「信長殺し、光秀ではない論」

 (最新見直し2013.04.29日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 

 2009.11.29日 れんだいこ拝


 「隆慶一郎ワールド」の「文献資料室」の「徳川実紀 東照宮御実紀附録巻四(全文)」を転載しておく。但し、読み易くする為、れんだいこ文法に則り、現代文に書き換えている。

 天正10年5月、織田殿の勧めにより京に上らせ給(たま)い、やがて堺の地御遊覧終り、既に御帰洛あらんとせしに、茶屋四郎次郎清延たゞ一騎来たり。飯森の辺にて本多平八郎忠勝に行きあい、昨夜本能寺にて織田殿の御事ありし様、つばらに語り、忠勝四郎次郎共に引き返し、御前に出てこの由(よし)申す。君、聞こしめし驚ろかせ給い、今この微勢持て光秀を誅せん事かたし、早く京に帰り知恩院に入り、腹切りて右府と死を同じうせんとて、御馬の首を京のかたへ向けられ、半里ばかりゆかせ給うところに、忠勝又馬を引き返し、酒井忠次、石川数正、榊原康政らに向かい、若年のものの申す事ながら、君、御帰京有りて無益の死を遂(おえ)られんよりは、速に本国に帰らせ給い、御勢をかり催し、明智を誅伐し給わんこそ右府へ報恩の第一なれと云えば、忠次、老年の我らかゝる心も付けざりしは若者に劣りしことよとて、その旨申し上げしに、我もさこそは思ひつれども、知らぬ野山にさまよい、山賊野伏の為に討たれんよりはと思い帰洛せんとは云いつれ。

 誰か三州への案内知りたるものゝ有りべきと仰せければ、さきに右府より堺の郷導に参らせし長谷川竹丸秀一は、主の大事に逢わざるを怒り、哀れ光秀御追討あらんには、某も御先討ちて討ち死し、故主の恩に報じなん、これより河内山城を経て江州伊賀路へかからせ給う御道筋のもの共は、多くは某が紹介して右府に見えしものどもなれば、何れの路も障ることはあらじと、かいがいしく御受け申せば、君をはじめ頼もしきものに思しめす。

 さて、秀一大和の十市玄蕃允が許に使いを馳せて案内させ、木津川に至らせたまえば、忠勝、柴船借りて渡し奉り、河内路経て山城に至り、宇治川にて河の瀬知りたるものなければ、忠次、小船一艘求め出てのせ奉り、供奉の諸臣は皆な馬にてわたす。その辺にいつき祭る呉服大明神の神職服部美濃守・貞信社人をかり催し、御先に立てて郷導し奉れば、郷人ばら敢えて御道を妨る者なし。江州信楽に至らせ給えば、土人木戸を閉めて往来を止めたり。この地の代官・多羅尾四郎光俊は、これも秀一が旧知なれば、秀一その旨云いやりしに、光俊すみやかに木戸をひらかせ、御駕を己が家に迎え入り奉り種々もてなし奉る。このとき赤飯を供せしに、君臣とも誠に飢にせまりし折なれば、箸をも待たず御手づからめし上られしとぞ。光俊己が年頃崇信せし勝軍地蔵の像を御加護の為とて献る。(慶長15年この像をもて愛宕山圓福寺に安置せらる) さきに堺を御立ちありしとき、供奉の面々に金二枚づゝたまい、かゝるときは人ごとに金もたるがよし、何れか用をなさんもしれずと仰せられけり。

 こゝにて多羅尾に暇くだされ、伊賀路にかゝらせ給えば、柘植三之丞清廣はじめ、かねて志を當家へ傾けし伊賀の地士及び甲賀の者ども、御路の案内し奉り、鹿伏兎越を経て勢州に至らせ給い、白子浦より御船にめして三州大浜の浦に着せ給う。船中にて飯はなきかと尋る給えば、船子己(おの)が食料に備置し粟麦米の三しなを一つにかしぎし飯を、常に用ゆる椀に盛りて献る。菜はなきかとのたまえば蜷の塩辛を進む。風味よしとて三椀聞こしめす。かくて御船大浜に着ければ、長田平左衛門重元、己が家に迎え奉り、こゝに一宿し給い、明くる日、岡崎へ御帰城ましましける。抑(さて)、この度君臣共に思わざる大厄に遭い数日の艱苦を重ね、辛うじて十死を出(いで)て一生を得させ給いしは、さりとは天幸のおわしますことよと、御家人ばら待迎え奉りて悲喜の涙を催せしとぞ。(武道雑談、永日記、貞享書上、酒井家旧蔵聞書、続武家閑談)

