昭和天皇の履歴

 (最新見直し2015.08.12日)

 ここで、昭和天皇履歴その1をものしておく。「ウィキペディア昭和天皇」、その他を参照する。


 1901(明治34)年、4.29日、皇太子明宮嘉仁(よしひと)親王(後の大正天皇、当時21歳)の第一皇子として誕生。生母は節子(さだこ妃)当時16歳、明治天皇の第一皇孫となった。名を裕仁(ひろひと)と名づけれらた。

 裕仁は恒例により里子にだされることになった。白羽の矢が立ったのは、枢密顧問官の川村純義だった。川村は旧薩摩藩の出身の参議、海軍卿、宮中顧問官などを歴任し、高潔な人格として世に知られ、明治天皇の信頼も厚かった。里親が民間から選ばれるのは異例であったが、教育上の配慮として英断されたものと思われる。里親に軍人が選ばれたのも、将来の大元帥としての教育的配慮であったものと思われる。「自分の孫のつもりで育てて欲しい」との皇太子嘉仁の言葉が賜れている。

 1902(明治35)年、6.25日、皇太子明宮嘉仁(よしひと)親王(後の大正天皇)の第ニ皇子として、淳宮やす仁(あつのみややすひと)親王(後の秩父宮)が誕生。秩父宮も川村の元で養育されることになった。

 「兄弟は順調に育っていく。兄に比べて、弟のほうが性格的に活発だったらしい。川村の躾は厳しかった。裕仁がわがままな子に育たないよう、例えば食べ物の好き嫌いなど絶対に許さなかった」とある。

 1905(明治38)年、1.3日、皇太子明宮嘉仁(よしひと)親王(後の大正天皇)の第三皇子として、光宮宣仁(てるのみやのぶひと)親王(後の高松宮)が誕生。

 ところが、川村は明治38年8月に病死する。裕仁、3歳3ヶ月の時だった。川村の子息・鉄太郎は『自分には力がないから』と、養育の継続を断わった。そこで兄弟は川村家を去り、暫く沼津の御用邸で過ごした後、翌年東宮御所に帰ることになった。東宮御所の一画に、皇孫御殿が新築され、ここに住まうことになった。この皇孫御殿に移ってきてからは両親が近かったので、その情愛に接することができるようになった。

 1908(明治41)年、4月、裕仁は学習院に初等科に入学する。院長は陸軍大将・乃木希典であった。乃木は明治天皇の期待に応えるべく、皇孫の教育に意を尽くした。4年後、乃木は天皇の後を追って殉死するが、彼の人格的な薫陶が裕仁に与えた影響は軽視できない。後年、裕仁は、自分が尊敬する第一の人物として乃木の名をあげていることからしても推定できる。

 1912(明治45、大正元年)年、7.30日、明治天皇崩御。父嘉仁(よしひと)親王が大正天皇となり、裕仁親王は皇太子となる。大正と改元された。

 9.9日、明治天皇の大葬が執り行われ、この日乃木希典夫妻が殉死。これにつき次のような逸話がある。「『日本こそが中国だ』と叫んだ山鹿素行」によれば、1912(明治45).7.30日、明治天皇が崩御され、9.13日、青山の帝国陸軍練兵場(現在の神宮外苑)において大喪の礼が執り行われた。午前8時、明治天皇の柩が、神宮外苑絵画館裏口に当たる臨時駅から、京都桃山御陵に向かってご発引の砲声が轟きわたると同時に、学習院長の乃木希典将軍は赤坂の自邸で、明治大帝の御後を慕い静子夫人と共に自刃している。

