大化の改新前後神話考

 (れんだいこのショートメッセージ)
 この時期の仏教伝来を廻る蘇我氏と物部氏の政争も大いに注目されてしかるべしであろう。以下、これを検証する。古代史に於ける漢学伝来、仏教伝来は近代史に於ける洋学伝来、シオニズム伝来の好一対を為している。古代の日本人は、漢学、仏教とも能くこれを咀嚼した。近代日本人は洋学もこれを能く咀嚼した。残念ながらネオ・シオニズムに対しては余りにも無防備過ぎる様に思われる。それはともかく、古代日本が、如何に漢学と仏教を受け入れつつ咀嚼したのか、その経緯を検証しておくことにする。

 専ら「ウィキペディア」の各項その他を参照し、一部はそのまま書きつけている。今後、更に練り直すつもりである。

 2006.12.21日 れんだいこ拝


【宣化天皇が即位】
 536(宣化天皇元)年、継体天皇の第二子にして母は尾張目子媛(おわりのめのこひめ)、先の安閑天皇が亡くなったとき、その子供が居なかったために同母弟の宣化天皇が即位した。蘇我高麗の子の蘇我稲目が臣下としての最高位である大臣の地位に就任。同年、天皇の命により凶作に備えるため尾張国の屯倉の籾を都に運んだ。この御世に於いて、筑紫の官家の整備を行い、大伴金村に命じて新羅に攻められている任那に援軍を送った。即位が69歳と遅く、在位が3年余りと短いため、あまり主立った事績は無い。

【欽明天皇が即位】
 540(欽明天皇元年)、欽明天皇が即位。蘇我稲目が引き続き大臣となり、娘の堅塩姫(きたしひめ)と小姉君(おあねのきみ)の二人を欽明天皇の大妃、妃として天皇家と姻戚関係を結ぶ。堅塩媛は七男六女を産み、そのうち大兄皇子(後の用明天皇)と炊屋姫(後の推古天皇)が即位している。小姉君は四男一女を産み、そのうち泊瀬部皇子(後の崇峻天皇)が即位している。続く用明天皇に対しても娘の石寸名(いしきな)を妃とさせ、外戚関係に入る。 

【仏教導入を廻って蘇我稲目と物部尾輿の争い発生する】
 552(欽明天皇13)年、百済の聖明王の使者が仏像と経論数巻を献じ、上表して仏教の功徳をたたえた。これが仏教伝来の始まりとされている。異聞として「538(欽明天皇3)年説」も有るが、欽明天皇の即位は540年であることからするとオカシナことになる。538年なのか欽明天皇3年のどちらなのかはっきりしない。

 天皇は仏像を礼拝の可否を群臣に求めた。稲目は「西蕃諸国々はみなこれを礼拝しており、日本だけがこれに背くことができましょうか」と答えた。これに対して大連の物部尾輿と連の中臣鎌子は、「わが国の王は天地百八十神を祭っています。蕃神を礼拝すれば国神の怒りをまねくでしょう」と反対した。

 天皇は稲目に仏像を授けて試みに礼拝することを許した。稲目は小墾田の私宅を寺にして仏像を安置して礼拝した。その後、疫病が起こり、民に死する者が多く出た。尾輿と鎌子は蕃神礼拝のためだとして、仏像の廃棄を奏上し、天皇はこれを許した。仏像は難波の堀江に流され、伽藍には火をかけられた。すると、風もないのに大殿が炎上してしまった。しかし、これで仏教が完全に排除された訳ではなく、翌553(欽明天皇14)年、海中から樟木を引き上げて、天皇は仏像2体を造らせている。

 稲目は財務に手腕を振るい、王辰爾を遣わして船賦を数えて記録させた。また、天皇の命により諸国に屯倉を設置している。仏教受容問題に権力闘争が重なり、蘇我氏と物部氏は激しく争った。決着はつかず、蘇我稲目と物部尾輿の争いは子の蘇我馬子物部守屋の代へと引き継がれた。

