第4部―1 「魏志倭人伝」総合解説(1)理解の前提としての予備知識

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).1.10日

【魏志倭人伝の正式名称考】
 魏志倭人伝(以下、「倭人伝」と云う)は、正式には史書「三国史」のうちの一節の文章を指して云う。従って、「魏志倭人伝」という書名の文章がある訳ではない。「三国史」は、3世紀後半に晋朝の修史官,陳寿によって編集された 魏・呉・蜀の歴史を扱った書であり、魏志(書)30巻、呉志(書)20巻、蜀志(書)15巻の三書全65巻からなる。「三国史」は、魏の文帝の黄初元年(220年)から晋の武帝の太康元年(280年)に至る、「後漢」が滅びた後の政治状況となった「魏.呉.蜀」の三国鼎立時代60年間の中国の歴史を記している。正史二十四史の第四番目に位置する。晋が天下を統一したころ、太康年間(280-289)に全65巻を陳寿が撰述した。名著の誉れ高く、陳寿の死後、史記、漢書、後漢書の「前三史」に加えて、「前四史」と称されるようになった。「三国史」は、周囲の異民族について四夷伝を記している。北を北*(てき)、西を西戎(じゅう)、南を南蛮、東を東夷と命名している。

 このうち「魏」国について書かれたものを「魏志(又は魏書)」と云う。「三国史」の魏志(書)30巻は本紀4巻と列伝26巻からなっている。魏志の最後の巻が夷蛮伝であり、「烏丸伝、鮮卑伝、東夷伝」(うがんでん、せんびでん、とういでん)となっており、3世紀当時に中国の東北部にあった異民族の国家を列挙している。「東夷伝」は九条あり、「扶余、高句麗、東沃沮、挹婁(わうろ)、濊(わい)、韓(馬韓、弁韓、辰韓)」等の諸部族に続いてその列伝の最後に「倭人条」を設け、当時の倭国について記述している。この「倭人の条」の文言を「魏志倭人伝」と略すことを慣例とする。正式には「三国史.魏志.東夷伝.倭人の条」ということになる。「魏志倭人伝」は凡そ二千字(正確には1983文字)の一括文で30巻目で最も長文となっている。直前の弁辰伝は73文字、烏丸伝462文字、鮮卑伝1230文字、韓伝1427文字であり、他の伝や条と比較して相当の文字数を費やしていることになる。
 
 魏志倭人伝の一里の定義が三国志本文の記載と違う等という矛盾が指摘されている。これによれば、「魏志倭人伝」の里程は少なくとも「東夷伝九条」の記述との整合性を得る形で理解せねばならないことになる。例えば、「方*千里」と記載されている場合の1里当りのm換算をして、「魏志倭人伝」の距離記述との整合性を得ねばならないと思う。
 
 2006.11.25日再編集 れんだいこ拝

【魏志東夷伝の序文考】
 魏志東夷伝の序文は執筆動機を次のように記している(「三国志魏書 東夷伝」参照)。

 「尚書(書経)の兎貢篇は、『東は海に漸(すす)み、西は流沙に被(おお)わる』と称す。その九服之制、得て言うべし。然して、荒域の外、重譯して至る。足跡車軌の及ぶ所に非ず。未だその國俗、殊方知る者あらず。虞(舜の時代)より周にいたり、西戎に白環の獻あり、東夷に肅愼の貢あり、皆曠世にして至り、その遐遠なるや此のごとし。漢氏に及び張騫を遣わし西域に使し、河源(黄河の源流)を窮め、諸國を経歴し、遂に都護を置き以ってこれを総領し、然る後、西域の事具存し、故に史官詳載するを得る。魏興り、西域ことごとく至ること能ずと雖も、その大國龜茲・于[ウ/眞]・康居・烏孫・疎勒・月氏・[善β]善・車師の屬、朝貢を奉ぜざる歳なきこと、ほぼ漢氏の故事の如し。しかして公孫淵の父祖三世遼東に有り、天子其絶域となし、海外の事を以って委ね、遂に東夷隔斷し、諸夏に通ずるを得ず。景初中、大いに師旅を興し、淵を誅す。又軍を潜ませ海に浮かび、樂浪・帶方の郡を収む。しかして後海表謐然、東夷屈服す。其後高句麗背叛し、又、偏師を遣わし到討し、窮追すること極遠にして、烏丸・骨都を踰(こ)え、沃沮を過ぎ、肅愼の庭を踐(ふ)み、東に大海を臨む。長老『異面の人、日の出所の近くに有り』と説く。遂に諸國を周觀し、其法俗、小大區別を采る。各に名號あり、詳紀するを得る。夷狄の邦といえども、俎豆の象存り。中國礼を失し、これを四夷に求むに猶お信あり。故に其國を撰次し、其同異を列し、以って前史の未だ備わざる所を接ぐ」。

 「尚書(書経)の兎貢篇は、『中国の教化は、東は海に至るまで西は流沙の地にまで広がった』と記している。その九服之制、得て言うべし。しかし、その外側の地域については、時たま使いが来る他は情報を得ることができなかった。これが為、未だにその國俗、殊方知る者はいない。虞(舜の時代)より周にいたり、西戎に白環の獻あり、東夷に肅愼の貢あり、皆曠世にして至り、その遐遠なるや此のごとし。西域については、漢の時代に張騫を歴訪させ、黄河の源流を窮め、西域都護を置き総領したので、然る後は西域の情報も豊かになり、故に史官が記録を書き記せるようになった。魏興り、西域ことごとく至ること能ずと雖も、その大國龜茲・于[ウ/眞]・康居・烏孫・疎勒・月氏・[善β]善・車師の屬、朝貢を奉ぜざる歳なきこと、ほぼ漢氏の故事の如し。ところが、東方については、公孫氏が三代にわたって遼東の地を支配したので、これに委ねた結果、東夷との関係が閉ざされてしまった。魏は、景初年間に大規模な遠征を行い、公孫淵を誅殺した結果、樂浪・帶方郡を接収した。これにより、東夷が屈服するようになった。その後、高句麗が背いた時にも兵を派遣し討伐した。烏丸、骨都を通り、沃沮を過ぎ、肅愼の領域に入り、東海岸にまで到達した。長老『異面の人、日の出所の近くに有り』と説く。遂に東夷の諸國を周觀し、その法俗、習俗、国の大きさ、支配者の名前等を詳しく知ることができるようになった。夷狄の邦といえども、俎豆の象存り。仮に中國が礼を失するようなことがあっても、四夷に於いては猶信あり。故にその國を撰次し、その同異を列し、以って前史の未だ備わざる所を補うことにする」。

 これによると、魏志夷蛮伝編纂の趣意が、「蛮夷は中国をみだすもので、久しく中国の患をなしてきた」故に、「鳥丸.鮮卑.東夷」の諸蛮に対する認識を正しく持つことによって、「以って四夷の変に備う」為に「其國を撰次し、其同異を列し、以って前史の未だ備わざる所を接ぐ」ことにあったとされる。ちなみに、「四夷」とは、中華思想に基づくもので、周辺諸国を「東夷、西戌(せいじゅう)、南蛮、北狄(ほくてき)」とみなしていたことによる。

