柳原愛子、白蓮考 |
更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3).5.28日
(れんだいこのショートメッセージ) |
【柳原愛子考】 | |
「日本史データベース」の***日付け長月七紀「大正天皇の生母・柳原愛子 密かに皇室存続の危機を救った慈愛の早蕨(さわらび)」。
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2021.5.11日、「平安時代の女官ってどんな職種がある?尚侍・典侍・掌侍・女孺・女蔵人など」参照。 皇后や中宮、あるいは御息所の差。皇后や中宮は、「天皇の后妃(奥様)」の呼び名で、ポジションも微妙に異なっている。 |
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公的・私的を問わず身分の高い人に仕えていた女性使用人全般を女房と呼ぶ。女房は、 「元々宮中に仕えていて、後から入ってきた后妃に配置換えされた人」なのか 、「后妃が入内する際に実家からついてきた(あるいは後日実家からやってきた)人」なのかは不明。例えば、紫式部の娘・大弐三位(だいにのさんみ)は母と同じく藤原摂関家の繋がりで藤原彰子に仕えた。しかし、後に後冷泉天皇の乳母になったため、その即位後に三位を授かってから「大弐三位」と呼ばれるようになっている。私的な使用人が公的な立場をもらったパターンである。但し、鎌倉時代になると任命されなくなっていく。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「女官」とは、文字通り「女性の官僚(役人)」という意味。飛鳥~平安時代に整備・発展を遂げた律令下では女性役所があった。これを内侍司(ないしし・ないしのつかさ)と言い、イメージは江戸時代の大奥に似ている。役職が設けられ序列と役割があった。基本的には、天皇の事務仕事を補助したり祭事に携わったりするのが役割。やがて「将来の皇后候補養成所」という性質も出てくる。特に長官である尚侍(ないしのかみ)はその傾向が強い役職。その尚侍(ないしのかみ)に代わって実務を請け負っていたのが内侍司のNo.2である典侍(ないしのすけ/てんじ)。彼女らが実質的長官として実務を取り仕切っている。典侍の下に掌侍(ないしのじょう)。掌侍は女蔵人(にょくろうど)、女孺(にょじゅ)を束ねている。「典侍」以下は公家であればどの家でも構わなかった。特に典侍の場合、有職故実に詳しい人や、音楽・和歌など芸術を得意としていれば、三位という高い位と、年給をもらえることもあった。清少納言も、枕草子の中で
「きちんとした家の娘なら、典侍などとしてしばらく宮中に勤めさせ、世の中を見せたほうがいいと思う」という感じのことを書いている。典侍と、そのすぐ下の部下である掌侍を合わせて「内侍」と呼ぶこともある。天皇が出御する際に剣を捧げ持つ役や、祭礼の使者など、祭祀や仏事に関わる幅広い仕事をこなした。三種の神器の一つの八咫の鏡を守護する役目も担っている。儀式以外の普段の日には、天皇・皇后の身の回りの世話や、下賜・献上品の管理、外に住んでいる皇族が天皇・皇后を訪ねてきたときの取次などを行っていた。掌侍の筆頭にあたる女性を「勾当内侍」(こうとうのないし)または「長橋局」(ながはしのつぼね)と呼ぶ。勾当内侍というと、新田義貞に愛された女性の名として有名ですが、本来は個人名ではなく役職名。 【内侍司(ないしし)の序列】は次の通り。
