敵祭ーー松本清張さんへの書簡

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 2009.11.29日 れんだいこ拝


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敵祭ーー松本清張さんへの書簡 第二回 へ                


連載

敵祭ーー松本清張さんへの書簡第一回 古田武彦

 一

 松本さん、久しぶりにお手紙をしたためます。いえ、「手紙」という形式では、はじめてでしたね。いつも、直接お目にかかっての交流、それがわたしの記憶には鮮烈に今も残っています。あれほど繁忙を極めた、地上での生活から離れ、今はゆっくりとデッキ・チェアーに坐り、思索の輪をパイプの先からゆらめかせておいでになる。そういうお姿を想像しています。こちらは地上で、お別れしてあと、数多くの発見に恵まれました。朝に夕に、洛西の竹林の風のそよぎの中を往き来しつつ、たびたび訪れる、新たな歴史の光と影の姿に胸を躍らせる毎日です。この地上も、なかなか捨てたものではありませんね。今日は、その研究の手を休め、原稿執筆の筆をとり、松本さんのもとにおとどけしてみょう。そう思ったのです。

 形式は「書簡」ですから、堅苦しい前置きなどは抜きに、イキナリ、ことの中核に迫る。そういうやり方にするつもり。松本さんも、それをお望みのはずです。とは言っても、もちろん、論理や論証の“手抜き”は一切無用。絶対禁物です。松本さんがそんなことを望まれないこと、百も承知です。松本さん御自身、晩年の講演で「今回は、小説家としてではなく、学者として話します。」 そう言っておられましたね。一見、“イヤミ”に聞えなくもない表現でしたが、その真意はおそらく、
「空想で、論理を“飛び越える”のではなく、論理と論証を土台とした話し方をしたい。」 そういうところにあったのではないか、と思います。もちろん、大賛成です。わたしも今回は、形式こそ“お便り”の形ですが、その中味はーー 。御読了後の感想におまかせしましょう。 ーーでは。

 二

 わたしがはじめて、松本さんにお会いしたのは、昭和四十六年(一九七一)の年の暮れでした。東大の史学雑誌(九月号)に、わたしの論文「邪馬壹国」が載(の)った年です。確か、十一月頃だと思いますが、新潮社のSさんからお便りがありました。「松本清張さんが、貴方の研究に関心をもっておられます。その話を聞きたい、とおっしゃっておられますが、御自分のお仕事が忙しくて、おうかがいできません。それで、わたしが代りにおうかがいして、貴方の研究のお話をおうかがいし、松本さんにお伝えしたいと思います。いつ、おうかがいしたら、よろしいでしょうか。」
 そういう趣旨でした。先の論文が、読売新聞に、大々的に報道されたのが十月末、その中のコメントに、松本さんが大変好意的に関心をよせて下さっていた。その“つづき”だったのですね。本当に「関心」をよせて下さっていたのです。

 しかしわたしは、この御提案に対してハッキリとおことわりしました。「わたしは、研究者同士としてなら、誰とでもお会いします。けれども、“代理をやるから、それと会え。”というようなお申し出では、おことわりします。」 これがわたしの立場だったのです。そのような、わたしの御返事に対する、Sさんの第二のお手紙は見事でした。 「松本さんに申し上げたところ、“その通りだ。では、もし東京へお出での節は、是非御連絡下さるように。”とのことでした。」 若造の生意気な応答に対し、本格的な姿勢で御返事いただきました。わたしは 「よし、必ず、東京へ行ったとき、お会いしよう。」 そう、決心したのです。そのときが、その年の年末に来たのです。

 三

 そのときの話に入る前に、先ず申し上げておきたいことがあります。それは、わたしが古代史の研究に立ち入るに至った経緯(いきさつ)です。そこですでに、深く、松本さんのおかげをこうむっていたのです。発端は『古代史疑』でした。昭和四十一年六月から四十二年三月まで、十回にわたって『中央公論』に連載されましたね。当時、わたしは京都市の洛陽(工業)高校の教師でした。担当は国語科でしたが、図書館の中に机がおかれていたのです。そこへ毎月来ていたのが、『中央公論』でした。その六月、松本さんの「古代史疑」が始まりました。毎号、来るのが待遠しく、先輩の社会科のIさんと先を争って読みました。そのとき感じた「熱」を、今もハッキリ覚えています。最近、文庫本や単行本、また全集などで、サッと読むことのできる読者には、思い及ばない読書、その醍醐味だったと思います。その連載が翌年の三月号で終ったとき、わたしの中には、一つのハッキリした「?」が生れていました。それは次のようです。

 「なぜ、『邪馬台国』のままなのだ?」 と。松本さんが、今まで主張しておられたところ、そこから見て、それは“信じられない”帰結だったからです。

 四

 松本さんの名作「陸行水行」には、次の一節があります。

 「・・・・・大体『魏志倭人伝」の記事は、見方によっては大へん意地悪い記述です。そこから解釈の混乱が起こるのですね。各人各説で面白いのですが、どの学者も自分に都合の悪い点は『魏志』の記述が間違っているとか、誤写だとか、錯覚だとか言って切り捨てています。(下略)」そして 「また、問題の投馬国から邪馬台国へ行くのに南水行十日はいいとして、陸行一月はあまりに長くかかりすぎる。一月は一日の誤写ではないかというのも、自分の理論に都合が悪いからあっさりと『誤写』にきめてしまっているといわれても仕方がありません。少なくとも『魏志』の誤記が科学的に立証できない限り、やはり学者の都合勝手な歪曲というほかはありませんな」 「いや、学者というものは身勝手なものですよ。のちの時代になって文献も豊富になり、いろいろと遺物、遺跡などが発見されれば、それに拘束されて大胆な飛躍はできないのですが、この『魏志倭人伝』に関する限りは立証文献がほかに無いものですから、中国ののちの典拠などを持出して勝手な熱を吹いています。(下略)」

 このように、松本さんは登場人物の浜中浩三に語らせましたね。四国の郷土史家という「肩書き」でした。彼は醤油屋の主人と共に、大分県の国東半島の尖端の富来という海岸に溺死体となって漂着した。そのように、推理小説らしい結末とされています。しかし、右の浜中説は卓見です。推理小説じたての短編の中で、松本さんの語りたかった、メイン・メッセージだったのですね。見事です。わたしは感嘆しました。

 というのは、わたし自身、三十歳代(一九五六〜六六)を中心に、没頭していた親鸞研究の中で、右の「真理」を痛感していたからです。もっとも有名な例は、「主上・臣下」問題です。親鸞の主著『教行信証』の後序に書かれた、迫真の一節 「主上・臣下、法に背(そむ)き義に違(い)す。」の段が、戦時中は削除された「版」が作られました。もちろん、これは“政治的判断”からです。親鸞の若き日、彼の盟友、住蓮・安楽を斬り、師の法然や親鸞自身を流罪に処した、当時の権力者、後鳥羽上皇・土御門天皇や配下の貴族たちを指した言葉が、右の「主上・臣下」です。この「主上」の二字が“不当”として、戦時中は“削られた”のです。これは、あまりにも明白な、「原文改削」ですが、これとは異なる形の「改定」も少なくありません。

 たとえば、有名な『歎異抄』について、最古の写本である「蓮如本」は、“あやまり、多し。”とされてきました。たとえば、この蓮如本で「ヨクヨク案(あん)ジミレバ、天ニオドリ地ニオドルホドニヨロコブベキコトヲヨロコバヌニテ、イヨイヨ往生ハ一定(いちじょう)オモヒタマフナリ」とあるのを、現代の学者は、「オモヒタマフベキナリ」と「改定」していました。後代の写本の方を「是」としたのです。しかし、この「改定」はまちがっていました。なぜなら、(A)蓮如本(終止形に接続)「(わたし ーー親鸞ーー は)思っています。」(「たまふ」は、自己の意思をしめす謙譲語)(B)「改定」文(連体形に接続)「あなたがた ーー門弟ーー は)思っておられるべきです。」(「たまふ」は尊敬)
となり、( (A)が「鎌倉時代の用法」であるのに対し、(B)は江戸時代にも用いられていた「断定」の用法です。もちろん、現代にも、よく知られています。その「用法」に立って、(A)の原文面を「改定」したわけです。けれども、(A)の方が親鸞自身の、さりげない、そしてスッキリした口吻(ふ)んそのものの表記なのに対し、(B)の方は、いかにも「後代の教団」の中で「教祖」と“されて”あとの、「親鸞観」にふさわしい「改定」です。

 右は、ほんの一例。これと同類の「原文改定」を、いわゆる「後代写本」の中で、また「現代の学者の手」によって、わたしはくりかえし、くりかえし、対面させられてきました。それらのすべて、本来の「原本」または「最古写本」のもっていた姿が、後代の書写者や学者の「手」によって、書き変えられた。そういう“やり方”です。

 ですが、いずれの場合も、そのような「原文改定」は非。本来の「原文」が重んじられる。それが当然です。ですから、わたしは右の浜中説を見たとき、「これこそ、真実。」と驚嘆しました。そしてそれを主人公に語らせた、松本さんに深い敬意を覚えたのです。この「陸行水行」の初出雑誌は、『週刊文春』。一九六二年十二月三十一日号から、一九六四年四月二十日号まで、連載の「別冊黒い画集」に収録されたようですから、わたしがこれにふれたのは、かなりあと、単行本化されてのことだったかもしれません。

 五

 わたしがはじめて「邪馬台国」問題に気付いたのは、それよりずっと前でした。昭和二十三年に東北大学の日本思想史(学)科を卒業し、信州(長野県)の県立松本深志高等学校に社会科の教師として就任して、後のことです。一年経(た)って、校長の要請で、国語科に「転科」させられました。就任は二十一歳。「転科」は二十二歳の、新米教師でした。大学が「国文」や「国語」でなかった、わたしですから、国語科は“素人”。それでも、意気だけは軒昂(けんこう)として、毎日の授業に臨んでいました。その“未熟”を補うかのように、「最近、出版された本」の紹介をするのを「得手えて」としていたようです。その一つが、岩波文庫の
『魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』という小冊子でした。和田清・石原道博編訳とされた本です。

 その中で、問題の「南、邪馬壹国に至る。」の「邪馬壹」に「注三」とあり、その注として、 「邪馬国の誤。」と記せられています。従って先頭の解説の文中では、「帯方郡と邪馬臺国とのあいだの里数については」(二〇ぺージ)といった風に、すべて原文の表記の「邪馬壹国」ではなく、解説の学者による「改定」の「邪馬臺国」がすでに使われています。 「これで、いいのか。」 若手教師のわたしは、単純にそのように感じた。それで、次の日の教壇で、おそらく「読書紹介」の形で、その感想を語ったようです。おそらく、えらそうに、自分の疑問を「力説」したのでしょう。

 「力説」はしたものの、それは到底「邪馬台国」問題などというレベルではなかったと思います。ですから、そのときのことを、教師の、わたしの方は忘れていました。覚えていたのは、生徒の方で、もう彼等は六十代から七十代に至る、いい紳士。その同窓会の席で、わたしが、“聞かされ”たことです。生涯の中の「事件」でした。この岩波文庫第一刷は 「一九五一年一一月五日」 おそらく右の「事件」は、翌年(一九五二年、昭和二十七年)あたりのことと思います。 若造の新米教師、二十五〜六歳頃のことです。

 六

 ですから、「古代史疑」を読みはじめたとき、わたしの期待は次のようでした。あの、松本さんだから、きっと書くにちがいない。
「原文は、邪馬壹国である。それを後世の学者が『邪馬臺(台)国』と直しておいて、自分の好きなところ、たとえば“大和”や“山門”へ、各自もっていって論ずるのでは、きまった『答』が出るはずがない。」と。そして言われるであろう。「自分の理論に都合が悪いからあっさりと(『壹』は『臺』の)『誤写』にきめてしまっているといわれても仕方がありません。」 だから「学者というものは身勝手なものですよ。」と。かっては、登場人物、浜中浩三をして語らせていたところを、直接、松本さんの「地の声」で聞くことができよう。 ーーこれが毎号来る『中央公論』を開くときの、楽しみだったのです。

