景行天皇御代のヤマトタケルの命の討伐神話考

 更新日/2021(平成31→5.1栄和改元/栄和3).10.19日

 (れんだいこのショートメッセージ)

 景行天皇の皇子で、仲哀天皇の父とされる大和王朝草創期のヤマトタケルの尊(古事記で倭建命、日本書紀の日本武尊)ことオウスの命(小碓命)の武勇譚を見ておくことにする。

 2006.12.14日 れんだいこ拝



12代、景行天皇の御代

【景行天皇譚】
 「第12代景行天皇。」。 
 景行天皇は大男であったという記事もみられる。また、景行天皇の同母の妹のヤマトヒメが伊勢の神宮を斎きまつったという記事もある。 
 西暦312年、景行天皇が藤山(久留米市藤山町)から南のほうを見て「山の峰が幾重にも重なっていて美しいが、神がいるのか」と聞くと、猿大海(さるのおほみ)が「八女津媛(やめつひめ)という女神がおられます。いつも山の中におられます」と答えた(日本書紀155頁)。「八」とは「多数」という意味であり、一個人の固有の名称ではない。猿大海は、いつの世にもおられる多世代の女神のこととして答えている。藤山から南に見える山は山門地方の女王山(福岡県みやま市瀬高町大草)である。景行天皇が八女津媛を討たなかったのは、八女津媛は女神であって統治者ではないと判断したからと考えられる。

【ヤマトタケル譚その1、小碓尊(おうすのみこと)のオホウスの命譚】
 第12代景行天皇(在位71年〜130年)の時代、皇子、日本武尊(やまとたけるのみこと)が、東奔西走して活躍していた。叔母の倭姫より伊勢神宮で三種の神器のうちの草薙剣(くさなぎのつるぎ)を護身用に預かり、東国平定を行い、后のミヤズ姫の手元に預けて、帰国の途中なくなった。現在、草薙剣はミヤズ姫の親元であった尾張氏の本拠地であった熱田神宮で祀られている。
 ヤマトタケル(生年不詳-景行天皇43年)は、景行天皇の第二皇子として生まれたヲウスの命(小碓尊)の尊名であり、幼い頃から常人離れした強い力を持っていた(とされる)。古代日本(大和)の皇族(王族)であり記紀(古事記・日本書紀)や日本各地の伝承に伝わる。日本書紀では主に「日本武尊」、古事記では主に「倭建命」と表記される。

 或る時、景行天皇は、御子のオホウスの命に、美濃の国に居ると聞く評判の美女姉妹であるエヒ女、オトヒ女を連れてくるようにと頼んだ。美濃の国に赴いたオホウスの命は、二人の乙女に出会った瞬間に一目ぼれしてしまった。父に渡さず我が妻にしようとして別の娘を連れて帰り献上した。景行天皇は、期待していたほどの美女ではなかったので失望した。告げ口により真相を知らされた景行天皇は物思いにふせ、それから結婚することもなく悩み続けた。

 それからしばらくたったある日、ヲウスの命に、朝夕の食膳に出てこない兄を出仕させるよう命じた。しかし、それから5日たってもオホウスの命は姿を現さなかった。天皇は訝り、ヲウスの命に確認したところ、「夜明けに兄が厠(かわや)に入ったとき、私は待ち受けて兄を捕まえ、その手足をもぎ取り、薦(こも)に包んで投げ捨てました」と答えた。


 古事記はかく記している。日本書紀には記述されていない。

【ヤマトタケル譚その2、熊襲征伐譚】
 ヲウスの命(小碓尊)がまだ青年のうちに、父の景行天皇に九州の熊襲(くまそ)討伐を命じられる。景行天皇の段で、ヤマトタケルの尊の熊襲征伐が次のように語られている。
 景行天皇は、ヲウスの命の猛々しい性格を恐れ、そばにおいておくのは危険だと思い、朝廷に服従しないままでいる西のクマソタケル兄弟の討伐を命じた。ヲウスの命は父の命に従い、熊曾征伐に出かけた。その前に叔母であるヤマト姫命の元を訪ねた。この時、「何かの役に立つかもしれませんから、この衣装を渡しておきます」と、衣装を授かった。

 ヲウスの命が熊曾建の家の前までやってきたところ警護が厳しく、兵で三重も囲んであり、容易に近づけそうもなかった。しかし、どうやら新居を祝うための宴の準備をしている様子であった。このことを察知したヲウスの命は、叔母様の衣装を着て、髪も女性のように結いなおし女装して忍び込んだ。やがて熊曾建兄弟のそばにはべることになり、宴もたけなわになったときに懐の剣を取り出し、熊曾の衣の衿をつかみ、胸を剣で突き通した。それを見た熊曾の弟は逃げ出した。それを追っていき、熊曾弟の尻に剣を突き刺した。

