25 よみがえる九州王朝 第二章 邪馬一国より九州王朝へ

 (最新見直し2009.11.29日)

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 2009.11.29日 れんだいこ拝


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よみがえる九州王朝 幻の筑紫舞 角川選書 謎の歴史空間をときあかす

第二章 邪馬一国から九州王朝へI 短里論争古田武彦

 「今、中国側から返事がとどきました。赤壁(せきへき)の川幅は四〇〇〜五〇〇メートルだそうです」
 東方書店の神崎勇夫さんの声が電話から聞えた。
 “ああ、やっばり” ーー体内の疑問が氷解してゆく爽快(そうかい)感を覚える。昭和五十六年十一月はじめのことである。
 年来の疑問だった。この赤壁とは、『三国志』中のハイライトの一つ、赤壁の戦の現場である。その戦況は次のようだった、と書かれている。
 揚子江(ようすこう)の北岸には魏の曹操(そうそう)の大船団が「首尾相接する」形でギッシリと並んでいた。これに対する南岸の呉(孫権そんけん)・蜀(劉備りゅうび)連合軍の数は劣っていた。そのとき呉の部将(将軍周瑜しゅうゆの部下)であった黄蓋(こうがい)が火船の計を進言し、自ら実行したのである。
 そのときの実戦状況に精(くわ)しい『江表伝こうひようでん』(西晋の虞溥ぐふの著)によると、それは次のようだったという。

 「戦の日に至り、蓋(黄蓋)、まず軽利艦十舫(ぽう)を取り、燥荻(そうてき)・枯柴(こさい)を載せて其の中に積み、灌(そそ)ぐに魚膏(ぎょこう)を以てし、赤幔(せきまん)、之を覆(おお)い、旌旗(せいき)・竜幡(りゅうばん)を艦上に建つ。時に東南風急なり、因りて十艦、最も著しく前(すす)み、中江にして帆を挙ぐ。蓋、火を挙げ、諸校(軍士をさす)に白(もう)し、衆兵をして声を斉(ひと)しくして大叫(たいきょう)せしめて曰く『降(くだ)る!』と。

  操(魏の曹操)・軍人、皆営を出で立ちて観(み)る。
  北軍を去ること二里余、同時発火す。火烈しく風猛に、往く船は箭(や)の如く、飛埃(ひあい)・絶爛(ぜつらん)、北船を焼き尽くし、延(ひ)いて岸辺の営柴(えいさい)に及ぶ。
  瑜(呉の周瑜)等の軽鋭、尋(にわ)かに其の後を継ぎ、雷鼓して大いに進む。北軍大壊し、曹公(曹操)退走す」(『江表伝』。呉志、周瑜伝の裴(はい)注の引文)

 大意は次のようだ。
 “十舫(もやい舟)に魚油をしみこませた枯柴類を積みこみ、中江(揚子江の中ほど)に出たとき、「降服する」と大きな声で叫び、さらに接近した。そして北軍(魏軍)を去る二里余のところに来たとき、(乗員はもやいの小舟で離れ)積んでいた枯柴類に火を放ち、北船に向けてその無人火船を突入させたのである。それによって北船は焼き尽くされ、北岸の陣営さえ類焼するほどだった。それを追うように本隊の周瑜の軍が襲撃し、北軍は壊滅状態に陥った”というのである。
 問題は右の「二里余」だ。これはどのくらいの長さを意味するのだろう。最初にこの史料にふれたときからの疑問だった。だが、揚子江の現地など、行ったこともないし、想像もつかない。だからこの北岸と南岸との間の距離が、現地の実景の中でどのように収まるのか。見当がつかない、と投げ出していた。ていよくいえば、保留してきたのである。
 わたしの第一書『「邪馬台国」はなかった』をお読みになった方なら、お分りだろう。わたしはこの本で「魏晋朝の短里」(のち「魏・西晋朝の短里」と改称)という概念を提出していた。「『三国志』は『一里=約七五メートル』(精しくは「九〇〜七五メートルの間にして、七五の数値に近い」)の短里によって書かれている。それは魏晋朝によって採用された、公認の里単位である」と。
 これは従来の「定説」に対する、真正面からの挑戦だった。東大の白鳥庫吉が倭人伝の里単位は「約五倍の誇張」(「卑弥呼問題の解決(上)」)とのべてより、この誇張説は、後来の学者たちによって「盲信」されてきた。彼の論敵であったはずの京大の内藤湖南すら「当時の道里の記載はかく計算の基礎とするに足るほど精確なりや否や、已(すで)に疑問なり」(「卑弥呼考」)とのべている。ここにも“倭人伝の里程は虚偽・誇大にして頼むに足らず”という認識が根本にあった。それは彼等がこの里程を漢代の里単位である「一里=約四三五メートル」(山尾幸久『魏志倭人伝』講談杜)の類と考えてきたからだ。たしかに、もしそうなら倭人伝に、

 「郡より女王国に至る万二千余里」(郡は帯方郡治ち。ソウル近辺〈西北方〉か)

と書かれた卑弥呼の国、それは途方もない極遠の異境となってしまうであろう。
 わたしに鮮やかな思い出がある。まだあの第一書を書く前のこと、東京に行ったとき、一人の高名な国語学者にお電話した。勤めておられる大学へうかがうつもりであったが、「電話で用件をお聞きしましょう」とのことだった。わたしが聞きたかったのは、“倭人伝中の固有名詞(国名・人名等)に対する、三世紀の読み”の問題だった。倭人伝への探究に入りはじめていたものの、いわば“目に一丁字もない”状態からの出発だった。極力、各界の専門家の意見を聞きたかった。つまり従来の「定見」とされているもの、そしてその方法、それを確認しようとしたのである。
 その人は、わたしが倭人伝を探究している、と聞くと、すぐ言われた。「ああ、倭人伝なんて、あまり信用できはしませんよ。だってそうでしょう。一万二千里なんて、あの通りだったら、女王国は赤道の向うへ行っちまいますよ」と。当面の質問点とは、直接関係はなかったけれど、歯切れのいい、その口調を聞きながら、わたしは確認した。日本の学界は次のテーマを疑っていないことを。いわく「『三国志』は『漢の長里』で書かれている」と。なぜならこの人は、国語学者ながら、日本史や東洋史の歴史学者たちとも豊富な共同研究を行い、各界との連携の深い学者として、世に知られていたからである。この現況から、わたしの探究は出発した。
 では、鋭く対立する二つの立場(長里説と短里説)から、問頭の「二里余」(今かりに「二・四里」とする)の実定値を算出してみよう。
 A 長里説 ーー 約一キロ
 B 短里説 ーー 約一八〇メートル
 やがてとどけられた中国側の手紙のコピー(北京の「人民中国」〈日文版〉雑誌社より東方書店の神崎氏あて)には、次のようにあった。

「お手紙拝見しました。赤壁一帯の長江の川幅はどこに聞いてもらちがあきませんでしたが、今日やっと大まかな数字の返事がありました。洪水時になると、あたり一面海原の如きさまですが平時は四〇〇〜五〇〇メートルで、武漢(ぶかん)一帯の川幅より広いとのことです。ご参考までに」

 かつて中国大使館からの回答を手にしたことがある。竹野恵三さん(朝日カルチャー・トラベル)が直接労をとって下さった。そのときは「赤壁の川幅は分らないが、その下流の武漢大橋の長さは一・四五〇キロ」という返事だった(「旅」〈日本交通公社〉では、一・六七〇キロ。測定基点のちがいであろう)。
 中国へ行った方は御承知のように、中国の川の土手は、平地よりずっと高い位置にあることが珍しくない。従って近代の築造大橋は、日本のように“橋の長さが川幅より若干大”といった類ではなく、“橋の長さが川幅よりはるかに長く(曲線を描いて)延々とつづいている”のである。昨年の春(昭和五十六年三月)、南京(ナンキン)大橋を通ってこれを実感した。だから、右の武漢大橋の長さから見ると、おそらくこのあたりの川幅は一キロ以下。そのように判断はしたものの、もう一つ、靴をへだててかゆきをかくもどかしさがあった。それが今度ハッキリした。四〇〇〜五〇〇メートル。もうお分りだろう。「定説」派のように「魏・西晋代も漢の長里とほぼ変ることなし」というのが本当なら、一体この戦況はどうなるだろう。「中江」へ来て、「降服」を大叫した、ということは、“そこから先、北岸へ近づくと、弓矢等を被るおそれがある”ということだ。そこで偽って「降服」を称して、さらに「北軍を去る二里余」のところまで近づいたのである。ところで、「二里余」が約一キロなら、「中江」での「降服大叫」の位置は約一・五キロくらいになるであろう。そこでなお「中江」なのだから、当赤壁の川幅は、約三キロくらいないと話があわない。いかに少なくみつもっても、二キロ以下では、それこそ“お話にならない”のである。ところが、実際の赤壁の川幅は四〇〇〜五〇〇メートルだった。“「漢の長里」一点張り”では、どうにもならない。
 これに対し、わたしの場合、約一八〇メートルが「同時発火」の位置だから、「中江」の「降服大叫」の位置は、約二五〇メートル前後か。とすると、川幅は約四〇〇〜五〇〇メートルで、ドン・ピシャリなのである。

 この発見は、わたしにとって意味深い発見だった。中国のど真中、三世紀最大の決戦の一つ、赤壁の戦において短里が使われている。その上、これは『三国志』ではなくて『江表伝』。著者は陳寿と同時代(西晋)の虞溥であるから、『三国志』だけでなく、同時代の他の書(『江表伝』)においても、同じ里単位(短里)が使われているとすると、庫吉流の、魏使(もしくは帯方たいほう郡吏)誇大報告説など、一挙にけしとんでしまうではないか 。
 わたしがこの問題の所在に気がついたのは、白崎昭一郎氏との論戦の間においてであった(「『中国古代文献の読み方』批判」「東アジアの古代文化」二九、昭和五十六年秋)。

 近年わたしの経験した、もっとも激烈な論争、それは何といっても、安本美典氏との、八時間(うち夕食一時間)に及ぶ激突対談だった。「激論」「闘論」などと銘打たれていても、その中身は、“お互いに痛いところを突かぬことをマナーの第一とする”いわゆる「仲良し対談」の類の多い昨今だが(もちろん、それにはそれなりの意義はあろうけれど)、この対談は、正味掛け値なしの真剣勝負、そういった雰囲気で終始したから、終ってみて、やはりいい知れぬ充足感があった。
 その収録として発表されたのが「『邪馬台国』をめぐって」(「歴史と人物」〈中央公論社〉昭和五十五年七月参照。全体はテープ収録。)だが、なお部分的であることが惜しまれる。
 さて、その中でもっとも鋭い応答の刃が交わされたものの一つに、この「短里」問題がある。安本氏は韓伝と倭人伝のみの「部分短里」説。わたしは下調べの中で、「帯方郡の論証」と呼ぶべき新たな論証の立地点を発見していた。『三国志』で倭人伝の直前に当る韓伝に、次の著名の記事がある。

 「(韓地)方四千里なる可(べ)し」

 「方四千里」というのは、“一辺が四千里の正方形”をさす。中国の古代において創造された面積表記法だ。一定の土地(たとえば国や島)はもちろん、正確な円形や正方形であるはずはない。はずはないけれど、その実形をふくんだ(内接した)形の正方形を定め、その一辺を「方〜里」としめすことによって、その正方形の面積をしめす。それによってその土地の“大体の広さ”を表わす指標とする。こういう方法だ。
“何とずさんな”と思う人もあるかもしれないけれど、この「方法」の発見は、画期的だった。何しろ“すべての、いかなる形の土地に対しても、統一的な表現方法を与えた”ものだからである。今わたしの使った「方法」という言葉、これも実は、本来この“「方」であらわす法”にもとづく術語だった(『五経算術ごきょうさんじゆつ』等)。“学問の方法論”などといえば、わたしたちにはいかにも“西欧舶来の用語”のように聞えるけれど、何とそれは古代中国の発明語だったのである。そしてそれは文字通り“画期的な発明”だった。
 それはさておき、『三国志』もこの「方法」によって、国の面積や島の面積を表わしている。わたしたちにはおなじみの、
  「(対海たいかい国)方四百余里なる可し」
  「(一大いちだい国)方三百里なる可し」
 といった表記も、まさにこの「方法」による表記法だったのである。
 さて今問題の韓地面積の場合、これは当然「南 ーー 北」辺(海岸部)と共に「東 ーー 西」辺もまた「四千里」であったはずだ。そしてその「東 ーー 西」辺の中の北辺は、中国側の領地と接していた(南辺は倭地に接す)。その西側は帯方郡、東側は穢*(わい)と接していた。穢*は漢の四郡の一、(玄菟げんと郡と)臨屯郡の地である。つまり韓地の北辺は中国側の新・旧直轄領に接しているのだ。
 「韓地の北辺」とはすなわち「帯方郡及び旧臨屯郡の南辺」ということである。従って前者が「短里」で記されている、ということは、とりもなおさず“中国側は中国の直轄領を「短里」で認識している” ーーこの命題を疑いなく、直指しているのである。

穢*は、三水編に歳。第4水準ユニコード6FCA

 以上と同じ問題が、実は倭人伝の中にもあった。それをわたしは新たに“発見”したのである。これもわたしたちにはなじみ深い、

 「郡(帯方郡治)より倭に至るには、・・・・・其の北岸狗邪(こや)韓国に到(いた)る七千余里」

の一節。この「七千余里」の冒頭部は、当然ながら帯方郡内に属している。“帯方郡治→韓地西北辺”に当る部分だ。従って“七千余里が「短里」だ”ということは、すなわち“冒頭の帯方郡内もまた「短里」で認識されている”ということだ。
 ここでも“中国直轄領内が「短里」で認識されている”という、先の命題と同一の状況がしめされ、それを裏づけていたのである。“自己の直轄領を「短里」で認識する”とは、どういうことか。いうまでもない。“その「短里」は、その朝廷(魏・西晋朝)の採用していた、正規の里単位である”。 ーーこの帰結をハッキリと明示しているのである。
 このように理路を辿りくれば、“倭人伝の里数は、魏使の虚偽の報告による誇大値だ”などといってきた、明治以来の(白鳥庫吉などの)概念は、およそ道理を失ったアイデアだったこと、先人には失礼ながら、今やわたしには疑うことができない。
 明治以降の「邪馬台国」研究史をふりかえってみて、奇異の感にうたれることが一つある。それは“倭人伝の里数値虚偽・誇大説”そのものはくりかえし論ぜられながら、“韓伝(方四千里)もまた同じ里単位にもとづく”という明白な事実に深く目が向けられていなかったことだ。もし向けられていれば、“魏使虚偽報告説”など、簡単に出せるはずがない。なぜなら”中国人に未知の倭国”なら、まだしも“誇大報告”などというアイデアを出しえたにしても、漢代以来既知の韓地領域の総面積を“まきぞえ”にした誇大報告など、一官僚の手などでできもしないし、しても成功の可能性はない、からである。この点こそ、日本古代史学界のながき宿痾(しゅくあ)だった“日本列島内に跼蹐(きょくせき)された「井の中の蛙かわず」的な視野”という根本的な弱点を、遺憾なく露呈した問題点だったのである。この点、昭和四十二年に出た安本美典氏の『邪馬台国への道』(筑摩書房)ですら、例外ではなかった。“倭人伝内の里数値が一定の比率をもっている”という、あの白鳥命題を、氏はキルビメーターで再確認されたにとどまり、この韓伝の「方四千里」問題には一切目を向けておられなかったのである。
 今回新たに氏が「韓伝・倭人伝のみ短里」説という立説に入られたとき、実はその実質内容が“韓地と倭地のみにとどまりえない”こと、中国側の直轄地(帯方郡)もまた同一里単位で把捉(はそく)せられている、そしてこれが『三国志』の叙述の前提となっていること、この根源の事実に、氏の目はいまだとどいておられなかったようである。
 ために、わたしがこの問題について、氏の面前で氏に問いただしたとき、氏は応答されなかった。
 その一段が終ったとき、対談の司会者としての抑制を保って、終始無口でおられた野呂邦暢氏が、
 「で、帯方郡の中も『短里』で書かれている、という問題については、どうですか」
とうながされたのである。けれども、応答はなかった。そして今日に至るまで現われていない(季刊「邪馬台国」一二、昭和五十七年の「里程論争特集」にも、いまだ現われていない)。
 しかしながら、それはともあれ、このような場に敢然と臨んで下さった安本氏に対し、わたしは深い感謝を捧げたいと思う。
 最近の「サンデー毎日」(昭和五十七年四月十一日)に「古代史の旅」と題する松本清張さんの特別講演(二月十六日、東京イイノホール、毎日新聞創刊百十年記念文化講演。この内容は『清張歴史游記』〈日本放送出版協会、昭和五七年十一月刊〉所収)が載った。久しぶりだ。そう思って読みはじめたが、読みすすむうち、不審を感じた。それは次の一節である。

 「私がそう言ったからではございませんが、もう里数や日数で邪馬台国の所在を捜索するのはナンセンスであるということに学者も気づいたのでしょう、現在は里数、日数を手がかりに邪馬台国の所在地を探る学説は声を低めております。ほとんどないと言ってもいいじゃないでしょうか」

 「私がそう言った」云々(うんぬん)は、氏のいつもくりかえしのべておられる「七・五・三説」である。“帯方郡治から狗邪韓国までが千余里”、“狗邪韓国 ーー 対海国 ーー 一大国 ーー 末盧まつろ国間の各一千里を足して三千里”“末盧国 ーー 伊都いと国間が百里”“水行二十日(不弥国 ーー 投馬国)と水行十日(南、邪馬台国に至る)を足して三十日”“陸行一月は十日”といった風だ、と指摘されるのである。「これは中国では非常にめでたい数字」だから、右の各里数値は陳寿の造作、という、氏の年来の持論をさしているのである。

 けれどもわたしはすでにこれに対して厳密に批判していた。第一書『「邪馬台国」はなかった』第三章の「虚数説の空虚」がこれだ。松本氏の文面もハッキリと引用してある。
 「白鳥の考えた戸数の三、五、七の配置は、私には卓見だと思われる」
 「以上のように解釈してみると『魏志』倭人伝の里数、日数はまことにナンセンスなものである」(松本清張『古代史疑』中の「魏志の中の五行説」)

 これに対して再吟味を加え、『三国志』の中の「数」を抜き出し、その全体(三七三個)についてみると、「一〜九」のうち、最大は「一」(八三三個)、第二位が「三」(七二三個)、第三位が「二」(六五七個)であり、氏によれば“中国人が偏愛した”はずの「七」は、第八位(一四七個)と、右の想定に相反しているのである。
 その上、『三国志』中で「数」についての議論をしているところを見ると、「八」「八十四」「六の倍数」「五五」「二五」などだ。いわゆる「七・五・三」についての議論はない。
 また数字を用いて文面を修飾することを好んだ高堂隆(魏の第二代、明帝の御意見番)の文から「数」を統計すると、総五七個の事例中、「七」は皆無なのである。
 以上のような具体的な事証をあげ、これによると、一種なじみやすい「七・五・三」偏重説が、実は『三国志』の史料事実には合致していない、その事実をのべたのである。
 また同類の説を説かれた上田正昭氏の説を対象にして、倭人伝中の「数」を“足して三”(対海国〈千余戸〉・一大国〈三千許家〉・末盧国〈四千余戸〉・伊都国〈千余戸〉・奴国〈二万余戸〉・不弥国〈千余戸〉、合計三万余戸。また先の狗邪韓国 ーー 末盧国間の合計三千里など)という形で、文面に直接あらわれていない「三」を「算出」する手法は、「後世の論者の恣意(しい)に属する」と批判した。なぜなら“足して〜”という手法があるのなら、“引いて〜”という手法もありうることとなり、まさに“思うままの「数」”を、それこそ「造作」できるからである(もちろん、「足す」だけでも、いろいろの「数」を導きうる)。
 このようなわたしの批判に対し、上田氏からは一切応答がない。「声を低めているしのは、むしろこれら虚数説の学者たちの方ではないか。
 しかるに松本氏もまた、何の反証もあげぬまま、今回の講演で「七・五・三」説を弁じ、その反対説が閉塞(へいそく)したかにいわれるのである。(松本氏がわたしの第一書を“読んでおられる”ことは確実である。松本「高木『邪馬台国』の再批判」「小説推理」昭和四十九年十月号参照)。一昨年五月の安本氏とわたしとの激論も、昨年秋の白崎氏とわたしとの応答も、一切松本氏の“耳に入っていない”のであろうか。ましてこの講演の冒頭で「きょうは小説家としてではなくて、古代史学者として登場いたしましたから、どうかそのおつもりでお聞き取りを願います。」とことわっておられるのである。
 『古代史疑』の「中央公論」連載によって、「邪馬台国」問題に対する関心を深うした、ひそかな恩誼(おんぎ)を有するわたしだけに、残念な思いを禁じえない。

 昨年の秋は、久しぶりにこの「短里」問題に没頭した季節だった。「魏・西晋朝短里の方法」(東北大学文学部「文芸研究」一〇〇・一〇一号所載)という論文の形でまとめた。学界の面前に提出するためである。その内容は、わたしにとって永年のうっくつを解き放つものだった。第一書以来、“『三国志』が短里で書かれている”という認識そのものは、すでに確立していたものの、その「短里」の由来、となると、不明の霧につつまれていた。その霧のとばりが晴れはじめたのである。そして近時の「短里」否定論者の論議法や微視的な計測(近距離測定)法の難点について、「方法」上の問題として、これを解明していった。
 しかしその内容は、右の論文(古田『多元的古代の成立(上)』所収)にゆずるとして、その論文を脱稿してあと、今春三月、次々と新たな認識が目に映じてきた。それをここに明らかにしてみよう。
 それらはいずれも“目新しいもの”ではないげれど、実は道理の上において、“問題の死命を決する”史料性格をひそめていたのだった。
 第一は「二つの序文」問題だ。
 『三国志』全体には序文がない。これは陳寿の庇護(ひご)者たる張華の失脚により、陳寿の生前には、『三国志』が「正史」としての日の目をみなかった、そのせいであろう(『邪馬一国への道標』〈講談社。角川文庫所収〉参照)。もし生前にその日が来ていたとしたら、陳寿によって天子への献呈上表文が作られ、それが晴れやかな「序文」として、『三国志』の冒頭を飾っていたであろうから。だから“無序の史書”という現在の姿は、陳寿の遭うた、その“世間的な不運”をありありと物語っていたのである。
 ところが、例外がある。それは夷蛮伝である。魏志最末の第三十巻は「烏丸・鮮卑・東夷伝」と名づけられている。そこには「二つの序文」がふくまれている。
 一つは「烏丸・鮮卑伝」の序文。

 「書に載す『蛮夷猾夏かつか』、詩に称す『儼*允*孔熾けんいんこうし』と。久しいかな、其れ中国の患たるや。秦・漢以来、凶奴(きょうど)久しく辺害を為す。・・・・・(中略)・・・・・烏丸・鮮卑は即(すなわち)古の所謂(いわゆる)東胡(とうこ)なり。其の習俗・前事、漢記を撰する者、已に録して之を載せり。故に但(ただ)漢末魏初以来を挙げ、以て四夷の変に備うと云う」

という四百四十二字がそれだ。中国にとって、これら塞外の民がどれほど患いとなってきたかということ、それゆえ彼等をはじめとする「四夷之変」にそなえるため、「漢末・魏初以来」の状況をここにしるしたことをのべているのである。このように烏丸・鮮卑だけでなく、「四夷」にっいてのべてこの序を結んでいることからすると、この序文は、烏丸・鮮卑だけでなく、この夷蛮伝(烏丸・鮮卑・東夷伝)全体の「総序」ともいうべき性格をも帯びている、といわねばならぬ。

儼*允*孔熾(けんいんこうし)の儼*(けん)は、獣偏に嚴。JIS第4水準?ユニコード7381、允*(いん)は、獣偏に允。JIS第4水準ユニコード72C1

 次は「東夷伝」序文。

 「書に称す、『東、海に漸(いた)り、西、流沙(りゆうさ)に被(およ)ぶ』と。其の九服の制、得て言うべきなり。・・・・・(中略)・・・・・遂(つい)に諸国を周観し、其の法俗を采(と)るに、小大区別し、各(おのおの)名号有り、得て詳紀すべし。・・・・・故に其の国を撰次して、其の同異を列し、以て前史の未(いま)だ備えざる所に接せしむ」

 その全文(三百三十字)は、すでに第一書の第二章で紹介した。例の「異面の人有り、日の出づる所に近し」という、倭人の国の現地を訪ねえたことを示唆した一節がふくまれている。この序文は、文字通り東夷の諸国(夫余ふよ・高句麗こうくり・東沃沮ひがしよくそ・[手邑]婁ゆうろう・穢*南わいなん・韓・倭人の七国)の伝に対する序文だ。夷蛮伝内の「中序」といえよう。

