景行天皇御代のヤマトタケルの命の討伐神話考 |
更新日/2021(平成31→5.1栄和改元/栄和3).10.19日
(れんだいこのショートメッセージ) |
景行天皇の皇子で、仲哀天皇の父とされる大和王朝草創期のヤマトタケルの尊(古事記で倭建命、日本書紀の日本武尊)ことオウスの命(小碓命)の武勇譚を見ておくことにする。 |
12代、景行天皇の御代 |
【景行天皇譚】 |
「第12代景行天皇。」。 |
景行天皇は大男であったという記事もみられる。また、景行天皇の同母の妹のヤマトヒメが伊勢の神宮を斎きまつったという記事もある。 |
西暦312年、景行天皇が藤山(久留米市藤山町)から南のほうを見て「山の峰が幾重にも重なっていて美しいが、神がいるのか」と聞くと、猿大海(さるのおほみ)が「八女津媛(やめつひめ)という女神がおられます。いつも山の中におられます」と答えた(日本書紀155頁)。「八」とは「多数」という意味であり、一個人の固有の名称ではない。猿大海は、いつの世にもおられる多世代の女神のこととして答えている。藤山から南に見える山は山門地方の女王山(福岡県みやま市瀬高町大草)である。景行天皇が八女津媛を討たなかったのは、八女津媛は女神であって統治者ではないと判断したからと考えられる。 |
【ヤマトタケル譚その1、小碓尊(おうすのみこと)のオホウスの命譚】 | |
第12代景行天皇(在位71年〜130年)の時代、皇子、日本武尊(やまとたけるのみこと)が、東奔西走して活躍していた。叔母の倭姫より伊勢神宮で三種の神器のうちの草薙剣(くさなぎのつるぎ)を護身用に預かり、東国平定を行い、后のミヤズ姫の手元に預けて、帰国の途中なくなった。現在、草薙剣はミヤズ姫の親元であった尾張氏の本拠地であった熱田神宮で祀られている。 | |
ヤマトタケル(生年不詳-景行天皇43年)は、景行天皇の第二皇子として生まれたヲウスの命(小碓尊)の尊名であり、幼い頃から常人離れした強い力を持っていた(とされる)。古代日本(大和)の皇族(王族)であり記紀(古事記・日本書紀)や日本各地の伝承に伝わる。日本書紀では主に「日本武尊」、古事記では主に「倭建命」と表記される。 | |
古事記はかく記している。日本書紀には記述されていない。 |
【ヤマトタケル譚その2、熊襲征伐譚】 | |
ヲウスの命(小碓尊)がまだ青年のうちに、父の景行天皇に九州の熊襲(くまそ)討伐を命じられる。景行天皇の段で、ヤマトタケルの尊の熊襲征伐が次のように語られている。
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大和朝廷は九州討伐を二回にわたって決行している。1回目が纏向日代宮(まきむくのひしろのみや)の第十二代景行天皇(280-333)によるもので、西暦309−313年、4年かけて行われた。伊都國、奴國、山門郷の女王山などは攻撃されないで残りった(日本書紀)。二回目は第十四代仲哀天皇(341-367)である。
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オホウスの命=大碓命。エヒ女=兄比売。オトヒメ=弟比売。ヲウスの命=小碓命。クマソタケル=熊曾建。ヤマト姫命。ヤマトヲグナノミコ=倭男具那王。ヤマトタケルの御子=倭建御子、日本武尊、倭武天皇。 |
【ヤマトタケル譚その3、出雲征伐譚】 | |||||||
ヤマトタケルの尊の出雲征伐が次のように語られている。
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【ヤマトタケル譚その4、東国征伐譚その1、伊勢神宮参拝と草薙の剣(くさなぎのつるぎ)譚】 | |||||||||
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ミスキトモミミタケ彦=御?友耳建日子。ヤマトヒメ=。 | |||||||||
