天皇制概論その2

 (最新見直し2007.5.5日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 2005年現在、小泉政権の下で「皇室典範にかんする有識者会議」が開かれ、「女帝を認める皇室典範改正案」の論議が関心を呼びつつある。この辺りで、天皇制論をしておきたい。

 天皇制論は、天皇及びその側近による政治の特質論と天皇制官吏機構の両面から考察されねばならない。その上で、歴史的な歩みが検証されねばならない。そういう意味で、1・政治論、2・機構論、3・皇統譜、4・王制の比較研究の4視点から解析していくことにする。

 2005.11.18日 れんだいこ拝


天皇の神格性と「現人神」

古来より天皇の神格性は多岐に渡って主張されたが、明治維新以前の尊皇攘夷・倒幕運動と相まって、古事記・日本書紀等の記述を根拠とする天皇の神格性は、現人神(あらひとがみ)として言説化された。また、福羽美静ら津和野派国学者が構想していた祭政一致の具現化の過程では、天皇が「神道を司る一種の教主的な存在」としても位置づけられた。幕府と朝廷の両立体制は近代国家としての日本を創成していくには不都合であったが故の倒幕運動であり、天皇を中心とする強力な君主国家を築いていきたい明治新政府の意向とも一致したため、万世一系の天皇を祭政の両面で頂点とする思想が形成されていった。

具体的な国民教導に失敗した宣教使が廃止された後、神仏儒合同でおこなわれた教部省による国民教導では、「敬神愛国の旨を体すべきこと」、「天地人道を明らかにすべきこと」、「皇上を奉戴し朝旨(ちょうし。天皇の命令や指示)を遵守せしむべきこと」の3つ、「三条ノ教則」が設定された。この「三条ノ教則」を巡る解説書は仮名垣魯文の『三則教の棲道』(1873年)など多数が出された。これらのなかには「神孫だから現人神と称し奉る」とする例が複数存在した。

また、教部省廃止以降もその思想的展開として、東京帝国大学で宗教学を講じた加藤玄智は『我が国体の本義』(1912年)で「現人神とも申し上げてをるのでありまして、神より一段低い神の子ではなくして、神それ自身である」と述べている。憲法学者で東京帝国大学教授の上杉慎吉の「皇道概説」(1913年「国家学会雑誌」27巻1号)は「概念上神とすべきは唯一天皇」と述べ、これが昭和初期には陸軍の正統憲法学説となっていった。陸軍中将石原莞爾は自著『最終戦争論・戦争史大観』(原型は1929年7月に中国・長春で述べた「講話要領」)中で

人類が心から現人神の信仰に悟入したところに、王道文明は初めてその真価を発揮する。最終戦争即ち王道・覇道の決勝戦は結局、天皇を信仰するものと然らざるものの決勝戦であり、具体的には天皇が世界の天皇とならせられるか、西洋の大統領が世界の指導者となるかを決定するところの、人類歴史の中で空前絶後の大事件である。

と述べるなど、昭和維新運動以後の軍国主義の台頭によって、天皇の威を借りた軍部による政治介入が頻発した。満州事変はこの石原の最終戦争論にもとづいて始められた。

GHQによる神道への危険視は、神国・現人神・聖戦などの思想が対象となっており、昭和天皇が1946年に発した「新日本建設に関する詔書」(通称「人間宣言」)もこのような背景で出されたものと考えられている


 ★阿修羅♪ > 雑談専用20」の石工の都仙臺市氏の2006.11.5日付け投稿「天皇に成る爲の極めて重要な行法。祝(はふり)の神事」を転載しておく。

 天皇は、血筋は抑も成れど、祝(はふり)の神事の祕儀、奧義を伝授、会得、体得して初めて天皇となる。故に現在の天皇は名、実共に天皇に非ず。ここ根本的問題を解決せざれば神国日本は滅亡する事必定なり。
  
 新人物往來社 平成七年(一九九五年)一月十三日發行 別册歴史讀本 ; 特別増刊81 . 《これ一册でまるごとわかる》シリーズ ; 18 古神道の祕術 二百四十頁
 
  伯家神道と最後の学頭・高濱清七郎 明治天皇に指導された「祝(はふり)の神事」の謎

 神道祭祀の根源宗家たる白川伯家。その最後の学頭である高濱清七郎が明治天皇に指導した「祝の神事」とは何か? その特殊神事の実体を明らかにし、その再興への熱いメッセージを贈る。

 藤原正鐘【文藝評論家】 
 
 ここ十年来、「古神道」に対する関心が高まりをみせている。教学よりも行法に重点を置くものの代表として伯家(はっけ)神道が注目されているようだ。そこで伯家最後の学頭・高濱清七郎と、伯家に伝えられていたと云う特殊神事としての伯家神道が、幕末・維新期を經過してどのような行方をたどったのか、また特殊神事とはどのようなものであったのか? その実体の解明に迫り、その現代的意義についても探ってみたい。
 
 神祗官の長たる白川伯家

 白川伯家は王朝の末より代々神祇官(じんぎかん)を主唱し、宮中に於る恆例・臨時の祭祀に奉仕する聖職にあった。そこで自然に、神祇祭祀の道に根源宗家となるに至った。純神道に於る祭祀の方法、並びにこれに伴う行事の根本として絶対的地位を占めるのはこの一家である。

 第65代花山(かざん)天皇の皇子清仁(すみひと)親王の御子延信(のふざね)王が、後冷泉(ごれいぜい)天皇(第70代)の永承元(1046)年、神祗伯(じんぎはく)に任ぜられ、その子康資(やすすけ)王も伯となり、更に康資王の孫顯廣(あきひろ)王が二條天皇(第78代)の永萬元年(1165)に伯となるに及び、任伯の期間は王氏に復帰する例を開かれた。以来、神祗伯は他姓を任ぜず、白川家の世襲となり、明治維新に及んだが、顯廣王より資訓(すけくに)王まで51代を累(かさね)た。世に神祗伯家・白川伯王家(しらかわはくおうけ)或いは伯家と称す。王氏をもって神祗官の長とされるのは、第2代綬靖(すいぜい)天皇の御代に、神八井耳命(かむやいみみのみこと)の古例に基づき、神砥崇敬の御主旨からである。白川家は神祗宮の長として、宮中内侍所(きゆうちゆうないじどころ)や神祗官八神殿(はつしんでん)の奉仕、天子攝関(せつかん)等に御拜(ぎよはい)を伝授した。また全国の神社を統括した。
 
