再開設の扉/神武天皇東征神話考その1 |
更新日/2021(平成31→5.1栄和改元/栄和3).11.21日
(れんだいこのショートメッセージ) |
日本神話上の必須教養として国譲り譚と神武東征譚を知っておかねばならない。戦後教育は、皇国史観を斥けると同時に日本神話そのものを盥(たらい)ごと流してしまった。これにより、現代日本人は恐ろしいほどまでに祖国と民族の歴史を知らないままの拝金病者に成り下がっている。その挙句が根なし草的コスモポリタンと云う「ありもしない市民」を気取っている。れんだいこは、2011.8月現在の政治と政局を見るにつけ、日本史の断絶の感を深くする。今からでも遅くはない、この一文を届けねばと云う思いから発信する。 2011.8.22日 れんだいこ拝 |
れんだいこの2011古代史の旅は、出雲王朝の国譲り、邪馬台国史の書き換えへと歩を進めた。これで落着としたかったのだが、先の「ニギハヤヒの命と大国主の命の二重写し考」に対し、れんだいこのツイッターに「miyuki」さんから「こんばんわぁ! れんだいこさんの『古代史の旅』。画面で無くて紙の印刷物でゆっくり読みたかったのでプリントアウトさせて頂きました。明日、お茶しながら、ゆっくりまったり読ませて頂きまァーす」の最上級のお誉めの言葉をいただき、意を強くした。邪馬台国滅亡史の裏面の流れであったと思われる高天原王朝の「神武東征、神武の橿原宮即位譚」を再確認して見たくなった。 れんだいこ史観によれば、アマテラスの曾孫(4代目)の代になって高天原王朝は、「東に美(う)まし國ありと聞く。我いざこれを討たん」と宣べ、東国の美(う)まし国「葦原中国」平定遠征に向かう。れんだいこは、この時の「葦原中国」が邪馬台国ではないかと窺っている。古事記と日本書紀にほ、神武東征軍が日向を立って橿原に都を定めるまでのいろんなエピソードをほぼ同じ内容で記している。つまり、ここの記述が相当に規制されていたことを窺わせる。この伝説か史実か未だ不詳との論もあるが、れんだいこはある程度史実に基づいているのではなかろうか、骨格的にはほぼ間違いない史実ではなかろうかと推理している。 一行は日向を発し、大分県の宇佐や福岡県の遠賀郡芦屋に寄り豊後水道を東進し、吉備、難波、熊野と経由して大和に入る。難敵の諸豪族を討ち取った末に大和を平定して、畝傍山(うねびやま)の麓橿原(かしはら)に都を築く。こうして神武天皇は我が国最初の天皇となり、大和朝廷を建国する。この天皇家が理論上万世一系として平成の現在まで続いているということになっている。皇国史観は、この経緯を是として、平定される側に対する平定する側の正義を説く。しかし、れんだいこは、この時、神武軍にヤラレタのが在地土着系の元々の日本の諸豪族であり、その連合国家としての出雲王朝系邪馬台国連合が理想的な神人和楽政治を敷いていたのであり、これを征伐する戦争は決して聖戦ではなかったと見立てる。 ここでは、両者の正義を平衡的に取り上げ、両派の聖戦と手打ちぶりを確認してみたい。これが国譲り譚に続く日本政治の原型となっており、これが日本の「元々の国の形」であり、これを大事にしたいと思うからである。国体論を云うのなら、ここに戻らねばならない。北一輝は早熟の天才であったが、国体論に於いて皇国史観に被れており、ここの元一日に戻っての国体論を創り直すべきであった。北に後少しの余命があれば、この地平に向かう可能性があったのではないかと惜しんでいる。「プレ大和王朝」、「08 神武天皇」その他を参照する。 2006.12.4日、2011.8.22日再編集 れんだいこ拝 |
【後の神武天皇考】 |
後の神武天皇は、天孫(天照大御神の孫)・瓊瓊杵尊の曽孫。彦波瀲武鸕鶿草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえず の みこと)と玉依姫(たまよりびめ)の第四子。日本書紀神代第十一段の第三の一書では第三子とし、第四の一書は第二子とする。兄に彦五瀬命、稲飯命、三毛入野命がいる。稲飯命は新羅王の祖ともされる。日本書紀によると庚午年1月1日(庚辰の日)に筑紫の日向で誕生。15歳で立太子。吾平津媛を妃とし、手研耳命を得た。45歳のときに兄や子を集め東征を開始する。 |
【天孫族の東征宣明譚】 | |||||
日向国高千穂宮に住居していた高天原王朝天孫族の東征の時の様子が次のように記されている。
「美(う)まし國」とは、後の大和のことであり、万葉集第一巻第二首に次のように歌われている。
万葉集第二十巻四四八七番は、次のように詠んでいる。
ここで歌われている大和がどこを指しているのかは議論の余地がある。但し、このように歌われる大和に向かって、高天原王朝天孫族の東征が為されたという神話的史実は間違いなかろう。 日本書紀の神武東征の下りに次のように記されている。
