大正天皇実録第二次公開の衝撃

 (最新見直し2015.07.20日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「大正天皇実録第二次公開の衝撃」をものしておく。「れんだいこの大正天皇論」の続編となる。

 2007.10.12日再編集 れんだいこ拝


【大正天皇実録公開の衝撃】
 2002(平成14).3.28日、宮内庁は大正天皇の誕生から崩御までの日々の動静を記録した文書「大正天皇実録」の一部を3.29日に公開すると発表した。今回公開するのは皇位を継承した1912(大正元)年7月から約2年分で、第一次護憲運動などに大正天皇がどうかかわったかなどが資料も含めて初めて開示されるとみられる。 残りは2002年度末までに順次公開する予定。実録の原本は全97冊(本文85冊、年表、索引など12冊)、6820ページにのぼる。誕生から崩御までの日々の動静を年月日順に記す「編年体」で、1927年に編さんを開始し10年を経て完成した。今回公開するのはそのうちの8冊、443ページ分。

【大正天皇実録宮内庁が一部公開 塗りつぶし141カ所重体説から死去まで 宮内庁が一部を公開

 宮内庁は29日、大正天皇(1879~1926年)の動静を記録した「大正天皇実録」の一部(複製本)を初公開した。実録は1937年に編さんが完成し宮内庁書陵部が保管していたが、情報公開審査会が「歴史的資料」と認定したため66年目の公開となった。昭和天皇の実録は2010年完成を目指し編さんが進められている。実録は全85冊(巻1~巻85)あり、巻48から巻55の8冊が今回公開分。ページ数では全体の9%に満たない。今回は、明治天皇の崩御により天皇に即位した1912(大正元)年7月から1914(同3)年6月までの約2年分記録が対象となった。

 この期間は、首相が西園寺公望、桂太郎、山本権兵衛、大隈重信の時代に相当する。桂首相が天皇を利用し内閣不信任決議案撤回を命じる勅語などを出させた結果、「閥族打破・憲政擁護」をスローガンにした第一次護憲運動が起き、第三次桂太郎内閣が退陣した大正政変が発生している。実録では13年2月、大正天皇が「衆議院ニ於テ紛糾アルヲ聞キ甚ダ之ヲ憂フ」と、早期の紛争解決を望む様子が記されている。続く第一次山本権兵衛内閣時代には、海軍汚職のシーメンス事件などが起き、政治の民主化を求める世論が高まった時代となっている。この頃の大正天皇の動向が初めて開示される。山県有朋、大隈重信など当時の政治指導者を大正天皇がどう評価していたのかなども注目される。同庁は今年末までに残りも公開する。

 注目点の一つは、大正天皇の体調の推移だった。首相などを務めた原敬の日記には13年5月「肺炎に渡らせらる(略)急報ありたり」とあり、この時期重体説が流れているが、実録では同年5月19日の記述として「(3字分黒塗り)ニヨリ陸軍経理学校卒業式ニ行幸アラセラルベキヲ止メテ(23字分黒塗り)、遂ニ肺炎ニ羅(かか)ラレ給ヒ」とあり、詳しい病状は伏せられた。

 だが、86日分にわたって計141カ所、見出し18カ所が「個人情報」として黒く塗りつぶされた。「公にする慣行がない」と首相の内奏も伏せられた。
この中には、国務大臣の内奏の内容、下賜金の金額、天皇の病状の詳細などが含まれているという。既に刊行された明治天皇実録の「明治天皇紀」は私的な部分もすべて公開されており、大正天皇実録の公開方法の是非は今後、論議を呼びそうだ。 

 ノンフィクション作家・保阪正康氏の話。

 「大正期は、天皇の役割に揺らぎが生じ、軍部、官僚、政党の確執が表面化した時でもある。実録公開を機に大正天皇の君主としての振る舞いや、詔勅をめぐる政治力学などの検証が進むことが期待される。ただ宮内庁は『歴史の書き直し』につながるような記述の公開には慎重だろう。今後、実録のどの部分を公開し、非公開とするか。その判断基準も注視したい」。

【大正天皇実録公開の衝撃】
 宮内庁は29日、大正天皇の動静を記録した「大正天皇実録」の一部(複製本)を公開した。実録は1937年に編さんが完成し宮内庁書陵部が保管していたが、情報公開審査会が「歴史的資料」と認定したため66年目の公開となった。今回は大正天皇が即位した1912(大正元)年7月から14(同3)年6月までの記録が対象。この間には、桂太郎首相が天皇を利用して内閣不信任決議案撤回を命じる勅語などを出させた結果、第1次憲政擁護運動が起き内閣が退陣する「大正政変」などが起きている

 実録は全85冊(巻1~巻85)あり、巻48から巻55までの8冊が今回の公開分。ページ数からいえば実録本文全体の9%に満たない。同庁は今年末までに残りの部分も公開する。

 病弱とみられていた大正天皇の重体説が流れたのは13年5月。また、明治天皇の皇后だった昭憲皇太后が14年4月に死去している。実録には、こうした時期の大正天皇の日常が記されている。

 今回の公開は、昨年施行された情報公開法に基づき、歴史的資料もできるだけ公開しようとする流れの中で出てきた。同庁が昨年作った「書陵部所蔵資料一般利用規則」は個人情報を「制限することができる」としており、計141カ所、86日分が墨で黒く塗りつぶされた。明治天皇、その前の孝明天皇の記録はすでにすべて公開、公刊されている。

 大正天皇 1879(明治12)年8月31日に明治天皇の第3子として誕生。母親は側室の柳原愛子(なるこ)。名は嘉仁(よしひと)。1900(同33)年5月10日に九条節子(後の貞明皇后)と結婚した。12(大正元)年7月30日に32歳で即位。即位の礼は昭憲皇太后死去のため当初の予定から1年延びて15(同4)年11月にあった。幼少の時に大病を患ったことなどから病弱だったとされ、即位後も公務を控えることが多く、21(同10)年11月25日に皇太子(後の昭和天皇)が摂政に就任。その後静養を続けたが、26(同15)年12月25日、死去した。死因は肺炎に伴う心臓まひとされる。