 「お前は何者か」。「私は大八島国を治めている景行天皇の御子ヤマトヲグナノミコである。お前たち兄弟が朝廷に従わないので、征伐に派遣された」。「我は、国中の強力者なり。当時の誰が来ても、我が力に勝つ者はいなかった。武運では負けなかったが、こたびはしてやられてしまいました。今後はあなたに従い、ヤマトタケルの御子と称えます」。ヲウスの命は、「確かにそなたからの名は受け取った」と述べた後、よく熟した瓜を裂くように尻に刺した剣を抜き、クマソタケルを切り裂いて殺した。それから、大和に戻る際に、山の神、河の神、海峡の神をみな服従させた。
 大和朝廷は九州討伐を二回にわたって決行している。1回目が纏向日代宮(まきむくのひしろのみや)の第十二代景行天皇(280-333)によるもので、西暦309−313年、4年かけて行われた。伊都國、奴國、山門郷の女王山などは攻撃されないで残りった(日本書紀)。二回目は第十四代仲哀天皇(341-367)である。
 オホウスの命=大碓命。エヒ女=兄比売。オトヒメ=弟比売。ヲウスの命=小碓命。クマソタケル=熊曾建。ヤマト姫命。ヤマトヲグナノミコ=倭男具那王。ヤマトタケルの御子=倭建御子、日本武尊、倭武天皇。

【ヤマトタケル譚その3、出雲征伐譚】
 ヤマトタケルの尊の出雲征伐が次のように語られている。
 ヲウスの命(以降、ヤマトタケルと記す)は、都に戻る際に出雲の国を通った。イズモの首長、イズモタケルを殺していこうとした。まず、イズモタケルと親しくなった。肥の川に沐浴に誘い、ヤマトタケルとイズモタケルは連れ立った。先に川から上がったヤマトタケルは、太刀を変えることを提案し、それから太刀合わせを提案した。ところが、ヤマトタケル太刀は抜けないように細工していた。こうして、ヤマトタケルは太刀を抜くことができなかったイズモタケルを打ち殺した。
 「やつめさす 出雲建が はける刀(たち) 黒葛(つづら)さは巻き さ身無しにあはれ」
 (イズモタケルが持たされた太刀は、さやにつづらが巻きつけられ、刀身が抜けず殺されてしまった。可哀そう)。

 こうして、イズモタケルを殺した後、周辺を平定し、都に上り、復命した。
 第12代景行天皇の御子であるヤマトタケルは、父の命によりまだ従わない国を成敗して周っていた。九州の熊襲(くまそ)を討伐した後、出雲に立ち寄る。出雲建(いずもたける)討伐に向けて、まずは出雲建と友達になったヤマトタケル。一緒に沐浴に行こうと誘い斐伊川に来た。腰に刷いていた刀をこっそり偽物と差し替える。沐浴の最中突然切りかかってきたヤマトタケルに慌てて応戦する出雲建。しかしその偽物の件は抜くことができず、切り殺されてしまった。
 イズモタケル=。
(私論.私見)
 ヤマトタケルの尊の計略的な出雲征伐が記されている。

【ヤマトタケル譚その4、東国征伐譚その1、伊勢神宮参拝と草薙の剣(くさなぎのつるぎ)譚】

 ヤマトタケルが熊曾と出雲の征伐を復命したところ、景行天皇は新たに東方12カ国の平定を命ぜられた。この時、ひひらぎの八尋矛(比比羅木之八尋矛)を授けられた。吉備臣の祖先であるミスキトモミミタケ日子(御鋤友耳建彦)を共に従えることになった。

 ヤマトタケルは東国に向かう前に伊勢神宮に行き、斎宮にして叔母のヤマト姫(倭比売命)に会った。この時、ヤマトタケルの目から涙が零れ落ちた。
ヤマト姫  「どうしたのです、ヤマトタケル」。
ヤマトタケル  「父上は、私が死ねばいいと思っているのでしょうか」。
ヤマト姫  「そんなことはありません。どうしてそう思うのですか?」。
ヤマトタケル  「西の熊曾を討ちに遣わし、都に戻ってまだ間もないというのに、すぐに今度は東国の十二カ国を平定して来いだなんてひどすぎませんか。しかも、兵士もくださらずに。父上は私なんか死んでしまえときっと思っているのです」。

 それを聞いたヤマト姫は、スサノオがヤマタノオロチを退治したときに手に入れた三種の神器のうちの一つの神宝の草薙の剣(くさなぎのつるぎ)を授けた。「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」とも記す。それと火急の際にはこの袋の口をお開けなさいと御袋を貰った。

