「寛政原本」の正体―『東日流外三郡誌』擁護論の自爆― 原田実
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『東日流外三郡誌』関連論考
◎「寛政原本」の衝撃
2007年4月21日、東京で開催された古田武彦講演会の当日。私はレジュメとして配布された『東日流外三郡誌』「寛政原本」のコピーを見て我が目を疑った。会場ではそのレジュメ以外にも、現物の展示および写真の閲覧が行われ、現在までに発見されたという「寛政原本」5点すべてが提示されたわけだが、私はそれを見ながら驚くとともに深い嘆息をつかずにはいられなかった。
―その「寛政原本」の筆跡はことごとく従来の和田家文書(古田氏の言う「明治写本」)と同じ、すなわち和田喜八郎のものに他ならなかったのである。
当日、古田氏が見せた無邪気といってよいほどの態度からは、古田氏がそれらを「寛政原本」と信じ込み、また他の研究者相手にもその主張が受け入れられるものと思い込んでいることがうかがえた。私はそのことに驚き、また嘆かずにはいられなかったのである。それにしても、古田氏はいったい何を根拠にそれらを「寛政原本」と認定してしまったのだろうか。
『東日流外三郡誌』をはじめとするいわゆる和田家文書は、その本文において、江戸時代の寛政年間前後の成立を主張しているが、用語に昭和期以降の言葉が含まれていること、戦後の紙が含まれていること、昭和期の画集から多数の絵が引き写されていること、文書の筆跡が「発見者」にして所蔵者の和田喜八郎と一致していることなどからもはや昭和〜平成期の偽書であることは疑う余地はない。
古田氏は『季刊邪馬台国』51号で喜八郎の筆跡見本としてあげられた原稿は実は喜八郎の息女の代筆であるとし、喜八郎から確認の一筆を得たという。古田氏はこれによって偽書説の根拠となる筆跡鑑定は無効だというのだが、その主張には三つの錯誤がある。
まず、第一にたとえその原稿が息女の筆跡だとしても、それが和田家文書と一致する以上、和田家文書が現代人の偽作であることを証明するには十分である。次に喜八郎はそもそも偽作容疑者なのだから、その本人の証言だけで原稿が喜八郎の手になるものでない、とするのは不当である。さらに第3の問題として古田氏が目の前で喜八郎から得たという一筆「これは娘の字、己の字ではない」というのが肝心の原稿と同じ筆跡なのである(原田実『幻想の荒覇吐秘史』批評社・1999)。
さて、古田氏は1993年以来、偽書説論者が批判するテキストは明治期の写本であり、寛政年間の原本が出てくればそれらの疑問は解決すると主張していた。しかし、実際には、筆跡をはじめ偽作説の根拠となった事実はいずれも現行テキストが明治期の写本であるという主張をも否定するものばかりである。さらに古田氏が寛政原本を出すといってから13年もの歳月が流れても、その実物は提示されることはなかった。
和田家文書の伝来や成立を考察するのに、寛政原本なるものを想定する必要はなければ、その余地もない。和田家文書は現代人・和田喜八郎が郷土史家から得た知識と新聞・書籍・雑誌・テレビなどから得た情報に基づき、ゼロから創作したものと推定できるのである(斎藤隆一「寛政原本の幻想」『季刊邪馬台国』第71号・2000年12月、原田実「『東日流外三郡誌』原本実在説という幻影」『季刊邪馬台国』第86号・2005年1月、斉藤光政『偽書「東日流外三郡誌」事件』新人物往来社・2006年)。
ところが2006年末になってこの問題に新しい動きが生じてきた。古田氏が「寛政原本」をついに発見した、と主張し始めたのだ。
◎突然の出現
1999年9月28日、いわゆる和田家文書(『東日流外三郡誌』等)の「発見者」にして所蔵者、そして実際には偽作者であった和田喜八郎が世を去った。
2001年秋、藤本光幸と竹田侑子氏は喜八郎の長男の許可を得て、生前に喜八郎が「古文書」を保管したという長持箱を開け、その中身を運びだした。ちなみに藤本は生前の和田が貸し出す「古文書」のために私財を投じ続けた人物であり、竹田氏はその藤本の実妹に当たられる方である。
