貞明皇后の御歌考

 (最新見直し2007.10.31日)

 ここで、大正天皇の皇后貞明について考察しておく。「ウィキペディア貞明皇后」、「萬晩報、薩長因縁の昭和平成史(4)」その他を参照する。

 貞明皇后(ていめいこうごう、旧名:九條 節子(くじょう さだこ)。1884年6月25日 - 1951年昭和26年)5月17日)は、大正天皇皇后お印


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 貞明皇后。大正天皇の奥方、昭和天皇の母君、秩父宮、高松宮、三笠宮各親王の母君。この方は、なかなかどうして国母というにふさわしい深くて広い心であられたとの評判がもっぱらである。何より、生きた時代が明治・大正・昭和、しかも戦後を見届けてから昭和26年に亡くなった。つまり日本が近代化を急ぎ成し遂げ、結局は欧米列強の前にひれ伏し、廃墟となった日本を、東京のど真ん中に居て見てきた人なんだな。この人はどのような心持で生きておられたのか。

 貞明皇后こと九条節子(さだこ)は、明治17年(1884年)、東京神田に生まれた。九条家と言えば、旧摂家であり、当時父の九条道孝は公爵であったが、生母は側室であったという。が、もちろん九条家の御姫様であったことには変わりがない。節子姫についてどうしても言っておきたいことは、この人は生後まもなく五歳になるまで他家で育てられたことだ。もちろんそういうことは珍しいことではないが、幼児のときの環境がその人の性格形成に大きな影響を及ぼすものであり、とくに節子姫の場合、おおなから村人によって育てられたことが後の貞明皇后のいわば野趣に富んだ、豪胆な性格を形つくったように感じられる。

 節子姫は生後7日目にして、当時農村地帯だった多摩郡高円寺村の豪農である大河原家に預けられた。乳母のいる家を探し求めていた父道孝の、たくましく育つようにというたっての願いだった。大河原家の奥さんの〈てい〉は、生後すぐ赤子をなくし、母乳は有り余るほど出た。『貞明皇后』(主婦の友社)によると、中を取り継いだ近所の人との、こんなふうにエピソードが書かれているが、さもありなんと思われる。

 大河原氏「お公卿さまのお姫さまだって? そりゃ、わしのところのような百姓家では、勿体ないよ。それに野良が忙しくて、とてもかまっていられないしね」。

 取り次人「いや、先さま(九条家)では百姓家がお望みで、自分の子供同様に育ててくれとおっしゃるのだよ。箱入り娘扱いなら、わざわざ里子に出す必要はない。農家に里子に出して、乳母になる人の清潔な、健康なお乳をたっぷり吸わせ、世間の風にもあてて、強く逞しく育てたいというのが、そのお公卿さまのお邸の、昔からのしきたいというこどだよ」。

 大河原氏「ふうむ、そうかね。そういうことなら、おていにもよく相談してみなくちゃあ」。

 取り次人「ぜひ頼みますよ」。

 そうして大河原家の人たちは、〈わが子のようにして健康に育ててほしい〉という要望だけをしっかりと頭に入れておいて、けっして特別扱いにはしなかった。また忙しい農家のことなので、たとえそうしようと思っても、そんなゆとりはなかったそうだ。節子姫は、そういうしだいで、大河原家や近所の子供たちといっしょに栗やモモを採り、トンボを追い、麦笛を鳴らしながらあぜ道を走るような生活を楽しんだ。乳母のていは信心深かったので、幼い節子も自然に神だなや仏壇の前でぬかずき経を口にするのだった。

 あるとき大河原夫妻がちょっとした口げんかをした。しだいに声が大きくなっていった二人を見つめていた節子は、とつぜんお膳の上の箸をとり、それで養父のあたまをぴしゃりと叩いた、二人はびっくり、我に帰り苦笑したそうである。
 1888(明治21)年、節子姫は、養家の大河原家から実家に引き取られた。その二年後、華族女学校の初等小学科に入学。学校では、一番小柄な方であったが、才気にあふれ行動的で、クラスの人気者になった。ある日、休み時間に笑い芸人の「オッペケペー・・・」という自由民権謳歌をとつぜん歌った。深窓のクラスメートはびっくり仰天した。このような、よく言えば明るく、物おじしない性格は、この後ずっと続いたのだった。

 またこれもよく引き合いに出されるエピソードだが、初等中学科に進んだ13歳の時、いつもの快活さには似ず、物思いにしずむことがあった。クラスメートが理由を訊くと、なんでも、通学路にある雑貨屋に色の透き通るような美しい娘さんが寂しそうに座っている、どうしてあんな美人がお嫁にも行かずに店で座っているのだろうと不思議に思っていたところ、巷のうわさで耳にしたのだが、彼女は、不治の病であるライ病に侵されているとのことであった、という。このささやかな、しかし深刻な経験が後に貞明皇后をして終生救ライ活動に専念させることになった。

