「広開土王碑」考 |
更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).1.10日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「広開土王碑」を確認しておく。 2014.05.15日 れんだいこ拝 |
【広開土王碑】 | ||||
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■日韓古代交流史―広開土王碑[甲:概要]―(解法者)■ ■日韓古代交流史―広開土王碑[乙:解釈1(倭関係)]―(解法者)■ ■日韓古代交流史―広開土王碑[乙:解釈2(第一部)]―(解法者)■ ■日韓古代交流史―広開土王碑[乙:解釈3(第二部)]―(解法者)■ ■日韓古代交流史―広開土王碑[乙:解釈4(第三部)]―(解法者)■ ■日韓古代交流史―広開土王碑[乙:解釈5(全釈文)]―(解法者)■ ■日韓古代交流史―広開土王碑[丙:中原高句麗碑/壺杆]―(解法者)■ ■倭の五王(解法者)■ |
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■日韓古代交流史――広開土王碑[甲:概要]――(解法者)■ ◆◆◆ 広開土王碑(1) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 1月 3日(月)12時34分48秒◆ 「広開土王碑」の概要(1) 西暦前37年、現在の中国東北部の北朝鮮との国境近くの集安一帯に、姓は「高」、諱は「朱蒙」(始祖 東明聖王)という者が高句麗を建国した。廣開土王は、その19代目の王で、好太王とも呼ばれ(三国史記では「談徳」)、391年に即位し、412年に没した。その在位期間中には北は扶余、西は碑麗(契丹)、南は漢水(現在のソウルを流れる「漢江」)までを領土にした。高句麗の最盛を築いた王である。その王が、朝鮮半島南部に進出し、何度も倭と戦い、これを打ち破った功績を讃えた顕彰碑がその都「集安」に建立された。その後、高句麗は第25代「平原王」の28年〔586年〕に都を平壌に移してからは、この地は重要性を失い、衰退していくとともにいつしか広開土王碑のことも忘れ去れてしまった。なお、廣開土王は、死後に「国岡廣開土国境平安好太王」という謚号がつけられたので好太王とも言うが、ここでは広開土王で統一する。 この碑が再び世に出るようになったのは、「清」の光緒帝の初年〔1875年〕のことである。この間、約1500年弱すっかり忘れ去れていたことになる。拓本は光緒帝の初期には既に存在していたというから、発見と同時くらいに発見者の金石文学者「関 月山」の手によって取られたとされている(『好太王碑の研究』王 健群 雄渾社 1985年12月15日 27頁-以下「碑」の説明はこれに従う)。なお、日本に最初に拓本(「雙鉤本」なども含む)を持ち帰ったのは参謀本部の将校(「酒匂景信」)で、1884年〔明治17年〕2月以前とされている(『広開土王碑の研究』李 進熙 吉川弘文館 1972年10月10日、『好太王碑と任那日本府』李 進熙 学生社 1977年10月5日)。しかし、それ以前の拓本が存在したことは、「水谷悌次郎旧蔵拓本」(原石拓本)があり、誤りである。この「酒匂景信」の持ち帰った「加墨「雙鉤本」が偽造であるとの主張が「李 進熙」によってなされたが、<荒唐無稽>なものであって、成り立ち得ないことは、「日朝古代交流史における朝鮮人の五大妄想(6)>日本の参謀本部による広開土王碑文の偽造説(1)< 以下に詳細に論考しているから、繰り返さない。 ◆ 「広開土王碑」の年号 『三国史記』の年号と比べて、1年遅れ(1年引上げ)となっている。これは使用した中国の暦が異なるものと考えられている(これについては後述)。ここでは『三国史 記』の年号(現行の干支紀年)で統一した。 ◆ 広開土王碑(2) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 1月 5日(水)12時14分1秒◆ 「広開土王碑」の概要(2) 広開土王碑は一枚の巨大な角礫凝灰岩から成る。碑は正方形でも長方形でもないいびつな形をしている(前面が広く裏面が狭い-不規則な長方形)。高さは6.39メ-トルで、頂上部と下部がやや膨らみ、腰部がやや細くなっている。下部の幅は、第一面(南東側-表面という)が1.48メ-トル、第二面(南西側)が1.48メ-トル、第三面(北西側)が2.0メ-トル、第四面(北東側-裏面という)が1.46メ-トル、である。碑の底部の台座は「花崗岩」で作られており、長さ3.35メ-トル、幅2.7メ-トルで、これまた不規則な長方形となっている。台座の厚さは所々によって異なり、北西側の厚さは63センチ、南東側は16センチとなっている。碑面の文字は当時一般に使われた「隷書体」で彫られているが、ごく少数の文字は草書を隷書風にして彫られている。文字数は、第一面が451字(欠字-全く読めないもの-23字、欠字あるいは一部欠けてはいるが、文字が推測できるもの-33字)、第二面が387字(欠字-全く読めないもの-29字、欠字あるいは一部欠けてはいるが、文字が推測できるもの-41字)、第三面が574字(欠字-全く読めないもの-84字、欠字あるいは一部欠けてはいるが、文字が推測できるもの-46字)、第四面が365字(欠字-全く読めないもの-0字、欠字あるいは一部欠けてはいるが、文字が推測できるもの-6字)、の合計1777字である(『広開土王碑文の研究』白崎昭一郎 吉川弘文館 1993年6月20日 382頁)。ただ、これは人によって異なる。「王 健群」は1775字としている。なお、1行ほぼ41字で構成されている。 ◆ 広開土王碑(3) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 1月 6日(木)13時28分4秒◆ 「広開土王碑」の概要(3) 「広開土王碑文」は、次の3つに分けられる(「王 健群」の前掲書 30頁、『失われた九州王朝』古田武彦 朝日新聞社〔朝日文庫 ふ-8-7〕1993年2月1日257頁) 1.第一部 ① 「高句麗」の建国神話・伝説 ② 高麗王」第1代「鄒牟王」(「朱蒙」〔始祖 東明聖王〕)、第2代「儒留王」(「琉璃明 王」)、第3代「大朱留王」(「大武神王」)までの治績、 ③ 第19代「広開土王」の即位の生涯(18歳~39歳)の治績 ④ 「広開土王」の本碑の建立(王の死2年後-415年)の経緯 2.第二部 ① 永楽5年(396年) 王が碑麗(契丹-高句麗の北部で活動)に遠征し、これを討ち破ったこと ② 永楽6年(397年) 高句麗の属民だった「百済」・「新羅」が海を渡ってやって来た「倭」に征服され、臣民となり、「百済」は「倭」と同盟したので、「百済」に攻め入り、服従させ、「新羅」を救った。 ③ 永楽8年(399年) 「百済」が再び背いたので、これを征伐し、朝貢させた。 ④ 永楽9年(400年) 「百済」がまたも背き、「倭」と同盟した。王はこれを警戒するため「平壌」に赴いた。そのとき「新羅」の使いが来て、「倭」が来襲し、城は攻め取られ「高句麗王」の臣下だった「新羅王」は賎民にされてしまった。「新羅王」は「高句麗王」の臣下となりたいと告げた。王は「新羅王」の忠誠心を讃え、策略を授けた。 ⑤ 永楽10年(401年) 王は5万の軍隊を派遣して新羅を救援した。「倭」軍は「新羅」中の城を占領していたが、これを破り、さらに追撃し大敗させた。 ⑥ 永楽14年(405年) 再び「倭」軍が、今度は帯方(現在のソウルの「漢江」)を越えてにやって来て、「百済」と一緒になって石城を占領した。王は平壌から出発し、先鋒部隊が「倭」軍を合い見え「倭」軍を壊滅した。 ⑦ 永楽17年(408年) 王は5万の軍を遣わし、「倭」軍およびこれと同盟する「百済」軍を討ち破り、鎧1万余領を捕獲した。そして、「百済」のいくつかの城を占領した。 ⑧ 永楽20年(411年) 東扶余(中国東北部の南部)は高句麗の建国以来属民であったが、叛き朝貢をしなくなったので、王自ら兵を率いて討伐しこれを屈服させた。近くの国々も王に従うようになった。王は生涯に、64の城と1400の村を獲得した。 3.第三部 ① 王は、国土の民衆を階級別に統制し、戸籍を作らせ、報告させた。 ② 王は、王墓の墓守をさせるのは、これまでの戦争で捕獲した「韓」(韓国南部の民族-「百済」の人々)と「穢」(北朝鮮の日本海側に住んでいたツング-ス系の民族)の人たちせよ、との遺言をした。我々は王の遺言に従うほか一般人も連れてきて墓守にした。戸籍を整え、墓守たちを売買してはならず、違反する者には刑罰を科すことにする。 ところで、これまでの「広開土王碑」の研究書を見てみると、「倭」に関係する箇所のみに焦点が当てられ、特に『「辛卯年」条』の解釈に集中している。もちろん、日本人にとっては、ここのところが関心があろうが、「倭」に関係する箇所は他にも8ヶ所もあり、また、碑文全体を見なければ、その概要をつかむことはできない。ここでは、「倭」に関係する箇所9ヶ所を中心とはするものの碑文全体の解釈も行い、碑の建立の目的にまで及びたいと考える次第である。 |
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■ 日韓古代交流史――広開土王碑[乙:解釈1(倭関係)]――(解法者)■ ◆ 広開土王碑(4) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 1月 7日(金)13時00分3秒◆ 碑文の解釈(1) 碑文の解釈を行いたいが、先に「倭」に関係のある部分について行い、最後に全体の解釈に及びたい。なお、漢字は新漢字を使用した。碑文のうち、「倭」に関係のある部分には、次のものがある。 1.「辛卯年」条。「百残新羅旧是属民由来朝貢而倭以辛卯年来渡海破百残□□□羅以為臣民」(第1面8行34字~9行24字) ① 「百残」とは「百済」の蔑称である。② 「属民」とは、属国の民の意味であるが、「隷属」ということではなく、服従していいるだけで、「朝貢」=貢物を定期的に奉げるということをいう。なぜなら、「属民」の後に「朝貢」が来ることからも理解されよう。これについて、「属民」とは「高句麗」を支配者とする場合、「臣民」はそれ以外の者が支配者となっている場合であるとする(『高句麗史と東アジア』武田幸男 岩波書店 1989年6月26日115頁-以下「武田」①という)。つまり、「属民」と「臣民」との違いは従属性の強弱であるということになる『古代朝鮮諸国と倭国』高 寛敏 雄山閣 1997年4年20日 181頁)。しかし、従属性の強い「臣民」を「広開土王碑」が高句麗以外の他者に使用したとは考えられない。「百済」と「新羅」は「属民」であり「臣民」であるという(「高 寛敏」-前掲書 同頁)。だが碑文では「属民」と「臣民」とを使い分けており、ここでは「属民」のみを言うとするのが正しいと思われる。③「而」は「然るに」の意味で「理由」をいう。ここでは大変重要な意味を持つ。ここのところは、<日朝古代交流史における朝鮮人の五大妄想(48)>高句麗の倭国への侵攻論(27)<2.で説明してある。つまり、「而」があるから、「百済・新羅は高句麗の属民だったのに(「而」)、「倭」が「海」を越えてやって来てこれを臣民にした。だから、高句麗は臣民となって「倭」と協力した「百済」を討伐して再び属民とした」のであるというように、意味が滞りなく通じるからである。④「以」は続いての「来」と対応して「以来」という意味である(「武田」①-159頁、『古代の日朝関係』山尾幸久 塙書房[塙選書 93]1989年4月10日 200頁、『好太王碑の研究』雄渾社 1984年12月15日 179頁)。この点について「佐伯有清」は「以」は「に」の意味であるとする(『広開土王碑と参謀本部』吉川弘文館 1976年5月10日 166頁-以下 佐伯①という、「高 寛敏」-前掲書 181頁))。そう解するならば、「倭以辛卯年来」のところが「以倭辛卯年倭来」とならなければならない(武田 ①-158頁)。したがって、この考えは採り難い。 ◆ 広開土王碑(5) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 1月 9日(日)17時03分26秒◆ 碑文の解釈(2) ⑤ 「辛卯年」とは、331年をいう。これについては391年をいうとする者が圧倒的に多い(武田 ①-181頁、「佐伯有清」前掲書 167頁、「山尾幸久」前掲書 20頁、「平野邦雄」〔『大化前代政治過程の研究』吉川弘文館 1985年6月10日60頁〕)。 特に朝鮮人研究者は391年という(『古代の日朝関係』塙書房[塙選書 93]1989年4月10日 201頁、「金 錫亨」〔『古代朝日関係史』勁草書房 1969年10月30日 370頁〕、「朴 時亨」〔『広開土王碑』社会科出版社 1966年[『広開土王碑』そしえて 1985年8月1日 198頁]〕、「金 廷鶴」〔『日本古代国家と朝鮮』大和書房 1975年12月10日 122頁)。これを391年というのは、① 「広開土王」がこの年に即位した、② 『日本書紀』応神天皇38年〔392年〕条に「百済の辰斯王が日本に礼を失したので、天皇が使臣を遣わし、無礼を責めたところ、百済が辰斯王を殺して「阿花」(第16代「阿?王」立てた」ことが記されており、これに合致する。③ 『三国史記』高句麗本紀に、高句麗第18代「故國壌王」9年(392年)に、「新羅王(奈勿王)は姪の「實聖」を高句麗に送って人質にした」との記事(新羅第17代王「奈勿尼師今」(奈勿王)37年(392年) 正月、高句麗(広開土王)が使臣を遣わした。王は高句麗が強勢であったので、伊食(正しくはサンズイに食)の「大西知」の子である「實聖」を高句麗に人質として差し出した(同 新羅本紀)。に合致することが考えられる。④『三国遺事』卷第1 奈勿王・金堤上 に、新羅第17代王「奈勿尼師今」(奈勿王)37年(392年) 倭が人質を要求し、王が第3子の「美海」(未斯欽-ミキシ)を人質に差し出した、という記事に合致する、⑤ 『三国史記』卷第45列伝第5朴堤上 に、高句麗と「倭」が新羅で衝突し、「倭」軍が皆殺しにされた記事に合致する、というもののようである(「好太王碑文「辛卯年」銘の検討」〔『日本古代国家の形成』小林敏男吉川弘文館 2007年8月10日 71頁、武田 ①-168頁など)。しかし、「倭」はその前から「新羅」と断行し、間断なく「新羅」を攻めており、抗争状態が続いている(日朝古代交流史における朝鮮人の五大妄想(35)>高句麗の倭国への侵攻論(13)<参照)。王の功績を誇りたいならば、何も即位の年の391年からに限定しないでもその前から「倭」がたびたび侵攻して来ていて長年苦しめられていた。それで「倭」を破ったとした方が適切だと思える。 ◆広開土王碑(6) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 1月11日(火)12時18分49秒◆ 碑文の解釈(3) ⑥ 「来」を動詞と考える見解は、「日朝古代交流史における朝鮮人の五大妄想>高句麗の倭国への侵攻論<」 「鄭 寅普」など論考で説明した。これを動詞として考えれば、「倭」が朝鮮半島にやって来たという意味になり、そこから彼らは「高句麗」が海を渡って日本本土にやって来て「倭」を討ち破った(「鄭 寅普」および「朴 時亨」の見解)。あるいは、「高句麗」が海を渡って「百済」にやって来て「百済」を討ち破った(「金 錫亨」の見解、「佐伯有清」も同じ〔『古代史演習 七支刀と広開土王碑』吉川弘文舘 1977年4月20日65頁-以下 佐伯②という、「高句麗広開土王碑文の再検討」[『続日本古代史論集 上巻』坂本太郎博士古稀記念会 吉川弘文舘 1972年7月1日 38頁-以下 「佐伯」③という]〕)とするが、「倭」の狼藉振りを過小に記するので、「高句麗王」の功績をも過小に評価してしまうことから、採り得ないことはすでに前記で説明したので、ここでは繰り返さない。⑦ 「海」の字であるが、ここのところの「?」の部分は明らかでないが「毎」の部分はそう読み取ることが可能であって、まず「海」と読んで誤りはないものと考えられる(「山尾幸久」-前掲書 201頁、「王 健群」-前掲書 160頁)。これを「海」以外に読む者に「白崎昭一郎」がいる(前掲書 152頁)。「毎」と読むのであるが、「いつも」の意味であり、次に「渡」が来るので、「いつも(海)を渡って」となり、これを「海」と読むのとは大差ないことになろう。この2つ以外に読む者はいないようである。「李 進熙」はこれを「海」としたのは「酒匂景信」の偽造だとして物議をかもしたことは「日朝古代交流史における朝鮮人の五大妄想>日本の参謀本部による広開土王碑文の偽造説<」で詳しく説明してある。ただ、彼はこれを何と読むのかは明らかにしていないから、何を以て<偽造>などと言い出したのか意味不明である。もちろん、これを欠字のままとしている者はいた(武田 ① 430頁)が、次に続く「渡」との関連でやはり「海」と考えを訂正している(『広開土王碑と対話』白帝社2007年10月25日 296頁、316頁-以下「武田」②という)。 ◆ 広開土王碑(7) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 1月13日(木)13時23分6秒◆ 碑文の解釈(4) ⑧「破百残□□□羅」の欠字3字。これが大きな問題となっている。まず、「□羅」の欠字は「斤」という字が読み取れるとされることから(『任那興亡史』末松保昭 吉川弘文館 1949年2月28日 37頁)、「新」であろう。その前の2字は全く読み取れない。「百残□□□羅」とあることから、国名が入るというのが一般的で、「加羅」あるいは「任那」とする者が多い(末松保昭 前掲書 同頁、「菅 政友」〔「高麗好太王碑銘考」[『史学会雑誌』第2編第24号 51頁]〕、「那珂通世」〔「高麗古碑考」[『史学会雑誌』第4編第49号 43頁]〕、「武光 誠」〔『広開土王の素顔』文藝春秋[文春文庫 524 2007年3月10日 50頁)。これについて、その「辛卯年」を391年とすると、『三国史記』にも『三国史記』にも、「高句麗」が「加羅」あるいは「任那」と戦闘を交えたという記録がない。しかも、「倭」が「加羅」諸国に拠点を置き、「加羅」を支配下(少なくとも同盟関係)にしていたのははるかに前の時代(237年以降間もなく-「日朝古代交流史(14)>倭はどこにあったのか(14)<」参照)のことであるから、この時代になって、改めて「加羅」あるいは「任那」を侵略して「臣民」にしたとは考えられないのである。したがって、ここには「国名」が入る余地はない(『古代の倭国と朝鮮諸国』鈴木英夫 青木書店 1996年2月25日 48頁)。ここで、331年からの朝鮮半島南部の情勢を見てみると、『三国史記』新羅本紀の第16代「訖解尼師今」36年(345年)に倭王が書を送ってきて断交し、その後、346年と364年に「倭」の大軍に侵略された記録がある(「日朝古代交流史における朝鮮人の六大妄想(35)>高句麗の倭国への侵攻論(13)<」参照)。私は「又伐」(「任那加耶考」〔『小田先生頌寿記念朝鮮論集』大原利武 大阪屋号書店 1934年 173頁〕)あるいは「又服」(『改訂増補 東洋史上より未たる日本上古史研究』橋本増吉 629頁)と考える。「更討」とする者(「白崎昭一郎 前掲書155頁)も同じ意味である。「倭破」とすることも同じである(『日本古代国家と朝鮮』金 在鵬 大和書房 1975年12月15日 115頁)。他の解釈として、ここを「東□」と読む者(「「広開土王碑文」と徳興里壁画古墳について」孫 永鍾〔『謎の五世紀を探る』江上波夫・上田正昭 読売新聞社 1992年3月19日 178頁]〕、「武田」② 316頁・328頁)がいる。これは「孫 永鍾」によると、「初 均徳」の拓本に「東」と書かれていること、この「東」は「東夷」(立ち遅れた人々)を意味し、392年に新羅が「実聖」を高句麗に人質に送っていることおよび続いての「永楽6年」条に、初めて高句麗の奴客となったと記されているこ とを理由とする。しかし、この後の欠字を補ってもらわないと意味が正確に伝わらない。「孫 永鍾」が『「東」の字を合理的には説明し得ませんが』(前掲書 同頁)と述べていることはこのことを物語っているものと思える。後は、前述したとおり「朴 時亨」が「招倭侵」あるいは「聯倭新」と断定しているが、これが採りえないことは「日朝古代交流史における朝鮮人の六大妄想(50)>高句麗の倭国への侵攻論(29)<」で説明した。 ◆ 広開土王碑(8) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 1月15日(土)15時46分32秒◆ 碑文の解釈(5) ⑨「以為臣民」については異論がない。この「臣民」の意味は「属民」とは異なり、完全に服従することをいう。つまり、「属民」より服従度が強いということである。以上、説明したとおり、「百残新羅旧是属民由来朝貢而倭以辛卯年来渡海破百残□□□羅以為臣民」の解釈は、『(高句麗は)百済・新羅を古くから属民にし、彼らも(高句麗に)朝貢してきた。しかるに331年以来、倭が海を渡ってやって来て百済を破り、また新羅を侵略し、服従させてしまった』となる。次にこのことが史実であるかどうかである。これについては、次のように分けて考える。 1.「高句麗が百済を古くから属民にし、彼らも(高句麗に)朝貢してきた」ことは事実であるか。事実かどうか疑わしい。これは「高句麗」の第16代「故國原王」が即位した331年(辛卯年)以前から中国の「燕」と戦争状態にあって南下する余裕などなく、その39年(369年)には、兵2万をもって「百済」と戦闘を交えたが破れており、41年(371年)には、「百済」の第13代「近仇首王」が兵3万を率いて来て「平壌城」を攻め、その戦闘で戦死している。次の第17代「小獣王」の7年(377年)に「百済」の第13代「近仇首王」が兵3万を率いて来て「平壌城」が占領されている。さらに、第18代「故國壌王」の7年(390年)には「百済」の第15代「辰斯王」に都押城が攻め取られ、200人が捕虜となっている。これらのことは『三国史記』の高句麗本紀ばかりではなく百済本紀の記事からもうかがうことができる。とにかくこの間、「百済済」には負け続けなのである。ようやく失地回復したのは第19代「広開土王」になってからで、本碑文の「永楽6丙甲年」条に王が百済の王城を占領し、「百済」の第16代「阿?王」を屈服させてからである。この点について、「山尾幸久」は、『百済王権は4世紀中ごろには、高句麗王に従属して、その軍事力を担っていたと考えられる。百済王都には高句麗の将軍が駐在するようなこともあった可能性がある』という(前掲書 198頁)。どこを見てそのようなことを言うのか理解できない。『三国史記』を丹念に読み込んだらよい。 ◆ 広開土王碑(9) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 1月17日(月)13時25分22秒◆ 碑文の解釈(6) 2.「高句麗が新羅を古くから属民にし、彼らも(高句麗に)朝貢してきた」ことは事実であるか。事実である。これは「高句麗」の第18代「故國壌王」の9年(392年)に、使臣を新羅に遣わして修好した。第17代王「奈勿尼師今」(奈勿王)は姪の「實聖」を高句麗に送って人質にしたとの記事が『三国史記』の高句麗本紀ばかりではなく新羅本紀にもあることから裏付けられる。 3.「倭が百済を臣民とした」ことは事実であるか。事実である。「神功皇后」49年(369年)条に、「百済」王が「倭」に朝貢の誓約 をし、その2年後の371年に「高句麗」軍の「百済」への侵攻に対し「百済」が大勝利し(『三国史記』百済本紀 第12代「近肖古王」26年条)、そのお礼として「神功皇后」52年(372年)に「七支刀」が皇后に贈られたという記事がある。371年の戦争には「神功皇后」49年の「百済」の「倭」への軍事同盟により「倭」も参戦していた可能性が高いとされる(『倭王権の時代』吉田 晶 新日本出版社〔新日本新書490〕1998年9月30日 36頁)。