よみがえる九州王朝 第三章 九州王朝にも風土記があった1、2、3

 (最新見直し2009.11.29日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 古田氏の「よみがえる九州王朝 第三章 九州王朝にも風土記があった」を確認しておく。読みながら、趣意を変えない原則を守りつつ、より読みやすくするため、れんだいこ文法に沿って書き直して行くことにする。

 2009.11.29日 れんだいこ拝


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 よみがえる九州王朝 幻の筑紫舞 角川選書

 第三章 九州王朝の風土記 1 古田武彦

 これまでは、中国史料の分析だった。中国の史書にしるされた倭国の記事を理解する上で、従来のような近畿天皇家一元主義の立場から見たのではあまりにも矛盾がある。こじつけが多すぎる。これに対して九州王朝という一個の仮説を立てたとき、それらの矛盾は解消する。人間の理性に納得できる形で、三〜七世紀の中国史料が理解できる。それがわたしの基本の立場だった。

 今度は日本側の史料だ。日本列島の中で産出された史料についても同じことがいえる。これを近畿天皇家一元主義の目で見たのでは、解きがたい幾多の矛盾がある。どうしてもこじつけになってしまう。ところがこれに反し、九州王朝という新視点を立てるとき、それらは何の不思議でもなくなってしまう。その事実を次にしめしてみたい。それが「二つの九州風土記」問題である。

    ※        ※

 風土記には、少なくとも二種類ある。これは井上通泰氏以来、風土記研究史上、著名のテーマだった(井上『肥前風土記新考』『豊後風土記新考』『西海道風土記逸文新考』等)。甲類・乙類、その他の第三類、という区別を立て、これらはそれぞれ「霊亀(れいき)元(715)年より養老(ようろう)4(720)年までの間の撰 ―甲類」、「日本紀奏上(720)以後、漢風諡号(おくりな)制定(およそ孝謙(こうけん)天皇の御代〈749〜758〉)以前の撰、―乙類」、「漢風論を用ゐ、且つ平安時代に入ってからの撰 ―その他の第三類」という成立であろうとされた。

 これに対して批判されたのが坂本太郎氏である。「九州風土記補考」(『大化改新の研究』所収)の中で、氏らしい穏健・周密の吟味を右の井上説に対して加えられ、右の第三類は第一類(甲類)の一部と見なすべきであり、その第一類と第二類(乙類)の時代順は、井上氏の立てられたのとは逆であり、第二類が先、第一類が後である、とされた。そして第二類は「第一類よりも早く、風土記撰修の時代として考へ得べき最も早き時代に係るもの」とし、第一類は「天平てんぴょう4(732)年より天平宝字(ほうじ)3(759)年に至る間」の成立、とされたのである。

 この坂本氏の先後判定自体は、その後の研究者にほぼうけ入れられたようである。近年この問題に対して積極的な論稿を次々に提起された田中卓氏も、この坂本氏の先後判定については疑っておられない(「九州風土記の成立 ーー特にいはゆる乙類風土記について」、「肥前風土記の成立 ーー 九州風土記(甲類)撰述の一考察」『日本古典の研究』所収)。ただそれぞれの時期について、乙類を「天平4(732)年以降、恐らくは天平宝字年間(757〜765)」と推定し、甲類を「延喜(えんぎ)18(918)年以後、天慶(てんぎょう)6(943)年以前」と推定された。また岩波古典文学大系本の『風土記』の校訂を行われた秋本吉郎氏にも、幾多の風土記研究の論文がある(古典文学大系本の解題参照)。

 けれども、このような研究史の詳細に立ち入るのは、今の目的ではない。また右の各論文中に提出された個々の論点については、学術論文をもって再吟味させていただく機会があるであろう。今はこの問題に対して、従来ほとんど関心のなかったと思われる一般の読者の面前でズバリ問題の本質に切りこんでゆこう。それによってこの問題の、研究史上の渋滞の理由、その根源をしめすことができるであろうから。


    ※    ※

 風土記の場合、『古事記』、『日本書紀』のように完形は残されていない。まとまった形でかなりまとまった量残されているのは、『常陸ひたち国風土記』、『出雲いずも国風土記』、『播磨はりま国風土記』、『豊後ぶんご国風土記』、『肥前ひぜん国風土記』の五つの風土記であり、他は残欠の形で諸国にわたって遺存している。これはたとえば右の古典大系本の目次をくってみても、一目瞭然(りようぜん)である。

 ところで、「二種類の風土記」といった、その二種類を一番端的にしめすのは、“行政単位”だ。通常全国の風土記は「郡」が基本単位となって書かれている。「意宇の郡(こおり)。郷(さと)は一十一。(こざと)は、卅三、余戸(あまるべ)は一、駅家(うまや)は三、神戸(かむべ)は三、里は六、なり」(『出雲国風土記』意宇郡)といった風に。そして九州にもまた同じく、「郡」を基本単位とする書式で書かれている、一連の風土記がある。「日田ひた 。郷は五所、里は一十四、駅は一所なり」(『筑後国風土記』日田郡)といった風に。ここまでは何の不思議もない。

 不思議なのはその次だ。九州に限って、これとは異なった「県」を基本単位とする一群の風土記が別に見出されるのである。この状況を一番ハッキリ対照的にしめす例をあげよう。
 A型(従来説の乙類、第二類)
 「筑紫の風土記に曰わく、逸覩(いと)の県(あがた)。子饗(こふ)の原。石両顆(ふたつ)あり。一は片長(なが)さ一尺二寸、周(めぐ)り一尺八寸、一は長さ一尺一寸、周り一尺八寸なり。色白くして[革更](かた)く、円(まろ)きこと磨き成せるが如(ごと)し。・・・・」(『釈日本紀しゃくにほんぎ』巻十一)[革更](かた)は、JIS第3水準ユニコード9795

 B型(従来説の甲類・第一類)
 「筑前の国の風土記に曰わく、怡土(いと)。児饗野(こふの)郡の西にあり。此(こ)の野の西に白き石二顆(ふたつ)あり。一顆(ひとつ)は長さ一尺二寸、大きさ一尺、重さ卅一斤、一顆は長さ一尺一寸、大きさ一尺、重さ卅九斤なり。・・・・」(同右)

 ここではほぼ同内容だ。にもかかわらず、「県」と「郡」、基本の行政単位が異なっている。そして何よりこれだけ“ほぼ同内容の説話”が別の型式で書かれている、という、この事実ほど、「九州にだけは、二種類の風土記が存在した」という、この事実を雄弁に立証するものはあるまい。井上通泰氏の指摘以来、問題の所在自体が疑われなかった、その根本は、このような史料事実にある。だからこの二種類の風土記の呼び方について、一番端的な呼び方は、「県あがた風土記」と「郡こおり風土記」である。そして簡明に、前者をA型、後者をB型と、わたしは呼びたいと思う(井上氏の甲・乙・第三類、坂本氏の第一・第第二類、の命名に敢えて異をとなえるのは、“乙類、すなわち、第二類が”と見なされている現在、その時代順に沿った命名が、問題の的確な解明の上で便宜であると共に、必要だからである)。

 従って諸国の風土記を通視すれば、九州をふくめて全国にわたって存在するのは、「郡風土記」つまりB型である。これに対して九州にのみ、これと異なる型式の風土記が、右のB型の成立に先んじて成立していた。これが「県風土記」つまりA型であった。 ーー以上が、巨視的に見たさいの風土記という名の史料の時間的・空間的分布なのである。

 ではなぜ、このような異型の分布が実在するのであろうか。これが問いの発端だ。


    ※    ※

 ここで明瞭(めいりょう)な事実がある。それは有名な、風土記撰進の詔との対比だ。

 「(和銅わどう六年、七一三)五月甲子。□制 畿内七道、諸国の・郷の名、好字を著(つ)けよ。其の内に生ずる所の銀・銅・彩色草木・禽獣・魚・虫等の物は、具(つぶさ)に色目(しきもく)を録せしむ。及び土地の沃藉(よくせき)・山川原野の名号の由(よ)る所、又古老の相伝・旧聞の異事は、史籍に載(の)せ、(亦宜またよろしく)言上すべし」(『続日本紀』元明げんめい天皇)

 ここには「郡」という字が、二回も明確に出てきている。従ってこの詔にもとづいて作られたもの、それが先の全国にまたがる「郡風土記」つまりB型であることは、疑うことができない。もちろん、各地で実際に成立するまでには、多くの時間がかかり、その成立時点も、各国でまちまちだったようである。たとえば、それから二百年あまりもたった延長(えんちょう)三年(九二五)、風土記勘進の符が出されている。

 「(延長三年十二月十四日)太政官符だじょうかんぷ、五畿内七道諸国司。応(まさ)に早速、風土記を勘進すべき事。右、聞(ぶん)する如く、諸国、風土記の文有る可(べ)し。今、左大臣の宣を被(こうむ)りて稱*(い)う。宜しく国宰を仰ぎ、之を勘進せ令(し)むべし。若(も)し国底に無くば、部内を探求し、古老に尋問し、早速言上する者。諸国承知し、宣に依りて之を行い、延廻(えんかい)するを得ざれ。符到らば、奉行(ぶぎょう)せよ」(「類聚符宣抄(るいじゅうふせんしょう)」醍醐(だいご)天皇)稱*の別字。禾偏のかわりに人偏。IS第3水準ユニコード5041

 もって和銅六年の詔をもって、必ずしも直ちに各国でそれぞれの風土記成立、厳重保管、などとはいかなかった、その実状況が知られるであろう。けれどもそれはともあれ、“B型は和銅六年の詔をもとにして成立した”。この結論は、いかにしても疑えないのである。

    ※    ※

 では、それに先立つくA型はどうか。今使った「先立つ」という言葉に対して先ず再確認をしておこう。かつて井上氏は“A型はB型のあと”と見なされた。けれども右のように“和銅6年の詔によっていったんB型の風土記を、九州においても、全国並みに立派に作っておきながら、その後、九州においてのみ、現実に存在せぬ(現実は当然「郡」)「県」なる、架空の行政単位をもった風土記を改めて作り直す”。こんな状況は、考えてみるさえ、ナンセンス、そういって異論はあるまい。従って“A型が先、B型が後”という坂本氏の時代順判定が基本的に反論を見ぬことは当然である。