 白川伯家最後の学頭・高濱清七郎

 明治天皇に「十種神寶御法(とくさかむたからのごほう)」を指導したと云うことで現在でも古神道と云えば名前が挙がってくる人に白川家最後の学頭・高濱清七郎がいる。その高濱についてまず概説してみたい。高濱は現在港区白金台にある瑞聖(ずいしよう)寺に「高濱清七郎源正一霊人」として祭られている。命日は明治26年2月28日、享年81歳であった。毎年命日には門人の代表によって年祭が行われている。百年祭が行われてからまだ年が淺い。通称、高濱正一と呼ばれていた。

 清七郎は、文化8年(1813)、備前都窪郡(現在の岡山県總社)市で農家の子として生まれた。年齢はさだかではないが京都に奉公に出て、入門時には白川家出入りの呉服商人になっていた。祭事に必要な衣裳全般にわたる御用立(ごやうだて)を引き受けてをり、出入りしているうちにその才覚を見込まれて行学を修めるようになった。「白川家門人帖」によれば、天保年間(1830~43年)に「『七種(ななしゆ)修業』終了門人免許」とあり、「白川門人」として入門を許された。修行は他の門人に秀でて進み、文久2年(1862年、50歳)8月には「十種神寶御法」(これが「祝(はふり)の神事」にあたるもの)の相伝(そうでん)を受け、内侍所並びに神祗官御免状、内侍御印書を拜受した。

 「十種(とくさ)」と呼ばれるように、この御法は十段階に分けられ、「七種(ななしゆ)」を修めて入門が許され、「三種(さんしゆ)」で一般の門人の修行は終了する。「二種(にしゆ)」、「一種(いつしゆ)」は神伝と成り、「一種」が天皇の神拜所作である。高濱の影響を受けたと思われる神道家に江戸・明治期に活躍した「鎭魂歸神法(ちんこんぎじんほう)」を確立した本田親徳(ちかあつ)がいる。本田は本田親徳全集の中で、「鎭魂歸神法」は日本古来から伝承されたもので、それを伝統に学んだとしている。それは、本田が高濱と友人だったことや「鎭魂歸神法」が俗に「輪外(わはず)れの鎭魂」と呼ばれていることから本田がこれを高濱清七郎かその一派から学んだと云って間違いないだろう。ちなみに、「祝の神事」は取次者が輪になって行う「輸の鎭魂」とも云えるものである。

 高濱が後世高い評価を受けたのは、伯王に代わって宮中神事に奉仕したばかりでなく、白川伯家最後の学頭として皇太子時代の明治天皇への「十種神寶御法」の指導に携わったことからであろう。指導に携わった時期は「十種神寶御法」の相伝を受けた文久2年(1862)8月以降から慶応3年(1867)までの間とみてよいだろう。「祝の神事」を実習しその意義を充分理解したと思われる明治天皇は、即位後も再三再四「高濱は今どこにいるか」と側近に間われたといい伝えられている。しかし、高濱清七郎の消息を知らせるものはいなかったと云う。

 「祝の神事」では、行を指導することを「お取立(とりたて)」をすると云って、「さにわ」、「かみしろ」、「はふりめ」と呼ばれる者たちがお世話をすることになっている。このような人々は白川家を始めとする由緒ある家柄の紳士・淑女が携はっていたが、かかる人は氏素性(うじすじやう)がはっきりしているために隱れることができず、幕末から維新にかけて悉く暗殺されたと、神祗官沿革物語に記されている。明治維新の陰の遂行者は、王制復古はどうでもよかったようである。幕末体制を崩潰させる大義名分として必要であったのであり、皇権の復活を望んでいたのではなかったようだ。王制復古が本来の皇権の復活になってしまえば、天皇を傀儡(かいらい)とすることができなかったからであろう。かくして、宮中から天子(てんし)を取り立る「祝の神事」は消滅していった。高濱もその難を免れないところではあったが、幸か不幸か公家や皇族の出身と云うことではなかったためにその難を逃れることができた。つまり、表面上は明治元年に神仏分離令が出され、神祗官が独立設置された。そして、王制復古・祭政一致の理念の下に高濱は大教宣布の号令下、その宣教師となって全国布教に携わった。高濱は「祝の神事」の重大さを認識しつつもなす術(すべ)もなく、かと云って「祝の神事」をこのまま消滅させることにも忍び難いものを覚え、全国布教のかたわら志あるものを募(つの)ってはその継承を決意していった。その決意に応じて「祝の神事」を実習した門人に、東京では吉田彦八、京都では宮内忠正(ただまさ)がいた。吉田彦八には「祝の神事」の行法が継承されていないが、宮内忠正は高濱の娘婿(むすめむこ)ともなり、行の継承に専念したようである。宮内も若くして他界したが、その実子・中村新子(しんこ)が継承し、この流れから多数の門弟が輩出していった。現在、民間で継承してゐる人はこの流れを汲むものである。明治二十年頃には、築地の地主・遠藤はつ宅に同居し、東京での布教活動をするかたわら、ひそかに「祝の神事」も指導していた。しかし、明治二十五年の秋、黄痕(おうだん)を患い、翌26年2月、療養の甲斐もなく逝去した。 
 
 幕末・維新期の伯家神道

 明治2年、神祗制度が改められ、皇族以外で王號を許されていた伯王の称号もおのづから廃された。更に明治5年、神祗制度そのものが廃止されるに及び、その職制は、宮中内侍所に関するものが宮内庁に、全国の神社の統括に関するものは神社庁にそれぞれ移管された。ただし神祗官八神殿(はつしんでん)での奉仕、天皇や攝関等に御拜作法を伝授する職制はここで消滅した。その消滅への経緯は次のようであった。天子摂関等への御拜作法の伝授は八神殿に付属する祝部殿(はふりでん)と云う所で行われていたのであるが、これらの神殿は白川伯家の邸内にあり、その神事は祕伝として行われていたのである。この伯家神事の中核ともなる「御拜作法」の有職故実(ゆふそくこじつ)に関する引き継ぎをめぐって、実は歴史的とも云える事態となったのである(一般的には問題視する人は少ないが)。

 最後の神祗伯・資訓(すけくに)王は明治5年の神祗制度廃止に伴って、当然、神祗伯所管の有職故実の返還を迫られた。神祗官邸内で行われていたものは宮内庁、神社庁にそれぞれ移管されたことは前述した通りであるが、間題は白川邸内に祭られていた八神殿と祝部殿の処置とそれに伴う「御拜作法」等の有職故実に関する引き継ぎであった。資訓王が当時の宮内庁の担当官に伺ったところ、「八神殿を返還するように」との答えであったと云う。現在八神殿の神々は神殿に合祀されている。そして、祝部殿に関する処置については何の返答もなかったと云う。そこで祝部殿はそのまま白川家邸内に残された。その後、嫡子(ちやくし)・資長(すけなが)に受け継がれた。資長は華族制度の成立に伴って子爵の位を受け、貴族院議員にもなったことから新宿の角筈(つのはず)に居住することになった。それに従って邸内の祝部殿も京都から東京へ移転した。その後、実子がなく北白川家より養子を迎えるが、唯一王家を名のることが許された公家ではあったが、有職故実を失って、実質的メリットをもたない公家に何の魅力もなく、その後離縁となった。多くの公家や華族がそうであったように白川家も沒落し、家に伝わった文献等は金光教や天理教等に売り渡されていった。当時、祝部殿で行われていた神事は皇太子のみにしか知らされていなかった神事であるだけに、その実質的担当者でなかった資訓王にしても宮内庁の担当官にしても、ことの重要性を理解できなかったとしても無理からざるところであったと思う。このようにして祝部殿とそれに伴う神事は、当然のことながら宮内庁や神社庁には継承されなかった。

