大正天皇実録第二次公開の衝撃 |
(最新見直し2015.07.20日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「大正天皇実録第二次公開の衝撃」をものしておく。「れんだいこの大正天皇論」の続編となる。 2007.10.12日再編集 れんだいこ拝 |
【大正天皇実録公開の衝撃】 |
2002(平成14).3.28日、宮内庁は大正天皇の誕生から崩御までの日々の動静を記録した文書「大正天皇実録」の一部を3.29日に公開すると発表した。今回公開するのは皇位を継承した1912(大正元)年7月から約2年分で、第一次護憲運動などに大正天皇がどうかかわったかなどが資料も含めて初めて開示されるとみられる。 残りは2002年度末までに順次公開する予定。実録の原本は全97冊(本文85冊、年表、索引など12冊)、6820ページにのぼる。誕生から崩御までの日々の動静を年月日順に記す「編年体」で、1927年に編さんを開始し10年を経て完成した。今回公開するのはそのうちの8冊、443ページ分。 |
【大正天皇実録宮内庁が一部公開 塗りつぶし141カ所、重体説から死去まで 宮内庁が一部を公開】 | |
宮内庁は29日、大正天皇(1879~1926年)の動静を記録した「大正天皇実録」の一部(複製本)を初公開した。実録は1937年に編さんが完成し宮内庁書陵部が保管していたが、情報公開審査会が「歴史的資料」と認定したため66年目の公開となった。昭和天皇の実録は2010年完成を目指し編さんが進められている。実録は全85冊(巻1~巻85)あり、巻48から巻55の8冊が今回公開分。ページ数では全体の9%に満たない。今回は、明治天皇の崩御により天皇に即位した1912(大正元)年7月から1914(同3)年6月までの約2年分記録が対象となった。 この期間は、首相が西園寺公望、桂太郎、山本権兵衛、大隈重信の時代に相当する。桂首相が天皇を利用し内閣不信任決議案撤回を命じる勅語などを出させた結果、「閥族打破・憲政擁護」をスローガンにした第一次護憲運動が起き、第三次桂太郎内閣が退陣した大正政変が発生している。実録では13年2月、大正天皇が「衆議院ニ於テ紛糾アルヲ聞キ甚ダ之ヲ憂フ」と、早期の紛争解決を望む様子が記されている。続く第一次山本権兵衛内閣時代には、海軍汚職のシーメンス事件などが起き、政治の民主化を求める世論が高まった時代となっている。この頃の大正天皇の動向が初めて開示される。山県有朋、大隈重信など当時の政治指導者を大正天皇がどう評価していたのかなども注目される。同庁は今年末までに残りも公開する。 ノンフィクション作家・保阪正康氏の話。
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【大正天皇実録公開の衝撃】 |
宮内庁は29日、大正天皇の動静を記録した「大正天皇実録」の一部(複製本)を公開した。実録は1937年に編さんが完成し宮内庁書陵部が保管していたが、情報公開審査会が「歴史的資料」と認定したため66年目の公開となった。今回は大正天皇が即位した1912(大正元)年7月から14(同3)年6月までの記録が対象。この間には、桂太郎首相が天皇を利用して内閣不信任決議案撤回を命じる勅語などを出させた結果、第1次憲政擁護運動が起き内閣が退陣する「大正政変」などが起きている。
