貞明皇后の御歌考その2

 (最新見直し2015.07.21日)

 ここで、大正天皇の皇后/貞明の御歌考その2をものしておく。


 2013/01/05日付ブログ「貞明皇后御歌16」、「貞明皇后御歌17 」、「貞明皇后御歌18 」、「貞明皇后御歌19 」、「貞明皇后御歌20 」、「貞明皇后御歌21 」、「」、「」、「」、「」、「」、「」、「貞明皇后御歌22 」、「貞明皇后御歌23 」、「貞明皇后御歌24 」、「貞明皇后御歌25 」、「貞明皇后御歌26 」、「貞明皇后御歌27 」、「貞明皇后御歌28 」、「貞明皇后御歌29 」、「貞明皇后御歌30」、「『椿の局の記』 」。
 1919年(大正8年)5月7日 裕仁皇太子成人式

 東宮の御誕辰に
 のびたちて 千代のいろなる この君の むかしの春を おもひいでつつ

 秩父宮殿下が陸軍幼年学校に入学されたとき(大正6年4月)の、皇后からのお祝いの手紙。
 「明日より幼年学校へ御入学と承り一言申入候。申迄もなく御承知と存じ候も凡そ軍人たるべき学生は殊に規律を重んじ、厳かに校則を守り給はん事専一と存じ候。又克く教官の指導に従ひ一層の御奮励ありて、範を垂れ給はん事を切に念じ申候。ここに国家の干城たる第一階に登り給はんとするを祝して銃剣一口を贈り申候。古より吾が日本刀は男児の魂と伝へ承り候。諺に花は桜木人は武士と申習はし候。此の桜花爛漫の好時節に御入学相成候事転た感慨の深きを覚え申候。且は桜花と刀剣とまた将た其因縁浅からざるにや存ぜられ候。希くは常に血気の勇にはやり給はず、事に中りて能く精神を鍛錬し、細密なる思慮と寛容なる温情とを養ひ給ひ、仰ぎては御父天皇陛下及び御兄皇太子殿下の御心にそひ、伏しては弟宮達の為に好範を示し給ひ臣民衆庶の忠誠を奮起せしむべき御覚悟あらまほしく、神かけて願ひ申候。おもふこころの万分の一にと かしこ  四月八日 母より 淳宮 御もとに」。

 この年、第4皇子澄宮が着袴(ちゃっこ)の式をあげた。この澄宮(後の三笠宮殿下)は、大正4年の生誕つまり、節子妃が皇后になってから生まれた子である。それゆえ3人の兄たちとは違って、じかに母から教育されることが多く、古来の和歌を口づてに聞かされることが多かったという。

 夏灯
 かぜわたる をすのひまより 灯火の 影のゆらぎて みゆるすずしさ

 百合薫
 高殿の をすふきあぐる 山かぜに さかりの百合の 花の香ぞする

 秋水
 掬ふ手の うすらつめたく おぼゆるは 水の心も 秋になりけむ

 大正九年から

 海上春風
 葉山の海 汐のひがたを ゆく袖も かへさぬほどの 春のあさかぜ

 こたび高松宮の海軍に志して江田島なる兵学校に入学給ふにさきだちて伊勢神宮にまうで給はむとするにいささか心におもふ事どもつらねてそのはなむけに参らす
 大神の みまへをろがみ 誓ひませ おもひたちたる ことを遂げむと

 落葉
 庭もりが いま掃き終へし 坪のうちに たえまもおかず 散る紅葉かな

 この2年来、目に見えて天皇の体調は悪化の一途をたどっていた。初めは四肢の神経痛、そして運動失調、この頃は、気力を欠いた姿勢や表情が目立つようになった。1920年(大正9年)3月30日、ついに政府は公の御病状発表をするにいたる。

 この日、原敬は日記にこう書いている。
 「陛下御践祚以来つねに内外多事にわたらせられ殊に大礼前後は各種の典式等日夜あい連なり次いで大戦の参加となり終始宸襟(しんきん)を労せたまふこと少なからず御心神に幾分か御披露の御模様あらせられ且つ一両年前より御尿中に時々糖分を見ることこれあり昨年以来時々坐骨神経痛を発せられこれがため今春葉山御避寒中は政務をみそなはさるる外はもっぱら玉体の御安養を旨とせられ…」。

 翌1921年(大正10年)11月の宮内省発表「…御脳力の衰退は幼少時の時御悩みあそばされたる御脳病に原因するものと拝察することは、拝診医の意見一致するところなり…」との記事に対して、侍従武官四竈孝輔は反発し、「専ら御静養あらせ給はんとする聖上陛下に対し、何の必要ありてか此の発表を敢えてしたる、余はここに至りて宮相の人格を疑はざるをえざるなり」と日記に書いている。

 また、皇太子はすでに久邇宮良子王女と婚約しておられたが、すったもんだ(王女の家系に色盲があることに関して、皇室、華族、政府、右翼を巻き込んだ、いわゆる宮中某重大事件―これでようやく山県公も失脚した)の末、御婚約確定の発表があったのも、また半年間の皇太子御外遊(3月~9月)の後、摂政就任について検討されていたのもこの年であった。このような時、もっとも重圧がかかってくるのはむろん皇后陛下であった。この年、宮内大臣を拝命した牧野伸顕は日記に書いている。
 「十月十一日 内大臣府にて松方侯に会談す。同日内府皇后陛下に拝謁、問題に付委曲言上。陛下にも已に御覚悟の色十分顕はれ。御言葉中に今まで新聞に奥の事が記載されざるは仕合せなりと仰せられたる由、平生御上の事につき如何に御焦慮あそばされ居るか伺ふに足る。但し進行上に付き御意見あり。第一、 輔導を置くことは御不賛成なり。それは権力が自然輔導たる皇族に加はる事を恐るるの意味に於いて。第二、 青山御所は不可なり。皇太子はかねて同所を御嫌なり。そのことは度々洩らし相成たるを以て今同所を御住居と定ることは面白からず。第三、 御上は内閣の伺ひものを御楽しみに思し召すに付、何とか取扱上急にこの種の御仕事の無くならざる工夫はないか。要するに全く御仕事の無くならざる便法はなきか。…以上大体の思召しを伺ひ得て大いに安心せり」。

 国政と病気の天皇と二つながら援けなければならない。節子皇后はすでに覚悟はできていた。翌年の秋の『牧野伸顕日記』にこうある。
 「9月22日。両陛下拝謁。皇后様へ摂政殿下大演習、次いで四国御巡視のため神嘗祭は御代祭を願ふほか致し方なき旨言上したるに、御肯諾あり。且つ殿下には御正坐御できならざるにつき御親祭は事実不可能なり、今後は是非御練習の上正坐に御堪へ相成様致したく、昨年来ことにこの種の御務め事に御怠慢の御様子あり、今後は何とか自発的に御心がけ相成る様致したし、それも御形式になく御心より御務めなさるるよう御自覚なされたく望み居る旨御仰せあり。…」。

 皇太子の御成婚やいかに。
 「9月23日 皇后様へ拝謁。御結婚に御入用の宝石類の事につき言上、また女官人選につき御思召し伺ひたるに、東宮御内儀の根本義は如何相成るや、従来の純御所風にするか、あるいは霞が関の現状を基として洋風に則るか、それにより女官人選も自ら考慮すべし、自分の時は明治天皇様の御指図にて純日本式に御決定相成りたり、今日は全然旧式にも困難なるべく…」。

 大正十年御歌会始

 社頭暁
 つたへきく 天の岩屋も しのばれて 暁きよし 伊勢の神がき

 ちなみに同じ時の大正天皇御製。これが大正天皇の白鳥の歌であった。小生はこの御歌を口ずさんでこの詩人の透徹した自意識に感動せずにはおれない。

 社頭暁
 神まつる わが白妙の 袖の上に かつうすれ行く みあかしのかげ
 1921年(大正10年)から崩御の年(大正15年)までの間は、天皇の心身がお仕事から離れていく過程であった。明治・大正と仕人として皇室に仕えていた小川という人が、当時の天皇の痛ましい姿を伝えている。
 「いつのときであったか、豊明殿で高官たちに御陪食をたまわったことがあった。…宴会が終わって、高官たちがぞろぞろと廊下に出てきて、陛下が奥にお帰りになるのをお見送りするために、並んで立っていた。いつもなら決してそういうことはなかったのであるが、高官たちの気持ちの中に、陛下が御病気だという観念があって気をゆるめていたのであったろう。あちこちで私語する話声が聞こえてなんとなくざわめいていた。そこへ陛下がお出ましになった。高官たちはさすがに話声はやめたが、いつものように自然に頭が下がらない。突っ立ったまま陛下を目送りするような始末である。そのとき、どうしてわたしが見たのか今でもよく思い出せないが、皇后陛下お一人が静かに頭を下げて最敬礼をしておいでになった。そこではじめて自分たちの失礼な態度に気づいた高官たちは、あわてて最敬礼をして陛下をお見送りしたのである」(『宮廷』小川金男著)。
 「当時、陛下の御病気がお悪くなってからは、何かにつけ皇后陛下は気を配っておいでになった御様子で、そういう公式のお席にもいつも皇后陛下がご同席になっていた」(同著)。