 しかし、一年近く経たって連載が終ったとき、はや、ハッキリとわたしは、自分の期待が“裏切られた”ことを感ぜざるをえませんでした。なぜなら、松本さんは終始「邪馬台国」という、「改定本文」に依拠されたまま。原文の「邪馬壹国」には、見向きもしておられなかったからです。 「これは、自分でやるしかないな。」 わたしは心の底に、そう思いきめたのです。昭和四十二年の早春、四十歳のことでした。(以下次号)


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連載

敵祭ーー松本清張さんへの書簡第二回 古田武彦

  一

 「邪馬壹国」の信憑性を探る。 ーーこの探究の旅に出ようとしたわたしが、先ずお訪ねしたところ、それは同じ京都に住む上田正昭さんのお宅でした。上田さんは鴨折(おうき)、わたしは洛陽。京都の北と南ながら、高等学校の教師として、何回かお会いしたことがありました。上田さんは、同和教育研修の全国大会でも、颯爽(さっそう)たる議長役などをつとめている方でした。学問研究の分野でも、井上光貞・直木孝次郎氏等につづき、新鋭の力作が注目されていました。わたしと同世代、一歳年下ですが、國學院で折口信夫の薫陶を受けたのち、京都大学へと進まれたのです。

 わたしには「邪馬壹国」という表記の可否を上田さんに問い質す、そんな気持は全くありませんでした。それは、わたし自身のなすべき研究課題です。では、何を。それはただ一つ、三国志の版本の認識、それがえたかったのです。もちろん、松本さんも、上田さんにお会いになり、古代史上の諸問題について、会話や討論を交わしたことがおありになると思います。ですが、わたしのこの上田家訪問は、それよりはるかに前のことでした。上田さんはそのとき快く、わたしを部屋に通して下さったのです。

  二

 けれども、会話はなかなか、思うようにはすすみませんでした。わたしの質問は、
「三国志の写本や版本には、どんなものがあるのでしょうか。」というにあったのです。有名な、宮崎康平の『まぼろしの邪馬台国』などはもちろん、井上さんや直木さん、榎一雄さんなど、学界の第一線に登場してきた人々の論文を見ても、この写本や版本問題を論じたものを見たことがなかったのです。ですが、わたしにとってこの「邪馬壹国」問題を論ずる前に、どうしても不可欠なところ、それがこの写本もしくは版本問題だったのです。そのための、今回の訪問でした。

 けれども、上田さんの「回答」は、わたしの質問そのものに対してではありませんでした。「古田さんは、邪馬台国問題の研究など、やめられた方がいい、と思います。」 驚きました。わたしは「邪馬台国」の研究をしたいが、それは果していいか、悪いか。そんな御相談にあがったわけではなかったからです。「古田さんは、親鸞の研究をしておられるのですから、それをやられたらいい。わたしはそう思います。」 「いや、親鸞の研究は、やめるつもりではありません。」 すでに東大の『史学雑誌』等に、親鸞研究の論文の数々を出していたこと、当然上田さんは御承知でした。その研究をつづけよ、との御忠告でした。

 わたしにとって、親鸞研究は確かに、一つのテーマを書き終え、次のテーマに移るための一休息点、といった状況でしたが、それはそれとしても、自分には同じ、史料批判の方法の問題です。学問としての史料に対する姿勢、それをわたしは確かめたかったのです。 「親鸞をやりながら、邪馬台国もやる。古代史はそんな甘いもんじゃあリません。親鸞一本にされるべきです。」 「いえ、わたしにとっては、親鸞も、古代史も、同じ学問の方法の問題ですから。」 それからあと、いささか“押し問答”気味に、一時間近い時間が経過したあと、わたしが改めて、三国志の版本を何かお持ちでしたら、拝見させて下さい、とお願いすると、上田さんはあきらめたように、二階へあがり、江戸時代の和本をもってこられました。残念ながら、それはわたしの目標とするところ、「最古の版本へとさかのぼる」、そういった資料とは、全く別のものでした。わたしは一時間半近くも、お時間をさいていただいたことに厚く御礼を申しのべ、上田さんのお宅を辞去させていただきました。

 三

 上田さんにはすでに「邪馬台国問題の再検討」という著名な論文がありました。昭和三十三年十一月に、『日本史研究』(三十九)に発表されたものです。近畿説の立場から倭人伝を分析した気鋭の論究でした。こういった諸論文を提出しておられた方だけに、それらの問題の検討にさいし、当然その基礎をなす「版本」の問題にも、すでに御検討ずみ。その一端の御教導にあずかりたい。わたしはそう思っていたのです。けれども、古代史学界の実状は、必ずしもそうではなかったようです。端的にいえば、
「三国志の版本は、中国書誌学にとっての対象。日本の歴史学、その古代史研究者の専門分野ではない。」 これが、ありていな学界状況、その「専門分野」の“住みわけ”だったようです。

この点、わたしの親鸞研究はちがいました。神戸から京都へ出てきた、その一つの目的、それは親鸞研究のための古写本や版本の探究だったのです。そのため、龍谷大学の宮崎円遵(えんじゅん)さんや、大谷大学の藤島達朗さんのところへおうかがいし、親鸞文献の版本その古写本から、さらに自筆本へ、次々と御質問の矢をはなち、倦むこととてありませんでした。歎異抄や教行信証などです。全く門外漢の青二才に対して、お二方とも、何の忌憚もなく、一つ、ひとつ、親切に教え、また西本願寺や東本願寺、そして高田専修寺等の写本類に対して、「見る」ために力を尽くし、他へ御紹介下さったのです。このような方々のお力添えなしに、わたしの研究はその大道を歩むことは全く不可能でした。その御恩誼をつくづくと思いおこさざるをえません。

 四

 「なぜ、古写本や版本などに、そんなにこだわるのか。」
 松本さんの声が聞えてきそうです。古代史の文献や三角縁神獣鏡などの考古学的遺物、さらに現代では二・二六事件の資料研究など、行くとして可ならざることのなかった松本さんにも、古写本や版本の研究などには手を染められた形跡がありませんから、或いは右のように問われるかもしれません。

 それに対する、十二分なお答は、いささか長くなるかもしれませんから、別の機会にゆずらせていただきます。この書簡では、はじめにお約束しました通り、ズバリ、そのキイ・ポイントを書きます。
 一つは、昭和二十年(一九四五)の敗戦。八月十五日の詔勅を境にして、日本の雰囲気は一変しました。昨日までは、皇国至上主義。今日からは、アメリカ式の民主主義の立場。それがクッキリと色別けされました。政治家は言わずもがな、学者も教師も、一般の大人も、全く同じ口で全く別の主張をしはじめたのです。青年はそのような、大人たちの上手な対応に絶望しました。「人間とは、しょせん、そんなものか。」「そんな世の中に生きていても、しようがない。」事実、自殺をえらんだ若者も、稀ではありませんでした。わたしも、その危機の断崖に立ちました。

 二つは、歎異抄の親鸞。「親鸞は弟子一人も、もたずさふらう」「たとひ法然聖人にすかされまひらせて念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらう」このような言葉をのべた親鸞もまた、時代の変り目の前と後で、自分の言葉を一変させたのか。 ーーこの疑問です。もし、この人もそうなら、人間とはしょせん、そんなもの。青年らしい思いこみと短絡(たんらく 独りぎめ)で、わたしはそう考えたのです。

 三つは、親鸞研究。少なくとも、敗戦前と敗戦後で、両者の親鸞観は一変しました。かっては、「念仏より、国家を第一とされた高僧」、今回は「民主主義の念仏者」。全く別の角度から、同じ学者、同じ発信元が国民に対してメッセージを発信しているのです。到底、信用できませんでした。

 四つは、版本。前回にものべましたように、親鸞の主著、教行信証も、戦前には、「改削」されていました。ですから、版本ではなく、古写本へ。わたしの探究は向いました。その古写本にも、古・中・新の各種があり、次々と各時代の「手」によって書き変えられています。その最初の出発点は、当然、自筆本です。それが親鸞の筆跡による自筆、すなわち真蹟本であることが確認されれば、これが原点となりうるからです。

 このようにしてわたしは三十歳代、自分の研究の基本を、版本・古写本・自筆本の探究においていました。これがわたしの、上田さんを訪ねた目的だったのです。わたしの古代史探究は、まだ緒(ちょ)についたばかりでした。

 五

 わたしが最古の版本、紹煕(しょうき)本にめぐり合ったのは、その後の古版本探究の渉猟(しょうりょう)の旅の収穫でした。その経緯は改めて筆にしますが、今は松本さんにお会いした、あのさわやかな日のことを思い出しています。最近、家の中の書類を整理しているうちに、あの新潮社のSさんの手紙を見出し、なつかしい思いにひたされました。

 昭和四十六年末、わたしは東京へ行き、Sさんの招きに応じ、松本さんにお会いしましたね。たしか、新潮社の社の家屋といったところ、その一室だったと思います。Sさんに導かれて、そこに参りました。その部屋に松本さんが待っておられました。恰好のよい、和服姿でした。わたしに対して、失礼した旨の、短い、しかし丁重なあいさつをのべられたあと、早速わたしがなぜ、あのような研究に入ったか、お聞きしたい、と単刀直入に聞かれたのです。答えました。
「わたしは中世の研究者です。それも、親鸞研究に集中してきました。その中で、自筆本や古写本、また版本を探究するうちに、一つの基本態度を学びました。それは、『安易に、原本、またより古い写本を、書き直す、つまり改定してはいけない。』ということです。それをやる人は、当然、良かれ、と思ってやるわけですが、結局、自分の時代の常識、いわゆる通念ですが、それで古い、本来の時代の姿を書き変える。そういう結果におちいっています。ですから、よっぽど確実な論証なしには、それをやってはいけない。これが、わたしのえた、基本ルールです。ところが、いわゆる『邪馬台国』問題を見ていますと、原文、つまり自分たちの依拠している版本には、『邪馬壹国』とあるものを、簡単に『邪馬台国』へと書き変えている。そのための慎重な論証がない。果してこれでいいのか。この疑問でした。」

 わたしは、さっきからおかれていたお茶でのどをしめしました。「調べてみますと、三国志の古い版本は紹煕(しょうき)本と紹興(しょうこう)本でした。いずれも、十二〜三世紀の中国の南宋時代の版本です。その成立はわずかに紹興本が古いのですが、実質内容は紹煕本が先でした。より古い版本の復刻本ですから。これは何と、日本の皇室の書陵部に存在しました。江戸の将軍家や大名からの伝来だったようです。肝心なこと、それはその紹煕本・紹興本とも『邪馬壹国』です。まちがいありません。このような版本状況の中で、自分に都合のよい、『邪馬台国』へと書き変える。そんなことは、わたしの古写本・版本処理のルールに立つ限り、できることではありません。」

 わたしは、先をうながす松本さんの短い言葉を継ぎ目に、次のテーマに移りました。「もう一つ、わたしにとって決定的だったのは、三国志全体に出現する『壹』と『臺』」の調査です。その中には、『臺』を『壹』とまちがえたもの、あるいはその逆が見つかるにちがいない。だが、念のため。そう思ってはじめた調査だったのですが、結果は意外。全くありませんでした。」

 “それは大変な苦労だ。”といった言葉を松本さんはさしはさまれました。が、わたしには、親鸞研究で学んだ、いつもの自分流の手法だったのです。(この点については改めてのべることにします。)「ともかく、このような版本状況、そして原本状況から見ると、このままで、邪馬壹国を邪馬臺国へと書き変えることはできない。これがわたしの結論です。」 このような、わたしの言葉を静かに聞いていた松本さんは、先をうながされました。右の話は、東大の『史学雑誌』に発表した論文「邪馬壹国」の中の主張そのものですから、松本さんにはすでに“折りこみずみ”だったのですね。 「それで、その邪馬壹国はどこにあるとお考えですか。」 時間的には、かなり長い、そして気負(きお)いこんだ、わたしの長弁舌を、がまん強く聞いておられた松本さんが、一番知りたかった問い、それはこの一言だったのかもしれません。

