−おれが信用詐欺だなんて、ぬれぎぬだ。おれは別名フランク・シナトラ。もうひとつの別名ネルソン・ロックフェラー。どこがいけないんです。−アメリカの一駒漫画より(星新一『進化した猿たち2』ハヤカワ文庫、一九七五)。
『誘惑女神』事件
『朝日新聞』一九八五年九月三日付夕刊は一面に次の見出しの記事を掲載した。「未発表の直筆『谷崎戯曲』・『誘惑女神』31歳の作・68年ぶりに発見・未亡人のもとに帰る」
内容は、ある劇作家の家に保管されていた「谷崎潤一郎」の署名入原稿が、谷崎の未発表作品であることが判明し、劇作家の手から谷崎潤一郎の未亡人の手に直接、返還されたというものである。新発見の戯曲『誘惑女神』の全文は同年九月十三日号の『週間朝日』に掲載された。その内容は、推古朝、葛城山の山中で展開される古代史ロマンで、舞台設定など、坪内逍遥の『役の行者』にも通じるところがある。
この戯曲について、作家・秦恒平氏は「谷崎の根本的な観念があらわに盛られている。その点が興味深い」とコメントした。また、作家の水上勉氏も『中央公論』同年十一月号に「谷崎潤一郎の反骨−「誘惑女神」を読む−」を発表し、同作品は発禁処分を受け、原稿もいったんは押収されていたという説を唱えた。
しかし、奇妙なことに朝日以外の大新聞は、その時期、これほどの大発見をいっこうに報道しようとはしなかった。そして、ほぼ三年を経て、事態は新たな展開を示すことになる。『国文学』六三年七月号が、特殊研究として、細江光氏の論文「谷崎の作品ではなかった・偽作『誘惑女神』をめぐって」を掲載したのである。
細江氏が発掘した第一の史料は、『東京日日新聞』大正六年十二月十三日付の記事「坪内博士、谷崎潤一郎両氏の名を騙る悪文士 原稿と手紙とを巧みに偽作して新聞雑誌社より金円を詐取す」である。その記事によると、倉田啓明という作家が、自作の戯曲『誘惑女神』を谷崎作と称して、売り込もうとしたというのである。倉田は、原稿の筆跡のみならず、原稿料領収書の筆跡、さらには電話交渉での声色まで谷崎に似せるという芸の細かさをみせたというのだ。
細江氏は、さらに『誘惑女神』と倉田名義で発表された戯曲、小説との文章の一致を指摘し、「谷崎が倉田の作品を剽窃するはずはないのだから、こうした点から言っても、『誘惑女神』は谷崎の作品ではありえない」と論じている。
細江氏が発掘した『東京日日新聞』続報によると、倉田は谷崎の名を騙っただけではなく、坪内逍・の紹介状を偽造したり、北原白秋、山崎俊夫、芥川龍之助(介?)の名で自作を出版社、新聞社に持ち込むなどして、原稿料をせしめたことがあるという。
秦氏は『誘惑女神』に谷崎の思想があらわになっているとしたが、それも当然であった。倉田は『誘惑女神』創作にあたって、谷崎の思想をも模倣したのである。
細江氏は次のように述べる。「『誘惑女神』は、一読して明らかな駄作である。それにもかかわらず、これが谷崎の作品として罷り通ってしまったのは何故か。恐らく一つには、大正の谷崎には駄作が多いという必ずしも正しいとはいえない先入観のせいであろう。勿論、筆蹟鑑定のむつかしさと、それにもかかわらず、周囲の期待に添った結論を急いだことも原因の一つであろう。当時の新聞に当ってみなかった調査の杜撰さと文体的差異に対する鈍感さも非難されねばなるまい。しかし、何よりも重大なのは、倉田の事件が私を含めた谷崎文学研究者の間で、殆ど完全に忘れ去られていたことである。・・・類似の事件が今後再び起らないという保証はない。我々は、今回のケースを良き教訓として、二度と再び偽作に欺かれることがないように、十分な注意を払わなければならないのである」。
『朝日新聞』は一九八八年六月十六日付夕刊第七面で「『誘惑女神』谷崎作ではない?若手研究者、偽作と指摘」の見出しで細江氏の発見を報じた。同記事において、秦氏は「そういう詐欺事件があったとは、小説より奇なりでおもしろいですね。・・・こういう指摘があった以上、最終的な真がんの判定は、筆跡の専門家の判断を待つしかない」とコメントしている。それは、一九八五年九月三日付夕刊の一面記事にたいする事実上の訂正記事でもあった。思えば、いかにも朝日らしい勇み足であった。
さて、鮎川哲也氏は『婦人クラブ』大正十五年六〜八月号に三回連載された江戸川乱歩名義の短編『陰影』も倉田の作品ではないかと推定している。
鮎川氏は『陰影』初出時の状況について、「山前譲氏が大宅文庫でコピーしてくれた編集後記を読むと、編集者(女性らしい)は騙されたとは少しも気づかずに、江戸川氏の原稿だと信じ込んでよろこんでいる様子がよく判る」とする(『鮎川哲也と13の殺人列車』立風書房、一九八九)。
なお、鮎川氏は、文体模写が得意な倉田の作品にしては、『陰影』の文体が乱歩の文体と似ていない点をいぶかっている。しかし、『陰影』には乱歩の有名な「うつし世は夢よるの夢こそまこと」という思想を稚拙に模倣したような箇所があり、それはまさに『誘惑女神』でまず谷崎の思想を模倣しようとしたことを髣髴とさせるものである。『陰影』を倉田作とする推定にはかなりの蓋然性があるように思われる。
さて、推理小説の贋作スキャンダルといえば、六一番目のホームズ正典として話題になった『指名手配の男』が有名である。
この作品は、一九四二年、アーサー・コナン・ドイルの伝記を執筆中だったヘスケルンピアスンにより、ドイルの遺品の中から原稿のまま、発見されたものである。原稿はドイル財団の管理下に置かれ、第二次大戦後、アメリカの『コスモポリタン』一九四八年八月号にドイル名義で掲載された。ところが、それ以前、一九四五年の時点でアーサー・ホィティカーという人物が『指名手配の男』は自分の作品だと発表していたのである。
ホィティカーは一九一〇年にその原稿を執筆、ドイルとの共著としてその作品を発表することを望んだ。ドイルはその申し出をことわったが、送られてきた原稿だけは手元に置いていたのである。
ドイル財団は当初、ホィティカーの主張を認めなかった。しかし、ホィティカーが弁護士を通じて原稿の控えと、ドイルからの書簡を提出したため、ドイル財団も兜を脱がざるをえなくなった(『指名手配の男』邦訳は現在、各務三郎編『ホームズ贋作展覧会』河出文庫、一九八九に収録されている)。『指名手配の男』の場合は、真の作者に犯意がなかったにも関わらず、関係者の不注意から贋作事件となってしまった例だが、『誘惑女神』の場合には、善意ではあるが不注意な関係者によって、いったんは葬り去られたはずの贋作がまたぞろ日の目を見てしまったという例である。
さて、ここで事態を別の角度からみてみよう。本来、筆名というのは作家が自由に名乗れるはずのものである。だから、倉田が自作を発表するのに、谷崎潤一郎を名乗ろうが、芥川龍之助を名乗ろうが、本人の勝手ともいいうる。だが、倉田は、正体発覚により、悪質な詐欺常習犯として身柄を司直の手に委ねられたという。筆名には、やはり暗黙のルールというべきものがあるのだ。
原=和田家文書は存在するか
さて、話は代わるが、和田家文書の現在流布しているテキストが和田喜八郎氏の手になることは、筆跡・紙質鑑定の結果から間違いない。
しかし、その事実を認めた上で、和田喜八郎氏がなんらかの知られざる典拠を持っているのではないか、あるいは最終執筆者が和田喜八郎氏であるとしても、そもそも和田家文書そのものが和田家歴代の書写、加筆、編集を経て現代まで伝えられたものではないか、とする論者も後を絶たない。
