王朝交代説考

 

 更新日/2020(平成31→5.1栄和改元/栄和2).8.15日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 れんだいこの新邪馬台国論は、既成の王朝交代説の確認を迫ることになった。ここで、これを検討する。

 2009.11.22日 れんだいこ拝


 王朝交替説(おうちょうこうたいせつ)とは、大和王朝時代初期の古墳時代に皇統の断続があり、複数の王朝の交替があったとする学説を云う。これを最初に唱えたのが、1958(昭和23)年、江上波夫が発表した「騎馬民族征服王朝説」であった。大陸の狩猟騎馬民族が北九州を経由して4世紀末頃大阪平野に上陸し、征服国家を打ち立てたとの説を展開した。続く1952(昭和27))年、水野祐・氏の「三王朝交替説」であった。水野氏は、1954(昭和29)年、「増訂日本古代王朝史論序説」を発表し、補強した。その意義は、戦前の皇国史観に基づく万世一系説に疑問を呈する意義を持っていた。戦後史学の自由性を証することになった。

 水野祐・氏の「三王朝交替説」を確認する。水野氏は、古事記の記載に於ける天皇没年の干支や天皇の和風諡号などを分析した結果、崇神から推古に至る天皇がそれぞれ血統の異なる古・中・新の3王朝が交替していたのではないかとする説を立てた。更に、天皇没年の干支が記載されている天皇は、神武天皇から推古天皇までの33代の天皇のうち15代である故に実在、不記載の18代は実在しなかった架空天皇である可能性を指摘した。その上で、実在15代の天皇は、第10代の崇神天皇、第16代の仁徳天皇、第26代の継体天皇を初代とする3王朝に分かれており、興廃があったのではなかろうかとの仮説を打ち出した。これにより、皇統譜は、大和の三輪地方(三輪山麓)に本拠をおいた崇神王朝が神代ののち崇神が大和を統一して王朝が3代続いた。南九州にあった狗奴王国が応神の時に北の女王国(邪馬台)を滅ぼし、仁徳の時に東遷して大阪平野(河内)に本拠をおいた仁徳王朝が8代続いた。雄略の後に後継者がいなくなり飯豊女王を立てたがここで血が絶えた。近江か越前の豪族であり皇位を簒奪したと考えられるが、大連大伴金村が越前国から迎えて継体を擁立し、即位後すぐには大和の地にはいらず北河内や南山城などの地域を転々し、即位20年目に大和に入った継体王朝。、これが現在の皇統となっている。皇統は以上の3王朝に分かれるとした。

 水野説を批判的に発展させた学説がその後、次々と古代史学学界で発表されることになった。井上光貞の「日本国家の起源」(1960年、岩波新書)を皮切りに、直木孝次郎、岡田精司、上田正昭などによって学説が発表され、王朝交替説は学界で大きくクローズアップされるようになった。古代史の学説を整理した鈴木靖民は、「王朝交替論は古代史研究で戦後最大の学説」と著書「古代国家史研究の歩み」で評価している。また、王朝交替説に対して全面的に批判を展開した前之園亮一も著書「古代王朝交替説批判」のなかで、万世一系の否定に果たした意義を評価している。

 れんだいこがこれを評するのに、「王朝交替説」を打ち出したか観点は良いが、大和王朝内の王朝交代説であり、邪馬台国との絡みが為されていない点で芯を掴んでいないように思われる。問題は、水野説をどう批判し発展させるのかの後継側の能力であろう。

 鳥越憲三郎氏の「葛城王朝説」も注目される。水野氏の三王朝交替説では実在を否定されていた神武天皇及びいわゆる欠史八代の天皇は実在した天皇であるとして、崇神王朝以前に存在した奈良県葛城地方を拠点とした王朝であったが崇神王朝に滅ぼされたとする説を唱えた。






(私論.私見)