 1896年(明治32年)、中学科三年の夏休みに、皇太子/嘉仁親王の妃に内定した。じつはそれ以前に、伏見宮貞愛親王の第一王女禎子(さちこ)姫が皇太子妃の第一候補であった。禎子姫は色白の、気品にあふれた、いかにも深窓の令嬢であったが、どうも病弱であったらしく、最終的に外された。

 1899年(明治33年)、嘉仁皇太子と婚約。節子ときに15歳。この報を聞いて、高円寺村の大河原夫妻は腰を抜かさんばかりに驚いた。そして、節子姫が残し置いた着物・玩具・調度品などを、この屋敷に置いておくのは申し訳ないと、そのすべてを九条家に送り返すか、浄火で焼いた。節子姫は「思い出の品がみんななくなったら、じじもばばも寂しいことでしょう」と言って、和歌を色紙にしたため大河原家に贈った。


 
昔わが すみける里の 垣根には 菊や咲くらむ 栗や笑むらん

 
ものごころ 知らぬほどより 育てつる 人のめぐみは わすれざりけり

 節子姫、16歳。いよいよ東宮妃としてのきびしい教育が待ち構えていた。
 1900年(明治33年)5月10日、嘉仁皇太子と節子姫の御結婚。束帯姿の東宮殿下と十二単の節子妃は、賢所内陣にて玉串を奉じ、お告文を奏せられ、さらに皇霊殿、神殿に玉串をおささげになった。これ本格的な神前結婚式の嚆矢なり。

 伊勢神宮と京都御所などに巡啓し、東京へ帰られたお二人は、赤坂の東宮御所で新生活を始められた。ところが、節子妃がいくら九条家に育ったとはいえ、宮中はまったく違った世界であった。鉛のように重い伝統や習慣の空気の中を歩かねばならない。万里小路幸子(までのこうじゆきこ)という老女官が節子妃の御用掛になった。この老女官は英照皇太后(孝明天皇妃)と昭憲皇后(明治天皇妃)に仕え、宮中奥のしきたりの権化であった。気のお強い節子妃も幸子からの御小言にしばし頭を痛められたようだ。大正7年、83歳で幸子が亡くなったとき、「よくもあれほどまでに私をしつけてくれたものだと、ただただ感謝するばかりである」と節子は述懐している。そして一首、

 さみだれは いとども袖を ぬらすかな ゆうふべの雲と なりし君ゆゑ

 健康な節子妃と天真爛漫な嘉仁皇太子との生活は、円滑で喜びに満ちていたであろう。その証拠に次から次へと三人の男子が生まれた。嘉仁皇太子は、実の母が二位の局こと柳原愛子(なるこ)であると初めて知らされたのもこのころであったらしい。この時から、宮廷は一夫一婦制となったと言われるが、皇太子が宮廷改革が必要だからそうしようとしたとは思えない。権典侍制度というのがあって、6名の女官が取り囲んでいたらしいが、そんなものは必要がなかった。それほどお二人は幸福であった。

 それゆえそのころの節子妃の歌はまだ少ない。

 御結婚後二年目の新年梅を歌う。

 梅の花 かぞふばかりも さきにけり 年のはじめの 一日二日に  節子妃

 新玉の としの始めの 梅の花 みるわれさへ にほほゑまれつつ 皇太子
 1901年(明治34年)5月1日の官報号外。

 「皇太子妃節子殿下、今二十九日午後十時十分、東宮御所ニ於テ御分娩、親王降誕在ラセラル。明治三十四年四月二十九日 宮内大臣  田中光顕」。

 御名 裕仁(ひろひと)。御称号 迪宮(みちのみや)。後の昭和天皇である。

 家々は〈奉祝〉の提灯を灯し、日比谷公園は花火の嵐。御養育主任は川村純義。そうして、迪宮は三年半川村邸でお育ちになった。

 1902年(明治35年)淳宮雍仁(あつのみややすひと)親王、後の秩父宮誕生。

 1905年(明治38年)光宮宣仁(てるのみやのぶひと)親王、後の高松宮御誕生。

 この年の4月、皇太子夫妻の住居である東宮御所の隣に成った皇孫仮御殿で、三親王はお暮らし始めた。皇孫御養育掛長は丸尾錦作。母節子妃は子供たちと近くに住むことができるようになるも、同じ屋根の下で住むことはかなわなかった。

 時は日露戦争(明治37年)前後。皇太子夫妻は多忙な日々ではあったが、時には三人の子供たちといっしょに楽しい時を過ごすことはできた。そんなときでも将来の元首となりうる皇孫たちと、一般の母子のように、馴れあうようなことをしてはならないと節子妃は身を持するのであった。まだ甘えたくてしようがない年齢の子供たちはどのように感じていたのだろう。

