第8部 | その後の空白の4世紀について |
更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).9.27日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「その後の空白の4世紀について」を確認しておく。 2009.11.22日 れんだいこ拝 |
【その後の空白の4世紀について】 | ||||||||||||||
邪馬台国の卑弥呼が死んだのは西暦240-249年。266年、臺與の朝貢の記述がある。その後、邪馬台国が滅亡する。出典が不明であるが「卑彌呼の墓も臺與の墓も破壊されて大量の塩をまかれた。『親魏倭王』の金印も忌まわしいものとして鋳つぶされた」との説もある。邪馬台国滅亡より晋書の413年の倭王『讃』による朝貢までの間、中国の歴史書に「倭」(日本)の動静を伝える記述が途絶えており「空白の4世紀」と呼ばれる。 この時代、中国では晋が滅亡し、朝鮮では高句麗が楽浪郡を滅ぼすなど、朝鮮半島における漢民族の影響力が減退した時期で、その間隙を縫って倭と高句麗が覇権を競った時代だったと思われる。日本は朝鮮半島で軍事行動を繰り返し、百済と新羅を属国としている。この時期の史料として朝鮮側の「三国史記」と好太王碑に倭の記載があり、日本側には日本書紀に記載がある。
三国史記では、倭が新羅を攻めたという記述が非常に多く、朝鮮半島南部を巡る利権争いが数世紀にわたって継続していた事を示している。西暦300年の前半は婚姻関係を結び休戦状態にあった。その後、新たな婚姻を巡って関係が悪化し、345年に日本側から国交を断絶する。西暦391年から400年代初めに新羅と百済を破り属国としている。これに任那日本府がどう絡むのか分かっていない。百済と新羅を属国とした日本は、5世紀を通して、その地位の確定を求め、東晋、南宋、南済、梁と交代していく中華王朝への朝貢を繰り返し、高句麗と百済を除く朝鮮半島南部(六国)の将軍号を得ている。5世紀の413年-478年の間に、倭の五王が、五胡十六国時代の南朝の東晋や宋に少なくとも9回朝貢し、「倭国王」などに冊封されている。一方、高句麗が百済を滅ぼし、新羅が国力を増大させるなど、5世紀後半には日本の影響力は低下していったと思われる。6世紀の前半には任那を喪失し、その後は百済滅亡まで日本と百済・新羅の外交は歴史に登場しなくなる。日本の歴史が明らかになるのは592年以降(飛鳥時代)。この間の日本で何が起こっていたのか? 確かなことは何もわかっていない。 4世紀の初めごろ、高句麗という国が半島の北部にありましたが、楽浪郡を侵略してむくむくと力をつけ、馬韓、辰韓、弁韓というような小国連合が半島中央部から南部にかけてあったが、馬韓から百済、辰韓から新羅という統一国家が4世紀の間にできた。倭国と深い関係があった半島南部の弁韓という場所に伽耶(加羅、任那ともいう)諸国という小国で成り立つ連合があり、経済力や軍事力を伸ばしてきた倭がそこを足場に高句麗と鉄資源をめぐり交戦になり、半島北部まで攻め入った。 中国・二十四史の「旧唐書」が次のように記している。
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西暦 | 中国王朝 | |
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概要 | ||
266 | 晋書四夷伝倭人条に、邪馬台国の壱与の使節が西晋に朝貢したと記述されている。それ以降、西晋に朝貢した事実がない。266年と言えば、魏王朝が倒れ司馬氏の晋朝が成立した翌年、 武帝の泰始2年のことである。この派遣を最後に邪馬台国は中国の史書から姿を消す。その後我が国が中国の史書に登場するのは421年、南朝の宋の時代、永初2年のことで、使節を送ったのはいわゆる倭の五王の一人「讃」である。 | |