[手邑]婁(ゆうろう)の[手邑]は、第3水準、ユニコード6339
穢*は、三水編に歳。第4水準ユニコード6FCA

 そこで新しい視点は次のようである。
 「部分短里」説の場合。その「部分短里」が“倭人伝だけ”と考える論者であれ、あるいは安本氏のように「韓伝・倭人伝」の両伝のみ「短里」だと考える論者であれ、あるいは「烏丸・鮮卑・東夷伝」のみが「短里」だとする論者であれ、それは各説、どれでもよい。
 いずれの場合でも、その基本テーマは次のようである。“『三国志』の帝紀や他の列伝、つまり「本伝」はすべて「長里」で書かれている。これに対して夷蛮伝の「全部」もしくは「一部」のみは、「短里」で書かれている” ーーこれが「部分短里」説たる名のゆえんだ。いいかえれば、『三国志』全六十五巻のうち、六十四巻は「長里」、ところが、魏志末の一巻(夷蛮伝、第三十巻に当る)のみ「短里」記載部をふくんでいる、と。これらの論者はそのように見なすのである。

 問題は次の一点だ。“では、なぜ、そのような「里単位の変化」の生起していることを、「二つの序文」中で陳寿は示唆しなかったのだろうか”。この問いである。それがなければ、読者は当然、今まで読んできた二十九巻(魏志第一〜第二十九)通りの“里意識”でこの巻(第三十巻、夷蛮伝)をも読み進むのが、当然ではないか。むしろ、それ以外の“読みよう”はない。ことに魏・西晋朝の日常世界が、旧来の論者の考えてきたように「長里世界」そのものであったとしたら、なかんずくこの点の“注意”は不可欠の一事となろう。御丁寧に二つもの序文を書いた陳寿が“それは、書き忘れた”などというとしたら、まさに児戯に類する弁解となろう。従って夷蛮伝内の「二つの序文」という、厳たる二大関門において、いずれもそのような問題(里単位の変化)に一切ふれていない、という、この史料事実。これを裏がえせば、“ここから後も、ここまでと同じ里単位で読んで下さって結構です”という旨の、無言の保証書が付せられている、そのようにうけとって、果してことは“筋ちがい”であろうか、わたしには、それが唯一の“まともな受け取り方”だ、と思われるのである。
 ことに「烏丸・鮮卑伝」序文で、「四夷の変に備う」といっている。四夷の一つに「東夷」があり、その東夷の一つに倭人の属することは自明だ。また「東夷伝」序文中の「異面の人云々」が倭人を指していることは、すでにのべた(第一書)。してみると、この「二つの序文」の視野の中に倭人が入っていることは確実だ。その倭人伝の中にあれだけれいれいしく幾多の里数記事が羅列されている。それらの記事が、それ以前(帝紀、他の列伝)の「里数値」とは、異なった前提(里単位)で読んでほしい、と著者が本気で思っているなら、それを欠いた序文など、およそナンセンスだ。第一、それでは、「総序」に当る「烏丸・鮮卑伝」序文の末尾にいう、「四夷の変」にそなえた“中国側の軍事上の用意”になど、なりようもないであろう。しかるに、それ(里単位の変動)をしめす記事は全くない。
 してみると、少なくとも「陳寿の認識」による限り、「部分短里」説など、根本から全く成立不可能なのである。かくして「二つの序文」は、それらの論者にとって、まさに越えがたい「二つの関門」となっているのである。

 これに対して、人あって次のように声をあげるかもしれぬ。“その「陳寿の認識」がまちがっていたとしたら、どうだ”と。つまり、陳寿がそれ(夷蛮伝内の里数値)を「短里」として認識していれば、先の通りだ。しかし“陳寿がそれを「長里」と思いこんで書いていた”としたなら、「二つの関門」にも、何も書かれていなくて当り前だ、そういう指摘なのである。
 その通りだ。それが、かの有名な「誇張」説なのだ。“魏使(もしくは帯方郡官僚)は五〜六倍の誇張をして書いた。しかし陳寿はそれを真実(リアル)と思って史書(『三国志』)に記した”。こういう場合である。このケースでは、陳寿は「二つの関門」において“何も書かなくて”当然なのである。
 このようにして、難関と見えた「二つの序文」を易々として乗り越えたかに見えたとき、突然それをさえぎる一句が現われる。倭人伝のさなかに、

「其の道里を計るに、当(まさ)に会稽東治(かいけいとうち)の東に在るべし」

 この旧知の一節の中には、意外な論理性がひそめられている。この一文の前文を見つめてみよう。
 (A) 郡(帯方郡治)より倭に至るには、・・・・・其の北岸狗邪韓国に到る七千余里。・・・・・千余里・・・・・(対海国)方四百余里・・・・・千余里・・・・・(一大国)方三百里・・・・・千余里・・・・・五百里にして伊都国に至る・・・・・奴(ぬ)国に至る百里・・・・・不弥国に至る百里。・・・・・女王国より以北、其の戸数・道里は略載す可きも、其の余の旁国は遠絶にして得て詳(つまびら)かにす可からず。
 (B) 郡より女王国に至る万二千余里。
 (C) 其の道里を計るに、当に会稽東治の東に在るべし。

 右の(A)の「其の戸数・道里」の「道里」とは、その直前の「七千余里」「千余里」「五百里」といった部分里程を指していることは当然である。
 次に(C)の「其の道里を計るに」の「其の道里」とは、この直前にある(B)の「一万二千余里」を指していること、これもまた当然である。つまり“この帯方郡治より女王国(=邪馬一国)に至る一万二千余里、というのを、こちら側(中国本土側)と対応させてみると、当然「会稽東治」の東あたりに、女王国は存在しているはずだ”。そういっているのである。
 この陳寿の判断を分析してみよう。
 (一) “朝鮮半島の帯方郡治(ソウル付近)が中国側のどのあたりの東に存在するか”。この知識は、陳寿にとっても、魏・西晋朝の官人一般にとっても、自明の知識であった。 ーーすなわち山東半島の東あたりである。

 (二) その山島から、ずーっと南にさがって会稽あたりまで、ほぼ何里くらいかは、同じく陳寿及び魏・西晋朝人にとって、自明の地理知識であった(それが特に『三国志』に書かれていないのは、彼がそれを“知らない”からではなく、歴史書に書く必要などない“自明の地理知識”に属していたからである)。
※正確には会稽国(夏后少康かこうしょうこくの封国)の統治領域を指す。今の浙江省(せっこう)から江蘇省にかけて。

 (三) 陳寿は、右の地理知識を基準尺として、「帯方郡治→女王国」の「道里」たる「一万二千里」を南北に並置させてみた。その結果、“問題の女王国は「会稽東治」の東に存在するにちがいない”。そういう判定をえたのだ。そこでその結果を陳寿はここに記しているのである。

 (四) この陳寿の比定作業の意味するもの、 ーーそれは明らかである。一方の中国本土側を南北に貫く、山東半島から「会稽東治」に至る距離、その里程の前提をなす里単位と、他方の朝鮮半島から日本列島(九州)にいたる里程距離(一万二千余里)とは、両者、同一の里単位にもとづいている。そのさい、  (イ) 陳寿が“両者は同一の里単位にもとづいている”と信じていない限り、このような比定作業は、無意味である。  
  (ロ) もし「陳寿の認識」があやまっており、一方(中国側)は「長里」、他方(朝鮮半島ー日本列島〈九州〉)は「短里」(あるいは誇大値)で記されていたとすれば、「女王国」は、それこそはるか赤道の彼方に行ってしまう、はじめに書いた、高名な国語学者の鮮烈な発言のように。とても“「会稽東治の東にあり」などという判断には至りえないのである。ところが、実際は“大体合っている”のだ。“少々のずれ”は、おそらく「一万二千余里」のおき方を「南北」にいかにおくか、また「東南」(帯方郡治 ーー 狗邪韓国など)や「東」(伊都国 ーー 不弥国。第一書参照)をいかにおくか、そのとり方による“誤差”にすぎまい。むしろ、この程度の誤差ですみ、“大体は正しい”判定に至りえたこと、それこそ“驚異”であろう。それは三世紀中国人の地理認識の正確さを立証するものだ。そして同時に“中国本土もまた、倭人伝と同じ里単位で測定されていたこと”を明確に裏づけるものである。

 (五) もしかりに、旧説のように「会稽東冶とうや」(『後漢書』倭伝)の方が正しいとしてみても、今の問題の本質は変らない。韓伝・倭人伝の里数値が、中国本土側の基準里程に対して、「五〜六倍」もの(ぼうだい)なものであったとしたら、とても「会稽東冶の東」くらいでおさまる話ではない。必ず“赤道付近の熱帯下”に女王国は追いやられるほかないのだから。従ってこのさい、旧説を援護にもち出しても、その甲斐(かい)はないのである。

 以上を「道里の論証」と名づける。わたしたち古代史の探究者にとって、百も承知だったこの一句、この中にこそ明治以降の「誇大説」論者・「部分短里」論者の各説を木っ端微塵(みじん)に打ち砕く、決定的な論証力が内蔵されていたのである。それは“『三国志』では、夷蛮伝のみならず、中国本土側においてもまた、倭人伝と同一の里単位で認識され、記されていた。”という、その事実に対する、無上の証明書となっていたのであった。

 −−ディアロゴス(対話)−−

「赤壁の戦の問題ですが、赤壁といっても、一つじゃない、幾つも候補地があるんだ、という話を聞いたことがありますが」
古田「そうだね。『人民中国』(昭和五十五年六月)に載せられた『中国の歴史、第十八回 −−三国志の世界、魏・蜀・呉鼎立ていりつ −−〈史石〉』の記事の注(九七ぺージ)によると、
 『古戦場の赤壁の所在地には二説あって、一説は今の湖北省蒲圻(ほき)県の西北にある長江(ちょうこう)南岸赤壁山である。山壁には今も「赤壁」の二字を刻んだ石がある。いま一つは同じ湖北省の嘉魚(かぎょ)県東北にある赤磯山である。宋の詩人蘇軾(そしょく)は黄岡(こうこう)西北の赤鼻山を赤壁と勘違いして、そこに有名な「赤壁賦」の詩を書きしるしている』
と書かれている。けれども、はじめの二つの候補地とも、例の武漢大橋よりは上流だから(蘇東圻の赤鼻山は、やや下流)、先ずは今代表格の前者(赤壁山)と大同小異、とても南岸から中江(ちゅうこう)を過ぎて、そのあとやっと『長里で二里余(=約一キロ)』のところにさしかかる、というわけにはいかないようだよ」

赤壁(赤壁山と対岸)「人民中国」提供 よみがえる九州王朝 古田武彦

「洪水期には、あたり一面泥海化するそうですけど、赤壁の戦のときもそのシーズンに当っていた、という考えは、どうですか」
古田「いい着眼だね。実は、その問題についても、面白い後日譚(ごじつたん)があるんだ。今年になって神崎さんから次のような追伸があったんだ。
 『本日、「人民中国」誌より手紙が参り、赤壁の川幅の件は、先日の数字は渇水期のもので、増水期には土堤がないのでいくらでも拡(ひろ)がった由の連絡がありましたので、念のためお知らせ申し上げます。勿々(そうそう)(昭和五十七年一月八日)』
 そこで早速調べてみた。すると、すぐ分ったことがある。それは『三国志』の戦況描写によると、そのときの赤壁には、『北岸』『南岸』とも、“岸”があるんだよ。

『瑜(周瑜)等、南岸に在り。・・・蓋(黄蓋)、諸船を放ち、同時発火す。時に風盛んに猛く、悉く岸上(北岸)の営落を延焼す』(呉志、周瑜伝)

 こんなこと、日本じゃ論ずるのもおかしいことだけど、今の問題点からは重要だ。まさにこの戦は『北岸』と『南岸』のある季節であって、決して右に書かれている『増水期』じゃない、ということが分ったんだよ。

 その後、さらに調査はすすんだ。中国の揚子江中流域の増水期は『五〜十月』だ(『ジャポニカ』)ということが分った。では、赤壁の戦が行われたのは、何月か。
 実は、『三国志』の冒頭 ーー最初に赤壁の戦の記事が出てくるところだけどーー に、ハッキリ書かれていた。

『(建安けんあん十三年、二〇八)十二月、孫権、備(劉備)の為に合肥(ごうひ)を攻む。・・・・・公、赤壁に至り、備と戦いて利あらず』

 つまり十二月なんだね。だから文句なしの乾期だ。増水期じゃない。だから『三国志』に『北岸』と『南岸』とが書かれていたのは、まさに当然だったわけだ。それにもう一つ、面白いことが見つかった」
「何ですか」
古田「昨年の八月下旬、中国へ行ったときの帰途、北京(ペキン)の本屋さんへ行った。王府井(ワンフチーン)の新華書店だ。ハルピンからの通訳の石興竜さんが案内して藤田友治さん(後出)と共に連れていって下さったんだが、店を出てみると、石さんの方がずっとたくさん本を買いこんでおられてびっくりした。『一か月分の給料、はたきました』といってニコニコしておられた。江戸期と近代日本について猛勉強中の好青年だったけどね。
 そのときわたしはうすっぺらな小冊子を買った。『赤壁之戦』と題する本だ(羽白著、中華書局、一九六五)。そこに

  『黄蓋的船只已経駛近曹操的水塞了、只離開二里多路』(原文は簡化文字)

という文章と共に、次の文章があった。

  『当時正在寒冬季節、経常刮西北風。・・・・・估計在冬至前后可能有東南風出現』

 つまり呉の周瑜側は、秋の半ばから北の魏軍と対峙(たいじ)したまま戦期を待った。そして十二月(陰暦)に至ってやっと戦端を開いた。例の黄蓋の『無人火船突入の計』だね。その理由として、この本ではいう。“冬期は西北から東南へ風が吹く。この時期には当然ながら南の呉軍による右の火計はできない。ところが冬至(十二月二十二日頃。太陽暦)前後頃には、風が逆転して東南から西北へと風が吹きはじめる。その期をねらったのだ”と。さすが、現地鑑(かん)のある中国人ならではの分析だね。
 ともあれ、ときは十二月だから、当然乾期、“両岸が健在”の時期だ。だから、貴方(あなた)の心配はいらないわけだよ」

赤壁の地図 「赤壁の戦」より よみがえる九州王朝 古田武彦


「なるほど、分りました。ところで、この『二里余』問題について、中国側の人 ーー現代の人ですけどーー は、どういっているんでしょうね」
古田「やはり、ちゃんと気づいているようだよ。向うの教科書(『中国歴史』全日制十年制学校・初中課本)で赤壁の戦をのべたところに、この『二里余』のくだりが出ていて、その注に、注目すべき一文がある。
 『曹軍から二里あまりのところで、十隻の軍船に一斉に火が放たれ、小船は軍船を離れた』(本文)

※ もし、この里が現在の長さであるとすると、一里=五〇〇メートルであるから、一〇〇〇メートルということになる。古代の里はもっと短かった。(原文はローマ数字。試用本。中小学通用教材歴史編写組編。人民教育出版社出版。訳者〈代表〉野原四郎・斎藤秋男。ほるぷ出版刊)

 注の最後の一文が白眉(はくび)だ。大阪の「古田武彦を囲む会」書記局の藤田友治さんが見つけて知らせて下さったんだよ」
「なるほど。やっばり、ということですね。今度の解説を聞いてみると、何だか当り前至極の話のように思えてくるんですけど、今度はどう反応するんでしょうね」
古田「それは分らないけど、“里数などで論ずるのは、古い。”みたいなムード論ではらいのける、あのやり方は、もう御免こうむりたいね。『人民中国』の資料を提供して下さった京都の日中友好協会の水上七雄さんや貴重な情報をもたらして下さった神崎さんや竹野さん・藤田さんのような方方のことを思うだけに、今回は特にその感が深いよ」


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第二章 邪馬一国から九州王朝へII王仲殊論文への批判古田武彦

 昭和五十六年の秋は収穫の季節だった。わたしの生涯にとって記念すべき論文の一つとなるであろう、「多元的古代の成立」を「史学雑誌」に寄稿すべく浄書中の、九月はじめのことである(当論文は「史学雑誌」九一 ー 七、昭和五十七年七月。また同名の論文集中に所載)。
 そのとき霹靂(へきれき)のように現われた隣国(中国)の論文があった。王仲殊氏の「日本の三角縁神獣鏡の問題について」(「関干日本三角縁神獣鏡的問題」「考古」一九八一、第四期)である。
 あれは、わたしが三年越し(間、一年間休み)つづけてきていた「みんなに語る、わたしの古代史」(大阪、朝日カルチャー講座)後期の第十回(九月十二日)の、もう最終回(第十一回)に近い頃だった。いつものように講演を終え、聴講者の質問をうけ終ったあと、さっとわたしに近づいてきた一人の方があった。共同通信の杉山庸夫さんである。
 「こんな論文が出ましたが」といって見せて下さったのが、問題の王論文のコピーだった。杉山さんの説明に加え、そのコピーを一覧させていただいたあと、わたしはその内実が日本の学界を震撼(しんかん)させるに足るものであることを感じとった。それと共に、これがすでに過熱化している日本の「邪馬台国」問題の渦中にあって、一種感情的な非難や中傷の波にさらされることを恐れた。王氏はわたしにとって畏敬(いけい)すべき研究者と見えたからである。わたしはすでにそのような渦中にあり、法外な中傷をも十分に経験してきていたけれども、この隣国の敬すべき研究者までその渦中におく、それは忍びなかったからである。そこでわたしは次のようにのべた。
 「九州説・近畿説の立場から、この王論文の評価をあせってはならない。そうではなくて、この王論文の提出している論点そのものを一つ一つ検討し、煮つめていくことが必要です。御承知のように『邪馬台国』論争は過熱していますが、その対立をそのまま王論文への評価にもちこむのは、学問の問題としてまちがいだし、第一、相手の王さんに失礼です」と。
 幸いに、わたしの趣意は、正確に掲載された(たとえば、「新潟日報」九月十三日)。
 わたしには王さんの名前に記憶があった。たとえば、考古学界の「定説」の基準尺をのべた「名著」というべき杉原荘介氏の『日本青銅器の研究』(中央公論美術出版)、その中にも、王さんの名前があった。つまり従来から、日本の専門家によって“依拠”されてきた中国側の「鏡」の専門家だったのである。
 わたしは王論文を求めに京大へ行った。いつも親切に資料をお見せいただく考古学研究室へ行ったけれど、「寄贈」誌は未到着だった。ところが意外にも、建築学科の研究室(「購入」分)には来ていたのである(その後、わたしのところへも東方書店から送付していただいた)。早速熟読した。そしてはじめの印象通り、これは日本の考古学界の「定説」派の根本の依拠点を否定する、画期的な論文であることを知ったのである。

三角縁神獣鏡

 王論文の核心は次の一点にあった。
 「三角縁神獣鏡は中国からは出土しない。すなわちこの鏡は中国製の鏡ではなく、日本製である。従って卑弥呼が魏朝から贈られた魏鏡ではありえない」と。
 もちろん従来から、この型式の鏡が中国や朝鮮半島から出土しないことは、“知られて”いた。ことに敗戦後、中国との正式の国交の開始される前、いわゆる民間外交の時代、日本の考古学者たちの調査団が中国へ渡り、各地の博物館を見て廻(まわ)った。そのとき当方の三角縁神獣鏡を提示して、これと同型の鏡がないか、否かをくりかえし問いただしてまわったという。ところが、結局それに遭うことができなかった。また「イエス」の答えにもあえなかった。この頃から“やはり中国にはないらしい”。そういう噂(うわさ)が口(くち)コミ等を通じて学界内に伝わりはじめたのである。
 けれども、まだ「確認」は十分ではなかった、といっていい。なぜなら中国の博物館には、鏡自体があまり展示されていないからだ。昭和五十六年の春(三〜四月)と夏(八月末)と二回、中国へ行ってそのことをわたしは痛感した。展示されていても、その一隅に多くて十面前後、たいていは二、三面にすぎず、全く展示されていない場合の方がむしろ多い。これは鏡の出土自体が少ないのではない。逆だ。婦人などの身の廻り品だから、その出土はむしろありふれている、といっていい。だからこそ“限りある”博物館の陳列場になかなか“場を与えて”もらえないのだ。何しろ天子や王侯のシンボルである、豪勢な銅製品(鼎(かなえ)など)がめじろ押しに場をとっているのだから。この点、鏡が考古学的出土物の中でも、ピカ一の座を与えられている、日本の場合とは、大分様相を異にしているのである。
 そこで、一介の外国からの見学者には、なかなか中国で“鏡の顔をおがむ”のがむずかしい。日本の「大学教授」などの肩書きをもった考古学者でも、中国ではいちいち倉庫の中まで子細に調べるわけにはいかないであろう。また中国の博物館の学芸員に聞いてみても(わたし自身も何回か聞いてみた)、それほどズバリ、という回答には接しられない。なぜなら学芸員の方々の中にも、「鏡の専門家」などは、ほとんどおられない。それも無理はない。何しろ、日本とはちがって「鏡の研究」など、必ずしも“日のあたる”中枢のテーマではないのだから。
 というわけで、従来の知見、つまり“中国には三角縁神獣鏡は出土していないらしい”という噂にも、もう一つ、靴をへだててかゆきを掻(か)く観を禁じえなかった。逆にいえば、“もっとよく調べれば、あるかもしれない”。そういう一抹の“期待”を抱かせていたわけである。
 ところが、今回の王仲殊氏。鏡の専門的研究者である上、北京の社会科学院の考古学研究所の副所長である。当然、各大学や博物館の所蔵カードはもとより“収納庫の奥”までのぞきうる立場だ。だから他のいかなる、日本側の考古学者や鏡の専門家より、中国出土の鏡に関しては、その認識には格段の信憑性があろう。しかも、「三角縁神獣鏡」問題の探究という問題意識をもって日本にきたり、各地(東京・京都・奈良・大阪・福岡・宮崎等)の大学や博物館を歴訪した。そして日本の「三角縁神獣鏡」なるものを実見し、その上で「この型式の鏡は中国にはない」と断言されたのだ。この「確認」をくつがえす力は、日本のいかなる考古学者にも存在しないであろう。そういう、断然たる重味をもつ。ここに王論文が、日本の古代史学界・考古学界に対して投げかけた、画期性があった。

 けれども反面、王論文の具体的な挙証点を見つめてみるとき、わたしには深い感慨があった。そこには ーー少なくともわたしにとってはーー “新たなもの”はほとんど見当らなかったのである。そのポイントをあげよう。
 第一に、「銅出徐州、師出洛陽」の句について、従来の日本の考古学者(梅原末治・小林行雄氏等)は、これをもって“中国製の証拠”としてきた。しかし王氏は言われる。この句は、中国出土の鏡には存在しない(前半のみ一例)。従って「中国製の証拠」にはならない”と。
 これはわたしが『ここに古代王朝ありき』(朝日新聞社)で明確に指摘したところだ。ただ王氏はこれ(「師出洛陽」)を「虚詞」と解される。“実質をともなわぬ、単なる飾り言葉”だというのだ。しかしこのような言い方で、一個の字句の意義を消し去ってしまう手法、それはわたしには、“便利”すぎて、失礼ながらあまり“フェアー”なものとは思えない。やはりこの鏡(河内の茶臼山(ちゃうすやま)古墳出土三鏡の一、国分神社蔵)の作者が洛陽出身であり、渡来して日本に来ていた証拠。わたしにはそのように解するのが妥当だと思われる。
 ともあれ、この句は「中国製の証拠となしえず」という、その「結論」においては、王氏はわたしと意見を同じうされたのである。
 第二に、「吾・・・・・至海東」の句(同じく茶臼山古墳出土三鏡の一にある)について、“「海東」とは朝鮮や日本を指す言葉であるが、ここでは日本のことである。すなわち中国の鋳鏡者が日本へ渡来したことをしめす”と解された。これこそわたしが王論文の二年前の『ここに古代王朝ありき』で強調した、肝心のテーマだ。この本の表紙にも、この鏡(「海東鏡」とわたしは名づけた)の拡大写真が使われている。
 わたしのこの「海東鏡」についての考察に対して、日本人たるわたしの「恣意的な解釈」であるかのように論難した論者(奥野正男氏「銘文から伝製鏡説は証明できない ーー中国出土鏡の事実から古田説を批判するー(下)」「東アジアの古代文化」二四、昭和五十五年夏)が現われたけれども、当の中国側の専門家が、わたしの解読に“相和した”形となったのである。
 第三に、“三角縁神獣鏡とは、呉鏡に多い神獣鏡と三角縁画像鏡のモチーフを組み合わせたものだ”という指摘、そこから王氏は呉の鋳鏡者の日本渡来を推定される。この点もまた、わたしが『ここに古代王朝ありき』(一五七ぺージ)で指摘したテーマであった。
第四に、笠松形の模様の出現。“この笠松形の模様は中国鏡には出現しない。従って日本製の証拠である”と。この点に関しては、奥野正男氏(「邪馬台国九州論 ーー鉄と鏡による検証」「季刊邪馬台国」五、昭和五十五年七月、等。氏は「幢幡紋とうはんもん」と呼ばれる)の卓見がある。
 以上、いずれの点をとっても、すべてすでに日本側で指摘され、強調されていた点なのである(第一〜三点については、森浩一氏・松本清張氏等のすぐれた先行研究がある。後述)。

