和文読み下し「魏志倭人伝」(三国史.魏書.東夷伝.倭人の条)

 (最新見直し2011.08.08日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここに「和文読み下し「魏志倭人伝」(三国史.魏書.東夷伝.倭人の条)」を掲げる。今後の研究上、文節毎にb付した。全部で68文節となった。今後は、vシで該当箇所を知らせ、論じた方が生産的ではなかろうか。

 従来訳を変えたところは次の通りである。「自女王國以北、特置一大率、儉察諸國、諸國畏憚。常治伊都國、於國中有如刺史」の訳「女王国より以北には、特に一大率を置き検察す。諸国これを憚る。國中を、常に伊都國で治する。刺史の如く有る」を次のように変えた。「女王国より以北には、特に一大率を置き検察す。諸国これを憚る。伊都國で常治し、他の国でも置かれている刺史の如きものである」。「卑弥呼以死。大作冢。徑百余歩、徇葬者奴婢百余人」の訳「卑弥呼が死んだので大きな塚を作る。徑百余歩。徇葬者は奴婢百余人」を次のように変えた。「卑弥呼死す。大きな塚を作る。徑百余歩。徇葬者奴婢百余人」。邪馬台国の「一」か「台」かについては現存文は「一」であるが陳寿原文は「台」と推定して「台」にした。他は大過ない限り現存文に従った。

 2003.9.21日、2011.8.10日再編集 れんだいこ拝


倭人は、帯方の東南の大海の中に在り、山島に依りて、国邑を為している。旧は百余国。漢の時、朝見する者有り。今、使訳通ずる所は三十国。

郡より倭に至るには、海岸に循ひて水行し、韓国を歴て、乍(きゅう)に南へ乍に東へ、その北岸の狗邪韓国に到る、七千余里

始めて一つの海を渡ること千余里、對島国に至る。その大官は卑狗と曰い、副は卑奴母離と曰う。居る所は絶島で、方四百余里可り。土地は山険しく深林多く、道路は禽や鹿の径の如し。千余戸有り。良田はなく、海の物を食べて自活し、船に乗りて南北に市糴す。

又、南へ一つの海を渡ること千余里、名づけて瀚海と曰う、一大国に至る。官は亦卑狗と曰い、副は卑奴母離と曰う。方三百里可り。竹木叢林多く、三千許りの家有り。いささか田地有り、田を耕せども猶食うに足らず、亦南北に市糴す。

又、一つの海を渡ること千余里にして、末盧国に至る。四千余戸有り。山海の水ぎわに居る。草木が茂盛し、行くに前が見えず。人々は好んで魚や鰒を捕らえる。水の深い浅い無く、皆沈没して之を取る。

東南陸行すること五百里、伊都国に到る。官は爾支と曰う。副は泄謨觚.柄渠觚と曰う。千余戸有り。世々王有るも、皆女王国が統属す。郡使が往来するとき常に駐まる所なり。

東南奴国に至る百里。官はし馬觚と曰い、副は卑奴母離と曰う。二万余戸有る。

へ行くと不弥国に至る百里。官は多模と曰い、副は卑奴母離と曰う。千余家有る。

投馬国に至る水行二十日。官は弥弥と曰い、副は弥弥那利と曰う。五万余戸ばかり。

10 邪馬壹国に至る。女王の都する所、水行十日、陸行一月。官は伊支馬有り、次は弥馬升と曰い、次は弥馬獲支と曰い、次は奴佳てと曰う。七万余戸ばかり。

11 女王国より以北は、その戸数.道里を、略載することができるが、その余の旁国は遠絶で、詳しくは分からない。


12 次に斯馬国(しま國)有り、
次に巳百支国(しおき國)有り、
次に伊邪国 (いや國)有り、
次に都支国 (とき國)有り、
次に彌奴国 (みな國)有り、
次に好古都国(こうこと國)有り、
次に不呼国 (ふと國)有り、
次に妲奴国 (そな國)有り、
次に對蘇国 (つそ國)有り、
次に蘇奴国 (そな國)有り、
次に呼邑国 (こお國)有り、
次に華奴蘇奴国(かなそな國)有り、
次に鬼国 (き國)有り、
次に為吾国 (いご國)有り、
次に鬼奴国 (きな國)有り、

次に邪馬国 (やま國)有り、

次に躬臣国 (くし國)有り、
次に巴利国 (はり國)有り、
次に支惟国(しい國)有り、
次に鳥奴国 (うな國)有り、
次に奴国(な國)有り、
此れ女王の境界の尽きた所なり。

