大正天皇の足跡履歴その3 |
更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5).8.27日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「大正天皇の足跡履歴その3」を確認しておく。書籍として、原武史「大正天皇 (朝日選書)」(朝日選書、2000.11初版)、フレドリック・R. ディキンソンの「大正天皇―一躍五大洲を雄飛す 」(ミネルヴァ日本評伝選、200.9初版)その他を参照する。ネット文として、「大正天皇の御生涯」、「追悼録(91)」、「大正天皇のお話(1) 」、「大正天皇のお話(2) 」、「大正天皇のお話(3) 」その他を参照する。 2007.11.1日 れんだいこ拝 |
【最初の巡啓/明治33.5.23日から10日間/三重、奈良、京都方面】 |
5.23日-6.2日、10日間、皇太子ご夫妻は、伊勢神宮・神武天皇陵などに結婚奉告のため三重、奈良、京都を10日間初巡啓している。伊勢神宮、神武天皇陵、京都・泉湧寺等を参拝後に、京都帝国大学や第三高等学校を訪問し、学生の授業や運動を見学している。 他にも、京都帝大付属病院に立ち寄り、外科病棟にいた14歳と22歳の患者に近寄って症状を尋ねいたわりの言葉をかけ、周りのものにも気安く話し掛け、「患者は絶えず感涙に咽びた」なる肉声が新聞に報じられたりしている。。明治天皇の行幸・巡幸では全くありえなかったことで、驚きを持って迎えられている。 この巡啓を企画推進したのは、東宮補導・有栖川宮であった。「少数の東宮職関係者と相対するだけの狭く堅苦しい空間から皇太子を解き放ち、一般の人々が暮らしている世間に触れさせる」との考えに基づいていた。原氏は、有栖川宮が皇太子の巡啓を思いついた背景として、1891年にロシア皇太子のニコライ(1868~1918)が、日本巡遊した時の経験に拠るとして以下の如くに推測している。この時有栖川宮は接判委員長として長崎に入港したニコライ一行を出迎えており、行動を共にし、一行が各地の人々や風俗に接して和合する姿を目の当たりにしている。この巡遊は不幸なことに大津事件で中止となったものの、有栖川宮にとって得がたい経験となった。この時の教訓を皇太子の巡啓に生かそうとしていた節がある。 もう一つ、皇太子の巡啓は、間天皇をアピールした戦後の昭和天皇の巡幸の先取りとなったという点でも意義が高い。なお、明治30年代より明治天皇の健康が優れなくなり、巡幸が控えめに成ったのと対照的に皇太子の巡啓が盛んとなっているという時代の流れも見ておかねばならない。これらの巡啓を通じて、各地のインフラ整備が進んだことも銘記されるへきであろう。 |
【御新婚生活の様子、女官制度のしきたりを排す】 | |||
伊勢神宮と京都御所などに巡啓し、東京へ帰られたお二人は、赤坂の東宮御所で新生活を始められた。皇太子夫妻の新婚生活は順調に始まった。特徴的なことは、節子妃は伝統的な女官制度のしきたりを打ち破り、妃自身が皇太子の身の回りの世話を行った。このことが皇太子の健康にプラスの効果をもたらした。ちなみに、一夫一妻制は大正天皇を嚆矢とする。 F.R.ディキンソン著「一躍五洲を雄飛す 大正天皇」によれば、三浦「大正天皇」は次のように記している。
同じくF.R.ディキンソン著「一躍五洲を雄飛す 大正天皇」によれば、本多「大正天皇を偲びまつりて」は次のように記している。
原氏は次のように述べている。
つまり、嘉仁皇太子は、結婚後一気に健康回復していく様子を見せており、これを確認する事は、後の「病弱を理由とする大正天皇押し込め騒動」が虚構の演出であったことを明白にする点で貴重である。 |
【嘉仁皇太子の巡啓史】 |
先の新婚巡啓が円滑に取り運んだことに気をよくしてか、明治天皇の了承を得て地方巡啓が本格化する。次第にぶりがつき、仕舞いには引く手あまたとなり、日本列島中を沖縄を除いて縦横無尽の巡啓となる。 嘉仁皇太子は結婚を機に地方巡啓し始める。都合十数度に及び、沖縄を除く日本列島を隈なく足繁く訪問している。以下、その概略を確認しておく。これの詳細は「大正天皇の足跡履歴」に記す。 