ただ、「神功皇后」49年条は「百済」と「倭」の軍事同盟の成立と考えるべきではなく、その記事の内容から属国化より進んだ臣民化したものと考えてよい。また、これは少し時代は下るが、『三国史記』百済本紀に、第17代王「腆支王」(第16代王「阿?王」の子-太子)がその6年(397年)に倭国に人質として行かされたことが記されており、『日本書記』の「応神天皇」8年条に「春3月、百済人が来朝した。「百済記」によると、「阿花王」(「阿?王」)が立って貴国(日本)に無礼をした。それで「枕弥多礼」(せしむとき)、「?南」(けんなむ)、「支侵」(ししむ-現在の韓国忠清南道洪城付近)、「谷那」(こくな-現在の韓国全羅南道谷城)などの東韓の地を(高句麗)に奪われた。そこで、太子の「直支」(とき-後の第17代「膿支王」)を人質として天朝(日本)に差し出して、修好した。」とある。さらに『三国史記』百済本紀 に、405 年に「阿?王」が薨去されると、王の2番目の弟「訓解」が摂政をしながら太子の帰国を待っていた。すると末弟の「?禮」が「訓解」を殺し自ら王に即位した。 太子は、「阿?王」の訃報を聞き、号泣しながら帰国を請うと、倭王は兵士百人をつけて護送させた。太子は危険であるとの忠告に従って国に入らず待っていると、やがて国の人が禮」を殺して太子を迎えて即位させた。」とあり、『日本書記』の「応神天皇」16年条春2月、「王仁」が来た。百済王「阿花王」(「阿?王」第16代)が薨去した。天皇は「直支王」(「阿花王」の長子-「膿支王」)を呼んで「あなたの国に帰りなさい」とお告げになられた。「膿支王」は天皇より「東韓」(甘羅城〔からむしのさし-現在の韓国全羅北道咸悦〕・高難城〔たかなんのさし-現在の韓国全羅南道谷城-前記の谷那と同じ〕・「爾林城」〔りにむのさし-現在の韓国全羅北道金堤郡利城?〕賜った。」とあって、合致する。ここで、注目すべきは「人質」よりも「膿支王」が「応神天皇」の命により、王座の地位をも与えられたということである。これは「属国」を超えて「臣民」だったことを示すものではあるまいか。前述の『三国史記』の記事にあるとおり、「百済」は「高句麗」と国家の存亡をかけた戦いを繰り広げていたのであって、「高句麗」に攻め滅ぼされるよりも長年親交を重ねて来た「倭」の支配下に入った方が良かったと考えていたのではないかと推察できよう。 ◆ 広開土王碑(10) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 1月19日(水)12時31分30秒◆ 碑文の解釈(7) 4.「倭が新羅を臣民とした」ことは事実であるか。事実である。これは『日本書記』の第14代「仲哀天皇」8年に「冬10月3日、「神功皇后が、和珥津(対馬の鰐津)から新羅に向けて出発なされた。このとき、海水が新羅の国の中まで上がってきて新羅の王は恐れおののき降伏した。新羅の王「波沙寝錦」(はさむきん-寝錦とは王の意味)は「微叱己知波珍干岐」(みしこちはとりかんき)〔第17代「奈勿尼師今」の子「未斯欣」(ミキシン)〕を人質に差し出した。高麗(高句麗)、百済の2国の王も降伏し、朝貢を絶やさないことを誓った。それで「内官家」(うちつみやけ-日本の朝廷への貢納国)を定めた。」とあり(「三韓征伐」とはこれらのことを言う)、『三国史記』新羅本紀にも、第18代「實聖尼師今」元年(402年)に「3月、倭国と修好し、奈勿王(第17代王)の子、未斯欣(ミキシン)を人質とした。また、『三国史記』卷四十五 列伝第五 「朴堤上」条に「「實聖尼師今」元年(402年)に奈勿王(第17代王)の子、未斯欣を人質として「倭」に送った。」とある。また、『三国史記』百済本紀を見ても、この時代は「倭」にたびたび侵略されていたことがうかがえ、これも傍証になると考える。これまでの解釈について、特に疑問が寄せられているのが、3.4.についてである。 まず、朝鮮人研究者が主語が「高句麗」であって「倭」ではないとしていることは、 「日朝古代交流史における朝鮮人の六大妄想>高句麗の倭国への侵攻論<」の冒頭でも 説明し、これがとうてい採り得ないものであることは十分に示してある。「佐伯有清」の 見解もこれに分類されることも前述の項で説明した。 この事実を否定する者の主張に多く見られるのが、「倭」が海賊の集団で、百済・新羅 を臣民にするはずがないというものである(「王 健群」-前掲書175頁)。これにつ いても「日朝古代交流史(10)>倭はどこにあったのか(10)<」で説明してある ので、ここでは繰り返さないが、「広開土王碑」との関係で言えば、① 後述の「倭人満 其国境潰破城池以奴客」(第二面7行15字~27字)「倭人がその(倭人)の国境に溢 れていて、(新羅)の王城を占領して(新羅王を)臣下とした」ことから、すでに「倭人」 が朝鮮半島の新羅との国境を接する辺りに<国家>を形成していたことが伺える(『よみ がえる卑弥呼』古田武彦 朝日新聞社〔ふ-8-4〕 1992年7月1日 393頁)、② 「十年庚子教遣歩騎五萬住救新羅従男居城至新羅城倭満其中」(第二面8行9字~3 4字)「十年庚子(401年)王(広開土王)は5万の軍隊(歩兵と騎兵)を派遣して新 羅を救援した。「倭」軍は「新羅」中の城を占領していた」、③ 「十四年甲辰而倭不軌侵 入帯方界」(第三面3行7字~20字)「405年)(再び)「倭」軍が、今度は帯方 (現在の大同江」)を越えてにやって来た」、④ 「十七年丁未教遣歩騎五萬□□□□□□ □□王師□□合戦斬殺殺蕩蓋所獲鎧鉀一萬」 (第三面4行21字~5行14字)「408年) 「王は5万の軍(歩兵と騎兵)を遣わし、「倭」軍およびこれと同盟する「百済」軍を討ち 破り、鎧1万余領を捕獲した」となる。これはもはや<海賊>という規模ではない (『日本の歴史 03 大王から天皇へ』熊谷公男 講談社 2001年1月10日44頁)。 なぜ、「海賊」というのかは、「倭」の存在を矮小化したいという願望によるもので<妄言 >の類であろう。 また、「倭軍」とは九州王朝あるいは族長の軍隊であるする者がいる(『失われた九州 王朝』古田武彦 朝日新聞社〔朝日文庫 ふ-8-7〕 1993年2月1日 270頁、 「倭王権の成立と東アジア」上田正昭〔『古代王権の誕生 Ⅰ 東アジア編』初期王権 研究委員会〕角川書店 2003年1月31日 90頁)。この時代には「九州王朝」が存在 しなかったことは「神功皇后」の終わりの>日本の国家成立の時期<の項で説明した。 「平野邦雄」は「『後漢書』によると「大倭王」と書いてあり、倭国を代表する唯一の 政治権力が既に誕生していた。そのヤマトが九州に「一大率」という巨大な出先機関を 置いていた。「一大率」には九州の沿海の諸国を検察する役割と外交の役割が負わされて おり、諸国では「一大率」から検察されこれを非常に畏憚(いたん)していたと書かれて いる。 したがって、「広開土王」と戦った「倭軍」がヤマトの王権と何ら関わりのない九州の族長の軍隊であるというような考えは「大和説」(大和に王権があったとする考え)からは とうてい出てくるはずはない」としている(「国家的身分の展開」〔『空白の四世紀とヤマト政権』西嶋定生・平野邦雄ほか 角川書店[角川選書 179]1987年6月30日 22頁〕)。 朝鮮半島に大量の軍隊を派遣して「高句麗」と大戦争を行っていることは、日本で「古 代王朝」が成立していなければできるはずもない。これについては「神功皇后」の項の 「日本古代国家の成立時期」において詳しく述べる。 なお、これも含めて「広開土王碑」の倭関係記事のすべてが<虚構>だと言う者がい る(『倭と加耶の国際環境』東 湖 吉川弘文館 2006年8月10日 172頁)。「高句 麗」の軍5万(これも誇張だとする)に対抗する軍事力から「倭」(人)が「渡海」し、 「出兵」したという物語が創作されたというものを基本として論じている。「碑文」の「倭 賊」が軍隊であったか兵であったか疑問であるとし、「倭」を仮想敵国と造作して「高句 麗」の「百済」・「新羅」への侵攻を大義名分として碑文を<捏造>したとする。しかし、 それならば、「碑文」で「倭」を除外して「百済」・「新羅」戦の大勝利を謳えば良い。 「百済」・「新羅」への侵攻が<主題>であるならば、なぜ碑文での戦闘の場面で「百済」・ 「新羅」が欠けているのか、理解し難い。また、「広開土王碑」が<虚構>ならば、碑を 建造した高句麗の「長壽王」は大変な妄想家であり、先王「広開土王」の権威を失墜させ、人々の<笑い者>になるのがオチであろう。 ◆ 広開土王碑(11) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 1月21日(金)13時24分21秒◆ 碑文の解釈(8) ところで、「倭」の存在の矮小化と言えば、「人質」の概念についてでもある。「百済が397年に王子の「腆支(テンシ)」を倭に人質として送ったという記録があり、新羅が王子「未斯励(ミキシ)」を402年に倭に送ったという記録も同じく『日本書紀』や『三国史記』にあるが、これを強国である「百済」や「新羅」が弱小国である「倭」に外交手段として送ったと強弁する者が朝鮮人研究者にいる。これのような<妄言>については、「日朝古代交流史における朝鮮人の六大妄想(57)>新羅・百済の倭国への人質論(1)<」で指摘しておいたので、参照されたいが、要するに、「百済」や「新羅」が「日本」の下に立つということを認めたくないという<朝鮮民族至上主義史観>に基づく希望的観測に基づくもので、「広開土王碑」に関して言えば、碑文の内容を<捏造>だというのである。 2.「六年丙申」条 「以六年丙申王躬率大軍討伐残國(中略)其國城賊義敢出百戦王威赫怒渡阿利水遣刺迫城横□?穴就便圍城而残王困逼出男女生口一千人細布千匹跪王自誓従今永為奴客」(第一面9行25字~39字(中略)第二面3行17字~4行36字) ① 「以」とは、「に」の意味である。② 「六年丙申」とは、「永楽6年(広開土王の在位6年丙申年〔397年〕)」をいう。③ 「王躬率」とは、「王(広開土王)が自ら率いて」の意味である。④ 「大」、これは「水」と読める拓本もあり、定かではない。欠字のままとする者もいる(武田 ② 316頁)。ここでは「大」と読む。碑文には「王躬率」と書かれているものと、「教遣」と書かれているものがある。「教遣」とは、王が自ら出陣せず、家来に任せて出陣させることをいう。そして、碑文に「王躬率」とあるときは必ず「王」が軍を率いて征伐しなければならない理由が書かれている。それもそうだろう。「広開土王碑」は「王(広開土王)」の顕彰碑の性格を有しているから、「王」自ら出陣するときは、その理由を記して王の功績を大きく示す必要があったからである。⑤ 「残國」とは、「百済」のことである。碑では「百済」のことを「百残」と表記していることから、そう考える。 ◆ 広開土王碑(12) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 1月23日(日)13時06分2秒◆ 碑文の解釈(9) ⑥ 「其國」とは、「百済國」の意味である。 ⑦ 「義」とは、「正義」の軍隊「高句麗軍」をいう。 ⑧ 「王威赫怒」は、「王(広開土王)が顔を赤くして怒り」の意味である。 ⑨ 「阿利水」とは、「阿利川」という固有名詞である。ソウルを流れる「漢江」を指す ものと思われる。 ⑩ 「刺」は、「先鋒部隊」をいう。 ⑪ 「?」も争いがある。「侵」と読む者もいる(「武田」② 316頁)。また、「帰」とする者もいる(王健群 前掲書 225頁)。彼はその前の「横」および欠字(1字) を「残兵」であるとし、「百済軍が百済城(穴)に帰った」と読む。しかし、拓本を精 査すると「人」が左側(偏)にあることから「帰」ではなかろう。問題は「?」か「侵」 かである。拓本によってはその左に「田」と読めたり「又」と読めたりする。しかし、 「又」にしては字が小さい。そこで「?」と考えた。意味は「迫る=?る」である。 また、「横」のところは旁(つくり)「黄」が見えるから、「残」とは読めない。さらに、 その後の欠字(1字)は読み取ることはできないから「兵」とするのは無理がある。 ⑫ 「穴」とは、「巣窟」すなわち「百済の王城」のことをいう。 ⑬ 「就便」とは、「すなわち(便)就く」ということで、「高句麗軍が追撃した」の意 味である。 ⑭ 「圍城」は、「城(百済の王城)を囲んだ」の意味である。 ⑮ 「残王困逼」とは、「百済王が困り果て追い詰められて(逼)」のことを意味する。 ⑯ 「生口」は、「奴隷」のこと。 ⑰ 「細布」とは、「にしては字が小さい。布」のことをいう。「絹」ではない。 ⑱ 「跪王」は、「百済王(第16代「阿?王」)が高句麗王(広開土王)の前に膝を屈 して跪いた」の意味である。 ⑲ 「奴客」とは「臣下」となることをいい、「奴隷」の意味ではない。実体(客体)は 「百済」であることは説明するまでもない。 ◆◆◆ 広開土王碑(13) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 1月25日(火)16時04分4秒◆◆◆ >碑文の解釈(10)< ここのところの解釈は「永楽6年(広開土王の在位6年丙甲年〔397年〕)に(以)、 高句麗王(広開土王)が自ら大軍を率いて百済軍を討伐した。(中略)百済の王都に逼っ た。(しかし)百済は正義の高句麗に屈服しないばかりか戦いを挑んで来た(敢出百戦)。 王(広開土王)は激怒し、漢江を渡って先鋒部隊を百済の王都に迫らせた。(これを見た 百済軍は恐れおののいて)百済の王都に逃げ帰った。そうして(而)百済王(第16代 「阿?王」)は困り果てて、男女の奴隷千人、上質の布千匹を差し出し、王(広開土王) の前に跪いてこれからは永遠に王(広開土王)の臣下になりますと誓った」である。 なお、「六年丙甲」条が主題で、「倭」の侵攻を表わす「辛卯年」条はその前提文(説 明文=前置文)であることは前述のとおりである。 3.「九年己亥」条 「九年己亥百残違誓与倭和通王巡下平壌而新羅遣使臼王云倭人満其国境潰破城池以奴 客為帰王請命」第2面6行31字~7行33字) ① 「九年己亥」とは、「永楽9年(広開土王の在位9年己亥年〔400年〕)」をいう。 ② 「誓」とは、「六年丙甲」条にいう「百済王」が高句麗王(広開土王)の前に跪いて 臣下となることを誓ったことを指す。 ③ 「倭和通」は、「百済」が「倭」と同盟を結んだことをいう。具体的には、『日本書紀』 応神天皇8年条の「春3月、百済人が来朝した。「百済記」によると、「阿花王」 (「阿?王」)が立って貴国(日本)に無礼をした。それで「枕弥多礼」(せしむとき)、 「?南」(けんなむ)、「支侵」(ししむ-現在の韓国忠清南道洪城付近)、「谷那」 (こくな-現在の韓国全羅南道谷城)などの東韓の地を(高句麗)に奪われた。そこで、 太子の「直支」(とき-後の第17代「膿支王」)を人質として天朝(日本)に差し出 して、修好した。」の記事に合致する。これと同様の記事は、『三国史記』百済本紀の 第16代王「阿?王」6年(397年)条「5月、王は倭国と友好を結び、太子の「腆支」 を人質として差し出した」にある。 ④ 「王巡下平壌」とは「王(広開土王)が(「倭」・「百済」の侵攻を警戒して)平壌を 巡視していた」ことをいう。 ◆◆◆ 広開土王碑(14) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 1月27日(木)13時15分34秒◆◆◆ >碑文の解釈(11)< ⑤ 「倭人満其国境」とは、「倭人が倭国との国境(倭国内)に多くいた」の意味である。 ここの「其」が「新羅」ではなく「倭国」をいうことに注目されたい。つまり、この 時代には「倭国」が朝鮮半島にあったことを示している(『大化前政治過程の研究』平 野邦雄 吉川弘文館 1985年6月10日 222頁)。なお「武田幸男」は「新羅」の 国境をいうとする(「武田」① 140頁)。しかし、「新羅」の使者が自国の国境を 「其」などと言う訳がない。「我」・「吾」である。彼はなお、「新羅」の使者が「間接 法」で事態を語っているから、「我」・「吾」という言葉を使わずに「其」を使ったとい う。「間接法」にしても、王(広開土王)に向って、自国の置かれている状況を説明し ているのである。ならば、ここは「我」・「吾」を使わなければならない。さらに、 「倭人」とあり、「其」が続く。やはり、「其」とは「倭国」と考えなければならない。 「王 健群」はここの解釈を省略(ゴマカシテ)している(前掲書 229頁)。 彼は前述のとおり「倭」とは海賊だとしているが、ここの解釈をゴマカシテはいけない。 つまり、彼の考えはここで破綻している。 「国境」を「(新羅)国内」と考える者がいる(「王 健群」-前掲書 229頁、 「武田」①-227頁、「白崎昭一郎」 前掲書 216頁)。そう考えたいところだが、 原文はあくまで「国境」で「国内」でない。また、続く「潰破池」とは連動してない。 ここは(続いて)国内に侵攻し、「城池」を破壊したと読むべきである。 ⑥ 「城池」は、「城とそれを取り囲んでいる濠」のことである。城=町だから都市と解 してもよいのではなかろうか。 ⑦ 「奴客」の意味は前述した。ここの「奴客」の実態が「新羅」なのか「百済」なのか については争いがある。「武田幸男」のみが「百済」とする(武田 ① 140頁)。 その理由は、① 碑文の「奴客」はすべて同じく解釈しなければならない。「永楽六年丙 条」の「奴客」も「百済」である、② この後に続く「帰王請命」(王(広開土王)に 従いたいので命令を願う」との関連から、ここのところは、「倭人満其国境潰破池」と 「奴客為民帰王請命」を分離して考えなければならない、③ 王(広開土王)の主敵は 「百済」であって「新羅」ではない。『「新羅が倭に攻められ」・「百済も倭の奴客」に なっているのだから、「新羅」は王(広開土王)に従いたいので命令を願います』で 初めて意味が通じる、というのである。 しかし、この考えは完全に誤っている。① 「新羅」は「倭国」に攻め込まれ、存 亡の危機に立っているという状況にある。これを打開するためには一時も早く「高句 麗」の救援を仰がなければならない。「百済」を討ってくださいなどと呑気なことは 言っておられない状態にある。② 先の考えだと「以」が置かれている意味がない。 これは「だから」の意で、「倭人満其国境潰破池」と「奴客」とを無理なく結んでい る。③ 「帰王請命」も『「新羅」が「倭国」の「奴客」とされてしまってます。 「新羅」はあくまで「高句麗」に従いますので、王(広開土王)のご命令を願います』 で、十分に意味が通じる。 ⑧ 「為民」は、「民衆のために」という意味ではない。「民と為す」の意味で、「為」は ・・・にするの意味である。そして、この場合の「民」は一般大衆をいうのではなく、 身分を表わし「賤民」を指す。これについては異論を見ない(「王 健群」-前掲書 2 28頁、「白崎昭一郎」 前掲書 218頁)。 ⑨ 「帰王請命」は、「王(広開土王)のご命令をお願いいたすとともにそのご命令に従 います」までの意味を含むものと考える。 ◆◆◆ 広開土王碑(15) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 1月29日(土)14時12分20秒◆◆◆ >碑文の解釈(12)< ここのところの解釈は「永楽9年(広開土王の在位9年己亥年〔400年〕)、「百済」 が「永楽6年丙甲」条の誓を破り「倭」と同盟した。王(広開土王)が(「倭」・「百済」 の侵攻を警戒して)平壌を巡視していた(ちょうどその時)、「新羅」の使いがやって来 て、「倭」が「倭」と「新羅」の国境に大軍を差し向け、(さらに)「新羅」の国内にまで 侵攻し、城を取り囲んでいる濠を破壊し城を乗っ取りました。(そして)わが王(第17 代「奈勿王」を臣下としてしまいました。「新羅」はあくまで「高句麗」に従いますので、 王(広開土王)のご命令を願いいたすとともにそのご命令に従います」となる。 ここでは「倭」軍が「新羅」を攻撃しており、「百済」は見られない。「百済」は参戦 してなかったと理解できよう。 ◆◆◆ 広開土王碑(16) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 2月 1日(火)13時32分4秒◆◆◆ >碑文の解釈(13)< 4.「十年庚子」条(長いので分けて解説するが、まず全文を挙げる) 「十年庚子教遣歩騎五萬住救新羅従男居城至新羅城倭満其中官軍方至倭賊退自倭背急 迫至任那加羅従抜城城即帰服安羅人戎兵□新□城塩城倭寇委潰城内十九蓋拒随安羅人戎 兵捕□□□□□其村殊□□□□□信□□旦□倭□稚□□□□□□□□興□□□□□□□ □□□辞□□□□□□□□□□□残倭潰□以随□安羅人戎兵昔新羅寐錦未有身来論事□ □□□廣開土王境好太王□□□□寐錦□家僕勾□千□□朝貢」(第2面8行9字~第3面 3行6字) ① 「十年庚子」とは、「永楽10年(広開土王の在位10年庚子年〔401年〕)」をい う。 ② 「教遣」とは、「派遣」の意味である。「教」は使役の助動詞である。 ③ 「住」は、「往」の意味で、「住救新羅」は「新羅を救援に往った」のことである。 ④ 「従男居城至新羅城倭満其中」とは、「男居城」(固有名詞-城の名〔場所は不明だが、 「新羅」の都「慶州」の北部の日本海側だと思われる〕)から(従)「新羅城」(王城) まで、「倭」軍がその中に満ち溢れていた」の意味である(「武田 」②-329頁)。 「従」は、「から」の意味である。 これに関して、「「高句麗軍」が「従男居城」から「新羅城」まで行くと、そこ(「新 羅城」)に「倭」軍が満ち溢れていた」と解する者がいる(「朴 時亨」-前掲書 22 5頁、「白崎昭一郎-前掲書224頁)。つまり、「高句麗軍」が行動した範囲を指し、 「新羅城」に至ったときにそこに「倭」軍がいたというのである。王(広開土王)が 出発したのは、碑文から「平壌城」と考えられる(「白崎昭一郎」も「平壌城」かそこ に近い地点であると認めている-前掲書225頁)。ならばどうしてわざわざ「男居 城」と途中の城を記したのであろうか。ところにここの文の特徴がある。行動範囲を 考えるならば、「平壌城至新羅城」とするのが自然であるからである。この見解はこれ を無視しており採り得ない。 ◆◆◆ 広開土王碑(17) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 2月 3日(木)15時18分54秒◆◆◆ >碑文の解釈(14)< この「5万」という数字であるが、「高句麗」の人口は、3世紀ごろ「3万戸」 (『三国志』魏書東夷伝)、約20~30万人、4世紀には遼東郡・楽浪郡を含め 100万人前後、滅亡時(668年)には「69万余戸」で(『三国史記』高句麗本紀 第28代「寶蔵王」27年〔668年〕12月条)で、約350万人であった(『倭と 加耶の国際関係』東 湖 吉川弘文館2006年8月10日171頁)から誇張であると する。 ここで、「倭」の当時の人口を考えてみたい。『三国史』魏志東夷伝倭人に、3世紀 の「邪馬台国」ほか7ヶ国の戸数が書かれており、その合計は15万9千戸余となる。 3~5世紀の住居跡から推定される世帯の規模を考えると1世帯辺り10人、8カ国 の人口は159万余となる。戸数記載のない「斯馬国」以下の21ヶ国の戸数を仮に 各国1千戸として加えれば、「倭人伝」29ヶ国の総人口は180万人余となる。これ には東日本の人口が含まれてないから、東日本の人口を縄文末期から弥生時代への増 率を用いてこれに加えると、当時の人口は220万人内外はあったとされている (『人口から読む日本の歴史』鬼頭 宏 講談社〔講談社文庫1430〕2000年5月 10日 52頁)。そこで、このうち、どのくらいの者が戦争に従事したかというと、 国家の存亡の危機には約8%だといわれている(平穏時には1%程度である)から、 17万6千人が戦争に動員された可能性がある。 先の「高句麗」の人口は、3世紀ごろ「3万戸」約20~30万人、4世紀には1 00万人というのは「日本」と比べて少ない気がするが、「広開土王」の活躍したのは 5世紀初頭で、少なくとも150万人くらいはあったのではなかろうかと推計できよ う。そして、先の国家存亡期の動員数を考えれば、12万人くらいであり、5万人を 優に超える。