271年 | 垂仁天皇即位年(日本書紀紀元前29年) ← 空白期間の始まり 空白期間 11代垂仁・12代景行・13代成務・14代仲哀・摂政神功 日本書紀の空白期間(紀元前29年~紀元後269年)→復元年代の期間(271年~390年) |
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351年 | 邪馬台国を継承した邪馬台国王統が中国に朝貢する(出典不明)。 | |
364年 | 百済人久氏ら、卓淳国を尋ね、倭国との通交を求とめる。 | |
366年 | 倭国の斯摩宿禰、卓淳国へ行き、使者を百済におくる。 | |
367年 | 千熊長彦を遣わして新羅を責める。 | |
369年 | 新羅を攻め、比自体(ひしほ)以下の7国を平定し、比利以下の4邑を降伏させる。 | |
372年 | 百済の肖古王、久氏らを倭国に遣わし、七枝刀1口・七子鏡1面をおくる。 | |
382年 | 襲津彦を遣わし、新羅を攻める。 | |
390年 | 神功皇后没年(日本書紀269年) | |
390年 | 応神元年(日本書紀270年) | |
391年 | 神功皇后率いる倭軍が朝鮮に侵攻。百済と新羅を臣民とする(高句麗広開土王碑/記、紀=香椎宮)。 | |
391年 | 倭、百済・新羅を破り、臣民とする(高句麗広開土王碑)。 | |
396年 | 百済が、朝鮮半島中部まで国土拡大する(高句麗広開土王碑)。 | |
倭の五王の初代、讃(さん)が朝貢する(出典不明)。 | ||
399年 | 倭が新羅を救援する。百済は倭と和通する(高句麗広開土王碑)。 | |
399年 | 倭、新羅に侵入、新羅は高句麗に救援を要請する(広開土王碑)。 | |
404年 | 倭寇が潰敗、斬殺するもの無数なり(高句麗広開土王碑)。 | |
404年 | 倭、もとの帯方郡の地域に出兵し、高句麗に撃退される(広開土王碑)。 | |
413年 倭の五王の初代 讃 |
東晋/安帝 |
「安帝の義熙9年、是の歳、高句麗、倭国および西南の夷の銅頭大師、並びに方物を献ず」(晋書安帝紀、太平御覧) |
「晋の安帝の時、倭王賛あり、賛死して弟の彌が立つ。彌が死んで子の済が立つ。済が死んで、子の興が立つ。興が死んで弟の武が立つ」(「晋安帝時、有倭王賛、賛死、立弟彌、彌死、立子済、済死、立子興、興死、立弟武」)(梁書列伝倭条)。 | ||
「晋の安帝の時、倭王讃あり、使いを遣わして朝貢せしむ」(「晋安帝時、有倭王讃、遣使朝貢」)(南史列伝倭国伝)。 | ||
421年 | 宋/高祖 |
永初2年、「倭王の讃、宋に朝献し、武帝から除綬の詔をうける。おそらく安東将軍倭国王」(宋書倭国伝)。 |
「高祖の永初2年、倭国は高句麗の東南海の海の中にある。世代を継いで朝貢している。高祖永初2年に詔を発して言うには「倭讃、万里、貢を修む。遠誠宜しく甄(けん-区別する)、除授を賜ふべし」(「倭国在、高麗東南大海中、世修貢職。高祖永初二年、倭讃万里修貢、遠誠宜甄、可賜除授」)(宋書列伝倭国伝)。 | ||
「 高祖の永初2年、倭讃、万里、貢を修む。遠誠宜しく区別して、除授を賜ふべし」(「高祖永初二年、倭讃万里修貢、遠誠宜甄、可賜除授」)(南史列伝東夷伝倭国条)。「永初2年2月己丑、倭国が使臣を遣わし、朝貢す」(「永初二年二月己丑、倭国遣使朝貢」)(南史本紀武帝記)。 | ||
424年 | 范曄、後漢書を著す(宋書)。新たな資料を得て魏志倭人伝を訂正。 | |
425年 | 宋/文帝 |
元嘉2年、司馬の曹達を遣わし、宋の文帝に貢物を献ずる(宋書倭国伝)。「太祖の元嘉2年、讃、又、司馬曹達を遣わし、表を奉りて方物を献ず」(「太祖元嘉二年、讃、又遣司馬曹達、奉表、献万物」)〔宋書列伝-倭国伝〕。「是の歳、又、倭国が使臣を遣わし、朝貢す」(「是歳、又倭国遣使朝貢」)〔南史列伝〕。 |