1度目の巡啓/三重、奈良、京都方面/明治33.5.23日から10日間 2度目の巡啓/北九州一円方面/明治33.10.4日から50日間 3度目の巡啓/北関東、信越方面/明治35.5.20日から18日間 4度目の巡啓/和歌山、瀬戸内海方面/明治36.10.6日から24日間 5度目の巡啓/鳥取、島根方面/明治40.5月から*日間 6度目の巡啓/韓国、南九州、高知方面/明治40.10.10日から35日間 7度目の巡啓/山口、徳島方面/明治41.4月から15日間 8度目の巡啓/東北方面/明治41.9月から約1ヶ月間 9度目の巡啓/岐阜、北陸方面/明治42.9月から約1ヶ月間 10度目の巡啓/三重、愛知方面/明治43.9月から約*日間 11度目の巡啓/北海道方面/明治44.8月から約1ヶ月間 12度目の巡啓/山梨方面/明治45.3.27日から約*日間 13度目の巡啓/滋賀、三重方面/明治45.4.22日から約*日間 結局、皇太子時代の12年間に主要な行啓を12回行っている。ほぼ1、2年に1回のペースで、しかも1、2ヶ月に及ぶ長期のものもあった。この他軍事行啓や国技館行啓、早稲田大学行啓等の特定行啓をこなしている。体調を崩して寝込むことはなかった。これらの嘉仁皇太子の巡啓史そのものが大正天皇病弱論を打ち破るであろう。それは、嘉仁皇太子の歌人能力そのものが大正天皇粗脳論を打ち破るのと同じである。それにしても誰が何の魂胆で悪罵し続けているのだろう。 皇太子時代から巡啓に同行するなど近しい立場にあった原敬は、のちに語られる「大正天皇像」とは大きく異なる「気さく」で「人間味あふれる」、「時にしっかりとした」人物像を原敬日記に記している。 |
【2度目の巡啓/北九州一円方面/明治33.10.4日から50日間】 |
1900(明治33).10.4日-12.3日、約50日間。北九州一円を廻る二度目の行啓に出向いている。10.4日、東京・新橋を大垣行きの普通列車で出発、九州巡啓に旅立つ。東京・新橋を大垣行きの普通列車で出発。地理・歴史学習のための「微行」という趣旨であった。10.14日、門司に上陸し北九州巡啓。小倉、八幡の官営製鉄所、熊本、大牟田、三池炭鉱、佐賀、佐世保、長崎、福岡などで、歩兵連隊や演習などを見学し、学校をご覧になられている。市内を人力車で回られている。舞子で体調を崩し、岡山、香川、愛媛は中止され、12.3日、還幸している。50日間のハードスケジュールだったが、嘉仁皇太子は壮健に日程を消化している。この時の旅行は「西順日記」と題する日記に記録されているが、「しっかりした文体」との評を得ている。 皇太子巡啓の特徴的なことは、概要「大掛かりな奏送迎は不要、過度の歓迎を控えるよう、通御の道筋も通行の妨げにならない限り通常の通行を制止するに及ばない」と通達していたことにある。且つ、巡啓日程が容易に変更され、滞在が延びたところもあれば予定変更で立ち寄らなかったところもあるという按配であった。軍服と平服を適宜取り替えつつ巡啓が続き、軍隊司令部、名所旧跡の他に八幡官営製鉄所や三池炭鉱、三菱造船所等々殖産興業的産業施設への立ち寄りが為されているのもユニークであった。「思ったことをすぐに行動に移したり口にしたがる」、「万事に開放的な性格」が伝わっている。 傑作は、10.22日の熊本での生徒の寒中水泳を見て、寒中水泳の意図が分からなかったと見え、「彼らはさぞ寒かるべし」と漏らしたことにより、途中で中止されている。10.28日の福岡の香椎宮(かしいぐう)境内での松茸狩の際に、知事との間に次のような「松茸(まったけ)問答」をしている。知事「松茸狩に御供仕る」。 皇太子「その松茸は植え置きしものにあらざるか」。 知事「恐れながら御試験下させ給わりたし」。皇太子「松茸の試験か」。 こう語った後「微カに笑わせ給う」と書かれている。あまりに取れるので「殊更に植えしにはあらずや」とヤラセを見抜き、関係者を慌てさせている。原氏は、「大正天皇実録に、これほど生き生きした記述があっただろうか。皇太子の微笑が見えてくるようだ」と語っている。その日の夕方、武術試合を見て興に入り、自分もしてみたいと木刀を借り、供の者相手に数回木刀を振り回した。しかし、これらは奇行と解すより「愛すべき稚戯」ではなかろうか。福岡の筥崎宮(はこざきぐう)では、質問がなかなか尽きず、「問ハセラルル処アリ、遂ニ御予定ヲ遅ラスコト約五十分ニ及ブ」とある。 |
【第一皇子・迪宮裕仁(みちのみやひろひと)親王(後の昭和天皇)誕生】 |
結婚後翌年、迪宮(みちのみや)裕仁(ひろひと)が誕生、続いてやす仁(秩父宮)、宣仁(のぶひと)(高松宮)をもうけている。これを少し詳しく見ると次のようになる。 |
