諸氏の書評

 (最新見直し2013.04.07日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 八切止夫氏の「信長殺し、光秀ではない」(日本シェル出版、1974.1.10日初版)の原文を確認しておく。ネット情報文が出ているが正確さを確かめたい。その上で書評したいと云う気持ちがある。

 2007.10.30日 2013.03.09日再編集 れんだいこ拝


目次





(私論.私見)


 「八切止夫意外史は注目に値する(EJ920号)」を転載しておく。
 NHKの大河ドラマ「利家とまつ――加賀百万石物語」を見て「本能寺の変」に興味が湧き、EJに書くことを前提に多くの本や資料を真剣に読んでみました。そして、理解できたことは、現在われわれが知っている本能寺の変は、『川角太閤記』や『信長公記』など、後年の権力者秀吉の立場から書かれた文書をベースとしているという事実です。要するに、秀吉にとって都合が悪いことはすべてカットされ、内容がねじまげられており、真実は闇の中になっています。歴史とはそういうものです。実は5月のはじめのことですが、次のような本を購入したのです。そのときは、本能寺の変をEJで取り上げることはぜんぜん考えていませんでした。
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   八切止夫著『信長殺し、光秀ではない』作品社刊
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 著者の八切止夫氏は故人であり、あとでわかったことですが、歴史の世界で奇書といわれているものの復刻版だったのです。八切氏には「八切意外史」全12巻というのがあるようで、上掲書はその第1巻目の本だったのです。今から30年前の本ですが、当時ベストセラーになったそうです。

 しかし、この本は話がいろいろなところに飛び、悪くいえば支離滅裂で、良くいえば奇想天外――何をいいたいのかよく分からない本なので、途中で読むのを止めてしまったのです。しかし、本能寺の変についてEJで取り上げるようになって、本気で読み直して見ると、非常に重要なことが書かれていることがわかってきたのです。

 今週発売の『週刊ポスト』8月16日号で、井沢元彦氏も取り上げているのですが、八切氏はその本の中で、当時の鉄砲に使う火薬の原料「硝石」についてふれているのです。多くの史書では鉄砲という銃器の製造については言及しているものの、それに使う火薬がマカオからの輸入に依存していた事実がまったく書かれていないのです。

 「パソコンはソフトがなければタダの箱」といわれますが、鉄砲も「火薬がなければタダの鉄棒」なのです。種子島が鉄砲の産地であるとか、紀州の雑賀衆が鉄砲を量産していたという銃器の生産の話はよく出ますが、火薬の話、ましてその原料の話などは八切氏以外、誰もいっていなかったはずです。

 八切氏によると、当時の火薬の配合は、75%が輸入硝石(当時の言葉では「煙硝」)に頼っていたのです。しかし、この硝石は、あたかもマカオが原産地であるように見せかけていますが、正しくはマカオは中継地に過ぎないのです。当時のポルトガルの商人は、火薬を輸出するに当たって、ヨーロッパやインドの払下げ品を集めてきて、マカオで新しい樽につめかえさせて、日本に輸出していたのです。そして、日本にはマカオが硝石の産地のように見せかけていたのです。信長はこれに完全に騙されていて、彼は火薬確保のためにマカオを本気で攻め落とすことも視野に入っていたと考えられます。

 当時マカオはポルトガル領であり、火薬商売だけでなく、ポルトガルのカトリックのイエズス会の宗教セールスマンが宣教師としてどんどん日本に入ってきていたのです。当然彼らは火薬を布教の道具として使ったのです。当時は良質の火薬がなかなか入手できなかったので、火薬欲しさに切支丹に帰依した大名も少なくなかったのです。

 さて、井沢元彦氏によると、30年前は八切氏以外に火薬の原料――硝石についてふれた歴史家はいなかったのに、現在はそのことに触れていない人はいないと述べています。しかし、現在の歴史家はことごとく八切氏を無視し、参考文献や引用資料に八切止夫の名前はないのです。はじめは八切氏の説をこきおろしておきながら、それがどうやら正しいとわかると、だまってそれを引用する――日本の歴史学者の悪いクセです。

 さて、八切氏は本能寺の変について意外なことをいっているのです。2日の早暁に丹波の軍勢とみられる約1万3千の兵が本能寺を取り囲んだのは事実なのですが、これを日本側の史料では、予想外のこと――すなわち「異変」としているのに対し、本能寺のすぐ近くにあった南蛮寺のイエズス会のポルトガル人の宣教師たちは「通常の出来事」と考えていたというのです。

 というのは、信長はいつも少人数で出動し、それから1日か2日で黒山のような軍隊を編成し、自ら引率して行動を開始するのが通例である――と京にいるポルトガル人の宣教師たちは認識していたといっているのです。そういうわけで、2日の早暁に約1万3千の兵が本能寺を取り囲んでも彼らは「いつもの命令受領」と考えていたようです。

 ところが軍勢が本能寺を包囲後数時間経過して、突然本能寺から火の手があがったというのです。それはもの凄い火力で燃え上がり、四方の民家に類焼しているのです。八切氏は、これは明らかに爆発であり、本能寺の中にいた者は一人残らず「髪の毛一筋残さず」吹き飛ばされたといっているのです。もちろん、信長もです。一体本能寺に何が起こったのでしょうか。

 実は、本能寺の地下に煙硝蔵(火薬庫)があって、それが爆発したと考えられるのです。何によって爆発したのかについては明日述べることにして、マカオから運び込まれた火薬の原料である硝石は、本能寺の地下に納められ、そこから目的地に運ばれていたというのはどうやら事実なのです。この本能寺の煙硝蔵の存在については、最近発刊された津本陽氏の『本能寺の変』(講談社刊)でもふれられています。 そうすると、本能寺の変とは一体何だったのでしょうか。本能寺はなぜ爆発をしたのでしょうか。本能寺を取り囲んでいた軍隊はどこの軍隊だったのでしょうか。 昨日ご紹介した立花京子氏によると、信長暗殺にイエズス会が深く関与していたのではないかと述べています。

 「本能寺での爆発事故」を転載する。

 もくじ

  1. 信長を殺害したのはイエズス会
  2. 信長殺し、光秀ではない
  3. 長宗我部黒幕説

 信長を殺害したのはイエズス会

 信長を殺害したのはイエズス会のキリスト教徒たち

 八切氏は1967年に、歴史小説の『信長殺し、光秀ではない』(作品社)という著作の中で、信長を殺害したのはイエズス会のキリスト教徒たちで、しかも、信長が滞在する本能寺に南蛮渡来の新式火薬で作った爆弾を、本能寺から90メートルという至近距離にあった、「南蛮寺(サンタ・マリア寺)」の展望台から、打ち込んで本能寺を跡形もなく焼失させた、という説を示している。当時の、信長がイエズス会を裏切った事実と、信長の焼死体が全く見つからなかったことを根拠に立論しているのである。

 この八切氏の説は、古くからトンデモ説として一蹴されてきたが、「属国・日本」の枠組みと、歴史研究家の立花氏の史料を読み解いたところから来る分析と合わせて考えるとあながち的はずれとも思えない。立花氏の本にしても、八切氏の本にしてもそうだが、大きな枠組で真実をグッと掴むということが重要なのだろう。要するに、「当時も、日本は覇権国に対する周辺属国であった」ということである。この一言で足りてしまうでしょう。

 イエズス会は、CIAエージェントだった

 イエズス会は、宗教としてのキリスト教徒たちだけでなかった。イエズス会は、ヨーロッパのユダヤ金融資本が世界に張り巡らすCIAネットワークの一つであった。ユダヤ金融資本は、当時も世界制覇(世界を植民地にする)を狙って、情報収集のために宗教にカモフラージュした諜報機関を作っていた。従って、イエズス会に入会したキリスト教徒たちの中で、武士などの支配者層の人間は、CIAエージェントとしての教育を受けていたことだろう。

 しかし、ユダヤ金融資本の本質を見抜き、CIAエージェントとしての教育を断固、イエズス会への入会を拒否した人間もいた筈だ。織田信長もその一人であった。さすがと言うべきである。織田信長の後継者であった豊臣秀吉も徳川家康も、このイエズス会への入会の拒否を貫き、日本占領を狙う危険なイエズス会を日本から追い出し、キリスト教を禁止し賢明にも鎖国を実施した。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康のような政治家は、現在の政治家の前原誠司のように自ら積極的にCIAエージェントとなって、小沢一郎の情報を米国CIAに送り、スパイ活動をすることで米国のバックアップを得て、日本の首相になろうと考えているセコい売国奴政治家とは全く違うのである。

 明智光秀の娘のお玉(ガラシャ婦人)は、キリシタンとなってCIAエージェントの役目を果たした訳だが、それは父親の明智光秀がCIAエージェント(隠れキリシタン大名)であった証でもある。つまり、明智光秀は、前原誠司のように小沢一郎じゃない織田信長の情報をせっせとイエズス会に流していた。織田信長の情報は、織田信長の側近で奴隷だった黒人の彌助が、明智光秀の命を受けて流していた。本能寺の変の時、明智光秀は、黒人の彌助を救出し、国外(インド)へ脱出させることで、黒人の彌助の口封じをした。しかし、売国奴である明智光秀も、口封じのためにユダヤ金融資本に消された。まあ、前原誠司の将来を見るようだが、明智光秀は山崎(サントリ山崎工場の中)で、馬で走行中に藪から棒を出され、落馬し殺された。口封じのためには、CIAエージェントと言えども役立たずになれば藪から棒に殺されるのである。

 本能寺の変は、日本史の謎とされるが、明智光秀がCIAエージェント(隠れキリシタン大名)だったと考えることで、なぜ、あのような無謀と思われる行動に出たのかが理解できる。前原誠司のように織田信長(小沢一郎)の情報をイエズス会(米国CIA)に流すことで、イエズス会(米国CIA)の支援を得て、天下をとろう(首相になる)としたのだ。だけど、周りの大名は、そんな天下をとる(首相になる)能力もない明智光秀(前原誠司)の協力要請を拒絶し、明智光秀(前原誠司)は孤立無援になった訳だ。「売国奴の末路」と言う言葉を聞いたことがあるな。

 本能寺と南蛮寺の間に秘密の地下通路があった

 本能寺には秘密の地下通路があり、それは、90M(70間?)くらい離れた南蛮寺(極楽寺)に通じていたらしい。となると、失敗の可能性の高いロケット砲をなどを使わずとも、南蛮寺から火薬を大量に本能寺に搬入し、火をつけるだけで簡単に織田信長を殺すことができる。何やら2001年の9・11の世界貿易センター爆破事件と似て来るが、イエズス会も同じ手口で織田信長を殺した可能性が高い。同時か、その直後に明智光秀がやってきて「俺が織田信長を殺したのだ」と叫んだに違いない。周りの大名も、そんなイエズス会に頼る明智光秀の手口を知っていたに違いない。