 明治34年の、ドイツ人招聘医師ベルツは、日記に書いている。
 「東宮は、気遣わしいほどたくさん紙巻タバコをおふかしになる。五時、川村伯のところへ。この70歳にもあろうという老提督が、東宮の皇子をお預かりしている。なんと奇妙な話だろう! このような幼い皇子を両親から引離して、他人の手に託するという、不自然で残酷な風習は、もう廃止されるものと期待していた。だめ!お気の毒な東宮妃は、定めし泣きの涙で赤ちゃんを手離されたことだろう。…」。

 ベルツの意見が当時の内大臣に影響したのかどうか知らないが、明治38年ころから、水曜日の夜は、両親が御養育所へお成りになり、土曜日の夜は三皇孫を御所に招いての会食をするようになった。そんな時も節子妃は、皇孫たちの行儀作法については一切口出しをせず、楽しげに眺めておられたという。食後のだんらんは、節子妃がピアノを弾き、皇太子が歌を歌った。皇太子は軍歌や世界漫遊の歌などを、大声で歌い、いつしか皇孫たちも自然にそれらを覚えるのであった。

 明治35年の節子妃の御歌から ベルツの25年間日本に居れるを祝ひて、

 年ながく くすしのわざを おしへつる いさをおもへば たふとかりけり

  寒蘆
 浦びとや かりのこしけむ かれあしの 一むら岸に おれふせる見ゆ

 明治37年の御歌から

 折にふれて
 風わたる 庭のやり水 見てもなを 心にうかぶ 海のたたかひ    
 (日露戦争の海戦)

 明治38年の御歌から

 水鳥
 池水も こほりそめけむ をしがもの 羽ふきの音の さえてきこゆる
 1905年(明治39年)1月、実父九条道孝氏逝去。

 暮春
 くれてゆく 春はとどめむ すべもなし かたみのはなを いざをりて来む

 このころから節子妃の和歌数は増えてゆく。

 生駒艦の進水式に
 くろがねの 大みふねさへ みくににて 造りうる世と なりしうれしさ

 生駒は国産初の重油エンジンで動く軍艦、しかも1万トンを超える巡洋艦であった。つい先日の日露戦争での戦艦がすべて外国製で石炭式であったことを思えば、それはもう先端科学立国の仲間入り。今で言やISSへの物資補給を成功させた〈こうのとり〉みたいなもんで、他国の嫉みを買うこと間違いなし。偶然かもしれないが、この年、白人国で邦人移民排斥運動が起こりますね。

  海辺夕
 入日さす はまの松かげ あまの子が ちちやまつらむ あまたむれゐる

 白
 ふりかかる みゆきをはらふ 宮人の 小忌(おみ)の真そでに 梅の花ちる 

 鮮明ですね。

 しづけさを 何にたとへむ やり水の ながれもたえし 山かげのやど  
 
 秋夕
 くれてゆく 空こそことに 悲しけれ 秋のあはれは いつとなけれど

 このころ『古今集』などをふたたび勉強しておられたのでは。

 明治40年

 夕日かげ かたほにうけて あまをぶね かすむ波路を こぎかへるみゆ

 戦死者遺族
 かなしさを 親はかくして 国のため うせしわが子を めではやすらむ

 23歳の節子妃は、悲しみこそ私としての自己と公としての自己と峻別する理性を養ってくれることを知っておられた。
 1908年(明治41年)2月、日米紳士協定なるものによって、日本からアメリカへの移民禁止。4月、ブラシルへの初移民。西園寺内閣から第二次桂内閣へ。そして、西欧では、オーストリア=ハンガリー帝国~バルカン半島の不穏な情勢という時代。

 野残雪
 山かげの 小野のささはら さらさらに 春とも見えず 雪ぞのこれる

 春曙
 月影は かすみにきえて 山のはの 花見えそむる 春のあけぼの

 藤
 紫の いろなつかしき 藤の花 かめにやささむ かざしてや見む

 人伝時鳥
 みやこには まれになりつる ほととぎす 人づてなれど きくがうれしき

 川辺蛍
 夕立の なごりすずしき 川風に 影も流れて ゆくほたるかな

 この時の作と思われる漢詩も作られています。貞明皇后はこの頃から大正三年にかけて、漢詩も手掛けられた。おそらく、夫君の影響でしょう。たぶん嘉仁皇太子が「節子よ、そなたも漢詩を作ってみよ」。節子妃「わたくしは、和歌は好きですけれど、漢詩などはとても難しそうですし、柄ではありませんわ」。嘉仁「心配するな。われが教えて進ぜよう。なに難しく考える必要はない。適当に作れば、後はわれか三島が手直しをするぞ。作れ、作れ」なんて、仲睦まじい情景が浮かんできます。

 柳陰撲蛍(西川泰彦氏読み下し)

