玉、勾玉、翡翠考 |
更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).1.10日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「玉、勾玉、翡翠考」をものしておく。
2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4).11.12日 れんだいこ拝 |
【玉】 |
古代遺跡から時に玉壁が出土する。玉壁は、中国歴代王朝の権威を象徴する威信財である。玉は、岩石の中でもとりわけ艶やかで清純な軟玉(ネフライト)を素材にしている。硬度は6から6..5で、鋼鉄のナイフでも歯が立たない。 中国で玉器(きょっき)が出現したのは紀元前6000年頃。祭礼儀礼に用いられていた。金より上位に位置づけられていた。中国大陸外では、漢代に設置された楽浪郡出土があるぐらいで、朝鮮半島南部では出土が確認されていない。 1818(文政元)年、宮崎県の県南の西都原遺跡群の部串間市の遺跡の石棺から鉄製品や玉類と共に出土した。直径33.3p、軟玉でできた薄い円盤で、中央部に丸く穴が開けられており、周囲には獣紋、渦巻き紋、獣紋の三重の文様帯を刻んでいる。紀元前2世紀頃の作品であると推定されている。朝鮮で出土しない玉壁が、なぜ南九州の宮崎から出土したのか解明されていない。 |
【翡翠】 |
「ヒスイって何だろう」その他参照。 |
ヒスイ(翡翠)は宝石の一種で、遙か太古の時代より、富と権力の象徴として、選ばれた者のみ手にすることができた特に東洋で人気の高い宝石です。日本国内でも縄文時代の遺跡から翡翠の勾玉等が出土しており、日本最古の歴史書/古事記にも糸魚川翡翠にまつわる奴奈川姫(ぬなかわひめ)伝説が記されています。宝石の多くは単なる装飾品として使われていますが、翡翠はそれだけではなく、祈りを捧げる儀式に使われる等、不思議な力を持つ「宝物」として珍重されていたのではないかといわれています。貴人が富や権力の象徴として所有したり、宗教的指導者が祭祀に用いたことから、呪術性・護符性・祭器性を持つ貴石とされ、現在でも多くの人を魅了しています。海外でも翡翠は、その美しさから装飾品や調度品の材料とされてきましたが、不思議な力を持つ石として体を癒すために用いたり、霊的な石として呪術に用いられる等、遠く離れた地でも同じような用途で用いられているという興味深い石でもあります。 地質学的にも日本のような沈み込み帯でのみできる『日本ならでは』の石なので、2016年9月24日に日本鉱物科学会が『国石』に選定しました。ヒスイが一部のエリアが天然記念物に指定されるなど、大事に保全されて来ているおかげで、ヒスイは今でも野外で見ることができ、将来の人たちも野外で見ることが保障されていることも国石としてふさわしいと評価されました。 ヒスイ(翡翠)文化の始まりは、中国は約2500年前、朝鮮半島は約1400年前、中央アメリカは約3000年前といわれています。日本の翡翠文化は世界最古といわれ、約7000年前の縄文時代に始まりました。しかし、遺跡から出土した翡翠は、近代まで大陸から渡来したものだと考えられていました。その翡翠が奈良時代を最後に、なぜか近代まで表舞台に登場する事はありませんでした。仏教伝来との関係等、諸説ありますが、未だに謎とされているため、「幻の宝石」といわれています。再び翡翠が珍重され、帯留めや指輪、ネックレスなどの宝飾品に用いられるようになったのは、明治以降になってからです。 |
その後、弥生時代・古墳時代を通じてヒスイは非常に珍重されましたが、奈良時代以降は全く利用されなくなってしまいました。そのため、糸魚川でヒスイが採れることも忘れ去られ、日本にはヒスイの産地はなく、遺跡から出るヒスイは大陸から持ち込まれたものと昭和初期まで考えられていました。1938(昭和13)年夏前、糸魚川の偉人・相馬御風が知人の鎌上竹雄さんに、昔、糸魚川地方を治めていた奴奈川姫がヒスイの勾玉をつけていたので、もしかするとこの地方にヒスイがあるのかもしれないという話をしたそうです。鎌上さんは親戚の小滝村(現在の糸魚川市小滝)に住む伊藤栄蔵さん にその話を伝え、伊藤さんは地元の川を探してみることにしました。8.12日、伊藤さんの住む小滝を流れる小滝川に注ぐ土倉沢の滝壷で緑色のきれいない石を発見しました。1939(昭和14)年6月、この緑の石は、鎌上さんの娘さんが勤務していた糸魚川病院の院長だった小林総一郎院長を通じて、院長の親類の東北大学理学部岩石鉱物鉱床学教室の河野義礼先生へ送られました。河野先生が神津俶祐教授の所有していたビルマ(ミャンマー)産のヒスイと偏光顕微鏡や化学分析で比較した結果、小滝川で採れた緑色の岩石はヒスイであることが科学的に証明されました。