古墳考 |
更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3).3.12日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで古墳について確認しておく。 2011.8.7日 れんだいこ拝 |
【卑弥呼塚考】 | |
魏志倭人伝の「卑弥呼死す。大きな塚を作る。徑百余歩」の「大きな塚を作る。徑百余歩」についてにつき、「徑」の記述に注目し、これを「方」で測れない円形と推理したい。對島国について「方四百余里可り」の記述があり、これとの対比で見れば、「徑」は全体の円周囲か片方の半円周囲かを意味しているのではなかろうか。これより、邪馬台国時代の墳墓は円墳だったとの推理が成り立つ。「解読取り決め52、邪馬台国時代の墳墓としての円墳考」で次のように述べた。
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【古墳概論】 |
「ウィキペディア古墳」その他を参照する。
古墳(こふん)とは、一般に日本史上、3世紀後半から7世紀前半に築造された墳丘を持つ古い墓である。日本史では、墳丘を持つ墓は墳丘墓と呼んでいるが、この内、3世紀後半から7世紀前半に築造されたものを特に「古墳」と呼んで区別している。古墳は、規模や化粧方法の違いによって類別されるほか、その平面形状、さらに埋葬の中心施設である主体部の構造や形態によって細かく分類編年されている。墳丘の築造にあたっては、盛り土部分を堅固にするため砂質土や粘性土を交互につき固める版築工法で築成されるものも多いこと、こうした工法は飛鳥や奈良時代に大規模な建物の基礎を固める工法として広く使用されていることが、修繕時の調査などで判明している。北海道式古墳として末期古墳がある。7~10世紀に東北地方北部や北海道で造られた墳墓で、「蝦夷塚」とも呼ばれる。 古墳時代には、死者を棺に入れて埋葬した。棺の材料によって、木棺、石棺、陶棺、乾漆棺などがある。木棺のうち刳りぬき式のものは、巨木を縦に2つに割って、それぞれ内部を刳りぬき、蓋と身とが作られたものと考えられ、「割竹形木棺」と呼び習わされている。しかし、巨木を2つに割るというが、竹を2つに割るように簡単にはいかないので用語として適切かどうかを指摘する向きもある。つぎに「組合式」といわれる木棺は、蓋、底、左右の側板、計四枚の長方形の板と、前後の方形の小口板、時には別に仕切り板が付くこともあるが、二枚とを組み合わせて作った。 |
【前方後円墳論】 | ||
王巍氏は次のように述べている。
小林行雄氏も、その著「古墳時代の研究」64Pで次のように述べている。
高橋克壽氏も、今のところ前方後円形の系譜を直接大陸に求めることは難しいと記す(「埴輪と古墳の祭り」、『古代史の論点5 神と祭り』一九九九年、小学館)。 |
【天皇陵論】 |
泉湧寺(せんにゅうじ)は、京都市東山区にあり、大化改新で活躍した中大兄皇子(天智天皇)らの位牌が納められている。古都の山麓にある境内には中世から近世までの14基の天皇陵が並ぶ。 1867年の大政奉還の直前に死去した孝明天皇の陵は、泉湧寺の隣接地に巨大な円墳が築かれた。明治天皇陵は、泉湧寺から約5キロ離れた豊臣秀吉が築いた伏見城本丸跡地に当る広大な敷地約9千㎡に上円下方墳が造営されている。大正天皇陵は東京都八王子市の武蔵陵墓地に上円下方墳。昭和天皇陵も上円下方墳。 |
【百舌鳥・古市古墳群(もず・ふるいちこふんぐん)考】 | ||
2019.5.28日、島崎晋「世界遺産登録へ 「百舌鳥・古市古墳群」の謎を歴史作家解説」その他参照。
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2021.7.21日、「ヤタガラスの娘」の「【仁徳陵/百舌鳥耳原中陵】真の被葬者は?」参照。 日本書紀は次のように記している。