 だから“B型に先立って、九州にのみ、A型の風土記先在の事実”を認めることとならざるをえないのだが、“では、なぜ” ーーこの必然の問いに対しては、従来の各論者とも、にわかにいずれも“歯切れの悪い”答えしか用意できなかった。たとえば坂本氏。「ここに本書(第二類をさす ーー古田)の撰修は明かに第一類よりも早く、風土記撰修の時代として考へ得べき最も早き時代に係(か)くるも大なる誤謬(ごびゅう)はあるまいと信ずる。只(ただ)第二類が第一類に比し文章の全体に於(お)いて支那(しな)風の文飾の多いことはこの考察に稍(やや)そぐはぬ感もしないではない。しかしそれは他の事情によつて解釈できるのであつて、むしろそこに二様の風土記の存在を説明すべき理由すら含まれてゐるのではないかと思ふ。まづ第二類に文飾の多きは撰者が文筆に長(け)たる人であつた故であらう。多少時代が古くとも、有能な官吏を擁した大宰府(だざいふ)にこれだけの漢文のできる人がゐなかつたとは考へられぬ。彼は恐らく外客に接する大宰府の地位を自覚したが故に、風土記撰進の詔に従つて直に筆を揮(ふる)ひこの風土記(第二類をさす ーー古田)をものしたのではあるまいか。かくて筑紫風土記は奏進され、諸国のもの(第一類をさす  ー古田)と並べられたが、その稍異例な体裁が眼立つた為(ため)に後の大宰府官人の何人かゞこれを基にして今一度風土記の撰修(第一類をさす ーー古田)を企て、そこに諸国風土記の粋を取り、自己に理想の形式を盛つたのであらう。・・・・かくてともあれ、この類の風土記も奏進せられ、九州地方の風土記は二種となつた」(「九州地方風土記補考」)。

 次に田中卓氏。「九州地方についてみても、筑前国・豊前国の大宝(たいほう)二年の戸籍はすべて郡によつて記されている。大宝二年と云(い)へば風土記撰上の詔の発せられた和銅六年より十一年以前である。もし風土記が坂本博士の云はれるやうに『和銅に近き頃ころ奏上』せられたとすれば、いかなる理由で殊更に当時慣用の郡を廃して、少くとも大化(たいか)以前の古制を思はしめる県を採用したのであらうか。まして風土記撰上の詔には、『畿内七道諸国郷名著好字。其内所生、云々うんぬん』とあるにおいてをやである。凡(およ)そ風土記の記載は現行の行政に役立つものでなくては意味をなさない。従つて地方区画に百年前の古制を採用する必要は毫(ごう)も存しないし、また事実他の風土記にあつては悉(ことごと)く郡によつて統一せられてゐる。さすれば乙類にみえる県は、日本紀に『コホリ』と訓ぜられ、或(あるい)は『アガタ』と読まれた古制のそれではなく、撰者の漢風好みより、支那の郡県制度を習つて文飾のために郡に代ふるに県を以(もつ)てしたものと考へねばならない。すなはちその県は当時における現代的な、いな最新式な用話として、充分に風土記の目的を果し得たものと思はれる」(「九州風土記の成立 ーー特にいはゆる乙類風土記について」)

 これは要するところ、ズバリいってしまえば、“なぜか太宰府にだけ、気まぐれな官人がいて、現実には架空の「県」という行政単位を使って、A型風土記を作ってみた”ということだ。これでは、「答え」自身が恣意(しい)的、いかにも“気まぐれ”の観をぬぐえない、そういったら、これらの業績に満ちた論者に対して失礼であろうか。しかし、“気まぐれ”な答えしか、用意できなかったのは、必ずしも“これらの論者”だけのせいではない。従来の誰人(たれびと)も、これに対して“気ままならぬ答え”を出しえなかった。これが、ことの真相なのである。なぜなら、

 第一、近畿天皇家から、右の和銅6年に先立ち、この「県風土記」を作れ、という命の下された形跡がない(ことに戦後史学の認める史料による限り ーー後述)。
 第二、たとえかりに、近畿天皇家からその種の命が出されていたとしても、九州以外の諸国がすべてこれに従わず、九州のみがこれに従った、というのは不可解である。
 第三、しかも九州で先立って行われたA型風土記の撰進に対し、後年、(その最初は和銅6年)近畿天皇家がこれ(風土記撰進)にならった、つまり模倣した形に実質上なっているのも、その九州のA型撰述の官人が近畿天皇家の「配下」であったとするなら、不可解である。
 第三、また坂本氏のように、「和銅6年」の「郡風土記」作製の詔に応じて作りながら、九州だけA型、他の諸地方ははじめからB型を作った、とするのも奇異である(九州官人不注意説となろう)。
 第四、また近畿天皇家は和銅6年の風土記撰進のさい、歴史上の事実においてはそれが“九州のA型風土記作製の模倣”であるにもかかわらず、右の詔ではそのことに一切触れていない。このようなケースもまた不可解である。

 以上のように、あちら立ててもこちらは立たずの、八方ふさがりのていだ。従ってこの問題の研究史が渋滞したまま進展を見なかったのも、決して偶然ではなかったことが知られよう。このことは次の一点を指示する。少なくとも従来の旧説派の見地、すなわち“日本列島において風土記撰進などの挙をなしうる公的権力者は近畿天皇家のみ”という近畿天皇家一元主義の視野からは、ひっきょう解決不可能、矛盾の壁は抜きがたい。 ーーこれが研究史上の偽りえぬ現況だったのである。

 この未解決の矛盾に対して、わたしがどのようなイメージをいだきつづけてきたか、それはもはや隠すべくもあるまい。“A型の風土記とは、九州王朝で作られた風土記ではないか”。この疑いである。“八世紀以降の近畿天皇家に先在した三〜七世紀の九州王朝”という、わたしが第二書『失われた九州王朝』以来、提唱しつづけてきたテーマからすれば、それはいわば“必然のアイデア”といってもいいであろう。けれどもそれだけに、いいかえれば“うますぎる”話だけに、わたしには“慎重にならねばならぬ”。そういう思いが濃かった。だから“口に出す”ことを、いわばみずからに抑制してきていたのである。

 ところが昨年初頭、この問題の再検証を試みはじめると、新たな視野が急激に開けてくるのを見た。そのポイントは、A型における阿蘇(あそ)山の描写である。

 「筑紫の風土記に曰(いわ)く、肥後の国閼宗(あそ)の県。県の坤(ひつじさる)、廿余里に一禿山有り。閼宗岳と曰(い)う。・・・(中略)・・・其の岳の勢為(た)るや、中天(注)にして傑峙(けつじ)し、四県を包みて基を開く。石に触れ雲に典し、五岳の最首たり。觴(さかづき)を濫(ひた)して水を分つ、寔(まこと)に群川の巨源。大徳魏々(ぎぎ)、諒(まこと)に人間の有一。奇形沓々(とうとう)、伊(これ)天下の無双。地心に居在す。故に中(なか)岳と曰う。所謂(いわゆる)閼宗神宮、是なり」(『釈日本紀』巻十、肥後国)

 (注)底本には「中天而傑峙」とあるところを、岩波古典文学大系本(五一八ぺージ)では「中半天而傑峙」と改定している(井上氏の『新考』の補字による)。今は、原形(底本)によった。

 となっている。「中天」は“天のまんなか、おほぞら、なかぞら”(諸橋『大漢和辞典』)、「地心」は“地球の中心”(同右)の意だから、ここでいっていることは、次のようだ。
 ーー“阿蘇山は天地の中央である”と。

 この表明の立場は、B型の風土記とは明白に異なっている。
「筑前の国の風土記に曰く、怡土の郡。児饗野(こふの)郡の西にあり。・・・・(中略)・・・・『(気長足姫尊おきながたらしひめのみこと)朕(あれ)西の堺を定めんと欲し、此の野に来著(きつ)きぬ。・・・・』・・・・」

 右のように糸島(いとしま)郡の野原は“西の堺(さかい)にあり”という形でとらえられている。これは、いうまでもなく“近畿を原点にした”表記だ。だが、もしこれと同じ発想、同じ表記形式であるならば、当然ながら阿蘇山もまた「西の堺」であり、“天地の中央”などとは、到底なりえないのである。後者は明らかに“九州を原点とする”表記であり、前者のような“近畿原点”の表記とは、立場の根本において、その“原点のおき方”が異なっているのである。すなわち、A型は九州を原点とし、B型は近畿を原点とする。そのちがいが歴然としているのである。

    ※    ※

 次の問題は、行政区劃の問題だ。「筑紫の風土記曰く、逸
(いと)の県。・・・・」、「筑紫の風土記に曰く、肥後の国、閼宗の県」といった風に、「筑前」と「肥後」とが共通して「筑紫風土記に曰く」の句が冠せられているのが注目される(他のA型の例に対しても、岩波古典文学大系本は「現伝本と別種の風土記に属するもの」に「筑紫風土記」と記している)。すなわち「A型風土記」とは、本来「筑紫風土記」なのである。

 ところが、B型風土記の場合は、これとは異なる。「肥後」の場合は「肥後の国の風土記」(玉名たまな郡)、「豊前」の場合は「豊前の国の風土記」(田河たがわ郡)という、通常の形のみだ。つまり全国のB型風土記と共通の形だ。近畿天皇一家のもとの各国別の風土記なのである。何の他奇もない。

 ところが、A型の場合、本来“筑紫を原点として九州全土を包括する”形の様式をとっていたようである。これはなぜか。太宰府の機能が和銅6年以前のある時点とその以後で“激変”したのだろうか。そのような徴候は別に見出せない、少なくとも“近畿天皇家統治下”である限り。そのような“激変”があるなら、近畿天皇家の史書たる記・紀や『続日本紀』にその記事が姿を見せぬはずはない。第一、“筑紫を原点として九州全土を包括”などというのは、“地方の一中心官庁”のなしうるところではない。もし“なしうる”という論者があれば、“九州以外の、どこの地方の中心官庁も、そのような風土記を作ってはいないではないか”と、ひとたび反論すれば足りよう。“吉備(きび)風土記の名で播磨や出雲や備後(びんご)の風土記が書かれた”とか、“大和(やまと)風土記の名で河内(かわち)や摂津(せっつ)の風土記が書かれた”などという話は一切聞いたことがない。またその史料事実もない。

 ということは、先入見に毒されざる限り、平明な答えは一つだけだ。すなわち“A型風土記は筑紫なる王朝のもとに作られた風土記である” ーーこの答えである。

 「県風土記」に関する、核心をなすテーマはすでに提示された。だが、なお残された肝要のテーマがある。それは“九州王朝では「県」という行政単位が一般に用いられていたか”という基本の問いである。この問いに対して幸いにも、わたしは明白な答えを与えることができる。それは他でもない。第二書『失われた九州王朝』、第三書『盗まれた神話』においてわたしの使用した方法、そしてそれによってえられた帰結によってである。

 〔その一〕

 『日本書紀』の景行(けいこう)紀に、「景行天皇の九州大遠征」の説話がある。周芳(すほう)の娑麼*(さば)にはじまり、九州東北部の豊前の京(みやこ)に渡ったのち、九州の東岸部と南岸部を「征伐」してまわった、という説話である。後半は凱旋行路。日向(ひゅうが)にひきかえして、そこから肥後南端部に至り、九州西岸部周辺を北上して筑後の浮羽(うきは)を最終地点としている。この説話は“近畿なる景行天皇の説話”として見てみると、矛盾があまりにも多い。たとえば、
 (1) 九州東岸・南岸部が“すでに平定された領域”であり、西岸部が未平定の領域、つまり征伐の対象地、というのなら、東方なる近畿を原点とした場合、理解しやすい。ところが、その逆である、というのは、不自然だ。
 (2) 筑前は“もっとも早くから平定されていた”領域であるはずなのに、ここに立ち寄った形跡が全くない。南から北上してきて、“浮羽止まり”は不自然だ。「筑前の空白」問題である。
 (3) 最終地浮羽から、近畿へ向うべき寄港地たる、日向までの間の記載が全くない。