 このように王論文の各論点は、必ずしも“創見”とはいいがたいかもしれないけれど、日本側の主として民間側の論者(森氏を除く)の提起に対して「黙殺」しつづけてきた、日本の考古学界に対して“否応なく”再検討を迫るものであったといえよう。その点、樋口隆康氏が次のようにのべられたのが、わたしには印象深かった。
 「そして『師出洛陽』の銘がおかしいこと、また日本へ渡ったことを示す『至海東』の銘があることは、古田氏がすでに主張しておられ、とくに、中国の工人が日本へやってきて作った鏡であるという結論も古田氏の主張と同じである。
 古田氏がこれらの説を発表したときには、あまり問題としないで、中国の学者が書くと、それで結論がでたように大騒ぎするのはどうしたことであろうか。日本人は外人に弱いという通弊がまたここでも出たのかもしれない」(「中国・王仲殊氏の論文を読んで」「サンケイ新聞」昭和五十六年、十一月十六日)
 わたしとは対立した学説上の立場にありながら、京大の研究室に訪ねると、いつも快く資料を提示して下さる樋口さん、そのお人柄そのままの文章だった。

 このように中国側の専門家による魏鏡否認、という点で画期的、その上で日本側のわたしたちの「異説」の正当性を“追認”した、研究史上そのような意義をもつ、この王論文であったけれども、精読の中で大きな問題点の存在を見出すこととなった。
 ことの発端は、この論文の末尾にあった。
 「邪馬台国の所在地が九州か、はたまた畿内かは、当然、今後の継続的な研究をまつべきである。しかし、私は三角縁神獣鏡が東渡の中国工匠の手で日本でつくったものだといっても、このことによって、『畿内説』が不利な立場にはならないと思っている」
 この一節について、杉山さんは“王さんのリップ・サーピスと解しておられたようである。スクープ記事(九月十三日の末尾にも、右の趣旨の文が引かれ、「 ーーーと日本の考古学者への配慮もしている」と結ばれている。
 たしかに「三角縁神獣鏡は魏鏡に非ず」という、王氏の論断は、直ちに「邪馬台国」近畿説の命脈を断つ。これが日本側の、いわば“常識”だ。なぜなら“近畿説最大の依り処は、今やこの三角縁神獣鏡問題” ーーこれが日本古代史界の近来の通念となっていたからである。
 たとえば直木孝次郎氏の『日本の歴史1 倭国の誕生』(小学館)を見てみよう。氏は本来、文献学者としての近畿論者であった。ところがここでは、肝心の里程・方角論などの、倭人伝の文献的読解を基本とする論述は、むしろ研究史上の回顧にとどまり、その“決め手”のような位置におかれているのは、実に「鏡からみた邪馬台国」の一節であった。すなわち小林行雄氏による三角縁神獣鏡配布の理論である。これによっても、現況は察せられよう。
 従って“その肝心の三角縁神獣鏡が魏鏡ではない”となったら、近畿説そのもののピンチは必至、これが古代史に関心ある人々の常識だったのである。それゆえ、王論文末尾の一文が、王氏の論証によって危殆(きたい)に瀕(ひん)した「邪馬台国」近畿説論者への心やさしき“思いやり”、そのようにうけとられたのも、無理はないであろう。
 しかしながら実は、王論文全体の論理構造のさししめしているところ、それは意外にも近畿説だった。つまり王さん自身の立場は「邪馬台国」近畿説である。それをわたしは、王論文そのものによって確認した。以下、その論述の骨子を辿ってみよう。
 (一) 中国出土の神獣鏡に「黄初〜年」といった、魏朝の年号の銘されたものがある。これは魏鏡ではなく、呉鏡である。しかるにこれに「魏の年号」を銘刻した理由は次のようだ。魏朝の草創期、呉の孫権は魏朝の「天子」たる存在を認め、これに「臣従」を誓っていた。その時期に作られたのが、この鏡であろう”というのである。王氏のこの論断を読んで、わたしは「あっ」と思った。梅原末治氏の『漢三国六朝紀念鏡図説』等によって、「この黄初鏡が魏鏡であることは、自明」。そう思ってきた。何しろ「黄初(二二〇〜二二七)」という年号は、魏朝にしかないのであるから。王氏の右の判断は、若干の問題点(年号の大義名分論等)をふくむものの、まことに興味深い問題提起(仮説)だ。わたしにはそのように見えた。
 ところが、このさいこの黄初鏡問題は、次の「三角縁神獣鏡の年号鏡」問題に対する前提だった。つまり左のような“王氏独自の判断”それへと導く伏線をなすものだったのである。
 (二) 三角縁神獣鏡の中には、年号鏡がある。景初三年鏡・(正)始元年鏡がそれである。魏の年号鏡だ。呉の鋳鏡者が日本に来たとき、日本では魏の勢威が盛んだった。そのため彼等は自分たちの作った三角縁神獣鏡に魏の年号を銘刻した。これが右の年号鏡である”と。
 先の黄初鏡に対する判断を背景にした、一見“見事な絵解き”のように見えよう。しかしながらさらに精思すると、そこには意外な問題点、深い矛盾の様相が見られるのである。それを分析しよう。
〔その一〕
 王氏の説の場合、呉の鋳鏡者は、魏の景初(二三七〜二四〇)・正始(二四〇〜二四九)年間以前に、日本へ渡来してきていたこととなる。いいかえれば、あの「卑弥呼以前の渡来」だ。そして彼等は、日本列島のどこかで、三角縁神獣鏡大量作製作業の“火ぶた”をすでに切っていた。 ーーそういうこととなるのである(いわゆる「景初三年鏡」の中で、一は三角縁神獣鏡〈島根県、神原神社古墳〉、他は画文帯神獣鏡〈大阪府、和泉黄金塚古墳〉である)。
 これに反し、わたしが『ここに古代王朝ありき』で“呉の鋳鏡者渡来”を説いたとき、その時期は“呉朝の滅亡期”(二八○)をメルク・マールとしたものだった。この点、同じ「呉の鋳鏡者渡来」といっても、王氏の思い描かれたところと、わたしの想定(ただし、可能性あるケースの一つとしてのべたもの)とは、大きく実体があいへだたっているようである。

〔その二〕
 王氏の説によれば、卑弥呼当時、三角縁神獣鏡、ことにその年号鏡類が作りつづけられていたという。そのさい、三角縁神獣鏡の出土分布からいえば、当然全体としては、近畿が中心だ。その近畿において、呉人が、(しかも中国では、孫権がまさに勢威をふるいつづけていた、その時代〈呉の年号は「赤烏せきう」)に敢えて「魏の年号」を刻んだ、というのだから、これを裏返せば、三世紀前半の卑弥呼当時、日本列島で“魏が勢威をふるっていた地帯”は、近畿中心だ、ということを指示しよう。とすれば、魏朝から景初年間、「親魏倭王」の称号をもらった卑弥呼、彼女の居城は、同じく近畿の可能性が大。当然そういう“りくつ”となってしまう。とすれば、先の王論文末尾の一節は、リップ・サービスどころか、氏の立論の帰趨(きすう)点、つまり本音だ。そのように見なすべき筋合いのものだったのである。

〔その三〕
 けれども同時に、王氏の立論には大きな弱点が新たに現われる。それは肝心の“魏朝から卑弥呼のもらった、百枚の銅鏡”、それがどの型式の鏡とも、特定できないことだ。
「魏が鏡を贈ったことは、歴史的事実である。贈られたところの鏡がいかなる種類に属するかについては、三角縁神獣鏡を除く各種の、同時期の、本当の舶載鏡を考えるべきで、基本的に神獣鏡と画像鏡をふくむべきでない」
という、具体的な鏡の型式を特定しえず、抽象論に終ったこの一節は、王氏の現在の“迷(まど)い”をありありと告白している。わたしにはそのように思われた。この点、樋口氏も先の論文の末尾で、
「最後に、三角縁神獣鏡のすべてが、もし日本で作られたとすれば、卑弥呼が魏王からもらった銅鏡百面とは、どの種の鏡とするのか、それを納得のいくように説明する必要がある。その実証ができない点が、この説の最大の弱点ではなかろうか」
と結び、王論文における問題の所在を鋭く突いておられる。
 たしかに論文の大半においては論旨明晰(めいせき)だった王論文は、末尾に近づくにつれて、“晦渋かいじゆう”の筆致を帯びてきていたのである。それはなぜか。

 ここで筆を一転して、わたしの三角縁神獣鏡問題に対する基本視点、それをのべておこう。それはおのずから王論文の内蔵する問題点に対する、わたしの根本の立場を明らかにするであろうから。わたしの視点には、横軸と縦軸の二方向がある。
 先ず、横軸。これは空間軸だ。三角縁神獣鏡の出土分布図を東アジア全域について描いてみよう。三百〜五百面、日本列島だけに近畿を中心に濃密だ。ところが、中国や朝鮮半島には一切ない。その「ない」地域を生産中心と見なし、濃密出土領域(日本列島)へ送られた「下賜物」と見なす、これはいかにも異常だ。せめてその鏡の実物はなくても、「鋳型」群でも集中出土するならともかく、むろんそれもない(通例、鏡は砂型で作るため、鋳型は見出されにくい)。実物もない、「鋳型」もない、そのないない尽くしの、その領域を生産原点と見なす、ここに「三角縁神獣鏡、中国製」説の致命的な欠陥があった。たしかに“中国には、やはり出土していない”ことが確認されたのは、今回の王論文によってである。しかしそれ以前の問題として、「この鏡こそ中国出土の三角縁神獣鏡だ。」という一点の認識も全くなしに、富岡謙蔵 ー 梅原末治 ー 小林行雄氏等の「中国製」説が論断し、「定説」化されていた。ここに日本考古学「定説」派の根本的な弱点、方法上の欠落が存在していたのである。
 “東南アジアに輸出された日本製の特注玩具が日本内では売られていない現象”を範とした、例の特注説(『ここに古代王朝ありき』一四四ページ参照)の場合でも、もし「遺跡」の問題として考えてみれば、大阪周辺の玩具工場や倉庫等には、その玩具を作る機械があり、失敗したり、送り残した、その特注玩具類はかなり遺存するはずではなかろうか。その点、三角縁神獣鏡のケースとは、やはり比較にならないのである。
 以上を要するに“物的出土物の存在しない領域(中国・朝鮮半島)をもって「本来存在した原領域」であるかのごとく、言いなしてはならない” ーーこれがわたしの横軸の論理だ。万人の首肯するところ、と信ずる。
 第二の縦軸問題。これは時間軸の方だ。三角縁神獣鏡は弥生(やよい)遺跡から全く出土しない。すべて古墳期の遺跡だ。つまり古墳からの出土なのである。それなのに、これをもって“本来は、弥生時代(三世紀前半)に魏朝から卑弥呼に与えられたものだ。しかし彼女から鏡を分与された配下の豪族たちは、自己の墳墓や同時代の生活遺跡にはこの鏡の残片すら、一切遺存させなかった。そして次代もしくは次々代の子孫たちへと伝えた。そして古墳期の子孫たちが、あるいは四世紀、あるいは五世紀、あるいは六世紀になって、その墳墓、つまり古墳にこの鏡を埋蔵した”。そのように考えるのである。これが有名な「伝世鏡の理論」だ(梅原末治氏をうけついで、小林行雄氏の完成されたところ、とされる)。
 しかしこの理論は、たとえそれが「専門」の考古学者の頭を納得させえたとしても、人間の平明な理性に依拠する、わたしのような一介の素人を納得させる力はなかった。なぜなら“弥生遺跡(A’)には皆無。古墳にすべて(B’)”が基本の事実なのに、「A’→B’」の形の「時間移動」を仮定する、これは思考の平明なルールを越えるものだからである。これはちょうど、先の横軸問題で、「定説」派が“中国・朝鮮半島(A)には皆無。日本列島にすべて(B)”が事実であるのに、「A→B」の「空間移動」を仮定し、皆無領域を“原存在点”とみなしていたのと全く同一の論法だ。人間の理性から見て、いわば“逆立ちした論法”である。わたしには、このような論法に従うことができない。やはりすべてが古墳から出土する出土物は、これを古墳期の産物と考えるほかはない。これが縦軸の論理だ。
 以上の横と縦の「両軸の論理」からすれば、“三角縁神獣鏡は、古墳期における、日本列島内の産物である” ーーわたしにはこのように理解するほかなかったのである。

 王氏にとって「躓(つまず)きの石」となったのは、年号鏡(「景初」「正始」)の問題だ。わたしはすでにこの問題を論じたことがある。第二書『失われた九州王朝』の「年号鏡の吟味」(角川文庫九三ぺージ参照)だ。以下に要約しよう。
 先ず、「景初三年」鏡(和泉黄金塚古墳出土、画文帯神獣鏡)と呼ばれるものを吟味したところ、第二字「初」とは読めない。末永雅雄氏の報告書でこの異体字に当る「魏」の字形とされたものは、実は「魏」は「魏」でも三世紀ではなく、四〜六世紀の「後魏」(北魏・東魏)の字形だった。その後、学界に報告された島根県神原神社古墳出土の「景初三年」鏡(これは文字通り三角縁神獣鏡)もまた、第二字が不分明であった。少なくとも、字体そのものからは、決して素直に「初」と読める“代物しろもの”ではなかったのである。
 次に、「正始元年」鏡に至っては、二面とも、第一字が“見事に”欠如していた。
 以上の事実に対し、わたしの立場は次のようだった。「読めぬものは、読めぬとする。これが学問の根本である」と。
 もちろん自分流の推測によって、いろいろの文字をその欠損・不分明個所に当ててみる。これは心楽しい試みであろう。親しい友人同志の談論の間でそれを語ったり、随筆にしるしとどめてみるのも、あるいはよかろう。しかし、その自分の推量で補った文字に基づく推論を、重大な根本的論定の柱として使ってはならぬ。 ーーこれがわたしの立場だった。否、人間の理性が万人に命ずるところ、わたしはそう信ずる。しかし日本の考古学界はちがった。“この年号鏡こそ三角縁神獣鏡が魏鏡であることの動かせぬ証拠”。そのようにのべる人々が、従来の「定説」派を形造ってきたのである。
 他の例をあげよう。江田船山(えたふなやま)古墳出土の大刀の銘文読解のさい、原文面の「獲□□□カタシロ大王大王」に対して「之宮瑞王」と補い(○字、インターネット上は赤色表示)かつ訂正(、字、インターネット上は青色表示)して読んで反正天皇に当て(福山敏男説)次には「加多支カタシロ大王大王」と補って、雄略天皇に当て(岸俊男説)、第二回目の「定説」を“形造っ”た、いわば「自補自証主義」と呼ぶべき主観主義。それが日本古代史学を支配していた。わたしはこれを非としたのである(「獲」も正確には「狼」に近い)。

 問題の本質はこうだ。“「三角縁神獣鏡は魏鏡である」という前提に立てば、これらの欠損年号はそれぞれ「景初」「正始」と読める”ということであって、決してその逆ではない。この一点である。従って“この欠損年号鏡をもって文句なく「魏の年号」をあらわしたもの”と見なす、それははなはだ危険だ。学問の方法論上、決して基準や前提とすることはできない。すなわち、あくまで「景□三年鏡、□始元年鏡」として処理すべし、これがわたしの立場である(山口県新南陽市竹島出土の三角縁神獣鏡に「正始」の文字が見出されたと報ぜられた〈「毎日新聞」昭和五十六年三月九日〉が、それは五十九個の破片である上、「正」の文字自体も必ずしも明晰ではなく、「泰よりは正」という判断にもとづくようである〈西田守夫氏〉。なお「□始」の形の年号は多い〈第二書第一章III参照〉)〔西田守夫「竹島御家老屋敷古墳出土の正始元年三角縁階段式神獣鏡と三面の鏡 ーー三角縁神獣鏡の同笵関係資料(五)」MUSEUM No.357参照〕。
 静かに以上の道理を見すえてみれば、王氏の不幸にも陥られた「欠損年号鏡の陥穽かんせい」が明らかとなろう。なぜなら王氏は「景初三年鏡・(正)始元年鏡」として、第二字の「初」をあたかも「自明の文字」であるかのように表記しておられるからである。こうなれば、文句なく“両者とも魏の年号”ということにならざるをえない。とすると、必然的にこれら年号鏡をふくむ相当量の三角縁神獣鏡が、すでに三世紀前半に日本列島内で作られていたことを認めざるをえぬ。しかるに一方、弥生期(三世紀は弥生後期とされる)には、三角縁神獣鏡は全く出土しない。となると、果然、王氏もまた、ここではあの「伝世鏡の理論」の双肩にどっかりと依拠し、依存しなければならぬこととなってしまうであろう。
 しかしこれは明白に背理だ。なぜなら先にのべたように、この横軸問題と縦軸問題とは、論理的に全く同一である。ただ空間軸と時間軸という、現われ方のちがいにすぎない。要は“空白領域(A)を原域と見なし、現実の分布領域(B)を派生領域と見なす”ことを非とする、という、人間の理性の通理にもとづくものだ。だから空間軸では、人問の理性に従って「定説」派の見地を断乎(だんこ)(しりぞ)けられた王氏が、時間軸では、人間の理性に反して、いわゆる「定説」派の見地に追従する、というのでは、これは明確な背理だ。自己矛盾というほかはないからである。そのため結局、王氏は先のように、真の「魏鏡」、すなわち“魏朝から卑弥呼へと贈られた鏡の形式”を特定できないという結果に陥られるほかなかったのである。
 このような矛盾した状況の中に王氏が不幸にも陥られた理由、それはもはやいうまでもあるまい。「景初三年鏡・(正)始元年鏡」という形でこれを「魏の年代」そのものとして、“疑わずに”うけとられたからである。これは“日本の考古学界の自補自証主義的「判読」に対し、王氏が十分に批判的に立ち向われなかったがため”。そのように評することは、果して過言であろうか。
 要は“そのすべてが日本列島の古墳から出土する三角縁神獣鏡は、日本列島における古墳期(四〜六世紀)の産物である”という、この自明の帰結以外に、万人を首肯させうる理解、それは結局ありえないのである。

 視点を前進させよう。
 卑弥呼が魏朝から贈られた銅鏡百枚とは何か。王氏にとって晦冥(かいめい)の難所と見えた、この問題も、人間の理性の平明な視点に立てば、意外にも解答は簡明である。そのための問いは次のようだ。
"日本列島弥生期の遺跡から出土する銅鏡の分布中心はどこか"と。
 その答えはすでに『ここに古代王朝ありき』でしめした。
 全体が約百七十面、その九割が福岡県、さらに約九割が筑前(ちくぜん)中域(糸島・博多湾岸・朝倉)。つまり全体の約八割が筑前中域だ。このように極端な分布の偏在を眼前にするとき、わたしたちはその中心領域の所在について迷おうとしても、およそ迷うことは不可能だ。然(しか)り、卑弥呼の都城の存在した領域、それはこの筑前中域を除いて他に求めえないのである。

弥生遺跡出土、全漢式鏡

 王論文のしめした「三角縁神獣鏡は魏鏡に非(あら)ず」の論断は、王氏自身の躊躇(ちゅちょ)に反して、まさに「邪馬台国」近畿説に対して根源的な打撃を下すものであった。その点、この説に依拠してきた、いわゆる「京大学派」(日本古代史・考古学)が最大の激震をこうむったもの、とも称しうるであろう。
 では、一方でこれと対峙していた、いわゆる「東大学派」(同右)、すなわち筑後山門(もしくは肥後山門)を拠点とする論者は、“己が提説の正当性”を果して誇りうるであろうか。 ーー否。なぜなら先の日本列島弥生期の銅鏡分布図がしめすように、筑後は四面、肥後は零だ。このような極少領域がなぜ倭都であると誇称できるか。もしそれができるなら、大和でもーー そこで弥生期の銅鏡(いわゆる「漢式鏡」)出土は零 ーー堂々と三世紀の倭都であることを主張できることとなってしまうであろう。しかしそれはおよそ物(鏡という出土物)に立つ議論ではない。
 かつて倭都鹿児島説をのべた論者があった。いわく“銅鏡はおびただしく(鹿児島の地に)存在したが、桜島(さくらじま)の噴火によって、すべて地下に埋没し去ったのであろう”と(高津道昭『邪馬台国に雪は降らない』)。この論旨に対してあるいは“一笑”に付される方もあるかもしれぬ。しかし何人にもそれは許されないであろう。なぜなら筑後山門論者も、“”かつて筑後山門に多くの銅鏡が埋蔵されていた。しかし「邪馬台国」東遷のさい、すべて持ち去ったのだ。だから今はほとんど何も出てこないのである"。そのようにのべているのであるから(江上波夫氏「東アジアの古代文化」大阪講演)。そしてすべての筑後山門論者もまた、氏と大同小異の論法に依存しなければならないこと、自明である。(一九八○年大和の見田・大沢四号墳に四獣鏡一出土)。
 それだけではない。もしいったん、このような論法が許容されるなら、日本列島中、いかなる「邪馬台国」候補地の論者も全く“困らない”であろう。なぜならそれぞれいずれかの理由(天災・人為移動・未発掘等)をもって自家の候補地の“出土皆無”もしくは“出土寡少かしよう”の現況に対し、まさに十分な“机上の解明”を与えうるであろうから。けれどもそのような“恣意の論法”がいったん許されるとき、「邪馬台国」論争はいかなる“決め手”をも失い、むしろ学問としての本質を喪失してしまうこととなるであろう。そして遺憾ながら、それが現況だ。
 さわやかな弁舌をもっていかに論ずるとも、それはよい。しかしながら事実は頑固である。「物に立つ議論」を無視しない限り、「邪馬台国」をあちこちに勝手に擬定しようとも、それは所詮(しよせん)無駄だ。先の分布図のしめすところ、その自然の帰着を拒みうる、いかなる学界の権威も、在野の研究者も、すべて存在しえないようにわたしには思われる。

 昨今、一種“不可解”な現象が見える。王論文の出現以後、にわかに“「邪馬台国」は分らない。今後当分分らないだろう”という類の声が、ジャーナリズムや学界の一部に目立ってきたことである。
 この現象のおきた理由の一つは、王論文の衝撃をそういうクッションでうけとめるためであろう。近畿説と九州説との間でながらく保たれてきた“学界内のバランス”の崩れるのを恐れる向きもあろうから。
 けれども、これらと異なる立場の人々がある。それは早くから「三角縁神獣鏡魏鏡説」に対し、疑惑を投じてきた、先見ある方々の場合である。
 先ず森浩一氏。若き日(昭和三十七年)物された論文「日本古代文化 ーー古墳文化の成立と発展の諸問題」(『古代史講座3 古代文明の形成』〈学生社〉所収)によって、今日の問題を早々と予言された俊秀であった。その点、(年齢はわたしに次いでおられるけれども)研究上、わたしたちの貴重な先達ということができよう。氏の論点には当初以来、微妙な変動(年号鏡の処理の仕方など)があるようであるけれども、その中で注目すべき問題点をあげてみよう。
 (一) “三角縁神獣鏡の大半は魏鏡ではない。”というのが氏の立場のようである。従って「ぼくは、必ずしも全部日本製だという説は一度もとってないのです」(『古墳時代の考古学』〈学生社〉一四一ページ)と力説しておられる。この点、現在の氏は、いずれの立場(全面国産説と一部舶載説)に立っておられるのか、その帰趨を注目したい。
 (二) 氏の特異の説として「公孫淵(こうそんえん)の遼東(りようとう)をもって三角縁神獣鏡の優品の母域」とする立場がある(同右書、森氏『古墳』〈保育社〉等)。王論文にも、この説の存在がふれられている。この説の場合、“遼東半島にも、三角縁神獣鏡の出土がないではないか”という問題が、的確な反論として、早くから出されていたのである(三上次男氏。前掲『古墳時代の考古学』、一四六ぺージ)。森氏の明確な追論が待たれる。
 ※これらの点が不明のため、『ここに古代王朝ありき』においては、右の若き日の出色の論文名をあげさせていただくにとどめた。