 しかし、わたしは答えました。「わかりません。」 すでに用意していた、というより、わたしの方法、その立場からは、この答しかありませんでした。そして従来の研究者や一般の古代史通がやってきたような、地名との“音当て”、あのやり方の長所と短所。ことに「やまと」という、中心国名を「改定」した読みを先にきめておいて、そこから近畿の大和や九州の山門(やまと)などに当てるやり方。あれは危ない。厳正な学問、文献研究の立場からはなすべき道、否、とりうる道ではない。その道理を、待ってましたとばかり、とうとうとのべたのです。その立場からは、わたしにとっての女王国の位置は、「分らない。」 この一言しかなかったのです。堂々と、それを主張するのに対して、松本さんは感心したというより、ガッカリされたことでしょう。しかし、わたしは一歩も引きませんでした。

  『「邪馬台国」はなかった』で展開した論証、博多湾岸とその周辺説は、いまだわたしの頭にはありませんでした。わたしがそれを「発見」したのは、翌年の夏。あの決定的な一瞬は、まだ来ていませんでした。わたしは、ひたすら自分の無知を誇りにしていたのです。 「テープをとめて下さい。」 わたしは突然、松本さんに言いました。松本さんはうなずき、Sさんにとっていたテープをストップするように求められたのです。このとき、わたしははじめて未知の世界について一歩を踏み出そうとしていたのです。(以下次号)

連載

敵祭ーー松本清張さんへの書簡第三回 古田武彦

  一
 わたしは言いました。
 「今、邪馬壹国の場所は分らない、と言いました。しかし、それは九州にあった、と考えています。」
 松本清張さんは言われました。
 「ほう、それはどうしてです。」
 その直前「分らない。」と、キッパリ言い切ったあとだけに、やや意外に思われたようです。
 「それは、隋書の記事からです。例の『日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙(つつが)なきや。」の文面の直前に、この天子のいる場所、都をめぐる地形が書かれています。
 『阿蘇山あり。その石、故なくして火起り天に接する者、俗以て異となし、因って檮*祭を行う。』です。つまり、この天子は『阿蘇山下の天子』なのです。」
 「なるほど。近畿説の学者は、日本列島の一部の九州の風土を書いた、と見るわけでしょう。」
 「本当にそうなら、大和の風物を書けばいい。三輪山とか、あの大和盆地の形状とか。それに、途中通って行ったはずの瀬戸内海の風物なども、一切書かれていません。」
 「なるほど。」
 「海にして湖水のごとし。」とか、彼等なら、漢語でズバリ、それを見事に表現できたはずです。」
 「なるほど、ね。それじゃ倭の五王はどうです。七世紀の隋の頃も、九州が中心だとすると。」
 「そうです。倭の五王も、当然九州になります。」
 「ほう、しかし、九州じゃ高句麗などと戦うのは、力が足りないのじゃないかな。」
 「九州が中心、都のあるところだ、というだけなのですよ。その全体の勢力範囲は、別の話です。」
 「あっ、負けたのだから、それでいいわけか。」
 何か、自分で発言して、自分を納得させる、といった口調でしたね。

檮*は、木編の代わり示編。JIS第3水準ユニコード79B1

  二
 しかし、わたしには自信がありました。
 「松本さんが『陸行水行』で書かれていたように、
  『どの学者も自分に都合の悪い点は「魏志」の記述が間違っているとか、誤写だとか、錯覚だとか言って切り捨てています。』
 また
 『少なくとも「魏志」の誤記が科学的に立証できない限り、やはり学者の都合勝手な歪曲というほかはありませんな』
といった、まことに“筋の通った”議論を展開しておられました。
 もちろん、“登場人物”の『説』として書かれていますが、読者は、すなわち著者、松本清張さんの考えとして、受けとめています。それは著者としても、おそらく御異存はないでしょう。
 とすれば、隋書の場合も、同じです。そこには『阿蘇山あり。』の一文はあっても、『三輪山あり。』といった文面は皆無です。それを
 『三輪山は書き忘れただけ。』
 『阿蘇山は一地方の風物を、たまたま書きとめただけ。』
などと解釈するのは、『恣意(しい)的』です。
 ちょうど、魏志に対して 、
  『自分の都合に合わせた読み変えをする』
 あのやり方と同じです。松本さんが登場人物に『非難』させたもの、あれと同一の流儀なのです。
 こちらの隋書についての流儀は容認しておいて、魏志の『読み変え』だけ非難するのでは、片手落ち。論旨一貫しないことになります。
 要は、魏志の場合は、自分の『主張』と一致しないから『非難』しているだけ。決して学問の方法とは言えません。」
 わたしは松本さんを非難するために言ったのではありません。ただ、学問にとっての本来の任務、論理の一貫性を説きはじめ、説き終っただけだったのです。
 松本さんは、反論も賛成もされず、ただわたしの一歩も退かぬ論陣に、静かに耳を傾け通して下さいましたね。
 それが印象に残っています。「大人」としての松本さんでした。

  三
 以上は、わたしが松本さんと直接お会いしたときの経験、その第一回目です。
 そのずっとあと、わたしは朝日新聞社のTさんから、すさまじい「松本経験」を聞きました。松本さんが朝日新聞に連載されていたとき、Tさんはその担当、原稿の受け取り役となったのです。
 松本さんが原稿を一枚書き終る。次の部屋で待っているTさんに手渡す。Tさんは急いでその一枚に目を通す。OKとなると、玄関先に待っている青年S君に渡す。S君はバイクに飛び乗り、疾走して朝日の印刷所へ向う。・・・・・そして、また。この離れ業を何回かくりかえして、やっと校了。何とも骨の折れる作業です。筆者の松本さんは、もちろんのこと。
 その緊急作業の中で、突発事があったそうです。Tさんが松本さんから受け取った原稿の中に、見馴れぬ名前が出てくる。しかも、主人公役です。そしてなまめかしいキス・シーンが展開されている。
 「おかしいな。」と思って、聞いてみると、松本さんが「同時進行」で連載していた、別の週刊誌などの小説の主人公と「混線」したものだったそうです。
 超流行作家だった松本さんならではの逸話ですが、最近テレビで放映され、米倉涼子の悪役振りが話題になった「黒革の手帳」は、二度にわたる『朝日新聞』連載の中間(昭和五十三〜五十五年、『週刊新潮』)の作品でした。
 彼女の悪役振りの見事さもさることながら、その基礎は松本さんの作品そのものがしっかりと現代社会の「悪」をとらえていたことにあったのは、当然です。そういう名作が、右のような離れ業の間から生れた作品だったとすると、いよいよわたしには恐れ入る他ありません。
 もっとも、この頃以降の「長篇作品」となると、読みはじめた時は、見事な流れとテンポだったのが、最終の場面の「推理小説の謎解き」に至ると、いささかがっかりというケースも少なくなかったように記憶しています。しかしこれは、永年の清張ファンの一人からの、無いものねだりだったのでしょう。
 何しろ、初期の「点と線」や「眼(め)の壁」のように、満を持して練りに練った作品が、右のような「離れ業」の中から生れるとは、およそ期待する方が無理なのかもしれません。

  四
 直接経験にもどります。
 わたしがK書店から「九州王朝論」の本を、乞われて出したときのことです。そこには、「筑紫舞」のような、不可思議な民間伝承芸能と共に、最近(当時)の邪馬壹国(いわゆる「邪馬台国」)論などに対する批判、それも扱わせていただきました。その一つに、松本さんの最近の論説に対する批判も、当然ふくまれていたのです。もちろん、古代史のテーマです。
 ところが、異変が起きました。出版社から、「ちょっと、お話したいことがあるから。」と言ってきました。そのことは、別に不思議ではないのですが、平生昵近(じっこん)のMさんだけでなく、上司のQさんも共にうかがうというのです。
 「何かな。」
と、わたしは、やや異様なムードを感じました。担当のMさんは、若いながらも「人格者」で、いつも礼儀正しく、常識豊かな方でした。にもかかわらず、そのMさんだけにまかせてはおけない、そういう感じでしたから。
 もしかすると、あの筑紫舞の件で何か。しかし、社長(当時)は、そのような民俗芸能に関心の深い人なのに、変だな、という感じでした。
 ところが、二人が到着してみると、ちがいました。「松本問題」だったのです。わたしがこの本の一部で清張さんの説をとりあげ、それを学問的に批判している。それが「困る。」というわけだったのです。

  五
 最近の松本清張さんの論説は『サンデー毎日」(昭和五十七年四月十一日)に掲載されていました。毎日新聞創刊百十年記念文化講演の中の特別講演でした。「古代史の旅」と題されています。そこには次のようにありました。

「私がそう言ったからではございませんが、もう里数や日数で邪馬台国の所在を捜索するのはナンセンスであるということに学者も気づいたのでしょう。現在は里数、日数を手がかりに邪馬台国の所在地を探る学説は声を低めております。ほとんどないと言ってもいいじゃないでしょうか」

 これは、松本さんののべられた「七・五・三」の虚数説です。
千余里 ーー帯方郡から狗邪韓国まで。
千里 ーー(一千里、三回)狗邪韓国から末盧国まで。((合算)
十日 ーー「水行二十日」と「水行十日」(不弥国から投馬国、及び邪馬台国まで)((合算)) 
 これが今や「通説」となってしまったかのように、晩年の松本さんは、右の記念講演で堂々とのべておられるのです。
 しかし、わたしはすでに第一書『「邪馬台国」はなかった』で、この松本説そのものを批判させていただいています。その要点は、次のようです。

 第一、三国志の中の「数」を抜き出してみると、全体で三七二一個あり、最多が「一」、八三三個、第二位が「三」、七二三個、第三位が「二」、六五七個、であり、「七・五・三」が上位ではない。「七」は第八位(一四七個)。著者陳寿に「七・五・三」偏重の形跡は認められないのです。

 第二、三国志の中で「数」について議論をしているのは、「八」「六四」「六の倍数」「五五」「二五」についてであり、「七・五・三」についての議論はありません。

 第三、魏の明帝の指南番として著名な高堂隆の文章は、数字を用いて自分の文面を修飾することを好んでいますが、総五七個の「数」のうち、「七」は皆無なのです。

 以上のような、史料事実上の「実証点」と同時に、重要なのは、左の「論証点」です。

 「右のように、文面中の数字を『足して』用いうる、つまり論証に使うことができるとすれば、当然『引いて』出てきた数値もまた、論証に使いうることとなる。とすれば、論者は“自由自在”に、自分の好む数値をそこに“見出し”て使用しうることとなろう。論証の意義をなさない。」

 と、同類の手法を用いて叙述された、上田正昭氏の論説と共に、松本さんの『古代史疑』の論説を批判させていただいたのです。

 これは、昭和四十六年の、第一書におけるわたしの立論です。その後、この立論に対する反論は、松本さんからも上田さんからも、一切出ていない。少なくとも、わたし自身、見たことがありません。
 忙しい松本さんですから、そのような、ある種の「見のがし」は止むをえないことだったのかもしれませんが、K書店のお歴々には、「大家」の気を損じては、と「頭をかかえる」問題だったようです。
 松本さんがこの講演の冒頭で、
 「きょうは小説家としてではなくて、古代史学者として登場いたしましたから、どうかそのおつもりでお聞き取りを願います。」
と、わざわざことわっておられますから、その「メンツ」をつぶしてはまずい。そう考えられたのかもしれません。
 書店側の上司の要求は「明白」でした。要は、
 「松本批判をとりはずしてほしい。」
という点にあったようですが、わたしには到底、呑めません。なぜなら、同書の中で、数々の著名の学者の論文を同じく批判しています。これは、この著作を引き受けたときの、当初からの中心構想でした。三木太郎、王仲殊、梅原末治、井上光貞、坂本太郎、田中卓といった、敬すべき諸氏の論考に対し、忌憚なく反論を記させていただいていたのです。 もちろん、先行研究者に対する、礼儀と敬意の表現として。それらはすべてわたしの学問の方法そのものに立っていたのです。
 ですから、その中から、松本清張さんへの批判だけを、特に「カット」する。そんなことをすれば、他の方々に失礼です。もし、「とがめ」られれば、お答えのしようもありません。学問上の信義違反です。せっかくの申し出でですが、おことわりする他ありませんでした。第一、わたしには、松本さんへの敬意こそあれ、侮辱する気持ちなど、はじめから寸分もありませんでしたから。