『5万人』決して<誇張>ではない。 ◆◆◆ 広開土王碑(18) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 2月 6日(日)15時50分30秒◆◆◆ >碑文の解釈(15)< ⑤ 「官軍」とは、「高句麗軍」のことをいう。 ⑥ 「自倭」は、なかなか判読できない。「自」はそのように読める(「王 健群」-前掲 書 229頁)。問題は「倭」である。これも「王 健群」は「倭」と読む(同 22 9頁)。これに対して「武田幸男」は「侵」、「井上秀雄」は「来」としている(「白崎 昭一郎」-前掲書 226頁〔ただし、「武田幸男」は②では「自」も「侵」も欠字と している[316頁]〕)。拓本を精査すると「人」が左側(偏)にあることから「来」 ではない。また「禾」が何とか読み取れるので、「倭」とした。 意味は、後に続く「自倭背急迫」も含めると、「進んで(自)「倭軍」を背後から急 いで追うと(追撃)」となる。 ⑦ 「任那加羅」、読んで字のごとくである。ただ、「任那」、「加羅」の2ヶ国であり、 「任那加羅」という1つの国ではない。ここに急に「任那加羅」が登場したかというと、 ここが「倭国」の占領地域であったからである。それは続く「従抜城」(「任那・加羅」 の城)に現れている。このことは、「倭」と「加羅」は「聯合軍」を結成し、「高句麗」 と戦ったということを示している(『伽耶国と倭地(新装版)』尹 錫暁 新泉社 2000 年10月10日 36頁)。 なお、「任那加羅」を「王 健群」は「金官加羅」というが(前掲書 230頁)、 これは誤りである。「金官加羅」は「王健群」も指摘するとおり朝鮮半島南端の「洛東 江」の河口(釜山郊外)に位置するが、続いての「城」が「王城」(慶州)であるこ とから、「高句麗軍」がいったん「新羅城」(慶州)を通り過ぎて何もしないで、朝鮮 半島南端まで南下して、再び北上して「王城」(慶州)を攻めるとは考え難い(『任那 と古代日本』寺本克之 新泉社 1999年7月15日 68頁)。「任那は『日本書紀』 にもあるとおり「卓淳」(現在の慶尚北道の大邸付近)にあったとするのが穏当であろ う。 ◆◆◆ 広開土王碑(19) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 2月 8日(火)12時37分8秒◆◆◆ >碑文の解釈(16)< ⑧ 「安羅人戎兵」、これがここでの最大の問題となっている。「王 健群」は「安」と 「羅人」とを分けて考え、「安」を動詞(安んじる=守備させる)と読む(『古代の倭 国と朝鮮諸国』鈴木英夫 青木書店 1996年2月25日63頁も同趣旨)。その理由 として、『三国史記』新羅本紀 第30代「文武王」7年条に「新羅人」を「羅人」、 『三国史記』卷第5 考善第9「真定師考善双美」に「新羅人」を「羅人」、とそれ ぞれ記しているとする(前掲書 230頁)。しかし、① 「羅人」は「新羅人」の 蔑称であり、「広開土王碑」では「新羅」は一貫して「友軍」であり、「新羅」と表記 されている(「高 寛敏」-前掲書171頁)。ここでの他の史料の引用は意味が無い。 ② 「王 健群」の読み方は「主語」と「目的語」が省略されているが、これは極めて 不自然である。したがって、「王 健群」は明確な誤りであると断言できる。 それでは「安羅人戎兵」をどのように解釈したらよいだろうか。「高 寛敏」は「安」 を動詞(安んじる=守備させる)と読み、「羅人」を「巡邏」とし、「戎兵」は守備兵 の意だから、合わせて「(高句麗)が「巡邏兵」と「守備兵」を配置した」と考える (前掲書 171頁)。しかし、これは「羅」と「邏」を同一に扱っているという誤り を犯しているばかりか、そうであるならば「人」ではなく「兵」でなければならない。 こう解するのであれば、「羅人」=「新羅人」と理解した方が素直な読み方である。こ れはそのまま「安羅人の戎兵(守備兵)」と読むのが正しい。 ここでさらに問題となるのは主語が何かである。これを「倭」とするのが従来の考 え方であった(「鈴木靖民」-目黒区本 118頁、「平野邦雄」-前掲書 64頁)。 最近の見解は、主語は「高句麗」であるとする(「王 健群」-前掲書 230頁、「高 寛敏」-前掲書 171頁、「山尾幸久-前掲書 202頁、「鈴木英夫-前掲書 6 2頁、「白崎昭一郎」-前掲書 238頁)。「安羅人戎兵」が突如として出てくること が、その解釈を複雑にしている。もう一度この部分を見てみると、「至任那加羅従抜 城城即帰服安羅人戎兵」なっている。「(高句麗軍が)任那加羅に至り、従抜城・新羅 の王城を攻略し、(「倭軍」は)すぐに帰服した」とある。ここで注意しなければなら ないのは、「安羅」の国が「高句麗」に帰服したわけではないことである。あくまで、 「倭軍」と共に戦った「安羅人」が「高句麗」に降参したのである。このことは、「任 那加羅」の一部で、このときに攻略されたもの「安羅」が朝鮮半島南部のかなり「玄 界灘」に近いところに(現在の韓国の慶尚南道咸安郡)にあり、前述のとおり、「高句 麗軍」が「新羅城」(慶州)を通り過ぎて、ここまで南下して「安羅」を征服し、再び 北上して「新羅城」(慶州)を攻め取ったということは考え難い。したがって、「倭軍」 と共に戦っていた「安羅人」を服従させ、高句麗王(広開土王)が「守備兵」として 「新羅」の城の守りに就かしたと考えるのである。 ここの記事から見えてくるのは、「安羅人戎兵」が「倭」軍と共に戦ったことで、 「倭」の軍事的拠点が「任那・加羅」にあったことを示している(『大化前政治過程 の研究』平野邦雄 吉川弘文館 1985年6月10日 64頁)。 ◆◆◆ 広開土王碑(20) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 2月10日(木)16時45分10秒◆◆◆ >碑文の解釈(17)< ⑨ 「寇」であるが、「満」と読む者もいる(「朴 時亨」-前掲書 225頁)。だが、拓 本を精査すると「宀」が認められ、「寇」でいいのではないかと思われる。 ⑩ 「委」は、上部に「禾」があり、下部には「女」があるので「委」と考えた。「大」 (「王 健群」-前掲書 229頁ではない。意味は「振るわない」である。 ⑪ 「城内十九蓋拒随」とは、「(新羅)城にいる者のうち10人に9人までもが、「倭」 に随うのを拒絶したので」の意味で、続いて、「(したがって)安羅人の戎兵(守備兵) に(新羅)城を守らせた」となる。単に「城」とあるときは「王城(新羅城)」を指す。 ⑫ その後はしばらく欠字が続き、意味が取れない。 「残倭潰□以随□安羅人戎兵昔新羅寐錦未有身来論事」(第3面1行39字~2行20字) ① 「残倭」は、これでよい。「残」とあることから、「百済軍」も参加していたと考え られる。 ② 「潰」に続く欠字を「亦」と読む者もいるが(「白崎昭一郎」-前掲書 241頁)、 不明とした方が適切である。 ③ 「以」を「抜」と読む者もある(「王 健群」-前掲書 229頁)。これはやはり「以」 である。 ④ 「随」もこれが正しい。 ⑤ 次の欠字を「城」と読む者がある(「王 健群」-前掲書 229頁)が、やはり不 明である。 ⑥ 「寐錦(みきん)」は、「王」の意味である。 ⑦ 「未有身来論事」は、「未だ自ら(身)来て朝貢(論事)したことがなかった」の意 味である。 ◆◆◆ 広開土王碑(21) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 2月12日(土)13時34分6秒◆◆◆ >碑文の解釈(18)< 「廣開土王境好太王□□□□寐錦□家僕勾□千□□朝貢」(第3面2行25字~3行6 字) ① 「僕勾」の「勾」であるが、「王 健群」は「句」と読む(前掲書 229頁)。拓本 を精査すると、やはり「勾」が正しい。「僕句」では意味が取れない。 「僕勾」とは何を意味するかであるが、「ト好」である。『三国史記』高句麗本紀の第 18代「故國壌王」9年(392年)条に「春、使臣を新羅に遣わして修好した。新 羅王(奈勿王)は姪の「實聖」を高句麗に送って人質にした。」との記事があり、同新 羅本紀の第17代王「奈勿尼師今」(奈勿王)37年(392年)、「正月、高句麗 (広開土王)が使臣を遣わした。王は高句麗が強勢であったので、伊食(正しくはサン ズイに食)の「大西知」の子である「實聖」を高句麗に人質として差し出した。」と ある。 史実と合致していると見なければならない。 この「永楽10年(401年)条の「高句麗軍」の進撃ル-トは、「任那」がどこにあ ったを知る大きな手がかりとなる。 まず、「高句麗軍」は「平壌」を出発し、ソウル近郊の「漢江」を越え、軍を南東(日 本海側)に向け、「洛東江」を越え、日本海に沿って南下し、「男居城」(「新羅」の都 「慶州」の日本海側の北部にあったと考えられる)を攻め落とし、そこから「新羅城」 (「慶州」)に向わすに、軍を西に向け「倭軍」の本拠地の「任那」(卓淳國)に向かい、 そこにあった「従抜城」を攻め取り、そこで「倭軍」と共に戦っていた「安羅人」を屈服 させ、「従抜城」の守備を委ね、そこから「軍」を東に向け「倭軍」が占領していた 「新羅城(王城)」と「塩城」を攻略し、「倭軍」を潰滅させ、そこでも「安羅人」を 屈服させて「新羅城(王城)」を防衛させたのである(『任那と古代日本』寺本克之 新泉社 1999年7月15日 66頁)。したがって、「「任那」はどこにあったか(5)」 にあるよう「任那」=「金官加耶」(朝鮮半島最南部の「金海」)と考える「朴 時亨」、 「田中俊明」の見解は明らかに誤りであると言わなければならない。 ところで「歩騎五萬」とあるから、「高句麗軍」が歩兵のほかに騎兵も出したことがう かがえる。これに対し「倭軍」はどうだったのであろうか。日本においては「馬」の飼 育は山梨県の甲府市、東八代郡中道町の4世紀後半の「方形周溝墓」から馬の歯が出土 している。このことから相当数の馬が飼育されていたものと考えられている(「五世紀の 馬具と稲荷山古墳」岡安光彦 山川出版社 2003年5月23日 102頁)。しかし、馬 が軍事的に使用されるのは「雄略天皇」(5世紀後半)のころであるとする(『古墳時代 の研究』小林行雄 青木書店 1961年4月1日 281頁)。遺物に依存する「考古学」 としてはそうだろうが、これには賛成できない。遺物が出土してないからといって、そ れの存在が無かったとは言い切れないのである。 馬の軍事的利用はもっと早くから行われていた形跡が強い。『三国史記』第5代「婆娑 尼師今」15年(94年)条に、「「加耶」の賊が「馬頭城」に攻めてきて包囲したので、 部下に騎兵1千を与えて撃退した」、同第6代「祇摩尼師今」4年(115年)条にも 「7月、王は自ら「加耶」を征伐しようと歩・騎兵を率いて出陣した」との記事がある。 一方、「倭」が「新羅」を侵攻したのは、第4代「解脱尼師今」17年(73年)と 第6代「祇摩尼師今」10年(121年)である。「加耶」といえば、その周辺には 「倭人」が居住していたことは、>倭はどこにあったのか<の項などで述べてきた。 したがって、当然に、早くから馬の軍事的利用を習得し、「騎馬軍団」を持っていたの ではないかと考える。そでなければ「従男居城至新羅城倭満其中」の 表現のように 「倭軍」が新羅に攻め勝つはずもなかろう。歩兵では騎兵にそうやすやすと勝てるとは 思えないからである。 ◆◆◆ 広開土王碑(22) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 2月14日(月)12時48分48秒◆◆◆ >碑文の解釈(19)< 以上、「十年庚子」条を解釈すると、「永楽10年(広開土王の在位10年庚子年〔4 01年〕)、高句麗王(広開土王)は歩兵・騎兵5万を遣わし新羅を救援に赴かせた。途 中、男居城から新羅城までその中に「倭軍」が満ち溢れていた。高句麗軍はそこに至る と、高句麗軍を恐れて背走したが、高句麗軍はなおも追撃し任那加羅にある従抜城に攻 め入ると「倭軍」は降伏した。それで(途中で「倭軍」とともに連合していた)安羅人 (を降伏させ)の彼らを守備兵として従抜城を守らせた。