 末尾の「中國礼を失し、これを四夷に求む、猶お信あり」は、春秋左氏伝の紀元前525(昭公十七)年の記事に叙述されているたん子(山東省の東南にあった小国の主)の魯国訪問に際し述べた「孔子の言」に基づく。「孔子の言」とは、「我これを聞く、天子、官を失すれば学は四夷に在りと、猶お信なり」。れんだいこ和約は次の通り。「天子の治が乱れると学は四夷に残ると聞いている。この言は信ずるに足りる」。ちくま学芸文庫は次のように訳している。「これらは夷狄の国々であるが、祭祀の儀礼が伝わっている。中国に礼が失われた時、四方の異民族の間にその礼を求めるということも、実際にありえよう」。

 魏志東夷伝の序文全文を知りたいが分からない。次のような序文もあるようである。(「後漢書東夷伝・序」参照)
 (『礼記』)王制に云はく、「東方を夷と曰ふ」と。夷なる者は柢なり。言ふところは仁にして生を好み、万物は地を柢して出づ。故に天性柔順にして、道を以て御し易く、君子、不死の国有るに至る。夷に九種有り、畎夷・于夷・方夷・黄夷・白夷・赤夷・玄夷・風夷・陽夷と曰ふ。故に孔子は九夷に居らんと欲せしなり。

 昔、堯は羲仲に命じて嵎夷に宅らしめ、暘谷と曰ふ。蓋し日の出づる所なり。夏后氏太康は徳を失ひ、夷人始めて畔く。少康より已後、世々王化に服し、遂に王門に賓して、其の楽舞を献ず。桀は暴虐を為したれば、諸夷は内に侵し、殷湯は命を革めて伐ちて之を定む。仲丁に至りて藍夷は寇を作し、是より或は服し或は畔くこと三百余年。武乙衰敝し、東夷寖(ようや)く盛んにして、遂に分かれて淮・岱に遷り、漸く中土に居る。

 武王、紂を滅ぼすに及んで、肅慎は来りて石砮・楛矢を献ず。管(叔)・蔡(叔)は周に畔き、乃ち夷狄を招き誘ひしを、周公は之を征し、遂に東夷を定む。康王の時、肅慎復た至る。後に徐夷僭号し、乃ち九夷を率ゐて以て宗周を伐ち、西のかた河上に至る。穆王は其の方に熾んなることを畏れ、乃ち東方の諸侯を分ちて徐偃王に命じて之を主らしむ。偃王は黄池の東に処り、地は方五百里。仁義を行ひ、陸地にして朝する者は三十有六国。穆王は後に驥騄の乗を得、乃ち造父をして御せしめ、以て楚に告げて徐を伐たしめ、一日にして至る。是に於いて楚の文王は大いに挙兵して之を滅ぼす。偃王は仁なれども権無く、其の人を闘はしむるに忍ばず、故に敗を致く。乃ち北のかた彭城の武原県の東山の下に走(のが)れ、百姓の之に随ふ者は万を以て数ふ。因りて其の山を名づけて徐山と為す。厲王は無道にして、淮夷入寇するや、王虢仲に命じて之を征せしめしも克たず。宣王復た召公に命じて伐ちて之を平げしむ。幽王の淫乱なるに及んで、四夷交も侵せしも、斉桓の霸を修むるに至りて、攘ひて焉を却く。楚霊の申に会するに及んで、亦た来りて盟に予(あずか)る。後に越の琅邪に遷るや、与に共に征戦し、遂に諸夏を陵暴し、小邦を侵し滅ぼす。秦は六国を并せ、其の淮・泗の夷は皆散じて民戸と為る。

 2006.11.25日再編集 れんだいこ拝

【陳寿が「三国志」撰述する以前の史書考】

 倭人伝にえがかれた時代は、後漢の終わり頃から三国鼎立の時代であった。陳寿が「三国志」撰述するに当たり、既に三国時代について書かれた先行する歴史書がいくつか認められており、当然陳寿も又これらを参照にしたものと推測される。これらの著作としては、「魏書」、「魏略」、「魏史」、「呉書」などが挙げられており、ここに一瞥しておくこととする。大鴻ろ(魏、晋の御代、外国からの賓客や蛮夷の使節などの対応を司る役所)に整備されていた記録や資料を利用しながら「三国志」を書き上げたとされている。(史書「三国史」と混同され易いのが「三国志演義」である。これは、千年以上も後の明王朝の初期に羅貫中によって著された長編歴史小説である。吉川英治氏の「三国志」は、これに基づいている)

書名 撰者 巻数(編纂年)
「魏書」 王沈 全44巻(240-266年頃)
 魏には早くから歴史書作成の動きがあり、「三国志」前の定本として王沈の魏書がまず上宰されていたことが伺われる。王沈の魏書は260年代前半に書かれたものとされている。「魏書」は失われており東夷伝について定かでない。或る論者によると、「魏書」には鮮卑、鳥丸などの風俗、習慣、文化などが詳しく記述されており資料的価値が認められている。これは、作者王沈の一族が北方民族と関わりの深い官職についていた為、その地方の見聞が王沈に伝えられたのであろうと推測されている。

 裴松之は「三国志注」の中に、「魏書」から多く引用しており、それを見るとなかなかの名文でもある。「魏書」と「三国志」はいわば対の関係にあるといえる。「魏書」が官書そのままに時の権力者の意向に添う形での御用的な記述を流れとしており、陳寿は「三国志」撰述に当り本書を相当意識してしたものと推測される。

 「魏書」に較べて「三国志」は複眼的に史実を伝えており、その意味で客観性を際だたせることに成功した。こうして「三国志」上宰後は、「魏書」が重んじられなくなったいきさつがある。「三国志」が中国の皇帝の歴史を書くべき史書なのに、陳寿の「魏志倭人伝」だけが約二千字という膨大な文字を使ってこと細かく邪馬台国のことを書いているのは異様である。
「魏史」 夏候湛
 夏候湛は魏朝屈指の名将でもあり、自分が活躍して形づくった歴史を、自分の手により歴史書として書き留めることを決意し、魏史を書き記すところとなった。後日談として、夏候湛は、陳寿の「三国志」をみて、「寿の作る所を見、すなわち己が書をこぼちて罷む」と述懐したという。
「呉書」 韋昭 全55巻()
 呉でも260年頃から歴史書の作成が始まり、韋昭が「呉書」55巻を完成させている。
「蜀志」 全15巻
「魏略」 魚劵 全50巻(265年前後)
「魏略」の成立は「三国志」よりも二、三十年早く、それだけ同時代史料に近いと云える。構成は、紀.志.伝の体裁を備えている。陳寿「倭人伝」の底本ともなったと推測されており、帯方郡から邪馬台国への行程記事や、倭人の生活や習俗の記述、倭国の有様を記した部分は、ほとんど「魏略」の記述に基づいており、又全体として「倭人伝」の三分の二余りがほとんど魏略から書き移す形で纏められていると推測されている。