 2002(平成14).3.31日の日経新聞は、宮内庁が初公開した「大正天皇実録」の中身に触れて、「明治の元勲で陸海軍トップ、山県有朋は行財政改革の“抵抗勢力”」との切り出しに続いて「大正初期の政局の焦点だった財政健全化をめぐり、これを支持する立場で当時の経緯が記述されていることが分かった。実録が編纂された昭和初期は軍部が台頭した時期。『軍拡を懸念するリベラル派が編纂に関与した可能性がある』と見る研究者もいる」とする記事を載せている。

 ベタ記事で次のように解説している。
 概要「目を引くのが明治天皇の崩御後、政争のテーマに浮上した財政再建に関するくだりだ。事の発端は、実録の1912年(大正元年)12月2日にも記述のある上原勇作陸相の単独辞表提出。西園寺公望首相は、財政健全化のため朝鮮への二個師団増設を拒否。反発した陸軍は後任陸相を推薦せず内閣は倒壊した。こうした経緯も踏まえ実録は、山本権兵衛内閣の13年6.13日の『行政整理』(行財政改革)について14ページにわたって好意的に言及している。簡略な記述が目立つ実録では異例の扱いだ」。

 「実録」文中の該当個所は次の通り。
 「行政財政の整理に関しては、既に明治の末年、内閣総理大臣侯爵西園寺公望計るところありしが、海軍拡張・二個師団増設等の要求に拠りて遂にこれを果たし得ず」。

 その後、枢密院議長だった陸軍閥の実力者、山県有朋の抵抗を抑えて山本首相が行革に踏み切った経緯を紹介し、「当時同案遂行の頗(すこぶ)る至難たりしを推察するに余りあり」とその功績を称えている、とある。実録が編纂されたのは27年(昭和2年)から37年(同12年)。浜口雄幸内閣が景気回復と協調外交による軍縮を課題とし、官吏の俸給カットやロンドン海軍軍縮条約を結んだ次期と重なる、とある。

【大正天皇実録第二次公開の衝撃】
 2003(平成15).4.5日、「大正天皇実録」の第二次公開となった。公開対象となったのは、第二次大隈重信内閣から原敬内閣にかけて。この間の時局についてかなり踏み込んだ遣り取りが含まれている。

 特に、長州出身の陸軍大将・寺内正毅内閣総辞職の背景の下りが詳述されている。「内閣更迭の事由」として、1918.9.29日付け「内にはいわゆる米騒動なる不祥事勃発し、外にはシベリア出兵と対支借款なる外交上の失敗ありて国民の信頼日に薄くなり云々」と解説されている。内閣の失政を強調する下りは異例。寺内は陸軍閥トップの元老・山県有朋の直系。護憲運動を背景に成立した第二次大隈重信内閣の後継人事で、大隈山県と鋭く対立。外相・加藤高明を大正天皇に推挙し、軍閥支配の弱体化を図ったが、山県の巻き返しで寺内に組閣の大命が下った経緯がある。

 寺内内閣を揺るがせた米騒動も8Pにわたり詳述。各地の暴動を一覧表にし、政府が軍を出動して収拾した様子を伝えている。米価抑制のため外国米を供給したことに関連し、事態を案じた大正天皇が「畏(かしこ)くも」輸入米を試食したエピソードも紹介している。

 一方、英国流の立憲君主制を目指し、後に護憲三派連立内閣首相として協調外交と軍縮を進めた加藤高明については好意的に記述。山県らの慎重論を抑え、日英同盟を理由に第一次世界大戦参戦を主張した加藤(当時外相)に天皇が「朕深くその勤労を嘉(よみ)す」と激励した勅語を掲載している。

 加藤が実行した中国への中国への「21か条の要求」は、「外交史の著名なる事実」、「要求は実に公明正大」と記述。大陸の権益確保を狙った強引な要求は排日運動や列強の警戒心を招き、当時でも「失政」と云われたが、甘い評価になっている。

 「閥族打破」の世論で第三次桂太郎内閣が倒れた「大正政変」の際、天皇は政友会総裁の西園寺に同党が提出した内閣不信任案撤回を求める勅語を発した。が、西園寺は党を抑えきれず、「違勅」のそしりをうけ、東京を離れ謹慎した。

 大正天皇は1915.6月、軍閥支配に抵抗したリベラル派の元老・西園寺公望に、海をモチーフにした一遍の漢詩を与えている。実録は「宏大無辺なる聖徳り天地に横溢(おういつ)する」さまを詠んだ作品と解説している。この作品解釈に拠れば、天皇が西園寺に寛容の心を示し、政界復帰を促したようにも読める。

 山県と西園寺に対する評価が対照的で興味深い。(2003.4.6日、日経参照

 国際協調、立憲政治擁護の立場で内大臣として昭和天皇を補佐した牧野伸顕ら、リベラル派の宮中・重臣グループが実録の記述に影響を与えた可能性が強い。(季武嘉也・創価大教授)。
 2011.3.26日付け「青年期、はつらつと 「大正天皇実録」最終公開(1/2ページ)」を転載しておく。

 25日午前に宮内庁書陵部で閲覧が始まった「大正天皇実録」。今回公開されたのは、1879(明治12)年8月31日から1912(明治45)年7月30日までだ。2002年から続いてきた公開は4回目を迎え、一部は黒塗りながらも、全体に及んだことになる。健康を回復させ、体力をつけて全国各地や大韓帝国を訪れる姿や、韓国皇太子と過ごすことを大切にした青年期の姿がうかがわれる。

 ■自転車で外出 全国巡啓も

 「実録」は、大正天皇の動静やかかわった出来事などを記したもの。本文85冊、年表2冊、索引7冊、正誤表1冊の計95冊で構成され、宮内省図書寮編修課により、1937年に完成した。

 朝日新聞社の情報公開請求を契機に、宮内庁は02年に8冊、03年に21冊、08年に9冊を開示。今回は、生誕から32歳で天皇になるまでの約33年間をまとめた47冊、年表など10冊の計57冊が公開された。

