れんだいこの大正天皇論 |
(最新見直し2015.08.03日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、れんだいこの大正天皇論を記しておく。原武史「大正天皇 (朝日選書)」(朝日選書、2000.11初版)、フレドリック・R. ディキンソンの「大正天皇―一躍五大洲を雄飛す 」((ミネルヴァ日本評伝選、200.9初版)その他を参照する。 |
【れんだいこの大正天皇論】 |
大正天皇の悲劇が分かるか。れんだいこはようぅっと分かる気がする。明治天皇の誕生日は、戦前は明治節、今は文化の日として、昭和天皇は緑の日として慶祝されているが、大正天皇のそれはない。つまり、大正天皇は故意か偶然にか歴史の谷間に埋没させられていることになる。この現象は、在位期間が15年という短きゆえにだけではないように思われる。原武史・氏の「大正天皇」(朝日新聞社)がこの暗闇に灯を燈したが、その史的意義が大きい。 大正天皇は脳性病状を理由に幽閉され、昭和天皇が摂政としてその任に就いてきた。ところで、この過程は今流布されているところの話し通りなのであろうか、疑問なしとしない。これまでれんだいこは、我がサイトでこの種の「世間常識」に数々の挑戦をしてきた。未だ無視され続けているが、いずれれんだいこの功績が世の注目を浴びる日が来るであろう。同様に、れんだいこが以下指摘する大正天皇論も青天の霹靂を為すであろう。 れんだいこに云わせれば、大正天皇の実像は史上稀に見る英明な天皇であり、その「大正天皇の幽閉は一種のクーデターであった」のではなかったか。このクーデターは、その後の大東亜戦争に向かう軍部及び政財界勢力、それを操る国際金融資本ロスチャイルド派の陰謀、それに引きずられた当代のエセ・インテリらの日帝グループにより強行され、大正天皇は彼らに;餌食にされ、無理矢理失脚せしめられたのではなかろうか。 これにより明治維新後の歴史は画期的に右回天したのではなかったか。西南の役での西郷派の一網打尽が第一次右回転とすれば、大正天皇閉じ込めは第二の右回転ではなかったか。以来、日帝の好戦化は不可逆的な道のりになり、大東亜戦争まで歩を進め、敗戦で瓦解するまで定向進化したのではないのか。この視点を確立したい。 大正天皇の実像論に戻る。それには明治天皇から捉えねばならない。明治天皇の治世の特質を最簡略に云えば、内治的な殖産興業政策と外治的な対外侵略政策との二頭立てで処世してきたように思われる。明治天皇の治世を継いだ大正天皇の時代は、この二つのベクトルが矛盾として拮抗しあう時期に至っていた。如何に御すべきか。大正天皇及びその側近達は逡巡のうち、内治的な殖産興業政策を基調とする御世に向おうとした。こうして、一次的に「大正ルネサンス」時代が現出した。 しかし、そういう大正天皇の治世は大きな抵抗に遭った。これを咎めた勢力が弄した手段が、裕仁皇太子の押し立てであった。このグループにより大正天皇は押し込められ、裕仁皇太子を摂政に就任させた。その上で、外治的な対外侵略政策に突っ走って行った。それは欧米の帝国主義政策の猿真似であり、「バスに乗り遅れるな」であった。国際金融資本ロスチャイルド派がこれを陰謀した。この視点を確立したい。 してみれば、裕仁の運命は摂政にまつりあげられた時点で決まっていた。裕仁の皇太子から昭和天皇への軌跡は、敷かれたレールの上を走らざるを得ない中での挙措動作でしかなかった。昭和天皇の治世は、この流れにある時は抵抗しある時は推進するという歴史のジレンマに翻弄され続けたのではないのか。してみれば、時代が要請し、これに応えた苛酷な役者の役回りこそ昭和天皇を貫く特質であったとみなせよう。 これを思えば、大正天皇の御世こそは、敷かれようとするレールに抵抗し、遂に真性に脳を煩わされたか、あるいはそのように外伝させられて幽閉せしめられた経過ではなかったか。極論で言えば、内治派に対する外地派の策動が勝利的に貫徹したのであり、ここに大正天皇の悲劇が垣間見られるのではないのか。「大正天皇の才を見るにむしろ稀に見る英才であり歴代天皇の中でも指折りの有能の部類に入る」と評されるべきではなかろうか。 しかし、そうなると「大正天皇押し込め」は日本近代史上特筆されるべき政変クーデターであり最たる不敬事件であった、ということになる。戦前右翼は昭和天皇の御世においては「不敬」を最大限重視したが、何のことはない「大正天皇押し込め不敬事件の張本人」である。残念ながらこの観点からの考察は未だタブーのようである。れんだいこならではの身易さ故に、皇室問題、大陸侵略問題、大東亜戦争考の新視角として取り上げてみたい。 こたび大正天皇実録が公開されつつあるが、これが封印されてきた背景にはこのような深刻な意味がある。あぁだがしかし、これを受け止める側の能力が干乾びており、問題が問題として意識されていない。御用系ならともかく左派系からの追跡が未だ皆無のように見える。かの東大政治学教授丸山眞男でさえ、薄っぺらな大正天皇論を開陳している。泰斗でさえそうであるからして、左派の頭脳には漬ける薬がないとはこのことだろう。この貧弱確認から始発せねばならないとは先が思いやられる。 追記。大正天皇押し込めの背後に、幕末黒船来航以来の国際金融資本ロスチャイルド派の暗躍を加える必要がある。明治維新政府は、彼らの意向により帝国主義的侵略戦争の陣営に引き入れられ、豚の子戦略で太らされた挙句最終的に大東亜戦争で成敗された経緯が認められる。太田龍史観を学ぶことにより、そういうことに気づかされた。この面で、太田龍・氏に感謝申し上げる。 2003.11.7日再編集、2007.3.3日再編集 れんだいこ拝 |
れんだいこのカンテラ時評bP258 投稿者:れんだいこ 投稿日:2015年 7月20日 |
【大正天皇実録考その1】 「NHK/大正天皇の実像詳細に」その他を参照する。 (http://www3.nhk.or.jp/news/web_tokushu/2015_0701.html) 2015(平成27).7.1日、宮内庁が、大正天皇実録の第二次公開としてほぼ全文を公開した。大正天皇実録とは、生歴1879(明治12)年−1926(大正15)年、在位1912(明治45).7.30日−1926(大正15).12.25日と云う履歴を持つ大正天皇の47年の生涯を記録しおり、当時の宮内省が1927(昭和2)年から1937(昭和12)年まで10年間にわたって編修し、計95冊で構成されている(本編は85巻5000ページ余りからなる、ともある)。大正天皇実録は全巻が皇居にある宮内公文書館に所蔵されている。昭和天皇実録は2014(平成26)年に完結し2015年の3月から段階的に出版が始まっているが、大正天皇実録は今のところ出版計画がない。所定の手続きをとれば宮内庁書陵部図書課で閲覧できるとのことである。 宮内庁は、大正天皇実録を2002(平成14)年〜2011(平成23)年にかけて4回に分けて順次公開した。これを仮に第一次公開と命名する。その際、特殊性、機密性の強い箇所については個人識別情報として全体の約3%を黒塗りにしていた。その後、2011年、公文書管理法が施行された。一方、2014(平成26)年に完成した昭和天皇実録は個人情報に当るものも可能な限り公開するとして黒塗りは行われなかった。そこで大正天皇実録についても同じ基準での公開が迫られていた。 2015(平成27).7.1日、大正天皇実録の第二次公開により、これまで個人情報保護などを理由に黒塗りにしていた部分の大半が解除された。