 その二日前の9.11日、乃木は東宮御所へ赴き、当時、御年満11歳、学習院初等科五年生であった皇太子裕仁親王殿下(後の昭和天皇)を訪ね、次のように語っている(この時の模様を大正天皇の学友、甘露寺受長氏の著書「背広の天皇」が次のように伝えている)。乃木は、皇太子が陸海軍少尉に任官されたことにお祝いのお言葉をかけた後、「今日は、私がふだん愛読しております書物を殿下に差し上げたいと思って、ここに持って参りました。『中朝事実』(山鹿素行)という本でございまして、大切な所には私が朱点をつけておきました。ただいまのところでは、お解りにくい所も多いと思いますが、だんだんお解りになるようになります。お側の者にでも読ませておききになりますように──。この本は私がたくさん読みました本の中で一番良い本だと思いまして差し上げるのでございますが、殿下がご成人なさいますと、この本の面白味がよくお解りになると思います」。

 その三日前の9.8日には、椿山荘に赴いて、山縣有朋(枢密院議長)に自ら中朝事実を抜書した「中朝事実抜抄」を手渡し、大正天皇に伝献方依頼している。66年を経た昭和53.10.12日、松栄会(宮内庁OB幹部会)の拝謁があり、宮内庁総務課長を務めた大野健雄氏が、「先般、山鹿素行の例祭が宗参寺において執り行われました。その際、明治四十年乃木大将自筆の祭文がございまして、私ことのほか感激致しました。中朝事実をかつて献上のこともある由、聞き及びましたが……」と申し上げると、陛下は即座に、「あれは乃木の自決する直前だったのだね。自分はまだ初等科だったので中朝事実など難しいものは当時は分からなかったが二部あった。赤丸がついており、大切にしていた」と大変懐しく、なお続けてお話なさりたいご様子でしたが、後に順番を待つ人もいたので、大野氏は拝礼して辞去したと云う(坪内隆彦「『日本こそが中国だ』と叫んだ山鹿素行(明日のサムライたちへ)」)。

 1914(大正3)年、皇太子裕仁親王は、学習院初等科を卒業し、東宮御所構内に開設された東宮御学問所(総裁・東郷平八郎元帥、副総裁・波多野敬直宮内大臣)で、次代の天皇となる為の帝王学に専念されることとなった。日本中学校長の杉浦重剛が倫理を担当した。その他当代一流の学者が選任され、学業を補佐していくことになった。 

 1916(大正5).11.3日、迪宮(みちのみや)/裕仁(ひろひと)親王、満15歳の時、立太子礼により皇太子に就任する。  

 1918(大正7)・1.17日、皇太子裕仁と皇族/久邇宮良子(ながこ)との婚約(翌年6月に正式の婚約)が内定した。良子が東宮妃に選ばれたのは、貞明皇后(節子)の強い希望によっていたと伝えられている。6.10日、婚約勅許の正式発表が行われている。久邇宮良子(ながこ)女王の生母・俔子(ちかこ)は最後の薩摩藩主・島津忠義(ただよし)の娘であり、久邇宮良子(ながこ)女王は久邇宮(くにのみや)邦彦王と俔子(ちかこ)夫妻の長女である。さらに忠義は維新の大立者・島津久光(ひさみつ)の息子であった。


 1919(大正8)年、5.2日、大正天皇陛下、皇太子殿下(後の昭和天皇)が國神社鎮座五十年記念祭に参列 。5.7日、40歳の時、裕仁皇太子成年式。5.9日、東京奠都50年祭出席。10月、海軍特別大演習 横浜で御召艦・戦艦「摂津」に乗艦 洋上にでて演習を統制。演習終了後、横浜沖で特別大演習観艦式を親閲。11.9日、兵庫大阪陸軍特別大演習に皇太子とともに出席。

 1920(大正9)年、6月この頃から、皇太子裕仁の摂政就任の動きが具体的に動き始めた。これについて最初に言及したのが内大臣・松方正義公爵内大臣で、原首相に摂政設置提案が為されている。皇室典範第19条「天皇久しきにわたるの故障により大政を親(みずか)らすること能わざるときは、皇族会議及び枢密顧問の議を経て摂政を置く」の規定に基づき、裕仁皇太子の摂政につき検討するよう提議している。