竹田氏は2002年11月に発表した論文で、2001年に運びだした「古文書」の目録を作成したことと、その中には「いわゆる寛政原本と思われるものは残念ながらなかった」こととを明記している(竹田侑子「和田家文書報告(1)」『北奥文化』第23号)。
その後、喜八郎の長男は死去、藤本も2005年10月20日に世を去った。藤本は2001年入手分も含め、所蔵する和田家文書の整理と書写を行っていたが、ついに「寛政原本」発見などという発表を行うことはなかった。
藤本の没後、その家に残された和田家文書の管理を行ってきたのが竹田氏である。2006年11月、古田氏は八王子セミナーハウスで古代史に関する公開セミナーを行うことになった。古田氏によると、同年11月10日、竹田氏はセミナー参加者に和田家文書の実物を見ていただきたいと冊子の一部をご子息に託し、セミナーハウスの宿泊施設にいる古田氏に届けさせた。古田氏はその一冊を見て、即座にそれが「寛政原本」であることに気づいた。そして、11月11・12日のセミナー当日、古田氏は発見されたばかりの「寛政原本」を参加者に提示したという。
さらにその年の12月24日には東京、翌年1月20日には大阪における古田氏の講演会で「寛政原本」のご開帳が行われた。そして4月21日には東京での講演会でその提示が行われたというわけだ。現在、古田氏は「寛政原本」写真版の電子出版を急いでおり、2007年5月にも刊行される予定という。
http://www.onbook.jp/bookd.html?bid=0069
現在までに発見された「寛政原本」5点にはそれぞれ次の書き込みがある。
@
「寛政五年七月、東日流外三郡誌二百十巻、飯積邑和田長三郎」
A
「東日流内三郡誌、安倍小太郎康秀、秋田孝季編」
B
「付書第六百七十三巻、寛政二年五月集稿、陸州於名取、東日流内三郡誌、秋田孝季、和田長三郎吉次」(ただし、コピー版)
C 「建保元年七月安東七郎貞季殿之 軍諜図ナルモ是ノ原図追書セルハ己道ナリ」東日流外三郡大図・文政五年六月二十一日 写之・和田長三郎吉次(花押)」
D 「東日流内三郡誌、次第序巻、土崎之住人、秋田孝季」
この内@BDについては、字が極端な右肩上がりを示す特徴といい、「東」「流」「郡」「和」「安」といった漢字の書き癖、ひらがなの「て」「る」「も」などの顕著な特徴、「於」「覇」などの特徴ある誤字といい、すべてはいわゆる「明治写本」と筆者が共通であることを示している。すなわち、明らかに和田喜八郎の筆跡だ。
ただ、Aについては本文が擬漢文体であるため、Cについては本体が地図であるため、ひらがなの特徴から判断することはできない。また、どちらも一字一字丁寧に書かれているため、右肩上がりの癖も抑えられている。しかし前者では「東」「和」「安」の書き癖や「於」「覇」の誤字が明確に認められ、後者も「東」「流」「郡」などの字に特徴があって、やはり和田喜八郎の筆跡であることは間違いない。
ちなみに、「和田長三郎吉次」「秋田孝季」というのは和田家文書の編者として喜八郎が生み出した架空の人物である。前者は喜八郎の先祖とされている。
さらに上記@にはその和田長三郎吉次が「飯詰邑和田長三郎」と記されているが、喜八郎の先祖が飯詰(現五所川原市大字飯詰)の地に住むようになったのは土地台帳によると明治36年(1903)以降のことだ(安本美典編『東日流外三郡誌「偽書」の証明』廣済堂出版・1994年)。私は江戸時代に実際に飯詰の庄屋を務めていた家の子孫・飯塚家を訪ね、そこで明治時代初期の飯詰村の見取り図をみせていただいたことがあるが、その中には「和田」という姓の家そのものが存在しなかった。したがってそれに先立つ江戸時代に喜八郎の先祖が飯詰にいるということはありえない。
◎人を侮るものこそ真の愚者
4月21日の講演会において、古田氏は「寛政原本」における秋田孝季の筆運びは書道の理にかなっていると述べた。それが一見、下手に見えるのは秋田孝季が高齢で目が悪くなっていたからだそうだ。また、古田氏は「寛政原本」の思想の深さを讃えて、それは偽作者といったインチキな人物に書けるものではない、と述べた。古田氏によると、その深い思想は「私には書けない、ましてや喜八郎さんなんかには書けるわけがない」ものだそうだ。