 新月未だ昇らず楊柳垂る
 群蛍聚散す野川の涯(みぎわ)
 僮(しもべ)に捕獲を命じ嚢袋に満たしめ
 帰りて詩書を照し昔時を思ふ

 その昔、シナの車胤は、貧にして灯火の油を買えず、大量の蛍を捕まえその光で刻苦勉励、大成した。そのことを想い浮かべられたのですね。

 たぶんこの時、御夫婦一緒に作られたのであろう。嘉仁皇太子の漢詩。

 観蛍

 薄暮水辺涼気催す
 叢を出で柳を穿ち池台に近づく
 軽羅小扇しばらく撲つを休めよ
 愛し見ん??(けいけい)去りまた来るを

 こんな話が残っています。大正天皇に権典侍、命婦としてお側に仕えていた椿の局こと坂東登女子さんという人が語った話です。
 「貞明皇后さまがおつむ(頭)がすごくおよろしいのに、大正のお上はまたもうひとつそれにしんにゅうをかけたほどお賢たったもんで、あの三島さんがあの、それこそどうか四書五経っていうですかあれをお上げんなるのに、もう素読あげなさる前にお読みんなるくらいお賢かったですわね。…賢いお方(貞明皇后)さんがおいつけんとおっしゃったくらいお上は天才的っちゅうですかね。お教えせんでもちゃっとお素読遊ばした…あんまりおつむさんが良くってお体がお弱っくあらしゃったんでしょうと思いますね。…」(『椿の局の記』山口幸洋著)。
 1907年(明治40年)から三年間、節子妃の御歌は多いが、このとき皇太子は全国順啓に多忙であった。原武史著『大正天皇』によると、

 1907年は、5月10日~6月9日に山陰地方。10月10日~11月4日に韓国~九州~高知。

 韓国順啓は、もちろん伊藤博文の政略であるが、嘉仁皇太子はそんなことより、そこで遇った当時10歳であった韓国皇太子李垠(リギン)に関心を引かれ、同年12月に、李垠は日本に留学することになるが、以後弟のようにかわいがり、李垠のために韓国語の勉強をさえ始めた。このエピソードが象徴しているように、総じて順啓という完全に政治的なる行程上で、完全に非政治的なる魂が自由に動いているようで、小生には面白い。それはちょうど、少年モーツァルトが、神童ピアニストとして父親にヨーロッパ中を猿回しのように引きずり回された様を想起せずにはおれない。

 1908年(明治41年)、4月4日~19日に山口・徳島。9月8日~10月10日に東北地方。皇太子御一家が写った絵葉書が大量に出回った。

 1909年(明治42年)9月15日~10月16日に岐阜・北陸地方へ。

 1910年 栃木・近畿・東海へ。1910年 北海道・京阪神へ。

 とにかく、だんだんと明治天皇の名代という色彩が濃くなっていくなかで、嘉仁皇太子は、息詰まるような順啓をこなさねばならなかった。この間、節子妃は、歌を歌うことによって皇太子の帰りを待った。

 明治41年の御歌(つづき)

 撫子
 さびしさを しらず顔にも ふるさとの 庭にほほゑむ なでしこの花

 朝蓮(はちす)
 みつつあれど ひらきもやらず 花蓮 朝のこころの むすぼほるらむ

 松風追秋
 秋草は まだつぼみだに 見せねども 松ふく風の おとかはりきぬ

 折にふれて
 名もしらぬ 小ぐさことごと 花さきて 山路の秋は 春にまされり

 東の くもたつ空ぞ なつかしき 君がまします 方ぞとおもへば

 浦擣衣(とうい)
 うらなみに まぎるるほどぞ あはれなる きぬたの音の たえだえにして

 水鳥
 寒かりし よはのおもひも わすれけむ 朝日にねぶる 岸のみづとり

 雀
 あさいする 窓の戸ちかく むらすずめ きてなく声を きけばはづかし
 1909年(明治42年)

 雪中松 御歌会始
 風もなく ふる白雪を うけてたつ 松のこころや しづけかるらむ

 橋本綱常の身まかりぬとききて
 去年の くれあひしをつ ひのわかれとは 思はざりしを あはれ人の世

 橋本綱常は陸軍軍医総監で、橋本左内の弟。この歌業平くずれ。

 雪降らば訪はむと契りおきし人の来ざりければ
 ゆきよりも 人の心の あさけれや 日ぐらしまてど かげの見えこぬ

 八十歳にまれる師の三島中洲の雪ふれる朝とくより教へにとて来たりければあたたかなるものにてもつかはさむとかと思ひて
 いかにせば けふの寒さを 老が身に おぼえぬまでに なしえらるべき

 三島中洲は嘉仁皇太子の漢詩の先生。このころ夫君と一緒に詩作の教えを請うたのでしょう。立派な老先生と思いやりのある生徒。そうえいば、皇太子が20歳くらいのとき、70歳のこの老臣先生と布引の滝をみに行った時、皇太子の御詩に、「…われ時に戯れに老臣の腰を推す、老臣柿をくらひてわづかに渇きをいやし…」というのがあります。老先生にとって、皇太子は、恐れ多くも、かわいく無邪気な、そしてふしぎな詩魂をもった少年に映っていたのではないでしょうか。

