第9部 | 金印考 |
(最新見直し2009.8.29日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
1784(天明4).2.23日、筑前の国那珂郡志賀島で、「漢委奴国王」と刻文のある金の印章が発見された。甚兵衛と云う名の農民が耕していた田畑で見つけ、黒田藩に届け出た。この時の届け出書が現存しており、甚兵衛の口上書とそれが間違いないと併記した庄屋武蔵、組頭吉三、勘蔵の名が記されている。この金印発見のいきさつについて諸説あり、甚兵衛の作人であった秀治、喜平の二人が発見したという説もある。発見当時、黒田藩はこれを儒学者達に鑑定させ、藩校修猷館の館長・教授達が数人がかりで出した結論は、漢の光武帝から垂仁天皇に送られた印であり、安徳天皇が壇ノ浦に沈んだとき海中に没したが、志賀島へ流れ着いたものであろうというものだった。金印発見のニュースは、当時としては異例の早さで中央に伝わり、京都の国学者・藤貞幹(とうていかん)は、委奴は倭奴(いと)であるとしてこれを伊都國(今の福岡県糸島郡)王が光武帝から授かった金印であるとする説を発表した。大阪の上田秋成もこれを支持している。その後も様々な説が現れたが,落合直澄(1840〜91)が明治二十年代に「漢(かん)の委(わ)の奴(な)の国王」という読み方をあみ出し、三宅米吉がこれを発表してからは、それがほぼ定説となった。現在は、金印は後漢書・光武帝本紀に書かれている「光武賜うに印綬を以てす」の一文にあるとおり、漢の光武帝が奴国の王に与えた印そのものであると理解されている。 | |
「邪馬台国研究史(2) 」の「金印の発見と江戸時代の邪馬台国研究」は次のように記している。
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(私論.私見)
江戸時代、天明四 ( 1784 ) 年二月二十三日、博多湾の志賀島 ( 離れ島・現在は陸続き ) で、百姓の甚兵衛の作男、秀次と喜平の二人が、田の溝を金槌で修理していると、土の中の石の側から光るものがあるのを見つけた。不思議に思って、それを水で洗うと、金で出来た印判であるかのようだった。甚兵衛の作男たちが金印を掘り当てたというのは、すぐ村の噂となり、それが黒田藩に聞こえて提出を命じられる。
だが、黒田藩へこの金印が渡る前には、こんな話も残っている。
作男から金印を届けられた甚兵衛は、兄の喜兵衛に相談。喜兵衛は、博多で米屋を営む才蔵に、この金印を売っているのである。この才蔵が、これはただものの品ではないと思い、郡奉行津田源次郎に見せた。黒田藩にあって、この金印の鑑定をしたのが、藩校甘棠館々長で、医者であり儒者でも会った亀井道載、南冥である。
儒者、南冥は後漢書にある倭伝の記述を知っていた。
「建武中元二年、倭奴国奉貢朝賀ス 使人自ラ大不夫ト称ス 倭国ノ極南界ナリ 光武賜ウニ、印綬ヲ以テス」
金印は黒田藩が買い上げ、南冥は、「金印弁」を発表、最初は、「漢委奴国王」の読み方を「漢のヤマトの国の王」としたが、後、「漢の伊都国王」と読み改めることになる。
この金印発見は江戸にも伝わり、儒学者の注目を集めることになるが、金印発見の年、早くも、上田秋成が南冥の伊都国王説を援藩している。
「此委奴トニ云ハ皇朝ノ称号ニアラズ、当今筑紫ノ里名ニテ魏志ニ云 伊都国是也、伊都国ト云ハ 和名抄ニ筑前国怡土郡アリ」
この伊都国王説は、江戸時代から明治二十五年の三宅米吉の漢の倭の奴の国の王の解読まで、長い間、主流を占めていた。
光武帝による奴国への金印授与の五十年後、倭国王が、生口、百六十人を献じて請見を行ったと後漢書にあり、又、宮内庁蔵の北栄版「通典」には、「倭面土国王師升などが生口を献じた。」とあることから、倭面土は倭の面(イ)土(ト)国と読むべきであると主張したのも、南冥や上田秋成らの流れに沿ったものだと思える。
この委を倭であると三宅米吉が断定し、代々の学説がそれを認め、教科書にあってもそう教えるのは、「後漢書」委伝に、
「建武中元二年( 57 年)、倭の奴国、奉貢朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武、賜うに印綬を以てす。」とあるからである。
後漢書の書かれたのは五世紀になってからであり、すでに「倭」という名は充分に知れ渡っていたこともあり、「後漢書」の著書、范曄は迷うことなく、この金印を「漢倭奴国王」と解いたであろう。
だが、もし范曄が、知る渡る先入観によって委を倭としたとすれば?金印には倭の文字はなく「漢委奴国王」」となっている。
それでは、光武帝の後漢王朝が、倭をまちがって委とした金印を授けたことになる。
金印に彫られた「委」が正しいのか、五世紀の范曄の「後漢書」の倭が正しいのか?