しかし、最後まで説明されることがなかったのは、この5点を「寛政原本」と断定した理由である。藤本と竹田氏は入手した和田家文書について内容を整理し、その目録を作っている。先述のように藤本は生前、「寛政原本」を見つけたなどとは主張していない。竹田氏にいたってはその中に「寛政原本」はない、といったん報告しているくらいだ。つまり、古田氏が発見した「寛政原本」は、藤本や竹田氏にとって他の和田家文書と大差がない、「寛政原本」にはとても見えないものだった、ということである。
しかも、その内の1点はコピーだという。つまり、その元の本はすでに現代人の目に触れているのだ。「寛政原本」がいままで出てきた和田家文書(いわゆる「明治写本」)と異質のものなら、そのコピーをとった人物によって、すでに気づかれているべきではないか。
この状況から言って、新発見の5点を「寛政原本」とするには慎重な姿勢が求められていたはずだ。だが、古田氏はご自身にしかわからない理由で安易な断定を下してしまったようである。
さらに言えば、古田氏が、それらは江戸時代の古文書であると本当に世に問いたいのなら、電子出版よりも先になすべきことがある。それは、第三者的な研究機関に委ねての検査・鑑定である。その手続きを抜きにしての「寛政原本」認定はもはや拙速としか言いようがないだろう(もっとも「寛政原本」が正規の鑑定に耐えられるシロモノではないこともまた確かなのだが)
さて、現在、『東日流外三郡誌』擁護の論陣を張っておられる人物には古田氏、竹田氏とともに東京学芸大学教授・国際教育学会会長の西村俊一氏がいる。この三人に共通していること、それは和田喜八郎の執筆能力をかなり低く評価していることだ。というより、「和田喜八郎ごときに『東日流外三郡誌』が書けるわけはない」という侮りこそが、彼らの偽書説否定を支える唯一の根拠かも知れない。
古田氏は和田家文書に登場する人名などについて、和田喜八郎が知らなかった(ようにふるまっていた)ことに関し次のように述べる。「和田喜八郎さんの“和田家文書の内容への錯覚”は、わたしには珍しいことではない。そのような経験の重なりがあるために、例の“和田家文書、喜八郎偽作説”など、わたしにははじめから一顧だにしないものだった」(古田武彦「累代の真実」『新・古代学』第1集・1995年7月)
また、偽作説の根拠となった喜八郎の筆跡サンプルについて古田氏は喜八郎息女の代筆であると主張し、次のように述べる。「和田喜八郎の場合、もう一つの問題があります。それは、彼が相当の“書きしぶり派”であるということです。つまり、“書く”ということは、決して彼にとって“得意技”ではないのです。(中略)無論、一般の農業関係者の中では、彼はまだ“筆のたつ”部類かもしれません。しかし、都会の会社員生活で生涯を過してきた人々の多くと比べれば、彼ははるかに“書くのが、億劫な”タイプの人間なのです」(古田武彦「浅見光彦氏への“レター”」『新・古代学』第8集・2005年3月)
偽作者が、カモの目の前で、無学で筆無精なキャラクターを演じてみせる、カモの方では最初から相手を侮っているから、それが演技であることに気付かない・・・なにやら生前の和田と古田氏の関係がうかがえる文章である。講演での「喜八郎さんなんかに書けない」発言もこの認識から出てきたものだろう。また、古田氏の筆致からは都会の会社員の方が農民よりも文章をよく書くものだ、という思い込みが感じられる(実際には農村にも文章家はいるし、会社員にも筆無精はいる)。
ところで古田氏はしばしば『東日流外三郡誌』偽書説の背景には蝦夷(東北人)差別があると説いている。しかし実際には『東日流外三郡誌』真偽論争において、東北地方の多くの郷土史家が 偽書説の立場からの論陣を張っている(千坂げんぽう編『だまされるな東北人』本の森・1998、三上強二監修『津軽発「東日流外三郡誌」騒動』批評社・2000)。その人たちを突き動かしたもの、それは東北の地を愛する者として、その歴史が詐欺の小道具に使われるのは許せないという義憤であった。