(「高句麗軍」は)新羅城およ び塩城を打ち破り「倭軍」を潰滅させた。新羅城内の10人中9人までもが「倭軍」に 従うのを拒絶し、また、安羅人の守備兵をしてそこを守らせた。昔から新羅王は高句麗 に従ってはいたが、朝貢することはなく、(これにより朝貢するようになった-欠字部分 を推測)。王(広開土王)は(新羅を臣下に加え、その証として-欠字部分を推測)新羅 王(奈勿王)は「ト好」(「實聖」)を王(広開土王)に人質として差出し、朝貢するよう になった」となる。 「十年庚子」条の解釈で一番重要なのは、「百済」が参戦してないことである。なぜな ら、ここには「百済」という文字がないからである。前述のとおり『日本書紀』応神天 皇8年条で、「百済」が「高句麗」に東韓の地を奪われ、「倭」の支援を仰ぐため、太子 の「直支」(とき-後の第17代「膿支王」)を人質として天朝(日本)に差し出して、 修好した」とあり、また、このことは『三国史記』百済本紀の第16代王「阿?王」6 年(397年)条「5月、王は倭国と友好を結び、太子の「腆支」を人質として差し出 した。」にある。「百済」には出兵する余裕などなかったのである。 ◆◆◆ 広開土王碑(23) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 2月16日(水)13時00分19秒◆◆◆ >碑文の解釈(20)< 5.「十四年甲辰」条 「十四年甲辰而倭不軌帯方界和通残□至石城□連船□□□王躬率□□従平壌□□□鋒 相遇王幢要截盪刺倭寇潰敗斬殺無数」(第3面3行7字~4行20字) ① 「十四年甲辰」とは、「広開土王の在位14年甲辰年〔405年〕)」をいう。 ② 「不軌」とは、「不法」という意味である。 ③ 「帯方界」とは、あの有名な「楽浪・帯方、倭人有り」の「帯方」をいい、現在の 北朝鮮の黄海道(38度線の北側)一帯を指す。 ④ 「和通」、「和」については拓本を精査すると「禾」が見られるので、その後の「残」 (「百済」)との関連から、「和」としても誤りはなかろう。「通」については、これを 欠字だとする者が多いが(「白崎昭一郎」-前掲書 253頁、「武田幸男」-前掲書 318頁)、拓本を精査すると「?」が確認され、やはり、その後の関連から「通」で あると判断した。「王 健群」も同様の見解である(前掲書 231頁)。意味は、「倭」 と同盟した」である。 ⑤ 「残□至」の欠字であるが、「王 健群」は「兵」であるとする(前掲書 231頁)。 意味としてはそれで良いと思えるが、拓本を精査してもやはり判読できない。 ⑥ 「石城」、固有名詞である。ただ、場所は確認できないが、「倭軍」と「帯方界」で 戦闘を交えていることから、黄海道にあったと考えられよう。 ⑦ 「連船」、これはそのとおり判読できるが、「単に船を連ね」と読むのが一般的であり (『天皇と日韓古代戦史』牛島康允 自然と科学社 1993年12月25日 189頁、 「白崎昭一郎」-前掲書 255頁)、異論を見ない。解釈はこれで良いと思う。 問題は、その主語が何かである。まず、主語を「倭」とする考えがある(「朴 時亨」 -前掲書232頁、「上田正昭」〔『日本古代国家論究』塙書房 1969年11月 73 頁〕、「武田」①-135頁)。これは明治時代からある考え方で(「菅 政友」 〔「高麗好太王碑銘考」[『史学会雑誌』第2編第24号 51頁]〕、「那珂通世」 〔「高句麗古碑考」[『史学会雑誌』第4編第49号 43頁]〕)、ほぼ、通説化して いた。それでも主語を「高句麗」とする考えがあった(「福田芳之助」〔『新羅史』 若林春和堂 1927年 89頁〕。しかし、これは福田が勝手に碑文に「大王」( 「高句麗王」)を挿入したもので、信じるに値しない。だが、こういう考えも有り得る のではないかとの疑問が投げかけられている(「高句麗広開土王碑文の再検討」佐伯有 清〔『続日本古代史論集上巻』阪本太郎博士古稀記念会 吉川弘文館1972年7月1日 40頁〕)。しかし、これは疑問だけで、主語が「高句麗王」とは断定してない。ただ、 前の部分が「倭」が主語になっていることから、ここでの主語もやはり「倭」と解する のが妥当ではないかと思える。 ◆◆◆ 広開土王碑(24) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 2月18日(金)13時05分43秒◆◆◆ >碑文の解釈(21)< ⑧「連船」に続く欠字は全く読むことができない。おそらく「倭軍」が攻略した城など が入ると思えるが、わからない。 ⑨「王躬率」は、「王(広開土王)が自ら軍を率いて出陣した」の意味である。 ⑩これに続く欠字も判読不明である。「王 健群」は、最初の欠字を「住」あるいは「往」 とし、次の欠字を「討」と読んでいる(前掲書 231頁)。意味はともかく、拓本を 精査しても欠字である。彼の勝手な想像だと思える。 ⑪「従」の意味は、「から」(出発点)と解して良い。これを「経由して」と解する者も いるが(「白崎昭一郎」-前掲書 257頁)、王(広開土王)はこれまでも「平壌」 を拠点としていることから「から」(出発点)と考えるのが妥当であろう。 ⑫「□鋒相遇」の最初にある欠字は読むことができないが、「先」で「先鋒」となるの であろう。その後に続く「相遇」と相まって、「先鋒部隊が敵と遭遇した」となる。 ⑬「王幢」(おうとう)とは、「王の旗印」のことをいう。 ⑭「要截盪刺」の「要」は「待ち伏せする」、「截」(せつ)は「断ち切る」、「盪」 (とう)は「ほしいままにする」、「刺は「刺す」、「斬る」、の意味である。これら を合わせると、「待ち伏せして、縦横無尽に斬まくる」(ようせつとうし)となる。 ◆◆◆ 広開土王碑(25) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 2月20日(日)14時48分6秒◆◆◆ >碑文の解釈(22)< 以上、「十四年甲辰」条を解釈すると、「広開土王の在位14年甲辰年〔405年〕)、 不法にも「倭軍」は「百済」と共に帯方界にまで侵攻し「石城」にまでやって来た。「倭 軍」は船を連ねて侵攻して来たのである。(この知らせを聞いて))(広開土王)が自ら 軍を率いて平壌から出陣した。先鋒部隊が「倭軍」らと遭遇し、「高句麗軍」は王の旗印 を翻して侵略者「倭軍」(倭寇)と戦い、これを壊滅させた。惨殺したもの無数に上った のである」となろう。 ここで注目すべきは、① 「倭軍」が船を連ねて帯方界(黄海道)まで攻め入ったこ と、② 「百済」よりも「倭軍」が主力として描かれていること、③ やられてもやられ ても何度も朝鮮半島を蹂躪したこと、である。このことは、「倭軍」が「百済」を凌駕 するほど強力で、大軍を擁し、組織的で、あったことを示している。これを見ても「倭 軍」は<海賊>などではない。さらに、「倭軍」が「連船」とあるように、水軍を使った ことが記されているが、これを日本本土からやって来たとするのは、考えが浅い。当時、 『倭』は朝鮮半島南部に拠点を持っており(「任那」)、さらに「百済」とも同盟関係に あって、その辺りから「船」を調達したとするのが正しい。1回、1回、日本本土から 「玄界灘」を越えてやって来たとは考え難いのである。 「山尾幸久」は頑強に「倭」が朝鮮半島に存在していたことを否定するが(前掲書6 7頁・203頁など)、これだけの大軍を何度も用意できるためには、兵站部・兵士も必 要だろうし、軍費も必要である。それには「行政機関」が必須なのである。「豊臣秀吉」 の朝鮮出兵で「加藤清正」が朝鮮半島最北部に進駐し、銀山開発やら徴税も行っていた ことを思い起こしたら良い。全てを日本本土に頼っていては戦争も遂行できないことは どの時代も同じである。 付け加えるが、「倭寇」という用語から、鎌倉時代から戦国時代にかけての「倭寇」を 想定する者がいたら(「朴 時亨」-前掲書 99頁)、とんだ<お門違い>である。「倭 寇」の時代は、船の構造も飛躍的に発達し、経済力・情報力、国力、人口も段違いに異 なる。このことを忘れて、広開土王の時代と比較すること自体がその思考力を疑わせる (同旨「四、五世紀の高句麗と倭」鈴木靖民〔『広開土王碑と古代日本』東京都目黒区 教育委員会 1993年9月10日[以下目黒区本という]119頁)。 ◆◆◆ 広開土王碑(26) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 2月22日(火)12時17分10秒◆◆◆ >碑文の解釈(23)< 6「十七年丁未」条 「十七年丁未教遣歩騎五萬□□□□□□□□王師□□合戦斬殺蕩盡所獲鎧鉀一萬余領 軍資器械不可稱數還破沙□城婁城□留城□□□□□□□□城」(第3面4行21字~6 行) ① 「十七年丁未」とは、「広開土王の在位17年(408年)」をいう。 ② 「教遣」は、「王(広開土王)が派遣した」の意味である。 ③ 「五萬」の後の欠字8字は、判読できす、これまで判読した人もいない。 ④ 「蕩盡」(とうじん)は、「すっかり(蕩)無くしてしまう(盡=尽)」の意味である。 ⑤ 「鎧鉀」(がいこう)の「鎧」も「鉀」も同じく「鎧」(よろい)にの意味である。 ⑥ 「軍資」とは、「軍用物資」のことをいう。 ⑦ 「器械」は「兵器」のことをいう。 ⑧ 「不可稱數」とは「数え切れないほど」の意味である。 ⑨ 「還破」は、(「倭軍」を)破って帰還すること」をいう。 ⑩ 「沙□城婁城□留城□□□□□□□□城」は、「高句麗軍が攻略した城」を羅列したものである。 以上、「十七年丁未」条を解釈すると、「広開土王の在位17年丁未年〔408年〕)、 王(広開土王)は歩兵・騎兵5万を遣わし、(倭軍)の討伐に向わせた。(倭軍)との戦 いは、相手を総て斬り尽くし、捕獲した鎧は1万余領、軍用物資・兵器は数知れなかっ た。帰還の途中、沙□城婁城□留城など多くの城をも攻め立て破壊した」となる。 ここで「高句麗」と戦ったのは「百済」であって「倭」ではないという者がいる(「 朴 時亨」-前掲書 235頁、「王 健群」-前掲書 233頁、「白崎昭一郎」-前掲 書 270頁)。しかし、これは採り得ない。その前の「十四年甲辰」条が「高句麗」と 「倭」との戦闘で、これに本条はこれに続いている。もし相手が「百済」であれば 「百残」と記されてなければならないからである。 なお、「王 健群」は、『倭寇は海を渡って侵入と攪乱を行ったが、多くは軽装で、空き 舟に乗ってやってきては、戦利品を満載して帰っていった。数え切れないほどの軍用物 資と兵器は、倭人のものではあり得ない。したがって、今回の戦争は百済に対して行わ れたものであるべきである』という(前掲書 232頁)。全く<想像>でものを言って いる。【多くは軽装で、空き舟に乗ってやってきては、戦利品を満載して帰っていった】 このような史料・記事はどこにもない。また、「十四年甲辰」条を見ても、主役は「倭」 である。「倭軍」と鎌倉時代以降の「倭寇」の区別もつかない。<妄想>の何物でもない。 「鈴木靖民」も私見と同じ考えを採る(「目黒区本」-118頁〕)。彼はまたその論拠と して、「沙□城」・「婁城・「□留城」は「百済」の城で「倭」はこの地に城を持っていな かったという。城についてはそのとおりであろうが、そのことと「倭」ではなく「百済」 のみが「高句麗」と戦ったという論拠にはならない。「倭」は「百済」と同盟を結び、 「高句麗」を攻めたことは「十四年甲辰」条の「和通残」でも明らかであるからである。 「十七年丁未」条は、欠字が多いため、「倭」の表記が見られないが、おそらくここに も「倭」の用語はあったであろう。以上、永楽6年~同14年を見ても、「倭」、「百済」、 「新羅」の用語は次のようになっている。ただし「倭」には「倭人」、「倭賊」、「倭寇」 を含む。 永楽6年 「倭」-1 「百済」-1 「新羅」-1 永楽9年 「倭」-2 「百済」-1 「新羅」-1 永楽10年 「倭」-4 「百済」-0 「新羅」-1 永楽14年 「倭」-2 「百済」-0 「新羅」-0 これが何を意味するかは言うまでもない。「高句麗」が海の向こうの「倭」が主敵で、 朝鮮半島経営の最大の懸案だったことを示している。