 次に松本清張氏。昭和四十六年、「芸術新潮」に連載されたものが、四十八年『遊古戯考』(新潮社)として刊行された。この中にすでに「三角縁神獣鏡国産説」を堂々とのべ、さらに“楽浪(らくろう)郡からの中国人鋳鏡者渡来”などにふれておられる。すぐれた直観力である。さらに『清張通史1 邪馬台国』(講談社)でも、その説は明確にのべられている。
 ところが、この両氏とも、最近一段と「邪馬台国不明説」を唱えておられるように見える。いわく“邪馬台国は分らない”“五十年や百年は分らないでしょう”“いや永遠に分らないかもしれませんよ”などと。これはどうしたことであろうか。
 わたしの目から見ると、その根本の原因は次の二点にあるように思われる。
 第一、「博多湾岸奴国説」という、本居宣長以来の通説を、両氏とも先入観としてうけ入れておられること(森氏は一時これへの保留をしめされた〈『邪馬台国九十九の謎』産報、昭和五十年十月、一七九ぺージ〉が、また最近では通説に立つ解説〈たとえば「広陵王印」「アサヒグラフ」昭和五十六年八月七日〉をくりかえしておられる)。
 第二、糸島郡の大半を「伊都国」と考えておられること(これも原田大六氏他の通説であるけれども、実は戸数問題等の疑点が多い)。
 以上によって、そのいずれをも両氏には「邪馬台国」の中枢に当てることができないのである。いいかえれば、先の日本列島弥生期の銅鏡分布図のしめすところ、全体の約八割を占める「筑前中域」は、両氏にとってもまた、思考の「前提条件」として“「邪馬台国」ではありえない”こととなろう。とすると、あとの二割は集中せず、漫然と分散するにすぎぬ。「物」に立つ論者がその中のどこに「邪馬台国」を探せるものだろう。そこに“分らない、分らない”という歎きが生ずるのは、いわば不可避の帰結ではあるまいか。
 ハッキリと問題のポイントをのべよう。“弥生期の日本列島の銅鏡分布図において、各地にまんべんなく銅鏡が(たとえば二、三面ずつ)分布している、このような現況なら、それこそ「分らない」という一言こそ、学問的である。しかし事実は逆だ。全体の約八割という極端な集中度がしめされているとき、この事実に背を向けて、「分らない」といいつづけること、それこそ言葉の正碓な意味において、非学問的である”と。
 わたしがこのようにつめよるとき、考古学者たちのつぶやく声が聞えるような気がする。“弥生遺跡の漢鏡は、弥生中期(ほぼ前一〜後一世紀)後半か、弥生後期(二〜三世紀)初頭、もしくは前半とされてきた。従っていきなり弥生後期後半(三世紀 ー 卑弥呼当時)に当てるわけにはいかない”と。
 その通りだ、もし従来の考古学者の立てた年代観が正しければ。しかしそのとき“従来の年代観自身、実は「三角縁神獣鏡は魏鏡である」という基本命題の上に築かれている”そのことが忘れられてはならない。その証拠に、考えてもみよう。もしいわゆる「漢式鏡」(弥生期出土の銅鏡)が二〜三世紀をふくむ時期のものとされていたら、右の基本認識自体がナンセンスとなろう。なぜなら“卑弥呼当時のもの”と明確に指定された銅鏡群が「三世紀の遺構」にれっきと分布し、存在しているのに、次の時代(古墳期)出土の三角縁神獣鏡をもってこれ(前代の卑弥呼がもらった鏡)に当てる、そんなことはいくら何でもできるはずがない。はずがないからこそ、いわゆる「漢式鏡」は、“慎重に”上(先代)へと押し上げられて、弥生中期(前一〜後一世紀)付近に当てられてきたのだ。そのさい、何も、これらの「漢式鏡」に“弥生中期に当る中国年号”が刻されていたわけではない。すべて日本の考古学者の推定、もっとハッキリいえば、「目分量」にすぎなかったのだから。
 「われわれの判定に異議を唱えるのか」そう声高にいいうる日本の考古学者がいるだろうか。「三角縁神獣鏡は魏鏡である」というのも、その「われわれの判定」ではなかったのか。そしてそれは今、王論文の前で危殆に瀕したのである。
 そして肝要のこと、それは“(A)日本の考古学者の立ててきた年代観と、(B)三角縁神獣鏡、中国(魏朝)製説とは、一貫したものである”という、厳然たる事実だ。平ったくいえば(A)(B)の両命題は“一蓮托生いちれんたくしょう”だったのである(この点について、先の『古墳時代の考古学』で森氏自身もふれておられる)。
 このような“本来の形成過程”を忘れて、結果としての年代観だけを固守しようとするなら、そこに根源の誤謬(ごびゅう)が生れるのではあるまいか。

 方法上、これに関連する重要なテーマがある。それは「博多湾岸、奴国説」だ。先ほどふれたように、これは先ず本居宣長の唱導にもとづくものだ(新井白石も『古史通惑問こしつうわくもん』で那珂(なか)郡としていた)。
 「かの伊都国の次にいへる奴国は、仲哀紀に灘県(なのあがた)、宣化紀に那津(なのつ)とあるところにて、」(『馭戎慨言ぎょうじゅうがいげん』)
という通りである。しかしながら、この宣長の論定方法には大きな欠陥がある。なぜなら倭人伝の表音体系の構造を無視しているからだ。この点、本題に入る前に一言しておこう。
 倭人伝には「弥弥(みみ)」「弥弥(みみなり)」というように、「那」が表音表記に使われている。これは明らかに「ナ」の音だと考えられる。従ってもし博多湾岸を“「ナ」国”であるとしたら、ではなぜ「那国」と書かないのか、という問題が生じる。現に宣長も指摘している通り、後世「の津」と書かれているではないか。これに対し、“「那」は、三世紀には「ナ」と読まなかった”。そのように論者が主張したいのならば、彼等はそれを“立証”せねばならぬ。なぜなら右の「弥弥利」は「みみり」と読む点において、異議提出者を見ないのであるから。しかし、わたしはそのような論証を知らない。このように、宣長の性急な判定には“立論上の手抜き”が見られるようである。

 この手抜きされた宣長の構築に対して、現代の論者は、いわゆる近代言語学上の「上古音」という概念によって“上塗り”しようとした。“中国の「上古音」では、「奴」は「ナ」であるから、やはり「奴国」を「『ナ』国」と読むのは、正しい”というのである。
 しかしながら、もし“倭人伝は「上古音」で読む”という手法なら、隣の「伊都国」も、(「都」の上古音は「タ」であるから)「イ国」となってしまう。(現に鈴木武樹氏も、それをすでに指摘された)。しかし、あの「恰土郡」や「恰土村」をかつて「イタ郡」や「イタ村」と呼んだ、などという証跡は皆無なのである。一方の博多湾岸は“「ナ」の津”の呼び名がつづいていた。矛盾だ。してみれば、“「奴国」は「ナ国」と読める。その証拠は上古音”といった議論も、「上古音」という学術用語という名の「鬼面」におどされるものの、その実体は意外にも脆弱(ぜいじやく)なのである。やはり宣長の権威を「上古音」の虚名によって“上塗り”してみたにすぎぬ。わたしにはそのように思われる。

 もう一つ、重要な問題点がある。
 それは、志賀島(しかのしま)金印の問題だ。今日の“博多湾岸、奴国説”の最大の根拠、それはこの金印に対する、考古学者三宅米吉の読解であるように思われる。すなわち教科書でも一般化されている「漢の委(わ)の奴(な)の国王」という読解だ。この読みは、あたかも“確乎たる定説”であるかのように、人々は思っている。現地の記念碑の前の解説にも堂々とその読みが書かれているから、一層人々の「思考力」を奪っているのであろう。
 けれども肝心の一点、それは人々の注意せぬところにある。それは三宅米吉氏がれっきたる「邪馬台国、近畿論者」であり、その立場を前提にした読解である、という事実だ。氏の「邪馬台国について」(「考古学雑誌」一二 ー 一、大正十一年七月)の一篇を読めば、それは明白である。冒頭に高橋健自(けんじ)の「古代の文化の中心が大和であった」という畿内中心説を紹介した上で、これに同調し、「私は邪馬台国は畿内であると思ふのである」と迷いなく論断してある通りだ。すなわち三宅にとっての三世紀日本の基本構図は、明らかに“大和に「邪馬台国」、博多湾岸に「奴国」”という形のものとして、氏の脳裏に鋳こまれていたこと、それを疑うことはできない。
 そのような基本古代構図に立って、それを一世紀に“遡上そじょう”させたもの、それが彼にとって金印読解のもつ意味だった。このような「大和が主、博多湾岸が従」という立場からの読解をもって ーーたとえば森氏や松本氏のように、必ずしも「邪馬台国近畿論者」を自認せぬ論者までーー あたかも基本事実のように前提するとしたら、一個の背理というべきではあるまいか。近畿大和に合わせるために改定された「邪馬国」を、九州にもってきて「山門」などにあてはめた、新井白石流のやり方、つまり“成立の根本の動機を忘れて、結果だけを独り歩きさせる”手法、それがここでもまた無批判にうけ入れられているのである。
 ハッキリ言おう。王論文によって、(王氏自身の躊躇にもかかわらず)「邪馬台国近畿説」が実質上崩壊した、とすれば、それは同じく三宅読解もまた事実上崩壊した、そのことを正しく意味するのだ。両者は切りはなしえぬ、論理の連環をもっているのである。
 もう一歩、切りこませていただこう。第二書ですでに書いた二段国名問題だ。
 中国の印制では「AのB」といった風に、二段に刻されるのが通例である。たとえば、
 「漢(A)帰義胡(B)長」
のように。これは印の授与者(A)と被授与者(B)との直接関係のみを認め、中間の介在者を認めない、そういう「中国朝廷側の論理」の表現である。しかるに米吉読解は、自家の近畿中心説のために、敢えて右のルールを破り、三段読みに奔(はし)ったものだ。王論文によって三宅読解の根石がとれてきた今、あらためてこの問題点が再指摘されねばならぬ。すなわち易々として「漢の委の奴の国王」というような、日本列島内における「井の中の蛙」的読法を通行させて怪しまなかった日々は去った。わたしにはそのように思われる。
 この点、
 「漢(A)旬奴(B)悪適戸逐王」
の例をもち出して、「三段読み」を弁護する論者がある(たとえば岡崎敬氏。『立岩遺蹟』〈河出書房〉解説)。
 けれども、これは学問の方法上、無理のようである。
 第一、「悪適戸逐」というのは、部族的称呼であって、「国名」とは直ちにいいがたい(その点、「三段名」の例とは、なしがたいであろう)。
 第二、もしそれが「国名」であったとしても、“印は「二段読み」が通例であり、「三段読み」は稀有例に属する”。この基本事実を否定できる人は誰一人ない。従ってわたしたちが日本列島出土の中国印を解読しようとするとき、当然ながら“通例のルール”によって読むべきであり、“稀有例”によって読むべきではない。これが学問の王道である。もし後者“稀有(けう)例”に従う)の場合には、その稀有のケースに属することを立証する、別の厳格な証明がいるはずである。それができなければ、所詮、学問の奇道を歩む者にすぎぬであろう。
 しかるに、そのような“稀有例”(であるかどうかも、第一の理由から不分明であるが)の指摘のみをもって、従来の通説(三宅読解)が“保証”される、そのように論者が考えたとしたら、それは学問の方法に対する反省の欠如、そういわざるをえないのではあるまいか。
 以上のような道理をわたしは疑うことができない。それゆえ「志賀島 ーー 博多駅 ーー 太宰府だざいふ」という邪馬一国の中枢地帯 ーーそれは出土物の質・量ともに日本列島随一の、弥生のゴールデン・ベルトであるーー から新たな出土物(たとえば「細剣の鋳型」から「貨布」まで)があるたびに、「またも奴国から画期的な出土」と書きつづけてきた悪弊。その気風が一掃されたとき、はじめて卑弥呼の都城領域は、スッキリと万人の眼前にあらわとなってくるであろう。

ーーディアロゴス(対話)
(「古田さんが指摘していて、王論文も同じ論旨を辿られた『海東鏡』の件ですが、あの『至海東』は、“蓬莱(ほうらい)山などを含む地域を漠然たる仙境として指しているものだ、日本のことではない”という反論が出ましたね」
古田「ああ、藤沢一夫氏の論文(「三角縁神獣鏡の日本製説は早計」「毎日新聞」昭和五十六年十月二日)だね。ところが不思議なことに、藤沢さんは『海東』の用例をあれこれと模索しながら、ズバリ『海東』を使った用例は一つも見出しておられない。ただ『山海経せんがいきょう』の海内北経(ただし注部分)に蓬莱山について『渤海(ぼっかい)の中に在るなり』という解説のあるのにヒントをえて、『海東=仙境』説をのべておられるだけだね」
「そんなに『海東』という言葉は、用例が見当らないんですか」
古田「いや、そうでもないね。先ず有名な例として、『漢書』の司馬相如(しばしょうじょ)伝に、『私は青丘(せいきゅう)に田(=狩)し、服虔(ふくけん)曰く「青丘国。海東三百里に在り」』とある」
「ああ、あの『邪馬一国への道標』で司馬相如の『子虚賦しきょのふ』問題のとき出された例ですね。服虔(ふくけん)というのはいつの人ですか」
古田「後漢の人だね。字は子慎、榮陽の人で、尚書侍郎、高平の令、九江の太守と歴任したんだ。『漢書』(顔師古がんしこ注)の解説に出ている。これは斉(せい)の国、つまり山東(さんとう)半島あたりから東をさした用例だから、ちょうど朝鮮半島の平壌(へいじょう) ーーソウルあたりの中の中枢地帯をさしているものだろうね。藤沢さんも『古くから朝鮮地域の国は、みずから海東と称していた』と書いておられるが、その淵源(えんげん)をなす用例だろうね」
A「問題の、日本列島に当る用例はないんですか」
古田「どうして、どうして。『書経しょきょう』で、
(イ)島夷(とうい)皮服(注、海曲、之を島と謂(い)う。其の海曲、山有り。夷、其の上に居るを謂う)。
(ロ)海隅、日を出だす。率偉(そつぴ)せざるはなし(周公しゅうこうの条)。
とあるように、東の『島に住む夷』のことを“海の隅の、日の出るところ”に住む存在としてとらえている。(イ)と(ロ)が日本列島をさすと考えられることは、すでに『邪馬一国への道標』や『邪馬一国の証明』で大いに論じたところだ。陣寿が『三国志』の東夷伝序文で、
『長老説くに「異面の人有り、日の出づる所に近し」と』
といったのが『倭人』をさす、ということはすでに第一書『「邪馬台国」はなかった』でのべた。ところがこの文面は、当然ながら『書経』の(ロ)の文面を背景にしているんだ。また倭人伝冒頭の有名な、
『倭人は帯方の東南、大海の中に在り、山島に依りて国邑(こくゆう)を為す』
の句も、同じく『書経』の(イ)の文を背景にしている。少なくとも中国の(洛陽を中心とする)インテリは、そういう(『書経』の)教養のもとに、この倭人伝を読んだ。陳寿も、読者からそううけとられることを承知で、書いた。これは疑いないところだ。
 とすると、“海の向う、日の出る処”にある、倭人の地(日本列島)が『海東』でないわけはない。先ずわたしはこう考えた。しかしこれは藤沢さんの場合と同じく、ズバリの例ではない。ところが ーーーー」
「ズバリの例があったんですか」
古田「あったね。『三国志』東夷伝の中の東沃沮伝 ーー倭人伝のすぐ前の方ーー に、
『王[斤頁](おうき人名、魏の母丘倹かんきゅうけんの部将)、別に遣わして追いて宮(高句麗王)を討ち、尽く其の東界を尽くす。其の耆老(きろう)に問う。「海東に復(また)人有りや不(いな)や」と』
とある。

王[斤頁](おうき)の[斤頁]は、JIS第3水準ユニコード980E

 これに対して耆老が答えた、幾つかの貴重な説話が書かれている。海の東に一つの島があり、そこの風俗では七月に“童女を取って海に沈める”習わしがある、とか、また一つの国があって、海中にあるが、女だけで男はいない(「純女無男」)ところだ、とか、また一つの破船が流れついたが、その中に身体は一つで首が二つの人物 ーーいわゆるシャム双生児だろうねーー が乗っていて、言葉も通ぜず、食べずに死んでしまった、といった真実(リアル)な悲話が告げられている。そして『其の域、皆、沃沮の東の大海の中に在り』と結ばれているんだ」
(「ああ、その話、『邪馬一国への道標』(講談杜刊、角川文庫所収)にも出ていましたね」
古田「沃沮は、朝鮮半島の東海岸(北半)の国だから、その東とは、日本海、その彼方の島や国となれば、先ず、日本列島しかない、よね。それに先の『童女を取って海に沈む』に類した伝説も、山陰・北陸には分布しているようだからね。これは貴重な“三世紀時点における民俗学的採取”というべきだろうね」
「“女だけで男なし”というのも、“巫女(みこ)の住む男子禁制の聖地”としての国(島)が考えられますよね。姫島(ひめしま 大分県)や今は女子禁制の島になっている沖(おき)の島(福岡県)も、天照大神(あまてるおおかみ)の娘たちの島だっていうんだから、案外、昔は男子禁制の島だったかもしれませんね」
古田「たしかに、みな不思議な話だが、いずれも奇妙な真実味(リアリティ)があるよね。不幸な双生児の問題も、『古事記』に“葦舟(あしぶね)の蛭児(ひるこ)流し”の形で反映されている日本側の習俗とピッタリ相応しているし、ね。ともあれ、朝鮮半島の『海東』が日本列島になることは自明の理だ。のちに李氏(りし)朝鮮のとき作られた『海東諸国記かいとうしょこくき』(成宗せいそう二年、一四七一)という本があるけど、これも日本列島のことを書いた書物だからね。“『海東』は日本を指さない”なんて、とんでもない話だよ」
「そうすると、それは“朝鮮半島の人が日本をいうときの用例”ということになりますか」
古田「いや、そうとも限らない。現に今の東沃沮伝の例は、王[斤頁]という中国人の発言だ。また、これは河合紀さんという、わたしと同じ町に住む、清水(きよみず)焼の陶芸家の方から教えていただいた例だが、有名な唐代の詩人王維に

積水極む可からず
(いずく)んぞ槍海(そうかい)の東を知らん。

という詩がある。これは日本から来た秘書晃監(阿部仲満あべのなかまろ)に贈る詩だから、当然日本のことを『槍海東』といっている例だよ。
 それだけじゃない、この詩の序文に
『海東国日本為大』(海東の国は日本を大と為す)
といっている。日本を『海東』といった、これ以上の明文はないだろう」
「なるほど。日本側では、自分のことを『海東』とはいわなかったんですか」
古田「いや、そうともいえないね。有名なイ妥*王の多利思北孤(たりしほこ)が隋の天子、煬帝の使、裴世清(はいせいせい)に、
『我聞く、海西に大隋礼義の国有りと』
といっている。これは当然みずからを『海東の国』と見なした上での造語だから、『倭国=海東』説に立つ(背景とした)用例だ。多利思北孤は、例の名文句、
『日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、志(つつが)無きや』
で、自己を『書経』の「海隅、日を出だす」の国、『三国志』東夷伝の『日出づる所に近し』の国として、自己の身元の確かさ(来歴)を誇っているわけだからね。その『日出づる処』から見れば、中国は『海西』だ、というわけなんだ」
「何か、“視座のひっくりかえし”といった、壮大な気宇の造語ですね」
古田「この『海東』問題について、奥野正男さんも、わたしに反論してこられたんだが(「イ方*製説は銘文だけでは立証できない」「毎日新聞」昭和五十四年十一月十日)、これに対してはすでに再反論を書いた(「古鏡の史料批判 ーー奥野正男氏への再批判」「毎日新聞」昭和五十五年五月十六日。『邪馬一国の証明』収録)。
 その中で奥野さんが『蓬莱山の仙人境』の例と思って出された杜甫(とほ)の詩(「石を駆って何時か海東に到らん」)の『海東』が、その原拠(『述異記』等)に当ってみると、実は次の文だった。
『秦始皇(しこう)、石橋を海上に作る。海を過(よ)ぎりて日出づる処を観(み)んと欲す』
とあって、やはりこれも『日出づる処=海東』の例だった。『日出づる処の天子云々』の名文句の書かれた『隋書』は、初唐(七世紀前半)成立の史書、中唐の詩人、杜甫(七一二 ー 七七〇)は当然、(『書経』『三国志』と共に)この史書の教養の上に立っている。
 とすると、やはりこの例は、奥野さんの思わくとは逆に、『海東=日本』の例だったんだ。こういうように、論争の過程で新しい証拠が次々と見つかってくる、これこそ論争というものの醍醐味(だいごみ)だね、あの『闘けつの論証』のように」

イ妥*国のイ妥*は、人編に妥。ユニコード番号4FCO
イ方*製鏡のイ方*は、人編に方。第3水準ユニコード4EFF


「話は変りますが、従来の考古学界の『主流』だった学者は、“まだ今後、大陸から三角縁神獣鏡が出土するにちがいない”といっていますが。どうでしょう」
古田「全くその通り。賛成だよ」
「えっ、どうして」
古田「だってそうだろう。日本列島で三百〜五百面も出ているんだから、実数は、その五倍・十倍あったと見なければならないのは、当然。それだけ作られていて、しかも大陸(中国・朝鮮半島)との交流があるんだから、向うへもってゆかれなければ、その方がおかしい。献上だか、プレゼントだか、名目はいろいろあるだろうけどね」
「そういえば、長安から和同開珎が出たりしましたね」
古田「そうだ。だからといって、和同開弥が長安で(日本側の特注で)作られて日本へ送ってきたものだ、なんていう人はいないよね。それと同じだ。将来、必ず大陸(中国・朝鮮半島)から何面か何十面かの三角縁神獣鏡は出土する、これは予告しておいていいことだけど、だからといってすぐ『三角縁神獣鏡、中国製説の裏付け、復活』などと騒ぐのは、今から願い下げにしておいてもらいたいね。もちろん明確に日本側より早い、弥生期(魏)の古墳から出土した、というのなら、話はまた別だけどね」
「“中国で一面、三角縁神獣鏡が出た、それ”なんていうのは、とんでもない話なんですね。では、古田さんの考えでは、この三角縁神獣鏡問題は、結着がついた、というわけですか」
古田「とんでもない、これからだよ。第一、考えてもみたまえ。三百〜五百面にものぼる鏡、その中で文字のある、従来の『舶載鏡』、それが国産ということになれば、一夜にして尨大な金石文の文字資料が“出現した”こととなる。こんなことは世界の考古学研究史上でも稀有の事件だと思うよ。これからは『国内産出資料』として、再検討し直さなければならない。すると、今までに看過されてきた、たくさんの斬新(ざんしん)な間題が必ず浮上してくる、思うよ。先の『海東』問題など、まだその、ほんの序の口にすぎない。
 それに文字だけじゃない。『神獣』といわれている模様についても、そうだ。あれが果して『神人(中国の仙人)』や『神獣(中国の想像上の獣)』だけなのか、わたしは大いにあやしい、と思っている。
 別に空を雲で飛んでいるのでもない、ただ地上にどっかりと坐(すわ)って両側に給仕の女人をしたがえたような図柄の人物が、なぜ『仙人』であって、『人間』(日本の豪族、鏡を作らせた権力者)であってはいけないのか、誰も“証明”していないんだからね。ことに中国の神獣鏡には、笠松状の『幢幡』をもった『仙人』なんて、出現しないんだから、ますます従来の既成概念(仙人説)はあやしい、と思うよ。さしずめ中国の生粋の『仙人』であることの確実な“人相書き”でもそろえてみないことには、ね。こんなことは、すべて、これからはじまるんだ
「何だか、わくわくしてきましたよ」


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よみがえる九州王朝 幻の筑紫舞 角川選書 謎の歴史空間をときあかす

第二章 邪馬一国から九州王朝へIII理論考古学の立場から古田武彦

 未明の謎がある。
 わたしの目に、見事な論文として久しく眼底にとどまってきていたもの、それは梅原末治氏の「筑前須玖遺跡出土のき*鳳鏡に就いて」(古代学第八巻増刊号、昭和三四年四月・古代学協会刊)である。それは日本古代史上重要な里程標をしめす論文であるにもかかわらず、氏の後継者たち(及び一般の考古学界)から、つとめて“無視”されてきたものだ(以後、この鏡をK鏡と略記する)。

須久岡本D地点より出土のキホウ鏡 よみがえる九州王朝 古田武彦

き鳳鏡き*鳳鏡のき*は、インターネットでは説明表示できません。冬頭編、ユニコード番号8641

 その要旨を述べよう
 第一に、須玖岡本(すくおかもと)のD地点(いわゆる「王墓」とされるもの。前漢式鏡三十面前後が一甕棺(かめかん)から出土)から一個のK鏡が出土している。
 