 それを聞いたヤマト姫は、スサノオがヤマタノオロチを退治したときに手に入れた神宝の草薙の剣(草那藝剣、くさなぎのつるぎ)を授けた。それと火急の際にはこの袋の口をお開けなさいと御袋を貰った。

 ミスキトモミミタケ彦=御?友耳建日子。ヤマトヒメ=。
 別説として、東征の将軍に選ばれたのは兄の大碓命であるが、大碓命怖気づいて逃げてしまい、かわりに日本武尊が立候補したとする逸話がある。天皇は斧鉞を授け、「お前の人となりを見ると、身丈は高く、顔は整い、大力である。猛きことは雷電の如く、向かうところ敵なく攻めれば必ず勝つ。形は我が子だが本当は神人(かみ)である。この天下はお前の天下だ。この位(=天皇)はお前の位だ」と話し、最大の賛辞と皇位継承の約束を与え、お伴に吉備武彦と大伴武日連を、料理係りに七掬脛を選ぶ。出発した日本武尊は伊勢で倭姫命より草薙剣を賜る。日本書紀では兄大碓命は存命で、意気地のない兄に代わって日本武尊が自発的に征討におもむく。天皇の期待を集めて出発する日本武尊像は栄光に満ち、古事記の涙にくれて旅立つ倭建命像とは、イメージが大きく異なる。

【ヤマトタケル譚その5、東国征伐譚その2、尾張の国のミヤズ姫との婚約譚】

 伊勢を出発したヤマトタケルは尾張へ向った。ヤマトタケルは尾張の国に立ち寄った際に、ミヤズ姫(宮簀媛、美夜受比売)の家に泊まった。一目ぼれしたヤマトタケルは、ミヤズ姫と結婚をしようと思ったが、今回の東国征討が終わって帰ってきてから結婚することにし、結婚の約束だけを交わした。
 ミヤズヒメ=美夜受比売。
 熱田神宮の境内末社/龍神社(りゅうじんじゃ)は神楽殿の東に鎮座しており、祭神として吉備武彦命(きびたけひこのみこと)、大伴武日命(おおともたけひのみこと)を祀っている。日本書紀の景行天皇40年7.16日条に、景行天皇より日本武尊に遣わされた東征の従者として吉備武彦と大伴武日連が付けられたと記されている。同年の是歳条によると、吉備武彦は途中で越国に視察のため派遣され、のち日本武尊と美濃で合流している。その後、日本武尊が病を得ると、吉備武彦はその遺言を伝える使者として景行天皇の元に遣わされている。大伴武日連は、東征で、甲斐の酒折宮(山梨県甲府市酒折に比定)において日本武尊から靭部(ゆげいのとものお)を賜っている。日本三代実録の貞観3年(861年)11月11日条では、伴善男の奏言のうちで、大伴健日(武日)は景行天皇の御代に倭武命(日本武尊)に従って東国を平定し、その功で讃岐国を賜ったと記されている。またその奏言では、子の大伴健持(武以/武持)を始めとして子孫の名が記載されているが、その中で允恭天皇朝には倭胡連公が讃岐国造に任じられたとある。

【ヤマトタケル譚その5、東国征伐譚3、尾張の国の熱田神宮】

 ヤマトタケルは、熱田神宮を参詣した。

 境内末社/龍神社(りゅうじんじゃ)は神楽殿の東に鎮座しており、祭神として吉備武彦命(きびたけひこのみこと)、大伴武日命(おおともたけひのみこと)を祀っている。日本書紀の景行天皇40年7.16日条に、景行天皇より日本武尊に遣わされた東征の従者として吉備武彦と大伴武日連が付けられたと記されている。同年の是歳条によると、吉備武彦は途中で越国に視察のため派遣され、のち日本武尊と美濃で合流している。その後、日本武尊が病を得ると、吉備武彦はその遺言を伝える使者として景行天皇の元に遣わされている。大伴武日連は、東征で、甲斐の酒折宮(山梨県甲府市酒折に比定)において日本武尊から靭部(ゆげいのとものお)を賜っている。日本三代実録の貞観3年(861年)11月11日条では、伴善男の奏言のうちで、大伴健日(武日)は景行天皇の御代に倭武命(日本武尊)に従って東国を平定し、その功で讃岐国を賜ったと記されている。またその奏言では、子の大伴健持(武以/武持)を始めとして子孫の名が記載されているが、その中で允恭天皇朝には倭胡連公が讃岐国造に任じられたとある。

 ヤマトタケルは、尾張を経て焼津、浦賀水道、相模、箱根、甲州、信州を廻り尾張へ戻る長征に出向くことになった。(日本書紀は、伊勢、駿河、焼津、相模、上総、陸奥、常陸、甲斐、武蔵、上野、信濃、美濃、尾張と記している)

