諸氏の大正天皇論

 (最新見直し2015.07.20日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、れんだいこ及びその他諸氏の大正天皇論を記しておく。


 「昔男の流」の2009/05/13日付ブログ 「大正天皇について」、「大正天皇2 」、「大正天皇3」、「大正天皇4」、「大正天皇5」、「大正天皇6」、「大正天皇7」を参照する。
 明治天皇、大正天皇、昭和天皇、と三代の天皇を並べて観るとき、明治天皇は、わが国の近代国家形成への道に相応しい立派な人物であった。昭和天皇は、わが国始まって以来の危機に直面し、それに耐え、それを乗り越えるべき道に相応しい巧妙な人物であった。では、大正天皇はどうであったか。一般に流布している大正天皇像は生涯を通じて病弱であり、いわゆる大正デモクラシーの中で目立った苦労もなかった、などではないだろうか。しかし天皇の〈脳の病〉については小生は間違っていると考えている。そしてまた、天皇の性格についての否定的なイメージも間違って伝えられた結果だと思う。三代御製を通覧するに、大正天皇はもっとも繊細であり、その素朴、率直、明るさは、むしろ万葉以来のわれわれ日本民族の本流ではないかと感じられる。
 原武史著「大正天皇」によると、大正天皇のご生涯を通覧するに、誕生直後から20歳くらいまでの20年間、そして40歳前から崩御されるまでのおよそ十年弱の間、病気がちであった。新生児~乳児期においては、髄膜炎と思しき症状が頻発している。生後半年も経たぬ間に中山忠能(ただやす)邸に満6歳になるまであずけられる。満6歳以後は青山御所に移されるが生母には育てられなかった(母は側室であった)。7歳から御学問所で個人教授を受けるが、理解が遅々として勉強は捗らなかった。かなり気分屋で、じっとしているのが苦手らしく、饒舌で「これは何?これは何?」と訊くことが多かった。この性格は生涯変わらなかった。その後も、百日咳?を頻発したり、腸チフスになったりして学習院での少人数の講義にもついていくのが難しく、特に文章の意味を解することや算術の規則を理解するのに困難があったという。明治28年、皇太子(大正天皇)16歳の年は発熱を繰り返し、さらに勉学は遅れたため、学習院を中退させ、個人教授が始まる。授業は、皇太子にとっては、負担にすぎ、皇太子は東宮職員を辞めさせろと言い出すにいたる。このような状況のなか、伊藤博文は、いままでの東宮職による詰め込み教育を廃し、皇太子の生活全般を補佐すべき一人の東宮監督を付けるよう天皇に意見する。その要請かなって、有栖川宮威仁親王を、東宮監督の補佐として皇太子に付けた。有栖川宮は、〈健康第一、学問第二〉という方針で皇太子に接した。そうして、規律を嫌う皇太子の性格を考慮した教育を考えた。
 ちょうど世紀の変わり目、1900(明治33)年、20歳になられた嘉仁皇太子(大正天皇)は、九条節子(さだこ)と結婚し、公的な場に姿を見せるようになる。すなわち有栖川宮の方針によって、地方に巡啓に出るようになる。このことが皇太子の心身ともに健康を快復させ、地方での皇太子のあまりに率直な性格が演ずる面白いエピソードが残ることになる。例えば、狩場で一人道に迷い、そこらの人と(その人も皇太子と知らず)話をしたり、知事などに意表をつく質問をして慌てふためさせたり、人力車に乗っては車夫に予期せぬところに行けと命じたり、とにかくいろいろな人に何でも思いのままに質問したりして、恐縮させた。こういう皇太子に対して、周囲は好感をいだいたらしい。また、子供は四人の健康な男子をつくり、子煩悩で、家族と共に歌ったりと、いわゆる家庭的であった。ドクトル・ベルツもそういった皇太子に感激している。側室をおかなくなったのも、大正天皇からである。ところが、有栖川宮は、自身の健康問題もあったのか、皇太子を過度に自由にさせ、次期天皇として必要な精神を忘れさせたのではあるまいかと反省し、輔導としての地位を降りることになる。・・・