 1922年(大正11年)歌会始

 おほ海原 なみをさまりて のぼる日に むつみあふ世の さまをみるかな

 この年の春、節子皇后は天皇の御平癒祈願と前年の皇太子殿下の御外遊からの無事御帰還御礼のために、香椎宮、箱崎宮、大宰府天満宮、厳島神社に参拝の旅に出られた。

 香椎宮を拝ろがみて
 大みたま 吾が身に下り 宿りまし 尽くすまことを おしひろめませ

 ここで神功皇后の霊力を一身に浴びられたこと、また大宰府にては菅原公の怨霊を和らげられたことも言うまでもない。

 大宰府神社にて御手植の梅を
 つくしがた ふく春風に 神そのの はやしの梅は 香に立ちにけり

 またこの年、大隈、山県という御一新をなした藩閥の大物が亡くなった。山県が亡くなる直前、節子皇后は山県公に感謝の歌を送っておられるが―

 明治天皇御集、昭憲皇太后御集編纂なりて上奏しける時御かたへに侍りし山県顧問の心尽しを
 ならびます 神のみひかり あふぐにも まづこそおもへ 君がいさをを

 小生はこの歌よりも前書きに注意がいく。明治天皇御集の編纂事業なったとき、傍らにいた〈山県顧問〉の心尽しに感謝されたのであった。では、山県公の政治家としてあるいは他の仕事についてはどうなのであろうか。それは解らない。しかしあの誰からも好かれない、あまつさえ嘉仁天皇にもっとも辛く当った山県公に対して、節子皇后はどのように感じておられたのか。それはそれ、これはこれ、と割り切って考えられていたのか。少なくともこの期におよんで、維新以来、彼なりにわが国のために働いてきた山県公を批判するお気持ちはなかったと思う。

 しかし、おそらく嘉仁天皇がもっと苦痛に感じたのは人の心の裏表であった。先ほどの小川氏の言の続きー
 「陛下のご病状が悪化してからは、ますます神経が敏感になられたということは前にも書いたが、陛下が御病気であるということから、女官のなかにはついうかうかと陰日向の行動をする者もあった訳だが、そういうことが陛下の神経をいたく刺激したらしく、しかもまた、陛下にはそういう行動が敏感におわかりになったらしく、そういう女官がお靴をお揃えした場合などには、陛下は決してその靴をおはきにならなかった」。

 1923年(大正12年)暁山雲 歌会始

 あかつきの きよき心に あふぐかな 朝熊山の 峯の白雲
 1923年(大正12年)御歌から

  箒
 あさまだき 掃きて清むる 手ははぎの 音はねみみに よきものにして

  残鶯
 世はなれし 山のみ寺を とひくれば のこる桜に 鶯のなく

  峠松
 旅人を おくりむかへて ひとつ松 山の峠に 幾世へぬらむ

  夏夜
 閨のうちの 夜の暑さぞ たへがたき 昼はなかなか 風も入りしを

 思えば、少し前までクーラーも扇風機すらなかったのだ・・・。そんな時代を想像するだけで、もはや小生苦しくなる。

 櫛
 黒髪も みづきはたちて 見ゆるかな 少女かざせる 玉の御櫛に

 故郷虫
 ふるさとの まがきの萩を みむと来て かはらぬ虫の こゑをきくかな

 畑茄子
 畑もりの をぢのほほ笑み さもこそと おもはるるまで 茄子のみのれる

 幼少時育ったあの農家を久しぶりに訪れた途端、あの時の一切が蘇ってきたのではないだろうか。

 この年、関東大震災が起こる。9月1日正午前。ちょうどこの時両陛下は日光の田母沢御用邸に滞在しておられた。例年なら葉山に御滞在であるところ、天皇の体調を慮り、日光に御避暑とのことであったらしい。『貞明皇后』(主婦の友社)によると、御用邸も烈しい振動に見舞われ、棟柱のきしる音、物の落ちる音、砕ける音が相ついだ。平素、つつしみ深い側近の人たちも、大きな悲鳴をあげて、立ち騒ぐばかりであった。しかし、そのとき皇后、少しも騒がず、むしろ騒ぐ人々をお制しになって、まず、不自由な天皇のお手を引いて一歩一歩庭先の広い芝生に導かれた。そして、いそいで東京に電話をし、こちらは無事であること、また東京の様子を伺うように、侍従にお命じになった。ところが、時すでに遅し、電話は不通状態となっていた。ただちに、伝書鳩を飛ばすようお命じになった。今の時代なら携帯で即様子が見れるが、当時は、ましてや鉄道も不通となっては、その詳細が判るまで何日もかかった。じつはその日、東京市内では150余か所から火が上がり、7割が灰燼に帰しつつあり、90000人以上の死者が出ていた。

 そのときちょうど、大命を拝した第二次山本内閣は組閣難に陥っていた。ようやく大急ぎで組閣したものの、電燈も点かぬ蝋燭の灯りのもとで行われた故、地震内閣と揶揄されたという。それにしても、この前の東北大震災も、折から経験不足の内閣のとき起こった、重なる時は重なるものだ。

 一週間ほど経って判ってきたおおよその事に皇后は心をお痛めになった。しかし、心痛にひたっている暇はなかった。東京のみではなく、国民全体の不安を解消すべく、天皇に一日も早く宮城に御戻りいただかねくてはならないと考えるいっぽう、しかし御病状は一進一退、まだ暑いさなか東京御帰還はいかなるものか、だがまた、この危急時に天皇がいつまでも日光にどどまっておられるのはよくないことだ。結局、一刻も早く東京に御戻りしていただくことを決断された。

 9月29日、節子皇后は地獄のごとき被災地に足をお運びになった。じっさい皇后は上野駅から、そのまままっすぐに上野公園自治館内の被災者収容所へ。〈見るも悲し、いかにかすべきわが心〉というお気持ちであられたであろう。宮内省巡回病院、三井慈善病院をお見舞い、そのあくる日も諸病院へお見舞い、そして何万と横死者の冥福を祈り、かろうじて避難しえた人々のテントを廻り、慰めや励ましのお言葉をかけられた。

 燃ゆる火を 避けんとしては 水の中に おぼれし人の いとほしきかな

 生きものに 賑はひし春も ありけるを かばねつみたる 庭となりたる

  震災のあとのことども見も聞きもして
 きくにだに 胸つぶるるを まのあたり 見し人心 いかにかありけむ

  寒夜霰
 さらぬだに 秩父ねおろし 寒き夜を あれし都に 霰ふるなり

 震災から12月半ばまで、被災者の気持ちを思い温かい服を着ることはできないと、女官らの勧めを断って、外出時は夏服をお通しになった、という。

 11月23日、摂政宮(皇太子)は天皇に代わって初めて新嘗祭を行われた。その時の母皇后の御歌、

  御深夜しに数よみしける歌の中に冬暁
 ねやの戸の ひまもる風の つめたさに あかつきおきの たへがたきころ

 この年も終わりという、12月27日、特別議会の開院式に向かう摂政宮の行列に、一発の銃声が響いた。いわゆる虎の門事件である。犯人の難波大助は「革命万歳!」を叫んで車を追ったところを捕らえられた。彼は富豪の家に育ったが、共産主義アナーキストたちに心酔し、大杉事件・亀戸事件など共産主義運動家への官憲の非道な弾圧に憤激していた。

 避難者の身に水をそそぎて辛くして火を免れしめし警官の却りておのが身の焼かれて命失ひけるよしをききて
 まごころの あつきがままに もゆる火の 力づよさも おぼえざりけむ
 1923年(大正13年)1月26日、宮中某重大事件もすっかり落着し、摂政宮(裕仁皇太子)と久邇宮良子(くにのみやながこ)女王とはめでたく御成婚の儀と相成りました。