【ヤマトタケル譚その6、東国征伐譚4、霊山・御岳山の大口真神】
 ヤマトタケルが東征の折、御岳山から西北に進もうとされたとき、深山の邪神が大きな白鹿と化して道を塞いだ。ヤマトタケルは山蒜(やまびる、野蒜)で大鹿を退治したが、そのとき山谷鳴動して雲霧が発生し、道に迷われてしまう。そこへ、忽然と二匹の白狼が現れ、軍の先頭に立って道を案内したので安全に通過することができた。ヤマトタケルは白狼の労をねぎらい、「大口真神」として永く御岳山を守護し、火災盗難を護れと命じる。白狼はかしこまって御岳山の方に向かって走り去ったという。
 御岳山に三峰神社がありオオカミ信仰を伝えている。武蔵御嶽神社の本殿の後方に大口真神社が鎮座しており御岳山を守護している。

【ヤマトタケル譚その7、東国征伐譚その5、相模の国の焼津譚】

 ヤマトタケルは相模の国にやってきた。国造(くにのみやっこ)が、「実は、この野の中に大きな沼がございます。そして、この沼に住んでいる神が非常に凶暴な神で困っています」と訴えた。ヤマトタケルは、国造の頼みを聞き、妻のオトタチバナ姫と共に沼に住む神を見るために野に入った。そこには恐ろしいわなが待ち受けていた。タケルが野に入ったことを確認した国造は、火をつけて焼殺を謀った。背後からすごい勢いで火が迫った。妻のオトタチバナ姫の安否を尋ねたところ、無事だった。辺り一面火の海に囲まれたヤマトタケルは、とっさに叔母様から貰った袋を取り出して見ると、火打石が入っていた。草薙の剣で辺りの草をなぎ払い、火打石で火をつけると向かい火となり、迫り来る火を打ち消した。こうして、無事出ることができた。騙された事に怒ったヤマトタケルは、相模の国造どもをみな斬り殺した。この地はそれ以後、焼津と呼ばれるようになった。
 ヤマトタケルノミコトが、神話の中で東国の征伐の途中、在地の豪族の長に騙され、原っぱに入り、火を掛けられて殺されそうになった場所について二説ある。一つは静岡県の焼津、もう一つは神奈川県の相模原−厚木一帯の地である。焼津は地名が伝説にピッタリで神社名に痕跡を見ることができる。但し、一次資料たる記紀を読むと、相模原−厚木一帯の地が有力に思える。まず、ヤマトタケルを騙した人が相模国造であること。さらに妃の弟橘姫命が詠んだ歌「さねさし峰並ぶ 相模の小野の 燃ゆる火の ほ中に立ちて 問いし君はも」に「相模の小野」と記されており、枕詞の「さねさし」は相模に被っている。相模中央部にはヤマトタケルを祭神とする神社が多い。「相模の小野」と思われる地には延喜式内社・小野神社がある。同神社の末社には「荒波吐(あらはばき)神社」も存在する。この神は大和朝廷に抵抗する豪族と考えられている。厚木の地名についても、「火を掛けられて熱かったから厚木と呼ばれるようになった」との説がある。(「FB佐藤健一」参照
 草薙剣の名の由来

 諸説あるが実際はあまり判っていない。都牟刈大刀(つむがりのたち)、都牟羽大刀(つむはのたち)、八重垣剣(やえがきのつるぎ)、沓薙剣(くつなぎのけん)ともいう。先代旧事本紀や各種系図史料に見えるの尾張氏の系図、その同族である津守氏の古系図等に載る「天村雲命」との関係も推測され、また中臣氏の祖・天押雲根命の別名や外宮祀官家の渡会氏の祖先にも「天牟羅雲命」の名が見える(「豊受大神宮禰宜補任次第」)。
 ヤマトタケルが伊勢神宮でこれを拝受し、東征の途上の駿河国(現在の静岡県中部)で、この神剣によって野火の難を払い、草薙剣の別名を与えた。この説は広く知られているが、日本書紀では異伝とされている。現在の静岡県には、焼津、草薙など、この神話に由来する地名が残る。 豊受大神宮(伊勢神宮外宮)摂社には「草奈伎(くさなぎ)神社」があり、標剣仗(みしるしのつるぎ)を祀るという(度会家行「類聚神祇本源」)。