 記述で、とりわけ目立つのは、乗馬や自転車、徒歩での度重なる外出と、全国各地、韓国への巡啓だ。大正天皇は1889年11月3日に皇太子になった。1899年に東宮輔導(ほどう)に就いた有栖川宮威仁(たけひと)親王や、1900年5月に結婚した節子(さだこ)皇太子妃らの影響で、皇太子の行動は活発になる。1901年9月18日には「御乗馬ニテ近傍御逍遥(しょうよう)ノコト度アリ」との記述がある。「健康を取り戻すためだったと思われるが、葉山、日光など御用邸周辺での外出が目立つ」と、明治学院大教授の原武史さん(日本政治思想史)は話す。

 行啓は関西、東北、北海道など全国に及んだ。例えば、1908年に東北地方に行く。現在の震災被災地でもある福島の原ノ町、富岡なども訪れ、「雙葉(ふたば)郡役所」に泊まった。1900年10月、皇太子は九州に赴いた。先々で好奇心に満ちた質問が発される。同28日には福岡の香椎宮(かしいぐう)で、知事との間に、いわば「松茸(まつたけ)問答」とでもいうべき、こんなやりとりがあった。

 知事「……松茸狩ニ御供仕ル」 皇太子「……其ノ松茸ハ植エ置キシモノニアラザルカ」。知事「恐ナガラ御試験下サセ給ハリタシ」。皇太子「松茸ノ試験カ」。こう語った後「微カニ笑ハセ給フ」と書かれている。試験に辟易(へきえき)していた皇太子ならではの発言だ。原さんは「大正天皇実録に、これほど生き生きした記述があっただろうか。皇太子の微笑が見えてくるようだ」と言う。同じ九州行啓では、福岡の筥崎宮(はこざきぐう)で質問はなかなか尽きず、「問ハセラルル処アリ、遂ニ御予定ヲ遅ラスコト約五十分ニ及ブ」などとある。 1907年には韓国を訪れた。このとき、大正天皇は韓国皇太子の李垠(イ・ウン)(1897~1970)を大変かわいがった。韓国皇太子の日本滞在中、ビリヤードをしたり、誕生日のお祝いを贈ったりしている。「実録」から、1909年10月は数回の交流があったことが分かる。「大正天皇は人間味豊かではつらつとしていた。天皇になってから、次第にバランスを失っていった。過度の自由を与えたことが悲劇につながった」と、原さんは見る。

 実録には、編纂(へんさん)で使った出典も記されている。しかし、「官報」「侍従職日録」など公式記録が多い。今回も、個人の日記や書簡類など注目できる未公開資料はなかった。一方、「個人識別情報」を理由とする黒塗り箇所については毎回、「歴史資料は公開すべきだ」と研究者らに問題視されてきた。宮内庁書陵部は「学習院時代の『成績報告書』を黒塗りにしたため、約3%になった」と説明する。原さんは「仮に黒塗り部分を明らかにしても、天皇個人の人格に迫る記述は少ない。ただ、天皇について基本的事実すら不明だったことが、公文書の上で、ある程度明らかになった点は意義深い」と話している。(樋口大二、米原範彦)

 ◇

 「大正天皇実録」は、所定の手続きをとれば、宮内庁書陵部図書課で、誰でも閲覧できる。

 ■「行動」は分かったけれど 原武史 明治学院大教授

 4回を通して、大正天皇像がはっきりしたということは言えるが、めぼしい新事実は残念ながらなかった。ただ今回の公開で、皇太子時代の行動がより明らかになった。これにより天皇時代の心境に対する理解は深まる。

 天皇時代、葉山御用邸での静養を思って詠んだ漢詩「宮中苦熱」(1913年)は、皇居に戻ると、釜の中にいる魚と同じで死んでしまいそうだといった内容を表現した。皇太子時代に自由を与えられたことで、明治天皇と同じ道を歩くことができなくなったのだろう。 大正天皇の特徴として、明治天皇にはなかったことだが、皇太子時代に葉山、日光、塩原、沼津にある御用邸に頻繁に行っていたことも改めて分かった。東京にいても、よく近郊に出かけた。 健康は徐々に回復し、全国巡啓もこなせるようになった。この時、皇祖皇宗への感謝はあったのか。皇太子が宮中祭祀(さいし)に出席する時のルールを定めた記録もあり、大変興味深かった。また、韓国皇太子への溺愛(できあい)ぶりは尋常ではない。それは、やむなく家族と別れた子供に、自分の経験も重ねたのか、彼の父親になろうとしたようにも思える。実録の淡々とした記述からは、そんな大正天皇の人柄も伝わってきた。(談)


大正天皇ご不例記録 宮内庁「非開示」妥当】
 2002(平成14).2015.7.5日、大正天皇のご不例(ご病状)記録の開示請求を拒否した宮内庁の決定の妥当性を審査していた内閣府情報公開審査会が、 非開示決定は妥当とする答申を行った。請求者は不敬にも、 (1)・社会的影響力のある人物の病名の究明は国益の維持に必要、 (2)・情報公開法は氏名を有する国民に適用されるもので「氏」のない天皇は法の規定外、 (3)・既に死後70年が経過し、歴史の範疇だ ・・・などとして病状記録が開示されるべきだと主張した。これに対して宮内庁は、「故人である大正天皇も、原則的に情報を非開示にすると規定されている個人に当たる。特定の個人を識別できる医療関係記録は非開示情報」とし、昨年12月に請求を拒否。宮内庁長官の諮問でこの決定について審査が行われたが、情報公開審査会は「天皇という特殊な地位にあったことや、氏がないことで『個人に当たらない』とは言えない。大正天皇の近親者も多く存命し、既に『歴史の範疇』にあるとも言えない」として、宮内庁判断を妥当とした。宮内庁情報公開室は、「既に公開した大正天皇実録でプライベートに関する部分を塗り潰した措置の根拠になる判断」としている。 (平成14年7月25日号)