  (付言する。ここは“『日本書紀』の書式とその史料性格”を分析し、論じているのであるから、B型の『豊後国風土記』日田郡の“景行天皇に関する”記事などをもって“補い解する”という手法は不当である。むしろ右の記事は“書紀の欠を補う”形で“景行天皇の名前に寄托(きたく)された伝承”がここに編入されたものと考えられる。この点、坂田隆氏「『盗まれた神話』批判ー古田武彦氏に問う」〈「鷹陵史学」昭利五十六年三月〉の論点に関係する。詳細は別稿にゆずりたい)
 (4) 史料批判上、もっとも重要なのは次の点だ。それは“この説話が『古事記』に全くない”という一言である。
娑麼*(さば)の麼*は、麼(ば)の別字。JIS第4水準ユニコード9EBD

景行天皇の九州遠征行路図 九州王朝の風土記 よみがえる九州王朝 古田武彦

 この記・紀間の記小の異同に対する、わたしの判断の基準 ーーそれは次のようである。“近畿天皇家の史官が原史料に加削を行うさい、それは天皇家に有利に加削するのであって、不利に加削することはありえない” ーーこれか率直な公理である。そしてその“有利・不利”とは、普通の人間の普通の目から見たそれであって、“もってまわったりくつから見た、一部のインテリ好み”などのそれではないのである。

 このような公理から見ると、この記事について記・紀間の先後関係は明白であろう。なぜなら、もし書紀の方が原形であったとしたら、あれほど赫々(かくかく)たる天皇の大親征成功譚(せいこうたん)を、後代の天皇家の史官たちがバッサリ削る、などということは考えられない。これに対して逆ならありうる。この「九州東・南部平定譚」を他からもってきて、あたかも近畿の天皇の大功勲であるかのように、ここに加えた。 ーーこの帰結である。

 従来の論者には考えがたいところであろうけれども、わたしにはそのように結論する他はなかった。では、どこからもってきたか。それは説話自身が物語っている。筑前を原点とする九州、東・南部平定譚の史料性格をもつ(そのさい、肥後はすでに筑紫の勢力下にあったものと思われる)。この仮説に立つとき、先ほどの不審はことごとく解ける。
 (1) 近畿原点の場合と異なり、“九州西部(肥後)がすでに領域内であり、東・南部が未平定”ということは、地理上きわめて自然である。
 (2) 「筑前の空白」は当然である。そこは出発の原点であり、筑後の浮羽のあと、都なる筑前へと帰着したのである。
 (3) 従って最終地浮羽から日向までの記載の絶えている不思議も、当然解消する。
 (4) 『古事記』にないことも、それが本来の形(原形)であるから、当然である。

 すなわち“この説話は筑前の王者(「前つ君」)による九州一円平定譚であり、いいかえれば、九州王朝の発展史である。それを九州王朝の史書(「日本旧記」)から切り取ってきて、あたかも「景行天皇の業績」であるかのように接(つ)ぎ木した、のである”。以上が『盗まれた神話』においてのべたところのポイントだ。そしてそれはわたしの古代史学にとっての根本の方法をしめすものであった。

    ※    ※

 右をここで再説したのは、他でもない。この「景行の九州大遠征」に頻出する地名、それが「県」なのである。記・紀を通じて“「県」の最頻出地帯”それが、他ならぬこの史料なのだ。書紀における「景行紀」以前の「県」を左にあげてみよう。
 〈近畿〉 八か所
    菟田(うだ 神武紀じんむき)・菟田下(うだのしも 神武紀)・猛田(たけだ 神武紀)・層富(そほ 神武紀)・春日(かすが 綏靖紀すいぜいき)・磯城(しき 綏靖紀・安寧紀・懿徳紀・孝昭紀・孝安紀・孝元紀)・十市(とおち 孝安紀) ーー大和
    茅淳(ちぬ 崇神紀すじんき) ーー河内

 〈九州〉 九か所
    水沼(みぬま 景行紀)・八女(やめ 景行紀) ーー筑紫
    長峡(ながお 景行紀)・直入(なおいり 景行紀) ーー豊
    高来(たかく 景行紀)・八代(やつしろ 景行紀)・熊(くま 景行紀) ーー火
     諸(もろ 景行紀)・子湯(こゆ 景行紀) ーー日向

 右のように、近畿の他は、それ以上に九州に集中し、それが右の「景行の大遠征」、実は「前つ君の九州一円平定譚」をしめす史料に集中して現われているのである(これを近畿天皇家「治下」の「県」と考えるには、東〈東海以東〉になく、西も、九州との中間〈中国地方等〉が欠けている〈あるいは乏とぼしい〉点から困難であろう)。これに対し、この史料が九州王朝の史書「日本旧記」からの「盗用」であるとすると、その史書では、「県」という行政単位が広く用いられていたこととなろう。すなわちこの「県」は九州王朝の行政単位なのである。

 〔その二〕
 もう一つの「盗用」の説話、「神功じんぐう皇后の筑後征伐譚」でも、同一の傾向が見られる。先ず、問題点は左のようだ。
 (1) 仲哀(ちゅうあい)の死と新羅(しらぎ)行の間に、書紀では神功の筑後征伐譚がある。有名な羽白熊鷲(はしろくまわし)や田油津媛(たぶらつひめ)討伐の説話である。
 (2) しかし、仲哀の死(おそらく賊の矢に当ったことが原因となった死、すなわち敗戦下の死)後、という形成不利のとき、いきなり“神功が筑後平定に成功した”というのは、あまりにも唐突である。
 (3) この印象的な「筑後征伐成功譚」が、またしても『古事記』には全くない。

 従ってこれも先と同じ公理に従う限り、“ない方の『古事記』の方が本来の形(原形)、ある方の書紀の方が改作形”と見なす他はない。すなわち“筑前を原点とした筑紫一円平定”である。それは「橿田宮かしひのみや の女王」にかかる説話と見なされる(『盗まれた神話』参照)。これは九州王朝の原域たる「筑紫一円平定譚」という、九州王朝発展史の中でも、もっとも原初的な段階の説話だったのである(当然、先の「前つ君の九州再平定譚」より前段階)。ところがここでも、「伊覩(いと 神功紀)・山門(やまと 神功紀)・松浦(まつら 神功紀) ーー筑紫」といった「県」地名が出現し、右の「前つ君の九州一円平定譚」と同一の史料性格をしめしている(「沙麼*さば」周防すおう、も)。娑麼*(さば)の麼*は、麼(ば)の別字。JIS第4水準ユニコード9EBD

 〔その三〕
 同じく、仲哀の九州遠征説話をめぐっても、「儺(な 仲哀紀)、伊覩(いと 仲哀紀)、崗(おか 仲哀紀) ーー筑紫」という風に「県」名が連続している。しかもいずれも九州内においてである(この「県」出現部分の記事も、「日本旧記」などからの「盗用」と見られる)。

 以上を一言でいえは、“他の史料(九州領域)”から接ぎ木された部分 ーーまさにそこに「県」記事が氾濫しているのだ。この史料事実は、一体何をしめすだろう。他ではない。わたしたちはここに“九州においては古くから「県」の制度が実在していた”その痕跡を認めざるをえないのである。なぜならもしこれらが「後代の六〜八世紀の近畿の史官による造作」であったとした場合、“九州にだけ、くりかえし、まきかえし、「県」という行政単位を造作した”というような解釈に陥らざるをえない。そんな想定は、誰が考えても、およそナンセンスという他、何物でもないであろうから。さにあらず、この「県」地名群は、他ならぬ「九州王朝の行政単位」そのものの痕跡、その史料(断片)上の反映なのであった。

 「九川王朝の行政単位としての『県』」 ーーこのような新概念に人はとまどうであろう。何しろ、九州王朝そのものさえ、学界はもとよりいかなる教科書も、認知のかけらさえしめしていない現在なのであるから。けれども、人間の平明な理性に従うとき、それは決して奇異な事態ではない、むしろ必然なのである。なぜなら「県」とは、当然ながら本来中国の行政単位である。周知の経緯を略述しよう。先ず周(しゅう)の封建制。斉せい・趙ちょう・魯・燕えん・楚、といった国々が並立し、中心に周王朝があった。あの蘇秦(そしん)、張儀(ちようぎ)等の合従連衡(がつしようれんこう)の術策も、このような各「国」の間に生れたエピソードだったのである。次に秦(しん)の郡県制。「県」が誕生した。かつての「国」は「郡」に代り、中央から派遣された官僚が支配した。そしてその下部単位として「県」がおかれたのである。次が漢(かん)の郡国制。これは全国を「国」と「郡」の折衷型とし、「国」では漢の高祖の一族や功臣が「王」となり、「郡」では、秦代のように中央からの派遣官僚が統治した。そして右のいずれにおいても、下部単位は「県」だったのである。たとえば、 「山陽さんよう郡(故、梁。景帝中六年、別れて山陽国為(た)り。武帝の建元(けんげん)五年、別れて郡為り。莽(もう)、鉦野(きょや)と曰(い)う。[亠/兌](えん)州に属す)・・・・県二十三」(『漢書』地理志上)[亠/兌](えん)は、亠の下に兌。JIS第3水準ユニコード5157

  「楚国(高こう帝置く。宣せん帝の地節(ちせつ)元年、更彭城(ほうじょう)郡為り。黄竜(こうりょう)元年、故(もと)に復す。莽、和楽(わらく)と曰う、徐州に属す)・・・・県七」(『漢書』地理志下)

 われわれにおなじみの楽浪(らくろう)郡・帯方(たいほう)郡なども、その「郡」の一つだったのである。この制度は魏、西晋へとうけつがれた。『三国志』の各列伝の冒頭に、「李典(りてん)、字は曼成(まんせい)、山陽・鉦野(きょや)の人なり」(『魏志』巻十八)といった風の形で書かれているのは、山陽郡鉦野県の出身であることをしめす。また『魏志』の彭城王拠(きょ)伝に「国・郡・県」をめぐる興味深い詔がのせられている。

 「(黄初五年、二二四、文ぶん帝)詔して曰(い)わく『先王、を建て、時に随(したが)って制す。漢祖、秦の置く所の、を増す。光武(こうぶ)に至り、天下損耗(そんこう)せしを以(もつ)て、并(あわ)せて郡県を省く。今を以て之に比すれば、益ゝ(ますます)及ばず。其(そ)れ、諸王を改封して、皆王と為す』 拠、定陶(ていとう)に改封せらる。太和(たいわ)六年(二三二)諸王を改封し、皆を以てと為す。拠、復(また)、彰城に封ぜらる。景初(けいしょ)元年(二三七)、拠、私(ひそか)に人を遣わして中尚方(ちゅうしょうほう)に詣(いた)り、禁物を作るに坐(ざ)し、県二千戸を削らる」(『魏志』巻二十)。