 これに対する原の見解は、「遂に摂政を置かるる必要に至らん事と恐察するもそれまでにはたびたび御様子を発表して国民に諒解せしむるの必要もこれあるべし云々」と答えている。注意すべきは、摂政を置く必要があるという事態の認識では一致していたが、心身症的理由によるもので「脳の病気」的観点は見られないことであろう。 

 1920(大正9)年夏から秋頃、皇太子裕仁(ひろひと)親王の后問題が発生している。既に婚約勅許の発表までされていた良子の家系的色盲遺伝の恐れが問題にされ、元老・山県、時の宮内大臣・波多野敬直らが火種元となった。これを首相の原敬が支持し、元老の西園寺公望も同調した。山県は首相原敬と相談して,専門医師の調査書をもとに元老西園寺公望らとも協議の末,久邇宮家にやんわりと辞退を迫った。これに対抗したのは東宮御学問御用係の杉浦重剛とそれに繋がる玄洋社の頭山満、黒竜会の内田良平、北一輝らであった。政界が日増しに騒然と化していった。この一連の経過が「宮中某重大事件」と云われている。 

 1921(大正10).10.25日午前11時、皇太子を議長とする皇族会議が開かれ、摂政を置くことを満場一致で可決。「朕久しきにわたるの疾患により大政を親(みずか)らすること能はざるを以って、皇族会議及び枢密顧問の議を経て、皇太子裕仁親王摂政に任ず」との大詔を受ける形で、東宮(皇太子裕仁親王→昭和天皇)がその職に就く事が議決された。続いて午後1時、枢密顧問が開かれ、満場一致で裕仁親王の摂政就任が了承された。枢密院会議が午後2時に終了した直後の午後2時30分、天皇は詔書を発し、皇太子裕仁親王を摂政に任命した。以降、皇太子が公務を代行することになり、大正天皇は実権を完全に喪うに至り、一線を退くことになった。(原死去の直後、皇太子の摂政就任となる)  

 1922.7月、裕仁皇太子は巡啓、行啓再開し、北海道を訪問する。この時、注目すべき変化が起っている。大正天皇の皇太子時代の時と比べて、「日の丸を振り、最敬礼して君が代を斉唱し、万歳を叫ぶ」というその後敗戦時まで続く光景のひながたが現出している。この「規律と秩序を重んじる政治空間」が、全国レベルに波及していくことになる。

 1924(大正13)年、1.26日、久爾宮良子女王と御成婚。1923年の関東大震災の発生で延期されていた皇太子裕仁親王と久爾宮良子の御成婚儀が挙行された。

 3.16日、大正天皇の第7回病状発表。

 1925(大正14)年、46歳の時、4.29日、皇太子殿下(昭和天皇)が靖国神社で第一次世界大戦臨時大祭に参列。 

 1926(大正15)年、47歳の時、2.10日、第9回病状発表。5.11日、第10回病状発表。8.15日、避暑のため、原宿駅から葉山御用邸へ出発。9.17日、第11回病状発表。10月、感冒で発熱。11.11日、御不例発表。明治神宮へ御平癒祈願の礼拝客が引きも切らぬ。11.18日、摂政宮裕仁、葉山御用邸へお見舞に参内。11.28日、3000人あまりの女学生が皇居前広場に参集して御平癒祈願。12.10日、生母柳原二位局、若槻首相などがお見舞いに参内。このころより皇族や大臣など葉山御用邸への往来が増える。12.15日、これ以降、御容体を官報にて発表。

 1926(大正15).12.25日午前1時25分、静養中の葉山御用邸において、長く会えなかった実母・柳原愛子(二位局)の手を握ったまま崩御した(享年47歳)。臨終の床に生母を呼んだのは皇后の配慮だったという。