女孺(にょじゅ・にょうじゅ)は掃除などの雑務一般を担当。稀に出世して典侍などになる者もいた。奈良時代の宇佐八幡宮神託事件で処罰された和気広虫(わけ の ひろむし)などが、女孺出身で出世した一例。命婦(みょうぶ)は、儀式ごとに名称が細かく分かれていた。摂関時代には后妃の女房の通称として「命婦」がよく使われている。源氏物語にも、藤壺の宮に光源氏を引き合わせた王命婦、末摘花の君の話をした大輔の命婦など何人か出てくる。女蔵人(にょくろうど)は裁縫や掃除、明かりの管理、食事の給仕などを行う。紫式部日記に宮中に泥棒が入った際「女蔵人を呼んできて!」と言っているシーンがあり、日頃から后妃の側近くの女房たちといろいろなやり取りがあったことがわかる。東豎子は特定の男性の名前を使ったり、行幸の際には男性役人の衣装を来て馬に乗り、お供をしたりしていた。普段の日は女官の姿をしていたのでずっと男装していたわけではない。 |
【柳原白蓮考序文】 | ||||
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【柳原白蓮の履歴概要】 | |||||||||||
「白蓮の道」、「松岡正剛の千夜千冊、長谷川時雨の近代美人伝」その他を参照する。 | |||||||||||
1885(明治18)年、白蓮は、伯爵・貴族院議員の柳原前光(さきみつ)の次女として生まれる。本名は燁子(あきこ)。前光が鹿鳴館の舞踏会で踊っている時に生まれたことから「きらめく如く美しい娘になるように」との思いを込めて命名されたと云う。前光は、戊辰戦争で東海道先鋒総督をつとめたり、西南の役では勅使を務めるなどしている藤原北家の血を引く名門の公家華族であった。 生母は、零落した武家の娘で柳橋の売れっ子芸妓であった奥津りょう(通名おりょう)。おりょうの父は、日本人として初めて咸臨丸に乗ってアメリカに渡った政府使節団の団長・新見(しんみ)豊前守正興(まさおき)。正興が日本へ帰ったときは幕末の動乱の最中で、幕臣には形勢利あらず一家は零落するよりほかなかった。その煽りで娘おりょうは芸妓に身をやつしていたものと思われる。 大正天皇の生母である柳原愛子(なるこ)は、白蓮の父・柳原前光の妹であり、してみれば、柳原愛子と白蓮は姪の関係であり、柳原愛子の子・大正天皇と白蓮は従兄妹にあたることになる。 後の白蓮こと燁子(あきこ)は生後7日目に本邸に引き取られ、当時の華族の慣習としていったんは里子に出された後に柳原家に再び戻り、前光の正妻・初子の次女として入籍され、姫君として愛育されることになった。1888年(明治21年)、生母おりょうが病死する。1892年(明治25)年、麻布南山小学校に入学。1894(明治27)年、10歳の時、父の死により北小路家の幼女となる。1898(明治31)年、14歳の時、華族女学校(のちの女子学習院)に入学。 燁子は最初の結婚まで自分が妾の子とは知らなかったという。また前光には、おりょう以外に年来の妾・梅がおり、子宝に恵まれなかった梅はおりょうを妹のように、そしておりょう死後は燁子をわが子のように大変可愛がっていたと云われる。 1900(明治33)年、16歳の時、華族女学校を中退し、当時の慣習にならい家族の決めた北小路子爵家の息子資武(すけたけ)と結婚し、15歳で男児を出産した。5年後離婚し実家に戻る。この頃を詠った句として次の和歌がある。