「あらためて『東日流外三郡誌』をくわしく読み返してみたが、今の私の目にはこの書に記されている真実の部分と誤伝の部分の区別がはっきりと読みとれる。真実の部分というのはアラハバキ神に関することである。アラハバキ神の本質は父が天神(もしくは獅子神)、母が地母神、その両親の間に生まれたのがアラハバキ神。この神統譜こそ『東日流外三郡誌』の神髄だったのである。問題は、上古の日本に父が天神(もしくは獅子神)、母が地母神、その子神がアラハバキ神という“神”が実在したか否かである。存在証明が言語学的に、神話学的に、文化人類学的に、民俗学的に、はたまた考古学的に、なされれば『東日流外三郡誌』の記事のかなりの部分が“真の歴史”といえるのである」(川崎真治『謎の神アラハバキ』六興出版、一九九一)
「私は、この『三郡誌』に収められた古代津軽の伝承の正しさを決めるのは、学者たちの論争ではないし、かりに『三郡誌』の一部に虚構があったとしても、そこに記されたものがすべて偽りだとは思っていない。むしろ、津軽の古伝承の正しさを判断する基準は、紙の質や書写年代にあるのではなく、実際にその伝承を裏づける事実があるかないか、という点に求められるべきであり、『三郡誌』が“偽書”か否かという表面的な論争で、この『三郡誌』に盛り込まれた津軽の豊富な古伝承の価値が見失われてはならないと考えている」(高橋良典「『三郡誌』の太古日本王朝は実在した」『歴史Eye』一九九四年一月号、所収)。
「常識的に考えると、現在までに公開されている文書の一部に和田氏による“歴史の偽造 ”があったことは十分考えられると思う。しかし、和田氏が次々と発見したと称して四十余年にわたって公開を続けてきた全三六八巻に及ぶ大量の文献が、すべて一個人の創作によるとはちょっと信じがたい。もし、それがほんとうに“歴史の偽造”であったとすれば、人間の妄念とは実にすさまじいエネルギーを生み出すものであるということになり、そら恐ろしいことと言わねばならないであろう」(澤田洋太郎『異端から学ぶ古代史』彩流社、一九九四)。
「私自身は、この“原−外三郡誌”の存在を信じている。いわゆる膨大な和田家文書とは別に、少なくとも、俗にいう種本としての“原−外三郡誌”が存在していたという立場である。何年ものあいだ、シコシコ書いていけば、あの程度の量になるなどという意見もあるが、それだけでは『外三郡誌』の内容にピカリと光るもの−専門家の目をひくような部分−など、とうてい書けないはずだからだ」、「近世末から明治に至るまで、和田家の人々によって書き改め、また書き加えられたことが市浦版以降の新版によって明らかにされている」(佐治芳彦『〔超真相〕東日流外三郡誌』徳間書店、一九九五)。
「そもそも『東日流外三郡誌』は、二人の人物によって一括編著されているとは言え、聞き取り調査を基本にして成立している。年代や場所、人物などの記載が巻本によって異なるのは止むを得ないところであり、代々、その文書を保管してきた和田家の当主が、古くなった文書を書写するに際し、忠実に原文を複写するに止まらず、加筆した疑いがあることも否定できない。それが青森古文書研究会によって批判の対象となっているわけである。それにも拘わらず、その『東日流外三郡誌』が登場したことによって、初めて津軽を中心とする奥州全域の歴史や遺跡、遺物の謂れ、地名や用語の由来が明らかになったものが少なくないばかりか、それらの解明を通して奥州独自の文化と歴史の全体像が浮かび上がってきたことは否定できない事実である」(鈴木旭『古代みちのく一○一の謎』新人物往来社、一九九五)。
「今残っているものは多分全部和田さんの筆だと思いますよ。でも元の資料をたくさん持っていたんだろうね。実際には『東日流外三郡誌』に書いてあることで、伝説とか神社の社伝で調べて裏付けできることいくらでもありますからね。だからそういう伝承は津軽全体に残っているんですよ。それをまとめたのが和田さんだったということだと思いますよ。まあチャーチワードみたいなもんだね。うん、日本のチャーチワードだね。それにあれには奇妙に変なのが載っている。だから一人の想像力ではできるものではないと思うね」(高橋克彦・南山宏対談『超古代文明論』徳間書店、一九九七、より、高橋氏の発言)。
そもそも、和田家文書が、江戸時代の書物に明治以降の和田家歴代が加筆したものではないか、あるいは江戸時代の書物をタネに和田喜八郎氏が話をふくらませたものではないか、という説は真贋論争の初期、偽書説側の論者から出されていたものである(松田弘洲『東日流外三郡誌の謎』あすなろ舎、一九八七。藤野七穂「『東日流外三郡誌』の秘密とその問題点」『北方の楽園みちのくの王国』KKベストセラーズ、一九九二、所収。小口雅史「『東日流外三郡誌』をどうあつかうべきか」野々村一助「知の陥穽」『季刊邪馬台国』五二号所収)。
その後、松田氏は『古田史学の大崩壊』(あすなろ舎、一九九一)で、和田家文書のすべては現代人によって偽作されたとの論を展開し、『東日流外三郡誌の謎』での見解を事実上撤回した。また、現在では、和田家親族からの聞き取り調査によって、和田家で特に古文書が伝わったような事実はないことが判明している。
いわば、偽書説の初期における一時的迷走から生まれた説が、今度は、和田家文書を擁護する側の論者に拾われ、廃物利用され続けているというわけである。
さて、和田家文書に江戸時代のタネ本があったとしても、それを書き残したのは一体誰だったのか。和田家文書を擁護する立場の論者たちは当然、秋田孝季と和田長三郎吉次の二人を念頭に置いているだろう。しかし、実際には、秋田孝季、和田長三郎吉次とも、その実在はきわめて疑わしい。
秋田孝季・非実在の証明
和田氏の証言および和田家文書における秋田孝季らの履歴には次のような矛盾があることが、すでに諸先学によって指摘されている。
★秋田孝季は橘氏で、三春藩主秋田家と直接の血縁はなかったとされるが、『東日流外三郡誌』には、孝季が「安倍氏は拙者の祖先」「拙者先祖は京師にあり、阿部宗任氏を祖として・・・」「拙者、安東氏の脈血にあるとも・・・」などと記したとされる箇所があり、また、孝季の家系を「安東一族祖高星丸之流れにて、称名正しくは安東太郎孝季」と記したものもある。
★孝季の母は秋田佐竹藩士由利亥馬の妹で、三人の子をなした後、夫を失い、三春藩主秋田千季の側室に迎えられたという。しかし、佐竹藩の由利家は大山家家臣であり、佐竹藩から見れば、藩士ではなく、陪臣にすぎない。また、その由利家の系図には「亥馬」なる人物は記されていない。そもそも、佐竹藩陪臣から出た三人もの子持ちの未亡人が、いきなり三春藩主の側室になること自体、考えにくい。
★孝季は佐竹藩土崎湊検番奉行として仕官したとされるが、佐竹藩にはこの名の役職は存在しない。また、孝季の役職を土崎湊朱印船番奉行と記す資料もあるが、鎖国下にあっては論外である。
★孝季はエドワード・トマスに師事していたとされるが、その場所については、孝季の密航先のマカオとも、長崎出島ともされており、一定しない。また、その人物像についてもカトリックのバテレンとされたり、イギリス人の駐在公司とされたりで判然としない。
★長崎がらみの話では、寛政九年八月二日、孝季が長崎で、管江真澄、秋田乙之助(後の三春藩主・秋田孝季)らと共にレオポルド・ボナパルトなる学者の講義を受けたとする資料もあるが、この時期、真澄が津軽にいたことは日記等から確認できる。また、藩主の子弟の長崎旅行を幕府が許可するはずもない。
★孝季は土崎湊の湊福寺に隠棲しようとしたことがある、というのだが、湊福寺は慶長七年(一六〇二)、秋田家の常陸宍戸転封の際、宍戸の地に移転(この後、さらに三春に移転)しており、孝季の時代には土崎には存在しない。土崎の湊福寺跡に延宝元年(一六七三)新たに建立されたのが蒼龍寺だが、面白いことに、和田家文書の中には、文安元年(一四四四)、天文二年(一五三三)、元和七年(一六二一)などの記録に、まだ存在しないはずの土崎の蒼龍寺が登場する例がある。