430年 | 宋/文帝 | 元嘉7年1月、宋に使いを遣わし、貢物を献ずる(宋書文帝紀)(宋書倭国伝)。「元嘉7年春正月、是の月、倭国王、使いを遣わして方物を献ず」(〔「元嘉七年、春正月、是月、倭国王遣使献万物」)〔宋書本紀-文帝記〕。「是の歳、倭国・百済が使臣を遣わし、朝貢す」(「是歳、倭国・百済遣使朝貢」)〔南史本紀-文帝記〕。 |
438年 倭の五王の2代 珍 |
宋/文帝 | 元嘉15年、これより先、倭王の讃没し、弟の珍立つ。この年、珍、宋に朝貢。これより先(後の意味以下同)、倭王讃没し、弟珍立つ。 |
4月、宋文帝、珍を安東将軍倭国王とする。珍はまた、倭隋ら13人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍にされんことを求め、許される(宋書文帝紀)。「讃死。弟珍立。遣使貢献。自称使持節、都督・倭・百済・新羅・任那・泰韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王。表求除正。詔除安東将軍・倭国王。珍又求除正倭隋等十三人平西・征虜・冠軍・輔國将軍号。詔並聴」となっている(宋書列伝倭国伝)。「是の歳、倭国・高麗・百済が使臣を遣わし、朝貢す」(「是歳、倭・高麗百済遣使朝貢」)(南史本紀文帝記)。 | ||
この年、珍が宋に朝献し、自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」と称し、正式の任命を求める(宋書倭国伝)。「元嘉十五年(438年)、夏四月己巳、倭国王「珍」を安東将軍とした」(「元嘉十五年、夏四月己巳、以倭国王珍為安東将軍」)(宋書本紀文帝紀)。 | ||
「是の歳、高麗・百済・倭国が使臣を遣わし、方物を献上す」(「是歳、高麗・百済・倭、並遣使献方物」)(宋書本紀文帝記)。 | ||
443年 倭の五王の3代 済 |
宋/文帝 |
「元嘉20年、倭国王済が宋に遣使して奉献す。宋・文帝に朝献して、安東将軍倭国王とされる。復(また)以て、安東将軍・倭国王と為す」(「元嘉二十年、倭国王済遣使奉献。復以為安東将軍・倭国王」)(宋書列伝倭国条、宋書倭国伝)。 |
「是の歳、高麗・百済・倭国が使臣を遣わし、朝貢す」(「是歳、倭・高麗百済遣使朝貢」)(宋書本紀文帝記)。 | ||
「是の歳、高麗・百済・倭国が使臣を遣わし、朝貢す」(「是歳、高麗・百済・倭、遣使朝貢」)(南史列伝倭国条)。 | ||
443年 | 倭国王の済、宋に朝貢して、安東将軍倭国王とされる。 | |
451年 | 宋/文帝 |
元嘉28年、宋朝・文帝から「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」を加号される。安東将軍はもとのまま(宋書倭国伝)。「元嘉28年、秋7月甲辰、安東将軍の倭国王「済」を安東大将軍に進号した」(「元嘉二八年、秋7月甲辰、進安東将軍倭王綏(倭)済為安東大将軍」)(宋書本紀文帝記)。 |
7月、安東大将軍に進号する。(宋書文帝紀)。上った23人は宋朝から軍・郡に関する称号を与えられる(宋書倭国伝)。「元嘉28年、倭国王「済」を、使持節、都督、新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事を加えた。安東将軍は前のままとする。並びに23人を軍・郡(将軍号・郡太守号)に授爵した」(「元嘉二八年、加使持節、都督、新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東将軍如故。并上所二十故。并除所上二十三人軍郡将軍号・郡太守号」)〔宋書列伝-倭国条〕。 | ||