1901(明治34、22歳).4.29日、第1皇子迪宮裕仁(みちのみやひろひと)親王(後の昭和天皇)が誕生。明治天皇の第一皇孫となった。 裕仁は宮中の古くからのしきたりより里子にだされることになった。白羽の矢が立ったのは、枢密顧問官の川村純義だった。川村は旧薩摩藩の出身の参議、海軍卿、宮中顧問官などを歴任し、高潔な人格として世に知られ、明治天皇の信頼も厚かった。里親が民間から選ばれるのは異例であったが、教育上の配慮として英断されたものと思われる。里親に軍人が選ばれたのも、将来の大元帥としての教育的配慮であったものと思われる。「お前の孫だと思って、万事遠慮なく育てて欲しい」との皇太子嘉仁の言葉が賜れている。 こうして、裕仁は生後70日目(明治34年)で海軍大将川村純義伯爵へ預けられて養育された(明治37年秋まで)。川村大将は次のような養育方針を立てられた。1、心身の健康を第一とすること。2、天性を曲げぬこと。3、ものに恐れず、人を尊ぶ性格を養うこと。4、難事に耐える習慣をつけること。5、わがまま気ままのくせをつけないこと(甘露寺受長著「天皇さま」より)。 |
1901年9月18日、「御乗馬ニテ近傍御逍遥(しょうよう)ノコト度アリ」との記述がある。 |
【ベルツの日記によるこの頃の皇太子の様子】 | ||
1901(明治34)、22歳の時、ベルツの日記は次のように記している。
皇太子の巡幸は万事首尾よく進み、さらに大掛かりなものが企図とされていくことになった。巡啓中は学事が停滞することもあって東宮職は反対したが、東宮輔導・有栖川宮威仁親王が、歴史・地理の実地見学という大義名分を押し立てて明治天皇の承認を受け、実現していくことになった。嘉仁親王は、皇太子時代の12年間に主要な行啓を9回行っている。ほぼ、1、2年に1回のペースで、しかも1、2ヶ月に及ぶ長期のものもあった。この他軍事行啓もこなしている。が、体調を崩して寝込むことはなかった。 |
【有栖川宮が東宮内の権限拡大】 |
11.29日、有栖川宮威仁親王が、海軍軍令部出仕兼海軍将官会議議員の要職を解かれ、東宮補導専任となっている。同時に、東宮大夫の中山孝麿が更迭され、後任に宮内省内事課長・有栖川宮別当・斎藤桃太郎が就任している。これは、有栖川宮の権限拡大の動きと読める。 有栖川宮は、自邸に大山巌、土方久元両東宮顧問、田中光顕宮内大臣、斎藤桃太郎東宮大夫らを集めて、定期的に補導顧問会議を開くようになる。 |
【第ニ皇子・淳宮やす仁(あつのみややすひと)親王(後の秩父宮)誕生】 | |
1902(明治35)年6.25日、皇太子明宮嘉仁(よしひと)親王(後の大正天皇)の第ニ皇子として、淳宮(あつのみや)やす仁(やすひと)親王(後の秩父宮)が誕生。秩父宮も川村の元で養育されることになった。 迪宮(みちのみや)裕仁(ひろひと)、淳宮(あつのみや)やす仁(やすひと)親王兄弟の様子が次のように記されている。
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【3度目の巡啓/北関東・信越方面/明治35.5.20日から18日間】 |
1902(明治35、23歳).4月頃、約2ヶ月に渉る信越北関東大巡啓を企画。5.1日、有栖川宮は、東京の自邸に各知事を集め、全部で20カ条からなる訓示を与えている。注目すべきは、概要「行啓先各地において、平常の有様を御目撃ならせたき御趣意なれば、御趣意に背かざるよう、地方官にて厚く注意これありたき事」としていることであろう。「天皇行幸に準じた準備や規制を撤廃し、皇太子が自然に振舞うことのできる素地を作り出そう」として心を砕いてい入る様が見て取れる。これにより、天皇行幸に準じた規制が極力撤廃され、特別仕立てのお召し列車ではなく、一般の人々が乗る普通列車を利用して移動する区間が多くなった。 |
【有栖川宮威仁親王が意見書提出し、東宮輔導を辞任】 | |
1903(明治36、24歳).2.2日、有栖川宮が参内して明治天皇に会い、次のような東宮補導廃止の意見を述べている。
有栖川宮はこの間心身ともに疲れきっており、5.26日、大坂で開かれていた第5回内国勧業博覧会見学に皇太子と同伴したのを最後に休養に入る。 1903(明治36、24歳).6.22日に、皇太子から厚く信頼されていた有栖川宮威仁親王が、東宮輔導を辞任している。後任として斎藤桃太郎が取り仕切るようになり、有栖川宮は静養のため伊香保、次いで葉山に長期滞在する。 |