 伯家神道のもつ意味は、本書で主題とするところの「古神道」としての行法の継承にあることは云うまでもない。江戸中期以降、官職としての神祇伯王家には天子攝関等への御拜作法並びに行法伝授の能力は失われ、専ら行法の指導を司(つかさど)る学頭にその職務は移行していた。そして、明治以後現在に至るまで、宮中では吉田家の伝統によって宮中祭祀が行われているが、そのこと自体は問題にならない。間題なのは、伯家神道の存在意義は祝部殿で行われる「祝の神事」(御修行と俗称されている)を中心とした行学にあるとともに、天皇神格化の原理である神人合一(しんじんごういつ)の優れた形式である「祝の神事」が、明治5年、神祗制度が廃止されるとともに宮中行事から消え去ったことにある。

 明治維新を成功させた志士たちの理想は尊皇であり、王制復古であったはずであるが、でき上がった明治の天皇制は形許りのものとなり、実体は天皇制の空洞化であった。結果的には明治維新は皇道から覇道への転換であり、悠遠(ゆふえん)なる日本の伝統を卑(いや)しめることとなった。天皇が西欧封建君主のように軍服を纏(まと)い、サーベルを身に付けることとなったことで象徴されよう。たしかに、天皇は大嘗祭(だいじやうさい)を経て天皇に即位することができる。「天皇は大嘗祭によって真の天皇の資格を得る」と、昭和3年に歌人で国文学者の折口信夫(おりくちしのぶ)が発表した眞牀覆衾論(まどこおふすまろん)が示す通りである。しかし、皇太子時代に長い期聞の修行を必要とする修行があったことも事実である。幸か不幸か臣下万民の知られざるところで天皇となるための祕行「祝の神事」が存在していたことが、明治5年神祗制度そのものが廃止されることによって我々の知るところとなったのである。その最大の功労者は勿論伯家神道の最後の学頭・高濱清七郎である。

 実際大嘗祭を迎えるまで、代々の天皇は皇太子の時代から、長年の間「祝の神事」を白川伯王家邸内にて密(ひそ)かに修められていたのである。明治天皇は皇太子であった江戸時代の末期はまだ神種制度が存在していた時代であったので、この「祝の神事」を受けられた最後の天皇と云うことになる。実際に指導に携わった人物が、前述の通り高濱清七郎であった。
 
 帝王學としての天皇行とその故事來歴

 天皇は古来「はつくにしらすすめらみこと」と呼ばれ、第一に「統治する」働きと第二に「神を祭る」働きの二つを体現するのが本来の姿である。第一の働きである「統治する」働きを完遂するための原理は「天地創造の神の心の隨(まま)に」と云う原理である。文字によらず言葉によらずそれを体得する方法が「ヲノコロの祕法」と呼ばれるものであった。古事記、日本書紀にもその名前だけは散見する。天皇が御位を継がれると八尋殿(やひろどの)を建て、そこでこれを行じたとある。この祕法を行った結果、国が安らかに治まったとある。これに対して第二の「神を祭る」働きを完遂するため、身を清め神を迎えられるようにする修養が当然必要になってくる。「ヲノコロの祕法」と不離一体のものではあるが、これが前述した「十種神寶御法」であり、「祝の神事 = 御修行」と呼ばれる行法体系である。天皇家の系図は天地創造の神を先祖とし、各々の天皇はその直系の子孫と云うことになる。天皇がただ単に系図上、天地創造の神の直系の子孫であると云うだけではなく、その意識も神と同等の意識に立って萬民を慈(いつく)しむ立場に立つためには、それなりの皇学が存在しても不思議ではない。その皇学(帝王学)にあたるのがこの「祝の神事」を始めとする行法体系であると云うことになる。天皇は本來「祝の神事」をマスターすることによって、天地創造の神から始まって皇祖皇霊を迎へ、親しく神々と交わり、しかるべき作法をもって霊を拜していたのである。この「しかるべき作法」と云うところが伯家神道の中核となるところである。神道のその他の行法や印度のヨガ行法を通じて「高い悟り」と云った境地に到達したと云う聖者は数多く存在する。天皇はそのような聖者になるだけでなく、ある形式をもって神を拜する存在になると云うことである。神を拜する時にそのしかるべき作法が伝授されるわけであるが、これを「神拜(しんぱい)の式」と呼んでいる。しかし、意図したか否(いな)かは別として、明治維新はかかる重大な事柄(ことがら)を葬り去ってしまったのである。

 神武(じんむ)建国以来の悠久なる歴史の中で、このような事態が一度だけ起こっている。仏教伝来(538年)直後のことであった。この「神拜の式」の原型は神武帝の御代に天種子命(あめのたねこのみこと)によって確立され、用明2年(587)までその嫡流の子孫・大中臣牟知麿(むちまろ)まで継承された。しかし彼は蘇我馬子の陰謀により物部守屋とともに滅ぼされたため、宮中からその神事が杜絶えることとなった。この時、宮中に保管されていた傳国の宝物も焼き払われたと伝えられている。ここで神武以来の伝統が消滅したわけであるが、これを先祖の神詔を受けて復元させた人物が出現した。天種子命の庶子(しよし)、宇佐津臣命(うさつおみのみこと)の19代目の末商(まつえい)・藤原鎌足である。大化の改新の成功によって再びこの神事は宮中に復元された。用明2年の消滅以来、五十数年の後であり、天種子命がその制度を確立して以来、約千二百年後のことになる。この功績により藤原鎌足は「神祇再興の祖」として末代まで崇められることになる。政治権力者として知る人は多いが、藤原鎌足が審神者(さにわ)の神であることを知る人は少ないに違いない。伯家神道では藤原鎌足は行法上の直接の指導神なのである。そして、明治維新に起こった「祝の神事」の教育制度が宮中から消滅すると云う事件は、藤原鎌足が神祗再興を果たしてから矢張り同じ約千二百年後のことになる。現在の「古神道」への関心の高まりは、本来の王政復古への日本人の希求の現れなのであろうか。