 信長の棺」によると、織田信長は、明智光秀の奇襲を受けた際に、その秘密の地下通路を通って、南蛮寺(極楽寺)に逃げようとしたが、イエズス会によって封鎖されており、そこで織田信長は、死んだと言う説もあるようだ。なぜ、イエズス会が2001年の9・11の世界貿易センター爆破事件のような大掛かりなことをしたかと言えば、織田信長が長宗我部の次に中国(毛利ではなく中国の北京)攻めを計画しており、織田信長の実行能力からするとあり得ない話ではないので、イエズス会は全力をあげてそれを阻止をしたと言う話もあるようだ。いずれにせよ、前原誠司じゃない明智光秀は、イエズス会のセコい手先であったようだ。

 長宗我部黒幕説

 長宗我部と土岐家の再興を目指した明智光秀

 明智光秀は信長暗殺後は織田の家臣とは敵対することになるので、織田と敵対する他大名とは友好関係を築く必要があった。明智光秀と信頼の深かった他大名と言えば、長宗我部元親である。明智光秀と長宗我部元親は、共に土岐家の再興を誓い合っていた。明智光秀は土岐家の支流であった明智家出身であり。長宗我部元親の側室には、明智光秀の妹の娘がいた。もともと、長宗我部と織田は友好関係にあり、長宗我部との織田側の窓口役が光秀だった。元親の息子の信親の「信」の字は他ならぬ信長の「信」から取ったものだ。そのくらい織田と長宗我部は友好関係にあった。

 羽柴秀吉の陰謀で長宗我部討伐が進められた

 ところが、羽柴秀吉の陰謀で織田と三好が親密になるにつれて、三好家と敵対する長宗我部の存在が織田信長には疎ましくなり、織田信長は、本能寺の変のあった1582年に、ついに長宗我部討伐の軍勢が四国へ向かった。本能寺の変の翌日に織田信孝を大将とする長宗我部征伐軍が四国へ出陣の予定であった。明智光秀は、これをどうしても阻止したかったらしい。当時の織田信長は、長宗我部征伐軍の大将として家臣より三男の織田信孝を選んだように、晩年の織田信長は、家臣より息子の重用が目立つようになっており、家臣は使い捨ての不安に怯えていたのである。従って、織田信長の本能寺の変は、起きるべくして起きたのである。誰が、織田信長を暗殺してもおかしくなかった。その上に織田信長は、日本の領地だけでは、家臣達に与える広さがないと考え、朝鮮征伐などを考え始めていた頃であり、外国の土地を貰っても仕方がないと考える家臣達は、使い捨ての不安とで、全員、クーデターを起こす動機を持っていた。

 まんまと明智光秀と長宗我部元親は、羽柴秀吉の陰謀に嵌まった

 しかし、羽柴秀吉は、自分がクーデターを起こしたのでは、信長の後継としての正当性を疑われるので、誰かをけしかけて、クーデターを起こして欲しいと思っていた。そこで、織田信長に進言して明智光秀と親密な長宗我部元親の征伐軍を起こせば、明智光秀がクーデターを起こす可能性があると考えた。案の定、同1582年年6月の織田信孝が四国へ出発する前の日に光秀謀反の本能寺の変が起きた。本能寺の変の後、間一髪、助かった長宗我部は伊予へ侵攻し、1585年に四国統一を成し遂げたが、同年、既に近畿北陸を平定していた秀吉と対立、ジリ貧となり、降伏することになった。まんまと明智光秀と長宗我部元親は、羽柴秀吉の陰謀に嵌められてしまった。明智光秀は、自分なりに謀反前に既に西側諸国(毛利や長宗我部)と結んでいた訳であり、謀反後に秀吉を毛利や長宗我部との包囲網で攻めようと考えていたに違いない。

 家康の陰謀で本能寺の変は起きた

 長宗我部元親は、光秀の死んだ山崎の戦いの後、秀吉と戦って磔にされたた斎藤利三の娘である斉藤福(後の春日局)を岡豊城でかくまったとされる。 つまり、長宗我部元親は、秀吉に対抗して家康に近づいたと思われる。とすれば、本能寺の変は、徳川家康を黒幕として、明智光秀と長宗我部元親が仕組んだクーデターだった訳だ。このことに事前に気付いていた羽柴秀吉は、ポスト信長後の覇権争いが重要と考え、クーデターを実行した徳川家康・明智光秀・長宗我部元親の連合軍の裏を斯こうと、中国攻めからの電撃的な撤退を行ったのだろう。羽柴秀吉もクーデターを望んでいた一人だが、ポスト信長後の覇権争いに勝つために、あえて信長の敵討ちを宣伝して謀反ではなく正当な後継者の位置づけを演出した訳だ。この羽柴秀吉の電撃的な動きと演出に影の黒幕の家康は手も足も出せずに、じっと我慢の子で羽柴秀吉に従うが、明智光秀は山崎の戦いで滅亡し、長宗我部元親の後を継いだ四男の盛親は、大阪城夏の陣で秀頼に味方して破れて滅亡した。明智光秀・長宗我部元親のクーデターの黒幕は、徳川家康であるが、このクーデターを誘導したのは、羽柴秀吉であったと言えるだろう。



1122 徳川家康  2


 信長殺しは光秀ではない!@
 私はいわゆる「織田信長」ファンである。だから、信長が登場するドラマなどはほとんど見ない。うそばっかりだからである。大体、歴史書は、一体何を元にして書いておるのか。時代によってそれぞれ状況は異なるだろうが、こと戦国時代となると、その当時マス・メディアはない。カメラが真実を伝えていない。また、この武家社会においては、口伝や古文書はあまりあてにならない。その統治者に不利なことなど、書いてもしゃべっても捕らえられたであろう。謀反の汚名を着せられたかもしれない。だから、「祐筆」という人が記録を残した。いわゆる御用作家である。信長の時代に、本屋や出版社は存在しない。従って、原稿料をくれるのは、お殿様である。お殿様から話を聞き、デフォルメして偉大な伝記を作り上げる。従って、お殿様に不利な状況などは記述されない。こんな本はいくらでもある。宗教関係や、某首領様の国なんぞに、だ。これが真実のはずはないのだが、「○○記」「○○伝」等の名前で残っているものしか、実際は存在しないのだ。これが「うそ」である第一。次に、私たちが触れるのは、講談やお芝居など。これは歴史についてかたったものではなく、ひょっとすると祐筆のものより誇張されているかもしれない。おもしろく、荒唐無稽でないと客は金を払わないからである。これが第二。しかしながら、歴史を調べる上で、その手がかりはこれしかないのである。そこで、これらのものを複数収集する。そして共通・類似の記述を探していく。そして、その中で多いもの、つまり多数決で、後世の歴史は学問として仕上がって行く。これが学問でいうところの「歴史(History)」というものの真実であろう。

 さて、「信長殺しは光秀ではない!」という話を、これから不定期で、何回にも亘ってしつこく書いていきたいと思う。本当に犯人は光秀じゃない、と思うのだ。ただし作家先生のように、すでに仕上がっているわけではない。本当にこれから考え考えして書いていくので、もしお暇な方は読んで頂きたい。とりあえず、「信長殺し」の動機やアリバイについて、次回から書いて行きたい。
よろしくねっ!(本当に不定期になると思います。)
 信長殺しは光秀ではない!A
 時は天正10年6月2日。午前5〜7時の間。くどいようだが、何者かの軍勢が本能寺に押し寄せる。午前7時 本能寺炎上。引き続き二条城包囲(織田信忠の軍勢が宿泊)。(午前9時 明智光秀 入洛)午後2時 明智光秀 出洛。午後4時 瀬田大橋に現れるも、焼失済み。午後5時 三千の軍勢のみで、坂本城に帰城。これが事件当日の様子である。

 本来、犯人の犯罪を立証、立件するためには、アリバイ(現状不在証明)、証拠、動機等が必要となる。もし、明智光秀が実行犯であるとするならば、これらが証明されなければならない。これを聞いたことがない。もしくは納得できる説明を、私は知らない。

 興味を持っていただく(ひっぱる?)ためにも、少し早いが、何点が疑問を列挙してみる。まず遺体。これがない。「遺体なき殺人」というわけである。焼失したため、といわれているが、本当にそれでいいのか? この時代、相手武将を殺害すれば、必ず首が必要となるはずだ。また、首どころか、遺体のカケラもない。木造なのに?

 また、アリバイはどうなのか?上述しているが、当日、光秀は午前9時頃京都に入ったものと思われる。それ以外にも、不審な点がある。どの劇やドラマでもそうだが、こういう会話がある。「殿、謀反でございます。(必ず、敵襲、とはいわない。)」「誰の手のものか?」「明智がもの(不思議だが、明智の、とは言わない)と見受けられます。」これはどういうことか。劇やドラマでは、廊下に飛び出した信長の目に、桔梗の紋が!これもおかしい。力関係を考えて欲しい。

 もし、光秀が信長と同等か、ほんの少し劣る程度であれば、また、根回しが済んでおり、信長殺害を成功すれば、この行動に加わるものがたくさんいるというのなら、これはわかる。だが、そうではない。「本能寺の変」は完遂したのに、光秀は孤立したのだ。援軍はなかった。そういう状況であれば、まず、光秀は殺害を実行してから、自らの存在をアピールするはずだ。つまり、うれしそうに旗を立てて攻め入るはずがない。光秀は信長が怖かったはずだ。だから一番大事なのはスピードだ。誰にもじゃまされないように。忠臣蔵でもそうであるが、あんなに目立つ格好をして、太鼓を叩きながら押し入る奴はいない。ばれるからだ。だから、赤穂浪士も、忍者のような黒ずくめだったのだ。本当である。

 また、この後信長は何と言うか?「是非に及ばず!」これは何を意味するのか?自らを狙う奴がいるのに、それが誰でもいいというのか?こんなわけのわからない会話を、何故いままで理解したままなのか?また、動機は何なのか?これをきちんと説明している史実も、歴史書も、実は一つもないのである。そんなバカな、とお思いでしょう。これも後述して行きたい。では犯人は誰なのか?(音楽とともにフェード・アウト)次回もサービス・サービス!
 信長殺しは光秀ではない!B
 さて、明智 光秀とはどういう人であったのか。明智 光秀(1528?−1582) 清和源氏の流れである土岐氏が、明智光秀の出自であるといわれている。しかし正確なことはなにもわからない。生年も、「明智軍記」からの逆算であるらしい。ところが、この「明智軍記」江戸時代にかかれており、信用性にはいささか欠けるものがある。ただ、資料が少ないもので、こういうものに頼らざるを得ないのである。軍記によると、斎藤道三に仕えていたが、義龍との戦いに敗れ、浪人の後、朝倉義景に仕える。足利義昭が越前に逃れてくると、織田信長への使者を務める。その後、義昭を見限ると、織田信長に仕えることになる。

