天皇制概論

 (最新見直し2007.5.5日)

 「ウィキぺディア天皇」その他を参照する。


【総合規定】

 天皇制は、連綿と受け継がれ今日に至っている日本古来よりの世襲的君主制政治制度である。皇族の御紋は十六弁八重表菊紋。後鳥羽天皇の日本刀の御所焼に付した菊紋に始まる。戦後、日本国の象徴及び日本国民統合の象徴であり(日本国憲法第1条、第2条)とされている。今上天皇(現在の天皇)は第125代天皇である明仁(在位:昭和64年(1989年)1月7日 - )。


【「天皇」という称号の由来】
 「天皇」という称号の由来には、複数の説がある。1・古代中国で北極星を意味し道教にも取り入れられた「天皇大帝」(てんおうだいてい)あるいは「扶桑大帝東皇父」(ふそうたいていとうこうふ)から採ったという説。2・唐の高宗は皇帝ではなく道教由来の「天皇」と称したことがあり、これが日本に移入されたという説。3・5世紀頃に対外的に「可畏天王」、「貴國天王」あるいは単に「天王」等と称していたものが推古朝または天武朝に「天皇」とされた等の説。

 「天皇」という称号採用された時期にも複数の説がある。1・推古天皇説(戦前の津田左右吉の説)。2・7世紀後半の天武天皇の時代即ち前述の唐の高宗皇帝の用例の直後とする説。これが平成10年(1998年)の飛鳥池遺跡での天皇の文字を記した木簡発見以後の有力説である。3・天武天皇の時代(7世紀後半)以降説。伝統的に「てんおう」と訓じられていた。明治期、連声により「てんのう」に変化したとされる。字音仮名遣では「てんわう」と表記する。

 日本国内での天皇の称号の変遷について確認する。天皇という称号が生じる以前の古代、倭国(「日本」に定まる以前の国名)では天皇に当たる地位を大王(治天下大王)あるいは天王と呼び、対外的には「倭王」、「倭国王」、「大倭王」等と称された。古くはすべらぎ(須米良伎)、すめらぎ(須賣良伎)、すめろぎ(須賣漏岐)、すめらみこと(須明樂美御德)、すめみまのみこと(皇御孫命)などと称した。なお、「すめらみこと」の名称は古代シュメールからのものだという説もある。

 
天皇という呼称は律令(「儀制令」)に規定があり、養老令天子条において、祭祀においては「天子」、詔書においては「天皇」、華夷においては(対外的には)「皇帝」、上表(臣下が天皇に文書を奉ること)においては「陛下」、譲位した後は「太上天皇(だいじょうてんのう)」、外出時には「乗輿」、行幸時には「車駕」という7つの呼び方が定められている。これらはあくまで書記(表記)に用いられるもので、どう書いてあっても読みは風俗(当時の習慣)に従って「すめみまのみこと」や「すめらみこと」等と称するとある(特に祭祀における「天子」は「すめみまのみこと」と読んだ)。死没は崩御といい、在位中の天皇は今上天皇(きんじょうてんのう)と呼ばれ、崩御の後、追号が定められるまでの間は大行天皇(たいこうてんのう)と呼ばれる。配偶者は「皇后」。一人称は「朕」。臣下からは「至尊」とも称された。


【「漢風諡号」について】

 なお、奈良時代、天平宝字6年(762年) - 8年(764年)に神武天皇から持統天皇までの41代、及び元明天皇・元正天皇の漢風諡号である天皇号が淡海三船によって一括撰進された事が『続日本紀』に記述されているが、これは諡号(一人一人の名前)であって「天皇」という称号とは直接関係ない。


【「天皇の別称」について】

 平安時代以降から江戸時代までは、みかど(御門、帝)、きんり(禁裏)、だいり(内裏)、きんちゅう(禁中)などさまざまに呼ばれた。「みかど」とは本来御所の御門のことであり、禁裏・禁中・内裏は御所そのものを指す言葉である。これらは天皇を直接名指すのをはばかった婉曲表現である。陛下(階段の下にいる取り次ぎの方まで申し上げます)も同様である。また、 主上(おかみ、しゅじょう)という言い方も使われた。天朝(てんちょう)は天皇王朝を指す言葉だが、転じて朝廷、または日本国そのもの、もしくはまれに天皇をいう場合にも使う。すめらみこと、すめろぎ、すべらきなどとも訓まれ、これらは雅語として残っていた。また「皇后」は「中宮」ともいうようになった。

 今上天皇は当今の帝(とうぎんのみかど)などとも呼ばれ、譲位した太上天皇は上皇と略称され、仙洞や院などともいった。出家すると太上法皇(略称:法皇)とも呼ばれた。光格天皇が仁孝天皇に譲位して以後は事実上、明治以降は制度上存在していない。これは現旧の皇室典範が退位に関する規定を設けず、天皇の崩御(死去)によって皇嗣が即位すると定めたためである。

 明治の御代の大日本帝国憲法(明治憲法)において、初めて天皇の呼称は「天皇」に統一された。ただし、外交文書などではその後も「日本国皇帝」が多く用いられ、日本国内向けの公文書類でも同様の表記が何点か確認されている(用例については別項「日本国皇帝」を参照)。

 そのため、完全に「天皇」で統一されていたのではないようである(庶民からはまだ天子様と呼ばれる事もあった)。陸軍海軍(諸外国においても当時独立した空軍があったのはドイツなど極一部に限られる)の統帥権を有することから「大元帥陛下」とも言われた。口語ではお上、主上(おかみ、しゅじょう)、聖上(おかみ、せいじょう)、当今(とうぎん)、畏き辺り(かしこきあたり)、上御一人(かみごいちにん)、などの婉曲表現も用いられた。

 現在では、一般的に各種報道等において、天皇の敬称は皇室典範に規定されている「陛下」が用いられ、「天皇陛下」と呼ばれる。宮内庁などの公文書では「天皇陛下」のほかに、他の天皇との混乱を防ぐため「今上陛下」と言う呼称も用いる。会話における二人称では、前後関係から天皇であるか皇后であるかが明らかな場合に単に陛下と呼ぶことが多い。三人称として、敬称をつけずに「今の天皇」「現在の天皇」「今上天皇」と呼ばれることもあるが、近年では「聖上」などの表現は廃れ、「お上」はどちらかというと政府を指す場合が多くなったため、婉曲表現で呼ぶことは稀になっているが、それでもそのような表現が使用されることもある。