【蘇我馬子の登場】
 蘇我稲目の子の蘇我馬子(そがのうまこ、551ー626.6.19)の時代に入る。馬子は、息子に蘇我善徳蘇我倉麻呂蘇我蝦夷。娘に河上娘(後の崇峻天皇妃)、法提郎女(後の田村皇子妃)、刀自古郎女(とじこのいらつめ、後の聖徳太子妃)。孫に蘇我入鹿蘇我倉山田石川麻呂がいる。

【敏達天皇即位】
 572(敏達天皇元)年、敏達天皇が即位。物部尾輿を父、弓削氏の女阿佐姫を母とする物部守屋(もののべのもりや、?- 587)は、 大連に任じられた。蘇我馬子は敏達天皇のとき大臣に就任。馬子はこうして大臣兼外戚として権力をふるった。

【仏教導入を廻って続く蘇我と物部の抗争】
 584(敏達天皇13)年、百済から来た鹿深臣が石像一体、佐伯連が仏像一体を持っていた。それを馬子が請うてもらい受け、司馬達等池邊氷田を派遣して修行者を探させたところ、播磨国で高句麗人の恵便という還俗者を見つけ出した。馬子はこれを師として、司馬達等の娘の嶋を得度させて尼とし善信尼となし、更に善信尼を導師として禅蔵尼恵善尼を得度させた。馬子は仏法に帰依し、三人の尼を敬い、石川宅に仏殿を造って仏法を広めた。

 585(敏達天皇14).2月、大臣・蘇我馬子は病になり、卜者に占わせたところ父の稲目のときに仏像が破棄された祟りであると言う。馬子は敏達天皇に奏上して仏法を祀る許可を得た。天皇はこれを許可したが、この頃から疫病が流行しだし多くの死者を出した。

 3月、排仏派の物部守屋と中臣勝海中臣氏は神祇を祭る氏族)が「蕃神を信奉したために疫病が起きた」と奏上し、敏達天皇は仏法を止めるよう詔した。守屋は寺に赴き、仏殿を破壊し、仏像を海に投げ込ませた。守屋は馬子ら仏法信者を面罵して、三人の尼を差し出すよう命じた。馬子が尼を差し出したところ、守屋は尼の衣をはぎとって縛り上げ尻を鞭打った。しかし、疫病は治まらず敏達天皇も守屋も病に伏した。人々は仏像を焼いた罪であると言い合った。


 同年6月、馬子も病が癒えず奏上して仏法を祀る許可を求めた。敏達天皇は馬子ひとりのみこれを許し三尼を返した。馬子は三尼を拝し、新たに寺を造り、仏像を迎えて供養した。

【用明天皇即位】
 同年8月、敏達天皇が崩御した。葬儀を行う殯宮で馬子と守屋は互いを罵倒しあった。馬子は佩刀して誄言(しのびごと)を奉った。守屋は「猟箭がつきたった雀鳥のようだ」と笑った。守屋が身を震わせて誄言を奉ると、馬子は「鈴をつければよく鳴るであろう」と笑った。

 敏達天皇の次には馬子の推す橘豊日皇子(欽明天皇の皇子、母は馬子の姉の堅塩媛。聖徳太子の父)が即位した(用明天皇)。用明天皇は、「神道を尊び、仏法を信ず」(日本書紀)とあり、仏法を積極的に導入した。

 586(用明天皇元)年、守屋は敏達天皇の異母弟・穴穂部皇子と結んだ。 穴穂部皇子は炊屋姫(敏達天皇の后)を犯そうと欲して殯宮に押し入ろうとしたが、三輪逆に阻まれた。怨んだ穴穂部皇子は守屋に命じて三輪逆を殺させた。馬子は「天下の乱は遠からず来るであろう」と嘆いた。守屋は「汝のような小臣の知る事にあらず」と答えた。


【蘇我馬子と物部守屋の公然抗争始まる】
 蘇我氏は以降、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇の4代に仕え、54年に渡り権勢を振るい、蘇我氏の全盛時代を築くことになる。用明天皇の異母弟の穴穂部皇子は皇位を欲しており、大いに不満であった。穴穂部皇子は守屋と結び、先帝の寵臣の三輪逆を殺させた。