★孝季は系図によれば、天保三年(一八三二)、享年六三歳で世を去っており、逆算すれば明和七年(一七七〇)の生まれとなる。ところが、『東日流外三郡誌』では、寛文六年(一六六五、孝季マイナス一〇五歳)で宇曽利の安東一族住居跡を訪ね、元禄十年(一六九七、孝季マイナス三歳)で漢詩を作り、寛政三年(一七九一、孝季二二歳)には早くも「老骨に鞭を打って、茲に東日流外三郡誌を綴りたり」と述懐し、さらには七八歳(没後十五年)の肖像まで残している。
『東日流外三郡誌』以外の和田家文書を見ると、「明和甲申年二月」の記録に「老翁孝季」と署名しているが、この年は孝季が生まれる六年前のはずであり、しかも明和改元は宝暦十四年六月だから、この年紀は「宝暦」で記されなければならない。また、安永五年(一七七五)には、わずか六歳で『荒木武芸帳』に署名し、さらに天明二年(一七八二、孝季十三歳)以前に海外調査に旅立つなど、おそるべき早熟ぶりをも示しているのである。一方で孝季は寛政四年(一七九二)の記録に「わがよわい五十三歳」とも記しており、こちらを信じれば、元文五年(一七四〇)の生まれとなるが、孝季の義父である秋田千季は宝暦元年(一七五一)生まれだから、十歳以上も若い父を持ったことになってしまう。
★寛政五年(一七九三)は秋田孝季の資料蒐集がもっとも充実していた年だが、和田家文書を整理してみると、この年の八月から十月、孝季は渡島(北海道)、長崎出島、奥州各地に同時に滞在し、十月一日には渡島エカシからの聞き書き「流鬼国体系」とトマスエドワードの講義「紅毛人国神称抄」を共に記している。これは孝季が複数いるか、すべてがデタラメだとしなければ説明できない。
★和田長三郎吉次の生まれた年は『東日流外三郡誌』所引の書簡から元文五年(一七四〇)頃と推定されるが、文政五年の書簡では、吉次が三十も年下のはずの孝季に「御老体に大事を請申上候」と記している。また、吉次の命日も文政五年八月と文政七年九月三十日の二通りの伝があってはっきりしない(また、当時の暦に「三十日」はありえない)。
★和田長三郎吉次は大正・昭和期の神道家・和田山蘭の祖先で飯詰村大光院の神職の家柄の出とされているが、山蘭の系図には該当する人物が出てこない。大光院の第四代神職の名は「和田惣宮太夫吉次」だが、この人は元和七年(一六二一)から寛永十八年(一六四一)まで、二十一年間の在職であり、和田長三郎吉次が活躍したという時期とは、まったく時代が異なっている。
また、吉次は神職を嫌って庄屋になったというが、江戸時代にはその種の職業選択の自由はなく、また、庄屋であれば、当時の記録にその名が残るはずだが、そのような事実はない。さらに、三春藩主と縁続きの武家の娘が、津軽の山村の庄屋に嫁ぐということも、まず、ありえない。
★同じく文政五年の書簡で、孝季の妹りくが、十七歳で嫁いでから三八年の歳月がたったとしている。逆算すれば、りくの生まれた年は明和五年(一七六六)となるが、これでは兄・孝季より三歳の年長となる。また、吉次は二八歳も年下の妻を迎えたことになり、ありえないことではないにしても不自然である。
★秋田孝季の系図には孝季には子がなかったと記されているが、『東日流外三郡誌』には「孝季孫 秋田三郎」「秋田孝季次男 安倍睦季」なる人物が現れている。
★三春藩主秋田家では、藩主および藩主となるべき世子のみ「季」の字を名前の下につけ、他は藩主の兄弟といえども「季」は名を上に用いるきまりがあった。三春藩では、功労ある家臣に、名に「季」の字を用いるのを許した例もあるが、ごく希なことであり、しかも河尻家の三代、小山内家の二代を除いては、いずれも一代限りである。こうなると、藩主の義兄弟というだけで、目立った功績がなく、秋田家の直接の血縁でさえない孝季に「季」の字を与え、しかも名前の下につけるのを許すはずはない。
★孝季が活躍したとされるのと同時代、三春藩主に同名の「孝季」(ただし、「のりすえ」と読む)という藩主が実在した(一七八六〜一八四四、在位一八〇三〜一八三二)。孝季が三春藩と縁続きのものであれば、藩主と同姓同名を名乗ることなど許されるはずがない。
★秋田孝季、りく、和田長三郎吉次らは和田家文書以外の文献・資料にまったく現れてこない。和田家には、彼らの自署名と称するものもあるが、いずれも古文書や古写本の類に、署名を書き入れただけであり、本文の筆跡と署名の筆跡はことなっている(そして、署名の筆跡は和田喜八郎氏のものに似ている)。
りくの署名と称されるものは「和田りく」と記しているが、明治より前、女性の自署名で姓を書き込む際には、嫁入先ではなく、生家の姓を書くのが習慣であった。この署名は明らかに江戸時代の制度にくわしくない人物による偽造である。
和田喜八郎氏が建立した石塔山大山祇神社には、秋田孝季の旅立ちの姿を刻んだという石像があるが、それはもともとは秋田孝季と何の関係もない石像であり、作った石材店の名まで判明している。
一九九四年七月、寛政元年八月、秋田孝季が神社に奉納した絵馬が発見されたとのニュースが共同通信社から配信されたことがあった。しかし、その後、赤外線写真などから、どこからか入手した古い奉納額に、後から秋田孝季の署名などを書き込んだものと判明している。また、その額は孝季が『東日流外三郡誌』の「筆起」に際して奉納されたものと書き込まれていたが、『東日流外三郡誌』本文によると寛政元年四月の時点で、すでに『東日流外三郡誌』は百十四巻も書き進んでいたという。つまり、問題の奉納額は『東日流外三郡誌』そのものとさえ矛盾した、杜撰なシロモノだったのである。
・・・他にも、秋田孝季、りく、和田長三郎吉次をめぐる疑問点は次々と出てくるわけだが、とりあえずは、これだけ列挙すれば十分だろう。彼らの実在を主張するとすれば、そこには解決しなければならない矛盾があまりにも多すぎるのである。
ペンネーム説の登場
ところが最近、渡辺豊和氏が興味深い説を発表した。すなわち、「秋田孝季」とは、『東日流外三郡誌』の真の著者のペンネームであり、その人物は寛政年間頃実在していたというのである。
渡辺氏によると、「秋田孝季」が書いた真の『東日流外三郡誌』の姿を伝えるのは、市浦村版『東日流外三郡誌』のみであり、その後に発表された和田家文書は和田喜八郎氏の加筆・創作によるものである。「秋田孝季」のプロフィールはもともと虚構を交えたものであった上に、和田氏の空想が加わったため、現在見られるようにわけのわからぬものになってしまったというわけである(渡辺『北洋伝承黙示録』新泉社、一九九七)。
たしかに江戸時代には、自らの生涯を虚構化しようとした文人墨客は多かった。たとえば松尾芭蕉(一六四四〜一六九八)。芭蕉の『奥の細道』にしても、ドキュメントの体裁をとりながら多くの創作を交えたものであったことは、『曽良随行日記』との比較から明らかである。蕉門十哲の一人、各務支考(一六六五〜一七三一)にいたっては、自らの俳諧感に基づいて、芭蕉の遺文を偽作したり、自分が新だという噂を広めておき、架空の門人の名で遺書や遺稿集を出版しているほどである(拙稿「異説『奥の細道』あれこれ」『歴史読本臨時増刊』増刊一八〇号、一九九六年三月、参照)。
松田修は、芭蕉の旅に「歌枕の事実性の確認」という「虚用の用」があったとして、芭蕉は歌枕を残した先人という仮象との自己同一化をめざした、すなわち「仮象との同一化という逆説が、芭蕉においては順説」であったと論じている(松田『闇のユートピア』白水社、一九八二)。なにやら、日本全国どころか、ユーラシア大陸まで「巡脚」の足をのばして、安倍・安東一族の跡を求めたという「秋田孝季」を連想させる。