 1904年(明治37年)日露戦争の年、皇太子(大正天皇)は24歳。このころから、だんだんと地方の皇室に対する忠誠意識が表面化してくる。そして、巡啓にともなう諸改革、鉄道や電灯などのインフラ整備がもたらされる結果、各地方からの皇太子巡啓の要請が増えてくる。また、映像メディアの発達に伴って皇太子の巡啓時の写真が新聞に載ったり、映画も作られるようになる。学校では皇太子の「御写真」の下賜がなされ、神秘のベールに包まれた明治天皇とはだいぶん趣の変わった次期天皇が予定される。1907年(明治27年)には、伊藤博文の要請により大韓帝国に。このとき10才の韓国皇太子李根(リギン)を愛し、皇太子(大正天皇)は韓国語を学びはじめる。李根は12月、日本に留学することになる。もちろんそれは政治的な意図があったのであろうが、皇太子(大正天皇)はそんなことはどうでもよく、心から李根をかわいがったと思う。また、軍事演習の見学やら、大元帥を継承する準備のため参謀本部に通ったりさせられるが、皇太子(大正天皇)は、軍事についてはまったく無理解であった。明治45年、明治天皇崩御。皇太子は大正天皇となる。大正4年、大礼は京都、横浜では華々しく演出され、メディアは全国いっせいに国民的行事として報道。大正天皇は、皇太子時代のような視察や見学といった目的の行幸はできなくなっていた。1915(大正4)年、長男裕仁皇太子の地方巡啓が始まる。裕仁皇太子には、明治天皇を理想としての教育がなされる。・・・つまり大正天皇のようではいけないと・・・。大正天皇の子供じみた、率直でざっくばらんな性格に、山県有朋らは業を煮やし、天皇に対したびたび諫言したらしい。そんな山県を大正天皇は以前から嫌っていた。そういえば、明治43年、山県邸を訪問した皇太子(大正天皇)の写真があるが、その時の皇太子は縁側で行儀よく両手をひざに乗せてちょこんと座っており、その左側に山県は煙草を右手に持ち、両脚を開けて尊大に構えている。この写真を見ると、大正天皇と山県有朋との関係が伝わってくる。
 大正天皇即位後、いわゆる大正政変があり、第一次世界大戦のおかげで、わが国の貿易は黒字に転じ、大戦景気で潤う。しかし国内物価は高騰し、米騒動が起き、寺内内閣総辞職、原敬の政党内閣が発足。ちょうどこのころ、大正天皇に病魔が忍び寄っていた。この年、1918(大正7)年10月、天皇は風邪のため(?)天長節観兵式を欠席、11月の陸軍特別演習では乗馬を恐れ、左足に変調をきたした。12月の帝国議会開院式も欠席。1919(大正8)年、天皇の変調は誰の目にも明らかとなった。2月には原敬首相も天皇に〈何かご病気がありや〉と日記に書いている。このころの公式行事における天皇のうつろな表情の写真を見るにつけ、小生は心が痛む。体力は落ち、食事中も姿勢を維持することができなくなり、このころの慰み事であった散歩と玉突きも難しくなった。言葉もだんだん不明瞭になり、原敬は、〈御幼年時の脳膜炎が再発してきた〉のではと書いている。1920(大正9)年、政府は天皇の様子についての発表を行う。3月、第1回発表「侍医三浦謹之助によると糖尿病と坐骨神経痛」があると。第2回目の発表時には、政府は裕仁皇太子(昭和天皇)の外遊を急遽検討、翌年3月に出発。その時の皇太子の写真や映画は、人々に新しい希望を与えたに違いない。1920(大正10)年、大正天皇のご病気について、さらに発表が続く。10月、第4回発表では、天皇はもはや快方に向くことはないとされた。人々は、大正天皇は脳の病気を患っていると、風の便りで聞くようになる。もはや歩くことも、はっきりした言葉も発することができず、親しい者を見分けることもできなくなった。11月、裕仁皇太子は摂政に就任した。大正天皇の、この全体的な活力の低下、運動・記憶・知覚の徐々なる低下は、おそらく多発性の脳梗塞のためであろう。その原因は何であろうか? というより、肉体の病理学的原因はどうあれ、小生が感じるのは、大正天皇は天皇になって以降、近代国家形成のために必要とされた君主像を強制された、そのことが、あの〈天真爛漫な〉天皇をして病気に向かわしめた、と。誰でも中年にさしかかる頃、どうしようもなく嫌でたまらぬことを強制され、それから逃げることが出来なければ、発病するのではないか。うつ病やリウマチや心臓病など、その人の気質体質に応じた病気という逃げ道に行かざるを得ないのではないだろうか。
 西川泰彦著「天地十分春風吹き満つー大正天皇御製詩拝読」。この書には、大正天皇御歳16歳から37歳までの漢詩が納められている。高校時代に習った漢詩を思い出して思うに、大正天皇は王維のような自然詩人のような気がする。ぱらぱらめくって一つ紹介しよう。太平記にある金崎の戦いがあった「金崎城址」と題する詩。明治42年、31歳時。