 この御危難の折、御道しるべして勲功有りしものども様々なり。山口玄蕃光廣と云いしは多羅尾四郎兵衛長政が養子となり。このとき長谷川竹丸より御路次警固の事を長政が許に云いつかはせしにより、光廣実父多羅尾が方へ申し送りて、己れ御迎えに出て田原の居城へ入り奉り、これより供奉して江州の光綱が家へ案内し奉り、伊賀路の一揆ども追払いつゝ白子まで御供せしかば、光忠の御刀及び新地の御判物給われり。

 又、山岡美濃守景隆は代々江州勢田の城主にて京都将軍家に勤仕す。弟の対馬守景佐が妹は明智が子の十兵衛光慶へ許嫁し姻家たれども逆党に背き、勢田の橋を焼き断ちて追兵を支え、御駕を迎へ賊徒を追い払いつつ、伊賀の闇峠まで供奉せり。

 又伊賀の侍柘植三之丞清廣と云いしは、これよりさき天正9年、三河に参謁して、伊賀のもの共皆織田家をそむき、當家に属せんとす。願わくば御書を給わる事かたし、たゞ元の如く本領を守るべし。もし當家に従わんとならば御領国に遷るべしとなり。その後、伊賀の者、猶(なお)織田家の命に従わざれば、右府大いにいかられ悉く誅伐せらるゝにより、みな山林に遁隠て時節を窺うところに、この度の事起りしかば、清廣己が一族伝兵衛、甚八郎宗吉、山口勘助、山中覚兵衛、米地半助、その外甲賀の美濃部菅三郎茂濃、和田八郎定教、武島大炊茂秀らを勤め、皆な人質出して郷導し、鹿伏兎越の険難を経て伊勢まで御供す。

 後年関原の役に伊賀のもの二十人すぐり出し、御本陣に参りて警衛し奉る。この折伊勢路まで御供せし輩は、後々召出されて直参となり。鹿伏兎越まで供奉に半途より帰国せし二百人のものどもは、服部半蔵正成に属せられ、伊賀同心とて諸隊に配せられしなり。またこの年六月、尾州にて召し出されしは、専ら御陣中の間諜を勤め、後に後閤の番衛を奉る事となれり。いまも後閤に附属する伊賀ものゝ先祖はこれなり。また甲賀のものも武島、美濃部、伴など云う輩(やから)は直参となり、その以下は諸隊に配せられて与力同心となされしもありしなり。(諸家譜、武徳編年集成、伊賀者由来書)

 武田亡びてのち織田右府、駿河国をば當家へ進めらせ、甲斐国をば、その臣川尻肥前守鎭吉に与え、よろづ御心添(づけ)けあらまほしき旨右府より頼まれしゆへ、こなたにもまめに受け引き給い、度々川尻が方へ御使つかわされ御指諭ありしが、鎮吉もとより疑念深き男(をのこ)ゆへ、こなたの御深意をかへりて悪しざまに思い、且つ甲州人の皆な當家に従い、鎮吉に服するもの少きは、全く當家の御所為なりと思い誤り、諸事京のものとのみ相議し、国人にはひたすら心置きしゆへ、国人もいよいよ心服せずして、川尻を憎む者多し。かゝるところにこの度右府の凶事有りて、瀧川左近将監一益も上州を捨て上洛すれば、川尻もさこそ思い煩うべしと思し召し、その旧友なれば本多百助信俊を遣わされ、万事心安く語らうべし、もし上洛あらんには、このころ信濃路は一揆起りて危しと聞き、百助に案内せしめ、我が領内を経て上(のぼ)らるべしなど、ねんごろに仰せ遣わされしに、鎮吉いよいよ疑いを起し、百助に己を討たしめられん御謀と思い、密に人をして百助を害せしむ。

 この事忽に聞き伝えて甲人一揆を起し、鎮吉を討ちとりぬ。はじめ百助が死せしよし注進に及びしかば、我かねて信長と約せし事もあれば、彼が謀議の為にもと思い百助を遣わせしに、かゝる無道人にあひて、御泪数行に及ばせ給いぬ。この時、老臣ら、速に御勢を催し川尻が罪をうち給えとすゝめしに、それは川尻が二の舞にて、家康などがする事にてなし、先ずそのままよとの上意なれば、又と申し上ぐべき様もなくてやみぬ。かくて川尻死せしのち甲州主なければ、その間を窺い、北条氏政父子攻め入りよしとりどり風聞し、国人も北条が民にならんは念なし。當家より御旗を向けられなば皆々打ち語らい、時日をうつさず甲州一国を切り取らんと訴える者多かりしかども、さらに聞しめし入れず。たゞ明暮奉行人に命じ、国人の忠否を正し、武道の御穿鑿のみを専らとせられ、いさゝか競望の念おわしまさゞりしとぞ。(岩淵夜話)