しかし、古田氏はそうした声には耳を傾けようとはしない。真の意味で東北の地の人々を侮蔑しているのは偽書説論者と古田氏のいったいどちらの方だろうか。
また、古田氏は和田喜八郎を農業関係者とみなしているが、これにはいささか語弊がある。喜八郎は自前の農地を持っておらず、現金収入は主に「古文書」を用いての詐欺行為によって得ていた(安本美典他『日本史が危ない!』全貌社・1999年)。喜八郎が詐欺師だったことは竹田氏も認めるところである。
「父幸一は、和田喜八郎を“万十千三つ”と評していた。すぐにバレる嘘をその場の思いつきでペラペラいう。生前父は“喜八郎は嘘つきだが石塔山は本物だよ”ともいっていた。兄光幸が、万十千三つとまるで節操のない喜八郎を知りながら『東日流外三郡誌』をはじめとする和田家文書にのめりこんでいったのは、和田喜八郎の書き得るものではないことを知っていたからである。“総四千八百十七冊”と記される和田家文書を書き得るほど、和田喜八郎は天才でも超人でもない。ましてや五流の詐欺師に書き得るものではない」(竹田侑子「和田家文書は和田喜八郎の書いた偽書ではない」『北奥文化』第20号・1999年11月)
さて、「総四千八百十七冊」というのはあくまで和田家文書の本文に出てくる数字であって、実際に和田家文書として出てきたものの実数ではない。石塔山にかつて古い祠があったのは事実だが、喜八郎はその跡地にユンボを入れて整地し、勝手に神社を建ててしまった。つまり「石塔山は本物」だったにしても、その痕跡は他ならぬ喜八郎により、跡形もなく破壊されたのである。和田家文書は文体の乱れや前後の矛盾が多く、いかにも「すぐにバレる嘘をその場の思いつきでペラペラいう」人物の書きそうな文章である。
さらにいえば、和田家文書が喜八郎の家に伝わっていたとする根拠は喜八郎自身の証言しかない。その喜八郎が「五流の詐欺師」だとすれば、和田家文書の来歴そのものが疑わしくなるのだ。竹田氏は同じ論文で先の文章に続けて「和田喜八郎その人への不信と和田家文書の真偽問題を一緒にしないでほしい」 と述べるが、実際には喜八郎証言の信憑性は和田家文書の真偽判定に大きな影響を及ぼさずにはいられないのである。
西村俊一氏は次のように述べる。「和田喜八郎は決して凡庸な人間ではないが、当方の管見するところ、その文字と文章は真に拙劣極まりないものである。それは、和田喜八郎が高等小学校卒業のため、やむを得ないところでもある。そのことは、誰よりも原田実自身が最も良く知るところではないのだろうか。『東日流外三郡誌』を含む一群の“和田家資料”の文章もさほど優れたものとは言い難いが、両者に格段の差があるのは明白である」
「(1999年9月19日、青森県泊村・浄円寺の佐藤堅瑞住職を訪ねた際)佐藤堅瑞は、和田喜八郎が新たに持参したという初見の『金光上人関係資料』三点を示しながら、“和田喜八郎に、この様なものは書けませんよ”と、その感慨を漏らした。(中略)“偽書”論者の代表とも言うべき安本美典について“あの人は学者さんでしょう?それがどうしてあんな行動に走るのでしょうねえ。この世は本当に怖いですねえ”という趣旨のことを、問わず語りに語った」(西村俊一「日本国の原風景」『北東北郷村教育』第7・8号・2000年2月)
私は西村氏により、喜八郎の文章力について同じ認識を持っているはずと名指しされているわけだが、あいにく私の理解は西村氏と異なっている。少なくとも私は学歴を以てその人の能力を推し量ろうとする指向は持ち合わせていない。和田喜八郎名義で発表された著書や論文による限り、その筆者には和田家文書程度のものは十分に書けるものと私は考える。そして喜八郎名義の文章と、和田家文書の間には、その「拙劣さ」において格段の差があるようには思われない。ちなみに和田喜八郎は生前、陸軍中野学校出身で通信研究所の勤務歴があると称していたが、西村氏はそうした喜八郎の自称を信じていないことがここで図らずも明らかになった。