解除された黒塗りは本編だけでも1000ヶ所以上に及び黒塗り部分の凡そ8割に当る。これにより黒塗り部分は全体の3%から0・5%に減った。宮内庁は、「時の経過」を踏まえて「考慮した結果」と説明している。但し、診断書や成績は引き続き非公開となっている。 ところが、「こたびの大正天皇実録のほぼ全文公開」につき、ネット空間では音沙汰なしのようである。このことは関心が薄いことを示しているが、れんだいこは大いに注目している。騒がれていないのは、長年にわたって大正天皇に関心が向かわないよう報道管制が敷かれて来た結果としての盲目に過ぎないと思っている。事実は衝撃的である。その一つは、大正天皇論に纏わる病弱論、無能論が否定されたことである。事実は、「れんだいこの大正天皇論」に記したように「大正天皇の才を見るにむしろ稀に見る英才であり歴代天皇の中でも指折りの有能の部類に入る」と評されるべきである。 もう一つ確認しておく。大正天皇実録の第二次公開によって大正天皇毒殺の経緯と様子が間接的に明らかにされた。主犯は元老・山県有朋及びその徒党である。これを確かめるには大正天皇実録を直に当らねばならぬが、かく予想しておく。 この系譜が、1・第14代征夷大将軍/徳川家茂急逝(1866.6.20日、20歳)、2・第121代天皇/孝明天皇急逝(1866.12.25日、36歳)、3・第122代天皇/睦仁親王(京都明治天皇)急逝(1867.7.8日)を手掛けており、大正天皇毒殺はこれに続く「王殺し」であった。背後に潜むのは、黒船来航以来、我が国内を大手を振って闊歩し始めた国際ユダ屋である。こういう推理に導かれるからこそ大正天皇実録が公開されずに来たのではなかろうか。以下、これを論証する。 |
れんだいこのカンテラ時評bP259 投稿者:れんだいこ 投稿日:2015年 7月22日 |
【大正天皇実録考その2】 本稿で大正天皇の出自考をしておく。見たことも聞いたこともない話しになるであろうが、三度ぐらいは読み直して欲しいと思う。 大正天皇は、1879(明治12)年、明治天皇の第3皇子として生誕する。母は側室2位局の柳原愛子(やなぎわらなるこ)である。親王の幼称は明宮(はるのみや)、御名は嘉仁(よしひと)。明治天皇には5人の皇子がいたが成人したのは明宮嘉仁だけである。これにより明治天皇没後、大正天皇として即位する。この大正天皇が在位中に幽閉され最終的に毒殺される。大正天皇に限ってなぜこのような最たる不敬事件が起り、それが許されたのか。大正天皇をして何がかくも過酷な運命を強いたのか。 こう問うことに一理あるように思われる。こう問わない大正天皇論は物足りない。れんだいこは、この解を次のように求める。それは大正天皇の母に秘密が隠されているように思われる。その扉を開ければ、母の愛子(なるこ)が日本天皇制史上の拮抗軸である「出雲系/外来系」に照らして出雲系皇家の血筋であることが見えて来る。当時の家柄としては藤原北家の血を引く公家華族であるが、この際の「藤原北家」にはさほどの意味はない。要するに公家であり歴史的交合の結果として出雲系として登場していることに意味がある。 ちなみに、愛子は歌人として知られる柳原白蓮(本名Y子、あきこ、1885−1967年)の伯母に当たる。即ち白蓮の父・柳原前光の妹である。してみれば、愛子と白蓮は姪の関係であり、愛子の子たる大正天皇と白蓮は従兄妹にあたることになる。(白蓮については「柳原白蓮考」参照のこと)このことの重要性がどこにあるのか。愛子を白蓮同様の歌人としての血筋に注目すれば足りるのだろうか。否、歌人としてのDNAは結果であり、本当に重要なことはもっと深いところに求められるべきではなかろうか。れんだいこは、その解を、「出雲王朝系血筋」に見出す。即ち、大正天皇の母が出雲系である故に出雲系の血筋を引き継いでおり、その親王がポスト明治天皇後の大正天皇として登場したところに特筆されるべき歴史的意味があると解している。 このように注目されることがない。それは日本を歴史的にどう見るのかの視座が定まっていない故のことでしかない。日本を「原日本/新日本」の標識で解析しようとする史家の眼には大正天皇の特異性が見えて来る。即ち出雲系親王として愛育され、1889(明治22)年、11歳で皇太子。1900(明治33)年、20歳で同じく出雲系の九條道孝公爵の4女・節子(さだこ)と結婚。夫妻は4男の息子に恵まれている。1912(明治45)年、34歳で大正天皇として即位。これより「押し込め」幽閉されるまで近代日本史上稀有の出雲王朝系天皇の御代が続いたことになる。 大正天皇は当然、出雲王朝(原日本)系政治を志向し始める。大正時代の時代的明るさはこれによる。それは何も西洋語のデモクラシーのみで語られるべき筋合いのものではない。出雲王朝(原日本)系政治の功でもある。但し、そういう大正天皇政治は難航を際めた。それは、日本史上に新たなベクトルとして「土着日本/国際ユダ屋」なる対立が登場していたからである。出雲王朝派の政治と国際ユダ屋の政治とは政治の型がまるで違う。それはやや小ぶりになるが戦後日本政治のハト派とタカ派の政治の型の違いに比することもできよう。 大正天皇の御代、既に黒船来航以来の国際ユダ屋勢力が跋扈しており、これに抗する在地土着派と呼応する売国派との抗争が深刻化していた。結果的に大正天皇派が破れ、大正天皇は「押し込め」られ、代わりに皇太子裕仁親王が摂政となり、1926(大正15)年、崩御。こたびの大正天皇実録の第二次公開により、元老・山県派による執拗な大正天皇攻撃、その最後としての毒殺が推理されることになった。 そういう悲惨な結末を余儀なくされたが、今瞑して思うべきは大正天皇の御代そのものを創り出した能力の方を好評価すべきかもしれない。この観点から見れば、昭和の御代は既に国際ユダ屋に引きずられる歴史の負の流れでしかない。昭和の御代に浮かれる者は大正天皇の御代を知らない半可通でしかない。結果的に大東亜戦争に誘い込まれ、国家的民族的危機に追い込まれた。その敗戦国日本を復興しその後の高度経済成長へと導いたのが原日本派の能力であった。これが戦後日本の保守主流派を形成したハト派の本質である。但し、戦後日本は一筋縄で括れるものではない。戦勝国側に餌食にされるべき運命にある。この両ベクトルが絡み合って進んだのが戦後日本ではなかろうか。 更に云えば、現代日本政治とは、自公であろうが民主、維新であろうが目先だけの差であり、本質は国際ユダ屋に雇われた者たちによる請負政治に過ぎない。彼らは、原発、国債、重税、派兵、TPP、改憲の六重奏で二度と立ち上がれない日本づくりの下働きをしているチンケな連中である。これにより、国際ユダ屋配下日本と云う新たな日本、日本でない日本、見たことのない日本に向かうことになるであろう。 |
れんだいこのカンテラ時評bP260 投稿者:れんだいこ 投稿日:2015年 7月24日 |