 さて、ここでもウソだらけなのである。まず、浪人生活をするのだが、浄瑠璃によると、彼は浪人中、困窮生活をするが、仕官の際、恥をかかないようにと、妻が自らの髪を売って接待したり、武具や馬揃えをする。なんですって!これ、山之内一豊の妻のパクリ?彼の妻の髪の毛が、何十mあったか知らないが、そんなもの買える訳ないじゃないか。それと、この頃は身分制度があり、たとえ金があっても、武具や馬は買えない仕組みになっている。まあ、浄瑠璃はいいとして、浪人が朝倉に仕官後、いきなり将軍とつながり、しかも使者。それも信長に征夷大将軍の就任要請に行くのである。何の手柄もなしに?どう考えても、将軍家とコネがあり、藤川などの公家とパイプを持つ浪人って一体? つまり、光秀はどう考えてもかなりの名家の出であるということ、そして使者に立つ時点で、義昭の家臣でなければならない。だって、官位を与えに行くんですよ。信長より上か、同等じゃないといけない。しかも、織田信長が、「明智光秀 殿」と記した書簡も残っている。つまり、将軍家直属だったのだ。これでは信長も敬意を払わないわけには行くまい。この後、光秀は義昭を見限り、信長の元へ。ここで信長は、光秀にいきなり近江国滋賀郡を与え、坂本城主とする。城主になったのは、秀吉よりも先である。しかも与えられた所領の大きさも、重要性もまるで違う。そして、光秀は、ここから連戦連勝、負け知らずのまま、中国攻めを命じられるのである。これで、光秀が謀反を起こす理由がどこにあるのだろう。

 理由としてあげられているのは、

(1)怨恨説。これにも諸説があり、1.「酒が飲めぬか」と刀をつきつけられた
                 2.人質になっていた母を信長が見殺しにした 
                 3.家康の饗応役であったが、料理に難癖をつけられた
                 4.武田征伐の際、皆の前で恥をかかされた 
                 5.中国征伐の際、所領を取り上げられた
(2)野望説
(3)恐怖心説
(4)足利義昭の命令
(5)四国説
(6)諸将陰謀説         豊臣秀吉、徳川家康、織田信忠、細川藤孝など。

 この他に、光秀は山崎で死ななかった、というものまである。これら、特に恨み説は、ほとんどが江戸中期に書かれたものであるため、信用性が全くない。また、将軍家や公卿衆の記録にも、これらのことは一切書かれていない。では、誰が、何の証拠で彼を犯人にしたのか。ところが、唯一、比較的に客観性を持って書かれた文書があった。宣教師ルイス・フロイスによる、「日本史」である。ここには何が書かれていたのか。               つづく。
 信長殺しは光秀ではない!C
 イエズス会の宣教師、ルイス・フロイス(1532-1597)はポルトガル人である。インドのゴアでフランシスコ・ザビエルらの影響を受け、布教のため来日する。平戸から京都入りしたフロイスは、保護者と頼んだ足利義輝と幕府に失望、当時仏教会と対峙していた織田信長と出会う。両者にはそれぞれの思惑があったからなのだが、好意的な関係を築いていくこととなる。巡察使ヴァリニャーノの命により、イエズス会の活動を記録する。この記録が、後に「日本史」と呼ばれることになる。これはフロイスが、自身の見聞を記録したものであり、前に述べたような日本の書物とは性格を異にする。しかしながら、比較的、と前回で紹介したように、自我礼賛の部分があるのは否めない。いずれにしても、はるかにましではある。

 もう一つ、この記録の重要性は、じつは本能寺の隣にセミナリオ(神学校)があったことである。この建物は、信長によって建立された。本能寺に隣接する地上3階建て、このロケーションは、本能寺の変を、つぶさに観察できる唯一の場所だったのだ。なんだ、じゃあ答えはここにあるじゃないか、とお考えの皆さん。なぜかこの本の原本は、なぜか行方不明であった。写本はポルトガルで散逸してしまっており、原本はマカオで焼失してしまった。(この時代におけるマカオの価値は後述する)その後、19世紀になって写本が不完全ではあるが、あちこちで発見され、不完全ながら編纂されることとなる。だが、である。ご期待どおり、なぜか「本能寺の変」の記述の部分だけが、どうしても見つからないのである。ただの1ページも!フロイスがいた時代にとって、このクーデターともいえる「本能寺の変」はまさしく「日本史」の中核をなす部分である。また、巡察使の命令で作った記録が、なぜローマにないのか?あるいはありながら、隠しているのか?もし、「本能寺の変」をあえて廃棄するか、かくしているのだとしたら「本能寺の変」と「イエズス会」とは、無縁ではなくなる。すなわち、実行犯であったか、犯行に参画、協力したかのどちらかである。さて、本能寺が火災発生してから、焼失するまで、わずか2時間程度であったという。信長や側近の遺体も完全にわからないほど、本当に燃えつくしたのだという。これもおかしい。当時、敵将を倒すと、必ず首級が要る。これは絶対に要る。明智光秀の首級も、長い間晒されたと言う。(ただ、元々腐敗しきっていたという。正直誰のだかわからなかった位に。だから天海説も出たといわれている。)明智の軍勢はかなりの間、探し回ったらしい。そして結局見つけられなかった。本能寺は木造である。いくら火の勢いが強かったとしても、ここまで短時間に、遺体もわからぬほど燃え尽くすだろうか。これは明らかにB級化学火災、石油や火薬等による火災だったのではないか。

 もう一つ、本来なら明智軍は、信長の首級を取るか、最悪でも死亡確認を取らなければならない。なのに、火を付けるわけがないではないか!城攻めをしてるのではないのだ。では、火を付けたのは誰か?それはこのクーデターにおいて、自らの存在を消去したかったものがいることを物語る。それは一体誰なのだ?さて、ここでマカオについて語らなければならない。信長や、武将達が、キリスト教を必要とした理由は何か?そして、マカオには何があるのか? 続きは次回に!
 信長殺しは光秀ではない!D
 私がマカオに行ったのは、もう20年以上前のことだ。バブルの真っ最中のことだ。香港からマカオへ、ホバークラフトで行く。今は中国領だが、当時はポルトガル領であった。マカオは、持っていたイメージとは違い、鉛色の空、まとわりつくような湿気と暑さ。観光で回った聖ポール天主堂は、壁面を除きすべて焼失していた。グランプリコースは普通の道路だった。さて、お定まりのカジノへ。カジノを擁したホテル群が立ち並ぶ、それと交互に質屋と貴金属店がひしめくように並んでいる。いやな街だ。車券販売機の横に、銀行とサラ金のATMがならんでるよう。欲望がまるで剥き出しである。

 リスボアホテルへ。ラスベガスを想像して行くと、カルチャーショックを受ける。確かにいるのだ。ルーレット台の横に、きらびやかに着飾った男女が。その横に、観光客の群れ。そして、開襟シャツに擦り切れズボン、ゴム草履のオヤジ。そのだ競馬や、岸和田競輪場にごろごろいるあの輩である。それが並んで打っているのだ。少ないタネ銭を持って。

 「本能寺の変」当時、ここはポルトガルの、アジア貿易の拠点であった。そしてこのマカオを、ムダ話とともに紹介したのには、わけがあるのだ。当時、ここの港から、ある物が、日本に向けて輸出されていたのだ。これを武将達は、躍起になって手に入れようとしていた。もちろん信長も。だいたいおかしいと思っていたのだ。なぜあの信長がキリスト教徒などを庇護する必要があったのか。私は信長はプラグマティスト(極端な合理主義者)だと思っていた。だから禁忌を破ってまで、理屈の通らない一向宗や比叡山を攻撃したのだ。なのに、なぜキリスト教徒を庇護したのか。この答えは、簡単である。信長を一躍有名人に仕立て上げたのは、「桶狭間の戦い」であるが、戦略家として時代を変革したのは「長篠の戦い」だ。彼は国友衆に命じ、いち早く鉄砲の生産に着手した。戦力増強のためだ。だが、これではキリスト教徒は必要ない。そう、信長や、諸将がのどから手が出るほど欲しかったもの、それは火薬である。鉄砲の生産は国内で出来た。しかし火薬は作れない。それは......火薬の原料となる煙硝(硝石)が、日本には全くないのだ。そして、その硝石は、ポルトガル・スペインから、マカオを経由して入ってきたのだ。もっとも、日本に入った硝石の原産国は、メキシコや南米の国々だった。日本人はそれを知らず、経由地であったマカオを、原産国と思い込んだのだ。そして、キリスト教徒と友好関係を結ぶことは、このルートに繋がることだったようだ。だから、当時の諸将、例えば高山重友は、「ジュスト右近」、池田恒興は「シメアン」中川清秀は「ジュニアン」などと洗礼名を持ち、クリスチャンに改宗していった。そりゃ、精神的なものも少しはあったかもしれない。「教示宗教」なんて、異質なものだから。

 余談になるが、学校で習った、「徳川幕府の鎖国」、あれ何て習いました?私は、「儒教思想とキリスト教の個人主義は相容れず......」という風に習いました。でも、違うんだそうです。当時(三代家光の頃)徳川幕府の権力は、決して磐石な物ではなかった。そして、外様大名、例えば島津と前田の2者を合わせただけで、石高は幕府を超えてしまった。しかも、中央集権を徹底させるには、あまりにも距離があった。当時、特に島津は南蛮貿易が随分盛んであった。そこで、島津や前田など、力のある諸将を押さえ込むため、硝石の流入を止めたかった。これが本当の鎖国の理由だそうです。おかしいとは思ってたんだ。