後漢王朝の時代にも、既に倭という国の存在は知られていたであろうが、それでも、「後漢書」の五世紀の時代に比べれば、それほどでもなかった。使者にしても、漢字の読解力はいたって乏しい。
そこで、金印の文字の倭が委となっていても、それほど問題にならなかったのかもしれない。とすれば、やはり委は三宅米吉のいう倭ということになるのだが、私にはまだ、南冥や上田秋成、白鳥庫吉らが、草葉の陰から、金印は委奴伊都国王に授けられたと主張しているように思えてならないが、ここでは三宅の「漢の奴の国の王」に従って話を進める。
漢の国から、「漢委奴国王」の金印を受けた一世紀の奴国は、その印の文字が示す通りに、漢に隷属する国であった。そして三世紀に、奴国は長官を「?馬觚」といい、副官を他国に多く見られる卑奴母離に率いられる戸数二万余戸の邪馬台国、第三の古代都市の賑わいを見せていた。当然隣国、伊都国の一大率の監視下にもある。
漢への隷属から邪馬台国への隷属、奴国は大きな変境を見せているのである。もっとも、「漢の倭」であるなら、一世紀に既に、倭そのものが漢に隷属していたということにもなる。
日本の歴史書にこの部分に迫る記述が少ない。
かつて、日本は中国の属国であったとするには、特に戦前には、国策上、抵抗が大きかったことにもよるのだろうが、卑弥呼の時代になって、金印は「親魏倭王」と変化して、いくらか地上が上昇したにせよ、弥生時代初期中期には、倭が中国の属国であったことは中国の史書によって明らかである。
漢の倭から、漢と親しき倭王への変化と、この超国宝ともいえる貴重な金印が、千七百年もの間、土の中で眠り続けていたこと、それに卑弥呼登場直前の倭国の大乱、この三つのキーワードが奴国の正体を知る鍵ともいえる。
この金印発見なくして、今日の邪馬台国論争はない。
しかしなぜ、かかる貴重な金印が、土の中に埋められていたのだろうか。
当然考えられることは、奴国の滅亡説である。他には、志賀神社への奉納説、出土地が志賀神社祭主の宅跡、穢れの宗教的観念から隔離して、この地に埋めたと、色々推測されてはいるが、確かなことは、奴国支配者がこの金印を手離したのは、よりどころのない戦乱のような事態が発生したからだと推測出来る。この金印を持って逃亡中、敵に見つかり、この金印を持っていれば、王、又はその一族と見られ、すぐにも殺されてしまう、そんな時、密かに土の中に埋めたとするなら理解出来る。
その戦いを倭国の大乱とするに無理はなかろう。
「魏志」にある。「其の国 ( 倭 ) 、本亦男子をもって王と為す。住まること七、八十年にして倭国乱れ、間攻代して年を経、すなわち共に一女子を立てて王と為し、名付けて卑弥呼と日う」
そしてこの記事をもとにする「後漢書」倭伝には、「恒霊の間 ( 147から188年 ) 倭国大いに乱れ、さらに相攻代して歴年主なし」とあり、「梁書」倭伝には、「漢霊帝光 ( 178から183年 ) 和中、倭国乱れ、相攻代して年を経」とあって、中国史書には、二世紀に倭国で乱れがあったとされている。