別説として、東征の将軍に選ばれたのは兄の大碓命であるが、大碓命怖気づいて逃げてしまい、かわりに日本武尊が立候補したとする逸話がある。天皇は斧鉞を授け、「お前の人となりを見ると、身丈は高く、顔は整い、大力である。猛きことは雷電の如く、向かうところ敵なく攻めれば必ず勝つ。形は我が子だが本当は神人(かみ)である。この天下はお前の天下だ。この位(=天皇)はお前の位だ」と話し、最大の賛辞と皇位継承の約束を与え、お伴に吉備武彦と大伴武日連を、料理係りに七掬脛を選ぶ。出発した日本武尊は伊勢で倭姫命より草薙剣を賜る。日本書紀では兄大碓命は存命で、意気地のない兄に代わって日本武尊が自発的に征討におもむく。天皇の期待を集めて出発する日本武尊像は栄光に満ち、古事記の涙にくれて旅立つ倭建命像とは、イメージが大きく異なる。 |
【ヤマトタケル譚その5、東国征伐譚その2、尾張の国のミヤズ姫との婚約譚】 | |
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ミヤズヒメ=美夜受比売。 | |
熱田神宮の境内末社/龍神社(りゅうじんじゃ)は神楽殿の東に鎮座しており、祭神として吉備武彦命(きびたけひこのみこと)、大伴武日命(おおともたけひのみこと)を祀っている。日本書紀の景行天皇40年7.16日条に、景行天皇より日本武尊に遣わされた東征の従者として吉備武彦と大伴武日連が付けられたと記されている。同年の是歳条によると、吉備武彦は途中で越国に視察のため派遣され、のち日本武尊と美濃で合流している。その後、日本武尊が病を得ると、吉備武彦はその遺言を伝える使者として景行天皇の元に遣わされている。大伴武日連は、東征で、甲斐の酒折宮(山梨県甲府市酒折に比定)において日本武尊から靭部(ゆげいのとものお)を賜っている。日本三代実録の貞観3年(861年)11月11日条では、伴善男の奏言のうちで、大伴健日(武日)は景行天皇の御代に倭武命(日本武尊)に従って東国を平定し、その功で讃岐国を賜ったと記されている。またその奏言では、子の大伴健持(武以/武持)を始めとして子孫の名が記載されているが、その中で允恭天皇朝には倭胡連公が讃岐国造に任じられたとある。 |
【ヤマトタケル譚その5、東国征伐譚3、尾張の国の熱田神宮】 | ||
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【ヤマトタケル譚その6、東国征伐譚4、霊山・御岳山の大口真神】 |
ヤマトタケルが東征の折、御岳山から西北に進もうとされたとき、深山の邪神が大きな白鹿と化して道を塞いだ。ヤマトタケルは山蒜(やまびる、野蒜)で大鹿を退治したが、そのとき山谷鳴動して雲霧が発生し、道に迷われてしまう。そこへ、忽然と二匹の白狼が現れ、軍の先頭に立って道を案内したので安全に通過することができた。ヤマトタケルは白狼の労をねぎらい、「大口真神」として永く御岳山を守護し、火災盗難を護れと命じる。白狼はかしこまって御岳山の方に向かって走り去ったという。 |
御岳山に三峰神社がありオオカミ信仰を伝えている。武蔵御嶽神社の本殿の後方に大口真神社が鎮座しており御岳山を守護している。 |
【ヤマトタケル譚その7、東国征伐譚その5、相模の国の焼津譚】 | |
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ヤマトタケルノミコトが、神話の中で東国の征伐の途中、在地の豪族の長に騙され、原っぱに入り、火を掛けられて殺されそうになった場所について二説ある。一つは静岡県の焼津、もう一つは神奈川県の相模原−厚木一帯の地である。焼津は地名が伝説にピッタリで神社名に痕跡を見ることができる。但し、一次資料たる記紀を読むと、相模原−厚木一帯の地が有力に思える。まず、ヤマトタケルを騙した人が相模国造であること。さらに妃の弟橘姫命が詠んだ歌「さねさし峰並ぶ 相模の小野の 燃ゆる火の ほ中に立ちて 問いし君はも」に「相模の小野」と記されており、枕詞の「さねさし」は相模に被っている。相模中央部にはヤマトタケルを祭神とする神社が多い。「相模の小野」と思われる地には延喜式内社・小野神社がある。同神社の末社には「荒波吐(あらはばき)神社」も存在する。この神は大和朝廷に抵抗する豪族と考えられている。厚木の地名についても、「火を掛けられて熱かったから厚木と呼ばれるようになった」との説がある。(「FB佐藤健一」参照 ) | |
