵として従抜城を守らせた。(「高句麗軍」新羅城および塩城を打ち破り「倭軍」を潰
  滅させた。新羅城内の10人中9人までもが「倭軍」に従うのを拒絶し、また、安羅
  人の守備兵をしてそこを守らせた。昔から新羅王は高句麗に従い、朝貢することはな
  かったが、(これにより朝貢するようになった-欠字部分を推測)。王(広開土王)は
  新羅を臣下に加え、その証として-欠字部分を推測)新羅王(奈勿王)は「ト好」
  (「實聖」)を王(広開土王)に人質として差出し、朝貢するようになった」となる。


◆◆◆ 広開土王碑(64) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 5月22日(日)14時50分48秒◆◆◆

>碑文の解釈(61)<

 ⑤ 永楽14年(405年)条
   廣開土王の在位14年甲辰年〔405年〕)、不法にも「倭軍」は「百済」と共に帯
  方界にまで侵攻し「石城」にまでやって来た。「倭軍」は船を連ねて侵攻して来たので
  ある。(この知らせを聞いて)王(廣開土王)が自ら軍を率いて平壌から出陣した。先
  鋒部隊が「倭軍」らと遭遇し、「高句麗軍」は王の旗印を翻して侵略者「倭軍」(倭寇)
  と戦い、これを壊滅させた。惨殺したもの無数に上った。
 ⑥ 永楽17年(408年)条
   永楽17年(408年)条」全体としての解釈は、「廣開土王の在位17年丁未年〔4
  08年〕)、王(廣開土王)は歩兵・騎兵5万を遣わし、(倭軍)の討伐に向わせた。
  (倭軍)との戦いは、相手を総て斬り尽くし、捕獲した鎧は1万余領、軍用物資・兵器
  は数知れなかった。帰還の途中、沙□城婁城□留城など多くの城をも攻め立て
  破壊した。
 ⑦ 永楽20年(411年)条
   「東扶余」は、始祖「東明聖王」以来属民であったが、途中で謀叛を起こし、朝貢
  しなくなった。そこで、永楽20年(廣開土王の在位20年庚戌年〔411年〕)、王
  (廣開土王)は自ら兵を率いて「東扶余」の都に攻め上った。すると、「東扶余」は驚
  いて国を挙げて降伏し、王(廣開土王)に服従した。王(廣開土王)の恩恵が広く行
  き渡り、王(廣開土王)は(目的を果たし)軍隊を巡らして帰還した。「味仇婁鴨盧」、
  「卑斯麻鴨盧」、「揣奢社婁鴨」、「粛斯舎鴨盧」、「□□□鴨盧」の5人は、王
  (廣開土王)の徳を慕い、ついて来た。この戦いで、おおよそ、攻め取った城は64、
  村は1400に上った。

◆◆◆ 広開土王碑(65) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 5月25日(水)15時10分13秒◆◆◆