【ヤマトタケル譚その8、東国征伐譚その6、浦賀水道。オトタチバナ姫入水譚】

 相模から上総に渡る或る日、ヤマトタケルの一行が走水海を渡ろうとしたとき、海峡の神が荒波をたて、船は前に進むことができなかった。「このままでは船が沈没してしまう。何とかせねば…」。海の中で己の無力を嘆くヤマトタケルに対して、オトタチバナ姫が「私が皇子の身代わりとなって海に身を沈めましょう」。「あなたは東征の任務を成し遂げて天皇にご報告してください」。オトタチバナ姫は海に身を沈める前に歌を歌った。
 「さしさね 相武の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問いし君はも」
 (相模の野原に燃え立つ火の、その炎の中に立って、私の安否を尋ねてくださったわが君よ、あなたの気持ちが忘れられません)

 オトタチバナ姫は、菅畳を八重、皮畳を八重、絹畳を八重、波の上に敷いて、船からその上に下りて海に沈んだ。すると、荒波は自然におだやかになり、船は前に進むことができるようになった。それから倭建命はこの地(現在の木更津市と言われている)にしばらく留まり弟橘姫のことを思って歌にした。それから7日後、海岸に流れ着いた今は亡きオトタチバナ姫の櫛を手にした。涙を流すヤマトタケル。その櫛を取って丁重に葬った。

 オトタチバナ姫=弟橘比売。

【ヤマトタケル譚その9、東国征伐譚その7、蝦夷(えみし)平定譚】

 ヤマトタケルは、そこからさらに奥へ進み、ことごとく荒ぶる蝦夷(えみし)どもを平定し、また、山や川の荒れすさぶ神々を平定した。

 日本書紀ではルートが大きく異なる。上総からさらに海路で北上し、北上川流域(宮城県)に至る。陸奥国に入った日本武尊は船に大きな鏡を掲げていた。蝦夷の首魁の島津神・国津神らはその威勢を恐れ、拝礼した。日本武尊が「吾は是、現人神の子なり」と告げると蝦夷らは慄き、自ら縛につき服従した。そして日本武尊はその首魁を捕虜とし従身させた。蝦夷平定後、日高見国より帰り西南にある常陸を経て古事記同様に甲斐酒折宮へ入り、「新治…」を詠んだあと、武蔵(東京都・埼玉県)、上野(群馬県)を巡って碓日坂(群馬・長野県境。現在の場所としては碓氷峠説と鳥居峠説とがある)で、「あづまはや……」と嘆く。ここで吉備武彦を越(北陸方面)に遣わし、日本武尊自身は信濃(長野県)に入る。信濃の山の神の白い鹿を蒜で殺した後、白い犬が日本武尊を導き美濃へ出る。ここで越を周った吉備武彦と合流して尾張に到る。
 常陸国風土記 では倭武天皇もしくは倭建天皇と表記される。巡幸に関わる記述が17件記述されている。従順でない当麻の郷の佐伯の鳥日子や芸都の里の国栖の寸津毘古を討つ話はあるが、殺伐な事件はこの2件のみで、他は全て狩りや水を飲み御膳を食すなど、その土地の服属を確認を行っている。陸奥国風土記逸文の八槻の郷の地名伝承。日本武尊が東夷を征伐し、この地で八目の鳴鏑の矢で賊を射殺した。その矢の落下した場所を矢着(やつき)と名付ける。別伝は、この地に八人の土蜘蛛がいて、それぞれに一族がおり皇民の略奪を行っていた。日本武尊が征討に来ると津軽の蝦夷と通謀し防衛した。日本武尊は槻弓、槻矢をとり七つの矢、八つの矢を放った。七つの矢は雷の如く鳴り響き蝦夷の徒党を追い散らし、八つの矢は土蜘蛛を射抜いた。土蜘蛛を射抜いた矢から芽が出て槻の木となった。その地を「八槻」と言うようになったとある。 

【ヤマトタケル譚その10、東国征伐譚その8、吾妻(あづま)足柄山の白鹿譚】

 ヤマトタケルは蝦夷(えみし)平定後、山や川の荒れすさぶ神々を平定し、ひと仕事をやり終えて都に戻ろうとした。その途中に、足柄山(神奈川・静岡県境)の坂の下にたどり着き、乾飯(かれいい)を食べていたヤマトタケルの前に白い鹿が目の前に現れた。足柄山の神が白い鹿の姿で現れたことを知ったヤマトタケルが、食べ残した蒜(ひる)の片端を鹿に投げつけると、その目に当たって、鹿は撃ち殺された。そして、ヤマトタケルは、その坂の上に登って三度、嘆息した。「あぁ、わが妻よ…あぁ、我が妻よ…あぁ、我が妻よ…」。そこで、その国を名づけて吾妻(あづま)というようになった。