 桃花契千年
 もろともに 千代を契りて さかえなむ 春のみ山の 桃のふたもと

 天皇の御容態がだんだん悪くなるなか、皇太子の責任の重さを誰よりも深くかみしめていたのは、節子皇后ではないでしょうか。それかあらぬか、この年は、筧博士の神道講義に触発されたごとき歌が目につきます。

 新年言忘 御会始
 あら玉の 年のはじめに ちかふかな 神ながらなる道を ふまむと

 以歌護世
 皇神の 道のまことを うたひあげて 栄ゆく御代を いよよ守らむ

 読史
 皇孫に 天降りまさねと のらしけむ 大みことばの たふとくおもほゆ

 わか草ところどころ 立ちまよふ 霞ふきとく 春風に むるむらみゆる 野べのわかくさ

 春風
 よのさまも うち忘れつつ 草つむと ほてりし顔に 春風ぞふく

 琴
 少女子(おとめご)の 弾く手妙なる 琴の音に 松の風さへ 吹き止みにけり

 深夜春雨
 ねざめして 嬉しとぞきく もえいでむ 小草そだつる 春雨のおと

 上落花
 きはやかに 色あらためし 苔生には ちりくる花も ここちよげなり

 さむくふく 夕べの風に 菊つくる 人のしはぶく 声のきこえる

 ときにはこのようなことも 秋夜思親
 秋の夜の 長きゆめ路に あひみむと 恋ふる心を しりますか父

 思い返せば、明治32年、自分も周囲も婚儀の準備にたいへん忙しい中、父道孝は16歳の節子姫を世俗の見納めにと、とある料亭に連れて行ってくれた。そのとき、座敷に一人の美しい芸者が呼ばれ、三味線を奏でた。そっと目を閉じた道孝は、その音楽に合わせて口ずさむ、「梅にも春の色そえて、若水くみか車井の、声もせわしき鳥追いや…」。部屋にはひたひたと妖艶な雰囲気が広がっていった。節子姫にとって、これは思いがけない出来事であり、この時の父の心づくし、恩愛を一生忘れることがなかった。御結婚後、宮中生活においても、ときにこの父の歌った端歌が頭から去らず、ふと口にお出になることがあったという。
 1921年(大正10年)、節子皇后は天皇の御負担軽減のために、宮内大臣、牧野伸顕に述べている。

 「日記などを見るに、京都時代(明治維新より前)は、只今よりよほど簡単であったと見ゆ。明治になり復旧なされたるもの多し。日記には祭事に付き、女官が代理したるもの少なからず。御代御代の中に御弱き方も入らせられそれが為右の如き取り計らひたるものと考へらる」(『牧野伸顕日記』)。

 『昭和天皇』(原武史著)によると、節子皇后は、天皇とともに、葉山や日光の御用邸に夏や冬は御滞在のことが多く、いわゆる宮中祭祀には御熱心とはいえなかったが、しかし皇太子の御外遊ころから、それまで(明治になって)創られた伝統と見なしていたはずの祭祀に、皇后は積極的に関わるようになられた。

 さらに原はこう言っている、「その背景には、おそらく大正天皇の病気があろう。貞明皇后は、大正天皇が脳病に冒されたのは、天皇と一緒に御用邸に滞在し、祭祀をおろそかにしたことに対して、神罰が当たったからだと考えるようになったのではなかろうか。皇后が裕仁皇太子に〈信仰〉の重要性を説こうとしたのは、大正天皇と同じ過ちを繰り返させまいとする母親の愛情に根ざしていたからだとも言えなくはない」と。そうして、自らを神功皇后(夫である仲哀天皇は、神の教えを信じずに早逝した)になぞらえて、香椎宮を参拝されたのだ、と。

 何かこう言ってしまうと身も蓋もないように感じる。たしかに、皇后はこの頃から、皇統の何たるかをお知りになり、祭祀を大事にされ、あらゆる迷信もふくめて宮中の伝統を率先して守っていこうとお考えになったのであろう。また、日に日に衰弱してゆかれる天皇を目の当たりにして藁をも掴もうというお気持ちになられたのは無理もない。また、筧克彦博士から仲哀天皇の話を聞かされていたかもしれない。

 しかし、大正天皇が祭祀をおろそかにして神罰が当たったとは、本当にそうお感じになったのであろうか。そのゆえに香椎宮を参拝されたのであろうか。そうかもしれない。そうでないかもしれない。そうであるならば、むしろ、皇后とはいえ、そのようにお感じになった己の罪を責められたのではなかろうか。

 1925年(大正14年)御歌から

 春夜
 酔ひしれし 人のとよみも しづまりて 都の春も 夜はしづけし

 習字
 むづかしと おもひながらも 習ふまに もじの心も 得られゆくかな

 筆とれば 時のうつるも 忘られて 手習ふわざぞ たのしかりける

 1926年(大正15年)御歌から

 寒月
 くまざさの 上なる霜に つめたさを かさねて月の ふけわたるかな

 名所雪
 びはの海は うすきみどりに みえそめて 雪にあけゆく 比良の遠山

 鐘声
 にぎはしき 都にありて きけどなほ 淋しかりけり かねのひびきは

 雲雀
 あさ月の かげうすれゆく 大空に たかく上がりて ひばりなくなり

 八月、ほとんど歩行困難になっておられた天皇は、新設されたばかりの原宿宮廷駅から、ひっそりと葉山御用邸に移される。

 庭鶴  天長節
 吹上げの みにはの鶴の 千代よばふ 声おまし(御座所)まで 高く聞こゆる

  秋霜
 ふじのねの いただき白く 雪みえて みやこの秋に 初霜のふる

 11月ごろから、天皇の平癒を願う人々の姿が皇居や神宮に見られるようになる。12月24日の夕ぐれ、突然に季節外れの雷鳴と豪雨が葉山御用邸を襲った。25日午前1時25分、天皇崩御。御遺体はただちに、御本邸に移された。早朝、屋根の上から、真白い鶴のような大鳥が飛び立ったのを見た、と女官たちは語り合ったという。
 東久邇宮聡子夫人(大正天皇の義理の妹)の回想によると、「大正天皇さまが、葉山でお崩れになった時、わたしは、その場に居合わせたのですが、天皇がお崩れになると、時を移さず摂政宮さまが天皇のお位におつきになったわけですが、それと同時に節子さまは、これまでの皇后の席をさっとお下りになって、その瞬間から皇太后になられました。そのご進退のあざやかさは、ほんとにお見事というほかはありませんでした」(『貞明皇后』主婦の友社)。

 そして、明くる昭和2年2月7日、新宿御苑の葬場殿で御大葬が行われ、節子皇太后は宮中から青山東御所にお移りになった。さらに、3年後の昭和5年5月に、皇太后のために新しい御殿が造られ、これは大宮御所と呼ばれるようになった。

 大宮御所には、皇太后の思召しによって別棟として拝殿と御影殿(みえいでん)が造営された。御影殿というのは、絵に堪能であった入江為守(ときに皇太后宮大夫)に大正天皇の在りし日のお姿を描かせた肖像画〈御影さま〉を、部屋の正面に掲げたからである。以後、ここで皇太后は一日も欠かさず、四方の神様と御影さまを御礼拝された。

 御影さまのご前には、季節の果物やお水、お菓子、献上物、そして日々の新聞を供えられていた。御起床の後、「ご洗面、お髪あげのあと、朝食はおとりにならず、わずかに梅干しと白湯を召しあがるだけであった。そのあとすぐに衣服をお正になり、御影殿にお入りになりなるのであった」。そしてお昼近くまで、端坐したまま長時間、皇太后は御影さまに向かって、国内外の出来事などを語っては、ご祈念なさり、あるいは観音経や時には御詠歌を誦しておられたとも。

 河原敏明氏によると、「貞明皇后は大正天皇崩御のあと、生涯喪服のような黒一色の、ロングドレスを着用しつづけた。また、毎朝二、三時間は必ず天皇の霊を祀る〈御影の間〉にこもり、日々の出来ごと、宮廷の消息などを生きる人に対するよう、声をあげてご報告するのが日課であった」。そして、それは貞明皇后の第四皇子崇仁親王(三笠宮)には実は双子の妹がいたが、男女の双子は縁起が悪いとして、ひそかに遠く奈良の寺にやり、尼僧にしてしまった。彼女には作られた戸籍と名前が与えられ、後年華道の師匠としてのみ、時々は僧院の外に出ることがあったという。節子皇太后の御影さま御祈念の裡にはこのことに対する懺悔もあったのではないか、と示唆している(『天皇家の隠し子』)。