【大正天皇実録考その3】 本稿で、大正天皇論に纏わる病弱論、無能論につき検証しておく。大正天皇の履歴については別サイト「大正天皇の足跡履歴」に記す。ちなみに、「ウィキペディア大正天皇」(2015.7月現在)の大正天皇論を確認するのに標準的な記述になっている。これが大正天皇論の現在の相場ではあるが、本稿でその凡庸記述ぶりを露にさせておこうと思う。 それにしても何故にかくも有能優秀なる大正天皇をかくも悪し様に罵るのであろうか。それはちょうどかくも有能優秀なる田中角栄をかくも悪し様に罵った様と通底している。我々はこの「仕掛けられている逆評洗脳」につきもっと深刻に洗い落とさねばならないのではなかろうか。 大正天皇実録、明治天皇記その他によれば、確かに、後に大正天皇として即位することになる明宮嘉仁(はるのみやよしひと)親王は、生後まもなくの頃及びこれに続く幼少時代には病弱が認められる。しかし、子供の頃の病弱体質が次第に克服され青年期以降は却って壮健になる例は幾らでもある。幼少時代の病弱でもって終生にわたって病弱であったとする説には首肯し難い。 1887(明治20)年、8歳の時、嘉仁親王は、学習院初等科の今の小学2年生にあたるクラスに編入されている。その時の様子は次の通り。最初の年は病気がちで83日欠席し進級試験も受けられなかったため留年している。その後、体調が安定して進級を重ね、4年生の時には1年間を1日も休まず皆勤賞としての「精勤証書」を受けている。「学期末の御成績も著しく(良くなった)」と記されている。1889(明治22)年、10歳の時、皇室典範の制定により立太子礼を挙げ皇太子となる(これにより、以降を嘉仁(よしひと)皇太子又は単に皇太子と記すことにする)。嘉仁皇太子は6年生になると再び大きな病気(腸チフス)をして12月から3月まで74日間にわたって欠席している。 学業について「明治天皇記」は次のように記している。
1892(明治25)年、13歳の時、「徳大寺実則日記」の記述によれば、東宮武官長・奥保かたが明治天皇に対し次のように報告している。
してみれば、13歳の頃よりは心身の気力が充実し成績も頗る良くなっていたことになる。1893(明治26)年、14歳の時、学習院初等科を卒業し中等科へ進んでいる。1894(明治27)年、15歳の時、体調が芳しくない事もあって中退している。その後は、赤坂離宮に設けられた御学問所で個人講義を受ける身となる。この時、当代の碩学泰斗が東宮侍講に選ばれ学問を授けている。東京帝国大学教授の本居宣長のひ孫に当る本居豊頴(とよかい)が国学を、同じく東京帝国大学教授の三島中州(ちゅうしゅう)が漢学を教えている。両者の学問が殊のほか功を奏し、歴代天皇の中でも指折りの名歌人として孵化することになる。これにつき次々稿で確認する。 この頃、宮廷内に東宮職が設置され、その武官長として近衛歩兵第一旅団長の陸軍少将・奥保かた(やすかた)が就任し且つ東宮大夫も兼ね皇太子教育の最高責任者になっている。1892(明治25)年、陸軍歩兵中尉に昇進している。1894(明治27)年、日清戦争勃発。1895(明治28)年.16歳の時、陸軍歩兵大尉となる。同年8月、腸チフス肋膜炎肺炎などを併発し一時重体に陥る。結果的に医師ベルツらの助力もあって11月に無事全快に至った。大きな病気としてはこれが最後となる。(中略) 1898(明治31)年、19歳の時、青山御所が東宮御所と定まり、明治天皇の意向により皇太子より17歳年上の有栖川宮威仁(たけひと)親王が東宮賓友に就任する。両者は稀に見る信頼関係を築いて行くことになった。ちなみに有栖川宮は、1891(明治24)年のロシア皇太子ニコライ(1868〜1918)一行の訪日及び巡遊の際、長崎での出迎えから大津事件で中止になるまでの間の行動を共にし、ニコライ皇太子が人々と和合する姿を目の当たりにすると云う貴重な体験をしている。有栖川宮は「御健康第一、御学問第二」とする補導の方針を打ち出し、これを徹底させていくことになる。この年11月、皇太子は陸軍歩兵少佐並びに海軍少佐となっている。 これらより推測するのに、嘉仁皇太子は、軍事教練と学問の功により「立派な大人に成人」していたことが判明する。原武史・氏は、著書「大正天皇」の中で次のように指摘している。
然りであろう。大正天皇病弱粗脳論なる「政略的虚説」が今日まで定説化されているが、そのプロパガンダは1921(大正10).11.4日、大正天皇直臣の原敬首相の暗殺直後からである。この頃前後より意図的故意に流布されるようになったものである。これが大正天皇押し込め、裕仁皇太子担ぎ出しによる摂政就任への地均しとなる。 大正天皇論に纏わる病弱論、無能論はその為のものである。真実は、嘉仁皇太子は青年期を迎えた頃にはむしろ壮健な丈夫(ますらお)になっていたと推定できるのではなかろうか。大正天皇即位以来の苦悩による病状は別の理由によるとして遠因を尋ねるべきではなかろうか。 |
れんだいこのカンテラ時評bP261 投稿者:れんだいこ 投稿日:2015年 7月25日 |
【大正天皇実録考その4】 ちょうど世紀の変わり目の1900(明治33)年、20歳の時、2.11日 、嘉仁皇太子は「日嗣ぎの御子」として公爵九条道孝の4女・節子(さだこ、後の貞明皇后、当時15歳)と婚約する。節子妃につきより詳しくは「貞明皇后考」で確認するが、要するにこちらも出雲系の出自であるところに意味がある。 九条節子に白羽の矢を当てたのは、節子の父・九条道孝の実姉にして孝明天皇の女御にして明治天皇の正妻(嫡母)の九条夙子(あさこ、後の英照皇太后)であった。節子姫が幼い時、招かれて姉と共に青山御所にあがり、伯母である英照皇太后に目をかけられて皇孫皇太子の妃に目されたと云う。何やら孝明天皇の歴史息を感じるのはれんだいこだけだろうか。 同年5.10日、皇祖天照大御神の御霊代の神鏡が座す宮中・賢所(かしこところ)での神前結婚式が厳かに執り行われた。留意すべきは、それまでは式は神前では行われず、式後に賢所に参拝になるのが宮中の慣わしだったようである。「賢所の大前において、ご婚儀を行はせたまふ御事は、国初以来こたびを以て初めて」とあるので、この時、明治天皇を取り巻く当時の宮中の英断で賢所での神前結婚式に踏み切っていることになる。これが神前結婚式の走りとのことである。 儀式後、嘉仁皇太子は陸軍少佐の正装、節子皇太子妃はドイツ式正装で皇居周辺をパレードしている。そこらじゅう国旗や提灯、電飾と飾門が設けられ、皇礼砲が響き、花火が上がった。婚礼を見るために鉄道を使って上京した人は10万人を超え、祝辞を送った人は15万人を超えたとのことである。その後、節子妃はフランス式正装に着かえられ、各国公使らを含む2200人ほどの饗宴を催している。国内至る所で記念植樹や記念碑が建てられている。要するに日本中が祝賀ムードに酔いしれる国挙げての大祝典が成功裏に挙行されたことになる。これがその後の皇太子御成婚行事の先例となり今日に続いている。 当時の人々は概ね皇太子の結婚を祝福しているようで、正岡子規は「東宮御婚儀をことほぎまつる歌」を詠み新聞「日本」に掲載されている。幸徳秋水も無署名ながら「万朝報」に「皇太子殿下の大礼を賀し奉る」という文章を載せている。幸徳の賛辞は如何なる政治眼力によるのだろうか。思うに、幸徳は、日本の皇室制度につき、他国にありがちな抑圧体制のものではなく、日本が誇り護るべき固有な高度な政治システムのものであると分別していたのではなかろうか。 俗流マルクス主義の、日本天皇制をも西欧的君主制と同様な抑圧的なものと捉え、その打倒を生硬に唱えれば唱えるほど革命的とする理論に対して、アンチの姿勢を保持していたのではなかろうか。とすれば、幸徳のこの天皇制論は一聴に値するのではなかろうか。この観点に立てば、幸徳を葬った大逆事件も大杉栄を葬った関東大震災事件も胡散臭いことになる。何やら格別優秀な者が狙い撃ちされている観がある。 もとへ。皇太子夫妻の新婚生活は順調に始まった。成婚当時は教育係の万里小路幸子という老女官に宮中での礼儀作法を厳しく躾けられ困惑したが、後年にはそれが自分の素養に大きく役立ったと感謝している。昭憲皇太后も節子妃を実の娘の様に愛されたという。 特徴的なことは、節子妃が伝統的な女官制度のしきたりを打ち破り、妃自身が皇太子の身の回りの世話を行ったことである。即ち嘉仁皇太子は明治天皇とは対照的に側室を置かなかった。皇室における側室の制度が法的に廃止されたのは後の昭和天皇の時代であるが、側室そのものを事実上最初に廃止したのは大正天皇であった。良し悪しまでは分からないが皇室の一夫一妻制は大正天皇を嚆矢とすることになる。 嘉仁皇太子の結婚は吉と出て、皇太子の健康にプラスの効果をもたらした。「大正天皇」(朝日新聞社)の著者/原武史・氏は次のように述べている。