実録は全85冊(巻1~巻85)あり、巻48から巻55までの8冊が今回の公開分。ページ数からいえば実録本文全体の9%に満たない。同庁は今年末までに残りの部分も公開する。 病弱とみられていた大正天皇の重体説が流れたのは13年5月。また、明治天皇の皇后だった昭憲皇太后が14年4月に死去している。実録には、こうした時期の大正天皇の日常が記されている。 今回の公開は、昨年施行された情報公開法に基づき、歴史的資料もできるだけ公開しようとする流れの中で出てきた。同庁が昨年作った「書陵部所蔵資料一般利用規則」は個人情報を「制限することができる」としており、計141カ所、86日分が墨で黒く塗りつぶされた。明治天皇、その前の孝明天皇の記録はすでにすべて公開、公刊されている。 大正天皇 1879(明治12)年8月31日に明治天皇の第3子として誕生。母親は側室の柳原愛子(なるこ)。名は嘉仁(よしひと)。1900(同33)年5月10日に九条節子(後の貞明皇后)と結婚した。12(大正元)年7月30日に32歳で即位。即位の礼は昭憲皇太后死去のため当初の予定から1年延びて15(同4)年11月にあった。幼少の時に大病を患ったことなどから病弱だったとされ、即位後も公務を控えることが多く、21(同10)年11月25日に皇太子(後の昭和天皇)が摂政に就任。その後静養を続けたが、26(同15)年12月25日、死去した。死因は肺炎に伴う心臓まひとされる。 |
2002(平成14).3.31日の日経新聞は、宮内庁が初公開した「大正天皇実録」の中身に触れて、「明治の元勲で陸海軍トップ、山県有朋は行財政改革の“抵抗勢力”」との切り出しに続いて「大正初期の政局の焦点だった財政健全化をめぐり、これを支持する立場で当時の経緯が記述されていることが分かった。実録が編纂された昭和初期は軍部が台頭した時期。『軍拡を懸念するリベラル派が編纂に関与した可能性がある』と見る研究者もいる」とする記事を載せている。 ベタ記事で次のように解説している。
「実録」文中の該当個所は次の通り。
その後、枢密院議長だった陸軍閥の実力者、山県有朋の抵抗を抑えて山本首相が行革に踏み切った経緯を紹介し、「当時同案遂行の頗(すこぶ)る至難たりしを推察するに余りあり」とその功績を称えている、とある。実録が編纂されたのは27年(昭和2年)から37年(同12年)。浜口雄幸内閣が景気回復と協調外交による軍縮を課題とし、官吏の俸給カットやロンドン海軍軍縮条約を結んだ次期と重なる、とある。 |
【大正天皇実録第二次公開の衝撃】 |
2003(平成15).4.5日、「大正天皇実録」の第二次公開となった。公開対象となったのは、第二次大隈重信内閣から原敬内閣にかけて。この間の時局についてかなり踏み込んだ遣り取りが含まれている。 特に、長州出身の陸軍大将・寺内正毅内閣総辞職の背景の下りが詳述されている。「内閣更迭の事由」として、1918.9.29日付け「内にはいわゆる米騒動なる不祥事勃発し、外にはシベリア出兵と対支借款なる外交上の失敗ありて国民の信頼日に薄くなり云々」と解説されている。内閣の失政を強調する下りは異例。寺内は陸軍閥トップの元老・山県有朋の直系。護憲運動を背景に成立した第二次大隈重信内閣の後継人事で、大隈山県と鋭く対立。外相・加藤高明を大正天皇に推挙し、軍閥支配の弱体化を図ったが、山県の巻き返しで寺内に組閣の大命が下った経緯がある。 寺内内閣を揺るがせた米騒動も8Pにわたり詳述。各地の暴動を一覧表にし、政府が軍を出動して収拾した様子を伝えている。米価抑制のため外国米を供給したことに関連し、事態を案じた大正天皇が「畏(かしこ)くも」輸入米を試食したエピソードも紹介している。 一方、英国流の立憲君主制を目指し、後に護憲三派連立内閣首相として協調外交と軍縮を進めた加藤高明については好意的に記述。山県らの慎重論を抑え、日英同盟を理由に第一次世界大戦参戦を主張した加藤(当時外相)に天皇が「朕深くその勤労を嘉(よみ)す」と激励した勅語を掲載している。 加藤が実行した中国への中国への「21か条の要求」は、「外交史の著名なる事実」、「要求は実に公明正大」と記述。大陸の権益確保を狙った強引な要求は排日運動や列強の警戒心を招き、当時でも「失政」と云われたが、甘い評価になっている。 