 で、信長の話。信長はわかっていたはずである。何をか?キリスト教が唯一神信仰であることを。偶像崇拝を禁じていることを。なのに、何故自ら「神」を名乗ったのか。このことで、キリスト教徒は彼から離れて行くのに。その答えは、あくまで私の想像である。「本能寺の変」の時、実は堺には信長艦隊が勢揃いしていた。それも「お目見え」である。これは四国説にある、長宗我部征伐のための船揃いだと言われている。しかし、そうなのか?これは、信長が独力で「マカオルート」を獲得するための、出撃準備ではなかったか。自らを「神」と名乗った男に対し、またアジア貿易のルートを侵すものとして、信長はもうキリスト教徒にとっては、完全に敵対勢力となった。動機はもう十分である。後は「実行犯」だったのか「協力者」だったのか、と私は思う。そして彼らは、このクーデターを、神学校の3階から見下ろしていたに違いない。では、犯人は、本当に彼らなのか?実は、「本能寺の変」のこの日、堺にもう一人の男がいたのだ。
それは......徳川家康である。この日彼は、ここで何をしていたのか?   
 信長殺しは光秀ではない!E
 1963年11月22日。テキサス州ダラス市内で、ケネディ大統領は市内をパレード中、何者かによって狙撃され、暗殺された。実はこの日、ダラスには、後に大統領となるジョンソン氏、ニクソン氏がともにいた。もちろん実行犯ではないが、彼らはダラスで何をしていたのだろう。「本能寺の変」の数日前、徳川家康は安土城を訪れ、信長と面会している。その後、家康は、安土城を辞し、三河へと帰るはずであった。そして信長は京・本能寺に数百のお供とともに向かうのである。なのに、三河に向かったはずの徳川家康は、「本能寺の変」当日、堺にいたのだ。堺は言うまでもなく、豪商の町であり、当時は一種の独立国に近い存在であった。まあ、今で言う、政府系金融機関のような役割を担っていた。そして、忘れてはならないのは、九州を除くと、唯一のマカオからの開港場であったのだ。これは何を意味するのか。当時の堺での貿易独占権を、信長や家康、その他大勢が水面下で狙っていたのではないか?しかし、事態は急変してしまう。信長死亡の報を受け取るのである。さて、ここで普通とられるのは、どういう反応が正しいのか?@「尾張の兄」「三河の弟」の関係なので、すぐに本能寺に駆けつける。A堺にとどまり、ここの情報収集能力を利用しつつ、諸侯と連絡をとって対応を決定する。Bすぐに安土城に戻り、対応をまつ。Cとりあえず三河に戻り、どうするか考える。少なくとも、信長の家康への対応は、他とは違うように思う。常に家康を立て、決して下風に置く対応をしていないのである。随分大事に扱っている。家康はどうか?彼は、その不幸な生い立ちからだろうか。無闇に他人を信用しない。心を許さないのである。その分、家臣への信頼はとても厚い気がする。殻にはいったカタツムリを連想するのだ。

 さて、彼はCを選択する。伊賀上野から三河に向かって、一目散に逃げ帰るのだ。この時、この逃亡を支えたのが伊賀衆であり、服部半蔵なのだ。江戸城に「半蔵門」があるのは、この時の功績のためだ。だが、である。信長は死んだのだ。政権中枢を狙うには絶好の機会ではなかったか?京へは、当時は阪神高速も無く名神もなかったにせよ、さほど遠い道のりではない。だが、そうはしなかった。それどころか一目散である。こうなると、仮に光秀が犯人であった場合、共犯である可能性は低い。では主犯であった場合、恨み説ならいざ知らず、野望説では行動が矛盾してしまう。家康が信長を恨む理由はなにか?それは、長男信康と、正室築山を切腹させられたことと言われている。しかし、これは戦国の常。信長を殺すまでの動機とはなりづらい。ではなぜ逃げたのか。それも一目散に。主犯とは考えにくいが、やはり事件のカギを握る「何か」が家康にあったと思うのが自然であろう。この事件は、なぜこうも謎が多いのか?本当に光秀は、信長を殺したのだろうか? つづく
 信長殺しは光秀ではない!F
 2年ほど前になるのか、姫路市立美術館に「魯山人展」を見にいった。展示品の中に、たくさん「織部焼」と書かれた陶磁器があった。鑑定団ではよく「織部ですねえ。」というセリフを聞いてはいたが、私はあまり詳しくないので、その時は漠然と見ていたように思う。古田 重然(左介)1544-1615  戦国〜江戸時代の武将。茶道に通じ、利休の茶道を武家風に完成させる。また「織部焼」は有名であるが、武将としても織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕え、数々の戦績を残している。利休の後継者として、全国の武将大名に多大な影響を与える存在であり、その影響力と、反骨精神が旺盛なことから、徳川幕府から怖れられ、ついには冤罪を着せられ切腹を命じられた。織部はこのことについて一言の釈明もせず、自害したという。

 さて、これが週刊モーニング連載中の「へうげもの」の主人公、古田左介である。この作品では、小心な、茶の湯好きの数寄者として描かれている。が、同時に、この頃の諸大名がいかに躍起になって茶道の名器と呼ばれるものを好んだかまた、低い身分から出世したり、無骨一辺倒な者がコンプレックスにさいなまれたか如実に記されている。例えば、松永久秀は、名器を道連れに爆死するぐらいである。

 さて、これは後述するつもりであったが、安土城は山崎の合戦後、焼失してしまう。織田信雄が放火した、とか、明智光秀が焼き払った、とか言われているが、真実は定かではない。ここには信長が権力を尽くして収集した名器名品の数々があったはずだ。そしてこれを手に入れることは、当時の大名のステータスであったはずだ。いくら「あほう」と言われた信雄でも、こんなことはするまい。また、「へうげもの」では、光秀は家臣に、城にあるお宝を自由に分け与える。信長が創ったものすべてをなくし、生まれ変わらせるために。だが、これもおかしい。(山田先生、スミマセン。)この時、光秀は、各大名を自分方につけたくて躍起だったはずだ。この品々を恩賞・褒美として懐柔したはずだ。みすみす散逸させるはずがない。また、この城に入城し、クーデターの勝利を宣言しないと、「本能寺の変」は完結しないではないか。この城を焼く理由なんかないのだ。さて、このマンガは、「秀吉黒幕説」を提唱している。次回は「秀吉説」を検証して見ようと思う。つづく
 信長殺しは光秀ではない!G
 中学生の時だ。帰りに毎日祖父の家に寄る。夕方5時頃には、晩飯を食いながら、ビールを飲んでいる。私がお膳に座ると、祖父はビール瓶をドン、と置いてくれる。(もう時効でしょ。)そのビールを飲みながら、ラジオを聞く。その時間は、講談をやっているのだ。その講談で、山崎の合戦に向かう、秀吉の姿が演じられていた。「尼崎の段」とかいったと思う。みそすり坊主(これ何?)に変装して、太閤秀吉が明智の追っ手から隠れ、難を逃れる、というような話だったと思う。大阪の人間にとって、太閤秀吉は「ヒーロー」だった筈だ。なのにこの時、私は「変な話だなあ。」と、違和感を覚えた。私には、秀吉が追われる理由がわからなかったのだ。前回でも紹介した「へうげもの」でも、秀吉共謀説を唱えている。なるほど、疑問点は非常に多い。例えば
@信長の死を知ってからの行動が早すぎる。和睦と移動、姫路での財産処分、尼崎での各武将との合流など、あまりに迅速である。秀吉は備前高松にはおらず、堺か尼崎にいたふしがある。(もし尼崎にいたのなら、講談の意味はとても理解できるものになるのだが。)
A情報戦が得意である。本能寺の変を、逆に利用して檄文を飛ばしたり、諸将を抱え込む工作が見事だったのだと思う。
Bいわゆる「清洲会議」以降、出席者が3年以内に全て死亡している。

 しかし、主犯説ではない。私も主犯ではないと思う。その理由としては
@怨恨説    信長に対しては、特にうらみを持つ理由がない。よって×。
A野望説    天下を取りたい、という野望はあったはずだ。ただ、それが信長を殺してまで、というのは考えにくい。
B恐怖心説   これは微妙ではある。「へうげもの」では、恐怖心を光秀に植付け、決心させるわけだが、秀吉が信長に恐怖心を抱いていたか? これも考えにくい。あの信長をなめている、という表現はおかしいが、心としては繋がりあい、理解しあっていたと思われる。これは私の観念であるが、信長は光秀に対して、信頼しきっていたと思っている。いわゆるビジネス・パートナーのようなものだ。

  私には、秀吉が信長を殺す動機は、残念ながら無いのではないかと思う。むしろ、秀吉にとって、信長は、その夢の全てだったのではないか。だから、取って代わろうなどという野望は、到底持たなかったはずだ。天下人になってからの彼は、信長をトレースするかのように茶の湯に興じ、朝鮮征伐を行った。信長に近づこうとし、追いかけ続けた。安土城で信長と地球儀を眺め、マカオへ、マニラへ、そしてヨーロッパへと夢を語り合った時間を、彼は死ぬまで追い続けたのだ。秀吉は贅沢の限りを尽くしたが、決してしようとしなかったことがあった。決して安土城より大きな城を作ろうとはしなかったのだ。
 信長殺しは光秀ではない!H
 元々、光秀に興味を持ったのは、高校時代。辻邦生氏の「安土往還記」を読んだ時。織田信長がすばらしい経済学者だと感心しました。辻先生には怒られるかもしれんけど、あれは恐怖説ですよね。怖いと言うんじゃなく、信長の「期待」という名のプレッシャーに押し潰されていく。ものすごく共感しました、その時。ほんとに人はこんなことで謀反を起こせるのか、なんでこんなこと、してしまったんだー、って。その後、いくつかの書物で、陰謀説や黒幕説、そして冤罪説を読みました。うれしかった。信長は光秀が殺したもので無ければならないと思っていた私にとって、「違うと思ってもいいんだ!」陽が差し込んだ瞬間であった。

 話を光秀に戻そう。光秀の動機、ならびに陰謀、共謀者と言われる数多の人間の動機については、すでに述べた。では、光秀にアリバイはあるのか?という点である。実は、ほとんどの史家、書物が光秀の犯行であると決め付けているため、意見の違うものが見当たらない。つまり、光秀は、亀山(現亀岡市)を6月1日に出発、老いの坂で国道9号線を右折「敵は本能寺にあり。」という科白とともに京都方面に向かう。そのまま信長の投宿する本能寺を急襲し、信長を殺害、放火する、と。ちなみに、「敵は本能寺にあり。」という科白は、当たり前のように言われているが、これを最初に言ったのは、江戸時代の歴史家、思想家の頼 山陽であり、光秀はこんなこと、全く言ってはいない。

 さて、「兼見卿記」(吉田神道)によると、実は光秀が京都に入ったのは「午前9時頃」と記している。もしこれが真実なら、彼は犯行終了後に入洛したことになる。この書物では、こういうスケジュールになる。