 そして、この方、格調高い尼寺(歴代門跡は皇女か王女である)で生涯を過ごされたこの方は、河原氏の執拗な追及に最後まで屈せず、三笠宮殿下の妹であることを否定され続けたそうですが。まあ、俗世に生きるわれわれが、俗世を断ち切った方の御心をあれこれ忖度しも、無駄であること、つまり見当違いになること間違いなし。いずれ、われわれ世俗的人間の助平根性が明るみになるだけですな。

 1928年(昭和3年)~30年(昭和5年)から

 春窓
 窓の戸を 立ちてひらけば まちけりと いはぬばかりに 梅が香の入る

 五月のはじめ古き御代御代のみかどの大御筆を拝みて
 現世の わづらはしさを よそにみて み筆のあとに 一日したしむ

 首夏風
 こがひして ほてりし顔を ひやさむと いづればすずし 初夏の風

 捨子
 ひろひあげて はぐくむ人の なさけこそ すてし親をも ひろふなりけれ

 鳥
 御影どのに 仕へまつらく 思ふらむ みはしにちかく 小鳥きにけり

 俚謡
 ひなびたる ふし面白く 村々の 昔がたりを うたひつたふる

 富
 世の人に ひろくたからを わかつこそ まことのとみと 言ふべかるらめ

 虹
 よびかくる 童の声に 空みれば かけわたしたり 虹の大橋

 女郎花
 薄ぎりの きぬぬぎすてし をみなへし おもはゆげにも 見ゆるなりけり

 江辺鷺
 のりすてし 葦間の船に 立ちながら 入江の波を 鷺の見つむる

 神をいのる
 大神に よごとまがごと 聞え上げて 清き心に みさとしいのる

 歌会
 をりをりの 花に紅葉に うたむしろ 開きてこころ のぶるたのしさ
 むしろ…歌会などをする場所

 旅
 あがた人 こころ尽くして 迎ふれど むくいむすべも なき旅路にて
     あがた…地方、田舎

 古渡雨
 川しもに 橋のかかりて さびれたる 古き渡りの 雨の夕ぐれ
 渡り…渡し場

 心
 清くあれ うつくしかれと 願へども にごりやすきは 心なりけり

 法律
 定めては 又あらたむる 人の世の おきては何れ まことなるらむ

 大正天皇神去りましてより一千日に満ちたる日、花卉(かき)といふことを
 御影どのに うたひ上げたる 言の葉の 花なつかしく 千代もかをらむ

 同じ日たばこを
 身のつかれ 心のなやみ やはらげて たばこは人に よきくするなり

 そういえば、大正天皇はヘビースモーカーであられたと思う。

 読故人書
 ふる人の ま心うれし わがために かきのこしたる 書ならねども

 秋田
 ゆたかなる 色こそみゆれ 雨かぜも 時にかなひし 秋の田のもは

 身
 うまるるも まかるも神の みこころと さとれば安し 世をすぐすにも
 1931年(昭和6年)、満州事変の年。二年前の世界恐慌から、わが国は満蒙へと進まざるを得ず、そして二年後の国連脱退へと、慌ただしい時。しかし、皇太后は完全に覚悟ができていた。自分の立場、自分の為すべきことに徹しようと、腹をくくった。日毎〈お御影様〉に礼拝することの意味は何か。それは皇室を守るためである。しかし、それは明治政府が創った皇統ではない。同じことではあるが、年表のように無味乾燥な、連綿と続く天皇を守るためではない。それは、大正帝といういとも不思議な、純粋な人が天皇として現れた意味を問うことである。歴史家や政略家の尊大な見解のみならず、あらゆる周囲の人たちの小利口な誤解から、あの光を守るためである。むしろそれこそ天皇のエッセンスであると悟ったからである。誤解を恐れずに言えば、血統というものの深い意味を理解したからである。山川という主に明治帝に仕えた女官が、その著『女官』で、じつに意地の悪い口調で、節子皇太后は〈お御影さま〉の前で懺悔していた、と書いていたのを読んで、小生は、稲妻のように、その懺悔の真の意味を理解した。それが、節子皇后に御講進をした筧克彦の〈神ながらの道〉であるのかどうか、小生には未だよく解らない。しかし、それがどこかで歌の道につながっているような気はする。

 春埋火
 春寒み 見るだにたのし 埋火の 紅にほふ花 さくらずみ
 さくらずみとは良質の佐倉炭。

 朝風の はりさすごとく 吹きつけて 春のそのふに 霜の花さく
 そのふとは園生、つまり庭。

 立夏
 瑞枝さす みどりの山を 白雲の ひまよりあふぐ 夏は来にけり

 梅雨難晴
 晴れなばと 思ふあまりに 鳴るかみの 音もまたるる さみだれのそら

 机上月
 虫の音に つくゑのしまを 離れむと おきたるふみに 月のさしくる
 机のしまとは、たぶん小さな机。

 淋しくも 月は雲間に かくれけむ むしの音のみを 庭にのこして

 朝露
 手にとりて めでまくもほし 風冷えて 白くおきたる 萩の朝露

 外国語
 きく耳に それとはわかぬ 言の葉も かよふこころに うちゑまれつつ

 万葉集
 いそのかみ ふるごとながら 新しき 歌のしをりと なるはこのふみ
 しをり=道しるべ

 古の 人のいたつき おもふにも あだには聞かじ ひと言をだに

 貞明皇后の三大事業として知られているものは、養蚕、燈台守への救援、救癩(ライ)でしょう。癩病は、現在ではハンセン病と言われ、わが国ではもうほとんど発病者がいない病気だけれど、いまだ有効な薬がなかった時代は、大変恐れられていた。感染力はそう強くないものの、いったん感染すると、たいていはゆっくり悲惨な経過をとって死に至る。全身のあらゆるところが少しずつ侵されてくる。とくに神経や皮膚を侵すので、知覚麻痺のために外傷が絶えず、多様な皮疹が出現し、場合によっては恐ろしい醜形を呈する。明治40年に、癩予防の法律が制定され、癩患者は、療養所に収容されることとなった。昭和6年の「癩予防法」によって、患者は一般社会から完全に隔離された所での生活を余儀なくされた。つい最近まで、昭和50年代までは、癩病と聞けばなんとか園に入れられるというような話が、かすかに小生の耳にも残っている。感染力は非常に弱く、有効な治療薬があるにもかかわらず、わが国は遅くまで隔離政策を取ってきたことで、世界から、そして人権団体から非難された。癩病の研究・治療に一生をささげた光田博士ですら、隔離や断種を勧めたということで、評価は分かれている。

 とにかく、戦前は、そして戦後も、その施設に一度入ったら、一生を、たいていは長い一生をそこで過ごさねばならない。家族も噂や感染を恐れてそうそう面会にも来てくれなかったであろう。それだから、その閉じられた世界では、畑仕事をはじめ様々な労働があり、娯楽があり、場合によっては結婚もあった。こういう病に悩む人たちが隔離された所で生活を余儀なくされているということお知りになった貞明皇后は、非常に心を痛め、大夫に命じて施設の様子の調査をさせ、宮中の経費を節減してまで、様々な物品や修繕費などを下賜されること生涯に及んだという。それは、あの華族女学校時代の記憶がトラウマのように心の底に残っていたからかもしれない。通学路にある家でじっと外を見ている女性、どうしてあのような美しい女性が結婚もせず、毎日坐っているのだろう、という疑問、そして後で知った彼女の業病。このことが鋭敏な子供の心にどう作用したか。

  1932年(昭和7年)癩患者を慰めて
 市町をはなれて遠きしまにすむ
   人はいかなるこころもつらむ

 ものたらぬ思ひありなば言ひいでよ
   心のおくにひめおかずして

 見るからにつゆぞこぼるる中がきを
   へだてて咲ける撫子のはな

 つれづれの友となりてもなぐさめよ
   ゆくことかたきわれにかはりて

 そういえば、貞明皇后は光田博士のことをお知りになって、博士の情熱にいたく賛同された。その辺の事情について、出雲井晶という人の著書『天の声』で詳しく書かれている。この本は、じつに貞明皇后の核心というべきところを捉えているのではないかと感じ、畏れ入る次第であった。貞明皇后崩御後、三男であられる三笠宮殿下は、皇后さまの意思を継いで、癩予防・治療の組織の先頭に立って活躍された。