 一部の出版物においては、平成22年(2010年)現在の天皇に対して、「平成天皇」という称号を用いる事例が散見される。しかし、明治天皇・大正天皇・昭和天皇の3代の「○○(元号)天皇」という呼称は、その天皇の崩御後に贈られる諡号であり、現在の天皇に対する呼称としては誤りである。また諡号が元号と同一であるのは先の3代の天皇のみの事情であり、今上天皇(明仁)の崩御後に平成天皇という諡号が贈られると確定している訳ではない。憲法上の正式称号は単に「天皇」であるが、詔書や勲記、褒状などの文書においては「日本国天皇」の称号が用いられることもある。


【「天皇」の英語訳】
 天皇は、英語においては、通常、"(the) Emperor" と呼ばれる。今日、国際的に承認されている国家の元首(ないしそれに類似する地位)にある者でEmperor号を対外的に使用するのは天皇のみである。第三者としての天皇に言及する際に用いられる「陛下」に相当する尊称は "His Majesty" または "His Imperial Majesty" であり、また略して "H.M." または "H.I.M." と記す場合もある。天皇は男性であるため、"Her Majesty" は原則として「皇后」を意味するが、略号は天皇と同じく "H.M." である。

 天皇皇后両陛下という場合は、"Their [Imperial] Majesties Emperor and Empress" となる。天皇に対する呼びかけは一般的に "Your [Imperial] Majesty" である。なお、天皇・皇后以外の皇族への尊称である殿下は、"His/Her Imperial Highness" であるが、この場合は "Imperial" は省略できない。

 歴史学などの分野では日本固有の存在としての天皇を強調する意味でTennoやMikadoと呼ぶこともままある。前近代においては、政軍両面の最高指導者であった征夷大将軍の方が西洋のEmperorの概念に近いのではないかという議論もある。この議論の枠組みでは、天皇は欧州におけるローマ教皇に相当する宗教的権威者と考えられる。なお、江戸時代の日本においても、天皇は神道の最高祭司者兼京都の地方領主に過ぎず、征夷大将軍こそが日本の皇帝であるとする解釈が一部の儒学者によって唱えられていた。

 天皇の諡号については、「○○天皇」を "Emperor ○○" のように訳すが、明治天皇以降については "○○ Emperor" と訳すべきとの議論もある。また、昭和天皇以降については、追号ではなく諱を用いた呼び方(“Emperor Hirohito”(裕仁帝)や“Emperor Akihito”(明仁帝))が用いられることが多い。


【韓国の「天皇」名称の位置づけ】
 朝鮮半島の歴代王朝は長らく中国歴代王朝の冊封国として存在しており、華夷思想では「天子」・「皇帝」とは世界を治める唯一の者の称号であった。そのため日本の天皇が「皇」や「帝」、「天子」などを称することを認めず、「倭国王」、「日本国王」等の称号で呼んでいた。

 近世に入って日清戦争に勝利した大日本帝国の清への要求により、朝鮮は清の冊封体制から離脱し大韓帝国となると華夷秩序の関係が崩れ、朝鮮国王は自らを「大韓帝国皇帝」と称することで、初めて日本の天皇を皇帝と称した。その後の大日本帝国統治下では天皇の称号が用いられた。

 朝鮮半島独立後は、英語で天皇を意味する "Emperor" の訳語を踏襲せず、「日本国王」(「日王」)という称号を用いてこれに倣い「皇室」を「王室」、「皇太子」を「王世子」と呼んだ。その後「天皇」と言う称号も一般的に使用されるようになり、「皇室/王室」、「皇太子/王世子」に関しては同等に用いていた。

 大統領在任当時、金大中は諸国の慣例に従って「天皇」という称号を用いる様にマスコミ等に働きかけたが、マスコミはそれに従う者と従わない者に二分した。韓国政府としては1998年から「天皇」の称号を使用するようになったが、次の大統領盧武鉉は天皇という称号が世界的かどうか確認していないため「天皇」と「日王」どちらを用いるべきか準備ができていないと従来の方針を転換する姿勢を示した。大統領李明博は「天皇」の称号を用いている。しかし、マスメディアを始めとする民間では「日王」を使用している。民間における「日王」の呼称の使用については21世紀初頭頃に「天皇」や「日皇」に改めるべきであるとの議論もなされたが、「日王」に統一することとなり現在に至っている。

 現在の大統領、李明博は2009年9月15日にインタビューを受けた際、「日本天皇」という表現を繰り返し用いており、このことが韓国内でニュースとなった。ニュースでは、漢字使用国家である中国と台湾も「天皇」を使っていることを伝えた。


【中国の「天皇」名称の位置づけ】
 古代から近代にかけて、中国は中華思想によって、自国の皇帝と同格の存在を認めようとしなかった。そのため、長らく天皇ではなく、日本国王の呼称を用いた。現代の中国人の間では、天皇、日本国王、日王、日皇などの呼称が混在している。中国政府などの公的機関では、天皇陛下、日本天皇陛下などの呼称が基本となっている。中国語版ウィキペディアでの天皇の記事名は、「日本天皇」となっている。

【天皇の配偶者の称号と通称】
 日本では、一般に近現代までは貴人が正室以外の側室をもつことの方が当然と考えられていた。したがって天皇には正室以外にも複数の側室がいたほか、正室すら二名をもつことができた(皇后と中宮)。天皇の配偶者は、当初は出自に応じてそれぞれの称号が決まっていたが、後代になると寵愛の度合いによってこれが曖昧になり、さらに正規の称号を名乗る配偶者の地位自体が自然消滅すると、通称がこれにとって替わるようになることが増えた。最初に側室をもつことを意図的に否定したのは大正天皇で、これ以降天皇家でも一夫一妻制が定着した。