 登臨城址弔英雄 日落風寒樹鬱葱
 身死詔書在衣帯 千秋正気見孤忠

 後醍醐天皇の詔書を身に着けて最後まで戦った新田義貞の忠義の心を想われた。ついでに、紹介しよう。明治37年、御歳26歳。「御歌会始は当初恒例の18日に行われるはずのところ、6日に韓国の名憲太后の訃があった為、延期して20日に催された。明治天皇紀に載る御製、御歌を揚げ奉ろう。

 御製(明治天皇) 
 苔むせる 岩根の松の よろつよも うこきなき世は 神をもるらむ
 皇后陛下御製
 大内の 山の岩根に しけりゆく こまつの千代も みそなはすらむ
 皇太子殿下御歌(大正天皇)
 吹きさわぐ 嵐の山の いはね松 うごかぬ千代の 色ぞしづけき
 皇太子妃殿下御歌
 うごきなく さかゆる御代を 岩のうへの 待つにたぐへて 誰かあふがぬ 

 小生は感じる、ここに一人、あまりに素直な歌人が居ると。和歌といえば、1917(大正6)年の春曙と題する御製が小生は好きだ。

 百千鳥 かすみのうちに 鳴きいでて 花よりしらむ あけぼのの空

 これなんか玉葉集に入っていてもおかしくないではないか。
 大正天皇最後の御製

 神まつる わが白妙の 袖の上に  かつうすれ行く みあかしのかげ

 これは社頭暁と題された天皇最後の絶唱である。灯明の光が、朝明けにすこしずつ薄らいでいく・・・。大正10年、皇太子が摂政に就き、天皇はいわば廃人として表舞台から引きこめられる。人間として必要なあらゆる脳力がしだいに凋落していく自分を、そして自分の存在の消失と共に一つの時代の消失を予告する、あまりにも明瞭な意識がわれわれを驚かす。大正天皇の御製の美しさは、私に伝統というものの強さを思いおこさせずにはいない。この光は近代日本を根底から照らし出す。省みれば、つい先日ペリー来航の日、わが国は西洋列強の文明に腰を抜かした。明治という時代はあげて不平等条約改正のために奔走したといっても言い過ぎではない。明治天皇は、国のために働く兵士の純粋さに感動し己を安逸贅沢から身を守った。己の態度が国家の統一に重要であると自覚し、君主としての自身の役割を果たした。富国強兵のあの時代に相応しいストイックな立派な人物であった。

 日露戦争に勝利した日本は、世界の一等国の末席を占めるに至り、さてここから世界史の凄まじい本流に組み込まれていく。必然的な重工業の発達と軍事政策の手練手管の真っ只中に、ある日突然、病気がちで青白い顔をした、単純で無防備な青年が玉座にちょこんと座っていた。一般国民の無意識の天皇崇敬の念は、それを見て驚愕するほど、浅いものではなかった。だが、宮廷および政府要人はそうではなかった。彼らの頭の中にある〈立派な天皇〉に何とか矯正しようと試みたが、この青年の性格はそんな生易しいものではなかった。それで、彼らは今度は、此の青年天皇の純朴さをむしろ国民の前で演出し、政治の権謀術数に利用した。

 やがて病気に陥った天皇を彼らは巧みに隠蔽し、否定しつつ、天皇を反面教師として、〈立派な〉、欧米のマナーを身に付けた、新しい天皇を用意した。手続きは完璧であった。そして昭和天皇は、彼らの意図したよりも遥かに優れたお方であった。やがて、わが国始まって以来の大悲劇がやってくる。全土は焼かれ、外国人による占領統治が始まった。ここに、昭和時代を通して、わが国の〈みやび〉が最高度に発揮され、終焉を迎える。私は、日本近代史を通覧する毎に、日本国民全体がそれを希んだような気がしてならない。

 それはともかく、明治、大正、昭和と三代の天皇を比較してみるとき、大正時代は実際短かったし、大正天皇は、時代の前面に現れた二人の偉大な天皇の岩陰に咲く小さな目立たない花のような存在である。だが、もうちょっと近寄ってみると、此の病弱で不思議に軽い天皇の純朴、率直な御態度と詞華集の中のいくつかは、わが国の万葉集以来の和歌の伝統の源泉にもっとも近く繋がっている、と感じる。それは、自然と心と言葉が未分化であるようなあるものだ。もちろん明治天皇も昭和天皇も当然沢山の、大正天皇よりも多く、和歌を残してはいる。しかし、其の調べは民を思う心には溢れてはいるが、そこにあるのは優れた王者としての無私である。大正天皇の無私とは全然異質なものだ。たとえて言えば、人を小ばかにしたようにしゃべりまくる少年モーツアルトの音楽がわれわれを深く感動させるようなものだ。その技巧は余りにも自然である。此の大正天皇の心が発している光が、わが国近代史を照らすとき、幕末以来のわが国の歩みそのものが、悲しいが美しい自然な音楽のように、繰り返し、聴く人の心に語りかけてくる。あるいは美しい一枚の絵のように見えてくる。いわばこの非政治的な魂が、政治をも包含する歴史の運動を肯定し、納得させ、共感させるように働く。政治がどれほど現実に力を持とうが、文化がなければ、それが意味を持つことはできないのである。