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非常に開明的な指導を為してきた有栖川宮に対する陰に陽に圧力が加わり、遂に辞任をもって小正義を貫いた構図が見えてくるように思われる。 |
【4度目の巡啓/和歌山、瀬戸内海方面/明治36.10.6日から24日間】 |
1903(明治36)10.6日、皇太子24歳の時、和歌山紀淡海峡、瀬戸内海方面に向かい、10.10日、香川の高松に到着。10.13日、琴平・金刀比羅宮。10.14日、愛媛・松山、(広島糸崎)、10.17日、岡山・後楽園、10.18日、第六高等学校で行われた各学校連合運動会を見学。この時、生徒は整列し、皇太子の面前で君が代を二度にわたり斉唱している。和気閑谷学校。10.19日、津山。24日間かけて回った。 特徴的なことは、 有栖川宮時代の自由さが失われたことであり、天皇行幸に準じた規制が再び敷かれるようになる。予定コースが外れないようにスケジュールが厳格になり、鉄道は全行程にわたって特別仕立ての御召列車となり、ホームでは入場者が厳しく制限された。沿線や沿道での最敬礼の仕方も細かく定められるようになった。但し、皇太子の気さくな発言は相変わらず続いている。 「旅行の天皇! 大正天皇」で次の逸話が紹介されている。松山の城山では知事や旅団長に「かの山は何というぞ」、「かの地はいかなる歴史を有するぞ」、「余が通行せしはいずれぞ」、「この山の眺望はすこぶる余が意にかなえり。今回の行啓、余は未だこれほどの景色に接せず」、道後温泉では「この菓子はこの地の名物なりや」等々の御言葉が伝えられている。「率直にして探究心の厚い性格」が披瀝されている。 |
【日露戦争】 |
1904(明治37、25歳)に日露戦争が勃発。天皇だけでなく皇太子にも軍事的役割が期待されるようになる。11.3日、皇太子は天皇とともに天長節観兵式に初めて参加している。 |
【第三皇子・光宮宣仁(てるのみやのぶひと)親王(後の高松宮)誕生】 |
1905(明治38、26歳)年1.3日、皇太子明宮嘉仁(よしひと)親王(後の大正天皇)の第三皇子として、光宮宣仁(てるのみやのぶひと)親王(後の高松宮)が誕生。 |
【皇太子の子煩悩振り】 | ||
迪宮裕仁も淳宮やす仁も川村純義邸に里子にだされたが、その河村は1904(明治38).8月に病死する。裕仁、3歳3ヶ月の時だった。川村の子息・鉄太郎は「自分には力がないから」と重責に耐えかねる旨を告げ、養育の継続を断わった。そこで兄弟は川村家を去り、暫く沼津の御用邸で過ごした後、翌年東宮御所に帰ることになった。東宮御所の一画に、皇孫御殿が新築され、ここに住まうことになった。皇孫御養育掛を拝命したのは、宮中顧問官・東宮侍従長の木戸孝正侯爵であった。木戸孝允(たかよし・前明桂小五郎)を養祖父とする信任厚い臣官であった。この皇孫御殿に移ってきてからは両親が近かったので、その情愛に接することができるようになった。11月からは光宮も皇孫御所に移られ、5兄弟3人が共に養育されることになった。 皇太子は子煩悩で、3人の子供達と和気藹々の団欒を楽しんでいる。ベルツは日記は、次のように記している。
9.26日、丸尾錦作、裕仁親王・擁仁親王の御養育係となる。 |
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嘉仁皇太子は水曜と土曜、家族と夕食を共にした。三笠宮はまだ生まれていなかったが「三皇孫殿下」は東宮御所と同じ敷地の皇孫御殿に住み、父の大正天皇と鬼ごっこ、相撲、将棋などに興じて成長した。皇太子は、妃のピアノに合わせて歌うこともあった。従来の宮中の慣習からは考えられない家族生活である。子供達はもっと両親の側にいたかったらしく、高松宮が「身内で一番好きなのは、おたた様のところ」と泣いたとする逸話が遺されている。巡啓先でも我が子達に土産を買い、同じ年頃の子供に話しかけている。これがお人柄であった。 竹田恒泰の「第232回 大正天皇」を一部転載しておく。
「木庵先生の独り言」の「大正天皇と皇子たちとの触れ合い」を転載しておく。
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【本格的な軍事行啓】 |