 藤原鎌足が神祗再興を果たしたのは用明二年の消滅以來五十数年後であったが、明治五年に神祗制度が廃止されて以来、既に百二十年以上の年月が過ぎ去ろうとしている。伯家神道の口伝の中には、この神事を受けない天皇が百年間継続する時、日本の国体も滅亡すると云ういい伝えが存在する。大正、昭和、今上(きんじやう)と年数を数へてみると既に八十五年が経過している。いい伝えが嘘であってほしいものである。


 「祝の神事」の現代的意義

 現在、日本は経済的に大きく繁栄し、多くの国々の羨望(せんぼう)の対象に成つている一方、国際社会で高く評価されてきてゐるのも事実である。かかる現状を鑑(かんが)みると、世界に類例をみない天皇制に大いにその恩恵を被(かうむ)っているとみることができよう。だからと云って日本の伝統として伝えられた、文字によらず言葉によらぬこの帝王学の存否が日本の存亡に関わりがないと判断するとすれば、これもまた大変淺はかな判断ではなからうか。これからの国際社会の中に於る日本の立場は、経済大国として世界に貢献することが期待されてゐる。国連の常任理事国と成る事も期待されている。しかし、一方大変危険な方向に向かっていることも見逃してはならない。東西冷戰の終結によって、日本とアメリカの関係は徐々に軍事的結束が緩んで来ている。日本の防衞は他国から侵暗する国がない事を前提としている。侵掠する国があるとすれば、日米安保條約を基にアメリカが守ってくれることが前提に成っているのである。アメリカが世界の警察官を自任している間は日本も安泰と考えてもよいだろう。しかし、十年後、二十年後このままの状態が継続する保証がどこにあろうか。湾岸戦争の間、アメリカは世界に呼び掛けてフセインの非を制裁しようとした。しかし、経済的には日本やドイツに多くを依存していたのである。アメリカにとって日本は保護する対象ではなくなりつつあるのだ。むしろ、国の存亡を脅(おびや)かす存在とすらなりつつあるのだ。十年後、二十年後、アメリカにとって代わって覇権を主張する、その実力をもつ国が現れないと云う保證がどこにあるだらうか。国際社会は決して安全な世界ではない。そんな中で、日本が生き延びていく原理は何かである。世界から尊敬される国になることであり、かつ神から愛される国になることである。世界から尊敬され、神から愛される国に成る原理がまさに、生命としての日本人の核である天皇の姿勢である。その天皇の姿勢を伝統に基づいた姿に育てる教育制度が神祗制度の中の「祝の神事」であった。この復元によってこそ日本が世界の中で生き延びることのできる第一条件が整うと云えよう。

 日本が悠久なる歴史の中でその国体を保ってこられたのは、その時その時の爲政者と国民の努力にあったことは勿論のことであるが、もっと大きな力は、目に見えない国魂(くにたま)の力なのである。その意味で日本を守る国魂の力は絶大なものがあると云ってよい。その日本を守ろうとする国魂の慈しみの心を、今なお失わさせずに嚮かわせている力が、天皇の国魂に対する「神拜の式」なのである。天皇が「祝の神事」を修め「神拜の式」を修得する意義はここにある。覇道が武力、王道が徳力を頼りにするものであるとするのに対して、皇道とは神ー国魂の力と心を嚮かはせて国を守る道と云ってもよいだらう。天皇は神に国の安全と民の幸福を祈る祭(まつり)司(つかさ)と云うことになる。その祭司に必要な祈りの形式が「神拜の式」であり、祈りの言葉の形式が三十一文字(みそひともじ)の短歌と云うことになる。天皇のアメリカ訪間でクリントン大統領が日本の国学者・橘曙覽(たちばなあけみ)の歌を引用して挨拶を述べられたごとく、天皇が短歌に執心されていることは海外まで知られるようになっているが、これが神への祈りの言葉の形式であり、更に神への祈りの形式「神拜の式」があることや、天皇がそうした重要な役割を担っていることが理解される日はいつのことだろうか。

 明治天皇(大室寅之佑)は、南朝系ですらなく、天皇家の血筋と縁もゆかりもない地家家の血筋の可能性大である。そして、ここに述べられている祝の神事の祕義を授かっていないのである。ここ両面に於いて、名実共に現皇室は天皇家ではないのである。天皇の神聖を冒涜しているのである。

【既成の天皇制論検証】
 「マルクス主義同志会」の機関紙「海つばめ」(1003号2005年11月13日)が、「戦力の不保持から“軍国主義”へ」と題して天皇制論をサイトアップしている。これがいわゆる左派の天皇制論だと思われ、れんだいこのそれと余りにもかけ離れているので、左派理論の正系を問うためにれんだいこコメントを付けて検証する。

「戦力の不保持」から“軍国主義”へ
自民党の憲法草案発表さる――「秩序」や国家への忠誠押し出す

 許すな皇族の憲法違反発言 つくる会と連動する寛仁の策動――「万世一系」の天皇制を守れと

 小泉内閣は、今月末にまとめられる「皇室典範にかんする有識者会議」の報告をテコに、女帝を認める皇室典範改正案を、来年の通常国会に提出するスケジュールを描いているが、それに対する反動どもの策動が活発化している。その一環が、皇室の一員で、現天皇と従兄弟(昭和天皇の四男の長男)にあたる三笠宮寛仁の発言であろう。彼は、反動陣営の動きに連動しつつ、つくる会と全く同様な見解を公表し、天皇家の権威でもって、反動に強力に支援を送ろうというのである。憲法違反の皇室の策動を許してはならない。

 皇室の一員が、公然と、「有識者会議」の方向と結論に異議を唱えたということは、皇室の本音を暴露するとともに、重大な政治的な意味を持っている。小泉のように、「誰でも発言の自由があるから、皇室に聞いても構わないのじゃないか」といった問題では全くないのだ(小泉は、有識者会議が、この問題で皇室の人間に意見を聞くことはない、それは憲法違反に当たると結論したことに対して、こうした無責任な発言を行っている)。

 というのは、現憲法は明確に天皇や皇室の政治的行為はもちろん、そうした発言も禁じているのであって、“国民の象徴”であるべき天皇が、こんな憲法違反を犯していいはずもないのである。

 これまで、つくる会の連中や反動たちは、天皇制の問題について、天皇や皇室の意思を聞くべきであると言い張ってきた。

 まさにそれに応えるような形で、皇室(天皇の従兄弟)の発言がなされ、つくる会などが「得たりやおう」とばかりに、女帝容認反対の大キャンペーンを開始していることこそ、ことの本質を語って余りある。