むろん、「秋田孝季」が実際に蕉門と関係があったとは考えにくいが、文学的想像力の方向性としては両者に似たものがあるようにも思われるのである。
それはさておき、渡辺氏はまず、由利亥馬など秋田孝季をめぐる人々の実在が疑わしい(したがって孝季の実在も疑わしい)という意見について「どうしてそう一概に断定できるのであろうか。秋田孝季を探し出してから結論すべき事柄ではあるまいか」と述べる。そして、三春藩主秋田氏の一族で佐竹氏に臣従した湊家について語り、その一族で松前藩の勘定奉行を務め、工藤平助の『赤蝦夷風説考』執筆のために情報を提供した湊源佐衛門季珍に着目する。湊源佐衛門は天明元年、蝦夷地交易の利権をめぐるスキャンダルのために松前藩を追放され、その後は獄死したとも仙台で客死したともいう。渡辺氏は追放後の湊源佐衛門は三春藩を訪れたものと推定した。
和田家文書の『北斗抄』は秋田孝季が田沼意次の意で動いていたことを記すが、蝦夷地にくわしく、ロシア語に堪能な源佐衛門なら隠密にうってつけである。源佐衛門は大井家の後家との間に子をなしたという話があるが、その大井家こそ、孝季が世話になったという由利家のことであろう、などと渡辺氏の推定は続く。
渡辺氏は『三春町史』の三春藩家臣・河尻家系図に湊源佐衛門についての記述があるのを探し出した。そこには、原史料への付箋として、「源佐衛門寛政二戌年五十三歳宝暦三酉年十九」という記述があった。渡辺氏によると、「これから湊源佐衛門は元文三(一七三八)年の生まれであり、著者孝季の生年と完全に一致することが明らかになる」という(ちなみに宝暦三年=一七五三に十九歳というのは十六歳の誤りとする)。
また、源佐衛門の名「季珍」について、「珍」は「たか」とも読めるから、「季珍」をひっくりかえせば、「たかすえ」の名が得られる。
以上から、渡辺氏は湊源佐衛門こそ、秋田孝季に他ならないと結論するのである。渡辺氏はなぜ、湊源佐衛門が秋田孝季を名乗ったかについて、次のように述べる。
「これは間違いなく偽名である。三春藩主秋田孝季を知っていて、故意に秋田孝季を名乗った。これが自分の本名でないことを、誰にもわからせるためにわざわざした行為に違いあるまい。・・・それは偽名であると当時の人びとが了解出来たはずである。寛政から文化文政にかけて雄藩の重臣でもペンネームを使用して戯作を書いたものが存在した。この時代は偽作を始め浮世絵、歌舞伎等江戸町人文化が隆盛をきわめた頃であり、奇想天外なペンネームを使用して自由に活動する文化人が多かった。特に戯作は山東京伝、十返舎一九、滝沢馬琴など綺羅星の如く輩出した。したがって、三春藩主と同名の“秋田孝季”と名乗る者が眼前に立ち現れてもたいして驚かなかっただろうし、それなりによく出来た諧謔と思われたに違いない。本名を聞くような野暮もしなかったであろう。藩主と同名の“
秋田孝季”が安倍、安東の歴史資料を探して歩く図は十分に諧謔味に溢れて見えたであろう。著者孝季にしては素姓を明らかにしたくないための韜晦であったはずである。ということは著者孝季には素姓を証したくない事情があったということに他ならない」
さて、以上の渡辺氏の議論ははたして成り立つものであろうか。
「秋田孝季」は信用サギか
さて、渡辺氏は秋田孝季の周辺人物について、非実在と断定するよりも、まず、秋田孝季その人を探し出すべきだとするが、この論法はおかしい。秋田孝季の履歴や周辺人物についての調査は、秋田孝季を探し出すために必要な作業である。秋田孝季の周辺人物について、ひいては孝季その人について実在が疑わしくなったのは、その作業の結果であり、前提ではない。渡辺氏こそ安易に孝季とその周辺人物の実在を断定して論を進めているのである。
秋田孝季と湊源佐衛門はほぼ同じ時代、東北地方と北海道というごく近い領域でそれぞれ活躍したとされている。しかし、この両者は、かたやその実在さえ疑わしく、かたや追放に処せられた後は行方さえ知れないという人物である。同時代で、その事蹟にわずかでも似た要素があり、しかも生涯に謎のある複数の人物を、実は同一人物だったと強弁する、そのような異説をでっちあげるのは意外と簡単である。たとえば、シェイクスピア=ベーコン説はその典型といえよう。
日本史でも、神武天皇=徐福説、聖徳太子=達頭(六世紀末の突厥の可汗)説、ジンギスカン=義経説、天海僧正=明智光秀説、曽良=徳川光圀説などその手の異説は枚挙のいとまがない。渡辺氏はその異説の書誌に新たな一ページを付け加えただけなのである。
渡辺氏が説く、孝季の由利家と源佐衛門の大井家の対応などと比べれば、小谷部全一郎が考証した義経とジンギスカンの家臣団の対応の方が、内容的には、はるかに充実している(小谷部『成義思汗ハ源義経也』一九二四)。
秋田孝季と田沼意次の関係を説く『北斗抄』は、和田家文書の中でも最近、現れたものである。渡辺氏は、秋田孝季の書いたものとして信頼できるのは、市浦村版『東日流外三郡誌』だけだという立場のはずだから、当然、『北斗抄』は信頼できない資料ということになるだろう。湊源佐衛門が隠密であったというのも渡辺氏の想像にすぎないのだから、その証拠に『北斗抄』を持ち出すことはできない。
次に秋田孝季の生まれた歳について、渡辺氏はどのようにして、元文三年と定めたのか。先述のように、『東日流外三郡誌』によると、孝季の妹りくは、十七歳で嫁ぎ、その三八年後が文政五年とされている。そこから、渡辺氏は、りくの生年を明和七年とする。
また、和田家文書の『北鑑』に孝季がりくの年齢について「妹とは申せど歳の三十二歳の差あり」と記したとされている。渡辺氏はここから計算して、孝季の生年を元文三年とするわけである。
しかし、『東日流外三郡誌』の記述から計算すれば、りくの生年が明和七年ではなく、明和五年でなければならないことはすでに述べた。さらに、『北鑑』も和田家文書としては最近、発表されたものであり、渡辺氏の立場からしても信頼性に欠ける資料のはずである。もともと計算違いの年と、信頼できない資料に出てくる年数との組み合わせから得られた年に意味があるはずはない。
意味があるとすれば、それは渡辺氏に孝季と源佐衛門の生年を一致させようとする強烈な先入観があった、そのことが示されているというだけであろう。
そして、なにより重要な点、つまり江戸時代、藩主と同姓同名を名乗ることが、身を隠す上で有効かどうかということである。
江戸時代、戯作家が奇妙なペンネームを使った理由の一つには、筆禍をさけるということがある。江戸時代、言論への監視は現代とは比べものにならないくらい厳しく、多くの筆禍事件も起きている。奇妙なペンネームを使うということは、本名を隠すとともに、あらかじめふざけた名をつけることで内容が深刻なものではない(反体制的な意図はない)と示す意味もあった。
では、「秋田孝季」ではどうか。この名は筆禍を避けるどころか、わざわざ招きよせるものである。現代よりも名前というものが重要視されていた江戸時代、まず、一国の藩主の名を騙るということ自体が犯罪を構成しかねない。
また、江戸時代の藩主は幕府の強い監視下に置かれていた。その中で藩主の名を名乗る人物が自ら、埋もれた歴史資料(その中には、幕府や他の藩にとってさしさわりのある内容のものもあるだろう)を探して回っているとなれば、幕府を刺激しないはずはない。
勝手に藩主の名を名乗られ、迷惑を受けた三春藩もだまってはいないだろう。さらに困るのは、その名を真に受けた人が出た場合である。たちまち、その界隈に秋田の殿様がお偲びでやってきたという噂を流れることだろう。
そもそも、同時代の有名人の名を名乗るということが必ずしも諧謔ととられるとは限らない。現代でこそ、有名人は名とともに顔が知れわたっているわけだが、それもテレビをはじめとするマスコミの発達あればこそである。