 暮春(一部漢字に変換、今後も同様御免)
 惜しむかひなしとは知れど くれてゆく 春の空こそ ながめられけれ

 空のうみ 月のみふねの ゆく方に 白なみなして よするうきぐも

 人みなは ききつといふを 時鳥 わがためなどか 声をしむらむ

 初秋風
 このあした 桐の一葉の ちるみれば はや秋風の たちそめぬらし

 逗子よりかへるみちにて
 みちすがら なみだにくるる けふの旅 みこの一声 耳にのこりて

 この秋10月、ハルピン駅で伊藤博文が暗殺されます。

 冬夕
 いでなむと おもふも寒き 夕ぐれに いとどふきそふ 木枯の風

 人のこころのいかにぞやと思はるるふしあれどわれだに思ふやうにはなりがてなるに
 人の上をさのみはいはじわが身すら わが心にもまかせぬものを

 天使のような夫君と旧習墨守の女官たち、そして皇室を取り巻く公侯伯子男の妖怪たちの中にあって、節子妃はどのような心持ちでおられたのか。

 神祇
 一すぢに まことをもちて つかへなば 神もよそには いかで見まさむ
 1910年(明治43年)

 新年雪 御歌会始
 としたちて けさめづらしと 見る雪も はつ荷車や ゆきなづむらむ

 新年待友
 松のうちに こもれるやどの 梅のはな みに来む友も あらばとぞおもふ

 芹
 春はなほ 浅沢水に そでぬれて ねぜりつみて むこ(籠)にみたずとも

 ねぜりは根芹で、浅沢水にあると決まっているのでしょうか、『金葉集』に、人心あさ沢水の根芹こそこぼるばかりにも摘ままほしけれ(前斎宮越後)という歌があります。

 春風
 すみれさく 野路の春かぜ をとめ子が 花のたもとを かへしてぞふく
 
 残水
 里川の みぎはにのこる 薄ごほり ながれし冬を とどめがほなる

 折にふれて
 おもへども 思ひぞなやむ いかにせば 人のこころの 安からむかと

 まことより ほかの心を もたざれば 世におそろしきものや なからむ

 竹田宮妃殿下のとひ給ひけるに
 なつかしき 君の来ませる うれしさに 先づ何をかと いひまどひぬる

 冬夜閑談
 たまあへる 友をむかへて かたる夜は 冬ともしらぬ のどけさにして

 たまあへるとは、魂合へるつまり心が通じあう。ということは、逆に誰でもそうでしょうけれど、なかなか心が通じ合いにくい人が多いということになりませんか。では、それは、どういうことでしょう。

 春曙 
 百鳥の声のきこえて 春の夜は かすみながらに しらみそめけり

 尋花
 たづね入りし 山のかひなく くだり来て 思はぬ里の 花をこそ見れ

 夜春雨
 おぼろよの かすみは雨に なりむらし 更けておとする 軒の玉水

 花見
 とりどりに よそひこらして ゆく人や 花見るよりも たのしかるらむ

 夕花 
 白くもの おりゐるかとも 見ゆるかな ゆふべしづけき 山のさくらは

 9月24日
 いでましの あとしづかなる 秋のよは 犬さへ早く うまいしてけり

 いでましとは、夫君が京都に行啓。皇太子は犬をとても愛玩されて、いろんな種類をお飼になっておられときく。

 薪(まき)
 あせあえて はらひし賤(しづ)の いたづきを まづこそしのべ もゆるたきぎに

 あせあえるは汗が滴ること。いたづきは労働。貞明さまはこういう感性の人だったのですね。
 春閑居
 釜の湯の 音よりほかの 音もなし 春しづかなる 山の下いほ

 梅さくら何れかおもしろきと人のいふに
 時により ところのよりて 梅さくら いづれをよしとも 定めかねつつ

 しかし、この年、1911年(明治44年)は、節子妃の最大の危機の年だった。3月27日、葉山御用邸にて高熱を発せられる。腸チフスと判明。一時は重篤であらせられたが、5月には御回復、7月にお床払い。このころ年間死者数何千人という腸チフスに罹患するということは、とても恐ろしいことだった。

  声
 まよなかに 子のなく声は つるぎばの 身をきるばかり 悲しかりけり

 が、しかし重篤な病にかかるということは、人によってはその後の健康を保証するようなものである。侍医の一人だった新井博士はこう語った、「…結局、あのご病気は妃殿下にとって、一種の天恵みたいなものでありました」。