 大正天皇の体調や病状に関する詳しい記述も公開された。大正7年8月、38歳の時、静養で日光の御用邸に滞在した際には、「一昨年頃から発語障害や歩行困難などの異状があり、それが治らないため滞在中はほとんど遠出をしなかった」という内容の記述がある。大正天皇は、その後病状が悪化し、大正10年に摂政を立てて事実上引退する。

 大正天皇は、即位後、多忙な日々を送る中で心労が重なって体調を崩したと当時の宮内省が発表していたが、今回公開された記述からはその一端がうかがえる。「大正4年1月3日」の動静は、日付以外すべてが黒塗りにされ内容が伏せられていたが、元老の山県有朋の拝謁を受けたあと、晩餐をともにしていたことが判明した。長州出身で陸軍元帥の山県は、当時、元老の筆頭格として枢密院議長を務めていて、政治や軍事などで事実上、最高決定権を持つ立場にいた。

 軍事にあまり興味がなかったとされる大正天皇は、山県と疎遠だったと考えられていたが、実録では「以後こういうことがしばしばあった」と記され、即位後、頻繁に会っていたことが判明した。同年4月30日、海軍の幹部から第1次世界大戦の情勢について説明を受けていたことが判明した。掲載されている一覧表には、その後、大正天皇が軍の幹部将校から聞いた軍事に関する説明の数々が列記されていた。

 大正4年に行われた即位の儀式の記述では、皇祖神の天照大神に即位したことを告げる御告文を読む場面で、1か所だけ6文字分の黒塗りがあった。今回解除されて出てきたのは、「玉音高らかに」と単に読み上げる様子を描写しただけの言葉であった。従来、論議されていた下りだけに「肩すかし」となった。

 今回の公開で、大正天皇晩年の病状の様子や面会者の氏名などが新たに公開された。「大正天皇晩年の病状の様子」の記述は全文開示され次のように判明した。崩御の1年前、「(1925(大正14)年12月)十九日、■■■脳貧血ニテ■■■御恢復(ごかいふく)アリ」。この黒塗り文が次のように開示された。「十九日午後四時四十分 突然脳貧血ニテ 一時人事不省ニ陥ラセラレシモ 漸次御恢復アリ」。これによると、「十九日午後四時四十分」に「突然」、「脳貧血ニテ一時人事不省ニ陥ラセラレシ」重篤な状態になったことが判明した。当時の発表では軽症の脳貧血だったとされているが、今回黒塗りが解除されたことで、実録では「一時人事不省」に陥り、3か月あまり寝たきりの状態になるほどの重症だったことが判明した。

 続いて、逝去する1926(大正15)年の5月11日午前2時40分、その4カ月後の9月11日午前11時25分にも、「突然」、同様の症状が起きていた。特に5月は、「約四十分間ヲ過ギテ醒覚アラセラル」とあり、長時間、意識がなかったことが分かった。

 今回の情報公開により新たに判明したことは、「(大正10)年、病弱を理由に後の昭和天皇を摂政として蟄居後の大正天皇に対する元老の山県有朋ら政府要人らの頻繁な面会の様子」である。穏健派は「公務多忙」と読むが、そういう「読み」に我慢できない者もいよう。なぜなら、そういう「読み」では、これまで秘せられていたことの意味が分からなくなる。秘せられていたのは秘せられる値する事情があったからであり、それはズバリ「毒殺疑惑」こ繋がる。しかも、その犯人が「元老の山県有朋ら政府要人」とのことである。何と重大情報だろうか。秘せられてきたことには十分な事情があったことになる。「元老の山県有朋ら政府要人」とは恐らく「例の長州勢」であり、確か幕末動乱時の徳川将軍家茂、孝明天皇、明治天皇暗殺にも関わっている。

 **年、大正天皇は47歳で崩御し、在位は14年余りと短期間に終わった。これに大正天皇の病状と「元老の山県有朋ら政府要人」と「毒殺」がどう絡むのか絡まないのかが問われている。


 「大正天皇の実像詳細に」。

7月1日

13年前に公開された大正天皇の活動記録、「大正天皇実録」について、宮内庁は個人情報の保護などを理由に一部を黒塗りにした当時の措置を見直し大部分を公開しました。病弱で悲運の天皇として知られる大正天皇の体調や病状、未発表の動静などの詳細が明らかになり、日本の近代史の実像に迫る手がかりになると期待されています。
黒塗り解除の経緯や何が明らかになったのか、社会部の鈴木高晴記者が解説します。

“悲運の天皇” 大正天皇

天皇陛下の祖父の大正天皇は、激動の明治と昭和の狭間の時代を治めた悲運の天皇として知られています。明治天皇の三男として生まれ、兄たちが幼くして亡くなったことから8歳の時に次の天皇と定められました。
生まれながら病弱でたびたび重い病気にかかりましたが、成長とともに健康を回復し、皇太子として全国各地や朝鮮半島を訪れて人々と触れあいました。
しかし、明治天皇の崩御を受けて32歳で即位すると日常が一変します。

軍事演習や式典などが中心の窮屈な生活を送るなか、第1次世界大戦や大正デモクラシーの動きに伴う政局の混迷の影響で心労が重なり、病状が悪化。やがて話すことも困難になり、大正10年には、皇太子、のちの昭和天皇を摂政として、事実上引退しました。その後は療養に専念しましたが回復せず、47歳で崩御し、在位は14年余りと短期間に終わりました。

大正天皇実録とは

その大正天皇の日々の動静を記した公式の記録集が「大正天皇実録」です。

昭和2年から昭和12年まで10年余りかけて当時の宮内省が編さんしました。大正天皇の47年余りの活動が年代順に日誌のような形で記されていて、本編は85巻5000ページ余りからなります。

黒塗り範囲見直し 大部分公開

完成後長らく公開されなかった大正天皇実録。情報公開法の施行を受けて平成14年から段階的に公開されましたが、当時は個人情報の保護などを理由に全体のおよそ3%が黒く塗りつぶされていました。