ほんの昭和三〇年代のころまで、地方の旅館で流行作家の名を名乗っては、地元の名士たちと交遊し、結局は宿代をふみたおすという類の詐欺がよく現れたという。冒頭に述べた倉田啓明の行状が詐欺事件となったのも、倉田が同時代の有名人の名をペンネームとして用いたからである。
江戸時代ともなれば、各藩の藩主の名前を知っている者でも、ほとんどが顔までは知らなかったわけだから、藩主の名を名乗る者が現れたというだけで大騒動になるはずである。「それなりによく出来た諧謔」とか、「本名を聞くのは野暮」などといってすませられる話ではない。大っぴらに素性を明かせない人物が、他のことでどんなに用心深く振る舞っていたとしても、人前で「秋田孝季」などと名乗った時点で台無しだ。
それとも「秋田孝季」は藩主の名で宿を求めては追捕の手が伸びる前に逃げ出すという日々を重ねていたとでもいうのだろうか。それはそれで、なかなか諧謔味に溢れて見える図ではあろうが、長続きしそうにない暮らしぶりである。
湊家は「秋田孝季」の関心外
渡辺氏は、現存の湊家系図では「南北朝時代の盛季からしか記載がない」として、「盛季以前を補っているのが『東日流外三郡誌』の“十三湊入澗白系譜”と“大里淵崎城系譜
”であると湊家当主湊学氏は言明している。これだけは確かな系図であるといっているのである」と述べている。
この両系図は明応四年(一四九五)、秋田の補陀寺に過去帳として納められたものとされ、「秋田城之介定季殿の献上巻」との由来を持っている。定季はこの当時の合浦領主であり、湊家の祖先である。
湊学氏は「れっきとした領主湊定季が、一族の先祖の記録として、どうしていい加減な系図を過去帳として、一族の菩提寺でもある補陀寺に納めるであろうか。私には、これこそ一族の歴史を正しく残してくれた、唯一の系図ではなかったかと考えている」と述べる(湊「私の先祖研究としての安倍氏系譜研究」『北奥文化』第十四号、一九九三)。
ところがこの系図、湊家の始祖である鹿季の子孫に関する記述を欠いている。いいかえると、湊家の家系に連なる者が奉納したはずなのに、肝心の湊家の系譜が判らなくなっているのである。
湊学氏は「系図の作成者が、自分に至るまでの先祖を書かないことは考えられない。この湊系譜があると何か不都合でもあって、抹消したとしか考えられないことである。私の先祖が先に見つけていればと、残念に思っている」とする。
湊学氏は、『東日流外三郡誌』が湊家の系譜が判明しては不都合なことのある勢力、ある意味では湊家と対立した勢力によって編纂されたと考えておられる。
また、湊学氏は「湊家にとっても先祖の系譜を調べることについては、湊金左衛門盛季(一六〇一〜一六六二)以降、代々大変な努力を重ねてきている。湊文書の多くが、その研究をしてきたと思われる史書なのである」とも記す。自家の系譜を明らかにすることは湊家歴代の執念でもあった。
秋田孝季=湊源佐衛門だとすれば、せっかくの系図から自らの系譜に関する部分を削除したりはしなかっただろう。つまり、この両系図は、渡辺氏の秋田孝季=湊源佐衛門に対する重要な反証なのである。
そもそも、湊学氏がこの系図を信用した理由は「秋田城之介定季殿の献上巻」との由来にあった。しかし、今となっては、この由来そのものも疑われるべきだろう。湊家に関する記述は原資料から削除されたのではなく、最初から、この系図が湊家に関心のない者によって作られた可能性を検討してみるべきである。
それに湊学氏は同論文において、両系図をあくまで秋田実季による「秋田系図」を読む上での参考資料として用いており、両系図のみを確かな系図だといっているわけではない。渡辺氏は、湊学氏の論旨を曲解しておられるようである。
また、渡辺氏は、『東日流外三郡誌』に、かつて安東氏の蝦夷支配権を横領し、さらには湊源佐衛門を追放刑に処した松前藩に対する憎悪・怨念がまったく見られないことを指摘しながら、その理由を、源佐衛門の藩主・道広に対する尊敬の念に求めている。
しかし、安東氏歴年の憎悪・怨念とか、松前藩主への敬愛とかいう以前に、そもそも和田家文書そのものから、松前藩への関心を読み取ることができないのである。
秋田孝季らはアイヌの伝説は熱心に蒐集しているが、そのアイヌ人が現実に松前藩にどのような支配を受けているかについて、聞き書きを残そうとはしない。
湊家についても、和田家文書は、『東日流外三郡誌』以外のものも含め、秋田家から別れて以降の湊家について語ろうとはしない。湊家の伝承が削除されたとかいうよりも、最初から、その真の著者の関心外なのである。
和田家文書の真の著者は、松前藩にも湊家にも何ら関心を持たない人物である、となれば、その著者が、元松前藩士の湊源佐衛門やその縁続きの人物である可能性はまずない。「秋田孝季」はやはりペンネームであった。しかし、その名を用いたのは天明の人・湊源佐衛門ではなく、現代人・和田喜八郎氏と考えるべきなのである。すでに名前を騙っている以上、首尾一貫させるために年紀まで騙ったとして、何のおかしいことがあろう。
なぜ「秋田孝季」なのか
では、なぜ、和田喜八郎氏は「秋田孝季」の名で、和田家文書を書き綴ったのか。
市浦村版『東日流外三郡誌』の編纂にたずさわった豊島勝蔵氏は、その時の状況について、次のように証言される。「その時の担当者は山内英太郎氏で、大変なものが出現したので、私にも編纂委員に加わってほしいと言われました。それが『東日流外三郡誌』でした。編纂委員は皆、古文書に関しては素人ばかりでしたので、私にしても『東日流外三郡誌』が読めるかどうか心配だったのですが、すらすらと読めるの安心した一方で、おかしな感じもいたしました」(千坂げんぽう編『だまされるな東北人』本の森、一九九八)
つまり、『東日流外三郡誌』が市浦村に持ち込まれた時点では、それは控えの写本としてではなく、真正の古文書という扱いを受けていたわけである。
七二年頃、和田喜八郎氏が、後に『東日流外三郡誌』と呼ばれることになる文書群を市浦村に持ち込んだ当初、その文書群は市浦村で認めた関係者以外には閲覧させないという申し合わせがあった。
元青森県立図書館勤務の三上強二氏は、その文書群の鑑定を依頼された当時の状況を次のように語る。「私の所に持ち込まれたのは、百六十冊もあったといわれる文書の第一冊目だけだった。本物の古文書というだけで、特にいつの時代のものという説明はなかった。その冊子には
“安東文書”という表題があり、安東氏の関係から始まって、安東水軍に及び、それから津軽為信が福島城を攻めるときの状況や、安東氏が滅ぼされる経緯などが書いてあった。そこで“これは大変なものが出たな”と思ってよく見たら、墨の色が新しく、紙にも馴染んでいないことに気がつき、疑問に思い始めた。紙は古い和紙ではなく、今の障子紙であった。しかも、中には古く見せるための細工がしてあるのもあった。怪しいと思い、もう一度読み直してみると、その時代に合わない用語や明治以降に使われたことばが書かれていた。その文書を本物と思い、価値を聞きにきた村長の弟は、私の説明を聞いて驚いたようである。和田家に古文書があったかどうかは知らないが、偽の古文書を出してきたことなどからみて、おそらく元々無かったのだろう」(前掲『だまされるな東北人』)
また、元五所川原市郷土館館長の神野高行氏によると、当時、安東の「古文書」という触れ込みで五冊ほどの冊子を郷土館に持ってきた人物がいたという。しかし、その紙質は何百年も前のものとは思われない。神野氏が京都大学に鑑定を依頼しようと申し出ると、その人物は「そんなことまでしなければ認められないシロモノではない」とさっさと風呂敷に包んでしまったという。この「古文書」も触れ込みや体裁から考えて、三上氏が見たのと同じ「安東文書」の可能性が高い。