 「昔男の流」の2012/07/28日付ブログ 「ディキンソン著『大正天皇』1 」、「ディキンソン著『大正天皇』2 」、「ディキンソン著『大正天皇』3 」、「ディキンソン著『大正天皇』4 」、「ディキンソン著『大正天皇』5」、「ディキンソン著『大正天皇』6を参照する。
 この本を一読して、やはり外国人によって書かれたものだとまず感じた。それはつまり、大正天皇をその時代の国際環境との関連で見た点が明瞭に顕されているということである。著者はその時代の新聞や雑誌、本-もちろん海外のも含めて―からの引用をふんだんに利用している。著者によれば、歴史とは、その時々のメディアに表れたところのものだとなろう。われわれが今もっているイメージは後で創られたものであることが多い。大正天皇はその最たるものであると言いたげである。たとえば、いまわれわれは、大正天皇はその幼少年期に病弱だったと思っているが、実際はそれほどでもなく、少なくとも当時の一般国民は誰もそんな風には思っていなかった。じっさいのところ、鹿鳴館ではないが、皇太子嘉仁親王(大正天皇)は、日本の西洋化、そして近代化の先端的象徴として、見事にその役割を演じた。その第一に、明治23年(1889年)の立太子礼の儀式(嘉仁10歳)は、近代国家の施設を動員して全国民の前で挙行された。錦絵や新聞はその華やかさ、威厳、人々の感激を書き立てた。そして皇太子はただちに陸軍歩兵少尉に任官されるのであるが、これは19世紀ヨーロッパ国家の君主政体の伝統的なことであり、明治政府も以前からその線を決定していた。明治天皇が15歳まで江戸時代の伝統の中で、つまり京都の御所の中で女官に囲まれ、白粉をほどこされ奇怪な宮中言葉をお発しになられていたのとは、まったく違って、嘉仁皇太子は東京という都市にお生まれになり、その西洋化のただ中でお育ちになったことに、著者は注意を促している。

 嘉仁皇太子が九条節子(さだこ)と御結婚されたのは、ちょうど世紀の変わり目、1900(明治33)年のことであったのは、とても意味深いものである。19世紀から20世紀へ、世界は新時代到来の期待に胸を膨らませたことだろう。このころ日本は、1895年、日清戦争での勝利、1899年、宿望であった不平等条約の放棄によって、いよいよ日本が国際法上、列強と肩を並べることとなった。「文明社会の士人たる恥ぢさるの体面を具へざるべからず」(時事新報1900年1月1日)。結婚式は〈神前結婚式〉という新しい形式を初めてとったそうである。「賢所の大前において、ご婚儀を行はせたまふ御事は、国初以来こたびを以て初めて」、「両殿下の御装束は御一代に再び召させ給ふまじき御召し物に渡らせ給へば、御儀式のいと厳粛に尤も典雅なることと想ひ奉るにあまりあり」(風俗画報1900年6月1日)。それから洋装に着かえ公の儀式に進まれる。嘉仁皇太子は陸軍少佐の正装、節子皇太子妃はドイツ式正装で皇居周辺をパレード。そこらじゅう国旗や提灯、電飾と飾門が設けられ、皇礼砲が響き、花火が上がった。婚礼を見るために鉄道を使って上京した人は10万人を超え、祝辞を送った人は15万人を超えたそうだ。節子妃はフランス式正装に着かえられ、各国公使らを含む2200人ほどの饗宴。国内至る所で記念植樹や記念碑を建てられた。要するに、日本国民にとって大きな夢を与える大祝典であった。当時の発行部数最多の『萬朝報』には、陸軍少佐姿の皇太子とマン・ド・クールとかいうドイツ式正装の皇太子妃が、すごくかっこよく並んで描かれており、各々の下には、H.I.M. the Prince-Imperial Yoshihito と H.I.M.the Princess Imperial Sadako と書かれている。この正装と表示は完全に当時の〈世界標準〉なのである。(H.I.M.とはもちろんイギリス皇帝の呼び名His Imperial Majesty の略である)

 忘れてはならないことは、この御結婚は睦仁皇太子(明治天皇)のときには、想像も出来ない国民的イベントだったことと、嘉仁皇太子はこの新演出の儀式を見事に演じられたことである。全国民感涙にむせんだほどかっこいい!のであって、病弱でちょっとおかしい人ではぜんぜんないのであった。
 皇太子夫妻には4人の男子が生まれるが、側室を置かなかった大正天皇は、このことにおいても新時代を画する見事な天皇として国民に称賛されたはずである。そしてこの頃から普及してくるカメラも、子煩悩な皇太子の家庭を捉えていて、それは国民の目にも触れた。行啓における皇太子の〈自由な〉行動は、国民に歓迎され、「皇室と人民との接近」が云々されるが、著者は、これすべて行啓計画者の仕組んだものだと書いているが、小生はそれはあまりにも嘉仁皇太子の〈人となり〉を消去した意見だと思う。すでに書いたが、大正天皇は生まれながらに非常に特異的な御性格であり、このことが、はからずも「皇室と人民の接近」を大いに前進させたと、小生は感じるのである。