一方、去年完成した昭和天皇実録は個人情報にあたるものも可能な限り公開するとして黒塗りは行われませんでした。
そこで、NHKでは大正天皇実録についても同じ基準で公開するよう申請し、宮内庁は当時の措置を見直して黒塗り部分のおよそ8割を解除しました。

黒塗り部分には何が

黒塗りが解除されたところは、本編だけでも1000か所以上におよびました。
この中には歴代の天皇で初めて学校に通った大正天皇の小学校での様子を記した箇所もあります。明治26年7月、学習院初等科の卒業式の記述のあとにあった、父親の明治天皇に宛てられた学校の成績などの報告書です。これまでは21ページにわたって黒塗りにされ全文が伏せられていましたが、今回、成績の順位とみられる箇所を除きほぼすべてが公開されました。
そこでは、大正天皇は、明治20年、8歳でいまの小学2年生にあたるクラスに編入されたものの、病気で83日欠席し、進級試験も受けられなかったため留年することになったと記されています。

その後、体調が安定して進級を重ね、4年生の時には1年間、1日も休まず、「学期末の御成績も著しく」、「精勤証書」(皆勤賞)を受けたと書かれています。しかし、6年生になると再び大きな病気をして12月から3月まで74日間にわたって欠席していました。成績が心配されたが、回復後は心身の気力が以前にも増し、卒業できたと記されています。

体調や病状の詳しい記述も

病弱だった大正天皇の体調や病状に関する詳しい記述もあります。
このうち大正7年8月、38歳の時、静養で日光の御用邸に滞在した際には、「一昨年頃から発語障害や歩行困難などの異状があり、それが治らないため滞在中はほとんど遠出をしなかった」という内容の記述がありました。
大正天皇は、その後病状が悪化し、大正10年に摂政を立てて事実上引退します。

崩御の1年前、大正14年12月に起きた「脳貧血」の発作については、当時の発表では軽症だったとされ、実録では日付けと「脳貧血にて」「漸次御恢復あり」という部分以外黒塗りにされていました。
ところが、今回黒塗りが解除されたことで、「一時人事不省」に陥り、3か月あまり寝たきりの状態になるほどの重症だったことが分かりました。

即位後は多忙な日々

大正天皇は、即位後、多忙な日々を送る中で心労が重なって体調を崩したと当時の宮内省が発表していましたが、今回公開された記述からはその一端がうかがえます。「大正4年1月3日」の動静は、日付以外すべてが黒塗りにされ内容が伏せられていましたが、元老の山県有朋の拝謁を受けたあと、晩餐をともにしていたことが分かりました。

長州出身で陸軍元帥の山県は、当時、元老の筆頭格として枢密院議長を務めていて、政治や軍事などで事実上、最高決定権を持つ立場にいました。

軍事にあまり興味がなかったとされる大正天皇は、山県と疎遠だったと考えられていましたが、実録では「以後こういうことがしばしばあった」と記され、即位後、頻繁に会っていたことがわかりました。

近現代史が専門の日本大学の古川隆久教授は、「実質的な最高実力者の意見を聞いておく必要があるという天皇や側近の判断があって実際にはしばしば顔をあわせていたことが分かった。短い記述だが、天皇としての本来の職務をうかがい知る上での重要なポイントだ」と評価しています。

また、同じ年の4月30日には、海軍の幹部から第1次世界大戦の情勢について説明を受けていたことが分かりました。

掲載されている一覧表には、その後、大正天皇が軍の幹部将校から聞いた軍事に関する説明の数々が列記されていました。古川教授は「天皇がストレスに感じるような仕事が実は多かったということがわかり、体調悪化の背景が具体的に裏付けられた。戦前の天皇は最高の公人であり、実質的に活動していた時期を中心に多くの記述が読めるようになったことは、当時の国の動きや大正天皇の人物像の研究を深める手がかりになる」と話しています。

黒塗り判断に疑問も

大正天皇が政府の要人や軍の幹部と面会していたことはなぜ伏せられていたのか。宮内庁は「公式には発表されていない、私的なものだ」として、公開を見送っていたということです。これについて古川教授は、「本来公開されるべき情報が長年伏せられていたことは大きな問題だ」としています。さらに今回黒塗りが解除された中には、なぜ隠されたのか首をかしげたくなるものもあったと言います。
大正4年に行われた即位の儀式の記述では、皇祖神の天照大神に即位したことを告げる御告文を読む場面で、1か所だけ6文字分の黒塗りがありました。今回解除されて出てきたのは、「玉音高らかに」と単に読み上げる様子を描写しただけのことばでした。古川教授は、「天皇にとっていちばん大事な儀式で情報が伏せてあったのでよほどのことが書いてあるのではないかと想像していたが、肩すかしだった。宮内庁の当初の黒塗りの判断が形式的すぎて無意味だったという典型例だ」と指摘しています。

大正天皇実録はどこで見られる

専門家が、日本の近代史の実像に迫る手がかりになるとする大正天皇実録。全巻が皇居にある宮内公文書館に所蔵されています。
去年完成し話題になった昭和天皇実録は、ことし3月から段階的に出版が始まり、書店に並んでいますが、大正天皇実録は今のところ出版の計画はありません。新たに公開された記述を目にするためには、公文書館を訪れて閲覧やコピーを申請する必要があります。


今回の公開で、繰り返し起きた脳貧血の病状や、元老の山県有朋ら政府要人らと頻繁に面会していたことなどが明らかになった。

病状に関する記述を見ると、1925(大正14)年12月の記述はこれまで「十九日、■■■脳貧血ニテ■■■御恢復(ごかいふく)アリ」と黒塗りされていたが、今回の解除で「十九日、午後四時四十分突然脳貧血ニテ一時人事不省ニ陥ラセラレシモ漸次御恢復アリ」と記されていたことが分かり、夕方に突然、意識不明に陥るほど重篤な状態になったことが判明した。

 逝去する26(大正15)年の5月11日午前2時40分と、4カ月後の9月11日午前11時25分にも突然、同様の症状が起きていた。特に5月は「約四十分間ヲ過ギテ醒覚アラセラル」とあり、長時間、意識がなかったことが分かった。