このことは「倭」にとっても同じ だったのである。 ◆◆◆ 広開土王碑(27) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 2月25日(金)12時50分14秒◆◆◆ >碑文の解釈(24)< 前にも、『「辛卯年」条』に関して、これを史実でないという者に対して、反論を加えてきたが、「広開土王碑」全般における「倭」の侵攻に関して虚構だと言う者がいる(『倭と加耶の国際環境』東 潮 吉川弘文館 2006年8月10日 170頁)。こう考えると「広開土王碑」は王の戦勝碑の意味を持つから、碑自体が無意味となってしまう。これについても『「辛卯年」条』で記載した反論で事足りるが、一言付け加えておく。「倭」の侵攻については<虚構>だという「東 潮」も高句麗の新羅の侵攻は事実だとしている。その証拠として新羅に高句麗の武具、馬具、装身具、壺?が出土していることを挙げている(同書 176頁)。百済にも高句麗土器、耳飾、鉄製犂(すき)があると言う。ならば、日本はどうだろうか。もちろん存在する。ならば、高句麗は海を越えて日本にやって来て戦ったのであろうか。しかし、彼はそのような考えを採らない。当たり前だろう。「倭」が高句麗と朝鮮半島で戦ったことすら認めてないからである。遺物が出土したからといって、その国と戦闘を交えたなどと考える方が間違っている。「広開土王碑」が「倭」とは戦争はしなかったが、「新羅」、「百済」とはしたというのは何の根拠もない<机上の空論>である。つまり、<いいとこ取り>ということである。 ここまで「高句麗」と「倭」の抗争を見てみると、「高句麗」が「百済」、「新羅」を「属国」にしても、それは数年に止まり、再び「倭」に「臣民」にされるという連続だった。 碑文の戦闘はいつも「高句麗」の勝利に終っているが、「高句麗」が引き上げると「倭」がその地に再び侵攻して来たのである。朝鮮人研究者も中国人研究者も「倭」を<矮小化>したいだろうが、彼らの目論見は『碑文』によって粉砕されている。 「広開土王碑」では王が5万もの軍隊を率い、あるいは派遣して「倭軍」を粉砕したことが、記されている。このことは相手の「倭軍」が5万もの「高句麗軍」対抗したことが明らかであって、海賊などではなく、しかも、これは「倭」という国家を挙げての戦いだったと考えざるを得ない。その源はもちろん「大和政権」である(「鈴木靖民」-目黒区本 187頁)。 タイトル一覧に戻る |
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■■■ 日韓古代交流史――広開土王碑[乙:解釈2(第一部)]――(解法者)■■■ |
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■■■ 日韓古代交流史――広開土王碑[乙:解釈3(第二部)]――(解法者)■■■ |
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■■■ 日韓古代交流史――広開土王碑[乙:解釈4(第三部)]――(解法者)■■■ |
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■■■ 日韓古代交流史――広開土王碑[乙:解釈5(全釈文)]――(解法者)■■■ |
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◆◆◆ 広開土王碑(65) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 5月25日(水)15時10分13秒◆◆◆ >碑文の解釈(62)< 3.第三部 王(廣開土王)の「守墓人」として、従来から「高句麗」に所属していた地域から「國 烟」と「看烟」に分けて任命する。「賣勾余民」については「國烟」2戸、「看烟」3戸、 「東海賈」は「國烟」3戸、「看烟」5戸、「敦城」は「看烟」4戸、「于城」は「看烟」 5戸、「碑利城」は「國烟」2戸、「平穣」は「國烟」1戸、「看烟」10戸、「□連」は 「看烟」2戸、「俳婁」は「國烟」1戸、「看烟」43戸、「梁谷」は「看烟」2戸、「梁 城」は「看烟」2戸、「安夫連」は「看烟」22戸、「改谷」は「看烟」3戸、「新城」は 「看烟」3戸、「南蘇城」は「國烟」1戸、とする。 新たに「高句麗」の民となった「韓人」・「穢人」は、「沙水城」は「國烟」1戸、「看 烟」1戸、「牟婁城」は「看烟」2戸、「豆比鴨?韓」は「看烟」5戸、「勾牟客頭」は 「看烟」2戸、「求底韓」は「看烟」1戸、「舎蔦城韓は「看烟」1戸、「舎蔦城韓穢」は 「國烟」3戸、「看烟」21戸、「古須耶羅城」は「看烟」1戸、「莫古城」は「國烟」 1戸、「看烟」3戸、「客賢韓」は「看烟」1戸、「阿旦城」・「雑珍城」は合わせて 「看烟」10戸、「巴奴城韓」は「看烟」9戸、「臼模盧城」は「看烟」4戸、「若模盧城」 は「看烟」2戸、「牟水城」は「看烟」3戸、「幹弖利城」は「看烟」3戸、「弥鄒城」は 「國烟」1戸、「看烟」7戸、「利城」は「看烟」3戸、「豆奴城」は「國烟」1戸、 「看烟」2戸、「奥利城」は「國烟」2戸、「看烟」8戸、「須鄒城」は「國烟」2戸、 「看烟」5戸、「百残南居韓」は「國烟」1戸、「看烟」5戸、「大山韓城」は「看烟」 6戸、「農賣城」は「國烟」1戸、「看烟」7戸、「閏奴城」は「國烟」2戸、「看烟」 22戸、「古牟婁城」は「國烟」2戸、「看烟」8戸、「琢城」は「國烟」1戸、「看烟」 8戸、「味城」は「看烟」6戸、「就咨城」は「看烟」5戸、「彡穣城」は「看烟」24戸、 「散那城」は「國烟」1戸、「那旦城」は「看烟」1戸、「勾牟城」は「看烟」1戸、 「於利城」は「看烟」8戸、「比利城」は「看烟」3戸、「細城」は「看烟」3戸、とする。 |
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◆◆◆ 広開土王碑(66) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 5月27日(金)13時34分11秒◆◆◆ >碑文の解釈(63)< 始祖、先王たちは遠いところ、近いところの古くからの「高句麗」の民だけを王墓の 守墓人としたが、王(廣開土王)は存命のとき、その旧民の生活が困窮していくことを 心配し、私が亡くなった後は、私が自ら出陣し捕虜として連れて来た「韓人」・「穢人」 を墓守人とし、220戸をそれに当てよ。そして、彼らが墓守の規則を知らないことを 心配るので、新旧合わせて「國烟」30戸、「看烟」300戸、合計330戸を墓守人と するようにと命じられた。 始祖(上祖)・先王以来、墓の上に石碑を置かなかったので、守墓人の「烟戸」が記録 されず、間違いが起きていた。そこで、王(廣開土王)は守墓人の「烟戸」に関する記 録を碑に銘記して間違いが起きないようにした。これからは、自ら守墓人の地位を転売 してはならず、たとえ裕福な者がいたとしても、守墓人の地位をってはならない。 それに違反して守墓人を売る者があれば、買った者に刑罰を科し、自ら守墓人にならなければならない。 |
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◆ Re:広開土王碑(66) 投稿者:YOSHI-CHIKA 投稿日:2011年 5月28日(土)03時52分19秒◆ 解法者様、長文の執筆お疲れさまです。守墓人に捕虜を充てたということは、守墓人の仕事は相当苛烈だものだったのでしょうか? 一方で、守墓人の地位の売買が予想され、売買が厳しく禁じられていたところをみると、守墓人にはかなりの収入があったようにも思えます。どちらか正しかったのか、解法者に是非この件についての解説をお願いしたく存じます。よろしくお願いいたします。 |
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◆ 番 外 投稿者:解法者 投稿日:2011年 5月28日(土)23時44分26秒◆ 広開土王の守墓人 王陵を守る人を「守墓人」というが、中国においても初期(「漢」の時代ころ)には「陵」(王の墓)と「墓」(庶民の墓)を区別して使用しなかった。「高句麗」や「新羅」においてもその例にならっていた。したがって、「広開土王碑」における「墓」とは王の墓を意味する。「烟」とは「煙」の意味で、「烟(煙)戸」とは国家の戸口台帳(戸籍)の「戸口」の意味で、炊飯するときの煙を人家の象徴として現したものが語源で、朝鮮、日本に伝わったものである。詳しくは拙稿「朝鮮の戸籍制度」、「日本の戸籍制度」を参照されたい。 高句麗では「広開土王碑」でもわかるとおり「守墓人烟戸」を「國烟」と「看烟」に区別していたが、この両者の意味は詳しくはわからない。その比率は1:10となっており、併記するときは先に「國烟」、次に「看烟」となっていることとその比率から、「看烟」は「國烟」の補助者であったと考えられる。身分はいずれも「奴隷」である。最初は「旧民」(奴隷ではない)、つまり「高句麗」に従来から属する民衆を以って当てられていたが、任務は過酷であったため(報酬も少なく自費で守墓することが強要されていたと考えられる)、次第に困窮していき「守墓人」の任務を続けられなくなったりしていった。逃亡した者もあったものと思われる。この辺りの事情は「吾慮旧民轉当羸劣」(「広開土王」は「旧民」が困窮していくのを心配する)の碑文にも現れている。 また、制度が弛緩し、「守墓人」のなかには(おそらく権力者に賄賂などを使って)その地位を売渡す者が現れ始めたのである。これも「自今以後不得更相轉賣守墓人」(これから以後、自ら守墓人の地位を転売してはならない)の碑文にも現れている。 さらに、富裕者のなかには「守墓人」を金で買って、自分の使用人にしたり「守墓人」にする者も現れたのである。これも「雖有富足之者亦得擅買」(裕福な者がいたとしても、守墓人の地位を買ってはならない)の碑文にも現れている。 こうして「守墓人」が足りなくなったので、『新たに戦争で捕虜にした「韓人」(朝鮮半島南部の人々-百済人・新羅人を指す)・「穢人」(朝鮮半島の北部の日本海側にいた人々を指す)を墓守人とし、220戸をそれに当てよ。そして、彼らが墓守の規則を知らないことを心配するので、新旧合わせて「國烟」30戸、「看烟」300戸、合計330戸を墓守人とするようにと命じられた』と命じたのである。ここでもその比率は1:10となっている。このように「広開土王」は自分の死後、王墓を守ることが果たして可能なのかを異常なほど心配していたのである。 タイトル一覧に戻る |
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■ 日韓古代交流史――広開土王碑[丙:中原高句麗碑/壺杆]――(解法者)■ | ||||