 第二に、その伝来はたしかである。「最初に遺跡を訪れた八木(奘三郎)氏が上記の百乳星雲鏡片(前漢式鏡、同氏の『考古精説』所載)と共にもたらし帰ったものを昵懇(じっこん)の間柄だった野中完一氏の手を経て同館(二条公爵家の銅駝坊陳列館。京都)の有に帰し、その際に須玖出土品であることが伝えられたとすべきであろう。その点からこの鏡が、須玖出土品であることは、殆(ほとん)ど疑をのこさない」。

 第三に、現物観察によっても、右は裏づけられる。
「いま出土地の所伝から離れて、これを鏡自体に就いて見ても、滑かな漆黒の色沢の青緑銹(せいりょくしゆう)を点じ、また鮮かな水銀朱の附着していた修補前の工合など、爾後(じご)和田千吉氏・中山平次郎博士などが遺跡地で親しく採集した多数の鏡片と全く趣を一にして、それが同一甕棺内に副葬されていたことがそのものからも認められる。これを大正5年に同じ須玖の甕棺の一つから発見され、もとの朝鮮総督府博物館の有に帰した方格規玖鏡や他の1面の鏡と較べると、同じ須玖の甕棺出土鏡でも、地点の相違に依って銅色を異にすることが判明する。このことはいよいよK鏡が多くの確実な出土鏡片と共存したことを裏書きするものである」

 第四に、このK鏡は、内外に存在し、実際に観察した百面近い実例の比較からすると、二世紀後半期以降である。
「従って鋳造の実時代は当然後漢の後半、如何(いか)に古くとも2世紀の後半を遡(さかのぼ)り得ないことになるわけである
 このさい、ことに基準尺の一ポイントとなったのは、「印度支那のゴ・オケ遺跡出土品」であるという。大戦後フランス学者が調査を行った、サイゴンに近い古の扶南(ふなん)国の海港だったと覚しいこの遺跡の出土品に一面のK鏡片がある。ところが、セデス博士(George Caedes)の記述によると、同じ遺跡から西紀二世紀中葉のローマ時代の貨幣が出ている、という。梅原氏はパリのギメー博物館で、これらの遺品を実地に確認し、「かくてこれが考古学上からするこの種鏡の年代を推すきめ手の一つになることが認められる」とのべられた。すなわち、今問題の須玖岡本の王墓出土のK鏡は、右のK鏡より「退化」した様式に属し、右のK鏡以降のもの、とのべられたのである。
  ※最近、樋口隆康氏の『古鏡』(新潮杜、昭和五十四年十月)でも、この須玖岡本D地点(福岡県春日かすが市)出土のK鏡は、次の解説のもとにあげられている。(図版六五の128 )。
  「B平素縁式。・・・(中略)・・・同じ平素縁鏡であるが、その幅が狭く、内行花文が著しくカーブの低いもので、鈕(ちゅう)が大きく、且つ扁平な類がある。安徽(あんき)省出土品が多く、魏晋代の作である」(一九〇ぺージ)

 第五に、従って須玖岡本の王墓の実年代は三世紀前半以降である。
「これを要するに須玖遺跡の実年代は如何に早くても本K鏡の示す2世紀の後半を遡り得ず、寧(むし)ろ3世紀の前半に上限を置く可きことにもなろう。此(こ)の場合鏡の手なれている点がまた顧みられるのである」

 第六に、以上の論証によって従来の鏡の年代観(自分 ーー梅原氏ーー の提示し、一般の認めたもの)を一変させることとなろう。
 「戦後、所謂いわゆる考古学の流行と共に、一般化した観のある須玖遺跡の甕棺の示す所謂『弥生式文化』に於おける須玖期の実年代を、いまから凡(およ)そ二千年前であるとすることは、もと此の須玖遺跡とそれに近い三雲(みくも)遺跡の副葬鏡が前漢の鏡式とする吾々(われわれ)の既往の所論から導かれたものである。併(しか)し須玖出土鏡をすべて前漢の鏡式と見たのは事実ではなかった。この一文は云わばそれに就いての自からの補正である」

 第七に、問題のK鏡を他よりの混入であるとするような見地はとりえず、やはり今後は「此の新たな須玖遺跡の年代観」(三世紀前半以降)によらねばならない。

「如上の新たなK鏡に関する所論は7・8年前に到着したもので、その後日本考古学界の総会に於いて講述したことであった。ただ当時にあっては、定説に異を立つるものとして、問題のK鏡を他よりの混入であろうと疑い、更に古代日本での鏡の伝世に就いてさえママそれを問題とする人士をさえママ見受けたのである」

 以上がその要綱である。氏がいかに慎重に周密に論証の筆致を運んでおられるかが察せられるのである。またこの所論が一朝一夕のものでなく、京都大学教授在任中(退官は昭和三十一年八月)から熟慮を重ねきたった末の懸案であったことも赤裸々に語られている。
 ことに感動的なのは、自己が(師の富岡謙蔵氏を継承して)立案し、「定説」化されていった基準尺を自ら敢えて打ち破る、という、その気魂がここに鋭くこめられていることである。このような行為は学者にとっていかに困難であるか、わたしたちはその実例を幾多見得る(たとえば「邪馬台国」問題や王論文問題など)だけに、それを敢行された氏の学問的勇気を率直に賞讃させていただきたいと思う。
 ことに注目すべきは、“伝来の経緯”について「殆ど疑をのこさない」とのべられた氏が、伝来の関係者と同時代人である上、立場上、きわめて確認のとりやすい位置にあったことである。たとえば京都の銅駝坊陳列館などは、いわば氏の「お膝元ひざもと」にあった(あるいは、氏が同館の「お膝元」にいた)。その上、他の関係者間の実体も、氏の知悉(ちしつ)しておられたところに属すると思われる。このような立場にあった氏の証言は、後人の(確たる反証なしに)軽易にはくつがえし能(あた)わぬところ、といわねばならぬ。

 この梅原論文への“駁撃ばくげき”は、十年後に現われた。
 原田大六氏の『邪馬台国論争』(三一書房、昭和四十四年五月)がこれである。原田氏は先ず重要な指摘を行われた。
 「半欠品であるが、後に再発掘し鏡片の研究に従事した九大教授中山平次郎の手元に、それに属する鏡片が一片もなかったことは重要である」
 つまり明治三十二年の「発見」によるこの王墓に対し、大正初期から昭和初期にかけて、現地の再調査を行われた中山平次郎氏の尨大な収集品の中に他の残欠部(補完部分)が見当たらないから、梅原認定は疑うべきだ、といわれるのである。この「疑い」そのものは正しい。ただそれはあくまで「疑い」の発起点たるにとどまり、「論証」そのものでありえないことは明白である。
 第一、もしかりに「二十〜三十面のK鏡が出土した」というなら、“若干の残欠品(補完部分)があるはず”としうのも、一応はうなずけようが、たった一枚の鏡の場合、その残欠部分(補完部分)が“後年そこで発見される”というのは、むしろ“僥倖”に属するケースではあるまいか。
 第二に、事実、三雲遺跡の場合、文政五年(一八二二)に出土した前漢式鏡の残欠品(補完部分)が、奇(く)しくも当の原田氏を団長とする、近年の調査団によって発見されたことは著名であるけれども、その半面他の多くの前漢式鏡(三雲遺跡)や後漢式鏡(井原いはら遺跡)については、その残欠品(補完部分)は見出されていない。だからといって、これらの江戸期の発見報告(青柳種信等による)を“架空の偽妄”と言いたてる権利は、現代のどのような考古学者に許されないないであろう。もちろん、原田氏自身もそのようにはいっておられない。
 以上によって判明するように、原田氏の“疑い”は、一つのアイデアの発起点としては、当然しかるべきものではあっても、肝心の「論証」にはなっていないのである。

 では、原田氏の論証はどのようなものであろうか。氏は「検証の課題」として次の三点をあげ、みずから回答をしめされた。

 「(1) そのK鏡は須玖岡本の王墓出土ということに間違いはないか。
  (2) 他の鏡を副葬していた弥生墳墓でも梅原発言が証明されるか。
  (3) 弥生墳墓出土の鏡の編年に混乱が見受けられるか。
  以上の三点である。このことが明らかにならないことには、奇怪な梅原発言は承認されないのである。
   (1)の回答をしよう。須玖岡本の王墓出土の鏡復原に心血を注いだ中山平次郎の談話によると、そのK鏡が須玖岡本の王墓出土品ということには、はじめから疑問があったという。須玖の名前が有名になるのと同時に、骨董(こつとう)屋などが介入して、他の遺跡出土品をあたかも須玖から出土したように見せかけ、言葉巧みに二条家に売りこんだものらしい(注)
  (注)直接筆者が聞知した。(原田氏の注)
   (2) の回答。現在まで北部九州の甕棺に鏡を副葬していたのは、十八例知られている。これらのものは、前漢に属する鏡は中期(須玖式)の甕棺に、漢中期の鏡は後期前半(神在式)の甕棺に納まっていて、梅原発言のような混線は見受けない(表3 ーー 略、七三ぺージ〈引用書のぺージ〉参照)。ということは、梅原発言を他の例で証明することはできないと断言できる。
   (3) の回答。洛陽焼溝で判明した鏡の編年と、北部九州の弥生墳墓副葬の鏡の編年がほぼ一致していて、いずれも秩序が保たれている。須玖岡本の王墓の、ただ一枚のK鏡だけが混入物であることはこのことでも証明される」

 (1)の間題と回答について検討しよう。
 ここでは、中山平次郎氏の疑問が冒頭におかれている。「中山平次郎先生に墓はない、その墓はわたしの心の中にある」と、わたしが訪問したとき、明言された氏であるだけに、この“随聞記”は貴重である。「須玖の名前が・・・売りこんだものらしい」の部分が、中山氏の推測か、原田氏の推測か、文体上は必ずしハッキリしないけれども、末尾の注として、「直接筆者が聞知した」としるされているから、“中山氏の意のあるところを、原田氏が記した”。そう考えるのが、一応の筋であろう。
 さて、この問題について、次の二点が重要だ。
 (一)中山氏身、右のような「推測」をもちながら、論文の形でこれを明晰化していない一般に研究者は当然ながらさまざまの「推測」を、アイデア段階において有する。そして近習の“心を許した、若者たちに、あるいはこれを語ることありえよう。けれど、いざ、論文に書く”というとき、一方では、それが「裏付け」をえて明記できもるのと、他方では、「推測」にとどまって明記しえぬもの(場合によっては、捨てるもの)のあることは、人々のよく経験するところ、いわば当然の事態である。
 この点 、原田氏の証言をまつ外、中山氏自身が右の問題を「論文として明記」していない点から見れば、このケースは中山氏にとってやはり後者(客観的な裏付けのないため明記しなかったもの)に属した、ものではないかと思われる。

 この点、興味深いのは、右の問題の梅原論文が「中山平次郎追悼号」(「古代学」第八巻増刊号、昭和三十四年四月)に掲載されていることである。これは偶然の暗合であろうか。いいかえれぼ、ただ単に“梅原氏がその問題を当時扱っていたから、偶然この号に掲載した”のであろうか。この雑誌の目録は次のようである。

 考古学上より見たる神武天皇東征の実年代 中山平次郎
 遠賀(おんが)川遺蹟出土の小孔石庖丁 中山平次郎
 無紋系弥生式土器の陽飾 中山平次郎
 筑前須玖遺蹟出土のK鏡に就いて 梅原末治
 中山平次郎博士  梅原末治
 中山平次郎博士年譜
 中山平次郎博士著作目録 梅原末治編

 つまりこの雑誌のこの号全体が梅原氏の編集にかかるもので、当の中山氏の論文と梅原氏の論文のみで全体が構成されているのである。このような構成から見ると右の論文は当然「中山平次朗氏に捧ぐ」という追悼記念論文の意義をそなえている。そのように見なす他ないのである。ところで、今中山氏の恩愛の弟子、原田氏によると、中山氏の内面に重大な「推測」ないし「疑惑」の存在していたことが「証言」された。ではこの「推測」や「疑惑」は、果して(イ)中山氏ひとりひそかに抱きえた疑問であろうか。(ロ)また中山氏は他にはこの「推測」や「疑惑」を決して洩(も)らさず、あたかも「中世」の秘儀・秘伝の類のように愛顧の弟子たる原田氏のみにもらされたのであろうか。
 (イ)(ロ)とも、わたしには考えられない。なぜならことの性格上、この疑問は、中山氏ひとりのものではなく、ことに大学の学者にとって、何よりも先ず、“疑わるべき問い”であるはずだからである(京大からも現地〈須玖岡本〉へ調査団がおもむき、詳細な報告書が作られ、その中で鏡に関する報告を、当時気鋭〈三十代中葉〉の梅原氏が記したこと、著名の事実である〈「須玖岡本発見の古鏡に就いて」 ーー「京大考古学研究報告」一一、昭和五年〉)。
 次に梅原氏が富岡謙蔵氏の「助手」として、再三中山平次郎氏に接触していたことは、右の雑誌の追悼文「中山平次郎博士」中に、梅原氏自身が「私が博士に始めてお目にかかったのは、大正五年十二月のことである。・・・・・」とのべられたごとくであり、中山氏の死の「三日前」にも、氏の宅を訪れ、病をかえりみぬ氏の考古学上の問題についての談論風発に接し、その学問への熱情に対し、いたく感銘させられたという。このような実情から見ると、梅原氏がこの中山氏の疑念を“知っていた”と考える方が、自然の理解と思われる。そうであったればこそ、梅原氏はこの中山氏追悼号に対して、ことさら、この論文を載せたのではないか、わたしにはそのように思われる。少なくとも、中山氏亡きあと、梅原氏が先ず世に問わんとしたところ、それがこの一文であったこと、その一点の事実をわたしたちは疑うことができないのである。
 このようにしてみると、一見先に書いたように“梅原論文の十年後に、原田氏が駁撃を行い、その第一石として中山疑問をおいた”かのように見えたのであるけれども、その内実を探ってみると、実は逆に“梅原論文はその中山疑問に答えんとして、中山氏の霊前に ーー追悼号の中にーー おかれたもの”そういう根本性格が浮かび上ってくるのである。”
 従って原田氏はこのK鏡について「二条家の銅駝坊陳列館に、須玖出土品といって収蔵されていたもので、誰の手を経過し、どうしてそこの所蔵品になったかは不明確である」(四六五ぺージ、注七二37)と書かれたが、これは原田氏の「新発明」の見解ではなく、すなわち「中山疑問」を踏襲されたものであろう。ところが、この「中山疑問」に対する、梅原氏の“調査報告”が、すなわち先の梅原論文第二項の記述であったと思われる 。

  ※この点、“中山氏が、京都在住で官学(京都大学)にあり、しかも再三自家に訪ねきたった、若き梅原氏に対して自己の疑問(右の注七二・37の内容)をのべて、実情調査を依頼したことがあり、それが一契機となって、梅原氏の銅駝坊博物館や関係者への調査となり、結局、この梅原追悼論文となって結実するに至ったのではないか”。そのような推測も可能ではあるが、もはや当の梅原氏に実情を確認できぬことを遺憾とする。 ーー現在、臥床(がしょう)され、家族の方々に対しても、応答されえぬ日々と、家族の方からお聞きした。

 次に(2)の問題と回答について検討しよう。
 原田氏の回答は、一言でいえば“鏡の納まり方の統一性”ということである。この命題に立って“前漢式鏡と後漢後半以降鏡(K鏡)の混在”(須玖岡本遺跡D地点)という梅原論文の立場を否定するのである。この自家の主張を裏づけるものとして、氏は「表3」(当該書七三ぺージ)をあげている。しかしそこには氏の主張と必ずしも一致しない様相が現われている(左は四王墓)。
 A糸島郡
  (1).三雲 ーー(イ)漢以前鏡 2
         (ロ) 前漢鏡 33
  (2).井原 ーー後漢(前半)鏡21
  (3).平原 ーー後漢(後半)鏡37
 B博多湾岸
  須玖岡本 ーー(イ)前漢鏡32+(プラス・アルファの意か ーー古田)
         (ロ)後漢(後半)鏡1?

 右のAを見ると、(イ)の「漢以前鏡」というのは、戦国鏡(もしくはその延長)と見られるもので、他の本(「大陸文化と青銅器」『古代史発掘5』講談杜、一六九ぺージ)では、
  『雷文鏡重圏文鏡・連弧文銘帯鏡26・重圏銘帯鏡7』
とある、(○、インターネットでは青色表示)部に当る。杉原荘介氏の『日本青銅器の研究』(中央公論美術出版、昭和四十七年)では、
 「一つは重圏素文鏡であり、他は四乳雷文鏡である」(五二ページ)
と呼ばれている。そして重圏素文鏡については、
 「王仲殊氏は線帯による重圏鏡を戦国時代とし、面帯による重圏鏡を、文鏡の多い戦国時代の鏡の省略されたものとしている」
とのべられ、今回日本考古学界に電撃を加えた王仲殊氏の説が紹介されているのが興味深い。そしてこの二者(重圏素文鏡と四乳雷文鏡)とも、「前漢代後半より古いもの」と見なしている。
 これに対し、同じく三雲遺跡から出土した「重圏文清白鏡」については、「前漢代後半」としている。また別の「内行花文清白鏡」に属する鏡が福岡市の聖福寺(しょうふくじ 京都国立博物館委託)に現存している(先にのべたように、この補完部が最近の発掘で発見された)。
 このようにしてみると、同じ三雲遺跡でも、鏡は決して一様でなく、何種類かの鏡(時期を異にする)がまさに「混在」しているのである。
 してみると、「戦国(式)鏡〈雷文鏡・重圏文鏡〉と前漢鏡」の「混在」は認めても、「前漢鏡と後漢(後半)鏡〈K鏡〉」との「混在」は認められない、というのでは、筋が通らないのではあるまいか。
 また原田氏の表では「後漢(前半)鏡」一式であるかのように表示された井原遺跡の場合も、決してそうではないこと、すでに前著『ここに古代王朝ありき』(二二ページ)でのべた。「王知日月光湧有善銅出・・・」の筆体は、何とも中国鏡のものとは認められない 。

  ※この鏡の図が青柳種信の「模写」であるから、証拠として使えないように奥野正男氏は難ぜられたが(「銘文からイ方*製鏡説は証明できない〈上〉 ーー中国出土鏡の事実から古田説を批判する」 ーー「東アジアの古代文化」二三、昭和五十五年春)、氏の認識のあやまりであること、「九州王朝の証言(七)」(同誌二五、昭和五十五年秋)で詳述した通りである。これはまさしく拓本 である。
イ方*製鏡のイ方*は、人編に方。第3水準ユニコード4EFF

 すなわち井原遺跡には「(α)後漢式鏡と(β)国産鏡」が「混在」しているのであり、(α)と(β)の生産時点が異なることは、当然可能性が大きい。
 この点、実は一層明瞭(めいりょう)なのは、原田氏が主導して発掘された平原(ひらばる)遺跡そのものである。先の氏の表では「後漢(前半)鏡、37」として、あたかも「同式鏡」一色であるかのように「表示」されている。しかしながらこれは、“正確”ではない。なぜなら、同遺跡からは有名な大型の国産鏡その他が明白に出土しているからである。
  「内行花文鏡 四面 ともに径約四六・五センチの同型同范ママ鏡、八葉座で大形であることが、とくに注目される。
  内行花文四葉鏡 一面 径約二七センチ擬銘(文字を模して字にやママ文章になっていない銘)をもつている」(原田大六『実在した神話』学生社、一〇三ページ)
 要するに、ここでも「(α)後漢(式)鏡(三十七面)と(β)国産鏡(右の五面)という、二つの“異なった様式”そして“異なった生産時点”をもつ鏡が「混在」しているのである。ことに平原遺跡の場合、国産鏡すら“異なった様式”のものをふくみ、それぞれが同一時期の生産か否か、必ずしも保しがたい。
 氏の「表3」は、「国産鏡」を表から除外することによって、一見スッキリできた(ただし三雲遺跡を除く)かに見えたのであるけれども、“同一遺跡内部の銅鏡”という客観的な見地に立つ限り、“異なった生産時点の銅鏡が共在している” ーーこれが、これら糸島・博多湾岸の王墓における、むしろ原則となっていたのである。こうしてみると、原田氏のように“他(三雲・井原・平原等)は「混在」していないから、「梅原論文による須玖遺跡」のような「混在」はありえない”という方式の論断は、思うにあまりにも“独断的”にすぎるといわざるをえないのではあるまいか
(「表3」中の、王墓以外の「一〜二面」程度出土の弥生墓の場合、「混在」していないのは、むしろ当然である)。

 この点、実は梅原氏が右の梅原論文の冒頭において、周到にもすでに指摘したところである。
 「多数の須玖の出土鏡の中に時代の下る後漢後半の鏡を含むと云うこの事は、一方の三雲の出土鏡のうちに、時代の遡る戦国の鏡式の存する点をはじめ、三国時代の三角縁神獣鏡を主とする近畿を中心とした古式古墳の出土鏡に、四神鏡・内行花文鏡等が並び副葬されている場合の少くないことなどからあえて異とするに足りない」
 原田氏の場合、この梅原氏の行文の用意を軽易に看過されたのではないかと思われる。

井原遺跡出土 鏡の拓本 よみがえる九州王朝 古田武彦

 さらにわたしの立証を再確認するため、「銘文の字体」の方から、この間題を考えてみよう。青柳種信は、井原遺跡からの出土鏡について拓本を作ったさい、先の異体字鏡(「王知日月光・・・・・」)のほかに、上掲の、文字を有する鏡(の銘文)を拓出している。
 上掲の字体と先の異体字の字体と全く異なっていることが認められる。
 また、問題の須玖岡本の王墓中の前漢(式)鏡と一般に呼ばれている鏡の中においてすら、二種類(P群とQ群)の字体が認められる。
 これら二様の字体が“同一時期の生産”とは、容易に断じえないことは当然であろう。すなわち糸島・博多湾岸の王墓群においては、“一つの甕棺から二つ(以上)の字体が出てくる”この事実が認識されねばならぬ。この点もまた、原田氏の「非混在説」にとって不利な史料事実というほかはない。

 次に(3)の問題と回答について検討しよう。
 原田氏によれば、(A)「洛陽焼溝で判明した鏡の編年」(B)「北部九州の弥生墳墓副葬の鏡の編年」は「ほぼ一致していて、いずれも秩序が保たれている」という。本当だろうか。
 実は(A)と(B)との間には、大きな性格上のちがいがある。
 第一、(A)は通常一〜二面の鏡が出土する。これに対して(B)は今考察したように、「異なった様式」と「異なった生産時点」と「中国製と国産とを混在」させた出土をしめす。この点、たとえば岡崎敬氏も、次のようにのべておられる。
 「洛陽の焼溝は、前漢より後漢代にかけての洛陽中堅層の墓であるが、鏡の出土は、各墓ほとんど一面ずつで、数面以上出土することは希である」(『柳園古器塁考』「解題 ーー三雲・井原遺跡とその時代」(一二ぺージ)

 そして左のような落陽市西北にある焼溝漢墓」(百三十四墓)の出土鏡の時代分類をあげておられる。

 第一期(鏡10)星雲文鏡(4)草葉文鏡(1)
 第二期 (鏡8) 星雲文鏡3、日光鏡3、昭明鏡(挈*清白鏡を含む)2
 第三期前期  日光鏡8、昭明鏡11、変形四璃*文鏡9、四乳鏡3
 第三期後期  日光鏡6、昭明鏡6、変形四璃*鏡1、四乳鏡1、連弧文鏡1、規矩鏡4
 第四期    四乳鏡2、規矩鏡3
 第五期    雷文鏡(内行花文鏡)4、き*鳳文鏡1、長宜子孫鏡1、規矩鏡2
 第六期    長宜子孫鏡5、変形四葉座鏡2、四鳳鏡1、人物画像鏡1、三獣像1、鉄鏡
    調査者は、第一、第二期を前漢中期、およびそのやゝ後、第三期(前期)を前漢晩期、第三期(後期)を王葬及びそのやゝ後、第四期を後漢早期、第五期を後漢中期に、第六期を後漢晩期にあてゝいる。

挈*は、手の代わりに糸。JIS第三水準ユニコード7D5C
璃*は、王の代わりに虫。JIS第三水準ユニコード87AD
き*鳳鏡のき*は、冬頭編、ユニコード番号8641