@午前7時   本能寺炎上。信長行方不明。引き続き二条御所包囲。
        誠仁親王御所へ動座。信長軍と包囲軍交戦。
A午前9時   明智光秀 入洛。
B午後2時     〃  出洛。
C午後4時   瀬田大橋に現れる。
D午後5時   三千余の軍勢のみで坂本城に帰城。

 この説を検証していくと、従来の記録の矛盾点がいくつもでてくる。まず@  これは光秀が9時到着という前提でお考え頂きたい。と言うのは、光秀軍が本能寺に火をかけ、(遺体の件で、これはありえないと書いた)そのまま二条城へ押しかける。だが、これを先回りする形で、里村紹巴が誠仁親王を逃がしているのだ。これでは、里村紹巴があらかじめこの犯行計画をすべて把握していたとしか思えない。この里村紹巴は、あの愛宕山の連歌師である。光秀が真犯人でないとすれば、この男はなぜ犯行計画を仔細にしっているのだ!もちろん電話もケータイもまだありはしない。

 次にA  光秀がこの時間に入洛したとすると、全ての犯行終了後に到着したことになる。これを裏付けるのが、あの愛宕山の連歌である。彼は5月28日に連歌を行い、一泊して29日下山となっている。しかし、この日はどしゃ降りの雨だったのだ。この時代、道路はもちろん未舗装である。また、愛宕山は標高924m。京都市内周辺では一番高い山である。これを馬で下山できるわけがないのだ。つまり、愛宕山出発は、翌1日(旧暦なので)しかも夕方まで雨だったと記録にある。この通りだとすると、1日深夜かあるいは2日未明に、彼は亀岡に到着することになる。だが、反乱軍は2日の5時頃にはすでに攻撃を始めているわけなので、亀岡はもぬけのからである。それをみて、あわてて京へ駆け戻ったのなら、つじつまは合う。だが、もしこの変を彼が企てたのなら、命を賭けた大博打であることに間違いは無い。現場で指揮を取らないはずはないのだ。だから、この犯行は、彼が知らないうちに起こり、完結していたのだ!

 Bそして状況がわからぬとなれば、彼が向かう先は安土城しかない。善後策を検討するためだ。今何が起こっているのか?どう対処すればいいのか。羽柴秀吉は備前高松。柴田勝家は越中富山にいる。信忠は消息不明。信孝は堺にいる。彼が中心となって対策を練らねばならぬ。ところが、ここに、もっとわけのわからない事態が発生する。瀬田の大橋に到着したところ、山岡影隆が橋を焼き落としていたのだ。それがCである。世間では、大逆人光秀を、安土に行かせないためにした、という。

 ばかばかしいにも程がある。この時代、テレビもラジオも、電話もないのだ。しかも、信長が殺されるなど、誰が想像できただろう。遺体すらわからない。こんな状態で、光秀軍と対峙したら、「何事?」というのが普通である。「何が起こったのか。殿はどうなのか?」こう尋ねるのがあたりまえである。光秀側につくか、秀吉側につくか、このあと諸侯は何日も悩むことになる。その理由は、事の真相が掴めなかったからだ。何より、信長の安否が。この状態でなにゆえこの男は大橋を焼いたのか。「急がば回れ」とでもいいたかったのだろうか?ともあれ、光秀はD坂本城を目指すこととなる。えっ?どうして?本城は亀山なのに、亀山には帰らないの?坂本に何しにいくの?亀山の手勢を連れて、坂本に行ったのは何故だろう。もうこれで、光秀は帰るところをなくしてしまうではないか。あくまで仮定である。仮定ではあるが、一つの前提が狂っただけで、矛盾点が山のように噴出してくるではないか。一体、「本能寺の変」の真相は何なのだろう。「犯人は光秀。」で終わる話では、とてもないのである。つづく
 信長殺しは光秀ではない!I
 最近、とみに目が悪くなってきた。言わずと知れた「老眼」というやつである。もともと私は目はいい方だった。それが大学3〜4年時に急に悪くなった。原因は勉強のし過ぎ......では無く、寝転んで本を読んだためだ。横向きで寝転んでいたため、左目だけが近視になった。そして、35歳を過ぎた頃から、急に新聞が読みづらくなった。それで競馬をやめた。40代も半ばを超えると、乱視もひどくなり、半年に一度はメガネを交換する必要がある。情けなく、辛い話である。

 そもそも、光秀には動機もなければ、アリバイもあるということは、既に述べた。あとは、証拠である。@現場に光秀がいたという目撃証言 A犯行声明 B事前謀議

 さて、@の目撃証言であるが、これはどの書物にも記されていない。犯人であるというのは、例の「明智が者と見受けられます。」という表記のみである。つまり、「明智が者」と見受けたが、やっぱりそうであった、あるいは本人に聞いたら「そうだ。」といった、というような記述はどこにも無い。つまりAの犯行声明も含め、「明智がいた。」「明智がやった。」という記述はなく、「明智が者......」の表記以降は、「さて犯人の明智は......」に突然なっている。

 では、この「明智が者」という科白について検証しよう。この科白は、森蘭丸(本当は乱丸)が信長に向かっていったものである。というのは、犯行時間を考えて頂きたい。6月2日という日は、新暦では7月1日である。が、いくら初夏とはいえ、犯行開始時間は午前5時頃。私達は旗指物を見たと、勝手に思い込んでるのではないか。「白紙の四手しない(白紙たて一枚に切り目を入れた旗物)に桔梗の紋」これを森蘭丸は確認したらしい。だが、この当時、手漉きの美濃紙全紙を用いたとして、手漉きの枠は30〜70cmであるらしい。ここに桔梗の紋を入れたとしても、最大60cm程度。本能寺の周囲が1.2km平方なので、信長のいた場所を中央としても、掘割の1m80を加え、600m以上の距離となる。これを計算すると、たとえ紋が1mあったとしても、見える大きさは約3cm。60cmだと1.8cm。よく考えて欲しい。いくら初夏とはいえ、朝の5時に、薄明かりの中で1.8cmの大きさの紋の柄を判別できるかどうかを。また、本当に反乱軍がそのような紋の入った旗を立てて攻め込むかどうかを。

 では何故、森蘭丸は、これを判別できたのか?何故「明智」と言わず、「明智が者」と言ったのか。答えは、消去法だったのではないか、と思っている。つまり、いまここに来ることが可能な人間は誰なのか、ということである。当時、関東派遣軍滝川方面軍は上州厩橋。北陸方面軍の柴田隊は富山魚津で交戦中。中国方面軍の羽柴隊は備中高松で包囲中。四国派遣軍の丹羽隊は、住吉浦から出発。つまるところ、兵力を集結していながら、まだ進発していなかったのは、中国援軍の明智隊以外、残ってはいなかったのである。だから「明智」ではなく、「明智さんとこと違いますやろか?」というニュアンスだったのではないか。また、信長も、「なんやと!」ではなく、「どーでもええわい!」というような返事になったのだ。これなら理解出来なくもないではないか。この会話を、以降の歴史解釈として、「光秀が犯人。」という結論に至ったのであれば、これは証拠ではない。明らかに冤罪である。また、どの書物にも「わしがやったった。」という記述がないのもうなづける。

 さて、Bの謀議である。いみじくもクーデターを起こそうかという人間が、何の根回しも行わず実行するだろうか。まず戦力を計算しなければ、たとえ成功しても孤立してしまう。それとも、信長を殺しさえすれば、全員が光秀を後継者と認めるとでも思ったのか?そんなことはありえない。時は戦国時代である。また、細川は親戚筋であるし、筒井や中川、高山らの誰もが味方しなかった。国会でも事前に票読みしてから採決に入るではないか。命がかかっているのに、こんな行動の仕方をする奴はどこにもいない。ところが、である。前回述べたように、もし光秀が犯行を行わず、そして何も知らず午前9時に京に現れたとしたら?やはり中国出陣どころではない。クーデターの真偽を確かめねばならぬ。だとすれば、やはり向かう先は、安土しかない。安土へ向かう。だが、瀬田で足止めを食ってしまう。その頃、自分の犯行であるという風説を耳にする。ここで初めて、光秀は迷ったのではないか?安土へ向かうか?坂本へ行くか?坂本へ向かったのは、自分の身に起こったことを、考えを整理するためではなかったろうか。一体全体、光秀を犯人に仕立て上げたのは誰なのか。何故歴史は、ここまで証拠がない人間を「犯人」にし続けたのか。つづく
 信長殺しは光秀ではない!J
 さて、ここにもう一人、犯人と目される人物がいる。いや、いらっしゃる、とでもいうべきか。信長は京都に、少しの供揃いのみで、一体なにをしにきたのか。一説として、秀吉の中国攻めの援軍として、自ら出陣するためという。本当なのか?なら光秀の出陣はなんのためなのか?もし上が本当なら、光秀が山陰側、秀吉が山陽道を進軍するとして、信長が山陽道に進行すれば、光秀はただの引き立て役になってしまうではないか。これでは、信長の「競わせる」意図は台無しになってしまうし、へたをすれば、光秀と毛利を結びつけてしまうではないか。しかも退路を断たれてしまう。こんなバカな作戦があるものか!

 信長は、何かを「一掃」するために、京都に来たのだと言う。それが「毛利」であったのか、「長宗我部」であったのか?ところがここに、「一掃されるのは自分達。」だと思い込んだ人達がいる。6月1日、つまり変の前日に、大挙本能寺におしかけた人々がいる。彼らは本能寺の玄関で、信長の門前払いにも屈せず、居座り続け、ついには信長も根負けして座敷にあげると、3時間も4時間も居座り続けた、という。そう、この人達こそ、京の公卿衆である。彼らはわざわざ大挙して何をしに行ったのか?交渉の内容は何だったのか?