 『天の声』に載っていた、施設に暮らす癩患者の歌を紹介したい。(『ハンセン療養所歌人全集』より)

 泣くなよ。

 萎え果てし 右手に結びし フォークも 今は飯食むに 重荷となりし

 春猫の 恋する夜半を 覚めており 青春をもたぬ 背を触れあう

 かぶら売りて 何をあがなはむと せし病友か その翌朝 息たえしとぞ

 足なえの 妻も厠へ 入らしめて 待つときの間の 深きかなしび

 つひにつひに 母の臨終にも 会へざりき 初秋の空 蒼き遠きふるさと

 養蚕と言えば、古代から皇室は養蚕に関係していたし、1871年(明治4年)に昭憲皇后が御所内で養蚕を復興され、それを引き継がれた大宮様(貞明皇后)は、御結婚以来51年間にわたって養蚕を続けられた。とはいっても、貞明皇太后は義務として養蚕をしておられてのではない。根っからお好きだったと思われる。蚕をお手に取り「おこさん、おこさん」と言って、頬ずりされていた、とか、大正2年には宮城内に養蚕所を、本丸跡に三千坪の桑畑を造られた。外出から帰られると、何はともあれ、お蚕さんと対面されたとも。

 以前に紹介したと思うけれど、大正2年の御歌

 養蚕をはじめたるころ
 かりそめに はじめしこがひ わがいのち あらむかぎりと 思ひながむる

 大正12年4月30日有泉助手とともに養蚕所にて
 一年は 早くも過ぎて わがこがひ わざまたはじむべき 時は来にけり

 同5月5日
 あたたけく 晴れたる空に 心よく おちゐてけふは 蚕もねむるらむ

 同6月3日養蚕所4号室にて
 いとなさに おくれぬといふ 床かへを たすくるほども 楽しかりけり
 
 1932年(昭和7年)になると、明治の終わりごろには、清国を抜いて世界一位に輝いた生糸生産ではあったが、恐慌後生糸価格も暴落し、養蚕業界は大不況に陥った。この年の御歌―

 よきおきて 選びさだめて このわざに なやめる人を とくすくはなむ

 何事も さかえおとろへ ある世なり いたくなわびそ 蚕がひするひと

 国民の たづき安くも なるむ世を ひとり待ちつつ 蚕がひいそしむ

 外国の ひとのこころを みたすべく よきまゆ糸の とりひきはせよ

 このころから日本の人絹織物の輸出が躍進し、いずれ諸外国から輸入制限措置をとられるようになる。昭和20年、大日本蚕糸会総裁であった閑院宮戴仁(ことひと)親王が薨去し、昭和22年その後継者に大宮さま(貞明皇后)が推挙されるのであるが、そのとき、大宮さま曰く「陣頭に立って本当に働く総裁なら引き受けてもいいが、飾りものの名誉総裁ならお断りする」と。そうして、自ら率先して汗水流し養蚕にいそしまれたとのことであった。
 1933年(昭和8年)といえば、2月に日本が国際連盟を脱退。その後の事実を知っているわれわれには、もう2・26事件、日中戦争の足音が聞こえてくると言ってしまいたくなるときではある。しかし12月には、めでたし、明仁皇太子(現今上天皇)がご誕生。

     寄道祝
 人の世に栄えて久しうつくしく
   あやにたふときすめ国の道

 さきにほふ春の花より美しき
   手わざのみちのいやさかえゆく

  昭和9年 社頭雨 
 神そのはしづかにあけてみやしろの
   朱(あか)の玉がき雨にけぶれり

 虫のこゑあふるる庭に大空の
   星よりおつる風のつめたさ

 1936年(昭和11年)2・26事件 ベルリンオリンピック 日独伊防共協定。この年、貞明皇后で忘れてはならないのは、全国の灯台守に、金一封を下賜され、それでもってラジオ受信機を200台を辺鄙な灯台に設置することができた。その時お添えになった御歌。

 荒波もくだかむほどの雄心を
   やしなひながら守れともし火

 守る人やいかにさびしき霧ふかき
   離れ小島のともし火のもと

 船まもるこころのひかりさしそひて
   海原とほく照らしゆくらむ

 そもそも貞明皇后と灯台守との出会いは、大正12年5月のことであった。御病気の天皇のご看病で葉山御用邸に滞在中、三浦半島周遊をされた。そのとき半島の先端にある観音崎灯台を御訪ねになった。この灯台は明治の初めに建てられたわが国初の近代的灯台ということで有名であるらしい。

 このような辺鄙な場所に皇后が来訪されて、当時の吉岡台長は感激し、灯台守の生活についていろいろお話になった。灯台守という仕事の孤独や辛さをお知りになったからには、なんとか助力をしなければというお気持ちが、それ以後去ることはなかった。

 ちなみに、2006年(平成18年)、五島列島の女島灯台が自動化されて、日本からいわゆる灯台守が消えたそうだ。

 昭和12年 冬眺望
 一まちにつづく野中のかれくさに
   うすき日さしてながめ淋しも

     社頭虫
 みやしろになく虫の音は神楽にも
   たぐふと神や聞こしめすらむ
     たぐふ=寄り添う、呼応する

    たばこといふ題をよみける折に
 大御手にとりて臣らに賜はりし
   御かげしのびてたばこを見つむる
    
 つねに何かにつけ大正天皇の面影が浮かんできたのでしょうが、それを直接歌われることはめったにない。大宮さま(貞明皇后)は、この頃は宮中のしきたりを守らねばとお考えであったようだが、他方つねに新しいことや、海外事情を知るのがお楽しみであった。

 ご自分ではついに外国に行かれることはなかったが、次の歌はこの年に英国に訪問された秩父宮殿下、妃殿下をお思いになった歌である。

    海外旅行
 新しく知る楽しさのおほからむ
   日数かさぬる外国の旅

 御国たみいたるところにいそしみて
   さかゆくさまを見てかへらなむ
 日中戦争始まって以来、わが国内は完全に戦争態勢に入っていった。化粧の制限、長髪禁止、一汁一菜、日の丸弁当奨励、防空演習、そしてこの年1938年(昭和13年)国民総動員法の発令。

    雪中山といふ題をよみける時に
 ますらをのつよきいぶきも凍るらむ
   ゆきふりつもる北支那の山

    従軍記者
 海くがにたたかふひとの雄ごころを
   いやひきたてむ筆のちからに

    傷病兵
 末ながき悩みのたねとなりぬべし
   いくさのにはにうけして傷は

    招魂社
 よろこびを告げまつるあり悲しみに
   袖しぼるあり大みまへにて

     軍事郵便
 待ちわびて人や見るらむ弾の下
   くぐりてきたる文のたよりを

     航空機
 御軍のかてをはこびてますらをの
  たまのを(魂の緒)つなぐ鳥船もあり

  新聞紙上にて支那人の麦かるうつしゑを見て
 みいくさ(皇軍)のちからたのみてしなの民
   心やすくも麦かるといふ

 日の丸の旗を田畑にたておきて
   麦かる民のこころかなしも 

 6月に黄河決壊事件が起こった。これは中国軍が日本軍の進撃を阻止するために黄河堤防を破壊し、大洪水を起こさしめた事件だが、中国軍は地元民らに事前に知らせることもなくやったものだから、農作物の大被害のみならず莫大な死者を出した。もちろん、中国軍は、これは日本軍がやったというプロパガンダを世界に発信。もちろん日本側は事実を発信。そして事実は隠しきれなかったようだが、各国の反応はまちまちだったようだ。

 南京大虐殺も同じ。どこの国でもそうだろうが、とくに中国は昔から、白髪三千丈ではないが、虚偽を押し通すのを国策としている。それはいいとして、戦後わが国はあまりに紳士的というか、正義は黙っておればいずれ天が味方してくれると思いたがる。じつはそれも己の弱さを隠すための虚偽であるのに、そのことに気がつきたがらぬ。