 「魏略」は後漢の滅亡から明帝在位(227~239年)の治政までの歴史をまとめたもので、成立は、太康年間(280~289年)とみられる。38巻説または50巻説とある。現在、完全本はなく、逸文があるだけである。後に中華民国の張鵬一によってその逸文が収集されて義略 本25巻が作られているが、翰宛と漢書地理志に引く逸文はもれている。三国志の裴松之(372~451年)の注をはじめ、唐宋時代の本にかなり引用されている。

 撰者魚劵は民間の歴史家及び蔵書家であり大富豪であった魚劵が作成者であると伝えられている。生没年不明である。魚劵の学識はかなり高いものであり、興味の趣くところを記すままに当時の武将や知識人のエピソードを伝えており、正史とは又違った異彩を放っている。特に四夷の異民族に興味を持ち、その生活や習慣を克明に記している。わが国からみて「魏略」の真骨頂は、東夷伝の中で、当時の倭国について格別の関心を寄せていたことが伺え、「位置、風俗、習慣、産業、人口、暮しぶり、国の歴史、組織」などについてより詳細に伝えていることにある。

 残念ながら「魏略」の原本はなくなっており、諸書にその逸文が残っているだけである。

 角林文雄氏や江上波夫氏は、「倭人伝」が異質の書き方の二部分に分かれていることを指摘し、「倭人伝」は、魏略の記述をそのまま採用しており、陳寿が魏と倭国との外交考証部分をつけ加え、倭人伝の全体が整ったと推定している。魏略は、現在では写本迄を含めて散逸してしまっており、他の本に断片的に引用されたのを集めたものとして「魏略輯本」があるが、これには肝心の倭国関係はあまり出ていない。推定し得る残存史料として、「翰苑」所載の魏略と「広志」の倭国記事がある。翰苑は唐の張楚金を撰者としており、中国には残っておらず、唯一写本が太宰府天満宮に伝わっている。
「広志」 郭義恭 (266-280)
「魏志」 陳寿 全30巻(280-290)
「三国志」 裴松之(はいしょうし) (372-451)
注記
後漢書 范曄(398年 - 445年)
唐の李賢(AD655~684)による注記にて完成
隋書 (AD629年唐の魏徴らの撰)
翰苑 660年以前
「太平御覧」 (977-983)
陳寿が記したとされる「正史」の三国志原本は、現存していない。現存する最古の版本は、「紹興本」と呼ばれ、宋の南遷直後・紹興年間(1131年~1162年)のものである。

【魏志倭人伝の二千文字考】
 魏志倭人伝はの凡そ二千文字から成っている。この分量を他の史書のそれと比較したいが、れんだいこは能力と時間を持たないのでどなたかにお願いしたい。確認すべきは、魏志東夷伝の他の諸国(扶余、高句麗、東沃沮、[手邑]婁、シ歳、韓)との比較である。次に、著者の陳寿が魏志倭人伝執筆の時に参照した史書(魏書、魏史、魏略、呉書)の倭人伝との比較である。次に、魏志倭人伝後の史書の倭人伝との比較である。これについては「倭・倭人関連の中国文献、朝鮮文献」に記す。

 推定するのに、「魏志倭人伝二千文字」は最大分量の記述になっているのではなかろうか。とすれば、著者の陳寿が何故に魏志倭人伝をかく待遇したのかが問われねばならない。日本古代史学は、この点の考察ができているのだろうか。れんだいこが思うに、著者陳寿は何故にかにつき断定できないが当時の倭国、邪馬台国に異常なる興味を覚えていた節がある。それはどうも「憧れのジパング」として憧憬している面があるやに見受けられる。記述には卑字を遠慮なく宛がっているが、それはそれ以前の記述をそのまま借用したに過ぎず、陳寿の思いは「最大分量二千文字」でもって記述したところにあると見立てるべきではなかろうか。

 この考察と関係するのに、「その年十二月、詔書は倭の女王に報じて曰く、『卑彌呼を親魏倭王に制詔す』」である。これについては既に考察されているが、魏朝が他の国に「親魏王」を制詔した例は他の東夷にはなく倭国が唯一である。ちなみに韓国の首長は邑君の印綬、次位には邑長の印綬が与えられている。卑弥呼に「王」の称名が与えられたことは重大なことであると思われる。これに匹敵するのは、同時期、中央アジアか らインド亜大陸を支配した西方の大国、ガンダーラ文化で知られるインドのクシャナ朝「大月氏国」に与えられた「親魏大月氏王」であり、他には例がないとのことである。これをどう読むべきか。当時の国際情勢論だけの説明で足りるだろうか。

 2011.08.20日再編集 れんだいこ拝

【魏志倭人伝文の入子構造考】
 2021.4.1日、「桜田和之フェイスブック」参照。
 中華書局版「三国志 魏書」に載っている通称「魏志倭人伝」の前半部は、原文11文字の「倭人は帯方東南大海中に在り」で始まり、先ず倭国の位置と国土の状況が示され、次に帯方郡から倭国内の国々への道順と各国の事情が説明されて、同じく原文11文字の「郡より女王国に至る万二千余里」で一区切りされ、その後には倭人の風俗の描写が続いている。この文章は入子構造になっており、最初の11文字と末尾の11文字で、それらの間に挟む文章を入子にしている。日本語への訳文資料では気づきにくいが、原文を鳥瞰図的に俯瞰すると見えてくる。ここに魏志の筆法を認めることができる。したがってこの漢文は、「倭人は帯方東南大海中に在り、郡より女王国に至る万二千余里」と訓むことが可能なように思われる。すなわち女王国は帯方郡から見て東南の方位、直線距離で12000余里の大海の中にあると解せる。邪馬台国九州説の根拠とされてきた12000里問題は、一転、畿内説の有力な根拠となる。

【著者陳寿考】

 晋(265-316年)の著作郎職史官・陳寿が「三国史」撰者に任ぜられた。陳寿(233~297年)の人となりは次の通りである。

 233(青龍元)年、魏の明帝の御代、陳寿は蜀の巴西郡の安漢県に生まれ、字を承祚と云う。邪馬台国の卑弥呼の逝去が248年とされており、この時、陳寿は15歳、ほぼ同時代の人となる。「晋書陳寿伝」によると、若くして学を好み、同郡の先輩で「春秋公羊学」の大家しょう周に師事した。師曰く、「君の才能と学識をもってすれば、必ず名を為すに違いない。それだけに風当たりも強くなるだろうが、それは決して不幸なことでもない。深く慎んで細心の注意を払って生きていくことだぞ」の忠告が残されており、あたかも陳寿の生涯を予見するかの如くとなった。

 長ずるに及び「蜀」の朝廷に仕え、歴史編纂の官吏である観閣令史(宮中図書係)に登用されたが、どちらかと云えば不遇の身に終始するところとなった。「宦人の黄皓、專ら威權を弄し、大臣皆な意を曲げて之に附するも、壽(陳寿)は獨り之が爲に屈せず、是に由りて屡々譴黜せらる」と反骨の人であった。