 同日、御用邸で剣璽渡御の儀、皇居賢所では、新天皇代拝として掌典長が践祚の奉告を行い、ここに皇太子裕仁親王(25歳)が第124代の皇位就任し新天皇裕仁が誕生した。昭和と改元。大喪使官制公布。






(私論.私見)

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『昭和天皇実録』に記載されなかった真実 「英国情報工作員」とも引見した「昭和天皇」復興のインテリジェンス――徳本栄一郎
http://www.asyura2.com/15/senkyo190/msg/766.html
投稿者 赤かぶ 日時 2015 年 8 月 17 日 00:00:05:

『昭和天皇実録』に記載されなかった真実 「英国情報工作員」とも引見した「昭和天皇」復興のインテリジェンス――徳本栄一郎(ジャーナリスト)〈週刊新潮〉
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150816-00010001-shincho-soci
BOOKS&NEWS 矢来町ぐるり 8月16日(日)8時0分配信


『昭和天皇実録』は、約24年の歳月をかけて昨秋ようやく公表された。しかし、そこには世界各国のVIPとの詳しいやりとりは記載されていない。ジャーナリストの徳本栄一郎氏が、各国の機密文書を基に昭和天皇“復興のインテリジェンス”を浮かび上がらせる。

 ***

 第2次大戦終結から70年の今年は、国内外で戦後史の検証が行われている。中でも、今なお圧倒的に強い関心を呼ぶのが昭和天皇である。87年の生涯は敗戦から占領、そして復興と、まさに激動の時代だった。

 その生涯の動静を記録したのが、昨年9月に宮内庁が公表した『昭和天皇実録』(以下、『実録』)である。膨大な公文書や側近の日誌を基に年月日順に記述され、分量は全61巻、約1万2000ページに及んだ。私も大きな興奮を覚えながら読んだが、同時にある種の物足りなさも感じた。

 生前、天皇の下には世界の数多くの大物政治家、実業家、宗教指導者らが訪れた。彼らとの会見は現代史そのもので、国際政治の内幕を照らすはずだ。そのやり取りが『実録』からほとんど抜けているのだ。

 これまで私は世界中の様々なアーカイブで日本関連ファイルを収集してきた。各国の外務省、軍部、情報機関などが作成した文書で、膨大な皇室ファイルも含まれる。そして、そこからは『実録』に書かれなかった昭和天皇の素顔、現代史の実像が浮かび上がってきた。

 天皇がその生涯で直面した最大の危機、それは敗戦から6年以上続いた占領である。45年9月2日、東京湾上の戦艦ミズーリで降伏文書に調印して連合国の日本占領が始まった。翌年1月の「人間宣言」に続き、極東国際軍事裁判、日本国憲法の制定と激動の日々が続いた。ポツダム宣言の受諾で天皇制護持の了解は取ったものの、その保証は心もとないものだった。国内では連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーが絶対権力者に君臨し、日本政府は混乱の極にあった。ソ連や豪州は天皇を戦犯として裁くよう求め、米国の世論も厳しかった。

 そうした中で危機突破のため天皇が取った手段、それは欧米で隠然たる力を持つ人物への接近だった。彼ならマッカーサーと対等に渡り合い、必要なら圧力をかけられるかもしれない。全世界のキリスト教徒の聖地バチカンのローマ教皇であった。

 実際、『実録』の占領期の記述を見ると、キリスト教会幹部との相次ぐ会見が目を引く。一例を挙げる。

 46年7月19日に「午前十時、表拝謁ノ間において、今般日本のカトリック教徒への使節として来日の米国人司教ジョン・F・オハラ、同ミカエル・J・レーディに謁見を仰せ付けられる」とある。

 ジョン・オハラとミカエル・レディは米政界に太いパイプを持つ司教で、その約2週間前から来日し各界指導者と会見していた。帰国後、2人が作成した訪日報告書をワシントンの米カトリック大学が保管している。その7月19日の記述を読むと『実録』とはかなりニュアンスが違う。