 また、この年、医療費の重圧から農村漁村の貧者を救済するために国民健康保険が創設された。

     保険
 みちの人の教へのままにしたがいて
   身をすくよかにたもてとぞ思ふ

 家のためこがねしろがね積まむより
   身のすくよかにあるやまさらむ

 そして冬がきた。冬の庭は簡素でいい。そんな中、つわぶきと次いでサザンカが花をつける。

  つはぶきのはな
 みそのふ(御園生)の菊も紅葉もうつろひて
   ひとり時めくつはぶきのはな
 1939年(昭和14年)日米通商航海条約を米(ハル国務長官)が破棄。その昔、ペリーやハリスが無礼ともいえる熱烈さで日本に修好通商条約を迫ったのに。

     従軍看護婦
 益荒男もうれし涙にくれぬべし
   こころをくだくをみな心に

     戦死者遺族
 行く末のながき月日を子等のため
   こころくだかむ若き母はも

 ほそぼそと煙をたててさびしくも
   月日おくらむ妻子をぞおもふ

    靖国神社大祭の行はれけるをりに
 うからどち神をろがみていまさらに
   門出のさまをしのびてや泣く
    うからどち=親戚仲間

     満州移民
 火のごとき望みにもえて行く人は
   広きあら野もひらきつくさむ

     納涼
 風の入るむろにゐながら涼むにも
   軒のかさなる町をこそおもへ

     寒夜明月
 おく霜の白き芝生に松のかげ
   黒くうつして月のふけゆく

 1940年(昭和15年)
     忠霊塔
 ゆるぎなき国のかためのしるしとも
   見えてたふとく塔のそびゆる

     押花
 なつかしき思ひ出なりや横もじの
   書のなかなる古き押ばな

 陸軍省では管轄する諸学校の入学試験から英語が外されるようになる。そういった時代、大宮さまは、女学校時代の横文字のたぶんフランス語の本を御手にとってみたくなったに違いない。その御心をお察し申し上げる。9月、わが国は、中国軍への英米の援助を断ち切る目的で北部仏印に進駐開始した。

 翌年2月ハル談話「蒋介石を支え、日本を大陸に釘付けにさせておけ」。今となってはこんな風にも聞こえる、「ここまで来い。もっと疲れろ、もっと怒れ、日本はとっくに嵌まってるよん。真珠湾ウエルカムよ」

 10月、大政翼賛会の成立。これにより、婦人会、隣組長、町内会長は国家の下士官となった。生活必需品は切符制になり、ダンスホールは閉鎖され、国民服が制定される。「贅沢は敵だ」。そして11月、皇紀2600年記念式典。

      万民祝
 君が代を八千代といはふ民のこゑ
   天にとどろき地をうごかす

 そして、

      衆生恩
 物みなのめぐみをひろくうけずして
   世にありえめや一時をだに

 この時、大宮さまは、日頃の漠然たる思いにハッとお気づきなったと思う。そのことが、戦後のGHQ宮中改革にもすんなりと賛同された御態度に顕れる。
 1941年(昭和16年)

    12月ごろ 
 さざんくわの白き花ちるこのあした
   にはかにしげしひえどりの声

    読史 紀元節
 すめぐにの民てふことを心にて
   内外のふみは見るべかりけり

    幟(鯉のぼり)稀なり
 つつましき親のこころもしられけり
   立てるのぼりの少なかるにも

    棉(わた)
 耳に聞き絵に見し棉の花も実も
   おほ(生)してぞしる常ならぬ時

 10月22日 第4皇子、三笠宮殿下、高木百合子とご結婚。

      寄菊祝
 三笠山ふもとの菊は千代かけて
   ちぎりかはらぬ花に咲きなむ

    里月
 とりいれに夜もにぎはふ里なれど
   月かげのみは空にしづけし

 嵐の前の静けさだろうか。
 
    海上月
 ふな歌も遠くきこゆる波の上を
   心ひろくも月ぞてらせる

    そして、社頭祈世
 世をまもる神の心にうたへ(訴へ)つつ
  ふしてこひのむ今のこのとき

  昭和17年 連峯雲 御会始
 みねごとに朝たつくものゆくへさへ
   南の海をさすかとぞ思ふ

     光
 めしひたるたけを(猛男)の書きしその文字の
   こころの光めにはしむなり

    朝鶯 皇后宮(香淳)御誕辰
 新聞にこころひかれてゐる朝の
   みみおどろかす鶯の声

    春曉 天長節
 御夢にもみ国のことや見ますらむ
   のどけき春のあかつきにさへ

 しかし、この少し前の4月18日、米空母ホーネットから飛び立った16機のB―25が東京、横浜、名古屋などを爆撃していた。いわゆるドーリットル空襲。日本軍は数時間前から把握していたが、どうも手違いがあったらしく、高射砲も戦闘機もまったく敵機に損害を与えることはできなかったらしい。日本人の死者は86名。中国大陸に降りたB-25の搭乗員の大半はアメリカに帰還できた。

 しかし、このときすでに、いわゆる〈大本営発表〉がなされていた。いったん嘘を言うと、どんどん嘘を嘘で固めていかねばならなくなる。まあ、戦時中だからしようがないか。その一カ月あまりのち、ミッドウェーになる。

 昭和18年  耐寒
 たのもしき冬にぞありける寒さにも
   勝ちとほさむと人のきほひて

    海のまもり
 皇国の海のまもりをかためなむ
   よる仇なみもかひなかるべく

     失明軍人に時計を下賜せらるとて
 慰めむ言の葉をなみ時つぐる
   うつはの音にゆだねてぞやる

 君がためまなこささげしますらをの
   こころの悩みきかまくおもふ

     軍国歳暮
 かしづきし子はみいくさに召されいでて
   親やさびしく年おくるらむ

    昭和19年  朝氷
 今朝もまた池の氷をみてぞ思ふ
   千島のはての防人の身を

     潜水艦
 仇のふね目の前にして水底に
   かくるる時のこころをぞ思ふ

     折にふれて祈り言
 民こぞり守りつづけて皇国の
   つちは踏ますな一はしをだに

 皇国はいふにおよばず大あじあ
   国のことごと救はしめませ

     折にふれて
 人として見聞きするだにうとましき
   戦ひすなりながき年月

 ますらをの命ささげし物がたり
   聞くだにわが身おきどころなし

     婦人勤労奉仕
 たわやめも身をぬきいでてみいくさの
   わざにつとむる世にこそありけれ 

 昭和20年 社頭寒梅 御会始
 かちいくさ祈るとまゐるみやしろの
   はやしの梅は早さきにけり
 
 しかし、諸島戦地はとうに地獄を過ぎ、多くの20歳そこそこの若者が片道分の油を入れて空に舞い上がっていっていた、こんな歌を残してー

 父母様よ末永かれと祈りつつ
    征きて還らぬ空の初旅

      若尾達夫 沖縄海域にて特攻戦死
        享年22歳
 1945年(昭和20年)5月24日に、東京の芝、品川、大森、荏原などの城南地区に、明くる25日に、麹町、麻布、四谷などの山の手に、爆弾、焼夷弾の雨霰。当時宮内省総務局課長として現場で働いていた筧素彦氏は、この時の皇居の模様を詳しく書き遺している。(『今上陛下と母宮貞明皇后』)

 「全宮内職員は永年に亘って有事に備え、消防夫を兼任している位のつもりで空襲による火災に備え、設備も器具も衆知を傾け、訓練も永年に亘り真剣に実施してきた。それにも拘わらず、一個の焼夷弾も落下しない宮殿を、一瞬の間に猛焔に舐め尽させてしまったことは、まことにまことに申し訳ないことであり、…」と書いておられる。

 つまり、直接宮殿に焼夷弾が落ちたのではなく、晴天続きで乾燥の極に達していた宮殿の桧材に、周辺の大熱気による熱風が吹きつけ、正殿の廂に火が点いた、それがまたたく間に廊下を伝わって、宮殿全体を燃やしつくしてしまったらしい。

 筧氏は書いている、「俗に〈焦眉の急〉などというが、宮殿の焼け落ちる時の熱さは正に眉が焦げる思いであった。また、あの正殿と豊明殿の銅板葺きの大屋根が炎に包まれて焼き落ちる一瞬の、縁は黄金色に輝く緑色の大火焔の美しさには呆然たる思いであった」。

 「この夜、赤坂の大宮御所もまた無数の焼夷弾の直撃にあって全焼、皇太后陛下(貞明皇后)は危機一髪のところでお文庫(防空室―御殿からはお庭伝いに坂を下りた所にあった)に御避難になった。」

 この時までは、皇太后は大宮御所にお住まいであったが、いざというときには、二か月前に急遽作られたトンネルを通って、御文庫(地下防空壕)にお移りになることになっていた。したがって、この時以降は狭苦しい御文庫での御生活となった。