なお、佐藤師が安本氏を非難したという件については(あくまで西村氏の証言を信じるという前提においてだが)若干の背景説明が必要だ。文中に出てくる「金光上人」というのは東北の地に浄土宗を伝えた高僧である。しかし、その伝記資料は乏しく、青森県内の研究者の間ではその欠落を埋めるものとして和田家文書が珍重されていた。
しかし、『東日流外三郡誌』の真偽論争が過熱してからは、浄土宗(本山・知恩院)でも調査を開始、ついに1999年11月刊の『金光上人関係資料集』で和田家文書の価値を否定するにいたった。
http://www8.ocn.ne.jp/~douji/tsugaru2005.htm
そして、佐藤師は金光上人研究に和田家文書を導入した代表的論客だったのである。つまり西村氏が佐藤師を訪問した時期、それは佐藤師が『東日流外三郡誌』偽書説のために宗門内での面子を失おうとするまさにその時期だったのである。西村氏はその事実を伏せて(あるいは知らずに)あたかも佐藤師が第三者的立場から安本氏を非難したかのような文章を記したのである。
なお、余談だが、西村氏のこの論文には多くの事実誤認(あるいは意図的な虚偽)が含まれている。くわしくは三上強二監修『津軽発「東日流外三郡誌」騒動』(批評社・2000年)を参照されたい。
「和田喜八郎ごときに和田家文書は書けない」という思い込み、その偏見と侮蔑ゆえに古田氏、竹田氏、西村氏、そして藤本や佐藤師はことごとく和田の生前にはカモにされた。喜八郎自身、彼らの偏見と侮蔑を維持するためにたくみに立ちまわってもいた(もちろん本当に相手を愚弄していたのは喜八郎の方だ)。そして、喜八郎の没後もかつてのカモはその影響下にからめとられ続けている。この度の「寛政原本」発見も、彼らが和田の亡霊に踊らされての一幕というわけだ。
和田喜八郎は生前、活字化される前の手書き本としての『東日流外三郡誌』は紛失したと主張していた。それは『東日流外三郡誌』を活字版ではなく、元の本で鑑定したい、という研究者たちの要求から逃げるための口実だったのだが、どうやら古田氏は喜八郎が隠していたその手書き本を探し当て、しかも江戸時代の古文書と見誤って世に出してしまったようである。
ある意味、この度出てきた本は活字化以前の原稿にあたるものということで『東日流外三郡誌』の原本にはちがいない。しかし、それは「寛政原本」ではなく、昭和原本とでも呼ばれるべきものなのである。『東日流外三郡誌』昭和原本は稀代の詐欺師の脂が乗り切った頃の腕前を見せつける作品である。古田氏の錯誤により、私たちはその傑作を写真版で鑑賞する機会が与えられたわけだ。私は、発見者である竹田氏と出版を準備された古田氏に大いに感謝する次第である。
※電子出版『東日流外三郡誌・寛政原本・写真版』を購入される方に
さて、私としては「寛政原本」が多くの研究者の目にとまることを望んでいる。それは和田家文書信奉者の学問的水準を明白に示すものとなるだろうからだ。なお、その鑑賞に当たっては和田喜八郎の筆跡見本を机上に並べることを勧めたい。きっと新たな発見がもたらされることだろう。
ちなみに筆跡見本(鑑定用資料)は下記の書籍でみることができる。
安本美典編『東日流外三郡誌「偽書」の証明』廣済堂出版・1994
http://www.amazon.co.jp/gp/offer-listing/433150428X/
安本美典『虚妄の東北王朝』毎日新聞社・1994
http://www.amazon.co.jp/gp/offer-listing/4620309796/
原田実『幻想の津軽王国』批評社・1995
http://www.amazon.co.jp/gp/offer-listing/4826501897/
安本美典他『日本史が危ない!』全貌社・1999
http://www.amazon.co.jp/gp/offer-listing/4793801552/
(2007年4月25日)
[追記1]