地名の「耳原」は、古墳造成時に「鹿」が狂ったように走ってきてぱたりと倒れ「耳」から「百舌鳥」が出て来たという謎伝承による。「悉咋割剥」とあり、耳の中を「ことごとく咋(掘る)割る剥く」というすごい描写になっている。何を隠喩しているのだろうか。「鹿」は、「鹿」をメタファーとした氏族(物部→蘇我→中臣→藤原)を連想させる。その「鹿」を啄(ついば)む「百舌鳥」は一名「ミソクイ鳥」とも呼ばれていた。鹿の「耳」は、娘たちがタタラヒメと名付けられた通り「鉱脈」を掘削する職掌だった三島湟咋耳神と結びつく。その鉱脈の様子を耳穴へ置き換え、鑿(のみ)痕も荒々しく「悉咋割剥」と表記している。「湟咋耳神」の「咋」まで文中に残している。この真の被葬者は、海洋民であり、製鉄民でもあり祭祀のカリスマでもあったことを暗喩しているのではないのか。ヤタガラス三島湟咋耳神の氏族とその部曲(かきべ)たちは、船を通す運河開削工事から治水、土木、鉱脈掘削に優れた技術集団へ成長し古墳造成の技術集団ともなった。 サイドストーリーには、次のような奇妙な伝承もある。大山陵という呼称も大三島大山ツミの「大山」?に結びつく。仁徳にまつわるカケオチと嫉妬の伝承に登場する姫たちの名前が、・八田若郎女(ヤタノワケノイラツメ)仁徳后、・黒日売(クロヒメ)仁徳側室、女鳥王(メトリノキミ)仁徳の異母妹。これを「ヤタ、黒、鳥」を連想させ、ヤタガラスに結び付く。ヤタとイワの対比は、八咫烏と磐船(イワフネ)や、三島日女神=コノハナサクヤとイワナガヒメの対比の模倣をも思わせる。 |
【大山古墳考】 |
世界遺産に登録された大阪府堺市にある「大山古墳」は日本最大の前方後円墳であり、仁徳天皇陵とされている。但し、「仁徳天皇の墓ではないのではないか」との論争が起きている。仁徳天皇が埋葬されたのは4世紀末ごろ。今から300ほど前には仁徳天皇の墓とされ、今は宮内庁が仁徳天皇陵として管理している。仁徳天皇は4世紀頃に実在したとされ、民家から炊飯の煙が立ち昇らないのを見て生活の厳しさに気づき、3年間税を免除したという伝説の天皇である。 2021.11月、立ち入り禁止の場所にカメラが入った。天皇の墓として管理する宮内庁が「古墳の保全工事に向けて堤の遺物を調べるため」として堺市と発掘調査を行った。その結果、前方後円墳を囲む堤の内側から初めて「円筒埴輪列」が見つかった。築造時は堤の両側に埴輪列が並ぶ壮大な姿であった可能性があり、埋葬されている人物の権力の大きさがうかがえる。宮内庁書陵部/徳田誠志陵墓調査官 「今回は第1堤の一番幅の広い所にトレンチを設定して、内側の埴輪列があることを確認いたしました。荘厳化だとか、より装飾をするということは考えられます」。大山古墳の復元模型を展示する大阪府立近つ飛鳥博物館の白石太一郎名誉館長は8世紀に編纂された日本書紀などに「大山古墳が仁徳天皇の墓」と書かれていることを論拠に「大山古墳は仁徳天皇の墓」だと主張し、 「古事記や日本書紀にも、仁徳天皇陵は和泉の国の百舌鳥にあって、『百舌鳥耳原中陵』と。百舌鳥古墳群には中陵・南陵・北陵などがあるのですけれども、その相対的な位置が大体分かるわけで。そういうものから考証して、これは仁徳天皇陵に間違いないだろうと」。他方、これに異を唱える研究者がいる。大阪市立大学文学研究科の岸本直文教授は「大山古墳は別の天皇の墓。「大山古墳は5世紀中ごろ(の完成)で年代的に見合うのは允恭天皇と考えていいだろうというのが私の考えです」という。允恭天皇は仁徳天皇の子で5世紀中ごろに亡くなったとされている。岸本教授によると、古墳から出土する土器や馬具の研究から大山古墳が完成したのは5世紀中ごろであり、没年が一致するのは仁徳天皇ではなく允恭天皇だという。徳のある伝説を持つ仁徳天皇を一番大きい古墳に当てる気持ちはわかるが少し操作をしているということはあるのではないかと」。研究者の見解が分かれる中、宮内庁は『仁徳天皇の墓』という考えを変えるつもりはないという。宮内庁書陵部/徳田誠志陵墓調査官 は「被葬者についていろんな学術的な見解・学説があるのは承知しておりますが、それで今すぐ宮内庁が治定をどうするという問題ではないと思っております」。 過去には「継体天皇の墓」とされていた古墳が“違う天皇の墓”だったケースもある。6世紀前半の「継体天皇の墓」として宮内庁が管理する古墳に対し1.5km東にある「今城塚古墳」が有力になっている。今城塚古代歴史館/内田真雄館長 「6世紀の前半に築かれた古墳だということがわかっており、継体天皇の古墳だと考えるのが有力」としている。今では『今城塚古墳=真の継体天皇の墓』であることが研究者の定説になっている。ここは大阪府高槻市が管理して公園として市民の憩いの場となっている。出土した埴輪などの年代から継体天皇の墓なのはほぼ確実になっている。