「閥族打破」の世論で第三次桂太郎内閣が倒れた「大正政変」の際、天皇は政友会総裁の西園寺に同党が提出した内閣不信任案撤回を求める勅語を発した。が、西園寺は党を抑えきれず、「違勅」のそしりをうけ、東京を離れ謹慎した。 大正天皇は1915.6月、軍閥支配に抵抗したリベラル派の元老・西園寺公望に、海をモチーフにした一遍の漢詩を与えている。実録は「宏大無辺なる聖徳り天地に横溢(おういつ)する」さまを詠んだ作品と解説している。この作品解釈に拠れば、天皇が西園寺に寛容の心を示し、政界復帰を促したようにも読める。 山県と西園寺に対する評価が対照的で興味深い。(2003.4.6日、日経参照 ) 国際協調、立憲政治擁護の立場で内大臣として昭和天皇を補佐した牧野伸顕ら、リベラル派の宮中・重臣グループが実録の記述に影響を与えた可能性が強い。(季武嘉也・創価大教授)。 |
2011.3.26日付け「青年期、はつらつと 「大正天皇実録」最終公開(1/2ページ)」を転載しておく。
25日午前に宮内庁書陵部で閲覧が始まった「大正天皇実録」。今回公開されたのは、1879(明治12)年8月31日から1912(明治45)年7月30日までだ。2002年から続いてきた公開は4回目を迎え、一部は黒塗りながらも、全体に及んだことになる。健康を回復させ、体力をつけて全国各地や大韓帝国を訪れる姿や、韓国皇太子と過ごすことを大切にした青年期の姿がうかがわれる。 ■自転車で外出 全国巡啓も 「実録」は、大正天皇の動静やかかわった出来事などを記したもの。本文85冊、年表2冊、索引7冊、正誤表1冊の計95冊で構成され、宮内省図書寮編修課により、1937年に完成した。 朝日新聞社の情報公開請求を契機に、宮内庁は02年に8冊、03年に21冊、08年に9冊を開示。今回は、生誕から32歳で天皇になるまでの約33年間をまとめた47冊、年表など10冊の計57冊が公開された。 記述で、とりわけ目立つのは、乗馬や自転車、徒歩での度重なる外出と、全国各地、韓国への巡啓だ。大正天皇は1889年11月3日に皇太子になった。1899年に東宮輔導(ほどう)に就いた有栖川宮威仁(たけひと)親王や、1900年5月に結婚した節子(さだこ)皇太子妃らの影響で、皇太子の行動は活発になる。1901年9月18日には「御乗馬ニテ近傍御逍遥(しょうよう)ノコト度アリ」との記述がある。「健康を取り戻すためだったと思われるが、葉山、日光など御用邸周辺での外出が目立つ」と、明治学院大教授の原武史さん(日本政治思想史)は話す。 行啓は関西、東北、北海道など全国に及んだ。例えば、1908年に東北地方に行く。現在の震災被災地でもある福島の原ノ町、富岡なども訪れ、「雙葉(ふたば)郡役所」に泊まった。1900年10月、皇太子は九州に赴いた。先々で好奇心に満ちた質問が発される。同28日には福岡の香椎宮(かしいぐう)で、知事との間に、いわば「松茸(まつたけ)問答」とでもいうべき、こんなやりとりがあった。 知事「……松茸狩ニ御供仕ル」 。皇太子「……其ノ松茸ハ植エ置キシモノニアラザルカ」。知事「恐ナガラ御試験下サセ給ハリタシ」。皇太子「松茸ノ試験カ」。こう語った後「微カニ笑ハセ給フ」と書かれている。試験に辟易(へきえき)していた皇太子ならではの発言だ。原さんは「大正天皇実録に、これほど生き生きした記述があっただろうか。皇太子の微笑が見えてくるようだ」と言う。同じ九州行啓では、福岡の筥崎宮(はこざきぐう)で質問はなかなか尽きず、「問ハセラルル処アリ、遂ニ御予定ヲ遅ラスコト約五十分ニ及ブ」などとある。 1907年には韓国を訪れた。このとき、大正天皇は韓国皇太子の李垠(イ・ウン)(1897~1970)を大変かわいがった。韓国皇太子の日本滞在中、ビリヤードをしたり、誕生日のお祝いを贈ったりしている。