 K書店の上司は執拗でした。
 全面カットできないなら、「文章を直させてほしい。」というのです。
 「古田さんの文章の分りにくいところを指摘させてもらいたい。」
 と言われるのです。
 これなら、もちろん「OK」です。そういう経験は何度もありました。特に朝日新聞社で第一書を出して下さった、名編集者、米田保さんからは、「かゆいところに手のとどく」ような、心のこもった御指摘を再三うけていたからです。
 ですが、夕飯後、出直してこられたQさんの場合は、ちがいました。「分りにくい」ところを、「分りやすく」するどころか、逆でした。「松本清張批判」の文面を、そうとは見えないように“手直し”しようとされるのです。むしろ、「分りにくく」すること、そこにQさんの目的があったようです。
 「悪戦苦闘」めいた何時間かのあと、ついにわたしは申しました。
 「分りました。もう、お宅(K書店)からこの本を出していただかなくとも、結構です。」と
 Qさんたちは、東京への帰途につかれましたが、一種気持の悪い「疲労感」のみが残りました。
 けれども、K書店から「OK」の返事がやがて来ました。気宇壮大で名のあった社長(当時)の采配もあったのでしょうか、ともあれ、一件落着を見ました。泰山鳴動鼠一匹のたとえ通り、でした。現在出ている本は、わたしの当初の原稿通りなのです。
 この件を通して知りました。松本さんの「声威」がいかに出版界に対して大きな権威となっているか。それはおそらく、松本さん御自身のあずかり知らぬ「世界」なのかもしれませんね。
 「そんなことがあったのか。古田さんが直接、わたしのところへ言ってくれればよかったのに。」
 そういう、貴方の声が聞えてきそうです。その通りですね。もし「一件落着」しなかったら、そういう展開へと向ったかもしれません。しかし、忙しい松本さんにお邪魔をかけずにすんで幸せでした。 (以下次号)

敵祭ーー松本清張さんへの書簡第四回 古田武彦

  一

 松本清張さんへのお人柄に深くふれえたのは、なんと言ってもあの、推理小説界にとって不幸な事件のおかげでした。
 それは、昭和四十八年十二月に出た、高木彬光氏の『邪馬台国の秘密』です。光文社のカッパブックスとしてたちまち版を重ね、一大ベストセラーとなったのです。
 わたしは早速読みました。その二年前、『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社、昭和四十六年十一月刊)を出していましたから、当然このテーマには強い関心をもっていた上、わたしは年来高木彬光ファンでした。
 その一番の理由は、昭和二十六年、雑誌『宝石』に掲載された『わが一高時代の犯罪』でした。高木氏が学生時代をすごした旧制第一高等学校の校舎を舞台とした、一篇の名作でした。推理小説そのものとしてのトリックは簡単で、これを「他愛もない」と評することも当然できるかもしれません。しかし、そこに展開された、一高生の青春群像の姿はまことに魅力的でした。それも、いわゆる「軍国主義」の時代的な流れの中で、それに抗し、中国人留学生を守る日本の若者たち、わたしは酔い痴れたように読みふけったものです。
 というのも、わたし自身、熱狂的な、一高への「隠れファン」だったせいでしょう。「鳴呼玉杯に花うけて」や「友の憂いに吾は泣き」「烟(けむり)争う花霞」などの寮歌を口ずさみつつ、勉強に没頭しました。それが昭和十年代の少年のわたしでした。後から振り返れば、それは大変な時代でした。否、当時でも、小学一年生のとき、隣のクラスの担任が突然学校から消えてしまったのです。噂に聞くと、血盟団の右翼運動に参加するため、「学校の教師なんか、していられるか」ということだったようです。二十代半ばの若い先生でした。中年だった、わたしのクラスの担任は、二クラスかかえて四苦八苦、苦労されていました。
 けれども、幼いわたしには、それも馬耳東風、ひたすら漢文や各科目を無我夢中で勉強し続けていたのです。父親の反対で「東京留学」は叶いませんでしたが、その時代に培った勉学は、今もわたしの内部を確かに支えています。

  二

 わき道にそれてしまいましたが、わたしは高木氏の新著を一気に読み終わったとき、深刻な「?」にとらわれました。なぜなら、高木氏のトリック解決、正確には主人公の天才神津恭介が「解決」した、と特筆大書されてあるところ、それはわたしが二年前に出した本、「手法」をまさに移し変えたものだったからです。「盗用」です。
 しかも、わたしの本の書名も、著者名も、その一切「ナシ」です。わたし以外の人々、たとえば宮崎康平氏の『まぼろしの邪馬台国』や、原田大六氏、榎一雄氏など、大々的に紹介してあるのです。
 わたしの本から「移され」た痕跡は各所にありました。
たとえば、
 「一・・・『魏志・倭人伝』の重要部分には、いっさい改訂を加えないことと、万一改訂を必要とするときは、万人が納得できるだけの理論を大前提として採用すること。
 二・・・古い地名を持ち出して、勝手きままに、原文や国名にあてはめないこと。」(一四頁)
 「不弥国は邪馬台国の玄関のようなところにあったとしか思えない。」(一八六頁)
等々。それはいずれもわたしや松本清張さんのような先行者の主張と同一、もしくは「近い」ものですね。
 さらに、いわゆる「二倍年暦」や「短里」の問題なども、論旨を変えながら、「はめこまれ」ています。
 けれども、何よりのキイ・ポイントは、「陸行一月、水行十日」の問題です。従来、近畿大和や九州の筑後山門など、各論者が各自改変して利用してきたこの一句を、先頭にあげた「改訂を加えない」まま、天才神津恭介が見事解決したと称する「決め手」、それが何と、わたしが本で展開したのと同一の手法なのです。
 帯方郡から、一部「水行」を交えながら、大部分の「陸行」を韓国内部の行程と見なす。わたしの解読の根本の立場です。これをそのまま採用しています。そしてそれが総里程の「一万二千余里」と「等距離」を示すもの。そう解したのです。わたしの本以前に、このような「解読」はありませんでした。
 ところが、神津恭介のこの提案を相手の推理作家の松下研三は絶賛するのです。
 「『どうだね? 僕の考えは、いったい間違っているだろうか? 高校生にもわかる程度のかんたんな、しかも合理的、論理的な考え方ではないだろうか?』
 『おそれ入りました。神津先生・・・』
 研三は椅子から立ち上がって頭を下げた。
 『たしかにコロンブスの卵です。言われてみればそのとおり、どうしていままでの研究家がそこに気がつかなかったか、ふしぎでたまらないくらいですよ」」(一九二頁)
 読んでいるうちに、不思議な気がしました。先行者がやったことを、そのまま真似る。それを「コロンブスの卵」と言うのでしょうか。自分が苦心の末たどり着いたところを、あこがれの天才に「なぞられ」るとは。何か、くすぐったい思いでした。
 だが、落ち着いて考え見れば、これはやっぱり「立派な盗用」なのです。

  三

 熟考した末、光文社あてで高木彬光氏へ手紙を送りました。その内容は簡明です。
(一) 今回の『邪馬台国の秘密』は、論証の根本部分において、二年前のわたしの本『「邪馬台国」はなかった』からの、無断転用(盗用)に基づいていること。
(二) 右について著者から明確な回答を得たいこと。
 この二点でした。
 この時点では、わたしは楽観的でした。ことが明白である上、高木氏は往年の「旧制一高生」であるから、ことの理非を正確に判断した上、堂々たる「謝罪の辞」が届くであろう。 ーーこのように予想して疑いませんでした。
 しかし、ある日、わたしの宅に訪れた一人の紳士(風の男)は、これが幻想であったことを示してくれたのです。

  四

 彼は狭いわたしの応接室で、椅子にのけぞるようにして座り、口を切ったのです。
 「高木先生は高名な方だから、その先生から好意を受けていれば、行く末、あなたにとって損はない。」

 そういった話から始まり、自分がいかに高木先生から信頼されているか、いろいろと(不明確な)例を口走りつつ、延々と語るのです。要は、そのような自分に任せておけば、悪くはしない。そういった、いわば「自己宣伝」がいつまでも続くので、こちらは辟易しました。その挙句、「いったい(金を)いくらほしいのか」と聞こうとするのです。
 わたしには、それこそとんでもないことでした。
 「わたしが要求しているのは、お金などではありません。わたしの手紙に書いたとおり、率直に事実を認め、率直に公的な訂正をしていただければ、それでいい。それだけです。」
 いくらそれを繰り返しても、彼は全く「信用」しようとせず、「よく考えておいてくれ。また来ますから」と言って去っていったのです。二回目に来た時も、同じような押し問答で、わたしはいよいよ不愉快になっていくほかはなかったのです。

  五

 不愉快な経緯はやがて一転し、爽快な結末となりました。
 ある日、光文社の責任者A氏から連絡があり、京都市内の京都ホテルのロビーの喫茶室でお会いしたのです。
 わたしはいつも通り、わたしの申し分を述べますと、A氏は驚いたようでした。

 「やはり、そうでしたか。あのX(例の紳士です)は何かトラブルがあったときの『事故処理』をお願いしていたのですが、どうも古田さんに会ったあとの報告がおかしいのです。つまり、ハッキリ言えば、
 『古田は大分フッカケてきている。しかし、自分がそのうち、まけさせるから、待ってくれ』
というのです。何回たっても、それが変わりません。
 しかし、わたしは古田さんの本を読んでみても、どうも古田さんがそんな人とは思えない。そこで直接、古田さんと話してみようと思って来たのです。来て良かった。やはり、わたしの思ったとおりの古田さんでした。」
と率直に語られたのでした。
 さらに、高木氏の『邪馬台国の秘密』とわたしの本との関係、「独創」と「無断借用」つまり「盗用」の件について、わたし自身の理解と全く同じ理解を示されたのです。驚きでした。心から信頼できる方だったのです。
 それは昭和五十年二月初めのことでした。やがてA氏は『邪馬台国の秘密』を昭和四十九年十一月十三日版を以て絶版の処置をとられました。ベストセラーとして続刊中でしたから、わたしは出版者の良心に出会うことができたのです。
 A氏もわたしも、その邂逅は人生の良き思い出となりました。

  六

 このとき、わたしにさわやかな経験を与えて下さった、もう一人の方、それが他でもない、松本清張さんです。松本さんは『邪馬台国の秘密』をめぐって、佐野洋さんと共に、高木彬光氏との間で激烈な論争を交わされましたね。『小説推理』の一九七四年三月号以来です。そして十月号では、わたしの本と高木氏の本との類似箇所を逐一指摘されました。「高木『邪馬台国』の再批判」がそれです。
 わたしから見れば、当然すぎる指摘ですが、しかしこれは「大変な」ことです。なぜなら、松本さんは高木さんとは同じ、推理小説界の重鎮。早くから推理小説界に登場した高木さんは、その意味では松本さんの「先輩」かもしれません。
 しかも、この当時、松本さんは確か推理小説家協会の会長だったと記憶しています。となればなおさら、同じ仲間を「批判」する。これは日本の社会の「しきたり」では、なかかなかやりづらいことだったのではないでしょうか。
 けれども、松本さんはけれん味なく、その主張を一貫されました。見事な光景でした。
 その時、わたしが東京へ行ったとき、松本さんのお誘いを受け、銀座のバーへ案内されました。小さなバーで、止り木の椅子が幾つかあるだけ、といった感じのところですが、松本さんはこことは「なじみ」のようでした。そこで何を話したか、まとまった話をした記憶もありません。もちろん、アルコールはビールを一杯飲んだくらいの程度でしたが、後にも先にもバーなどに縁のなかった野暮天のわたしにとっては、人生唯一の貴重な経験となりました。松本さん、ありがとう。