>碑文の解釈(62)<

3.第三部
  王(廣開土王)の「守墓人」として、従来から「高句麗」に所属していた地域から「國
 烟」と「看烟」に分けて任命する。「賣勾余民」については「國烟」2戸、「看烟」3戸、
 「東海賈」は「國烟」3戸、「看烟」5戸、「敦城」は「看烟」4戸、「于城」は「看烟」
 5戸、「碑利城」は「國烟」2戸、「平穣」は「國烟」1戸、「看烟」10戸、「□連」は
 「看烟」2戸、「俳婁」は「國烟」1戸、「看烟」43戸、「梁谷」は「看烟」2戸、「梁
 城」は「看烟」2戸、「安夫連」は「看烟」22戸、「改谷」は「看烟」3戸、「新城」は
 「看烟」3戸、「南蘇城」は「國烟」1戸、とする。
  新たに「高句麗」の民となった「韓人」・「穢人」は、「沙水城」は「國烟」1戸、「看
 烟」1戸、「牟婁城」は「看烟」2戸、「豆比鴨?韓」は「看烟」5戸、「勾牟客頭」は
 「看烟」2戸、「求底韓」は「看烟」1戸、「舎蔦城韓は「看烟」1戸、「舎蔦城韓穢」は
 「國烟」3戸、「看烟」21戸、「古須耶羅城」は「看烟」1戸、「莫古城」は「國烟」
 1戸、「看烟」3戸、「客賢韓」は「看烟」1戸、「阿旦城」・「雑珍城」は合わせて
 「看烟」10戸、「巴奴城韓」は「看烟」9戸、「臼模盧城」は「看烟」4戸、「若模盧城」
 は「看烟」2戸、「牟水城」は「看烟」3戸、「幹弖利城」は「看烟」3戸、「弥鄒城」は
 「國烟」1戸、「看烟」7戸、「利城」は「看烟」3戸、「豆奴城」は「國烟」1戸、
 「看烟」2戸、「奥利城」は「國烟」2戸、「看烟」8戸、「須鄒城」は「國烟」2戸、
 「看烟」5戸、「百残南居韓」は「國烟」1戸、「看烟」5戸、「大山韓城」は「看烟」
 6戸、「農賣城」は「國烟」1戸、「看烟」7戸、「閏奴城」は「國烟」2戸、「看烟」
 22戸、「古牟婁城」は「國烟」2戸、「看烟」8戸、「琢城」は「國烟」1戸、「看烟」
 8戸、「味城」は「看烟」6戸、「就咨城」は「看烟」5戸、「彡穣城」は「看烟」24戸、
 「散那城」は「國烟」1戸、「那旦城」は「看烟」1戸、「勾牟城」は「看烟」1戸、
 「於利城」は「看烟」8戸、「比利城」は「看烟」3戸、「細城」は「看烟」3戸、とする。
◆◆◆ 広開土王碑(66) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 5月27日(金)13時34分11秒◆◆◆

>碑文の解釈(63)<

  始祖、先王たちは遠いところ、近いところの古くからの「高句麗」の民だけを王墓の
 守墓人としたが、王(廣開土王)は存命のとき、その旧民の生活が困窮していくことを
 心配し、私が亡くなった後は、私が自ら出陣し捕虜として連れて来た「韓人」・「穢人」
 を墓守人とし、220戸をそれに当てよ。そして、彼らが墓守の規則を知らないことを
 心配るので、新旧合わせて「國烟」30戸、「看烟」300戸、合計330戸を墓守人と
 するようにと命じられた。
  始祖(上祖)・先王以来、墓の上に石碑を置かなかったので、守墓人の「烟戸」が記録
 されず、間違いが起きていた。そこで、王(廣開土王)は守墓人の「烟戸」に関する記
 録を碑に銘記して間違いが起きないようにした。これからは、自ら守墓人の地位を転売
 してはならず、たとえ裕福な者がいたとしても、守墓人の地位をってはならない。
 それに違反して守墓人を売る者があれば、買った者に刑罰を科し、自ら守墓人にならなければならない。
◆ Re:広開土王碑(66) 投稿者:YOSHI-CHIKA 投稿日:2011年 5月28日(土)03時52分19秒◆

 解法者様、長文の執筆お疲れさまです。守墓人に捕虜を充てたということは、守墓人の仕事は相当苛烈だものだったのでしょうか? 一方で、守墓人の地位の売買が予想され、売買が厳しく禁じられていたところをみると、守墓人にはかなりの収入があったようにも思えます。どちらか正しかったのか、解法者に是非この件についての解説をお願いしたく存じます。よろしくお願いいたします。
◆ 番 外 投稿者:解法者 投稿日:2011年 5月28日(土)23時44分26秒◆