 263年に「蜀」が「魏」に併合されたことにより、 陳寿は31才の時に「魏」の首都洛陽へと移り住み、魏朝の文官に列なることとなった。2年後、「魏」は「晋」に替わり、この頃になって陳寿の才能が相当なものとして評価されるようになった。「晋」の皇帝の重臣として司空という土地.民事を司る最高官の職にあるとともに大詩人でもあった張華によって引き立てられ、任官しやがて著作郎(修史官)に登用されることとなった。この官職は、「魏」が初めて置いたもので、中書に隷属したが、晋朝では秘書に属し、国史を司るのが役目の職であった。

 陳寿は、政敵「蜀」の名将諸曷亮の著作全集の執筆に取組みこれを上宰したが、その書において概ね諸曷亮を称賛する立場でこれを著述した為、「魏」より発した「晋」王朝の史官としての御用性不忠が問われるところとなった。こうして、陳寿を廻っての評価は二分されたものの、陳寿の史家としての厳正な態度を証左しているものとして逆に名声を高める結果に帰着することとなった。

 こうして時勢好転し、陳寿は、「三国志」の作成を命じられることとなった。この時、官修の史書として魏には王沈(おうちん)の魏書、呉には韋昭(いしょう)の呉書があり、私家の史書として魚豢(ぎょかん)の魏略があった。その原本はないが、古の数種の文典によって逸文を知ることができる。陳寿は、魚豢の魏略を下敷きにして執筆している気配が認められる。

 「三国志」は全部で65五巻より成り、太康年間(280―289年)にかけて完成された。その出来栄えは当時から高く評価されており、「敍事に善く、良史の才有り」との評価を得ている。この当時魏の名将であった夏侯堪(243―291年)も同じく同時代史「魏書」を書きあげていたが、「寿の作る所を見、すなわち己が書をこぼちて罷む」と述懐したと云われているほどに、追随を許さぬ名著であった。陳寿の官界における庇護者とでもいうべき張華も、深く喜んで、「立派な史書だ。晋の歴史も、この史書に継いで書かれるべきだ」と正史として偶されるに値するとの評価を与えている。 こうして「三国志」は不朽の名著として後世に書き継がれていくこととなった。

 古田武彦氏は、「『邪馬台国』はなかった」で次のように評している。

 「陳寿の『三国志』は粗雑なノートの走り書きでもなければ、まして幼稚な頭の持ち主の戯れ書きでもない。中国文明は、三世紀以前にすでに『史記』、『漢書』という、世界の最高水準に立つ歴史書を完成していた。その両書の記載方法を学び、それをさらに発展させた技法を示しているのが『三国志』である」。
 「陳寿が『三国志』を書くとき、もっとも大きな影響を受けたのは、『史記』とそれに次ぐ『漢書』であった。特に『漢書』は陳寿にとって直前の史書として、もっとも直接的な模範としての意味を持つものであった」。

 これにより陳寿の晩年が順風となった訳ではない。290年、武帝の死後、クーデターが発生。陳寿を引き上げた張華は副総理、陳寿は太子中庶子(侍従)に任命されるが、300年、再びクーデターが発生、張華が非業の死を遂げる。この間、否応なく宮廷の派閥抗争に巻き込まれている。張華亡き後、陳寿も時を経ずして病魔に冒され、失意の身に終始したまま「晋」の惠帝元康7(297)年に65才でその生涯を閉じた。その一生は、才能を高く認められていたにも関わらず、不遇で不運なものだったと云える。

 陳寿の没後、梁州の人事院長官で皇帝政務秘書の范きん等の働きかけにより、三国志は晋王朝の公認の史書として正史の地位を得ることとなった。その上表文には、「辭に勸誡多く得失は明らかにして風化に益有り。文艷は相如(司馬相如)にしかずといえども、質直は之に過ぐ」という最大級の賛辞が書かれている。この上表文の結果、河南尹に詔が下り、それにより洛陽令が陳寿の家に赴き、三国志は伝写されることになる。

 「三国志」の僥倖は、撰者自身が三国時代を経歴した人であったといういわば同時代の生き証人の手によって撰述されたこと、及び、撰者自身がかって「蜀」の朝廷に仕えた前歴を持ちながら、政敵の魏朝続いての晋朝のそれというふうに三王朝の興亡をつぶさにすることにより、王朝の有為転変を客観視し得た史官の手によって撰述されたこと、併せて、既に述べた様に、陳寿の気質としてその精神が反骨であり、御用史家の立場でありながらもその面目と筆法を心得た史上に輝く著述家の手によって撰述されたこと等々において一際光彩を放っている。

 時系列的な魏志倭人伝の成立過程を追ってみる(「寺田紀之氏の古代史の真実」その他参照)

 1) 帯方郡による朝貢ルートの閉鎖
 後漢の末、中平6年(189年)に中国東北部の遼東太守となった公孫度は、勢力を拡大して自立を強め、現在の平壌付近から漢城北方にかけての一帯にあった楽浪郡を支配下に置いた。その後を継いだ嫡子・公孫康は、楽浪郡18城の南半、屯有県(現・黄海北道黄州か)以南を割いて帯方郡を分置した。204年頃かと推定される。これにより南方の土着勢力韓・濊族を討ち「是より後、倭・韓遂に帯方に属す」という朝鮮半島南半の統治体制を築く。郡治とは、その周囲の数十県(城)の軍事・政治・経済を束ねる一大機構であり、個々の県治よりもひときわ大きな城塞都市であった。しかし、ソウルには3世紀頃の遺跡は一切ない。この城郭都市は朝鮮民主主義人民共和国黄海道鳳山郡文井面(沙里院)の近くであろう。実際、帯方太守を務めた張撫夷の墓の内部に積んだレンガに役職名が入った 「帯方太守張撫夷」 の文字が発見されている。公孫康はほどなく魏の曹操に恭順し、その推薦によって後漢の献帝から左将軍・襄平侯に任ぜられ、帯方郡も後漢の郡として追認された。しかし、238年、魏の太尉・司馬懿の率いる四万の兵によって公孫氏一族は滅びる。(wikiからの抜粋) 即ち、後漢末期より三国時代初期にかけて、遼東郡から朝鮮半島北部にかけて遼東・公孫氏が事実上の独立政権を打ち立てていた。このため、倭や朝鮮半島南部(韓)などのいわゆる「東夷」と呼ばれた諸民族の朝貢ルートが閉ざされていた。この期間、倭・韓が建安9年(204年)に公孫氏が独断で設置した帯方郡の支配下にあったことが記されている(『三国志』魏書東夷伝韓条)。このように「倭国大乱」という倭国内部の事情もあるものの、この時代の他の東方諸国と中国王朝との交流途絶の例は多かった。