 なお、史上10代8名いた女帝には、いずれも皇位にある間は正式な配偶者がいなかったこともあり、日本では独自に皇配の称号を定めたり通称が生じたりすることはなかった。


【皇室の姓氏 】

 天皇や皇族は氏姓および名字を持たないとされる。宮家の当主が有する「○○宮」の称号は、宮家の当主個人の称号(宮号)とされており、苗字には当たらない。古代日本において、氏姓、すなわちウジ名とカバネは天皇が臣下へ賜与するものと位置づけられていた(→氏姓制度)。天皇は、氏姓を与える超越的な地位にあり、天皇に氏姓を与える上位の存在がなかったため、天皇は氏姓を持たなかったのである。このことは、東アジア世界において他に類を見ない非常に独特なものである。このことは、古代より現在に至るまで、王朝が変わったことはないとの建前が採られていたことによる。

 しかし、ウジ・カバネが制度化される以前の大王(天皇の前身)は、姓を有していたとする説もある。5世紀の倭の五王が、倭讃、倭済などと称したことが『宋書』倭国伝ないし文帝紀などに見え、当時の倭国王が「倭」姓を称していたことがわかる。このことから、宋との冊封関係を結ぶ上で、ヤマト王権の王が姓を称する必要があったのだと考えられている。

 また、『隋書』倭国伝に倭国王の姓を「阿毎」(あま、あめ)とする記述があり、7世紀初頭まで大王家が姓を有していたとする説もあるが、中国風の一字姓でないことから「阿毎」は姓でないとする説もある。大王家の「倭」姓は、中国の冊封体制から離脱した5世紀末ないし、氏姓制度の形成が進んだ5世紀末から6世紀前半までの間に放棄されたとする説も提出されている。

 吉田孝は、倭国が5世紀末に中国の冊封体制から離脱し、7世紀初頭の推古朝でも倭国王に冊封されなかったことが、大王=天皇が姓を持たず「姓」制度を超越し続けたことにつながったとしている。


【皇位継承 】

 皇位継承とは、皇太子などの皇位継承者が皇位(天皇の位)を継承することである。諸外国における国王・皇帝の地位の継承を意味する王位継承・帝位継承とほぼ同義語である。天皇の皇位継承は、大日本帝国憲法及び日本国憲法で明文規定されている。日本国憲法では「皇位は、世襲のものであつて、國會(国会)の議決した皇室典範の定めるところにより、これを繼承(継承)する。(第2条)」とある。その皇室典範には「皇位は、皇統に屬(属)する男系の男子が、これを繼承(継承)する。(皇室典範第一条)」とある。


【日本国憲法と大日本帝国憲法における天皇の規定】
 日本国憲法における天皇については日本国憲法第1章に記されている。日本国憲法において、「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」(第1条)と位置づけられる。憲法の定める国事行為を除くほか、国政に関する権能を有しない。日本国憲法には元首の規定がなく、天皇の地位について議論がなされているが、国際的な儀礼上では元首と同様に扱われる。中国や韓国等が天皇を元首とみなして天皇に対して謝罪を要求して来るのもこのためである。

 
大日本帝国憲法における天皇については、大日本帝国憲法第1条で、「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と定められており、第4条で「天皇ハ國ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リテ之ヲ行フ」と、日本国憲法とは異なり明確に「元首」と規定されている。

 大日本帝国憲法を文言通りに解釈すると、天皇は大きな権力を持っていたように読める。講学上は、憲法を絶対主義的に解釈する天皇主権説と立憲主義的に解釈する天皇機関説の争いがあったが、実際上の天皇の政治的指導権は、帝国憲法の母法国であるベルギーやドイツの君主よりも劣弱であった。事実、ドイツでは皇帝ヴィルヘルム2世による親政が行われたし、ベルギーでは第二次世界大戦後ですら、国王による国政介入が公然と行われていた。


【皇位継承権論争 】
 1965年(昭和40年)の秋篠宮文仁親王の誕生から2006年(平成18年)の悠仁親王の誕生まで約40年間、男性皇族が誕生していなかったため、皇位を継ぐべき男系男子が不足しており、皇室典範に定める皇位継承者が存在しなくなり、皇統が断絶する可能性が出てきた。そのため、皇室典範を改正し、女子や女系の者にも皇位継承権を与えるか、旧皇族を皇籍に復帰させるなどして男系継承を維持するかの論争が起きている。

【国体論争】

 大日本帝国憲法では、天皇は統治権の総攬(そうらん)者とされていたのに対し、日本国憲法では日本国・日本国民統合の象徴とされ、かつ国民主権原理を採用したため、日本国憲法の制定により日本の国体が変わったか否かについて起きた論争。特に尾高・宮沢論争佐々木・和辻論争が有名。

 戦後、天皇は内政においても外交儀礼上においても他の立憲君主国家における国家元首たる君主と類似する役割を担っているものの、現行の日本国憲法には国家元首に関する規定が存在せず、また国政に関する権能を有しないため、天皇を国家元首と断言することはできない。これに対して、自民党憲法改正試案、民主党小沢氏憲法改正試案、民主党鳩山氏憲法改正試案、6省庁を主務官庁とする中曽根元総理属する財団法人世界平和研究所憲法改正試案が、国家元首を天皇と規定するよう主張している。衆議院憲法調査会や参議院憲法調査会では、天皇の地位に関して現在も議論中であり、結論は出ていない。読売新聞(渡辺恒雄)憲法改正試案では天皇に関する規定は現状維持としている。


「人間宣言」

 1946年(昭和21年)1月1日、新日本建設に関する詔書(いわゆる人間宣言)が官報により発布された。日本の民主主義は、日本に元からある五箇条の御誓文に基づくものであることを明確にするため、詔書の冒頭において五箇条の御誓文を掲げている[18][19]1977年(昭和52年)8月23日の昭和天皇の会見によると、日本の民主主義は日本に元々あった五箇条の御誓文に基づいていることを示すのが、この詔書の主な目的である[18][20][21]。この詔書は人間宣言と呼ばれている[22]。しかし、「人間宣言」はわずか数行で、詔書の6分の1しかない[22]。その数行も、何かを放棄したりしてはおらず、事実確認を行う内容である[22]。この詔書は、日本国外では天皇が神から人間に歴史的な変容を遂げたとして歓迎され、退位と追訴を要求されていた昭和天皇の印象も良くなった[22]。しかし、日本人にとって当たり前のことを述べたにすぎなかったため、日本ではこの詔書がセンセーションを巻き起こすようなことはなかった[22]1946年(昭和21年)1月1日、この詔書について新聞各紙の第一面で報道された[23]。しかし、日本の平和や天皇は国民とともにあるといったことを報道するのみで、いわゆる人間宣言にはほとんど触れていない[23]。天皇の神格否定はニュースとしての価値が全くなかったのである[23]