 「大正天皇」などの著書がある古川隆久・日本大教授(日本近現代史)によると、新たな公開部分から、大正天皇が山県有朋ら政府要人と頻繁に会っていたことや、軍人から何度も第一次世界大戦の戦況について報告を受けていることが読み取れるという。

 古川教授は「私的なこととして黒塗りにされていた面会相手が、実は政府要人であったケースが多くみられ、かなり忙しく仕事をしていたことが分かった。病弱とされた大正天皇が、即位後の多忙な公務をこなす中で重い病気になっていった背景が明らかになった」と話している。【真鍋光之、高島博之】


 「大正天皇実録 」。
  若き大正天皇の姿生き生き 宮内庁で「実録」閲覧始まる

 大正天皇(1879~1926)の日々の動静や、関連した出来事などを年を追って記した文書「大正天皇実録」の閲覧が11年3月25日午前、宮内庁書陵部で始まった。2002年、03年、08年に続く4回目。約10年がかりですべてが公開された。今回公開されたのは、生誕の1879(明治12)年8月から、天皇になる直前の1912(明治45)年7月までの約33年間を記録した47冊と、年表など10冊の計57冊。幼少時から病気に悩まされていたことや、皇太子時代に東北地方など全国を積極的に巡ったこと、1907(明治40)年に訪韓したことなどが記述されている。病弱ながらも行啓(ぎょうけい=太皇太后・皇太后・皇后・皇太子・皇太子妃・皇太孫が外出することを重ねるなど、活動的な皇太子像も浮かび上がってくる。

 黒塗りがなされた箇所は天皇や皇族の個人情報に関するもので、公開された本文約69万6500字のうち約3%に当たる約2万1800字が非公開(黒塗り)となった。主に学業の評価や過去に公表されていない病気に関する記述など全体の約3%だった。同実録は本文85冊、年表2冊、索引7冊、正誤表1冊の計95冊から構成され、宮内省図書寮編修課が1937(昭和12)年に編集した。なお実録(じつろく)とは、皇帝一代の事績を記録した書物を指す用語。

 『大正天皇実録』(全85巻)=当時の宮内省において1927(昭和2)年から1937年にかけて編纂されていた。だが、長年宮内庁においては情報公開の対象外していたことから、「大正天皇の健康問題が関わっているのでは」などの公開しない理由についてさまざまな憶測が飛んでいた。01年、朝日新聞記者の情報公開請求がきっかけになって情報公開・個人情報保護審査会が非公開を不当とする判断を下したことから、宮内庁が02、3及8[][]に一部黒塗りとして公開してきていた。  

 注;天皇実録=歴代天皇の事跡(活動や日々の言動を記したもの)を主に年次順にまとめた記録。古くは「日本文徳天皇実録」など平安時代のものもある。大正天皇実録は崩御(ほうぎょ=死去)翌年の1927(昭和2)年に宮内省編修課(当時)が編さんに着手、約10年間で完成させた。全85冊に加え、年表4冊、索引7冊、正誤表1冊がある。昭和天皇実録は1990(平成2)年度に編さんを開始、2000(同22)年度完成を目指していたが、2013年度末になることを宮内庁が2010年11月5日に明らかにしている。遅れる理由として宮内庁は、膨大な資料や日記類を照らし合わせる作業や、実録の叙述の統一性をはかる作業などに手間取ったためと説明している。作業は現在16人で進めており、これまでに約2億円を要した。明治天皇の実録は、情報公開法ができる前に「明治天皇記」として私的部分も含めて全文公開されている。なお、皇帝一代の事跡や国家、政治上の重要事項を記した編年体の記録である実録は中国がルーツ。

 ☆ 自転車で外出 全国巡啓も

  記述で、とりわけ目立つのは、乗馬や自転車、徒歩での度重なる外出と、全国各地、韓国への巡啓だ。  大正天皇は1889(明治32)年11月3日に皇太子になった。1899年に東宮輔導(とうぐうほどう。明治天皇が伊藤博文の奏上を受けて、これまで東宮職の役人に任せきりであった嘉仁親王〈大正天皇〉の養育を教育から健康まで総合的に行うため、新たに設置した職に就いた有栖川宮威仁親王ありすがわのみや たるひとしんのう=有栖川宮幟仁〈たかひと〉親王の第4王子。幼称は稠宮〈さわのみや〉。海軍兵学校卒。西南戦争をはじめ日清戦争日露戦争に従軍。また明治天皇名代として外国の式典に参列した。のち海軍大将。52歳で死去。王子の栽仁王〈たねひとおう〉が早世していたため、有栖川宮家は断絶したや、1900(明治30)年5月に結婚した節子(さだこ)皇太子妃らの影響で、皇太子の行動は活発になる。1901(明治34)年9月18日には「御乗馬ニテ近傍(きんぼう=付近)御逍遥(しょうよう=気ままにあちこちを歩き回ること。そぞろ歩き。散歩コト度アリ」との記述がある。

 行啓(ぎょうけい=太皇太后・皇太后・皇后・皇太子・皇太子妃・皇太孫が外出すること。天皇が外出することを行幸〈ぎょうこう〉といい、行く先が2か所以上にわたるときには巡幸〈じゅんこう〉という)は関西、東北、北海道など全国に及んだ。

 例えば、1908(明治41)年に東北地方に行く。現在の震災被災地でもある福島の原ノ町、富岡なども訪れ、「雙葉(ふたば)郡役所」に泊まった。1900年10月、皇太子は九州に赴いた。先々で好奇心に満ちた質問が発される。同28日には福岡の香椎宮(かしいぐう)で、知事との間に、いわば「松茸(まつたけ)問答」とでもいうべき、こんなやりとりがあった。 知事「……松茸狩ニ御供仕ル」。皇太子「……其ノ松茸ハ植エ置キシモノニアラザルカ」。知事「恐ナガラ御試験下サセ給ハリタシ」。皇太子「松茸ノ試験カ」。こう語った後「微カニ笑ハセ給フ」と書かれている。同じ九州行啓では、福岡の筥崎宮(はこざきぐう)で質問はなかなか尽きず、「問ハセラルル処アリ、遂ニ御予定ヲ遅ラスコト約五十分ニ及ブ」などとある。