「秋7月甲辰、安東将軍の倭国王「済」を安東大将軍に進号した」(「秋7月甲辰、進安東将軍倭王綏(倭)済為安東大将軍」)〔南史列伝-倭国条〕。 ★宋書列伝倭国条と文帝記では済の称号が前者で「安東将軍」、後者で「安東大将軍」と異なっている。南史も「安東大将軍」としている。池内宏は「安東将軍」が正しいとしている(「日本上代史の一研究-日鮮の交渉と日本書紀」、中央美術出版、1970年8月15日、98頁)。次の興も同じく「安東将軍」であり、やはり池内宏の指摘するように「安東将軍」が正しいと考える。 |
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460年 | 宋/文帝 |
大明4年12月、孝武帝へ遣使して貢物を献ずる。(宋書倭国伝)「大明4年12月丁未、倭国が使臣を遣わし、使いを遣わして方物を献ず」(「大明四年十二月丁未、倭国遣使献万物」)〔宋書本紀-孝武帝記〕。「大明4年12月丁未、倭国が使臣を遣わし、朝貢す」(「大明四年12月丁未、倭国遣使朝貢」)(南史本紀文帝記)。 |
「済が死し、世子の興が遣使して貢献す」(「済が死し、世子興遣使貢献」)(宋書列伝倭国条)。 | ||
462年 倭の五王の4代 興(こう) |
宋/文帝 |
大明6年3月、宋・孝武帝が、済の世子の興を安東将軍倭国王とする。(宋書孝武帝紀、倭国伝)「大明6年3月壬寅、倭国王の太子「興」を安東将軍に授爵した」(「大明六年三月壬寅、以倭国王世子為安東将軍」)(宋書本紀-孝武帝記)。 |
「大明6年、詔を発して、倭王の世子興が忠義を大きく(奕)果たし、(中略)新たに辺境の地(倭)を治めたので、安東将軍倭国王を授爵した」(「大明六年、詔曰、倭王世子興、奕嗣辺業。宜授爵号、可安東将軍倭国王」〔宋書列伝-倭国条〕。 | ||
「大明6年3月壬寅、倭国王の太子「興」を安東将軍と倭国王に授爵した」(「大明六年三月壬寅、以倭国王世子為安東将軍、倭国王」)(南史列伝倭国条)。 | ||
471年 | 宋 | 稲荷山鉄剣に、「辛亥、獲加多支鹵大王」の文字あり(稲荷山鉄剣の銘)。 |
477年 | 宋/順帝 |
昇明1年、「これより先、興没し、弟の武立つ。武は自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王」と称する」。(「興死、弟武立。自称使持節、都督、百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国、諸軍事、安東大将軍、倭国王」)(宋書倭国伝、宋書列伝倭国条) |
11月、遣使して貢物を献ずる。(宋書順帝紀)「昇明元年冬11月己酉、倭国が使いを遣わして方物を献ず」(「昇明年元月冬十一月己酉、倭国遣使献万物」)〔宋書本紀-順帝記〕。 | ||
478年 倭の五王の5代 武 |
宋/順帝 |
昇明2年、武は上表して、自ら開府儀同三司と称し、宋の順帝に正式の叙正を求める。順帝、武を「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」と称する。(宋書順帝紀、倭国伝)(「武」と明記したもので初めて)。 |
「明2年5月戊午、倭国王「武」が使いを遣わして方物を献ず。そこで、安東大将軍に授爵した」「昇明二年五月戊午、倭国王武遣使献万物、以武為安東大将軍」(宋書本紀-順帝紀)。 | ||
「順帝昇明2年5月戊午、遣使して上表するに、詔して、使持節、都督、新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王を除正した」(「順帝昇明二年五月戊午、遣使上表曰、詔除武、使持節、都督、新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王」)(宋書列伝倭国条)。 | ||
「昇明2年5月戊午、倭国王「武」を安東大将軍に授爵した」(「昇明二年五月戊午、倭国王武為安東大将軍」)(南史本紀順帝記)。 | ||
479年 | 南斉/高帝 |