 甲斐の若御子にて数月の間、北条氏直と御対陣有りしとき、氏直より一族美濃守・氏規して和議の事こひ申しにより、上州を北条が領とし、甲信二国は當家の御分国とせられ、且つ督姫のかたもて氏直に降嫁あらんよし。かれが請所のまゝに御盟約既に定まり、氏直も野辺山の陣を払いて退かんとするに及び、平沢の朝日山に砦を築(きずか)しむるよし聞しめし大にいからせ給い、我、先年駿河に有りしとき氏規と旧好あるをもて、こたび彼が強ちにこい申しにまかせ盟約を定め、且つ婚家たらん事をも許しぬ。さるに我が領国の内に城築く事不当の至りなれ、この上は有無の一戦を決すべしと仰せ有りて、朝比奈弥太郎泰成もてこの由北条が方へ仰せつかわさる。このとき敵は平沢より信濃路へ引き払わんとするところに、當家の御先手は若御子の上に押し上り、もし北条が答遅々せば直に打ちてかゝらん形勢したれば大に恐れ、早々人質出し、朝比奈と共に新府の御陣に参り、異議なきよしを様々謝し報りければ聞しめしとどけられ、こなたよりも人質を遣わされ、両陣互に引き払いしとなん。(落穂集。武徳編年集成)

 この対陣のとき、味方の内誰なりとも、鉄砲打ちかけて敵陣の様試みよと仰せ有りしに、いづれも遅々せしが、甲州の侍・曲淵勝左衛門吉景承りぬと云って、足軽めしぐし鉄砲持たせて馳せいで、その子彦助正吉は父が指物を相図として、斥候をしつゝ馳け廻るさまを御覧じ、誰もかのさまを見よとて床机より下り立せられ、御杖もて二たび三たび地を扣かせ給い、曲淵は年老ぬれど、武道のうきやかなる様かな、彦助も父に劣らぬ若者よとて、殊にめでさせ給いしとなん。(家譜)

 天正11年の事にや、京より9年母と云うこのみを献りしものあり。こはその頃南洋よりはじめて舶載して、いとめづらかなるものなれば、百顆ばかりを分ちて小田原の北条が許に贈らせ給いしに、かの家臣どもだいだいと見誤りて、めづらしくもあらぬものを何とて贈られしや、浜松には稀なると見えたり、こゝにはあまたあり進らせんとて、だいだいを長櫃に入れ、役夫八人にかゝせて献りけり。君、小田原のものどもこの葉を味わいもせず。たゞだいだいとのみ思いとりて、かゝるなめげの挙動する事よ、主人はともあれ、家臣らがかゝる粗忽の心持ちにては、家国の政事を執り行うに、いかなる過誤し出さんもはかりがたしと仰せられしとなり。(東武談叢)

 長久手の役に夜中小牧を御立ち有りしが、勝川と云う所にて夜ははや明けはなれたり。岩崎の城のかたに煙の上りしを御覧じ、哀むべし次郎助一定討ち死にしつらんとのたまう。こは丹羽次郎助、氏重仰せを蒙り岩崎山守りしが、池田勝入が為に戦で討ち死にせしなり。さてこの所は何と云うぞと御尋ねあれば、勝川甲塚と云うよし申し上げ、こはめでたき地名なり、今日の勝利疑いなしとて、このときためぬり黒糸の御鎧に椎形の御胄をめされ、御湯漬をめし上げらる。士卒に御下知有りしは、人数押の声ゑいとうとうと云うは悪しく、ゑいとうゑいと云うべしと命ぜられ、急ぎ川を渡りて御勢を進めらる。井伊萬千代直政が赤揃一隊をやりすぎて、行伍の乱れしを御覧じ、あれとゞめよ、足並乱して備を崩すことがあるものか、木股に腹を切らせよとて、御使番頻りに馳せ廻りて制すれば漸くにしづまりぬ。