【聖徳太子の登場】
 蘇我稲目の娘堅塩媛を母とする橘豊日皇子(後の用明天皇)を父とし、欽明天皇を父とし蘇我稲目の娘小姉君を母とする穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)を母とする蘇我氏と強い血縁関係の「厩戸王」(574.2.7ー622.4.8)又は豊聡耳(とよさとみみ)、上宮王(かみつみやおう)、後の聖徳太子が政局に登場してきた。古事記では上宮之厩戸豊聡耳命と表記される。日本書紀では厩戸皇子のほかに豊耳聡聖徳、豊聡耳法大王、法主王と表記されている。聖徳太子は後世につけられた尊称である。子には山背大兄王らがいる。

【蘇我馬子派が物部守屋派を滅ぼす】
 587(用明天皇2).4月、用明天皇は病になり、三宝(仏法)に帰依することを欲し群臣に諮った。仏教の受容を巡って排仏派の物部守屋、中臣勝海と崇仏派の蘇我馬子とが激しく対立した。守屋と中臣勝海は、「国神に背いて他神を敬うなど、聞いたことがない」と反対した。馬子は詔を奉ずべきとして、穴穂部皇子に豊国法師をつれて来させた。守屋は大いに怒ったが、群臣の多くが馬子の味方であることを知り、河内国へ退いた。

 俳仏派の中臣勝海は彦人皇子竹田皇子(馬子派の皇子)の像を作り呪詛した。しかし、やがて彦人皇子の邸へ行き帰服を誓った(自派に形勢不利と考えたとも、彦人皇子と馬子の関係が上手くいっておらず彦人皇子を擁した自派政権の確立を策したとも言われている)が、その帰路、舍人迹見赤檮に襲われた。守屋は物部八坂大市造小坂漆部造兄を馬子のもとへ遣わし、「群臣が我を殺そうと謀っているので、阿都へ退いた」と伝えた。
 
 同年4.9日、用明天皇が崩御した。馬子は、敏達天皇の皇后であったトヨミケカシキヤ姫(豊御食炊屋姫、後の推古天皇)を、守屋は穴穂部皇子を推挙し両者譲らなかった為、次期天皇の擁立をめぐって戦闘状態に入った。6.7日、馬子は、トヨミケカシキヤ姫の詔を得て、用明天皇の皇子である聖徳太子を味方に付け、優位に立った。

 同年6月、馬子が先手を打ち、守屋が推す穴穂部皇子を誅殺した。翌日、宅部皇子を誅した。7月、馬子は群臣にはかり、守屋を滅ぼすことを決め、諸豪族、諸皇子を集めて守屋討伐の大軍を起こした。厩戸皇子もこの軍に加わった。討伐軍は河内国渋川郡の守屋の館を攻めたが、軍事氏族である物部氏の兵は精強で、稲城を築き頑強に抵抗した。討伐軍は三度撃退された。

 これを見た厩戸皇子は、白膠の木を切って四天王の像をつくり、戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努める、と誓った。馬子の軍は奮い立って攻め立て、守屋は迹見赤檮に射殺された。更に守屋の子らも殺され、守屋軍勢は敗退した。これにより、大豪族であった物部氏は没落し、蘇我氏一族が進捗した。守屋の一族は葦原(物部氏の領地)に逃げ込んで、ある者は名を代え、ある者は行方知れずとなった。後に守屋の弟が召しだされて石上氏を名乗ることになる。

【崇峻天皇即位】
 同年8月、馬子は、泊瀬部皇子を皇位につけ(崇峻天皇)、娘の炊屋姫は皇太后となった。聖徳太子にも妃を送り込み、皇室との絆を更に強いものとした。曽我氏の専横政治が始まった。

 588(崇峻天皇元)年、馬子は善信尼らを学問をさせるため百済へ派遣した。


 591(崇峻天皇4)年、崇峻天皇は馬子と諮り、任那回復のため2万の軍を筑紫へ派遣し、使者を新羅へ使わせた。


【推古天皇即位】

 592(崇峻天皇5).10月、天皇へ猪が献上された。崇峻天皇は猪を指して「何時か猪の首を切るように、朕が憎いと思う者を斬りたいものだ」と言った。政治の実権が馬子にあることに対して漏らした崇峻天皇の不満の言葉であった。馬子は崇峻天皇の言葉を知るや、天皇を謀殺することを決意する。