 広開土王の守墓人

 王陵を守る人を「守墓人」というが、中国においても初期(「漢」の時代ころ)には「陵」(王の墓)と「墓」(庶民の墓)を区別して使用しなかった。「高句麗」や「新羅」においてもその例にならっていた。したがって、「広開土王碑」における「墓」とは王の墓を意味する。「烟」とは「煙」の意味で、「烟(煙)戸」とは国家の戸口台帳(戸籍)の「戸口」の意味で、炊飯するときの煙を人家の象徴として現したものが語源で、朝鮮、日本に伝わったものである。詳しくは拙稿「朝鮮の戸籍制度」、「日本の戸籍制度」を参照されたい。

 高句麗では「広開土王碑」でもわかるとおり「守墓人烟戸」を「國烟」と「看烟」に区別していたが、この両者の意味は詳しくはわからない。その比率は1:10となっており、併記するときは先に「國烟」、次に「看烟」となっていることとその比率から、「看烟」は「國烟」の補助者であったと考えられる。身分はいずれも「奴隷」である。最初は「旧民」(奴隷ではない)、つまり「高句麗」に従来から属する民衆を以って当てられていたが、任務は過酷であったため(報酬も少なく自費で守墓することが強要されていたと考えられる)、次第に困窮していき「守墓人」の任務を続けられなくなったりしていった。逃亡した者もあったものと思われる。この辺りの事情は「吾慮旧民轉当羸劣」(「広開土王」は「旧民」が困窮していくのを心配する)の碑文にも現れている。
 また、制度が弛緩し、「守墓人」のなかには(おそらく権力者に賄賂などを使って)その地位を売渡す者が現れ始めたのである。これも「自今以後不得更相轉賣守墓人」(これから以後、自ら守墓人の地位を転売してはならない)の碑文にも現れている。
 さらに、富裕者のなかには「守墓人」を金で買って、自分の使用人にしたり「守墓人」にする者も現れたのである。これも「雖有富足之者亦得擅買」(裕福な者がいたとしても、守墓人の地位を買ってはならない)の碑文にも現れている。
 こうして「守墓人」が足りなくなったので、『新たに戦争で捕虜にした「韓人」(朝鮮半島南部の人々-百済人・新羅人を指す)・「穢人」(朝鮮半島の北部の日本海側にいた人々を指す)を墓守人とし、220戸をそれに当てよ。そして、彼らが墓守の規則を知らないことを心配するので、新旧合わせて「國烟」30戸、「看烟」300戸、合計330戸を墓守人とするようにと命じられた』と命じたのである。ここでもその比率は1:10となっている。このように「広開土王」は自分の死後、王墓を守ることが果たして可能なのかを異常なほど心配していたのである。

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■ 日韓古代交流史――広開土王碑[丙:中原高句麗碑/壺杆]――(解法者)■
◆広開土王碑(67) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 6月 1日(水)13時59分19秒◆

 碑文の解釈(64)

