第一節 卑弥呼の王権は大和王権ではない |
中国の史書によれば、三世紀における日中の交流は、西暦239年の卑弥呼による魏への朝貢に始まり、266年の倭の女王による晋への遣使に終わる。それ以後約150年
間、倭は中国史書から姿を消す。いわゆる「空白の四世紀」である〔図1B〕。古代史最大の謎の一つは、この150年間の空白期に一体何が起きたのか、である。そこで問題となるのは、我が国の史書である古事記、日本書紀(以下、記、紀と略す)がこの空白を埋めるのに果たして役に立つのか否か、である。それを検証するために、記紀の叙述に沿って、大和王権がどのように日本列島における覇権を確立し、また外交を展開したのかを辿ってみよう。崇神天皇(第10代)は、北陸、東海、西道、丹波の四方面に四道将軍を送り、その地を平定した。そのため、天皇は「初めて国を統治した天皇」と称えられた。この時大和王権は
吉備を制圧した。それに続いて出雲が大和王権に屈服した。景行天皇(第 12 代)は九州の熊襲を倒し、仲哀天皇(第14代)は北部九州を支配下に入れた。次の神功皇后は、海を越えて朝鮮半島に進軍し、新羅を従属させた。これを機に百済と国交を結ぶこととなった。こうした一連の経緯は自然な流れとして我々は理解できる。そこに無理や不可解はない。にもかかわらず、戦後の歴史学は記紀を敢えて無視してきた。その記述を裏付ける物証や史料を欠くならば、そうした姿勢は許されるかもしれない。ところが実際にはそうではない。第一に、記紀によれば、崇神、垂仁、景行の連続三代は磯城・纏向の地に宮を置いた。ところで考古学によれば、三世紀の大和王権の中心地は纏向遺跡である。これは三世紀初頭(ないしは二世紀末)に突如現れ、三世紀を通して隆盛を誇り、四世紀初頭に急速に衰退した。このことは、記紀の記述と合致する。第二に、記紀によれば、崇神朝の晩期に大和王権は列島の主要勢力を制圧ないしは従属させた。このことが大和王権による全国統一を決定づけた。
ところで紀によ れば、崇神朝において箸墓古墳が造営された。これは古墳時代の幕開けを告げる画期的な古墳であり、その造営を機に堰を切ったように巨大古墳が次々と築かれた。つまり、記紀に記される新時代の到来と、考古学上の古墳時代とが合致している。第三に、記紀によれば、孝元天皇の皇子に命がいる。崇神朝にあって、北陸(古事記では高志道)に派遣されて武功を挙げた四道将軍の一人である。埼玉県行田市・稲荷山古墳出土鉄剣の銘文に「オホヒコ」という名があったことにより、この人物の実在が確からしくなった。第四に、紀によれば、神功皇后の時代に百済から「七枝刀」が贈られた。これは奈良県の石上神社が所蔵する七支刀に当たる。つまり、紀の記述が物証として確かめら
れる。第五に、高句麗の好太王碑の碑文には、四世紀末に倭が百済と新羅とを臣民としたとある。このことは、神功皇后の時代に大和王権が新羅と百済とを服属させたとする紀の
記述と整合性を持つ。第六に、紀によれば、大和王権の対中国外交の開始は五世紀初頭である。このことは、中国史書における「空白の四世紀」に合致する。なお、これについては後述する。
以上、大和王権の勢力拡大に関する記紀の記述が合理性を持つこと、しかもそれを裏付ける数々の証拠があることを明らかにした。このことは、意外にも記紀の信憑性がかなり高いことを示している。初期大和王権の歴史について、記紀からは相対年代は分かっても、絶対年代は分からない。それには他の手掛かりが必要になる。その一つが箸墓古墳である。考古学者の大勢はその築造を三世紀半ばから後半としている。だとすると、崇神朝が丁度その頃ということになる。次なる手掛かりは七支刀である。そこには「泰和四年」に制作されたとする銘文が刻まれている。これは東晋の年号であり、西暦369