最近、ハンドルネームhyena_no_papa様、Strom_dorf様、tenchuukun様らのご尽力により和田喜八郎の筆跡の特徴および誤字の傾向が一目でわかるサイトがネット上にアップされた。謹んでリンクさせていただくものである(ただし5月3日現在の段階ではまだ整理中とのこと)
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/5739/image_stock.htm
http://home.p07.itscom.net/strmdrf/tugaru_tenchuukun_hisseki.htm
(2007年5月3日)
[追記2]
2007年6月、ミネルヴァ書房より古田武彦直接編集『なかった 真実の歴史学』第3号が刊行された。その中には「特集・『東日流外・内三郡誌』寛政原本の出現」として次の二つの論文が掲載されている。※古田武彦「秋田孝季論」 ※西村俊一「悪霊に取り憑かれた暗黒の村」
以下に私がミクシィにおいて発表した同書のレビューを転載したい。
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本書の口絵カラーページにはいわゆる「寛政原本」の3点「東日流外三郡大図」「東日流外三郡誌二百十巻」「東日流内三郡誌」の表紙が掲載されている(「寛政原本」については下記参照)。
http://www8.ocn.ne.jp/~douji/kanseigenpon.htm
本書本文で古田武彦氏はそれが江戸時代の本であることを力説するが、そう断定した根拠について具体的に記されてはいない。 ところで本書15ページには「大正四年」書写とされる「東日流外三郡誌」と和田喜八郎が控えに書写したという署名入りの「東日流外三郡誌」のそれぞれ表紙の写真が掲載されている。興味深いのは「寛政原本」、大正期の写本とされるもの、喜八郎の写本とされるものの筆跡がいずれも同じであることだ。
特に和田喜八郎の署名入り表紙と「東日流外三郡大図」にいたっては書体まで同じであり、明らかに同じ人物の手になるものだ。 そして、その一方は和田喜八郎の筆跡であることは署名により裏付けられている。また、口絵には「東日流外三郡誌二百十巻」の中にあったという漢詩の写真も掲載されている。
これは表紙とは明らかに異なる筆跡で禅僧の作と思われ、古田氏は「東日流外三郡誌」の成立に禅僧が関与した証拠とするが、いままで出てきている和田家文書にはそれを裏付ける記述はない。 そもそもその漢詩の内容は和田家文書とは無関係のものである。
これは「寛政原本」の一部に禅寺から出た反故紙が用いられていたことを示すものだろう。
本書は「寛政原本」が和田喜八郎の手になることを裏付ける一級資料といえよう。表題が示す通り「寛政原本はなかった」のである。なお、掲載されている西村俊一氏の論文は中央の文化人(をきどる人物)の地方への侮蔑が露骨に表れた文章である。その読後感の悪さゆえ星を減じる次第。
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http://mixi.jp/view_item.pl?reviewer_id=509182&id=833142
(2007年6月25日)
[追記3]
2008年3月刊『と学会年鑑AQUA』(楽工社)掲載の拙稿「寛政? 歓声? 完成? いえ、単なる陥穽」において、いわゆる「寛政原本」の写真と和田喜八郎の筆跡見本の写真を並べて掲示した(同書137頁)。
今後の研究者のために参考になれば幸いである。
http://www.rakkousha.co.jp/books/ta_13.html
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4903063194
(2008年3月25日)
[追記4]
ブログ「biacのそれさえもおそらくは幸せな日々」2007年8月29日付に「東日流外三郡誌寛政原本の画像」と題し、『なかった 真実の歴史学』第3号からの転載として、いわゆる「寛政原本」、大正時代に和田末吉が筆写したと称される「写本」、1960年代に和田喜八郎が控えとして写したという「写本」の筆跡見本写真が掲載されている。