 「広開土王碑」の主役である「廣開土王」の引き立て役となったのが「倭」である。碑文に出てくる「倭」は多く数える人で11ヶ所(「王 健群」)、少なく数える人で9ヶ所ある(「白崎昭一郎」-前掲書 344頁)。これに対して、「百済」は7ヶ所、「新羅」は6ヶ所、「任那」、「加羅」ほそれぞれ1ヶ所、である。「廣開土王」の戦闘は「倭」および「百済」との間で行われ、「新羅」との間にはない。つまり、「高句麗」にとって敵対国は倭」と「百済」であって、「新羅」ではなかったのである。「倭」は5度(辛卯年〔391年〕[辛卯年を391年と解する考え、私は331年と考える]、永楽8年〔399年〕、永楽10年〔401年〕、永楽14年〔405年〕、永楽17年〔408年〕)にわたり朝鮮半島に侵攻している。そのうち3度(永楽10年〔401年〕、永楽14年〔405年〕、永楽17年〔408年〕)は「百済」との聯合で、「百済」単独との戦いは1度(6年丙申条〔397年〕)、だと思われる(研究者によって異なるが、ほぼ通説)。一度は、今で言う38度線を越えて「高句麗」の領土内まで攻め込んでいる。「王 健群」は、『「廣開土王」が支配した約20年のなかで、主要な征伐の対象は百済であり、拡大した領土も漢水(現在のソウルを流れる漢江)以北の土地を指していると思われる。』と述べている(前掲書 207頁)。これは当たり前だろう。「高句麗」が国境を接していたのは「百済」であって、「倭」ではない。「倭」は朝鮮半島では「加羅」の地にあって「高句麗」とは遠く離れていた。「倭」の朝鮮半島の本拠地が「高句麗」に攻略されたのは「永楽10年(401年)」の1回のみである。しかも、属民や臣民になってない。このことは「倭」が強大であったことを意味している。だから、「倭」は何度も「高句麗」と戦うことができたのである。しかも、「高句麗」に攻略された「百済」がその後も「高句麗」と戦闘を交えることができたのも「倭」の支援があればこそであり、碑文にあるとおり「百済」は「倭」と聯合して、永楽10年〔401年〕、永楽14年〔405年〕、永楽17年〔408年〕と3回にわたって「高句麗」と戦えたのである。それほどまでに「倭」は朝鮮半島において強大な力を保持しており、「高句麗」にとっては最大の強敵であったと考えれれる。それに反して「新羅」は弱小で、辛卯年(331年)以来、何度も「倭」に侵略され、臣民とされ、その後、「高句麗」の支援により一時回復したものの、再び永楽8年(399年)には「倭」に攻め込まれ、永楽10年(401年)まで、その占領下にあり、同年、「高句麗」の支援により国土を回復できたのある。その後、碑文からは姿を消しているが、永楽14年(405年)条には「倭」が「帯方界」にまで攻め込んできたというから、「新羅」も再び「倭」に屈していたと考えられえる。「王 健群」ばかりか、「朴 時亨」・「金 錫亨」などの北朝鮮の研究者、「金 在鵬」・「千 寛宇」などの韓国の研究者、一部の日本の研究者(「山尾幸久」・「佐伯有清」・「浜田耕策」)も「倭」を<矮小化>しているが、『廣開土王碑』を見る限り、そういうことは<全くない>。このことは何も『廣開土王碑』ばかりではなく、『三国史記』・『三国遺事』および『日本書紀』でも明らかなのである。そして、これだけ「高句麗」と何度も戦闘を交えることができた背景には、日本本土における強大な王権が存在したことが明確である(「熊谷公男」-前掲書 44頁)。それはもはや「大和政権」しかないであろう。
◆中原高句麗碑(68) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 6月 5日(日)13時53分31秒◆

 碑 文
 「高句麗」の碑文と言えば、もう一つある。1978年に、韓国忠清北道中原郡(現在の忠州市)可金面龍田里で発見された高さ2.03メ-トル、幅0.55メ-トルの石碑である。「広開土王碑」と同じく「広開土王」の功績を讃えたものとされ、5世紀末の建立と考えられている。
 碑の4面に漢字で書かれているが、磨耗のため右面・後面は判読不能となっている。碑文は次のとおりである。行ごとに記す。碑文は「六世紀の朝鮮三国と伽耶と倭」鈴木靖民(『伽耶はなぜほろんだか(増補改訂版)』大和書房 1998年3月20日 29頁)によった。その他のものとしては、『古代東アジアの文化交流』井上秀雄 渓水社 1993年10月1日 342頁、がある。
前 面
1 五月中高麗太王祖王公□新羅寐錦世世為願如兄如弟
2 上下相和守天東夷之寐錦□太子共前部太使者多兮恒
3 奴主簿□□□□□□□□去□□到至跪営之太子共□
4 尚□上共看節賜□□□□□□□賜寐錦之衣服建立□
5 用者賜之随□□□□奴客人□教諸位賜上下衣服教東
6 夷寐錦?還来節教賜寐錦土内諸衆人□□□□□國土
7 大位諸位上下衣服兼受教跪営之十二月廿三日甲寅東
8 夷寐錦上下至于伐城教来前部太使者多兮恒奴主簿□
9 □□□境□募人三百新羅土内幢主下部□位使者□奴
10 □□奴□□□□蓋盧共□募人新羅土内衆人□□□□
左 面
1 □□□中□□□□□不□□村舎□□□□味□沙□□
2 □□□□□□□□□功□□□□□□□□節人□□□
3 □□□□□□辛酉□□□□十□□□□□太王國土□
4 □人□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
5 □□□□□□□□□上有□□□□□□□東夷寐錦土
6 内□□□□□方□□□沙□斯色□□□□加共軍至于
7 伐城丙子□古牟婁城守事下部大兄呂(正しくは耳+呂)□
◆中原高句麗碑(69) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 6月 6日(月)11時52分12秒◆