年に当たる。だとすると、神功皇后の時代が四世紀後半であることになる。
以上を踏まえて邪馬台国問題に当たると、大和・畿内説が全くあり得ないことが明らかになる。その主な理由は次の三点である。①記紀によれば、三世紀前半の段階では、
北部九州はおろか吉備や出雲ですら未だ大和王権の支配下になかった。しかし、三世紀前半に活躍した卑弥呼は北部九州を統治していた。②卑弥呼の後継者である台与の時代は三世紀後半である。ところで、先述したように、その時期は大和王権では崇神天皇の時代に当たる。台与は女性、崇神天皇は男性である。③記紀の皇統譜に、卑弥呼および台与に該当する女帝は存在しない。これら三点から、卑弥呼・台与王権と大和王権とは全く別物であることが分かる。
その上で、卑弥呼・台与王権は北部九州を統治していたことを鑑みると、それは大和王権より西ないしは北に位置していたと言える。上の結論は、次の二点により更に補強される。第一は、大和王権の対中国外交である。それが記紀において初めて記されるの
は応神『紀』三十七年春二月である。「、を呉に遣し、を求めしむ」という記事のことだ。ここでいう「呉」とは中国の南部を指す。これが対中国外交への大和王権のデビューである。ところで、先述の通り、神功皇后の時代が四世紀後半である。となると、応神朝
晩期のこの記事は五世紀初頭の頃と推定される。であるならば、三世紀前半の外交の担い 手は大和王権ではないことになる。つまり、卑弥呼の王権は大和王権ではないことにな
る。第二は、大和王権の漢文力である。記紀によれば応神天皇の時代に百済から良馬が贈られた。その馬飼いとして来朝した人物が偶々漢文を得意とした。そこで天皇はそ
の馬飼いを皇太子の教師とした。その後、より優れた学者である王仁を百済から招き、王 仁を師として皇太子に漢文を学ばせた。これは四世紀末から五世紀初頭頃と推定される。これから分かることは、その当時、皇太子にまともに漢文を教えられる人材が王権内にはいなかったことだ。一方、魏志倭人伝によれば、三世紀前半の段階で卑弥呼の王権は魏と文書による外交を行っていた。つまり、漢文力という点で卑弥呼王権と大和王権とには雲泥の差があり、従って両者は異なると見るのが自然である。
以上、大和王権は卑弥呼・台与王権とは異なることを確認した。これが意味するところは重大である。というのは、最終的に全国を統一したのは大和王権であるからだ。とすると、次のような結論に導かれる。すなわち、266年以降、卑弥呼・台与の倭国は滅び、それに替わって大和王権が全国を統一した。かくの如き大きな政治的地殻変動が起きたことが、150 年の空白を生んだ最大の要因である。 |
第二節 邪馬台国の所在地は吉備である |
前節において、邪馬台国は大和の西ないしは北にあったと結論した。であるならば、九州説が正しいのだろうか?否、以下に述べる理由により九州説は成り立ちがたい。第一に、邪馬台国は伊都国や奴国よりも多くの人口を抱えていた。また、卑弥呼の墓は伊都国や奴国の王墓より立派であったはずだ。ところが、三世紀前半の段階で、集落や王墓の規模において、伊都国や奴国を凌ぐ場所が九州内部に認められない。このことは邪馬台国に相応しい場所が九州内にないことを意味する。第二に、九州の王墓は、規模の大きさや構造の複雑さにおいて、二世紀では出雲や吉備の後塵を拝し、三世紀では大和のそれの足下にも及ばない。このことは、二世紀以降になると、九州の王権は中国地方および大和の王権より下位にあったことを示唆する。換言すれば、倭国王・卑弥呼は九州以東にいた可能性が高い。