 制度改変の錯綜(さくそう)した記事の間に「郡 ー 県」「国 ー 県」制の存在が明瞭にうかがわれよう。また『宋書』州郡志には、「益(えき)州刺史、漢の武帝、梁(りょう)州を分けて立つ、治する所、別に梁州を見る。二十九、一百二十八を領す。蜀(しょく)郡太守、秦立つ。晋の武帝の太康(たいこう)中、改めて成都(せいと)と曰う。後、旧に復す。五を領す」(『宋書』州郡志四)。

 とあり、州のもとに「郡・国・県」の存在する状況がうかがえる。さらに『隋書』地理志では、「天監(てんかん)十年(五一一、梁武帝)、州二十三・三百五十・千二十二有り。(中略)高祖、終を受け、朝政を惟新(いしん)す。開皇(かいこう)三年(五八三)、遂(つい)に諸を廃す。・・・州を析置(たくち)す。煬帝(ようだい)、位を嗣ぐ。・・・既にして諸州を併省し、尋(つ)いで州を改めてと為す。・・・・大凡(おおよそ)一百九十、一千二百五十五」(『隋書』地理志上)

 とあるように、変改の中にも、“州もしくは郡のもとに県”という制度は代々うけつがれていたようである。

 さて以上のように、中国の「県」制は連綿と連続していた。その長年代の間、臣属・国交をつづけてきた倭国(わこく)側はこの影響をうけないままにきたのであろうか。いいかえれば、この制度だけは敢(あ)えて“とり入れず”に拒否してきたのであろうか。先ず『三国志』の倭人伝について考えてみよう。 「古(いにしえ)より以来、其の使、中国に詣るや、皆自ら大夫と称す」。倭国は周代の「卿けい・大夫たいふ・士」の制度をうけ入れ、その名によって貢献していた。「大夫」とは、当然周代の「のもとにおける制度である。さすれば、“「大夫」を名乗った”ということは、“周の天子のもとにおける「国」”の位置に、みずからの倭国をおいていた、ということの表現であろう(ここで「古」という言葉は「周以前」を意味する。『邪馬一国への道標』参照)。

 次いで志賀(しかの)島の金印。この「漢委奴王印」の「国」とは、当然漢の「郡国制」下の「国」を意味する概念である。少なくとも、中国本土内において、その「国」の下には「県」の存したこと、前述のごとくである。ふたたび『三国志』。卑弥呼が親魏倭王の称号をえたと共に、その配下の難升米(なんしょうまい)・掖邪狗(えきやこ)等は率善中郎将(そつぜんちゅうろうじょう)、牛利(ぎゅうり)は率善校尉(そつぜんこうい)という中国称号を与えられた。すなわち倭国では女王も、その主要な配下も中国式制度の中の称号によっていたのである。

 そして注日すべきこと、それは卑弥呼の使者たちが帯方郡へ往来するとき、帯方郡治(ち)にいたる前に、“幾多の帯方郡内の「県」を通過していたこと”、それは疑う余地がないという点だ。少なくとも「郡 ーー  」の制度は三世紀以降の倭人(の支配層)にとって周知のところであった。そして洛陽(らくよう)に至った難升米たちは当然、その途中「国 ーー 」の制の中を行き、この制を知悉(ちしつ)したのである。

 次に『宋書』。倭王武(わおうぶ)は中国の天子に対して「臣」を称し、「藩」を称し、例の将軍号などの中国式称号を倭王以下、愛用していた。「自称」さえした。ここに及んでも、なおかつ中国式の「県」制度に対しては無関心だったのだろうか。

 以上の状況を総括すれぼ、三世紀以降において倭国がいつ中国式「国 ーー 県」制を模倣し、襲用したとしても、不思議はない。もちろん、必ずしも中国式発音で「県」と呼んだという意味ではないけれども、中国の天子の配下の倭王として「国 ーー 県」制を襲用していた可能性はきわめて高い。そのようにいいうるであろう。そして反面、記・紀のしめすように、“九州において「県」の出現が多く、かつ早い”。このような史料上の痕跡に出会うのである。

 以上のような考察に立ってふりかえれば、“邪馬一国 ーー 九州王朝の故地において、中国風の「国 ーー 県」制(に相当する行政単位)が施行されていた”という、この命題は、実は何の他奇も存しないところなのであった。なぜならこの日本列島を代表する一中心国が“行政制度をもたぬ”ことはありえず、またその行政制度に対して“中国の行政制度が影響していない”そのような状況の方が逆に考えがたいところだからである。

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第三章 九州王朝の風土記 2 古田武彦

 ここで筆を改めて、戦後史学の研究史をふりかえってみよう。なぜなら以上の分析と思惟(しい)の展開は、わたしの目にとってきわめて当然の論理的進行だ。そのように見えているにもかかわらず、旧来の一切の古代史学の学者たちかそのような思考の片鱗(へんりん)さえしめしていない、そのこともまた ーーはなはだ不可思議なことながらーー まさにまかうかたもなき研究史上の事実だからてある。そこで敗戦後、昭和二十年代から三十年代にかけて、日本の古代史学における文献的研究は、どのように基礎づけられ、進行してきたか、その大勢のおもむきとその本質について、ふりかえってみることは、おそらく無意義ではないと思われる。

 敗戦の荒廃いまだ去りやらぬとき、昭和二十六年十一月の「史学雑誌」(六〇 ーー 一一)巻頭を飾った論文、それは若き井上光貞氏による画期的な論文、「国造制の成立」であった。その目次は「はしがき、一、国と県、二、国造と県主(あがたぬし)の関係、三、出雲(いずも)国造について、四、国造制の地域的多様性、むすび」から成っている。氏の論稿の目的は、先の氏の部民論にひきつづき、「国造制の成立を国家成立史の観点からあとづけて見よう」とするにあった、という。そのさい「国の構造に論及しようとする時、こゝに一つの鍵(かぎ)ともなり、また難解の問題でもあるのはかの県の理解である」として、わが国における「県アガタ」の成立に、論及の第一の焦点が定められた。そして次のようにのべる。「七世紀初めには国を上級組織とし、県を下級組織とする、かなり整然たる地方制度が成立していたことを確認してよいとおもうが、今これを仮に国県制と名付けておく」と。ここに「七世紀初め」といったのは、『北史ほくし』倭国伝の記事「有軍尼一百二十人、猶(ごとし)二中国牧宰。八十戸置一伊尼翼、如今里長也、十伊尼翼属一軍尼」が、近畿なる推古朝の事実とほぼ相応する、と考えられたからのようである(この問題については、古田「多元的古代の成立」参照。前出)。

 その上で、国と県とのちがいについて「国が行政区分的存在であるに反し、県には独立小国であり、祭祀(さいし)的、部族的な人的団体であるクニに遡源(さくげん)し得られるものが多い」とし、「大和朝廷の統一の対象とはかくのごとき段階の小国又はその聯合れんごう」であるが、これに対し、「国とは大和国家の支配体制の強化・整備の過程において国家権力により、行政的意図のもとに作られたものではなかろうか」という形でまとめた。

 そして「遅くも七世紀初頭(聖徳太子しようとくたいし摂政の頃)、国・県・邑(むら)の区分をもつ地方行政組織が成立しており、しかもこのような組織は、行政的目的のもとに、権力的に作りあげられた政治的制度なることを論証しようとした」という帰結に至った。その上でさらに、「大化前代の国家は、国権の侵透が充分ではなく、法形成以前の国家であるから、かかる理念が果して全国に貫徹されていたか否か。」という問いを発し、吉備(きび)・美濃(みの)・大和・出雲等、各地各別の特色を有していたことを細説されたのである。

 以上のような氏の縷述(るじゅつ)を通観するに、一方では国県制が大和朝廷の「整然たる地方制度」であることを明確に論断しながら、他方では国と県との淵源(えんげん)する性格のちがいに対して留意する。さらに各地域の先進・後進性等に応じてその実施性格の実際をそれぞれ異にしていたことを、各地の史料に応じつつ、断言を避け、幾多の保留をおきつつ縷述する。このような一面大胆、一面慎重・細心の行文の中には、まさに後年に至る井上氏の研究手法の特質が躍如として貫通しているのを覚える。すなわち全体としては、ぼかしに満ちた背景のもとに、大化前代の大和朝廷中心の国家発展史という骨格(こっかく)、その一点だけは中枢にクッキリと浮かび上らせた一篇の画図、それはまさに若き日の、氏の力作であった。

 敗戦によって戦前の皇国史観という大樹は一夜にして斃(たお)れ、代って津田史学が古代史学の正面に据えられた。だが、“記・紀の神話・説話の史実性を否認する”という、「否定の史学」としての根本性格をもつ津田氏の方法からは、にわかに具体的な古代発展史の実相を描きがたい。そういう困惑の状況下に忽然(こつぜん)と出現した、この井上論文が、名くの後来の研究者にとって、恵みの“導きの炬火”となりえたのは、思うに無理からぬところであろう。その方法上の要点は、
 一に、記・紀の神話・説話の記載はそれ自身では史実とは認めがたい。
 二に、しかしながら、たとえば「国」「県」のごとき記・紀中に出現する述語は、これに対して適切な処理を行えば、「史実」を再現し、構成する礎石として用いうる。
 三に、その「史実」とは、核心において、大和朝廷を中心として各別の各地が統合せられゆく、その具体的な発展史である。
というにあった。各個の細目こそ後来の研究若に委ねられてはいるものの、戦後史学の“全体の土俵”は、ここに井上氏の手によって定められた、そのようにいっても大約、過言ではないであろう。

 爾後(じご)、八年にして、井上論文に再吟味を加えた出色の諭文が現われた。上田正昭氏の「国県制の実態とその本質」(「歴史学研究」二三〇、昭和三十四年六月)がこれである。
 上田氏は井上論文の「劃期的業績」をたたえつつも、幾多の点で井上論文に批判を加えた。先ず『日本書紀』における推古十年(六〇二)より持統元年(六八七)の国造伴造(とものみやつこ)等の名称の列記記事(二十三例を表示)の中に「県主」の存在しない点を鋭くとらえ、井上氏は、氏のいわゆる「国県制」を「遅くとも七世紀初頭」には存在した、としたけれども、右の表示からすれば、当らない。「県」制の成立は、もっと早いことを指摘して次のようにのべられた。「三世紀中葉の卑弥呼の段階より更に県制をテコとして、西日本のクニをより強固に統属していったことが推考される」とうのである。それはもちろん、大和朝廷(近畿天皇家)によってである。

 井上氏の場合、「遅くとも七世紀初頭」(傍点、古田。インターネット上は赤色表示)という表現は、『北史』(『隋書』とほぼ同内容)の倭国伝との“一致”を基点にすえた上での、氏独特の“慎重な言いまわし”であったのであろう。けれども、上田氏の指摘によって、少なくとも記・紀による限り、“七世紀において「県」制は(遺制としての存続の他には)必ずしも強烈に現存してはいなかったのではないか”という、有力な示唆が加えられたのである。

 けれども井上氏とて、「遅くとも」という慎重な表現のしめす通り、県制の成立は“それより遡さかのぼる”べきことが暗示されていたのであるから、この点に限っては、本質的な対立点とはいいがたかった。むしろ両氏の方法と帰結上の明確な差異は、いわゆる「邪馬台国」問題をめぐって現われている。