 彼らは誠仁親王の代理で本能寺に行ったのだ。誠仁親王は、正親町天皇の皇太子である。そして、信長と皇室の関係はこうだ。室町末期、皇家の財政は逼迫し、権威も地に落ちかけていたが、1568年の織田信長の上洛によって、この状況が変わってくる。織田信長は天皇の権威を利用し、その敵対勢力に対してたびたび講和の勅命を出させることとなる。1570年の朝倉義景・浅井長政との戦い、1573年の足利義昭の戦い、1580年の石山本願寺との講和はいずれも正親町天皇の勅命によるものである。しかし、天正元年(1573年)頃から信長にその存在を疎まれるようになり、たびたび譲位を要求されるようになる。しかし、天皇はそれを最後まで拒んだ。そのため、信長は誠仁親王に急接近する。正親町天皇に譲位させ、親王を担ぎ上げようとした。信長が何かを「一掃する」目的で上洛したとすれば、それは真っ先に自分たちだ、こう誠仁親王や、公家衆は思い込んだに違いない。何しろ信長は自ら「神」を名乗ったのだ。皇室何するものぞ、と思わないと誰が言えるのだ。

 だから彼らは、信長に忠誠を誓わせるため、次から次に官位を与えた。だが信長は「右大臣」を投げ捨ててしまった。その上の「内相」を放り出した。そして「関白」をも拒否してしまった。実力者の信長が、何の官位も受けずにいることは、禁中としては堪えがたい脅威であり、圧迫である。なんとかして御所の官位の中に入れさせ、安全保障を求めたかった。なにしろ、クーデターでも起こされようものなら、ひとたまりもないのだ。そこで、禁中はすっかり音をあげてしまい、平清盛しかなったことのない「太政大臣」を信長のために用意した。しかし、これさえも近衛前久にあてるよう命令をだしてしまった。もうこうなれば、何も手がなくなってしまった。

 だから彼らは、信忠への縁談でも持って、縁戚関係でも築こうとでもしたのではないか。息子へのものなら、断るまい、このような思惑だったのではないか。だが、この申し入れすらも断られてしまったとしたら、彼らの恐怖心はピークに達したはずだ。もし、信長がそのような意志を持っていたとしたら、自分の融通の利く別の皇統をたて、幕府を立てたはずである。また、その実力は十分過ぎるほどあった。だが信長はそうしなかった。相手にする気すらなかったのだ。だが、彼らにはそれは想像することすら出来なかったであろう。自らを守ることしか頭になかったのだ。「信長さえいなければ......。」これが実行犯としての「動機」である。

 では、「アリバイ」のある光秀は、なぜこのクーデターの首謀者となってしまったのか。光秀は「当代まれに見る勤皇の士」として、正親町天皇に買われていた。だから光秀には、「本能寺の変」数日後に「征夷大将軍」の宣下が下っているのだ。その六日後に亡くなったため、出されなかったことになってしまった。

 つまり、こういうことなのではないか。誠仁親王を中心に企てられたクーデターには、別の犯人が必要となる。でないと、失敗すれば、信長によって、当然皇室は根絶やしにされてしまう。また、成功したとしても、信長の臣下全てを敵に回してしまう。そこで、光秀に白羽の矢が立てられた。彼はなにも知らず京都市中にやって来る。そこでクーデターを知る。驚いている彼に、禁中からお呼びがかかる。もちろんメッセンジャーは、あの里村紹巴である親王より、「征夷大将軍」の宣下が下る。勤皇派の彼である。事態の収拾に、信長臣下の自分が選ばれた、そう思ったのではないか。さて、4年後、これをネタに誠仁親王に対し、恐喝を働いた男がいる。豊臣秀吉である。誠仁親王は、はしかで死んだと言われているが、実は自害したらしい、と「多聞院日記」に記されている。子供の即位との引き換えである。「死人に口なし」となってしまったのである。
信長殺しは光秀ではない!K
 「明智光秀 連歌を催すこと」

 時はいま天が下しる五月かな    日向守

 水上まさる庭にまつ山       西之坊

 花おつる流の末をせき留めて    紹 巴  

 これがいわゆる後世に、犯行声明とされる句である。このあと合計で百の句が詠まれる。これが「愛宕百韻」である。この句をして、後に「土岐氏の末裔である明智光秀が、謀反により天下をとる。」という決意表明と言われている。「時」とは『時=土岐』つまり土岐氏出身の明智家のことであり、「天が下しる」とは『天下をしろしめす、天下を知行する、天下を支配する』と言う意味となり発句としては『(土岐家出身の)明智家、すなわちこの光秀が天下を支配することとなる五月である』ということになる。すなわち光秀は天下を望んでいたという「野望説」に通じる事になる。

 しかし、これはどう見てもこじつけに過ぎないのではないか。「さあ、この五月雨の中、中国征伐へ出陣していく。時は今だ。」これはただ単に、この心情を詠っただけのものだ、という解釈こそが、普通だと思うのだが。もし、これが犯行声明であると仮定して、である。

1:連歌興行参加メンバーは「変」のある事を知っていた
2:連歌興行参加メンバーは「変」のある事を発句によって気付いた    

 このどちらであるか、ということである。1:の場合は、行祐の脇句にも『まさる(勝る)』とあるし、紹巴の三句に『花落ちる=信長が死ぬ』と言う解釈が成り立つ句が在るゆえ、光秀を応援していたと言える、という説。2:の場合は、有名な紹巴の『花が落ちて積もり水の流れを堰きとめる=御考え直しくださいませ』と言ったという解釈である。

 さて、前回も書いたように、里村紹巴は、早朝に誠仁親王を、誠にすばやく、安全に逃がしている。つまり紹巴はすでに犯行を知っていた、と書いた。これは上の事実からまちがいはない。しかも、だれにも報告や密告をしていない(誠仁親王は別)。ということはつまり、2であることはあり得ない。ということは1である。ここからしても、誠仁親王説が、かなり信憑性があることがわかる。

 だが、である。これが私の解釈した、「出陣の決意」でない理由はどこにあるのか。例えば、どの本も、明智光秀の出自は不明、と書いている。なのに、いきなり「土岐氏説」をここで支持している。このいい加減さはなんなのだ。だいたい「土岐氏説」は、岐阜の明智郡が土岐氏の領地であったという、ただそれだけのことなのだ。なのにこの「動機」の中核となす場面で、いきなり確定させてしまう。また、「敵は本能寺。」なんて言ってもいない事が、劇やドラマで毎回放送されてしまう。犯人像が、かってに作り上げられたのだ。この「愛宕百韻」については、どの本、劇、ドラマでも登場しており、「敵は本能寺」同様これが事実であるようにメディアが伝えてしまった。

 だが、冷静に考えて欲しい。こういう力関係がはっきり違うクーデターやテロにおいて、このタイミングで犯行声明を出す事が、はたして正常なのか?犯行は翌々日である。いくら携帯がない時代とはいえ、これは不用意すぎないか、と思う。通常は、クーデター終了後、もっと言えば本来は信長の遺体確認後に行うべきではないか?また、書き忘れていたのであるが、信長の遺体及び火災の事である。前にも書いたように、「信長の遺体回収」は、当時としては必須のことであるはずだ。誰が火を放ったのか?明智軍なのか?信長の家臣なのか。あるいはそれ以外か?問題はそこではない。その後明智軍は何時間にも渡って、遺体の捜索を行っている。ここから見ても、火を放ったのは明智軍ではないのがわかる。

 では、である。燃え盛る本能寺を、十分消火する事が可能な兵や将は、ただ眺めていたのか?一万三千人もいたのに?一体こんなばかなことばかり、何を根拠に信じてきたというのだ。

 信長殺しは光秀ではない!L

 さて、前々回の話であるが、信長は何をしに本能寺に行ったのか?「何かを一掃するため」の上洛だと書いた。そして、それは誠仁親王を始めとする、朝廷勢力ではないかと。ここにもう一つ、「一掃する」あるいは「一掃される」と怖れた人物がいるのだ。その人物は、自ら身の危険を感じ、急遽京都から堺まで逃げたと思われるふしがある。そう、徳川家康である。彼は京で明智光秀の饗応を早々に辞し、堺に移動したのだ。「怨恨説」で語られる、光秀の饗応の失敗は、江戸期以降で初めて登場する。つまり程度の低い作り話である。失敗ではないにせよ、秀吉からの中国援軍要請に応えて出動するため、饗応役を解任されたとすれば、まだ理屈は通る。では、饗応は無事に終了したのだ。なのになぜ逃げる必要があったのか。

 家康が京都にきた理由は「駿河国」を拝領したことへのお礼、と言われている。一見いい話のようだが、本当にそうか?というのは、拝領した段階で、信長と家康の間に、上下関係が生まれてしまう。いままでは強弱はあるにせよ、「同盟」関係にあり、あくまで「対等」であった。いくら不当な命令ばかり下ろうとも、「対等」な関係だったのだ。ところが、「武田征伐」の恩賞として、駿河一国を任されてしまった。上下関係が出来てしまうと、あの性格である。一度失敗すれば、どうなるものかわかったものではない。しかも、家臣達は信長を「上様」と呼ぶようになった。まあ、当然といえば当然ではある。が、京に呼びつけられた。しかも信長の息子達も、各部隊を与えられる将として成長しつつある。いつ自分の足元が崩れるかもわからない。そこへ「一掃」の話が入る。「それは自分の事か?」そう疑たがったのではないか。

 信長は京都からどこへ行くつもりだったのか?言われるように中国援軍か?四国の長宗我部征伐か?はたまたマカオへ行くのか。私は信長は、四国に行くつもりだったのだと思っている。三好勢と呼応し、長宗我部を征伐に行く予定だったのではないか。そうであれば、信長は、信孝の待つ堺へと向かうことになる。せっかく逃げたはずの堺に、信長が追ってくる。戦々恐々となる家康に、謀反の報が入る。だが真偽のほどはわからない。だが、ひょっとして、謀反でも、謀反でなくても、「一掃」するための軍が自分に向かってくるのではないか? そう考えると、情報の真偽を確かめる時間もない。とりあえず一刻もはやく安全な場所へ......。これが「神君伊賀越え」の真実なのではないか?

 改めて「一掃」の話をしたのには理由がある。もう一人、「一掃」に恐れおののいた人物がいるのだ。この人物とは誰であったのか?つづく
 信長殺しは光秀ではない!M
 前回の終わりで、「もう一人、一掃を怖れる人物がいる。」と書いた。だが、その前に、である。重要な問題が残っている。それは「では、本能寺に攻め込んだのは、誰の軍勢だったのか。」ということである。軍勢は約一万三千人。これだけの人数である。もう一度当時の状況について、おさらいしておこう。当時、関東派遣軍滝川方面軍は上州厩橋。北陸方面軍の柴田隊は富山魚津で交戦中。中国方面軍の羽柴隊は備中高松で包囲中。四国派遣軍の丹羽隊は、住吉浦から出発。すると、これだけの軍勢は、中国援軍のための「明智隊」しか見当たらないのである。だが、私は、明智光秀は「午前9時に現場に到着」したとかいた。では、総大将明智光秀の指示もなく、この軍勢を動かせる人物がいた、というのか。

 実はいたのである。彼ならば、この軍勢を光秀なしに動かす事が可能だったのだ。明智光秀の家老である、斎藤利三(内蔵之介)。彼は美濃斎藤氏の一族である。なぜ彼が、である。もちろん主犯ではない。誰かの命である。その命を出した人間は、一掃される事を怖れ、なおかつ秀吉や光秀、家康を上から見下ろせる、口出しできない立場の人間でなければならぬ。その人の名は、「奇蝶御前」。濃姫という名ならご存知か?