【巡幸】
 昭和天皇はその後、日本全国各地への巡幸を始めたが、多大な犠牲者を出した地上戦が行われた上、更に日本本土より切り離されて連合軍の直接統治下に置かれた当時の沖縄県は対象とされなかった。この「巡幸」は各地で歓迎をもって迎えられたが、1947年(昭和22年)にはその歓迎の盛り上がりぶりに、天皇の政治権力復活を危惧したGHQによって巡幸の1年間中止が決定されるなどの動きもあった(国旗の掲揚はGHQにより禁じられていたが、多数の民衆が掲揚していたため)。沖縄行幸は昭和天皇の悲願であったようであり、晩年の病に際しそのことに触れられている(昭和天皇#行幸に詳しい)。

【天皇の国籍】

 日本国には、天皇の国籍を明記した憲法も法律もない。

 天皇には、国民の権利・義務の規定は適用されず、天皇は国民でないという論が見られる。イギリスなどの実際に王族や貴族制の存在している国では、貴族はあくまでも平民と別の権限を有する国家の一員として法的な地位が確定しているため、このような議論は見られない。日本では、天皇・皇族戸籍法の適用を受けないため、その名前と身分は皇統譜に記載されている。ただし一方で、日本国憲法第14条社会階級の法的制定を明確に禁じているため、天皇は国民でないとの論の必要性が生じる。

 憲法論[誰?][要出典]においては、天皇が日本国籍を有する前提で、天皇が「主権者としての国民」「人権享有主体としての国民」に該当するか否かが論じられており、憲法論[誰?]の皇統譜についての箇所[要出典]に「日本国籍を有するものでも戸籍に記載されない唯一の例外に天皇および皇族がある」という記載がある[24]

また、平成元年126号損害賠償請求事件における東京高裁判決理由[25]に「天皇といえども日本国籍を有する自然人一人であって、(後略)」と書かれている。


【神道との関係】

 『古事記』、『日本書紀』などの日本神話によると日本を創造したとされる神のイザナギイザナミの7代目に当たる子孫が初代天皇の神武天皇とされているため、古代から神として祀られたり、天照大神を祀る伊勢神宮宮中三殿を中心とした神明神社が代々皇室によって信仰されていたなど深く関わりがあった。

 幕末となると尊王攘夷派や討幕派により天皇が現人神と神格化されるようになり、その後、幕府朝廷で国家分裂による近代化の妨げや欧米諸国の介入を危惧した明治政府によりその思想が受け継がれ、国民統合の支柱として天皇を神格化した国家神道が作り上げられる。当初は内閣制度導入など民主化に向かうにあたっての国全体の象徴的な存在であったが、昭和初期になると軍部が権力を持ち始め、軍部大臣現役武官制により軍部に内閣が掌握されるとプロパガンダの一環として現人神としての天皇が利用されることになる。

 戦後はGHQにより国家神道は解体され、昭和天皇による人間宣言がなされたが、現在においても古代からの伝統としての神道は残っており、天皇を始めとした皇室内で新嘗祭宮中祭祀である国の安泰を祈願する四方拝や祈りなどが執り行われている。


【仏教との関係】

 『日本書紀』によると552年百済聖明王により釈迦仏の金銅像と経論他が欽明天皇に献上され仏教が初めて伝来したとされている。仏教が伝来した際に仏教を信仰の可否については家臣達により議論されることになり、仏教容認側の蘇我氏と反対側の物部氏との間で可否を巡って対立し始め、用明天皇の後継者争いに繋がり、物部氏が滅ぼされると仏教信仰に傾き、物部氏討伐軍にも加わっていた用明天皇の第二皇子である聖徳太子により法興寺法隆寺が建立され儒教仏教の思想が反映された憲法十七条が作られるなどし、皇室は仏教と深い繋がりを持っていく。

 また、伝統的に天皇自ら寺を建てるようになり、天武天皇大官大寺持統天皇薬師寺を建立するなどし、聖武天皇の代に入ると鎮護国家という政策が盛んになり、国情不安を鎮撫するために国分寺を各地に作り、東大寺が建立される。

 平安時代に入るとこれらの寺院群が政治的な権力を持つことになり、それが桓武天皇により平安京への遷都へと繋がり、日本古来からの仏教と対抗させるために空海最澄を遣唐使とともにに送り密教を学ばせ、それぞれ高野山比叡山に寺を作らせ、空海は真言宗、最澄は天台宗を開くことになる。また白河天皇を始めとする天皇が譲位後に出家し、法皇と名乗る事も多くなる。

 その後、江戸時代までは仏教とも深く繋がっており、法事は仏式で行われていた。1871年明治4年)までは宮中の黒戸の間に仏壇があり、歴代天皇の位牌があった。天皇や皇族の位牌は「尊牌」と称された。しかし、明治時代に入ると明治政府の神道重視の政策により廃仏毀釈が行われ、1000年以上続いた仏式の行事はすべて停止され、尊牌は京都の泉涌寺にまとめられ、皇室は仏教とは疎遠となる。


【皇室外交】

 1945年(昭和20年)以前は、交通の不便さもあり、日本を訪問した国家元首はあまりいない。有名なのは、1881年(明治14年)、アメリカ合衆国領となる前のハワイ王国国王カラカウア、および1935年(昭和10年)満州国皇帝康徳帝である。朝鮮王公族である李垠が日本で教育を受け、中将となっているが、当時既に朝鮮は独立国ではない。ただし、ロシア帝国の皇太子ニコライ2世ギリシア王国の王子ゲオルギオスオーストリア=ハンガリー帝国フランツ・フェルディナント皇太子など、元首に準ずる格の人物は何人か来日している。