 井上氏の場合、その論稿の最終節は、実はこの「邪馬台国」問題にあてられている。東大学派伝来の「山門=邪馬台国」説をのべられた上、九州において(書紀に)現われる県が、『三国志』の倭人伝の中の「国」(三十国)と対応している(松浦県・伊
県・儺県・嶺みね県・水沼みぬま県・八女やめ県・上妻かむつま県・崗県等)こと、筑紫の最南に「山門県」のあること、またこの地が神功皇后によって征服されたと記されている点等に、“邪馬台国が大和朝廷に征服され、支配された”ことに対する、一種の示唆をえられたようである。「その物語の事実性はしばらくおこう」という慎重ないいまわしながら、論の帰趨(きすう)は右のごとくだ。

 これに対して上田氏は、小林行雄氏による三角縁神獣鏡と鍬形石(くわがたいし)の分布図を強力な武器とされた。みずから(上田氏)作製された県・県主分布図と右の小林氏の作られた「西方型鏡群及び鍬形石分布図」とが一致する、と主張し、この点から先の「三世紀の卑弥呼の段階より・・・・推考される」という鮮明な帰結へと向われたのである。その論述は次のようだ。

 「邪馬台国の段階から西日本のクニと倭政権の間にはある種の統属関係があったが、その場合でも在地の官は特種のものを除いて在地首長がなっていた。それらのクニの首長が県主としてまず編成される。これがいわゆる畿内の県(第1次的ママ)なものに対する第2次的な県に他ならない。前に詳述した北九州諸地方の県主をめぐる関係伝承の諸特徴は、このことにもとづくと思われる」

 同じく「国県制」といっても、九州説の井上氏と近畿説の上田氏と、その出発点(三世紀)に対する認識を異にする。ここに「邪馬台国」問題についての、東大(九州説)対、京大(近畿説)の対立図式がそのまま日本の国家成立論争、行政制度発展論争に刻印された、その様相がハッキリと認められるのである。

 以上が両氏の説の大観だ。細部について幾多の論点が残されているけれども、その大約は右のようである。これに対して今わたしの、熟読して不審とせざるをえぬところ、それは両氏の差異点には非(あら)ず、「共通の、自明の土俵」とされたところにある。なぜか。

 先ず井上氏の依拠された「県」の文献上の分布表をしめそう。

畿 内  倭 菟田(又菟田下 神武紀)葛城(推古紀)春日(綏靖紀)磯城(綏靖記・同紀・安寧紀・懿徳紀、孝昭紀・孝安紀・孝元紀)高市(神武紀・天武紀)猛田(神武紀)層富(神武紀)十市(孝安紀)山辺(延喜式祝詞)

    山代 栗隈(仁徳紀)鴨(姓氏録天平元年貢進解)

河内  河内(安閑紀)茅淳(崇神紀・雄略紀)三野(清寧紀・延喜式神名帳)志貴(安康紀・延喜式神名帳)三島(安閑紀)猪名(仁徳紀)紺口(姓氏録)

東海道 伊勢 度逢(神功紀)佐那(神代記・開化記・儀式帳)川俣(儀式帳・続日本後紀)安濃(儀式帳)壱志(儀式帳)飯高(儀式帳)
   尾張 年魚市(万葉集)
東山道 近淡海 犬上(姓氏録)
    牟義郡 (延喜式神名帳、大宝二年戸籍)
山陰道  (不明) 丹波(開化記)
北陸道 三国 坂井(釈日本紀述義九上宮記)
山陽道 吉備 上道(応神紀)三野(応神紀)織部(応神紀)磐梨(姓氏録)川嶋(応神紀)苑(応神紀)波区芸(応神紀)仲県(三代実録)
    周防 沙麼*(神功紀)
南海道 讃岐 小屋(日本霊異記)
西海道 筑紫 儺(仲哀紀)伊
(仲哀記・神功紀)崗(仲哀紀)水沼(景行紀)山門(神功紀)八女(景行紀)上妻(公望私所引筑後国風土記)浦(景行紀・神功紀)嶺(雄略紀)
     豊 長狭(景行紀)直入(景行紀)上膳(公望私所引筑後国風土記)
     火 高来(景行紀)八代(景行紀)熊(景行紀)佐嘉(肥前風土記)
    日向 諸(景行紀)子湯(景行紀)
(不明)対馬(又は上・下に分つ 神代紀・顕宗紀)壱岐(顕宗紀)加士伎(正倉院文書)曾(正倉院文書)
娑麼*(さば)の麼*は、麼(ば)の別字。JIS第4水準ユニコード9EBD
  「県の分布表」井上光貞「国造制の成立」史学雑誌 第60編第11号、昭26・11月

ここで注目すべきもの、それは“「県」の量”だ。ベスト四をあげれぼ、左のようである。
第一位 ーー 西海道 二十二例
第二位 ーー 畿 内 十八 例
第三位 ーー 山陽道 九 例
第四位 ーー 東海道 七 例

 

 これに対して上田氏も「県・県主名を記すもの」として、左の表をあげておられる。

県・県主名を記すもの

畿 内 倭 =菟田(神武紀)春日(綏靖紀)猛田(神武紀)層富(神武記・正税帳・続日本紀・三代実録)山辺(続日本紀・神名帳・三代実録)十市(孝霊記・同紀・正税帳・神名帳・三代実録)高市(神代記・天武紀・神名帳・式祝詞・三代実録)磯城(綏靖記・懿徳紀・神武紀・綏靖紀・安寧紀・懿徳紀・孝昭紀・孝安紀・孝元記・天武紀・正税帳・三代実録)葛城(推古紀・神明ママ帳・式祝詞・三代実録)
    山代=鴨(続日本紀・貢進解・姓氏録)栗隈(仁徳紀)
    河内=茅淳(崇神紀・雄略記・続日本紀・霊異記・三代実録)河内(安閑紀・姓氏録)三野(清寧紀・神名帳)志貴(雄略紀・神名帳・姓氏録・三代実録)猪名(仁徳紀)紺口(姓氏録)
    摂津=三島(安閑紀・続日本紀・正税帳)

東海道 伊勢=川俣(儀式帳・続日本後紀)安濃(同上)壱志(同上、続日本紀)飯高(儀式帳・続日本記ママ)雲逢(神切ママ紀)佐那(神代記・開化記、儀式帳)
    尾張=年魚市(万葉集)丹羽(続日本後紀・神名帳)
東山道 近江=犬上(姓氏録)
    美濃=鴨(大宝戸籍・神名帳)
山陰道 ー 丹波=丹波(開化記)
北陸道 ー 三国=坂井(釈日本紀述義・上宮記)
山陽道 ー 吉備=川嶋(応神紀)上道(同上)織部(同上)三野(同上)織部(同上)苑(同上)波区芸(同上)仲(三代実録)磐梨(姓氏録)
     周防=沙麼*(神功紀)
南海道 ー 讃岐=小屋(霊異記)
西海道 ー 筑紫=儺(仲哀紀)伊
(仲哀紀・神功紀・筑前国風土記・筑紫国風土記)崗(仲哀紀・筑前国風土記)八女(景行紀)山門(神功紀)水沼(景行紀)上妻(筑後国風土記)嶺(雄略紀)松浦(景行紀・神功紀・万葉集)
    火 =高来(景行記)八代(同上)熊(同上)佐嘉(肥前国風土記)閼宗(筑紫国風土記)
    豊 =直入(景行紀)長峡(同上)上膳(筑後国風土記)
    日向=諸(景行紀)子湯(同上)
    薩摩=曾(正税帳)加土伎(同上)
    対馬=対馬(神代記・顕宗紀)
     壱岐=壱岐(顕宗紀)
その他 ー 常陸 =茨蕀(常陸国風土記)新治(同上) = (但し郡と混用のもの)

 上田正昭「国県制の実態とその本質」歴史学研究No.230 一九五九・六

 ここでも
  第一位 ーー 西海道・・・二十三例
  第二位 ーー 畿 内・・・十八例
  第三位 ーー 山陽道・・・十 例
  第四位 ーー 東海道・・・八 例
となっていて、大異はない。


 そこでわたしの問い。それは“「県」が近畿天皇家下の行政制度であったとしたら、なぜ畿内が「県の最多密集地」でないのか”という一点だ。この表を外国の学者に見せた、としよう。“先入見をもたない学者”という意味だ。誰人かあって、この表から“「県」は近畿の権力を原点とする行政制度”という帰結を実証的に、帰納的に引き出せるだろうか。到底引き出せはしない。

 井上・上田両氏が、論の他の(「邪馬台国」の位置論のごとき)対立点にもかかわらず、右のように権力中枢としての“近畿原点”説を共同して信じえたのはなぜか。明らかに“この表がかかげられているにもかかわらず、この表からではなかった”のである。すなわち両氏の“脳裏”にあらかじめ一定の先入見、すなわち「近畿天皇家のみが日本列島における唯一の統一権力でありえた」という命題があり、その“観念”から、右の表を“使って”説明を加えつづけてゆかれたのであった。

 たとえば上田氏の場合。小林氏の分布図では、当然ながら(山城やましろの椿井大塚山つばいおおつかやま古墳出土鏡などによって)近畿が三角縁神獣鏡の圧倒的な出土量をしめし、その原点たるべき形をしめしている。ところが、先の「県・県主名を記すもの」の表では“近畿より九州の方が多い”のであって、肝心の中心点が一致していないのである。

 また三角縁神獣鏡は壱岐(いき)・対馬(つしま)には出土しないが、県・県主の方は先の表のしめす通りだ。現在ですら「上県郡・下県郡」の名で対馬は呼ばれている。ここでも一致しない。

 また小林氏の三角縁神獣鏡分布図中、一方の西方型鏡群のみが比較対象とされ、他方の東方型鏡群の分布図は、なぜ「『延喜式えんぎしき』までの古文献に見える、県乃至(ないし)県主の実態」との対応が説かれないのか、不明である。

 さらに「県及び県主群」の場合、九州でも“東南岸(日向)・南岸(薩摩)・西岸(肥後)より筑後・末松盧(まつろ)にかけて”によく分布しているのに対し、三角縁神獣鏡はこれに一致しない。むしろ東北部(豊前ぶぜん・豊後ぶんご)・北部(博多湾岸)等に出土しているのである。この点に対し、上田氏は「県制が九州南部にみられるのは、その後更に南征してゆく過程で拡大したものである」と解説しておられるけれども、三角縁神獣鏡の分布図は四〜六世紀のすべてにわたって出土した全時代の分布図であるから、右のような氏の解説は、遺憾ながら“不当の遁辞とんじ”にすぎないといわねばならぬようである。


 当時「歴史学研究」の誌上に発表された上田論文、それは昭和三十四年という時点では、小林氏の考古学上の「定説」的理論との対応を説く点においても、新しき古代史学の旗手と見えていた。しかしながら今その論点を実証的に再検証すると、失礼ながら意外にも論証上の問題点が目立つのをいかんともしがたいようである。