 従って“原則として一面”の中国出土鏡の場合、当然ながら「様式」も「生産時点」も、“原則として同一”となろう。これに対して日本(北九州の王墓)の場合、“原則として二十〜四十面”であり、(数量から見ても、当然ながら)「異なった様式」「異なった生産時点」「異なった生産地点(舶載と国産等)」の異型鏡をふくんでいるのである。この事実の上に立って見ると、ただ“須玖岡本の王墓からK鏡を排除する”理由を洛陽焼溝漢墓群の「ほぼ一致」した「秩序」に求めるという、原田氏の論法は、遺憾ながら成立しがたいのではあるまいか。なぜなら“前漢式鏡と後漢式鏡との組合せの例はないから”などといってみても、それは四王墓中の須玖岡本の王墓を除く、三王墓の例しか基準となりうるものはない。その上、その三王墓自体においても、決してその出土鏡は「単一様式」ではなく、「異なった様式」をふくんでいるからである。
 以上のような再検証からすると、折角の原田氏の(1)〜(3)の回答も、決して「適正な回答」とはいいがたい。わたしが原田氏の存在に対していだく敬意にもかかわらず、率直にいってそのように評せざるをえなかったのである。
 原田氏の梅原論文批判、それに対してわたしは賛成できなかった。できなかったけれども、反面、氏の批判は“良心的”だった、といっていいであろう。なぜなら、逐一、問題点をあげ、それに対する原田氏自身の回答が記してあったからである。あったからこそ、わたしはふたたび逐一、これに対する再検討を行いえたのである。この点、原田氏に対してふたたび率直に敬意を表したいと思う。
 これに対して、三年後の昭和四十七年に出た杉原荘介氏の『日本青銅器の研究』(中央公論美術出版)の場合、論証は次のようだ。
 「須玖遺跡出土と伝えるK鏡についても、おのずからその性格が分かってきたわけであるが、これについて梅原末治博士は、同鏡の時代を二世紀後半から三世紀前半に位置づけているのは正しいと思う。しかし、それによって、須玖遺跡の中心をなす 地点の諸遺物を、その時代まで下すわけにはいかない。その後、須玖遺跡においても、弥生時代後期の遺址(いし)が明らかになってきており、それとの関係も考えられる。さらに、この銅鏡の年代を下げるのであれば、もはや銅鏡自体の遺跡への混入とせねばならないであろう(梅原一九五九)」(八六〜八七ぺージ)
 最後に(梅原一九五九)とあるのは、今問題とした梅原論文だ。だが、梅原氏の論証の周密さに比して、失礼ながらこれは何たる“安易の行文”であろう。要するに“「定説化」している 地点(王墓)の年代を三世紀前半以降に下すわけにはいかないから、同じ須玖の「弥生時代後期の遺址」に関したものか、あるいは「銅鏡自体の遺跡への混入」か、どちらかだろう”というのだ。
 これでは「定説基準尺を守る」のが、絶対の要請であり、理由は“それに合わして適当に考えればいい”という論法である。せっかくの梅原論文の周到な論理の運びなど、一顧だもされていない。
 一言でいえば“当人(梅原氏)たちが一般(杉原氏等)に提起した基準尺を、折角便利に使っているのに、いまさら撤去されてはかなわない”。ありていにいえば、そういうことに尽きよう。
 梅原論文の裂帛(れっぱく)の気魂に対して、あまりにも不適切の筆致、そう評したら、氏に対して失礼であろうか。その上、この本の出る三年前に出て、同じ梅原論文に対して“良心的”な批判を行われて、杉原氏と同方向の帰結をしめしておられる原田氏の著述に対して、それこそ“一顧だに”はらわれていない。これはなぜであろうか(もちろん“一般論”としては、杉原氏が原田氏の右の本を知られなかった、ということもありえよう)。
 わたし自身、杉原氏の右の本によって、常に考古学上の知識を学んできた。考古学上の“古典的”な編年観をうかがう上で、“絶好の基準の書”としてきたのである。それをここで明記させていただきたい。その学恩に対して深謝すると共に、ここにあらわれた問題点を率直に記して、杉原氏に対する「御恩返し」に代えさせていただきたい。

 次にとりあげるべきは、岡崎敬氏の左の行文であろう。
 「(須玖岡本 地点出土鏡について、中山博士の「33面もしくは35面以上」、梅原博士の「〈細片を除き〉30面以内」とする見解と鏡式の紹介のあと)この内、最初にあげているK鏡一面は、径一三・六センチ、扁平(へんぺい)大形の鈕のまわりに糸巻状図様の鈕座があり、その中に『位至三公』、内区を飾るK文の間に『君宜*古市』の銘がある。このK鏡は扁平な四条の稜(りょう)ある銅剣とともに、もと二条公銅駝坊陳列館に入り、その後、東京帝室博物館(現在東京国立博物館)の蔵品となった。K鏡は後漢末期に盛行したものであり、この鏡だけ、他の鏡とは異質である。二条家に入る時に須玖岡本出土の所伝があり、これに加えられたのであろう。須玖岡本は弥生時代各時期の墓葬があり、かりに須玖岡本出土としても、地点を異にしているものだと思う。一八九九年に大石下より甕棺の出土した須玖岡本地点以外の所より出土したものとする方が全体の矛盾がない。

宜*に、上の点なし。JIS第3水準ユニコード519D

 須玖岡本のものには草葉文鏡三面、星雲鏡五面(もしくは六面)を含んでいる。これらは洛陽焼溝漢墓第一期のものである。しかし重圏精白鏡・同清白鏡・重圏日光鏡・連弧文清白鏡の類の焼溝第二期のものが大部分であり、これらは立岩(たていわ)の出土品と共通している。いずれも洛陽焼溝漢墓第二期のものであり、埋葬の年代は立岩とさほどかわるところがないと考える外はない」(『立岩遺蹟』六章「鏡とその年代」三七六ぺージ、河出書房新杜、昭和五十二年)
 右には、問題の梅原論文はあげられていない。いないけれども、この“慎重な”いいまわしの相手(批判対象論文)が梅原論文であることは疑いない。岡崎氏は恩師の“名前をあげる”ことを避けた上で、これに反対されたのであろう。けれども、その論旨そのものは、原田氏の場合と大異ない。これも、ここでは原田氏の名前は“出され”ていないけれども。
 もちろん「恩師の言を斥(しり)ぞける」ことは、決して“大それた所業”などと呼ぶべきものではない。それどころか、本居宣長が「師の説にな、なづみそ」といったように、学問の真髄に属する、といっても、過言ではないであろう。
 けれども、間題はそのような点にあるのではない。岡崎氏のあげられたポイントこそ、すでに梅原氏が顧慮して、その決して成り立ちえざることを、周到に論述された問題点なのである。もしそれらの点がまちがっているというのであるならば、その反論の論証を逐一、それこそ必要にして十分に“あげ尽くす”ことこそ、“師の説になずまざる”後来の探究者の礼儀ではあるまいか。しかし、右の岡崎氏の行文には、遺憾ながら、それは見出しがたいように思われる。

 ここで一言、わたしの学問の方法についてのべさせていただきたい。
 わたしは二十代後半、親鸞(しんらん)研究関係の本を読んで、いつも右往左往の試行錯誤をくりかえしていた。そしてある日、ふと一つのことに気づいたのである。それは次のようだ。「その学者がその本に一つの結論を書いているとき、その結論に至る“理由づけ”について、そこに書かれてあることが、その学者にとっての、よき理由のすべてだ、そのように考えるべきではないか」と。
 これを裏返してみよう。それまでは、次のように考えていた。“ここに書いてある理由は簡単だ。しかしこれほどの大家だから、こんた簡単な理由で、この結論に至ったはずはない。けれども何らかの都合で(紙数の都合や関係者への配慮などで)これしか理由を書いてないのだろう”と。いいかえれば、“この大家は、実際はいだいている、たくさんの深遠な理由の中から、そのただ一端(きれはし)をここにおしめし下さっただけにちがいない”。いわばこういった形でうけとっていたのである。
 ところが、そのさい、こちらの思考は全くすすまない。すすまないはずだ。“隠された大森林の中の一本の木だけしめされている”のだったら、実際に知っている、眼前の「一本の木」をもとに、あれこれ言ってみても、土台、ことははじまらぬからである。当方がそのような心理状態におちいったとき、反論はもちろん、心からの納得も、ありうるはずはないのである。
 これに対し、先のように考えた途端、まさに眼前の世界は一変した。“こんな理由で、なぜこの結論が出るのか”“なるほどそうだ”“いや、とてもそこまで納得できない”といった風に、自分の中の論理の歯車が歯切れよく回転しはじめ、激しく自動しつづけるのである。これがわたしの孤立の探究の出発点だった。
 今思うに、やはりこのような受け取り方こそ、道理にかなっているのではあるまいか。なぜなら、その学者(執筆者)が本を書き、読者が本を買って(あるいは借りて)読む、そのとき、その執筆者の読者に対する礼儀は、何だろう。いうまでもない、“自分のもっている最上の理由を提示した上で、その結論をしめす”ことだ。これに反し、最良の理由、そして決め手をなす理由を秘匿して、第二・第三の、たいしたことのない理由、決め手にならない理由を、読者に提示する執筆者がありとすれば、それは執筆者として、いわば“落第”であり、何より読者に対して、“失礼この上ない”こととなろう。
 従って“そこに書かれた理由は、その執筆者手もちのすべて、もしくは最良の理由である”。そう考えるのがであろう。もしそう考えないならば、わたしたちはその執筆者をもって“最低の礼儀をもわきまえぬ背徳の人”として遇していることとなるであろうから。
 以上がわたしの学問的思索の方法の出発点であった。

     ※
 このような目で見るとき、現在の「定説」派の論者の文面には、あの気魂のこもった、周到な梅原論文をくつがえすに足る“理由”が果たして存在するであろうか。遺憾ながら、わたしには見当らない。
 “このK鏡は須玖岡本の王墓ならぬ別地点の出土ではないか”。この疑いを先ず眼前において、梅原論文は、まさに書きはじめられた。わたしにはそのようにしか見えない。そしてその“疑い”が結局成立しえないことを“手を尽くして”氏は論証につとめられたのである。四十数年の考古学徒としての梅原氏の円熟の技法がここに凝集させられている。そういっても過言ではないであろう。
 この梅原論文のあとに出た、杉原・岡崎の諸家の「認定」には、その「認定」(実は旧認定)を支える、実証的な“新証拠”が果たしてそこに提示されているか。わたしにはそれを見出すことができなかったのである。

 ※右の『立岩遺跡』 ーーこの本は岡崎敬氏に主導された、きわめてすぐれた考古学上の業績であるがーー 全体のテーマたる立岩遺跡の場合、先の四王墓に比するとき、鏡の数等も格段に異なり(六面)、先の四王墓と同格の意味で「王墓」と称することはできぬ(ここで「王墓」といっているのは、“倭国内に数多い諸国の諸王の墓の一つ”という意味ではなく、“倭国の中心的・統一的王者の墓”の意である。この点からいえば、立岩遺跡は「副王墓」格であろう)。
 従って“この立岩遺跡出土鏡を基準とするとき、須玖岡本の王墓にK鏡のありえないことが分った”などという論法もまた、遺跡の性格上、無理であることを、念のため指摘しておきたい。しかも、この立岩遺跡もまた、前漢(式)鏡と国産鏡とが「混在」している点について、『ここに古代王朝ありき』(朝日新聞杜刊)ですでにのべた。

 以上によって、梅原論文に対する原田・杉原・岡崎三氏の反論、それがいずれも成立できないことを論証した。しかし真の問題はその次にある。“なぜ、三氏は梅原論文に反対するか”。その真の理由だ。もちろん、直接あげられた理由についてはすでに論じた。しかし真の理由は別にある、そのようにわたしには思われた。その真の背景は、“三角縁神獣鏡は魏鏡である”という前提命題にある。梅原氏をふくむ右の四氏とも、右の大命題の肯定者であることは、隠れもないことだ。たとえば梅原氏は『考古学六十年』(平凡社、昭和四大年)においても、「三国魏の時代の三角縁神獣鏡」(二三四ページ)といった表現を頻発しておられる。一方、杉原氏も「西暦二〇〇年代に大陸で作られたであろう三角縁神獣鏡」(『弥生時代の考古学』学生社、一六二ページ)とのべ、原田氏も「こうみてくると、三角縁神獣鏡こそが、魏の明帝が卑弥呼に詔書をもって下賜した百面の銅鏡であったということになる」(『邪馬台国争』五九ページ)とのべておられる。岡崎敬氏も、その(指導による)貴重な労作「日本に存る古鏡、発見地名表、一九七六〜九」において、三角縁神獣鏡「舶載鏡」と「イ方*製鏡(ぼうせいきょう)」という形で処理しておられる。「舶載鏡」とは、当然ながら「魏鏡」をさす用語である。
 すなわちこの一点において、四氏は共通の土俵の上に立っている(なお、小林行雄氏が梅原氏の後を継いで登場し、「三角縁神獣鏡の分配」に関する、小林理論を形成され、これが考古学界の「定説」をなした、という事情は著名である)。
 この「定説」派共通の土俵から見ると、問題の梅原論文はいかにも“不斉合”なのである。なぜなら二十数面以上の前漢(式)鏡(草葉文鏡三、星雲鏡五〜六、重圏銘帯鏡八、連弧文銘帯鏡四〜五・釧三以上 K鏡一 ーー『大陸文化と青銅器』一六八ページ)をふくむ、文字通りの王墓が三世紀前半以降、つまり卑弥呼の墓の作られた時代に存在していたのでは、「邪馬台国」の存在は簡単に近畿へもってゆくわけにはいかなくなるであろうから。すなわち「三角縁神獣鏡、魏鏡説」(これは当然近畿中心説だ)とは、いかにも相矛盾するのである。
 梅原氏がこの相矛盾する二つの主張点を共有していたのは、明らかに“論理上の矛盾”である。これは氏が個々の遺物・遺跡に対する周密な観察者・報告者ではあっても、必ずしも体系家・理論家ではなかった、という、その“考古学者としての資質”に関する問題であろうと思われる。
 この点、体系家・理論家としての面を“得意”としていたのが、後を継いだ小林行雄氏であった。氏によって「三角縁神獣鏡分配の理論」すなわち近畿中心主義は、その極点まで「明確」化され、それが「定説」化されていった。いくにつけ、梅原認定の中の先の矛盾点は、いよいよあらわにならざるをえなくなった。その理論的帰結が、他ならぬ原田・杉原・岡崎氏等に共通する「須玖岡本遺跡からのK鏡の排除論」として、顕在化しているのである。 ーーこれが三氏の梅原論文排除の、隠れた、しかし真の背景である。わたしの目にはそのように見える。
 ところが今、状況は一変した。王仲殊論文の電撃によって、“三角縁神獣鏡、魏鏡説”はまさに“ふっ飛ん”だ。いかに日本の考古学者たちが“虚勢”を張りつづけたとしても、中国の鏡の専門家から“そのような鏡は中国からは出土していません。従って中国鏡ではありません。もちろん、魏鏡などではありません”。そう明言された、この事実を万人の眼前から消し去ることはむずかしい。そういう状勢の中で「そのうちに出るにちがいない」といってみても、“まだ出ないうちに中国鏡(魏鏡)ときめつけてきた”という、肝心の事実、その背理は、もはや誰人(たれびと)の目にもハッキリしているのであるから。

 筆を返そう。王論文によって永年日本考古学界の「定説」であった「三角縁神獣鏡、魏鏡説」の主張は崩壊した。今後、右説を依然のべつづける学者は、あるいは学問上の「勝ち組」の観を呈せざるをえないこととなるやもしれぬ。
 では、その主柱なき今、右の問題はいかなる相貌(そうぼう)を呈してくるであろうか。他でもない、右説に立つ限り、矛盾としか見えなかった“須玖岡本王墓内、K鏡存在説”が、不死鳥のように“矛盾の束縛”から解き放たれて、鮮烈な光を帯びて輝くこととなったのである。
 なぜなら、三角縁神獣鏡が“魏鏡としての後光”を失った今、残るものは、梅原論文によって“三世紀前半以降の墓”と認定された「須玖岡本の王墓」しかない。否、より十分にいえば、これをふくむ糸島・博多湾岸の四王墓こそ“弥生の倭国の中心の王者たちの王墓”として、新たに脚光を浴びてこざるをえない存在だからである。逆にいえば、「三角縁神獣鏡、魏鏡説」という旧説をバックにして、不十分な論拠をもって梅原論文を一蹴しえてきた、右の三氏(他、これに追随してきたほとんどすべての考古学者)の論説の非がここに明らかとなってきたのである。
 このような道理に対し、たとえ全考古学者が相揃(あいそろ)って“自己の目をみずからの両手でおおいつづけて”いても、他の一般人はちがう。やがて子供たちが「あれは、裸の王様だ」。そのように叫びはじめる、その一瞬をむかえることであろう。

 ここで一転して、梅原氏のお宅を訪ねたときのわたしの“想い出”をしるさせていただきたい。
 わたしが同じ京都に住む、高名な、この考古学者のお宅をおたずねしたのは、例の高句麗好太(こうたい)王碑に関して李進煕(りじんひ)氏の衝撃的な仮説が登場したときのことであった。わたしは李氏のあげられた諸種の写真・拓本・史料(「高句麗好太王碑文の謎」 ーー「思想」五七五、昭和四十七年五月)を再検証すると共に、戦前この碑を実見された方々にお会いして、その実地の経験を語っていただくことを必要と考えたのである。たとえば、梅原末治氏や末松保和氏等である。
 末松氏の場合、必ずしも実地の記憶は鮮明ではなかった。それは“すでに今西竜さんなどが現碑に接し、詳細に研究され、報告されたあとだったから、もう自分などが見ても、たいしたことは見出せるはずはない”と考えられたからだという。そして今西氏のそういうさいの執拗(しつよう)きわまる「研究の鬼」ぶりを詳しく語って下さった(『失われた九州王朝』第三章1参照)。
 これに対して梅原氏の場合はちがった。“今西氏等の見落したところを一片でも発見したい”。そういう野心をいだいて現地におもむかれたという。ことに現碑には“拓工による、石灰仮構文字”のあったことを「今西報告」で知っていたから、“今西氏があやまってその仮構文字を石の字として採取した部分はないか”と、いわば“あら探し”の目で臨んだ、というのである。これもまた若き「研究の鬼」と称すべきであろう。けれども、その野心は「挫折ざせつ」した。やはり「今西氏の執拗な目」に狂いはなかったのである(この点、今回、吉林省博物館の武国[員力]〈勲〉氏とお会いして、李仮説の成立できぬことを確認できた。〈「九州王朝の証言〈最終回〉」 ーー 「東アジアの古代文化」三〇、昭和五十七年早春、参照。なお、詳しくは『市民の古代 ーー古田武彦とともに』四、昭和五十七年、中谷書店、参照〉)。

武国員力*(ぶこくしゅん)さんの[員力](しゅん)は、JIS第3水準ユニコード52DB

 そしてそのさい採取された「倭以辛卯年来」の項の小拓本をわたしに托(たく)された。そして「これを東京の史学界の大会で発表し、榎一雄君など東京の学者に見せてほしい。必ずわたしの言うところのあやまりなきを知ってくれるであろう」といわれたのである。わたしは喜んでこれに応じ昭和四十七年十一月十二日の東大における史学会第七十回大会の発表「高句麗好太王碑文の新事実 ーー李進煕説への批判を中心として」のさい、自分の発見した新史料(酒匂(さこう)大尉の写真や自筆筆跡等)と共に、この梅原拓本を学会の参加者の面前に提示したのである。このあと、この小拓本を再び同氏宅に参上して、お返ししたのはいうまでもない(梅原「高句麗広開土王陵碑に関する既往の調査と李進煕氏の同碑の新説について ーー付、その王陵など」 ーー「日本歴史」三〇二、昭和四十八年七月、参照)。
 このとき以来、わたしは何度か梅原さんのお宅を訪れた。それは梅原さんがわたしに対し、従来の学問上の経験を語ることを好まれ、わたしもこれを聞くことをこよなき喜びとしたからである。氏の豊富な経験は ーー多くの世の老人がそうであるようにーー 無限の知識の宝庫であった。わたしのような“若僧”には、それはいくら聞いてもあきぬ“宝”の談話であった。また梅原氏の方も、延々、あるいは三〜四時間、あるいは五〜六時間もの間、語り来たり、語り去って倦(うま)れることがなかった。
 氏の次のような言葉が鮮明に記憶に残っている。「今の大学の学者は、わたしのところへ来ても、学問の話をしよらん。誰々が教授になった、誰々はまだだとか、そんな話ばっかりじゃ」と。そしてまさに“学問の話”ばかり、何時間もひたすら連続するのである。その“鬼気迫る話し魔ぶり”は、わたしのように、久しく「亡師孤独」の中に歩き来たった者にとっては、まことに無上の“快き時の流れ”と思われたのである。
 けれども、このような「蜜月」は、はからずも氏によって思いがけぬ形で“破られる”こととなった。昭和四十八年八月、京都の国立博物館で「中華人民共和国出土文物展」の開催記念パーティがもよおされたとき、わたしも招待をうけて、その席に加わった。広い博物館の中央広場も、招待客で一杯、といった混雑ぶりであった。
 そのとき、向うの方から、人をかきわけ、かきわけ、わたしの方に近寄ってくる一人の老人があった。それが梅原氏だった。そしてわたしの前に息をはずませて近づくと、「あんたは、『邪馬台国』は九州じゃと言うとるそうじゃな」。そう叫ぶと、くるりと歩をかえして、再び来た方角へと人の波の中を消えていった。これが第一の鮮烈な思い出である。
 第二は、その直後、わたしがいつものように梅原さんのお宅を訪れたとき、玄関に現われた梅原さんは、いつもなら待ちかねたように、わたしを中に招じ入れられるのであったが、その日はちがっていた。じっと玄関の前で立ちふさがったまま、「入れ」とは言わなかった。そして次のように言われたのである。
 「あんたは、東大の榎一雄君と論争をしとるそうじゃな」
 「ええ、そうです」とわたし。(東京の「読売新聞」で榎氏が十五回にわたって「『邪馬台国はなかった』か」を掲載〈昭和四十八年五月二十九日〜六月十六日〉。全文、わたしに対する攻撃だった。その後わたしが「邪馬壹国論 ーー榎一雄氏への再批判」を十回にわたって掲載〈同年九月十一〜二十九日。『邪馬壹国の論理』に収録〉。これに再批判を加えた。この梅原氏のお宅への訪問は、その間のことであった)。すると、梅原氏は力をこめて、次のように言った。
 「榎君は大学の教授じゃ。あんたは高校の教師じゃ。どっちが正しいか、分っとる」
 もうこのとき、わたしは高校の教師生活に別れを告げていたが、そんなことは問題の本質とは関係がない。わたしは静かにハッキリ答えた。「それは、ちがうと思います。学問は肩書きできまるものではなく、論証それ自身できまるものだと思います」。
 梅原氏にとって、それはわたしの口から聞いた、はじめての反撃であったであろう。それまではいつも、わたしは、梅原氏の学的経験に敬意を有しつつ、それをいくらでも聞きたいと望む、一個の後学者として接してきたのであるから。“自説開陳”などのチャンスは全くなかった。いや、必要がなかったのである。ただひたすら全身を耳にして“耳順(したが)って”いたのであるから。
 梅原氏は、たじたじとした姿で、後ずさりするように玄関内へ入り、やがてキチッと戸が閉じられてしまった。
 わたしは一種の“悲しみ”の気を体内におぼえながら、梅原邸を去った。それが最後であった。以上のような、いわば個人的経験をここに書かせていただいたのは、他意はない。そこには梅原さんの長短ふくめた個性が爛漫(らんまん)とあふれているからである。それが欠点であるにしろ、わたしにとってむしろ“愛すべき”ものに見えた、といっても過言にはならないであろう。
 後日、ある考古学者から「古田さんの欠点は、梅原さんを信用しすぎることだ」と「忠告」された。好太王碑研究をめぐってである(今回の梅原論文などは、当然ながらまだ話題にはならなかった)。そのとき、わたしは答えた。
 「いや、『信用する』とか『しない』とか、そういうことではありません。ただ好太王碑の実見者として、その経緯を直接聞きたかっただけです」と。
 たしかに梅原氏の「考古遺物観察者」としての冴(さ)え、それをしめしたものが、この梅原論文であった。後年は、目もいささか不自由になられたことは周知のごとくであるけれども、それとは異なり、昭和二十六年秋の日本考古学協会公開講演につづく「古代学」所載の同論文(昭和三十四年)という、京都大学在任中をふくむ、氏のもっとも円熟した時期の論文が、考古学界の大半から一蹴されつづけてきたことの不当であったこと、それを明らかにする、この一文を氏の病床に捧げたいと思う。