それでは、邪馬台国はどこなのか?それには、次の問いが解明の糸口になる。なぜ考古学者の大勢は纏向遺跡を卑弥呼の都と見なすのか?三世紀前半の日本列島において、最も強大な王権が存在したと推定されるのが纏向遺跡であるからだ。しかし、この発想には次の二点において大きな誤りがある。なお以下では、中国の史書が二、三世紀の我が国を呼ぶところの倭国を「倭国」と表記する。 第一に、三世紀の日本列島で最も栄えていた場所が「倭国」の都・邪馬台国であるとは
限らない。なぜなら、もともと「倭国」に属さず、西暦245年頃に「倭国」との戦争に突入した国があったからだ。狗奴国である。追い詰められた「倭国」は宗主国である魏に支援を求め、魏が派遣した武官の指揮下に入った。それほどまでに狗奴国は強国であった。だから、狗奴国の都こそが三世紀で最も勢いのあった場所、すなわち纏向遺跡であるかも しれない。そして、後述するように、それこそが私の説である。第二に、中国の史書には、二世紀から三世紀にかけて「倭国」の都が遷ったとは記されていない。それどころか、中国史書はそれが一貫して同じ場所にあったことを前提にして いる。そのことを端的に示すのが後漢書倭伝である。そこには、「国、皆王 と称し、世々統を伝う。其の大倭の王は邪馬台国に居す」とある。これは、二世紀末の卑 弥呼「共立」前の記述である。二世紀の日本列島には多くの国があり、その国々を束ねる 「倭国」王の居住地が邪馬台国である、というのだ。つまり、邪馬台国は、三世紀におい てだけでなく、二世紀においても「倭国」の都であった。ところが、纏向遺跡は三世紀初 頭(ないしは二世紀末)に突如出現した集落である。考古学は、二世紀の奈良盆地が「倭国」の中心であった証拠を何も見いだしていない。従って、奈良盆地を邪馬台国とする説は中国の史書と齟齬を来している。 以上の考察は邪馬台国の所在地を探る上での手掛かりとなる。邪馬台国は二世紀(三世紀ではない)における政治的中心である、ということだ。それでは、そのことは具体的には何によって分かるのか?それは、強大な王が存在すること、および、その人物を求心力とする都市的な大集落の形成である。三世紀においてその点で抜きん出ているのが纏向遺跡である。具体的には、大型墳丘墓の存在(特徴 A)、青銅器祭祀の終焉(特徴 B)、そして環濠 集落の解体と環濠を持たない都市的大集落の出現(特徴 C)である。 とすると、二世紀の中核といえる場所を求めるに当たって、同じ考え方が適用できるであ ろう。すなわち、三世紀の纏向が持つ特徴 A、B、C を二世紀において先取りした地域はどこか、ということだ。その場所こそが邪馬台国であるはずだ。
西日本の弥生社会では伝統的に青銅器による祭祀が行われていた。ところが、紀元前一世 紀から紀元後一世紀にかけて、それを取りやめる地域が現れた。中国地方である。紀元前後に出現する瀬戸内海沿岸各地の高地性集落は、そこで社会が大きく変動していたことの表れである。青銅器祭祀を続けた地域でも変化は起きていた。青銅器の祭器は元来多様であり、地域ごとに特徴があった。ところが、紀元後一~二世紀になると、一つの種類の銅鐸・銅矛が数百キロに及ぶ分布域を形成するようになるとともに、祭器が大型化した。以上のことは、一世紀以降に広域的な地域連携が西日本全体で進行したこと、とりわけ中国地方では早くも紀元前後の頃から新たな共同体の枠組みが模索されていたことを示す。二世紀後半になり、中国地方に登場したのが大型の弥生墳丘墓である。出雲の西谷3号墓
(四隅突出型墳丘墓)、そして吉備の楯築弥生墳丘墓(以下、「楯築」と略す)である。これらの墳丘墓は、従来の方形周溝墓や方形台状墓より大型であり、かつ独立した墳丘を持つ。とりわけ楯築は、規模の大きさと構造の複雑性とにおいて同時代から隔絶していた。とともに楯築が重大である所以は、後の時代の首長墓に与えた影響が同時代の墳丘墓に比して圧倒的に大きいことだ。第一に、円墳に突出部が付くというユニークな形態である。これは三世紀前半に全国に