 この点、批判せられた側の井上論文においても例外ではない。“書紀の景行・神功等の説話に出現する「〜県」が倭人伝の「三十国」の地名と対応する”という点に鋭く着眼された。ところが、「最初の筑後山門郷論者星野恒博士がはじめて論及したタブラツヒメの物語のごときも(神功紀)、なんらの顧慮にも値いしないとは思わない」というように「物語」の一語に傍点(傍点は井上光貞氏。インターネット上は赤色表示)を付して、“説話・即史実”の立場ではないことをほのめかしながらも、結局“大和朝廷の北九州支配”という史実の大筋を読み取ってゆく、という手法、これはクールな目で見つめれば、“「大和朝廷の統一」という第一前提にあわせて、説話を取捨する手法”、そういえば過言であろうか。そのさい“「県」をしめす史料が近畿より九州に多い”という基本の史料事実からは“目をそらして”しまうこととなっている。ましてその“「県」史料を多量にふくむ景行・神功・仲哀等の説話自身に対する史料批判”、いいかえれば“当史料の原初性格への厳格な批判”という、その一点を欠如していること、これが両氏の研究の根本の欠陥といわざるをえぬ。

 思えば両氏とも、戦前の皇国史観の横溢(おういつ)する時代に教養の基礎を形成された。そして戦後、それを否定するかに見えた津田史学をもって研究思想の基礎におかれたものと思われる。しかしながら一面では記・紀の神話・説話に対する容赦ない批判と見えた津田史学の中に、戦後津田左右吉氏自身によって明らかにされたように、天皇家中心主義思想が牢固として核心に存在した。その事実をわたしたちは疑うことができない(津田左右吉「建国の事情と万世一系の思想」 ー 「世界」昭和二十一年四月号、参照)。そして井上・上田両氏とこれを継いだ戦後史学もまた、そのような津田史学の「核心」を固守して現在に至っていたのであった。

 しかしながら、そのような研究史上の迂路(うろ)も、すでに終りの帳(とばり)があがるべきときが近づいた。不遜(ふそん)ながらわたしにはそう思われる。なぜなら、昨日は、両氏とも記・紀に現われた「九州最多をしめす、県・県主の分布」に対し、純粋に実証的、かつ帰納的に処理することができなかった。同時に、今日は、B型の「郡風土記」に先立つ、A型の「県風土記」なるものが、奇(く)しくも九州にのみ先在するという史実、その史料事実に対し、井上通泰氏より坂本太郎、秋本吉郎、田中卓氏等に至るまで、いずれも的碓な解決を与えられえなかった。なぜか。他に理由はない。“近幾天皇家一元主義”の旧見にとらわれ、“近畿天皇家に先在した九州王朝の実在”。この根本テーマを欠如していたからである。

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 よみがえる九州王朝 幻の筑紫舞 角川選書

第三章 九州王朝の風土記 3 古田武彦

 最後にA型の「県風土記」のすべてを左にしめそう(ぺージ数は岩波古典文学大系による)。
(一)塢舸水門(おかのみなと 筑前国)
「風土記に云はく、塢舸の県。県の東の側近、大江口有り、名づけて塢舸水門と曰う。大舶(おおふね)を容(い)るるに堪えたり。彼より島・鳥旗(とはた)の澳(うみのくま)に通う。名づけて岫門(くきど)と曰う。鳥旗は、等波多(とはた)なり。岫門は久妓等(くきど)なり。小船を容るるに堪えたり。海中、両小島有り。其の一は河[白斗](かご)島と曰い、島に支子(くちなし)を生ず。海に鮑魚(あわび)を出(いだ)す。其の一は資波(しば)島と曰う。資波は紫摩(しば)なり。両島倶(とも)に烏葛(つづら)・冬菖*(薑 ハジカミか)を生ず。烏葛は黒葛(つづら)なり。冬菖*は迂菜なり
(『万葉集註釈』巻第五、五〇一ページ)
菖*は、草冠に苗*。苗*は、JIS第4水準ユニコード7550 表示できない。

(二)杵島山(きしまのやま 肥前国)
「杵島の県。県の南、二里、一孤山有り。坤(ひつじさる)より艮(うしとら)を指して三峰相連なる、是れ名づけて杵島と曰う。坤は比古(ひこ)神と曰ひ、中は比売(ひめ)神と曰ひ、艮は御子(みこ)神と曰う。一に軍(いくさ)神と名づく。動けば則ち兵興(おこ)る。郷閭(きょうりょ)の士女、酒を提(たづ)さえ、琴を抱き、毎歳春秋、携手(けいしゅ)して登望し、楽飲歌舞し、曲尽きて帰る。歌詞に云う、
 あられふる 杵島が岳(たけ)を 峻(さか)しみと 草採りかねて 妹が手を採る。是は杵島曲(きしまぶり)
(『万葉集註釈』巻第三、五一五ぺージ。読解は、漢文体の文形を、重視した。)

(三)閼宗岳(あそのたけ 肥後国)
「筑紫の風土記に曰く、肥後の国閼宗の県。県の坤、廾余里に一禿山(とくざん)有り。閼宗岳と曰う。頂に霊沼有り、石壁、垣を為す。計るに縦五十丈、横百丈なる可し。深さは、或は廾丈、或は十五丈。清潭百尋(せいたんひゃくじん)、白緑(びゃくろく)を鋪(し)きて質(そこ)と為す。彩浪五色、黄金を[糸亙](は)えて以て間を分つ。天下の霊奇、[玄玄](こ)の華に出づ。時々水満ち、南より溢流(いつりゅう)して白川に入る。衆魚酔死し、土人苦水と号す。
 其の岳の勢為(た)るや、中天にして傑峙(けつじ)し、四県を包(か)ねて基を開く。石に触れ雲に興(おこ)し、五岳の最首たり。觴(さかづき)を濫(うか)べて水を分つ、寔(これ)に群川の巨源。大徳魏々(ぎぎ)、諒(まこと)に人間の有一。奇形沓々(とうとう)、伊(これ)天下之無双。地心に居在す。故に中岳と曰う。所謂閼宗神宮、是なり
(『釈日本紀』巻十、五一七〜五一八ぺージ)
[糸亙](は)は、第四水準ユニコード7D5A

(四)水嶋(みずしま 肥後国)
「風土記に云う、球磨(くま)の県。県の乾(いぬい)、七里、海中に嶋有り。積、七十里なる可し。名づけて水嶋と日う。嶋に寒水を出(いだ)す。潮に逐(したが)ひて高下すと、云々」
(『万葉集註釈』巻第三、五一九ページ)

(五)芋眉*野(うみの 筑前国)
「筑紫の風土記に曰わく、逸覩(いと)の県(あがた)。子饗(こふ)の原。石両顆(りょうか)あり。一は片長一尺二寸、周は一尺八寸、一は長一尺一寸、周一尺八寸なり。色白くして[革更](かた)く、円きこと磨成せるが如し。俗伝えて云う、息長足比売命(おきながたらしひめのみこと)、新羅を伐(う)たんと欲し、軍を閲するの際、懐娠(かいしん)(ようや)く動く。時に両石を取りて裙腰(もこし)に挿(さ)し著(つ)け、遂に新羅を襲う。凱旋の日、芋眉*野に至り、太子誕生す。此の因縁有りて芋眉*野と曰う。産を謂いて芋眉*と為すは、風俗の言詞のみ。俗間の婦人、忽然(こつぜん)として娠動(しんどう)すれば、裙腰(くんよう)、石を挿(さしはさ)み、厭(まじな)ひて時を延(の)べしむ。蓋(けだ)し此に由(よ)るか」
(『釈日本紀』巻十二、五〇〇ページ)
[革更](かた)は、JIS第3水準ユニコード9795
眉*は、三水偏に眉。36E44

(六)磐井君(いわみのきみ 筑後国)四十
「筑後国風土記に曰く、上妻(かむつま)県。県南、二里。筑紫君、磐井の墓墳(ぼふん)有り。高七丈、周六十丈、墓田、南北各六十丈、東西各冊(表示は四十)丈。石人・石盾、各六十枚。交陣、行を成して四面を周匝(しゅうそう)す。東北の角に当りて一別区有り。号して衙頭(がとう)と曰う。衙頭は政所(せいしょ)なり。其の中に一石人有り。縦容(しょうよう)として地に立つ。号して解部(ときべ)と曰う。前に一人有り。[身果]形(らけい)にして地に伏す。号して偸人(とうじん)と曰う。生けりしとき、猪を偸(ぬす)むを為す。仍りて罪を決するに擬す。側に、石猪四頭有り。臓物(ぞうぶつ)と号す。臓物は盗物なり。彼の処(ところ)も亦(また)、石馬三疋(びき)・石殿三間・石蔵二間有り。
 古老伝えて云う、雄大迩(おほど)の天皇の世に当り、筑志の君磐井。豪強暴虐、皇風に偃(したが)わず。生平の時、預(あらかじ)め、此の墓を造る。俄(にわ)かにして官軍動発し、襲わんと欲するの間、勢の勝たざるを知り、独り自(みずか)ら豊前の国、上膳(かみつけ)の県に遁(のが)れて、南山峻嶺の曲(くま)に終る。是(ここ)に於(おい)て官軍追尋して蹤(あと)を失い、士、怒り未(いま)だ泄(や)まず、石人の手を撃(う)ち折り、石馬の頭を打ち堕(お)としき。
 古老伝えて云う、上妻の県、多くは篤疾有りき、と。蓋(けだ)し[玄玄](これ)に由(よ)るか」
(『釈日本紀』巻十三、五〇七〜五〇八ページ)

(七)[巾皮]揺岑(ひれふりのみね 肥前国)
「肥前の風土記に云う、松浦の県。県の東、三十里、[巾皮]揺岑有り[巾皮]揺は比礼府離なり。最頂に沼有り。計るに半町なる可し。俗伝えて云う。昔は、桧前(ひのくまの)天皇の世、大伴の紗手比古(さでひこ)を遣わし、任那(みまな)国を鎮(しづ)む。時に命を奉じて此の墟(おか)を経過す。是に於て篠原(しのはら)村 篠は資濃(しの)なり。に娘子(おとめ)有り。名づけて乙等比売(おとひめ)と曰う。容貌(ようぼう)端正にして孤(ひと)り国色為(た)りき。紗手比古、便(すなわ)ち娉(よば)ひて婚を成す。離別の日、乙等比売、此の峯に登望し、[巾皮](ひれ)を挙げて揺招(ようしょう)す。因りて以て名と為す」
(『万葉集註釈』巻四、五一六べージ。文字、『万葉緯まんようい』による)
[巾皮]は、JIS第3水準ユニコード5E14

(八)御津柏(みつのかしわ 不明)
「筑紫風土記に曰く、寄柏は御津柏なり」(『釈日本紀』巻十二、五二八ページ)

(九)木綿(不明)「アサヲバナガユフ(長木綿)ト云フ。ナガキガユヱ也。マヲ(真苧)ヲバミジカユフ(短木綿)トイフ。筑紫風土記ニ、長木綿・短木綿トイヘルハコレ也」(『万葉集註釈』巻第二、五二九ぺージ)