13 その狗奴国有り。男子を王と為す。その官に狗古智卑狗有り。女王に属さず。

14 より女王国に至るには万二千余里

15

男子は大小となく皆面と身に黥文す。


16

古より以来、その使が中国に詣でるや、皆、自ら大夫と称す。


17

夏后少康の子は、(倭人を)會稽に封ぜられ、断髪文身し、以って蛟龍の害を避ける。


18

今、倭の水人、好く沈没して魚や蛤を捕る。文身し亦以って、大魚や水禽を厭ふ。後、稍以って飾と為す。


19

諸国の文身は各々異なり、或は左に、或は右に、或は大きく、或は小さく、貴卑に差有り。


20 その道里を計ると、當に會稽の東の東に在る。

21

その風俗は淫らでない。


22

男子は皆露かいし、木綿を以って頭に招け、その衣は横幅、但結束し相い連ねて、略々縫うことなし。


23 婦人は髪をふりみだしたまま屈かいし、衣は単被の如く作り、その中央を穿ち、頭を貫きて之れを衣る。

24

禾や稲を種え、ちょまを養蚕して緝績し、細紵やけん緜を出だす。


25

その地には牛、馬、虎、豹、羊、鵲なし。


26

兵は矛、楯、ろ木弓を用いる。木弓は下が短く、上が長い。竹で作った矢は或いは鐡鏃、或は骨鏃。有無する所はたん耳.朱崖と同じである。


27

倭の地は温暖。


28 冬でも夏でも生菜を食す。

29 皆な徒跣(はだし)。

30

屋室有り。父母兄弟は異なる處で臥息す。


31

朱丹を以ってその身体に塗る。中国で用いる粉の如きなり。


32

食飲には、へん豆を用い、手食す。


33

それ、死には棺有るも槨なく、土で封じて塚を作る。始め、死するや停喪十余日、その時は肉を食わず、喪主哭泣し、 他人は歌舞飲酒を就す。葬が已れば、家を挙げて水中に詣り、澡浴す。以って練沐の如し。


34

それ、海を渡って行来し中国に詣でるには、恒に一人の髪をくしけずらず、蝨を除かず、衣服は垢で汚れ、肉を食わず、婦人を近づけず、喪人の如くにさせる。これを名付けて持衰と為す。若し行く者吉善ならば、共にその生口.財物をいつくしむ。 若し疾病有り、暴害に遭えば好きなように之れを殺す。その持衰謹まずと謂へばなり。


35

真珠.青玉を出だす。


36

れ、山に丹有り。


37

れ、木にはだん(ゆすらうめ)、ちょ(とち)、よしょう(くすのき)、じゅう(ぼけ)、れき(くぬぎ)、とう(かや)、きょう(かし)、うごう (こうぞ)、ふうこう(ふう)あり。


38

それ、竹にはじょう(ささ)、かん(やだけ)、とうし(しゅろちく)がある。


39

きょう(しょうが)、きつ(たちばな)、さんしょう、じょうか(みょうが)有るも、以って滋味と為すを知らず。


40

びえん(さる)、こくち(黒っぽいきじ)有り。


41

それ、俗として、もの事、行来を挙するに、云為するところあれば、すなわち骨を灼いて卜し、以って吉凶を占う。先ず卜するところを告げる。その辞は令の如し。龜法は火によるさけ目を視て兆を占う。


42

それ、會同坐起には、父子男女の別なし。


43 人の性質は酒を嗜む。

補足 【魏略曰、其俗不知正歳四節。但計春耕秋收爲年紀】

44 大人を敬する所作は、但、手を搏ち、以って跪拝に當てる。

45 それ、人は長生き。或は百年、或は八九十年。

46 それ、國の俗は、大人は皆四五婦、下戸も或は二三婦。

47 婦人は淫らでなく、やきもちもやかず。

48

盗まず、訴訟少なし。それ、法を犯せば、軽い者はその妻子をなくし、重いものは門戸を滅ぼされ、宗族の貴卑に及ぶ。


49

各々差と序有り。相臣服するに足る。


50

租賦を収む。国の邸閣(倉庫)有り。国に市有り、有無を交易し、大倭にこれを監せしめる。


51

女王国より以北には、特に一大率を置き検察す。諸国これを憚る。伊都國で常治し、他の国でも置かれている刺史の如きものである


52

王、使を遣わして京都.帯方郡.諸韓国に詣で、及び郡の倭国に使するや、皆津に臨みて現われるを捜し、文書を伝送し遺の物を賜ふ。女王に詣でて、差錯することを得ず。


53

下戸、大人と道路で相遭えば、逡巡して草に入り、辞を伝え事を説くときは、或はうずくまり或はひざまつき、手は地に據り、之を恭敬と為す。対応する声は噫と曰う。比するに然諾の如し。