 同年11月、馬子は東国から調があると偽って、東漢駒に崇峻天皇を弑させた。東漢駒は馬子の娘の河上娘を奪って妻とした。怒った馬子は東漢駒を殺させた。

 593年、馬子は皇太后であった豊御食炊屋姫を擁立して皇位につけた(推古天皇)。史上初の女帝である。厩戸皇子(聖徳太子)は皇太子となった。


【廐戸皇子が摂政となり、仏教奨励政策を推進する】

 593(推古天皇元).4.10日、厩戸皇子(聖徳太子)は摂政となり、馬子は聖徳太子と合議して政務を執り始めた。以降、仏教を奨励し、冠位十二階や十七条憲法を定めて中央集権化を推し進め、遣隋使を派遣して隋の優れた制度、学問を輸入していくことになる。

 同年、太子は物部氏との戦いの際の誓願を守り、摂津国難波(現在の大阪府大阪市天王寺区)に四天王寺を建立した。物部氏の領地と奴隷は両分され、半分は馬子のものになった。馬子の妻が守屋の妹であるので物部氏の相続権があると主張したためである。半分は四天王寺へ寄進された。


【廐戸皇子が、仏教興隆の詔「三宝興隆の詔」を発す】

 594(推古天皇2)年、21歳の聖徳太子が、仏教興隆の詔「三宝興隆の詔」を発し、日本各地に寺を建立した。595(推古天皇3)年、高句麗の僧彗慈が渡来し、太子の師となり、隋が官制が整った強大な国で仏法を篤く保護していることを教えられた。596(推古天皇4)年、馬子は蘇我氏の氏寺である飛鳥寺を建立した。


【遣隋使を派遣する】
 600(推古天皇8)年、初めて遣隋使を派遣した。同年、新羅征討の軍を出し、調を貢ぐことを約束させる。

【斑鳩宮造営開始】

 601(推古天皇9).2月、聖徳太子は、現在の奈良県北西部に斑鳩宮(いかるがのみや)の造営を開始する。


【新羅征討軍が派兵され失敗する】

 602(推古天皇10)年、再び新羅征討の軍を起こした。同母弟の来目皇子を将軍に筑紫に2万5千の軍衆を集めたが、渡海準備中に来目皇子が死去した(新羅の刺客に暗殺されたという説がある)。後任には異母弟の当麻皇子が任命されたが、妻の死を理由に都へ引き揚げ、結局、遠征は中止となった。この新羅遠征計画は天皇の軍事力強化が狙いで、渡海遠征自体は目的ではなかったという説もある。


【聖徳太子が「冠位十二階」を制定する】
 603(推古天皇11).12.5日、いわゆる「冠位十二階」を定めた。 氏姓制によらず才能によって人材を登用し、官位の任命を天皇が行うことにより天皇中央集権を強める目的であったとされる。冠位十二階制は、日本で初めてつくられた冠位制であり、この後の諸冠位制を経て、様々な紆余曲折を経て律令位階制へ移行していった。

 12階とは、「1・大徳 (だいとく、紫)、2・小徳 (しょうとく、紫)、3・大仁 (だいにん、青)、4・小仁 (しょうにん、青)、5・大礼 (だいらい、赤)、6・小礼 (しょうらい、赤)、7・大信 (だいしん、黄)、8・小信 (しょうしん、黄)、9・大義 (だいぎ、白)、10・小義 (しょうぎ、白)、11・大智 (だいち、黒)、12・小智 (しょうち、黒)。

【聖徳太子が「十七条憲法」を制定する】

 604(推古天皇12).4.3日、聖徳太子がいわゆる「十七条憲法」(「聖徳太子の憲法17条の研究」)を制定した。豪族たちに臣下としての心構えを示し、天皇に従い、仏法を敬うことを強調している。(津田左右吉などはこれを後世の偽作であるとしている)