 右の「A型の風土記」は「九州王朝で作られた風土記」を原型としている。その純粋な形をとどめているものが、(一)(二)(三)(四)の四者である(第一式)。
 これに対し、「九州王朝で作られた風土記」に対して後代(近畿天皇家側)の手が加わっているものが(五)(六)(七)の三者である(第二式)。
 また(八)(九)は、断片のため、「県」の表記は出ていないけれども、『筑紫風土記』なる一書の存在したことをしめす史料である(第三式)。
 今、第二式について吟味を加えよう。
 先ず、(五)は先に対照したように、もう一つの同類の別形がB型の「郡風土記」に存在するから、木来A型の風土記に属したことは当然であるが、近畿天皇家側の人物(息長足比売命)が出現しているから、これを第二式に入れる。(「太子」の用語等が、後代の手として、問題となるかもしれぬ。ただ彼女が九州王朝側の文献に出現すること自体は何ら不思議ではない。「神功皇后架空説」という津田史学の命題は不当である。神功説話も、『古事記』の形が原形、『日本書紀』の形が改作形である。この点、『盗まれた神話』にのべた。他の点は機を改めて詳述する。なおこの(五)の説話は前者〈原形〉と対応しうる)。
 (五)末の訓読上の間題点にふれておきたい。岩波古典文学大系本では、
「俗間(よ)の婦人(おみな)、忽然(たちまち)に娠動(はらのうご)けば、裙(も)の腰(こし)に、石を挿(さしはさ)み、厭(まじな)ひて時を延(の)べしむるは、蓋(けだ)しくは此(これ)に由(よ)るか」

と読んでいる。この読みでは、“現在の俗間の女性たちが、裙の腰に石を挿さむのは、神功の故事を模倣したもの”の意となる。
 けれども、原文は、
「俗間婦人 忽然娠動 裙腰挿石 厭令延時 蓋由此乎」
であるから、そのすなおな読みは、先記のようであろう。この場合は、“神功の所為といわれているものは、実は糸島地方の俗間の婦人の習慣に従ったものなのだ”の意となろう。文法的には「此に由る」の「此」が何をさすか、であり、直前の「俗間の婦人・・・・厭ひて時を延べしむ」をさすと見なす方が自然であろう。
 ここにも“現地(糸島)習俗中心”の原文を“近畿(神功)中心主義”の目で読み変えてきた姿が見られる。

 次に、後代加削の手がもっとも明瞭に現われているのが(六)である。すでに『失われた九州王朝』でのべたように、この文章全体は磐井の君に対してきわめて“同情的”である。「独り自ら・・・・南山峻嶺の曲(くま)に終る」とのべ、「石井を殺すなり」(『古事記』)・「遂に磐井を斬(き)り、果して彊場(きょうえき)を定む」(『日本書紀』)といった“斬殺ざんさつ”の記載を“避けて”いる。逆に「石人の手を撃ち折り、石馬の頭を打ち堕(おと)おとしき」という表現には、近畿側の“暴虐”ぶりが生き生きと活写されている。
 ところが、その中に突如「雄大迩の天皇の世に当り、・・・・皇風に偃(したが)はず」という一文が唐突に挿入されている。ここでは、右のトーン(文調)とはうって変り、“大義名分上、磐井は暴虐だ”とする。「皇風」というイデオロギーに立つ、公的な“PR”が強調されているのである。このような相矛盾した方向をもつ二文が、同一の筆者の手で書き連ねられることは、解しがたい。すなわち、本来筑紫側の視点に立って書かれていた文面に、後代、近畿天皇家側官僚の「改作の手」が加わったもの、わたしはそのように解したのである。
 このときは、わたしはまだ到達していなかった、このような変調の真の原因が何であるかに。ただ文章そのものの伝えてくるニュアンスから、右のように解しただけであった。ところが果然、右の分析が偶然でなかったのを知ったのである。すなわち「九州王朝側の手で作られた風土記」に対し、後代、近畿天皇家側の改竄(かいざん)」の手が加えられた、これは露骨な証拠史料だったのである。

 またこのさい(六)の「雄大迩の天皇の世に当り」という一句のもつ意義に注意しておきたい。これは当然ながら、近畿天皇家側の方式による“絶対年代のしめし方”である。この点、次の(七)の例の場介は、いわばこのような“絶対年代のしめし方”のみが単独に挿入された例、いわばこの形式の“純粋例”である。なぜなら(六)の場合は、当然、以下の磐井の君の説話に「雄大迩の天皇」が実質的に関係している。しかし、一般に(七)のような場合、説話自体に“近畿天皇家の実質的な影響”があるとは限らないのである。これを現代の例でのべよう。
 「白村江の戦は六六三年に行われた」
という一文があった、とする。この「六六三」とは、西暦だ。つまりイエスが生れた時点を紀元としたキリストキリスト暦である。けれども、別段東アジアの白村江の戦に対して、キリスト教もイエスも、何一つ実質的な関係をもっているわけではない。ただ「純対年代のしめし方」にすぎない。これと同じだ。
 右の(七)の文は、そのような「絶対年代」を“近畿天皇家の手”でしめしたものである。これを“「大伴の紗手比古」の派遣者が近畿天皇家であることをしめす史料“”と、断じてはならないのである。
 この点、風土記全般(B型をふくめ)を解明する上で、重要な手がかりの一つであるけれども、今はこれ以上立ち入らない。ともあれ、(七)は単純な(それゆえ純粋な)例であるけれども、これもまた「後代の手」の加わった事例の一つである。
 以上、九例。出現史料は決して多いとはいえないけれども、近畿天皇家によるB型風土記に先在した「九州王朝の風土記」、その存在をしめす、いずれも貴重な史料群である。

 「二つの風土記」問題の掉尾(とうび)、それは「『日本書紀』の作者の目」である。
 「二つの風土記」 ーーこれは、一見“斬新ざんしんな”テーマと見えるかもしれぬ。しかし実は“『日本書紀』の著者自身がこの立場に立っていた”といったら、読者は意外に思われるであろうか。
 実は履中紀に次の記事がある。
 「(履中四年)始之於諸国国史、記言事四方志」(始めて諸国に於て国史を置き、言事を記して四方の志を達す)

 この記事の構文の基礎は中国の古典にある。
 A「周礼、有史官。掌邦国四方之事。達西方之志。諸侯亦各有国史」(周礼、史官有り。邦国の四方の事を掌り、四方の志を達せしむ。諸侯亦、各国史有り(杜預とよ『春秋左氏伝序しゅじゅうさしでん じょ』)
 B「諸国皆有吏。以記事」(諸国皆、史有り。以て事記す)(『史記正義しきせいぎ』周本紀)
 C「左史記言、右史記事」(左史、言を記し、右史、事を記す)(『漢書』芸文志)

 これらの典拠はすでに岩波古典大系本『日本書紀』上(六三一ページ 補注一〇)にしるされている。その上で次の解説が見られる。
 先ず、「国司」は、「諸国に置かれた記録をあつかう官、すなわち書記官の意」とのべたのち、
 「ふつうこの記事は、五世紀において政治上に記録の法が利用されはじめたことを示すものとされるが、津田左右吉(つだそうきち)は、『国』という地方行政区画が画一的に定められた、大化改新以後に考えられたもので、書紀が履中紀にこの記事をあてはめたのは、応神朝に文字の伝来を記したことによるとする。なおこの記事をもって風土記の如きものを上進せしめたあと解する説が、平田篤胤(ひらたあつたね)の古史徴解題記(こちょうかいだいき)、標註・通釈などにみえるが、史官の職掌を説明した『達四方志』という中国典籍によった文字に拘泥したもので、正しい解釈とはいえない」(『日本書紀』上、六三ぺージ、補註一〇)

とのべられている。つまりこの記事は、“後代(大化改新以後)の造作”であって、史実とは関係がない、という津田史学の立場である。この岩波本は、井上光貞氏が「全体の総括的な整理統一」を行っておられるのであるから、戦後古代史学の“正統的な定説”によって解説されている、といってよいであろう。
 以上のような立場から、この記事は風土記成立論上、“無視”されることとなった。ために高校の教科書の資料集などにも、一切姿を現わさない。これに代って先にあげた「和銅わどう六年(七一三)の詔」(『続日本紀』元明げんめい天皇)の、
 「畿内七道の諸国の郡郷の名は好字を著けよ。其の郡内に生ずる所の・・・・亦宜しく言上すべし」

の記事(先出)が、もっぱら風土記成立の基本史料、とされるに至ったのである。
 けれども今、目を“書紀の著者の立場”につけ、じっと見つめてみよう。そうすると、少なくとも書紀の著者は、“二つの風土記”の立場を主張していることがわかるであろう。なぜなら養老四年(七二〇)に成立した書紀の著者にとって、七年前の風土記撰進の詔は、自明の事実であった。それは著者にとってだけではない。書紀の読者(近畿を中心とするインテリ)にとってもまた、自明の事実であった。なぜなら“目下、その詔にもとづいて、各地で「B型の郡風土記」作製作業、もしくはその前段階をなす準備作業の真最中”だったからである。
 このような現在(八世紀初葉)時点の視野に立って、書紀の履中紀の「始之(始めて)・・・・」の一文を解さねばならぬ。ここで著者がいおうとしているのは、“今作っている風土記は「始めて」ではない、二回目だ。「始めて」の方は、「履中天皇の治世」だった”という事実なのである。つまり“昔より今まで、風土記撰進のことは二回あった”という主張がなされていること、それをわたしたちは疑うことができない。いいかえれば、“現在進行中の「B型の郡風土記」の前に、すでに「古式の風土記」が存在していた”ということを“既明の事実”と見なした上で、その年代を“履中四年にあてた” ーーそれが書紀の仕事の意味なのである。
 これに反し、右のような「古式の風土記」の存在が一切空無であり、当代(八世紀初葉)の読者の脳裏にも、全く存在しないものであったならば、右の記事自体が無意味となろう。少なくとも、“しかしながら、それはかくかくのとき焼亡して消失した”という類の記事が必要となろう。たとえば、
  「皇極(きょうごく)四年、六四五、六月)蘇我臣蝦夷(そがのおみえにし)等、誅(ちゅう)に臨み、悉(ことごと)く天皇記・国記、珍宝を焼く船史恵尺(ふねのふひとえさか)、即ち疾(と)く焼かるる国記を取りて中大兄(なかのおおえ)に奉献す」(皇極紀)