「実録」から、1909年10月は数回の交流があったことが分かる。「大正天皇は人間味豊かではつらつとしていた。天皇になってから、次第にバランスを失っていった。過度の自由を与えたことが悲劇につながった」と、原さんは見る。 実録には、編纂(へんさん)で使った出典も記されている。しかし、「官報」「侍従職日録」など公式記録が多い。今回も、個人の日記や書簡類など注目できる未公開資料はなかった。一方、「個人識別情報」を理由とする黒塗り箇所については毎回、「歴史資料は公開すべきだ」と研究者らに問題視されてきた。宮内庁書陵部は「学習院時代の『成績報告書』を黒塗りにしたため、約3%になった」と説明する。原さんは「仮に黒塗り部分を明らかにしても、天皇個人の人格に迫る記述は少ない。ただ、天皇について基本的事実すら不明だったことが、公文書の上で、ある程度明らかになった点は意義深い」と話している。(樋口大二、米原範彦)
「大正天皇実録」は、所定の手続きをとれば、宮内庁書陵部図書課で、誰でも閲覧できる。 ■「行動」は分かったけれど 原武史 明治学院大教授 4回を通して、大正天皇像がはっきりしたということは言えるが、めぼしい新事実は残念ながらなかった。ただ今回の公開で、皇太子時代の行動がより明らかになった。これにより天皇時代の心境に対する理解は深まる。 天皇時代、葉山御用邸での静養を思って詠んだ漢詩「宮中苦熱」(1913年)は、皇居に戻ると、釜の中にいる魚と同じで死んでしまいそうだといった内容を表現した。皇太子時代に自由を与えられたことで、明治天皇と同じ道を歩くことができなくなったのだろう。 大正天皇の特徴として、明治天皇にはなかったことだが、皇太子時代に葉山、日光、塩原、沼津にある御用邸に頻繁に行っていたことも改めて分かった。東京にいても、よく近郊に出かけた。 健康は徐々に回復し、全国巡啓もこなせるようになった。この時、皇祖皇宗への感謝はあったのか。皇太子が宮中祭祀(さいし)に出席する時のルールを定めた記録もあり、大変興味深かった。また、韓国皇太子への溺愛(できあい)ぶりは尋常ではない。それは、やむなく家族と別れた子供に、自分の経験も重ねたのか、彼の父親になろうとしたようにも思える。実録の淡々とした記述からは、そんな大正天皇の人柄も伝わってきた。(談) |
【大正天皇ご不例記録 宮内庁「非開示」妥当】 |
2002(平成14).2015.7.5日、大正天皇のご不例(ご病状)記録の開示請求を拒否した宮内庁の決定の妥当性を審査していた内閣府情報公開審査会が、 非開示決定は妥当とする答申を行った。請求者は不敬にも、 (1)・社会的影響力のある人物の病名の究明は国益の維持に必要、 (2)・情報公開法は氏名を有する国民に適用されるもので「氏」のない天皇は法の規定外、 (3)・既に死後70年が経過し、歴史の範疇だ ・・・などとして病状記録が開示されるべきだと主張した。これに対して宮内庁は、「故人である大正天皇も、原則的に情報を非開示にすると規定されている個人に当たる。特定の個人を識別できる医療関係記録は非開示情報」とし、昨年12月に請求を拒否。宮内庁長官の諮問でこの決定について審査が行われたが、情報公開審査会は「天皇という特殊な地位にあったことや、氏がないことで『個人に当たらない』とは言えない。大正天皇の近親者も多く存命し、既に『歴史の範疇』にあるとも言えない」として、宮内庁判断を妥当とした。宮内庁情報公開室は、「既に公開した大正天皇実録でプライベートに関する部分を塗り潰した措置の根拠になる判断」としている。 (平成14年7月25日号) |