1905(明治38)年、26歳の時、5.5日、皇太子殿下が靖国神社の臨時大祭に参列。 11月、皇太子が陸海軍少将に進級。天皇と皇太子が相次いで戦勝報告の為に伊勢神宮を参拝している。この時、文部省は、「天皇陛下伊勢神宮へ行幸の際における奉送迎の学校生徒の敬礼の仕方」なる3か条を定めている。これは、学生生徒の敬礼の仕方に関するはじめての統一的な規定であった。 1906(明治39)年、27歳の時、5.4日、皇太子殿下が靖国神社の臨時大祭に参列。10月、名古屋を訪れ、愛知・三重・岐阜三県で行われた陸軍大学校参謀旅行演習を見学。これは、皇太子にとってはじめての本格的な軍事行啓となった。11.2日、横浜根岸競馬場に行啓。3日、稔彦王に東久邇宮の称号を授ける。12.28日、東宮御所竣成。 |
【5度目の巡啓/鳥取、島根方面/明治40.5月から*日間】 | |
日露戦争後は天皇の名代としての公式なスケジュールとなる。この頃から、巡啓に地方視察の意味が付与されるようになり、軍事演習見学が必ず加わるようになる。 1907(明治40)年、28歳の時、5.4日、皇太子殿下、皇太子妃殿下(後の貞明皇后)が靖国神社の臨時大祭に参列。5度目の巡啓として、5~6月、鳥取、島根方面を行啓した。天皇の名代としての初の公式地方旅行となった。京都、大阪、福知山、天の橋立、舞鶴から軍艦鹿島で境港、米子、鳥取、おり返して安来、途中、学校で3泊、濱田から軍艦鹿島で隠岐へ、舞鶴に上陸、帰路につく。詳細は割愛し主だったところを追うと、5.27日、出雲大社参拝。6.4日、隠岐島は予定外であったが皇太子の強い意向で突然立ち寄っている。後醍醐天皇の行宮の跡を見て回られている。 ネット検索で次の文がヒットする。
この時の皇太子の様子として、概要「皇太子は御召列車に乗っても、名所旧跡等につきその由来を御諮問あり、先から先へとお尋ねとなるより時としては知事が拝答に困らしめるも少なからず」とある。相変わらず多弁、質問多発。 特徴的なことは、このたびの巡啓から明治天皇の「御真影」に相当する皇太子の「御写真」が下賜されるようになる。同時に、各地で奉迎行事が大々的に行われている。なお、皇太子の訪問にあわせて鉄道が開業し、電気の点灯、電話、舗装道路など社会資本の整備が進んでいくことになった。「この旅行から、歓迎行事の出し物に大掛かりな郷土芸能を見せることも恒例となった」(「旅行の天皇! 大正天皇」)とある。 6.13日、昭憲皇太后陛下、皇太子殿下(大正天皇)、皇太子妃(貞明皇后)、他に皇族方:有栖川宮威仁親王殿下御開催の能楽 が靖国神社で催される。 |
【伊藤博文が皇太子の韓国行啓を強く求める】 |
1907(明治40)年.8月、伊藤博文が帰国し、天皇に面会して皇太子の韓国行啓を強く求めている。当時の日韓関係は次の通り。1894(明治27)年、日清戦争勃発。翌年、下関条約締結。1897(明治30).10月、李氏朝鮮第26代国王・高宗(コジョン)(1852~1919、在位1897~1907)が大日本帝国、帝政ロシアに対抗するため初代皇帝に即位し、国号を朝鮮国(李氏朝鮮は通称)から大韓帝国と改める。1904(明治37)年、日露戦争。1905年、第二次日韓協約締結。これにより大韓帝国の外交権はほぼ日本に接収されることとなり、事実上の保護国とされている。12月、ソウルに日本政府の出先機関である統監府が置かれ伊藤博文が初代統監に就任する。1907.7月、高宗(コジョン)皇帝が、オランダのハーグで開かれていた万国平和会議に日韓協約の無効を訴える密使を送ろうとして事前に発覚し強制的に譲位させられた。直ちに第三次日韓協約が結ばれ、統監府の権限が一層強められ韓国軍隊の解散が命じられた。高宗に代わって二代皇帝・純宗(スンジュン)(1874~1926、在位1907~1910)が即位したが伊藤に従順であった。 伊藤は、純宗即位を機に、日韓親善を図ろうとし、7.20日、李氏朝鮮第26代国王・初代大韓帝国皇帝高宗の第7男子にして皇太子となった李垠(イ・ウン)(1897.10.20日~1970.5.1日、享年73歳)の日本留学を思い立ち、引き換えに皇太子の韓国行啓を発案した。明治天皇は当初、韓国内の反日義兵運動による治安悪化を理由に難色を示したが、伊藤が説得に努めた結果、既に東宮輔導を辞任していたものの皇太子が全幅の信頼を置いていた有栖川宮の同伴を条件に承諾を与えた。 |
【6度目の巡啓/韓国、南九州、高知方面/明治40.10.10日から35日間】 |
