九州王朝の古跡
ここ数年来、年と共に九州と縁が探まってきた。もともと、ここには何の地縁もなかったわたしだが、古代史探究の旅をしているうちに、どの支線に乗っても、その行き先が同じ終着釈へと向かっているのに気づいた。・・・筑紫だ。むろん、日本列島の各地はそれぞれ悠遠なる自己独自の歴史をもっている。その中の一点だけが、特別に古代史の究極点だ、などということはありえない。これは自明の理だ。だが、『三国志』『宋書』『隋書』や『古事記』『日本書紀』という古代文献(権力者側の記録)の表記を忠実に辿るかぎり、倭国の中心点は、どうしても筑紫とその周辺へと導かれてゆくのだ。
三世紀の女王卑弥呼の国、邪馬壹(やまい)国から五世紀の倭の五王、七世紀のイ妥*(たい)王の多利思北孤(たりしほこ)まで、いずれも筑紫に中心をもつ九州王朝だった、とわたしが論証したときは『「邪馬台国」はなかった』『失われた九州王朝』)、この本を読んで後、こう言った人がある。「りくつではその通りだが、どうも信じられない」と。学問はりくつでなく信仰の問題になってしまったのだろうか。これは、反論もせず、わたしの論証をうけ入れようともせぬ人々に共通の心情なのであろう。
「だが」と人々は問うであろう。「実際の遺跡において、その九州王朝なるものをしめす跡は残っているのか」と。これはもっともな問いだ。その跡のいくつかを辿ってみよう。まず、太宰府のそばに出来た九州歴史資料館を訪ねてみよう。ここには太宰府跡出土の瓦が数多く陳列されている。この地にふさわしい出土物だ。ところが、問題はそれと並んで陳列されている、より古形の瓦だ。「塔原(とうばる)廃寺の瓦」と説明されている。塔原とは太宰府付近(筑紫野市)の地名である。
ここで注意してほしいのは、これほどの瓦が出土しながら、その寺の「名前」がないことだ(「ーー廃寺」というのは、現代の命名)。ところでわたしは、“どうしてそれが「寺」だったとわかるのか?”と子供から開かれて愕然としたことがある。確かにそうだ。「寺」だという証拠はない。「官庁」かもしれないではないか。 ーーでは、それは何物だろう。
次にその南、基山(きやま)に登ってみよう。ここにはかつて堂寺が峰々谷々に連なっていた、という。ちょうど後代(平安朝)の比叡山のように。その礎石や地名(たとえば「いものがんぎ」)が残っている。不思議なのは頂上の城跡の“門の名”だ。「北帝門(北の御門=みかど)」「仏谷門」「萩原門」 ーー萩原門は分かる。下の萩原村につづくのだから。しかし、「北帝」や「仏谷」とは一体何だろう。近畿にはこんな門の名はない。だから、これは近畿天皇家の模倣ではないのだ。
ここで、わたしの本(『失われた九州王朝』)を読んだ人なら、『隋書』イ妥*国伝の多利思北孤が“日出ずる国の菩薩天子”をもってみずから任じ、「天子」と「仏教」の二つを結びつけていたことを思い出すだろう。その三つ。『日本書紀』欽明記に不思議な記事がある。
〇(欽明二十三年八月)(天皇は狭手彦(さでひこ)を遣わして、高麗を伐たしめ、その戦利品として「鉄屋(くろがねのいえ)」をえた、との記事のあとに)〈A〉鉄屋は長安寺に在り。〈B〉是の寺、何(いず)れの国に在りということを知らず。
いかにも「長安寺を知らぬやつは、もぐりだ」と言わんばかりの口ぶりだ。(A −−旧注)
ところが、『書紀』の編者は一切、その寺について知る所がないのである。(B −−新注)これはどうしたことだろう。ところが、
「朝倉社恵蘇八幡宮・・・社僧の坊を朝倉山長安寺といふ。(注)朝闇寺なるべし」(大宰管内志)
このように、筑紫の朝倉郡には問題の「長安寺」があったのだ(長沼賢海著『邪馬台と大宰府』参照)。どうやら、わたしたちは筑紫のいたる所に九州王朝の遺跡を眼前にしながら、かたくなにこれに目をつぶってきたのではあるまいか。
『邪馬壹国の論理』ー古代に真実を求めてー
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