 1907(明治40)年には韓国を訪れた。このとき、大正天皇は韓国皇太子の李垠(イ ウン。1897~1970)を大変かわいがった。韓国皇太子の日本滞在中、ビリヤードをしたり、誕生日のお祝いを贈ったりしている。「実録」から、1909(明治42)年10月は数回の交流があったことが分かる。

 実録には、編纂(へんさん)で使った出典も記されている。しかし、「官報」「侍従(じじゅう)職日録」など公式記録が多い。今回も、個人の日記や書簡(しょかん=手紙。書状)類など注目できる未公開資料はなかった。

 一方、「個人識別情報」を理由とする黒塗り箇所については毎回、「歴史資料は公開すべきだ」と研究者らに問題視されてきた。宮内庁書陵部(しょりょうぶ=は皇室関係の文書や資料などの管理と編修、また陵墓の管理を 行う、宮内庁の内部部局の一つ)は「学習院時代の『成績報告書』を黒塗りにしたため、約3%になった」と説明する(11年3月26日配信『朝日新聞』)

後の大正天皇(前列中央)。皇太子時代に韓国を訪れた。右側の少年は、大正天皇が溺愛した韓国皇太子の李垠(イ ウン)=1907年10月。「実録」から、1909年10月には数回の交流があったことがうかがえる。 

 ☆ 大正天皇:動静記録の「実録」一部を公開…宮内庁

宮内庁は25日、大正天皇の動静を記録した「大正天皇実録」の一部(複製本)を公開した。2002年、03年、08年に続く4度目で、今回が最後となる。誕生した1879(明治12)年8月から、明治天皇が死去する1912(明治45)年7月までが対象。実録全85冊のうち、未公開だった第1巻から第47巻までが公開された。計2786ページ、約70万字のうち、約3%は「個人情報」として黒塗りされている。

実録の編さんは、大正天皇が死去した後の1927(昭和2)年7月に当時の宮内省が着手し、37(同12)年12月に完成した。

大正天皇は幼少のころは明宮(はるのみや)嘉仁(よしひと)親王と呼ばれており、今回の公開分では学習院での教育の様子や、教育係として有栖川宮(ありすがわのみや)威仁(たけひと)親王が就任したことのほか、1889(明治22)年の立太子の儀を経て、九条節子(後の貞明皇后)と結婚するくだりなどが盛り込まれている。また、皇太子として九州、信越、北関東など全国各地へ赴き、韓国を訪問した際の様子なども記されている。

今回の公開で宮内庁に現存する歴代天皇実録は全て閲覧可能になったが、大正天皇実録は墨塗り部分が多い。01年施行の情報公開法で行政文書の個人識別情報の開示が除外され、宮内庁はこれに準拠し、それ以降は歴史的資料であっても、天皇の個人情報と判断した部分を黒塗りにした。14年春にも完成する昭和天皇実録も同様になるとみられる。

大正天皇は皇太子時代に韓国を訪問、皇室では初めて一夫一婦制を実践し国民に親しく話しかけるなど、今日の皇室の基礎を形作った。今年は大正改元100年。「明治天皇紀」は明治100年を記念して国家事業としてほぼ全文が公刊された。明治以降、日本が天皇を国家元首として位置づけた以上、元首の行動記録は自国の歴史の基礎資料で、国民に完全に開示しないのは歴史に対する冒とくとも言える。墨塗りの大正天皇実録公開をもう一度再考すべきだろう(11年3月25日配信『毎日新聞』) 

 ☆ 闘病の日々、淡々と記述 「大正天皇実録」第3回公開

 大正天皇の日々の動静を記した文書「大正天皇実録」の3回目の閲覧が4日午前、宮内庁書陵部で始まった。今回公開されたのは、1921(大正10)年7月9日から、陵に葬られた27(昭和2)年2月まで。淡々とした記述の間からは、病に苦しみ続けた天皇の姿が浮かんでくる。

実録は天皇の動静や、政治や外交上の重要事項などを記したもので、中国がルーツ。「大正天皇実録」は本文85冊、年表4冊、索引7冊、正誤表1冊の計97冊で、37(昭和12)年に完成した。

朝日新聞記者の情報公開請求をきっかけに、02年に8冊、03年に21冊分を開示。今回の9冊で、即位後の実録については、すべて公開されたことになる。今回、「個人識別情報」の黒塗りは約250カ所。全体の2%に及んだ。

病気にかかわる記述が興味深い。まず皇太子(後の昭和天皇)が摂政となった21(大正10)年11月25日の記載。

それまでの天皇の病気の経緯を総覧し、14(大正3)年ごろから軽度の言語障害があったこと、翌15(大正4)年11月ごろから「階段ノ御昇降ニ当リテハ多少側近者ノ幇助(ほうじょ)ヲ要セラレ」と記している。

この15年11月というのは、京都で天皇の即位大礼が行われた月。「この月、大正天皇はほとんど東京にいなかった。あるいは、即位大礼や行き帰りの駅などで、介助を必要とする何かが起きたのかもしれない」と、明治学院大教授の原武史さん(日本政治思想史)は推測する。

続いて、16(大正5)年12月の出来事として「御尿中ニ微量ノ糖分顕出アリ」との記述が。そういえば、父の明治天皇も糖尿病だった……。

さらに、18(大正7)年夏のこととして、「御姿勢時々右側ニ御傾斜アリ、御乗馬ノ際モ御姿勢整ハセ給ハズ」とある。この症状は22(大正11)年の侍従武官日記にもあるが、その数年前から病状が出始めていたことがわかる。

18年はちょうど大正天皇が観兵式などを欠席し始める時期と重なる。「乗馬時の姿勢保持ができなくなったので、それが必要な観兵式などに出られなくなっていったのだろう」と原さん。

