唐古、鍵遺跡考

 

 「ウィキペディア纒向遺跡」その他参照

 (れんだいこのショートメッセージ)


【唐古、鍵遺跡】

【唐古、鍵遺跡】
 奈良県磯城郡田原本町大字唐古及び大字鍵に立地する弥生時代の環濠集落遺跡。全国からヒスイや土器などが集まる一方、銅鐸の主要な製造地でもあったと見られ、弥生時代の日本列島内でも重要な勢力の拠点があった集落ではないかと見られている。1999年(平成11年)に国の史跡に指定され、ここから出土した土器に描かれていた多層式の楼閣が遺跡内に復元されている。

 南大阪、難波から堺方面へ向かうと、北の淀川に比される南の大和川が流れている。その源は、大阪湾から上ること70キロメートルで、上流は、笹置山に発する初瀬川である。この大和側は、古代から大阪と奈良を結ぶ海上ルートとして知られているが、その上流、奈良盆地東南部に入っての、最初の津というべき場所が、「唐古、鍵遺跡」である。初瀬川と寺川に挟まれた低い盆地、その初瀬川の数キロ上流には、三輪山をのぞむ「纏向遺跡」や、卑弥呼の墓とされる「箸墓」がある。

 「唐古、鍵遺跡」は、近鉄樫原石貝駅より20分の地の奈良県磯城郡田原本町にあり、佐賀の吉野ヶ里遺跡に次ぐ弥生時代の大集落跡で、遺跡の広さ30キロ、環濠の直径は400メートルの日本有数の巨大環濠集落となっている。何となく魏志倭人伝にある描写を髣髴とさせるものがある。発掘調査の際、重層建築物を描いた絵画土器の破片が出土して注目された。

 田原本町には五つの「鏡作神社」がある。代表的なのが、「鏡作坐天照御魂神社」 ( カガミツクリニマスアマテルミタマ ) 、八咫の鏡を作った石凝姥命の子孫の鏡作師が、この地において鏡を鋳造したことを起源としている。他に、「鏡作伊多神社」が田原本町の宮古と保津にひとつづつ、鏡作麻気神社 ( 小坂 ) 、鏡作神社 ( 石見 ) などにある。このあたり、「鏡」を作る技術者のメッカであったのだろう。この唐古・鍵遺跡は弥生時代前期から始まり、古墳時代の始まる頃衰退し、それに変わるように纏向遺跡や箸墓が出現してくる。


【大型高床建物を描いた土器片が唐古、鍵遺跡で発見される】
 2004.10.4日、弥生時代の全国最大級の集落として知られる唐古(からこ)・鍵(かぎ)遺跡 (奈良県田原本町)で、大型高床建物を描いた土器片が見つかった同町教委が発表した。土器片は、8年前に同遺跡で見つかった豪華な楼閣(紀元前1世紀)を 描いた2個の土器片と同一のつぼの破片で、縦7センチ、横4・5センチ、厚さ1センチ。通学路整備に伴う今年 1〜3月の事前調査中、楼閣が描かれた土器片から約20メートル離れた遺構で出土 した。柱、屋根、屋根飾りの各一部が描かれている。柱や屋根などのバランス、過去に 同遺跡で見つかった約30点の建物絵画土器の図柄などから、全体は渦巻き状の 飾り付き寄せ棟造りの大型高床建物と推定できるという。同様の建物を描いた 絵画土器が遺跡内で見つかっていることなどから同遺跡には、楼閣を中心に複数の建物から構成された宗教的なゾーンがあったとの見方が強まった。





(私論.私見)