 第二次世界大戦後、占領統治の終わりとともに、日本国外の国家元首や賓客(王族など)が日本を訪れるようになった。1956年(昭和31年)にエチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世1957年(昭和32年)にインドジャワハルラール・ネルー首相、1958年(昭和33年)にインドネシアスカルノ大統領、1960年(昭和35年)にアデナウアー西独首相の来日があった。以後、他の国々からも賓客が次々に来日するようになった[26]

 昭和天皇大喪の礼の際には、世界の163か国の国家元首や首脳と17の国際機関の関係者が参列に訪れるなど弔問外交の場にもなった。インドは3日間、ブータンでは1か月間に服した(日本は2日間)。また、今上天皇即位の礼の際にも世界各国の国家元首が多く参列に訪れた。

 昭和天皇は敗戦時に連合国のソビエト連邦、中華民国(当時)、イギリスオーストラリアの一部からは戦犯として裁くべきだと言われたものの、マッカーサーにより訴追を逃れた。後に1974年のフォード米大統領の来日を受け、翌1975年にアメリカを訪問している。一方、第二次世界大戦で敵対関係だったイギリスオランダ中華人民共和国や植民地支配下の大韓民国などの一部からは憎悪の対象となった。例えば、天皇に激しい憎しみを持つ退役軍人は抗議として、天皇が訪英中エリザベス2世と馬車に乗っている時にブーイングが湧き上げ、オランダでは卵や火炎瓶等を投げつける程であった。また沖縄返還の3年後には左翼の過激派によって、皇太子だった明仁親王が襲われて火炎瓶を投げつけられるひめゆりの塔事件が起きた。

 しかし、大戦中に小学生であった今上天皇はそのような憎悪の対象になっておらず、国際的にも敬意を払われており、天皇が日本国外に訪問する際も激しい抗議が起こることはない。また、天安門事件の時に中華人民共和国が欧米諸国の経済制裁で孤立化した際、天皇の訪中を行うことによって中国側を懐柔するなどの外交策がとられたこともある。


【天皇制の連綿継承考 】

 現在の歴史学においては天皇の発祥時期について明確な結論が出されていないが、少なくとも6世紀前半に即位した継体天皇以降、今上天皇に至るまでの天皇家系譜は信憑性が高いため、現存する世界の王朝の中で日本の皇室が最長の歴史を有していることは確実視される。

 天皇は日本の歴史において重要な権威を有していたが、実際に君主として統治権を行使していた期間は、天皇が存在していた期間と比べると極端に短く、ほとんどが天皇以外の貴族や武家、官僚などによって行使されていた。とりわけ鎌倉幕府成立以後は武家の棟梁の一族が代々世襲で征夷大将軍に就任し、少なくとも基本的に内政や外交では日本の最高権力者として君臨してきた。

 しかし、天皇の地位がそれらの権力者によって廃されたことはなく、時の権力者も形式上はその権威を尊重し、それを背景に地位に就いていたことが多い。例えば全国に支配権を敷いていた武家政権の君主である征夷大将軍への就任も形式上は天皇の宣下によって行われることになっており、その権力者は天皇の権威を利用し、その政敵を朝敵(天皇の敵)などに指定させ、その統治権を正当化することが多かった。

 ただし、外交において有事が発生した際、その権力者たちも朝廷に相談を持ちかけているため、幕府などの武家政権が内外とも全面的に統治権を行使する認識があったかどうかは考慮が必要である(元寇や黒船来航等)。時にとりわけ大きな力を持った権力者が天皇という地位を廃止、あるいは簒奪を画策したことがあるとされているが、現在までに成功した例はないとされている。


 ★阿修羅♪ > 雑談専用20」の石工の都仙臺市氏の2006.11.5日付け投稿「天皇に成る爲の極めて重要な行法。祝(はふり)の神事」を転載しておく。

 天皇は、血筋は抑も成れど、祝(はふり)の神事の祕儀、奧義を伝授、会得、体得して初めて天皇となる。故に現在の天皇は名、実共に天皇に非ず。ここ根本的問題を解決せざれば神国日本は滅亡する事必定なり。
  
 新人物往來社 平成七年(一九九五年)一月十三日發行 別册歴史讀本 ; 特別増刊81 . 《これ一册でまるごとわかる》シリーズ ; 18 古神道の祕術 二百四十頁
 
  伯家神道と最後の学頭・高濱清七郎 明治天皇に指導された「祝(はふり)の神事」の謎

 神道祭祀の根源宗家たる白川伯家。その最後の学頭である高濱清七郎が明治天皇に指導した「祝の神事」とは何か? その特殊神事の実体を明らかにし、その再興への熱いメッセージを贈る。

 藤原正鐘【文藝評論家】 
 
 ここ十年来、「古神道」に対する関心が高まりをみせている。教学よりも行法に重点を置くものの代表として伯家(はっけ)神道が注目されているようだ。そこで伯家最後の学頭・高濱清七郎と、伯家に伝えられていたと云う特殊神事としての伯家神道が、幕末・維新期を經過してどのような行方をたどったのか、また特殊神事とはどのようなものであったのか? その実体の解明に迫り、その現代的意義についても探ってみたい。
 
 神祗官の長たる白川伯家

 白川伯家は王朝の末より代々神祇官(じんぎかん)を主唱し、宮中に於る恆例・臨時の祭祀に奉仕する聖職にあった。そこで自然に、神祇祭祀の道に根源宗家となるに至った。純神道に於る祭祀の方法、並びにこれに伴う行事の根本として絶対的地位を占めるのはこの一家である。

 第65代花山(かざん)天皇の皇子清仁(すみひと)親王の御子延信(のふざね)王が、後冷泉(ごれいぜい)天皇(第70代)の永承元(1046)年、神祗伯(じんぎはく)に任ぜられ、その子康資(やすすけ)王も伯となり、更に康資王の孫顯廣(あきひろ)王が二條天皇(第78代)の永萬元年(1165)に伯となるに及び、任伯の期間は王氏に復帰する例を開かれた。以来、神祗伯は他姓を任ぜず、白川家の世襲となり、明治維新に及んだが、顯廣王より資訓(すけくに)王まで51代を累(かさね)た。世に神祗伯家・白川伯王家(しらかわはくおうけ)或いは伯家と称す。王氏をもって神祗官の長とされるのは、第2代綬靖(すいぜい)天皇の御代に、神八井耳命(かむやいみみのみこと)の古例に基づき、神砥崇敬の御主旨からである。白川家は神祗宮の長として、宮中内侍所(きゆうちゆうないじどころ)や神祗官八神殿(はつしんでん)の奉仕、天子攝関(せつかん)等に御拜(ぎよはい)を伝授した。また全国の神社を統括した。
 