1908(明治41)年、東洋英和女学校入学し寮生活をおくる。この時期、佐佐木信綱に師事し「竹柏園歌会」に入門する。1910(明治43)年、同校卒業。 1911(明治44)年、燁子27歳の時、25歳年上の九州一の炭鉱王・伊藤伝右衛門と再婚し福岡に移る。それは、名門の家柄を必要とした伊藤家と新生活を願うあきことの思惑が一致した打算結婚であった。伊藤伝右衛門は飯塚市幸袋に敷地1500坪、建坪250坪の自宅があったが、さらに別府に屋根を銅で葺いた「赤銅(あかがね)御殿」を建て、燁子を迎え入れた。燁子は「筑紫の女王」と呼ばれる身となった。 再婚後の燁子は、複雑な家族構成に悩まされた。伊藤家には妾の子、父の妾の子、妹の子、母方の従兄妹などが同居していた。また数十人もの女中や下男や使用人たちもいた。伝右衛門は何人もの妾がいた上に、京都妻のサトの妹のユウにまで手を付けた。ユウは女中見習いとして幸袋の屋敷に住み込むようになり、燁子は次第にユウを伝右衛門にあてがう形となった。後年、燁子は、夫を挟んで夫の妾と3人で布団を並べていたこともあると告白している。 1912(明治45)年、28歳の時、燁子は、懊悩、苦悩をひたすら歌に託し句集「心の花」に作品を発表し始め、次第に歌人として注目されるようになった。1915(大正4)年、31歳の時、処女歌集「蹈絵」を自費出版。この時、信仰していた日蓮にちなんで号を「白蓮」とした(以降、白蓮と記す)。「蹈絵」の代表句は次の通り。
白蓮の句は浪漫的な作風で「生の軌跡を華麗かつ驕慢に」(正津勉)詠って、多くの読者を惹きつけた。白蓮は歌人として名が知られるようになり、大正三美人(九条武子と江木欣々、あるいは日向きむ子)の一人として、あるいは九条武子とともに閨秀歌人として知られるようになった。 1916(大正5)年、32歳の時、「心の花」同人の九条武子との交流深まる。九条武子は、本願寺21代法主の大谷光尊の次女で、兄が西域の仏跡探検家としても知られる大谷光瑞。この頃、別府の赤銅御殿は白蓮を中心とするサロンとなった。そのなかで白蓮は仮想的な恋愛を楽しんだ。その一人に医学博士で歌人の久保猪之吉がいた。妻の久保より江も俳人として名を知られていた。 1918(大正7)年、34歳の時、筑豊疑獄事件が起こり法廷に立つ(7年春まで)。1918(大正7)年、大阪朝日は「筑紫の女王・燁子」を連載した。「金襴鍛子の帯締めながら、花嫁御寮は何故泣くのだろう」という歌や、菊池寛の「真珠夫人」という小説は、この時期の白蓮がモデルといわれている。 1919(大正8)年、35歳の時、詩集「几帳のかげ」、歌集「幻の華」を刊行。第二歌集「幻の華」の有名句は次の通り。
1919(大正8)年、35歳の時、戯曲「指鬘外道」(しまんげどう)を雑誌「解放」に発表。これが評判になった。劇団が上演を希望し、その許可を求める書状が届いた。差出人は「解放」記者宮崎龍介。もっと詳しい話を聞きたいと白蓮は記者を別府の別荘に招く。 1920(大正9).1.31日、36歳の時、社会革命の理想に燃える帝大新人会のメンバーにして東京帝大法学部に通う傍ら雑誌「解放」の編集をする宮崎龍介が訪れた。「解放」の後ろ盾となっていたのは、東京大学の吉野作造、早稲田大学の大山郁夫らの「黎明会」で、「解放」はその機関誌だった。宮崎龍介は孫文の辛亥革命を支援するなど憂国の士として知られる宮崎とう天の息子で、白蓮より7歳年下であった。龍介は情熱を込めて社会変革の夢を語った。 白蓮は忽ち「ねたましきかな」と詠い、「恋もつ人」になった。二人の間に文通が始まった。書簡は2年間で700通以上を数えた。この頃、新小説に「短歌自叙伝」発表。大阪朝日に「近代の恋愛観」発表。この頃の句として次の和歌がある。