 訳 文

 欠字部分が多く、そのため文章も断片的にしか理解できず、なかなか意味が取れないが、欠字部分を省略して、訳を試みた。
(前面)
1.5月に(中)、「長壽王」(高麗太王祖王公〔在位 413年~491年〕)は「新羅王」(新羅寐錦)〔第21代「照知麻立干」[在位 479年~500年]〕)と永遠に兄弟のように
2.相和すことを、東の野蛮な「新羅王」と太子は「前部」(「高句麗」の統治機構の5部の1つ)に属する「太使者」(第6等官)の「多兮奴」に伴われ(「高句麗軍営」で)、共に誓うものである。
3.(「新羅王」と太子は)「高句麗軍営」の前で跪き、
4.「高句麗」の衣服を賜わった。
5.(今後は)「高句麗」の衣服制を用い、その僕(しもべ-家来)となることを誓い、「広開土王」の教えに従って、「新羅王」は「高句麗」の位階により上位・下位の衣服を賜わった。
6.東の野蛮な「新羅王」は、「広開土王」の教えに従い、新羅の国中で民衆を徴発し、これを高句麗軍に組み入れることを約束した。
7.「高句麗」の領土となった「新羅」の占領地の領民は、その階級に応じて「高句麗」の位階に基づいた衣服を賜わった。それと合わせて「高句麗軍営」の前で跪き、「長壽王」の命令を受けた。480年12月23日甲寅に、東の
8.野蛮な「新羅王」と上下の臣下は「干伐城」に集まり、「多兮奴」(前記の者)から、
9.占領地での300人を徴発する命令を受けた。「新羅」に派遣された「高句麗」の軍司令官(幢主)も
10.(同じく)占領地で民衆を徴発した。
(左面)
1~5 欠字のため意味不明
6.軍と共に
7.「干伐城」に集まった。「古牟婁城」(「広開土王碑」6年丙申条(397年)にある「高句麗」が「百済」より奪った城)の「守事」(官名-地方官)の「下部」(「高句麗」の5部の1つ)大兄(「高句麗」の位階者)「呂」(が記す)
◆ 中原高句麗碑(70) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 6月 8日(水)11時29分56秒◆
 解 説

 この碑の重要なところは、あの「広開土王碑」の主役である「廣開土王」(在位 392年~413年)の後を継いだ「長壽王」(在位 413年~491年)の時代になっても「新羅」を属国として従えていたことが明らかになったことである。碑文の「480年12月23日」がそれを示している。この碑文に該当する時代の朝鮮の史書『三国史記』高句麗本紀を見てみると、「新羅」に関する記事は、424年に「新羅」の「訥祇麻立干(訥祇〔ヌルチ〕王」(在位 417年~458年)が使臣を遣わして聘礼(へいれい)を修めた、440年に国境にいた将軍を襲って殺したので、「長壽王」が出兵しようとしたが、「訥祇王」が謝罪したので中止した、の2つしかない。一方、同新羅本紀を見てみると、「訥祇麻立干(訥祇〔ヌルチ〕王」の代では、高句麗本紀の424年の記事のほか、440年の記事が450年となっている。次の「慈悲麻立干」(在位 458年~479年)の代では、468年に「高句麗」が「靺鞨」とともに北辺の悉直城(現在の韓国江原道三陟市-「慶州」〔王都〕から約180キロ)を侵攻した、とある。次の「照知麻立干」(在位 479年~500年)の代では、481年に「高句麗」が「靺鞨」とともに「興海」(現在の韓国 慶尚北道浦項市北区興海邑-「慶州」〔王都〕から約25キロ)まで侵攻してきたので、「百済」・「伽耶」の援軍と共に撃退した、484年に「高句麗」が北方の辺境を侵したので、「百済」と共に撃退した、とある。ここでは中原高句麗碑に見られる記事はないが、そもそも『三国史記』は「長壽王」から約600年も経ってから編纂されたもので、史料は散逸していたと思われ、事実を伝えているかについては大きな疑問がある。『日本書紀』・『続日本紀』とは比較にならない。広開土王碑でもそうだが、中原高句麗碑の方が事実を伝えているような気がする。
◆ 壺?(71) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 6月10日(金)12時15分25秒◆