【ヤマトタケル譚その11、東国征伐譚その9、甲斐の国の酒折宮(さかおりみや)譚】

 それから、その国を越えて、甲斐の国に出て、酒折宮(さかおりみや)についたとき、歌を詠んだ。「新治(にひばり) 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる」(常陸の新治や筑波の地を過ぎてから、幾夜旅寝をしたことだろうか)。すると、夜警の火をたいていた老人が、この歌に続けて、「日日(かが)並べて 夜には九夜 日には十日を」(日数を重ねて、夜は九夜、日では十日になります)と歌った。見事な受け答えをした老人に、東国造(あずまのくにのみやっこ)の称号を授けた。  
 ミスキトモミミタケ日子=御?友耳建日子。ヤマトヒメ=。ミヤズヒメ=美夜受比売。オトタチバナ姫=弟橘比売。
 酒折宮

 酒折宮は山梨県で唯一、古事記、日本書紀に記載のある古い神社で、記紀には、日本武尊が東夷征伐の帰りに酒折宮に立ち寄り、「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる」と片歌で問いかけたところ、御火焚の者が「かかなべて夜には九夜日には十日を」と片歌で答えたことが記載されている。この問答歌のやりとりが日本における連歌の起源とされ、酒折宮は「連歌発祥の地」と云われている。

 当宮の由緒によると、日本武尊が酒折宮を発つときに、「吾行末ここに御霊を留め鎮まり坐すべし」と言われ、自身の身を救った「火打嚢(ひうちぶくろ)*」を塩海足尼(しおのみのすくね)に授けました。日本武尊の御命を奉戴した塩海足尼がこの「火打嚢」を御神体として御鎮祭したと伝えられている。(「」)
 甲斐の国三宮/玉諸神社/由緒沿革

 社記によると日本武尊東征の御帰路、酒折の宮に滞り国中の反乱を鎮められて、景勝の地に国玉神を祀られたことに始まる。又、一つの珠を埋め上に杉一株を植ゑられたが、後にこれを玉室杉と称し玉諸の名起るとも伝へてゐる。桓武天皇延暦16年、神位従五位上を賜り、淳和天皇の天長3年、従三位を賜り、清和天皇の貞観5年、官幣を賜り勅願所ともなって、延喜式所載の式内社に列せられた。武田氏が代々祈願所として崇敬を深めた。天正10年、武田氏滅亡の兵火にかかり焼失した。慶長14年、再建。家康より神領六拾壱石三斗余を寄進され、代々の将軍も朱印状を賜り甲州三の宮と崇敬された。又、板垣村御室山にありいつの頃かこの地に御遷座ともいふ。天長の頃より一宮、二宮、三宮と共に竜王村三社明神まで水防祭に神幸されたが、いつしかそれも絶えていた。平成16年、関係者の協力により復興している。大正11年12月、県社に列せられ、境内に秋葉神社、五条天神社を祀り、年と共に古社の風格を備へてきてゐる。

【ヤマトタケル譚その12、東国征伐譚その10、信濃の国の赤須彦のもてなし譚】
 大御食神社。長野県駒ヶ根市。御祭神/日本武尊、五郎姫神、誉田別尊。御由緒は次の通り。伝承によると景行41年、 日本武尊は東征の帰路の途中で科野(しなの、信濃、長野県)で坂の神を服従させ、倭建命は尾張に入る。 当地を通過する際、杉の木の下で当地の首長であった赤須彦のもてなしを受ける。この杉を「御蔭杉」(日の御蔭杉、月の御蔭杉とも)といい、側にあって日本武尊が手を掛けたとされる石を「御手掛石」という。景行天皇58年、御蔭杉の下に神殿を建て、日本武尊を祀られたと云われている。

【ヤマトタケル譚その13、東国征伐譚その11、信濃の国、坂の神を退治】
 

【ヤマトタケル譚その14、東国征伐譚その12、ミヤズ姫譚】

 その後、信濃の国の坂の神を退治したヤマトタケルは、尾張の国に向かい、先に結婚の約束をしていたミヤズ姫のもとを訪れた。この時、ミヤズ姫は月の障りの最中で、うちかけの裾に血が滲んでいた。二人の問答歌が次のように記されている。
 「ひさかたの 天の香山 利鎌に さ渡るくび 弱細 手弱腕を 枕かむとは 吾はすれど さ寝むとは 吾は思へど 汝が著せる むすびの裾に 月立ちにけり」。

 返歌は、

 「高光る 日の御子 やすみしし 吾が大君 あら玉の 年が来経れば あら玉の 月は来経往く うべなうべな 君待ちがたに 君が著せる むすびの裾に 月立たなむよ」。

 ヤマトタケルが東国を征討した折、尾張国造の娘であるを娶っており、宮簀媛の兄である建稲種命は征討に際して水軍を率い日本武尊を助けている。尾張氏は葛城の高尾張邑から東国に進出したとみられている。