補1
『邪馬壹国の論理』(朝日新聞社、昭和五十年十月刊)に所載の、「神津恭介氏への挑戦状ー『邪馬台国の秘密』をめぐって」「推理小説のモラルー松本清張氏と高木彬光氏の論争をめぐって」「続・推理小説のモラル」を参照。
補2
高木彬光『改稿新版 邪馬台国の秘密』(角川文庫、昭和五十四年四月)、『邪馬壹国の陰謀』日本文華社、昭和五十三年四月)参照。

敵祭ーー松本清張さんへの書簡第五回 古田武彦

  一
 最終回に近くなりました。今回はどうしても忘れられぬ、松本さんにまつわる思い出を記します。
 おそらく、深くご記憶のことと思います。執筆に、司会に、対談にと、八面六臂の活躍をされていた頃、「邪馬台国シンポジウム」の司会をされましたね。その第一回と第二回が、朝日新聞社主催・全日空後援で、博多で行われました。
 各出席者(講師)の講述のあと、質問の時間となって、聴講者の中から手があがり、

 「今回は、なぜ、古田武彦さんは講師として呼ばれなかったのですか。」

と。一見、唐突にも聞こえるかもしれませんが、考えてもみれば当然のことです。なぜなら、当の主催者、朝日新聞社からわたしの第一書『「邪馬台国」はなかった』が出版され、毎年というより毎月版を重ねていたのは、数年前。当時もなお版が重ねられていました(その後、角川文庫、朝日文庫としても、続刊)。
 しかも、その出発は、昭和四十四年(一九六九)の「邪馬壹国」(『史学雑誌』七八 ーー 九)にあり、その学界内の余波は京大の『史林』(昭和四十七〜八年・一九七二〜三(1) )にも再批判として掲載されました。
 しかも、わたしの立場は「博多湾岸とその周辺」を「邪馬壹国」としています。この問題を中心テーマとするシンポジウムが行われるのに、なぜ当の古田を呼び、他の学者との応答に加えないのか。いうなれば、当然といえば当然すぎる質問だったわけです。

  二
 これに対して、司会の松本さんは悪びれずに答えられました。
 「よく分りました。この次には、必ず古田さんをお呼びいたします。しかし、今回はおいでにはなっていませんので、代って井上光貞さんに古田説の概要を御説明いただくこととしたいと思います。井上さん、お願いします。」
 そこで、井上さんがその「代役」をつとめられたのです。しかしそれは、まことに“矯小化された古田説”ともいうべきもので、本人たるわたしから見れば、“聞くに耐えない”レベルのものでした。それも、もっともです。わずか数分か、十数分の間に「古田説の要約」を述べさせられたのですから。とても十分にできるはずも、ありませんでした。
 ともかく、このようにして「空前の盛況」を呈したこのシンポジウムは“成功裡”に終結し、その「成果」を背景に、第二回も同じ場所、博多で行われました。司会者も、もちろん同じ松本さんでした(第一回は一九七七年一月十五・十六日。第二回は、一九七八年の同じく一月十五・十六日)。

  三
 この両度(第一回と第二回)のシンポジウムに対し、わたしはいわば「不可解」な実経験をもっていたのです。おそらく、松本さんは、今は十二分に御承知と思いますが。
 まず、第一回。いち早く、朝日新聞社(九州総局、北九州市)の企画担当者から、電話がかかってきました。
 「このシンポジウムに御出席いただけませんか。」
 「はい、まちがいなく、まいります。」
 この応答があったあと、詳細な御連絡を待っていたのですが、その後、一切の連絡なく、当の第一回が開始されたのです。
 何とも、奇妙な思いの中で過ごすうち、右にあげたような、会場内の質問者と松本さんとの応答を知りました。もちろん、出席した、当の方々から直後にお聞きしたのです。
 やがて、第二回のとき。ふたたび、朝日新聞社(九州総局、北九州市)の企画担当者から電話がかかってきました。前と同じ方です。
 「今回のシンポジウムに御出席願えませんか。」
 「わかりました。喜んで。」
 そのとき、前回の「非礼」を問い質そうという気持はもちろんありましたけれど、先方の気持、おそらく止むをえなかった事情を汲み、クレームの一切を飲み込んで、
 「喜んで。」
の一言を加えたのです。
 けれども、今回もまた、前回と同じ、その後の「連絡」は一切ナシ。第二回が“粛々と”実行されたのです。
 おそらく、主催者の朝日新聞社と後援者の全日空は、これらの事情を知悉した上でのことだったのでしょう。
 そしておそらく、松本さんご自身もまた。

  四
 事実は小説よりも奇なり、とのたとえ通り、今回の二つの「不可解」のナゾは、サラリと解けたのです。松本さんの苦心されてきた、推理小説のナゾなどとの比ではありません。朝日新聞社の旧知の方、Tさんがそれをもたらしてくださったのです。
 Tさんは、わたしに対する「知己」というべき方でした。『朝日ジャーナル』の副編集長時代、わたしによる「通史」の掲載を企画され、周到なプランを提示してくださった方でした。このときの「通史」問題の変遷は改めて述べることとします。
 今は、Tさんが九州総局に赴任され、懸案だった「鉛活字から電子化へ」の改変をなしとげられ、再び東京の本社へ帰任されるその途次、京都のわたしの家へ「用」をもって寄られたのです。
 その「用」とは、九州総局の企画担当者からの御依頼でした。
 その方は、あの二回の「邪馬台国シンポジウム」の企画担当者でしたが、表面上の「企画成功」にも似ず、心裡にくいこむ痛恨の念をお持ちでした。
 その経緯は次のようでした。
 第一回のシンポジウムが企画され、講師のメンバーも決まり、「発表直前」のとき、講師の中の若手の一人がやってきて言ったそうです。
 「古田さんが出るなら、わたしは出ません。」
と。その企画担当者は、
 「何て、ケチなことを言う男だ。そんな男に出てもらわなくてもいい。」
という毅然たる態度で対応したそうですが、実はその「一人」は“言わされ役”で、そのあと、“言わした方”の学者から、
 「わたしたちは、みんな出ない。」
という“圧力”がかけられた、というのです。
 その「絶妙な(クレームの)タイミング」から、とても“講師の再編成は不可能”。ために、泣く泣く、「古田抜き」の実施に応じたのだそうです。
 しかしわたしに対する「申しわけ」の言葉がなく、“だまって”当日の開催となった。 ーーそれが真相だったのです。

  五
 ところが、第一回の質問の時間、奇しくも、聴講者からの質問があり、松本清張さんがその公開の場で、満座の皆さんに対して、

 「次回は、必ず古田さんをお呼びします。」

と約束された。
 そこで安心して、再び、わたしに「講師」を依頼された、というわけです。古田さんは「ゴチャゴチャ」言わず、快く引き受けてくれた、と安心したそうです。
 しかし、それは「甘かった」のです。第二回も、同じような「絶妙のタイミング」でクレームの「申し入れ」があった、というのです。
 そのため、再びそれに屈し、わたしへの「申しわけ」が立たず、「非礼」のまま、第二回も開催されてしまった、というのです。
 以来、その方は、飲むたびに、その「思い出」をグチる。それが時には“習癖”のようになっていた。
 そう言われるのです。そして今回、Tさんが九州総局をはなれ、東京へ帰任するとき、
 「自分に代って、古田さんにあやまってほしい。」と、切に頼まれた、というのです。
 「いや、それは自分であやまったらいい。古田さんは、そんなことでゴタゴタ言う人ではないよ。」
と言われたそうですが、
 「イヤ、自分にはどうしても出来ない。頼む。」
と切願されて、やむをえず、やってきた、と率直に語られたのです。
 二つの「不可解」のナゾの真相は、ここに全くアッケナイ終末を見せたのです。

  六
 第一回の「邪馬台国シンポジウム」は、やがて平凡社から刊行されました。一九八〇年三月二十五日(初版第一刷)です。
 そこでは、右のような経緯、聴講者からの質問などは「カット」され、代って井上光貞氏の「古田批判」が掲載されています。
 それは次のようです。

松本 あと十二時までのお休みまで十分残っております。ここで、文字はいくらでも書き間違えたりする可能性があるという発言に関連いたしますが、古田武彦さんが、邪馬壹国はあったけれども邪馬臺国はなかったといっておられる。それは原文には『邪馬壹』とあって、壱(壹)のほうが本当なんだ、自分は紹興本、紹煕本を検索してみたけれども、壱と台の混用はまったくなされていない、邪馬壱国を邪馬台国の間違いだといまの学界では簡単にいってきたけれども、そのへんの史料の検索がなされてなかった、のんびりと邪馬壹国は邪馬台国の誤りであるといわれてきたけれども、邪馬壱国が本当であるということをいわれて話題になっていることはご承知の通りであります。では、邪馬壱国が本当なのか、邪馬台国が本当なのか、古田説をめぐって井上さんにあと十分少々の間でご説明願いたいと思います。」

 松本さんのうながしによって、井上さんの「批判」がはじめられています。

 「井上 ぼくは結論的には、古田さんの思い過ごしであるという結論です。その理由は、古田さんの論拠の根底に原文主義がある、原文通りによめというんです。ところが問題は、原文とは何ぞやということであります。原文というのは、『魏志』は三世紀に書かれたものですが、そのときの原文、これはないのであります。だから原文原文といっているのは非常に古い版本ということである。しかし古い版本は原文ではないのであります。校訂ということを学者はやるわけであります。おそらく古文をなさる方もいらっしゃるだろうと思いますが、それはいろんな写本やなんかから、元のそれこそ現物はどうであったかということを考えるために、いろんな本を校合して、元を当てていくわけです。これが原文に忠実なのでありまして、たまたまあった版本だの、後の写本に忠実であるということは、原文に忠実ということとは違うんだということですね。これは非常に基本的なことなのであります。ところが古田さんはそこのところが何かちょっと違っているんじゃないか。これは学問の態度の問題であります。これだけいえばもう私はほとんど何にもいう必要はないのであります。」(一七五〜一七六頁)
 
 正直に言うと、わたしはこれを読んだ途端、ガッカリしました。井上さんには失礼ながら、偽らざる感想です。
 いかにも、「古田は、原文・原文と言いつのっているが、それは“素人”だ。厳格な学問的処理の方法を知らない。」といった口振りです。知らない人にはあるいは「なるほど」と思わせるかもしれません。
 けれども、ことは逆です。わたしは歴年、親鸞研究の研究者でした。『史学雑誌』にも、何回か論文が掲載されています。たとえば「原始専修念仏運動における親鸞集団の課題〔序説〕 ーー『流罪目安』の信憑性について」(『史学雑誌』七八 ーー 八、昭和四十年)、「蓮如筆跡の年代別研究 ーー各種真蹟写本を中心として」(『真宗研究』11、昭和四十一年)等の各種では、一貫して、