ちなみに、この話には後日談がある。『東日流外三郡誌』が刊行された後、神野氏がそれを購入して京都大学に寄贈したところ、一月ほどして「こうしたことに興味を持たないで近世・近代を積極的に研究することを祈ります」という添え書きと共に返送されてきたというのだ(神野『津軽魂を遺した人々』私家版、一九九二)。
京都大学もその時点で『東日流外三郡誌』の偽書性を世間に警告してくれれば、今、私たちも苦労しなくてすんだのだろうが、それは愚痴というものであろう。
さて、市浦村では、せっかくの「古文書」が偽文書と鑑定され、かといっていつまでも棚上げにするわけにもいかず困っていたのだが、ここで一気に話を進めざるを得ない事態が起きた。
問題の「古文書」の一部が昭和四八年十二月二十五日付発行の『車力村史』で引用されていたのである。そこには市浦村から門外不出のはずの文書コピーや、豊島勝蔵氏が引き写した地図までが掲載されていた。市浦村史編纂委員の一人が車力村に資料を横流ししたのである。市浦村では、「古文書」の存在がすでに世に出てしまった以上、『市浦村史』本体の発行に優先して、市浦村からきちんとした「古文書」のテキストを発表し、真偽の判定については「先輩諸賢の批判を仰ぎご教示を受けた方がよい」ということになった。かくして、市浦村版『東日流外三郡誌』が発行されたのである(豊島勝蔵『松田弘洲“古田史学の大崩壊”における市浦村、豊島勝蔵偽作・盗作説に強く反論し、謝罪を要求する』私家版、一九九一)。
なお、『車力村史』では、かつて「安東文書」という表題だったはずの「古文書」が、すでに『東日流外三郡誌』と呼ばれている。当時を知る人の証言によると、もともと「東日流外三郡誌」という名は市浦村史編纂委員の間で、地方史にふさわしい呼称ということで用いられていたものだったが、それがいつのまにか和田氏から新たに持ち込まれる「古文書」本文にまで出てくるようになったという。
松田弘洲氏は指摘する。「『東日流外三郡誌』を編集している間は、“和田喜八郎文書”は“原本”扱いされていて、編集が済むと“写本”扱いされているのです。“原本”だと称して、『東日流外三郡誌』研究者に提出すると、完全に“偽作”だと判定されてしまうので、“原本”のつもりで作りあげた文書類を“写本”だと称して『東日流外三郡誌』研究者に提出しているにすぎません」(松田「やはり『古田史学』は崩壊する」『季刊邪馬台国』五五号)
津軽書房版『東日流六郡誌絵巻』『總輯東日流六郡誌』の編集にたずさわった山上笙介氏は、『東日流六郡誌絵巻』が持ち込まれた時、次のようなやりとりがあったことを証言しておられる。「和田氏によれば、文書にあるとおり、江戸時代の寛政年中から文政年中の成立というふれ込みだった。しかし、津軽書房と私は、和田氏の説明を鵜呑みにしたわけではなく、まず、紙質の確認をすることにした。鑑定人には、資料収集家として著名な八木橋武實氏(故人。当時弘前市在住)をえらんだ。八木橋氏は、“江戸期ではなく、明治期か、それ以降のものでしょう”と答えを出した。八木橋氏は、念のために、和紙に詳しい表具師にも見てもらい、再確認をした。和田氏にこれを伝えると、“実は、古い原書の成立は江戸後期だが、ここにある現物は、明治期に再書・写本されたもの”と説明した」(山上「『東日流誌』との遭遇と訣別」『季刊邪馬台国』五五号)
また、三上強二氏は、「安東文書」を偽文書と鑑定して以降のなりゆきについて次のように証言されている。「喜八郎氏は“和田家文書”の紙と墨が新しいことを私に指摘されてからは、原本と称するものは出さなくなった。“和田家文書”なるものは“史書”ではなく、喜八郎氏が書いたものと確信した私は、その後“和田家文書”“東日流外三郡誌”などに一切関わりを持たないことにした」(前掲『だまされるな東北人』)
山上氏と三上氏の証言は、松田氏の想定を裏付けるものといえよう。つまり、和田氏はまず、江戸時代の古文書だといって、和田家文書を版元に持ち込む。しかし、疑惑が出たとたんにそれまで原本だったものが「写本」に化けるのである。
それでは、和田氏が版元に当初信じさせようとするように、「秋田孝季」の署名のある江戸時代の記録が大量に出てくれば、どうなるか。それは、まず、藩主孝季の直筆と考えられるのではないか。
和田氏がもともと『東日流外三郡誌』を藩主孝季の著書として売り込もうとした、その傍証となる記述が『車力村史』序文にある。その中で、『車力村史』編者の工藤達氏は、「秋田孝季(秋田子爵の先祖)の書かれた『東日流外三郡誌』の写本」を見たとして、「秋田孝季は十三安東氏の一族であり、秋田実季の後裔である」こと、さらにこの秋田孝季が和田長三郎吉次とともに「二人で従者もつけずに諸国の安東氏の足跡を調査して廻り歩いた」ことなどを記している。
秋田元子爵の先祖で実季の後裔、つまり三春藩主秋田家の系図を見れば、該当しそうな人物は藩主孝季の他にない。「従者もつけずに」とことわっているところからも、工藤氏が孝季を高貴な人物と考えていたことがうかがえる。つまり、工藤氏はどうやら、『東日流外三郡誌』の著者・秋田孝季を藩主孝季その人と考えていたようなのである。
なお、ここで工藤氏は自分が見た『東日流外三郡誌』を「写本」としているが、これはいわゆる明治写本の意味ではない。工藤氏によると「この東日流外三郡誌を写し書きしたのは・・・和田長三郎源吉次」であり、「孝季は元本一つでは、災危の場合この記録が全く失われることをおそれて、長三郎に写を書かせ、これを大切に保管するよう配慮された」のだという。つまり、この「写本」は孝季存命中に書写されたものなのである。ここから、『車力村史』刊行の時点(七三年八月)では、まだ、いわゆる明治写本の話もなかった可能性がうかがえる。
天明六年(一七八六)生まれの孝季が寛政年間(一七八九〜一八〇一)に大量の記録を残すとは、いささか早熟すぎるような気もするが、和田家文書における人物の年齢の矛盾は他にもどっさりある。三春藩主になる前の孝季は季孝を名乗っていたはずなのだが、和田家文書には他にもこの種の矛盾はみられる。和田家文書の真の著者は、登場人物の年齢や改名の時期のような細かいこと(?)を気にする性格ではないのである。
孝季はもともと秋田家の世子ではなく、その相続には、兄の長季に嗣子がなかったために兄の養子となったといういきさつがある。
将来、藩主となるべき運命を背負った大名の次男坊が全国各地を「巡脚」して、先祖の偉業を探し求める・・・『水戸黄門』や『遠山の金さん』『暴れん坊将軍』の好きな日本人にはグッとくる設定ではないか。
和田喜八郎氏はさらにそのお供として自らの架空の先祖・和田長三郎吉次を配した。『東日流外三郡誌』によると、秋田孝季は小野一刀流、和田長三郎吉次は神道無念流の達人だったそうだから、これを下敷きにすれば、テレビ時代劇の企画書の一本ぐらい、簡単に書けそうである。
しかし、和田氏の実際の作品は、この設定にリアリティを与えるには、あまりにも杜撰なシロモノだった。そのため、二人の孝季が現れたり、明治期の写本だと称したり、言い訳を重ねるうちに現在の和田家文書が出来上がったというわけである。
和田喜八郎氏が秋田孝季の名を騙ったのも、作家が同時代の文豪の名を騙るのと基本的には同様の行為であった。違うのは、後者の場合、名を騙られた側の文豪に問い合わせれば、すぐにサギとわかるが、歴史上の人物の名前を騙られては、すぐに真贋を決着するわけにはいかないということである。その意味では、和田喜八郎氏は真によいところに目をつけたというしかない。
父親との葛藤?