大正天皇の体調や病状に関する詳しい記述も公開された。大正7年8月、38歳の時、静養で日光の御用邸に滞在した際には、「一昨年頃から発語障害や歩行困難などの異状があり、それが治らないため滞在中はほとんど遠出をしなかった」という内容の記述がある。大正天皇は、その後病状が悪化し、大正10年に摂政を立てて事実上引退する。 大正天皇は、即位後、多忙な日々を送る中で心労が重なって体調を崩したと当時の宮内省が発表していたが、今回公開された記述からはその一端がうかがえる。「大正4年1月3日」の動静は、日付以外すべてが黒塗りにされ内容が伏せられていたが、元老の山県有朋の拝謁を受けたあと、晩餐をともにしていたことが判明した。長州出身で陸軍元帥の山県は、当時、元老の筆頭格として枢密院議長を務めていて、政治や軍事などで事実上、最高決定権を持つ立場にいた。 軍事にあまり興味がなかったとされる大正天皇は、山県と疎遠だったと考えられていたが、実録では「以後こういうことがしばしばあった」と記され、即位後、頻繁に会っていたことが判明した。同年4月30日、海軍の幹部から第1次世界大戦の情勢について説明を受けていたことが判明した。掲載されている一覧表には、その後、大正天皇が軍の幹部将校から聞いた軍事に関する説明の数々が列記されていた。 大正4年に行われた即位の儀式の記述では、皇祖神の天照大神に即位したことを告げる御告文を読む場面で、1か所だけ6文字分の黒塗りがあった。今回解除されて出てきたのは、「玉音高らかに」と単に読み上げる様子を描写しただけの言葉であった。従来、論議されていた下りだけに「肩すかし」となった。 今回の公開で、大正天皇晩年の病状の様子や面会者の氏名などが新たに公開された。「大正天皇晩年の病状の様子」の記述は全文開示され次のように判明した。崩御の1年前、「(1925(大正14)年12月)十九日、■■■脳貧血ニテ■■■御恢復(ごかいふく)アリ」。この黒塗り文が次のように開示された。「十九日午後四時四十分 突然脳貧血ニテ 一時人事不省ニ陥ラセラレシモ 漸次御恢復アリ」。これによると、「十九日午後四時四十分」に「突然」、「脳貧血ニテ一時人事不省ニ陥ラセラレシ」重篤な状態になったことが判明した。当時の発表では軽症の脳貧血だったとされているが、今回黒塗りが解除されたことで、実録では「一時人事不省」に陥り、3か月あまり寝たきりの状態になるほどの重症だったことが判明した。 続いて、逝去する1926(大正15)年の5月11日午前2時40分、その4カ月後の9月11日午前11時25分にも、「突然」、同様の症状が起きていた。特に5月は、「約四十分間ヲ過ギテ醒覚アラセラル」とあり、長時間、意識がなかったことが分かった。 今回の情報公開により新たに判明したことは、「(大正10)年、病弱を理由に後の昭和天皇を摂政として蟄居後の大正天皇に対する元老の山県有朋ら政府要人らの頻繁な面会の様子」である。穏健派は「公務多忙」と読むが、そういう「読み」に我慢できない者もいよう。なぜなら、そういう「読み」では、これまで秘せられていたことの意味が分からなくなる。秘せられていたのは秘せられる値する事情があったからであり、それはズバリ「毒殺疑惑」こ繋がる。しかも、その犯人が「元老の山県有朋ら政府要人」とのことである。何と重大情報だろうか。秘せられてきたことには十分な事情があったことになる。「元老の山県有朋ら政府要人」とは恐らく「例の長州勢」であり、確か幕末動乱時の徳川将軍家茂、孝明天皇、明治天皇暗殺にも関わっている。 **年、大正天皇は47歳で崩御し、在位は14年余りと短期間に終わった。これに大正天皇の病状と「元老の山県有朋ら政府要人」と「毒殺」がどう絡むのか絡まないのかが問われている。 |
「大正天皇の実像詳細に」。
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「大正天皇実録 」。
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(私論.私見)