明治天皇、大正天皇、昭和天皇、と三代の天皇を並べて観るとき、明治天皇は、わが国の近代国家形成への道に相応しい立派な人物であった。昭和天皇は、わが国始まって以来の危機に直面し、それに耐え、それを乗り越えるべき道に相応しい巧妙な人物であった。では、大正天皇はどうであったか。一般に流布している大正天皇像は生涯を通じて病弱であり、いわゆる大正デモクラシーの中で目立った苦労もなかった、などではないだろうか。しかし天皇の〈脳の病〉については小生は間違っていると考えている。そしてまた、天皇の性格についての否定的なイメージも間違って伝えられた結果だと思う。三代御製を通覧するに、大正天皇はもっとも繊細であり、その素朴、率直、明るさは、むしろ万葉以来のわれわれ日本民族の本流ではないかと感じられる。 |
原武史著「大正天皇」によると、大正天皇のご生涯を通覧するに、誕生直後から20歳くらいまでの20年間、そして40歳前から崩御されるまでのおよそ十年弱の間、病気がちであった。新生児~乳児期においては、髄膜炎と思しき症状が頻発している。生後半年も経たぬ間に中山忠能(ただやす)邸に満6歳になるまであずけられる。満6歳以後は青山御所に移されるが生母には育てられなかった(母は側室であった)。7歳から御学問所で個人教授を受けるが、理解が遅々として勉強は捗らなかった。かなり気分屋で、じっとしているのが苦手らしく、饒舌で「これは何?これは何?」と訊くことが多かった。この性格は生涯変わらなかった。その後も、百日咳?を頻発したり、腸チフスになったりして学習院での少人数の講義にもついていくのが難しく、特に文章の意味を解することや算術の規則を理解するのに困難があったという。明治28年、皇太子(大正天皇)16歳の年は発熱を繰り返し、さらに勉学は遅れたため、学習院を中退させ、個人教授が始まる。授業は、皇太子にとっては、負担にすぎ、皇太子は東宮職員を辞めさせろと言い出すにいたる。このような状況のなか、伊藤博文は、いままでの東宮職による詰め込み教育を廃し、皇太子の生活全般を補佐すべき一人の東宮監督を付けるよう天皇に意見する。その要請かなって、有栖川宮威仁親王を、東宮監督の補佐として皇太子に付けた。有栖川宮は、〈健康第一、学問第二〉という方針で皇太子に接した。そうして、規律を嫌う皇太子の性格を考慮した教育を考えた。
|
ちょうど世紀の変わり目、1900(明治33)年、20歳になられた嘉仁皇太子(大正天皇)は、九条節子(さだこ)と結婚し、公的な場に姿を見せるようになる。すなわち有栖川宮の方針によって、地方に巡啓に出るようになる。このことが皇太子の心身ともに健康を快復させ、地方での皇太子のあまりに率直な性格が演ずる面白いエピソードが残ることになる。例えば、狩場で一人道に迷い、そこらの人と(その人も皇太子と知らず)話をしたり、知事などに意表をつく質問をして慌てふためさせたり、人力車に乗っては車夫に予期せぬところに行けと命じたり、とにかくいろいろな人に何でも思いのままに質問したりして、恐縮させた。こういう皇太子に対して、周囲は好感をいだいたらしい。また、子供は四人の健康な男子をつくり、子煩悩で、家族と共に歌ったりと、いわゆる家庭的であった。ドクトル・ベルツもそういった皇太子に感激している。側室をおかなくなったのも、大正天皇からである。ところが、有栖川宮は、自身の健康問題もあったのか、皇太子を過度に自由にさせ、次期天皇として必要な精神を忘れさせたのではあるまいかと反省し、輔導としての地位を降りることになる。・・・
|
1904年(明治37年)日露戦争の年、皇太子(大正天皇)は24歳。このころから、だんだんと地方の皇室に対する忠誠意識が表面化してくる。そして、巡啓にともなう諸改革、鉄道や電灯などのインフラ整備がもたらされる結果、各地方からの皇太子巡啓の要請が増えてくる。また、映像メディアの発達に伴って皇太子の巡啓時の写真が新聞に載ったり、映画も作られるようになる。学校では皇太子の「御写真」の下賜がなされ、神秘のベールに包まれた明治天皇とはだいぶん趣の変わった次期天皇が予定される。1907年(明治27年)には、伊藤博文の要請により大韓帝国に。このとき10才の韓国皇太子李根(リギン)を愛し、皇太子(大正天皇)は韓国語を学びはじめる。李根は12月、日本に留学することになる。