 奇蝶御前。濃姫という名で有名ではあるが、これは本名ではない。美濃から来た娘、という意味である。”まむし”斎藤道三の娘である。事細かくは説明しないが、彼女の存在も謎が多い。本能寺の変で、なぎなたを振るっているシーンが浮かぶが、あれは山岡荘八氏の創作であるらしい。あんな家庭的な妻は、この時代には存在しないのだ。奇蝶御前には子供がなかった。だから、信長が後継を考慮するについて、奇蝶御前は邪魔な存在だ、と考え、「一掃されるのは自分」と考えたというのは、突飛であろうか?それならいっそ、父の無念を、仇敵である信長を倒して、と考え、斎藤利三を選んだのだ。斎藤利三は、同じく「斎藤家再興」を、光秀のために用意したのではないか。よく言われるように、光秀に「謀反を思い止まらせる」のではなく、その逆だったのではないか。というのは一説に、光秀と奇蝶御前は、従兄妹同士であった、という説があるのだ。いくら謀反を促がしても光秀は動こうとはしなかった。その光秀でも、事が走り出してしまえば、動いてくれるのではないか。そう願ったのではないのか。

 もう一つ。斎藤利三には、この日でなければならない理由があったのだ。信孝が長宗我部征伐に向かうのが、6月2日だったのだ。前述したように、「ひょっとしたら四国征伐に向かうのは、信長ではないか?」そう書いた。いずれにせよ、信長は本気であった。しかし彼の母は長宗我部に再嫁し、その娘は長宗我部元親室であった。当初、信長が長宗我部と和解・同盟しようとした時、彼を使者に選んだ。そして、合意の直前、信長は翻意したのだ。これが光秀の「恨み説」のうちの、四国説である。光秀も当然恥をかかされたのには違いないが、私はもちろんこの説を支持しない。だが、斎藤利三が黒幕に背中を押され、決意したとしても不思議ではない。そして、この斎藤利三には、もう一つ、何とも言えぬ不思議があるのだ。
 信長殺しは光秀ではない!N

 斎藤利三には、もう一つの不思議がある、と前回の終わりに書いた。これはどういうことか、これを書く。1582年(天正10)、本能寺の変が実行されたとき、中国から引き返してきた羽柴秀吉との山崎の戦いでは先鋒として活躍するが敗れて逃走する。利三は秀吉の執拗な捜索により近江堅田で捕縛され、六条河原で斬られた。磔にされたともいわれる。首もしくは胴体は光秀とともに本能寺で晒されたと言われている。つまり、謀反人である。だが、この利三の娘「阿福」が、やがて江戸城の事実上の主権者となって現れてくる。そう、「春日局」である。

 春日局は丹波国(京都府)の生まれ。前半生は不明だが、父斎藤利三が処刑された後、彼女も他の兄弟とともに各地を流浪していたと考えられている。外祖父である一鉄の縁者で小早川秀秋の家臣稲葉正成の後妻となる。のちに夫の正成と離婚し、1604年(慶長9)に、2代将軍徳川秀忠の子、竹千代(家光)の乳母となり養育する。家光死後の貞享3年(1686年)に成立した『春日局略譜』によれば、将軍夫妻が竹千代の弟国松(徳川忠長)を溺愛している様子を憂慮し、自害しようとした家光を諌め、元和元年、駿府にいた大御所の徳川家康に竹千代の世継を確定させるように直訴したとされる。また、初の大奥総取締として大奥の制度を統率し、将軍の権威を背景に老中をも上回る実質的な権力を握る。1629年(寛永6)には、家光の疱瘡治癒祈願のため伊勢参拝し、10月には将軍の名代で三条西実条の妹分と称して無位無官の身で朝廷へ参内。後水尾天皇や徳川和子に拝謁し、従三位の位と「春日局」の称号、天杯を賜る。後に従二位に叙られる。どうです。とても謀反人の娘の経歴とは、思えないものがあります。まず第一に、採用された理由。採用されたのは一般公募だそうだ。なんの話だ?将軍の子供の乳母を一般公募?ほんとなの、それ?

 第二の理由は将軍家康への直訴についてである。乳母に過ぎない身分の者が将軍世継ぎ問題で家康に直訴したとしても、通常家康が会うとは考えにくく、お福がかつて愛妾の一人であったと言う話もあるが定かではない。ここから「家光実母説」も生まれている。
第三の理由は、朝廷への参内。謀反人の娘で、無位無官という、これ以上ない立場の人間がなぜ参内を許されたのだろう。京都で三条西実条に奉公していたともいわれるが、これでは理由にはならない。では理由は何か。斎藤利三と誠仁親王が結託していたとすれば、どうか。家康が幕府を開き、次に権力を絶対的な物にするため、朝廷と婚姻関係を結ぼうと考えた。そのときの交渉者が、天海と新上東門院(夫は誠仁親王)であった。新上東門院は、秀忠がまだ将軍になっていないことを理由に婚姻を断ろうとしたが、天海の交渉に、断れなくなったのだという。もし、婚姻相手が、家康と斎藤利三の娘の子供、といわれたとしたら、果たして断れただろうか。これも「実母説」の理由となっている。だが、第13回でも述べた、「家康一掃説」から見れば、事は単純となる。共犯者か、あるいは結果的に自分の命を救った、「大恩人」の娘、だと考えると、事は簡単となる。「春日局」は、当然の待遇といえるのだ。

 信長殺しは光秀ではない!O
 第14回、15回でも書いたように、ここでひとつだけ確定した事がある。このクーデターの実行犯は、斎藤利三であった、ということだ。つまり、本能寺を襲撃した軍団、その1万3千人を統括し、粛々と完遂させる事が可能だったのは、明智光秀を除いては、斎藤利三以外有り得なかった、ということである。軍隊はただ動くわけではない。作戦を立案し、指示を徹底し、統括しなければ、それこそ大混乱である。だがそうではなかった。わずか数時間で完結させたのだ。しかも、である。利三が自分のためか、光秀のためを思ったのか、黒幕のためかはわからないが、あの信長に弓を引くのである。一瞬のうちに成功させる事ができなければ、それこそ皆殺しである。だから、この作戦を実行させたクーデターの実行犯は「斎藤利三」その人だったのである。

 では、どのように指示、徹底されたのか。つまり、1万3千人もいれば、一兵卒から将兵、指揮官まで、色々な人間が存在する。彼らは斎藤利三に、何といって出撃命令をされたのか?攻める場所は「本能寺」である。そこに信長がいることを知らなかったのだろうか。もし知っていたとしたら......全員が足並みを乱すことなく作戦を遂行できただろうか?時は戦国である。自らの出世や保身のためには、何だってやった時代である。しかし、いくら戦国時代とはいえ、「主君殺し」が大義となるわけはないのだ。もし、「敵は信長!」なんてことを言っていたら、大騒ぎになる。これが坂本衆3千だけ、というならば話はわからなくもない。すべて子飼いだからである。内密に周知徹底も可能だろう。だが、1万3千という数と、なによりこれが中国援軍のための編成軍であることを考えると、これは不可能である。逃亡や離反、分裂は避けられないはずだ。だから必ず「大義名分」は必要である。確固とした目的がなければ、兵は動かないからである。まして「信長討伐」などというのはしゃれにもならないではないか。一体、斎藤利三は、どんな魔法を使ったと言うのだ。
 信長殺しは光秀ではない!P
 では黒幕は誰なのか?今までに容疑者として私が挙げたのは5名。豊臣秀吉、徳川家康、誠仁親王、奇蝶御前(濃姫)、そしてイエズス会である。このうち、豊臣秀吉と、イエズス会については、他の3人に比べ、斎藤利三との係わりにおいて弱いのではないか。特に、秀吉と斎藤利三との係わりは薄いと見なければならない。

 もう一人、奇蝶御前についてはどうか。実は「安土城」を炎上させたのは、この奇蝶御前の火葬なのではないか、という説がある。よく「城と共に討ち死に。」というのがあるが、あれは単なる自害ではなく、城主として城を自らの火葬場としたのだ、という話である。信長は死んでいる。従って、奇蝶御前を城と共に火葬したのだ、という説である。こんなことが囁かれるほど、「安土城」が炎上した理由は謎なのだ。これがもし立証できるのであれば、「奇蝶御前一掃説」はかなり有力なものとなる。がしかし、実は奇蝶御前については、出生や経歴を含め、詳しいことがわかってないのだ。存在したかどうかすらわからないという説もある。したがって、いささか理由にならないが、証明のしようがないのである。可能性がある、という程度にとどめるしかないのである。 さて、では残る2名。徳川家康はどうなのか。私にはどうしても「神君伊賀越え」が引っ掛かるのだ。たぶん堺衆から「本能寺の変」を聞きつけるやいなや行動しているようである。これは何を意味するのか。家康がもし黒幕で、何らかの計画に参画していたのであれば、三河では軍備が整っていなければならない。たとえクーデターが成功しても失敗しても、である。ところが実際はどうであったか。事実は全く逆である。しかも山崎の合戦では、意思表示すらしなかったのだ。もし「野望説」をとったとすれば、ここでの意思表示はものすごく重要な意味を持つ。だから「神君伊賀越え」は、退却であったと解釈せざるを得ない。

 徳川家康と明智光秀が不仲であった、という話は聞かない。むしろ、「信長流」を踏襲しようとする秀吉には、反感を抱いていたのであろうと思う。だから、「春日局」の件からもわかるように、家康は「斎藤利三の子」だからこそ、家光を任せたのであろうと思う。家康にとって、明智光秀は「謀反人」という位置付けではないのだ。しかも、である。彼女は多分「犯人」を知りうる数少ない証人だったのではないか。彼女が知る「証拠」は、自らの天下平定、幕府運営にとって、充分役に立つ情報足りえたのだろう。

 そして、斎藤利三、徳川家康、春日局のトライアングルの中心にあって、全てに係わりのある人物、やはりこの人間が「犯人」であろう。ではその人物は、どのようにして歴史の中に埋没してしまったのだろうか。
 信長殺しは光秀ではない!Q
 消去法というのも、こういうもっともらしい書き方をすると、あたかも正しいかのように見えてしまう。ここに論法のトリックがある。いくつもの候補を挙げ、順に検証し、消去すると残ったもの=犯人という証拠立てが完成してしまう。これが事実であるかどうか、本来それはあなたが決める事なのだ。順番に消去して残ったもの、これは誠仁親王である。そして、「本能寺の変」が起こり、信長は殺害された。この「本能寺の変」結局私が考えたのはつまり、こういうことだったのではなかったのか。