 もちろん、皇室の連中が「ひとりごと」を装えば政治的発言をしていい、憲法に抵触しない、などということには決してならない、だが政府も国会もブルジョア司法も天皇家の連中のこうした憲法違反の言動を取り上げ、問題視し、規制しようなどとは決してしないのである。民主主義が聞いてあきれるではないか。

 寛仁は、小泉内閣の閣僚である麻生とも姻戚関係にあり、陰で安倍や麻生が糸を引いているかもしれない。あるいは、彼は天皇の“名代”として発言したのかもしれない、つまり天皇や天皇一家の意思が、彼らの自己満足や利己主義が、彼の発言に端的に表されているのかもしれない。

 寛仁自身、自分の発言の“違憲性”をよく知っているのであって、だからこそ、その発言を“随想”といった形でカモフラージュし、皇族は憲法上公然とした発言はできないから、「身内の小冊子でのプライベートなひとりごと」としてやるなどと断わりながら、しかも厚かましい、違憲の言動にふけるのである。自らの発言が憲法違反であることを百も承知でやっているのだから、その悪党ぶりは徹底している。

 彼が強調することは、つくる会の連中がわめいていることと寸分と違わない。

 天皇制は二千六百六十五年間も(つまり神話が語っているように、神武天皇の即位以来)男系で続いてきたのであって(つまりありがたい「万世一系」だ)、これを否定することは、日本の「国体」を否定し、ひいては日本の国家を否定するに等しい、というのである。

 この思い上がった、頭の空っぽな男は、古代より国民が『万世一系の天子様』の存在を大切にして来てくれた歴史上の事実とその伝統があるがゆえに、現在でも大多数の人々は、『日本国の中心』『最も古い家系』『日本人の原型』として、天皇家を敬慕しているのだと、手前味噌を並べてもいる。

 そして女帝でいいというようなご都合主義的な議論をしていくなら、「いつの日か、天皇はいらないという議論にまで発展する」と恐怖するのである。

 この皇室の男がどんな意識や観念の持ち主であるかは、天皇制が二千六百六十五年続いてきたと言っていることからも明白である。全く“皇国史観”に支配されたような頭のこり固まった反動であり、“皇室意識”でふくれ上がった、増長慢の俗物なのである。

 連中は事実に基づく科学的な歴史――それによれば、天皇家の歴史はせいぜい千数百年前頃に始まるにすぎず、寛仁の言うのとは千年ほどもずれているのだ――よりも神話を信じるのであり、そんなものが「日本の国体」だと言うのである。まったく恥を知らないとはこのことだ。

 この皇室の一員は、天皇は「国体」そのものであり、国のために必要だと言ってみたり、あるいは皇室は国民から崇拝され、尊敬され、慕われていると言ってみたりして、天皇制とその存続の意義を強調して止まないのだが、要するに、それは彼もその一員に属する皇室を永続させ、その特権的な地位を守りたいだけのことにすぎない、つまり徹頭徹尾、利己主義から出発しているのである。

 ただ彼は、国家のためとか、「国体」だからとか、国民の崇拝の的だからといった、つまらない理屈を持ち出して、皇室のエゴイズムを必死で隠そうとしているにすぎない。

 彼らは、国家によって保証された、国民の“象徴”としての寄生的で、居心地のいい特権的な地位を失うことを恐れるのである。

 彼らの国民の労働に寄生する生活は、つい最近も皇族の女性が“民間人”つまり国民と結婚するとき一億五千万円ものカネが国から支給されたことにも現れている。ブルジョア・マスコミは、不当であり、不正義でもある、こうした途方もない特権に対して、驚いたことに何一つ異議を申し立てることも、非難することもしなかったのであるが。

 そして最近、彼らの立場もまた徹底的に“非人間的”なものである、それは雅子がノイローゼに陥ったことからも明らかである、あるいは結婚の自由もない、職業選択の自由も参政権もない、政治的発言もできない、こうしたことどもはみな基本的人権を奪うことであり、人間性の否定だから、天皇制を廃止せよ、などという者もいるが、しかし基本的にナンセンスであろう、というのは、皇室の大部分はこの“非人間性”などほとんど苦にしていないからであり、むしろ反対に、その中に安住し、特権と居心地のいい地位に執着し、それを防衛しようと常に全力をあげているからである。すでに千年以上にわたって、天皇家はそうしてきたのであり、今もしているのである。

 この男が、どんなに特権の保持に心を砕いているかは、単に天皇制の護持や男系の維持だけでなく、その擁護に隠れて、自らの利益ために自分の“家”を“宮家”として存続させるために措置を取れと言い出していることからも明らかである。

 つまり彼は、どこの“馬の骨”とも分からない「元皇族」を引っ張ってきてもいいから、天皇本家だけでなく、廃絶になった宮家(秩父宮、高松宮といった、昭和天皇の弟らの「家」)もその祭祀を継承してもらって再興せよといった要求も提出している。彼は秩父宮、高松宮家について語りながら、自分の家のことを語っているのである。

 というのは、三笠宮家も女子ばかりが生まれてしまって(孫の代になって、五人とも全部が女というわけだ)、秩父宮、高松宮家と同様、断絶するのは必至となっているからである。

 だから、寛仁は直接に天皇制の護持を願うだけでなく、皇族としての自らの“家”の存続をも策動するのであって、かくしてその利己主義を決定的に暴露するのである。もちろん、その口実は「国体の護持」であり、天皇制の継続のため、といったものである。

 彼らは「血」をありがたがり、「万世一系」などを持ち出して、天皇家を神聖化しているが、笑うべきことであろう。一体戦後憲法は、“出生”とか“血”といったものの「価値」を否定し、万人の「生れながらの」平等を謳ったからこそ、民主主義憲法ではなかったのか。

 しかし寛仁とか、つくる会の連中は、「血」とか「男系」とか「万世一系」とかいった、つまらない“前近代的”、非民主主義的“価値観”に固執し、それを擁護して止まないのである。

 しかし万世一系であり、男系でのみつながってきた、「最も古い家系」などと言ってみても、例えば、「二十五代」の武烈に男系がいなかったので、十代二百年も前の「十五代」応神の子孫を越の国(現在の福井県)から連れてきて、継体天皇に祭り上げたという“事実”が日本書紀にあるが、しかしこの系統は途中でとぎれていて、名前さえ記されていない、だから歴史家たちは、諸般の事情も考慮して、ここで王朝の交代があったとか、女系でつながっているとか主張しているのであって、万世一系など空論だと強調しているのである(この点については、林氏の『女帝もいらない』の一七八頁以下に詳しい)。