1907(明治40)年、27歳の時、10.10日から11.14日までの間に韓国へ行啓。韓国訪問は、韓国統監・伊藤博文の強い要請によって実現したもので日韓親和の名目で行われた。嘉仁皇太子の初の外遊となる。桂太郎陸軍大将、東郷平八郎海軍大将、有栖川宮、宮内次官の花房義質らが随行し、軍艦「香取」に乗艦、10.13日、広島宇品港を出港。10.16日、韓国仁川に上陸。仁川では伊藤、純宗、李垠らが出迎え、お召し列車で京城の南大門(現在のソウル)に到着した。当時、発行されていた日本語新聞「朝鮮新報」が、嘉仁皇太子が陸軍少佐の軍服姿で起立し、脱いだ帽子をテーブルの上に置いた肖像写真を二段抜きで掲載している。これが新聞紙上に皇太子写真が掲載された初事例となる。以降、韓国での掲載が先例となって日本国内でも皇太子の肖像写真が公開されるようになった。 |
【韓国皇太子・李垠(イ・ウン)が日本に留学】 | ||||||||||||||||||||
1907年、12月、11歳の李垠(イ・ウン)が伊藤博文公に伴われ来日、鳥居坂御用邸(麻布六本木)で生活し始める。これを伊藤博文らが扶育する。皇太子は韓国語の学習を始めている。武田勝蔵の回想によれば、嘉仁皇太子は、翻訳官に対して、「度々韓太子に会ふから少し朝鮮語を稽古して見たいが何か本はあるまいか、あれば侍従まで届けて貰い度い」と漏らしたほか、李垠に会うたびに「けふの話しの文句を朝鮮朝鮮語のハングル文字で書いて、それに発音を附けて訳文と共に差し出すように」と翻訳官に命じていたことが伝えられている。また、李垠と一緒にビリヤードをしたり、誕生日のお祝いを贈ったりしている。明治天皇や昭憲皇太后は文具や書棚、玩具などを贈っている。明治天皇は活動写真機やクリケット用具なども与えられたとのことである。北白川宮成久、久邇宮鳩彦、久邇宮稔彦らが日本語学習を援助し、鴨猟にも同行し、皇室の一員として育てられた。これより窺がうべきは、大正天皇を始めとする当時の宮中が、韓国皇太子に対し属国属民視する横柄な態度を執らず後々まで続く親交を結んだことであろう。特に大正天皇は彼の父親になろうとしたようにも思える慈愛を見せている。大正天皇の人柄が伝わる逸話である。 李垠(イ・ウン)の以後の履歴は次の通り。
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【裕仁(ひろひと)親王が学習院入学、陸軍大将・乃木希典の薫陶受ける】 |
1908(明治41).4.11日、みちの宮(裕仁)は学習院に初等科に入学する。院長は陸軍大将・乃木希典であった。乃木は明治40年1月から学習院院長になっており、明治天皇の「近々孫たち3人(大正天皇のお子さんたち)が学習院で学ぶことになる。その訓育をたくするには乃木が最適と考える」という強い要請で引き受けていた。その期待に応えるべく、皇孫の教育に意を尽くした。4年後、乃木は天皇の後を追って殉死するが、彼の人格的な薫陶が裕仁に与えた影響は軽視できない。後年、裕仁は、自分が尊敬する第一の人物として乃木の名をあげていることからしても推定できる。 1909(明治42).4月、淳宮(秩父宮)も学習院に初等科に入学する。三年後の44年には光宮(高松宮)も入学してくる。こうして3兄弟が揃って皇孫御所から歩いて四谷尾張町の学習院初等科に通学された。 乃木大将が重視した教育方針は「実践躬行」であった。初等科の生徒たちに行った訓辞には次のようなものがある。1、口を結べ、口を開いているような人間は心にもしまりがない。2、けして贅沢するな。贅沢ほど人を馬鹿にするものはない。3、寒いときは暑いと思い、暑いときは寒いと思え。4、恥を知れ。道にはずれたことをして恥を知らない者は禽獣に劣る(渡辺淳一著「静寂の声」―乃木希典夫妻の生涯より)。 |
【巡啓相次ぐ】 | ||
巡啓はその後も続く。7度目の巡啓/山口、徳島方面/明治41.4月から15日間。7度目の巡啓として、1908(明治41)4月に15日間で山口、徳島を巡啓している。 8度目の巡啓/東北方面/明治41.9月から約1ヶ月間。8度目の巡啓として、1908(明治41).9月-10月/約1ヶ月間9~10月で東北各地を巡啓。この時の様子として、次のような逸話がある。
東宮殿下(大正天皇)のこのお言葉によって、あわや難工事すぎて挫折かと思われた工事が見放されることなく遂行されることになった。次のように記されている。
この「1分間停車」は、干拓指導者の人々の宮内庁関係への陳情作戦が功を奏したものであろう。こういう形で政治が機能していたそういう時代の逸話として貴重であるように思われる。 1909(明治42)年、9度目の巡啓として9月から約1ヶ月かけて岐阜、北陸を巡啓。 |
【伊藤博文暗殺される】 |