ヤマトタケルが伊勢神宮でこれを拝受し、東征の途上の駿河国(現在の静岡県中部)で、この神剣によって野火の難を払い、草薙剣の別名を与えた。この説は広く知られているが、日本書紀では異伝とされている。現在の静岡県には、焼津、草薙など、この神話に由来する地名が残る。 豊受大神宮(伊勢神宮外宮)摂社には「草奈伎(くさなぎ)神社」があり、標剣仗(みしるしのつるぎ)を祀るという(度会家行「類聚神祇本源」)。
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【ヤマトタケル譚その8、東国征伐譚その6、浦賀水道。オトタチバナ姫入水譚】 | |||
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オトタチバナ姫=弟橘比売。 |
【ヤマトタケル譚その9、東国征伐譚その7、蝦夷(えみし)平定譚】 | |
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日本書紀ではルートが大きく異なる。上総からさらに海路で北上し、北上川流域(宮城県)に至る。陸奥国に入った日本武尊は船に大きな鏡を掲げていた。蝦夷の首魁の島津神・国津神らはその威勢を恐れ、拝礼した。日本武尊が「吾は是、現人神の子なり」と告げると蝦夷らは慄き、自ら縛につき服従した。そして日本武尊はその首魁を捕虜とし従身させた。蝦夷平定後、日高見国より帰り西南にある常陸を経て古事記同様に甲斐酒折宮へ入り、「新治…」を詠んだあと、武蔵(東京都・埼玉県)、上野(群馬県)を巡って碓日坂(群馬・長野県境。現在の場所としては碓氷峠説と鳥居峠説とがある)で、「あづまはや……」と嘆く。ここで吉備武彦を越(北陸方面)に遣わし、日本武尊自身は信濃(長野県)に入る。信濃の山の神の白い鹿を蒜で殺した後、白い犬が日本武尊を導き美濃へ出る。ここで越を周った吉備武彦と合流して尾張に到る。 | |
常陸国風土記 では倭武天皇もしくは倭建天皇と表記される。巡幸に関わる記述が17件記述されている。従順でない当麻の郷の佐伯の鳥日子や芸都の里の国栖の寸津毘古を討つ話はあるが、殺伐な事件はこの2件のみで、他は全て狩りや水を飲み御膳を食すなど、その土地の服属を確認を行っている。陸奥国風土記逸文の八槻の郷の地名伝承。日本武尊が東夷を征伐し、この地で八目の鳴鏑の矢で賊を射殺した。その矢の落下した場所を矢着(やつき)と名付ける。別伝は、この地に八人の土蜘蛛がいて、それぞれに一族がおり皇民の略奪を行っていた。日本武尊が征討に来ると津軽の蝦夷と通謀し防衛した。日本武尊は槻弓、槻矢をとり七つの矢、八つの矢を放った。七つの矢は雷の如く鳴り響き蝦夷の徒党を追い散らし、八つの矢は土蜘蛛を射抜いた。土蜘蛛を射抜いた矢から芽が出て槻の木となった。その地を「八槻」と言うようになったとある。 |
【ヤマトタケル譚その10、東国征伐譚その8、吾妻(あづま)足柄山の白鹿譚】 | |
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【ヤマトタケル譚その11、東国征伐譚その9、甲斐の国の酒折宮(さかおりみや)譚】 | ||||
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【ヤマトタケル譚その12、東国征伐譚その10、信濃の国の赤須彦のもてなし譚】 |
大御食神社。長野県駒ヶ根市。御祭神/日本武尊、五郎姫神、誉田別尊。御由緒は次の通り。伝承によると景行41年、 日本武尊は東征の帰路の途中で科野(しなの、信濃、長野県)で坂の神を服従させ、倭建命は尾張に入る。