 それに、二百年も前に分かれた血筋などと言っても、どこの“馬の骨”か分かったものではない。歴史の中には、百三十年だ、百年だ、七十年だといった祖先から「血」を受け継いで、ようやく天皇になり上がったような連中が何人もいるのだ。全くこんな「血」をありがたがっているよう連中の常識を、その頭脳の合理性を疑うのである。

 そして今、どこかの宮家から“婿”を連れて来ると言っても、戦後廃絶された伏見家から探し出して来るしかないが、この伏見家というのは、何と六百年も前に、現天皇家と分かれたというのだから、継体天皇の三倍もの“遠く”からであり、その人間の“馬の骨”ぶりはさらに徹底しているということになる。

 ついでに言っておけば、“めかけ”(いくらか体裁のいい言葉で言えば、“側室”)出身の天皇は全体の半分近くの五十五人もいるのだから、天皇家の“非道徳性”は余りに明らかであって、これが日本の“象徴”(したがって、日本の“家族”形態や道徳や文化や歴史の象徴)などと恥ずかしくて、誰にも(どんな外国にも)言えないほどではないか。

 全く自民党といい、つくる会といい、皇室といい、何というばかげた観念、非合理主義にうつつを抜かすことのできる、とんまな連中であろうか。

 実際、六百年も前に分かれた天皇の「血」を引いてきて、それが“尊貴”だとか何とか言ってみても、六百年もたてば、ある個人の「血」といったものは、ほとんどどちらでもいいものになる。

 また、他方では、千年、二千年前の「天皇」の「血」を引く人間は男系だけと限っても、日本国中にいくらでもいるのではないだろうか。しかも天皇家の連中の中では、多数の女性に多数の子供を生ませた者もいたのだから、日本国中にそのありがたい「血」が広がっているかもしれず、そんな人間をすべて“尊貴”だなどと言い出したら、世の中が収拾がつかなくなるであろう。

 しかし、「血」そのものが尊いというのだから、みんな彼らは平等であり、どうして区別したり、差別したりできるであろうか。

 つくる会や皇室の連中は、「血」が尊いというが、実際には、「血」そのものではなく、皇室の人間が国家権力と結び付き、その頂点にいるからこそ「尊い」とわめいているにすぎないのであって、千数百年の間に全国に散らばったかも知れない、初代天皇の「血」そのものが尊いと言っているのではないのだ。そんなものを本気で称揚し、祭り上げようとしたら、大変なことになる、というのは、全国にそれがどんな規模と広がりで存在しているかは、誰も知らないからである。

 つくる会の連中や皇室の連中は矛盾している、天皇が“尊い”のは、その「血」そのもののためなのか、それとも、「血」自体ではなく、天皇家が国家権力とむすびついてきたがゆえに、その「血」が尊いのかを語ることができないからである。彼らはただその「血」が尊いかに言い張り、国民をだまして来たにすぎないのだ。

 「血」そのものが尊いなら、全国に何万人といるか知らないが、神武天皇以来、その「血」を引く人間をすべて探しだしてきて、しかるべき措置をとらなくては少しも一貫しない、しかし天皇の「血」を神聖視する支配階級のペテン師どもはそんなことを決してしないのである。彼らが神聖視するのは、「皇室」だけである、つまり彼らが制度的に囲い込んだ、国家機関の一部としての「皇室」の「血」だけが尊いというにすぎない。

 実際には、天皇家の“万世一系”とやらの「血」が尊いのではなく、ただ支配階級が天皇は尊いといって、いつわりの権威を作り出し、労働者人民を支配し、抑圧する一つの道具に仕立て上げているだけのことである。

 実際、孔子の子孫が全世界で何万とか、何十万人とか最近新聞で読んだが、一人の男子の(あるいは女子の)子孫も、何世代も経過すれば、そして何百年、何千年もたてば、それくらいにはなり得るのであって、つまりこれは数百年もたてば、国中の、あるいはこれからは、全世界の人々の「血」は混ざり合ってしまう、ということである。

 そして国家に囲い込まれた皇室の「血」が「尊い」ものであるどころか、我々国民の「血」と比べてはるかに“なまぐさく”、狂暴、奇嬌であったのは、歴史自身が(『日本書記』等々も)語るところである。

 そんな昔の例を引くまでもなく、最近の昭和天皇自身が数百万の日本人を殺し、アジアを初めとする世界の数千万人の人々を殺傷した反動戦争(十五年にわたる帝国主義戦争、アジア太平洋戦争)の張本人の一人であり、戦争犯罪人として処刑された東条らの同類、その“盟友”であったことからも、天皇家の「血」が尊く、神聖であるどころか、まさに「血」にまみれているとさえ言えるのである(昭和天皇は実際上、自らのやったことを何ら反省も謝罪もしなかったが、それもまた「皇室」といった連中の道徳的レベルを暴露している)。

 皇室の連中が、天皇制の問題について露骨な発言を始めたが、これはまさに憲法違反であり、許されざることである、そして皇室がこんな形で発言し、自らの地位を防衛するために策動を開始したという事実の中に、我々は、天皇制が廃止されなくてはならない理由と根拠の一つを見出すのである。

 皇室の連中は、自らの特権的な地位を守るためには、歴史の中でどんな破廉恥な策動もしてきたし、今もしているのであり、その一端が今回の三笠宮寛仁の発言によっても暴露されたのである。我々は皇族寛仁の厚かましくも破廉恥な発言こそ、天皇制の廃絶の必要性を教えていると強調する。

 寛仁の発言は突き詰めれば、自分たちの“地位”は特別であり、「尊い」ものだから永続させよ、ということだけである。自分たちの寄生的で特権的な地位や利益を、これほどあからさまに擁護するとは、皇室の連中は何という最低のエゴイストたちであることか。

 天皇や皇太子たちが何を考えているのかは分からない、しかし寛仁の発言と大同小異であることだけは確かであろう。もしそうでなかったら――例えば、一部の世論が天皇家に同情して言うように、「非人間的な地位に苦しんでいる」というのなら、どうしてさっさと自ら天皇制度などはなくそうと発言しないのか。

 本当はそうしたいのだが、天皇家の存在は国のために必要だと自らに言い聞かせ、自ら「耐えがたきを耐え」、我慢しているとでも言うのか。

 仮にもしそうだとしても、天皇家の存在は国のために必要だなどと思い込むこと自体が、暗愚の象徴みたいなものであろう。

 小泉内閣を頂点とする政治家たちも、“財界人”も、官僚も、みな憲法無視、法律違反など日常茶飯事であり、皇室もまた今や、国民(つまり支配階級)の“象徴”として、堂々と憲法違反して恥じないのである。そして小泉内閣はもちろん、野党も司法もマスコミも皇室(象徴天皇)のこうした言動に沈黙したままであり、天皇もまた自らの“身内”の憲法違反という“不祥事”に知らん顔である。