1909(明治42)年、10.26日、伊藤博文が、ロシア蔵相ウラジーミル・ココツェフ(ココフツォフ)と満州・朝鮮問題について非公式に話し合うため訪れたハルビン駅で、朝鮮民族主義活動家の安重根に暗殺された(享年69歳)。暗殺の報道は暗号電報を受けた五十嵐秀助電信技師が、全文を受ける前に金子堅太郎に電話した。彼は直ちに大磯の別荘に急ぎ梅子夫人に見舞いの言葉を述べたが、夫人は涙一つ落とさなかった。「伊藤は予てから自分は畳の上では満足な死にかたはできぬ、敷居をまたいだときから、是が永久の別れになると思ってくれ」といっていたという。
この時伊藤は「3発あたった。相手は誰だ」と叫んだという。安はロシア官憲にその場で捕縛された。伊藤は絶命までの約30分間に側近らと幾つか会話を交わしたが、死の間際に、自分を撃ったのが朝鮮人だったことを知らされ、「俺を撃ったりして馬鹿な奴だ」と呟いたといわれる。また、伊藤の孫にあたる伊藤満洲雄の話によれば「俺は駄目だ。誰か他にやられたか?」と聞き、森槐南も傷ついたと知って「森もやられたか…」と言ったのが伊藤の最後の言葉だったという。暗殺に関しては、安重根単独説のほかにも、暗殺時に伊藤の着用していたコートに残る弾痕から発砲位置を算出した結果、併合強硬派による謀殺説もある。 具体的に挙げると、当時伊藤に随行した室田義文首席随行員がおよそ30年後に話した舞台の真相によると、彼の肉に埋まっていた弾丸が安重根のブローニング7連発拳銃用のものではなくフランス騎馬隊カービン銃用であり、また弾丸があけた穴の向きが下向きであることがおかしく、安重根からならば上向きになるはずであり、彼への命中弾は駅の上の食堂あたりからではなかろうか、ということである。しかし室田は事件当時は混乱していたためか、安重根の裁判では「数発爆竹の如き音を聞きたるも狙撃者ありしことを気付かず、少時して洋服を着たる一人男が、露国軍隊の間より身を出して、拳銃を以て自分の方に向ひ発射するを認め、初めて狙撃者あることを知り(中略)、狙撃当時の模様は是以外に知らず」、このように証言した。 また別の例では、暗殺現場を間近で目撃したココツェフ蔵相が当日直ちに駐日大使に宛てて電報を次のように打っている。「... 陰謀は明らかに組織的なものだった。昨晩、蔡家溝駅で我が警察はブローニング銃を持った3人の疑わしい朝鮮人たちをすでに逮捕していたという ...」(В.Н. Коковцов - Н.А.Малевский-Малевичу 13 октября 1909 г. // АВПРИ, Ф. 150, Оп. 493, Д. 171, Л. 175)。 安重根は暗殺後直ちに捕縛され、共犯者の禹徳淳、曹道先、劉東夏の3名もまたロシア官憲に拘禁された。日本政府は安らを関東都督府地方法院に移し、明治43年(1910年)2月14日、安を死刑に、禹を懲役2年に、曹および劉を懲役1年6か月に処する判決が下された。 韓国では、2009年10月26日を「安重根が国権剥奪の元凶・伊藤博文をハルビンで狙撃した義挙から100周年に当たる」と位置付け、これに合わせ新しい記念館をソウル南山にある現在の記念館付近に建設することを計画している。 11.4日、日比谷公園で国葬が営まれた。埋葬は東京都品川区西大井六丁目の伊藤家墓所。霊廟として、山口県熊毛郡大和町束荷(現光市束荷)の伊藤公記念公園内に伊藤神社があったが、昭和34年(1959年)に近隣の束荷神社境内に遷座した。記念公園には生家(復元)や銅像、伊藤公記念館、伊藤公資料館などがあり、桜に混じって韓国国花ムクゲが植えられている。平成18年(2006年)5月、山口県はこの公園に隣接した山林に、森林づくり県民税で「伊藤公の森」を整備して光市に引き渡した。後に日本銀行券C千円券(1963年11月1日 - 1984年11月1日発行)の肖像として採用された。 |
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1909.11月、陸海軍中将に昇進するとともに参謀本部付きとなる。毎年4月に全国各地で行われる参謀本部参謀旅行演習の見学が半ば義務付けられる。10月、「実録」が韓国皇太子と数回の交流があったと記している。 1910(明治43).1.9日、31歳の時、国技館に行啓、相撲を御覧。5月、毎週火・金曜日に参謀本部へ通う生活が始まる。皇太子はこの時軍事研究を講学されるが、「陸海軍の御用掛等が進講する軍事上のこと等は、恐れながら豪も御会得あらせらるるの実を見る事を得ざる」(東宮武官・千坂智次郎)。 