 直政山を越て人数を押むと云うに、広瀬、三科の両人小口にて息がきれてはならぬと云う。直政何ならぬ事があるものかと云うところへ、近藤石見馳来たり。かかる事は若大将の知る事にてなしと云いつゝ、直政が馬のはな引きかへし、脇道より敵陣へ打ちてかゝる。君は竹山へ御上有りしところへ、内藤四郎左衛門正成還り来て、御先手崩れぬ、今日の御軍おぼつかなし、兵をおさめ給えと云う。高木主水正は御勝軍なり、早く御勢をすゝめたまえと云う。本多正信はかゝる御無勢にて大敵にかゝり給うべきやみだりの事ないひそと制す。主水いかに弥八、御辺は座敷の上の御伽噺や、会計の事などはしるらめ。軍陣の進退はそれとは異なり、今日は御大将の進まで叶わせられぬところなり、速に御出あれと云えば、君も咲はせ給いながら、さあ出んとて金の扇の御馬験を押し立て進ませ給えば、敵は是をみて、さてこそ徳川の出馬有りしぞ、大事なれと驚き慌(あわ)てて色めき立つを、森武蔵守長一打立てて制すれども聞きいれず。とかうする内に鉄砲に中りて死しければ、これを御覧じ、婿めが備えは崩るゝぞ、勝入が陣を崩せとのたまふにより、御家人ら我れ先にと馳せ入りて高名す。勝入も引き返せと下知すれど、崩れ立ていよいよ敗走するところに、永井傅八郎直勝遂に勝入を討ちとりしかば、これより上がた勢惣敗軍になりしなり。(柏崎物語、東遷基業)

 池田、森の両将既に討たれ、上がた勢惣崩して敗走す。味方これを追討ゆくをとゞめ給い、砂川よりこなた十町ばかりにて引き上げさせ給いぬ。そのとき秀吉は大敗を聞いきまきて馳せ来り、龍泉寺の上の山に金の瓢箪の馬印をおし立たり。もし味方十町も追い過ぎなば、荒手の大軍に出合いて戦難儀なるべきに、早くその機を察し引き上げ給いしゆへ、勝を全うし給いしなり。君ははるかにかの馬印を御覧じて、筑前頼み切ったる先手の三人まで討たせ、さぞせきたるらんとてはゝゑませ給う。榊原康政進み出で、仰せのごとくいかにもせきたるとみえて、馬廻りばかりにて走り出候。今ぞ彼を討ちとるべき機会なりと云えば、又咲わせられ、勝に勝は重ねぬものぞ、一刻も早く小幡に引き取れとて、渡邊半蔵守綱を殿として小幡に引きとられ、その夜又小牧に御帰陣有りしなり。

 この日、秀吉は犬山に在りて茶を点じて居りしところへ敗軍の告げ有りしかば、大いに怒り直に出馬し、龍泉寺の辺にて軍の状を尋られしに、徳川殿は既に小幡に引き取られしと云えば、秀吉且ついかり且つ感じ馬上にて手をうち、さてさて花も実もあり、もちにても網にてもとられぬ名将かな、日本広しと云えどもその類又と有るまじ、かゝる人を後来長袴きせて上洛せしめんは、秀吉が方寸にありと云われしとか。(渡邊図書小牧長久手記、落穂集)

 按に一説に、このとき酒井忠次、秀吉を討つは今日にありと云いしに、勝ちて胄の緒をしむると云うはこゝぞと仰せらるれば、忠次重ねて、一陣破りて残党全からずと申せば、唯今こそよき図なりと云う内に、敵はや柵を附けたれば、明日は秀吉に降参し給うべしと云いしとか。これも康政と同じ事を両様に云い伝えしなり。

 本多平八郎忠勝は小牧山に残り守りしが、秀吉が大軍押出すをみて遮伐んと云う。酒井忠次、石川数正聞かざれば、己が手勢わづか八百人もて川水にそい、秀吉が大軍と睨あいつゝ川ごしに押して行く。秀吉その大膽にして且つ忠烈なるを感ず。忠勝龍泉寺に至れば、既に御勝利にて小幡に引き入り給うときゝ、今は心安しとて御道筋に出て拝謁し、かゝる御大事に臣を召し具し給わざりしは、よくよく御見限りありしと申し上れば、君われ身を二つに分たる心地して汝を小牧に残し置きしゆえ、心やすく勝軍せしなりと仰せられて、直に供奉命ぜられ、小幡に入らせ給いなり。(柏崎物語)

 小幡の城にて榊原康政、大須賀康高等御前へ出で、今宵敵陣の様を伺しめしに、昼の程長途を馳来りしゆへ、みな疲れはてゝゆくりもなく倒れふしぬ。一夜討ちかけて辛き目みせんと申しければ、御首を振せられ、いやいやとのたまひてとかうの仰せもなし。みな御前をまかでしのち本多豊後守廣孝をめして、汝城門を巡視し一人も門外へ出すべからずと有りて、間もなく御湯漬をめし上られ御出馬を触られ、成たけ物しづかに揃へと命ぜられしゆへ、必ず夜討かけ給うならんと人々思いしに、小牧へ御馬を入られしかば、誰も誰も思いよらぬこととて感じ奉りぬ。