同年7月、河野義礼先生による現地調査によって、小滝川の河原にヒスイの岩塊が多数あることが確認され、この年の11月、岩石砿物砿床学という東北大学が中心となって発行していた学術雑誌に論文が掲載されました。この当時、日本にはヒスイの産地がないとされていました。考古学の世界では、遺跡から出土するヒスイがいったいどこから来たものかということが、大きな問題となっていました。相馬御風は考古学に詳しく、八幡一郎など高名な考古学者との交流もあり、日本にヒスイの産地が知られていないことを知っていたはずです。しかし、不思議なことに御風は伊藤栄蔵さんが小滝川でヒスイを発見したことを知人の考古学者に伝えていないのです。さらに御風は年に4から6号のペースで個人雑誌「野を歩む者」を発行しており、巻末の身辺雑記には身の回りに起きたこと、訪ねてきた知人のことなど、詳しく書いているのですが、その身辺雑記にも小滝川でヒスイが発見されたことや、東北大学の河野義礼先生がヒスイの調査に来たことなどが書かれていません。御風は亡くなる昭和25年(1950)まで糸魚川で発見されたヒスイのことをまったく触れていません。どうして御風はヒスイについて沈黙を続けたのでしょうか。御風の沈黙の理由として以下のようなものが考えられます。1)戦争中だったから。ヒスイが小滝川で発見された昭和13年(1938)には、日本と中国の戦争が始まっていました。このような時期にヒスイの発見を発表してしまうと、きちんとした保護ができないので、御風はヒスイ発見のことを知らせなかったという考えです。しかし、終戦後も御風はヒスイのことを何も語っていないのが謎として残ります。2)ヒスイを戦争利用されたくなかったから。戦時中、多数の天然記念物が指定されています。これは保護よりも、国威発揚を意図したものだそうです。ヒスイ発見を公表し、天然記念物になれば戦争推進に利用されるので、あえて沈黙したのだとするものです。しかし、御風の個人雑誌の記述には戦争礼賛が多数見られ、約80曲も作詞した国民歌の曲名には「一億進軍」、「皇軍凱旋」、「神国顕現」、「銃後の乙女」など戦争推進のためのものが多く見受けられるのです。3)体力が衰えていたから。御風は大腸カタル(1944年)、敗血症(1945年)、左眼失明(1946年)、体調不良で寝たきりに近い状態(1947〜1950年)というように1950年に亡くなる直前は、大きな病気に頻繁にかかっています。この体力的な衰えがヒスイのことを世に紹介できなかった理由ではないかいという考えです。しかし、御風の著作の数を調べてみると、1942〜1950年の間に15冊の本を刊行し、個人雑誌「野を歩む者」も1950年まで発刊しており、病弱だったとは言え、執筆の意欲はあったことが明らかです。また、ヒスイが発見された以後の主な来客は、北大路魯山人(1938年)、小川未明(1940年)、新潟県副知事・前田多門(1944年)、会津八一(1945年)があり、ヒスイのことを話すことは十分にできたはずなのです。会わなくても手紙などで知人の考古学者に伝えることもできたはずです。それをなぜしなかったのか、御風の沈黙はヒスイ再発見にまつわる大きな謎となっています。 |
ヒスイの色 ヒスイの色は緑色が最も有名で、それ以外に白・淡紫・青・黒・黄・橙・赤橙などの色がある。日本では橙〜赤橙色のヒスイは発見されていない。以前、糸魚川では『ピンクヒスイ』と呼ばれる石があった。これはヒスイではなく桃色をした単斜灰れん石(桃れん石)を含むロディン岩。 |
ヒスイの主成分 ヒスイに含まれる元素の主なものは、ケイ素、酸素、アルミニウム、ナトリウム。他にマグネシウム、カルシウム、鉄、チタンなどが含まれることがある。 |
ヒスイを構成する鉱物 ヒスイは、ヒスイ輝石からできているというのが定説だったが、緑色の部分にはオンファス輝石という鉱物があることがわかってきた。また、淡紫色のラベンダーヒスイはチタンを含むヒスイ輝石、青色のヒスイには、チタンを含むオンファス輝石、黒色のヒスイには石墨が含まれており、それぞれ色の原因になっている。 |