 19世紀末、ヨーロッパでは皇族が世界を周遊するのは当たり前となっており、ロシア皇太子、ギリシャ王子、オーストリア皇太子が日本にも来航してきている。そんな折、嘉仁皇太子も世界を見てみたいという夢を漢詩に著されており、また「世界漫遊の歌」をとくに好んで歌われたそうである。世界漫遊はできなくても、嘉仁皇太子は史上初めて海外に行かれた。それは1907(明治40)年の韓国行啓である。これは、韓国を保護国化した日本が、日韓関係を円満化するためであって、残念ながらその効果はよくなかったという意見があるが、それは大した問題ではないと著者は語る。著者は書いている。「植民地における統治国への憤慨は当然であり、皇位継承者の日本史上初めての外遊にはより大きな目的があったように思われる。それは近代国家、そして、近大帝国としての日本の20世紀の新しいアイデンティティに焦点を当てることであった」。過去のあり方をやたら道徳的に批判したり、今の観点で過去を見ようとするような日本人にありがちな歴史家が多い中で、こういった当時の状況に身を置いてみる態度は気持ちがいい。当時の日本は、帝国主義―植民地という〈世界標準〉に日本的な仕方で従っていただけのことである。
 1912年、明治天皇崩御、そして嘉仁親王の践祚。ニューヨーク・タイムズは一面全体で紹介、「嘉仁は日本の近代的精神に完璧に合致し、いろいろな意味のおいても父宮には達しえなかったヨーロッパの風習にそめられている」。その理由は、西洋式の東宮御所、洋装好み、一夫一婦制、身体丈夫でテニス好きな皇后節子など。ウォールストリート・ジャーナルには「陛下はアメリカの長老と親しく話し、両国間の親密な関係に触れ、アメリカについて深い知識をしめした」。

 明治天皇は明治初期の画期的な変化を熱望した。が1880年代からその願望から心が離れていった。というのも、明治天皇の日本の急進的な西洋化に対する〈違和感〉があったからだという意見を紹介した後、著者はそれはいわゆる世代交代であり、「明治天皇はいまだ統一前のいわば伝統的なアジア風の農業国家日本の産物であった」と書いている。当時のグローバルな状況から絶えず目を離さない著者ではあるが、日本独特の明治維新の意味や江戸時代の秩序、文化、教育などについての知見がやや欠けているように所々で感じるが、今はそれを措いておく。

 しかし、「嘉仁(大正天皇)が儀式を嫌ったのは明治天皇と同じことであるが、大正天皇は性格的に20世紀初頭の国際的スタイルとぴったり合っているのは睦人(明治天皇)と大きく異なるところであった」と書くところは見逃せない。大仰な儀式を嫌ったのは、明治天皇は質素倹約からだと思われるが、大正天皇はさらに大勢の人に取り囲まれることがお好きではなかったと思われる。また大正天皇は、お生まれになった時から西洋化の雰囲気の中でお育ちに成ったのであるから、役割をお果たしになれば国際的スタイルに合うのが当然である。むしろ嘉仁皇太子の御性格は国際的スタイルと何の関係もなかった、あるいはそれを飛び越えていたと、小生は言いたい。

 もちろん、天皇は個人ではなく公の御存在であり、著者の基本姿勢であるところの、歴史は人々の目に表れた通りのものであるとするなら、例えば、「嘉仁が、明治天皇の葬儀を除いて、天皇として参列した最初の国家儀式が大観艦式と陸軍特別大演習だったことには大きな意義がある。」とし、これは当時の立憲君主国の標準的形式であり、「嘉仁は立派な大元帥を演じた」ことになる。
 「平和な大正時代」という観念を生みだした最たるものは、逆説的に第一次世界大戦への参戦であろう。これは何と言っても「史上初めて同盟国として外国の戦力と軍事行動をともにし」たことは、日本は、いじらしくも、何と誇り高い気持ちに酔ったことであろう。世界の一等国!大正天皇は外国武官たちに向かって「汝らますます奮励せよ」と励ましの言葉を述べられている。

 大戦勃発の明くる年、即位の御大礼が行われた。小生は、この年(大正4年)に発行された『御大禮記念写真帖』なる本を持っているが、目次に続いて、カラーの絵で「紫宸殿之御儀」次に「大嘗祭之御儀」それから巨大なおみこしのような「高御座」が、そして写真の最初を飾るのは「御束帯の天皇陛下」となる。解説の最初は「大禮の意義」について、その次「國體の淵源」…世界の列国中においてわが日本ほど上皇室と下人民との関係の親密なる国はない、古くは国家と書いて〈ミカド〉と読ませていたほどで、天皇すなわち国家である。…とある。