建元1年、南斉の高帝、王朝樹立に伴い、倭王の武を鎮東大将軍(征東将軍)に進号する(南斉書倭国伝)。 |
「建元元年、倭国王「武」を進めて新たに、使持節、都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王に徐し、号は鎮東大将軍となす」(「建元元年、進新徐、使持節、都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王武、号為鎮東大将軍」)(南斉書列伝東夷・倭国条)。 | ||
「斉の建元に(中)、倭国王「武」を使持節、都督、新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国、諸軍事、鎮東大将軍に授爵した」(「斉建元中、倭国王武、除使持節、都督、新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、鎮東大将軍」)(梁書列伝倭国条)。 | ||
「建元中、倭国王「武」を鎮東大将軍に授爵した」(「建元中、倭国王武、除安東大将軍」)(南史列伝倭国条)。 | ||
502年 | 梁/武帝 | 天監1年4月、梁の武帝、王朝樹立に伴い、倭王武を征東大将軍に進号する。「天藍元年四月戊辰、倭国王「武」を鎮東大将軍から征東将軍に進号した」(「天藍元年四月戊辰、鎮東将軍倭王武進号征東将軍」)(梁書本紀武帝記)。 ★梁書では武を「征東将軍」に進号したとあるが、これは「征東大将軍」の誤りではないかとされる(鳥越憲三郎「中国正史 倭人・倭国伝全釈」、中央公論社、2004年6月25日、169頁、池内宏の前掲書100頁)。南斉高帝建元元年(479年)に「鎮東大将軍」を授爵されているから、進号は「征東大将軍」でないとおかしいとする。 |
「高祖即位、倭国王「武」を征東将軍に進号した」(「高祖即位、進武号安東征東将軍」)〔梁書列伝-倭国条〕。「倭国王「武」を(鎮東大将軍から)征東大将軍に進号した」(「進安東将軍倭王武為征東大将軍」)(南史本紀-武帝記)。 | ||
592年 | 飛鳥時代が始まる(崇峻天皇)。国号が「日本」に変わる。 | |
600年 | 倭王・阿毎が朝貢する(出典不明)。 | |
631年 | 倭国が唐の太宗に朝貢する。※倭国は昔の奴国と記述あり。(出典不明)。 | |
648年 | 倭国が新羅(朝鮮王朝)に遣使。 | |
650年頃 | 邪馬台国王とが大和朝廷に征服される。中国の書に「日本国」がはじめて登場。「日本は昔、小国だったが倭国を併合し、日本と改名した」とある。(出典不明)。 | |
650年以降 | 大和朝廷が日本の統一王権を確立する。 |
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「空白の4世紀」をどう読み取るのか、邪馬台国所在地論に匹敵する興味深いフィ-ルドである。れんだいこは、恐らく誰も述べていないと思われるが(実際には口伝で承知されているのかも知れない、もしくはれんだいこが知らないだけで既にどなたかによって述べられているのかも知れない)、「いわゆる倭の五王」は大和朝廷皇統譜に繋がる王ではなく、日本古代史史上の最大政変の邪馬台国攻防戦で破れ、但し徹底的に敗れたのではなくいわば地下に潜って勢力を温存した側の出雲王朝-邪馬台国系列の王統譜の王なのではないのか、と推理している。従って、大和朝廷皇統譜には本来は居ないと云うことになる。こう捉えるのがれんだいこの基本スタンスである。但し、記紀編纂過程で、「空白の4世紀」時代の出雲王朝-邪馬台国系列の王を取り込んだ可能性がある。そこで、どう取り込まれたのか精査を要することになる。こういうプロセスを経ての「いわゆる倭の五王論」にならねばならない。れんだいこは今ここまでは言える。ここから先の王の比定は不明である。その解明は、れんだいこの精査に要する生活と寿命次第となっている。 |
(私論.私見)