 後日、浜松にて、この折の事語り出給い、汝らが夜討せよと云いしは、秀吉をうち得んと思いてか。又はたゞ戦に勝たせんとまでのことかと尋ね給えば、互いに面を見合せやゝ有りて、秀吉を討ちとるまでの思慮も候わず。たゞ必ず御勝利ならんと思いしゆへなりと聞えあげしかば、我もさは思いしことよ、敵を皆な殺しにしても、秀吉を討ちもらしなばかへりて悪しく、昼の戦に池田、森の両人を討ちしさえ、一人にてもよかりしと思ひつれと仰せありしとぞ。(岩淵夜話別集)

 按に菅沼藤蔵定政が譜には、既に小幡の城に入らせ給い、斥候の者して敵の様伺わしめしに、今にも襲い来らんよし云う。よって藤蔵定政をめして、彼らがいぶかし、汝行きて確かに見てこよと仰せあり。定政たゞ一騎敵陣ちかく馳せ出て伺い終り、帰りきて申し上げしは、敵は皆な甲を脱いで飯食い居たり。今来らん様にてなし。曉天に至らばはかりがたし。この小城におわして大敵に囲まれなば、ゆゝしき御大事なりとて、小牧に御陣を移し給えと勧め奉れば、我もさこそは思いつれとの給いて、重ねて小牧に御動座あり。

 果して曉になり秀吉が兵小幡に至るといえども空塁なれば案に相違し、いたづらに軍を班せしとぞ。この戦に平松金次郎は、茜の羽織に十文字の鑓をもち、一番に勝入が陣に蒐入て、敵の首三級取りて見参に入れしかば御感あり。追討の時は鎌もて草を薙ぐが如しと云えば、首もたゞ一つ取て足れり、多級を貪るに及ばずと仰せられたり。

 又大脇七兵衛は金次郎と同じく先陣に進みたるが、この度の鑓は金次郎一番なりと仰せけるところへ、七兵衛つとまいり、某も其場に侍しが、弓射よとの命有りしゆへ矢二筋を放しぬ。是も鑓と同じ様の御賞詞は蒙るまじきをと申せば、しばし御思案の様にて、汝が云うところの如く是をしるしにとらせんとて、御手に持せられし矢二枝を七兵衛にくだされしとなり。

 又高井助次郎実重と云いしは、その父蔵人実広今川の家臣なるが、桶狭間の戦に討ち死にし、助次郎も亦氏真につかえ終始節を改めず。この戦に諸人いづれも高名したるに、助次郎一人は何の仕出せし事もなく、あまりの面目なさに泪ながして居りしかば、汝は古主氏真の行衛を見とゞけ信義あつきものなれば、今日の戦に敵の首取りたるよりはるかにまされり、歎に及ばずと仰せられしかば、助次郎は思いよらず面目を施しける。

 小笠原清十郎元忠は兼ねて弓篭手をこのみてさしけるを御覧有りて、弓篭手は便よからぬものなり。腕に疵づくときは働きのならざるものぞといましめたまいが、この戦に元忠敵三人切り伏せしに、右の腕を打ち落され、左の手に太刀の腕貫をかけて働きしが、終に討ち死にせしちなり」。

 又成瀬小吉正成このとき17歳なりしが、敵陣に蒐入て首一取来て御目にかくれば、その勇を称せられ、唯今旗本の人数少し、汝はこゝに止れとのたまうところに、御先手の崩れかゝる様をみて、正成また馳せ出んとするに、馬の口取り轡を控て放さず。正成葉武者の首一つが今日の大事にかへらるゝものかとて、鞭打ちてあふれども猶放さず。君この躰を御覧じ、士の討ち死にすべきはここなり、放してつかはせとのたまへば、口取り放すとひとしく敵陣に馳せ入りて、味方の退くものどもを励ましつゝ奮戦し、又首を得て帰りぬ。のちに正成が戦功を賞せられ、汝の働きは宿将老師にもまされりとて、根来の騎士五十人を附属せられしとぞ。(感状記)

 玉虫忠兵衛と云いしは、甲州の城意庵が弟にて、信玄謙信に歴事し、後に當家に参りこの役にも供奉し、御行軍のさま拝覧して有りしが、君忠兵衛に向かわせ給い、今少し見合せて鑓をいれて見せん、よく見よと仰せありしが、程なく御勝ちになりぬ。のちに忠兵衛人に語りしは、君の御軍略は甲斐、越後には劣らせたまうとも、御勇気の凛然たる事ははるかに優らせ給えり。末頼もしき御事なりと云いしとか。或るときの仰せに、玉虫はたはけたるをのこなれども、軍陣には眼の八つづゝあると仰せられしとぞ。のちに上総介忠輝朝臣につかえ、浪華夏の役に軍監つとめけるが、指揮のさま悪しかりとて、御いかりありて追放され、玉虫にはあらず逃虫なりとのたまひしとぞ。(武功雑記、古士談話、大坂覚書)