「天皇は教皇ピウス12世のたゆまぬ平和への努力を称賛し、(中略)司祭や信者が日本で行う教育・社会活動に感謝を表明した。東京の修道会は壁に皇室の写真がかけられ、毎日シスターが天皇のために祈っていると伝えると喜び、その修道会の名を訊ねてきた。25年前、皇太子時代に天皇は教皇ベネディクト15世と謁見し、これ以上の名誉はなく今でも鮮明に覚えているという。彼はバチカンを訪問した唯一の皇族らしい」

 ここで重要なのは天皇がわざわざ皇太子時代のローマ訪問を持ち出し、バチカンとの結びつきを強調した事だ。天皇がかねてローマ教皇庁に接近を図っていた事はよく知られる。

「私は嘗て『ローマ』訪問以来、法皇庁とは、どうしても、連絡をとらねばならぬと思つてゐた、(中略)開戦后、私は『ローマ』法皇庁と連絡のある事が、戦の終結時期に於て好都合なるべき事、又世界の情報蒐集の上にも便宜あること竝(ならび)に『ローマ』法皇庁の全世界に及ぼす精神的支配力の強大なること等を考へて、東条に公使派遣方を要望した次第である」(『昭和天皇独白録』)

 確かにローマ教皇庁のインテリジェンス収集はずば抜けている。全世界に数十万人の司祭を配置し、彼らは常時現地の情勢を報告してくる。その情報網は英米の諜報機関を凌駕するとされる程だ。占領下でマッカーサーに対抗するため、天皇がローマ教皇を利用しようとしてもおかしくなかった。それを示唆するのが『実録』の48年1月23日の記述だ。

「午前、表拝謁の間において、財団法人慈生会理事長フランシス・ヨゼフ・フロジャック(フランス国人神父)を皇后と共に御引見になる。この度の御引見は、フロジャックが、ローマ法王庁等に日本のカトリック教会の現状を報告することを機に、四十年ぶりに帰国することによる」

■強い親英感情

 このフロジャックとは明治末期に来日し、結核患者の療養施設建設など社会福祉に携わったフランス人神父だ。敗戦直後に天皇に数回拝謁した彼は48年3月に40年ぶりに欧州を訪れるが、ある重要な使命を帯びていた。バチカンに天皇のメッセージを伝え、ローマ教皇の署名入り写真を持ち帰る事だった。

 その夏にフロジャックは再び天皇に拝謁して教皇の写真を献上したが、この直後、バチカンの英国公使館がロンドンの英外務省に報告を送っている。フロジャックの動きを察知した公使館は教皇庁幹部を通じて彼の目的を調べたらしい。

「ローマを訪れたフロジャックは教皇に謁見し、天皇からのメッセージを渡した。彼は返礼として教皇の写真を渡す事を希望し、それに教皇も同意したという」「ローマ教皇は、われわれの旧敵国への支持でしばしば非難されてきた。(親書交換は)些細な出来事だが、報告に値すると判断する」(48年7月6日、英外務省文書)

 戦争が終結したとはいえ、全世界のカトリック教徒の頂点と天皇の接触に英国は神経を尖らせたようだ。そしてこの時期、天皇はもう一人、欧米で大きな影響力を持つ人物に接近していた。英国王ジョージ6世である。『実録』によると、フロジャックに教皇へのメッセージを託した翌日の48年1月24日、天皇はある英国人外交官を引見した。マイルス・キラーン卿、シンガポール駐在の東南アジア特別弁務官で駐エジプト大使などを歴任した人物だ。

 明治末期に駐日大使館に勤務し、皇太子時代の天皇が訪英した際はスコットランドに同行している。『実録』では単に引見の事実しか書いていないが、英外務省の記録を読むと天皇の真の狙いが分かる。