 明治45年 松上鶴 御歌会始
 白波の はままつの上に まふたづの つばさゆたかに 見ゆるあさかな

 仙人を のせてかへりし たづならむ つばさをさめて 松にいこふは

 折にふれて
 けふぞ見し むかしの人の うたひける かのこまだらの 雪のふじのね

 むかしの人の歌とは、『伊勢物語』東下りに

 時しらぬ 山は富士の嶺 いつとてか 鹿の子まだらに 雪のふるらむ
 1912年(明治45年)この年、東京市内に電灯がほぼ完全普及し、水力発電量が火力発電量を上回り、横川・軽井沢間で日本初の鉄道の電化が行われた(HP『電気の歴史』)。明治の暮らしの漠然とした暗い感じが、一気に明るくなるような話。この年の一月には、白瀬中尉が大苦難の末、南極大陸上陸に成功。出発時、無謀と散々非難されたそうだが、帰国後は拍手喝采だった。しかし白瀬は、後援会の義捐金横領の責務を負い、その返済に20年を費さねばならなかったとか。また、五月には、オリンピック大会初参加。もちろんアジア国で初参加。クーベルタン男爵の呼び掛けにより、嘉納治五郎団長以下役員二名、陸上選手二人が、シベリア鉄道でストックホルムに向かった。メダルなし。他国においては、清朝がほろび中華民国が成立。豪華客船タイタニック号が氷山に衝突し沈没。バルカン諸国が戦争に突入。

 それは、さておき。明治45年というと、日本人で知らぬ人はない。この夏は炎暑であった。7月20日、突然の官報号外〈聖上御不例〉のニュースが、日本国中を駆け巡った。「二重橋の前の広場には、ご平癒を祈願する臣子の群れがあとを絶たなかった。地方地方でも、産土の神の鈴の音はひっきりなしに鳴り響いた」。しかし、ついに7月30日崩御。御歳61歳。

 9月13日、大正と改元。青山葬場殿で御大葬。明くる日、御霊柩は京都伏見桃山の御陵墓へ。そしてその夜、乃木大将夫妻殉死。(壮言豪語の人はゴマンといるが、かくなる寡黙至誠覚悟の人は一人としてなし)

 国家の長たる天皇皇后御夫妻になられた若い御両人のお気持ちたるやいかばかりであったろう。『貞明皇后』(主婦の友社)には、節子妃が後年にもらされた感慨が書かれている。
 「何と言っても、明治天皇さんがお隠れになったときほど、悲しく、心細く感じたことはなかった。…あのお偉かった明治天皇さんのお後を受けて、若いわたしたちが、どうして継いで行けることだろうかと、心配で心配でならなかった」。

 そして、「そのために節子妃は、神ながらの道を究めようとなさって、筧克彦博士をお召になり。その講義をお聴きになり、納得のゆくまで質問をくり返された。その結果、これでよいという確信を、はじめて得られたそうである。まことに大正の御代は、皇后陛下が、お弱い陛下を背後からしっかりと支えて、日本の女性らしく、目立たぬように内助の功をお積みになった時代である」と書かれている。
かくして、大正の御代になった。節子皇后は〈まつりごと〉の本義を悟られた。

 しかし、大正天皇には激務が待ち構えていた。1913年(大正2年)1月早々風邪をこじらせ、5月には肺炎にかかられ、これはかなり重篤であった。東京朝日新聞は「昨年御践祚後、政務御多端にあらせられるが為、遂に運動の御不足を来された結果ではないかと拝察される」と書いている(原)。

 この年の節子皇后の御歌

 寄天祝 天長節
 よろづよは かぎりこそあれ かぎりなき そらにたぐへむ 君がよはひは
 大正天皇の御誕生日は8月31日だが、祝日は10月31日とされた。

 采女のすがたをみて
 みまつりに ふふむうねめの よそひみて しばし神よの 人となりぬる   

 禁中菊
 君が代を ことほぐひまの かざしにも おるかみそのの 白菊の花

 月前神楽12月15日
 こころありて 月もさすらむ 大神を なぐさめまつる みかぐらのには
 恒例の賢所御神楽祭の行われる日
  養蚕をはじめけるころ(大正2年)
 かりそめに はじめしこがひ わがいのち あらむかぎりと 思ひなりぬる

 こがひとは蚕を飼うこと。貞明皇后といえば養蚕とくる、という人もいるのではないかと思われるくらい、〈お蚕さん〉に力を入れられた。幼いころ、あの武蔵野の農家で親しく触れられた蚕の感触は一生離れることはなかった。紀元前の大昔、中国で始まった養蚕は、まず西洋に伝わり、日本には2世紀ごろに伝わったらしい。まさにシルクロード。蚕は天の虫と書くほど貴重な虫だった。わが国では天皇もそれを重視し、いつしか宮中でも養蚕をするようになったのですね。雄略紀にも「天皇、后妃をして親しく桑こかしめて、蚕の事を勧めむと欲す」と書かれている。そして、明治の御代になって、昭憲皇太后(明治天皇妃)が宮中での〈ご養蚕〉を復活なされて以来、平成の現在にいたるまで、天皇に稲作があるように、皇后は養蚕を続けられている(皇后御親蚕)。

 蚕糸会に(大正3年)
 たなすゑの みつぎのために ひく糸の 長き世かけて はげめとぞおもふ

 たなすゑの調(みつぎ)とは、辞書をみると、上代の物納税の一つとして、女子が織った布地・絹布を納めること、またその織物、とある。ちなみに、すでに『古事記』崇神天皇条の、有名な〈初国しらしし…天皇〉という文句の直前に、「男の弓端(ゆはず)の調(みつき)、女の手末(たなすゑ)の調を貢らしめたまひき」の記載がある。