これによれば、高天原王朝天孫族は、出雲王朝系のニギハヤヒが先行して「東の美(う)まし國」とも云われる「葦原中国」に降臨し、日の本王朝を形成したのを知り、我らも向かわんとして東征に向かったことになる。 |
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「天孫族の東征宣明譚」は、天孫族の東征がいよいよ始まったことと、東征軍団の主領格を伝えている。 |
【天孫族の行軍名簿考】 |
行軍したのは、皇族の兄/イツセ(五瀬)の命、イナヒ(稲飯)の命、ミケイリ(三毛入野)の命、ワケミケヌの命、子のタギシミミ(手研ミミ)の命、太玉命(祭祀係)、玉祖命(祝祭品係)、護衛のミチオミ(道臣)の命、忍日命(大伴氏の祖)、大久米(佐伯氏の祖)、途中で随行してきた船頭のシイネツ(椎根津)彦等々であった。「五伴緒神と椎根津彦(珍彦)だけだった」。椎根津彦は豊国の宇佐の神。 書紀は狭野命(磐余彦尊)の兄稲飯命、三毛入野命も東征に一緒だったとし、「熊野に上陸しようとするとき、熊野灘で嵐に遭遇して二人は次々と海神を鎮める為に入水して亡くなった」としている。三毛入野命につき、高千穂神社(宮崎県西臼杵郡高千穂町)の十社大明神として三毛入野命とその妻子神九柱が揃って祀られていて、同社伝では「三毛入野命は当時一帯を荒らしていた鬼神の鬼八を退治し、当地に宮を構えた云々」と伝えている。 |
【天孫族の東征出航地譚】 | |
かくて、天孫族は日向の浜を発す。和辻哲郎が昭和二十六年に刊行した「新稿日本古代文化」で次のように述べている。
記・紀の記述と当時の考古学の成果を整合させた極めて常識的な見解である。歴史学者の肥後和男、考古学者の中山平次郎やその弟子を自認した原田大六らも、ほぼ同様の見方を示している。 記・紀は神武天皇が「日向国」もしくは「日向」から進発したとする。が、本来の地はイザナギ神が禊をして住吉大神や綿津見神を生んだとされる「筑紫の日向」が考えられる。天孫降臨の地も「筑紫の日向」と考えられる。日本書紀本文および他の一書では「日向」と記されており、「筑紫の日向」から「日向」への改変が見られる。恐らく日向の豪族の女を皇妃に迎えるようになって以降、「筑紫の日向」から「日向国」への伝承上の改変が始まったのであろう。日向国における記・紀神話や神武天皇の関係地なるものは記・紀成立後に創作された伝承地に他ならない。日向進発の非合理性をもって神武伝承を否定する津田左右吉の論拠は薄弱と言わねばならない。 イザナギ神が禊をして住吉大神や綿津見神を生んだとされる「筑紫の日向の小戸の橘の檍原(あはきはら)」は福岡市博多区の住吉神社の西に伝承地がある。かつては、このあたりまで海であったという。綿津見神を祭る志賀島にも近く、住吉神社の鳥居は志賀島を拝するかたちになっていた。「筑紫の日向」が博多湾岸にあったことになる。古事記神代記は、ニニギのみこと尊が降臨した「竺紫(つく し) の日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)」について、「ここ此地は韓国に向ひ、笠沙(かささ)の御前(みさき)を真来(まき)通りて、朝日の直刺(たださ)す国、夕日の日照る国なり。かれ故、此地はいと よ甚吉き地(ところ)」と記しており、「韓国に向かう地」といえば筑紫に他ならず、その「日向」は「日に向かう吉き地」を言ったものであろう。また、日本書紀神武紀には「東に美(よ)き地(くに)あり」と塩土老翁(しほつちのをぢ)から聞いて神武天皇が大和をめざしたとあるが、日向国からなら大きく北進してから東進せねばならず、方向も東北になる。日向国から真っすぐ東進すれば、太平洋に出てしまうのである。それに対し、筑紫国からなら瀬戸内海を東進すれば、その先に大和がある。 |
【天孫族の東征旅程譚】 |
東征の旅程は古事記と日本書紀で異なっている。古事記 では、日向を出発し速吸の門を通過し筑紫の豊国の宇佐に着く。ウサツ彦とウサツ姫が服属して、足一騰宮(あしひとつあがりの宮)を建てもてなした。次に、豊後水道を経て、筑紫国の岡田宮に1年、安芸国の多祁理宮(たけりの宮)に7年、吉備国の高島宮に8年過ごした。日本書紀では、速吸之門(豊予海峡)を通り筑紫国の宇佐に到る。その次に筑紫国の岡水門に到る。その次に安芸国の埃(え)の宮に到る。その次に吉備国の高嶋宮に到り3年暮らす。つまり、筑紫国の岡田宮と岡水門の違いが認められる。後のコースはほとんど同じであるが滞在期間が異なっている。 |
筑紫=現在の福岡県が比定されている。豊国=現在の大分県が比定されている。安芸国=広島県。たけりの宮=多祁理宮。吉備国=岡山県。キタカネツ日子=木高根津日子、さお根津日子とも記す。 |
【天孫族の難波津に到着譚】 |