 初鹿野傅右衛門信昌は、甲斐の加藤駿河守が次男なり。同国に入らせたまいしとき、傅右衛門さまざま走り廻りて勲功有りしかば召し抱えられんとせしに、己が旧知の四百貫に、実父駿河が遺領二百五中貫の地を共に書き入れて、證状となして捧げしかば、兄弟後及第弥平次郎両人、傅右衛門が一人して父が遺領とらん様なしと云い訴へ出しに、御糺ねありて、たゞ四百貫の旧知のみをたまいければ、傅右衛門大にふづくみて、この度召し出されし人々の内には、親兄弟の者を結び入りてしるし出せしを、そのまゝくだされしもあるに、己ればかり賜わらざるのみならず、あまさへ奉行人御前に引き出され拷掬にあいぬれば、この後人に面むけん様もなしとて、さきに賜りし御朱印は反古に成りたり。我らがごとく走り廻りても何の詮かあらんとて、人々にむかひ口さがなく廣音吐いてゐたり。

 このよし岩間大蔵左衛門聞き付けて、もとより傅右衛門とは仲悪しければこれ究竟の事と思い、そのゆえ目安にかき連ねて奉りければ、御糺ねありしに目安にまがいなければ、大に御いかり有りて、おごそかに警しめ給うべけれども、世々武名ある家筋なれば、死一等を宥めてその禄収公せらるゝとなり。

 かくて傅右衛門旧知にも離れ、流浪の身となりて宥しが、この度の戦にひそかに御陣に従い、三宅弥次兵衛正次と同じく敵の首取りて、内藤四郎左衛門正成に就て披露をたのみけれども、御咎め蒙りし者ゆえ、はばかりて聞え上げず。その折、君はるかに御覧じ付けられ、傅右衛門これへまいれと上意なれば、御前に出しに、汝往年の罪により一旦はいましめつれども、久しからずよびかへさんと思いしに、よくもこゝまで供して高名せしぞとかへすがえす仰せければ、傅右衛門かしこさのあまり涙ながして拝伏す。その時、弥次兵衛正次も傍より進みいで、さきに某一番鎗の仰せを蒙りしが、まことは傅右衛門某より一町あまりも先にて、敵の首得たりと申せば、弥次兵衛も直実なるものよと、これも御賞誉を蒙りしなり。

 小幡藤五郎昌忠は甲斐の小幡豊後守昌盛が子なり。武田亡びて後當家に仕へ奉り、甲州の新府にて北条と御対陣のとき、平原宮内と云う者、北条に志を通じけるよし露顕し、御前にて人の刀奪いて切り廻り、あまたの人に手負せけるところへ、昌忠走りきて宮内を切りとむ。宮内倒れざまに払う刀に昌忠左の手首うち落されぬ。その功を賞せられ父が本領給い、また外科に命じて療養せしめらる。かくて疵はいえたれどかたわに成りしかば、今は世のまじらいせん事も叶わじ、暇たまわらんとこい出しに、左の手はなくとも右の手にて太刀打ちはなるべし、あながち辞するに及ばずとて、もとのごとく召し使われたり。

 さて、この日の戦に昌忠敵の首二切て御覧に備え、また外に首二持ち出で、これは家僕が取りしなりとて捧げしかば、汝が家人のとりし首を、我に備うるは何事ぞと咎め給いしかば、昌忠かしこまって御前をまかりでぬ。後、近臣にむかわせたまい、かれ左の手首なけれども、そのとりし首は家僕が力を添えしにあらずと云うをしらしめんとて、家人のとりしをば別に見せしめしならん。とかく甲州人には油断がならぬと仰せられしとぞ。

 又水野太郎作正重は己が隊下の同心。銃もて森武蔵守長一をうち落し、敵陣の色めくをみて、正重たゞ一騎山の尾崎をのり下り、敵陣に蒐入しを御覧じ、御馬廻に命じ、同じくかけ破らしむ。軍終てのち、今日の戦、大久保忠佐こそ、先登して大功を立てしとて御感あり。正重こは己れと忠佐を見違えたまいしならんとは思えども、あながち云いも争わざりき。重ねて軍功を論ぜらるゝに及び、又この事仰せ出されしかば、正重もつゝみかねて忠佐に向い、尾崎より乗り下せしは某なり、御ことはその折、渡邊弥之助光と同じく久下に控えられたり。余人ならばかゝる事も云いあらがふまじけれど、御辺は数度の武功もありながら、上の御見違を幸に、人の働きを己が功に成さんと思わるゝか。御辺に似合ぬ事と云えば、光も正重が申し所いさゝか相違なし、某も見届けたりと申す。君つばらに聞しめし分られ、さてはわが見違いしなり。正重心にかくるなと御懇諭有りしかば、正重もかへりてかしこまりてその座をまかでしとぞ。