 白川伯家最後の学頭・高濱清七郎

 明治天皇に「十種神寶御法(とくさかむたからのごほう)」を指導したと云うことで現在でも古神道と云えば名前が挙がってくる人に白川家最後の学頭・高濱清七郎がいる。その高濱についてまず概説してみたい。高濱は現在港区白金台にある瑞聖(ずいしよう)寺に「高濱清七郎源正一霊人」として祭られている。命日は明治26年2月28日、享年81歳であった。毎年命日には門人の代表によって年祭が行われている。百年祭が行われてからまだ年が淺い。通称、高濱正一と呼ばれていた。

 清七郎は、文化8年(1813)、備前都窪郡(現在の岡山県總社)市で農家の子として生まれた。年齢はさだかではないが京都に奉公に出て、入門時には白川家出入りの呉服商人になっていた。祭事に必要な衣裳全般にわたる御用立(ごやうだて)を引き受けてをり、出入りしているうちにその才覚を見込まれて行学を修めるようになった。「白川家門人帖」によれば、天保年間(1830~43年)に「『七種(ななしゆ)修業』終了門人免許」とあり、「白川門人」として入門を許された。修行は他の門人に秀でて進み、文久2年(1862年、50歳)8月には「十種神寶御法」(これが「祝(はふり)の神事」にあたるもの)の相伝(そうでん)を受け、内侍所並びに神祗官御免状、内侍御印書を拜受した。

 「十種(とくさ)」と呼ばれるように、この御法は十段階に分けられ、「七種(ななしゆ)」を修めて入門が許され、「三種(さんしゆ)」で一般の門人の修行は終了する。「二種(にしゆ)」、「一種(いつしゆ)」は神伝と成り、「一種」が天皇の神拜所作である。高濱の影響を受けたと思われる神道家に江戸・明治期に活躍した「鎭魂歸神法(ちんこんぎじんほう)」を確立した本田親徳(ちかあつ)がいる。本田は本田親徳全集の中で、「鎭魂歸神法」は日本古来から伝承されたもので、それを伝統に学んだとしている。それは、本田が高濱と友人だったことや「鎭魂歸神法」が俗に「輪外(わはず)れの鎭魂」と呼ばれていることから本田がこれを高濱清七郎かその一派から学んだと云って間違いないだろう。ちなみに、「祝の神事」は取次者が輪になって行う「輸の鎭魂」とも云えるものである。

 高濱が後世高い評価を受けたのは、伯王に代わって宮中神事に奉仕したばかりでなく、白川伯家最後の学頭として皇太子時代の明治天皇への「十種神寶御法」の指導に携わったことからであろう。指導に携わった時期は「十種神寶御法」の相伝を受けた文久2年(1862)8月以降から慶応3年(1867)までの間とみてよいだろう。「祝の神事」を実習しその意義を充分理解したと思われる明治天皇は、即位後も再三再四「高濱は今どこにいるか」と側近に間われたといい伝えられている。しかし、高濱清七郎の消息を知らせるものはいなかったと云う。

 「祝の神事」では、行を指導することを「お取立(とりたて)」をすると云って、「さにわ」、「かみしろ」、「はふりめ」と呼ばれる者たちがお世話をすることになっている。このような人々は白川家を始めとする由緒ある家柄の紳士・淑女が携はっていたが、かかる人は氏素性(うじすじやう)がはっきりしているために隱れることができず、幕末から維新にかけて悉く暗殺されたと、神祗官沿革物語に記されている。明治維新の陰の遂行者は、王制復古はどうでもよかったようである。幕末体制を崩潰させる大義名分として必要であったのであり、皇権の復活を望んでいたのではなかったようだ。王制復古が本来の皇権の復活になってしまえば、天皇を傀儡(かいらい)とすることができなかったからであろう。かくして、宮中から天子(てんし)を取り立る「祝の神事」は消滅していった。高濱もその難を免れないところではあったが、幸か不幸か公家や皇族の出身と云うことではなかったためにその難を逃れることができた。つまり、表面上は明治元年に神仏分離令が出され、神祗官が独立設置された。そして、王制復古・祭政一致の理念の下に高濱は大教宣布の号令下、その宣教師となって全国布教に携わった。高濱は「祝の神事」の重大さを認識しつつもなす術(すべ)もなく、かと云って「祝の神事」をこのまま消滅させることにも忍び難いものを覚え、全国布教のかたわら志あるものを募(つの)ってはその継承を決意していった。その決意に応じて「祝の神事」を実習した門人に、東京では吉田彦八、京都では宮内忠正(ただまさ)がいた。吉田彦八には「祝の神事」の行法が継承されていないが、宮内忠正は高濱の娘婿(むすめむこ)ともなり、行の継承に専念したようである。宮内も若くして他界したが、その実子・中村新子(しんこ)が継承し、この流れから多数の門弟が輩出していった。現在、民間で継承してゐる人はこの流れを汲むものである。明治二十年頃には、築地の地主・遠藤はつ宅に同居し、東京での布教活動をするかたわら、ひそかに「祝の神事」も指導していた。しかし、明治二十五年の秋、黄痕(おうだん)を患い、翌26年2月、療養の甲斐もなく逝去した。 
 
 幕末・維新期の伯家神道

 明治2年、神祗制度が改められ、皇族以外で王號を許されていた伯王の称号もおのづから廃された。更に明治5年、神祗制度そのものが廃止されるに及び、その職制は、宮中内侍所に関するものが宮内庁に、全国の神社の統括に関するものは神社庁にそれぞれ移管された。ただし神祗官八神殿(はつしんでん)での奉仕、天皇や攝関等に御拜作法を伝授する職制はここで消滅した。その消滅への経緯は次のようであった。天子摂関等への御拜作法の伝授は八神殿に付属する祝部殿(はふりでん)と云う所で行われていたのであるが、これらの神殿は白川伯家の邸内にあり、その神事は祕伝として行われていたのである。この伯家神事の中核ともなる「御拜作法」の有職故実(ゆふそくこじつ)に関する引き継ぎをめぐって、実は歴史的とも云える事態となったのである(一般的には問題視する人は少ないが)。