もちろんそれは政治的な意図があったのであろうが、皇太子(大正天皇)はそんなことはどうでもよく、心から李根をかわいがったと思う。また、軍事演習の見学やら、大元帥を継承する準備のため参謀本部に通ったりさせられるが、皇太子(大正天皇)は、軍事についてはまったく無理解であった。明治45年、明治天皇崩御。皇太子は大正天皇となる。大正4年、大礼は京都、横浜では華々しく演出され、メディアは全国いっせいに国民的行事として報道。大正天皇は、皇太子時代のような視察や見学といった目的の行幸はできなくなっていた。1915(大正4)年、長男裕仁皇太子の地方巡啓が始まる。裕仁皇太子には、明治天皇を理想としての教育がなされる。・・・つまり大正天皇のようではいけないと・・・。大正天皇の子供じみた、率直でざっくばらんな性格に、山県有朋らは業を煮やし、天皇に対したびたび諫言したらしい。そんな山県を大正天皇は以前から嫌っていた。そういえば、明治43年、山県邸を訪問した皇太子(大正天皇)の写真があるが、その時の皇太子は縁側で行儀よく両手をひざに乗せてちょこんと座っており、その左側に山県は煙草を右手に持ち、両脚を開けて尊大に構えている。この写真を見ると、大正天皇と山県有朋との関係が伝わってくる。 |
大正天皇即位後、いわゆる大正政変があり、第一次世界大戦のおかげで、わが国の貿易は黒字に転じ、大戦景気で潤う。しかし国内物価は高騰し、米騒動が起き、寺内内閣総辞職、原敬の政党内閣が発足。ちょうどこのころ、大正天皇に病魔が忍び寄っていた。この年、1918(大正7)年10月、天皇は風邪のため(?)天長節観兵式を欠席、11月の陸軍特別演習では乗馬を恐れ、左足に変調をきたした。12月の帝国議会開院式も欠席。1919(大正8)年、天皇の変調は誰の目にも明らかとなった。2月には原敬首相も天皇に〈何かご病気がありや〉と日記に書いている。このころの公式行事における天皇のうつろな表情の写真を見るにつけ、小生は心が痛む。体力は落ち、食事中も姿勢を維持することができなくなり、このころの慰み事であった散歩と玉突きも難しくなった。言葉もだんだん不明瞭になり、原敬は、〈御幼年時の脳膜炎が再発してきた〉のではと書いている。1920(大正9)年、政府は天皇の様子についての発表を行う。3月、第1回発表「侍医三浦謹之助によると糖尿病と坐骨神経痛」があると。第2回目の発表時には、政府は裕仁皇太子(昭和天皇)の外遊を急遽検討、翌年3月に出発。その時の皇太子の写真や映画は、人々に新しい希望を与えたに違いない。1920(大正10)年、大正天皇のご病気について、さらに発表が続く。10月、第4回発表では、天皇はもはや快方に向くことはないとされた。人々は、大正天皇は脳の病気を患っていると、風の便りで聞くようになる。もはや歩くことも、はっきりした言葉も発することができず、親しい者を見分けることもできなくなった。11月、裕仁皇太子は摂政に就任した。大正天皇の、この全体的な活力の低下、運動・記憶・知覚の徐々なる低下は、おそらく多発性の脳梗塞のためであろう。その原因は何であろうか? というより、肉体の病理学的原因はどうあれ、小生が感じるのは、大正天皇は天皇になって以降、近代国家形成のために必要とされた君主像を強制された、そのことが、あの〈天真爛漫な〉天皇をして病気に向かわしめた、と。誰でも中年にさしかかる頃、どうしようもなく嫌でたまらぬことを強制され、それから逃げることが出来なければ、発病するのではないか。うつ病やリウマチや心臓病など、その人の気質体質に応じた病気という逃げ道に行かざるを得ないのではないだろうか。
|
西川泰彦著「天地十分春風吹き満つー大正天皇御製詩拝読」。この書には、大正天皇御歳16歳から37歳までの漢詩が納められている。高校時代に習った漢詩を思い出して思うに、大正天皇は王維のような自然詩人のような気がする。ぱらぱらめくって一つ紹介しよう。太平記にある金崎の戦いがあった「金崎城址」と題する詩。明治42年、31歳時。
登臨城址弔英雄 日落風寒樹鬱葱
身死詔書在衣帯 千秋正気見孤忠
後醍醐天皇の詔書を身に着けて最後まで戦った新田義貞の忠義の心を想われた。ついでに、紹介しよう。明治37年、御歳26歳。「御歌会始は当初恒例の18日に行われるはずのところ、6日に韓国の名憲太后の訃があった為、延期して20日に催された。明治天皇紀に載る御製、御歌を揚げ奉ろう。