 又氏井孫之丞某。渡邊忠右衛門守綱二人は、池田が士卒を射しに、守綱鑓を落しければ、孫之丞敵の中けかけ入り敵を突ふせ、その鑓を取りて帰り守綱に返しければ、この働き武蔵坊弁慶にもまされり、今より氏を武蔵と改むべしと仰せ有りて、あらためしなりとぞ。(岩淵夜話別集、落穂集、家譜)

 小牧対陣の折、當家及び織田信雄が勢、敵の二重堀に攻めかゝらんとしけるをみて敵陣色めきしかば、その旨秀吉に告ぐるもの宥しに、秀吉折しも碁を打ちて居られしが、二重堀破れば兵を出すべし、早くしらせよと云って元の如く局に向い居たり。又こなたの御本陣へもかくと注進しければ、敵もし後詰にいづるほどならば、こなたよりも攻めかゝらん、さまでになくば戦うなと仰せられ、荷中に及び両陣引上ける。後に筑紫陣の折、秀吉この事を云い出され、先年、小牧の時など攻めかゝりたまわざりしと云うに、君、その折家臣どもは皆な軍せよと勧めつれど、某は小牧より勢をこなたに引き付けて討たむと思いしゆへ、かゝらざりきと宣へば、秀吉も手を打ちて感嘆し、をのれも二重堀破れば、小松寺より大勢を出し戦わゞ、必ず勝ちなんものをと思いしと云われける。誠に敵も味方も良将のよく軍機を熟察有りしは。期せずして符を合するごとくなりと、森右近大夫忠政が人に語りしとぞ。(小牧戦話)

 小牧山へ御陣を据えられしとき、秀吉が方には隍を掘り柵をつくるを御覧じ、信雄にのたまいしは、先年長篠にてわれ故右府とゝもに、かゝる手術して武田勝頼を待ち受けしに、勝頼血気の少年ゆへ陣をみだして切りかゝりしに、こなたは待設けし事なれば思う図に引き付け、鉄砲にて打ちすくめ、労せずして勝を得しなり。今、秀吉その故智を用い柵などつくると見えたり。かゝれば貴殿と我らを、勝頼と同じたぐいの対手と思うとみえたりとて咲はせ給いしとぞ。(落穂集)

 瀧川一益が秀吉に一味して、尾州蟹江の城に籠るよし告げ有りし時、尾州清州におわしけるが、すみやかに御出馬有るべしとて、奉書もて諸所へ触れしめらる。尊通と云える右筆その状をかきて御覧に入りしに、可2出馬1とある文に至り、可字除くべし、軍陣の書は一字にても心用いてかくべきなり。今、大敵を前に受けながら、可2出馬1と書けば文勢ゆるやかに聞こゆ。出馬するものなりと書かばその機運なりとて、書き換えしめられしとぞ。同じ城責のとき瀧川が内に、瀧川長兵衛と云う名ある者を捕え来りしに。そが命を助けて返せとのたまへば、捕えし者やむ事を得ず放ちかへす。こは長兵衛ほどのものを帰しし給えば、當家の兵鋒日数重ねても撓むことあるまじと思い、城兵をのづから退屈すべしと思しめしてなり。

 酒井忠次はこの城直に攻め潰すべしと云うに、まづそのまゝにしておけと仰せられ、九鬼が粮米を船に積て、城に入るゝをも支えんともし給わざれば、君には城攻めを忘れ給うかろさゝやき云うも聞き入れたまわず。ひそかに人に命じ城中の動静を伺わしむるに、この度、一益秀吉に頼まれて籠城しつれども、かく速やかに御出馬あらんとは思いもよらざりしと云うを聞き給い、今は城兵疲れぬと見えたり。扱を入れてみよとてその旨仰せつかはされ、且城将前田與十郎を切て出さば、一益が一命は扶けんとなり。一益いなみけるを、家人等相議し前田を切りて出しければ、約のごとく一益を許して城を受け取らしめらる。一益が退去に及び、追い伐たんと云うを制して聞き給わず。これも一益ほどの者を許させ給うを制して聞き給わず。これも一益ほどの者を許させ給うとはゞ、秀吉方のものども思いの外にて心を置くべし。その上、唯今一益を扶け給うとも、のちに秀吉そのまゝには捨て置きまじと仰せられしが、果して秀吉、一益が前田を殺せしをいきどほり、丹羽長秀が領内越前五分一と云う所へ竄逐せしめしとぞ。後に軍陣の事評するものゝ云いしは、志津が岳は秀吉一代の勝事。蟹江は當家御一代の勝事にておわします。この後詰のとき折しも湯あみしておわせしが、その告あるとひとしく、湯まきめしながら御出馬あり。従い奉るものは井伊直政ばかりなり。瀧川が船より城に入りて、残卒はいまだ上り終らざる内に御勢は馳着しとぞ。(前橋聞書、小早川式部物語、老人雑話)