 そして、大礼では、日本史上もっとも多くの外国高官が参列し、大隈首相は「今回のごとく全世界の代表者が洩れなく集まったということはじつに世界の偉観で、わが国では空前のことであるが、東洋でもまた未曾有の盛儀である」と評し、海外でも大きく報道された。1918年にイギリスから英国陸軍元帥の名誉称号とともにガーター勲章を贈られて、重そうなマントを身に纏われた天皇の御写真を拝見すると、小生はどことなく不釣り合いというか、お似合いにならないような感じがするが…。

 東洋一といえば、1912年、東京駅が完成した。「これは最先端の建築材料を用いた、…三か所にエレヴェーターがついて、駅前の「行幸大路」には各4千燭光の光を出す〈東洋一の街灯〉が並べられ…東洋一の大建築」とうたわれた。今のスカイツリーみたいな国民的大興奮ですね。この東京駅は中央には皇室専用の出入口や貴賓室が設けられ、天皇のための駅でもあり、また公共施設でもあって、じつに「皇室と人民との接近」を顕著に示す建築物であった。

 そうして、第一次世界大戦も終わり、気が付いてみると日本は産業が大発展し、輸出は3倍に増進、交際収支は黒字化。「帝国日本はアジアの地域的強国から、初めて太平洋にも及ぶ大帝国となり、1915年の日清条約(対華21ヶ条要求)によって、中国における列強最大の権力を握るようになる」。これはどういうことかというと、この時代「ヨーロッパの国々は次々と参戦し、日本においても戦争は広く歓迎された。」「いわゆる〈対華21ヶ条要求〉も20世紀初頭の世界において珍しいことではなく、日本は日清戦争以後列国が中国に対して求めたものを一括して要求しただけである」。

 このようなわけで、20世紀初頭、産業化にともなう大衆化の傾向に応じる、立憲君主の増大する儀式的役割を大正天皇は立派に果たした、と同時に西洋化・近代化を好まれなかった明治天皇は陰が薄くなっていったことを著者は強調している。
 1919年(大正8年)には、近衛文麿は「今日の日本は国際連盟の中軸たる世界の主人公として、利害相関せざる国の面倒まで見てやらねばならぬ地位に達し居るなり」と言い、1920年、原敬はパリにおいて「帝国は五大国の一つとして世界平和の回復に向かって努力するを得たり。」と声明を発した。この年一月には、天皇は「平和克服の大詔」を発布され、わが国は、世界において「順応の途」を歩み、「万国の公是」に従い、「連盟平和の実」をあげることを国民に激励される。そういうことで、人々の頭の中で〈平和な大正時代〉の下には、世界の1等国の一員たる自覚と大正天皇とが結びついていたに違いない。では、どうして大正天皇は生涯病弱であられたというイメージが出来上がってきたのであろう。

 大正天皇が皇后とともに、公の場に御姿を現されたのは、1919年5月の東京奠都50年祭のときである。20万人ともいわれる人出の中、馬車の「両側に山のごとくしかも静粛に奉拝せる熱誠なる市民には特に御機嫌麗しく御満足にみそなはせられ」た、と新聞に書かれているが、じつはこの時すでに天皇は病魔に侵されていた。その前年の10月には天長節観兵式を欠席されている。以後少しずつ病気は進行し、1920年(大正9年)第1回ご病状発表から、1926年(大正15年)まで、計7回のご病状発表がなされている。御病気の内容については、詳しくはわからない。小生は、過労、天皇としての重責、そしてやはり山県ら周囲の権力者らの圧迫によるストレスが誘因となった、多発性脳梗塞ではないかと、今のところ疑っている。

 1921年10月、第4回ご病状発表のとき、天皇は御幼少時〈脳膜炎様の御疾患〉に悩まされていたと明らかにされた。どうもこれに後年尾びれが付いて、〈生涯ずーっと病弱〉説が定着したのではないか。いったい誰が何ゆえ、わざわざこの時に、御幼少時病気されたなどということを、発表に付け加えたのか。