 2) 公孫氏政権の崩壊と朝貢ルートの再開
 三国志魏志公孫淵伝によれば、景初2年8月23日(238年)に公孫淵が司馬懿に討たれて公孫氏政権が崩壊し、魏が楽浪郡と帯方郡を占拠した。邪馬台国の女王・卑弥呼は238年6月、帯方郡への使者を送り、魏との交流が再開された。従って、魏の一行が邪馬壹国を訪れたのは、この238年以降のことである。
 238年(景初二年)6月 倭の女王が大夫難升米(人の名前)等を遣わし、(帯方)郡に詣り、天子に詣り朝献するよう求めた。太守(郡の長官)劉夏は役人を遣わし、京都(洛陽)まで送らせた。
同12月 魏は、倭の女王に報いて詔書を送り、親魏倭王の金印を授ける。
 即ち、238年の公孫氏滅亡により、卑弥呼は初めて魏に使いを送ったのである。おそらく、この時、魏の一行は邪馬壹国に行っておらず、詔書と金印を邪馬壹国の使者に授けただけであろう。実際、この時の記述に魏の一行が倭国に行ったという記載がない。
240年(正始元年)、太守弓遵は、建中校尉の梯儁(ていしゅん)らを遺わし、詔書・印綬を奉じて倭国に行き、倭王に拝仮して詔をもたらし、金帛・錦・罽・刀・鏡・采物を賜った。
 梯儁は帯方郡の建中校尉という役職にあった。公孫氏滅亡後、帯方郡は魏の植民地となったのである。梯儁は数理科学的素養を持った人物だったようであり、周髀算経、九章算術等の古代中国数学書に明るかった人物と推測されている[半沢英一氏]。倭人伝の行程記録は、この梯儁が記述したものと思われる[榎一雄氏]。魏志倭人伝の出発地が帯方郡(ソウルではなく平壌)であり、洛陽でないことにも納得がいくのである。
正始8年(247年)、張政(ちょう せい)氏が邪馬台国が狗奴国と紛争になった際、和睦を促すために魏から派遣された。張政氏は帯方郡の武官で肩書は塞曹掾史(さいそうえんし)であり20年近く邪馬壹国に滞在し、泰始2年(266年)に帰国したとされる(Wikiより)。
 以上の史実から行程記録は帯方郡の梯儁、風俗文化的記述は帯方郡の張政による報告書が元になっていると推察できる。この二人の報告書をまとめたのが【王沈の魏書】である。王沈(おうしん、? - 266年5月)は、中国三国時代から西晋の政治家・歴史家。魏・西晋に仕えた。王沈は読書を好み、文筆を得意とした。治書侍御史として秘書監となった。正元年間に散騎常侍・侍中に遷り、著作を掌った。この頃、荀顗・阮籍と共に『魏書』を編纂した。
 魏志倭人伝の記述は、王沈の魏書のみならず、魚豢による『魏略』、郭義恭による『広志』でほぼ魏志倭人伝とほぼ同一の記述がなされている。年代的には王沈の魏書が一番古い。魏略、広志は王沈の魏書を転載したものと考えられている。この魏書は、現在では散逸しているが、宋代初期の太平御覧という百科事典のような書に一部が引用されている(文末に引用掲載)。
 もうひとり重要な人物がいる。裴 松之(はい しょうし、372年 - 451年)である。 中国の東晋末・南朝宋初の政治家・歴史家であり、陳寿の『三国志』の「注」を付した人物として知られる。自身の伝は『宋書』・『南史』二史にある。また、魏に仕えた裴潜の弟の裴徽の六世の孫にあたるという。子の裴駰は『史記集解』の撰者である。 陳寿の『三国志』は、陳寿自らが使えた蜀漢をはじめとする三国の歴史を、関係者が生存している西晋時代に著した。このため、差し障りがあり、書けないことも多く、内容も簡潔であった。そこで宋 (南朝)の文帝 (南朝宋)が裴松之に命じて「注記」をつけさせた。こうして完成したものが「裴松之注」である。 中国史学において、内的、外的な史料批判に基づいて、本文の正確さを検討する方法論を自覚的に採用したものは裴注が初である。裴松之は『三国志』の原材料ともなった、二百十種に及ぶ当時の文献を確実な史料批判とともに引用し、『三国志』は裴注を得て、その価値を飛躍的に高めた。 東亜古代史研究所 塚田敬章氏の考察によると、朝貢時の下賜品の品目など詳細に記述されているのは裴松之により手が加えられているとのことである。
 即ち、帯方郡の梯儁の行程記録(AD240)と張政の滞在記録(AD247~266)を元に王沈の『魏書』(AD250~266)が作成され、陳寿が魏志倭人伝として編纂した。さらに、裴松之(AD372年 - 451)により注記が加えられ、三国志として完成したのである。裴松之は一里の定義長を検証することはできなかったであろう。
 またこの記述は范曄により後漢書東夷伝として記載された。後漢書東夷伝の記述は倭人伝とほぼ同等であるが、下記のような訂正がある。
―邪馬壹国の名称が邪馬臺國に改められている。
―狗奴国の位置が邪馬壹国の南から、「女王國の東、海を渡って千余里にある」と訂正されている。
―邪馬壹国の位置が、去其西北界狗邪韓國七千餘里(狗邪韓國を去ること7000余里)と加筆されている。(古田氏の北九州説では、狗邪韓國から邪馬壹国までの行程距離が5000里として算出しているので、後漢書の記述と矛盾するのである。)。後漢書に記載されている距離は一切、行き方(行程)の記述がない。行程が記載されていない距離を行程距離と解釈するのは無理があり、常識的には直線距離なのである。
 以上から、
● 魏の一行が邪馬壹国に行っておらず、倭人伝が伝聞を記述しただけであるという説は間違いである。梯儁と張政が実際に邪馬壹国を訪れており、その記述が元になって魏志倭人伝は記述された。邪馬壹国の風俗に関する記述が北九州の慣習・風俗の伝聞であるという説も間違いであることがわかる。
● 王沈の魏書が、現存する最も古い原書であり、その記述には、下記のように、奴國、投馬國に関して、【又】という文字が記載されている。【又】とは、前文の行程に引き続き、行程を繰り返し実際に行ったことを示している。また、方角を示す「至」の前に、水行、陸行という先行動詞があるので、実際に行ったことを示しているのである。即ち、「奴國、投馬國には、実際に行っておらず、伊都國からの距離記載を示したものである。」という、伊都國放射読みは間違いである。また最後の「水行十日、陸行一月」を「水行または陸行」と解釈するのも間違いである。これを「または」と解釈するためには【或】という文字がなければ、漢文の文法として成立しない。
「【又】東南至奴国百里」
「【又】南水行二十日至於投馬国」
「【又】南水行十日、陸行一月至耶馬臺国」

張華考】
 西晋には陳寿の他にも史書を修める人物が複数いた。文化人でもある夏侯湛(かこうたん)は陳寿の三国志を見て衝撃を受け、自分の書き上げた史書をその場で破り捨てた、と云われている。三国志はそれほど抜きん出た史書だった。思うに、陳寿には実力だけでなく非凡な才があった。その最たるものが「三国志」というタイトルの命名だと思われる。陳寿以外の史書執筆者は、おそらく全員、そのタイトルを「魏書」としたはずで、「呉」、「蜀」は「魏の天子に反逆した存在」として描かれるだけだった。ところが、陳寿は、まるで対等の関係にあったがごとき「三国」という表題にし魏書、呉書、蜀書に書き分けた。これは驚き以外の何物でもなかった。その上で、皇帝の伝記である「本紀」を魏書だけに置くなど見事に魏を正統中国として書き上げており、「三国」と書いておいても実は「魏一国」が主役の歴史書にしている。且つ自分の故国蜀漢の劉備や諸葛亮を非常に高く評している。張華は、その非凡なセンスと構成力の評価称賛を惜しまなかった。