速水の門(はやすいのと)に至った時、国津神のキタカネツ彦が現れ、一行を先導した。戌午年の2月、浪速の渡りを経て、3月、河内国の難波津に到着した。4月、龍田へ進軍するも道が険しく狭かったので進めず、一度引き返す。 |
【天孫族と河内王朝の激戦譚】 | ||
河内国の難波津(「難波碕」)に到着した天孫族は、ニギハヤヒの命率いる国津族出雲系王朝軍と闘うことになった。河内国難波の日下(草香邑)の青雲の白肩之津(東大阪市日下町)でナガスネ彦軍と闘い敗れる。生駒山のふもとに上陸し撤退する。弥生時代後期の大阪湾が内陸部に大きく湾入していた地形を反映したものであろう。その時の様子が次のように記されている。
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「天孫族と国津族の激戦譚」は、天孫族と国津族の戦いが凄まじく、摂津で重大な敗北を喫したことを伝えている。この時の戦いで、長兄のヒコイツセの命が負傷、弟のヒコイナイの命が戦死、第三皇子なるワケミケヌの命は行方不明となった。 |
【天孫族の紀州熊野迂回上陸譚】 | ||||
第四皇子なるワケミケヌの命が天孫族を率いて、紀州熊野に上陸する。生駒山を背にする国津族に手を焼き大迂回したことになる。この時、長兄のヒコイツセの命が没した。その時の様子が次のように記されている。
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【タカクラジ(高倉下)帰順譚】 | |
天孫族が疲弊困憊していた時、熊野のタカクラジ(高倉下)が、タケミカヅチが出雲王朝を平定した時の太刀を献上して来る。次のように記されている。
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この神話は、タカクラジ一族が最も早く天孫族に帰順したことを隠喩していよう。タカクラジ一族とは何者か、はっきりしない。物部系史書「先代旧事本紀」によれば、タカクラジ(高倉下)は物部氏と同族の尾張氏の祖としているとのこと。 |
【磐排別之子譚】 |
『紀』で、東遷中の神武天皇が、穿邑で兄猾を血祭りに屠り久米歌を歌った後、吉野に入り、二番目にコンニチワしてきた吉野三部族の一人として磐排別之子を記す。尻尾があって磐岩を押し分けて現れた。国栖から少し遡ったところで、吉野川もこの辺りになると山あいという感じがする。崖の上の巨石の下に鎮座して国樔と云う。後に登場する土蜘蛛とは別の部族だったことになる。 |
【井氷鹿譚】 |
「Long Jiang ― 神社と歴史の広場 」。
井光神社&井光井戸@奈良県吉野郡吉野山/御祭神:井氷鹿神
井氷鹿は、『記』によると、神武東遷中、吉野入りしてから二番目にコンニチワしてきた国津神・吉野首祖ということです。尾が生えて、光る井戸から出てきたといいます。『記』によると、神武天皇は吉野川尻から吉野川を遡行する形になっていて、國栖と阿太はほぼ確定しているのでその間ということです。というわけで、この場合、吉野山の北東山麓の飯貝ではないかといわれています。 光る井戸は、神社(祠)の少し上手の井光山・善福寺の裏手の奈落の底にあります。
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【ヤタガラス帰順譚】 | |||
天孫族が再度大和侵攻を画策している時、ヤタガラス(古事記で「八咫鳥」、日本書紀で「頭八咫鳥」)が現われ、その協力を得て天孫軍は熊野から大和の宇陀に至った。その時の様子が次のように記されている。
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【シキヒコ攻略譚】 | |||
天孫族は、ヤタガラスを使ってシキヒコ(磯城彦)兄弟攻略に乗り出し成功する。その時の様子が次のように記されている。
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【ウカシ兄弟攻略譚】 | |||
天孫族がヤタガラスに導かれて宇陀(うだ)の下県に着いた時、国津神系の幾つかの豪族が帰順した。中でも、ウカシ兄弟の兄(エ)ウカシを殲滅し、弟(オト)ウカシを帰順させたのは大いなる手柄となった。その時の様子が次のように記されている。
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【ヤソタケル攻略譚、ワケミケヌの命の神夢譚】 | |||
天孫族はヤソタケル攻略に乗り出し、遂に本格的な軍事戦に向かう。苦戦する天孫族に次々と神託が下されている。次のように記されている。
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【兄磯城攻略譚】 | |