◆広開土王碑(67) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 6月 1日(水)13時59分19秒◆ 碑文の解釈(64) 「広開土王碑」の主役である「廣開土王」の引き立て役となったのが「倭」である。碑文に出てくる「倭」は多く数える人で11ヶ所(「王 健群」)、少なく数える人で9ヶ所ある(「白崎昭一郎」-前掲書 344頁)。これに対して、「百済」は7ヶ所、「新羅」は6ヶ所、「任那」、「加羅」ほそれぞれ1ヶ所、である。「廣開土王」の戦闘は「倭」および「百済」との間で行われ、「新羅」との間にはない。つまり、「高句麗」にとって敵対国は倭」と「百済」であって、「新羅」ではなかったのである。「倭」は5度(辛卯年〔391年〕[辛卯年を391年と解する考え、私は331年と考える]、永楽8年〔399年〕、永楽10年〔401年〕、永楽14年〔405年〕、永楽17年〔408年〕)にわたり朝鮮半島に侵攻している。そのうち3度(永楽10年〔401年〕、永楽14年〔405年〕、永楽17年〔408年〕)は「百済」との聯合で、「百済」単独との戦いは1度(6年丙申条〔397年〕)、だと思われる(研究者によって異なるが、ほぼ通説)。一度は、今で言う38度線を越えて「高句麗」の領土内まで攻め込んでいる。「王 健群」は、『「廣開土王」が支配した約20年のなかで、主要な征伐の対象は百済であり、拡大した領土も漢水(現在のソウルを流れる漢江)以北の土地を指していると思われる。』と述べている(前掲書 207頁)。これは当たり前だろう。「高句麗」が国境を接していたのは「百済」であって、「倭」ではない。「倭」は朝鮮半島では「加羅」の地にあって「高句麗」とは遠く離れていた。「倭」の朝鮮半島の本拠地が「高句麗」に攻略されたのは「永楽10年(401年)」の1回のみである。しかも、属民や臣民になってない。このことは「倭」が強大であったことを意味している。だから、「倭」は何度も「高句麗」と戦うことができたのである。しかも、「高句麗」に攻略された「百済」がその後も「高句麗」と戦闘を交えることができたのも「倭」の支援があればこそであり、碑文にあるとおり「百済」は「倭」と聯合して、永楽10年〔401年〕、永楽14年〔405年〕、永楽17年〔408年〕と3回にわたって「高句麗」と戦えたのである。それほどまでに「倭」は朝鮮半島において強大な力を保持しており、「高句麗」にとっては最大の強敵であったと考えれれる。それに反して「新羅」は弱小で、辛卯年(331年)以来、何度も「倭」に侵略され、臣民とされ、その後、「高句麗」の支援により一時回復したものの、再び永楽8年(399年)には「倭」に攻め込まれ、永楽10年(401年)まで、その占領下にあり、同年、「高句麗」の支援により国土を回復できたのある。その後、碑文からは姿を消しているが、永楽14年(405年)条には「倭」が「帯方界」にまで攻め込んできたというから、「新羅」も再び「倭」に屈していたと考えられえる。「王 健群」ばかりか、「朴 時亨」・「金 錫亨」などの北朝鮮の研究者、「金 在鵬」・「千 寛宇」などの韓国の研究者、一部の日本の研究者(「山尾幸久」・「佐伯有清」・「浜田耕策」)も「倭」を<矮小化>しているが、『廣開土王碑』を見る限り、そういうことは<全くない>。このことは何も『廣開土王碑』ばかりではなく、『三国史記』・『三国遺事』および『日本書紀』でも明らかなのである。そして、これだけ「高句麗」と何度も戦闘を交えることができた背景には、日本本土における強大な王権が存在したことが明確である(「熊谷公男」-前掲書 44頁)。それはもはや「大和政権」しかないであろう。 |
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◆中原高句麗碑(68) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 6月 5日(日)13時53分31秒◆ 碑 文 「高句麗」の碑文と言えば、もう一つある。1978年に、韓国忠清北道中原郡(現在の忠州市)可金面龍田里で発見された高さ2.03メ-トル、幅0.55メ-トルの石碑である。「広開土王碑」と同じく「広開土王」の功績を讃えたものとされ、5世紀末の建立と考えられている。 碑の4面に漢字で書かれているが、磨耗のため右面・後面は判読不能となっている。碑文は次のとおりである。行ごとに記す。碑文は「六世紀の朝鮮三国と伽耶と倭」鈴木靖民(『伽耶はなぜほろんだか(増補改訂版)』大和書房 1998年3月20日 29頁)によった。その他のものとしては、『古代東アジアの文化交流』井上秀雄 渓水社 1993年10月1日 342頁、がある。 前 面 1 五月中高麗太王祖王公□新羅寐錦世世為願如兄如弟 2 上下相和守天東夷之寐錦□太子共前部太使者多兮恒 3 奴主簿□□□□□□□□去□□到至跪営之太子共□ 4 尚□上共看節賜□□□□□□□賜寐錦之衣服建立□ 5 用者賜之随□□□□奴客人□教諸位賜上下衣服教東 6 夷寐錦?還来節教賜寐錦土内諸衆人□□□□□國土 7 大位諸位上下衣服兼受教跪営之十二月廿三日甲寅東 8 夷寐錦上下至于伐城教来前部太使者多兮恒奴主簿□ 9 □□□境□募人三百新羅土内幢主下部□位使者□奴 10 □□奴□□□□蓋盧共□募人新羅土内衆人□□□□ 左 面 1 □□□中□□□□□不□□村舎□□□□味□沙□□ 2 □□□□□□□□□功□□□□□□□□節人□□□ 3 □□□□□□辛酉□□□□十□□□□□太王國土□ 4 □人□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 5 □□□□□□□□□上有□□□□□□□東夷寐錦土 6 内□□□□□方□□□沙□斯色□□□□加共軍至于 7 伐城丙子□古牟婁城守事下部大兄呂(正しくは耳+呂)□ |
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◆中原高句麗碑(69) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 6月 6日(月)11時52分12秒◆ 訳 文 欠字部分が多く、そのため文章も断片的にしか理解できず、なかなか意味が取れないが、欠字部分を省略して、訳を試みた。 (前面) 1.5月に(中)、「長壽王」(高麗太王祖王公〔在位 413年~491年〕)は「新羅王」(新羅寐錦)〔第21代「照知麻立干」[在位 479年~500年]〕)と永遠に兄弟のように 2.相和すことを、東の野蛮な「新羅王」と太子は「前部」(「高句麗」の統治機構の5部の1つ)に属する「太使者」(第6等官)の「多兮奴」に伴われ(「高句麗軍営」で)、共に誓うものである。 3.(「新羅王」と太子は)「高句麗軍営」の前で跪き、 4.「高句麗」の衣服を賜わった。 5.(今後は)「高句麗」の衣服制を用い、その僕(しもべ-家来)となることを誓い、「広開土王」の教えに従って、「新羅王」は「高句麗」の位階により上位・下位の衣服を賜わった。 6.東の野蛮な「新羅王」は、「広開土王」の教えに従い、新羅の国中で民衆を徴発し、これを高句麗軍に組み入れることを約束した。 7.「高句麗」の領土となった「新羅」の占領地の領民は、その階級に応じて「高句麗」の位階に基づいた衣服を賜わった。それと合わせて「高句麗軍営」の前で跪き、「長壽王」の命令を受けた。480年12月23日甲寅に、東の 8.野蛮な「新羅王」と上下の臣下は「干伐城」に集まり、「多兮奴」(前記の者)から、 9.占領地での300人を徴発する命令を受けた。「新羅」に派遣された「高句麗」の軍司令官(幢主)も 10.(同じく)占領地で民衆を徴発した。 (左面) 1~5 欠字のため意味不明 6.軍と共に 7.「干伐城」に集まった。「古牟婁城」(「広開土王碑」6年丙申条(397年)にある「高句麗」が「百済」より奪った城)の「守事」(官名-地方官)の「下部」(「高句麗」の5部の1つ)大兄(「高句麗」の位階者)「呂」(が記す) |
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◆ 中原高句麗碑(70) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 6月 8日(水)11時29分56秒◆ 解 説 この碑の重要なところは、あの「広開土王碑」の主役である「廣開土王」(在位 392年~413年)の後を継いだ「長壽王」(在位 413年~491年)の時代になっても「新羅」を属国として従えていたことが明らかになったことである。碑文の「480年12月23日」がそれを示している。この碑文に該当する時代の朝鮮の史書『三国史記』高句麗本紀を見てみると、「新羅」に関する記事は、424年に「新羅」の「訥祇麻立干(訥祇〔ヌルチ〕王」(在位 417年~458年)が使臣を遣わして聘礼(へいれい)を修めた、440年に国境にいた将軍を襲って殺したので、「長壽王」が出兵しようとしたが、「訥祇王」が謝罪したので中止した、の2つしかない。一方、同新羅本紀を見てみると、「訥祇麻立干(訥祇〔ヌルチ〕王」の代では、高句麗本紀の424年の記事のほか、440年の記事が450年となっている。次の「慈悲麻立干」(在位 458年~479年)の代では、468年に「高句麗」が「靺鞨」とともに北辺の悉直城(現在の韓国江原道三陟市-「慶州」〔王都〕から約180キロ)を侵攻した、とある。次の「照知麻立干」(在位 479年~500年)の代では、481年に「高句麗」が「靺鞨」とともに「興海」(現在の韓国 慶尚北道浦項市北区興海邑-「慶州」〔王都〕から約25キロ)まで侵攻してきたので、「百済」・「伽耶」の援軍と共に撃退した、484年に「高句麗」が北方の辺境を侵したので、「百済」と共に撃退した、とある。ここでは中原高句麗碑に見られる記事はないが、そもそも『三国史記』は「長壽王」から約600年も経ってから編纂されたもので、史料は散逸していたと思われ、事実を伝えているかについては大きな疑問がある。『日本書紀』・『続日本紀』とは比較にならない。広開土王碑でもそうだが、中原高句麗碑の方が事実を伝えているような気がする。 |
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◆ 壺?(71) 投稿者:解法者 投稿日:2011年 6月10日(金)12時15分25秒◆ 「慶州」の壺?塚(こうづか〔6世紀前半〕)から出土した「壺?」(青銅製の?〔椀〕)に「乙卯年国岡広開土地好太王壺?十」という文字が鋳出されていた。この銅?は乙卯年(415年)、つまり「広開土王」の没後3年(「長壽王」3年)に「高句麗」で製作され、「百済」にもたらされたものである。おそらく、「新羅」の王族に下賜されたものであろう。 壺?塚は直径16メ-トル、高さ5メ-トルの積石木槨墳であり、その被葬者は金銅製の冠・履・金製耳飾・指輪などの装身具を身につけ太刀を帯びていた。棺外には馬具・鉄?・青銅製容器などが副葬されていた。ここから「新羅」の王族に推定される。 この「壺?」から何がわかるかというと、「新羅」が「高句麗」の支配下にあったということである。前述の「広開土王碑文」の「辛卯年」条にある「百残新羅旧是属民由来朝貢」の状況がそのまま続いていたことを示している。前述の「中原高句麗碑」も同じで、「新羅」が「高句麗」の支配下にあったのは「広開土王」の没後100年くらいではなかろうか。 〔この稿 完〕タイトル一覧に戻る |
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「倭の五王」以前における同時代の確実な記録と言えば、広開土王碑文と七支刀銘文がある。明治時代に石上神宮の禁足地より出土した七支刀銘文の訓読は諸説あるが、ここでは「泰和四年五月」に「百済王世子奇生」が「倭王旨」に贈呈した刀であるとする説に従うことにする。泰和四年は三六九年に当たる。『三国史記』百済本紀は、この年の九月、高句麗王が二万の軍勢を率いて攻めて来たので、百済王は太子(仇首)を派遣して大破したと記している。高句麗の侵攻を間近にした「百済王世子奇生」は、「泰和四年五月」に、背後の倭国と連盟して高句麗と戦うために「倭王旨」に「百錬の鋼」で造った七支刀を贈ったのであろう。この刀については『日本書紀』神功紀五十二年九月の条に、百済より「七子鏡一面、及び種種(くさぐさ)の重宝」と共に献上されたと記されている。神功紀五十二年は二五二年に当たるので、その干支を二運(一二〇年)繰り下げて三七二年のこととする説が一般的だが、これは比定を間違っている。神功皇后は神功紀五十一年(筆者の紀年解読によれば三六八年、この年から神功紀六十九年までは太陽年)に崩御しており、その翌年の神功紀五十二年(三六九年)九月に、七支刀が我が国にもたらされたのであろう。「倭王旨」は即位したばかりの応神天皇に当たる。その即位の祝いも兼ねて「七子鏡一面、及び種種の重宝」が贈られたと思われる。 広開土王碑文に記された辛卯年(三九一年)以来、広開土王と激しく戦ったのは応神天皇である。紀年を訂正した『日本書紀』の記事と広開土王碑文や『三国史記』の倭国関係記事は見事に一致している。おそらく、四〇七年の戦いを前にして、応神天皇は崩御したのであろう。 |
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(私論.私見)