ーーディアロゴス(対話〉
(「古田さんの鏡の論証(『ここに古代王朝ありき』)に対して、奥野正男さんがあちこちに批判の論文を出されましたね。あれはどうですか」
古田「そうだね。『イ方*製説は銘文だけでは立証できない ーー中国出土鏡にも“日本式語法”があるー』(「毎日新聞」昭和五十四年十一月四日)や『銘文からイ方*製鏡説は証明できない ーー中国出土鏡の事実から古田説を批判する(上・下)』(「東アジアの古代文化」二三・二四、昭和五十五年夏)などだね。いずれも詳細な、鏡の銘文や模様に対する研究を背景に書かれている点、当方としては、まことに有難い反論だ。
 だけど、困る点もある。しかももっとも大事な点なんだ。それは、わたしの主張していない命題を、『古田の主張』であるかのように、見たてて批判されてある点だ」
「といいますとーー」
古田「今あげた論文の題目から見ても、“古田は銘文だけからイ方*製鏡を証明できると主張したもの”と読者は思うだろう。奥野さん自身も、そういう見たてで反論を加えている。ところが、これはわたしの本を読めば明らかなように、わたしの論証とは全く似て非なるものなんだよ。
 第一、わたしの根本の立場は、日本の大地から出土した鏡について、“物(出土鏡)を見れば、ピタリ、『舶載』か『イ方*製』か判別できる”という、従来の発想はあやまりだ、というにある。いいかえれば“『分らない』のが原則である”というわけだ。
 このことは、“中国人や朝鮮半島人の鋳鏡者が日本列島に来て鋳鏡した”という、当然ありうべきケースを考えてみれば、文句なくハッキリするんだ。たとえば、中国の鋳鏡者が日本列島へ来た途端に鏡作りの腕ががたんと落ちるわけじゃない。文字を忘れるわけじゃない。要するに中国で作ったものと、ほぼ同じものを作るわけだ。だからその『物』を見て、『あ、これは中国にいたとき作ったもの』『あ、これは日本列島に来て作ったもの』なんて、そうそう判別できるはずがないんだよ」
「銅の質はどうですか」
古田「日本列島産の銅は、銅質がかなりいいようだ。むしろ中国産の銅と同じか、時には以上なんだそうだよ。だから問題は製錬法だ。これもその専門家が日本へ来て作るとしたら、銅質が落ちるはずはない。個々、いろんなケースはあるだろうけど、一般論として、ね」
「中国から“銅をもってきた”という問題もありましたね」
古田「もちろん、来るとき“手ぶら”じゃなく、材料をもってくる、というケースも当然ありうるけれど、一般論としては、先のごとしだ。資源には恵まれないこの島だけど、不思議に銅だけはかなりいいようだからね。その“日本列島の銅”を背景に、銅鐸(どうたく)や武器型銅製品(矛・弋(か)・剣)を考える、これが(当初は別としても)結局は本筋だろうね。“銅材料なき国に、銅をシンボルとする古代文明が繁栄する”なんていうのは、原則として無理だろうからね」
「とすると、結局、区別はつかないわけですか」
古田「原則的にはね。それに日本側の“お弟子さん”のことを考えてみても、大陸から渡来してきたお師匠さんにマン・ツウ・マンで教わって、いつまで“まずい作品”ばかり作りつづけたか、というのも、むずかしい話だよね。はじめの五年・十年はまずかったとしても、二十年・三十年たっても、依然まずいままだったかどうか、判定のむずかしい問題だろう。それをわたしたちが見て、『はい、これはお師匠さん』『はい、これは弟子』と判別できるか、どうか。お師匠さんをしのぐ弟子だって、出てくる可能性はあるし、またお弟子さんには文字はあつかえなかった、と断定するのも、冒険だよ、ね」
「すると、不可知論みたいになりますか」
古田「一応はね。しかし方法はないわけじゃない。その一は分布図だよ。横軸問題でのべたように“原則として大陸に出ず、日本列島に大量出土する”場合には、これは日本列島産と見るのが、学問の方法上のルールじゃないか、と思うんだ。“そうじゃない”といいたければ、その人にはこのルールを破るに足る厳格な立証が必要なんだ。決して話はその逆じゃない。なのに、従来は話が逆になっていた。(イ).銅の鋳上りがよく、(ロ).模様が鮮明で、(ハ).文字があれば、文句なく『舶載』と断定してきた、そういう断定はできませんよ、というのがわたしの立場なんだ。そういうわたしの立場から見てみると、従来から文句なしの『舶載鏡』と断定されてきたものの中にあやしいものがかなりある、という話に移っていったわけだ。先にあげた井原遺跡の『王知日月光湧有善銅出……』鏡なども、この『湧』はどうにも『漢』という字とはちがう。しかも文字が不揃(ふぞろ)いだ。こんなのを『舶載』と断定してはいけない、うたがわしい。こうのべた。逆に国産と判定したわけじゃない。もともと『分らない』のが原則なんだから“こんなおかしな文字から見ても、とても『舶載』とはいいきれませんよ”といっているんだよ。
 立岩遺跡10号舞棺の場合も同じだ。いずれも、中国の通例の同種の鏡と比べて遜色(そんしよく)ないというより、むしろ立派だ。配下の国(夷蛮)の、また配下の“副王クラス”の墓に、そんな立派なものが出てくる、ということ自体が、よく考えてみれば、何か“おかしい”のだ。もし『舶載』つまり中国の天子から下賜された鏡とすればね。ところが『舶載』のみでなく、『国産』もある、という立場からすれば、何の不思議もない。なぜなら中国側では“女性の化粧品”といった小道具扱いだけど、日本側では“権力のシンボル”で“太陽信仰の祭祀(さいし)物”だから、立派であたり前だ。つまり、これも当然ながら“物そのもの”から断言はできないけれど、『舶載』という立場からは解けない謎が、国産という概念を加えれば、容易に解ける。わたしはそういったのだよ」
「決して“銘文だけから証明した”わけじゃない、というわけですね」
古田「その通りだ、ね」
「今の、立岩の1号鏡や2号鏡で、行末の韻をふむべき文字が欠けていたり(1号鏡)、全体が“虫喰(むしく)い”だらけで意味不通になっていたり(2号鏡)、の例を古田さんがあげたのに対して、奥野さんは中国出土の鏡にも、同類のがある、と書いていましたね。あれはどうですか」
古田「奥野さんがあげられた例(たとえば陝西省(せんせい)省出土銅鏡)を見ると、むしろ見事な“節略”になっているケースだった。わたしも連雲港(れんうんこう)市海州、羅[田童]庄(らどうしよう)の本榔墓(ほんかくぽ)出土の連弧文清白鏡の例を、同種の問題としてすでに右の本(一二九ぺージ)であげている。つまり、もとの文章の要点を巧みに要約した形になっているんだ。これを見て、わたしは『万葉集』における長歌と反歌の関係を思い出して、感動したくらいだ」
「反歌というのは、長歌の内容を要約したケースが多いのですね」
古田「そう。けれども、わたしは、この問題の本質はもっと深いところにあると思っているんだ」
「というと」
古田「わたしは中国や朝鮮半島という大陸側からも、本当に『意味不通の銘文』をもった鏡は当然出土する、と思っているんだ」
「え、なぜですか」
古田「だって、考えてごらん。『意味不通の文字をもつ鏡』というのは、果して日本列島固有の現象だろうか。わたしにはそうは思われない。要は、『文字(漢字)をもった中国文明』が『文字(漢字)をもたなかった周辺(「夷蛮文明」)』と接触したとき、当然(あるいは必然的に)おこるべき現象、そういっていいと思う。なぜなら“その接触の当初から『夷蛮』側が『文字の機能』を正確にキャッチして使用した”などということは、ありえないからだ。“文字が並んでいるだけで中国風ムードを満喫する”。そういう段階が全くなかったケースの方が珍しいんじゃないかね。
 とすると、日本だけじゃなく、東夷とうい・西戎せいじゅう・南蛮なんばん・北狄ほくてき、いずれの『文明接点』においても、同種の問題は必然的におこりうるわけだよ。その上、現在わたしたちが中国本土と思っている地域も、かつては『夷蛮の地』だったところ、その厖大なこと、それはむしろ常識だからね。たとえば志賀島の金印と相並ぶ金印の出た槇*(てん)王国(雲南うんなん省)も、その例だ。その上、“それら『夷蛮の地』から、都などの中国内部への(自国製の中国鏡の)献納”という問題も、当然ありうることとして、考慮に入れなければならないしね。

槇*(てん)は、木偏の代わりに三水編。JIS第3水準ユニコード6EC7

 まして五胡十六国の時代ともなれば、この種の『文字使用の混乱』問題は、極端にいえば“日常のこと”だった、といっていい」
「とすると、そんな『意味不通の鏡』が大陸から立岩へ来た、ということは考えられませんか」
古田「それは無理だろうね。なぜなら“中国の朝廷から倭国へ正式に下賜された”という場合、そういった類の鏡を下附(かふ)する、というのは、考えにくいからね。もっとも、“倭国側が金を出して粗品を買ってきた”というのなら、別だけどね。それにしては、立岩鏡は立派すぎるよ 」
「なるほど」
古田「けれど、問題は、あくまで原点にたち帰らねばならない。こんな“意味不明の文面”をもつ鏡を、“文句のない舶載鏡”と断定してかかるのは、あまりにも危険だ。 ーーこれがわたしの提起の基本なんだからね。その根本の点を奥野さんはまさか故意ではないと思うけどーー 完全におきかえて“古田は銘文だけでイ方*製鏡と断定した”といった形で論じておられる。思いちがいだろうね」
「話は変りますけど、この前、古田さんが韓国へ行って、『大収穫があった』といっておられた、あの鏡はどうですか」

LV鏡 よみがえる九州王朝 古田武彦

古田
「やはり『ここに古代王朝ありき』(一一二ページ、第17図)で論じた、問題の鏡だ。
『日有熹月内富 憂患楽已未□』
と、ハッキリ文字があるのに、その行格が異様に崩れている。また『TLV 鏡』(方格規矩鏡)のはずなのに、『T』だけない上、『V 』と『L』が完全にアンバランス(大小不揃い)だ。どうにも通常の中国鏡の様態ではない。そこでこれを見た富岡謙蔵が『或は其の成れる地の本邦に非ざるかを察せしむるものあり』と、くりかえし疑念を表明したんだ。これも、みずから樹立し、多くの考古学者に(現在に至るまで)信奉されてきた舶載鏡判定の基準(先にあげた「文字あり」などの三条件)をみずから破棄すべき方向性をもっていたんだけど、やはり後を継いだ考古学者は、この『富岡の遺言』を無視してしまったんだ。
 ところが、この鏡(LV 鏡、春日市須玖岡本町B地点出土)は、現在、日本には存在しない。敗戦前、朝鮮総督府の所有(購入)となっていたため、その『遺産』がソウルの中央博物館にうけつがれた。従って樋口隆康さんや森貞次郎さんやその他の方にお聞きしてみたけれども、その現存状況については、ハッキリしなかった。むしろ“日本帝国からうけついだ、日本側出土のものだから、倉庫の中にしまいこんだまま、整理もされていないのではありませんか”などという“失礼”な声も聞いた。行ってみると、まさに失礼だった。
 あらかじめ同館の学芸部に手紙でお願いしておいて、おうかがいすると、キチッとした整理カードに添付された写真。『これですね』『そうです』。すぐ運ばれてきたのは、まぎれもない、あの鏡。卓越した鏡の研究家、富岡謙蔵を死の直前まで悩ませた、問題の鏡だった。
 見事に保存された、その姿を眼前にしたとき、当館の関係の方々の誠実な姿勢を実感した。そして見て、見て、見つめ抜いた。写真にも撮らせていただいた。それはかつて不鮮明な写真で見ていたとき以上に、“ゆがんだ行格”や“大小ふぞろいな文字”“奇妙な配列の文様”どれをとってみても、“文句ない中国鏡”などとは、到底いえぬものだった。誠実な研究家だった富岡謙蔵が、みずから立てた確率との矛盾に悩んだのも、無理はなかった。“見にきてよかった”。わたしはそう思った。やはり現物を見てスッキリした感触をえた、そのことを喜びつつ、同行の青年梁弘夫さんと共に同館を辞したんだ。
 思えば、敗戦後の鏡の研究者は、この鏡の現実の姿を実際に見ぬまま、重大な富岡疑問を無視して、『文字あれば舶載』という“わく組み”のみを固守して今日にいたっていた。そのことを目が痛いほど、その場で痛感したよ。
 それにつけても、この異国出土の破損鏡を大切に保存していて下さった上、快くお見せいただいた同館の韓永煕さんや李康承さんや関係の方々に心からお礼をいいたいと思うよ」
「本当ですね」

追記 ーー梅原末治氏は昭和五十八年二月十九日夜半、鬼籍に入られた。深い敬愛と追悼の念を霊前にささげたい。


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よみがえる九州王朝 幻の筑紫舞 角川選書 謎の歴史空間をときあかす

第二章 邪馬一国から九州王朝へIV倭の五王の史料批判古田武彦

 昭和五十六年三月一日、午前一時すぎ、天啓がおとずれた。 ーー突如、音もなく。
 わたしは一月来の、倭の五王をめぐる再吟味の論稿に没頭していた。あの第二書『失われた九州王朝』以来、はじめて本格的にとりくみはじめ、次々と新しい局面にぶっつかっていた。そして二月二十八日を越えた深夜、論証の“新しい声”をついに聞いたのである。それは「衙頭」の一語だった。
 この問題に立ち入る前に、わたしにとっての“倭の五王への問い”、そのポイントを要約しておきたい。
 『宋書そうじょ』倭国伝、そこには倭国に讃さん・珍ちん・済せい・興こう・武の五王があり、彼等は建康(けんこう 今の南京)に都している南朝劉宋(りゅうそう)に朝貢していた。そして種々の称号(安東大将軍等)が中国(宋)の天子から与えられたことが記述されている。この『宋書』の著者の沈約(しんやく 〜五一三、梁りょう)は、宋代にはすでに尚書度支郎(しょうしょたくしろう)をつとめていた官僚だ。だから彼の書いた『宋書』は、西晋の陳寿が書いた『三国志』と同様に、同時代史料として絶大の史料価値をもつ。
 では、肝心の彼等、倭の五王とは何者か。津田左右吉の命題をうけ入れた戦後史学にとって、このテーマは切実だった。なぜなら“記・紀の神話・説話は、史実にあらぬ、架空の「造作」”という津田命題に従えば、記・紀の説話類は、そのままでは史実として使えない。そこで絶好の“支え”として登場させられたのが、この「倭の五王=近畿天皇家」の等式だった。江戸時代前期の松下見林の『異称日本伝いしょうにほんでん』以来の等式証明がそのために利用された。
 「讃、履中(りちゅう)天皇の諱(いみな)、去来穂別(いさほわけ)の訓を略す」
 「珍、反正天皇の諱、 瑞歯別(みずはわけ)、瑞・珍の字形似る。故に訛(なま)りて珍と曰ふ」
の類だ。そして「珍=反正」「済=允恭(いんぎょう)」「興=安康(あんこう)」「武=雄略(ゆうりゃく)」の四者はほぼ確実、と考えられたのである。その上で、“これらの「天皇」は、ワン・セットとして見れば、倭の五王と対応するから、実在であるぞれゆえ日本列島の五世紀の歴史は、これらの天皇を「権力中心」として記述することが可能である。”そのように説きはじめたのだ(たとえば井上光貞『日本国家の起源』岩波新書、昭和三十五年)。そしてこのような見地によってすべての戦後教科書は作られ、現在に至っているのである。
 しかしわたしは、わたしの方法でこれを再吟味してみた。すると、数々の不審が現われた。第一に、『宋書』の中の夷蛮伝では「(磐*達国)舎利不陵伽跋摩」(『宋書』九十七)といった風に、七音と美音漢字を使って表記されている。見林が唱え、戦後史学が従ったような、あの粗放な“一字あるいは一音だけの抜き取り書き”などは存在しない。

磐*の石の代わりに女。

 第二に、『宋書』の中の夷蛮の国(高句麗・百済)では、これらの国の王は「高漣*こうれん」「余映よえい」といった中国風の一字の姓と一字の名、つまり中国風一字名称で記されている。これらの国々は先の磐*達国などと異なり、中国文化との接触や国交の歴史も古い。従って中国風一字名称を名乗って朝貢した、そう見なすのが至当である。倭国も同じだ。志賀島の金印、卑弥呼の遣使等の歴史的経緯をへているので、あるから中国風一字名称を名乗って朝貢した、そう見なすのが至当である。

高漣*(こうれん)の漣*は、三水偏の代わりに王。JIS第3水準、ユニコード7489

 以上によって見林より現在の戦後史学に至る、“立証の主たる根拠”は否定された。『失われた九州王朝』以来、これに対する反論を見ない。見ないままで依然「倭の五王=近畿天皇家」の等式は“健在”であり、“学界の常識”であるかのように、学者たちは“振る舞っている”のだ。

 第三に、五王の中でもっとも確実とされた比定「武=雄略」説にも、致命的な欠陥が二つある。
 その一は、『宋書』には倭国伝以前に九個の倭国記事(帝紀)があり、その七・八・九番目は次のようである。

 (七)(大明たいめい六年、三月、四六二、孝武こうぶ帝)
  『壬寅、倭国王の世子、を以て安東将軍と為す』
 (八)(昇明しょうめい元年、四七七、順じゅん帝)
  『冬十一月己酉、倭国、使を遣わして方物を献ず』
 (九)(昇明二年、四七八、順帝)
  『五月戊午、倭国王、使を遣わして方物を献ず。武を以て安東大将軍と為す』

宋書 順帝紀 よみがえる九州王朝 古田武彦

 右を見た中国側(建康を中心とする)の読者は、(八)の「昇明元年」時における倭王を誰と思うだろう。直前の(七)の「大明六年」の記事の倭王は興である。とすれば、当然項目の列次として直後の「昇明元年」時の倭王も興と見なす他はない。まかりまちがっても、次の(九)の「昇明二年」に初見(帝紀、倭国伝とも)の武を、逆に“遡らせ”て、「昇明元年」時の倭王だなどと考える、中国の読者は一人もいないであろう。書物は前から後へ読むものだからだ。すなわち『宋書』は読者によってそのように理解されるように叙述されている。
 しかしそのように自然な、否、必然的な理解をするとき、「武=雄略」説は成立しえない。なぜなら雄略の在位年代は「四五六〜四七九」(『日本書紀』)であり、“四七八年時より後の即位”では、到底妥当しえないからである。
 その二は、有名な、『梁書りょうしょ』の武への授号記事である。
 「(天監てんかん元年、五〇二、武帝)鎮東(ちんとう)大将軍倭王武を征東(せいとう)将軍に進号せしむ」(武帝紀中)
 「高祖即位し、武を進めて征東将軍と号せしむ」(倭伝)
 これをもってしても、「武=雄略」説は成立しえない。なぜなら雄略は四七九年で没し、右の五〇二年までには「清寧 ーー 顕宗 ーー 仁賢 ーー 武烈」の四人の天皇が在位しているはずだからである。この明白な矛盾に対して、かつて“良心的な”学者たちはいったん問題を“保留”した(たとえば藤間正大とうませいた『倭の五王』岩波新書、昭和四十三年)。けれども、その“保留”からすでに十余年たった。しかるに依然、核心をなすべき矛盾を“保留”したままで、“「武=雄略」という結論だけは動かない”かのごとく“振る舞いつづける”とは。わたしには理解できない。ことが日本古代史の根幹をなす問題だけに、学問上遺憾の極みといわざるをえないであろう(この問題につき、精しくは古田「多元的古代の成立」 ーー「史学雑誌」九 ーー 一七所載、『多元的古代の成立 ーー邪馬壹国の方法』京都駸々堂刊所収、参照)。
 以上は「倭の五王=近畿天皇家」を否定する論証だ。これに対してわたしの提唱する「倭の五王=九州王朝」を肯定する論証は何か。それが次の第四・第五の二点だった。

 第四に、倭王武の上表文は「、下愚なりと雖(いえど)も、・・・が亡考済、・・・」とあるように、建康なる宋の天子を中心とし、自己(倭王)を「臣」とする、大義名分の立場で書かれている。すなわち、自己を「東」の立場においている。当然ながら倭国伝は「蛮伝(列伝第五十七)」に属しているのである。従って「東は毛人を征すること五十五国、西は衆を服すること六十六国」と書いている、その「衆夷」とは、自己の周辺の倭人をさしている。とすると、自己は九州、「毛人」は瀬戸内海周辺とするとき、大義名分に合した理解をえられる。これに反し、旧説のように“自己(近畿)を中心にして、西(九州)を「衆夷」、東(関東)を「毛人」”というのでは、自己を「天子」の位置においた夷蛮称呼を行っているということとなり、右の大義名分上の論理性と全く矛盾する。
 第五に、「渡りて海北を平ぐること九十五国」という表現も、九州(筑紫)を原点とするとき、ピッタリ適合する。これに対し、近畿天皇家は記・紀において朝鮮半島南半を指すとき、いつも「海西」の表現を使っている(『日本書紀』の神代〈第六段、一書、第三〉中の「海北道中」もまた、「筑紫」を原点とする表記である)。
 以上がわたしの「倭の五王=九州王朝」論のポイントだった。そしてこれに対しては、明確かつ有効な反論をいまだ見ないのである。そして見ないまま黙殺する。これが学界大多数のルールであるらしかった(数少ない反論については、右の論文参照)。

 そこでわたしはさらに決定的な一歩をすすめようとした。そのような模索の末、ついに三月一目の払暁をむかえたのである。
 ことの発端は中国風称号問題だった。先にものべたように、この倭の五王たちは盛んに中国の天子から与えられる将軍号をほしがっている。また与えられぬままに自称している。そしてその追認を中国側に“せびって”いる。まさに東アジアの政治世界は中国の天子を中心に回転していたのである。
 〔授与〕「(世子興)宜(よろ)しく爵号を授くべく、安東将軍・倭国王とす可し」
 〔自称〕「(武)興死して弟武立ち、自ら使持節・都督、倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事・安東大将軍・倭国王と称す」
 〔追認〕「(武)詔して武を使持節・都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王に除す」

宋書 倭国伝 よみがえる九州王朝 古田武彦

 以上の事実から記・紀をふりかえってみると、見やすい不審がある。倭の五王にあてられた“候補者”たる「応神・仁徳・履中・反正・允恭・安康・雄略」の各天皇の記事を見ても、中国への朝貢外交はもとより、右のような称号は全く見出すことができないのである。
 これは戦後史学で採用されてきた古代史学の研究法から見ると、かなり奇妙なことである。なぜなら戦後史学の研究者は次のように考えてきた。
 (一)記.紀の神話・説話は、それ自身を史実として使うことはできない(先の津田命題による)。
 (二)しかしながら記・紀説話に出てくる人名・地名・術語(官職名等)などは、これに対して適切な処理を行うならば、古代史上の史実を論定する上で使用することができる。
 戦後史学界に蓄積された尨大な研究論文、それはまた(二)を基点としたものであった、といっていい。たとえば、研究史上著名な、
 井上光貞「国造制の成立」 ーー 「史学雑誌」六〇 ー 一一、昭和二十六年十一月
 上田正昭「国県制の実態とその本質」 ーー 「歴史学研究」二三〇、昭和三十四年六月
等の諸篇はもとより、そのあとを継いだ大学内の学者の学術誌や大学内紀要発表論文の大半は、この手法に立ったものだったのである(直木孝次郎氏は、この手法〈分布法〉について、「大化前代の研究法について ーー記紀批判をめぐる諸問題」〈「史学雑誌」六四 ーー 一〇、昭和三十年十月、『日本古代国家の構造』青木書店刊、収録〉で論述された)。
 これは一面からいえば、“もっとも”なことだ。なぜならもしこの手法が学問上拒否されたとしたならば、結局“記・紀は史料として使えない”。そういうことを意味するであろうから。となると、古代史学においては(国内の史料にもとづく)文献学はほぼ“成立できない”こととなってしまうほかないのである。
 逆に、右のような手法上の活路がいったん開かれたとき、大学の学者及びその後続者たちにとって論文作製の可能性は飛躍的に増大する。なぜならそこ(記・紀)にちりばめられた単語群(人名・地名・術語等)に対し、これらをいかに統計し、いかに処理し、いかなる年代と領域に配置するか、そこに論文大量作製の秘密、いいかえれば“腕のふるいよう”が、いわば“無限”に開かれるからである。
 けれども、今この手法を静視するとき、これはいかにも“不審”なことである。その理由は次のようだ。
 右の(一)と(二)の両命題を総括してみよう。すると、津田史学によって“六〜八世紀の史官たち”とされる、彼等「造作者」たちは“真実(リアル)な単語(人名・地名・術語等)を使って、架空(ファンタスティック)な文脈(神話・説話等)を創作した”こととなる。こんなことが本当にあるのだろうか。では、それらの単語はどのような形で、過去から彼等「造作者」へと“伝えられてきた”のであろうか。“いかなる文脈もなしに、ただ単語だけが「伝世」して六〜八世紀に至る”。そんなことが現実的に考えうるであろうか。いいかえれば、彼等六〜八世紀の史官は、前代までの官職名や固有名詞を「単語帳」のような形でやみくもに暗記してきていたのであろうか。
 わたしには率直にいって、右のような状況は“絵空事”としか思えない。机の上では“仮設”できても、現実の人間の歴史の上ではおこりえぬ“虚妄”にすぎぬのではあるまいか。しかし戦後史学は、まさにその“虚妄に賭(か)けてきた”のであった。