 自筆原本 ーー (直弟の)再写本 ーー 後代写本

といった系列が調査の対象となっています。眼前の「現存写本」が、それらのいずれの段階に相当するか、また「現存写本」から自筆原本に至るための方法論、その緻密な検証です。その累積された研究に立つとき、従来における古代史研究の「古写本研究」の無造作なあり方に「?」を感じた。これがわたしの「邪馬壹国」(『史学雑誌』七八 ーー 九、昭和四十四年)という論文執筆の出発点だったのです。
 井上さんの、「たまたまあった版本」を「原文」と勘違いをしている、といった言辞には、あきれました。失礼ながら「幼稚」という他ありません。もし井上さんが、一連のわたしの親鸞の写本研究を見ておられたら、およそ“出しうる”言葉ではないのです。
 井上さんは「これだけいえばもう私はほとんど何もいう必要はない」と言いながら、そのあとさらに「長広舌」を述べられます。そして「逸文」の存在や後代(十世紀の末)の太平御覧についてふれられるのですが、それらはわたしのそれこそ「百も承知」の写本類です。それらへの「目配り」もなしに、三国志の倭人伝研究について述べる。それはわたしにとっては“途方もない”ことです。
 もしわたしが、このシンポジウムに「出席」できていれば、当然、この当然すぎる反論を申させていただいたはずです。
 おそらく井上さんは、『史学雑誌』に載った、右の長篇論文など、御存知だったのでしょう。さらに、「歎異抄蓮如本の原本状況 ーー『流罪目安』切断をめくって」(『史学雑誌』七五 ーー 三、昭和四十一年)において、歎異抄蓮如本の「自筆本」に直面して検証し、前人未到の「蓮如切断」という帰結に至ったこと、もしかすると、百も御承知だったのかもしれません。井上さんにとって「浄土教研究」は専門分野の一つですし、『史学雑誌』はそれこそ“お膝元”の学術雑誌ですから。この論文は、現存の「蓮如本」から、原初の「蓮如本」へとさかのぼるための、執拗な探究だったのです。
 こう考えてくると、井上さんたちが、わたしの「シンポジウム出席」を“アウトサイド(除外)”させようとした、その真相が垣間見えてくるようです。
 やはり、気の毒だったのは、わざわざ全日空に乗ってまで、博多の「邪馬台国シンポジウム」に出席された方々だったのではないでしょうか。

  七
 すでに過ぎ去ったことを、語り過ぎるのはやめましょう。
 けれども、この二回のシンポジウム経緯を思い出しているうちに、はじめて気づいたことがあります。それは次の件です。
 松本さんの晩年ですが、朝日新聞社の、もう一人の方(Nさん)が、わたしの家へ来られました。
 その要件は次のようです。
 「九州で原田大六さんのお宅へ寄っていたのですが、その原田さんから依頼をうけたのです。原田さんが言われるには、自分には是非話し合いたい人間が二人いる。それは古田武彦と松本清張だ。そこで三人で徹底的に討論したい。」
 そこから先が、いかにも原田大六風でした。
 「番茶とにぎり飯をそばに置いて、二晩でも三晩でも、徹夜してでも語り合いたい。」
と。その旨、二人に告げてくれないか。そういう依頼だったのです。
 わたしは即座に賛成しました。そういう“やりかた”は大好きだったからです。
 けれども、そのあとの音沙汰はありませんでした。その方は東京へ帰られたのですから(本社で著名な方でした)、すぐ松本さんにお話になったはずですが、御返事がありませんでした。
 そのあと、東京で会合(出版社関係だったと思います)に行ったとき、その方にお会いしましたので、
 「先日は、どうも。ご苦労さまでした。」
と御挨拶をしたのですが、例の件(三人の討論)については、何も言われません。
 「松本さんがお忙しいせいだろうな。」と“察し”はしたものの、何らかの「交渉経過」の話があってもいいのですが、それもないじまいでした。
 ところが、今回これを書いているうちに、「思い当たる」ことがあったのです。それは、例の二回にわたる「邪馬台国シンポジウム」の件です。関係者の、わたしに対する「非礼」は、当然司会者であった松本さんの耳にも入っていたことと思います。「アンフェア」なことの“嫌い”な松本さんの脳裏に深い矢として突き刺さっていたのではないでしょうか。
 しかも、第一回のシンポジウムでは、司会者として公然と、満座の聴講者の面前で、

 「次回は、必ず古田さんをお呼びします。」

と公約されながら、その第二回にも、見事に「松本公約」は“裏切られ”てしまったのですから。心の底の「澱おり」として消えていなかった。そのように想像しても、大きくはずれることはない。わたしはそう思います。
 とすると、例の「三人討論」に応ぜず、しかも「ハッキリ」した返答もされなかったのは、この「澱おり」があったためではないか。それに気付いたのです。
 二日も三日も徹夜討論で、「邪馬台国」を論すれば、当然、あの二回の「アンフェア事件」が話題にのぼること、必然。そうお考えになったでしょうから(わたしは今まで、そんなこと思ってもいませんでした)。
 そして話題になったとき、真相を語れば、名士(学者)に傷がつく。すでに「真率な推理作家」としてだけではなく、「司会役の大家」になっておられた松本さんにとって、それは“避けねばならぬ”機密だったかもしれません。
 もし、そうであれば、そのような心理的負担は、「いのちを縮めた」とまで言わなくても、心の奥底の「黒い影」となっていたのかもしれません。お気の毒です。
 もうわたしも、八十一歳。やがておそばに参りますから、そのときこそ、ことの真相をはばかりなくお語りください。楽しみにしています。

(以下次号)

注(1)「邪馬壹国の諸問題 ーー尾崎・牧氏に答う」(上)・(下)、55巻6号(昭和47年11月号)56巻1号(昭和48年1月号)。

敵祭ーー松本清張さんへの書簡第六回古田武彦

    一
 「頌徳(しょうとく)碑」という言葉があります。ある人が亡くなられたとき、故人の徳をたたえるための文章を石碑に刻んだものです。当然ながら、当人の「すばらしさ」を賛美する文章です。その「非」をあげつらうものではありません。
 古来、東洋の(あるいは西洋も)美風とされているものでしょうけれど、わたしは好きになれません。もちろん、帝王のために建てられた碑文ならば、さもあらばあれ、生前率直な立論や鋭利な文章にたずさわった方の場合、かえって“失礼”な感じさえします。当の故人も、これをよしとはされないのではないでしょうか。
 けれども、松本さん亡きあと、数多く出た作家、編集者、学者など関係者の文面を見ると、やはり「帝王なみの頌徳文」の類が多いように思われます。残念です。
 わたしの敬慕する松本さんのために、「非・頌徳」の一文を、最後にここにしたためさせていただきます。御容赦下さい。

    二

 松本さんの晩年の古代史論議には「?」と思うものが少なくありません。率直に言えば、「堕落している」と言っても、決して言いすぎではないのです。なぜか。
 たとえば、毎日新聞創刊一一〇年記念に行われた「古代史の旅」(一九八二年二月一六日、東京イイノホール)において、御自分の「倭人伝、七・五・三説」に対して、次のように「自画自賛」しておられます。

「(日数論に続き)それから戸数はどうか。『倭人伝」には対馬・壱岐、それから末盧、伊都国、奴国、不弥国、こういうものを含めまして全部で三万戸になる。それから投馬国のほうは五万戸になっております。邪馬台国は首都ですから七万戸になっております。(中略)私がそう言ったからではございませんが、もう里数や日数で邪馬台国の所在を捜索するのはナンセンスであるということに学者も気づいたのでしょう、現在は里数、日数を手がかりに邪馬台国の所在地を探る学説は声を低めております。ほとんどないと言ってもいいじゃないでしょうか。」(上、『サンデー毎日」、82・4・11、五二頁上段)

 わたしはこれを読んで、驚きました。否、むしろ“あきれ”たのです。昭和四十六年(一九七一)に出した、わたしの第一作『「邪馬台国」はなかった』において、松本さんたちの立論を「虚無説の空虚」として、第三章に詳論しました。
 (1) 「彼等が三を基礎として、五、七と云ふ奇数を以てする推算法を採り、五万、七万と云ふ数字を作りだすことは、奇数を特に好む支那人としては極めてあり得べき事情でなければならない」(白鳥庫吉「卑弥呼問題の解決」(下)『オリエンタリカ』2、昭和二十四年)
 (2) 「白鳥庫吉の考えた戸数の三、五、七の配置は、私には卓見だと思われる・・・」「以上のように解釈してみると「『魏志』倭人伝」の里数、日数はまことにナンセンスなものである」(松本清張『古代史疑』中の「魏志の中の五行説」)
 (3) 「第一段は文献批判をすればいろいろ材料はあるが、簡単に言えば、帯方郡から狗邪韓国(くやかんこく)までが七千余里と書いてある。そこから対馬、壱岐を経て末盧(まつろ)国まで五百里です。つまり、七・五・三です。この数は実数とは思えない。その次に邪馬台国七万戸と書いてある。投馬(とうま)国五万戸、その他を合わせると三万戸。戸数も七・五・三です。簡単に言えば、五行思想の産物であって実数ではない」(上田正昭『毎日新聞』 ーー神話と現代8、一九七〇年六月)

 わたしはこの三者の立論を検するため、三国志全体の「数値」の全調査を行ないました。
 そして「七・五・三」特出の事実のないことを証明したのです。さらに三国志中、「数の思想」の特記された諸例を検討したところ、ここでも「七・五・三」偏重の事実はなかったのです。また魏の明帝の師表となった高堂隆は、数を以て文辞を成すを好んだ学者でしたが、ここでも「七・五・三」偏重の事実はありませんでした。
 なお、上田氏のように、「足し算」で「三」の数を導くような“やり方”が可能なら、当然「引き算」も可能となり、そのような“造出された数”を「資料」のように使用するのでは、適正さを欠く、と論じたのです。その方法なら、あらゆる数値を「算出」しうるからです。
 松本さんは、このような、わたしの批判を一切かえりみず、右のような「揚言」を行われたのです。上田氏からも、もちろん一切、反論はありません。それは上田氏の問題です。決して松本さんが「(反対の)学説は声を低めております。ほとんどない」などと、言うべき筋ではない。真に「ない」のは、上田氏や松本さん側からの「反論」の方なのです。

    三

 なさけないことに、松本さんの没後一年の記念出版(一九九三年十一月刊)の『清張、古代遊記「吉野ヶ里と邪馬台国」』(日本放送出版協会刊)でも、全く同じ「認識」と「主張」がくりかえされています。

「不弥(ふみ)国以遠の水行・陸行の日数もそれぞれ合計すると『三』の数になることは、まえにたびたびみた。
 したがって、わたしは、郡より女王国の『方二千余里」は『漢書』の『西域伝』の里数から、『倭人伝』の里数、日数は『漢書』の五服の記事から、陳寿がでっちあげた虚妄の数字だと考える。
 このようなウソの距離数にふりまわされて、ああでもない、こうでもないと邪馬台国の所在をさぐるのは、まったく無意味で、むだな努力といわねばならない。」(一一〇〜一一一頁)

 松本説の当否を実証的に検証するために、わたしは三国志全巻の数値をすべて拾い上げ、統計しました。それは「むだな努力」だから、相手にせず、反論もせず。「反論はなかった」ことにした。そんな仕業が「大家」の名によって許される。本当にそう、お考えなのでしょうか。 ーー考えられません。

    四

 この本は「頌徳文」をのせておられる佐原真さんや門脇禎二さん、そして水谷慶一さん、いずれも故人の「徳」をたたえるだけで、右のような欠落、道義的ともいうべき、深い欠落には一切言及しておられません。あるいは、この方々はわたしの『「邪馬台国」はなかった』の存在を“知られ”なかったか。あるいは、知っていても、「古田のは無視してもいいことになっています。」といった「学界のルール」に従うよう、松本さんにすすめられたのか、わたしには不明です。
 それにしても、出版社(日本放送出版協会)の方々も、わたしの本の存在を一切御存知なかったのか。それも信じられません。東京にいた時、新宿や町田にあった、同協会のシリーズの講師だったのですから。
 要は、「みんな、知っている」けれど、「大家」となった松本さんの御機嫌を損じないよう、貴方の無責任な「放言」に聞き入っていた。そういう構図です。
 もう一回、申します。松本さんが「己が信念」として、「七・五・三説」を堅持し通されること、それは御自由です、勝手です。しかし、当の松本説批判のため、多大の汗をかいて、その実証的帰結を静かにしめした批判、それを、みんなが「なかった」こととする。それはあまりにも“マンガチック”な光景に、わたしには見えるのですが、ちがいましょうか。
 前々回に書いた、K社の上司の苦心、松本さんへの説の批判を是非とも「取り消させ」ようとした、何とも奇妙な、あの記憶が、改めて一種のリアルな色彩でよみがえってきます。
 かつて松本さんへの「頌徳文」の中で、関係者が昭和史発掘のさい、貴方の採られた、執拗な資料収集の熱意のすさまじさが“賛ぜ”られていましたが、少なくとも晩年の古代史探究では、全くそうではなかったようです。学界や出版界の人々にも、誰一人「貴方は裸ですよ」と告げてくれる人はいなかったのですね。やはり「大家の不幸」としか言いようがありません。