 明治時代、生糸は重要な輸出品で、富国強兵の礎と言ってもいいくらいだった。ちょうどこの頃から大東亜戦争中にかけて、輸出はどんどん伸びていく。昭和になって生糸の貿易に関していくつか御歌もあるけれど、これらはいずれ後に紹介しましょ。今は一つだけ挙げておきます。

 養蚕につきて(大正12年)
 わが国の とみのもとなる こがひわざ いよいよはげめ ひなもみやこも

 ちなみに明治41年、養蚕と題した漢詩も作られています。西川泰彦氏の意訳を縮めて紹介します。

 畠一杯に柔らかい桑の繁茂するとき
 朝に夕に摘んで蚕の幼虫に与えます。
 飼養を一生懸命するかしないかが、
 後の糸の多少を決すことを知るべきです。

 さらについでに、同じく西川訳の変奏で、同じころの大正天皇の御製詩を紹介します。両陛下の目の付けどころの違い、いつもの如し。

 養蚕(大正元年)
  
 蚕の桑をとる乙女らが籬辺に集まっている。
 終日作業にはげみ夜も眠られぬほどである。
 その辛苦たるや他の同年代らと比べられぬ。
 彼女らは鏡に映る顔の衰を気にする暇もない。
 大正の御代となって、明治天皇の場合と異なり、行幸は軍事行幸をのぞいて皇后同伴となったというが、どうしてそうなったのか、いったい誰の意思によるものか、はなはだ興味のあるところだ。時代の要請―すなわち、マスメディア? 政府? あるいは天皇・皇后? 青山御所から宮城にお移りになった新両陛下は、今までとは違った雰囲気でご起居することとなった。ここでは旧習が頑として支配していた。女官たちは三倍にも増え、萬里小路幸子のような年長女官は、立ち居振る舞い、話し方、眼の動かし方一つに至るまで厳しくチェックするのだった。29歳の新皇后は、そのような宮中の伝統・習慣は、そのまま受け入れようとしたようだが、また一方、明治天皇とは違ったやり方をしようとする大正天皇と歩調を合わせていこうとも心を配った。天皇家御一家が〈家庭の団欒〉を楽しむ時は、居合わせた女官たちもいっしょに楽しむことができた。

 大正3年の御歌から

 春雪
 降りつもる 雪のしたより とけそめて はるをささやく 軒の玉水

 雪中松
 一つ松 こよひは雪に つつまれて 冬の寒さも しらずがほなり

 この年(1914年)4月昭憲皇太后(明治天皇妃)崩御

 落花
 ふくかぜは さそひそめけり さくら花 うつろふいろも いまだ見えぬに

 そして、7月、第一次世界大戦勃発

 宣戦布告のありて後おこなはれける提灯行列を
 万代の こゑにぞしるき まごころの あかきほかげは 目に見ざれども

 10月31日天長節祝日に我が攻囲軍の今晩より一斉に砲撃を開始しける由の号外をみて
 おほきみの みいつのもとに 軍人(いくさびと) かちどきあげむ 時ちかづきぬ
 みいつ(御稜威)とは御威勢のこと

 11月7日青島の陥落しける由をききて
 日のもとに たふときものは大君の みいつと神の まもりなりけり
 32歳の嘉仁皇太子が天皇に即位された年から、目に見えてお体に変調をきたすようになった大正7年くらいまでの国内外の状況にざっと目を通してみよう。

 1912年(明治45年)、中国で清朝滅亡し、中華民国起こる。明治天皇崩御。

 1913年(大正2年)、大正政変(大正天皇陸軍に利用される)→軍部大臣現役武官制の廃止。

 1914年(大正3年)、シーメンス事件(三井物産と海軍首脳との贈収賄事件、ドイツの謀略か?)第一次世界大戦参戦。

 1915年(大正4年)、対華21カ条要求。戦争景気。*4月、大正天皇即位の大礼。*12月、第4皇子澄宮崇仁親王(三笠宮)誕生。

 1916年(大正5年)、大隈首相狙撃される。民本主義(吉野作造)。

 1917年(大正6年)、石井=ランシング協定(日本の中国対策についてアメリカの容喙)。ロシア革命→ロマノフ王朝滅亡→日本の華族層に衝撃を与える。戦争景気→物価高→貧富の差拡大。

 1918年(大正7年)、シベリア出兵~1922(大出費)物価高→米騒動(越後一揆全国へ)革命への不安 寺内内閣総辞職→平民宰相原敬(初の本格的政党内閣)。

 原武史著『大正天皇』には、こんなエピソードが載っている。明治45年7月30日明治天皇崩御、ただちに新天皇が宮中正殿で朝見の儀で勅語朗読。しかし新天皇はこういう状況において、じっとし続けることが大の苦手である。後で、財部彪が日記に書くー(文字遣い変えますが)