今城塚古代歴史館/内田真雄館長) 「宮内庁が管理されている陵墓は今もお祀りの対象ということで、皇室財産という位置づけになりますので、その部分は発掘調査はなかなか一足飛びには行かないと思いますね」。 宮内庁の管理で立入禁止の大山古墳。発掘調査も保全工事に伴う周辺のものに過ぎず全容解明はほど遠い。今は立入禁止の古墳の中も、かつては民間の土地で、多くの人が中に入っていたという。堺市博物館・学芸員/白神典之さん 「戦国時代、その以前からおそらく地域の人たちが入って里山的な利用、濠についてはため池的な利用をしながら、古墳と共に生きていった暮らし。共生ですよね、まさに」。大山古墳は一体誰の墓なのか、それは永遠の謎なのか。堺市博物館・学芸員/白神典之さん 「被葬者が確定するということはないんだろうと思うんですけれども、(発掘調査が進めば)今考えられている以上に古墳が作られていた年代が絞られていき、正確になっていくということは期待できるかと思います」 (2022年2月18日放送 MBSテレビ「よんチャンTV」内『コダワリ』より)。 |
【韓国の前方後円墳考】 |
「FB上島嘉郎」その他参照。 2020年10月から2021年2月にわたって朝鮮半島最大の前方後円墳が発掘調査された。しかし、その古墳は再び埋め戻されてしまった。いったい、何があったのか? 長鼓峰古墳と呼ばれるその古墳は、5~6世紀の日本の前方後円墳にそっくりな墓の構造をしている。調査の結果、同年代の九州の石室墓特有の構造であることが明確となった。 天井や壁面には、日本の弥生時代以来の古墳の典型的な特徴である赤い朱漆が塗られた跡が残っていた。それに加えて、墓の内部への入口には、ふた付きの皿が10点ほど発見された。その中には、魚の骨や肉類などの祭礼での食事と推定される有機物の塊も検出された。これについて、チョ・グヌ研究院長は、「日本の古墳で確認された祭礼の遺物と類似の内容物と配置が注目される」と説明している。また、墓の内部を直接調べた慶北大学考古人類学科のパク・チョンス教授は、「九州の倭人の墓に入った時と印象がまったく同じだった」と述べている。 朝鮮半島南部には14基の前方後円墳が存在している。1983年、韓国の朝鮮半島西南部の栄山江(ヨンサンガン)という川の流域で前方後円墳が発見され、それ以降も、日本特有の前方後円形(かぎ穴形)の墳形を持つ古墳が確認された。当時、韓国の学者は、日本の学者と共同調査をし、「前方後円墳は、韓国から日本に伝来した」と主張をした。その主張が覆されることとなった。なぜなら、日本の前方後円墳が3世紀から6世紀に造成されたものなのに対し、朝鮮半島にある前方後円墳は、どれも5世紀後半から6世紀中頃の時期に成立したものということが判明したからである。 日本特有の古墳であると判明した根拠の一つに「ヒスイ」がある。朝鮮半島の前方後円墳から、ヒスイでできた勾玉(まがたま)が出土された。勾玉(まがたま)に使われたヒスイの産地は、アジアでは日本とミャンマーにほぼ限られている。朝鮮半島での出土例は、日本より時期的に古いものが見られないことに加えて、最新の化学検査により、朝鮮半島出土の勾玉は新潟県糸魚川周辺遺跡のものと同じ化学成分であることが判明した。日本から朝鮮半島へ伝わったことが科学的に証明された。 さらに根拠を挙げると、朝鮮半島の古墳からは、日本独自の人物や動物の「形象埴輪」や、短甲(みじかよろい)と呼ばれる日本以外では朝鮮半島南部でしか出土していない、丈の短い甲冑も出土している。こうしたことから、朝鮮半島にある前方後円墳は「日本人(倭人)の墓」ということが濃厚となり、前方後円墳は、韓国から日本に「伝来」したものと思い込んでいた韓国政府と学者は、こっそりと古墳を埋め戻したり、あるいは、墳墓の形を変え、前方後円墳とわからないように変形させたりしてきた。朝鮮半島最大の前方後円墳を埋め戻した真相は、80年代に発掘した前方後円墳と変わらない方法で、歴史的な事実を封印した、ということである。なぜ韓国は、ここまでして貴重な歴史遺産を封印するのか・・・? 韓国には「日本の文化はすべて韓国から渡来した」と主張する人々が存在する。前方後円墳が日本人のものであるということが明確になってしまうと、反日感情を優先する韓国式歴史観からすると我慢ならないことになる。 |
(私論.私見)