和田家文書を和田喜八郎氏の創作と断定するところからは、さまざまな興味深い問題が派生しそうである。最後にそのような問題の一つを挙げて、本論考の結びとしたい。
市浦村版『東日流外三郡誌』上巻に収められた「出版に薦言す」という文章の中で、和田喜八郎氏は次のように述べている。「幕府滅亡まで極秘として天井に隠されていたものである。家伝として、異常なる時は生命をかけて護るべしとあり、私の父はひところこれを気味悪いものとして焼却しようとした時、祖母に強く叱られた事があった。小学生の頃で昨日のように覚えています。それが、父と相談して、この箱を開いたのが、昭和三十二年の春であった」
この『東日流外三郡誌』伝来譚が、後年、和田氏が語る「昭和二十二年八月、天井板を突き破って挟箱が落ちてきた」「昭和二十三年、天井を破って大きな長持が落ちてきた」という和田家文書の発見譚と矛盾することはすでに指摘されている(松田弘洲『東日流外三郡誌の謎』あすなろ舎、一九八七、藤野七穂「現伝“和田家文書”の史料的価値について」『季刊邪馬台国』五二号)。また、天井を破って云々、という発見譚がまるっきりのデタラメであることについては、すでに安本美典氏の考証がある(『虚妄の東北王朝』毎日新聞社、一九九四)。
さて、あらためて、「出版に薦言す」の『東日流外三郡誌』伝来譚を見る時、ここから三つの注目すべき点を引き出すことができる。
★この時点では、昭和三十二年のこととされていた『東日流外三郡誌』開封が後の証言では昭和二十二〜三年頃までさかのぼらされている。
★この文では幕府滅亡まで隠されていた箱が、昭和三十二年ようやく開かれたように読める。つまり、この文を書いている間、和田氏は明治〜大正期の書写について、失念していたか、まだ念頭になかったらしい。
★和田喜八郎氏の父(和田元市)は、『東日流外三郡誌』を焼却しようとするほど嫌っていたらしい。
松田弘洲氏は、福士貞蔵の『郷土史料 異聞珍談』(一九五六)に、昭和二十四年七月、「飯詰村炭焼業和田元市父子」が、津軽の山中で、上毛野田道将軍や役小角関係の遺物を掘り出したという話を記しているのを引用し、「外三郡誌を“発見”したのは昭和二十二年が本当であろう。・・・何か都合があって、昭和二十二年から十年伸ばしたのだ」とする(『東日流外三郡誌の謎』)。
津軽山中で役小角関係の遺物が発見されたという記事は、『週間民友』昭和二十七年八月十四日号に見ることができるが、そこでは発掘の主役は「青年和田喜八郎君」とされている。同記事より引用する。「古蹟は去る二十四年の夏(七月二十四日)飯詰村に住む二十五歳の青年和田喜八郎君によつて発見された。父元市氏とともに飯詰本村から約一里半ほど離れた(雨池から約二キロ)奥山で、木炭を焼く炭釜をつくることになり、そこを掘つたところが、地下五尺ぐらいのところで八箇の陶器に包まれたかつこうで青銅製の大小八体の仏像と沢山の仏具がぎつしり土のようにかたまつて掘り出された。その中の腐れかけた木製筒の中に収められた巻物(普通見れば経木のようなものにボン字で書かれたもの)によつて村の博学の士に聞くと、世界的仏教の行者、修験宗の開祖役小角の在世当時を語るものであるということになつた」
また、開米智鎧編『金光上人』(一九六四)によると、この時期、和田喜八郎氏はやはり津軽の山中で炭焼釜を築造中、東奥での浄土宗開祖・金光上人に関する新資料を発掘したという。発行者の藤本光幸氏は、この金光上人関係文書は、「多数の修験宗の資料」とともに出てきたと述べているので、役小角関係資料と同じ場所(そして、おそらくは田道将軍関係資料とも同じ場所)から出てきたらしい。
後に和田喜八郎氏は「『東日流外三郡誌』の資料について」(北方新社版『東日流外三郡誌』第六巻、所収)で「開米智鎧氏の編集で刊行された『金光上人』の資料も『東日流外三郡誌』の上人関係のものを使用したのです」と述べているが、それは和田家文書の伝承者である和田喜八郎氏が、その内容と共通する文書を偶然、発見・発掘したという話の不自然さを糊塗するためであろう。
安本美典氏は昭和二十二〜二十三年発見という話と昭和三十二年開封という話の関係について、次のようにまとめる。「つまり、昭和二十四年の、役の小角や、田道将軍や、金光上人関係の遺跡・遺物・古文書の、和田青年による発見について、記憶をもっている人が多数存在する段階では、『東日流外三郡誌』の発見は、昭和三十二年(一九五七)になっていたのである。そして、昭和二十四年(一九四九)の発見についての、人々の記憶がうすれ、福士貞蔵氏(一八七八〜一九五八)や開米智鎧氏(一八八八〜一九六九)などがなくなられた段階では、『東日流外三郡誌』の発見は、昭和二十二年、あるいは、昭和二十三年に、さかのぼらせているのである」(『虚妄の東北王朝』)
昭和二十四年、すでに和田喜八郎氏「発見」の古文書が話題になっているらしいことから、昭和二十二〜三年というのは、和田氏が「古文書」の作成を始めた年代としては妥当だろう。昭和三十二年というのは、「古文書」を偶然、山中で発見・発掘するという由来に限界を覚え、新たに、自家に伝わったという「古文書」を作りはじめた時期なのかも知れない。
余談だが、古田史学の会事務局長の古賀達也氏は、和田家文書の定義について、次のように述べている。「わたしは(中略)和田父子により山中から発見された文書も和田家文書の一部として紹介している。これは和田家に伝存してきたものも、戦後、和田家によって発見され収蔵されてきた文書も和田家文書として一括して取り扱い、その上で、それらを書写年代などから分類を試み、以後の研究に役立てようとしたものである」(平成九年一月二十五日付、仙台高裁提出陳述書、『新・古代学』第三集、所収)
古賀氏はこのように和田家文書の「定義を厳密に、かつ公にしながら研究を進めている」と述べる。そして、昭和三十年代にも和田家に古文書が伝わっているという話はなかった、という野村孝彦氏らの調査結果に対し、福士貞蔵の著書や、開米智鎧の共同研究者の証言を以て和田家文書の年代を昭和二十年代まで引き上げようとするのである。
しかし、和田氏が山中から掘り出したとされるもの(『週間民友』や福士貞蔵、開米智鎧の編著書といった同時代史料では偶然、発見されたものとなっている)と、和田氏の家に伝わったとされるものを同列に扱うということ自体、「定義を厳密に、かつ公に」するものではなく、むしろ読者の頭を意図的に混乱させようとするものだろう。
たとえば、私にはすでに少なからざる著書があるが、その私の著書と、私が書店で買ってきて書架に収めた本を共に「原田実の本」として同列に扱うような書誌分類がありうるだろうか。
某氏が発見したとされる文書と、某氏の家に伝わったとされる文書、それを同列に扱う分類法があるとすれば、その前提には、両者が実際には同一のグループもしくは個人によって作成されたという考え方があるはずである。つまり、古賀氏のような和田家文書の定義は、偽書説に立った場合にこそ有効なのである。
和田家文書擁護のために古賀氏が詭弁を弄した例はこれにとどまらないが(松田弘洲「やはり『古田史学』は崩壊する」、他)、この和田家文書の定義は、古賀氏の論法が、真作説への確信に基づくものではなく、むしろ偽書であることを承知した上ではじめて展開しうるものであることを示している。
福士貞蔵や開米智鎧が取り扱ったのは、あくまで青年時代の和田氏が発見したと称した文書群であって、和田家に伝わったとされるものではなかった。
古賀氏のいう開米智鎧の共同研究者の証言なるものにしても、その内容は「昭和三一年〜三五年にかけて多くの和田家文書を実見されており、『諸翁聞取帳』や『東日流外三郡誌』、それに洞窟より発見された役の小角関係の銅板銘や木皮文書、骨蔵器なども見ておられるとのこと」(『新・古代学』第一集)というものであり、後年、和田家文書と呼ばれる文書群が当時、すでに和田家に代々伝わったものとされていたかを、確認するものではなかった。また、先述のように、『東日流外三郡誌』という書名は『市浦村史』編纂の過程で出てきたものだという別の証言がある以上、その書名のものを昭和三十年代、すでに見ていたという証言の記述を、そのまま信じるわけにはいかない。つまり、問われるべきは、この証言の記述そのものの信憑性なのである。刑事裁判でいえば、検察側調書にとられた証言のみを重視することは冤罪への第一歩ではないか(真贋論争を刑事裁判にたとえた場合、古田氏、古賀氏らがむしろ検察側にあたる立場にあることは拙稿「『東日流外三郡誌』真贋論争の倒錯」『季刊邪馬台国』六一号、所収、参照)。
したがって、「昭和三十年代にも和田家に古文書が伝わっているという話はなかった」ことと、古賀氏らが和田家文書と呼ぶ文書群の一部が昭和二十年代、すでに現れていることは矛盾しない。
市浦村版『東日流外三郡誌』発行の時点では、昭和三十二年のこととされていた『東日流外三郡誌』開封が、後の証言で昭和二十二〜三年頃にさかのぼらされることにより、かつては山中で偶然発見したと称していた文書群まで、和田家文書に含めることが可能になったのである。
なお、二十歳そこそこの青年だった喜八郎氏に、福士貞蔵や開米智鎧らを信じさせるほどの古文書偽作ができるか、危ぶむ向きもあるだろうが、歴史上の古文書偽作事件で犯人が青少年だった例は他にもある。