そのブログに曰く―
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筆跡を見ることにはド素人の (
もちろん筆跡鑑定なんぞ出来る筈はない )
私の眼には、
4つとも別人が書いたように見えます。ちなみに、 昭和38年写本は和田喜八郎氏の筆跡とのこと。また、 喜八郎氏の娘さんの筆跡が 「『新・古代学』 古田武彦とともに 第1集」 (
1995年 新泉社 )
に掲載されています。
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http://bluewatersoft.cocolog-nifty.com/blog/2007/08/post_3982.html
しかし、私はブログを書かれた方の意見とは逆に、それらの写真を拡大すれば、多くの字がその特徴を共有していることが素人目にも容易にわかるものと思う。読者にはぜひ、ご自身の目でご確認いただきたい。上記ブログを書かれた方に、謹んで感謝の意を表する次第である。
なお、上記にいう「喜八郎氏の娘さんの筆跡」なるものは実際には喜八郎本人の手になる原稿であり、1993年の真贋論争では、筆跡見本として和田家文書が喜八郎の手になることの証明に用いられたものである。
後に喜八郎は、その原稿は娘の代筆であると言い出し、古田氏の目の前で「これは娘の字 己の字ではない」という一筆を入れた。ところが肝心のその一筆がまさに原稿そのものと同じ筆跡だったのである(拙著『幻想の荒覇吐秘史』)。娘の字云々という言い訳は結果として、筆跡見本が喜八郎本人のものに間違いないことをさらに裏付けることになった。そして、古田氏による「寛政原本」写真提示も、『東日流外三郡誌』擁護論をさらなる自縄自縛へと導いていきそうな気配である。
(2008年4月26日)
[追記5]
さて、本文にて予告されていたオンデマンド出版「寛政原本」は、当初の予定より1年以上遅れて、2008年6月に刊行された。私もその出版を記念し、2008年夏のコミックマーケットで発売された『と学会誌21』においてその書評を書いた次第である。さらに2009年9月には、多元的古代研究会(古田武彦氏の支持組織)のサイトで、「寛政原本」の写真と和田喜八郎、「和田末吉」「秋田孝季」の筆跡見本とをまとめたページがupされている。
http://www.tagenteki-kodai.jp/Shiryo_07.html
http://www.tagenteki-kodai.jp/Yasusue.html
そこで紹介された筆跡見本のうち、この3点は既存の古写本に「孝季」の署名を入れたもの。 和田喜八郎氏による書きこみと本来の書写者の筆跡が異なることが確認できる。
http://www.tagenteki-kodai.jp/Taihi_DVD004.JPG
http://www.tagenteki-kodai.jp/Taihi_DVD003.JPG
http://www.tagenteki-kodai.jp/Taihi_DVD002.JPG
伝「秋田孝季の借金証書」。和田喜八郎氏はこれを秋田孝季真筆といいはり、古田氏がそれを鵜呑みにした。その正体は、実際の古文書の署名部分を切り取っただけのものである。その工作によって古文書としての資料価値はほとんど失われた上、筆跡見本としても使えない資料だが、和田喜八郎氏の詐術の手口を考える上では興味深いものである。。
http://www.tagenteki-kodai.jp/Taihi_DVD001.JPG
「和田長三郎」(和田末吉の本名とされる)の署名と、和田喜八郎の署名がならんで書かれた資料。
共通の特徴を見るのに便利である。
http://www.tagenteki-kodai.jp/Taihi_DVD011.JPG
「寛政原本」を含む和田家文書の作者が和田喜八郎氏だったことを証する資料が大量に提出されたことについて、多元的古代研究会に改めて感謝する次第である。
(2009年10月17日)