 さて本題にもどろう。
 右の(二)がしめすように、“単語は真実(リアル)だ”という仮説、戦後史学が一応承認してきた命題からすると、ここに史実性の明白な「中国風称号」が一切現われていないことは不審だ。“中国(宋朝)への、たび重なる朝貢遣使の記事がない”。これは(一)のテーマから“当然”としても、一方の真実(リアル)なるべき単語群に、全くその気(け)もない、これはいかにも不審なのである 。
 “「中国から授号された」などということを、六〜八世紀の史官は快しとしなかったのだ”などといってみても、それは道理に合わないであろう。なぜなら“文脈(説話)はもともと「造作」のはず”なのだから、“近畿の天皇たち自身が(中国の天子に比肩すべき)将軍号をみずから部下に授与していた”。そういう形の文脈(説話)を創作すれば、それでよいはずなのである。もし何なら“近畿の天皇が中国の天子に対して将軍号を授与した”という形に、逆転させることすら、可能であろう。どうせ机の上の手加減による「造作」のはずなのだから、これは簡単な作業だ。事実、

 「(雄略六年)夏四月、呉国、使を遣わして貢献す」(雄略紀)

という風に、中国側が近畿の天皇に「朝貢」してきた、という記事が「造作」されている。このような状況から見ると、中国風称号が一切記・紀の「応神・・・雄略」間に姿を見せない、この事実は「倭の五王=近畿天皇家」という図式からは、不可解なのである。
 では、五世紀前後の日本列島には、中国風称号の痕跡(こんせき)が果してないのか。 ーーそういう問いを発してみよう。その答えは、意外にも「イエス」である。
 「筑後国風土記曰、上妻県(かみつやめのあがた)、県の南二里、筑紫君磐井(いわい)の墓墳(はか)有り。・・・東北角に当り、一別区有り。号して衙頭(がとう)と曰(い)う。衙頭は政所なり」
 有名な『筑後国風土記』の磐井の記事だ。ここに「衙頭」という用語が出ている。これは明らかに漢語である。“和風用語を漢字表記した”ものではない。どの風土記の本でも「がとう」という音読みであり、訓読みにしたものはない。つまりこの筑紫の国では、「政所」に当る中央官庁を漢語で呼んでいた。そのことが証明される。
 実はこのような徴証は、現在の地名にも遺存している。
 「太宰府 ーー 周船すせんじ 旧糸島郡。現在は福岡市)」
がこれだ。太宰府は『宋書』に出現する官職名である。
 「大明六年(四六二)司徒府を解く。太宰府は旧(もと)の辟召(へきしよう 任官)に依る」(『宋書』武三王伝。江夏文献王義恭)

宋書 武三王伝 よみがえる九州王朝 古田武彦

 しかもここでは「大」でなく「太」である。福岡県の現地でも、「太」を使っている(太宰府町)。そして教育委員会など、学者側の表示板等が「大」(『日本書紀』による)を“正統の表記”として使用しているのと、“対立”しているのである。すなわち現地ではまさに「『宋書』の表記法」を現在に“遺存”させているのだ。
 「周船寺」の「寺」も、「てら」ではなく、中国における小官庁の称呼としての「寺」である。たとえば、
 「東山之を窺(うかが)えば、則ち壊*宝(かいほう)、目に溢(あふ)れ、・・・・・列七里、陽路に侠棟(きょうとう)す」(西晋、左思さし〈太沖たいちゅう〉、「三都賦さんとのふ」呉都賦、『文選』巻第五)
とある、その「寺」なのである。

壊*宝(かいほう)は、土偏の代わりに王。

 従って筑紫の現地では、かっての、南朝劉宋(五世紀の宋)の中国風術語、宋朝風表記が今もなお使いつづけられているのである(『邪馬一国への道標』第四章「太宰府の素性」参照)。
 右のような状況から見ると、“日本列島においては、近畿では和風術語、九州では中国風術語が用いられていた”。この命題がえられる(もちろん、九州には和風術語もまた存したこと、『筑後国風土記』に「解部ときべ」をあげるごとくである)。
 では、中国風称号を愛好した「倭の五王」とは。この問いを右の命題と対応させると、ここにもまた「倭の五王=九州(筑紫)の王者」という、強い方向指示器がえられるであろう。そこから、わたしはさらにもう一歩、断崖(だんがい)を攀(よ)じ登った。

 ふたたび「衙頭」の語義を追跡していた。“ふたたび”といったのは、『失われた九州王朝』のときにも、すでに調べたことがあったからである。諸橋の『漢和大辞典』では、

 「衙。〈ガ・ゲ〉(1).つかさ。やくしょ。(2).唐代、天子の居処。(3).まゐる。あつまる。(4).兵営。(5).ならび。(6).へや。(7).地名(彭衙ほうが)。(8).姓。〈ギョ・ゴ〉(1).行くさま。(2).県名。(3).姓。・(1).とどめる」

とあった。「頭」はもちろん“ほとり”の意である。だから「衙」を「やくしょ」の意ととれば、「衙頭」は“役所のほとり”の意となって、何の他奇もない。わたしの前回の追究はここでストップしていたようである。
 もう一つ、わたしの中に「先入観」があった。「国衙こくが」「郡衙ぐんが」といった用語だ。高校の日本史の教科書にも出てくる術語である。いずれも“諸国や諸郡に設置された役所”をしめす。この頭があったから、右の「衙」の語解を見て、「あっ、やっぱり『やくしょ』の意味だな」で、ストップしたのである。
 けれども今度はちがっていた。ただ風土記の一文を“解釈”あるいは“通意”しようとしたのではない。“中国風称号を極度に愛好した「倭の五王」、彼等は日本列島の中のどこかにその痕跡を残していないのか”“近畿天皇家の記・紀にその痕跡がないとしたら、「筑紫の君」の方はどうか”。そういう問いを、前以上に鮮明な導火線として蔵していたから、先のような、一応の語解では満足しなかった。
 “なぜ、磐井のような「筑紫の君」は、このような奇妙な中国風名称を使ったのだろう。当然、それは「中国からの模倣」のはずだが、中国側の用法は、六世紀初頭以前において、どんなものだったのだろう”
 そういった問題意識に導かれつつ、「衙」をふくむ用語例を一つ一つ、吟味していったのだ。ところが、
 「衙門。本、牙門の訛」(『咳*余叢考がよそうこう』衙門)とあるところから、探索の手を「牙」にひろげた。そして、
 「牙門がもん牙旗を立てる門、即ち大将軍の軍門」

という語義を見出したのである。その用例として、
 「其の牙門を抜く」(『後漢書』衰紹えんしよう伝)があり、さらに、

 「公府を称して公牙と為し、府門牙門と為す」(『封氏聞見記ほうしぶんけんき』)

を見出した。それに右の「牙旗がき」には、見覚えがあった。

 「裹(つつ)むに帷幕(いばく)を以てし、上に牙旗を建つ」(『三国志』呉志周瑜伝)

 おなじみの『三国志』の中の赤壁の戦。その戦闘開始の直前の場面にこの術語が用いられていたのである。
 このとき火船の計を抱いて北岸(魏軍)に接近した黄蓋は将軍、その上にいる周瑜は大将軍である。彼等のシンボルをなす旗、それが右の「牙旗」だった。周瑜の部将たる黄蓋が降服するかに見せかけて接近をはかる、その詭計(きけい)に使われたのがこの「牙旗」だったのである。

咳*は、口偏の代わりに阜偏。ユニコード9654

 その「牙旗」が平常立てられているのが、「牙門」であった。それは「大将軍の軍門」を意味し、「府門」とも称された、というのだ。大将軍は自己の軍営について、「府」を称することが多かった。「開府儀同三司ぎどうさんし」という「開府」とは、自己の本営を「府」と称した、ということである。倭王がこの「開府儀同三司」を“自称”していたことは、明白だ。
「竊(ひそ)かに自ら開府儀同三司を仮し、其の余は咸(み)な仮授して、以て忠節を勧む」(『宋書』倭国伝、倭王武の上表文)
とすると、倭王武の本営は「〜府」と称せられていた。そしてその「府門」(=牙門)には、「牙旗」がひるがえっていた、そういうこととなろう。
 そして肝心のこと、それは固題の『宋書』「倭の五王」の記事を掲載した、あの『宋書』の中に次の記事が見出されることだ。
 「牙門の将。銀章・青綬(せいじゅ)・朝服・武冠」(『宋書』礼志五)
 また『晋書』では、
 「衙門の将、李高(りこう)・・・臣、衙門将軍、馬潜。(『晋書』王濬おうしゅん伝)
として、「衙門」が用いられている。
 すなわち、周瑜が「大将軍」として、配下の黄蓋を「牙門の将」としてひきいていたのと同様、倭の五王(たとえば倭王武)も、「安東大将軍」として、「牙門(=衙門)の将」を配下に有していたことは確実である。そしてこの「牙」は「衙」とも書くのであるから、倭王武は、自己の本営を「衙」と称していたこととなろう。
 論じてここに至れば、それが日本列島内の誰であるかは明瞭(みいりょう)だ。みずからの墓所を「衙頭」と称せしめた「筑紫の君」以外にない。すなわち「倭の五王=九州王朝」 ーーこの命題は、今やまがうかたなき明瞭な証明をえたのである。

 ーーディアロゴス(対話)
「これはハッキリした証明ですね。わたしも『失われた九州王朝』を読んだとき、なるほど、倭の五王を近畿の天皇に結びつけてきた、従来の証明法が成り立たないのは、分るけど、逆に倭の五王が九州王朝だ、という、積極的な証明の方がもう一つ、と思っていたんですが、これでハッキリした、という感じがします。今まで通り、『倭の五王は近畿天皇家だ』という学者は、是非この問題に反論してほしいですね」
古田「その通りだね」
「実はわたしも、『衙』というと、『国衙』『郡衙』の『衙』だと思ってきたんですが、あの『国衙』『郡衙』というのは、どういう由来で、日本で使われるようになったのですか」
古田「あれは奈良・平安以降の用法のようだね。いいかえれば、七世紀以降の唐(とう)朝と、同時代もしくはそれ以降の用法だ。つまり唐代の用法の反映と考えるのが筋だろう。とすると、先にあげたように、唐代の用法として『天子の居処』の意味で、
『衙、唐制、宣政前殿也、之を衙と謂い、衙に仗(じょう)有り』(『正字通せいじつう』)
『天子の居、衙と曰う』(『唐書とうじょ』儀衛志)
といった用例が注目されるね。この用法を原点 として、“諸国・諸郡の役所”を『国衙』『郡衙』と呼んでいるものと思われるんだ。
 ところが、問題の『筑後国風土記』の『衙頭』(衙のほとり)の『衙』は、少なくとも“六世紀初頭以前”の用例だから、この唐朝の用法をもととして理解してはならない。この自明の道理をわたしたちは、先入観に災いされて、見失っていたようだね。
 この点、『宋書』の著者沈約は、六世紀の十年代(五一三)に没した人だから、同じく六世紀の初頭(五三一。『日本書紀』では、五二八とする。『失われた九州王朝』第四章I 参照)に没した磐井とは、ほぼ同時代の人物だ。従って『筑後国風土記』の『衙頭』を後代の『国衙』や『郡衙』の語義からではなく、同時代ないし前代の『宋書』や『晋書』(成立は唐代)、『三国志』等の用法に拠(よ)って理解する。それは当然のことであったわけだよね」
「倭王武のことは『南斉書なんせいしょ』にも出ていますね」
古田「そうだ。『大将軍』間題は、『南斉書』も『宋書』も同一だよ。『建元けんげん元年(四七九)、進めて新たに使持節・都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・(慕韓)六国諸軍事、安東大将軍、倭王武に除せしむ。号して鎮東大将軍と為せしむ』(『南斉書』倭国伝)だね。この『南斉書』の著者、蕭子顕(しょうしけん)は、『〜五三七』の人だから、まさに磐井の直後といっていい時期に死んでいる。いいかえれば、磐井は“『宋書』の著者と『南斉書』の著者との間”に生きていた、そういうことになるわけだ。
 その両者に出てくる『大将軍』の称をもつ倭王武。その本拠を、この時代の『牙(=衙)』の用法によって理解する。それが当然の史料理解の筋道ではないだろうか。先入観に固執し、明らかな道理に目をふさがない限り、ね」
「そうですね」


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よみがえる九州王朝 幻の筑紫舞 角川選書 謎の歴史空間をときあかす

第二章 邪馬一国から九州王朝へV 自署名の論理古田武彦

 わたしは三十代、親鸞研究に没頭した。それは、わたしの生を確かめるための探究であった。けれども同時に、古史料や古文書の扱いについて、多くの認識と経験を与えてくれた(「わたしの学問研究の方法について」 ーー『邪馬一国の証明』角川文庫所収、参照)。
 その一つに書簡の扱い方があった。親鸞には自筆書簡が若干現存しており、同時に古写書簡(直弟の書写したもの)もまた現存している。その上、後代の書写にかかるものはもちろん、各種の系列で存在している(『親鸞聖人全集書簡篇』親鸞聖人全集刊行会刊。のち法蔵館、参照)。それらの思想様式や表現様式をはじめ、各文書・写本の表記と書式を厳格に対比すること、それがわたしにとっての親鸞研究の出発点だった。
 従来の(明治以降の)親鸞伝研究にとって大きな欠落をなしていた建長二年文書(いわゆる三夢記さんむき)の真作性の証明も、右のような探究の延長線上に現われてきたのであった(古田『親鸞ー人と思想』清水書院、新書版。『親鸞思想 ーーその史料批判』冨山房刊、参照)。
 このような、多年の研究経験をへてきていたわたしが、三十代の終り、古代史の分野をかいま見たとき、大きな不審をいだいたのは、“古代史学における「書簡」の処理”であった。たとえば『三国志』の倭人伝において、
 「倭王、使に因って上表し、詔恩を答謝す」
とある。「上表」とは上表文提出のことであり、「上表文」とはすなわち書簡の一種である。しかも公的書簡として、その厳格さは個人と個人の問の書簡の比ではないこと、当然だ。その厳格にして公的な書簡外交、それが中国と倭国との間の交渉形態だったのである。
 この事実を直視すれば、 ーー 一見飛躍するようだがーー 卑弥呼の都、つまり邪馬一国のありかは、すでに明らかであろう。なぜなら日本列島の弥生遺跡の中から文字遺物が集中して出土するところ、それは糸島・博多湾岸(筑前中域)領域から出土した志賀島の金印、そして漢式鏡(前漢式鏡・後漢式鏡)だ。一王墓に二十〜四十面も埋蔵されているのは有名である(三雲・須玖岡本・井原・平原の各遺跡)。これらの出土物の半ばには、文字をもつ銘帯がある。従ってこの王墓の被葬者(死せる王)、埋葬者たち(後継する王と貴族)が“文字を知っていた”ことは疑いえない。そしてこのような地帯は日本列島の全弥生遺跡中、他に絶無なのである。とすれば、先の“中国と文字外交を展開した卑弥呼の都”はこの領域(筑前中域)以外にないことは自明の理である。その自明の理に対して旧説の論者が目をおおいつづけているだけだ。
 さて問題を五世紀にすすめよう。ここでも当然ながら冒頭の倭王讃から伝統の書簡外交が展開されている。
 「太祖(たいそ)の元嘉(げんか)二年(四二五)、讃、又司馬曹達(しばそうだつ)を遣わして表を奉り、方物を献ず」
とあるように。そして倭王武に至って有名な彼の上表文の長文引用が行われているのである。以上のような事態の意味するところは何か。
 第一に、当然ながらその公的書簡には“倭王自身による倭王の自署名”が存在していたことである。表書と書簡内部(先頭や末尾等)に、これを欠いては、およそ書簡の態をなさないものであること、いうまでもない。ではそこには何と書かれていたか。これも疑いはない。倭王讃の場合には「倭讃」と書かれていたのであり、倭王武の場合には「倭武」と書かれていたのである。“彼等の上表文の署名に依拠して中国側は彼等の姓名を倭国伝に記載している”。これは通常極まる(これ以外に考えようのない)事態であるから、右のような認識も、これ以外の理解のありようはないのである。
 右のように書簡の表記様式の基本のルールからすれば、あの松下見林が唱え、現在の戦後史学まで従ってきた理解、たとえば“使者が「イザホワケ」と中国側に告げた。中国側はその第二音のみを採取して「讃」と記した”といった類の理解が、失礼ながらいかに“珍無類”であるかはハッキリしよう。

 問題の「上表文の自署名」をしめす実例も、当の『宋書』全体を見渡せば、枚挙に事欠かない。

 「(西南夷、訶羅施*(からだ)国、元嘉七年遣使奉表)・・・・・伏して惟(おもんみ)るに、皇帝、是(こ)れ我が真主。臣は是れ、詞羅施*国王、名は堅鎧と曰う」(『宋書』夷蛮伝)
 「(元嘉十年、呵羅単(からたん)国王、[田比]沙跋摩(ひさばつま)、奉表)常勝天子陛下・・・・・呵羅単国王、[田比]沙跋摩、稽首問訊(けいしゆもんじん)す」(同右)

訶羅施*(からだ)国の施*は、方の代わりに阜編。JIS第4水準ユニコード9641
[田比]沙跋摩(ひさばつま)の[田比]は、JIS第3水準、ユニコード6BD7

 いずれも当然のことだ。“いわゆる「中世」には書簡に自署名を書いたからといって、古代もそうとは限らない”などといった弁舌をふるう人はいないであろうし、あっても、通るものではないであろう(ことに下位者〈倭王〉が上位者〈中国の天子〉へと提出した上表文であるから、「倭王」といった称号のみで「実名不記載」というような“失礼”な書式はありえない)。
 思えば戦後の日本古代史学の“導き手”とされる井上光貞氏など、「中世」の浄土教の研究でも知名の学者だ。わたしなどむしろかつては『日本浄土教成立史の研究』によって井上氏を知っていたくらいである。その氏をふくむ、戦後古代史学界で通用されてきた“倭の五王と近畿天皇家を結びつける、松下見林流の手法”、それを見てわたしは、不審の念にうたれざるをえなかった。
 そしてこれらの讃・珍・済・興・武が、中国側の取捨撰択による恣意的な命名などではなく、彼等倭の五王自身の自署名である、という立場に立つとき、それが記・紀に一切現われないのは、やはりどう見てもおかしい。なぜなら六〜八世紀の「造作」者は、一方で「説話」は自由に「造作」しながら、他方では単語(人名・地名・術語類)は(ことに五世紀以降)真実(リアル)に保存していた。 ーーこれが戦後史学の“建て前”だった。しかるに、人名中の人名というべき“倭王の自称の自名”が一切その痕跡すらとどめていない。 ーーこれでは、まさに根源の背理というほかはない。
 “しかし記・紀は和風名称を重んずる史書だから、そんな中国式名称など書けないのだ”。そのようにいう論者があるだろうか。そのような論者に対してわたしは言わねばならぬ。“では、多利思北孤を見よ”と。彼は周知のように中国(隋)へ国書を送った(『隋書』イ妥たい国伝)。
 「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙(つつが)無きや、云云」
の一節をふくむ公的書簡だ。当然そこには“彼自身の書いた自署名”があったはずだ。それが「多利思北孤たりしほこ」である(彼は自己を中国の天子と「対等」と見なした。従って自分の側の「実名」が記されていて、書式上、不思議はない)。彼は自ら「臣」と称した倭王武とは異なり、海西なる中国(隋)の天子と対等な、「海東の天子」たることを誇称していた。従って中国風の一字名称ではなく、まさに民族風(和風)の姓名をもって自署名を記した。それが「姓は阿毎あめ、名は多利思北孤」の表記だったと思われる(右の激変をもたらした、その画期をなす一線は、倭王武たちの臣事した南朝〈陳ちん〉の滅亡であろう。倭国にとっては、新たなる“北朝系の天子”に「臣事」すべき筋合いは、存しなかったのである)。
 右のように考察してくると、この七世紀前半の王者の自署名が記・紀に全く表現されていないこと、 ーーそれはもし彼等が近畿天皇家(推古すいこ朝)の王者であるとすれば、まさに“回避しえぬ背理”というほかはない。
 この点は、問題を“蘇我王朝”などにすりかえてみても、解決しうるものではない。彼等の中にも「阿毎、多利思北孤」というような名称の人物はいないのであるから。やはり「倭の五王=多利思北孤」の系列は、近畿天皇家や近畿の豪族ではありえなかった。代ってあの同書中の著明な、
 「阿蘇(あそ)山有り。其の石、故無くして火起り天に接する者、俗以て異と為し、因って[示壽]祭(とうさい)を行う」
の一句のしめすごとく、九州の王者に他ならなかったのである。はるか後世の研究者は、“なぜ、この見やすい道理を、あの当時(二十世紀)の学者は理解できなかったのか”と、それをこそまさにいぶかることであろう。

[示壽]祭(とうさい)の[示壽]は、JIS第3水準ユニコード79B1 「祷」の印刷書体。
イ妥*国のイ妥*は、人編に妥。ユニコード番号4FCO

 ーーディアロゴス(対話)
(「いわれてみれば、その通り。コロンブスの卵みたいな話ですね」
古田「そうだねえ。もう一つ、同じテーマとして、『国の名乗り』問題があると思うよ」
「何ですか。『国の名乗り』とは」
古田「考えてごらん。倭国の使者が ーーどこの国でも同じだけどーー 中国へ行くとするね。そのさい、“中国側がどうやってその人物の一行が本人たちの名乗る国の人間であるかどうかを確かめるのか”という問題だ」
「なるほど、やけに現実的な問題ですね。本人たちがそう名乗ったから、それでいい、というわけにはいかないわけですか」
古田「そのさい、当然通訳を通じて応答があるわけだが、同時に、例の国書・上表文の中にも、自分たちの国の来歴が書かれているはずだ。『自分たちの国は、貴方がたも御存知の、この国だ』というわけだ」
「中国と倭国のように、古くからのつき合い、それも書簡外交ともなれば、当然ですね」
古田「その点、先ず注目されるのが、『宋書』だ。冒頭の地の文に、
 『倭国は高麗(こうり こうらい)の東南大海の中に在り、世々貢職を修む』
とあるが、この「世々」とはいつからいつまでか。この点、倭王武の上表文に、
 『より祖禰(そでい)(みずか)ら甲冑(かっちゅう)を環*(つらぬ)き、・・・累葉朝宗して歳に愆(あやま)らず。・・・に至りて、甲を練り兵を治め、・・・』
とあるから、ここでは『昔・・・今』の時間帯で文章が進行する中で、『累葉朝宗』の言葉が出てくる。従ってこの『累葉』は“『昔』以来”と見ることができる。
 
環*は、王編の代わりに、手編。JIS第3水準、ユニコード64D0

 この点をさらに明確にしているのは、『南斉書』だ。
 『倭国。帯方の東南大海の島中に在り。漢末以来、女王を立つ。土俗已(すで)に前史に見ゆ』
とあるように、“この五世紀の倭国は、卑弥呼・一与(いちよ)たちの、三世紀の倭国の後継者”そのように、中国側は認識しているわけだ。
 もしかりに、三世紀倭国から『邪馬台国東遷』などの、遷都ののちの五世紀倭国(倭の五王)であったとしたら、当然その旨が倭の五王たちの上表文に記されてあったはず。となると、それ(『邪馬台国東遷』)は『宋書』や『南斉書』の冒頭の地の文にも反映しているのが当然だ。しかし、そんな記事はないよね」
А「なるほど。でも、もっとズバリ、の話はありませんかねえ」
古田「ズバリあらわしているのが、『隋書』だ。冒頭の地の文に次のようにある。
 『漢の光武の時、使を遣わして入朝し、自ら大夫と称す。安(あん)帝の時、又遣わして朝貢す、之をイ妥*奴(たいど)国と謂(い)う』
 これは志賀島の金印のことをさしている。そのあと、卑弥呼のことをのべたあと、次のようにのべているね。
 『魏より斉・梁に至り、代々中国と相通ず』
 このあと、例の阿蘇山の記事が出てくる。こうしてみると、“この多利思北孤の国は『九州の志賀島 ーー 九州の阿蘇山』の中にあり”という命題がクッキリ浮かび上ってくるだろう。つまり九州王朝だ。そしてその前半の歴代の伝統(志賀島の金印、卑弥呼の国)は、まさに多利思北孤の国書の中に示唆されていた、そのように見なしても、先ず大過ないんじゃないかね。わたしの目には、そう見えているんだよ」
А「そうですねえ。ところで、その九州王朝の中で作られたもの、文献や文化遺産、そんなものが何か残っていないかなあ。それがあれば、文句ないんだけど」
古田「そうだね。それこそ、実は次の問題なんだよ」


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