 「慶州」の壺?塚(こうづか〔6世紀前半〕)から出土した「壺?」(青銅製の?〔椀〕)に「乙卯年国岡広開土地好太王壺?十」という文字が鋳出されていた。この銅?は乙卯年(415年)、つまり「広開土王」の没後3年(「長壽王」3年)に「高句麗」で製作され、「百済」にもたらされたものである。おそらく、「新羅」の王族に下賜されたものであろう。
 壺?塚は直径16メ-トル、高さ5メ-トルの積石木槨墳であり、その被葬者は金銅製の冠・履・金製耳飾・指輪などの装身具を身につけ太刀を帯びていた。棺外には馬具・鉄?・青銅製容器などが副葬されていた。ここから「新羅」の王族に推定される。
 この「壺?」から何がわかるかというと、「新羅」が「高句麗」の支配下にあったということである。前述の「広開土王碑文」の「辛卯年」条にある「百残新羅旧是属民由来朝貢」の状況がそのまま続いていたことを示している。前述の「中原高句麗碑」も同じで、「新羅」が「高句麗」の支配下にあったのは「広開土王」の没後100年くらいではなかろうか。 〔この稿 完〕タイトル一覧に戻る
 「倭の五王」以前における同時代の確実な記録と言えば、広開土王碑文と七支刀銘文がある。明治時代に石上神宮の禁足地より出土した七支刀銘文の訓読は諸説あるが、ここでは「泰和四年五月」に「百済王世子奇生」が「倭王旨」に贈呈した刀であるとする説に従うことにする。泰和四年は三六九年に当たる。『三国史記』百済本紀は、この年の九月、高句麗王が二万の軍勢を率いて攻めて来たので、百済王は太子(仇首)を派遣して大破したと記している。高句麗の侵攻を間近にした「百済王世子奇生」は、「泰和四年五月」に、背後の倭国と連盟して高句麗と戦うために「倭王旨」に「百錬の鋼」で造った七支刀を贈ったのであろう。この刀については『日本書紀』神功紀五十二年九月の条に、百済より「七子鏡一面、及び種種(くさぐさ)の重宝」と共に献上されたと記されている。神功紀五十二年は二五二年に当たるので、その干支を二運(一二〇年)繰り下げて三七二年のこととする説が一般的だが、これは比定を間違っている。神功皇后は神功紀五十一年(筆者の紀年解読によれば三六八年、この年から神功紀六十九年までは太陽年)に崩御しており、その翌年の神功紀五十二年(三六九年)九月に、七支刀が我が国にもたらされたのであろう。「倭王旨」は即位したばかりの応神天皇に当たる。その即位の祝いも兼ねて「七子鏡一面、及び種種の重宝」が贈られたと思われる。

 広開土王碑文に記された辛卯年(三九一年)以来、広開土王と激しく戦ったのは応神天皇である。紀年を訂正した『日本書紀』の記事と広開土王碑文や『三国史記』の倭国関係記事は見事に一致している。おそらく、四〇七年の戦いを前にして、応神天皇は崩御したのであろう。





(私論.私見)