 605(推古天皇13)年、完成した斑鳩宮へ移り住んだ。


【遣隋使が再度派遣され、小野妹子が奏上する】

 607(推古天皇15)年、小野妹子鞍作福利を遣隋使として隋に送った。国書には次のように記していた。(「隋書」卷81 列傳第46東夷*?國」)

 「日出處天子致書日沒處天子」
 「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す」。

 この国書は、太子が大国隋と対等の外交を目指していたことを窺わせるが、隋の皇帝煬帝をして、「無礼である、二度と取り次がせるな」と大いに不快にさせた。当時、隋は高句麗との戦争を準備しており、背後の倭国と結ぶ必要があり、翌年、隋は返礼の使者である裴世清を倭国へ送った。


 612(推古天皇20)年堅塩媛を欽明天皇陵に合葬する儀式を盛大にとり行った。堅塩媛は皇太夫人と尊称され、諸皇子、群臣が誅した。蘇我氏の絶大な権勢を示した。


【聖徳太子が「三経義疏」を制定する】
 615(推古天皇23)年、太子は仏教を厚く信仰し、この年までに三経義疏を著した。

【聖徳太子が「国記、天皇記、臣連伴造国造百八十部併公民等本記」を官選する】

 620(推古天皇28)年、太子は馬子と議して、国記天皇記、臣連伴造国造百八十部併公民等本記などを官選した。


【聖徳太子逝去】

 622(推古天皇30)年、斑鳩宮で倒れていた太子の回復を祈りながら太子の妻、膳大郎女が2.21日に没し、その後を追うようにして翌日太子は亡くなった。

 太子は当時最大の豪族である蘇我馬子と協調して政治を行い、隋、高句麗、百済の進んだ官司制をとりいれて天皇の中央集権を強化し、新羅遠征計画を通じて天皇の軍事力を強化し、遣隋使を派遣して外交を推し進めて隋の進んだ文化、制度を輸入した。仏教の興隆につとめ、冠位12階、17条憲法。『国記』、『天皇記』の編纂を通して天皇の地位を高めるなど大きな功績をあげた。 晩年策定せしめた歴史書は「先代旧事本紀」(せんだいくじほんき)として伝えられている。それによると、ニギハヤヒの命の系統が正統であり、現在の天皇家が傍流であるかまの如くの記述となっている。


 623(推古天皇31)年、新羅の調を催促するため馬子は境部雄摩侶を大将軍とする数万の軍を派遣した。新羅は戦わずに朝貢してきた。


【蘇我馬子と推古天皇の確執、馬子逝去、蝦夷が後継する】
 624(推古天皇32)年、馬子は元は蘇我氏の本居で天皇家の領地となっていた葛城県の割譲を推古天皇に要求した。推古天皇は「自分は蘇我氏の出で、大臣は伯父だから大臣の求めはなんでも聞き入れてきたが、これだけは聞き入れられない」と拒否された。

 626年、馬子は死去した。馬子の葬られた桃原墓は、奈良県明日香村島之庄の石舞台古墳のことだとする説が有力である。 また、同古墳の西数百mの位置にある島庄遺跡についても邸宅の一角だったとする説がある。馬子の後をその子の蘇我蝦夷が継ぐ。入鹿(そがのいるか、645.7.10 )は、父の大臣・蘇我蝦夷の晩年、父に代わって国政を掌理する。

【蘇我蝦夷、蘇我入鹿が聖徳太子派を弾圧する】
 推古天皇の皇位継承を廻って、蘇我氏の縁の強い古人大兄皇子と聖徳太子の皇子・山背大兄王(やましろのおおえのおう)が争う。蘇我氏に否定的な日本書紀などの記述によれば、聖徳太子は、皇室の周辺に国政を天皇中心に改革せんとし、次第に蘇我氏と対立し始めた。蝦夷(えみし)と入鹿は、このような動きを押さえる為、邪魔になる聖徳太子の王子山背大兄王ら上宮王家の人々を自殺に追い込んだとされる。

【舒明天皇即位】
 629年、馬子の子・蝦夷(えみし)と孫の入鹿が、古人大兄皇子をを即位させる(舒明天皇、在位629ー641)。入鹿は、蝦夷の屋敷を上の宮門、自分の屋敷を谷の宮門と称した。自分の子供たちを王子と呼ばせ始めた。