 佐々内蔵助成政越路の雪をふみ分つゝ、さらさら越えなど云う険難の地を歴て、ひそかに浜松へ来て、まづ君が信雄を援け給いしを感謝し奉り、この上いよいよ心力をつくし、織田家の興立せん事を願うよし申す。君も成政が深冬風雪をおかし、はるばる参着せしを労せられ、我れ元より秀吉と遺恨なし、たゞ信雄が衰弱をみるにしのびずして、故織田殿の旧好を忘れかねて、わづかにこれを援けしのみなり。さるにこの頃信雄また秀吉と和議に及びしと聞けば、我がこれまでの信義も詮なき事となりぬ。さりながら成政旧主の為に義兵を起さんならば、援兵をばつかわすべしとねもごろに待遇し給う。成政かしこまり御物がたりの序に、君を信玄に比し、己れを謙信になぞらへ、自負の事ども云い放ちつゝ、かへさに信雄が許にゆきて京に責め上らんとそゝのかしけれど、信雄は己に秀吉と和せし上なれば成政が言に従わず。よてのちに成政もせんかたなく秀吉に降参せしなり。はじめ成政が見え奉りしとき、高力與次郎正長めして仰せ有りしは、佐々は頗る人傑なり。かゝる者には知人になりて、その様見習い置くが良しと仰せあり。酒井忠次は成政が自負をいかり、かゝるおのこなるものに御加勢あらんは無用なりと申せば、彼もとより大剛の士なれば、その勇気にまかせ失言あるも理なり、さる事に関わるべからずと仰せ有りしとぞ。(柏崎物語)

 真田安房守昌幸、上田、戸石、矢津の城々明け渡さんと云うより、御家人をつかわされ請け取りしめんと有りしとき、真田は信玄の小脇差と云われしほどの古兵にてあれば、さだめてかの城鵜も守備堅からん。その上彼が兄長篠にて我が勢の為に討たれたれば、この度弔い合戦すべきなど思いまうけしもしるばからず、彼がごとき小身ものに、五ヶ国をも領するものが打ち負けなば、いかばかりの恥辱ならん。こは保科、蘆田などに扱せよと仰せけれども、老臣強て申請により、大久保、鳥居などの人々に、二萬ばかりそへてつかわされしが、果して真田が為に散々打ち負けて還りしかば、いづれも御先見の明なるに感じ奉りぬ。

 老臣重ねて兵を出さんと申し上げしに、岡部弥次郎長盛に甲信の兵をそへて、信州丸子表に出張し、真田が様を見せよと命有りて、長盛丸子に於て真田と戦いしに、打ち勝ちて真田上田に引退しかば、ことに長鵜盛が戦功を御賞誉有りしとなり。(御名誉聞書)

 三河草創よりこのかた。大小の戦幾度と云う事を知しらざれども、別に當家の御軍法とて定れる事もなく、たゞそのときに従い機に応じて御指麾有しのみなり。長久手の後、豊臣秀吉たばかりて、當家普第の旧臣石川伯耆守数正をすかし出し、数正上方に参りければ、當家にて酒井忠次とこの数正の両人は第一の股肱にて、人々柱礎のごとく思いしものゝ、敵がたに参りては、この後こなたの軍法敵に見透されば、盲に目のぬけしなど云う譬えのごとく、重ねて敵と戦わん事難かるべしと誰も案じ煩うに、君にはいさゝか御心を悩し給う様も見えず。常よりも御けしきよくおわしませば、人々あやしき事に思い居たり。その頃、甲斐の代官奉りし鳥居元忠に命ぜられ、信玄が代に軍法記せし書籍及びそのとき用いし武器の類、一切とりあつめて浜松城へ奉らしめ、井伊直政、榊原康政、本多忠勝の三人をもて惣督せしめ、甲州より召出されし直参のものをはじめ、直政に附属せられしともがらまで、すべて信玄時代に有し事は何によらず聞こえ上げよとて、様々採■有し上にて尚又取捨したまい、當家の御軍法一時に武田が規護(元字は矢篇)に改めかへられ、その旨下々まであまねく令せしめ、近國にもその沙汰広く伝えしめられたり。(岩淵夜話別集)

 この巻は伊賀路の御危難より。長久手御合戦の後までの事をしるす。(国史大系第38巻『徳川実紀 第一編』を底本としました。)







(私論.私見)