第3部 三世紀の畿内政権

 更新日/2019(平成31→栄和元).6.20日

 (れんだいこのショートメッセージ)

 三世紀頃の日本の国勢史はない。後に政権の都となる大和地方にしても、先住者について資料がない。神武天皇の東遷以前の畿内政権の考察ということになるが、既にニギハヤヒノミコト、ナガスネヒコらがいたという程度にしか分からない。

 神武天皇は、大和朝廷の初代ではなく、先行する葛城王朝の初代にあたるとの説も有る。



権力移動があったものと思われる。
*「三輪山周辺」(桜井市.天理市)政治集団

*「佐紀西郡」政治集団
 応神が、日向、吉備、河内、葛城等の諸集団の支援を受けて王権の正統の後継者である忍熊王(おしくまのみこ)に象徴される軍勢と戦い、これを打倒して、いわゆる河内王家の基礎を築いた。

*河内の古市.百舌鳥古墳群政治集団


水野祐氏の業績。古事記、日本書紀に語られる古代の王朝が、実は崇神に始まる古王朝、仁徳に始まる中王朝、継体に始まる新王朝の三つに分かれるとした三代王朝交代説を唱えた。1952年発表。万世一系の皇国史観を打破するスタンスをとった。出雲に視点を置き、天皇制大和国家を相対化し、大和中心史観を批判する。



 「最新邪馬台国論争・21世紀のレポート 」は次のように記している。

 1996..4月、新聞各紙が、大阪府和泉と泉大津両市にまたがる池上曽板遺跡で、1995年に見つかっている高床建物跡の築造時期が、当初考えられていた一世紀前半より百年近くも古い、紀元前五十年代であったことが判明したと報道した。出土したヒノキの柱材を、年輪年代法測定して判明したもので、その高床建物は「神殿」とみられ、三十個の柱穴の内、十七個にヒノキの柱材が残っていたという。

 「藤原宮や伊勢神宮の古材が、平城京や各地の神社に転用されたように、前一世紀の柱が、後に再利用されたと考えられる。自然科学の一例で、考古学が風邪をひくようでは情けない」とする、同志社大学教授 ( 考古学 ) のような慎重論もあったが、神社から神社へ転用されたにしても、その前、前一世紀に、それに類する建物があったということこそ重要で、この報道は、畿内が、紀元前から相当の発展を遂げていた、なによりの証拠であるともいえる。

 邪馬台国九州論の多くは、大和が発展するのは、四世紀の古墳時代に入ってからとする意見が多く、それ以前は九州が栄えたとして、邪馬台国を九州にあったとする根拠ともなっていたのだが、ここにきて、その古墳時代も半世紀はさかのぼるとするのが、最近では常識化してきている。


【古代大阪の姿・大和川】
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 縄文時代前期の後半(約5500年前)
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○2 新しい地図2100年前(『大阪遺跡』大阪文化財協会、創元社2008)古田史学会報107号
 「縄文時代の大阪湾「ナニワからヤマトへの交通路」の「大阪湾と大和川 」、大下隆司「 古代大阪湾の新しい地図難波(津)は上町台地になかった」その他参照。

 かつて大阪は上町台地のみが陸地で他は河内湖と呼ばれる内海であり、大和は標高60m以下は大湿地湖だったとされている。陸地のところには小さな川が何本も流れ、洪水に襲われていた。
邪馬台国時代の大阪湾は、上町台地の北に長柄砂州が続き、河内湖の水は、現在の新大阪駅の北にあった水路から大阪湾に流れていた。後に淀川上流から運ばれてくる土砂でこの水路が埋まり、出口を失った河内湖の水が溢れ出し洪水が多発、このために上町台地の北端、現在の大阪城の北に堀江を掘削し、溢れた水を大阪湾に流れるようにした。この堀江が後に淀川本流となり、明治の淀川改修以降、現在の大川となった、とされている。現在の枚方(ひらかた)市は河内湾に面した浅瀬の町だった。平潟(浅瀬の潟、ひらかた)だったのが後世「枚方」と名付けられた。隣りの交野(かたの)市には「渡来人由来」の「織り姫伝説」を物語る「織物神社」がある。大阪北のターミナル「梅田」付近は「埋め田」と呼ばれる埋め立てが進んだ湿地帯だった。日本書紀の難波(津)の記事、聖武天皇の後期難波宮遺跡等によって上町台地が難波のあったところとされているが本当にそうであったのかは不明である。上町台地の発展は近世の秀吉の大阪築城と徳川幕府の大阪城下町の整備・発展からで、それまでの大阪の中心地域は河内・摂津、ではなかったのか?

 日本書紀巻十一の仁徳天皇十一年十月の条に、「宮(高津宮)北の郊原を掘りて、南の水(大和川)引きて西の海(大阪湾)に入る。困りて其の水を号けて堀江という。又、将に北の河のこみを防がんとして、以て茨田堤を築く」とある。これを「仁徳天皇による堀江掘削」と云う。上町台地の北端、現在の大阪城の北側の大川から中之島方面へ通じる水路を掘ったとされている。歴代にわたって大和川流域一帯で護岸工事が行われ、続日本書紀の記述によると、弓削道鏡による西京建設と前後して河内国志紀郡・渋川郡付近の護岸工事がのべ3万人余りの労力で行われたとある。延暦7年(788年)頃、和気清麻呂により河内川(現在の平野川)を西へ分流させるべく本格的な流路変更が試みられた。のべ23万人の労力で現在の四天王寺の南付近を掘削する工事が行われたが、上町台地の高さの前に挫折した。現在の天王寺区・阿倍野区の地名である「堀越」、「北河掘町」、「南河堀町」、「堀越神社」などの名はこの工事が由来していると言われている。弘仁3年(812年)、堤防補修費用捻出のために「出挙」とよばれる利子付貸し付けを行い、その利子を工事費に充てるとことも行われた。貞観12年(870年)、日本三代実録の記述によると、河内国の水害や堤を調査する役人や築堤を担当する役人が任命されるなど国家事業として大和川治水が行われていた。豊臣秀吉が日本全土を平定し、大坂に城下町を整備するのに合わせて淀川・大和川水系の治水工事も大がかりに行われ、断続的だった堤防はこの頃には連続のものになっていく。江戸時代には「国役堤」として江戸幕府直轄の管理下におかれ、堤防の管理・保全が行われた。このころには大和川の流路は人為的に固定されてしまったため、上流からの土砂は逃げ場を失い、川底に堆積し、天井川となっていった。堤防決壊による洪水被害も起こりやすくなり、被害の復旧、堤防のかさ上げや川浚えなどに多額の費用と労力が費やされた。度重なる被害の大きさに、河内の大和川流域の村々から付け替えの機運が起こり、現在の東大阪市にあった今米村の庄屋、中甚兵衛らが河内の農村をとりまとめ何度も幕府に請願し続けた。安堂駅近くに「大和川治水公園」があり、中甚兵衛の銅像がたっている。新しい川の流路となる村々からも付け替え反対の請願が起こったが、ついに付け替え工事が1704年(宝永元年)に行われ、わずか8ヶ月で大和川は現在のように堺に向け西流するようになった。




(私論.私見)