 最後の神祗伯・資訓(すけくに)王は明治5年の神祗制度廃止に伴って、当然、神祗伯所管の有職故実の返還を迫られた。神祗官邸内で行われていたものは宮内庁、神社庁にそれぞれ移管されたことは前述した通りであるが、間題は白川邸内に祭られていた八神殿と祝部殿の処置とそれに伴う「御拜作法」等の有職故実に関する引き継ぎであった。資訓王が当時の宮内庁の担当官に伺ったところ、「八神殿を返還するように」との答えであったと云う。現在八神殿の神々は神殿に合祀されている。そして、祝部殿に関する処置については何の返答もなかったと云う。そこで祝部殿はそのまま白川家邸内に残された。その後、嫡子(ちやくし)・資長(すけなが)に受け継がれた。資長は華族制度の成立に伴って子爵の位を受け、貴族院議員にもなったことから新宿の角筈(つのはず)に居住することになった。それに従って邸内の祝部殿も京都から東京へ移転した。その後、実子がなく北白川家より養子を迎えるが、唯一王家を名のることが許された公家ではあったが、有職故実を失って、実質的メリットをもたない公家に何の魅力もなく、その後離縁となった。多くの公家や華族がそうであったように白川家も沒落し、家に伝わった文献等は金光教や天理教等に売り渡されていった。当時、祝部殿で行われていた神事は皇太子のみにしか知らされていなかった神事であるだけに、その実質的担当者でなかった資訓王にしても宮内庁の担当官にしても、ことの重要性を理解できなかったとしても無理からざるところであったと思う。このようにして祝部殿とそれに伴う神事は、当然のことながら宮内庁や神社庁には継承されなかった。

 伯家神道のもつ意味は、本書で主題とするところの「古神道」としての行法の継承にあることは云うまでもない。江戸中期以降、官職としての神祇伯王家には天子攝関等への御拜作法並びに行法伝授の能力は失われ、専ら行法の指導を司(つかさど)る学頭にその職務は移行していた。そして、明治以後現在に至るまで、宮中では吉田家の伝統によって宮中祭祀が行われているが、そのこと自体は問題にならない。間題なのは、伯家神道の存在意義は祝部殿で行われる「祝の神事」(御修行と俗称されている)を中心とした行学にあるとともに、天皇神格化の原理である神人合一(しんじんごういつ)の優れた形式である「祝の神事」が、明治5年、神祗制度が廃止されるとともに宮中行事から消え去ったことにある。

 明治維新を成功させた志士たちの理想は尊皇であり、王制復古であったはずであるが、でき上がった明治の天皇制は形許りのものとなり、実体は天皇制の空洞化であった。結果的には明治維新は皇道から覇道への転換であり、悠遠(ゆふえん)なる日本の伝統を卑(いや)しめることとなった。天皇が西欧封建君主のように軍服を纏(まと)い、サーベルを身に付けることとなったことで象徴されよう。たしかに、天皇は大嘗祭(だいじやうさい)を経て天皇に即位することができる。「天皇は大嘗祭によって真の天皇の資格を得る」と、昭和3年に歌人で国文学者の折口信夫(おりくちしのぶ)が発表した眞牀覆衾論(まどこおふすまろん)が示す通りである。しかし、皇太子時代に長い期聞の修行を必要とする修行があったことも事実である。幸か不幸か臣下万民の知られざるところで天皇となるための祕行「祝の神事」が存在していたことが、明治5年神祗制度そのものが廃止されることによって我々の知るところとなったのである。その最大の功労者は勿論伯家神道の最後の学頭・高濱清七郎である。

 実際大嘗祭を迎えるまで、代々の天皇は皇太子の時代から、長年の間「祝の神事」を白川伯王家邸内にて密(ひそ)かに修められていたのである。明治天皇は皇太子であった江戸時代の末期はまだ神種制度が存在していた時代であったので、この「祝の神事」を受けられた最後の天皇と云うことになる。実際に指導に携わった人物が、前述の通り高濱清七郎であった。
 
 帝王學としての天皇行とその故事來歴

 天皇は古来「はつくにしらすすめらみこと」と呼ばれ、第一に「統治する」働きと第二に「神を祭る」働きの二つを体現するのが本来の姿である。第一の働きである「統治する」働きを完遂するための原理は「天地創造の神の心の隨(まま)に」と云う原理である。文字によらず言葉によらずそれを体得する方法が「ヲノコロの祕法」と呼ばれるものであった。古事記、日本書紀にもその名前だけは散見する。天皇が御位を継がれると八尋殿(やひろどの)を建て、そこでこれを行じたとある。この祕法を行った結果、国が安らかに治まったとある。これに対して第二の「神を祭る」働きを完遂するため、身を清め神を迎えられるようにする修養が当然必要になってくる。「ヲノコロの祕法」と不離一体のものではあるが、これが前述した「十種神寶御法」であり、「祝の神事 = 御修行」と呼ばれる行法体系である。天皇家の系図は天地創造の神を先祖とし、各々の天皇はその直系の子孫と云うことになる。天皇がただ単に系図上、天地創造の神の直系の子孫であると云うだけではなく、その意識も神と同等の意識に立って萬民を慈(いつく)しむ立場に立つためには、それなりの皇学が存在しても不思議ではない。その皇学(帝王学)にあたるのがこの「祝の神事」を始めとする行法体系であると云うことになる。天皇は本來「祝の神事」をマスターすることによって、天地創造の神から始まって皇祖皇霊を迎へ、親しく神々と交わり、しかるべき作法をもって霊を拜していたのである。この「しかるべき作法」と云うところが伯家神道の中核となるところである。神道のその他の行法や印度のヨガ行法を通じて「高い悟り」と云った境地に到達したと云う聖者は数多く存在する。天皇はそのような聖者になるだけでなく、ある形式をもって神を拜する存在になると云うことである。神を拜する時にそのしかるべき作法が伝授されるわけであるが、これを「神拜(しんぱい)の式」と呼んでいる。しかし、意図したか否(いな)かは別として、明治維新はかかる重大な事柄(ことがら)を葬り去ってしまったのである。