    五

 松本さんは今回の本で書いておられます。
「こういうことを考えると、最古の刊本(紹興版)に『邪馬台国』とあるからといって、『邪馬台国』は誤りで、『邪馬壱』がぜったいに正しいという古田武彦氏の主張には、やはり無理があると思う。」(五〇頁)
 この短い一文にも、幾多の「?」があります。
 第一、わたしがいかにも「紹興版」を最古の刊本と“妄信”しているような書き方ですが、『「邪馬台国」はなかった』で慎重に、長大な文章を用いて力説したところ、それは、
 (1) 形式上は、「紹興本」が最古の宋版。
 (2) 実質上は、日本の皇室書陵部所蔵の「紹煕本」が最古の宋版である。十二世紀末の南宋紹煕年間(一一九〇〜九四)だ。これに対し、紹興本は南宋の紹興年間(一一三二〜六二)の刊行であるけれども、紹煕本の方は、北宋の成平六年の牒をもっているから、北宋本の「復刻本」であり、実質的には、紹興本よりも古い。これがわたしの史料批判上の帰結です。その「牒」の本文も、「海彼の国名」(「対海国と一大国」)に写真版で掲載しています。要は、
 (1) 「邪馬壹国」は、紹煕本(北宋本、復刻)と紹興本(南宋本)に共通。
 (2) 「対海国」(紹煕本)と「対馬国」(紹興本)とが重要な相違点です(この点、松本さんの強調される「一大国」「一大率」問題にも、関連をもつ)。
 以上は、わたしの力説したところです。松本さんのような「古田は『紹興本』妄信説」といった書き振りは、「?」です。わたし自身の立場ではありません。
 松本さんは、この本で、
 「たいへん、おこがましい言いかたで恐縮だが、本書執筆にかぎって、わたしじしん、小説書きであることを抹殺したい。ひとつには、あいつのいうことにはフィクションという便利な逃げ道があるから、という学界方面から予想される『批評』(かつてはあった声である)を返上したいし、かつ自説に責任をもちたいからである。」(三四頁)

と言われるのですから、古田説の依拠刊本に対する不正確な“書き方”は不適切と思います。

    六

 松本さんは「捨てた」はずの、“小説家”的な「書き換え」を、わたしに対して行なっておられます。
「『邪馬臺国』は誤りで、『邪馬壹』がぜったいに正しいという古田武彦氏の主張」
の一文です。
 まず、一つ。わたしは「『邪馬臺国』は誤り」とは言っていません。逆に、
 (A) 後漢書では「邪馬臺国」が正しい。
 (B) 三国志では「邪馬壹国」が正しい(紹煕本、紹興本とも)。

 そういう立場です。だから、朝日新聞社側が提案した、この書名に対して「邪馬台国」と、「 」を付けることを頑強に主張して、通されたのです。
 この「主張」は重要でした。なぜなら、後日、
 (α) 三国志では「女王国の都するところ。戸七万。」の「都域全体の名として「邪馬壹国」と表記。
 (β) 一五〇年後に成立した後漢書では、(右の三国志の記述を前提として)「大倭王の居するところ」を「邪馬臺国」と記したのです。

 つまり、右の(A)に当る表記はこれだったのです。
 このように明白な「文脈」を忘れ、「単語」だけ取り出して“すげ変え人形”の首のように“取り変え”ようとした。これが従来説と、それに同調した松本さんの立場だったのです。

    七

 「不可解な感じ」を与えられたのは、右の文中の「ぜったいに正しい」の一句です。もちろん、これは、“誉め言葉”ではありません。
「『卑弥呼」はふつうにはヒミコと呼んでいるが、ぜったいにそうだとはかぎらない。」(一二九頁)
のように、相手の主張を否定するための、一種の「小説家的表現法」ですね。
 わたしの場合は、次のようです。
 昭和二十六年版の岩波文庫では、本文の「邪馬壹国」に対して、その注に「邪馬臺の誤り」とありました。理由も書いてありませんから、これこそ「絶対に、邪馬臺」という立場です。わたしはこれに対して、「?」をもちました。それは、
 「そんなに簡単に、原文を改造していいのか。」
という疑問でした。そこで三国志全体の「壹」と「臺」の点検をはじめたのです(はじめる前には、若干の“とりちがえ”はあるだろう、と考えていました)。その前(三十代)の親鸞研究でえた研究手法だったのです。
 ところが、やってみて驚きました。「壹」と「臺」の、“書きちがえ”が見当たらなかったのです。
 その段階ではまだわたしは「壹」が正しい、とは「信じ」られませんでした。けれども、この文字検索の中で、この「臺」の字が、三国志では(他の史書にあらず)「天子の居するところ」の意、つまり特殊貴字として用いられているのに、気付きました。
 先述の高堂隆は魏の天子、明帝のことを「魏臺」と呼んでいます。その上、肝心の倭人伝でも、
 「臺に詣る」
の一句を、「天子の宮殿」に至る、との意味で使用しています。そのような「魏時代の用語」の中で、史官である陳寿が「かりに『ヤマト」であっても、これを『至高の臺字』を用いて表記することは、絶対にありえない。」 ーーそう考えるに至ったのです。
 右のような論証経過は、はじめの「邪馬壹国」(『史学雑誌』)以来、『「邪馬台国」はなかった』にも、くりかえし力説し、明記してきました。これに対し、右の松本さんのように、
 「最古の版本にあったから、というだけで古田は盲信した」
などと、言い歪めることが許されるのでしょうか。小説家には、そんな「特権」があるのでしょうか。 ーーわたしは信じません。

    八

 さらに、右の松本さんの一文の文頭で、
 「こういうことを考えると、」
と言っておられる件に、目を注がせていただきます。
 ここは「II 邪馬台国」の中の「1 神仙的『倭人伝』」の中の、
 「邪馬壹と邪馬臺」
という節です。わたしにとって“必見”の個所ですね。
 ここで松本さんが縷々吟味を加えられたのは、(α)日本書紀神功紀引用の倭人伝と、いわゆる(β)「最古」の紹興版倭人伝との比較です。
 ここには、ささやかな、しかし重要な差異があります。倭国の女王が難升米等を魏の都に遣わした年時です。
 (α) 日本書紀 ーー景初三年
 (β) 紹興版倭人伝 ーー景初二年
となっています。
 これに対して松本さんは(α)が正しく、(β)がまちがっている、といち早く断定します。その理由は二つあげられています。
 第一、「げんに岩波文庫版の『魏志倭人伝』には『景初二年』を明帝の年号。景初三年(二三九)の誤。『日本書紀』引用の『魏志』及び『梁書』は三年とする」と注記している。」(四九頁)とあります。
 松本さんにとっては「岩波文庫が言っている。」のが、証拠になるのですか。それなら問題の「邪馬壹国」も、
 「邪馬臺の誤り」(一九五一年十一月初刷)
を引き、「げんに、岩波文庫にこう書いてある。」と言えば、それで「証拠」になったのではありませんか。
 わたしが岩波文庫改訂版(一九八五年)の、
 「邪馬」の誤とするのが定説だったが、ちかごろ邪馬(ヤマイ)説もでた。」(四二頁)
の被害をこうむった件、最近書きましたので御参照下さい。(わたしの第一書『「邪馬台国」はなかった』では、“「邪馬壹」はヤマイと訓むべきではない”旨、強調)。
 ともあれ、松本さんともあろう方が、「岩波文庫を権威とする」姿勢に立っておられるとは。嘆息をつく他ありませんでした。

    九

 より、「決定的」だったのは、松本さんの次の一文です。
 「『景初二年』が誤りであることは、この年に魏が遼東の公孫氏をほろぼして楽浪・帯方の二郡を接収したのであるから、その戦争のさなかに魏の郡(「都」か ーー古田)の洛陽に朝献させるはずはない。それは戦争がすんで見きわめた翌年でなければならない。これも『三年』が『二年」の誤りという証拠となる。」(五〇頁)
 ここから、先述の「そうしてみると、・・・」へつづいているのです。これが第一の「岩波文庫、証拠論」へにつづく、第二の「証拠」、いわば、松本さん「独自の立論」の形なのです。
 これを読んで、わたしは驚きました。否、「目をこすり直し」て、何回も読み直したのです。なぜなら、この文面の直後、わたし(古田)批判の核心に移ろうとするのに、何と、私の本(『「邪馬台国」はなかった』)を読まれた形跡が皆無だったからです。
 わたしの本の第二章の「II 戦中の使者」は十五頁にわたってこの問題に論証を集中しています。この要点は、
 (甲) 景初二年が「戦中遣使」に当るため、不穏当ではないかと、問題提起をしたのは、新井白石の『古史通惑問』である。
 (乙) 松下見林が日本書紀によって「二」を「三」に直した(今回の松本テーゼと同じ)。
 (丙) 内藤湖南の『卑弥呼考』も、これに同調(梁書を援用する点、先の岩波文庫本の「依拠」したのは、この「内藤論証」である)。
 (丁) 白鳥庫吉を承けた橋本増吉も、この「内藤論証」に賛同した。
 その結果、
 「この『改定』は、邪馬台国研究史上の『常識』となってしまったのである。」(一二四〜五頁)
と、わたしは述べています。その上で、
 「この『常識』に疑いをむけよう。」
と発議します。この立場からは解けない、五つの謎がある、と指摘したのです。
 (一) 景初二年の項に「太守劉夏、吏を遣はし、将って送りて京都に詣らしむ」とあるのは、不思議。なぜなら、(周)漢以来、倭国側にとって「洛陽へ至る道筋は周知のところ。今さら「道案内」の必要はない。
 (二) このときの卑弥呼の使は、難升米と都市牛利の二人。しかしその奉献物は、「男生口四人、女生口六人、斑布二匹二丈」です。「生口六人」は“捕虜”。つまり一行の「補佐の労役人」ですから、実質の「献上」は、「二匹二丈」の斑布だけです。
   第二回以降は、“彪大な奉献物”を送ります。これらの品々に対して、この「景初二年遣使」の奉献物の「貧弱さ」が異常です。
 (三) これに対する魏側の“喜び方”も異常。莫大な下賜品です。この両者の“アンバランス”が「?」なのです。
 (四) 卑弥呼第一回の奉献の年の十二月、魏の天子から卑弥呼に対する詔勅が出されています。しかし、その「実行」はされず、翌々年(正始元年)の項に書かれています。「?」です。
 (五) しかも、その詔勅の支持するところでは、(P)当初の方針と(Q)実際の「実行」の“くいちがい”まで「明記」されています。これも「?」です。