つまり、嘉仁皇太子は結婚後一気に健康を増進させて行ったことになる。このことを確認する事は、後の「病弱を理由とする大正天皇押し込め騒動」が「過剰な虚構の演出」であったことを明白にする点で重要である。 大正天皇夫婦は子息に恵まれる。結婚の翌年の明治34年、第1皇子/迪宮裕仁(みちのみやひろひと)親王(後の昭和天皇)。その1年後の明治35年、第2皇子/淳宮雍仁(あつのみややすひと)親王(後の秩父宮)。それから4年後の明治38年、第3皇子/光宮宣仁(てるのみやのぶひと)親王(後の高松宮)。大正4年、第4皇子/澄宮崇仁(すみのみやたかひと)親王(三笠宮)の四男を授かっている。即ち、大正天皇夫婦は世継ぎ資格者をかくも鴻の鳥に運ばせたことになる。この意味でもご立派と云うべきではなかろうか。 |
れんだいこのカンテラ時評bP262 投稿者:れんだいこ 投稿日:2015年 7月26日 |
【大正天皇実録考その5】 ここで大正天皇の歌人能力に言及しておく。歌そのものについては「大正天皇のお歌考」で考察する。結論から申せば、大正天皇の歌人能力は格段に高い。そういう訳で、大正天皇の御歌を総合的に研究してみたいと思う。浅学菲才ではあるが次のジャンル別に仕分けしてそれぞれの名句を味わいたい。「新年の年賀歌」、「時局&政情歌」、「国見&国憂歌」、「軍事&戦争歌」、「情景&叙情歌」、「自然観察歌」、「人生歌」、「家庭団欒&子供思い歌」、「恋歌」。なお且つ、節子妃(さだこ妃、後の貞明皇后)の歌人能力もこれまた格段に高いことに注目し、両者の掛け合い歌をも紐解いてみたい。いつのことになるかは分からないけれども。 不思議なことに、大正天皇はそういう歌人能力を示しておりながら、大正天皇が語られること、その御歌が語られることが明治天皇、昭和天皇に比して格段に少ない。これは何によるのだろうか。ここではこの問題に触れない。とはいえ大正天皇の御歌に関する書籍がぼちぼちとは出ている。 確認できるのは、1973年初版の小田村寅二郎、小柳陽太郎両氏の共編になる「歴代天皇の御歌(みうた)初代から今上陛下まで二千首」(日本教文社)である。明治天皇、昭和天皇の御歌集は単独で出版されているが大正天皇の御歌は目に触れる機会が少なかった。その意味で大正天皇の御歌公開の意義が深い。二千首との絡みが分からないが「この中に収められた総数465首の内、大正天皇の御製118首が謹選されている」と解説されている。 大正天皇だけの御歌集は2002年初版の歌人・岡野弘彦著「おほみやびうた−大正天皇御集」(邑心文庫)が発行されてようやく日の目を見ることになった。456首が確認されている。岡野氏は、「おほみやびうた−大正天皇御集」の解説で次のように評している。
「おほみやびうた−大正天皇御集」の帯文は次のように記している。
推薦文は次の通りである。
インターネット・サイト「天皇と短歌(二)大正天皇の御製」、2002.10.27日付毎日新聞書評欄「近代の帝はなぜ恋歌を詠まない?」、「大正天皇の大御歌」を参照すれば、丸谷才一氏が次のように評しているとのことである。
五木寛之氏も大正天皇の御歌を絶賛し、「彼こそ歴代天皇の中で最高の歌人」と評価しているとのことである。 大正天皇は和歌のみならず漢詩をも数多く詠んでおり、こちらも評価が高い。三島中洲の指導を受けて創作し始めたのであろうが、漢詩数は実に1367首に上る。質量とも歴代天皇のなかでも飛びぬけている。これを確認するのに、2位が嵯峨天皇と後光明天皇の98首。ついで後水尾36、霊元25、一条23、村上天皇18、淳和16。あと22人の天皇が6首以下である。 この能力を聞いても、まだ大正天皇を粗脳呼ばわりする者ありしか。 |
れんだいこのカンテラ時評bP263 投稿者:れんだいこ 投稿日:2015年 7月27日 |
【大正天皇実録考その6】 前稿で大正天皇の歌人能力が格段に高いことを確認した。だとすれば大正天皇の政治能力も実は高かったと推定することも可能ではなかろうか。この仮説を提起し大方の賛同を得たいと思う。これが本稿の狙いである。 思うに、嘉仁皇太子が大正天皇として即位後、徐々に身心を病んでいったのは、云われるような生来の持病によるものではなく、即位後の政治的軋轢の中で政略的に身心を傷めた故ではなかろうか。大正天皇生来の病弱論、粗脳論は、この政略的絞殺を隠蔽する為の煙幕理論に過ぎないのではなかろうか。れんだいこは、当時に於ける国際ユダ屋呼応勢力が大正天皇政治に立ち塞がり、続いて無理やり「押し込め」、最終的に毒殺まで追い込んだのではないかと仮説している。 それでは、大正天皇はなぜ押し込められたのか。これに対する解が必要であろう。私はこう推理する。それは両者の政治の型が全く違う故であった。大正天皇の御代に於いて、天皇派と反天皇派の両者間には非和解的な道しか残されていなかった。これを説明すると、大正天皇派は、原日本古来の出雲王朝的御代の政治を理想としていた。それは大国主の命政治を手本とする。戦後では田中角栄政治であり、国内的には殖産興業、対外的には国際友好親善、国際協調である。即ち戦後憲法に具現しているような「平和の傘の下での経済成長政治」であった。 ところが、反大正天皇派の政治は国際ユダ屋の指令のままに蠢く売国政治であり、アジアの盟主としての日本帝国主義化政治であり、国内的には重税、対外的には戦争政策である。(何のことはない、現在の日本が再び誘導されつつある道である。こたびはアジアの盟主にはなれず従僕として使い捨てさせられようとしているけれども) 金血鬼/国際ユダ屋の采配振るうところ、いつでもどこでもこうなる「国際ユダ屋の傘の下での戦争経済政治」であった。 この抗争は承知の通り国際ユダ屋が勝利した。故に、大正天皇の存在そのものが歴史的に押し込められた。故に、近現代天皇に於いて明治天皇、昭和天皇には誕生日が慶賀され祝日とされているのに独り大正天皇は蚊帳の外に居る。 これに明らかなように大正天皇が祀られること、語られること、その御歌が語られることが格段に少ない。仮に語られたとしても、読み聞くするに耐えられない罵倒論が主流であり通説である。目下のTPP交渉で、国際ユダ屋が著作権棒丸出しにしているので、著作権の正体が分かろうと云うものだが、こういう手合いが決まって強権著作権を振り回す癖があるのがお笑いである。著作権に対する態度を見るだけで、どちらの陣営の者か、あちらの陣営連中のど阿呆さが分かる。 ここで気づくことがある。してみれば、これまでの大正天皇実録非公開、その後の公開時の黒塗りは何の為だったのだろうか。黒塗りが解除されてはっきりしたことは、この記述なら黒塗りの必要がなかっただろうと思える記述であるのに黒塗りにされてきたことである。どちらかと云うと、大正天皇の好印象に繋がる下りが黒塗りにされている。 と云うことは、大正天皇の偉丈夫さ、類い稀な歌人能力、それに陸続する政治能力の高さを隠蔽する為に、敢えて非公開、黒塗りしてきたのではなかろうか、と窺いたい。