展開する纏向型前方後円墳の祖型であり、ひいては古墳のルーツであると推定されている。第二に、特殊壺・特殊器台がここにおいて初めて現れることだ。これは葬送祭祀に用いられた祭具であり、祀りの対象が神から人へと変わったことの考古学的証である。つま
り、特殊壺・特殊器台は、それまでとは質的に異なる王権が出現したことを示唆している。 葬送祭祀は古代王権にとって存在の根幹に関わる重大な儀式である。従って、特殊壺・
特殊器台の変遷は吉備の王権の消長を表す。それは型式学的に次の三型式に分類され、年代的な変遷を映している。時代順に、立坂型、向木見型、宮山型である。ちなみに楯築のものは立坂型である。ここで注目すべきは、宮山型の段階に至ると、主な出土場所が箸墓
古墳、西殿塚古墳、中山大塚古墳などの大和の初期古墳に移動することだ。箸墓古墳の考古学的推定年代からすると、それは三世紀後半のことだ。その後それは円筒埴輪へと展開
していく。三世紀の後半に、王権の象徴が吉備から大和へと移ったわけだ。
以上、青銅器祭祀から大型首長墓への転換が二世紀の中国地方において初めて生じたこと、とりわけ吉備の楯築は同時代からの隔絶性と後世への影響度の点で突出していること
を指摘した。次に集落について検討したい。吉備では紀元前二~三世紀という非常に早い段階で環濠 集落が殆どなくなってしまう。紀元前一~二世紀に足守川周辺の丘の上に集落が広がり、紀元後一世紀以降になると平地に集落が展開していく。そして二世紀に現れるのが楯築で
ある。この頃になると、足守川加茂遺跡、津寺遺跡などの非常に大きな集落が現れ、鉄器やガラスの生産が行われる。要するに、特徴 A、B、C を二世紀において表すのは吉備であるわけだ。以上より、吉備こそが邪馬台国であると結論する。そこで以下では、卑弥呼の時代である三世紀に目を転じよう。三世紀に入ると、前世紀に
おいて吉備に現れた変化が全国各地に広がっていく。銅鐸・銅矛による祭祀を続けていた地域においても、青銅器祭祀は順次終焉し、環濠集落の環濠は埋められていく。庄内式土器が
出現し、その分布は大和から北部九州にまで及ぶ。また、各地の土器が広範囲に移動する。これら一連のことは地域間の往来が活発になったこと、換言すれば、地域間の結びつきが密になったことを示す。こうして各地域の垣根を越えた広域的な政治統合が実現した。その一つが卑弥呼の「倭国」であり、そのまた一つが狗奴国である。三世紀の吉備では、足守川流域の津寺遺跡が中心となる。ここから讃岐、山陰といった地
域からの土器が多数出土する。こうした地域から人々が集まっていたことの表れである。邪馬台国吉備説に立てば、これこそが卑弥呼の都の中枢であると推定される。卑弥呼の時代である三世紀前半は、特殊器台に基づけば、向木見型の時期である。この時期の吉備の弥生墳丘墓は楯築に比べれば規模を小さくするが、特殊器台の分布域は広範囲に及ぶ。向木見型弥生墳丘墓のうちで最大のものは、長さ約40
m、高さ約4m の鯉喰神社弥 生墳丘墓(岡山県倉敷市矢部)である。その被葬者は楯築の主を継ぐ吉備の大首長と見なされている。以上より、鯉喰神社弥生墳丘墓〔写真〕こそが卑弥呼の墓であると結論する。 |
第三節 狗奴国の王権が大和王権である |