 誠仁親王は、官位を拒否し続ける信長に対し、皇室の安全保障を確保するため、交渉を行った。しかし官位にこだわりを持たない信長に対して、天皇、親王はおろか公家衆では説得しきれない。こう考えた誠仁天皇は、皇室と信長との間で仲裁することができる人物を模索した。その結果、「当代稀に見る勤皇の志士」である明智光秀に白羽の矢を立てた。だが当然、光秀はそれを拒否した。こうなれば信長に諫言できるものはいない。思案をしているところに食いついたのが、斎藤利三であった。

 彼は義弟のために、どうしても長宗我部征伐を止めさせる必要があった。光秀とも幾度となく相談を続けたが、どうにも手はなかった。そこで、顔をつぶされた形の光秀に謀反を持ちかけた。「信長殿を殺し、天下を目指そう」と。光秀はそれを拒否する。そこへ、誠仁親王から光秀へのこの話。まさに渡りに舟であった。利三は親王に計画を持ちかける。彼は、もし光秀がこの謀反を飲まなければ、自分が兵を動かそう、もし謀反が成功し、信長を殺害することができたら、その時にはいくら光秀でも天下を取る決心するのではないか、と。たとえ失敗したとしても、それは家臣の謀反。皇室に被害が及ぶ事はない、と。そして、謀反成功の折には、光秀の天下人としての官位の宣下を誠仁親王に約束させた。

 しかし、もし光秀自身がこの謀反を承諾すれば、それに越したことはない。それは利三も同じである。そこで里村紹巴を最終的に交渉に向かわせた。しかし光秀の答えは「NO」であった。そこで連歌を催している最中に、使者は斎藤利三のもとへ。やむなく主君抜きの謀反計画が開始された。この時、里村紹巴は連歌の句に小細工をする。「天が下しる」をわざと「天が下なる」に書き換えもう一度「天が下しる」に書き直す、という手の込んだまねをしているのだ。この事が、後に大きな事態を生み出すことになろうとは、この時紹巴は想像もしなかったであろう。この事は次回に書く。

 雨のため足止めを食い、なおかつ亀岡から一転して京都に光秀が入る頃には、もう既に謀反は開始されていた。しかも御所には事前に計画がわかっているので、親王はすばやく御所から逃れた。しかし、何も知らない光秀は市中に現れ、そこで初めて事実を知る事になる。これが私の考える「本能寺の変」の答えである。

 すべては並行して行われていた。交渉も、謀反の計画も。確かに公家衆は最後まで交渉を続けた。最悪の事態を回避したかったからだ。しかし交渉は受け入れられなかった。息子信忠との縁談も、断られてしまった。しかも噂では、信長の上洛は「自分達を一掃する」ためであると思い込んでいた。父である正親町天皇の退位ぐらいは最低でも求められるはずだ。武力を持たない皇室、公家衆にとっては、ものすごい賭けだったのであろう。失敗すれば、皇統はおろか生きとし生けるもの全て、信長に根絶やしにされたであろうから。だから事が無事終わったことを確認すると、天皇はすぐに光秀に「征夷大将軍」の勅命を宣下する。ここまですれば、もはや光秀は後ろに下がる事はないであろう、そう踏んだのだった。全ての事は、誠仁親王の計画通りに進んだのだ。たったひとりの男の存在を除いては。
 信長殺しは光秀ではない!R
 光秀は、坂本城帰城後、すべての真実を斎藤利三から告げられることとなる。本来は事の収拾のため、安土城に入る予定であった。ところが、山岡影隆が瀬田の唐橋を焼いてしまった。山岡もまた、この謀反を事前に察知したか、計画を知っていた人物だったのだろう。そしてそれは....誠仁親王サイドではない。私は秀吉サイドの情報である、と見る。 坂本城で、光秀は利三から説得を受ける。信長は今はない。そして....なにより皇室からの宣下である。これには、さすがの光秀も了承せざるを得なかった。もちろん、地位のためでも、自らの保全のためでもないのだ。「すべては皇室のために。」彼はこの目的のために、「本能寺の変」後の事態の収拾に乗り出す。安土城に入る事だ。戦力的にも、今安土に入れる信長直属軍は自分しかいないのだ。だが光秀は、「どう考えても事前に変を察知していたと思われる」秀吉に討たれる。そのため「征夷大将軍」の宣下も受けぬまま終わってしまう。ここに「本能寺の変」は終焉を迎えてしまうのだ。

 秀吉は、以前にも書いたが、信長を討つつもりなど、さらさらなかったのであろう。が、何らかの手だてでこの謀反の計画を察知した秀吉は、「信長亡き後の後継は自分」だと決心していたとしたらどうだろう。その用意を周到に行い、「この日」を待っていたのではないか?ともあれ、秀吉にとっては、犯人は誰でもよかったのだ。ただ、光秀を自分が滅ぼした以上、「光秀が犯人」であることは都合よかったに違いない。そこで、「愛宕百韻」の事情聴取をすべく、里村紹把を呼びつける。ここで紹把は大失態を犯すのだ。紹把は例の「雨が下しる」を、実は一旦「雨が下なる」と改竄し、なおかつもう一度「雨が下しる」に修正していたのだ。なぜこんな手のこんだことをしたのか?紹把は、このことで「光秀が決心を一度翻したが、迷った挙句再度決心を固めた。」と言う風に取らせたかったのだ。「すべてはこの時の彼の決心であり、誰かと共謀したり、教唆されたものではない。」という風に。この事が、実は完全な裏目に出てしまうのだ。

 秀吉にしてみれば、「主君を殺す」などという大事件を起こそうというものが、まして光秀ともあろうものが、そのような気持ちであったなどと言うのは、笑止千万である。そして里村紹把が光秀をかばう理由はない。光秀は大罪人なのだ。そんな自分の身が危険になるような真似はすまい。では、紹把は誰かを庇っているのか?庇っているとすれば....御所から真っ先に助け出した人物、つまり誠仁親王しかないではないか。秀吉は誠仁親王と面談する。秀吉の話はこうだ。官位、縁談すべて断られ、将来自らが即位の際に信長、信忠親子が邪魔になったこと、それで光秀を利用して「本能寺の変」を行ったこと。そしてこう脅したのだ。親王が光秀にあてた書簡もここにある。(実はない。)大恩ある信長公を殺した犯人を許すわけにはいかん。また、信長臣下のものも事の真実を知りたがっている。それをはっきりさせねばならん。しかしながら皇室が犯人、となれば、皇室ならびに皇統の存亡の危機である。そうなれば大問題であるし、それは望むところではない。だが、誰かがこの事件に責任をとらねばならん。このまま光秀が犯人でもいいのだが、それでは敬愛する信長公を殺されたわしの気がすまん。どうしたもんだろう?この事件の”落とし前”はどうつけたものか。まあ、親王がきっちりと”カタ”をつけてくれるのであれば、それこそわしも後の事は引き受けたい。親王の子はわしが責任を持って立派な天皇にさせてもらう。皇室も守れる。それが誰にとっても、一番いい解決法なんじゃないか....と。

 この結果は、「多聞院日記」にはこう出てくる。「誠仁親王は”はしか”で急死されたとの事だが、三十五歳の親王様が、子供のようにはしかで死なれるというのは変だと思っていたら、まことは切腹自害されたとのことである。」と記述されている。親王は秀吉によって、いわば「追い込み」をかけられたのである。さて、秀吉は正親町天皇を退位させ、誠仁天皇の子を後陽成天皇として即位させ、自らその摂政としておさまる。これにより、秀吉は皇室をもコントロールできる立場となる。後陽成天皇は、父の死が余程無念だったのであろう。秀吉が没するとすぐに、父、誠仁親王の無念を晴らすべく、親王を陽光院太上天皇として即位させる。
 信長殺しは光秀ではない!S ”最終回”
 さて、最後に語らなければならない事がある。それは、一体一万三千もの兵が、なぜあのように粛々と行動し、クーデターを成功させたか、ということである。本能寺の変後、坂本城へ同行した3千と、亀山衆とを含めても、完全子飼いの兵というものは全部ではあるまい。この残る者達が、「主君殺し」に粛々と同道するとは、私には思えないのである。それも光秀自身の呼びかけならいざしらず、斎藤利三のものである。これでどう納得せよ、というのか?

 謀反に加わるというのは、大変なことである。この時代なら、家族のみならず、親戚一族郎党すべてが路頭に迷うであろう。まして相手は信長。想像するだに恐ろしい結果が待っているのは明白である。

 だから前にも書いたが、もう一度書く。当日、亀山に明智光秀はいなかった。そして「敵は本能寺にあり。」といったのは江戸時代の頼山陽である。光秀の命ならいざ知らず、何故軍勢の離反は起きなかったのか。何故混乱はなかったのだろう。一体、斎藤利三は「本能寺に何をしに行く」と言ったのか。以前、信長は何かを「一掃」しに本能寺に来た、と書いた。そしてその候補の一人が「家康」であると。こう仮定したらどうだろう。「信長公の命で、今から徳川家康を殺害する。」と。「信長公はすでに中国に発たれ、本能寺には家康のみである。」と。どういう命をでっちあげたのかは想像すべくもないのであるが。堺でこの報を受け取った家康が、「信長の命で自分を狙う軍勢が本能寺を急襲した。」と聞いたとすれば、「神君伊賀越え」は納得できるではないか。供回りのものだけでは戦うことはできない。三河に帰るしか方法はなかったのである。そして....海路は「信長艦隊」がいるとすれば、陸路しか取る道はなかったのである。そして、春日局の件はどうか。秀吉は「恐喝」することで朝廷を押さえ込むことができた。そして家康は....「共犯」であった斎藤利三の娘、春日局を使うことによって、朝廷を押さえ込むことに成功したのではないか、と思われる。春日局は将軍の命で朝廷へ参内。無位無官でありながら参内を許されたのは、「信長殺し」の真実を知る者であるからではなかったのか。

 このようにして、秀吉は「天下統一」を、家康は「長期政権」を実現させたのだ。誠仁親王は、「クーデター」を起こすことによって皇室を護持するはずが、以降三百年以上その勢力を「衰退させる結果となってしまったのだ。そして光秀は、「謀反人」の汚名を着せられ続けたまま、今に至っている。その汚名を晴らそうと、近年になって史家が研究を始めた。私はただただ「真実」が知りたい。その日は来るのだろうか。