国際ユダ屋には「病弱にして粗脳な大正天皇論」の方が都合が良く、それが、後の「大正天皇押し込め」、享年47歳での毒殺を正当化させる為の伏線になっているのではなかろうか。「壮健にして英邁有能な大正天皇論」では都合が悪過ぎるのであろう。 当時も今も、国際ユダ屋の敷く好戦政策を請負うことで立身出世を企む奸族がいる。これが幕末の黒船来航以来の日本政治の宿亜である。大正天皇はこの連中にヤラレタ。即位以来、国内的にも国際的にもハト派日本の創出を企図しご苦労されたが、これに奸族が立ちはだかり、押し込められ、最後は毒殺されたのではないのか。この最大なる不敬事件を引き起こした連中が、昭和の御代になって不敬罪棒を振り回すことになる。そのご都合主義ぶりは何をか云わんやではなかろうか。 この大正天皇の評価で、妙なことにウヨとサヨが共通している。試しに社共の大正天皇論、右翼のそれを聞いてみればよい。他にもある。南京虐殺事件等に関しては議論百出するも、国際ユダ屋がテキスト化しているホロコーストに対する無条件恭順がそうである。ロッキード事件の際の田中角栄の政界追放論も挙げられよう。右翼と左翼が共通するメガネとメガフォンを持つ例はそう多くはない。そういう例の一つに大正天皇論がある。これはこのように理解するよう操作され、それに恭順しているに過ぎないことを示している。 |
れんだいこのカンテラ時評bP264 投稿者:れんだいこ 投稿日:2015年 7月28日 |
【大正天皇実録考その7】 新婚巡啓が円滑に取り運んだことに気をよくしてか、明治天皇の了承を得て地方巡啓が本格化する。次第にぶりがつき、やがて引く手あまたとなり、仕舞いには沖縄を除く日本列島を隈なく足繁く訪問することとなった。皇太子時代の12年間にほぼ1、2年に1回のペースで13回の行啓を行っている。しかも1、2ヶ月に及ぶ長期のものもあった。以下、その概略を確認しておく。これの詳細は「大正天皇の足跡履歴」に記す。 この他軍事行啓や国技館行啓、早稲田大学行啓等の特定行啓をこなしている。皇太子は体調を崩して寝込むことはなかった。この嘉仁皇太子の巡啓史そのものが大正天皇病弱論を打ち破るであろう。それは、嘉仁皇太子の歌人能力そのものが大正天皇粗脳論を打ち破るのと同じである。 1度目の巡啓/明治33.5.23日から10日間/三重、奈良、京都方面。2度目の巡啓/明治33.10.4日から50日間/北九州一円方面。3度目の巡啓/明治35.5.20日から18日間/北関東、信越方面。4度目の巡啓/明治36.10.6日から24日間/和歌山、瀬戸内海方面。5度目の巡啓/明治40.5月から*日間/鳥取、島根方面。6度目の巡啓/明治40.10.10日から35日間/韓国、南九州、高知方面。7度目の巡啓/明治41.4月から15日間/山口、徳島方面。8度目の巡啓/明治41.9月から約1ヶ月間/東北方面。9度目の巡啓/明治42.9月から約1ヶ月間/岐阜、北陸方面。10度目の巡啓/明治43.9月から約*日間/三重、愛知方面。この頃、軍事行啓相次ぐ、ともある。11度目の巡啓/明治44.8月から約1ヶ月間/北海道方面。12度目の巡啓/明治45.3.27日から約*日間/山梨方面。13度目の巡啓/明治45.4.22日から約*日間/滋賀、三重方面。 嘉仁皇太子の巡啓を企画推進したのが東宮補導・有栖川宮であった。「少数の東宮職関係者と相対するだけの狭く堅苦しい空間から皇太子を解き放ち、一般の人々が暮らしている世間に触れさせる」との考えに基づいていた。それは有栖川宮自身の経験に基づくものであった。即ち、有栖川宮がロシア皇太子ニコライ一行を案内した時、ニコライ一行が各地の人々や風俗に接して和合する姿を目の当たりにしている。この時の教訓を皇太子の巡啓に生かそうとしていた節がある。皇太子の巡啓が好評で次第に大掛かりなものが企図とされていくことになった。学事が停滞するとして東宮職は反対したが、東宮輔導・有栖川宮が、歴史・地理の実地見学という大義名分を押し立てて明治天皇の承認を受け実現していくことになった。 嘉仁皇太子の巡啓が、民間天皇をアピールした戦後の昭和天皇の巡幸、継宮明仁(つぐの宮あきひと)皇太子(後の平成天皇)のそれの先取りとなったという点でも意義が高い。なお、明治30年代より明治天皇の健康が優れなくなり、巡幸が控えめになったのと対照的に皇太子の巡啓が盛んとなっているという時代の流れも見ておかねばならない。これらの巡啓を通じて鉄道が開業し、電気の点灯、電話、舗装道路など社会資本のインフラ整備が進んだことも銘記されるべきであろう。「この旅行から、歓迎行事の出し物に大掛かりな郷土芸能を見せることも恒例となった」。 1902(明治35、23歳).5.1日、有栖川宮は、信越北関東大巡啓に先立って、東京の自邸に各知事を集め、全部で20カ条からなる次のような訓示を与えている。
他にも概要「大掛かりな奏送迎は不要、過度の歓迎を控えるよう、通御の道筋も通行の妨げにならない限り通常の通行を制止するに及ばない」と通達している。「天皇行幸に準じた準備や規制を撤廃し、皇太子が自然に振舞うことのできる素地を作り出そう」として心を砕いてい入る様が見て取れる。これにより、特別仕立てのお召し列車ではなく一般の人々が乗る普通列車を利用して移動する区間が多くなった。巡啓日程が容易に変更され、滞在が延びたところもあれば予定変更で立ち寄らなかったところもあった(書いた後気づいたが、この件は真偽不明だな)。軍服と平服を適宜取り替えつつ巡啓が続き、軍隊司令部、名所旧跡の他に最新の殖産興業的産業施設への立ち寄りが為されているのもユニークであった。 |
れんだいこのカンテラ時評bP265 投稿者:れんだいこ 投稿日:2015年 7月29日 |
【大正天皇実録考その8】 嘉仁皇太子は、巡啓の際、気さくに声を掛けられ「能く御下問遊ばす皇太子」ぶりを発揮している。これに対し、「思ったことをすぐに行動に移したり口にしたがる」と悪評しているものが多い。しかし悪評する者の方が暗愚なのではなかろうか。「生の肉声をみだりに伝えるのは不敬である」という威厳的な考え方が微塵もなかったこと、皇室と人民との接近場面を極力増やそうとしていること、「平常の有り様をお目撃なりたきご趣意」に基づくものであった故の「質問多発」であったことを踏まえれば、「威厳よりも親しみを抱かせる性格の御方であった」と批評するのが筋ではなかろうか。 「面白い」、「国益だなぁ」、「至極便利なものだな」などの感想を発し、そのやり取りが、明治天皇の行幸や巡幸では全くありえなかったことで驚きを持って迎えられている。その会話の端々に歌人能力同様の感性、判断力の良さ、知性が感ぜられる。ならば、「好奇心、探究心、向学心が強く、且つ天真爛漫的な茶目っ気があり云々」と好評的に解するべきではなかろうか。実際、皇太子時代から巡啓に同行するなど近しい立場にあった原敬は、後に語られる大正天皇像とは大きく異なる「気さくで人間味あふれる、時にしっかりとした」人物像を原敬日記に記している。 一例として、病院に立ち寄れば周りの者にも気安く話し掛け、患者に近寄って症状を尋ね、いたわりの言葉を掛けている。「患者は絶えず感涙に咽びた」なる肉声が報じられている。松茸狩りの際の良く取れるヤラセを見抜き、それを質して関係者を慌てさせている。武術観戦の際に、単に観戦するだけでは物足りず自分も試すなどしている。これらを奇行と解すより「愛すべき稚戯」と受け取るべきではなかろうか。 ブドウ園を突然訪問した際に、「ブドウ酒はアメリカにもあるか」、「如何にして醸造するや」、「日本人が己れ一箇の資力にしてこれだけの事業を成せしは感心の至り成り」との御言葉を遺している。