後漢光武帝が奴国に金印を与えたのが、西暦57年。魏志の「本亦男子を以て王と為す」の王は奴国。その王族をさしているのか、それとも、光武帝が奴国に金印を授けた五十年後の西暦107年、「倭国王が生口百六十人を献じて ( 後漢 ) に請見を行った」、その倭王をさすのかは定かではないが、恒霊の時代の最大の事件の黄金の乱発生の184年前後に、倭国にても大乱があり、やむなく卑弥呼を共立して、ほぼ国家統一をなしたとされている。
「魏志」の冒頭、「もとは百余国であった。漢のとき朝見するものがあった。いまは使者と通訳の通うところは三十カ国である。」も、倭国大乱があったことを志唆している。
それらの記述から、奴国の請見、倭国の請見、いずれの時代も、倭の国は多くの国 ( 百余国 ) によって形成されていたことが知れる。倭国の大乱は、その百余国が相攻代する古代の大戦国時代ともいうべきものであった。
「魏志」の「住まること七、八十年にして倭国乱れ」、この住まるを、七、八十年戦乱が続いたとする説もあるが、「男子を以て王と為す、往 ( これより先 ) 七、八十年にして倭国乱れ」と読むべきだとする植村清二らの説に従えば、倭国王の請見 ( 107年 ) から七、八十年とすると、丁度、恒霊の時代と合致する。
黄巾の乱の184年、卑弥呼何才であったかは不明だが、卑弥呼の死が247年とされているから、その死 ( 魏志には年すでに長大とある ) を八十才と仮定して逆算すると、黄巾の乱のときの卑弥呼の年齢は十七才ということになる。
黄巾の乱と倭国の大乱の因果関係はないのか?
中国史にあって、この黄巾の乱は、後漢の崩壊と魏、呉、蜀の三国時代 ( 220〜280年 ) の誕生の要因となった大事件として記録されている。
184年の黄金の乱で中国全土が戦場となり、朝鮮半島には、その乱をさけて莫大な数の難民が押し寄せてきた。当然、倭国にもその余波はあったであろう。この後漢の危機は、そのまま漢に隷属する倭国の危機の到来でもあった。
ここで改めて仮説を立てることにする。
それまで漢のシンボルマークの赤い巾を後ろ盾とし、その間の威をもって、平和を維持してきた奴国やヤマトの倭に対し、それまで不満をもっていた百余国のうち、多くが反旗をひるがえし始めた。
つまり、倭国における新漢系国と反漢系国との対立である。
この戦いは、黄金の乱の184年から、後漢滅亡、魏王朝誕生の220年までの長きに渡って繰り広げられた。
しかし、最終的には勝利は新漢系国の連合が勝ち取った。一時は奴国も滅亡の危機を迎えたが、ヤマトの倭を中心とする連合体によって救われた。
百余国あった国は統合され、三十カ国と激減した。
その勝利を得た国々によって誕生したのが邪馬台国であり、女王として共立したのが卑弥呼であった。
この倭国の大乱にあって、卑弥呼は多くの予言、警告、作戦提案をなし、連合体を勝利に導いた。時にはジャンヌ・ダルクのように戦場を駆けたのかもしれない。
その奴国にあった金印は、一時的滅亡によって、1700年の眠りについた。
奴国は、現在の福岡市、那津港から見れば、右に志賀島のある博多湾をのぞみ、左に糸島半島 ( 伊都国 ) を見る事が出来る。湾を出れば玄界灘だ。市内を流れる那珂川流域には板付遺跡があり、奴国の中心地であったとされる春日市には弥生の遺跡が、岡本遺跡他三十ヶ所に点在している。
まさに、「弥生遺跡の銀座」といわれるゆえんである。