「明らかに天皇は戦後初めて英国の旧友を迎えた事を歓迎していた」「天皇は先の戦争を遺憾に思っている事、自分は常に反対だったが周囲の環境や状況に逆らえなかったと断定的に語った」「言葉には発しなかったが天皇は強い親英感情を抱き、再び英国とのコンタクトを得て心から喜んでいた」(48年1月25日、英外務省文書)

 そして引見の最後に天皇はキラーン卿にある依頼をした。自分からぜひ英国王夫妻に挨拶の書簡を送りたいという。この思わぬ申し出に英国政府は少なからず慌てた。

 当時、天皇と外部の接触はGHQが厳重に監視し、外国元首への書簡も検閲していた。もし国王との接触がマッカーサーの不興を買えば英米関係に影響する。また英国にとって日本はまだ講和条約も調印していない敵国だった。日本軍による捕虜虐待で対日感情は悪く、天皇と親密な印象は世論を刺激しかねない。結局、英外務省はバッキンガム宮殿と協議し、天皇の弟の秩父宮を通じて口頭でジョージ6世のメッセージが届けられたのだった。

 このように占領期の天皇はフロジャック神父、キラーン卿など信頼できる人間を通じ、あらゆるルートで外部と接触を図った。GHQに対抗するにはローマ教皇や英国王は強力な援軍に映ったはずだ。宮中で天皇は必死に孤独な戦いを続けていたのだった。

■国際情勢に非常な関心

 やがてサンフランシスコ講和条約の調印で日本占領は終了した。GHQも去って日本は象徴天皇制に歩み出すが、この頃、皇室は新たな問題に直面していた。

 講和条約発効から2カ月後の52年6月11日、天皇は来日中のアレキサンダー英国防大臣を引見した。これも『実録』はただ引見としか書いていないが、英国政府の記録からは天皇の苦悩が垣間見える。

「天皇は(英国の)王室の近況を尋ねた後、国際情勢について質問してきた。中国、ソ連、マレー半島、ペルシア、エジプトなどに関する天皇の問いに、われわれは然るべき回答を行った。式部官長によると、天皇は国際情勢に非常な関心を抱いているが、現在の憲法下では政府から情報が入らず、自分の意見を言う事もできないという」(52年6月12日、英外務省文書)

 満州事変以降、日本の政府や軍部が天皇に情報を上げず、その権威を利用したのは事実だ。それが日中戦争、太平洋戦争の一因となった。しかもこの年は朝鮮戦争が3年目を迎え、世界中で東西冷戦が激化していた。そうした中、天皇は自ら海外のインテリジェンス収集に動き始めていた。

 例えば『実録』の59年11月25日の記述に、英国の前シンガポール駐在総弁務官ロバート・スコットを引見とある。任期を終えて帰国する前に来日したが、彼にはもう一つの顔があった。SIS(英国情報局秘密情報部、別称MI6)と連携して東南アジアの情報収集を行うことだった。当時、SISはシンガポールを拠点に、CIA(米中央情報局)と共に対共産主義工作を進めていた。

 この引見で通訳を務めたのが、外務省出身で宮内庁侍従職御用掛の真崎秀樹である。真崎は25年に亘り側近通訳を務めたが、その間、天皇と各国要人の会話を詳細にノートに記録していた。生前、彼はある米国人ジャーナリストの求めに応じ、英語でそのノートの内容をテープに吹き込んだ。私は30時間以上に及ぶ「真崎テープ」を入手して聞いてみたが、その中に天皇とスコットのやり取りがあった。話題はインドネシア情勢だった。

 天皇「(現地での)共産党の状況はどうですか」

 スコット「共産党は最大政党で、スカルノ大統領は他党と同様、彼らを管理できるかもしれません。しかし、これは彼の政権維持の策略に過ぎないとの見方もあります」

 天皇「インドネシアでの中国共産党の影響力は強いのですか」

 スコット「その通りです。ただ矛盾するのは、インドネシアが東欧共産圏の支援も受けている事です」

『実録』と「真崎テープ」の中身を更に比較する。62年1月11日に天皇はディーン・アチソン元米国務長官を引見した。ケネディ政権の外交顧問のアチソンは、カンボジアなどアジア諸国を歴訪中だった。