 神武(じんむ)建国以来の悠久なる歴史の中で、このような事態が一度だけ起こっている。仏教伝来(538年)直後のことであった。この「神拜の式」の原型は神武帝の御代に天種子命(あめのたねこのみこと)によって確立され、用明2年(587)までその嫡流の子孫・大中臣牟知麿(むちまろ)まで継承された。しかし彼は蘇我馬子の陰謀により物部守屋とともに滅ぼされたため、宮中からその神事が杜絶えることとなった。この時、宮中に保管されていた傳国の宝物も焼き払われたと伝えられている。ここで神武以来の伝統が消滅したわけであるが、これを先祖の神詔を受けて復元させた人物が出現した。天種子命の庶子(しよし)、宇佐津臣命(うさつおみのみこと)の19代目の末商(まつえい)・藤原鎌足である。大化の改新の成功によって再びこの神事は宮中に復元された。用明2年の消滅以来、五十数年の後であり、天種子命がその制度を確立して以来、約千二百年後のことになる。この功績により藤原鎌足は「神祇再興の祖」として末代まで崇められることになる。政治権力者として知る人は多いが、藤原鎌足が審神者(さにわ)の神であることを知る人は少ないに違いない。伯家神道では藤原鎌足は行法上の直接の指導神なのである。そして、明治維新に起こった「祝の神事」の教育制度が宮中から消滅すると云う事件は、藤原鎌足が神祗再興を果たしてから矢張り同じ約千二百年後のことになる。現在の「古神道」への関心の高まりは、本来の王政復古への日本人の希求の現れなのであろうか。

 藤原鎌足が神祗再興を果たしたのは用明二年の消滅以來五十数年後であったが、明治五年に神祗制度が廃止されて以来、既に百二十年以上の年月が過ぎ去ろうとしている。伯家神道の口伝の中には、この神事を受けない天皇が百年間継続する時、日本の国体も滅亡すると云ういい伝えが存在する。大正、昭和、今上(きんじやう)と年数を数へてみると既に八十五年が経過している。いい伝えが嘘であってほしいものである。


 「祝の神事」の現代的意義

 現在、日本は経済的に大きく繁栄し、多くの国々の羨望(せんぼう)の対象に成つている一方、国際社会で高く評価されてきてゐるのも事実である。かかる現状を鑑(かんが)みると、世界に類例をみない天皇制に大いにその恩恵を被(かうむ)っているとみることができよう。だからと云って日本の伝統として伝えられた、文字によらず言葉によらぬこの帝王学の存否が日本の存亡に関わりがないと判断するとすれば、これもまた大変淺はかな判断ではなからうか。これからの国際社会の中に於る日本の立場は、経済大国として世界に貢献することが期待されてゐる。国連の常任理事国と成る事も期待されている。しかし、一方大変危険な方向に向かっていることも見逃してはならない。東西冷戰の終結によって、日本とアメリカの関係は徐々に軍事的結束が緩んで来ている。日本の防衞は他国から侵暗する国がない事を前提としている。侵掠する国があるとすれば、日米安保條約を基にアメリカが守ってくれることが前提に成っているのである。アメリカが世界の警察官を自任している間は日本も安泰と考えてもよいだろう。しかし、十年後、二十年後このままの状態が継続する保証がどこにあろうか。湾岸戦争の間、アメリカは世界に呼び掛けてフセインの非を制裁しようとした。しかし、経済的には日本やドイツに多くを依存していたのである。アメリカにとって日本は保護する対象ではなくなりつつあるのだ。むしろ、国の存亡を脅(おびや)かす存在とすらなりつつあるのだ。十年後、二十年後、アメリカにとって代わって覇権を主張する、その実力をもつ国が現れないと云う保證がどこにあるだらうか。国際社会は決して安全な世界ではない。そんな中で、日本が生き延びていく原理は何かである。世界から尊敬される国になることであり、かつ神から愛される国になることである。世界から尊敬され、神から愛される国に成る原理がまさに、生命としての日本人の核である天皇の姿勢である。その天皇の姿勢を伝統に基づいた姿に育てる教育制度が神祗制度の中の「祝の神事」であった。この復元によってこそ日本が世界の中で生き延びることのできる第一条件が整うと云えよう。

 日本が悠久なる歴史の中でその国体を保ってこられたのは、その時その時の爲政者と国民の努力にあったことは勿論のことであるが、もっと大きな力は、目に見えない国魂(くにたま)の力なのである。その意味で日本を守る国魂の力は絶大なものがあると云ってよい。その日本を守ろうとする国魂の慈しみの心を、今なお失わさせずに嚮かわせている力が、天皇の国魂に対する「神拜の式」なのである。天皇が「祝の神事」を修め「神拜の式」を修得する意義はここにある。覇道が武力、王道が徳力を頼りにするものであるとするのに対して、皇道とは神ー国魂の力と心を嚮かはせて国を守る道と云ってもよいだらう。天皇は神に国の安全と民の幸福を祈る祭(まつり)司(つかさ)と云うことになる。その祭司に必要な祈りの形式が「神拜の式」であり、祈りの言葉の形式が三十一文字(みそひともじ)の短歌と云うことになる。天皇のアメリカ訪間でクリントン大統領が日本の国学者・橘曙覽(たちばなあけみ)の歌を引用して挨拶を述べられたごとく、天皇が短歌に執心されていることは海外まで知られるようになっているが、これが神への祈りの言葉の形式であり、更に神への祈りの形式「神拜の式」があることや、天皇がそうした重要な役割を担っていることが理解される日はいつのことだろうか。

 明治天皇(大室寅之佑)は、南朝系ですらなく、天皇家の血筋と縁もゆかりもない地家家の血筋の可能性大である。そして、ここに述べられている祝の神事の祕義を授かっていないのである。ここ両面に於いて、名実共に現皇室は天皇家ではないのである。天皇の神聖を冒涜しているのである。





(私論.私見)