 熱田神宮やその摂末社に伝わる伝承では、ヤマトタケルの妻のミヤズヒメ(宮簀媛)の館は、火上山の館(現在の氷上姉子神社の場所)であるとする。ヤマトタケルの死後、ミヤズヒメは尾張の一族と共に住んでいた火上山の館で剣をしばらく奉斎守護していたが、後に剣を祀るために剣を熱田に移し、熱田神宮を建てた。また新羅の道行が剣を盗んだ際、通ったとされる清雪門(「不開門」(あかずの門)、「紫藤門」(しとう門)と呼ばれる)は不吉な門とされ、何百年も開かれていないという(本来は北門だったが、現在は徹社の側に移築され東向き)。二度と皇居に移されない様にするためともいわれる。さらに持統天皇の時代(698年)には、神剣の妖気を鎮めて日本武尊と宮簀媛の魂を鎮めるため、天皇が神剣を熱田神宮から氷上姉子神社に移そうと計画していたが、4年後に亡くなった為に叶わなかった。現在の愛知県名古屋市昭和区村雲町の名の由来になったという説がある。ほかにも静岡市清水区草薙は神話上の同じエピソードに関連するといわれる。新羅の道行に剣を盗まれた後、剣は戻り皇居に移される事となったが、熱田神宮に返還される以前に現在の奈良県天理市にある出雲建雄神社に移され剣が奉斎されていたとされる。出雲建雄神社は、ご神体が草薙劔の荒魂(あらみたま)とされており、天武天皇により677年に創設された。

【ヤマトタケル譚その15、東国征伐譚その13、伊吹山神退治譚】

 伊吹山神退治に向かったが、山の神を素手で退治するつもりだからと述べて草薙の剣を姫に預けた。こうして素手で伊吹山に向かった。山に登ってすぐ白いイノシシに出会った。「この白いイノシシの姿をしているのは、山の神の使者だろう。今殺さずとも、山の神を殺してからでも遅くはあるまい」。こういってさらに山を登った。この時、雹がすごい勢いで降ってきた。命からがら山から下りてきたヤマトタケルは、清水を見つけ一息つき、正気を取り戻すことができた。

【ヤマトタケル譚その16、東国征伐譚その14、タギノ(当芸野)譚】

 ヤマトタケルはタギノ(当芸野)のあたりにたどり着いた。「私の心は、いつも空を駆け登るような気持ちだった。しかし、今、私の足は歩くことができず、道がはかどらなくなってしまった」。こう弱音を吐いたヤマトタケルは、さらにほんの少しばかり歩いた。しかし、ひどく疲れてしまい、杖をついてそろそろ歩いた。さらに進むと、尾津崎の一本松のもとにたどりつき、食事をしていたときに、そこに忘れてきた大太刀がなくならないでそのまま残っていた。

【ヤマトタケル譚その17、東国征伐譚その15、三重村にて死す譚】

 それから三重村にたどりついた。「私の足は三重のまがり餅のようになって、ひどく疲れてしまった」。そこからさらに歩き続けた。能煩野(のぼの)に着いた際に、故郷の大和国をしのんで歌を歌った。
 「倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるはし」
 (大和の国は国々の中心の故郷である。青い垣根が重なり合うようにして山を覆っている。大和の国は何と美しい国なのだろう)
 「命の 全けむ人は たたみこむ 平群(へぐり)の山の くまかしが葉を うずに挿せ その子」
 (生命力の旺盛な人は、重なるように連なる平群の山のくま樫の葉を髪にさして、生命を謳歌するがいい、みなの者よ)
 「愛(は)しけやし 我家の方よ 雲居立ち来も」
 (あぁ、なつかしいわが家の方から、雲がわき起こってくることよ)

 この歌を歌った後、ヤマトタケルの病気は急に悪化した。そのときに歌った歌は、

 「嬢子(をとめ)の 床の辺に 我が置きし 剣の大刀 その大刀はや」
 (ミヤズ姫と過ごした寝床のそばに私が置いて来たあの草薙の剣をもう手にすることは出来ないのだろうか)

 こう歌い終わってすぐにヤマトタケルは死んでしまった。早馬の急使が朝廷にヤマトタケルの死を告げに行った。

 礒崎(イソザキ)神社(滋賀県米原市磯町)。御祭神/日本武尊(ヤマトタケル)

 御由緒は次の通り。景行天皇の御子日本武尊が、伊吹の悪神を退治された時、足の傷がもとで気を失はれ醒ヶ井の泉で正気になり、都への帰途、再び病になりこの地で崩じられた。磯山に陵を築き葬る。聖武天皇の勅命により社を建立され、磯崎大明神と称した。岬に鎮座され 琵琶湖畔と御本殿脇の磐座が大変神々しい雰囲気を醸している。