御製(明治天皇)
苔むせる 岩根の松の よろつよも うこきなき世は 神をもるらむ
皇后陛下御製
大内の 山の岩根に しけりゆく こまつの千代も みそなはすらむ
皇太子殿下御歌(大正天皇)
吹きさわぐ 嵐の山の いはね松 うごかぬ千代の 色ぞしづけき
皇太子妃殿下御歌
うごきなく さかゆる御代を 岩のうへの 待つにたぐへて 誰かあふがぬ
小生は感じる、ここに一人、あまりに素直な歌人が居ると。和歌といえば、1917(大正6)年の春曙と題する御製が小生は好きだ。
百千鳥 かすみのうちに 鳴きいでて 花よりしらむ あけぼのの空
これなんか玉葉集に入っていてもおかしくないではないか。
|
大正天皇最後の御製
神まつる わが白妙の 袖の上に かつうすれ行く みあかしのかげ
これは社頭暁と題された天皇最後の絶唱である。灯明の光が、朝明けにすこしずつ薄らいでいく・・・。大正10年、皇太子が摂政に就き、天皇はいわば廃人として表舞台から引きこめられる。人間として必要なあらゆる脳力がしだいに凋落していく自分を、そして自分の存在の消失と共に一つの時代の消失を予告する、あまりにも明瞭な意識がわれわれを驚かす。大正天皇の御製の美しさは、私に伝統というものの強さを思いおこさせずにはいない。この光は近代日本を根底から照らし出す。省みれば、つい先日ペリー来航の日、わが国は西洋列強の文明に腰を抜かした。明治という時代はあげて不平等条約改正のために奔走したといっても言い過ぎではない。明治天皇は、国のために働く兵士の純粋さに感動し己を安逸贅沢から身を守った。己の態度が国家の統一に重要であると自覚し、君主としての自身の役割を果たした。富国強兵のあの時代に相応しいストイックな立派な人物であった。
日露戦争に勝利した日本は、世界の一等国の末席を占めるに至り、さてここから世界史の凄まじい本流に組み込まれていく。必然的な重工業の発達と軍事政策の手練手管の真っ只中に、ある日突然、病気がちで青白い顔をした、単純で無防備な青年が玉座にちょこんと座っていた。一般国民の無意識の天皇崇敬の念は、それを見て驚愕するほど、浅いものではなかった。だが、宮廷および政府要人はそうではなかった。彼らの頭の中にある〈立派な天皇〉に何とか矯正しようと試みたが、この青年の性格はそんな生易しいものではなかった。それで、彼らは今度は、此の青年天皇の純朴さをむしろ国民の前で演出し、政治の権謀術数に利用した。
やがて病気に陥った天皇を彼らは巧みに隠蔽し、否定しつつ、天皇を反面教師として、〈立派な〉、欧米のマナーを身に付けた、新しい天皇を用意した。手続きは完璧であった。そして昭和天皇は、彼らの意図したよりも遥かに優れたお方であった。やがて、わが国始まって以来の大悲劇がやってくる。全土は焼かれ、外国人による占領統治が始まった。ここに、昭和時代を通して、わが国の〈みやび〉が最高度に発揮され、終焉を迎える。私は、日本近代史を通覧する毎に、日本国民全体がそれを希んだような気がしてならない。
それはともかく、明治、大正、昭和と三代の天皇を比較してみるとき、大正時代は実際短かったし、大正天皇は、時代の前面に現れた二人の偉大な天皇の岩陰に咲く小さな目立たない花のような存在である。だが、もうちょっと近寄ってみると、此の病弱で不思議に軽い天皇の純朴、率直な御態度と詞華集の中のいくつかは、わが国の万葉集以来の和歌の伝統の源泉にもっとも近く繋がっている、と感じる。それは、自然と心と言葉が未分化であるようなあるものだ。もちろん明治天皇も昭和天皇も当然沢山の、大正天皇よりも多く、和歌を残してはいる。しかし、其の調べは民を思う心には溢れてはいるが、そこにあるのは優れた王者としての無私である。大正天皇の無私とは全然異質なものだ。たとえて言えば、人を小ばかにしたようにしゃべりまくる少年モーツアルトの音楽がわれわれを深く感動させるようなものだ。その技巧は余りにも自然である。此の大正天皇の心が発している光が、わが国近代史を照らすとき、幕末以来のわが国の歩みそのものが、悲しいが美しい自然な音楽のように、繰り返し、聴く人の心に語りかけてくる。あるいは美しい一枚の絵のように見えてくる。いわばこの非政治的な魂が、政治をも包含する歴史の運動を肯定し、納得させ、共感させるように働く。政治がどれほど現実に力を持とうが、文化がなければ、それが意味を持つことはできないのである。 |