【皇極天皇即位】

 641(舒明天皇13).10.9日、舒明天皇が死去した。

 642(皇極天皇元年).1.15日、舒明天皇の後、継嗣となる皇子が定まらなかったので、敏達天皇の子・押坂彦人大兄皇子の子・茅渟王(ちぬのおおきみ)の第一皇女、母は吉備姫王(きびひめのおおきみ)の寶女王が第35代天皇として皇極天皇が即位した。推古天皇から一代おいて即位した女帝で、諱は寶女王(たからのひめみこ、たからのおおきみ)。和風諡号は天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)。

 はじめ高向王と結婚して、漢皇子を産んだ。 後に舒明天皇の皇后として、中大兄皇子(のちの天智天皇)、間人皇女、大海人皇子(のちの天武天皇)を産んだ。在位中、蘇我蝦夷が大臣として重んじられ、その子・入鹿が自ら国政を執った。


 643(皇極天皇2).11.1日、 蘇我入鹿が山背大兄王を攻め、数日後に王は自殺した。


【南都六宗】
 政界のこの動きに合わせて、元興寺や興福寺を中心にして法相宗を始めとする南都六宗のいわゆる学問仏教が盛行していた。 南都六宗とは、奈良時代に平城京を中心に栄えた仏教6宗派(三論宗、法相宗、倶舎宗、成実宗、華厳宗、律宗)の総称で奈良仏教とも云う。当時からこう呼ばれていたわけではなく、平安時代以降平安京を中心に栄えた「平安二宗」(天台宗、真言宗)に対する呼び名である。

 民衆の救済活動に重きをおいた平安仏教や鎌倉仏教とは異なり、これらの六宗は学派的要素が強く、仏教の教理の研究を中心に行っていた学僧衆の集まりであったといわれる。つまり、律令体制下の仏教で国家の庇護を受けて仏教の研究を行い、宗教上の実践行為は鎮護国家という理念の下で呪術的な祈祷を行う程度であったといわれる。ただし、中国に渡り玄奘から法相宗の教理を学び日本に伝えた道昭は、このような国家体制の仏教活動に飽きたらず、各地へ赴き井戸を掘ったり橋を架けるなどをして、民衆に仏教を教下する活動を行ったとされる。なお、同じく民衆への教下活動を行った行基の師匠も道昭であったといわれる。南都六宗は、宗派というよりもお互いに教義を学び合う学派のようなもので、東大寺を中心に興隆して勉強し合っていた。(「ウィキペディア南都六宗」参照)


 南都六宗各派については「南都の六宗」が詳しいのでこれを参照し、暫くこれを転載させていただく(「南都六宗」)。

【大化の改新】

 645(皇極4、大化元).6.12日、入鹿が、藤原鎌足と中大兄皇子(後の天智天皇)によって皇極天皇の御前で誅殺される(「乙巳の変」)。6.13日、父の蘇我蝦夷も自殺し、この間109年間権力の頂点で栄華を極めた蘇我氏本家は滅亡した。近年では、改革の主導権争いを巡る蘇我氏と皇族や反蘇我氏勢力との確執が暗殺のきっかけになったとする見方もある。

 2005.11.13日、奈良県明日香村において、蘇我入鹿邸跡とみられる遺構が発掘された。 蘇我入鹿の名前は中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)によって、これまでの名前を資料とともに消され、卑しい名前として彼らが勝手に名付けたものであるという説が浮上している。


【孝徳天皇即位】
 645(大化元).6.14日、皇極天皇は、目の前の入鹿誅殺のショックから皇位を譲り、軽皇子(かるのみこ)が即位した(孝徳天皇)。皇極天皇には皇祖母尊の称号が奉られた。皇太子に中大兄皇子が就き、左大臣に安倍内麻呂が、右大臣に蘇我倉山田石川麻呂。中臣鎌足は内大臣。実験は、ミン法師、高向玄理(たかむくのげんり)が国博士。