54

その國、本亦男子を以って王と為す。住こと七八十年、倭国乱れ、相攻伐す。


55

年を経て、すなわち共に一女史を立て王と為す。名は卑彌呼と曰い、鬼道を事とし、衆を能く惑わす。年已に長大なるも夫壻なし。男弟有り佐けて國を治む。王と為して以来、見た者少なし。


56

婢千人を以って自ら侍らす。唯、男子一人有り、飲食を給し、出入りして辞を伝える。


57

居る處の宮室は樓観であり、城柵を厳かに設け、常に人有り、兵を持って守衛す。


58 女王国から東へ海を渡ること千余里、復國有り、皆倭種。

59 又、侏儒國が有って、その南に在り、人の長は三四尺で、女王国を去ること四千余里。

60 又、裸國あり。黒齒國が復たその東南に在り、船行一年で至る可し。

61

倭地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、或は絶え或は連なり、周旋五千余里可り。


62

景初二年六月、倭の女王は大夫難升米等を遣わして郡に詣で、天子に詣でて朝獻することを求む。太守劉夏、吏を遣わして送って行き、京都に詣らしむ。


63

その年十二月、詔書は倭の女王に報じて曰く、「卑彌呼を親魏倭王に制詔す」。


64

帯方太守劉夏、使を遣わして汝の大夫難升米と次使都市牛利を送り、汝が獻ずる所の男生口四人.女生口六人.班布二匹二丈を奉り、以って到る。


65

「汝の在る所ははるかに遠きも、すなわち使を遣わし貢獻す。是れ汝の忠孝なり。我、甚だ汝を哀れみ、今、汝を以て親魏倭王と為し、金印紫綬を假し、装封して帯方の大守に付し假授せしむ。汝、それ種人を綏撫し、勉めて孝順を為せ。


66

汝の來使難升米と牛利は遠くを渉り、道路勤勞す。今、難升米を以って率善中郎将と為し、牛利を率善校尉と為し銀印青綬を假し、引見してねぎらい、遣還を賜う。


67

今、こう地交龍錦五匹.こう地すう粟けい十張.せんこう五十匹、紺青五十匹を以って、汝が献ずる所の貢の直に答う。又、特に汝に紺地句文錦三匹、細班華けい五張、白絹五十匹、 金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠、鉛丹各五十斤を賜い。


68

皆装封して難升米、牛利に付す。還り到らば録受し、以って汝の國中の人に悉く示すべし。国家が汝を哀れむを知らしむべし。故に汝の好物を鄭重に賜うなり」。


69

正始元年、大守弓遵は建中校尉梯しゅん等を遣わし、詔書、印綬を奉りて倭国に詣で倭王に拝假し、並びに詔をもたらし、金帛、錦けい、刀、鏡、采物を賜う。倭王、使によりて上表し、恩詔を答謝す。


70 その四年、倭王復た使大夫伊聲き、やく邪狗等八人を遣わし、生口、倭錦、こう青、.緜衣、帛布、丹、木ふ、.短弓矢を上獻す。やく邪狗等、率善中郎将の印綬を壱拝す。

71

その六年、詔して倭の難升米に黄どうを賜い、郡に付して假綬せしむ。


72

その八年、大守王き、官に到る。


73

倭の女王卑弥呼、狗奴國の男王卑弥弓呼と、素より和せず。倭のさいしうえつ等を遣わし、郡に詣でて、相攻撃する状を説く。さいそうのえんし張政等を遣わし、因って詔書、黄幢をもたらし、難升米に拝假せしめ、檄を為して之を告喩す。


74

卑弥呼死す。大きな塚を作る。徑百余歩。徇葬者奴婢百余人。


75

替わって男王を立てたが、國中服さず、こもごも相誅殺す。当時千余人を殺す。


76

復た卑弥呼の宗女壹與、年十三才なるを立てて王と為す。 國中遂に定まる。政等、檄を以って壹與に告喩す。


77

壹與、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等の還るを送り、因って臺に詣で、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔、.青大句珠二枚、異文雑錦二十匹を貢ぐ。





(私論.私見)