「英語の教授は不完全と思うがいかがか」と質疑し、知事が「洋人を雇い置きますれば完全致しまするなれど」と答えたのに対し、すかさず「それなら雇えば良いではないか」なる遣り取りが伝えられている。 皇太子は自主的な意表の行動に出ることが多く、その分自由に振舞う姿があった。人力車に乗ると、「(お定まりのコースに構わず)車夫に命じて意のまま進ませた」ので周囲は大狼狽したことが伝えられている。新潟滞在の際には、深夜に供の者が寝静まったのをみはらかってそっと抜け出し、付近の白山公園散歩に出ている。警備の者が必死になって捜索し、ようやく見つけて近寄ると、皇太子は平然と「なにこっそり出たのだから心配には及ばぬ」と話されている。こうしたことが何回かあるも知事や警部長の責任問題は発生させていない。 1903(明治36)年、6月、有栖川宮が東宮輔導を辞任し後任として斎藤桃太郎が取り仕切るようになって以降、有栖川宮時代の自由さが失われ、天皇行幸に準じた規制が再び敷かれるようになる。予定コースが外れないようにスケジュールが厳格になり、鉄道は全行程にわたって特別仕立ての御召列車となり、ホームでは入場者が厳しく制限された。沿線や沿道での最敬礼の仕方も細かく定められるようになった。この頃から巡啓に地方視察の意味が付与されるようになり軍事演習見学が加わるようになる。 但し、皇太子の気さくな発言は相変わらず続いている。松山の城山では知事や旅団長に「かの山は何と云うぞ」、「かの地はいかなる歴史を有するぞ」、「余が通行せしはいずれぞ」、「この山の眺望はすこぶる余が意にかなえり。今回の行啓、余は未だこれほどの景色に接せず」との言葉を遺されている。道後温泉では、「この菓子はこの地の名物なりや」等々の御言葉を遺している。 1907(明治40)5〜6月、鳥取、島根を回っている。天皇の名代としての初の公式地方旅行となったが、京都から島根へ入り出雲大社を参拝している。その後、予定外であったが皇太子の強い意向で軍艦鹿島で浜田から隠岐へ向かい、後醍醐天皇の行宮の跡を見て回られている。この時のことかどうか分からぬが、概要「皇太子は御召列車に乗っても、名所旧跡等につきその由来を御諮問あり、先から先へとお尋ねとなるより、時としては知事が拝答に困らしめるも少なからず」とある。 もうこれぐらいの確認にしておこう。明治天皇や昭和天皇とはひと味もふた味も違う、規制とか束縛を極力控え、気さくに国民の中に入って行って皇室と国民の絆を深める人間み溢れる天皇像が浮かび上がってこよう。補言しておけば平成天皇ご夫妻もこの大正天皇ご夫妻に近いのではなかろうか。 |
れんだいこのカンテラ時評bP266 投稿者:れんだいこ 投稿日:2015年 7月30日 |
【大正天皇実録考その9】 ここで、 日韓皇太子友誼考をしておく。その前提として当時の日韓史を素描しておく。(略) 1907.7.20日、韓国統監・伊藤は、純宗即位を機に高宗の第7男子にして10歳の李垠(イ・ウン)を皇太子にさせた。伊藤は、日韓親和を図るため嘉仁皇太子の韓国行啓を発案した。明治天皇は、韓国内の反日義兵運動による治安悪化を理由に難色を示したが、伊藤が説得に努めた結果、既に東宮輔導を辞任していたが皇太子の全幅の信頼を得ている有栖川宮の同伴を条件に承諾を与えた。 1907(明治40)年、27歳の時、10.10日、嘉仁皇太子は.6度目の巡啓にして初の外遊となる韓国行啓に向かった。韓国行啓には桂太郎、東郷平八郎ら陸・海軍大将らが随行し、広島宇品港で戦艦「香取」に乗艦、10.16日、韓国仁川に上陸した。仁川では伊藤、純宗、李垠らが出迎え、お召し列車で京城の南大門(現在のソウル)に到着した。当時、発行されていた日本語新聞「朝鮮新報」が、嘉仁皇太子が陸軍少佐の軍服姿で起立し、脱いだ帽子をテーブルの上に置いた肖像写真を二段抜きで掲載している。これが新聞紙上に皇太子写真が掲載された初事例となる。以降、韓国での掲載が先例となって日本国内でも皇太子の肖像写真が公開されるようになった。 皇太子は17日−19日までソウルに滞在した。10.19日、皇太子が昌徳宮内の秘苑を訪れ、韓国皇帝(高宗に代わって即位した純宗)皇太子・李垠(イ・ウン)と会見している。皇太子が有栖川宮のカメラを李垠に見せ、レンズを日本関係者らに向けながら、「ここより覗き見られよ。彼ら皆な逆さまになりて並べるが見ゆるに」と声を掛け、笑みながら李垠にカメラを覗かせている。二人は忽ち兄弟のように打ち解け、4日間の滞在中、李垠(イ・ウン)が終始接伴するという良好な関係をつくった。 F.R.ディキンソン著「一躍五洲を雄飛す 大正天皇」の「東宮韓皇と御対顔」が嘉仁皇太子の皇室外交としての韓国巡啓を次のように激賞している。
10.20日、南大門からお召し列車で仁川に向かい軍艦香取に乗船。10.21日、慶尚南道の鎮海湾に寄港し湾内を巡覧し韓国行啓を終了している。その帰路、南九州・佐世保に上陸。長崎、鹿児島、宮崎、大分。11.9日、大分から高知の須崎に上陸して高知へ、須崎から横浜へ、35日ぶりに帰京している。 1907年、12月、11歳の李垠(イ・ウン)が伊藤博文公に伴われ来日、鳥居坂御用邸(麻布六本木)で人質生活をし始める。これを伊藤博文らが扶育する。皇太子は韓国語の学習を始めている。武田勝蔵の回想によれば、「度々韓太子に会ふから少し朝鮮語を稽古して見たいが何か本はあるまいか。あれば侍従まで届けて貰い度い」と述べ、李垠に会うたびに「今日の話しの文句を朝鮮朝鮮語のハングル文字で書いて、それに発音を附けて訳文と共に差し出すように」と翻訳官に命じていたことが伝えられている。また、李垠と一緒にビリヤードをしたり、誕生日のお祝いを贈ったりしている。 明治天皇や昭憲皇太后は文具や書棚、玩具などを贈っている。明治天皇は活動写真機やクリケット用具なども与えられたとのことである。北白川宮成久、久邇宮鳩彦、久邇宮稔彦らが日本語学習を援助し、鴨猟にも同行している。要するに李垠(イ・ウン)を皇室の一員として迎え育てたことになる。 これより何をどう窺がうべきだろうか。少なくとも、明治天皇、昭憲皇太后、嘉仁皇太子を始めとする当時の宮中が、韓国皇太子に対し属国属民視する横柄な態度を執らず後々まで続く親交を結んでいることが垣間見えるであろう。嘉仁皇太子は格別なほどに彼の兄たり父たりならんとしていたように思える慈愛を見せている。 これをどう評するべきか。れんだいこに見えてくるものは、政治は日主韓従を強めつつあったが、宮中は宮中の論理で日韓皇室外交の型を保持していた史実である。その主役が嘉仁皇太子であった。その嘉仁皇太子が目指す政治が古代出雲王朝御代の大国主の命政治であった。大国主の命政治であれば日韓友好親善は当たり前に見える。逆は逆である。 |
れんだいこのカンテラ時評bP267 投稿者:れんだいこ 投稿日:2015年 8月 1日 |
【大正天皇実録考その10】 嘉仁皇太子の巡啓はその後も続く。1908(明治41)年、7度目の巡啓として4月*日より15日間、山口、徳島方面行啓。8度目の巡啓として9月から約1ヶ月間、東北各地を行啓している。この時の様子として次のような逸話がある。
この「1分間停車」が功を奏し、東宮殿下(大正天皇)のこのお言葉によって、あわや難工事過ぎて挫折かと思われた工事が見放されることなく遂行されることになった。次のように記されている。