 ある女官の語る所によると、御文庫では、皇太后は、空襲で死んで逝きつつあるであろう多くの人たちの冥福を祈るために、経机に向かい端坐して、地蔵尊像や念仏文字の朱印をいくつもお捺しになっていたと。

 天皇(昭和天皇)は、空襲警報が鳴るたびに大宮御所の皇太后の身を案じられ、侍従に「おたたさま(母)は御文庫にお移りになっただろうか」と下問され、その確認を待って、御自分も宮城内の御文庫に御動座なさったという。また一方、皇太后も天皇皇后の御身を非常に案じておられたことは言うまでもない。

 そもそも、貞明皇后は、まだ妃殿下であるときから、御長男は将来の天皇となる御身たることゆえ、裕仁皇太子殿下には一歩距離を置いて接しておられた。しばしば、秩父宮殿下以下のお子様たちには母親らしい愛情表現をなされたようであるが、御長男とは気が合わなかったとか何とか言う人たちが、昔も今も同じようにいるが、そうではない、天津日継ぎの皇子に対する態度は母親のそれであってはならないのであって、子供だから大事なのではない。距離を置くとは敬意を示すということである。

 皇太后は、天皇へのお使いを仰せつかわすとき、御使いに対しても天皇へのご口上を仰るときには、御使いに向かい、かならず御起立されて、一区切りごとにお辞儀をなさって、御言葉を述べたという。ましてや、御使いから天皇のお言葉を聴かれる時の御態度も推して知るべし。

   終戦の年 雅楽 明治節
 千年へしもののしらべもすすみたる
    御代にいよいよ栄しめなむ

 小生は、この御歌に充実した御覚悟を感じる。方法は異なるとも、目指すところは昭和天皇と同じである。

 天皇は天皇で、戦後復興のために御自分の役割を御自覚され御邁進になったことは、映像などでもわれわれのよく知る所である。そもそも8月9日、ポツダム宣言の発表を受けて、吹上御苑の地下防空壕内で開かれた御前会議。鈴木首相、東郷外相、米内海相、阿南陸相、豊田軍令部総長、梅津参謀総長、平沼枢密院議長、その他4名が列席。

 一億玉砕をもって最後の一矢を報いるか、ポツダム宣言を受け入れて降伏するか、意見は分かれた。そして、「陛下、何卒思召しをお聞かせ下さい」

 「ならば自分の意見を言おう。自分の意見は外務大臣の意見に同感である」。

 一瞬の静寂。そして誰からともなく、涙とともに押し殺した声は、すすり泣きから号泣へ、全員の肺腑から流れ出たのであった。

 しかし、大事なことは、陛下の締めくくりの御言葉であった。「こうして戦争をやめるのであるが、これから日本は再建しなければならない。それは難しいことであり、時間も長くかかることであろうが、それには国民が皆一つの家の者の心持になって努力すれば必ずできるであろう。自分も国民と共に努力する」。

 昭和21年1月1日 新日本建設に関する詔書 天皇人間宣言 こんな茶番をされてまで…しかし、皇太后の御歌
    
     松上雪 御会始
 そのままの姿ながらにおもしろく
   降りつもりける松の白ゆき 

 ゆく道をうづみてつもる雪なれど
   しるべの松はかくさざりけり
 御所の炎上後、大宮さま(貞明皇后)は御文庫と称する四畳半くらいのじめじめした防空壕で、三か月ほどお過ごしになった。もちろん、そこには大正天皇の御影さまが懸けられており、朝夕の礼拝を怠られなかった。「貞明皇后」(主婦の友社)によると、御所炎上の報を聞いて駆けつけた高松宮妃に、大宮さまは、防空壕の中に泰然自若として、「これで国民といっしょになった」と、さぞ御満足のように仰せられた。高松宮妃は、その一言に、御慰めする言葉を失われて、深く感動された、とある。

さもあらん。このじつにさばさばとしたところが貞明皇后の圧倒的な魅力である。家具や調度品や文書もあったであろう、持ち出さずに焼失したものは多かったであろう。しかし未練を口にする女官たちをよそに、大宮さまはいっさいの未練がましいことを口にすることはなかったという。

 1945年(昭和20年)8月20日 大宮さま(貞明皇后)は軽井沢へ御疎開になった。とはいえ、もう戦争は終わり、疎開の意味もなくなったのであるが、以前から計画されており、また折も折、大宮さまにしばらく東京を離れてくつろいでいただきたいとの両陛下の切望に従うしかなかった。

 軽井沢の地で、ふと見かけた珍しい植物〈かたしろ草〉を、東京で大変な思いをされている天皇にお贈りした。天皇は大変のよろこびになって、吹上御苑の一隅にお植えになり、詠まれた御製。

 いでましし浅間の山のふもとより
   母のたまひしこの草木はも

 池のへのかたしろぐさを見るごとに
   母の心の思ひいでらる

 大宮さまは12月に軽井沢から沼津御用邸へ移られた。そのほとんどは空襲で破壊されていたが、幼少時に田舎にお育ちになった貞明皇后は、ほんとうに田舎の生活がお好きで、勤労奉仕に来た女学生や土地の人たちと一緒に、モンペ姿でときには大はしゃぎして畑仕事に精を出された。大宮さまのあまりの気さくで明るい人柄にみな感心した。後年に至ってますます形式に拘泥せず、純朴を愛され、まごころ、童心をご発揮になり、話し相手が、ぞんざいな言葉遣いをしても、まったく意に介するところがお有りにならなかった。

    春水 紀元節
 わらはらや引き落としけむいささ川
   田芹うかべて流れゆくみゆ       
      わらはらや=子供たちであろうか

    丘若菜
 いそいそとわか菜つむべくのぼるかな
   丘の木の間に富士を見ながら

    翁
 数を多みう孫の名すらおぼえずと
   かたる翁の幸をこそおもへ

 ここで獲れたサツマイモは、先ず御影さまにお供えし、両陛下をはじめ御親族の人たちにお領けになった。そして、一年後に東京に帰られても、このサツマイモを御所内の畑で育てられたそうである。大宮さま崩御の後の昭和天皇御製。

    母宮を思ふ
 母宮のめでてみましし薯(いも)畑
   ことしの夏はいかにかあるらむ

 あつき日にこもりてふとも母宮の
   そのの畑をおもひうかべつ

 昭和21年の暮、焼跡に再建された大宮御所に戻られた。

     春月寒
 照る月の光もしろし風さえて
   かすむともなき春の夜空に

     神苑橋 明治節
 ねぎごとは母にまかせてうなゐらの
   わたりてあそぶ神ぞののはし
      うなゐ=幼い子供

 「これでいいのです」と呟いておられる様子が目に浮かぶ。

 この年(昭和22年)10月のことである。筧素彦氏によると、ふと食堂でラジオが鳴っている、誰が聴いているのだろうと覗くと、なんと大宮さま。「まあいいから一緒に聴いておいで」と仰ったので、耳を傾けると、それは漫才だった。と次にニュースが流れた。それは、直宮以外の宮様方が臣籍降下なさるというものだった。筧氏がはっと息をのんで大宮さまのお顔を伺うと、平然として聴いておられる。
 筧氏が「まことに恐れ入ったことで…」と申し上げると、大宮さまが仰るには、眉ひとつお動かしにならず「これでいいのです。明治維新この方、政策的に宮さまは少し良すぎました」。このあまりにもあっさりとしたお言葉に筧氏はたいそう驚いたそうである。

 じつは昨年(昭和21年5月)に、加藤次官が大宮さまに、GHQの圧力による皇室問題に関して、宮様方の臣籍降下問題を、お訊ねになったのだった。その時、大宮さまは、「宮様方が納得するまでゆっくり時間をかけてください。自分は御一新のこと、何も心配要りません」とお答えになったそうだ。

 おそらく大宮さまは、皇室が永続するその本質的理由は、質素、まごころ、率直、そういう心持にあるのであって、明治以来、対外的には必要だったかもしれないが、あまりにも物質的に豊かでありすぎたのは間違っていたのでは、と考えておられた。他国の王や皇帝ではない、天皇である。天津日継である。

 この度の東北の被災地への両陛下の御慰問の映像を拝見して思った、もし貞明皇后があれを見られたとしたら、これでよしと首肯されたであろう。あの被災者たちと同じ床に膝をおつきになって、被災者の言葉に耳を傾けられ、心底からお言葉をお掛けになっている姿こそ、わが皇室の本質である、と。