2種類のヒスイ 硬玉と軟玉。ヒスイ(jadeジェイド)は、硬玉(jadeiteジェイダイト)と軟玉(nephriteネフライト)の2種に分けられる。宝石店で販売されているヒスイは硬玉の方で硬玉の方が高価である。ヒスイと言えば普通は硬玉のことを意味している。硬玉という呼び方はほとんど死語になっており、多くの分野では単にヒスイと呼んでいる。硬玉という用語をいまだに使っているのは考古学の世界ぐらいである。一方、軟玉(ネフライト)の方は宝石や考古の分野など広く使われている。日本では太古の昔からヒスイ輝石からできている硬玉と、角閃石(透閃石、透緑閃石)からできている軟玉をきちんと区別していたが、欧米はそうではなかった。明治時代に欧米の科学が日本に輸入され、地質学の近代化か進められたとき、硬玉と軟玉の区別があいまいな欧米の見方が導入された。欧米では硬玉と軟玉の混同がいまだに見られ、場合によっては蛇紋岩すらもヒスイ(Jade)というラベルがつけられていることがある。緑色をした緻密な石はみんな"Jade"になってしまう。フォッサマグナミュージアムでは、大部分がヒスイ輝石やオンファス輝石などからなるもの→ ヒスイ、ヒスイ輝石岩、オンファス輝石含有ヒスイ輝石岩、ヒスイ輝石含有オンファス輝石岩大部分が透閃石〜透緑閃石からなり、緻密なもの→ 軟玉(ネフライト)、透閃石岩、透緑閃石岩と呼ぶことにし、硬玉という用語は使わないことにしている。 |
フォッサマグナミュージアム
所在地/〒941-0056 新潟県糸魚川市大字一ノ宮1313
電話番号/ 025-553-1880 FAX/025-553-1881 E-mail/ museum@city.itoigawa.lg.jp
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2022.11.12日、「友行安夫阿波邪馬台国説」。 糸魚川翡翠発見者の「伊藤栄蔵」氏の苦節の翡翠発見秘話! 糸魚川翡翠は1938年に発見されるまで、誰も知りませんでした。しかし、それまでも翡翠は古代人の遺跡などから発掘され、一部の人は「もしかしたら、翡翠の産地は日本にあるのでは?」と考えていましたが、これと言う決定打を見つけられずにいました。そんな昭和13年(1938)。日本の詩人・歌人・評論家として知られる相馬御風(そうま ぎょふう)が知人の鎌上竹雄氏に「越の国(こしのくに)で採れたという翡翠の勾玉は、きっとこの山奥(糸魚川)のどこかにある」と話したことが始まりだとされています。相馬御風から翡翠の話を聞いた鎌上竹雄はその話を小滝村(現在の糸魚川市小滝)に住む伊藤さんにしたところ、伊藤さんもその話にたいへん興味を持ち、自分でも翡翠の原石を探したり、狩猟客のガイドや山小屋生活者・山案内人などに「翡翠の原石」があったら、教えるようにお願いをしたりしていたそうです。そんな伊藤さんの苦労が実を結び同年8月12日、小滝を流れる小滝川にそそぐ土倉沢の滝壷で伊藤さんは「緑色のきれいな石」を見つけたのでした。そして、伊藤さんが小滝川で見つけた「緑色のきれいな石」は東北大学理学部岩石鉱物鉱床学教室に送られ、その「緑色のきれいな石」が翡翠であることが判明。後日、東北大学理学部岩石鉱物鉱床学教室の河野氏による現地調査によって、小滝川の河原にヒスイの岩塊が多数あることが確認され、糸魚川市に翡翠の産地があることが再発見されたのです。ですが、「伊藤栄蔵」さんの功績は余り評価されず、当時は変人や詐欺師のように扱われたそうです。東北大学理学部岩石鉱物鉱床学教室の河野氏による現地調査がなければ、今の糸魚川翡翠は誕生しなかったと思われます。「イザナミ」や「天照大御神」の「翡翠文化」や「阿波翡翠」の発見も時間が立てば評価される時が来るかも知れませんが、残念ながら今のところは県立図書館の担当者(中尾氏)には、変人や詐欺師の扱いに近い扱いを受けました。非常に残念としか言いようがありませんが、その糸魚川翡翠発見当時の「伊藤栄蔵」さんと比べると「伊藤栄蔵」さんの方が余程苦労があったものと思われます。早く「阿波翡翠」も誰からも評価される時代が来ればと思いながらこの記事を書いています。 ※一部記事を日本糸魚川翡翠協会HPから抜粋! https://japan-jadeite.jp ※写真の翡翠原石は、コ島・鮎喰川の神山地区で発見された原石です。
■四国・徳島邪馬台国研究学会邪馬台国学術研究員・徳島ホズマツタゑ研究会員 友行安夫(記) 天照大神の秘宝!https://stonesstones.thebase.in |
【勾玉】 |
翡翠の勾玉が、新羅、百済、高句麗が並び立った三国時代(4〜7世紀)、朝鮮半島で大量に出土している。合計で数百点をくだらない。中でも、新羅の首都が置かれた慶州の古墳から数多く見つかっている。特定の大型古墳から出土した国王級の人物の副葬品と推定される金製の冠には、数多くの翡翠勾玉がつけられていた。皇南大塚北墳出土の冠には77点もの勾玉がついていた。勾玉の多くは翡翠製であるが、韓国では翡翠の産地はみつかっていない。なぜ、翡翠の勾玉が朝鮮半島で出土したのか解明されていない。 ところが、日本では5世紀半ばから6世紀の初め頃、出雲地方を例外として翡翠の製作が見られなくなる。奈良時代に入ると、翡翠文化の影だけを残して翡翠が姿を消す。なぜ翡翠が生産されなくなったのか解明されていない。この頃、大和王朝の祭祀権を廻る政権交代があり、これに関係していると思われる。 |
(私論.私見)