【「中国の正史」考】

 こうして三国志は中国の正史の一つに数えられる文献の地位を獲得することとなった。ちなみに、中国における正史とは、年代順に**を指し、そのうち「史記」.「漢書」.「三国志」.「後漢書」をもって「四史」と称する。なお、「三国史」の記述は既に述べたようにその文体は「簡潔的確な筆致」によって高く評価されるものの、反面簡略にされすぎた面がある為、五世紀の南朝宋の時代になって注釈が加えられることとなった。三国志成立後百三十年後に出来た、裴松之(372~451年)撰「三国志注」がそれである。この注を得て三国志はますますその価値を高めることとなった。

 中国の誇るべきことの一つに精緻な王朝交代史が存在することである。そういう意味で、史書は、中国史の流れを綴る歴史的財産となっている。中国に於ける歴史書の編纂は、易経思想に基づいている。易経思想では、「天下を統治する者は有徳者の天命を受けており、その王朝が交替するのは、王朝の徳が衰え民心が離反したからである。新たな天命が下り、別の有徳者が天下を統治することになる。これが繰り返される」ということになる。これによる王朝交替を「易姓革命」と称する。

 従って、新王朝を打ち立てた者は、政権奪取過程の正当性を証し、天命が下ったことの理法を説き明かさねばならない。それを歴史書で詠う必要があった。これを仮に王朝イデオロギーと云う。その為に、歴史の脚色や捏造、不都合史実隠蔽などの作為が加えられることは避けられない。

 しかしながら、史家は必ずしも新王朝の権威づけのみに汲々しない。表向き新王朝の正義を綴りながら、裏面記述法で別の史実を説き明かしていることも稀でない。史書を読む上での難しさと面白さはここに存する。これに無頓着な史書読みは字面追い読者でしかなく、本来の意味での歴史家にはなれないだろう。いわゆる御用史家の類である。れんだいこは、裏面記述法で伝授しているところの意味をも読み取る歴史家としてありたい。

【裴松之(はいしょうし)校訂、注釈考】
 現存している「三国志」の版本はいずれも5世紀の南朝劉宋の人、裴松之(はいしょうし)が校訂、注釈をほどこしている。略して「裴注」と呼ばれるが、三国志の簡潔さを補う形で膨大な量の注釈を付けている。

 この時、裴松之は「三国志」序文に「上三国志注表」を附している。そこで、「あるいは一事を説きて辞、乖離する有り。あるいは事の本異を出して、疑いて判ずる能(あた)はざれば、並びに皆内に抄し、以って異聞に備う」(本文中に矛盾があったり、異本があった場合には、両方とも抄録して、後代の判断を待つ)、「その時、事の当否寿の小失に及ばば、頗る愚意を以って論弁するところ有り」(もし、陳寿がちょっとした間違いを犯しているような時には、大いに私の意見で論弁を加えた)と述べている。

 「これは、単なる美辞麗句ではなかった。この姿勢は、注記全体の中に正しく貫かれている」というのが古田武彦氏の見立てである(「『邪馬台国』は無かった」)。

【「倭人伝」の版本について】

 ところで、「三国史」の原本つまり陳寿の自筆本は現存しておらず、今日現存するものは後世の写本であり幾種類かある。やっかいな事は、台本により用いられている文字が異なっていることにある。そこで、文字の用法や意味合いを廻って他の膨大な史書との比較検討が必要になってくる。

 版木としては、南宋時代(1127~1279年)の紹興年間に刊行された「紹興本」(編年1131年~1162年)並びに同じく南宋の紹煕年間に刊行された「紹煕本」(編年1190年~1192年)が最も古いものとして残されている。なお、「紹興本」と「紹煕本」の記述に大きな相違は認められないものの、それぞれの底本は異なっているものと推測されている。

版木本 編年 解説
紹興本 1131年~1162年

 南宋(1127~1279年)の初期の紹興年間(1131~1162年)、わが国の平安時代末期に刊行されたと見られるテキスト。このテキストは、魏志倭人伝を含む刊本としては、現存最古のものである。但し、「南宋代の知識」によってあちこち改訂されている節があり、原形をどこまで留めているのか疑わしいとされている。

 蜀志、呉志を欠き、魏志30巻だけが中国の上海商務印書館・かんぶん楼に蔵されている。

紹煕本 1190年~1192年  南宋の紹煕年間(1190~1194)に刊行されたと云われているが、この系譜を引く慶元年間(1195~1200)の刊行本が存在しているだけであり、従って、正式には「慶元版」と呼ぶのが相当であるとも云える。「北宋・*平本」の重刻本と考えられており、精度が高い。

 この「慶元版」はわが国の宮内庁書陵部(皇室図書寮)に存在すると云われている。但し、三国志全65巻のうち、魏志の1から3巻が欠落している。

 清朝から中華民国時代にかけての学者張元済の編集した「百のう本」(24史の三国志の中の魏志倭人伝)は、宮内庁書陵部に有るものを写真印刷したものであるとされる。これらの系統を引くものとして、「百のう本」.「武英殿本」(2008字)等が現存している。

 遡って、「紹興本」並びに「紹煕本」の租本と考えられる「北宋刊本」(11世紀)は残されていない。現在存在する刊本は、南宋以後のものと見られる。倭人伝に関する限りでは、「紹興本」と「紹煕本」との相違は少なく、別表の通りである。このうち、3)4)6)8)は、いずれか正しいか判定できず、1)と7)は「紹興本」に従い、2)と5)は「紹煕本」の方が正しいとされる。陳寿撰「三国」志を読まんとする時、以上の流れを踏まえて読み進むべきであると思われる。ともすれば「三国志」の杜撰さを過大視する向きがあるが、上述の流れから勘案する時においては、逆に、可能な限りにおいて正確な記述を心がけたものとして受けとめる方が自然であるように思われる。


【「三国志」の構成について】
 三国志を編纂した陳寿は、魏朝を漢の正統を継ぐ系譜と見なす立場から、魏志には帝紀を記しているが、蜀志にも呉志にも帝紀はない。全て列伝である。魏から禅譲を受けた晋、その史官である陳寿のこの視点が全編に貫かれている。

【「三国志」後の輔弼本について】
「三国志注」  南朝宋の裴松之(372~451年)は、魏略.魏書など210種に及ぶ文献を引用して、補注をつくった。原書が解逸する中にあって、この補注が現在貴重な資料となっている。

【「三国志」の文体の特徴について】

 その文体は、「三国志は、その言葉、誠を勧めるところが多く、その得失は明らかであって、風化に益するものがある。その文章がつややかであるとはいっても、漢の司馬相如には及ばない。しかし、その質直はこれに過ぐ」(范きん上表文)の評に代表される。ここにいう「質直」とは、「論語」顔淵の「質直にして義を好む」の文章を受けているものと思われ、飾り気がなく正直という表現において内容そのものに客観性があるということを前提としており、三国志が史的事実に忠実な筆写となっていることを伺うことが出来る。