1909(明治42)年、9度目の巡啓として9月から約1ヶ月かけて岐阜、北陸を巡啓。10月、韓国皇太子と数回の交流が認められる。 10.26日、伊藤博文が暗殺されている。伊藤は、満州・朝鮮問題についてロシア蔵相ウラジーミル・ココツェフ(ココフツォフ)と非公式に話し合うためハルビン駅を訪れた際、朝鮮民族主義活動家の安重根(アンジュングン)に射殺された(享年69歳)。ロシア官憲が安重根、禹徳淳、曹道先、劉東夏を拘束し身柄を日本政府に渡した。日本政府は関東都督府地方法院で裁判に付し、翌2.14日、安を死刑、禹を懲役2年、曹及び劉を懲役1年6か月に処する判決を下している。 伊藤暗殺が朝鮮民族主義活動家の犯行なのか国際ユダ屋による謀殺なのかにつき解明されていない。 11月、嘉仁皇太子が陸海軍中将に昇進するとともに参謀本部付きとなる。これにより毎年4月に全国各地で行われる参謀本部参謀旅行演習の見学が半ば義務づけけられることになった。 1910(明治43).31歳の時、1.9日、国技館に行啓、相撲を御覧。5月、毎週火・金曜日に参謀本部へ通う生活が始まる。皇太子はこの時軍事研究を講学されるが、東宮武官・千坂智次郎は次のように証言している。「陸海軍の御用掛等が進講する軍事上のこと等は、恐れながら豪も御会得あらせらるるの実を見る事を得ざる」。10度目の巡啓として9月から約*日間、三重、愛知方面行啓。この頃、軍事行啓相次ぐ。 1911(明治44).32歳の時、11度目の巡啓として8月から約1ヶ月かけて北海道を行啓。この巡啓で沖縄を除く日本全国をくまなく歴訪されたことになる。 9.17日、皇太子が北海道行啓から帰ると、原敬が東宮御所を訪問している。北海道行啓の最中の8.25日に第二次桂太郎内閣が総辞職して、8.30日に第二次西園寺内閣が組閣され、原は内務大臣に返り咲いている。原は日記に次のように記している。
原氏は著書「大正天皇」の中で、「皇太子は、気心の知れた原に思わず本音を漏らしてしまい、あわてて何度も『このことは秘し置きくれよ』と念を押したように思われる」と解している。この下りを重視するとして、それでは、この時の皇太子の漏らした本音とは何であったのだろう。ここが肝心である。 れんだいこが思うに、陸軍大演習を廻って論じているが、その際に強烈な軍部批判並びに軍事色を強めつつあった日本の存り姿に対しての困惑を吐露していたのではなかったか。大正天皇論を正しく述べるとするならば、ここがキモにならざるを得ないのだけれども。 |
れんだいこのカンテラ時評bP268 投稿者:れんだいこ 投稿日:2015年 8月 2日 |
【大正天皇実録考その11】 1911(明治44)年、32歳の時、10月、嘉仁皇太子は戦艦「富士」に坐乗し、豊後水道南方海面での第1第2艦隊の演習を視察する。11月、先帝陵参拝と第4・第16師団対抗演習を目的とする京都、大坂、兵庫巡啓に出向いている。皇太子が次第に軍部御用に狩り出されていることが分かる。しかして皇太子がそういう日本づくりに異論を持っていたのは見てきた通りである。 この時の11.20日、学習院時代の旧友・桜井忠胤(ただたね)邸を予告なく訪れ、恐懼する桜井に「今度は軍人となって来たのだから恐縮だの恐れ多いだのは止めにしてくれ。そう慇懃では困る」と云い、昔語りしている。その後、「桜井、演習は9時からだからその間又遊びに来た」と再度来訪し、邸内を勝手に歩きながら、「桜井、今日は恐縮だなどは一切止せよ。お前は学校に居る時、俺と鬼ごっこの相手ではないか。今はここに住んで何をしているか。大層色が黒くなったではないか。子供は幾人あるか」などと語った挙句、「どうも騒がしたなぁ桜井、又来るよ」と言い残して立ち去っている。 この時、時計の針は既に9時を廻ろうとしており演習遅刻は免れない。嘉仁皇太子にとって、学習院時代の旧友訪問が窮屈な業務日程の中でのほんの一瞬の息抜き時間であったとすれば、如何なる思いで軍事演習精勤を余儀なくされていたのか胸中察するに余りある。 1912(明治45)、33歳の時、1.1日、南京に中華民国臨時政府樹立。孫文が臨時大総統に就任し建国を宣言する。2.12日、清朝の宣統帝(愛親覚羅溥儀)が退位し清朝が滅亡する。ようやく眠れる獅子たる中国の覚醒が始まり紆余曲折の末に毛沢東指導の中共政権に達するまで定向進化する。この流れに日本がどう関わり関わらないのか、単に日帝侵略論では解明できない歴史の流れを見て取ることができるが本稿のテーマではないので問わない。 3.27日、12度目の巡啓としての山梨行啓。13度目の巡啓としての4.22日より滋賀県と三重県方面を行啓。参謀本部旅行演習の見学に出かけている。この時、演習の合間に蕎麦屋に入ったところを地元新聞に報ぜられている。4.14日、 豪華客船タイタニック号が氷山に激突して翌日沈没。5.8日、皇太子は、東宮御所に参上した原敬に対し、「行啓に際し新聞紙に種々のことを登載されて困る」旨漏らしている。5.17日、大隈重信邸並に早稲田大学に行啓。渋沢栄一が大学基金管理委員長として大隈邸に於て拝謁している。関係者が大隈邸で晩餐の饗を受けている。 これが嘉仁皇太子が大正天皇として即位する前のご様子である。これほど多忙な巡啓ぶり、これをそつなくこなすどころか大人気であったことをみれば、皇太子をして「幼少より生来の病弱説、粗脳説、脳障害説」を云う者はよほど云う者の方が粗脳であろう。普通に考えて丈夫でなければ勤まる筈がないではないか。 連中は、虚説であるのが自明だろうに、その虚説に拘っている。仮に皇太子時代は置いといて大正天皇の御代になると症状が事実だったとして、そうであれば天皇としての強度ストレスにより発症したものとみなすべきではなかろうか。通説は大正天皇押し込めを正当化させるためのトリック理論に過ぎない。 ところで、「幼少より生来の病弱説、粗脳説、脳障害説」を説く輩は不思議と第二次世界大戦論を正義の連合国派と不正義の枢軸国派の戦争だったとする論、ユダヤ人数百万人犠牲ホロコースト論、田中角栄諸悪の元凶論とほぼ百%の確率で同衾している。こうなると、連中は、国際ユダ屋メーソン仕立ての政治テキストの請け売りをしているに過ぎないと云うことになる。メーソンテキストを鵜呑みにしかできない粗脳連中が、そう唱えることが処世法上有利と風向きを読み曲学阿世しているに過ぎない。かく構図を据えるべきではなかろうか。 こう理解することで一つの不思議が解けた。即ち定年まで何十年にもわたって学問をして来た者が少しも学者らしくない風貌にお目にかかることがあるが、どうもオカシイ。それはメーソンテキストの口パクをしているだけだから脳が働かず、結果的に却って貧相に陥った故ではなかろうか。その代表的例は原発大丈夫派のヒゲヅラ族である。アメリカにおんぶに抱っこ論を唱える幼稚顔の政治学者もそうである。本来は稽古ごと全般と同じで精進すればしただけ時間を掛ければ掛けただけ重厚になり、その苦みばしった風情と共に腕上がりしなければオカシイ。 |
れんだいこのカンテラ時評bP269 投稿者:れんだいこ 投稿日:2015年 8月 3日 |