白蓮は春秋2回の上京の機会に龍介と逢瀬を重ねた。姦通罪があった時代であり、入獄も覚悟の命がけの恋となった。二人の中が知れ、龍介は「ブルジョア夫人との交際はまかりならん」として「新人会」を除名になった。白蓮から日に数通もの手紙が届く。「南無帰依仏 マカセマツリシヒトスジノココロトシレバ スクハセタマヘ」。二人の愛は燃え上がる。やがて白蓮は龍介の子を宿した。 1921(大正10).10.20日、37歳の時、白蓮は伊藤と上京した際に東京駅から突然姿をくらました。二日後の大正10.22日、朝日新聞」が「筑紫の女王、柳原白蓮女史失踪!」との見出しで、「同棲十年の良人を捨てて、情人の許へ走る」、「青春の力に/恋の芽生え」と報じた。同日の朝日新聞夕刊に、「私は今貴方の妻としての最後の手紙を差し上げます」という一文で始まり、「私は金力をもって女性の人格的尊厳を無視する貴方に永久の訣別を告げます。私は私の個性の自由と尊貴を護り且培ふ為めに貴方の許を離れます」と記した公開絶縁状が掲載された。毎日新聞は、「天才的の妻を理解していた」で始まる伊藤の反論「燁子に与ふ」を載せ、世論はこの問題に沸いた。世に 「白蓮事件」として知られる。 事件はジャーナリズムの好餌となる。柳原家は大正天皇の御生母、柳原二位局の実家であり、国家主義の黒龍会(頭山満の玄洋社の系譜を引く団体)の内田良平らは、国体をゆるがす大事件として白蓮や柳原家を攻撃した。この一件により兄義光は貴族院議員を辞職することとなった。 1922(大正11)年、38歳の時、二人は引き離され、白蓮は再び実家の柳原家に帰り、そこで男児(香織と命名)を出産する。その後白蓮は断髪し尼寺に幽閉の身となる。 1923(大正12)年、白蓮の離婚が、華族からの除籍と総ての財産没収で決着した。この頃関東大震災が起こり、柳原家の関係で白蓮母子を預かっていた中野家が被災した。それまでも柳原家が娘に何の援助もしないのに対し、宮崎家が定期的に白蓮のために仕送りをしていた。被災を聞きつけた竜介は燁子らを迎えにいった。中野家は感服し、柳原家の承諾なしに龍介に白蓮親子を引き取らせたと云う。紆余曲折の果て結婚が成立し、親子三人の生活が現実のものとなった。白蓮は平民として生まれ変わる。 しかし、不遇なことに竜介は結核を発症した。夫は床にあり、数多くの同志、食客が出入りする。白蓮は筆一本で必死に家計を支えた。龍介は後に「私が動けなかった三年間は、本当に燁子の手一つで生活したようなもので」と回想している。 白蓮・宮崎のかような“窮状”を人づてに伝え聞き同情した因縁の白蓮の前夫・伊藤が経済的援助を申し出た。しかし、別離の事情が事情であった経緯を踏まえ二人は断ったと云う。 1925(大正14)年、長女、宮崎蕗苳(ふきこ)が誕生。龍介の結核は回復して、その後弁護士として活躍した。1928(昭和3)年、47歳の時、自伝小説「荊棘の実」を発表。1931(昭和6)年、52歳の時、夫妻は中国を旅行している。 1945(昭和20).8.11日、61歳の時、学徒出陣中の長男の香織が鹿屋空軍基地で戦死した。白蓮は悲しみのあまり1年で髪の毛が真っ白になったと云う。夫妻はその後平和運動に従事した。白蓮は平和団体「国際悲母の会」を結成し、その後世界連邦婦人部の中心となり活躍する。 1947(昭和22)年、63歳の時、伝右衛門、死亡。 1961(昭和36)年、77才の時、白蓮は、緑内障で両眼失明する。龍介の介護のもとに歌を詠む日を送る。やがて波乱の人生も終幕となる。「月影はわが手の上と教へられ さびしきことのすずろ極まる」。 1967(昭和42).2.22日、白蓮逝去(享年83歳)。辞世の句は次の通り。
燁子の死後竜介は次のように述べている。
4年後の1971(昭和46).1.23日、龍介逝去(享年79歳)。二人が最後まで暮した家は西武池袋線旧上屋敷(あがりやしき)駅近くにあり、いまも子孫が暮していると云う。 |
(私論.私見)