【「倭人伝」の構成について】

 「倭人伝」は、「東夷伝」の最後の章に記されており、全文の構成は次のようになっている。赤い糸のように貫かれているのは邪馬台国への里程であるが、それを伏線として、その①・倭人の地理的位置および国家形成の歴史的俯観。その②は、道中の国名とその国勢。その③は、倭の風俗、産物、自然、社会、歴史、政治。その④は、魏と邪馬台国の外交関係史である。

 「倭人伝」の約二千字は、「東夷伝」に記載されている六ケ国の他の諸国、「夫余」、「高句麗」、「東沃沮」、「ゆうろう」、「わい」、「韓」と較べてみて、字数が多く描写が精密であり、陳寿ないし晋王朝が、それだけ「倭人」に対して関心の深さ又は「倭人」を重要視していたことが伺われる。あるいは、当時において東夷に占める「倭國」の政治的文化的な成熟度が相応しい字数を要請せしめたということでもあろうか。その記述は、倭(日本)の様子について、当時の國家形成の状況及びその特質あるいはその風俗を明らかにしている点で、又とない貴重な文献となっている。

 この記述のうちどこまでが実際の観察に基づいているのか、既存の資料に依拠しているのか、あるいは何らかの推量を混じえているのか。それぞれがどの程度正確なのか。残念ながら肝心の、邪馬台国へ至る里程や方位の記述は正確とは言い難く、記述の方位や距離をそのまま辿ったのでは、邪馬台国の位置を特定することができない。そのためさまざまな邪馬台国所在地論が展開される結果となっている。


【「倭地」と「魏」の歴史的関係について】

 「倭地」と「魏」は、「魏.呉.蜀」三国の中で地理的にもっとも近く、その往来も時の勢いであったことと思われる。「魏」は、元々揚子江の北部を拠点とする国家であり、やがて「蜀」との抗争に勝利を治めたことにより、次第に東方服屬化政策を一気呵成に進行させていくこととなった。

 当時朝鮮半島を支配していたのは公孫氏政権であった。公孫氏は、元々後漢の時代に公孫度が地方官吏として遼東半島の大守となったことに始まり、二世期の終わりには、後漢から自立して独立した軍閥になり、以来「遼東候平州牧」と名乗り、この地方の王としての権勢を振るうこととなったていた。公孫氏政権は、魏の西北に位置して遼東半島.山東半島.朝鮮半島を支配する第四勢力ともいえた。倭地との関係で云えば、204年に公孫度の跡を継いだ公孫康時代に朝鮮半島へ進出し、楽浪郡を手に入れ、200年から210年代にかけて楽浪郡の南に新たに帯方郡を置く等、朝鮮半島を支配することに余念がなかった。ちなみに帯方郡は水利の便を考えて、大同江の河口に南から流入するサイネイ江の上流に置かれたと推測されている。「三国志」によると、それによって倭国や朝鮮半島南部の小国家(いわゆる馬韓.弁韓.辰韓の三韓)が帯方郡に従ったとあり、東方の異民族との外交権を掌中に収めていたことが伺われる。

 この公孫氏政権は、呉の遠交近攻戦略からも重要視されており、こうして魏呉間のせめぎ合いに巻き込まれることとなった。公孫康はやがて221年没し、没後弟の公孫恭が跡を継ぐが、まもなく康の子の淵(在位228~238)が位を奪い公孫氏政権四世となった時代は、わが国の卑弥呼の時代でもあり、魏呉間のせめぎ合いが頂点に達する時勢となった。公孫淵政権は、一方で燕王を僭称して、百官を設け、年号を紹漢と定める等独立王国化の道へ傾斜しながら、他方で、表面上は魏に服属しながら魏敵呉との同盟を計る等必死に延命策を労した。

 しかしながら武運つたなく、景初二年(238)八月に、司馬いの率いる四万人の軍兵により首都襄平城(遼陽市)が陥落させられ、こうして、この独立小国家として自立していた公孫氏は滅ぼされることとなった。都合公孫氏勢力は三世四代のわずか半世紀ばかりで命脈を断たれ、中国全体から見ればごく小さな地方政権にすぎなかったとはいえ、東アジア史の上からは見落とすことができない重要な影響力をもたらした政権であったといえる。

 こうして、魏の東方服属化政策は完遂されて行き、「魏」と「倭」の交流は、「魏」の國ができた直後から始まるという時勢ともなった。記録によれば、倭から魏への使いは、239年、 243年、247年、そして250年頃と、数回に渡っており、一方魏の使節も240年、247年、そして250年頃というように、倭を訪れている。ここで見落とされてはならないことは、魏と倭の関係も又呉と倭との交流の可能性とのせめぎ合いの中から選択された道筋であったと思われることである。詳細は本文の中で説明することになるが、公孫氏政権同様倭国も又魏呉間の政争の狭間で梶を取らねばならない運命に弄ばれていたものと推測される。但し、卑弥呼女王政権は、魏が朝鮮半島の支配者として君臨し始めた直後より、他の韓諸国が態度定まらぬうちより、魏との交渉を決断し、臣下の礼を取りもったということになる。それは魏からしてみても又倭国からしてみても時節に相応しい外交的成果を結ぶものでもあった。


【「中華思想」について】

 「魏志倭人伝」の世界へと渉猟して行く前に、前提として「中華思想」について確認しておかねばならない。中国には、自分たちの國がもっとも進んだ國であり、周りの國を蛮夷であるとする思想を古くより共通としている。その思想は、中国こそ世界の中心「中華」であり、中国の皇帝は、天帝の意志を察知して、天下に君臨して異民族を徳化するものと考えられることともなった。これを「中華思想」という。これによって、周囲の地方は、「東夷」、「西じゅう」、「南蛮」、「北狄」と呼んで蔑視されたリ、又国々や民族の名にも「朝鮮」、「匈奴」、「鮮卑」、「鳥孫」などの卑字があてられることともなった。「倭」というのも、従順なおとなしいという意味の漢字の当て字のようであリ、漢字のつくりそのものには意味は無いと思われる。


【「後漢書の訂正による却って混乱」について】
 中国の史書を記すと下記のように図示できる。問題は、宋代に編纂された後漢書倭人伝の魏志倭人伝版本訂正にある。後漢書倭伝は、魏志倭人伝版本を下敷きにしながらいくつかの重要な訂正を加えている。それが何故なのか今日でも解析されておらず、むしろ混乱を誘っている。
 
【中国歴代王朝と史書編纂年代】
後漢 三国時代
(魏、蜀、呉)
 晋 北漢、趙、涼、北魏等    (北朝)
漢書 三国志
東晋  梁 (南朝)
後漢書 宋書

 以下、重要な訂正個所を見てみる(「古代史(制作者 塚田敬章)」その他を参考にする。

 その第一は、魏志倭人伝版本の「邪馬一国」が「邪馬台国」と書き換えされていることである。これは、古田武彦氏が「邪馬台国はなかった」という本で詳細に確認したところである。後漢書倭伝には、後に唐の章懐太子の注が為され、「今の名を案ずると、邪摩惟(ヤバユヰ)音の訛ったものである」との解説が付けられている。実際には次のように書かれている。