死後埋葬された、多摩陵(たまのみささぎ)に関する記述も目を引く。この陵は、東京府横山村(現・東京都八王子市)に築かれたのだが、この場所が選ばれた理由はこれまでよくわからなかった。

「実録」はその理由について、地層が古生層で、地震に際し、「地盤ノ被害著シカラザル」ことをあげる。また、万葉集に詠まれた「多麻の横山」の故地であることなども考慮したとある。

 原さんによれば、「多摩陵は、明治天皇の伏見桃山陵をかなり意識している」という。墳丘(ふんきゅう)の型式などについて記した部分に、「伏見桃山陵」に「依リ」「準ジ」という記述が出てくる。

 原さんは「宮内省省報などには載っていないが、実録を読むと、天皇は23(大正12)年5月ごろまで油壺(神奈川県)などに出かけている。摂政を立てて以降も、この頃までは静養のかたわら、宮城(皇居)や御用邸の近くまで出かけることがあったようだ」と話している(08年6月5日配信『朝日新聞』)

 ☆ 晩年期の大正天皇実録公開 古代の例挙げ摂政の正当性

  宮内庁は4日、大正天皇の動静や当時の出来事を年ごとに記録した「大正天皇実録」全85冊のうち、晩年に当たる1921(大正10)年7月から葬儀が行われた27(昭和2)年2月までの5年半分、計9冊を公開した。

 病状が悪化していた大正天皇は、葉山や日光など御用邸で静養することが多く、代わりに皇太子(のちの昭和天皇)に関する記述が急増。

 欧州外遊から帰国後の21年11月に皇太子が摂政に就任した正当性を「摂政設置のことは、其(そ)の沿革極めて古く…」「摂政を置くは国家皇室の大事なるが故に…」と、推古天皇など古代の例を引きながら約8ページにわたって詳述している。

 皇太子は祝典で勅語を代読したり、外国の全権大使と会見したりするなど実質的に天皇として活動。関東大震災では1000万円を被災者に贈り「心深く之(これ)を傷む」「官民其(そ)れ協力して(略)処置を為(な)し以(もっ)て遺憾なきを期せよ」と発言している(08年8月6日配信『共同通信』)

 ☆ 病状触れ摂政設置の経緯 大正天皇実録に記述

 宮内庁が4日公表した「大正天皇実録」は、病弱だったとされる大正天皇の症状に触れながら、皇太子(後の昭和天皇)の摂政就任に向けた皇室会議開催の経緯を記していた。

 実録によると、大正天皇は1914(大正3)年ごろから「軽度の御発語御障碍」があり、その後、姿勢が「前方へ屈せらるる御傾向」が強まり、18(同7)年には姿勢が右側に傾き、乗馬の姿勢も整わなくなった。

 さらに「御判断御思考等の諸脳力」が次第に衰え、特に記憶力が衰退。いったんは回復したが、発語が不自由で表現が困難になった。

 「聖体の御異状概ね上記の如くなるを以て」21(同10)年11月21日午前11時、男子皇族や宮内大臣らが出席して皇族会議を開催。「天皇陛下御病患久きに亘り大政を親らしたまふこと能はさるを以て」摂政を置くことを議決し、皇太子の摂政就任が決まった。会議は10分間で終了したとしている(08年8月6日配信『共同通信』)

☆ 大正実録、2度目の公開 即位の礼、大嘗祭など収録

  内庁は28日、大正天皇の公私にわたる動静を中心に当時の政治や軍事、外交などの重要事項を年ごとに記録した「大正天皇実録」(97冊)のうち、昨年3月に初めて公開した8冊に加え、新たに21冊を公開した。  今回の公開は1914(大正3)年7月から21(大正10)年6月までの約7年間分。この間には即位の礼(15年)や大嘗祭(だいじょうさい)が行われている。  実録は大正天皇が亡くなった翌年の27年から、当時の宮内省図書寮編集課が編さんを始め、37年12月に完成した。当時の官報や側近の記録などを基にまとめられており、年表や索引も合わせると全体で6820ページに上る。  宮内庁は昨年3月、即位から約2年分を初めて公開。しかし本文中の141カ所が「個人情報保護」などを理由に黒塗りされ、学者からは批判の声も出ていた(03年3月28日配信『共同通信』)

  宮内庁が「大正天皇実録」の一部公開

 宮内庁は29日、大正天皇の動静を記録した「大正天皇実録」の一部(複製本)を公開した。実録は1937年に編さんが完成し宮内庁書陵部が保管していたが、情報公開審査会が「歴史的資料」と認定したため66年目の公開となった。今回は即位した1912(大正元)年7月から14(同3)年6月までの記録が対象だが、86日分にわたって計141カ所が「個人情報」として黒く塗りつぶされた。「公にする慣行がない」と首相の内奏も伏せられた。公刊されている明治天皇の実録は私的部分も含め公開されており、開示方法の当否も議論となりそうだ。実録は全85冊(巻1~巻85)あり、巻48から巻55の8冊が今回公開分。ページ数では全体の9%に満たない。同庁は今年末までに残りも公開する(02年3月29日配信『毎日新聞』) 

 ☆ 大正天皇実録を公開へ=動静など記す文書 

宮内庁は13日までに、大正天皇がかかわった事柄や行動などを記した「大正天皇実録」を今年度までに公開することを決めた。実録は歴代天皇の行動を記録した文書で、同庁が職務として編さんしており、明治天皇の「明治天皇紀」が既に刊行されている。しかし、大正天皇実録編さんについては、完成した1937年当時に報道されていたが、内容は公開されていなかった。大正天皇実録の公開について、同庁は「情報公開法の対象外である書陵部が保存している歴史的資料」と主張、非公開としていた。情報公開審査会も同庁の主張を認めていたが、書陵部は「歴史的資料は一般の研究に供するのが筋」との見解から、01年度末までに調査が終了した分を公開することを決めた。プライバシーに関する部分は非公開となる(01年12月13日配信『共同通信』)





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