日本固有文明に感銘を受けた外国著名人 投稿者:中西  投稿日: 8月28日(火)00時16分48秒

(A・アインシュタイン、大正11年11月の初来日にて)

近代日本の発展ほど世界を驚かせたものはない。一系の天皇を戴いている事が今日の日本をあらしめたのである。私はこのような尊い国が世界に一ヶ所位なくてはならないと考えていた。世界の未来は進むだけ進み、その間、幾度か争いは繰り返されて、最後の争いに疲れる時が来る。その時人類は、まことの平和を求めて、世界的な盟主をあげなければならない。この世界の盟主なるものは、武力や金力ではなく、あらゆる国の歴史をも抜き超えた、最も古く、又、尊い家柄でなくてはならぬ。世界の文化はアジアに始まって、アジアに帰る。それはアジアの高峰、日本に立ち戻らねばならない。我々は神に感謝する。我々に日本という、尊い国をつくって置いてくれた事を・・。(A・トィンビー。昭和42年2度目の来日にて)

この聖地(伊勢神宮)において私は全ての宗教の根元的統一性を感得する。神道こそ地球人類の危機を救う、普遍的な世界宗教になる。(歴史学者、「歴史の研究」著)

(中西注釈)
神道には教祖もいない。根本教典もない。社(やしろ)はひっそりと森にたたずんで
特定の人物が守ってもいない。そして清浄である。天照大神は機織をし、男の神様はみな田畑の耕作をし、最高の神官である天皇は国民を代表して稲を作り、皇后は「おかいこ」を飼っておられる。神道は大自然を畏れ、大自然を敬い、湿気の多い日本から、腐敗物等の病いを遠ざける為に、塩で清める。けがれをとる為にみそぎをする。日本は神々の国で「日の本」とは天照大神と太陽神の信仰である・・(と思います)。

天皇は奇跡的存在、世界の主要国でエンペラーは1人だけ

10/20(日) 7:00配信

2013年、オランダ国王の即位式に出席され、国際親善を果たされた(時事通信フォト)

 天皇陛下が即位を宣言される『即位礼正殿の儀』が10月22日に行われる。世界の王室では、イギリスからはチャールズ皇太子、オランダのウィレム国王夫妻、スペインのフェリペ国王夫妻、ベルギーのフィリップ国王夫妻、サウジアラビアのムハンマド皇太子などが参列する予定だ。大統領などの首脳級では、ドイツのシュタインマイアー大統領、トルコのエルドアン大統領、フィリピンのドゥテルテ大統領、インドのコーヴィンド大統領らの参列が予定されている。

【別写真】ご成婚パレードで笑顔を見せられる美しき雅子さま

◆「世界最古の王朝」支えた天皇の人柄

 なぜこれほどまでに多くの世界の要人たちが天皇陛下の即位に関心を持ち、集うのか。米出身の弁護士で、日本文化や皇室の歴史に詳しいケント・ギルバートさんはこう説明する。

「日本の皇室は、ほかに類を見ない、2000年以上続く『世界最古の王朝』です。歴史が長い国はほかにもありますが、国名が変わらずひとつの国として突出した歴史を持つ国は日本以外にはありません。そうした貴重な歴史の中心にいたのが、天皇と皇室なのです。

 世俗の権力から一定の距離を置き、ひたすら国民の安寧を祈り続ける天皇という存在は、世界に唯一無二の奇跡的な存在です。そのことに、世界の国々が敬意と憧れを持っているのです」

 実際、ギネスブックにも、日本の皇室は「世界最古の王朝」と記録されている。

 上皇陛下から天皇陛下への譲位は、第119代光格天皇以来、約200年ぶりだったことが注目された。日本人にとっては“たった200年前か”という感覚だが、太平洋の向こうのアメリカ合衆国は建国そのものから250年も経っていない。アメリカ在住の作家で、国際外交関係に詳しい冷泉彰彦さんが解説する

「世界の外交の常識で言えば、総理大臣よりも、大統領よりも、国王よりも、エンペラー(天皇、皇帝)が最も“格式”が高い。首相や大統領はその時代の国民に選ばれた代表であり、国王は王家を継いできた人ですが、エンペラーは国の文化や宗教などを含めたもの、つまり“文明の代表”という位置づけになる。

天皇は奇跡的存在、世界の主要国でエンペラーは1人だけ

10/20(日) 7:00配信

 たしかに20世紀まではドイツやオーストリア、エチオピアなどの国でエンペラーを名乗ることがあったが、長い歴史の中でずっとエンペラーであり続けたのは日本の天皇だけ。今の世界の主要国の中で、エンペラーはたった1人、日本にしかいないのです」

 皇室がこれほど長い歴史を保てたこと自体が国民から敬愛されてきた証だと、ギルバートさんは続ける。

「海外では、フランスやロシア、イランなど国民による革命によって王室が廃絶に追い込まれたケースも少なくない。日本も終戦後に皇室廃絶運動やクーデターが起きても不思議ではありませんでした。しかし、昭和天皇は戦争で焼け野原になった全国各地をすすんで巡幸され、国民はそれを大歓待しました。

 戦争で苦しみ、指導者に対する恨みや憎悪が高まる国も多いですが、日本人は“普通の国”とはまったく違う反応をしたのです」

「普通ではない」反応を引き出したのは、昭和天皇の人柄だったという。

「昭和天皇は巡幸に際し、みすぼらしい庶民的な洋服をお召しでした。“国民は着るものに不自由しているのに、自分だけがいい服を着て国民の前に立てない”と配慮されたのです」(ギルバートさん)

 そうした天皇の存在を、古来、日本人が敬愛し続けていること──そうした天皇と国民の関係が、世界の多くの国で敬意を持って受け入れられているのだという。

「諸外国にとって、天皇という存在は比較対象のない非常に特殊な存在です。しかし、その異質な存在を中心に日本の人々は精神的に充実した生活を送っている。奥深い伝統と神秘性を持つ日本の皇室が、これからどう続いていくのか、その転換点である即位の礼に立ち会いたいと考えるのはごく自然なことなのです」(ギルバートさん)

※女性セブン2019年10月31日号

2019.10.19 07:00  女性セブン

即位の礼、イスラエルとパレスチナ首脳が同時参列する意味

パレスチナからアッバス議長も訪れる(写真/時事通信フォト)

 天皇陛下が国内外に広く即位を宣言される『即位礼正殿の儀』が、10月22日に行われる。その翌日となる23日には、天皇皇后両陛下が外国要人を赤坂御所に招く茶会が催される。