 岩波文庫「魏志倭人伝」所載の、「後漢書倭伝」(范曄撰。唐章懐太子賢注)原文影印には、次の
文がある(百衲本)
魏志倭人伝原文
後漢書倭伝原文 大倭王居邪馬臺国 (案今名邪摩惟音之訛也)
書き下し文 大倭王は邪馬臺国に居す。(今の名を案ずると、ヤバユヰ音の訛ったものである)

 「ヤバタイ」(漢音)は「ヤバユヰ」が変化したものだと注釈されているが、「邪馬一国」が「邪馬台国」へと書き換えられた理由は不明である。推測するのに、宋書倭国伝によれば後漢書が著された南朝、宋の時代に、長い間交流を絶っていた倭の五王が使者を派遣し朝貢してきた。この時、自分達の国をヤマダイ(呉音)と発音していた。後漢書の著者・范曄は、後漢書倭伝を記す際に、魏志倭人伝の邪馬壹(ヤマヰ)国を訂正し、邪馬臺(ダイ)国に書き改めたということになる。

 これには様々な理由が考えられる。その一は、魏志が元々壹と臺を間違えて記載していると判断した。その二は、今はヤマダイに変わっているから、こちらを採るべきだとか考えた。その三は、陳寿の魏志は臺表記していたものを後世の版本が壹と訂正したいたものを原本記述に直した。

 後漢書に注を加えた章懐太子賢は、より古い魏志に、邪馬壹国と表記されている同じ土地が、後の時代、邪馬臺国に改訂されたのは何故かを考え、ヤバタイという今(唐代)の名はヤバユヰ音が変化したのだという結論を下した云々。真相は分からない。いずれにせよこれにより、注が入れられた7世紀の唐代から、魏志には邪馬壹国、後漢書には邪馬臺国と別の文字が書かれていて、この二系統が後世にそれぞれ伝わるようになった。

 ちなみに、唐代に著わされた隋書?国伝は、隋の使者、裴世清等が、日本を訪れた時の状況を記録している。遣隋使、遣唐使も多数派遣されて、交流が盛んな時代だったので、それだけ信頼性も高いが、邪靡堆(ヤバタイ)国と記している。

 なぜ、書き換えられたのかもう一つの理由として、邪馬壹国から邪馬台国へ転記される過程は、王朝の断絶を示す痕跡を示唆しているのではなかろうかということである。古事記(記)、日本書紀(紀)には、神武天皇の東征とされる王朝の交代が記録されている。このことに関連しているのではなかろうか、ということである。
 
 その第二は、卑弥呼の後継者、女王となった少女の名も「壱與(一与)」から「臺與(台与)」と書き改められている。二行に三回もその名が現れ、この全てが書き改められている。その一、二行後に「臺(=中央官庁)に詣ず」という臺が正しく書き分けられているというのに。 実際には次のように書かれている。
魏志倭人伝原文  立卑弥呼宗女壹與年十三、為王。国中遂定。政等以檄告喩壹與。壹與遣倭大夫率善中朗将掖邪狗等二十人、送政等還。因詣臺
後漢書倭伝原文
書き下し文

 その第二は、明らかに内容記述の訂正が見られる。後漢書の記述のうち、魏志を引いた部分は五百二十文字ほどで、そのほとんどは原形に基づいている。しかし、以下に挙げる文は、その意味する内容にまで変化が及んでいる。

後漢書倭伝原文 楽浪郡徼去其国万二千里 去其西北界狗邪韓国七千余里
書き下し文 楽浪郡境はその国を去ること万二千里、その西北界、狗邪韓国を去ること七千余里

 ヤマイをヤマダイに修正しただけではなく、魏志が邪馬壱国(女王国)の北岸、朝鮮半島にある別の国とする狗邪韓国を、邪馬台国の西北境界の国として、邪馬台国に含めている。

後漢書倭伝原文 犯法者没其妻子 重者滅其門族
書き下し文 「法を犯すものは、その妻子を落しめて奴隷とする。重者は、その一門を滅ぼす」

 魏志では、重犯者も「没其門戸及宗族」となっていて、奴隷にされるだけの記述のところ、後漢書の方が刑罰が重くなっている。後漢書の方が間違えたとは考えにくい。没、没とあるのを没、滅と書き換えるには根拠が必要となる。ここは、後漢書が没から滅に訂正したか、魏志倭人伝の伝写間違いのどちらかと考えられる。《注…魏志の異本では、後漢書と同じく「滅」となってる。但し、後漢書の方にも「没」とする異本があるからややこしい。或いは、魏志の「没」、後漢書の「滅」という形が本来のものかもしれない。「没」は、魏志夫余伝に「殺人者は死。その家人を没して奴婢となす」との記述があり、身分を奪って奴隷に落とすことを意味する》
  
後漢書倭伝原文 自女王国 東度海千余里 至狗奴国 雖皆倭種 而不属女王
書き下し文 「女王国より、東に海を渡ること千余里。狗奴国に至る。皆倭種といえども女王には属さない」
    
 魏志が単に女王国の南と記す狗奴国を、女王国の東、海を渡った向こうの国と書き換えている。後漢書倭伝は、自らの言葉に置き換えながら、魏志倭人伝を四分の一ほどに要約した。魏志を通読た著者の范曄が、違う内容を記すのは不可解である。特に、この狗奴国に関する記述は不審を抱かせる。魏志の「南に狗奴国があり女王に従わず」を、「女王国より、東に海を渡ること千余里。狗奴国に至る。皆倭種といえども女王には属さず」と書き換えた理由が不明である。

 「若くして学を好み、経史を広く渉り、善く文章を為す。隷書に長け、音律に明るい」(宋書范曄列伝)と評された秀才范曄が書き換えた理由に派相当の根拠があったものと思われるが、その根拠は分からない。推定するのに、范曄は、後漢書を記すにあたって倭の五王の遣使によって得られた新たな資料と照合した。そして、魏志倭人伝は間違っているという判定を下し、訂正したとすれば説得力を持つ。魏志の真珠を白珠に改めたり、丹を丹土としたり、後漢書には明らかな訂正の跡が見られる。 范曄が後漢書を著わしたのは、424(元嘉元)年の冬に左遷された後で、数年間の志を得ない時期とされている(宋書范曄列伝)。従って、五王のうちで利用できるのは讃の遣使時(421、425)の資料だけということになる。但し、それ以前の東晋の413(義煕9)年にも、王名を欠いた倭国の遣使が記録されている(晋書安帝紀)。「その西北界狗邪韓国」、「東の狗奴国が女王に属さず」という後漢書の記述は、この413年の遣使の資料を得て魏志を改めたと考えられる。当時の倭国の政情を反映したものと考えられる。




(私論.私見)