の「天皇記」焼失記事を見ても、容易に察しうるところであろう。ところが、そのような消失記事は一切ない。ということは、やはり、右のような“現在作製(準備)中のB型風土記”に先行する「古式風土記の存在」は、書紀の編者と読者との間の、共同の了解事項であった。そのように考えるほかないのである。
 ことの道理は、右のようだ。そして現実に、わたしたちの眼前に「B型の郡風土記」に先行する、「A型の県風土記」が存在するのをわたしたちは知っているのである。
 これに対し、平田篤胤や秋本吉郎氏(岩波本『風土記』解説)のように、これを“近畿天皇家がA型の県風土記を撰集せしめた”証拠史料と見なすことができるであろうか。 ーー否。
 なぜなら、もしそうであったなら、「A型の県風土記」は全国各地に存在しなければならない。少なくとも近畿や瀬戸内海になくて、いきなり“九州だけ”というのでは、近畿天皇家を原点とする限り、およそ“恰好(かっこう)がつかない”ではないか。そこで津田氏が行ったように、一刀両断、この記事を「造作」視して消し去って“サッパリ”する方か早かったのてある。 ーーそしてその結果、研究史上の現況のしめすように、「A型の県風土記」の素性は“宙に浮いて”しまうこととなったのである。
 以上のような混線の原因、それはもはや明らかであろう。なぜなら、この履中四年の記事もまた、『古事記』(履中記)には全く姿を見せないからである。
 これは「景行の九州大遠征」などに比べれば、微々たる一節であるかに、あるいは見えるかもしれぬ。しかし実はさに非ず、なぜかといえば、これは“天皇家が各国に史官をおき、記録を行わしめた”という、歴史上重大な記載だ。景行の九州大遠征が“武の一大壮挙”であれば、こちらは疑いもなく“文の一大壮挙”である。これがあるのとないのとでは、えらいちがいだ。
 では、どちらが原型で、どちらが後代の加削型か。この問いに対するわたしの答えは、先の公理に立つ限り、一点の疑いの余地もない。ない方の『古事記』が原型、ある方の書紀が「後代の加削型」である。
 では、書紀はどこからもってきて挿入したか。これも先述来の論証のしめすところ、他にはない。 ーー九州王朝の史書(「日本旧記」)からである(『盗まれた神話』参照)。
 書紀の著者の手法は、“自由に脳裏で説話を空想し、創作する”そういった「手口」ではなかった。他から“盗とって”きて、挿入する、そういうやり方だったのである。「景行の九州大遠征」譚のしめすように、たとえそれが「木に竹をついだ」ように見えるときにおいても、“矛盾に対して、空想のセメントでぶ厚く逢合する”そのようなやり口は必ずしもしめされていないのである。
 こうした、先例をなす手法から見ると、やはり右の帰結しかない。
 ここでかえりみるべき一つの徴証がある。それは最初に風土記の研究史をのべたさい、「A型の県風土記」について、諸家しきりに、
「文章の全体に於いて支那風の文飾の多いこと ーー多少時代か古くとも、有能な官吏を擁した大宰府にこれだけの漢文のできる人がゐなかつたとは考へられぬ」(坂本太郎氏)
 「大宰府において、漢学に熟達せる人物の手によつて撰進せられたものであらう」(田中卓氏)
といっていた。和文調のB型に対して、たしかにA型は、いちじるしく漢語調なのである。いやむしろ“格調高い漢文”といっても過言ではない。たとえば、あの阿蘇山の文でも、
  清潭百尋 鋪白緑而為
  彩浪五色 [糸亙]黄金以分
  天下霊奇 出[玄玄]華矣。
[糸亙](は)は、第四水準ユニコード7D5A。

といった風に、典雅厳正の構文を形造っているのである。
 さて今、風土記撰進の「二つの構文」を比べてみよう。「B型の郡風土記」の成立の発端をなした和銅六年の詔が、まさに和文調。むしろ“和文を漢文風の配置に手直ししただけ”といった文脈であるのに対して、問題の履中四年の風土記撰進の文は、先にしめしたように、まさに中国古典を背景にした典雅厳正の構文であるのを見出すであろう。
 思い出してほしい。倭王武の上表文がいかに見事な構文でつづられていたかを。先述来の論証のしめすごとく、あの倭王武は五世紀末から六世紀初頭にかけての九州王朝の主であった。とすれば、それを継ぐ時期において(後述)、このような典雅にして格調高い文脈が構成される、それは決して不思議とすべきことではなかったのである。
 履中四年の記事を一刀両断に消し去って足れりとしてきた、「定説」派の戦後史学、それはあまりにも強引だった。今後は、より緻密(ちみつ)な史料批判が必要だ。もっとソフトな、そして条理正しい処理の方法をもって問題の史料を分析する、そのような歴史学の研究法によって交替されねばならぬ、すでにそのような日々が近づいているのではあるまいか。

 最後の問いを立てよう。
“では、「A型の県風土記」はいつ作られたか”と。この問いに答えることはむずかしい。けれども全く扉が開かれていないわけではない。 第一に明瞭なこと、それは磐井の滅亡(五三一、『失われた九州王朝』第四章I 参照)以後であることだ。これは「A型の県風土記」の史料(六)から見て疑いない。
 第二は、書紀の「履中四年」がなぜえらばれたか、という点だ。津田左右吉は“「応神期の文字伝来」以後“”という点に、その理由を求めたが、それではなぜ、仁徳期に非ず、また「履中元年」などに非ず、この「履中四年」にあてたか、この問いには答えることができない。
 この場合、ポイントは「干支」である。“「原史料の干支」をもとにして、ここ(履中四年)にあてはめた”というケースだ。この“干支によるズレ”問題は、神功紀の七枝刀(しちしとう)問題などですでに研究史上著名である。
 履中四年(四〇三)の干支は「癸卯みずのとう」だ。その後の「癸卯」を列記してみよう。
 下表の中で、(A)グループは、右の第一の理由で、当然駄目だ。また「九州王朝の風土記」という視点からは、(C)グループも不可である(それにここは、『続日本紀』の対象時代である)。

「履中4年」干支のズレ  九州王朝の風土記 よみがえる九州王朝 古田武彦

「履中四年」(癸卯)干支のズレ(候補)
      近畿天皇名
(A) ーー 463 (履中)
(A) ーー 523 (継体)
(B) ーー 583(敏達)
(B) ーー 643(皇極)
(C) ーー 703(文武)
    以下略

 従って問題は(B)グループに限られてくる。その中でわたしには「五八三」の方が有力であると思われる。なぜなら「A型の県風土記」史料(六)において、

 (一) 「官軍によって「石人の手を撃ち折り、石馬の頭を打ち堕された」にもかかわらず、その原形状(石人石盾各六十枚、交陣成列」等)が冒頭に整然と記されていること。
 (二) また古老が「上妻県、多有篤疾」(「上妻県、多く篤疾有りき」。この読みについては『失われた九州王朝』第四章I 参照)と伝えていると書かれているが、これは磐井の敗死後、いまだその敗戦による傷書をうけた人々の一部が生存している状況下においてこそふさわしい。
 右の「五八三」の場合、磐井の敗戦から“約五十年あと”にすぎず、当時の若者(二十代前後)の中には“片腕が折れたり、両脚がもがれたりした”まま、なお生存している者もいたはずである。またかつて(五三一頃)少年や少女だった者は、当時(五八三)六十歳前後であるから、自己の見聞として磐井の敗戦を語りえたはずである。
 このような考察からすると、Bグループの中でも、「六四三」より「五八三」の方がよりふさわしい、といいうるであろう。
 以上が「A型の県風土記」成立に関する、わたしの推定だ。しかし、ここには当然ながらいくつかの仮定要因がふくみこまれている。従ってただ一つの試算として、ここに提起しておくにとどめよう。

 ーーディアロゴス(対談)ーー

 A「はじめに『失われた九州王朝』を読んだだとき、何か九州王朝側で作った文献が残っていないか、と思いましたけど、まさか、あの風土記の中にそれがあるなんて、思ってもみせんでした。

 古田「全くだね。わたしもかつて東北大学の日本思想史科の先輩梅沢伊勢三さんのお宅にうかがっていたとき、『九州王朝で作った文献はないもんかねえ』とくりかえし言われたことがある。『古事記』『日本書紀』の文献研究に生涯を懸けてこられた方だけに、“もし、古田のいうように、九州王朝が実在したとすれば、何かその文献上の痕跡がないはずはない”。そういう大局の見通しに立っての御注意だったと思うんだけど、まさにその通り。当の残片が図書館やわたしたちの書架にも常々あったわけだ。気がつかずにいただけでね」

 A「“九州風土記に二種類ある”なんて話、今まで全く知りませんでした。それに、その成立をめぐって、ながらく論争が行われていたなんて」

 古田「古代史上の問題なら、何でもひっばり出してきて話題にする、といった感じの、昨今の古代史通の一般の論者たちの中でも、なぜかこの問題はほとんどとりあげられていないからね。わたしも坂本太郎さんの『大化改新の研究』を京大の経済学部の図書室でコピーさせてもらって、その『附載三』としての『九州地方風土記補考』にふれたわけなんだ。この論文は坂本さんらしく、手堅い考証と叙述による、いい論文だった。短いけど、問題の要点を見すかすことのできる重要な手がかりを提供して下さった。お礼をいいたい。そのあと、風土記関係の資料に注意して集めてきたんだけど、昨年腰をすえて分析しはじめると、見る見る問題の本質が浮かび上ってきて、私自身驚いたくらいだよ」

 A「だけど、従来の論者は、古田さんの分析を読んでも、なかなかすぐには認めないでしょうね」

 古田「おそらく、そうだろうね。ただ一風土記問題について、局限された新見解を認める、そういったことにとどまるなら認めやすいだろうけど、そうじゃない。従来の日本古代史の根本の主柱、それをとりかえなきゃ、“認める”わけにはいかない問題だからね。そう、この問題のポイントは、まさにそこにあるんだ。『天皇家中心一元主義』という、従来の見地では説明し切れない史料群が現存する。この事実が問題の根源をなす史料状況だ。ところが、『九州王朝先在』説という仮説に立つとき、いとも簡単に、適切な解がえられるんだ。
 つまり、ズバリいってしまえぼ、『天皇家中心一元主義』も一仮説、わたしの多元説も一仮説なんだ。そのどちらの仮説に立つとき、現存史料群に対してクリアーな解明が与えられるか、そういう問題なんだよ。
 これは、科学としての歴史学という立場から見れば、あたりまえの方法だけど、“『古事記』や『日本書紀』を根本にすえて日本古代史を見る”ことを自明の立場としてきた従来の論者には、“自分たちの立場もまた一仮説にすぎぬ”この自明の道理を理解しようとしないんだよね」

 A「そのへんに、従来風土記論争が活溌(かっぱつ)にならなかった背景があるんでしょうね」

 古田「その通りだ。“九州にだけ、二種類の風土記がある”。これは万人の認めざるをえぬ事実そのものだ。だからこれを解くのに、近畿天皇家という権力中心一元主義の立場からではむずかしいのは、知れ切ったことだ。率直にいって、いろいろこじつけた説明をつければつけるほど、付け焼き刃ならぬ“付けりくつ”で、しらじらしくなってくるほか、しようがないものね。
 だから、従来の近畿天皇家一元王朝の土俵の中では、 ーーそして全員がその土俵の中にいたわけだからーー どうやってみても、失礼なから、ふんづまりというか、八方ふさがりで、出口がなかったわけだよ。
 ここに問題の本質がある。だから“そんな『九州王朝が風土記をを作っていた』なんて、変った話は認められない”とうそぶいてみても、もうもうすましうる問題ではないんだよ。こういう問題が存在することを、すでに知ってしまった、今後の万人の面前では、ね」

 追記 ーー井上光貞氏は昭和五十八年二月二十七日、没せられた。氏の再批判の声聞くをえざるを悲しみ、つつしんで哀悼の意をのべさせていただきたい。

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