10度目の巡啓/明治43.9月から約*日間/三重、愛知方面。この頃、軍事行啓相次ぐ、ともある。 1911(明治44)年、32歳の時、8月から約1ヶ月間。11度目の巡啓/北海道方面。約1ヶ月かけて北海道を回っている。「行啓通」の巻(1994. 8.№2) 」によれば、皇太子が「中島遊園地」(現公園)から南14条通りを西に進まれ、父親であった明治天皇と同じように屯田兵の作業振りと、「お声がかりの柏」を視察している。そもそもは、明治天皇が明治14年に北海道へ「行幸」になり、札幌「豊平館」にお泊りのうえ、「石山通」を南下されて、屯田兵の作業振りを視察した。その際、当時の「山鼻小学校」の南側に聳えている巨木を指さして「あれは何か?」と、ご下問になった。(質問された)側の者が「柏の大木でございます」と答えた、それ以来、この柏は「お声がかりの柏」と称されるよえになった。更に大正11年には時の皇太子(昭和天皇)が、同じ道筋を「行啓」し、3代にわたる「行幸・啓」にちなんで南14条通りは「行啓通」と銘名され、沿道住民の昭和初期からの努力もあって、電車通から東屯田通の間はにぎやかな商店街となって現在に及んでいる。 |
【この頃の原敬との秘話し】 | |||
1911(明治44).9.17日、皇太子が北海道行啓から帰ると、原敬が東宮御所を訪問している。北海道行啓の最中の8.25日に第二次桂太郎内閣が総辞職して、8.30日に第二次西園寺内閣が組閣され、原は内務大臣に返り咲いている。原は、日記に次のように記している。
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【この頃の旧友との秘話】 | |
1911(明治44).10月、戦艦「富士」に坐乗し、豊後水道南方海面での第1第2艦隊の演習を視察。 1911(明治44).11月、先帝陵参拝と第4・第16師団対抗演習を目的とする京都、大坂、兵庫巡啓に出向いている。この時、11.20日突如学習院時代の旧友・桜井忠胤(ただたね)邸を訪れ、恐懼する桜井に「今度は軍人となって来たのだから恐縮だの恐れ多いだのは止めにしてくれ。そう慇懃では困る」と云い、昔語りしている。その後、「桜井、演習は9時からだからその間又遊びに来た」と再度来訪し、邸内を勝手に歩きながら、「桜井、今日は恐コウだなどは一切止せよ。お前は学校に居る時、俺と鬼ごっこの相手ではないか。今はここに住んで何をしているか。大層色が黒くなったではないか。子供は幾人あるか」などと語った挙句、「どうも騒がしたなァ。桜井、又来るよ」と言い残して立ち去っている。この時、時計の針は既に9時を廻ろうとしており完全に演習に遅刻している。 「人間味あふれる大正天皇」の本稿に関係するくだりを転載しておく。
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この逸話は、皇太子が軍事演習参観を嫌っていたことを証左しているように思われる。 |
【巡啓相次ぐ】 |
1912(明治45).3.27日、33歳の時、1.1日、南京に中華民国臨時政府樹立。孫文が臨時大総統に就任し建国を宣言。2.12日、清朝の宣統帝(愛親覚羅溥儀)が退位し清朝滅亡する。
12度目の巡啓/山梨方面/1912(明治45).3.27日から約*日間。 4.14日、 豪華客船「タイタニック」が氷山に激突して翌日沈没。助かった日本人乗客を一方的に批判する動きが起こる。 13度目の巡啓/滋賀、三重方面/明治45.4.22日から約*日間 。4.22日より滋賀県と三重県を舞台に参謀本部参謀旅行演習の見学に出かけている。この時、演習の合間に蕎麦屋に入ったところを、地元新聞に報ぜられている。5.8日、東宮御所に参上した原敬に対し、皇太子は、「行啓に際し新聞紙に種々のことを登載されて困る」旨漏らしている。 5.17日、早稲田大学に行啓。「皇太子早稲田大学行啓。市島準備主査として万端係り成功裡に終え大隈重信邸にて晩餐の饗を受ける」(「市島謙吉(春城)年譜(稿)」)、「是日、皇太子殿下、大隈重信邸並に当大学に行啓あり、栄一、大学基金管理委員長として、大隈邸に於て拝謁す」(「渋沢栄一詳細年譜」)。 これらの巡啓を通して、事前に計画していた日程の変更を求めてみたり、率先して旅先の人々と気さくに交わったりする等、周囲に印象深い様々な逸話を残していったものの、皇太子の体調は病弱だった頃とは別人の如く丈夫になったという。 |
(私論.私見)