当地を通過する際、杉の木の下で当地の首長であった赤須彦のもてなしを受ける。この杉を「御蔭杉」(日の御蔭杉、月の御蔭杉とも)といい、側にあって日本武尊が手を掛けたとされる石を「御手掛石」という。景行天皇58年、御蔭杉の下に神殿を建て、日本武尊を祀られたと云われている。
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【ヤマトタケル譚その13、東国征伐譚その11、信濃の国、坂の神を退治】 |
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【ヤマトタケル譚その15、東国征伐譚その13、伊吹山神退治譚】 | |
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【ヤマトタケル譚その16、東国征伐譚その14、タギノ(当芸野)譚】 | |
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【ヤマトタケル譚その17、東国征伐譚その15、三重村にて死す譚】 | |||||||||
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礒崎(イソザキ)神社(滋賀県米原市磯町)。御祭神/日本武尊(ヤマトタケル) 御由緒は次の通り。景行天皇の御子日本武尊が、伊吹の悪神を退治された時、足の傷がもとで気を失はれ醒ヶ井の泉で正気になり、都への帰途、再び病になりこの地で崩じられた。磯山に陵を築き葬る。聖武天皇の勅命により社を建立され、磯崎大明神と称した。岬に鎮座され 琵琶湖畔と御本殿脇の磐座が大変神々しい雰囲気を醸している。 |
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能褒野(のぼの)神社 三重県亀山市田村町。御祭神/日本武尊〔ヤマトタケル〕、建貝児王、弟橘姫命。御由緒は、古事記や日本書紀によると日本武尊はこちら能褒野で死去したという。墓は『延喜式』諸陵寮にも「能襃野墓」と見えるが、後世に所在不明となった。一帯には日本武尊の陵墓と伝えられる古墳がいくつかあったが、明治12年に「王塚」あるいは「丁字塚」と呼ばれていた現在の能褒野王塚古墳が内務省によって「能褒野墓」に治定された。 |
【ヤマトタケル譚その18、東国征伐譚その16、白鳥伝説譚】 | |||||||||
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白鳥神社/奈良県宇陀市室生三本松。宇陀川支流の仮屋川に架かる赤い神橋を渡れば琴引の白鳥神社。御祭神は日本武尊。御由緒は次の通り。能褒野で亡くなった日本武尊が白鳥となって飛来して来たという伝承がある。その後河内へと至ったとされている。こちら三本松は、伊勢と大和とを結ぶ道沿いにあり鎮座地の地名が琴引で、琴弾原に似ていることから日本武尊の伝説に至ったのかも知れません〔諸説あり〕。 | |||||||||
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【ヤマトタケル譚その19、東国征伐譚その17、ヤマトタケルの陵譚】 |
琴弾原白鳥陵/奈良県御所市冨田。日本武尊の陵に治定されている。日本書紀では能褒野で葬られた日本武尊が白鳥となって大和へ飛び去り、やがて白鳥は琴弾原に留まったとされている。そこに御陵を造ったところ白鳥は再び飛び立ち、河内国の古市に舞い降り、そこにも御陵を造ったとされている。陵は28mx45mの長方形で大王、天皇に準ずる人物に相応しいものではない。 |
第13代、成務天皇の御世 |
【成務天皇譚】 |
景行天皇のあとを継いだのは、ヤマトタケルの兄弟のワカタラシヒコでこの方が成務天皇である。この天皇の宮殿は奈良盆地から離れて近江の国にあったとされている。事績もあまり記されていない。 |
【倭の五王】 | |
478年、倭王の武が宋の順帝に対して次のように上奏している。
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(私論.私見)