 大正11年の『大阪毎日新聞』んは「青山御用邸に御避寒中の天皇皇后両陛下には御機嫌いと麗しく」、崩御の年、大正15年でもなお「盆栽や活動写真などのお慰み、ラジオ、蓄音器」などを聞いておられるとあるし、『東京日日新聞』は「お熱が下がらず、皇后陛下予定を早め葉山へ」とある。つまり、〈あの大正天皇〉のイメージは、まだ国民から離れてはいなかった。しかし、裕仁皇太子が摂政をおとりになり、それこそ本当に西洋に出発されるにつれ、〈あの大正天皇〉は裕仁皇太子にそのまま受け継がれていく。皇太子行啓においては、父天皇と同じような「平民的な御態度」に国民は感涙したと、新聞は盛んに報道している。
 よく裕仁(昭和天皇)と父嘉仁(大正天皇)が対照的な存在として扱われることに対して、著者はそうではなく、息子は実に親から多くのものを受け継ぎ、それを踏襲し、同じイメージをつらぬいた点を強調している。今までに有り得なかったご大葬で、大正天皇の陵墓は東京から44 kmも離れた南多摩に作られたが、一般公開期間は2度も延長され、参拝者数は89万人にのぼったという。それでも、大正天皇の陰が薄くなったのは、ご大葬の年、1927年(昭和2年)は、偶然にも明治の還暦の年であって、かねてより明治天皇を祭るべきところが東京にあるべきとの声があり、「明治大帝の御聖徳」や「明治時代の大業」を記念すべきという声があがってきたことが大きいと著者は言う。そしてまた明くる年は父天皇のイメージ(国際交流、経済発展、一夫一婦、家庭、皇室と人民との接近)を受け継いだ昭和天皇の御大礼である。「御幼少時脳膜炎様の御症状」という噂は風にのって広まっていくと同時に、新天皇への期待が高まっていくのは自然であろう。

 そうして、国際環境も変わり、とくに満州事変(1931年)以降は、平和日本=協調外交よりも、「明治を日本独特の精神の象徴として持ち出してくる」ようになった。〈平和日本〉のシンボルであった大正天皇の功績は忘却の彼方に沈められていった、とは著者が語る所である。

 「大正天皇を皇室の典型と考えたとしたら、皇室の歴史、いや近代日本そのものの歴史にまったく異なる色合いがつく。日本の近代皇室がヨーロッパにおける世界主流の皇室と似たような歩みをしているのが明らかになり、近代日本史の流れも一般の世界史の中により〈普通〉に見えてくるのである。」と終わりに述べている。

 日本人の内部の人間として、日本の皇室は他国の皇室とは違うと感じる点を除けば、著者の言っていることは理解できるし、ほとんど共感したい。しかし、著者は大正天皇と〈あの時代〉とをあまりに一致させようとするために、かえって大正天皇の個人としての心のうちを無視することになりはしないか。平たく言えば、大正天皇は天皇として思ったことをしたのであろうか。それはつまり、天皇はそれぞれ生きた生身の人間であるからには、われわれと同じように心のうちがあるであろうし、そうなればその心を忖度してはいけないであろうか、という問い惹起する。天皇は神聖にして触れてはいけないとは思えない。それどころか、もはや天皇とは、あえて言えば、一つの職業であって、この職業に携わなければならぬ人は、どういう御覚悟で、どういう御心もちで生きておられるのだろうと考えてはいけないのだろうか、と小生はこの書を読んで思った。

 2010.07.14日付ブログ「日光街道余録 12、大正天皇の実像を参照する。
 今回、日光道中の最後に「田母澤御用邸」へ立寄ったことで、僕は、「大正天皇」の実像をあらためて勉強したくなった。僕の書斎には既に以下の三冊があり、この小文は、それらを引用、整理したまでのものである。①、原武史著/『大正天皇』/朝日選書、②、吉田孝著/『歴史のなかの天皇』/岩波新書、③、笠原英彦著/『歴代天皇総覧』/中公新書。

 不敬な言い方だが、大正天皇は、明治天皇や昭和天皇に比べると「影が薄い」。それはこれまで我々が受けた教育のせいであった。あらためて知ったが、天皇は、健康的で明るく、現代的な側面も大いに持ち合わせて居られた。天皇は明治12年(1879)、明治天皇と側室柳原愛子(なるこ)との間に生れられた。明宮嘉仁(はるのみやよしひと)親王と名付けられた。幕末から明治にかけて生れた皇子方は、次々早世された。孝明・明治・大正各天皇は、何れも成長された唯一の皇子で、何方も側室のお子であった。天皇は、父君24歳、母君20歳で誕生された。そして満8歳の誕生日に、子供が生れない皇后美子(はるこ)=後の昭憲皇太后(明治帝より3歳年長)の実子として、皇位継承予定者=「儲君(もうけぎみ)」となられた。しかし生まれながら病弱で、髄膜炎を患われ、立皇太子後学習院に入学されるが、病気で学習が遅れ、中等科一年で退学されている。