 アチソン「カンボジアのシアヌーク殿下は感情的な男で、(国境紛争を抱える)タイに激しい言葉を使っています。彼は関係改善のために私を招待してきました」

 天皇「あなたの努力でカンボジア、タイ、ベトナムの関係が改善すれば、アジアの平和にとって良い事でしょう(中略)」

 アチソン「タイと南ベトナムは共に米国の同盟国ですが、シアヌーク殿下は米国がカンボジアに敵対していると疑っています。私は、それが事実でないと彼に言うつもりです」

■大変な苦痛

 アチソンは天皇に直(じか)に米国のアジア戦略を伝えたのだった。その2カ月後の3月9日、天皇は米チェース・マンハッタン銀行のデイビッド・ロックフェラー頭取を引見している。世界有数のロックフェラー財閥創業者の孫で、米政界に大きな影響力を持つ人物だ。

 ロックフェラー「フィリピンでは共産主義の危険が収まり、徐々に経済も改善しています」

 天皇「それを聞いて嬉しく思います。日米の協力は両国だけでなく、世界平和に極めて重要だと思います」

 ロックフェラー「私はソ連と中国を訪れた事はなく、彼らの態度が変わらない限り、足を踏み入れるつもりはありません。(中略)米国、欧州、日本が緊密に協力すればソ連と中国の前進を阻止できるでしょう」

 天皇「私もそう思います」

 このように50年代から60年代にかけて天皇は共産主義を警戒し、極めて政治的な会話をしていた。引見した各国要人から直にインテリジェンスを入手し、国際情勢で意見を交換した。そこには東西冷戦の最中、冷静な現実主義者としての天皇の姿が浮かぶ。

 そして、これらのやり取りは宮内庁も把握しているはずだ。なぜなら『実録』の典拠資料には「真崎テープ」の基になったノート、真崎秀樹英文日記が含まれるからだ。もしこれが情報公開されれば、激動の昭和の時代に天皇が何を考え、どう行動したかを知る第一級の資料になるだろう。

 だが、一人の人間としての天皇を鮮やかに照らすエピソード、それはサンフランシスコ講和条約の調印直後、吉田茂首相とのやり取りではないだろうか。

『実録』では51年9月15日、帰国した吉田首相が講和会議の経過、条約の内容について説明したとある。例によって記述はこれだけだが、その5日後、駐日英国代表部がロンドンの英外務省にある報告を送っている。代表部幹部が吉田首相と交わした会話についてだった。

「昨日、吉田首相と会った際、講和条約に対する天皇の態度が話題に上がった。(中略)天皇は条約内容が彼自身にとって予想以上に寛大だった事に同意した。一方で天皇は明治大帝の孫(である自分)の時代に、海外の領土を全て失った事は大変な苦痛だと語った。吉田首相は天皇に、今更そんな事をこぼす時期ではないと述べたという」(51年9月20日、英外務省文書)

 天皇は講和条約を歓迎しつつ、明治以来の海外領土を失った事に大きな葛藤を覚えていた。また祖父である明治天皇への敬愛が伝わってくる。占領という未曾有の時代が終わり、つい本心を明かしてしまったのだろう。

 約24年の歳月をかけて完成した『昭和天皇実録』は一大歴史絵巻と言える。激動の時代を鮮やかに照らし出したが、それは巨大なジグソーパズルでもあった。欠けた部分にピースを埋め込む事で昭和の真相が浮かび上がる。あの時代の検証はまさにこれから始まると言ってよい。

※「週刊新潮」2015年8月13・20日夏季特大号