 ところが、「景初三年」の「戦後遣使」では解けない、この「五つの謎」が、「景初二年」の「戦中遣使」なら、見事に解ける。それを詳細に論じたのが、この一節なのです。
 従来の「戦後遣使」説という、「いわゆる『共同改定』批判」の、重要な論証となっています(その詳細はすでにこの本の、多くの読者、周知のところですから、再録は遠慮します)。
 ですから、松本さんが、従来の「戦後遣使」説の“復活”を意図されるなら、まさにわたしの歓迎するところです。そのさいは、
 「古田が詳細に展開した、五つの論証はいずれも、まちがっている。これに反し、右の『?』は、いずれも従来の『戦後遣使』の立場で解明できる、古田より、一段と明晰に。」
という論旨が展開されてあれば、年来の松本ファンのわたしにとって「ヤンヤ」の喝采を心から送りたいところです。
 しかし、それは皆無です。従来説の「貧弱な筋書き」だけを再録して、それを「岩波文庫の権威」に加える「傍証」と称しておられるのです。読み直していて、悲しくなりました。
 小説家には、あるいは「大家」には、批判する、当の相手の主著さえ読まずに「やっつける」特権あり、とされるのでしょうか。わたしが知っていた時期の松本さんとは、まるで「人が変った」ようです。
 前にも書いたように、松本さんが原稿を一枚書いたら、次の部屋で待っていた朝日新聞社の記者に渡す。記者はバイクで待っていた青年に渡す。青年は印刷所へ届ける。
 わたしなどには「神業かみわざ」めいた作業の中では、
 「古田批判の前に、古田の本を確認する」
という、自明のルールも破棄される。そのルール無視を、とりまきの学者も、出版関係者も、一切「御注意申し上げれない」。そういう悲惨な状況が目に浮かびます。
 わたしが「松本さんの堕落」と書いたのは、そういう事実です。

    十

 次のテーマヘとまいります。
 松本さんが“独自の自説”として強調されるのは、
 「一大率、中国派遣官人」論です。
 従来の、これを「卑弥呼側からの派遣官」とする説を否定し、中国(魏)からの派遣官と解されるのです。確かに、“独自”でした。
 しかも、この自説に対する学界の反応を終生、気にしておられた様子が、この本の末尾の解説で門脇禎二さんによって証言されています。
「『一大率』は邪馬台国の官ではなく魏の置いた官だとみるところは、松本さんはかなり自信をもっておられたらしい。幾たびか、これについての意見をきかれたことがある。わたくしなどは賛成なのだが、それくらいではなお足らなかったらしい。亡くなられた年であったが年初のある雑誌での対談で、一大率の右の解釈も含めて『私の倭人伝の理解は専門外の者の意見だから、内容とかかわりなく学者が相手にしないんじゃないですか」ときわめて率直におっしゃるので、びっくりしたことがある。」(三一八頁)
 しかしこれも、松本さん(及び門脇さんも)の「調査不足」です。
 わたしはすでに、
 「一大率の探究 ーー『宋書」をめくって」『邪馬一国への道標』講談社、昭和五十三年刊、角川文庫、昭和五十七年刊)
において、この松本説批判を行なっています。
 「ここでは事物の名は『率』です。ですから中国で言う、普通の『率』に比べて、ずっと大きな『率』 ーーこういった感じで使われているのです。少なくとも中国(西晋朝)の読者は、そううけとるはずです。この点から見て、最近時として説かれる“一大率は中国側の設置した官名”という説(松本清張さん、江上波夫さん)には、残念ながら全く成立の余地がないようです。なぜなら、中国側の軍団や官職なら、それを呼ぶ名前(固有名詞)がチャンとあるはずです。だったらズバリそれに従って呼ぶのが中国側の正史として当然です。それを“一つの大きな”などと、物珍しげな呼び方をするいわれなど、全くないからです。」(二五四頁)
 「第三国の人間が倭地に来て、偶然中国側の軍団を見た、といった状況ならともかく、ここは中国の天子の命をうけた、帯方郡の太守の輩下たる郡使が見、中国の天子直属の史局の一員たる陳寿が書いているのですから、『それは何物か。正規の名前が分らない。』そんな馬鹿な話は考えてみても全くありえないのです。」(同右)
 これ以降、わたしは「五率の道理」としての節を立て、中国における歴代の「率」(門衛を司る)の役目について詳述しました。その最後の結論として、
 「女王の都の門衛たる、一つの大きな軍団」
というにある、と述べたのです。
 残念ながら、晩年の“お忙しい”松本さんは、この批判を全く知られなかったようです。そして周辺にも、講談社と角川文庫で版を重ねた、この本の「松本批判」を“言上申し上げる”方もおられなかったように見えます。晩年の松本さんは、意外な「情報断絶」の孤島の中に、日夜寸刻の暇なき忙しさの中で生を終えられた。お気の毒です。

   十一

 このテーマはその後、わたしにとって全く“意想外”な進展を見せました。その要点をのべます。
 (その一) 「一大国」は、倭国側の表記である(倉田卓次氏のクレームによる)。
 (その二) 倭国側が壱岐島をこの表記で呼んでいた(「天一柱」の表意的表記)。
 (その三) 倭人伝で「一大率」と言っているのは、“一大国(壱岐)の軍団の統率者”の意である。
 (その四) いわゆる「天孫降臨」の名で“美しく表現された「神話」”の実体は、壱岐・対馬を中心拠点とした海人(あま)族の軍団の女性首長が、稲作の(日本列島中)最盛地帯の唐津湾(菜畑遺跡)から糸島半島(曲田)、そして博多湾岸(板付)への征服軍を派遣した「侵略行動」だった。
 (その五) 彼等の海上軍団は、壱岐から北部九州各地へ侵入し、右の各「縄文水田」群の「命脈」をおさえるべき山地に集結した。 ーーこれが福岡県の高祖山連峰である。
 (その六) その侵略軍はやがて山の山麓、西側の「伊都国」に常駐した。これが「一大率」である。
 (その七) 侵略軍の「被征服者」の国々は、彼等を「畏憚」した。
 (その八) 右の実情を、陳寿は(現在 ーー 三世紀の倭国の軍団配置として)正確に記録している。
 以上は、わたしが講演等でくりかえしのべたところ、また記録されたところでした。

   十二

 この問題はさらに、思いがけない進展を見せつつあります。
 先にあげた、難升米の次使、都市牛利の「都市」が現存する、日本の姓の一つであることが判明しました。訓みは「といち」です。
 博多や太宰府、筑紫野市などに居住されていますが、その「本家」は、長崎県の松浦郡の都市家の方々です。松浦水軍の中心地、黒津(くろづ)に墓地があり、江戸の終り頃までは、屋敷もあったようです。
 問題を簡単に言えば、俾(倭人伝では「卑」)弥呼の倭使洛陽派遣の、真の実力者は、この松浦水軍のリーダーたる「都市」(姓に当る)たちにあったのではないか、ということです。
 ここからはさらに「難升米」が「なしめ(名)」ではなく、「難(なん、姓)・升米(しめ、名)」という、姓名ではないかという問題が発生します。周礼によれば、「難氏」は、“うらないの名家”です。その一派(中国からの“渡来人”)ではないか、という問題に行き当っているのです。
 それはさておき、今御報告したのは、「都市」の松浦水軍です。彼等は職業上、玄界灘の「海域地図と気象配置」などに詳しかったはずです。もちろん、玄界灘の海域は東シナ海の海流につながっています。彼等はこれらの海域航行のベテランです。
 さらに(想像をめぐらせれば)、魏軍が遼東半島の公孫淵と戦ったとき、魏軍は海上を東行し、朝鮮半島側に到着し、西側(西の北京〈燕〉側から公孫淵を“挟み撃ち”にしたことが知られていますが、そのさい東シナ海の「海域・風土地図の航行法」を知っていたのは、もしかすれば、松浦水軍の方ではないか。
 とすれば、わたしのあげた「倭国側の貧弱な奉献物」に対する、魏側の「莫大な下賜品」のコントラストの「?」も、全く今まで思いもせぬ世界から“解けて”くるのではないか。そういう問題意識です。ここから見えてくるのは、やはり「戦遣使」ではなく、「戦遣使」のもつ、リアリティかもしれません。
 しかし、わたしは今の段階では「小説」の分野に足を踏み入れることを止めます。
 そしてやがてあの世でお会いしたとき、わたしの実証的な到達地点を精しくお話申し上げることを楽しみといたします。

   十三

 最後のテーマに入らせていただきます。
 松本さんはこの本の最末を「III 逃げ水 邪馬台国」としておられます。結局、邪馬台国の中心地は「不明」という結論です。
 実は、この結論は「自明」です。この本の最初から“きまって”いた。いわば「約束事」なのです。
 松本さんは「通説」に従い、博多湾岸を「奴国」、糸島郡(前原市)を「伊都国」に“当て”られました。
 そして伊都国に璧が多く(三雲遺跡の出土は青柳種信の記録したものを入れて計六個か)、奴国は少ない(須玖遺跡の出土は一個)のは、奴国よりも伊都国に重点がおかれかつ長つづきしたことを思わせる。」(一五七頁)
 「これから考えると、後漢のころに楽浪郡から金印をもらった奴国よりも当時すでに伊都国が奴国とよばれ、その勢力は東側の地域(「倭人伝」のいう奴国)まで包含していたことを推測させる。その大きな範囲の奴国が三世紀のころに西側に伊都国が成立し、東側に奴国の名前が残ったのではあるまいか。」(一五八頁)

 要するに、倭人伝のしめすところでは、
 女王国(邪馬壹国) ーー 戸七万
 投馬国 ーー 戸五万
 奴国戸 ーー 二万
です。この第三位の「奴国」を以て、全日本列島中、特別抜群の「三種の神器」や璧等の出土地である「糸島・博多湾岸一帯」に、先ず定(き)めてしまわれたのですから、それ以外の地で量的にも「三・五倍」、質的にはさらに抜群の中心領域を、「他」に求めようとしても、できるはずはないのです。「三種の神器」はもちろん、璧などが、九州各地はおろか、日本列島全体を見廻しても、この「糸島・博多湾岸」の数倍も出土する可能性など、どこにも見当たりません。
 ですから、松本さんは「逃げ水」を追うようにして、この本を結ばなければならないわけです。「福岡県南部」かと、“目見当”を言っておられますが、考古学的出土物が、その“目見当”を埋める見込みは全くありません。そのため、この「逃げ水」といった「文学的表現」そして小説家的発想へと逃げこまれる他はなかったのです。

   十四

 この本の中で、松本さんの力をこめられたもう一つの対象、それは「吉野ヶ里」問題です。
 この点に関しても、大きな「見のがし」が含まれているように思いますが、今は問題のポイントを率直に列記させていただきます。
 第一、吉野ヶ里には、「三種の神器」は出ていない。「鏡」を欠いている。従って「倭国の中心」ではない。
 第二、逆に「十字剣」や「銅器製造跡」(北端、弥生前期)がしめすように、「倭国以前」の中心拠点の性格をしめす。
 第三、けれども、吉野ヶ里に数多く埋められた「甕棺みかかん」は、“倭国側の埋葬儀礼”にもとづいている(「首なし甕棺」も)。
 第四、特に、中央甕棺から南側へ二列に並べられた「一キロ甕棺」が、その「向き」において四方、八方、バラバラであること、特徴的である。
 第五、吉野ヶ里の中央部にある日吉神社こそ、この遺跡全体の「本来の中心」である。「倭国以前の、出雲系祭神、大山咋おおやまくい命」だ。
 第六、右を要するに、本来は「倭国以前」の聖地であった、この地帯に対し、征服者側(倭国の中心。高祖山周辺の五個の「三種の神器」群)が「被征服者側の死者」に対する一大葬礼を行なった、その壮大な痕跡である。
 第七、筑後国風土記における「甕依姫」の事蹟がこれに当る。 ーー 一言にして「敵を祭る」立場である。
 第八、「四方八方」を向いた「一キロ甕棺」は、それぞれの(敵の)勇士を、各故郷へ“頭を向けて”祭ったもの。倭国側(征服者)からの「志」である。
 第九、そのため、「倭国以前」の敵対者も、ようやくこれに“心服”した。
 以上です。この「敵を祭る」精神こそ、俾弥呼の宗教の「精髄」です。有名な「大祓の祝詞」の立場の復活です。
 同時に、後世、中世の楠正成や現代の乃木希典等にも、生き生きと伝えられた、日本の真の伝統です。
 ですが、惜しむらくは、明治以後の「靖国神社」には、この真の伝統が中核において欠落しています(“補足”のみ)。
 この点、昭和史に心血をそそがれた松本さんと、夜を徹してゆっくりと話し合いたい。その日を今か今かと待ち望んでいます。






(私論.私見)