大和・畿内説が成り立たないことは既に詳述したが、別の観点からもこの説には無理がある。それは狗奴国である。魏志倭人伝によれば、狗奴国王は「女王に属せず」、卑弥呼と「素より和せず」、遂に両者は「相攻撃する」状態に至った。つまり、狗奴国と邪馬台国とは、戦争状態に入る西暦245年以前から不仲であった。ところで、大和・畿内説での狗奴国の最有力候補地は東海地方である。となると、三世紀前半に大和と東海地方とは疎遠であったことになる。ところが、である。纏向遺跡は外来系土器の比率が高いことを特徴とする。これは、この遺跡が持つ都市的性格の表れと見なされている。興味深いことは、外来系土器のうち、その半分近くを占める最多のものが東海系の土器であることだ。このことは、三世紀前半において大和と東海地方とは密接に繋がっていたことを意味する。つまり、邪馬台国大和説・狗奴国東海説は考古学的に無理があるのだ。大和との関係が注目される地域は他にもある。播磨、阿波といった東瀬戸内地域である。三世紀前半の築造と目される、播磨の綾部山39号墳および阿波の萩原1号墳から画文帯神獣鏡が発掘された。これに続く三世紀半ばの纏向ホケノ山墳丘墓からもこの鏡が出土した。帯方郡を支配していた公孫氏との交流によって、この鏡は三世紀初頭に先ず東瀬戸内地域に流入し、その後に大和にもたらされたと考えられている。また、ホケノ山墳丘墓の造営には阿波の造墓技術が用いられたことが分かっている。
以上より、東は東海地方から西は東瀬戸内地域にいたる広域的な地域連合が三世紀前半に形成されていたと推定する。そして、その中心が纏向遺跡であった。この勢力圏は、その西方への広がり具合から、吉備の勢力圏と接していたことになる。となると、吉備が邪馬台国であるならば、大和の勢力圏は三世紀前半にして既に「倭国」に迫っていたことになる。だとすると、245
年頃に「倭国」との戦争に突入した狗奴国王権とは大和王権のことに他ならない〔図 2〕。
以上から三世紀の動向を次のように考える〔図 3〕。240 年頃の崇神天皇即位を機に、大 和の勢力圏は一気に活気づき、245年頃に吉備に軍事的攻勢をかけた。これが魏志倭人伝による狗奴国対「倭国」戦争であり、記紀のいう西道への吉備津彦の派遣である。魏志倭人伝は件の戦争の帰結を明かさないが、今やその答えは明らかだ。この戦争は狗奴国の勝利を以て決着した。換言すれば、大和が吉備を軍事的に平定した。それは
260年代末と推定する。これを古事記は次のように記す。「大吉備津日子命と若建吉備津日子命との二柱は、相副ひて、針間の氷河之前に忌瓮を居ゑて、針間を道の口と為て、吉備国
を言向け和しき」と。吉備津彦兄弟は、播磨を軍事拠点として、加古川を越えて吉備を攻め落としたわけだ。吉備は大和と並んで古墳が最も早く現れた場所である。ただしそこには特異な現象が見られる。楯築や鯉喰神社などの弥生墳丘墓は備中に築かれたのに対して、初期の古墳は備前に造られた。その嚆矢である浦間茶臼山古墳は大和の箸墓古墳と相似形をなし、特殊器台形埴輪を持つ点で共通する。三世紀後半の古墳時代の始まりを機に、備中から備前へと墳墓の場所が移動したのだ。このことより、卑弥呼・台与王権の中枢が備中であり、それを滅ぼした吉備津彦の拠点が備前であると推定する。備中の特殊器台は宮山墳丘墓を最後に吉備から姿を消し、替わって大和の初期古墳に現れた。このことは、大和王権が、260年台末に邪馬台国を滅ぼしたことを契機に、吉備の葬送文化を吸収したことを示している。最後に付言すると、現在、行燈山古墳が崇神天皇陵に治定されている。四世紀前半の造
営と推定されるこの古墳は、江戸時代末までは景行天皇陵とされていた。紙数の関係上詳細を省くが、古事記の記述を見る限り、西殿塚古墳こそが崇神天皇陵と考える。これは箸墓古墳に次いで築かれた大和の巨大古墳であり、時代的にも理に適っている。行燈山古墳は元々の伝承通り、景行天皇陵であると考える
なお、本稿における図は下記〔3〕〔4〕の著作で既に公にしている(一部改変)。 |
主要著作
〔1〕若井正一『ヤマトの誕生 第一巻』(文芸社 2004 年)
〔2〕若井正一『吉備の邪馬台国と大和の狗奴国』(歴研 2009 年)
〔3〕共著『卑弥呼は近江か出雲か吉備か』(テレビせとうち 2013 年)
〔4〕共著『卑弥呼と邪馬台国』(テレビせとうち 2014 年) |