イギリスの少年詩人トマス・チャタトンが十五世紀の修道士の作という触れ込みで『ロウリー詩集』を世に問うたのは十六歳のことだった。一七七〇年、チャタトンが十七歳で自殺した直後には白熱の真贋論争が行われ、その結果、チャタトンはロマン派の先駆として文学史に名を留めることになる。生前、ペテン師よばわりされた同じ行為により、彼は「天才詩人」「驚異の少年」という没後の名声を得たのである。
ウィリアム・アイアランドがシェイクスピア関係の古文書や遺物を大量に偽造したのは、一七九四年五月から九五年十二月まで、年齢でいえば十九歳から二十一歳までのことである。アイアランド家には多くのシェイクスピア崇拝者が押し掛け、新発見の史料に目を輝かせた。九六年四月二日には、新発見のシェイクスピア劇(もちろん実際にはアイアランド作)『ヴォーディガンとロウィーナ』がなんとドルリー・レーン劇場で上演される。その興行的失敗の後、アイアランドは自らの贋作を認めたが、世間は当初、彼のあまりの若さゆえにその告白を信用しようとはしなかった。
ドイツの大学生フリードリヒ・ヴァーゲンフェルトが、古代フェニキアの歴史家サンクトアニンによる『フェニキア史』全九巻を入手した、と発表したのは一八三五年、二十五歳の時のことである。学界はすでに散逸してその名のみ残っていた歴史書の出現に色めき立った。翌三六年、ハノーヴァーの出版社より『フェニキア史』刊行。序文を書いたのは古代文字解読の権威ゲオルク・フリードリヒ・グローテフェント博士だった。しかし、三七年には『フェニキア史』偽作説が出て、当初は好意的だった学者たちも次第に沈黙するようになった。学界には偽作者ヴァーゲンフェルトの才能を惜しむ声もあったが、結局、彼は一八四六年、若干三六歳にして失意の内に世を去った。
フランスの詩人ピエール・ルイスが古代フェニキアの墳墓から出土した碑文の解読という触れ込みで『ビリティスの歌』を発表したのは一八九四年、二十四歳の時であった。作者から『ビリティスの歌』を献呈されたアテネ出身の某教授は「前にもビリティスの作品を読んだことがある」と礼状に書いてきたという。
二十代前半は贋作者のデビューとして決して若すぎはしないのである。種村季弘は「偽書作家には過去の連続性という足場がない」として、「まだ所属というものを知らない年少者」であることは、偽書作家となるのにむしろ有利な資質でありうることを論じている(種村『ハレスはまた来る』青土社、一九九二)。
さて、話は戻って、和田元市が「古文書」を焼却しようとした話は和田喜八郎氏の講演「東日流外三郡誌と安倍氏について」(衣川村・衣川村教育委員会編『安倍氏シンポジウム報告書』一九九〇、所収)にも語られている。
「煤けた古い本がいっぱい出てきた。何だよこれはと思ってその一冊を見てみたら、この書物は人に見せてはならない。門外不出だと書いてある。親父もこんな物を持っていても仕方がないから焼いてしまおうというので、田圃へ持っていって焼こうとした。そうしたらうちのばあちゃん焼いてはならぬという」
この講演では、『東日流外三郡誌』発見は昭和二十三年夏とされているので、和田元市が本を焼却しようとしたのも、昭和二十三年のことということになる。当時、和田市は二十一歳、和田氏が「出版に薦言す」で語るところの「小学生の頃」よりも、だいぶ時代は下る。
また、和田家文書の「写本」には、しばしば不自然な焼け焦げや、水を被ったようなシミが残っているものもある。これは新しい紙に古色を出す際の不手際によるものと思われる(煙にいぶす、墨や錆を溶いた水で濡らす、など)。しかし、和田喜八郎氏はそれについて質問を受けた際には、元市による焼却未遂の時についたものと、ごまかすのが常であった(筆者の昭和薬科大学在職中の経験による)。
とはいえ、和田喜八郎氏が、父親が本を焼こうとしたと繰り返し言う以上、なにかそれに類する事実があったのだろう。和田家親族からは生前の元市と喜八郎が不仲だった、元市は喜八郎をまったく信用していないようであった、という証言も得られている。
また、昭和二十四年の時点での「古文書」発見譚で発見者の一人として、和田元市の名を出しているのは、『郷土史料 異聞珍談』のみであり、他の資料では、元市が和田喜八郎氏とともに山中に入ったにしても、「古文書」の発見、発掘はすべて和田喜八郎氏が単独で行ったように報じている。つまり、元市は「古文書」偽作と無関係か、せいぜい消極的な共犯者という程度の立場しかとっていないのである。
元市存命当時を知る人の証言によると、津軽考古学会のメンバーが役小角関係資料の出土地点を訪ねた際、その案内は喜八郎氏がつとめ、元市は同行するだけで何もくわしいことを述べようとはしなかった、という。
ここで父親の立場になって考えてみよう。息子が「古文書」を偽作して、地元の名士らに売り込み始めたなら、普通は何としても止めようとするものではないか。元市の焼却未遂というのは、「古文書」偽作者となった息子に対し、元市が父親として当然のことをしようとしたのを逆恨みして、作った話ではないか。
和田喜八郎氏は、現在では、和田家文書の書写は、曾祖父・和田末吉、祖父・長作によって行われたとしている。
実際には、末吉は文盲だったという和田家親族の証言もあるのだが、和田家文書の書写者としての「末吉」は、自分が文盲だという程度の些細なことは気にしないのである(長作もまた、書き物などするような人ではなかったという)。
和田喜八郎氏は市浦村版『東日流外三郡誌』について次のように記す。「明治十五年以降に私の曾祖父和田末吉が虫に喰害された原本写本を更に再書した資料による、きわめて新しい文献をそのまま発刊したものであります。だから、和田末吉が亡くなるまで再書が続けられていたとすれば、大正時代まで、いやもっと降って私の祖父長作の代、昭和十四年までも再書がなされていたものと思います。だから、『東日流外三郡誌』は、原本に加えて和田長三郎末吉と次代長作両人の考史も加筆されたことは事実であります」(「『市浦村史』発刊について」『市浦村史』第一巻、一九八四、所収)
昭和十四年といえば、和田喜八郎氏は十二歳である。職業柄、書き物とは縁がないはずの農家で、祖父が何か本を書写していたとすれば、当然、印象に残ったことだろう。それなのに、「再書がなされていたと思います」という自信のない言い方は妙だし、その直後に一転して、「加筆されたことは事実であります」と断定するのは、さらに妙だ。
それはさておき、末吉・長作が『東日流外三郡誌』を書写したと主張することは、すなわち、この両者が和田家文書継承に重大な役割を果たしたと認めることである。
言い換えると、それは、発見者たる喜八郎氏と、その著者の一人にして架空の祖先たる長三郎吉次、その和田家文書が取り持つ連帯に、実在の祖先を繰り込もうとすることでもある。
しかし、和田喜八郎氏の父親たる元市は、この連帯関係から排除されてしまっているのである。ここにも、和田喜八郎氏と元市との間の葛藤は反映しているのではないか。
そう思ってみると、和田喜八郎氏の次の言葉も意味深である。「昭和五十五年には、この文献(『東日流外三郡誌』)を便りに、ながく放棄されていた、津軽中山の石塔山遺跡を再興した。この再興に当たっては、これを妨げるものが多く、私は村八分の状態にされたが、見事に再興を果たしたものも、古代中世に渡る霊力が私を助けたものと信じてやまない。父もいまは他界したけれど、この再興を見詰めて、だれよりも悦んだあの顔を、私はいまも瞼にやきついている。この歳になるまで、親との間は、不孝の数が多いだけに、私は心から悔いて仕上た遺跡には、父の魂も鎮座しているものと、毎日、石塔山大山祇神社に、どこの地に行っても、方位を定めて拝んでいる」(『知られざる東日流日下王国』東日流中山古代中世遺跡振興会、一九八七)、「昭和五十五年九月、荒覇吐神社の社殿を建立する夢もかなった。父が存命のうちに、再興の式を挙げえたことは、私にとって、永く不孝をしてきた父母の恩に、わずかながらも報いることができた気持であり、荒覇吐神社は、これからも、子孫代々に、固く受け継がせてゆくつもりである」(「『東日流六郡誌大要』について」津軽書房版『東日流六郡誌絵巻』所収)
石塔山大山祇神社(荒覇吐神社)建立を、当時、存命中だった元市は本当に喜んでいたのか。喜八郎氏による和田家文書偽作こそ、「不孝」の最もたるものではなかったのか。石塔山大山祇神社は子の父に対する勝利のモニュメントなのである。それが父の生前にできたというわけだから、なるほど、子としては嬉しかろう。
父親との葛藤が、息子による歴史的文書偽作に結びついたという例は、先述のウィリアム・アイアランドなどにみることができる(大場建治『シェイクスピアの贋作』岩波書店、一九九五)。
和田家文書をそうした見地から、文章心理学的に解析していけば面白いデータが得られるかも知れない。将来の課題の一つとして、ここに提示するものである。
『北洋伝承黙示録』
−『東日流外三郡誌』の謎を解く−
渡辺豊和・著
(株)新泉社・刊
1997年9月25日発行
四六版並製 二八六頁
定価1900円+税
1998,10 原田 実
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