 「朝見の節、天皇陛下の落ち着かれざる御態度は目下御悲痛の場合さることと申しながら、昨日の御態度については、涙滂沱たりし老臣もありたり」。

 また同書に、海軍大将山本権兵衛は、「今上帝の御代となりては恐れながら山県公如き人ある方が、国家の御為なり、然らざれば万々一御我儘にても募る事ありては甚だ大事なり」と語っている。政敵の山県を評価しなければならないほど大正天皇を〈でくのぼう〉であると口に出さんばかりである。

 例の大正政変のとき、山本は「陛下の思し召しとは言へ、それは先帝の場合とは恐れながら異るところあり。自分の所信にてはたとひ御沙汰なりと出盧国家の為に不得策なりと信ずれば御沙汰に随わざる方かえって忠誠なりと信ずるを以て…」。 

 そして大正天皇の妻となられた貞明皇后こそ、大正天皇をもっとも身近に感じられた人ではないでしょうか。

 大正3年の御歌をもう一つ

 池水鳥
 水とりも いのちのつばさ きられては 波なき池も すみうかるべき
 この頃こんなエピソードがある。
 
 ある冬の霜の降りた朝、一人の少年が皇后の御休所の近くに佇んでいたのを一女官が見付けた。不審に思って、他の女官たちをよんで(この場所は男子禁制なのだ)、その少年を包囲し、取り押さえた。少年は年の頃十五、六歳くらい。女官の尋問に震えて答えた、「お情け深いと聞いている皇后さまに一度お会いしたく、なんとなくここへ来てしまった」と。この騒がしさが節子皇后の耳に入ってしまった。ところが、皇后はこの少年を不憫にがられ、「こんな冷たい朝、さぞ寒い思いをしたであろう。温かいおかゆでもさしあげましょう」とおっしゃった。このささやかなエピソードは、節子皇后の人となりをよく表しているだけでなく、むしろ皇室はどのようにあるべきかを明瞭に自覚されていたことを表しているのではないか、と感じる。

 1915年(大正4年)

 海辺梅雨
 あま人の かるもほす日や なかるらむ 晴れまも見えぬ さみだれの浜

 1916年(大正5年)

 貧民
 うゑになき やまひになやむ 人の身を あまねくすくふ すべもあらぬか

 皇后という立場になられて、筧博士によって〈神ながらの道〉ということに目覚めることによっておそらく、では現在人としての自分はいかにすべきかがはっきりしたのではないでしょうか。しかし、日々の重圧に耐えておられる天皇に、この年なんとなくお疲れが見うけられ、心のどこかに不安の影がさっと過ぎります。

 折にふれて
 すすはらひ 果ててしづけき 夕ぐれに あんらの木の実 おつる音する     
 あんらとはマンゴーのこと。

 1917年(大正6年)1月、避寒のため葉山御用邸に行啓。

 2月9日のあさ雪ふりけるに
 くもきれて 日のさしわたる 庭のおもに ふりてはきゆる 春のあわゆき

 南御用邸にて
 大庭の ゆき間につめる つくづくし 君がみかえり まちてささげむ    
 つくづくしとは土筆(つくし)のこと

 折にふれて
 浜づたひ 貝ひろふ手に ゆくりなく ちりかかりけり 春のあわゆき
  
 老人
 過ぎし世の 事にあかるき おい人の のこりすくなく なるがさびしさ

 閑話
 たきものの かをり満ちたる 窓のうちは かたらひ草の 花もさきそふ

  閑居夢
 おきふしの やくらけき身の ただならぬ ゆめにおどろく 夜半もありけり

 渓菊
 みづかれし ほそたにがはの 岩が根に やせても咲ける 白菊のはな

 大正7年 

 慈恵会に
 うつくしむ さなけのつゆを 民草に もるるくまなく そそぎてしがな
 
 明治8年軍医高木兼寛は英国留学中に、貧困者に無料で治療する施設の充実している事に感心し、帰国後15年「有志共立東京病院」を設立。皇室は6000円下賜。その後「東京慈恵会病院」と改称、皇后陛下の庇護の下、ますますその業務を拡張するにいったった、とのこと。

 病室にて後よりわが動作に目をとめて見る人の多きに
 ところせき 身にしあらずば 病む人の 手あしなでても いたはらましを

 この年、天皇の身体の不調はだれの目に明らかであった。10月、大正天皇は天長節観兵式を欠席された。冬の日、皇后は風に吹かれて落ち葉がたまっていく様子をみて、もはやどうにもならないと感じられていた。しかし、またそんなことばかり思って悩んでいてもしようがあるまい、と時々には思いきることのできる人であった。

 落葉
 こがらしに ふきたてられて 中空に あがる落ち葉のおもしろきかな


先代:
昭憲皇太后(美子)
日本の皇后
1912 - 1926
次代:
香淳皇后(良子)





(私論.私見)