     昭和23年 巌上松
 根を幹を何によりてかやしなへる
   しみ栄えたる岩のうへ松
      しみ=繁く

     昭和26年 朝空 御会始
 このねぬる朝けのそらに光あり
   のぼる日かげはまだみえねども

 この年の五月、大宮さまは狭心症の発作にて崩御。六月八日「貞明皇后」の追号を贈られる。

 山口幸洋氏の『椿の局の記』は、大正天皇・皇后のもっともお側近くに仕えていた女官の思い出話で、天皇皇后の日常を臨場感あふれる言葉遣いでかかれている。

 大正天皇は漢文の素読に長けていて、漢詩をつるのも非常に速いのを目の当たりにして、この椿の局が驚いたことを以前に紹介したけれど、ほかにも面白いエピソードがある。

 この椿の局の父が鎌倉に住んでいた頃の話。葉山(御用邸)へお供した時、大正天皇は局の父が鎌倉に居ることをよくお知りになっていて、あたくしに「ここからならおでーさん(父)とこ近いだろ、おでーさんた所へ行ってきたか」と仰せんなる。「はい、まああの近いでございますけれど、まだよう参りませんでございます」ったら、「こういう近いとこ来た時、皇后さまにお願いしていくといいよ」って仰せんなる。そういう所までお気つけて頂いてね「ありがとうございます」言うと、またしばらくすっと、「行ったか」っと仰せんなるです。で、「まだよう参りません」って。今度は「どうして行かないのか」って仰せん、「こんなに近いところまで来て、どうして行かんのか」って仰せんなってね、その内に父が拝謁に上がったもんで良かったんですが、また何べんもおたずね頂くんですよ、…」

 このよく気が付いて、しつこいところが、じつに大正天皇らしく、小生思わず笑みがこぼれてくる。

 また大正天皇はとてもおちゃめだった。夕ご飯前にちょっと時間があって、侍従や女官たちが、廊下で御膳が出てくるのを待っているあいだ、大正さんが、「おお、まぶしいぞ、ライトを消せ」と仰る。それは、侍従の何とかさんと、お医者の何とかさんの頭が禿げて光っていることを言った、とか。

 また、天皇は犬が大変お好きで、沢山の大型犬を飼っておられた。それをいっぺんにぱっと放す。女官たちは、きゃあきゃあ言って逃げまとう。それをとても面白がられた。

 お上は、甘いものはあまり召しあがらない、ただ葛だけは召しあがる。そのようなお菓子をみんなに下賜くださるのがお楽しみでした。…あたしはもう、たんと頂くもんで逃げると、手えつかんで下さるもんで逃げて行くわけにもいかなんだ。あんまり下さると、皇后さまが「お目目近目」だもんで、こんな目えして御覧遊ばされるから「お上、もうそれで結構でございます」って言って逃げて行くようにする。(お上は)逃げて行かんようにギャーッと手をつかんでならしゃる。ごちそうでも山のように下さるんですよ。

 御膳召しのおりお給仕の時は、なるべく陰へ陰へ行くようにしてるんですが、お皿持ってこいって言って下さるんです。(お持ちすると)持っている手をがっとおつかみになって、御自分さんのそばから逃げて行かんように押さえて、つかんでならしゃるです。…そうしてお皿いっぱいもうこぼれます言うくらい積んでいただくわけ。そうすると皇后さまがきゅっとごらん遊ばしてんのが、…こう変なお目目でごらん遊ばされるんですね。一時はちょっと御機嫌が悪うてちょっとあのヒステリーみたいにおなり遊ばしたことあるんですよ。

 お上に、あまりに馴れ馴れしくされたときは、皇后さまはとても恐かったみたいだが、それ以外の時は、とても優しくしていただいた。「あんなに今恐ろしいことをおっしゃってならしゃたおみ口で、又こんなにかばって頂いてもったいないと思って、申し訳なかったんと思うと、もう涙が出て、お傍に出られなくなるんです。」

 牧野伸顕をはじめ、周囲の人たちを感嘆させるほどの聡明な方であられた節子皇后も、女性であることには変わりはない。

       観蓮(大正12年)
 なやましき夜半をすぐして池水の
   すめるこころに蓮の花見る

 お上が椿の局にあまりに馴れ馴れしくするので、皇后に遠慮して、権典侍(お側仕え、明治以前なら側室のこと)から命婦(奥の事務方のような仕事)に移してもらうようにしていただいたそうだ。

 大正天皇はとても心やさしい人で、昭憲皇太后(明治天皇の妻、大正帝の実の母ではない)をとても大事にしていた。「階段の、お自分さんのミヨ(足)がお悪いのに、御自分さん後ろ向きにお階段のおしたへお下り遊ばして、お手手こうお持ち遊ばしてね、…「お危のうございますよ・・・」って仰せんなって、おいたわり遊ばすんですよ。そうするとあの昭憲皇后さま、お涙ためて「恐れいります」いわしゃって、うんとにお美しいですね、・・・。

 ふつう天皇はたとえ母に対してでも、そのようにしないが、大正天皇は、そのような習慣に縛られることはなかった。

 また、大正天皇は仕事にはとてもご熱心で、たとえお食事中でも、仕事上の(政治の)面会などがあれば、自らすぐ執務室に足を運ばれた。相手を待たせるか、来させるかすればいいものを、…と椿の局は不思議に思った、と。

 また、新嘗祭や月初めの御神事を行われるさいの、じつに繊細きわまりない清めの準備があるのには驚かされる。このような不眠不休の作業が常に行われていることをわれわれは知らない。

 「おやすみの日はあらしゃいませんよ。日曜なんて私らのとこの国ではないんです。…だからみんな大祭やいうて遊びに行ったり、長長なって(寝て)らっしゃると、もったいない、お上はお休み遊ばされない、御寝も遊ばされんで御自分が神様の御用遊ばして、国民のために遊ばされるのに、人民は粗末な気持ちで居るって、あたくしがいつも怒るんです。」

 大正天皇は葉山の御用邸で、1926年(大正15年)12月25日に、お亡くなりになった。その年の8月10日、天皇は皇居から車で原宿宮廷駅に運ばれた。その時の様子。

 「だいぶお悪いというので葉山へおともする(お連れする)ことは、よくわかって頂いたんですが、お自動車へね召さすとき、「いや」っと仰せんなった。お自動車が分からんようにお庭の方へ自動車廻して、お庭玄関からずっとお入れしたの。おいたわしい、そんな拝見して、そんなにまでもお連れ申さんかてええのにって、あたくしとか宮内大臣、それこそ食ってかかるっちゅうか、けんかずくでね申しあげたことあります。何かきっとどっかで相談あったんでしょうと思いますね。

 自動車へは(お上を)そのごと(そなまま)じゅうっとお入れしたんですもんで、(立った格好で)おズボンを見えさすのに、こういう風にお抱えして、ほいでおミヤ(足)へおズボンこうしてあげたですもんでね。途中でまたおチョーズ(小便)がおいでんなりたいといかんからって、お袋あげてね、だから地獄の責苦ですわ。もったいなくってね、なぜそういうこをしてお連れましなきょならんのか、皇后様、良いっていうこと仰せんならなかったです。侍従さんもみんな反対、入江さん(侍従)はじいのかみ(おじいいさん)でしたが、(その反対に対する)御返答伺ってないまま、お連れまししたんだって仰ってました。…」

 「葉山の御用邸は澄宮様(三笠宮)のおややさん(赤ちゃん)の時に御別邸ならいしゃったとき出来た御別邸ですもんでね、お詰めするのにも人の寝るとこも、坐るとこもないくらい、御殿としちゃあ狭いとこです。…あたしたちも注射さしあげられるようにちゃんとしました。お側にお注射器を揃えて、消毒してお戸棚置いてみんな入れて用意してはりましたでね。…皇后様は、崩御んなるまでお召(着物)をお解き遊ばす間もなしで、お側離れずずっとおつき遊ばしてました。…でも御寿命ですからね、お若いときからおつとめ一途に、ただもう御無理ばっかし遊ばされて御体力がお弱りんなったのがご病気の始まりだったし、秩父宮様が「人事をつくした」って仰せになった通りでしたと思います。・・・


先代:
昭憲皇太后(美子)
日本の皇后
1912 - 1926
次代:
香淳皇后(良子)




(私論.私見)