 同年、孝徳天皇は、仏法興隆の詔を下し、十師(後の内供奉十禅師)を置き、衆僧を教導して仏法を修行せしめられた。


 645(大化元).9月、古人大兄皇子が謀反を謀ったとして密告され、中大兄皇子らによって殺された。


 646(大化2).3月、皇太子の中大兄皇子が、使いを立てて天皇に奏請。

 「昔の天皇の御世は天皇と人民が一体となるように治められていましたが、現在では天皇と人民が離れてしまって、天皇のご意志によって政治が行われていません云々」。


【7色13階の冠制が敷かれる】

 647(大化3)年、7色13階の冠制が敷かれる(「冠位十三階制」)。これに反対する左右大臣を殺し、翌年冠位19階を制定し、新左右大臣を立てた。左大臣の安倍内麻呂は暗殺され、右大臣の蘇我倉山田石川麻呂は、兄弟の蘇我の日向によって殺された。

 649(大化5)年、冠位十九階に改められている(冠位十九階は、冠位十三階を基本とし、中間の冠位を細かく分けた)。


 同4年、学問僧を三韓に遣わした。
【斉明天皇即位】
 653(白雉4)年、道厳、道昭以下多数の学問僧を遣唐使に附して唐に遣わした。廃仏を唱えた中臣氏が仏教に帰依し、鎌足は山階陶原の家に精舎を建てて維摩会を始めたので、宮中においても無量寿経などの講経や御斎会、仁王般若会などの法会が行われ、仏教は次第に朝野に信仰されていった。

 653(白雉4)年、難波の皇居に住む孝徳天皇の意志に逆らって皇后、中大兄皇子を始め全ての皇族が大和の飛鳥河辺行宮に移る。

 654(白雉5).10.10日、孝徳天皇が逝去した。

 655(斉明天皇元).1.3日、皇極天皇が飛鳥板蓋宮で斉明天皇として重そ(最即位)した。政治の実権は皇太子の中大兄皇子が執った。冬 - 飛鳥板蓋宮が火災にあったため、飛鳥川原宮に遷った。後、飛鳥の岡本に後飛鳥岡本宮を造りそこに遷った。岡本宮が火災に遭い、吉野宮を作った。

 658(斉明天皇4).7月、 僧の智通と智達が勅をうけて新羅の船に乗って大唐国に行き、玄奘法師から無性衆生義(法相宗)を受けた。11.5日、 蘇我赤兄が有間皇子の謀反を通報した。11.11日、有間皇子を絞首刑にした。塩屋・魚と新田部米麻呂を斬刑にした。

 659(斉明天皇5).3月、 阿倍比羅夫に蝦夷国を討たせた。阿倍は一つの場所に飽田・渟代二郡の蝦夷241人とその虜31人、津軽郡の蝦夷112人とその虜4人、胆振[金且]の蝦夷20人を集めて饗応し禄を与えた。後方羊蹄に郡領を置いた。粛慎と戦って帰り、虜49人を献じた。

 660(斉明天皇6).3月、 阿倍比羅夫に粛慎を討たせた。比羅夫は、大河のほとりで粛慎に攻められた渡島の蝦夷に助けを求められた。比羅夫は粛慎を幣賄弁島まで追って彼らと戦い、破った。

 日本書紀によれば、しばしば工事を起こすことを好んだため、労役の重さを見た人々が批判した。有間皇子の変に際して、蘇我赤兄は天皇の3つの失政を挙げた。 大いに倉を建てて民の財を積み集めたのが一、長く溝を掘って公糧を損費したのが二、船に石を載せて運び積んで丘にしたのが三である。対外的には、朝鮮半島の諸国と使者を交換し、唐にも使者を遣わした。蝦夷に対し、三度にわたって阿倍比羅夫を海路の遠征に送った。

 660(5)年、百済が唐と新羅によって滅ぼされた。百済の滅亡と遺民の抗戦を知ると、人質として日本に滞在していた百済王子豊璋を百済に送った。百済を援けるため、難波に遷って武器と船舶を作らせ、さらに瀬戸内海を西に渡り、筑紫の朝倉宮に居て戦争に備えた。遠征の軍が発する前に亡くなった。






(私論.私見)