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【土クモ族攻略譚】 | |||
天孫族の国津族狩りは続いた。次のように記されている。
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【金鶏譚】 | |||
ニギハヤヒの義父にして在地の豪族の盟主的地位にあったナガスネ彦(登美彦)を棟領とする国津軍の抵抗は引き続いており、決着が着かず戦線は膠着していた。 天孫軍と国つ軍の闘いは長期戦化した。この時、金鶏譚が遺されている。次のように記されている。
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【天孫軍とニギハヤヒの命軍の王権誇示譚】 | ||||||||||
こうした局面のどの時点のことか定かではないが、天孫族のワケミケヌの命と国津族のナガスネ彦が次のように遣り取りしている。
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【天孫族と国津族の第二の国譲り譚】 | ||||||||
天孫族と国津族の第二の国譲り譚が次のように記されている。この下りの神話は、物部氏の伝承「先代旧事本紀」(せんだいくじほんぎ)その他の古史古伝によれば、次のように記されている。れんだいこが意訳する。
大野七三氏の「古事記、日本書紀に消された皇祖神・ニギ速日大神の復権」は、「神武天皇とウマシマジの命の盟約」と題して次のように記している。
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これを仮に「天孫族と国津族の第二の国譲り譚」と命名する。この下りは、前半でニギハヤヒの子のウマシマチが「ナガスネ彦を殺し、抵抗を終息させた」としている。後段では、「神武天皇とウマシマジの命の盟約」が記されている。この盟約は記紀には登場せず先代旧事本紀のみが記しているところが興味深い。 ところで、殺されたとされるナガスネ彦は他の古史古伝の東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)では、この経緯の面貌が異なる。ナガスネ彦側が再三にわたって平和を求めたのに対し、神武東征側が和睦の使者を斬っている。ナガスネ彦は死んでおらず戦闘で重傷を負った。その後、兄の安日彦(あびひこ)と共に東北に逃げ落ち、そこで態勢の立て直しを図っている。征討軍の追撃を打ち破り、荒覇吐(あらはばき)族を名乗って津軽地方の王となった云々と伝えている。東日流外三郡誌の真贋論争は置いといて、この記述は興味深い。大和王朝以降の皇統が後々東北蝦夷征伐に向かう流れが見えてきそうな話である。 古史古伝の真贋論争に願うのは、徒な入り口論としての真贋論に留まるべきではなく、よしんば偽書であったとしても内容に於ける吟味も必要ではなかろうかと思うことである。体裁等の形式的な偽書認定に止まるべきではなく、内容における偽書認定の両面から向かうべきではなかろうか。目下の偽書認定が入り口段階の話にされ、一向に中身の精査に向かわないのは疑問である。中身の精査に向かわない為のワナ理論ではないかと義憤することがあるぐらいである。 |
【天孫族の国津族残党狩り譚】 | |
天孫族と国津族の手打ちにより、戦争状態が集結した。天孫族は引き続き各地の豪族を平定して行った。次のように記されている。
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これを仮に「天孫族の国津族残党狩り譚」と命名する。この下りは、いわば最終戦を記していることになる。女賊が平定されたことを記している。これまで触れなかったが、国津軍には女軍が組織されており、中には女酋長の豪族も居たことが明らかにされている。如何にも卑弥呼を盟主とする邪馬台国―女王国連合にありそうな記述ではなかろうか。 |
「縄文と古代文明を探求しよう!」の2016年07月01日付けブログ「出雲を恐れた天皇家」参照。
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2014.6.8日付けブログ関裕二・氏の「『消された王権・物部氏の謎』 オニの系譜から解く古代史第一部」参照。
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2014.6.9日付けブログ関裕二・氏の「「消された王権・物部氏の謎」オニの系譜から解く古代史 第二部」参照。
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(私論.私見)