【大正天皇実録考その12】 1912(明治45)年、33歳の時、7.18日、明治天皇重体。7.24日、皇太子がお見舞いに参内。7.28日、桂太郎ら訪欧使節団が天皇危篤の報を受け急遽ペテルブルグから帰国に向かう。 7.29日、明治天皇崩御(享年59歳)。 7.30日、皇室典範第10条「天皇崩する時は皇嗣即ち践祚(せんそ)し祖宗の神器を承く」に従い、嘉仁皇太子が34歳で践祚即位、123代皇位に就かれた(これにより以下、皇太子改め大正天皇ないし単に天皇と記す)。裕仁親王が皇太子となった。 その夜、「御政事向きのことにつき十分に申し上げ置くこと必要なり」として、首相・西園寺公望、山県有朋が大正天皇を訪問。まず西園寺が「十分に苦言を申し上げた」のに対して「十分注意すべし」と返答している。山県は「僅かに数言申し上げたるのみ」であった。両者には緊張関係が介在していた。皇太子時代の「山県有朋嫌い」は天皇時代にも続き、大正天皇は最終的に山県派によって押し込められることになる。この緊張関係の裏事情を紐解かねば政治論が深まらない。 翌7.31日、朝見の儀が執り行われた。政府関係者の居並ぶ中、天皇皇后がお出ましになり、天皇が「朕今万世一系の帝位を践(ふ)み、統治の大権を継承す。祖宗の皇ぼに遵(したが)い憲法の条章に由り、これが行使を誤ることなく、以って先帝の遺業を失墜せざらんことを期す」と勅語を朗読。 大正と改元された。改元の詔書として次のように宣べられている。 「朕(ちん)、菲徳(ひとく)を以て大統を承(う)け、祖宗の霊に詰(つ)げて万機の政(まつりごと)を行ふ。茲(ここ)に先帝の定制に遵(したが)ひ、明治四十五年七月三十日以後を改めて大正元年となす。主者(しゅしゃ)施行せよ」。 大正とは、公式には発表されていないが、五経の一つである易経の「大享以正、天之道也」、春秋公羊伝の「君子大居正」を出典としている。大正天皇実録によれば大正のほかに天興、興化の候補があり、枢密顧問が審議した結果、易経の「大享以正、天之道也」に由来して大正が選ばれたことが判明した。天皇の在位期間である1912.7.30から1926.12.25までの15年間が大正時代となる。 8.11日、桂太郎ら帰国。 8.13日、大正天皇は、明治天皇の遺業を継ぐにあたっての勅語を元老5名(山県、大山、桂、松方、後に西園寺)に対し下す。桂太郎が内大臣兼侍従長に任命される。この年の12.5日、西園寺公望(きんもち)が元老に加わり「最後の元老」となる。 9.4日、天長節(天皇誕生日)だった11.3日を「明治天皇祭」と改める。 9.13日、明治天皇の御大葬が青山葬場殿で執り行われ、翌日、伏見桃山陵に奉葬する。(「明治天皇の「大喪の儀」」)。この日の午後8時頃、乃木希典&静子陸軍大将夫妻が殉死している。大正天皇は追悼する漢詩を3首詠まれている。「懐乃木希典」と題された漢詩は次の通りである。「平生忠勇養精神 旅順攻城不惜身 颯爽英姿全晩節 淋漓遺墨々痕新」。堂々たる歌いっぷりであり、大正天皇の漢詩造詣が深かったことが判明する。 天皇は践祚以来、午前6時起床、8時半に大元帥の軍服を着用して表御所に出御、正午まで執務する身となった。生活が激変し皇太子時代のように自由闊達な行動がとれなくなった。その程度のことであれば甘受できる窮屈だったであろうが、甘受できないものが立ち塞がった。それは、政治路線の鋭角的な対立であり、その前途多難さから来る消耗であった。大正天皇が、出雲王朝御代の善政を手本とする施策を講じようとするたび、元老・山県を筆頭とする国際ユダ屋派が「何かにつけ先帝を云々」する日々が続くことになった。 天皇派は国内的には殖産興業、対外的には諸国親和を目指し、国際紛争解決手段としての武力、戦争による道は採ろうとしなかった。しかしながら時代は、日本の帝国主義国化、国際紛争解決手段として武力、戦争による解決の道に進みつつあった。何のことはない、2015年の今、我々に突きつけられている情況となんら変わらない。 これに棹差そうとした大正天皇が如何なる茨の道を余儀なくされ、理不尽に押し込められるのか。これが大正天皇史となる。その大正天皇史は大正時代史の中に記そうと思う。その大正時代史を理解する為の前提として必要になる嘉仁皇太子論をここに記したつもりである。お役に立てば良いのだけれども。(このシリーズは本稿で一応の完結とする) |
大正天皇の変わり様について秩父宮は次のように記している。
大正天皇の体調や病状に関する詳しい記述も公開された。大正7年8月、38歳の時、静養で日光の御用邸に滞在した際には、「一昨年頃から発語障害や歩行困難などの異状があり、それが治らないため滞在中はほとんど遠出をしなかった」という内容の記述がある。大正天皇は、その後病状が悪化し、大正10年に摂政を立てて事実上引退する。 大正天皇は、即位後、多忙な日々を送る中で心労が重なって体調を崩したと当時の宮内省が発表していたが、今回公開された記述からはその一端がうかがえる。「大正4年1月3日」の動静は、日付以外すべてが黒塗りにされ内容が伏せられていたが、元老の山県有朋の拝謁を受けたあと、晩餐をともにしていたことが判明した。長州出身で陸軍元帥の山県は、当時、元老の筆頭格として枢密院議長を務めていて、政治や軍事などで事実上、最高決定権を持つ立場にいた。 軍事にあまり興味がなかったとされる大正天皇は、山県と疎遠だったと考えられていたが、実録では「以後こういうことがしばしばあった」と記され、即位後、頻繁に会っていたことが判明した。同年4月30日、海軍の幹部から第1次世界大戦の情勢について説明を受けていたことが判明した。掲載されている一覧表には、その後、大正天皇が軍の幹部将校から聞いた軍事に関する説明の数々が列記されていた。 大正4年に行われた即位の儀式の記述では、皇祖神の天照大神に即位したことを告げる御告文を読む場面で、1か所だけ6文字分の黒塗りがあった。今回解除されて出てきたのは、「玉音高らかに」と単に読み上げる様子を描写しただけの言葉であった。従来、論議されていた下りだけに「肩すかし」となった。 今回の公開で、大正天皇晩年の病状の様子や面会者の氏名などが新たに公開された。「大正天皇晩年の病状の様子」の記述は全文開示され次のように判明した。崩御の1年前、「(1925(大正14)年12月)十九日、■■■脳貧血ニテ■■■御恢復(ごかいふく)アリ」。この黒塗り文が次のように開示された。「十九日午後四時四十分 突然脳貧血ニテ 一時人事不省ニ陥ラセラレシモ 漸次御恢復アリ」。これによると、「十九日午後四時四十分」に「突然」、「脳貧血ニテ一時人事不省ニ陥ラセラレシ」重篤な状態になったことが判明した。当時の発表では軽症の脳貧血だったとされているが、今回黒塗りが解除されたことで、実録では「一時人事不省」に陥り、3か月あまり寝たきりの状態になるほどの重症だったことが判明した。 続いて、逝去する1926(大正15)年の5月11日午前2時40分、その4カ月後の9月11日午前11時25分にも、「突然」、同様の症状が起きていた。特に5月は、「約四十分間ヲ過ギテ醒覚アラセラル」とあり、長時間、意識がなかったことが分かった。 今回の情報公開により新たに判明したことは、「(大正10)年、病弱を理由に後の昭和天皇を摂政として蟄居後の大正天皇に対する元老の山県有朋ら政府要人らの頻繁な面会の様子」である。穏健派は「公務多忙」と読むが、そういう「読み」に我慢できない者もいよう。なぜなら、そういう「読み」では、これまで秘せられていたことの意味が分からなくなる。秘せられていたのは秘せられる値する事情があったからであり、それはズバリ「毒殺疑惑」こ繋がる。しかも、その犯人が「元老の山県有朋ら政府要人」とのことである。何と重大情報だろうか。秘せられてきたことには十分な事情があったことになる。「元老の山県有朋ら政府要人」とは恐らく「例の長州勢」であり、確か幕末動乱時の徳川将軍家茂、孝明天皇、明治天皇暗殺にも関わっている。 **年、大正天皇は47歳で崩御し、在位は14年余りと短期間に終わった。これに大正天皇の病状と「元老の山県有朋ら政府要人」と「毒殺」がどう絡むのか絡まないのかが問われている。 |
(私論.私見)