 平成時代では、上皇上皇后両陛下が元首級の外国王族を赤坂御所に、皇太子だった天皇陛下がそのほかの王族を東宮仮御所に招き、茶会を開催された。今回は両陛下がほかの皇族とともに、赤坂御所に一堂に会する形で催されることになる。

 茶会は当初、開催も含め検討が続いていた。

「茶会をやらなければ、お祝いのために遠路はるばるやって来た海外要人をもてなす機会が饗宴の儀だけとなってしまいます。両陛下はできる限りもてなしたいとお考えになり、茶会の開催をご希望されたそうです。賓客側からも、『陛下、雅子さまにゆっくりお目にかかりたい』という声が多く、その希望に応えたいという思いもお持ちなのでしょう」(皇室記者)

「即位礼正殿の儀」には世界の錚々たる要人が駆けつける。

 まずは世界の王室だ。イギリスからはチャールズ皇太子、オランダのウィレム国王夫妻、スペインのフェリペ国王夫妻、ベルギーのフィリップ国王夫妻、サウジアラビアのムハンマド皇太子などが参列する予定だ。

 大統領などの首脳級では、ドイツのシュタインマイアー大統領、トルコのエルドアン大統領、フィリピンのドゥテルテ大統領、インドのコーヴィンド大統領らが予定されている。

 米在住の作家で、国際外交関係に詳しい冷泉彰彦さんが解説する。

「イスラエルのネタニヤフ首相が来日するのと同時に、イスラエルと緊張関係にあるパレスチナ暫定自治政府のアッバス議長も参列予定であることが注目されます。ネタニヤフ首相は、パレスチナに対して強硬姿勢であることが知られている。両者が同席する機会は国連総会などごく限られ、新天皇の即位で顔を合わせるとは驚きです。

 20世紀前半には多くの戦争がありました。しかし、終戦後の昭和天皇、そして上皇陛下は、国同士の争い事に一切かかわらず、むしろ世界平和に尽くしてこられた。その姿勢が世界の国々から尊敬を集め、日本が平和国家として認められる一因になっています。だからこそ、イスラエルからもパレスチナからも、同時に政治指導者を迎えることができるのです」

 そのほか、アメリカからはイレーン・チャオ運輸長官、中国からは王岐山国家副主席という大物が参列する。

「米中の貿易戦争が、世界経済に暗い影を落としています。しかし、両国は水面下で交渉を続けている。もしかしたら、即位の礼を機会に、日本で米中が握手をする機会があるかもしれない。皇室という存在が、政治的に中立であるがゆえに、利害関係なく世界の政治家たちが集えるのです。

 そういう意味で、即位の礼の場が、極めて重要な外交的な意味を持つと言えるでしょう」(冷泉さん)

※女性セブン2019年10月31日号





(私論.私見)

大室寅之祐=東京明治天皇と現皇室
http://www.asyura2.com/2002/bd18/msg/943.html
投稿者 大室寅之祐の弟の玄孫 日時 2002 年 8 月 30 日 19:37:17:

參考資料(幕末~明治)
http://www.asyura2.com/2002/dispute3/msg/761.html
投稿者 通りすがり 日時 2002 年 11 月 07 日 01:00:06:

Re: 日本人は何故駄目か
http://www.asyura2.com/2002/dispute4/msg/103.html
投稿者 通りすがり 日時 2002 年 11 月 08 日 01:26:38:

「萩」へマンジュウつくりにいつてくる 田布施町のタブー2003春
大室寅之祐=東京新明治天皇の出自と近代皇室に就いて
http://www.asyura.com/0306/dispute12/msg/477.html
投稿者 世界に廣げよう!大室寅之スレ 日時 2003 年 8 月 05 日 19:37:38:TPRIcaMUGq.Ys

現皇室の祕密 (雅子樣ご懐姙騒動の眞相など)
http://www.asyura2.com/0401/bd33/msg/587.html
投稿者 ジオン兵士 日時 2004 年 2 月 06 日 07:58:25:YeAWrBzgL3M5Y

今の天皇は現王朝が出來てから四代目(孝明天皇で前王朝は終了し、
明治天皇から新王朝が始まつてゐる)
http://www.asyura2.com/0401/idletalk7/msg/781.html
投稿者 リーマン 日時 2004 年 2 月 06 日 02:48:08:FagqpUDXKcu9o

其れ以前に、「明治天皇」は孝明天皇の子ですらない【孝明天皇暗殺と睦仁親王すり替え事件】
http://www.asyura2.com/0403/bd35/msg/816.html
投稿者 皮肉屋 日時 2004 年 6 月 01 日 10:32:12:0dIQZfg1bPDtc

右翼の大半はユダヤに操られる日本破壞工作を目論むエージェンント朝鮮人だから有害。
尊皇攘夷運動で驅逐せねば日本の將來は無い
http://www.asyura2.com/0510/senkyo16/msg/1247.html
投稿者 救國の草莽の志士 日時 2005 年 11 月 22 日 23:17:32: fzrYJ5Wj4Dt36

[太田龍の時事寸評]長島銀藏著「皇統正史」に關する寸評2つ
http://www.asyura2.com/0505/bd41/msg/675.html
投稿者 あつしら 日時 2005 年 10 月 27 日 03:45:35: Mo7ApAlflbQ6s

第一囘目の天皇すり替えの經過(孝明天皇暗殺&大室寅之祐を明治天皇に
すり替へた事件の詳細)
http://www.asyura2.com/0510/war76/msg/435.html
投稿者 救國の草莽の志士 日時 2005 年 11 月 26 日 13:20:57: fzrYJ5Wj4Dt36

日本人が知らない近・現代天皇制の驚異の眞相
http://www.asyura2.com/0601/senkyo18/msg/342.html
投稿者 眞相ハンター 日時 2006 年 1 月 04 日 18:00:59: Zk4s5qq50i/J2

大室寅之祐が明治天皇に成つたと云へる勇氣を持たう!
【明治維新眞實情報公開法案の早期法案提出を】
http://www.asyura2.com/0601/bd45/msg/551.html
投稿者 愚民黨 日時 2006 年 8 月 23 日 01:51:24: ogcGl0q1DMbpk

ニセ奇兵隊天皇「大室寅之祐」を捏造した長州が又自衞隊海外派遣恆久法制定めざす安倍―
エセ長州こそ、「大日本帝國」の主體
http://www.asyura2.com/0601/senkyo25/msg/680.html
投稿者 救國の草莽の志士 日時 2006 年 8 月 26 日 00:21:25: fzrYJ5Wj4Dt36

大室寅之祐 明治天皇の誕生 (1)  投稿者 通りすがり 日時 2002 年 11 月 08 日
http://www.asyura2.com/0601/revival1/msg/205.html
投稿者 愚民黨 日時 2006 年 9 月 16 日 08:08:17: ogcGl0q1DMbpk