 能褒野(のぼの)神社

 三重県亀山市田村町。御祭神/日本武尊〔ヤマトタケル〕、建貝児王、弟橘姫命。御由緒は、古事記や日本書紀によると日本武尊はこちら能褒野で死去したという。墓は『延喜式』諸陵寮にも「能襃野墓」と見えるが、後世に所在不明となった。一帯には日本武尊の陵墓と伝えられる古墳がいくつかあったが、明治12年に「王塚」あるいは「丁字塚」と呼ばれていた現在の能褒野王塚古墳が内務省によって「能褒野墓」に治定された。

【ヤマトタケル譚その18、東国征伐譚その16、白鳥伝説譚】

 ヤマトタケルが亡くなったという知らせを聞いた妻と子は、大和からヤマトタケルの死んだ場所に向かい、御陵を作った。そして、その周りの田を這い回り、泣き悲しんだ。
 「なづきの田の 稲幹(いながら)に 稲幹に 匍(ほ)ひ廻(もとほ)ろふ 野老蔓(ところづら)」
 (お陵(はか)の近くの田に生えている稲の茎に、その稲の茎に這いまつわっている野老(ところ)の蔓のような私たちよ)

 この時、見ると、御陵から大きな白い千鳥が空に飛び立ち、海に向かって飛び去った。白鳥が海に向かって悠然と飛び去っていくのを見た妻や子は、あたりに生えている竹の切り株で足を傷つけられても、その痛さを忘れ、泣きながら追っていき、歌った。
 「浅小竹原(あさしのはら) 腰なづむ 空は行かず 足よ行くな」
 (低い小竹(しの)の原を行こうとすれば、腰に小竹がまとわりついて歩きづらい。鳥のように空を飛ぶこともできず、足で歩いて行くもどかしさよ)。

 浜の海水に入って、難儀しながらも追っていったときに歌った歌は、

 「海が行けば 腰なづむ 大河原の 植ゑ草 海がはいさよふ」
 (海を行こうとすれば、腰が水にはばまれて歩きづらい。大河の水中に生えた水草が揺れるように、海は水にはばまれて進むことができない)

 さらに、白千鳥が飛び立って、海岸の磯にとまっているとき歌った歌は、

 「浜つ千鳥 浜よは行かず 磯伝ふ」
 (浜の千鳥は、歩きやすい浜伝いには飛ばないで、岩の多い磯伝いに飛んでいった)

 この4首はみなヤマトタケルの葬儀の際に歌った。

 さて、白鳥は伊勢国(三重県)から飛んでいって、河内国(大阪府)の志磯にとどまった。そこで、その地にも御陵をつくり、ヤマトタケルの魂を鎮座させた。そして、その御陵を名づけて白鳥御陵といった。しかし、白鳥はそこからさらに空高く天翔けて飛び去って行った。こうして、ヤマトタケルの冒険は終わった。「日本武尊が薨去後白鳥になって伊勢国から旧市邑(現、古市)に降り立ったという伝説」もある。

 白鳥神社/奈良県宇陀市室生三本松。宇陀川支流の仮屋川に架かる赤い神橋を渡れば琴引の白鳥神社。御祭神は日本武尊。御由緒は次の通り。能褒野で亡くなった日本武尊が白鳥となって飛来して来たという伝承がある。その後河内へと至ったとされている。こちら三本松は、伊勢と大和とを結ぶ道沿いにあり鎮座地の地名が琴引で、琴弾原に似ていることから日本武尊の伝説に至ったのかも知れません〔諸説あり〕。
(私論.私見)

【ヤマトタケル譚その19、東国征伐譚その17、ヤマトタケルの陵譚】

 琴弾原白鳥陵/奈良県御所市冨田。日本武尊の陵に治定されている。日本書紀では能褒野で葬られた日本武尊が白鳥となって大和へ飛び去り、やがて白鳥は琴弾原に留まったとされている。そこに御陵を造ったところ白鳥は再び飛び立ち、河内国の古市に舞い降り、そこにも御陵を造ったとされている。陵は28mx45mの長方形で大王、天皇に準ずる人物に相応しいものではない。


第13代、成務天皇の御世

【成務天皇譚】
 景行天皇のあとを継いだのは、ヤマトタケルの兄弟のワカタラシヒコでこの方が成務天皇である。この天皇の宮殿は奈良盆地から離れて近江の国にあったとされている。事績もあまり記されていない。

【倭の五王】
 478年、倭王の武が宋の順帝に対して次のように上奏している。
 概要「歴代倭王は、身に甲冑を纏いて山川を踏渉し、東は毛人の55カ国を征し、似士は衆夷の66カ国を服し、渡りて海北の99カ国を平らげて、土を拡め畿(くに)を遥かにした云々」。




(私論.私見)