 22歳の春、九条節子(さだこ)=後の貞明皇后と結婚された。奥方は、上流公家の娘にはめずらしく、闊達で大らかな性格の、健康な女性であった。これが転機になって皇太子は健康を快復し、結婚の翌年から、裕仁(昭和天皇)・雍仁(秩父宮)・宣仁(高松宮)、少し遅れて崇仁(三笠宮)と、次々に男子が誕生した。そして日本の歴史上、未曾有のこととして、「親子一緒の生活」が始まり、節子妃との「一夫一婦制」は生涯続いた。 その頃の皇太子は頻繁に地方を巡啓された。旅先では自由に行動され、周囲を困らせるほどであった。椅子にかけながら寛いで対談がお出来になり、気さくな人間味にあふれ、時にしっかりした政治的意思を表明する人物になって行かれた。しかし後々そのことが徒になるのであった。

 1912年、明治帝が59歳で崩御されると、天皇は32歳で皇位を継承された。折りしも大正という時代は、世界史的にも、君主政治最大の危機の時代であった。第一次世界大戦(1914~)後、ロシア、ドイツ、オーストリア、トルコ等で、君主制は相次いで崩壊し、共和制に移行して行った。そういう時代には、我国にも「威厳に充ちた強い天皇」が必要であった。明治天皇が一代で築き上げられた「重々しい遺産」は、何としても固守されねばならなかった。その気持ちは、原敬没後の、牧野伸顕、山縣有朋、らの重臣の間で特に強かった。「病弱」で「カリスマ性に欠ける」天皇に対する違和感は、次第に他の重臣たちの間にも広まった。天皇はそうした情勢に「押し込め」られ、「健康的側面」は忘れられて「病弱イメージ」だけが定着した。そうした天皇は引退させ、代りに、皇太子を事実上の天皇にするという政治決断が行われるに至った。新聞各紙も、天皇の存在を忘れたかのように、こぞって摂政となった裕仁の「懿徳」のみを称え始めた。

 議会の開会式で、天皇が勅語を遠眼鏡に捲いて「覗き見」したという噂まで、密かに囁かれた。それが事実であったかどうかよりも、国民の間には、「大正天皇はお弱く」、「皇太子はお強くて信頼に足る」、と言うイメージを定着させる方が、施政者には重要であった。皇太子は20歳の若さであった。後の秩父宮は、「祖父の明治天皇は、『こわい』『おそろしい』存在であり、ついに一度も肉声を伺ったことがない」と述懐されている。比較して大正天皇は、「はるかに気さくなお父様」であった。しかし時代は、強い現人神=大元帥の出現を要求した。人間的で優しい天皇では困るのであった。皇太子が学習院に入学すると、院長には陸軍大将の乃木希典が任命された。それは「病弱・気まぐれ」を、皇孫裕仁の教育には繰り返すまいと周囲が決意したからであった。

 ところで昨今、大正天皇については、その歌人としての才能があらためて見直されている。寡聞にして僕はまだ手にしていないが、『おほみやびうた』と題し、「大正天皇御集」が邑心文庫から出版されている。
8年前に、それについての丸谷才一氏の書評を読んだことがある。同氏によれば、「大正天皇は御水尾院以来の最高の帝王歌人」であった。 

 軍人(いくさびと) くにのためにと うつ銃(つつ)の 煙のうちに 年立ちにけり
 軍人(いくさびと) ちからつくして とりふねの 大空かける 時となりにき
 いざ行かむ かなぢ(鉄地)の車 のりすてて 手馴れの駒に むちをあげつつ
 誰がために 花は咲くらむ 見む人は 住まずなりぬる 故郷の庭
 のる汽車の 窓より見れば 秋草の 花さかりなり 毛野の國はら
 あたたけき 沼津の野辺を たどりつつ 霞のおくの 富士をみるかな
 釣舟も あまたうかべり 近江の海 ひえの高嶺の はれわたる日は
 よさの海の 霞のおくに なりにけり さやかにみえし 天のはしだて
 汐ひけば 葉山のうらの 岸づたひ あしがに取りて 遊ぶわらはべ
 学舎は 遠くやあるらむ 朝まだき 野道をいそぐ うなゐ子のむれ
 這ひし跡 さやかにみせて 蝸牛 いづこに今は かげをひそむる
 夕やみの 空にみだれて 飛ぶ蛍 遠き花火を みるここちする
 今ここに 君もありなば ともどもに 拾はむものを 松の下つゆ

 確かにこれらの歌は、帝王らしく、大らかで、優雅である。清新な抒情性も感じる。和歌の伝統を充分踏まえながら、人間らしさに溢れ、子供好きで小動物にも眼が向けられている。飛行機や自動車、鉄道などを詠い込む現代的感覚もある。恋歌のないことだけが残念である。明治神宮で拝見する「御製」の固さ、厳(いか)つさ、とは全く異質である。それは、今回の「田母澤御用邸」の雰囲気とぴったりであった。原武史氏の著作が大正天皇についてのこれまでの巷説を覆したことは、丸谷氏も指摘されている。繊細な気質の皇子を父帝の型にはめようとした結果、悲劇が生じたという解釈が広まりつつある。






(私論.私見)